【椛】
変な奴だった。
そいつは、とにかく変な奴だった。
髪は赤い。西洋の言葉でクリムゾンとでも訳すのだろうか、深い赤毛だ。
体はふつう。一般的な人間の女性といった背丈。
そして、嫌な目をしていた。考え事をまとめ切り、自分の言葉で人をたぶらかす自信があるとでもいうような顔。
「やあ、どうも」
そいつは口を開いて、こう続けた。
「小悪魔と言います。なんといいますか、ふもとの館の使者、とでもいえば聞こえがよいかと」
私は哨戒の任務を果たさなくてはならない。山に入る存在は、すべからく駆除しろ。そうした掟がある。取り急ぎ、哨戒本部に式神を――。
式神を隠して飛ばした時、目の前のそいつは手をかざして私の連絡手段を撃墜した。普通なら目にもとまらないってのに。
「こまりますねえ」
口元が歪む。
笑ったのか。
「こういうことをされると困るのですよ。犬走椛さん?」
「私の名――」
「知っています。私は知っていますよォ?今日のあなたの運勢から――気になる人の名前まで」
身体が硬直した。
知っているわけがない。
この山でも、私は地味な存在だ。古参ではあるが、何かを成し遂げたというわけでもない。少し前に博麗の巫女と呼ばれる、人間と妖怪の調停委員のような奴を数瞬とどめおいたことがあるだけだ。
「そう緊張なさらないで。ふふ、かわいい」
「ふ、ふざけるな!お前は何だ!何者だ!」
妖艶、とでもいうのだろうか。いやらしい顔に、蕩けたような笑みを浮かべて、小悪魔とやらは近づいてくる。
やめろ――、くるな――。
そう叫んでもいいのに、そのスキすらなく、小悪魔は鼻先まで顔を近づけてきた。うっと言葉が詰まる。
「私は小悪魔。小さい悪魔」
「そ、それが、山に何の用だ!」
怒鳴る、叫ぶ、脅す。そうやって不安と恐怖を振り払おうとする。でもそれをすればするほど、悲鳴のような擦り切れた声になってしまう。
斬り捨ててしまえ、袈裟切りに。
突いてしまえ、串刺しに。
心の声は、そうやって自分に発破をかけ、動こうとする。
なのに――動けない。そいつの蕩けた顔に赤みがかかり、私は目をそらした。
「あらあら、初心、なんですね」
「くっ………」
「いいのですよ。かわいらしい」
そんな言葉が、自分に似つかわしくないことくらい知っている。
小悪魔は、私のあごを人差し指と親指であげ、耳元に唇を近づける。
「射命丸、文」
全身の血が凍りついた。顔は青ざめて、表情も動かない。ただ、くすりと笑われたということは、見抜かれたということだろうか。
「気になっておられるのでしょう?」
「ば、ばかな。そんな………」
なんとかごまかそうとする。
嫌いだ、あんな奴、大嫌いだ。自由奔放な性格も、慇懃無礼な話し方も、小枝のようなすらりとした足も。
「嘘つき。だめですよう。自分に正直でないと。後悔しちゃいますよう?」
「ち、違う。き、貴様!それ以上ここにいると叩き伏せるぞ!」
「おお、怖い怖いぃ……それでは、また」
すう、という音を残して、小悪魔は消えた。
その瞬間、私の腰が砕けるように折れた。力が入らず、ぺたりと地面に膝をついてしまう。
だれだ、あいつは?ふもとから来た?
私の疑問に答えてくれるものなど、一人もいなかった。
【文】
「ふう………」
慣れた手つきで、煙草を詰めてキセルで吸う。倦怠感とともに苦みのある香りが鼻腔をくすぐった。
目の前には真っ白な原稿。調子が出なくてはこんなものだ。烏天狗という生まれのおかげで住めている屋敷だが、こもりきるにはちとつまらない。掃除も大変だ。
「退屈、ですねえ」
そうひとりごちだ。部下の椛でもからかって暇を潰すか。
彼女は私を毛嫌いしているかもしれないが、何のその。私はノーマルな性的趣味を持っているし、その点は彼女も同じだ。そして、嫌われることなど星の数ほどある。私、射命丸文にとって、嫌悪感を向けられるのなんて日常茶飯事だ。
山はそろそろ紅葉がかかっている。
あの子も同じ名前よね。もみじ、紅葉、椛。
変な名前とはいえ、風情があっていい。白い髪と、かみつくような険だった表情の中に、不意を突くようにかわいらしい表情が混じることがある。その顔に、赤みがさすと一層かわいらしく思えるのだが、残念なことについぞその機会に恵まれない。
ざあ、と風が吹く。煙草盆の灰が少し散った。心地のいい風だ。私はそう思ってまた一服した。
【椛】
へんな奴だ。帰れと何度も念を押すのに、小悪魔はしつこい。ああでもないこうでもないと理屈をつけてはついてきた。山道はわざときつい道を通っているのだが、少し浮かんでは歩きを繰り返して苦も無くついてくる。何度か撒こうと試したが、見透かされたようにそれも無意味だった。
「好意があるのでしょう?」
「……………」
「あいたた、無視ですか。でもね、後悔しちゃいますよ。伝えられない思いは、報われないものよりずっとしつこいカビ汚れのようなものですからね」
「…………」
「あらら、これも無視。お目目はついているんですか?千里眼の椛さん」
「おい」
無視もそろそろ限界だ。私は背中についてきていた小悪魔を振り返り、一睨みをする。
少しは怯むかと思ったが、とんだ見込み違いだった。それどころか、彼女は両腕を組んでのくすくす笑いをよりいっそう強調した。
「なんですう?」
「いい加減にしろ。私はそんなことをつゆほども思っておらんわ」
「へええ、それはそれは」
馬鹿なことをおっしゃる。
そう続けるようにくすくす笑いを続けた。
「はあ………なあ、貴様はいい加減なんなんだ?早く帰れ。何をしておるのかは分からんが」
「はは、なんなんだと申されても………小悪魔です」
「なまえは?」
「小悪魔です。と言いますかね、我々は軽々に名前を明かすものじゃないでしょう?椛さん?」
それは確かにその通りだ。妖怪という、体格以上に精神面の影響が色濃い種族は、真名を明かすのをこれ以上なく嫌がる。私だとて、真名を教えたことはない。むろん、文にも。
文に、だって。そうだ、当然そうだ。口が軽いどころではない彼女に教えてしまえば、碌な目に合わないことなど目に見えている。
