Coolier - 新生・東方創想話

魔理沙と霊夢のラブラブデート(仮題)

2017/11/17 01:12:46
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 ――私はもっと魔法を使えるようになりたい。いや、なる予定だ。ゆくゆくは大魔法使いと呼ばれるのだ。その為には努力を惜しむつもりは無いが、果たしてこのノートは私の糧となるだろうか。まぁもしならなければ――――幻想弾幕博物図画集より





 私は何かを埋めていた。
 とても穢くて、嫌な気分だったのを覚えている。
 星も月も出ていない、暗い嵐の夜だったか。弱い台風すら来ていないのに、雨と風の多い夏だった。蒸し暑くて眠れない日々が続いて、魔法の森は歩くのも困難なくらい地盤が緩んでいた。私は巨大樹の複雑に絡んだ根を足場にひょいひょい移動し、魔法実験のための材料を集めていた。
 大雨の日は、安定性こそなくなるが、大きな魔法実験のチャンスだった。自然が猛威をふるうほど、人間に災害だと認知されるほど、この星で流動している魔力は膨大なものになる。
 私は、そのとき何かを成し遂げたのだ。
 何だろう。あまりにも嬉しすぎたのか、朝目覚めると、そのときの記憶が曖昧になっていて、時系列すらゴチャゴチャで上手く思い出せなくなっていた。
 気が付くと、太陽が昇り始める朝の僅かな薄暗さの中で、私は横向けになって倒れていた。場所は霧雨魔法店の玄関先。私の自宅の前だ。自分の名前を思い返すと……、霧雨魔理沙。特に問題なく簡単にそれだけは出てきた。
 私は何をしていたのだろう。
 玄関ドアは鉄鎖でがんじがらめに封鎖されており、窓にも軽く目張りがしてあった。おまけに私は素っ裸である。研究完成の勢いに任せて、悪い酔い方をしたのだろうか。
 ちょうど横に転がる形で、愛用の魔法の箒と八卦炉が落ちている。とりあえず、まず着るものを探さなくては。私は魔法の箒に跨ると、魔法店2階にある自室に侵入するため、空に飛び上がろうとした。
 ――――――…………? 動かない。
 理由は判らないが、箒も八卦炉も作動しなかった。
 やれやれこれは困った。私は適当に店頭に積まれたガラクタの中から、お盆状のアイテムを取り出して、体の前部を隠すことにした。素足が泥を踏む感触が気持ち悪い。
 無理に店の窓を破って入ってしまっても良かったが、そうすると後始末が大変だ。それに労力も相当要するだろう。私は誰か、周囲の知り合いを訪ねて服を貸してもらう事にした。
 ……あと、気のせいかもしれないが、魔法店に入るのがなんとなく嫌だった。多分、中は酒宴で相当散らかっているのだろう。私の無いはずの記憶がそう呟いた。
 近所なら、アリスの屋敷か香霖堂になるだろう。単純な直線距離ならアリスの屋敷が最短なのだろうが、森の中を突っ切る必要があった。ただでさえ木が生い茂り、鋭い葉を持つ植物や枝が散乱しているのに、今はそれに加えて泥土まで混ざっている始末だ。今回は、恥ずかしいが、道のしっかりした香霖堂に向かうべきだろう。
 私は歩き始めた。足元をずっと注視して、怪我しないように慎重に、しかし出来る限り急いで森を突っ切っていく。普段下着に包まれている柔い場所が風に触れて、何時まで経っても落ち着かない。
 雀の鳴き声が空を駆けるようになって、太陽が完全に地平線から脱した。辿り着いて、私は香霖堂の戸を軽く叩いた。鍵が開いてることを確認すると、私は無意味に周りを確認して、そそくさと店内へ逃げ隠れた。
「香霖……居るか?」 まるで耳打ちで尋ねるように、ごくごく小さく私は声を掛けた。
 薄明かりの中で、朝光に照らされて、微かな埃が舞っているのが見えた。その奥、木造りの水車アンティークの影に沈み込むように彼は居た。小声では気付かなかったようで、私が2歩、3歩進んだあたりでようやくこっちを目視してくれた。
「ん……。魔理沙か? どうしたんだいその身体」
「気遣ってくれるのは嬉しいんだが、何か着るものが欲しいんだぜ」
 私はいつもの調子で語り掛けた。香霖は何やら怪訝な様子で、すぐにその場から動こうとはしなかった。その視線に耐えかねて、私はしゃがみ込んで身を隠した。
「あ、あんまりジロジロ見ないでくれ……恥ずかしい」
「ああ……すまない。何も問題ないんならいいんだ」
 何も問題がないどころか、問題だらけだ。だから衣服が欲しいし、此処を訪ねたんだ。その外套でもいいから、とにかく露出を抑えられる布が欲しかった。
 香霖が店奥へと消えて暫くすると、彼は私がよく着ている馴染みの服を持ってきた。黒いスカートと、白のエプロンの付いた上着に、その上に羽織るベストだ。香霖は見た目に寄らず、私と霊夢、二人分の服を繕ってくれている。
「あっちを見ているから、早く着替えてくれ。見苦しい」 香霖は照れ隠しなのか、顔を掌で覆いながら腕だけを伸ばして衣服を手渡してきた。
「……――下着は?」
「僕にはそういう趣味はないよ」
 じゃあ女性服を作るのが趣味なのか? と軽口を言い掛けてやめた。さすがに冗談を重ねるほど気分は浮かれていなかった。
「……ありがと」 か細く礼を言う。「ついでに、靴もないか?」
「――――君は何なんだ。里でギャンブルに負けて身ぐるみ剥がされたのかい?」
「あー? 説明すると長くなるんだが…………」 と言って私は事情を説明した。朝起きたら記憶が飛んでて、素っ裸になっていた。家は何かの手違いで施錠してしまった。なんだ、1~2行で収まるじゃないか。
「まあともかく、着替えたら帰れる内に家に戻りなさい」
 何やら実の親のように香霖は窘めてくる。言われるまでもない。箒の使えない今、元々そのつもりだったさ。私は上着を頭に通すとき、ある違和感を覚えた。
 髪が、長い。
 歩いている時は気が付かなかったが、髪の毛がいつの間にか膝くらいまで伸びている。一番下の部分がちょっと泥で汚れていた。
(なあ、タオルを――) と言う前に香霖はそれを差し出してきた。さすが察しが良い。幻想郷いちの鑑定眼と言われるだけはある。
「もう見てもいいぜ」
 身なりを整えて、声を掛ける。これで、帽子以外は元通りだ。スカートの中がスースーするのは、まあ後で何とかしよう。
「あまり詮索するのも何だが、その姿は一体何の冗談なんだ魔理沙」
 香霖は私の姿をわざわざ指差してそう云った。この髪の事なんだろうが、思い出せないものは判りようもない。まあ、そんなに気になるようなら――――
「それじゃあ、編んでくれよな。また昔みたいにさ」
 私が笑顔で問い掛けると、彼は肩で息を吐いて、しょうがない、といった風に要望に答えてくれた。
 私がアンティーク椅子を逆に座ると、後ろから香霖が髪をまとめてくれる。もっともっと子供の頃、よくこうして貰った。そういえば、香霖が私の髪を指摘したのは、これが初めてだった。
 幼い頃、まだ里の中で過ごしていた時代、私の金色の髪は他の子供にとっては好奇の対象であった。ある娘は羨ましいとねだり、あるガキンチョは妖怪だと蔑んだ。私はずっと不思議だった。
 どうして、両親と違って私の髪は黄色いんだろう?
