※思うところがあり本文末に1語追加いたしました。
一影、ニ影と店先の土間を光が這っていった。
そこは鈴奈庵。厳しい冬に差し掛かった幻想郷の中で、季節感を感じさせない貸本屋を随分と昔から営業している。家庭の料理から古い住所録、子供向けの漫画やお堅い歴史書まで数は少ないまでもズラリ揃えてあり、中でもとりわけ特殊なのが、店番、本居小鈴が個人的に蒐集している妖魔本である。
この娘、小鈴は貸本屋の一人娘である。両親に隠れて怪しき書を集める彼女は、その趣味の悪さが極まって、現今妖魔本をなんとなく読めるような奥義さえ得てしまっている。
これはそんな場所にある一冊の本の怪談話だ。
長火鉢の温みに飽きて外の風を入れようと、暖簾を押しのけて引き戸を開けたは良いものの、すぐにも冷たい風に晒されてしまって、本居小鈴が玄関口に再訪した、そんな、あっという間に流される日常の一幕を、私はくぐったのだ。
「アッ、阿求。如何したの?」
小鈴は名前を呼んで、その店内に私を招き入れた。鈴奈庵の中に冬の風はなく、シンシンと赤光づく長火鉢が部屋中央で、壁際にびっしりと住み着く貸本共を仰ぎ見ていた。
ボーン、ボーン、とアンティークの古時計が音を鳴らした。そうだ、もう昼過ぎであって、私は日々の暇を埋めるために来訪したのだ。早速、小鈴に要件を話していこう。
「さほど用も無いわ」
さて、手短に目的も伝えた事だし、短い人生、平生に身を任せようか。私はいつもどおり、小鈴と世間話を交わし始めた。
表現するのが困難なほど、あまりにも平素な声の応酬だった。店奥のカウンターテーブルの椅子を部屋中央に引き摺ってきて、私達は長火鉢を囲んで談笑をする。内容は天気から防寒具に飛んで、温かい食事に滑り、人を喰う化物の噂、そのうちに小鈴の得意分野である怪異の話へと誘導されていった。
彼女がこんな浮世離れした与太話を私に喜々として話すのには理由がある。私の家系、稗田家は、数千年以上続く由緒正しき歴史家だからである。里の怪異や歴史を書き綴り続けて、もはや9度目となるか。私、稗田家九代目当主、稗田阿求は、輪廻転生を繰り返しながら幻想郷をその魂に刻み続けている。
有り体な私の存在意義を云うと、マア、妖怪の専門家なのだ。
――だからこそ、話に花が咲くものだ。
「阿求が見た中で一番怖い本って何?」
他愛ない会話の中で、怪異の蕾が生じた。私は少し考えた後、定番の図画百鬼夜行を思い付いて、そして立ち止まった。妖怪の字引が一番怖ろしいのならば、私自身が恐怖の具現になってしまうではないか。
もっともっと畏怖を感じるものは、きっと無数にあるはずだ。
「そうね。…………紫式部日記とか?」
「人間が一番怖いってやつ? 何のヒネリもないじゃない」
精一杯ひねり出したものにそう言われると、私の立つ瀬がない。だが人間はそもそも、自分の臆病さから余計な妖怪を生み出している怪異工場だ。それ以上にヤバイものなぞあるだろうか?
小鈴はどんな恐怖を待ち望んでいるのだろう。ちょっとムキになって私は言い返す。
「じゃア何よ。百鬼夜行絵巻って言ったほうが良かったの?」
「ウーン。定番系はちょっとねぇ……。あ、最近、異魔話武可誌を入荷したよ」
「へぇ。あとで借りたいわ。で、小鈴の思う一番怖い本を知りたいのだけど」
「私はそうねぇ。――――白紙の本とか?」
しまった。大喜利になってしまっている。白紙が怖いのは読書狂ならではの回答だろうか。現に私の家でも、字喰い虫が沸いたおかげで、蔵書が台無しになりかけた事がある。
「アッ、そういえばさ」 何か思いついたようで、小鈴は感嘆符を眼に浮かべた。
結局、字喰い虫は“運良く別の妖怪が退治してくれた”ので事なきを得たが、彼女の“そういえば”という言を借りるならば、私達が、特に小鈴が虫対策として、妖怪の煙を利用するアイデアを出したような気がする。
彼女は云う。
「不気味なのがあるよ」
すると小鈴は立ち上がって、膨大な貸本の中から一冊の本を取り出して持ってきた。
表紙からすでに黄色く日焼けした、質の悪い紙で拵えられた本だ。――いや、良く見てみると、表紙はすでに破り去られていて、表題の描かれた表裏の装丁は、内部の1ページ目であった。大凡貸本屋に相応しくないお粗末な代物に、私は眼を丸くした。
「コレ、売り物なの?」
その言葉に小鈴は頷いた。
「うん。取引したのはお母さんなんだけどさ――――」
曰くその書とは、
・ある子供がお金を払ってまで置いてほしいと頼んできて、
・その様相から察して母君が許可すると、
・数日ごとに引き取りに来ては、
・またお金とともに同じ本を置いて欲しいと嘆願して、
・今に至るときにはすでに母君も小鈴も不審に思っている。
・ちなみに契約は前金を払って、引き取りのとき半額返すもの。
そんな不可解なエピソードが潜んでいた。
「それ、お客の丸損じゃない」 私が云うと、
「そうなのよねー。何の意味があるんだろう」
と、小鈴は首を傾げて返した。
「中身はどうなってるの?」
気になって、彼女のもとに手を差し伸ばしてみる。
「見てみる?」
許可はいとも容易く下りて、私はその怪異を受け取った。
「これは…………うわあ」
内部を開いてまず露出したのが、赤い臓器であった。
医学書、と云うには解説が少ない。例えるなら、画家と医者を兼用しているものが描いたスケッチに近かった。極少ない文字は悪筆なのか、それとも似たような別言語なのか、辛うじて一部だけ読み取れるのみであり、何のための本かは理解出来そうもなかった。製本は手製で、複数の厚紙を紐で留めて、その背表紙の部分を糊で貼り合わせてあるだけだ。
「如何? わけわからないでしょ?」
「今日ほど自分の求聞持の能力を呪ったときはないわ」
私は家系の性質上、見たものを忘れられない。アア、きっとこの内臓群は、夢に出る。こんな子供が忌み嫌いそうなグロテスクなものを、どうして売ったり買い戻したり繰り返すのか。
何故……。
「私はきっと、妖怪の暗号が隠されてると思うのよ。夜な夜な子供が見に来るし」 小鈴の口から、大袈裟な予想が這い出てくる。
「そんな突飛な……、ン。小鈴、今なんて言った?」
サラッと重要な事柄が飛び立っている事に気づいて、私は語調を伸ばしてその単語の尻尾を掴んだ。
「暗号? 例えばさ。この12ページの――――」
「ソコじゃなくて。夜な夜な子供が、なんだって?」
「そうなのよ。こないだ夜中におトイレいきたくなって部屋を出たら、物音がするからさ。見に行ったら子供が丁度本をチラ見してたの。コラッて言ったら逃げちゃった」
「コラッて……それ如何見ても幽霊じゃない」
「うん。寝ぼけてたし、見た目キレイな幽霊くらいなら平気」
この娘、先が思いやられる。妖怪と人間は相容れないと、日頃口を酸っぱくして警告しているのに。妖魔本で数々の騒ぎを起こしてきた彼女には、その上妖怪に取り憑かれても懲りなかった今更遅いかもしれないが、もう少し、自分の身を案じてほしいものである。
「ンで、口振りから察するに、何度もそれがあったって事?」
「そうそう。せっかく妖魔本の貸出を正規に始めたんだから、立ち読みじゃなくて、もっと正面から来てほしいのよねぇ」
「ちなみに博麗神社に相談した?」
「マダ」 ――そんな事だろうと思った。異変になる前にちゃんと報告しに行きなさい、と口を開きかけたとき、小鈴は言葉を上乗せしてきた。「――な訳ないじゃない。お母さんが相談済み。コレ自体は何の妖気もないってさ。そもそも、私が触ったとき、なーんにもゾクゾク感無かったのよね」
……どちらにせよ、この本が変なのは判った。小鈴は更に重ねてくる。
「ね。本を書いてる側としてはさ。如何いう理由か想像つく?」
確かに私はペンネームで推理小説を描いているが、そんな無茶ぶりをされても困る。何しろ小説に転換したとしたら、ネタなんて幾らでも転がっているのだ。超能力、宇宙人、偶然の一致、何でもアリだ。
小鈴は私の返答を目をキラキラ輝かせながら待っている。もっと困った。答える他ない。私は頭を僅かに回転させて、既存あるトリックから、今の状況に最もピッタリ来そうなファクターを抜き出して、彼女に伝えてみた。
「まず考えられるのが双子説ね。親が医者と画家をやっていたんだけど、志半ばで死んでしまって、双子の兄弟のもとには、遺産としてこの粗末な解剖図だけが残った。兄はその遺産を他の人の役に立たせようと売りに出したけど、弟は親から譲り受けたものだから手元に持っておきたい。兄が置きに来て、弟が引き取りに来る。そうこうしている内に解剖図があっちこっち移動するものだから、妖怪の間で有名になって、触ると魔パワーが得られるとかなんとかの風評被害が……」
「…………オチが弱い! 60点」
「うん、オチが弱いのはわかってるわ。けどさ。納得がいかない結末よりはマシじゃない?」
「他に如何んな話があるの?」
「子供は精神病でした。幽霊も頭おかしかったです」
「つ……つまらない……!」
「――でしょう? だから、あんまり深入りはしないでね」
「ソレよりもさー妖怪の暗号説が良いと思うんだよねー。ホラ、この12ページの――――」
それから私は何十分も長々と彼女の怪奇談を聴かされた。天狗が使っている符丁だの、河童が水中でも見分けられる文字だの、よもや作家の私の想像力を上回る勢いだ。段々とうんざりしてきた私は、日が暮れる前に鈴奈庵をあとにすることにした。
昨日まで借りていた本を返して、新しく読み物を仕入れる。外は冬風が吹雪いているようで、扉越しの暖簾の羽ばたきが見て取れた。一歩外に出ると、これはもう、山の妖怪の嫌がらせだとでも思うくらいに冷え込んでいた。
暖かい鈴奈庵の中に出戻りしたい気分に駆られたが、私は勇ましく家路へと旅立っていった。
途中、怪訝な顔をした博麗神社の巫女に会った。彼女は何かを探しているようだった。訊くと、ごく弱い妖気が里のどこかに現れては消えているようだ。実害はないが、どうにも不気味な兆候だという。