「それはそうなのだろうがな。かといって、こうも引っ付きまわされると仕事にならぬ」
「だからあ、言っているでしょう?紅魔館の使者だと。そしてそのついでにあなたのお悩み解決のお手伝いをしてあげるって」
「ごめん被るよ。哨戒天狗の一人として、あなたを山には入れさせない」
「ええ、困ったな………誰のもとに行けば許可が取れるんですか?」
「さて、わからんな。私は哨戒天狗であって上層部ではないから」
「では、射命丸さんなら」
ああ、簡単に出るだろうさ。
そう答えるのはそれこそ簡単だ。だが、私はそうしたくなかった。
こいつにそれを教えて、私に何の得がある。お悩み解決?悩みなど、ない、はずだ。
小悪魔は、すぐ答えない私を見て、合点がいったようだった。
「………ま、最初は筋を通すと致しますか。椛さん、また会いましょう」
「ああ、二度とこないでくれ。厄介な客は嫌いでね」
「最後までつっけんどんですね。それでは」
そう言って小悪魔はいつものように消え去った。私は、少し背中が軽くなったような気がしていた。
【文】
客人です、と言われて、私は眉を少し釣り上げた。
客、珍しいこともあるものだ。社交性はある方だと思ってはいるが、歓待することに特に長けてはいない。だから、客人になるのはいつも自分だったから、こうしたことは珍しい。
山の上層部、ここが私の職場だ。三層からなる身分制度の一番上に属すものが住むことが許される上層で、烏天狗たちは情報収集に余念がない。ただ、情報を仕入れても使いどころがないものの方が大多数。だからこそ、新聞製作が一つの娯楽として受け入れられている。
私もそうした趣味と仕事の両立を熱心に行っている性質ではあるのだが、そのためか客人を出迎えるより、客人として他人を訪ねることが多いのだった。
「どちらです。私もそんなに暇じゃないですよ」
暇を持て余して椛をいじくることはあるけれど、実際そうそう暇じゃない。情報収集の仕事は約束と飛び込みが大事なのだ。人脈は魅力と信頼で成り立つ。
「それが、紅魔館というところからのお客様だそうで………」
それを早く言え。気の利かない従僕をにらみつけるが、そんなことをしている暇もない。私はすぐに身支度を整えて、そのお客様とやらのところに向かった。
紅魔館、何年か前に異変を起こし、今でも山の最大懸念される集団だ。別に侵略をたくらむような連中ではないが、暇つぶしと称してちょっかいを出してくることが一番面倒くさい。
当主のレミリアか、はたまた名代としてメイドの十六夜咲夜か。
どちらも厄介この上ない相手だが、私にも私で、それ相応の腕は持っている。丁重にお引き取りを願おう。
そう考えていたのに、目の前にいるのはちょこんとした赤毛に、司書服を着た少女だった。
はて、誰だろうか。私も紅魔館と昵懇というわけではないが、この少女は少なくとも初対面だ。どう対応したものか。
そんなことを考えていると、目の前の少女は朗らかに笑い、ぺこりとお辞儀をした。
「初めまして」
「あ、ああ、初めまして………どちら様ですか?」
「やだなあ、紅魔館の使者ですよ。小悪魔と申します」
聞き覚えがない名前だ。
「そうですか、初めまして、で、良いんですよね?」
「間違いなく初めてですよう」
「それで………何用ですか?」
考え事をする振りをして、小悪魔は口を開いた。
「ええ、山の通行許可をいただきたいのです。目のいい哨戒天狗様に見つかってやかましく言われてしまったので」
椛のことだろうか。確かに彼女は山では一番目がいい。通行許可のないものを通すわけにもいかず、元来真面目な性分を存分に発揮してしまったのだろう。
かわいい子だ。個人的には椛のことを気に入っている。あちらはそうではないようだが。
ま、それはどうでもいい。通行許可はともかくとしても、私が同行するならやいのやいのと喚くものはそうそういないはずだ。小悪魔が何を考えているのかはわからないが、それを突っ込んで時間を浪費するよりも、さっさとついていった方がよほど手っ取り早い。
「通行許可は出せませんが、私がついていきましょう。むろん、変なことをするなら――わかってますよね」
「ははは、もちろん。そんな怖いこと、出来ませんよ」
脅しになるかと思ったが、全く通用せず躱される。一筋縄ではいかないようだ。
とりあえず、私は彼女についていくことにした。妙な真似をしたなら、その時はさっさと殺してしまえばいい。もとより悪魔が死ぬなど考えもつかない。
【椛】
「ふう………参った」
「ははは、椛もたまにはとちるわけだ」
河原で将棋をともにしていたにとりが、にこりと笑って感想戦を始めた。
河城にとりは、椛の友人だ。機械いじりが好きな河童で、いつも自分の工房に入り込んであれやこれやと作っているが、たまに将棋を共にする。
今日はどうにもろくな手が思い浮かばなかった。うなっても、出てくるのは寸詰りの手ばかりで詰めまでの道が見えない。
「どうにもね………」
「まあ、たまには私も勝ちたいよ。ここをこうしてたら………」
「ふうむ、そうか。その手もあったな」
岡目八目じゃないが、妙手が思いつくのは、いつも終わってからだ。している最中はちっとも気づかない妙手が、終わってから待ちわびていたように顔を出す。
「どうしたの?げんきないねえ」
「妙な奴に絡まれてな」
「妙?」
「ああ、赤毛で蕩け顔をした………」
「おやおや、ずいぶんな言いぐさではないですか」
背中がぞわぞわする。百匹のカメムシが背中をはい回ったような嫌悪感。蕩け顔をした小悪魔が、興味津々といった顔で盤上を覗き込んでいた。
「………こいつだよ」
「………」
にとりは小悪魔が顔を出した途端黙り込んでしまった。彼女はひどい人見知りで、知らない人が座に一人でもいれば、貝のように口を閉じてしまう。誰かがパイプ役となればおずおずとではあるがしゃべり始めるが、そうでなくては一両日中まったく言葉を発さないことも珍しくない。
「ふむふむ、和風なチェスですね。よくわかりませんが」
「なんだお前。なぜここにいる。斬り倒すぞ」
「おおこわ。でもだめですよ」
「なぜ」