 この髪を不思議がらなかったのは、霊夢と香霖くらいだ。その内のひとりは、今私の髪を綺麗に2つ分の三つ編みにしてくれている。
「はい完成だ。寄り道せずに帰るんだよ」
 最後に白いリボンを巻いて、そして背中をポンと叩いてくる。床屋でもそうだが、誰かに髪を触られるとちょっと気持ちいい。もっとして貰いたい欲もあったが、ずっと香霖のお世話になるわけにもいかない。
「えへへ」 どこからか湧いてきたくすぐったさに笑みが抑えられなかった。
 私は椅子から立ち上がり、少しくるくる回って三つ編みの感触を確かめて、スカートが浮き上がりそうになったのに気付いて慌ててそれを手で押さえる。
「じゃあ行ってくるぜ」
「お邪魔しました、だろう?」
 そんな問答があって、私は香霖堂を後にした。次向かう場所は、……――博麗神社だ。思い出しついでに、この髪型を見せびらかしたくなった。箒が使えない今、少し時間が掛るが寄れない距離ではないだろう。
 道中妖怪に襲われたりしないだろうか。なんて不安は私にはない。魔法の森から人間の里にかけての道は、私の庭みたいなものだ。安全な場所も、危険な地域も把握しきっている。
 魔法の森に移住して、もう何年になるだろう。

 博麗神社の石段を上がるのは、いつ頃振りだろう。
 魔法が使えるようになってからはいつも空から訪れていて、久しくその険しさを感じていなかった。息が上がって、夏の気候のせいもあってか汗が吹き出てくる。香霖堂で水筒を貰ってくればよかったか。
 ああ、懐かしい疲労度だ。昔、霊夢の先代、なんとかっていう巫女に、私のことを相談しに両親と一緒に昇ったっけ。
「あー、やっとついたぜ」
 一度赤い鳥居を仰いで、そしてすぐに中腰になって息を落ち着けた。心臓の鼓動が収まってきてから視線を上げると、そこには無言の霊夢が居た。手には退魔針を挟んでいる。
「何か用?」
 無愛想に彼女は私に問い掛けた。実のところ、用はない。だがまあ暇潰しくらいはさせてもらう。
「そうでもないぜ」
「何の遊びをしているかは知らないけど、早く戻りなさい。帰れなくなるわよ」
 そう思うのも無理はない。しかし魔法が使えないのだ。石段昇り遊びもしたくてしてる訳じゃない。それに魔法店に帰るくらいの体力は残してあるさ。きっと。
「なあ霊夢、私を見て何か気付かないか?」
「私が判らないわけないでしょ。悪趣味な……さっさともとに戻しなさい」
 どうやら霊夢は三つ編みが好みじゃないらしい。驚いてくれると思ったのに、ちょっと残念だ。
「そうなのかー……なっ少し神社で休んでっていいか? 寝不足なのか魔法が上手く使えなくてさ」
「…………いいわよ。ただ、日没までには帰りなさい。あなたの遊びに付き合ってあげるほど、私は心が広くないの」
「はいはい。あ、饅頭とお茶が怖い」
「自分で注ぎなさい」
 軽い応答のあと、私は博麗神社の縁側へと回った。霊夢はまだ何か、仕事があるらしく風で散らかった境内の後始末やら洗濯物やらで家内をぐるぐる回っていた。
「ところで、私の髪って何で黄色いんだろう?」
 霊夢が通り掛かった時になんとは無しにアピールしてみる。
「あなたが選んだからでしょ?」
 私はわたしを選んで生まれてきたのか? なんて哲学的な答えを発するんだ霊夢は。
 昼の猫のよう、縁側に身を預けて天を仰ぐ。発達した入道雲が空の上で弾けて流されていき、時間はあっという間に過ぎていった。勝手に茶菓子を居間から出して齧っていると、後ろから霊夢が背中を蹴飛ばしてきた。どうやら掃除の邪魔だったらしい。
 叩き出されるような形になって私は博麗神社から出た。あんなに苦労した階段を、軽やかに駆け下りていく。目覚めてから暫くの時が経ち、体の調子が上向きになってくれたようだ。五体が軽い。

「家は危険だわ。こっちよ」
 いざ魔法の森に入ろうかというところで、何者かに呼び止められた気がした。振り返って姿を探してみるが、人影らしきものは見つからなかった。警告に思えてほんの数秒躊躇うが、私は再び歩き出した。
 霊夢の反応が悪かったから、今度はアリスのところへ行ってやろう。そんな脳天気な事を考えながら森を進んでいくと、普段は見慣れない人物が向こう側からやってきた。
「魔理沙じゃないか」
 馴れ馴れしくそう言ってきたのは橙。八雲紫の飼い猫だった。私に会った途端、そいつは珍しいものでも見たかのよう、目をパチクリさせて全身を舐めるように凝視してきた。
「な、なんだよ……そんなにこの髪型が珍しいか?」
 私はあまり橙の事をよく知らない。化猫であり、式神であり、八雲紫に親しい妖怪である、という事くらいだ。魔法も使えない今は、とにかく余計な面倒事は避けて、軽くいなしてしまおう。
「いやいや、まさか私の探していたものがアンタだとはねー。けど、その様子じゃもう手遅れみたいだ」
「――――どういうことだぜ」
 橙は何かを探していたみたいだが……――蒐集家と言っても、私は八雲紫のものを借りたことは一度もないはずだ。何やら一騒動ありそうな予感がする。
「丁寧に扱ってくれたのは感謝したいけど、アンタ自身の身体でプラスマイナスゼロかな。まっ、こういう事もあるよね」
 勝手に話を進めやがる。自己完結してわざと苛立たせようとしているのか、しかし私はその手に乗ってやるつもりはない。
「何なら返そうか?」
 まるで話が通じている風に装ってみる。適当にカマを掛ければ重要な情報がポロっと出てくるだろう。それを聴いた橙は、フン、と鼻で笑って飽きたようにこう返した。
「笑えないジョーク。幸運なのか不幸なのか……――これだけは言っておくよ。命が惜しければ、今、家には近寄らないこと」
「おい、どういう――――」
 何の偶然か、先程聞いた幻聴と同じようなことを橙は言ってのけた。私が問い正す前に彼女は跳躍をして、眼の前から一気に遠ざかって行ってしまった。
 追いかけようにも、化猫のバランス能力と二日酔いの人間の足では、どちらが勝つかは明白だった。私は彼女を諦めて、足先を魔法の森の奥地へと向けることにした。
 アリスの屋敷には、私の魔法店の脇を通るのが最短だ。化猫や、幻聴の言葉なんて信じるに値しない。もし危険だとしても、ほんの少しだけ迂回すれば充分だろう。
 私は僅かにルートから逸れて、ほんの遠目から店が見える位置を進む事にした。相変わらず大雨の後の泥は重く、歩くのにかなりの時間を要する。確かな感触のある木の根を伝っていくと、ある事に気づいた。
 生き物の姿が少ない。雨と風に怯えて避難したにしては、少なすぎる。鳥の鳴き声はなく、木のウロに集まる虫も見えない。
 おかしい、と思って足を止めた途端、眼の前を凄まじいスピードで通り過ぎるものがあった。私の真左、腕を伸ばした先ほどにある木の幹に、巨大な刃物が刺さっている。
 鎌だ。何者かが投げたのだ。射線上に眼を配らせると、投擲を行うような距離じゃない、その腕がこちらの首に届くかのような近くに、赤い髪をした女がいつの間にか出現していた。
「安心しろ。一撃目は外れるようにした」
 それは感情の篭っていない声色で言った。彼女は小野塚小町。以前、少しだけ関係した黄泉路の死神だった。小町はこう続ける。
「あたいが来たからにはもう大丈夫だ。安全に地獄まで送ろう」
 そして刺さった鎌を木から抜き取り、こちらに向けてくる。私は一歩下がり、そのままの勢いで逃げ出そうとした。――が、小町に距離の概念は通用しないことを思い出し、ギリギリで鎌の刃が届かない間合いまで後ずさると、強く目で睨んで対峙した。
「何かの間違いだろ? 私は――――」
「そんなに悪い事はしていない。だろ? 罪人はみな始めはそう言うのさ」
 彼女は容赦なく詰め寄ってきた。犯してもない罪のせいで裁かれるなんて真っ平御免だ。罪、罪……うーん。まあ、死ぬほどでもないはずだ。小町の追求は間違えている。
「生きている内にお迎えなんて普段はしないんだ。ご厚意には甘えたほうが楽になれるぞ」
 云うと、すぐにも鎌を振り下ろしてくる。弁明の余地無く、口を半開きにしたまま、私は咄嗟に八卦炉を出して盾にした。運良くそれは軌道上に被さり、悲鳴のような金属音を上げて私は横薙ぎに倒された。刃は……まだ身体に届いていない。
「ま、待つんだぜ。私、何も知らな――」
 しかし声虚しく、間髪入れずに次撃は振り被られた。終わる――! 私は痛みに備えて両目を強く閉じた。
 …………………………。
 …………。
 風切り音はない。私は死んだのか?