話半分に耳に入れて、私は着物の前を締め直した。何処に居るかわからない妖怪よりも、今の寒さ。アア、火鉢と焼き餅が恋しい。巫女に別れを告げて、舞台は稗田家――――ではなく、日を数日置いて、再び鈴奈庵に戻る。
今日という時間は儚いもの。何事もなく帰り就いた私は炬燵に足を入れて夜が来るのを待った。瞬く間に夜が来て、そして朝が来た。馬鹿馬鹿しいほどの日常風景だ。
異変とは、常に当たり前の中に隠されている。
あれから何度目だろうか、鈴奈庵への来訪を幾数日越えて、私はようやく出会うことになる。
……件の子供だ。
それは男女どちらか区別のつかないような顔立ちと、簡素な麻の服を身に着けていた。胸に抱くように例の本。もはや定例となったようで、小鈴がその対応を行っていた。
ただ、お金をもらい、本を受け取り、記帳して、見送る。
問題は、いや事件は、それが帰ってから突如起こった。
「阿求! 今の子追って!」
丁度声が届かなくなるくらい距離が離れたところで、小鈴が急に言葉を荒げた。まるで盗人を目撃したかのような口調だが、聞かずとも彼女の目的は窺い知れる。私は駆け出さず、小鈴のもとにゆっくり歩み寄った。
「行かないわよ。タダじゃ」
どうせ面倒事だ。適当にあしらえば諦めるだろう。私は交渉するフリをした。目的は、彼女が詮索を止めるまでの時間稼ぎだ。
「じゃあ貸本代半額!」
必死に食い下がる小鈴の思惑は、要するに店番で動けない自分の代わりに真相を突き止めてほしいのだ。どうして自分の身に危険が降りかかるかもしれない妖怪との触れ合いを、寄りにもよって友人にやらせるのか。コレこそが小鈴が小鈴たる所以であり、彼女の友達が少ない理由だ。
「お金なら有り余ってるのよねぇ」 私はいつものように、軽く流したつもりだった。だが、これが最悪手だった。
「うむむー! じゃあ阿求店番お願い!」
肥大化する小鈴の探究心は、私の予想を遥かに超えていたのだ。長火鉢を飛び越える勢いで走り出した彼女の袖を、私は間一髪で掴んで引き止めた。
「待って!」
ぐいっと引っ張られるところを体重を掛けて留まらせる。あの子供の抱えている事情が、もし妖怪によるものだとしたら博麗神社に今一度相談すればいい話だ。小鈴がそうしないのは、巫女に異変を任せてしまったら、謎は解かれずに平穏だけが残るからだろう。成程全く厄介な好奇心だ。
「わかったわよ。私が見に行くからアナタは大人しく店番してなさい!」
結局私は、彼女の手のひらの上で踊る事になったのだ。絵巻の妖怪が小鈴を誑かして起きた異変は記憶に新しい。アレ以降、本居小鈴は、私稗田阿求や、巫女の博麗霊夢と同じ、妖怪と人間の間に立つものの仲間となった。だが、たったそれだけだ。彼女は妖怪に対する抵抗力を一切持たない、平凡な一般人なのだ。
為らば、私のほうが適任だろう。あの子供を追うのは。
「本当!? さっすが頼りになるぅ!」
マア本当に調子のいいこと。小鈴に困ったような笑みを投げて返して、私は鈴奈庵を出た。子供は、と周囲を見回すと、その影は広場の方角へと進んでいるようだった。
今私に、小鈴の期待の重圧は一切ない。何故なら、深追いなんぞ、これっぽっちもする気が無いからだ。肝腎なのは、私も小鈴も安泰でいられる事なのだ。妖怪退治や異変解決は巫女組に任せておけばいい。
怖そうだったり危なそうな場面に移る前に、逃げ帰ってしまうつもりだ。それこそ同年代の子供が、恐怖を目の前にする時のように。
子供は迷う素振りなく、真っ直ぐ歩いていく。私はコソコソしたりせず、その後姿に堂々と齧り付いた。真っ昼間の里は出店や行商、人の目が多いし、こうして偶然行き先が一緒だった風を装うのが最も怪しまれずに済むのだ。
やがて子供は貧民窟へと入っていった。良家の後継ぎである私が入るのは憚られるような薄汚れた場所であるが、その住民達が皆追い剥ぎであるという決めつけは宜しくない。彼らは、金が無いだけの、ありふれた里人なのだ。余所余所しい視線を投げ掛ける程度に抑えてくれるのは、やはり、死ぬほどの貧困では無いからである。
妖怪と人間、どちらが怖ろしいか。彼らも我らも、肉を食い、血を啜る生態を持つ。では、我ら生物よりも、それを暴虐に走らせる飢餓が最も恐るべき存在なのか?
子供は段積みになったバラック建築群の奥へと消えていった。これ以上は彼らの私有地だ。例え裕福な者でも、庭に無断で侵入されれば棒を手に持って襲い掛かってくるだろう。
私の仕事は、コレで終わりだ。小鈴に渡す真実はその程度で十分。もし、彼女が間違って貧民窟を深入りしたのなら……考えたくない。酷い結末が用意されていたのかもしれない。
何のトラブルもなく私は鈴奈庵に戻った。当たり前だ。トラブルの無いように振る舞ったのだから。
「見てきたわよ。小鈴」
「で、如何だった、如何だった?」
この瞬間を今か今かと待ち望んでいたのだろう。玄関口で寒い風を背にして現れた私のもとに、颯爽と近寄ってくる。
「そんなガッツいてもアナタの望むような答えは無かったわよ」
逸る小鈴のおでこをぐっと押し返して、私はまず部屋を締め切った。指先が悴んでピリピリする。長火鉢のもとまで無言で進んでいって、あしらえられたアンティーク椅子に座ると、コホン、と一度喉奥の埃を吐き出し、その結果を話し始めた。
「まず結論から云うと、あの子供は妖怪じゃないわ」
ほうほう、と小鈴は頷いてみせる。だが、渡せる最高の事実はここまでだ。残念ながら。
「子供は貧民窟の住宅集積のところで姿を消したわ。あの様子から察するに、恐らくは親の心が病んでいるのでしょう。一番つまらないオチよ」
現実なんてそんなものだ。探偵ミステリは薬学や地質学だけでは成り立たない。ドロドロの人間模様を、謎という卵の殻で包んでいるだけの嗜好品だ。サア、さっさと忘れて、また大喜利でも楽しもう。
「阿求。それすごい良い情報だわ」
「――――エッ?」
私の思惑とは裏腹に、小鈴はいきなり笑顔を咲かせた。幾度となく行った心配なんてモノともせず、彼女は今まで見たことも聴いたこともないトンデモない手掛かりを目の前に提示した。
「コレ見て。子供が持ってた古銭よ」
種明かしの土壇場で新しい伏線を用意するとは、まるで三文小説だ。小鈴は奥のカウンターテーブルから、子供が払ったと思しき銅銭を取り出した。
古銭は、寛永通宝に似たオーソドックスなものであった。恐らくは銅で鋳造されており、中央に真四角の穴が開いている。幻想郷では貨幣の規格が統一されていないので、此程の精度で鋳られた銅貨であれば、鐚ではなく銭一文として通用しそうではある。だが、貨面に浮き上がった文字は異国の記号であり、また、その文様はこれまで見たどの貨幣よりも精巧であった。小鈴が妖怪の仕業だと錯覚するわけだ。
「ますます暗号説が有力になったわ!」
「……全く意味が判らないんだけど、聞いてもいいかしら?」
何やらひとりではしゃぐ小鈴に取り残されて、私は率直に訊いてみることにした。釣銭詐欺か、と一瞬思考がブレたが、古銭を価値の低い銅貨として扱う時点でそれは無い。
彼女は云う。
「だって貧民窟の住民がわざわざお金を失うだけの奇行に走るわけないじゃない。つまり私の見立てでは、秘密の暗号を記したあの本を、古銭という餌で釣ってココに置いてるのよ。だから定期的に持ち帰って内容を更新してる。そして、受け取る側はこれまた幽霊を小間使いに出して、暗号の確認をさせているの。きっとトンデモない秘密があるのだわ!」
ヤレヤレ、これまた大袈裟な。私はその仮説を鼻で笑ってやりたくなったが、翌々思い返してみると、自分が提唱した60点のオチと比べて随分と筋が通っているように感じる。
ここで思い留まればよかったのだ。場の空気に流されて、私は、ほんの少しでも小鈴の云う妄言を信じてしまった。その結果、次に述べた彼女の台詞に、あろう事か賛同してしまったのである。
「ねェ阿求。夜の幽霊を一緒に探ってみない?」
好奇心と云うものは、アルコールに似ている。酔っ払って、夢見心地が過ぎ去ったあとには若干の後悔と頭痛が残るのだ。浮かれていた熱も、次の瞬間には冬の外気に冷え切ってしまって、私は身体を縮めて空を仰ぐ事になる。
夜更かしの、悪い約束を結んでしまって私は鈴奈庵をあとにした。飲酒後の時間感覚が目まぐるしく加速するように、私の夜もすぐ間近に訪れた。月が現れ、息が白く染まる。常夜燈で里がぼんやりと明るくなる中、私はこっそり家を抜け出した。この時点でもう髪の上から凍った空気をぶっかけられていて、半分以上は正気に戻ってしまっていた。
嗚呼、家に帰ろうかな。面倒だな。
しかし、もうすでに屋敷からは遠く離れていて、友達との約束も済ませてしまった。なるべく肺を震わせないようにマフラーで口を覆って、小走りで寒気の闇を裂いていった。
鈴奈庵には予定通りの時間に辿り着いた。が、不安は多い。
小鈴が起きなかったら、幽霊が現れなかったら、標的に追いつけなかったら、凶悪な妖怪に見つかったら……ひとつひとつの要素に大した実現力が無くとも、こうも並べられると、どれかひとつは襲い掛かってきそうな気がしてしまう。
まずは最初の幸運を占おう。勝手口に回り込んで、閂が為されているか確認する。カタ、と静かな音を出して、その裏口は開け放たれた。第一関門は難なく突破だ。台所隅で身を縮ませていた小鈴に声を掛けて、妖怪に肩を叩かれたのかと錯覚して驚いたその額をぺし、と叩いて恐怖を払ってやる。
私達は合流して、例の現象が起こるといういつもの本溜まりに身を隠した。長火鉢が光を失って、部屋は凍りつくように寒い。小鈴が用意した鈍色の毛布に一緒にくるまり、息を殺して次の僥倖を願った。
常夜燈の明かりが僅かに店内に洩れてきていた。妖魔含んだ貸本達はじわりと輪郭を得て、今にも暗がりとともに蠢き出しそうであった。果たして、幽霊は現れるだろうか?