あれあれ、と小悪魔は指で上を指し示す。
射命丸文がそこにいた。私は舌打ちをして、腰だめに構え、抜き放とうとした太刀前の手を放して息をつく。
「畏まりました。白狼天狗にふれを出しておきますので。小悪魔様、失礼いたしました」
自分なりに慎んだ礼をする。目を丸くしているだろう。先ほどまでのお前扱いから、一転いきなりの様付けだ。
「ふうん……様、ですか。じゃあ」
頭がぐっと踏みつけられる。額が丸石に当たり、目から星が出る。口から得体の知れないうめきが出た。
「もうすこし頭を下げたらいかがですか。下僕でももう少し謙虚ですよ」
「ちょ………」
にとりが止めようと声を出したのがわかる。みかけとは違い、意外と怪力らしく頭を動かせない。
下僕、か。
間違いない。私は生まれついての下僕だ。射命丸文という存在に仕え続け、おそらくは死ぬまでそれで終わるはずだ。この扱いが運命だというなら、それは仕方なく受け入れなくてはならない。お客様のわがままも。
「そこまでですよ」
足が急に離れ、頭が軽くなる。少々泥がついていたが、落とせば問題はない。
「私の大切な子に、何してくれているんですかねえ」
文が小悪魔の足を掴んで宙づりにしていた。いつの間にやら浮かんでいて、当の小悪魔は動揺した顔を隠せなくなっていた。
「あ、あわわ、あわわわわ!」
「小悪魔さん、でしたっけ?」
「や、やや、やめてー!降ろしてェ!」
ああ、あれは怖い。自分が飛べるということも忘れてしまうくらいに動揺してしまうことしきり、だろう。天井代わりに川面と玉石砂利の並ぶ光景など見たくもない。
「あなたが紅魔館の使者、ということで大きな顔をするというのなら、こちらもそれ相応の対応をさせていただきます。彼女は私の下僕で、あなたのものではありません。彼女を蹴るというのは私の顔を潰したも同然だと心得てください」
「はいはいはい!わかったわかったわかったってえ!だだだ、だからあああああ!」
小悪魔をたかだかと上にあげた挙句、一回手を離す。重力にしたがい、川面まで一直線でおちていき―――ぶつかる寸前で足を掴む。天狗が人間相手に使ういたずら脅し。小悪魔には通用するとは思わなかったらしく、文はばつの悪そうな顔をした。小悪魔が泡を吹いていた。空を飛べるくせに混乱すると頭の血の巡りが悪くなるのかもしれない。
「ありゃりゃ、気絶しちゃいました」
「文様」
「うん」
「ありがとうございます」
嫌いな上司には違いないが、礼の類はきっちりと行う。私なりの流儀だ。
「あはは………そう、ですか。こちらに寝かせておきますので」
小悪魔を、丁重に寝ころばせて文は去っていった。
「いやはや………破天荒な人だねえ。椛、大丈夫」
知り合いしかいなくなったためか、にとりが久々に声を出す。
「そうだな。慣れているから」
文のように、こちらが嫌ってもわれ関せずとばかりにいてくれる人ばかりではない。上層の天狗の中には白狼天狗をいじめることが好きな性倒錯者もいる。今は緩くなったが、椛の身体についている傷は、昔日の烏天狗によってつけられたものの方が圧倒的に多い。
慣れている。間違いなく。
小悪魔はうなされるように寝ころんでいたが、このままにしておくわけにもいかず、私の小屋に連れて行った。
小屋は狭い。
囲炉裏を中心に、支給された制服と太刀、弓に矢、将棋盤。それが五畳半の中に納まっている。
そこに小悪魔を寝かせたため、窮屈になった。人は寝かせれば一畳を取るからだ。
「ん………」
私が夕食の下拵えを終え、将棋の練習をしていたころになって小悪魔は目を覚ました。
「ここは?」
「私の家だよ。そろそろ帰るかね」
「あ、これはこれは。変にお世話になりまして」
「そうかい。しかし笑ったね。あなたが取り乱すところは見ていて楽しかったよ」
「あはは……そうだ」
すっくと立ちあがり、小悪魔は私の前に座る。将棋を打つ、ということか?
「できるのか?」
「ま、定跡程度なら………」
奇妙な取り合わせだが、将棋を始める。
小悪魔の手は奇妙なほど定跡通り、そのままだった。少しは外れることもあるものだが、小悪魔の手はまったく筋道が通っていて無駄がない。ただ、定跡続きでそこをかき乱せば、勝つのは簡単だった。
「これで、しまいかね」
「あらあら。チェスのようにはいきませんね」
「そうかい」
「ところで………あなたのお好きな」
「違う」
「まだ何も言ってませんよう」
「違うと言ったら違うんだ」
しつこい、ほんとにもうこいつは。
いい加減にしてくれ。
私は将棋盤を覗き込んで感想戦でもしようとしていたが、彼女の方にはそうした考えがないようだった。ささやくような声で私に話しかけてばかりだ。
「尊敬できる上司という奴ですね。非常にいい人です。私の上司は本の虫でしてね。ほっといたら一週間二週間平気で絶食してしまうような人ですから、いかんせん仕え甲斐がないのですよ。全く口を開かないから軽口も苦手でしてね。いやはやお羨ましい」
「うるさいなあ。外からどう見えるか知らないが、私にとっては厄介極まりないね。だいたい自由奔放極まりないからこっちはどう接していいか分からんのだ」
「ほほほ、そんなものですか」
「………?」
どうもおかしい、口が滑り過ぎる。まさか。
「なにか、したか?」
「んふふ、どうでしょうかねえ」
とらえどころのない目の前のこいつは、間違いなく何かしやがった。口がいつもより滑らかに動く。くそ、投げ捨てておけばよかった。そうすれば、こんな目にあわなかったってのに。
「ま、いいではないですか。あなたは、少々堅すぎるのです。こちらからすれば、たかだか交渉事一つで肩が凝るなどまっぴらごめんですから。私の暇つぶしの相手をしてくださいな」
「断る」
「それが出来れば私の存在意義がなくなりますよ。それで、上司の射命丸さんをどう思っているのです?」
「う、うるさい。どうとも思っておらんわ!」
「どう、思っているのです」
覗き込まれる。小悪魔の赤い瞳が私の両目と合わさり、なぜだか、また口が滑る。
「な、な………」
「いいのですよ。正直に、ね。話してください」