 痛みもなく、慈悲深く切り裂かれたのか?
 目蓋を上げる。そこには、何者かが立ち塞がり、死神の獲物を素手で止めていた。
「あらあら。弱い者いじめはよくありませんわ」
 誰かが小町に話し掛けていた。声の位置的に、それは目の前の影ではない。恐怖に霞んだ意識が次第にはっきりとし始めて、その新しく現れた二人の姿を捉える。
 死神の鎌を受け止めたのは宮古芳香。脳みそが腐ったキョンシーだ。彼女が居るという事は――もうひとりはその主人である邪仙、霍青娥であった。
 青娥は音もなく忍び寄り、真後ろから羽交い締めにするようにして小町の首に小刀を突き付けていた。得体の知れない笑みを顔に貼り付けて、こう囁いた。
「ねぇ、あの子。殺すくらいなら私にくださらない?」
「勘違いしている所悪いが、あたいは殺すのが目的じゃあない」
 質の悪い噂話か、もしくは確信によって突き動かされたのか、眼前の死神と邪仙は手柄の奪い合いを続けている。
 一体何の話をしているかは判らない。だが何となく、私が成就させた研究が関係しているように思えた。
「――ただ、お前は殺してもかまわないがな!」
 小町がそう吐き捨てると、二人の抱えた状況が逆転した。小野塚小町は距離を操る程度の能力を持っている。当然それは、意識さえしていれば背中側にだって使える。瞬きすらする暇を与えず、位置が交換され、死神が邪仙の喉元にその鎌を当てる形になった。
「あら」
 温情なく、すぐにも刃先は掻き引かれる。しかしその斬撃は青娥の白い肌を一切傷付けることはなかった。透過したのだ。青娥娘々の持つ壁抜けの鑿は、触れた“壁”に自在に穴を作り出す。
 死神の鎌は、その中程から折れて使い物にならなくなっていた。娘々は、固い金属面を“壁”と認識して大穴を空けたのだ。
「そんな切れ味の悪いなまくらを、いつまでも使っているから折れてしまうのよ」
 莫迦にするように青娥は云うと、相手の驚愕が終わらない内にみぞおちに肘を入れて、ほんの刹那怯んだ隙に拘束を脱する。
「……ぐ! やるじゃないかッねェッ!」
 その娘々が、体勢を立て直すために振り向く一瞬を小町は見逃さなかった。打撃を物ともせず、死神は持つ鎌の柄を地面に突き立てた。途端、着地点からものすごい量の死霊が湧き上がった。
 木々の枝がまるで脈動するように軋み出す。それは大量の死霊によって、温度を奪われて凍っていくさまであった。真夏にも関わらず、肌を刺すような冷気が立ち込めて、浅く白い霧が出始めた。
「ねぇ、それが何の役に立つというの?」
 刃の残りの部分で襲い掛かられると思っていたのか、青娥は顔を手で覆うように防御をしながら、軽口を叩いた。奴と退治した事のある私には分かる。あの余裕ぶった言葉は、すべて相手の冷静さを失わせるための挑発だ。
「その悠長な台詞がお前の敗因だよ、霍青娥。あたいとお前の勝敗はもう決した」
「根拠のないハッタリは空しいだけよ? さ、芳香。やっつけてしまいましょう」
 青娥は、私の前で盾になっていた芳香を呼び寄せようと声を掛けた。だが、何か様子がおかしい。飛び上がろうとしたその四肢から、樹木と同じような音が聴こえてくる。
「なッ――――」
「死霊如きの冷気では、僵屍の凝固した血液を凍らせられないはず――とでも思ったろ? あたいは死神だぞ? 生者ならともかく、顕世に醜くしがみついているだけの死体の魂魄に“直接”死霊を当てることなんざ、造作もない」
 温度はどんどん下がっていく。息が凍りつき、歯の根が震え出す。今すぐにもこの場から離れなければ。蛇に睨まれた蛙のようになった無気力な両拳を無理やり握り締め、私は気力を振り絞った。悟られないよう、眼球だけを動かして退路を探す。
 今なら、芳香の注意が逸れている今なら行けるはず。
 ……だが、それはすでに小町に把握されていた。
「死はいつでも身近にあるものさ。逃げようとしても無駄。あたいの能力は解ってるだろ?」
 明らかに目が合ったのだ。彼女は折れた鎌を回転させて、自分の周りに円を描いた。それは氷点下の間合いだった。
「残念ながら、死を克服した私に謂うのは滑稽極まりないわ」
 寒気を物ともせず、青娥娘々は手にあった小刀を持ち直した。彼女はおもむろにその凶器を振り上げると、あろう事か隣、自分の駒である芳香の胸に突き刺した。
 血は、出ない。そしてすぐにも胸元から呪符を取り出し、小刀の柄に取り付けた。ビクン、と芳香の体が揺れる。「お……お……」 という嗚咽がまるで心臓の鼓動と共に刻まれているようで、その全身にあった硬直を溶かしていく。
 なんだ、……湯気が出ている。どうやら体温が、死者の体温が異常に上昇を始めたらしい。曲がらなかったはずの腕が、膝が、柔軟性を持ってだらん、と下に垂れる。
「芳香の魂魄の色を“上書き”したわ。仙術を使えば、血の巡りの悪い僵尸もこの通り」
 それからの動きは迅速だった。声での意思疎通なく、邪仙とキョンシーは同時に動き出した。猛烈な勢いで駆け出した芳香の腕が、まるで鞭のようにしなって小町に振り下ろされる。その当たる瞬間を見届けることなく、どうしてか、私の身体が浮き上がって視線が勝手に外れた。一体、何が。
 顎を下げると、私は何もかもを把握した。娘々は闘っていない――彼女が向かった方角は、死神の死霊領域とは真逆、棒立ちする私の身体であった。青娥は、芳香を捨て石に使うつもりだ。仙術によって強化された膂力で私を獲得した娘々は、小町の位置転換が通じないよう、持つ壁抜けの鑿で地面に穴を開け、戦闘を脱する――――
 ことは出来なかった。
 いつの間にか、私を抱えていたものは、青娥ではなく小町に交換されている。視点を移らせると、凍りついたフィールドでは、芳香の腕を両腕で受け止めている娘々が居た。
「勝負はついていると言ったろ? あたいはその円からお前達を逃さないよ。こちらに飛び掛かれば誘い、逃げようとすれば場所替えする」
 容易い、と云わんばかりに口角を上げてその死神は宣言した。
「ささ、5分で終わらせよう。死霊はどんどん沸いて出るんだ。何時迄書き換えが効くかな?」
 そして彼女は私を無造作に放り投げ、穴を穿たれた残りの刃を軽く振った。……初め、ただの威嚇行動かと私は思った。逃げ出せばすぐに喉を掻き切るぞ、という警告。だが杞憂に終わった。
 死は究極のリアリストだ。脅しなどしない。私は自分の左足首と左手首に灼かれるような感触を覚えて、それを文字通り痛感した。横たわって狙いやすくなったその腱が、ズタズタに引き斬られている。見る見るうちに血が吹き出してきて、私は絶叫した。
 もはや地を這って逃げるしかない――。しかしあまりの激痛に身を丸めてしまう。痛い。痛い……ッ。
「なぁ青娥。アンタ、あの水鬼鬼神長から逃げおおせたんだろ? まだ奥の手が残ってるはずだ。それとも何だ。もう終わりかい?」
 声が、言いつつ遠ざかっていく。娘々と芳香を退治しに行ったのだろう。向こう、私を包んだ痛みの殻の外で、一触即発の会話が立ち昇った。
「――貴女は私に期待しすぎよ。もう終わり。私の計画はこれでおじゃん。だからこの力場、消してくださらない?」