もし、今日が空振りであったら、また後日再びこの夜中遭難を繰り返すのだろうか。うむ御免だ。小鈴と毛布の中で肩を寄せ合うと確かに暖かいのだが、探偵小説でたった数行にすぎない張り込み部分を実際数十分、果ては数時間数日もやるとなると、想定するだけで嫌気が差してくる。
「ネェ、あのさ――――」 二度目はないわ。と、私が未来を閉ざそうとした途端、彼女はこの口を慌てて塞いできた。
「シッ。来たよ」
まるでお化け提灯のよう、小さな子供の姿が闇にフワリと浮かんで現れた。真相への第二の扉が解かれて、安心と不安が同時に去来する。さて、これで後戻りはもう出来ない。
幽霊は周囲をキョロキョロと見回して、何かを探しているようだった。私達はその目的を知っている。今すぐにも姿を見せて案内してやりたい親切心が湧き上がるが、なんと子供はたちまち答えを発見して、一直線に例の本のもとに歩み寄っていった。
暗闇になって初めて気付く。本の背表紙には蛍光塗料で装飾がしてあったのだ。手が込んでいる。
…………暫く、観察する。
幽霊は少年のようだった。顔は、見覚えがあるような無いような。少なくとも私が名前と共に知り合った人間では無さそうだ。彼は夜目が効くのか、内部ページをチラと開いて、そのあとは私と同じような物忌の目線でちんまり読み進めているようだった。
サテ、次はどう動く。隠すか、覚えるか、書き起こすか――――――どうやら、私達の予想は外れそうだ。
言なく、全ページを一通り周回したところで少年幽霊は唐突に本を戻し、そして踵を返した。棚壁を透過して去っていく。
「アッ、阿求。追いかけるよ!」
毛布を放り出して小鈴は勢い良く立ち上がった。私は、――というと、彼女の背中について駆け出し、まるで事の成り行きを見届ける保護者のような様相だ。
彼女のあと一歩を、踏み止めよう。
鈴奈庵を出た私達は、常夜燈の真下でも影の薄いその幽霊をすぐにも見つけ、自分が昼間行ったように追跡を試みた。
「変じゃない? 持り去りもせず見るだけってさ」
尋ねてみる。小鈴の中ではその回答はもう成されているのだが、私には未だ疑問のままである。天狗や何かの暗号にしては、どうも納得がいかない。特に、鈴奈庵が舞台であるという根本が一番不自然だ。別に本に暗号を記す必要性は何処にもないのだ。
「それは暗号の基本だからよ」 小鈴は暗号にどんな幻想を抱いているのか。「そうでなきゃ、肝試しくらいにしか使えないでしょあの本」 理由付けはともかく、持論への信奉は相当なものである。
幽霊の足取りは記憶に新しいものであった。広場を横切り、町並みは寂れていく。昼間には感じられなかった異様な雰囲気が重く伸し掛かってくる。煙が出ていないのに、砂埃のような濁った空気が満ちていた。太陽光によって消毒されていた病風が渦を巻き、その場所を黒く沈ませている。
貧民窟。真夜中、その腐りかけた集落からはまるで複数の目が覗いているような錯覚を受ける。…………小鈴の足が止まった。
丁度、貧富の境目となるような、小さな橋の前だった。数百年前もあった柳の木の下に、幽霊の少年と並んで誰かが立っている。
「ほら、やっぱり別の妖怪に報告……――――え?」
嬉々としていた小鈴の顔が困惑に曇った。柳の陰に居たのは、他の誰でもない件の子供そのものであったのだ。
自分でバラ撒いた暗号を、自分で回収する。そんな隠密行動なんて、ごっこ遊びだけだ。じゃあ、単なる悪戯なのか? 私達店側を困らせるためだけの?
驚きよりもさきに不気味さが突き刺さってきた。だが、次の瞬間、驚愕がすべてを塗り替えてしまう。あの子供の、――――幽霊の子の頭を優しく撫でるそんな簡単な、おつかいのあとの我が子を褒めるような所作たったそれだけで、少年は瞬く間に白い光となって霧散していったのだ。
「嘘ッ。成仏した!?」
何故……と考え至る前に、更なる急展開が私を襲った。小鈴が、すでに隣に居ない。泳いだ視線が捉えたのは、例の子供に駆け寄る無謀な貸本屋の店番の姿だった。
「ちょっ……!」
声で静止しようとするが止まらない。小鈴に気付いた子供が逃げ出して、それを追う彼女の背中を私がまた追う。必然的に私達二人は貧民窟に誘い込まれてしまった。
手を精一杯伸ばして小鈴の袖を掴もうとする。もしここで彼女を行かせてしまったら、二度と会えないような、そんな杞憂があった。しかし、運命は残酷哉。指先は空をきって――――
なーんて、探偵が事件の果てに辿り着くような悲劇的な結末があるわけないじゃない。私は小鈴よりも足が速い。あっと言う間に追いついて、彼女の動きを阻害してやった。
「やめてよ阿求! これじゃ真相解明できないじゃない!」
「あのね。周りを見なさい! コレ以上深追いは危険よ!」
思わず声を張り上げてしまう。子供の姿はすぐにも見失って、何もかもが、私達の存在までもが闇の藪の中に溶け込んだ。
あるのは怒号のみ。
「もう! 見失っちゃったわ! 何てことするの!」
「アナタこそ何てことしてるの! 命はひとつなのよ!」
「真実もひとつよ! このままじゃ永遠に失われちゃう!」
「小鈴の分からず屋!」
「阿求の偏屈坊!」
「――――――――――おい」
急に低い声が混じった。(誰よ口を挟まないで!) と次の言葉を吐き出しかけた喉が、途端に痙攣して声が出なくなった。
低い声。
恐る恐る目をやると、そこには私達の身長の2倍はある男が立っていた。粗末なボロボロの着物を羽織り、ガリガリの長い手足をこちらに伸ばそうとしている。
「ヒッ――――」
「皆寝てるんだから、静……」
その言葉を最後まで聴くまでもなく、「ひぃぃ――――――――――!」 私達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
――――――――――――――………………!
――…………………………。
…………。……。……。
追われる、事は無かっただろう。屋敷に逃げ帰った私が思い返すに、あれは近所迷惑なガキンチョを諭しに来た一般人だったのだろう。逃走する途中で小鈴とはぐれてしまったが、翌日会いに行くと怪我もなくピンピンとしていた。
無我夢中だったせいで記憶が少し飛んでいるが、私たちは無事、冒険を終えたようだ。震えて眠ったあとの朝は清々しい晴天の日だった。私は少し思うところあって里内をぐるっと廻ることにした。
あの、成仏した少年。一度見覚えがあると思ったら、鈴奈庵にごく近い商屋の子であった。人妖関係なく、山渓で足を滑らせて死した不幸な子供だったようだ。では何故、本を読みに行って、しかも唐突に成仏したのだろう。
「――――私が思うにさ」
場面は変わって私は小鈴に自論を展開していた。今回の事件、真相は優しさに満ちているものに思えて仕方なかった。
「あの子供、死神見習いだったんじゃないかって思うの」
「なにソレ」
私は語り始める。歴史を民草に広めるよう、信じ込ませるよう組み立てた物語を述べていった。
「死ってさ。みんな覚悟したあとに来るものじゃないと思うの。小鈴、アナタ本の用途に対して肝試しくらいしか有り得ないって言ったじゃない。その通りだったのよ」
「どの通りなのよ」 暗号説を破棄されて不服そうだ。だが、私は続ける。危険な目に会いかけたのだから、ここいらでピリオドを打ってしまおう。
「幽霊の子は、死ぬ覚悟も生まれ変わる覚悟も持ってなかったって事。成仏するさきが怖くて現世に留まっていたところを、あの死神見習いに諭されて肝試しをしたってこと。ホラ、グロイのって、子供にとっては最高に怖いじゃない? 『本を読んで帰ってくれれば、君は勇気あるイイコだ。だから来世でも上手くやれるさ』ってね」
「ああー。けどさ、親よりさきに死んじゃったら賽の河原行きじゃない? ちょっとした詐欺よね」
「だから古銭をアナタに渡して、罪悪感を和らげようとしたんじゃない? これは正当な取引だってな感じ」
「なるほど……。けど、ちょっと残念だなー」
「如何してよ」
「だって、正式な妖魔本屋になったのよ。逃げずに相談してくれればいいのに」
「まあ、それは――――……、アナタの人徳ね。誰も興味本位で私情を暴こうとする探偵小説みたいな主人公を望んでないのよ」
「そんなー」
「コレに懲りたら、もっと周りに気を配ることね」
「……はーい」
あの声掛け事案が相当堪えたのか、それ以降、小鈴が暗号本を話題にすることは滅多に無くなった。週日は過ぎ、平穏が日常に胡座をかいてのさばるようになった。人間は里を往来し、妖魔本の取扱を始めた鈴奈庵には妖しき者共も立ち寄る。
ただ、それでも争いは起こらないのだ。ひとえに巫女のおかげ。ふたえに平穏を願うこゝろのため。みえに――――真実を追求しない無知の為せる業。
小鈴を言いくるめたものの、私には疑問がまだあった。
あの子供が、幽霊の成仏を担っていたのは確かだろう。だが、古銭の取引が引っかかる。本当に罪悪感から何度も貸し借りを繰り返したのだろうか。貧民窟を寝床にしているとして、どうして“今更”そんな業務を始めたのだろう。
今日も鈴奈庵を出る。件の子供とすれ違う。里は異変なく守られている。最も怖いもの。怖いと思うことが怖いのだ。恐怖しなければ、畏れる感情も生まれない。ゆえに無知こそ万能薬なのだ。
家路の途中、再び霊夢に出会った。博麗の巫女曰く、妖気は前にも増してあちこちを飛び回っているそうだ。人間は頭が良いから、きっと恐怖を忘れることが出来ないのだろう。皆路傍の石ころにでも変化すれば、苔生すまで平和でいられるのではないか。ヨシ、今度は石化する病の出るSF小説でも執筆しようか。
念のために、と霊夢は御札を渡してきた。何でも、私からの発される残留妖気が他と較べて多めであるらしい。とりあえず私は近頃あった異変――――幽霊と成仏の話を渡してやった。すると、
「幽霊と妖怪は違うわ」 と一蹴されてしまった。
しかし勤勉な霊夢は私の情報をもとに貧民窟に出向いてみるという。「頭の切れる妖怪は潜むのが得意なのよね」 会話も手短に、彼女はあっと言う間に空へと浮き上がり、異変解決へと向かっていった。
……幽霊と妖怪は違う。何処か引っ掛かる言い回しだった。私に付着していたものは“妖気”である。幽霊と妖怪は、違う。
胸騒ぎがして、彼女を呼び止めようとした。しかしその姿は遥か向こう。もし、――もし妖気が鈴奈庵に因るものだとしたら? そういえば、例の子供とすれ違ったばかりだ。
私は自分の足跡を辿っていった。鈴奈庵。心配するに越したことはない。誰か他の、妖怪退治が可能な助っ人を呼ぶという選択肢もあったが、小鈴やその家族を貸本屋から遠ざけるのが先だと私は結論づけた。
あの夜のような纏わりつくような寒気はない。陽光は妖しい気を完全に覆い隠してしまっている。鈴奈庵の外見は、何の変化もなく、また暖簾をくぐった先の彼女にも異変は――――
「アッ、阿求。如何したの?」
「銅も金もないわ。とりあえず聞いて」
「阿求が見た中で一番怖い本って何?」
この娘は緊急事態に一体何を。長火鉢の前で、彼女はまるで当たり前の日常のような風景の一部と化していた。
「あとで答えてあげるからコッチ来なさい!」
ぐい、とその手を引っ張る。しかし、小鈴の身体は椅子にべっとりと張り付いているかのよう、異常に重い。
「人間が一番怖いってやつ? 何のヒネリもないじゃない」 彼女は云う。
おかしい。私は記憶していた。彼女の言葉は、以前一度私が鈴奈庵で聴いたことのある台詞そのままだ。一語一句間違いなく、抑揚もリズムも全く同じだ。
「小鈴、アナタ――――――」 まるでカウンターテーブルに乗った蓄音機が化けているようだ。眼は虚ろで、そして、私の様子なぞ露知らずひとりでに声を重ねていく。
「ソレよりもさー妖怪の暗号説が良いと思うんだよねー。ホラ、この12ページの――――」
パシッ! 部屋内に一風変わった破裂音が響き渡った。暴力のない平穏が、この瞬間ついに崩れ去る。昼間の妖怪や幽霊、夜の人間が行わなかった凶行を爆発させたのは、私の右手であった。
小鈴の額を全力でひっぱたいてみせた。
「痛ッッたぁあっ! 何!? 何なの!」 私の膨大な妖怪知識に因れば、
「コレに限る」 軽い妖気憑きの場合は、壊れかけのカラクリにそうするよう強いショックを与えると治る。
「阿求、気持ちよく寝てたのに何するのよ!」
状況を理解していないようで、小鈴は目を潤ませながらコチラに凄んできた。誤解を解くのは面倒だが、まあ、軽症だっただけでも不幸中の幸いだ。早く事情を伝えないと。
「小鈴。あなたは眠ってたんじゃない。妖気に憑かれて正気を失っていたのよ。家族はドコ? 早く鈴奈庵を――――」
すべてを説明し終える前に、ガタン、という硬い音が声を切り裂いた。異音に振り向くと、開け放たれたままであった玄関戸が固く閉ざされていて、更に店奥の扉も続いて封鎖された。何か居る、そう予感するよりもさきに、貸棚が不可解な振動を始める。
「遅かったか……」
すでに此処は妖怪の腹の中だ。霊夢の言うとおり、“何か”に潜んでいるのだろう。寝ぼけ眼で再び超常現象を見てしまった小鈴は眼をパチクリさせて、呆然と眺めやがて訊いてきた。
「お母さんとお父さんは外だけど……何が起きたの?」
「あの本、もしかしたら曰くつきかもしれない」
「ええッ! …………――今更?」
私は懐に手を突っ込んで、それを探った。コチラが使える武器はたったひとつ。霊夢に貰った緊急用の御札だ。今のところ妖怪は私達に直接危害を加えていない。怖がらせて、恐怖を喰っている段階だろうか。怪奇の規模的に、御札を適切に設置すれば切り抜けられる――――はずだ。
「ここに霊験あらたかな御札があるわ。これで何とか」
「アッ、それ神社で一番安いやつよね」
……不安は残るがやるしかない。
小鈴の手を握り直し、恐怖する顔を決意に塗り替えた途端、眼の前にゆっくりと赤い塊が浮上してきた。それは長火鉢に放り込まれていた赤熱した炭だった。パチパチと線香花火のような火花を散らしたあと、熱が渦を巻いて小さな火の玉になった。始めフラフラと宙空をさまよったが、人間を感知する方法を見出したのか、私達の方に真っ直ぐ向かってきた。
「小鈴、逃げるわよ!」
「に、逃げるってドコへ!?」
「――妖怪の居そうな場所よ! すぐに御札を叩き込むの!」
貸本屋の中を走らない、そう描かれた張り紙を駆けて通り過ぎた。私達は部屋をぐるりと廻るようにして追跡してくる火の玉を躱す。だが、肝心の妖怪の姿が見当たらない。
「小鈴、妖怪に心当たり無い?」
「そんなの無いわよ! あの本に御札貼っちゃいましょう!」
逃げる途中で小鈴は該当の棚から私本を抜き出した。これに御札を貼る? そんな発想は私には無かった。何故なら、本は一度、霊夢に妖気無し、と鑑定されているのだ。そんなものに、虎の子の必殺の武器を使えるか?