「そ、そのう……うらやましい、とは思う」
「うらやましい、なにが?」
「わ、たしは……怖がりだから。彼女の自由奔放でいられる度胸が」
するすると言葉が出てくる。もうこの際だ。どうせ、ろくなことにならないのなら、どこまでも言ってしまえばいい。
「………斬り合いをする度胸はあるのに?」
「そんなのは、違う。臆病だからだ」
「臆病」
「そうだよ。臆病さ。ひとたび侵入者が来れば戦わなくてはならない。上司とのいさかいにも堪えなきゃならない。でも、それは全部言い訳だ、建前だ」
「ふむ?」
「怖かったら逃げたらいい、堪えたくない諍いがあるのならどこかに行ってしまえばいい。山は狭くても、幻想郷は広い。だが、そうしないのは、私に現状を変える度胸がないからだ。そうした努力をしたくないからだ」
「ははあ、なるほど」
「だけど射命丸様は違う。自分の好きなことを直視する勇気がある。それは、あの人に行動を行える勇気があるからだ」
そうだ。そうなんだ。あの人が嫌いなんじゃない。
まぶしかった。自分の好きなことに取り組み、それを全力で行う。そこに、ありもしない将来を恐れない。
こうしたらこうなるだろう。ああしたら失敗するかもしれない。
彼女にはこうした小賢しい先読みがない。むろんあるにはあるが、前に進むという基本がすでにある。私のように、現状に甘えて何からも逃げない。
彼女に対する羨望すら、私は嫉妬に変えて。
それで何が残るのだ、前に進めるか。
呆れた声と、どれだけ付き合っただろう。今でもそうだ。
朝早く起きるのも、鍛錬を行うのも、哨戒をするのも。
それはただの惰性だ。昨日と同じ一日を誰よりも嫌っているはずなのに甘んじて受け入れてしまう。
「な、る、ほ、ど……へえええ」
「な、なんだ。おかしいか。そうだろうそうだろう。私は、この通り臆病でな。さあさあ笑え!」
「ややや、ままま、ふふふ……では、それを壊してみては?」
「こわ、す?」
「ええ――少しの間、お借りします」
赤い目が、瞬く。単調を思わせる早い間隔で瞬くそれに私は酔ったようになって、視界が揺らめいた。
【文】
小悪魔が、椛を携えてにこやかに来訪したのは、もうすぐ夜明けの頃だった。何となく起きてしまった私は、縁側で緑茶を飲んでいた。もうすぐ朝焼けが見れる。楽しみだった。朝焼けと夕焼けはまるで一日のはじまりとおわりの幕のように、表裏一体だが異なる意味合いを持つ。
朝焼けを見て、一日の始まりを感じ、よし仕事でもするかと思う。私にとってそれは大切なこと、だったのだが。小悪魔のおかげか、その楽しみは失われた。縁側に座った私を前にして、小悪魔と椛が立っている。
「いやいやいや。昨日は大変お世話になりました。おかげで貴重な経験をさせてもらいましたよ」
「どういたしまして。それでこんな朝早くからどうし………」
――ピッ。
とっさに後ろに反転し、切り返して前を向く。居合刀を横なぎにした椛がそこにいた。
「ななっ!?」
「ああ……外れ、ました、か」
「椛?」
ほほから血が流れだす。少し深く切れてしまったらしい。ぬぐえどぬぐえど血は噴出して、とどまらない。
なぜだ、椛がこんなことを。
心当たり――いやいやないない。くだらない悪戯をしたとはいえ、それが首切りまで行くようなものではないはずだ。
「しゃ、めい、ま、るさま……ご、めん」
「!?」
横なぎから打払い、袈裟唐竹――凄まじい連撃に、私は防戦一方。なにせ、相手が相手だ。犬走椛は山では一流の使い手で名が知られている。そんな誇り高い部下を持ててうれしかったのだが――今では、そうもいっていられない。ふすまをぶち抜き部屋に入って、武器を探すが、何もない。
しかし、椛の様子が何かおかしい。操られている?あの小悪魔が何かをしたか?
いや、今はそんなことを気にしている暇すらない。とにかくこの場を抜け出さなくては。
私は、とりあえずその場にあった文机と座椅子を椛に投げつける。少しでも時間稼ぎになればと思ったが、全く何の目くらましにもならなかったようで、簡単に斬られ目をそらすことすらできない。
後ろを向いて、玄関まで遁走する――無理だ。椛から逃れられない。
私は結局椛と正対して、じりじりと距離を詰めたり開けたりを繰り返すしかなかった。
どうしてだ。
どうしてこんな風になる。私と椛はいつもこうだ。互いに横目で見つめ合い、素直に正対しようとすると目を背けてしまう。気味が悪いし、不愉快だけど。
「しゃ、めいま、るさまは」
「………………?」
「眩しい、んです」
まぶしい?なんだ、何の話をしている?
「好きなことを、好きなようになさる。それは、私がやろうとしたってできないことなんです」
「……………」
「あなたには、わかりませんよ。烏天狗の射命丸様」
落ち着いたように言葉を発する椛はつきものが落ちたかのように冷静だった。
操られて、はないのだろう。ただ、彼女の目は暗くよどみ、情けないことを吐露する屈辱を甘んじて受けているように見えた。
「うらやましい、まぶしい………私の千里眼が潰されますよ。あなたを遠ざけるのは、あなたを見ていたくないからです。嫌うのは近づいてほしくないからです。私にできないことはたくさんありますが、やりたいと思うこともまた山ほどあるのです。あなたはその山に挑戦できる。失敗を恥じない。私とは違う。そう思うと………やはり近くにいてほしくありません」
「………そう、ですか」
できないけどやりたいことは山ほどある、か。
椛がこんなことを思っていたなんて知らなかった。私の集める情報の中に、椛のものももちろんある。そこにあるのは、おおよそが好意的なものだった。
武道に精通し、哨戒天狗でも一二をあらそう実力者。
できる限り荒事を避ける穏やかな性質。
上意下達の組織での滑りのいい歯車。
だが、彼女はそうした自分にまるで気づいていない。自分のできることはできて当然だからこそ、誇らない、自慢しない、自信が持てない。
じゃあ、逆ならどうだ。彼女が簡単にできることが私にできないことというのもまた当然ある。そこをすり合わせるのが情報の使い方じゃないのか?