「もっとマシな嘘を吐いたらどうだ? んー……例えば、命だけは助けてくださいっ、とかさ」
 足音が止まった。間合いに入ったのだろう。小町はどうしてすぐにも私を殺さないのか――――アア、死神は、邪仙を殺し切るために私を餌にしているのだ。そして闘いが終わった暁には、改めてこの首に刃を突きつけるのだろう。逃げないと、
「芳香だけは見逃してくださらない? 元々命は無いのだけど」
「……時間稼ぎするほどに冷えるが、いいのか?」
 逃げないと。目は虚ろになって、魔法の森を仰いで迷う。私はその一瞬を見てしまった。青娥が自分のキョンシーに軽く耳打ちをする。何を言ったのか、誰にでも判るように大きく芳香は頷いて、両腕の爪を鋭く突き出して小町へと飛び掛かった。――しかし、魂が凍りかけたそのスピードは遅く、位置を交換する事なく軽々と避けられてしまう。
「安心しろ。お前も地獄行きだ」
 次の瞬間、折られて転がっていた死神の鎌の片割れが、音もなく芳香の胸に突き刺さった。彼女となまくらの先端の“距離”を失くしたのだ。小町はまるで、飯を食いに行く片手間のように飄々としながら娘々へと目線を戻した。
「さあ、次はアンタだよ」
 トン、と鎌の柄を地面に突き立てる。無作為に散らばっていた死霊が渦を巻くように集まってきて、青娥の周囲を覆った。大雨で泥濘んだ地面は白く霜が降りて凍りつき、邪仙の息遣いが目で視えるようになる。だが――そこで青娥は笑ってみせた。
「……貴女、死人と生者ばかり相手にしているせいで、アンデッドの扱いには慣れてないのね」
 私と小町は同時に気付いた。胸に刃物を貫通させたままの芳香が、こちらに真っ直ぐ向かってきている。彼女の目的は、私だったのだ。本来なら死神の能力によって、すぐさま位置が交換されて彼女は死霊のテリトリーから抜け出せないはずであった。しかし、何故かそれが起こらない。言葉が届く。
「魂魄をコントロールできるのは死神だけではなくてよ? ましてや躰を失った死霊なんて――」
 集まった死霊が恐れをなしてバラバラに散っていた。邪仙から産まれた、得体の知れない黒い気配が領域を呑み込んでいく。そして、いつの間にか小町の腹に大きな穴が出来ていて、向こう側の景色が垣間見えていた。
「瞬間移動してみる? 鑿をこの手で入れている今なら中身は保存されているけど、急に動いたら……ウフフ。どうなるかしらね」
「どうやって――!」
「“壁”と認識するには硬さが足りないから、貴女に仙術をかけてカチカチにしたのですわ」
 完全に二人の動きが止まった。鑿を挿し込んでいる限り、青娥も小町もその場から身動きが取れない。唯一走り寄ってくるのは芳香だった。失血が多くて頭がぼーっとしてきた。邪仙のキョンシーは私を小脇に抱えると、速度を上げて戦闘領域から脱していく。
 もう無いはずのアンデッドの体温が、温かく伝わってくる。娘々の術だろうか。それとも、私の血液が――――――
 気を失う寸前、後ろから掛けられる2つの言葉が気持ち悪く頭に響いた。
「生きなさい魔理沙。貴女は真実を早く見つけるべきよ」
「何も信じるな魔理沙。もしも私が明日までに戻ってこなかったら――――」
 死神曰く、
「命を断て。悲劇が起こらない内に」
 私の罪業は、この生命に届くようだ。



 赤い。赤い光が、私の擦り傷だらけになった手に射し込んでいた。
 死に瀕すると、身体が何とか助かろうとして昔の記憶を幾つも幻視させると云うが、私は何の夢も見なかった。瞼の裏の暗闇が大きく時間を隔てていた。
 動ける。いつもの様に起き上がろうとして、鋭い痛みに襲われた。左手首、左足首――見遣ると、清潔そうな包帯が乱雑に巻かれ、滲んだ血に染まっていた。
 次第に意識がはっきりしていく。そこは薄暗い部屋だった。
 木板で閉ざされた窓にほんの少しだけ隙間があって、夕暮れの光が迷い込んできている。私は固い木製の台の上で横たわっていた。部屋は狭く、怪しげな薬瓶や金属製の器具が並べられた棚に囲まれていた。
 ふと、鼻に微かな異臭が漂ってきた。それは大部分が洗剤の臭いであり、奥の、誤魔化しきれない一部に、肉の爛れた腐臭と鉄サビの合わさったものが混在していた。目を凝らすと、大棚の中で吊られている器具達はみな、肉を切ったり開孔したりするものばかりだ。私の寝転がっている木板には、黒っぽいシミがあちこちに付着していた。
 頭がグラついている。おまけに精神もだ。貧血なのか、起き上がるだけで強烈な頭痛が私を襲った。手足は麻酔が効いているのか、無理に動かそうとしなければズキンと疼く事もなかった。
 蜃気楼のように視界がぼやけて、一点に定まらない。しかし、動かなければ。……記憶ははっきりしている。私は、ロクデナシの邪仙、青娥娘々の下僕である宮古芳香に拐われたのだ。
 上体を起こして、足を台から降ろした。外からは生活音らしき人々のざわめきが聞こえる。ここは何処なのか。無事な右足を突っ張り、無理にも立ち上がろうとすると、その途端、膝が笑って私は前のめりに床に沈んでしまった。受け身を取れる余裕はなく、顔面と肩を強打してしまう。視界に星が飛んだ。
「うああ……」
 腕と足の傷に衝撃が辿り着いて、私は無様な呻き声を上げた。目の前に血が一滴、二滴と落ちる。鼻血が出たようだった。
 ずり、ずり、と這いずるように動いてみる。全く進まない。重力を全身で感じていた。と、そこに振動が生じる。
 足音だ。それも普通の、二足で行われるものじゃない。肉を叩きつけるような乱暴でぎこちない……間違いない。キョンシーの蠢く音だ。真っ直ぐ向かってきている。来る。
 ミシ、と重い衝撃が部屋のドアを軋ませた。金属製のノブがガチャガチャと震えて少しずつ回っていく。身を翻す余裕は私にはない。見上げた視線の先で、ついに扉が開け放たれた。
 宮古芳香だ。彼女は入り口から一歩、一歩、飛び跳ねて私の真上に来た。無表情で、その両腕は真っ赤に染まっている。
「ガ……グゲッゴズズ――――……」
 鋭利な歯を覗かせて、芳香が何かを呻いた。ガクガクと痙攣するように無理やり首を俯かせて、彼女は私を視界に入れた。逃げ、――られないだろう。腕に力が入らず、起き上がる事も、上半身を跳ねさせる事すら出来なかった。
 芳香は改めて言葉を発する。
「ズ……アグ……グ……」
 彼女は半身を屈めて、私の身体を玩具のアームで掴むように強引に持ち上げると、そのまま放り投げるように元居た寝台へと戻してくる。力任せに動かしたせいか、傷口が歪に開いて激痛が染み出してくる。肺から全ての酸素が吐出され、息が詰まった。
「ウガ……ア……」
 なおもそのキョンシーは唸り声を漏らしていた。何かを伝えたいのだろうか。徐々に発音は人間のものに近づいていき、そして、
「ズまなイ……ひざビさに声をダじたガあ……喉ガ張りツいてイで上手グ話ぜン…………」
 その邪仙の手駒には、害意がない事が判った。
「ぉあ……ぇ……」 邪仙は居ないのか? 声に応えようとした私自身の喉もカラカラに渇いてしまっていて、すぐには言葉を作れなかった。「……こごは、何処なんだ」 言い直す。
