展望台代わりに無骨な鉄塔がぽつりと立つだけの味気ない山頂を後にして、山特有の急階段を下る。
知らず、溜め息。
姉のさとりの為に買ったお土産のサイダーを無意識に開けてしまって、仕方無しに口を付けた。爽やかな甘味が口の中で広がって、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。思う。ああ、汗ばむ体の上を冷えた心が上滑りして行く。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
アスファルトに刻まれる喧騒を離れ、古明地こいしは小高い山を登っていた。初冬、吐き出す息が白み始めるこの頃。深紅に染まる木々に囲まれて、姉の編んだ同じくらいに赤いマフラーと手袋とを着けて。
目的はこの秋色に色付く山々、それ自体。そう、紅葉狩りである。だが、待ち望んでいたはずの景色を前にしても、こいしは寒さを覚えるばかりだった。マフラーがあって良かった、心からそう思う。
風景は確かに美しい。我先にと天へ手を伸ばす木々の、枝元から枝先にかけ緑から黄、黄から赤へとうねり行く色の波は見応えがある。差し掛かった眼鏡橋の上から山並みを見下ろせば、さんざめく緑と黄と赤の斑らと青い空のコントラストが見事だ。
それでも何故か、こいしは満たされなかった。首に下げたカメラもあまり使っていない、折角知り合いの天狗に貸してもらったのに。自分でも分からぬ飢えに心戸惑いながら、こいしは山を下った。
下り道の途中に立つ看板をふと見やると、渓流沿いの散策路が示されている。どうせなら少し道を変えようと、こいしは道を曲がった。
尾根伝いに歩いて行くと、次第に土が粘り気を帯び始めた。山道だから当然とはいえ、道は整備されておらず、剥き出した木の根の間に詰まった土を踏み固めただけのもの。その勾配は急というよりむしろ壁のようで、こいしは仕方無く手袋を外した。先を歩いた誰かの跡に靴を合わせると、胸がどきりとする。腰を落として、木の幹に捕まり、足を伸ばして、身体全部を使い慎重に下って行く。
進むに連れ、転がる石ころが増える。川が近いのだ。木々の目隠しを超えた先に、果たして谷の狭間を走る小さな水の流れが見えた。
こいしはてっきり川沿いの道が続くものだとばかり思っていたのだが、どうやら散策路にはこの川自体も含まれているようだ。道は小川と思い切り交差を繰り返し、その度に水面から突き出た石の上を飛び跳ねて川を渡る。河原と云うべきなのかどうか迷うような、小川のすぐ脇を走る粘土質の道に何度も出くわした。この道、雨が降ったら水底に沈んでしまうんじゃないかしら? 視線は足元に釘付けとなり、周りの景色を見やる余裕など無い。靴の間に泥が詰まって摩擦を奪い、何度も転びそうになってしまった。
こいしは歩くことに集中してしまって、ほとんど無意識に足を動かしていた。視界は次に踏むべき足場を探し、耳に届くのは遠くで聞こえる滝の音だけ。泥だらけになってしまって手袋をつけるわけにも行かず、冷たい外気が手指の骨にまで染み入るよう。
ああ、これじゃあ郷にいるときと変わらないわ。
心の片隅でそう嘆いた。
その時、道から外れた川の対岸で三脚付きのカメラを構える人を見つけた。こいしに向かって何事か言っているのだが、それはこいしの聞いたことのない言葉だった。カメラをこちらに向けて手を振っているので、察したこいしは慌ててカメラの画角を空けた。
彼の人がカメラを向けていたほうを見上げると、切り立つ崖に幾筋もの縞模様が見えた。白、茶、灰、黄、色とりどりの線が何筋も並行して走る。
「この辺りで新しい地層が見つかったとかで」途中の茶屋で老婆が話していたのを思い出す。「何千、何万年前の地質がどうだとかで、学者連中が来るようになってね」