「私は………情報の収集家です。あなたのことは、その情報を鑑みても嫌いじゃないですよ」
「なら、私はそれすら気づかない愚か者です………申し訳ありません」
椛は帰ろうとした。それを私が止める。
「お互い様なんですよ、椛。あなたの素敵なところを、自分が気づかなかったり。ダメなところが、これ以上なく見えてしまうことだってもちろんよくあることなんです。情報は、持っているだけじゃダメなんです。分析して、照らし合わせて――そうしないと何もかも無駄なんですよ」
「………私は、そうしたところに触れることが許されないので」
「山の情報じゃありません。あなた自身のです。私のです。一人一人が持つ情報は、誰だって持っています。それを分析したりしないと、宝の持ち腐れですよ」
だから、と私は続ける。
「お互い言いあいましょう。コミュニケーションは情報交換です。お互いを分析し合って、わかり合う。それが、理解なんですよ」
※
【後日】
「いやあ、骨が折れました」
紅魔館で、小悪魔は愚痴るようにそういった。
「自業自得」
自分の主人であるパチュリーは表情を変えず、本から目をそらさずにそう答えた。
「なんでそんなめんどくさいことを?」
「暇つぶしですよパチュリー様」
こきこきと首を鳴らしながら、小悪魔はそう答える。
「小悪魔ってのは、つまりそういうものなんですよ。人の心の隙間に入り込んであれこれ遊ぶ。だからこそ、小さくないとダメなんです」
「ああ、そういうこと」
変な奴だった。
そいつは、とにかく変な奴だった。
髪は赤い。西洋の言葉でクリムゾンとでも訳すのだろうか、深い赤毛だ。
体はふつう。一般的な人間の女性といった背丈。
そして、嫌な目をしていた。考え事をまとめ切り、自分の言葉で人をたぶらかす自信があるとでもいうような顔。
「やあ、どうも」
そいつは口を開いて、こう続けた。
「小悪魔と言います。なんといいますか、ふもとの館の使者、とでもいえば聞こえがよいかと」
私は哨戒の任務を果たさなくてはならない。山に入る存在は、すべからく駆除しろ。そうした掟がある。取り急ぎ、哨戒本部に式神を――。
式神を隠して飛ばした時、目の前のそいつは手をかざして私の連絡手段を撃墜した。普通なら目にもとまらないってのに。
「こまりますねえ」
口元が歪む。
笑ったのか。
「こういうことをされると困るのですよ。犬走椛さん?」
「私の名――」
「知っています。私は知っていますよォ?今日のあなたの運勢から――気になる人の名前まで」
身体が硬直した。
知っているわけがない。
この山でも、私は地味な存在だ。古参ではあるが、何かを成し遂げたというわけでもない。少し前に博麗の巫女と呼ばれる、人間と妖怪の調停委員のような奴を数瞬とどめおいたことがあるだけだ。
「そう緊張なさらないで。ふふ、かわいい」
「ふ、ふざけるな!お前は何だ!何者だ!」
妖艶、とでもいうのだろうか。いやらしい顔に、蕩けたような笑みを浮かべて、小悪魔とやらは近づいてくる。
やめろ――、くるな――。
そう叫んでもいいのに、そのスキすらなく、小悪魔は鼻先まで顔を近づけてきた。うっと言葉が詰まる。
「私は小悪魔。小さい悪魔」
「そ、それが、山に何の用だ!」
怒鳴る、叫ぶ、脅す。そうやって不安と恐怖を振り払おうとする。でもそれをすればするほど、悲鳴のような擦り切れた声になってしまう。
斬り捨ててしまえ、袈裟切りに。
突いてしまえ、串刺しに。
心の声は、そうやって自分に発破をかけ、動こうとする。
なのに――動けない。そいつの蕩けた顔に赤みがかかり、私は目をそらした。
「あらあら、初心、なんですね」
「くっ………」
「いいのですよ。かわいらしい」
そんな言葉が、自分に似つかわしくないことくらい知っている。
小悪魔は、私のあごを人差し指と親指であげ、耳元に唇を近づける。
「射命丸、文」
全身の血が凍りついた。顔は青ざめて、表情も動かない。ただ、くすりと笑われたということは、見抜かれたということだろうか。
「気になっておられるのでしょう?」
「ば、ばかな。そんな………」
なんとかごまかそうとする。
嫌いだ、あんな奴、大嫌いだ。自由奔放な性格も、慇懃無礼な話し方も、小枝のようなすらりとした足も。
「嘘つき。だめですよう。自分に正直でないと。後悔しちゃいますよう?」
「ち、違う。き、貴様!それ以上ここにいると叩き伏せるぞ!」
「おお、怖い怖いぃ……それでは、また」
すう、という音を残して、小悪魔は消えた。
その瞬間、私の腰が砕けるように折れた。力が入らず、ぺたりと地面に膝をついてしまう。
だれだ、あいつは?ふもとから来た?
私の疑問に答えてくれるものなど、一人もいなかった。
【文】
「ふう………」
慣れた手つきで、煙草を詰めてキセルで吸う。倦怠感とともに苦みのある香りが鼻腔をくすぐった。
目の前には真っ白な原稿。調子が出なくてはこんなものだ。烏天狗という生まれのおかげで住めている屋敷だが、こもりきるにはちとつまらない。掃除も大変だ。
「退屈、ですねえ」
そうひとりごちだ。部下の椛でもからかって暇を潰すか。
彼女は私を毛嫌いしているかもしれないが、何のその。私はノーマルな性的趣味を持っているし、その点は彼女も同じだ。そして、嫌われることなど星の数ほどある。私、射命丸文にとって、嫌悪感を向けられるのなんて日常茶飯事だ。
山はそろそろ紅葉がかかっている。
あの子も同じ名前よね。もみじ、紅葉、椛。
変な名前とはいえ、風情があっていい。白い髪と、かみつくような険だった表情の中に、不意を突くようにかわいらしい表情が混じることがある。その顔に、赤みがさすと一層かわいらしく思えるのだが、残念なことについぞその機会に恵まれない。
ざあ、と風が吹く。煙草盆の灰が少し散った。心地のいい風だ。私はそう思ってまた一服した。
【椛】
へんな奴だ。帰れと何度も念を押すのに、小悪魔はしつこい。ああでもないこうでもないと理屈をつけてはついてきた。山道はわざときつい道を通っているのだが、少し浮かんでは歩きを繰り返して苦も無くついてくる。何度か撒こうと試したが、見透かされたようにそれも無意味だった。
「好意があるのでしょう?」
「……………」
「あいたた、無視ですか。でもね、後悔しちゃいますよ。伝えられない思いは、報われないものよりずっとしつこいカビ汚れのようなものですからね」
「…………」
「あらら、これも無視。お目目はついているんですか?千里眼の椛さん」
「おい」
無視もそろそろ限界だ。私は背中についてきていた小悪魔を振り返り、一睨みをする。
少しは怯むかと思ったが、とんだ見込み違いだった。それどころか、彼女は両腕を組んでのくすくす笑いをよりいっそう強調した。
「なんですう?」
「いい加減にしろ。私はそんなことをつゆほども思っておらんわ」