 正常な反応が戻ってくると思うか? 青娥娘々は数多の妖怪の中でも、筋金入りの狂人だ。自分の目的のためならば、人間の脳味噌を内側から改造することだってやるだろう。私は自問自答し、動かない身体と脳天気な自分の言葉を呪った。
 だが――――
「ワがらなイか? 窓を開ゲてやル」
 邪仙の下僕として操られているはずの芳香が、まるで娘々の思惑を真っ向から裏切るような行動をし始めた。
 窓の木枠に取り付けられた目張りをへし曲げて、外界の光を取り入れる。簡単に出られはしないよう、窓外は半分ほど地面に埋まる形になっていて、更に鉄格子で補強されていたが、どうにか外の様子を推し量ることができた。
 見覚えのある町並み……
「里の中なのか?」
 木を隠すには森の中だとは言ったものだ。どうやら人間の里に、この、おそらくは邪仙の用意した隠れ家はあるらしい。大声を出せば誰かに気付いてもらえるか――――いや、防音加工すらされていない所を察するに、ここを使用する時は必ず芳香に見張らせるのだろう。青娥の事だ。安全な退路もきっと何処かに設置されているはず。
「ぁあ。娘々には、こごデ待てと謂わレてる」
「今娘々は居るのか?」
 彼女の目的は一体何なのだろう。私は依然、危機的状況にある……そんな気がする。
「イや帰って来でなイ。グ……水、持ッデグる」
 云うと、そのキョンシーはぴょんぴょんと跳ねながら部屋を出ていった。私は寝台の上で寝返りをうち、なるべく傷が痛まないよう姿勢を右側に寄せてから上体を起こした。失われた記憶。朝の異変。死神の襲撃。考えるのは苦手だ。自分の掌を眺めて、握りしめる。あれこれと心配するよりも、私は目の前にある出来事に全力で取り組もうと決意を振り絞った。
 青娥娘々の下僕、宮古芳香がコップを二つ持って戻ってくる。
「ぁい」
 手渡されたその水は、容量の半分ほどしか入っていなかった。彼女の関節が固まっているせいで、運んでくる最中にこぼしてしまったのだろう。コップの外面が全体的に湿っている。
 私は水を飲み干した。失血で失われた水分が、これで少しは補えただろうか。毒や薬が盛られているのでは、という想起は、飲み終えた後に浮かんできた。飲む以外の選択肢が思い浮かばないほどに喉が渇いていた。
 ベキ、という重たい音が聞こえた。それは芳香が水を飲むために、凝固してしまった腕の関節を無理やりに曲げる音だった。アンデッドは不便そうだ。私は彼女に語り掛ける。
「なあ、包帯。お前がしてくれたのか?」
「……ああ。そうだ。娘々に教えてもらっだ」
 唇から飲料水を垂らしながら彼女は答えた。怖くて包帯を取り除いた患部は見ていないが、今の出血量や痛みの形からして傷も縫ってくれたのだろうか。
「単刀直入に訊くが、娘々は何が目的なんだ?」
 私を生かして、そのうえ死神と敵対してまで、何の得があるというのだろう。青娥娘々は邪仙の肩書の通り、人間の魂魄――それも恨みや妬みの詰まった負のエネルギーを集めているらしい。
 まさか、私を介抱するふりをして惨たらしく殺して、怨霊でも作り出す気か? その厭な想像のままに造り出されたキョンシーが、眼の前でこう答えた。
「何も聴いてない。ただ、魔理沙。オマエは娘々が欲しいものを持っているみたいだぞ」
 一体何のことだ?
 …………――少し考えて、すぐにも行き着く。家だ。
 私は何かを完成させていたのだった。“それ”を青娥娘々は狙っている。
「そうか。…………なあ芳香。私と取引しないか?」
「――何の話だ?」
 眼をパチクリさせてキョンシーは私に問い返した。
 簡単な話、この取引の持ち掛けはフェイクだ。“それ”が何かすら、私は知らない。
 だが、何故か娘々は私を必要としている。邪仙の透過能力を使えば、霧雨魔法店に侵入する事は容易なはずなのに。それは恐らく、もうすでに研究自体が魔法店から持ち去られていたか、もしくは成果がモノではなく、知識や術式であった、という事を意味する。これを利用しない手はない。
 つまり、「娘々が探しているものと交換で、私に協力して欲しいんだ」 私は自分の身の安全と引き換えに、危険な橋を渡るのだ。
 返答はすぐだった。
「いいぞ。どうせ娘々が来るまで何もやることがない。私は何をすればいい?」
 私は今、素早く動けない。魔法の箒も使えない。死神と邪仙の闘いがどうなったかは分からないが、ここを動かない限り、そうそう見つかる事は無いだろう。
 まず必要なのは情報と療養だった。
「食料の備蓄とか、外の様子を調べられる部屋ってあるか?」
「んー…………あー……。食べ物と本はある。新聞はない」
 青娥娘々の隠れ家は、聞くところによると人間の里の竜神像が見える広場の近くにあるそうだ。この地下階は上部に比べて4~5倍の広さがあるらしく、様々な器具や医学書のある倉庫、一ヶ月は持つ保存食糧、そしてこの措置室と浄化槽があるらしい。
 結局、外界とのリンクは、あの天井近くにある小さな窓から流れてくる噂話だけらしい。
「芳香。死神について判ることはないか?」
 とにかく私には知りたい事が沢山あった。会話を続ける。
「知らん。言っておくが、外出禁止と云われているから調べに行ったりはしないぞ?」
 そもそも彼女は帰ってくるのか? 小町との闘いで斃されていないだろうか。脳漿の腐ったキョンシーと餓死するまで地下生活なんてゴメンだ。拘束を打ち破る方法は……、と私の眼に、キョンシーの額の札が映った。
「あー、もし、例えばの話だが」 思わせぶりな態度で芳香の視線をこちらに向けさせる。私はすかさず手を伸ばし、「この御札を剥がしたら、どうなるんだ?」 と言いつつもすでに指でその先端を摘まみ、引き剥がしてみようとした。
「痛ッ!」
 が、触れた途端、私の腕に電気ショックのような痺れが走った。咄嗟に手を離してしまう。
「やめろ。普通の人間には取れないようになってる。普通の人間じゃなくても、私が迎撃するようプログラムされてるから二度と触らないほうが身のためだ」
 今ではもう後の祭りで、馬鹿正直に芳香はその術式を解説してみせた。ズルへの対策は万全、という事か。
 ――――……今、私に出来ることと謂えば……、そうだな。食べて、読んで、寝るだけなのか。
 外を調べようにも、足がある程度治ったあと、しかも人の目の付かない夜の間だけだろう。何日掛かるだろうか……憂鬱だ。
 溜め息を吐き、自分勝手に適当な謝罪の言葉を取り付けて、私は諦めに似た声をぼそぼそと発した。
「すまないが、見た目が清潔そうな本を何冊か持ってきてくれないか? 暇潰しにしたい」
 失血のダメージは簡単には消えない。まだ頭が、若干クラクラしている。今は安静にするのが最善だろう。――最善だが、気が逸ってついつい視線を窓の隙間に遣ってしまう。夜が来る。
 暫くするとキョンシーが何冊かの本を器用に腕に載せてきて、私の胴体にぶつけるよう落としてきた。乱暴な……と目を向けると、そのアンデッドの瞳は虚ろで、私の姿なんて映していないように見えた。
 命令を受けなければ、大きく動きもしない。ゆらゆらと躰を揺らして、ただ部屋の入口で遠くを眺めている。魂を半分失うと、皆ああなのか?