「それ霊夢にお墨付き受けたじゃない! 妖気なしって」
「でも、でもでも置いている内に変わったかもしれないわ。コレくらいしか考えられないのよ! だって他の本はもっともっとヤバイもの!」
「エエイッ! もう!」
……むしろ、もっと強い妖怪絵巻の封印を解いてしまって、退治してもらえばいいのでは? 否、字喰い虫と煙々羅の二の舞いだ。私はヤケクソに逃げながら、頭をフル回転――――
「喰らえ!」 させる暇なんて無かった。小鈴から受け取った私本に、霊夢の御札を貼り付ける。
その結果………………私達は火の玉に追いかけられるのであった。
「小鈴、何か、何か知恵出して!」
「無茶言わないで! ここ最近店に大きな変化ないわよ!」
その時、ミシリ、と嫌な音が聴こえた。私は咄嗟に足を止めて、自分達を囲む本棚に視線を傾けた。それが、今にも倒れそうなほど歪んでいる。私は、小鈴の腕を離してしまった。
大量の本が雨霰のように降り注いでくる。私と小鈴はバラバラになって倒れ伏した棚の通路を脱出した。そして、運悪く、私は火の玉があるほうへと身体を避けてしまったのだ。
――だが、私の判断は迅速だった。
「小鈴、私が火の玉をひきつけている間に、親玉探して!」
幸い、火弾には大した正確さがない。私はその真下をギリギリでくぐり抜けて、敵の動きを誘導した。
「エッ!? 待っていきなり言われても、本の暗号くらいしか手掛かりが……」
「それでもいいから!」
とにかく霊夢がこの騒ぎに気が付いて駆けつけるまで、時間稼ぎをしなければ。私達に出来ることは、あとは、想像するくらい。
目の前に火炎があるというのに、私の脳髄は氷柱を刺されたみたいに冷静であった。むしろ、困惑を極めた今だからこそ発揮できる集中力なのだろう。小鈴が自力で暗号を探している間、私は彼女の放った手掛かりに引っかかっていた。
『大きな変化はない』
『置いている内に変わった』
逃走する内に火球の練度は上がっていき、私の頭の動きに合わせて行き先をこまめに変えるようになっていた。追い詰められるのも時間の問題だ。トン、と背中に壁が当たった。
どうして妖怪は今まで妖気を抑えていられたのだろう。――――いや、今になってやっとこさ妖気を発揮できるのか? 過去と現在の違いは何だろう。私が完璧に覚えている鈴奈庵を、脳裏に浮かべてみる。天候、気温、貸本、人間…………霊夢は、里のあちこちに極小の妖気が散らばっていると言った。火はその光を強め、私の顔めがけて一直線に飛びかかってきた。
もし、里の異変と繋がっているとしたら。日により積み重なるもの、私本と共に現れたもの。
それは、
「ねえ小鈴! 古銭よ!」
すべてを繋ぐ鍵は、金銭にあった。取引によって里中に散らばり、有り触れていて、妖気が僅かであれば誰にも気付かれそうにない妖怪。私の号令を聴いた小鈴は、一気に駆け出して行儀悪くカウンターテーブルに乗り上がり、そして、まとめられた古銭束にお札付き私本を叩きつけた。
「喰らえビブロキラァァァッ!」
火球は私の鼻先一寸のところで落下した。光熱は失われて、真っ黒い炭となって床に転がる。私達は、妖怪の正体を見破ったのだ。
玄関のロックが外れた途端、そこに、何の事情も知らない霧雨魔理沙が扉を開いて現れた。もう貸棚が不気味に蠢くことはなく、物体浮遊も起こらない。
「お前ら、ドタバタ音がすると思ったら何して遊んでたんだ?」
物語終盤において新しい登場人物を寄越すとは、全くなんて酷い三流小説だ。私は、腰が抜けてしまって動くことが出来なくなった太腿を手のひらで大きく叩いて、溜まっていた緊張の息を抜いた。小鈴を見遣る。その姿はまるで、貸本屋を狙った新手の強盗である。古銭を退治してしまった今ではあながちその表現も間違いではないのかもしれない。
「……………………ビブロキラーって何よ」
私は彼女のひとつ前の言葉を復唱した。
「――だって、みんな必殺技を使うじゃないの」 小鈴は答える。
「楽しそうだな、私も混ぜろよ!」 そこに被さる余計な声。
あとはもうグダグダだった。散らかった屋内を片付けたり、再び散らかしたり。妖怪の気配は無くなったが、鈴奈庵が妖魔本で溢れた危険地帯なのは変わりない。倒れた棚から零れ落ちてしまった怪異を魔理沙に始末してもらったり、また貸し付けたり、ともかく平穏な日常が重労働によって乱されたのは言うまでもない。
最も怖ろしいのはお金であったか。アア、これでは本当にベタな、昔話でもある欲掻き失敗談ではないか。上手い話には裏がある。だが、物事はそう単純ではないようなのだ。
日が変わり、寒さも本格的な白い雪となって降り注ぐようになった頃、私はふとした事でこの異変の裏側を知った。
それを語るには幾つかの点を線で繋げる必要がある。まず、当日の霊夢の動きから整理しようか。私と別れたあと、博麗の巫女は貧民窟でついに追っていた妖怪を見つけたらしい。詳細の判らぬ新しい怪異であるため、仮に名を金妖と呼ぶ。
古来より金霊という、座敷童の人魂版のような妖怪が居る。それは善行を積み重ねた家に訪れ、繁栄を齎すという大変に目出度いものなのだが、この金妖は壺の形で存在して、拾ったものであれば誰にでも無限の金銭を与えるらしい。
今回妖壺より湧き出るものは銅貨であったが、なんとこの妖魔、壺よりも金銭が本体であるようなのだ。一銭二銭では大した力を持たないが一貫文、それ以上となるとようやく本性を顕し始めるそうな。流通に乗り、世間に拡散してゆき金を貯めるものほど憑かれやすいというのは、正に財産への妬みの成せる業だ。
貸本の真相は、半分が私の予想通りで、半分が冗談みたいな理由であった。この金妖、初めは貧民窟に住む里人があの子供を使って買い物をさせていたそうだが、すぐに霊夢に妖気の動きを勘付かれ、苦肉の策として鈴奈庵に持ち込ませた、というのだ。成程、木を隠すなら森の中、という訳だ。
釣銭詐欺、というのはあながち間違いでもなかった。妖銭を払って本を置いてもらい、半額を普通銭でもらう。もっとも、支払われた銅銭は退治とともに消滅したせいで全員が丸損であり、主な被害者が店の金を勝手に使い込む小鈴でなければ、その家庭内事情はオオゴトに発展していただろう。
――もう、あの私本を持った子供は鈴奈庵には来なくなった。
霊夢によって妖壺が退治されたから当たり前であろう。詳しくは聴いていないが、子を馬車馬のように働かせていた親御はすでに逝去していたようだ。博麗の巫女が妖怪と化した人間を屠ったのか、それとも金を失ったショックで元々狂っていた気が死に到達したのか。ともあれ、生前は医者と画家崩れであったそうだ。子供は何処に消えたのだろう。
真に恐ろしきは金の欲、か。……この場合、金自体が欲望の塊なのだが。再度脳裏に思い浮かばせると、この妖怪の真の恐ろしさに気付いた。
………………もし、銅銭でなかったら。
御存知の通り、妖銭は魔を払うと消失してしまう。もし貨幣価値がもっと高いものであって、より世間に当たり前に流通したあとであったのならば……。博麗の巫女が妖怪を退治するということは、財の死滅を意味する。結果、博麗神社の信仰は地に落ちていただろう。金妖は、幻想郷の秩序を乱すほどのポテンシャルがあったのだ。
厄介なものだ。人間も、妖怪も。
異変より数ヶ月が経ったあたり、私は里でとある噂を耳にした。
それは取るに足らない噂話。あの金妖の壺を持った親の名前である。私の記憶が確かならば、その家族の子供は、小鈴が事件に巻き込まれるずっとずっと前に死んでいたはず…………。
ここで、線と点が合致した。子は、死んだあとも親孝行のために働いていたのだ。そして幽霊となった自分の暇を埋めるため、死神の真似事をして、友達の幽霊たちに肝試しをさせて成仏に導いていたのだ。
あれ以降姿を見せないということは、つまりは、そういう事である。子が死した事実を認めなかった親の無知を怖れるべきか、子のあまりの健気さに感動すべきか。もし賽の河原に漂着したのならば、あんまりではないか。
ひとつ積んでは親のため、ふたつ積んでは――――
ぞっとする話である。
一影、ニ影と店先の土間を光が這っていった。
そこは鈴奈庵。厳しい冬に差し掛かった幻想郷の中で、季節感を感じさせない貸本屋を随分と昔から営業している。家庭の料理から古い住所録、子供向けの漫画やお堅い歴史書まで数は少ないまでもズラリ揃えてあり、中でもとりわけ特殊なのが、店番、本居小鈴が個人的に蒐集している妖魔本である。
この娘、小鈴は貸本屋の一人娘である。両親に隠れて怪しき書を集める彼女は、その趣味の悪さが極まって、現今妖魔本をなんとなく読めるような奥義さえ得てしまっている。
これはそんな場所にある一冊の本の怪談話だ。
長火鉢の温みに飽きて外の風を入れようと、暖簾を押しのけて引き戸を開けたは良いものの、すぐにも冷たい風に晒されてしまって、本居小鈴が玄関口に再訪した、そんな、あっという間に流される日常の一幕を、私はくぐったのだ。
「アッ、阿求。如何したの?」
小鈴は名前を呼んで、その店内に私を招き入れた。鈴奈庵の中に冬の風はなく、シンシンと赤光づく長火鉢が部屋中央で、壁際にびっしりと住み着く貸本共を仰ぎ見ていた。
ボーン、ボーン、とアンティークの古時計が音を鳴らした。そうだ、もう昼過ぎであって、私は日々の暇を埋めるために来訪したのだ。早速、小鈴に要件を話していこう。
「さほど用も無いわ」
さて、手短に目的も伝えた事だし、短い人生、平生に身を任せようか。私はいつもどおり、小鈴と世間話を交わし始めた。
表現するのが困難なほど、あまりにも平素な声の応酬だった。店奥のカウンターテーブルの椅子を部屋中央に引き摺ってきて、私達は長火鉢を囲んで談笑をする。内容は天気から防寒具に飛んで、温かい食事に滑り、人を喰う化物の噂、そのうちに小鈴の得意分野である怪異の話へと誘導されていった。
彼女がこんな浮世離れした与太話を私に喜々として話すのには理由がある。私の家系、稗田家は、数千年以上続く由緒正しき歴史家だからである。里の怪異や歴史を書き綴り続けて、もはや9度目となるか。私、稗田家九代目当主、稗田阿求は、輪廻転生を繰り返しながら幻想郷をその魂に刻み続けている。
有り体な私の存在意義を云うと、マア、妖怪の専門家なのだ。
――だからこそ、話に花が咲くものだ。
「阿求が見た中で一番怖い本って何?」
他愛ない会話の中で、怪異の蕾が生じた。私は少し考えた後、定番の図画百鬼夜行を思い付いて、そして立ち止まった。妖怪の字引が一番怖ろしいのならば、私自身が恐怖の具現になってしまうではないか。
もっともっと畏怖を感じるものは、きっと無数にあるはずだ。
「そうね。…………紫式部日記とか?」
「人間が一番怖いってやつ? 何のヒネリもないじゃない」
精一杯ひねり出したものにそう言われると、私の立つ瀬がない。だが人間はそもそも、自分の臆病さから余計な妖怪を生み出している怪異工場だ。それ以上にヤバイものなぞあるだろうか?