「へええ、それはそれは」
馬鹿なことをおっしゃる。
そう続けるようにくすくす笑いを続けた。
「はあ………なあ、貴様はいい加減なんなんだ?早く帰れ。何をしておるのかは分からんが」
「はは、なんなんだと申されても………小悪魔です」
「なまえは?」
「小悪魔です。と言いますかね、我々は軽々に名前を明かすものじゃないでしょう?椛さん?」
それは確かにその通りだ。妖怪という、体格以上に精神面の影響が色濃い種族は、真名を明かすのをこれ以上なく嫌がる。私だとて、真名を教えたことはない。むろん、文にも。
文に、だって。そうだ、当然そうだ。口が軽いどころではない彼女に教えてしまえば、碌な目に合わないことなど目に見えている。
「それはそうなのだろうがな。かといって、こうも引っ付きまわされると仕事にならぬ」
「だからあ、言っているでしょう?紅魔館の使者だと。そしてそのついでにあなたのお悩み解決のお手伝いをしてあげるって」
「ごめん被るよ。哨戒天狗の一人として、あなたを山には入れさせない」
「ええ、困ったな………誰のもとに行けば許可が取れるんですか?」
「さて、わからんな。私は哨戒天狗であって上層部ではないから」
「では、射命丸さんなら」
ああ、簡単に出るだろうさ。
そう答えるのはそれこそ簡単だ。だが、私はそうしたくなかった。
こいつにそれを教えて、私に何の得がある。お悩み解決?悩みなど、ない、はずだ。
小悪魔は、すぐ答えない私を見て、合点がいったようだった。
「………ま、最初は筋を通すと致しますか。椛さん、また会いましょう」
「ああ、二度とこないでくれ。厄介な客は嫌いでね」
「最後までつっけんどんですね。それでは」
そう言って小悪魔はいつものように消え去った。私は、少し背中が軽くなったような気がしていた。
【文】
客人です、と言われて、私は眉を少し釣り上げた。
客、珍しいこともあるものだ。社交性はある方だと思ってはいるが、歓待することに特に長けてはいない。だから、客人になるのはいつも自分だったから、こうしたことは珍しい。
山の上層部、ここが私の職場だ。三層からなる身分制度の一番上に属すものが住むことが許される上層で、烏天狗たちは情報収集に余念がない。ただ、情報を仕入れても使いどころがないものの方が大多数。だからこそ、新聞製作が一つの娯楽として受け入れられている。
私もそうした趣味と仕事の両立を熱心に行っている性質ではあるのだが、そのためか客人を出迎えるより、客人として他人を訪ねることが多いのだった。
「どちらです。私もそんなに暇じゃないですよ」
暇を持て余して椛をいじくることはあるけれど、実際そうそう暇じゃない。情報収集の仕事は約束と飛び込みが大事なのだ。人脈は魅力と信頼で成り立つ。
「それが、紅魔館というところからのお客様だそうで………」
それを早く言え。気の利かない従僕をにらみつけるが、そんなことをしている暇もない。私はすぐに身支度を整えて、そのお客様とやらのところに向かった。
紅魔館、何年か前に異変を起こし、今でも山の最大懸念される集団だ。別に侵略をたくらむような連中ではないが、暇つぶしと称してちょっかいを出してくることが一番面倒くさい。
当主のレミリアか、はたまた名代としてメイドの十六夜咲夜か。
どちらも厄介この上ない相手だが、私にも私で、それ相応の腕は持っている。丁重にお引き取りを願おう。
そう考えていたのに、目の前にいるのはちょこんとした赤毛に、司書服を着た少女だった。
はて、誰だろうか。私も紅魔館と昵懇というわけではないが、この少女は少なくとも初対面だ。どう対応したものか。
そんなことを考えていると、目の前の少女は朗らかに笑い、ぺこりとお辞儀をした。
「初めまして」
「あ、ああ、初めまして………どちら様ですか?」
「やだなあ、紅魔館の使者ですよ。小悪魔と申します」
聞き覚えがない名前だ。
「そうですか、初めまして、で、良いんですよね?」
「間違いなく初めてですよう」
「それで………何用ですか?」
考え事をする振りをして、小悪魔は口を開いた。
「ええ、山の通行許可をいただきたいのです。目のいい哨戒天狗様に見つかってやかましく言われてしまったので」
椛のことだろうか。確かに彼女は山では一番目がいい。通行許可のないものを通すわけにもいかず、元来真面目な性分を存分に発揮してしまったのだろう。
かわいい子だ。個人的には椛のことを気に入っている。あちらはそうではないようだが。
ま、それはどうでもいい。通行許可はともかくとしても、私が同行するならやいのやいのと喚くものはそうそういないはずだ。小悪魔が何を考えているのかはわからないが、それを突っ込んで時間を浪費するよりも、さっさとついていった方がよほど手っ取り早い。
「通行許可は出せませんが、私がついていきましょう。むろん、変なことをするなら――わかってますよね」
「ははは、もちろん。そんな怖いこと、出来ませんよ」
脅しになるかと思ったが、全く通用せず躱される。一筋縄ではいかないようだ。
とりあえず、私は彼女についていくことにした。妙な真似をしたなら、その時はさっさと殺してしまえばいい。もとより悪魔が死ぬなど考えもつかない。
【椛】
「ふう………参った」
「ははは、椛もたまにはとちるわけだ」
河原で将棋をともにしていたにとりが、にこりと笑って感想戦を始めた。
河城にとりは、椛の友人だ。機械いじりが好きな河童で、いつも自分の工房に入り込んであれやこれやと作っているが、たまに将棋を共にする。
今日はどうにもろくな手が思い浮かばなかった。うなっても、出てくるのは寸詰りの手ばかりで詰めまでの道が見えない。
「どうにもね………」
「まあ、たまには私も勝ちたいよ。ここをこうしてたら………」
「ふうむ、そうか。その手もあったな」
岡目八目じゃないが、妙手が思いつくのは、いつも終わってからだ。している最中はちっとも気づかない妙手が、終わってから待ちわびていたように顔を出す。
「どうしたの?げんきないねえ」
「妙な奴に絡まれてな」
「妙?」
「ああ、赤毛で蕩け顔をした………」
「おやおや、ずいぶんな言いぐさではないですか」
背中がぞわぞわする。百匹のカメムシが背中をはい回ったような嫌悪感。蕩け顔をした小悪魔が、興味津々といった顔で盤上を覗き込んでいた。
「………こいつだよ」
「………」
にとりは小悪魔が顔を出した途端黙り込んでしまった。彼女はひどい人見知りで、知らない人が座に一人でもいれば、貝のように口を閉じてしまう。誰かがパイプ役となればおずおずとではあるがしゃべり始めるが、そうでなくては一両日中まったく言葉を発さないことも珍しくない。
「ふむふむ、和風なチェスですね。よくわかりませんが」
「なんだお前。なぜここにいる。斬り倒すぞ」
「おおこわ。でもだめですよ」
「なぜ」