 私は青娥娘々が読んでいただろう書籍に目を通した。それは、魂魄の原理と死体の縫製、または狂人の観察日記であった。
 最も綺麗な、つまり読まれる頻度の少ない本でこれだ。もし、ボロボロになった古書をキョンシーに探させたら、一体どれだけ非人道的なものが発掘されるのだろう。
 ――……考えたくもない。
 暗くなるにつれて、部屋に小さな明かりが灯るようになった。部屋の隅から、床の上、影ができやすい所を重点的に、何か、ウィルオーウィスプのような丸い光が幾らか生じる。
 光の由来は判らない。だが、電気や妖精の類では無さそうだ。
 私は本を読み進めていく。一度気を失い、今日一日分の長い昼の時間を失ったというのに、まだ眠り足りないとでも云うかのよう、私の意識はやがて遠く、夢の世界へと旅立っていく。結局、水を数杯飲んだだけだ。胃の中は空っぽ。しかし、眠い。
 眠い……………………。



 ……まるで全てが夢であったかのようだ。
「夢符・二重結界」
 霊夢がスペルカードを宣言した。たちまち彼女の周囲に、大小2つの立方体の結界が展開される。その手がひとつ振られると、一気に二十枚を越える数の御札が宙に放られて、次々と結界の中に飲み込まれていく。
 一体何処にそんな数の御札を隠し持っていたのか。それとも霊力で作り出した光弾なのか? ともかく無数のそれは、大小の結界の間をめちゃくちゃに飛び回ったあと、全方位へと射出される。当然、私が魔法の箒で静止している空中のある一点にも、それは襲い掛かってくる。
 霊夢曰く、結界とは物事の隙間であるという。何を言いたいのかはわからんが、とりあえずあの結界の中に飛び込んで攻撃する、なんて事は出来無さそうだ。
 今まで何度も見たが、このスペルカードは彼女から距離を取ってしまえば避けるのは簡単だ。問題はどうやって打ち破るか、だ。アウトレンジで攻撃しようものなら、あの霊夢の事だ、例えマスタースパークであろうと容易くあしらってしまうだろう。かといってインファイトをしても結界に邪魔される。
 私はなるたけ結界に近づき、その周囲を回りつつ星弾を発生させた。最適解は、霊夢の目を回すことだ。彼女のスペルカードは真正面から立ち向かって勝てるものじゃない。闘わなければ勝てないのに、闘おうとすればするほど難易度は上がる。
 霊夢は最小限の動きで私の攻撃を躱していく。まるで背中にも目がついているようだ。私は八卦炉に力を込め始めた。
 たった一発。たったの一回当てることができれば、勝機はある。霊夢の結界から射出される札の速度が上がってきた。私の頬をかすめる。だが、退く訳にはいかない。ギリギリ……直撃するその寸前まで、手の届く距離を保つんだ。
 1、2、3、4――――彼女の手元を透かし見て、タイミングを図る。狙うは、もう一度その背中をとった瞬間。霊夢が私の姿を追って、振り向こうと身体をひねる……。
 今だ! 彼女の盲点に突入するタイミングを見計らって、私は箒を180度切り替えした。急加速し、その視線を振り切ろうとする。前傾姿勢になり、イレギュラーな札が飛んでこないよう半ば祈りながら、結界の隅を猛スピードでなぞっていく。
 いける――八卦炉を掲げ、力を放出す、――――!???
 直進してくる黒いものがある。私は咄嗟にわざとバランスを崩して、その場から落ちるように離脱した。鼻先を何かがかすめていった。退魔針か。見抜かれていた。
 ……だが。
 私は諦めていなかった。八卦炉のパワーを僅かに後ろへと解放して、ブースター代わりに一気に上昇する。霊夢の超然とした表情が、私を嘲笑うように常にこの姿を捉えていた。構うもんか! 私は懐から秘密兵器を取り出した。
 それは、幾つか魔法を研究したときに偶然できあがった新しい調合だ。マジックアイテム、というよりは火炎瓶に近い。空気に触れた途端、猛烈な化学反応を起こして小さな爆発と閃光が起きる。私はその瓶を慣性に従って空高く放り投げた。
 霊夢のスペルカードは、陣を展開して距離を稼いだり、逆にそれを利用してこちらの動きを制限したり、隙間を縫ったような独特な移動方法――つまり力ではなく搦め手で来るものが多い。正直、私の直線的な光の魔法とは相性が最悪だ。
 式神や人形のような、奴隷タイプの弾幕を張れるのならまた状況は違ったかもしれない。私の魔法は威力が高い割に、精密な動作や変わった軌道を持つことができない。なら、時間差で発動するマジックアイテムを使えば、アリスの操る人形のような攻撃を擬似的に再現できるんじゃないか?
 放物線を描いた瓶はちょうど霊夢の頭上あたりの位置で、膨大な量あるお札のひとつにあたって弾けた。瞬間、眩い光と爆音が結界の枠組みを揺らした。事前に目を覆った私だけが、この刹那を支配できる! 箒の先端を震わせて、一気に彼女の結界の中に飛び込んだ。
 ――――縦横無尽に飛び回る御札が、前後左右からめちゃくちゃな規則を使って出現する。私の知覚能力ではおそらく、すべて避けきるのは不可能だろう。だが、使える時間はわずか数秒でいい。その間に決着をつける。光に慣れ、目蓋を上げた霊夢と死線で目が合った。私は星弾を作り出して彼女に向けて目一杯撃ち込んだ。迎えうつ彼女はお祓い棒を振りかぶる。
 そのとき、突然、銃声のような破裂音が複数響いた。場所は霊夢の真上。驚いて彼女は目線を一瞬だけ逸した。いける! そう、これは私の放った秘密兵器から拡散した花火の種だ。直接的な威力は皆無だが、初見での撹乱には使える。星弾を更に展開し、霊夢を追い詰めていく。
 しかし、博麗の巫女の実力は尋常ではなかった。目と耳が爆発によって機能低下している状態で、次々と星弾を捌いていくのだ。やはり今の火力では彼女の守りを突破できない。私は二重結界の内側の隙間ギリギリに箒を走らせた。そして、懐に手を入れて、…………霊夢はそれすらも読んでいた。持てる陰陽玉を前面に集結させて、私が取り出そうとした八卦炉に備える。
 それでも諦めない。私が彼女に差し出したものは、空になった左手の掌だった。
「いけえええぇぇぇぇ! マスタースパーク!」
 八卦炉が鳴動して、光の筋が生み出される。それは遥か下方、霊夢の足元から射し込んでいた。被弾しかけて再加速した時に、すでに八卦炉自身を手から離していたのだ。威力は劣るが、完全な不意打ちだ。霊夢の防御を突破できるはず――――!