小鈴はどんな恐怖を待ち望んでいるのだろう。ちょっとムキになって私は言い返す。
「じゃア何よ。百鬼夜行絵巻って言ったほうが良かったの?」
「ウーン。定番系はちょっとねぇ……。あ、最近、異魔話武可誌を入荷したよ」
「へぇ。あとで借りたいわ。で、小鈴の思う一番怖い本を知りたいのだけど」
「私はそうねぇ。――――白紙の本とか?」
しまった。大喜利になってしまっている。白紙が怖いのは読書狂ならではの回答だろうか。現に私の家でも、字喰い虫が沸いたおかげで、蔵書が台無しになりかけた事がある。
「アッ、そういえばさ」 何か思いついたようで、小鈴は感嘆符を眼に浮かべた。
結局、字喰い虫は“運良く別の妖怪が退治してくれた”ので事なきを得たが、彼女の“そういえば”という言を借りるならば、私達が、特に小鈴が虫対策として、妖怪の煙を利用するアイデアを出したような気がする。
彼女は云う。
「不気味なのがあるよ」
すると小鈴は立ち上がって、膨大な貸本の中から一冊の本を取り出して持ってきた。
表紙からすでに黄色く日焼けした、質の悪い紙で拵えられた本だ。――いや、良く見てみると、表紙はすでに破り去られていて、表題の描かれた表裏の装丁は、内部の1ページ目であった。大凡貸本屋に相応しくないお粗末な代物に、私は眼を丸くした。
「コレ、売り物なの?」
その言葉に小鈴は頷いた。
「うん。取引したのはお母さんなんだけどさ――――」
曰くその書とは、
・ある子供がお金を払ってまで置いてほしいと頼んできて、
・その様相から察して母君が許可すると、
・数日ごとに引き取りに来ては、
・またお金とともに同じ本を置いて欲しいと嘆願して、
・今に至るときにはすでに母君も小鈴も不審に思っている。
・ちなみに契約は前金を払って、引き取りのとき半額返すもの。
そんな不可解なエピソードが潜んでいた。
「それ、お客の丸損じゃない」 私が云うと、
「そうなのよねー。何の意味があるんだろう」
と、小鈴は首を傾げて返した。
「中身はどうなってるの?」
気になって、彼女のもとに手を差し伸ばしてみる。
「見てみる?」
許可はいとも容易く下りて、私はその怪異を受け取った。
「これは…………うわあ」
内部を開いてまず露出したのが、赤い臓器であった。
医学書、と云うには解説が少ない。例えるなら、画家と医者を兼用しているものが描いたスケッチに近かった。極少ない文字は悪筆なのか、それとも似たような別言語なのか、辛うじて一部だけ読み取れるのみであり、何のための本かは理解出来そうもなかった。製本は手製で、複数の厚紙を紐で留めて、その背表紙の部分を糊で貼り合わせてあるだけだ。
「如何? わけわからないでしょ?」
「今日ほど自分の求聞持の能力を呪ったときはないわ」
私は家系の性質上、見たものを忘れられない。アア、きっとこの内臓群は、夢に出る。こんな子供が忌み嫌いそうなグロテスクなものを、どうして売ったり買い戻したり繰り返すのか。
何故……。
「私はきっと、妖怪の暗号が隠されてると思うのよ。夜な夜な子供が見に来るし」 小鈴の口から、大袈裟な予想が這い出てくる。
「そんな突飛な……、ン。小鈴、今なんて言った?」
サラッと重要な事柄が飛び立っている事に気づいて、私は語調を伸ばしてその単語の尻尾を掴んだ。
「暗号? 例えばさ。この12ページの――――」
「ソコじゃなくて。夜な夜な子供が、なんだって?」
「そうなのよ。こないだ夜中におトイレいきたくなって部屋を出たら、物音がするからさ。見に行ったら子供が丁度本をチラ見してたの。コラッて言ったら逃げちゃった」
「コラッて……それ如何見ても幽霊じゃない」
「うん。寝ぼけてたし、見た目キレイな幽霊くらいなら平気」
この娘、先が思いやられる。妖怪と人間は相容れないと、日頃口を酸っぱくして警告しているのに。妖魔本で数々の騒ぎを起こしてきた彼女には、その上妖怪に取り憑かれても懲りなかった今更遅いかもしれないが、もう少し、自分の身を案じてほしいものである。
「ンで、口振りから察するに、何度もそれがあったって事?」
「そうそう。せっかく妖魔本の貸出を正規に始めたんだから、立ち読みじゃなくて、もっと正面から来てほしいのよねぇ」
「ちなみに博麗神社に相談した?」
「マダ」 ――そんな事だろうと思った。異変になる前にちゃんと報告しに行きなさい、と口を開きかけたとき、小鈴は言葉を上乗せしてきた。「――な訳ないじゃない。お母さんが相談済み。コレ自体は何の妖気もないってさ。そもそも、私が触ったとき、なーんにもゾクゾク感無かったのよね」
……どちらにせよ、この本が変なのは判った。小鈴は更に重ねてくる。
「ね。本を書いてる側としてはさ。如何いう理由か想像つく?」
確かに私はペンネームで推理小説を描いているが、そんな無茶ぶりをされても困る。何しろ小説に転換したとしたら、ネタなんて幾らでも転がっているのだ。超能力、宇宙人、偶然の一致、何でもアリだ。
小鈴は私の返答を目をキラキラ輝かせながら待っている。もっと困った。答える他ない。私は頭を僅かに回転させて、既存あるトリックから、今の状況に最もピッタリ来そうなファクターを抜き出して、彼女に伝えてみた。
「まず考えられるのが双子説ね。親が医者と画家をやっていたんだけど、志半ばで死んでしまって、双子の兄弟のもとには、遺産としてこの粗末な解剖図だけが残った。兄はその遺産を他の人の役に立たせようと売りに出したけど、弟は親から譲り受けたものだから手元に持っておきたい。兄が置きに来て、弟が引き取りに来る。そうこうしている内に解剖図があっちこっち移動するものだから、妖怪の間で有名になって、触ると魔パワーが得られるとかなんとかの風評被害が……」
「…………オチが弱い! 60点」
「うん、オチが弱いのはわかってるわ。けどさ。納得がいかない結末よりはマシじゃない?」
「他に如何んな話があるの?」
「子供は精神病でした。幽霊も頭おかしかったです」
「つ……つまらない……!」
「――でしょう? だから、あんまり深入りはしないでね」
「ソレよりもさー妖怪の暗号説が良いと思うんだよねー。ホラ、この12ページの――――」
それから私は何十分も長々と彼女の怪奇談を聴かされた。天狗が使っている符丁だの、河童が水中でも見分けられる文字だの、よもや作家の私の想像力を上回る勢いだ。段々とうんざりしてきた私は、日が暮れる前に鈴奈庵をあとにすることにした。
昨日まで借りていた本を返して、新しく読み物を仕入れる。外は冬風が吹雪いているようで、扉越しの暖簾の羽ばたきが見て取れた。一歩外に出ると、これはもう、山の妖怪の嫌がらせだとでも思うくらいに冷え込んでいた。
暖かい鈴奈庵の中に出戻りしたい気分に駆られたが、私は勇ましく家路へと旅立っていった。
途中、怪訝な顔をした博麗神社の巫女に会った。彼女は何かを探しているようだった。訊くと、ごく弱い妖気が里のどこかに現れては消えているようだ。実害はないが、どうにも不気味な兆候だという。
話半分に耳に入れて、私は着物の前を締め直した。何処に居るかわからない妖怪よりも、今の寒さ。アア、火鉢と焼き餅が恋しい。巫女に別れを告げて、舞台は稗田家――――ではなく、日を数日置いて、再び鈴奈庵に戻る。
今日という時間は儚いもの。何事もなく帰り就いた私は炬燵に足を入れて夜が来るのを待った。瞬く間に夜が来て、そして朝が来た。馬鹿馬鹿しいほどの日常風景だ。
異変とは、常に当たり前の中に隠されている。
あれから何度目だろうか、鈴奈庵への来訪を幾数日越えて、私はようやく出会うことになる。
……件の子供だ。
それは男女どちらか区別のつかないような顔立ちと、簡素な麻の服を身に着けていた。胸に抱くように例の本。もはや定例となったようで、小鈴がその対応を行っていた。
ただ、お金をもらい、本を受け取り、記帳して、見送る。
問題は、いや事件は、それが帰ってから突如起こった。
「阿求! 今の子追って!」
丁度声が届かなくなるくらい距離が離れたところで、小鈴が急に言葉を荒げた。まるで盗人を目撃したかのような口調だが、聞かずとも彼女の目的は窺い知れる。私は駆け出さず、小鈴のもとにゆっくり歩み寄った。
「行かないわよ。タダじゃ」
どうせ面倒事だ。適当にあしらえば諦めるだろう。私は交渉するフリをした。目的は、彼女が詮索を止めるまでの時間稼ぎだ。
「じゃあ貸本代半額!」
必死に食い下がる小鈴の思惑は、要するに店番で動けない自分の代わりに真相を突き止めてほしいのだ。どうして自分の身に危険が降りかかるかもしれない妖怪との触れ合いを、寄りにもよって友人にやらせるのか。コレこそが小鈴が小鈴たる所以であり、彼女の友達が少ない理由だ。
「お金なら有り余ってるのよねぇ」 私はいつものように、軽く流したつもりだった。だが、これが最悪手だった。
「うむむー! じゃあ阿求店番お願い!」
肥大化する小鈴の探究心は、私の予想を遥かに超えていたのだ。長火鉢を飛び越える勢いで走り出した彼女の袖を、私は間一髪で掴んで引き止めた。
「待って!」
ぐいっと引っ張られるところを体重を掛けて留まらせる。あの子供の抱えている事情が、もし妖怪によるものだとしたら博麗神社に今一度相談すればいい話だ。小鈴がそうしないのは、巫女に異変を任せてしまったら、謎は解かれずに平穏だけが残るからだろう。成程全く厄介な好奇心だ。
「わかったわよ。私が見に行くからアナタは大人しく店番してなさい!」
結局私は、彼女の手のひらの上で踊る事になったのだ。絵巻の妖怪が小鈴を誑かして起きた異変は記憶に新しい。アレ以降、本居小鈴は、私稗田阿求や、巫女の博麗霊夢と同じ、妖怪と人間の間に立つものの仲間となった。だが、たったそれだけだ。彼女は妖怪に対する抵抗力を一切持たない、平凡な一般人なのだ。
為らば、私のほうが適任だろう。あの子供を追うのは。
「本当!? さっすが頼りになるぅ!」
マア本当に調子のいいこと。小鈴に困ったような笑みを投げて返して、私は鈴奈庵を出た。子供は、と周囲を見回すと、その影は広場の方角へと進んでいるようだった。