あれあれ、と小悪魔は指で上を指し示す。
射命丸文がそこにいた。私は舌打ちをして、腰だめに構え、抜き放とうとした太刀前の手を放して息をつく。
「畏まりました。白狼天狗にふれを出しておきますので。小悪魔様、失礼いたしました」
自分なりに慎んだ礼をする。目を丸くしているだろう。先ほどまでのお前扱いから、一転いきなりの様付けだ。
「ふうん……様、ですか。じゃあ」
頭がぐっと踏みつけられる。額が丸石に当たり、目から星が出る。口から得体の知れないうめきが出た。
「もうすこし頭を下げたらいかがですか。下僕でももう少し謙虚ですよ」
「ちょ………」
にとりが止めようと声を出したのがわかる。みかけとは違い、意外と怪力らしく頭を動かせない。
下僕、か。
間違いない。私は生まれついての下僕だ。射命丸文という存在に仕え続け、おそらくは死ぬまでそれで終わるはずだ。この扱いが運命だというなら、それは仕方なく受け入れなくてはならない。お客様のわがままも。
「そこまでですよ」
足が急に離れ、頭が軽くなる。少々泥がついていたが、落とせば問題はない。
「私の大切な子に、何してくれているんですかねえ」
文が小悪魔の足を掴んで宙づりにしていた。いつの間にやら浮かんでいて、当の小悪魔は動揺した顔を隠せなくなっていた。
「あ、あわわ、あわわわわ!」
「小悪魔さん、でしたっけ?」
「や、やや、やめてー!降ろしてェ!」
ああ、あれは怖い。自分が飛べるということも忘れてしまうくらいに動揺してしまうことしきり、だろう。天井代わりに川面と玉石砂利の並ぶ光景など見たくもない。
「あなたが紅魔館の使者、ということで大きな顔をするというのなら、こちらもそれ相応の対応をさせていただきます。彼女は私の下僕で、あなたのものではありません。彼女を蹴るというのは私の顔を潰したも同然だと心得てください」
「はいはいはい!わかったわかったわかったってえ!だだだ、だからあああああ!」
小悪魔をたかだかと上にあげた挙句、一回手を離す。重力にしたがい、川面まで一直線でおちていき―――ぶつかる寸前で足を掴む。天狗が人間相手に使ういたずら脅し。小悪魔には通用するとは思わなかったらしく、文はばつの悪そうな顔をした。小悪魔が泡を吹いていた。空を飛べるくせに混乱すると頭の血の巡りが悪くなるのかもしれない。
「ありゃりゃ、気絶しちゃいました」
「文様」
「うん」
「ありがとうございます」
嫌いな上司には違いないが、礼の類はきっちりと行う。私なりの流儀だ。
「あはは………そう、ですか。こちらに寝かせておきますので」
小悪魔を、丁重に寝ころばせて文は去っていった。
「いやはや………破天荒な人だねえ。椛、大丈夫」
知り合いしかいなくなったためか、にとりが久々に声を出す。
「そうだな。慣れているから」
文のように、こちらが嫌ってもわれ関せずとばかりにいてくれる人ばかりではない。上層の天狗の中には白狼天狗をいじめることが好きな性倒錯者もいる。今は緩くなったが、椛の身体についている傷は、昔日の烏天狗によってつけられたものの方が圧倒的に多い。
慣れている。間違いなく。
小悪魔はうなされるように寝ころんでいたが、このままにしておくわけにもいかず、私の小屋に連れて行った。
小屋は狭い。
囲炉裏を中心に、支給された制服と太刀、弓に矢、将棋盤。それが五畳半の中に納まっている。
そこに小悪魔を寝かせたため、窮屈になった。人は寝かせれば一畳を取るからだ。
「ん………」
私が夕食の下拵えを終え、将棋の練習をしていたころになって小悪魔は目を覚ました。
「ここは?」
「私の家だよ。そろそろ帰るかね」
「あ、これはこれは。変にお世話になりまして」
「そうかい。しかし笑ったね。あなたが取り乱すところは見ていて楽しかったよ」
「あはは……そうだ」
すっくと立ちあがり、小悪魔は私の前に座る。将棋を打つ、ということか?
「できるのか?」
「ま、定跡程度なら………」
奇妙な取り合わせだが、将棋を始める。
小悪魔の手は奇妙なほど定跡通り、そのままだった。少しは外れることもあるものだが、小悪魔の手はまったく筋道が通っていて無駄がない。ただ、定跡続きでそこをかき乱せば、勝つのは簡単だった。
「これで、しまいかね」
「あらあら。チェスのようにはいきませんね」
「そうかい」
「ところで………あなたのお好きな」
「違う」
「まだ何も言ってませんよう」
「違うと言ったら違うんだ」
しつこい、ほんとにもうこいつは。
いい加減にしてくれ。
私は将棋盤を覗き込んで感想戦でもしようとしていたが、彼女の方にはそうした考えがないようだった。ささやくような声で私に話しかけてばかりだ。
「尊敬できる上司という奴ですね。非常にいい人です。私の上司は本の虫でしてね。ほっといたら一週間二週間平気で絶食してしまうような人ですから、いかんせん仕え甲斐がないのですよ。全く口を開かないから軽口も苦手でしてね。いやはやお羨ましい」
「うるさいなあ。外からどう見えるか知らないが、私にとっては厄介極まりないね。だいたい自由奔放極まりないからこっちはどう接していいか分からんのだ」
「ほほほ、そんなものですか」
「………?」
どうもおかしい、口が滑り過ぎる。まさか。
「なにか、したか?」
「んふふ、どうでしょうかねえ」
とらえどころのない目の前のこいつは、間違いなく何かしやがった。口がいつもより滑らかに動く。くそ、投げ捨てておけばよかった。そうすれば、こんな目にあわなかったってのに。
「ま、いいではないですか。あなたは、少々堅すぎるのです。こちらからすれば、たかだか交渉事一つで肩が凝るなどまっぴらごめんですから。私の暇つぶしの相手をしてくださいな」
「断る」
「それが出来れば私の存在意義がなくなりますよ。それで、上司の射命丸さんをどう思っているのです?」
「う、うるさい。どうとも思っておらんわ!」
「どう、思っているのです」
覗き込まれる。小悪魔の赤い瞳が私の両目と合わさり、なぜだか、また口が滑る。
「な、な………」
「いいのですよ。正直に、ね。話してください」
「そ、そのう……うらやましい、とは思う」
「うらやましい、なにが?」
「わ、たしは……怖がりだから。彼女の自由奔放でいられる度胸が」
するすると言葉が出てくる。もうこの際だ。どうせ、ろくなことにならないのなら、どこまでも言ってしまえばいい。
「………斬り合いをする度胸はあるのに?」
「そんなのは、違う。臆病だからだ」
「臆病」
「そうだよ。臆病さ。ひとたび侵入者が来れば戦わなくてはならない。上司とのいさかいにも堪えなきゃならない。でも、それは全部言い訳だ、建前だ」
「ふむ?」
「怖かったら逃げたらいい、堪えたくない諍いがあるのならどこかに行ってしまえばいい。山は狭くても、幻想郷は広い。だが、そうしないのは、私に現状を変える度胸がないからだ。そうした努力をしたくないからだ」