 大きな光の奔流が天に向かって放たれた。私が定義した最後のスペルカードは、瞬く間に襲いくるお札を蒸発させて結界を貫通し、まっすぐ雲を穿っていった。
 何度。何度目だろう。子供の、それは本当に小さな頃から、彼女、霊夢が、…………霊夢だけが私の遊び相手だった。
 よく彼女に絡んでは、何かにつけて競い合った。かけっこや力比べ、計算やお絵かき、本気の喧嘩に妖怪退治。いつも霊夢は私の前にいた。悔しいが、家出娘と正式な博麗の巫女だ。地力には天と地ほどの差があるのだろう。だから、今日こそは勝ちたい。
 私は、私になりたかった。
 胸を張って強くなったといえる自分が欲しい。
 だから私は――…………光の奥には、無傷の霊夢が立っていた。
 結界の最も内側の空間を歪ませたのか、それとも彼女自身が素早く避けたのか、……それすら考える暇も与えられず、私は放り投げられていた陰陽玉に当たり、昏倒した。

 ……――――………………カンカン
 …………――――……カンカン…………――――

 ……カンカン――――……

 ――――――………………………………
 …………

 やっと静かになったか。………………――――――……
 ………………どうやら、私は夢を見ていたようだ。昔の、紅霧異変が終わって、ちょうど冥界から帰ってきた頃だろうか。
 全ては夢だったのだ。左手、左足が痛んでいる。眼を開けると、馴染みの薄い天井があった。血の匂い。地下だ。
 時刻は昼過ぎだろうか。小さな窓の外は光が満ちている。かなり長く眠っていたおかげか、空腹感は紛れていた。ただ、少し口の中がベトベトしていて気持ち悪い。水分不足だけは誤魔化せないようだ。
 昨日のよう、無理に起き上がる。芳香が行ってくれた縫合が相当な技術であったのか、呻きが出るほどの激痛はなかった。これなら歩けそうか? 足を降ろしてみた所、まるで足首から先が引き裂かれるような錯覚を覚えて、私は移動を断念した。措置をしてくれた芳香は、薄目を開けて、起きているか寝ているのか判らない状態でそこに立っていた。
「なあ、芳香」
「……なんだ? トイレか?」
 声を掛けると彼女は即座に気がついた。
「いや、水が欲しいんだ」
「そうか、待ってろ」
 奇妙な感じだった。私はアンデッドに世話をされている。夢の中の出来事のほうが現実味を帯びていて、今、こうして見知らぬ部屋で身を隠していることは全部ゆめ幻であるような感覚がある。
 しばらくすると芳香がコップ一杯の水を持ってくる。昨日と同じ、濡れているコップ。何も変化はない。何も……――――
 この現実とどう向き合っていこうか。私は考えずには居られなかった。身近な問題。傷は治るのか、食事は何があるのか、排泄はどうするのか、追手に見つからないだろうか、……霊夢や香霖達は、私に気付くだろうか。
 今すぐ扉を通過して、外の風に触れたい。何をすべきだろう。私の膝の上には、芳香のチョイスした分厚い本が乗っている。
「…………」 思いつかない。沈黙に耐えられなくなって、私は眼の前のキョンシーに話し掛けた。「芳香、お前は眠るのか?」
 夢は、脳味噌の中から生まれるという。もし、脳や肉体を失ってしまったら、その人間は何を持って思考するのだろう。疲れを感じないアンデッドにとって、睡眠は必要なのだろうか。
 ――――言ってから、私はハッと息を呑んだ。
 幻想郷では、幽霊すら息をして飯を食べるのだ。私は気付いてしまった。人間の基準で持った疑問なんて、妖怪に対しては何の意味もない。そして――……
「気まぐれに眠るときもある。これが眠りなのか、それともそうでない死の感覚なのか、私には判らない」
 そして――“もし死後に何もかもが継続するのなら、不様に生き長られる価値なんてない”のだろう。
 つまり、私が今ここで邪法を研究して妖怪化してしまえば…… ………………何もかもが上手くいくのでは?
 いや、人妖となる事は幻想郷ではご法度だ。人間は妖怪を怖れなくてはならず、妖怪は人間を怖がらせなければいけない。人と妖かしの境界がはっきりしているからこそ、人間も妖怪も、もっと云うと神も妖精も幽霊も“自分”で居られるのだ。
 幻想郷はそうして秩序を保っているのだし、それを崩そうとする者は博麗の巫女――つまり霊夢、ひいてはその後ろにある創始者、八雲紫に退治されてしまうだろう。
 この世界の半分は恐怖で成り立っている。丁度、人間が逃れられない死を怖れるように。
「それで、それが何なんだ?」
 芳香に問われて、私は現実に引き戻された。それが何? とはなんだろう。何の話をしていたのか。……ああ。アンデッドは眠るかどうか、なんてつまらない話だった。
「いや、なんでもないぜ」
「そうか。じゃあ聞くが、眠りは、食べることよりも気持ちが良いのだろうか?」
 私の質問が幼稚だったせいか、彼女からおかしな疑問を引き出してしまった。睡眠と食欲を同じベクトルで考えるなんて発想、初めてだ。
 人間が生きるためには、どちらも必要なんだ。私は答える。
「わからん。ただ、気持ち良さだけで選ぶなら、眠ってる方が上かな」
 それを聴いて、芳香は少し、その死して固まった口元を微笑ませた。そんな気がした。
「もし本当にそうなら、ずっと、永遠に眠っていたいものだ」
 それきり彼女が自分から口を開く事はなかった。
 暫く私は芳香との機械的な応答を楽しんだ。謂えば、答える。しかしそれだけだ。やがて興味は本に移っていき、長い、長い沈黙が訪れた。変わらない景色、変わらない味気ない文字列。
 魔法図書館で生活しているパチュリーはいつもこんななのか。私には耐えられそうにない。言葉無く、まるで読経するように一文字一文字を祈りながら追っていくだけ。知識が増えていくような気はするが、実践ができないのがもどかしくて仕方がない。
 ――――ただ、ひとつだけ得をした事がある。静寂の中にいると、外の喧騒がより大きく聴こえる、という現象の再発見だ。
 私を眠りから覚ました謎の音は、拍子木の音だった。どうやら、この小さな窓の隙間の向こうに、紙芝居屋が来ているらしい。
 集まってきた子供達の声が騒がしく里を彩っていた。演目は『進撃のミコチ』。建築と料理が得意な小人二人が、突如として小人の国に攻め込んできた鬼達と闘う子供向けのアクション活劇だ。要は一寸法師の現代版で、私が里に住んでいた頃にもあった結構古い作品だ。創作は年代の壁を超えるらしい。
 紙芝居屋の演技には聞き覚えがあった。演者は昔と同じひとなのだろうか。子供達の興奮が声で伝わってきていた。
 何故だろう。リアルが遠い。私はまるで、何十年も生き永らえた老人のように懐かしく思い馳せてしまう。そして、あっという間に紙芝居はエンドロールを迎えた。
 部屋に時計はない。だが、無駄に大きくなる心臓の音が秒針となって私の命を削っているような気がしていた。外では、紙芝居屋が2作目の演目を披露していた。
 私は、取り残されている。そう思うのは何百、いや何千回目だろうか。だから必死に生き抜いて、――――……この言い訳に、答えはない。いつもある地点で堂々巡りしてしまう。
 頑張りと力は比例しない。どうしようもない事もある。だから私は、必要以上に紙芝居屋の小人の活躍に耳を傾けていたのかもしれない。