ああ、あれが地層というやつか。土に囲まれた地底に住んでいながら、こいしは今まで地層の事などまるで興味がなかった。今、こうして見上げてみると、地層というのも紅葉に負けないくらいに美しい。幾筋も走る縞模様、壁面を覆う苔の青、崖上にたくましく育つ赤黄に色付いた木々。その上に輝く空は、きっとこの縞が刻まれ行くその時も蒼かったのだろう……今、この瞬間のように。誰かの跡に靴を合わせときのように、胸がどきりとする。これが歴史というものなのかとも思う。
そして新たな発見。地層の隙間から水が染み落ちて、それが川に注いでいる。見回すと、この谷のそこかしこで同じ様に水が染み出していた。ああ、さっき滝の音だと思っていたのは、この音が連なったものだったのか。地面を向いているだけじゃ気付けない。やっぱり人は、青いお空を見上げなくちゃ。
ひらひらと舞い落ちてきた紅葉の葉を取り、ハンカチでそっと包んだ。姉へのお土産にしよう。きっと喜ぶわ。
赤いマフラーを巻き直すと、こいしは再び歩き出した。その足取りは軽やかで、いつの間にか、身体は温まっていた。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりはこいしの首元にマフラーがあるのを見やると、ほっと胸を撫で下ろした。「ああ、あんたが持って行ってたのね。失くしたのかと思って探しちゃったわ」
「ごめん。勝手に持って行っちゃって」
「いいのよ。元々、あんたの為に編んだやつだし」寒い思いをしていないか心配だったが、杞憂だったようだ。「それよりあんた、泥だらけじゃないの。早くお風呂に入ってらっしゃいな」
こいしにそう言ってから、立ちかけた安楽椅子に再び腰を深く埋めると、さとりは編み物の続きに戻った。今はセーターと格闘中なのだが、こいつが中々厄介なのだ。冬本番が来る前に仕上げてしまいたいので、実は割りと焦っている。
こいしは風呂に向かわず、トコトコとさとりのほうへやってくると、桃色のハンカチを開いた。
中には、真っ赤な紅葉が一葉。
「お姉ちゃん、はい、お土産」
「お土産」
「綺麗でしょ?」
「……あー。紅葉狩り行ってたのね」
「地層も見てきたよ。綺麗だった」
「そういや、外の世界ではなんか猫の妖怪みたいな名前の地層が有名になってるらしいわね。私もいつか行ってみたいわ」
「お姉ちゃん、そういうのに興味あるの?」
「あるわよー、ありまくりよ」ちくちくと編み物を勧めながら、さとりは言った。「私、恐竜とか昔のものが好きなのよね。古代のロマン、いいじゃない。恐竜ザウルスとかめっちゃ読んでたし」
「なら行けばいいじゃない?」
「まあ、今は急いでこれ仕上げないと。あんたが寒い思いしちゃうでしょ」
「我慢することなんてないわ」
「でもわたしゃ、お姉ちゃんだから。遥か昔に生きてた恐竜とか、土くれとかなんかより、目の前のあんた達の方が大事なの」
少しの間、暖炉の火が跳ねる音と、編み針の動く音だけが部屋を満たした。
「こいし?」
何も言わない妹を訝しく思って見上げるが、こいしは帽子の奥に視線を隠してしまった。
その花のように愛らしい唇をそっと動かして、こいしが言う。
「……お姉ちゃんて、時々すごく格好良いよね」
「な、何よ唐突に。照れるじゃないの、もっと言って」
「お風呂入ってくる!」
くるりと背を向けると、こいしは部屋を出ていってしまった。ドタドタと派手な音を立てながら。相変わらず自由奔放な妹である。残された赤い紅葉の葉を取って、ポケットにしまう。後で栞にでも使うとしようか。
しかしやべえよ、まだ後ろ身頃すらも出来てない、こいつは徹夜も覚悟せねば。さとりは袖捲りして気合を入れると、再び編み針を取った。
身衣なら語感もあり分かる、でも「頃」て何だろうね
さとりの「あんた」はやはり違和感ある。公式? 知らんな
ふらふら散歩している情景が目に浮かぶようでした
山を歩く時のあるあるでにやけてしまった
ジバニャ……