「ははあ、なるほど」
「だけど射命丸様は違う。自分の好きなことを直視する勇気がある。それは、あの人に行動を行える勇気があるからだ」
そうだ。そうなんだ。あの人が嫌いなんじゃない。
まぶしかった。自分の好きなことに取り組み、それを全力で行う。そこに、ありもしない将来を恐れない。
こうしたらこうなるだろう。ああしたら失敗するかもしれない。
彼女にはこうした小賢しい先読みがない。むろんあるにはあるが、前に進むという基本がすでにある。私のように、現状に甘えて何からも逃げない。
彼女に対する羨望すら、私は嫉妬に変えて。
それで何が残るのだ、前に進めるか。
呆れた声と、どれだけ付き合っただろう。今でもそうだ。
朝早く起きるのも、鍛錬を行うのも、哨戒をするのも。
それはただの惰性だ。昨日と同じ一日を誰よりも嫌っているはずなのに甘んじて受け入れてしまう。
「な、る、ほ、ど……へえええ」
「な、なんだ。おかしいか。そうだろうそうだろう。私は、この通り臆病でな。さあさあ笑え!」
「ややや、ままま、ふふふ……では、それを壊してみては?」
「こわ、す?」
「ええ――少しの間、お借りします」
赤い目が、瞬く。単調を思わせる早い間隔で瞬くそれに私は酔ったようになって、視界が揺らめいた。
【文】
小悪魔が、椛を携えてにこやかに来訪したのは、もうすぐ夜明けの頃だった。何となく起きてしまった私は、縁側で緑茶を飲んでいた。もうすぐ朝焼けが見れる。楽しみだった。朝焼けと夕焼けはまるで一日のはじまりとおわりの幕のように、表裏一体だが異なる意味合いを持つ。
朝焼けを見て、一日の始まりを感じ、よし仕事でもするかと思う。私にとってそれは大切なこと、だったのだが。小悪魔のおかげか、その楽しみは失われた。縁側に座った私を前にして、小悪魔と椛が立っている。
「いやいやいや。昨日は大変お世話になりました。おかげで貴重な経験をさせてもらいましたよ」
「どういたしまして。それでこんな朝早くからどうし………」
――ピッ。
とっさに後ろに反転し、切り返して前を向く。居合刀を横なぎにした椛がそこにいた。
「ななっ!?」
「ああ……外れ、ました、か」
「椛?」
ほほから血が流れだす。少し深く切れてしまったらしい。ぬぐえどぬぐえど血は噴出して、とどまらない。
なぜだ、椛がこんなことを。
心当たり――いやいやないない。くだらない悪戯をしたとはいえ、それが首切りまで行くようなものではないはずだ。
「しゃ、めい、ま、るさま……ご、めん」
「!?」
横なぎから打払い、袈裟唐竹――凄まじい連撃に、私は防戦一方。なにせ、相手が相手だ。犬走椛は山では一流の使い手で名が知られている。そんな誇り高い部下を持ててうれしかったのだが――今では、そうもいっていられない。ふすまをぶち抜き部屋に入って、武器を探すが、何もない。
しかし、椛の様子が何かおかしい。操られている?あの小悪魔が何かをしたか?
いや、今はそんなことを気にしている暇すらない。とにかくこの場を抜け出さなくては。
私は、とりあえずその場にあった文机と座椅子を椛に投げつける。少しでも時間稼ぎになればと思ったが、全く何の目くらましにもならなかったようで、簡単に斬られ目をそらすことすらできない。
後ろを向いて、玄関まで遁走する――無理だ。椛から逃れられない。
私は結局椛と正対して、じりじりと距離を詰めたり開けたりを繰り返すしかなかった。
どうしてだ。
どうしてこんな風になる。私と椛はいつもこうだ。互いに横目で見つめ合い、素直に正対しようとすると目を背けてしまう。気味が悪いし、不愉快だけど。
「しゃ、めいま、るさまは」
「………………?」
「眩しい、んです」
まぶしい?なんだ、何の話をしている?
「好きなことを、好きなようになさる。それは、私がやろうとしたってできないことなんです」
「……………」
「あなたには、わかりませんよ。烏天狗の射命丸様」
落ち着いたように言葉を発する椛はつきものが落ちたかのように冷静だった。
操られて、はないのだろう。ただ、彼女の目は暗くよどみ、情けないことを吐露する屈辱を甘んじて受けているように見えた。
「うらやましい、まぶしい………私の千里眼が潰されますよ。あなたを遠ざけるのは、あなたを見ていたくないからです。嫌うのは近づいてほしくないからです。私にできないことはたくさんありますが、やりたいと思うこともまた山ほどあるのです。あなたはその山に挑戦できる。失敗を恥じない。私とは違う。そう思うと………やはり近くにいてほしくありません」
「………そう、ですか」
できないけどやりたいことは山ほどある、か。
椛がこんなことを思っていたなんて知らなかった。私の集める情報の中に、椛のものももちろんある。そこにあるのは、おおよそが好意的なものだった。
武道に精通し、哨戒天狗でも一二をあらそう実力者。
できる限り荒事を避ける穏やかな性質。
上意下達の組織での滑りのいい歯車。
だが、彼女はそうした自分にまるで気づいていない。自分のできることはできて当然だからこそ、誇らない、自慢しない、自信が持てない。
じゃあ、逆ならどうだ。彼女が簡単にできることが私にできないことというのもまた当然ある。そこをすり合わせるのが情報の使い方じゃないのか?
「私は………情報の収集家です。あなたのことは、その情報を鑑みても嫌いじゃないですよ」
「なら、私はそれすら気づかない愚か者です………申し訳ありません」
椛は帰ろうとした。それを私が止める。
「お互い様なんですよ、椛。あなたの素敵なところを、自分が気づかなかったり。ダメなところが、これ以上なく見えてしまうことだってもちろんよくあることなんです。情報は、持っているだけじゃダメなんです。分析して、照らし合わせて――そうしないと何もかも無駄なんですよ」
「………私は、そうしたところに触れることが許されないので」
「山の情報じゃありません。あなた自身のです。私のです。一人一人が持つ情報は、誰だって持っています。それを分析したりしないと、宝の持ち腐れですよ」
だから、と私は続ける。
「お互い言いあいましょう。コミュニケーションは情報交換です。お互いを分析し合って、わかり合う。それが、理解なんですよ」
※
【後日】
「いやあ、骨が折れました」
紅魔館で、小悪魔は愚痴るようにそういった。
「自業自得」
自分の主人であるパチュリーは表情を変えず、本から目をそらさずにそう答えた。
「なんでそんなめんどくさいことを?」
「暇つぶしですよパチュリー様」
こきこきと首を鳴らしながら、小悪魔はそう答える。
「小悪魔ってのは、つまりそういうものなんですよ。人の心の隙間に入り込んであれこれ遊ぶ。だからこそ、小さくないとダメなんです」
「ああ、そういうこと」