今私に、小鈴の期待の重圧は一切ない。何故なら、深追いなんぞ、これっぽっちもする気が無いからだ。肝腎なのは、私も小鈴も安泰でいられる事なのだ。妖怪退治や異変解決は巫女組に任せておけばいい。
怖そうだったり危なそうな場面に移る前に、逃げ帰ってしまうつもりだ。それこそ同年代の子供が、恐怖を目の前にする時のように。
子供は迷う素振りなく、真っ直ぐ歩いていく。私はコソコソしたりせず、その後姿に堂々と齧り付いた。真っ昼間の里は出店や行商、人の目が多いし、こうして偶然行き先が一緒だった風を装うのが最も怪しまれずに済むのだ。
やがて子供は貧民窟へと入っていった。良家の後継ぎである私が入るのは憚られるような薄汚れた場所であるが、その住民達が皆追い剥ぎであるという決めつけは宜しくない。彼らは、金が無いだけの、ありふれた里人なのだ。余所余所しい視線を投げ掛ける程度に抑えてくれるのは、やはり、死ぬほどの貧困では無いからである。
妖怪と人間、どちらが怖ろしいか。彼らも我らも、肉を食い、血を啜る生態を持つ。では、我ら生物よりも、それを暴虐に走らせる飢餓が最も恐るべき存在なのか?
子供は段積みになったバラック建築群の奥へと消えていった。これ以上は彼らの私有地だ。例え裕福な者でも、庭に無断で侵入されれば棒を手に持って襲い掛かってくるだろう。
私の仕事は、コレで終わりだ。小鈴に渡す真実はその程度で十分。もし、彼女が間違って貧民窟を深入りしたのなら……考えたくない。酷い結末が用意されていたのかもしれない。
何のトラブルもなく私は鈴奈庵に戻った。当たり前だ。トラブルの無いように振る舞ったのだから。
「見てきたわよ。小鈴」
「で、如何だった、如何だった?」
この瞬間を今か今かと待ち望んでいたのだろう。玄関口で寒い風を背にして現れた私のもとに、颯爽と近寄ってくる。
「そんなガッツいてもアナタの望むような答えは無かったわよ」
逸る小鈴のおでこをぐっと押し返して、私はまず部屋を締め切った。指先が悴んでピリピリする。長火鉢のもとまで無言で進んでいって、あしらえられたアンティーク椅子に座ると、コホン、と一度喉奥の埃を吐き出し、その結果を話し始めた。
「まず結論から云うと、あの子供は妖怪じゃないわ」
ほうほう、と小鈴は頷いてみせる。だが、渡せる最高の事実はここまでだ。残念ながら。
「子供は貧民窟の住宅集積のところで姿を消したわ。あの様子から察するに、恐らくは親の心が病んでいるのでしょう。一番つまらないオチよ」
現実なんてそんなものだ。探偵ミステリは薬学や地質学だけでは成り立たない。ドロドロの人間模様を、謎という卵の殻で包んでいるだけの嗜好品だ。サア、さっさと忘れて、また大喜利でも楽しもう。
「阿求。それすごい良い情報だわ」
「――――エッ?」
私の思惑とは裏腹に、小鈴はいきなり笑顔を咲かせた。幾度となく行った心配なんてモノともせず、彼女は今まで見たことも聴いたこともないトンデモない手掛かりを目の前に提示した。
「コレ見て。子供が持ってた古銭よ」
種明かしの土壇場で新しい伏線を用意するとは、まるで三文小説だ。小鈴は奥のカウンターテーブルから、子供が払ったと思しき銅銭を取り出した。
古銭は、寛永通宝に似たオーソドックスなものであった。恐らくは銅で鋳造されており、中央に真四角の穴が開いている。幻想郷では貨幣の規格が統一されていないので、此程の精度で鋳られた銅貨であれば、鐚ではなく銭一文として通用しそうではある。だが、貨面に浮き上がった文字は異国の記号であり、また、その文様はこれまで見たどの貨幣よりも精巧であった。小鈴が妖怪の仕業だと錯覚するわけだ。
「ますます暗号説が有力になったわ!」
「……全く意味が判らないんだけど、聞いてもいいかしら?」
何やらひとりではしゃぐ小鈴に取り残されて、私は率直に訊いてみることにした。釣銭詐欺か、と一瞬思考がブレたが、古銭を価値の低い銅貨として扱う時点でそれは無い。
彼女は云う。
「だって貧民窟の住民がわざわざお金を失うだけの奇行に走るわけないじゃない。つまり私の見立てでは、秘密の暗号を記したあの本を、古銭という餌で釣ってココに置いてるのよ。だから定期的に持ち帰って内容を更新してる。そして、受け取る側はこれまた幽霊を小間使いに出して、暗号の確認をさせているの。きっとトンデモない秘密があるのだわ!」
ヤレヤレ、これまた大袈裟な。私はその仮説を鼻で笑ってやりたくなったが、翌々思い返してみると、自分が提唱した60点のオチと比べて随分と筋が通っているように感じる。
ここで思い留まればよかったのだ。場の空気に流されて、私は、ほんの少しでも小鈴の云う妄言を信じてしまった。その結果、次に述べた彼女の台詞に、あろう事か賛同してしまったのである。
「ねェ阿求。夜の幽霊を一緒に探ってみない?」
好奇心と云うものは、アルコールに似ている。酔っ払って、夢見心地が過ぎ去ったあとには若干の後悔と頭痛が残るのだ。浮かれていた熱も、次の瞬間には冬の外気に冷え切ってしまって、私は身体を縮めて空を仰ぐ事になる。
夜更かしの、悪い約束を結んでしまって私は鈴奈庵をあとにした。飲酒後の時間感覚が目まぐるしく加速するように、私の夜もすぐ間近に訪れた。月が現れ、息が白く染まる。常夜燈で里がぼんやりと明るくなる中、私はこっそり家を抜け出した。この時点でもう髪の上から凍った空気をぶっかけられていて、半分以上は正気に戻ってしまっていた。
嗚呼、家に帰ろうかな。面倒だな。
しかし、もうすでに屋敷からは遠く離れていて、友達との約束も済ませてしまった。なるべく肺を震わせないようにマフラーで口を覆って、小走りで寒気の闇を裂いていった。
鈴奈庵には予定通りの時間に辿り着いた。が、不安は多い。
小鈴が起きなかったら、幽霊が現れなかったら、標的に追いつけなかったら、凶悪な妖怪に見つかったら……ひとつひとつの要素に大した実現力が無くとも、こうも並べられると、どれかひとつは襲い掛かってきそうな気がしてしまう。
まずは最初の幸運を占おう。勝手口に回り込んで、閂が為されているか確認する。カタ、と静かな音を出して、その裏口は開け放たれた。第一関門は難なく突破だ。台所隅で身を縮ませていた小鈴に声を掛けて、妖怪に肩を叩かれたのかと錯覚して驚いたその額をぺし、と叩いて恐怖を払ってやる。
私達は合流して、例の現象が起こるといういつもの本溜まりに身を隠した。長火鉢が光を失って、部屋は凍りつくように寒い。小鈴が用意した鈍色の毛布に一緒にくるまり、息を殺して次の僥倖を願った。
常夜燈の明かりが僅かに店内に洩れてきていた。妖魔含んだ貸本達はじわりと輪郭を得て、今にも暗がりとともに蠢き出しそうであった。果たして、幽霊は現れるだろうか?
もし、今日が空振りであったら、また後日再びこの夜中遭難を繰り返すのだろうか。うむ御免だ。小鈴と毛布の中で肩を寄せ合うと確かに暖かいのだが、探偵小説でたった数行にすぎない張り込み部分を実際数十分、果ては数時間数日もやるとなると、想定するだけで嫌気が差してくる。
「ネェ、あのさ――――」 二度目はないわ。と、私が未来を閉ざそうとした途端、彼女はこの口を慌てて塞いできた。
「シッ。来たよ」
まるでお化け提灯のよう、小さな子供の姿が闇にフワリと浮かんで現れた。真相への第二の扉が解かれて、安心と不安が同時に去来する。さて、これで後戻りはもう出来ない。
幽霊は周囲をキョロキョロと見回して、何かを探しているようだった。私達はその目的を知っている。今すぐにも姿を見せて案内してやりたい親切心が湧き上がるが、なんと子供はたちまち答えを発見して、一直線に例の本のもとに歩み寄っていった。
暗闇になって初めて気付く。本の背表紙には蛍光塗料で装飾がしてあったのだ。手が込んでいる。
…………暫く、観察する。
幽霊は少年のようだった。顔は、見覚えがあるような無いような。少なくとも私が名前と共に知り合った人間では無さそうだ。彼は夜目が効くのか、内部ページをチラと開いて、そのあとは私と同じような物忌の目線でちんまり読み進めているようだった。
サテ、次はどう動く。隠すか、覚えるか、書き起こすか――――――どうやら、私達の予想は外れそうだ。
言なく、全ページを一通り周回したところで少年幽霊は唐突に本を戻し、そして踵を返した。棚壁を透過して去っていく。
「アッ、阿求。追いかけるよ!」
毛布を放り出して小鈴は勢い良く立ち上がった。私は、――というと、彼女の背中について駆け出し、まるで事の成り行きを見届ける保護者のような様相だ。
彼女のあと一歩を、踏み止めよう。
鈴奈庵を出た私達は、常夜燈の真下でも影の薄いその幽霊をすぐにも見つけ、自分が昼間行ったように追跡を試みた。
「変じゃない? 持り去りもせず見るだけってさ」
尋ねてみる。小鈴の中ではその回答はもう成されているのだが、私には未だ疑問のままである。天狗や何かの暗号にしては、どうも納得がいかない。特に、鈴奈庵が舞台であるという根本が一番不自然だ。別に本に暗号を記す必要性は何処にもないのだ。
「それは暗号の基本だからよ」 小鈴は暗号にどんな幻想を抱いているのか。「そうでなきゃ、肝試しくらいにしか使えないでしょあの本」 理由付けはともかく、持論への信奉は相当なものである。
幽霊の足取りは記憶に新しいものであった。広場を横切り、町並みは寂れていく。昼間には感じられなかった異様な雰囲気が重く伸し掛かってくる。煙が出ていないのに、砂埃のような濁った空気が満ちていた。太陽光によって消毒されていた病風が渦を巻き、その場所を黒く沈ませている。
貧民窟。真夜中、その腐りかけた集落からはまるで複数の目が覗いているような錯覚を受ける。…………小鈴の足が止まった。
丁度、貧富の境目となるような、小さな橋の前だった。数百年前もあった柳の木の下に、幽霊の少年と並んで誰かが立っている。
「ほら、やっぱり別の妖怪に報告……――――え?」
嬉々としていた小鈴の顔が困惑に曇った。柳の陰に居たのは、他の誰でもない件の子供そのものであったのだ。
自分でバラ撒いた暗号を、自分で回収する。そんな隠密行動なんて、ごっこ遊びだけだ。じゃあ、単なる悪戯なのか? 私達店側を困らせるためだけの?
驚きよりもさきに不気味さが突き刺さってきた。だが、次の瞬間、驚愕がすべてを塗り替えてしまう。あの子供の、――――幽霊の子の頭を優しく撫でるそんな簡単な、おつかいのあとの我が子を褒めるような所作たったそれだけで、少年は瞬く間に白い光となって霧散していったのだ。
「嘘ッ。成仏した!?」
何故……と考え至る前に、更なる急展開が私を襲った。小鈴が、すでに隣に居ない。泳いだ視線が捉えたのは、例の子供に駆け寄る無謀な貸本屋の店番の姿だった。
「ちょっ……!」
声で静止しようとするが止まらない。小鈴に気付いた子供が逃げ出して、それを追う彼女の背中を私がまた追う。必然的に私達二人は貧民窟に誘い込まれてしまった。
手を精一杯伸ばして小鈴の袖を掴もうとする。もしここで彼女を行かせてしまったら、二度と会えないような、そんな杞憂があった。しかし、運命は残酷哉。指先は空をきって――――
なーんて、探偵が事件の果てに辿り着くような悲劇的な結末があるわけないじゃない。私は小鈴よりも足が速い。あっと言う間に追いついて、彼女の動きを阻害してやった。
「やめてよ阿求! これじゃ真相解明できないじゃない!」
「あのね。周りを見なさい! コレ以上深追いは危険よ!」
思わず声を張り上げてしまう。子供の姿はすぐにも見失って、何もかもが、私達の存在までもが闇の藪の中に溶け込んだ。
あるのは怒号のみ。
「もう! 見失っちゃったわ! 何てことするの!」
「アナタこそ何てことしてるの! 命はひとつなのよ!」
「真実もひとつよ! このままじゃ永遠に失われちゃう!」
「小鈴の分からず屋!」
「阿求の偏屈坊!」
「――――――――――おい」
急に低い声が混じった。(誰よ口を挟まないで!) と次の言葉を吐き出しかけた喉が、途端に痙攣して声が出なくなった。
低い声。
恐る恐る目をやると、そこには私達の身長の2倍はある男が立っていた。粗末なボロボロの着物を羽織り、ガリガリの長い手足をこちらに伸ばそうとしている。
「ヒッ――――」
「皆寝てるんだから、静……」
その言葉を最後まで聴くまでもなく、「ひぃぃ――――――――――!」 私達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
――――――――――――――………………!
――…………………………。
…………。……。……。
追われる、事は無かっただろう。屋敷に逃げ帰った私が思い返すに、あれは近所迷惑なガキンチョを諭しに来た一般人だったのだろう。逃走する途中で小鈴とはぐれてしまったが、翌日会いに行くと怪我もなくピンピンとしていた。
無我夢中だったせいで記憶が少し飛んでいるが、私たちは無事、冒険を終えたようだ。震えて眠ったあとの朝は清々しい晴天の日だった。私は少し思うところあって里内をぐるっと廻ることにした。
あの、成仏した少年。一度見覚えがあると思ったら、鈴奈庵にごく近い商屋の子であった。人妖関係なく、山渓で足を滑らせて死した不幸な子供だったようだ。では何故、本を読みに行って、しかも唐突に成仏したのだろう。
「――――私が思うにさ」
場面は変わって私は小鈴に自論を展開していた。今回の事件、真相は優しさに満ちているものに思えて仕方なかった。
「あの子供、死神見習いだったんじゃないかって思うの」
「なにソレ」
私は語り始める。歴史を民草に広めるよう、信じ込ませるよう組み立てた物語を述べていった。
「死ってさ。みんな覚悟したあとに来るものじゃないと思うの。小鈴、アナタ本の用途に対して肝試しくらいしか有り得ないって言ったじゃない。その通りだったのよ」
「どの通りなのよ」 暗号説を破棄されて不服そうだ。だが、私は続ける。危険な目に会いかけたのだから、ここいらでピリオドを打ってしまおう。
「幽霊の子は、死ぬ覚悟も生まれ変わる覚悟も持ってなかったって事。成仏するさきが怖くて現世に留まっていたところを、あの死神見習いに諭されて肝試しをしたってこと。ホラ、グロイのって、子供にとっては最高に怖いじゃない? 『本を読んで帰ってくれれば、君は勇気あるイイコだ。だから来世でも上手くやれるさ』ってね」
「ああー。けどさ、親よりさきに死んじゃったら賽の河原行きじゃない? ちょっとした詐欺よね」
「だから古銭をアナタに渡して、罪悪感を和らげようとしたんじゃない? これは正当な取引だってな感じ」
「なるほど……。けど、ちょっと残念だなー」
「如何してよ」
「だって、正式な妖魔本屋になったのよ。逃げずに相談してくれればいいのに」
「まあ、それは――――……、アナタの人徳ね。誰も興味本位で私情を暴こうとする探偵小説みたいな主人公を望んでないのよ」
「そんなー」
「コレに懲りたら、もっと周りに気を配ることね」
「……はーい」
あの声掛け事案が相当堪えたのか、それ以降、小鈴が暗号本を話題にすることは滅多に無くなった。週日は過ぎ、平穏が日常に胡座をかいてのさばるようになった。人間は里を往来し、妖魔本の取扱を始めた鈴奈庵には妖しき者共も立ち寄る。
ただ、それでも争いは起こらないのだ。ひとえに巫女のおかげ。ふたえに平穏を願うこゝろのため。みえに――――真実を追求しない無知の為せる業。
小鈴を言いくるめたものの、私には疑問がまだあった。
あの子供が、幽霊の成仏を担っていたのは確かだろう。だが、古銭の取引が引っかかる。本当に罪悪感から何度も貸し借りを繰り返したのだろうか。貧民窟を寝床にしているとして、どうして“今更”そんな業務を始めたのだろう。
今日も鈴奈庵を出る。件の子供とすれ違う。里は異変なく守られている。最も怖いもの。怖いと思うことが怖いのだ。恐怖しなければ、畏れる感情も生まれない。ゆえに無知こそ万能薬なのだ。
家路の途中、再び霊夢に出会った。博麗の巫女曰く、妖気は前にも増してあちこちを飛び回っているそうだ。人間は頭が良いから、きっと恐怖を忘れることが出来ないのだろう。皆路傍の石ころにでも変化すれば、苔生すまで平和でいられるのではないか。ヨシ、今度は石化する病の出るSF小説でも執筆しようか。
念のために、と霊夢は御札を渡してきた。何でも、私からの発される残留妖気が他と較べて多めであるらしい。とりあえず私は近頃あった異変――――幽霊と成仏の話を渡してやった。すると、
「幽霊と妖怪は違うわ」 と一蹴されてしまった。
しかし勤勉な霊夢は私の情報をもとに貧民窟に出向いてみるという。「頭の切れる妖怪は潜むのが得意なのよね」 会話も手短に、彼女はあっと言う間に空へと浮き上がり、異変解決へと向かっていった。
……幽霊と妖怪は違う。何処か引っ掛かる言い回しだった。私に付着していたものは“妖気”である。幽霊と妖怪は、違う。
胸騒ぎがして、彼女を呼び止めようとした。しかしその姿は遥か向こう。もし、――もし妖気が鈴奈庵に因るものだとしたら? そういえば、例の子供とすれ違ったばかりだ。
私は自分の足跡を辿っていった。鈴奈庵。心配するに越したことはない。誰か他の、妖怪退治が可能な助っ人を呼ぶという選択肢もあったが、小鈴やその家族を貸本屋から遠ざけるのが先だと私は結論づけた。
あの夜のような纏わりつくような寒気はない。陽光は妖しい気を完全に覆い隠してしまっている。鈴奈庵の外見は、何の変化もなく、また暖簾をくぐった先の彼女にも異変は――――
「アッ、阿求。如何したの?」
「銅も金もないわ。とりあえず聞いて」
「阿求が見た中で一番怖い本って何?」
この娘は緊急事態に一体何を。長火鉢の前で、彼女はまるで当たり前の日常のような風景の一部と化していた。
「あとで答えてあげるからコッチ来なさい!」
ぐい、とその手を引っ張る。しかし、小鈴の身体は椅子にべっとりと張り付いているかのよう、異常に重い。
「人間が一番怖いってやつ? 何のヒネリもないじゃない」 彼女は云う。
おかしい。私は記憶していた。彼女の言葉は、以前一度私が鈴奈庵で聴いたことのある台詞そのままだ。一語一句間違いなく、抑揚もリズムも全く同じだ。
「小鈴、アナタ――――――」 まるでカウンターテーブルに乗った蓄音機が化けているようだ。眼は虚ろで、そして、私の様子なぞ露知らずひとりでに声を重ねていく。
「ソレよりもさー妖怪の暗号説が良いと思うんだよねー。ホラ、この12ページの――――」
パシッ! 部屋内に一風変わった破裂音が響き渡った。暴力のない平穏が、この瞬間ついに崩れ去る。昼間の妖怪や幽霊、夜の人間が行わなかった凶行を爆発させたのは、私の右手であった。
小鈴の額を全力でひっぱたいてみせた。
「痛ッッたぁあっ! 何!? 何なの!」 私の膨大な妖怪知識に因れば、
「コレに限る」 軽い妖気憑きの場合は、壊れかけのカラクリにそうするよう強いショックを与えると治る。
「阿求、気持ちよく寝てたのに何するのよ!」
状況を理解していないようで、小鈴は目を潤ませながらコチラに凄んできた。誤解を解くのは面倒だが、まあ、軽症だっただけでも不幸中の幸いだ。早く事情を伝えないと。
「小鈴。あなたは眠ってたんじゃない。妖気に憑かれて正気を失っていたのよ。家族はドコ? 早く鈴奈庵を――――」
すべてを説明し終える前に、ガタン、という硬い音が声を切り裂いた。異音に振り向くと、開け放たれたままであった玄関戸が固く閉ざされていて、更に店奥の扉も続いて封鎖された。何か居る、そう予感するよりもさきに、貸棚が不可解な振動を始める。
「遅かったか……」
すでに此処は妖怪の腹の中だ。霊夢の言うとおり、“何か”に潜んでいるのだろう。寝ぼけ眼で再び超常現象を見てしまった小鈴は眼をパチクリさせて、呆然と眺めやがて訊いてきた。
「お母さんとお父さんは外だけど……何が起きたの?」
「あの本、もしかしたら曰くつきかもしれない」
「ええッ! …………――今更?」
私は懐に手を突っ込んで、それを探った。コチラが使える武器はたったひとつ。霊夢に貰った緊急用の御札だ。今のところ妖怪は私達に直接危害を加えていない。怖がらせて、恐怖を喰っている段階だろうか。怪奇の規模的に、御札を適切に設置すれば切り抜けられる――――はずだ。
「ここに霊験あらたかな御札があるわ。これで何とか」
「アッ、それ神社で一番安いやつよね」
……不安は残るがやるしかない。
小鈴の手を握り直し、恐怖する顔を決意に塗り替えた途端、眼の前にゆっくりと赤い塊が浮上してきた。それは長火鉢に放り込まれていた赤熱した炭だった。パチパチと線香花火のような火花を散らしたあと、熱が渦を巻いて小さな火の玉になった。始めフラフラと宙空をさまよったが、人間を感知する方法を見出したのか、私達の方に真っ直ぐ向かってきた。
「小鈴、逃げるわよ!」
「に、逃げるってドコへ!?」
「――妖怪の居そうな場所よ! すぐに御札を叩き込むの!」
貸本屋の中を走らない、そう描かれた張り紙を駆けて通り過ぎた。私達は部屋をぐるりと廻るようにして追跡してくる火の玉を躱す。だが、肝心の妖怪の姿が見当たらない。
「小鈴、妖怪に心当たり無い?」
「そんなの無いわよ! あの本に御札貼っちゃいましょう!」
逃げる途中で小鈴は該当の棚から私本を抜き出した。これに御札を貼る? そんな発想は私には無かった。何故なら、本は一度、霊夢に妖気無し、と鑑定されているのだ。そんなものに、虎の子の必殺の武器を使えるか?
「それ霊夢にお墨付き受けたじゃない! 妖気なしって」
「でも、でもでも置いている内に変わったかもしれないわ。コレくらいしか考えられないのよ! だって他の本はもっともっとヤバイもの!」
「エエイッ! もう!」
……むしろ、もっと強い妖怪絵巻の封印を解いてしまって、退治してもらえばいいのでは? 否、字喰い虫と煙々羅の二の舞いだ。私はヤケクソに逃げながら、頭をフル回転――――
「喰らえ!」 させる暇なんて無かった。小鈴から受け取った私本に、霊夢の御札を貼り付ける。
その結果………………私達は火の玉に追いかけられるのであった。
「小鈴、何か、何か知恵出して!」
「無茶言わないで! ここ最近店に大きな変化ないわよ!」
その時、ミシリ、と嫌な音が聴こえた。私は咄嗟に足を止めて、自分達を囲む本棚に視線を傾けた。それが、今にも倒れそうなほど歪んでいる。私は、小鈴の腕を離してしまった。
大量の本が雨霰のように降り注いでくる。私と小鈴はバラバラになって倒れ伏した棚の通路を脱出した。そして、運悪く、私は火の玉があるほうへと身体を避けてしまったのだ。
――だが、私の判断は迅速だった。
「小鈴、私が火の玉をひきつけている間に、親玉探して!」
幸い、火弾には大した正確さがない。私はその真下をギリギリでくぐり抜けて、敵の動きを誘導した。
「エッ!? 待っていきなり言われても、本の暗号くらいしか手掛かりが……」
「それでもいいから!」
とにかく霊夢がこの騒ぎに気が付いて駆けつけるまで、時間稼ぎをしなければ。私達に出来ることは、あとは、想像するくらい。
目の前に火炎があるというのに、私の脳髄は氷柱を刺されたみたいに冷静であった。むしろ、困惑を極めた今だからこそ発揮できる集中力なのだろう。小鈴が自力で暗号を探している間、私は彼女の放った手掛かりに引っかかっていた。
『大きな変化はない』
『置いている内に変わった』
逃走する内に火球の練度は上がっていき、私の頭の動きに合わせて行き先をこまめに変えるようになっていた。追い詰められるのも時間の問題だ。トン、と背中に壁が当たった。
どうして妖怪は今まで妖気を抑えていられたのだろう。――――いや、今になってやっとこさ妖気を発揮できるのか? 過去と現在の違いは何だろう。私が完璧に覚えている鈴奈庵を、脳裏に浮かべてみる。天候、気温、貸本、人間…………霊夢は、里のあちこちに極小の妖気が散らばっていると言った。火はその光を強め、私の顔めがけて一直線に飛びかかってきた。
もし、里の異変と繋がっているとしたら。日により積み重なるもの、私本と共に現れたもの。
それは、
「ねえ小鈴! 古銭よ!」
すべてを繋ぐ鍵は、金銭にあった。取引によって里中に散らばり、有り触れていて、妖気が僅かであれば誰にも気付かれそうにない妖怪。私の号令を聴いた小鈴は、一気に駆け出して行儀悪くカウンターテーブルに乗り上がり、そして、まとめられた古銭束にお札付き私本を叩きつけた。
「喰らえビブロキラァァァッ!」
火球は私の鼻先一寸のところで落下した。光熱は失われて、真っ黒い炭となって床に転がる。私達は、妖怪の正体を見破ったのだ。
玄関のロックが外れた途端、そこに、何の事情も知らない霧雨魔理沙が扉を開いて現れた。もう貸棚が不気味に蠢くことはなく、物体浮遊も起こらない。
「お前ら、ドタバタ音がすると思ったら何して遊んでたんだ?」
物語終盤において新しい登場人物を寄越すとは、全くなんて酷い三流小説だ。私は、腰が抜けてしまって動くことが出来なくなった太腿を手のひらで大きく叩いて、溜まっていた緊張の息を抜いた。小鈴を見遣る。その姿はまるで、貸本屋を狙った新手の強盗である。古銭を退治してしまった今ではあながちその表現も間違いではないのかもしれない。
「……………………ビブロキラーって何よ」
私は彼女のひとつ前の言葉を復唱した。
「――だって、みんな必殺技を使うじゃないの」 小鈴は答える。
「楽しそうだな、私も混ぜろよ!」 そこに被さる余計な声。
あとはもうグダグダだった。散らかった屋内を片付けたり、再び散らかしたり。妖怪の気配は無くなったが、鈴奈庵が妖魔本で溢れた危険地帯なのは変わりない。倒れた棚から零れ落ちてしまった怪異を魔理沙に始末してもらったり、また貸し付けたり、ともかく平穏な日常が重労働によって乱されたのは言うまでもない。
最も怖ろしいのはお金であったか。アア、これでは本当にベタな、昔話でもある欲掻き失敗談ではないか。上手い話には裏がある。だが、物事はそう単純ではないようなのだ。
日が変わり、寒さも本格的な白い雪となって降り注ぐようになった頃、私はふとした事でこの異変の裏側を知った。
それを語るには幾つかの点を線で繋げる必要がある。まず、当日の霊夢の動きから整理しようか。私と別れたあと、博麗の巫女は貧民窟でついに追っていた妖怪を見つけたらしい。詳細の判らぬ新しい怪異であるため、仮に名を金妖と呼ぶ。
古来より金霊という、座敷童の人魂版のような妖怪が居る。それは善行を積み重ねた家に訪れ、繁栄を齎すという大変に目出度いものなのだが、この金妖は壺の形で存在して、拾ったものであれば誰にでも無限の金銭を与えるらしい。
今回妖壺より湧き出るものは銅貨であったが、なんとこの妖魔、壺よりも金銭が本体であるようなのだ。一銭二銭では大した力を持たないが一貫文、それ以上となるとようやく本性を顕し始めるそうな。流通に乗り、世間に拡散してゆき金を貯めるものほど憑かれやすいというのは、正に財産への妬みの成せる業だ。
貸本の真相は、半分が私の予想通りで、半分が冗談みたいな理由であった。この金妖、初めは貧民窟に住む里人があの子供を使って買い物をさせていたそうだが、すぐに霊夢に妖気の動きを勘付かれ、苦肉の策として鈴奈庵に持ち込ませた、というのだ。成程、木を隠すなら森の中、という訳だ。
釣銭詐欺、というのはあながち間違いでもなかった。妖銭を払って本を置いてもらい、半額を普通銭でもらう。もっとも、支払われた銅銭は退治とともに消滅したせいで全員が丸損であり、主な被害者が店の金を勝手に使い込む小鈴でなければ、その家庭内事情はオオゴトに発展していただろう。
――もう、あの私本を持った子供は鈴奈庵には来なくなった。
霊夢によって妖壺が退治されたから当たり前であろう。詳しくは聴いていないが、子を馬車馬のように働かせていた親御はすでに逝去していたようだ。博麗の巫女が妖怪と化した人間を屠ったのか、それとも金を失ったショックで元々狂っていた気が死に到達したのか。ともあれ、生前は医者と画家崩れであったそうだ。子供は何処に消えたのだろう。
真に恐ろしきは金の欲、か。……この場合、金自体が欲望の塊なのだが。再度脳裏に思い浮かばせると、この妖怪の真の恐ろしさに気付いた。
………………もし、銅銭でなかったら。
御存知の通り、妖銭は魔を払うと消失してしまう。もし貨幣価値がもっと高いものであって、より世間に当たり前に流通したあとであったのならば……。博麗の巫女が妖怪を退治するということは、財の死滅を意味する。結果、博麗神社の信仰は地に落ちていただろう。金妖は、幻想郷の秩序を乱すほどのポテンシャルがあったのだ。
厄介なものだ。人間も、妖怪も。
異変より数ヶ月が経ったあたり、私は里でとある噂を耳にした。
それは取るに足らない噂話。あの金妖の壺を持った親の名前である。私の記憶が確かならば、その家族の子供は、小鈴が事件に巻き込まれるずっとずっと前に死んでいたはず…………。
ここで、線と点が合致した。子は、死んだあとも親孝行のために働いていたのだ。そして幽霊となった自分の暇を埋めるため、死神の真似事をして、友達の幽霊たちに肝試しをさせて成仏に導いていたのだ。
あれ以降姿を見せないということは、つまりは、そういう事である。子が死した事実を認めなかった親の無知を怖れるべきか、子のあまりの健気さに感動すべきか。もし賽の河原に漂着したのならば、あんまりではないか。
ひとつ積んでは親のため、ふたつ積んでは――――
ぞっとする話である。
……鈴奈庵燃やそう(提案)
火の玉を相手に果敢に立ち向かう阿求の大胆さが、筆ばかりを執っていて動けなさそうな印象が自分のなかでは勝っていて、意外で、そして新鮮した。正体を暴く場面は短いながらも臨場感が強く伝わってきて、稗田九代目らしい頭の切れ具合が読んでいて楽しかったです。それにしても小鈴ちゃん「ビブロキラァ!」はセンスどうなのw
寒さのなかふたりして毛布にくるまるところがたまりませんでした……秘封の片割れがポンコツになったらこんな感じなのかも
とても楽しめました、ありがとうございました