 外界の語り部は、すべてのストーリーを終えたあと、サプライズとして別の題材を持ち出していた。それは、とても奇妙なものだった。
『片葉の葦』
 幻想郷七不思議のひとつだ。視聴のおまけが怪談だという事に気がついて、子供達が一斉に不満を上げる。すると、そこで紙芝居師はこう、おかしな事実を述べ上げていった。
「帰るのはまだ早い。いいかい。これは昨日起きた事件なんだ。知っておかないと、夜、おばけが君達のところに来てしまうかもしれない。最後まで聞き終えたら、この退魔キャンディをあげよう。ひとなめ十徳。ありがたいお坊さんから戴いた美味しい飴ちゃんだ」
 後半のキャンディはともかくとして、事件とは何だろう。
 聴くと、本所七不思議と内容はほとんど同じものであった。
 ――――痴情のもつれで片手片足を切り落とされた女の無念によって、その葦は片方にしか葉を付けなくなった。里人達は女を哀れに思い、葦の生える場所に小さな塚を作ったそうだ。だが昨日、塚が荒らされたのか、もしくは同じように女性が殺されたのか、片手片足の女の幽霊が夜中里を飛び回り、哨戒の火や提灯の明かりをことごとく吹き消していったという――――
 なまじ信じられない話だ。商売のために噂を流布しているのだろうか……と、私は最初思っていた。
 しかし、頭上の窓から紙芝居師が離れ、里人の往来が足音として響いてくるようになり、様々な噂話が飛び交うようになると、かなり誇張はあったようだが、何やら異変が起きている事が知れた。
 どうやら、四肢の欠損はないが、幽霊のような女が出没したのは確かだそうだ。一体全体、何が起きているのだろう。
 可能性を考える。もし、小町が私を襲った理由がそこに隠れていたのなら――――――……
 幽霊は私? 成仏できずに彷徨っているから来た? いいや、私は実体化しているし、壁のすり抜けもできない。
 ……もしかしたら、私の忘れてしまった研究が関係しているかもしれない。朝からあった異変。私は裸で、魔法が使えなくなっていて――――私の魔力だけが姿を借りて、里を夜な夜な彷徨っているのか? そのうえ、娘々や死神に目をつけられるような邪法であって、危険な術であるとか。
 あらかた仮説を組み上げたところで、何か行動できるわけでもない。私が今日歩いた距離は、芳香に肩を貸してもらって移動したトイレへの道だけであった。
 夜、一度だけ食事をする。朝から昼まで、ほとんどものを受け付けなかった。身体が衰弱しているのか、それとも、全く運動していないためなのか。娘々が貯蔵していた食物は、どこにでもありそうな保存食、干し飯や魚の干物などであった。
 部屋隅に立てかけてあった魔法の箒を見遣る。八卦炉は枕元にある台の上にあった。もどかしい。眠るだけが、人生なのか。
「なあ、芳香」
「なんだ」
 私は再び彼女に疑問を投げかけた。
「怖いって思う瞬間ってあるか?」
「無い。なぜ怖がらせる側が恐怖しなければならないのか」
「そうか。……私は怖い」
 そして、泥のような眠りに落ちていった。



 ――――……二度目の懐かしい夢だった。
 夢が始まった時すでに、私はこれが幻想だと自覚していた。
 私は泣いていた。
 今よりずっと、ずっと幼い頃の思い出。まだ里に住んでいた頃。
 父も母も、黒い髪であった。私が生まれてしばらく、父は不貞を疑っていたらしい。妖怪に孕まされた娘だと、呪われた娘だと、きっとそんな世間の白い目に晒され続けたのだろう、私が物心つく頃には、父も母も血筋の疑惑なんて忘れてしまっていて、ただ、仲良く優しさに満ち溢れた理想の両親として団結していた。皮肉にも、私が裂いた二人の仲を、私への差別が取り持ったのだ。
 私が無名の丘に捨てられなかったのは、先代博麗の巫女が居たおかげだった。彼女が、私を“妖怪ではなく、特別な人間”として周囲に伝聞してくれたからこそ、裏では化物と謗られたとは言え、家族全員が無事で居られたのだろう。そのせいか、私の家系は、幼い頃から博麗神社と深い親交があった。
 里の子供達とはあまり上手に溶け込めなかった。私は、小道具屋である実家から持ち出した黒い帽子をかぶって、いつも自分の金色の髪を隠していた。幻想郷には様々な外来人が訪れて、金髪なんて別段珍しいものではなかったが、やはり里内部で生まれてしまった事が災いして、私を見る世間の目は冷たかった。
 一度髪を真っ黒に染めたことがあった。だがやはり、私は金色の髪の娘である、という周りの認識を覆すことは叶わなかった。私と同等な関係を結んで遊んでくれたのは、いつでも霊夢、ただひとりであった。
 霊夢も、博麗の巫女として何処からともなく連れてこられた過去を持っていて、幼い頃から異常なほどの霊力を見せる彼女は、同年代の子供達に親しまれることはなく――――
 遠い遠い祖先の血が今頃開花したのか、私は金色の髪以外に、ある程度の魔力をもって生まれたようだった。同じ異能を持つ者同士、仲良く――……とはいえ、私が一方的に好いていたのかもしれないが、霊夢とはよく遊んでいた。
「万里沙。あなたはいつも楽しそうでいいわね」
「あー? 楽しい時はそうするもんだぜ」
「…………あなたらしいわ。無理だけはしないでね」
 他愛ない会話を幾つもした。しかし、他愛ない会話は貴重だった。手を繋ぎ、幻想郷の端から端まで回るつもりで、神社の境内をぐるぐると走り回る。春は桜が咲き乱れ、夏は虫が飛び交い、秋は紅葉に染まり、冬は雪に埋もれる。高台にある博麗神社からは、里を一望できる綺麗な夕焼けと、地平線に乗りかかる広大な星空が見えた。
 私の名前、万里沙は、私の生まれた日に関係している。丁度、幻想郷に沢山の流れ星があった特異な日であり、万理一空をもじって万里沙、と名付けたそうだ。その逸話を聴いた次の日から、私の星好きは始まった。
 私は幸運だった。悪いことのある裏には、良いことがある、なんて説法を説く坊さんは沢山いるが、それに恵まれる人間は極僅かだ。私は幸運だった。だが、両親を裏切ってしまった。
 子供であった私は、自分が異質であることに耐えられなかった。自分さえ居なくなれば、自分さえ産まれなければ……――そんな悲観から生まれた捻れは、やがて度重なる家出となって噴出した。そうして、魔法の森にいる、緑の髪の悪霊に出会ったのだ。
 私が居ない間は、先代巫女が両親にその生活を伝えていたらしい。そして今でも香霖がその報告を続けている。
 私は莫迦だ。一人暮らしで立派になっていくはずなのに、迷惑ばかりかけている。そして、見栄のために顔見せすら出来ないでいる。
 これは悪夢なのだろうか。私は一通りの過去を覗き見て思う。もしくは、眠れないでいる苦しい夜に見た幻惑だろうか――――現実と空想の境目がぐちゃぐちゃに混ざり合って、まるで走馬灯のように回転していく。
 怖い。
 怖い。
 昔から霊夢はあまり笑わなかったな。アリスと出会って、日常はもっと楽しくなった。香霖にはずっと世話になってばかりだ。そんな回顧が、水面下にある後悔と悶苦の海から、浮き上がっては消えていく。
「魔理沙」
 親からもらった名前を変えたのは、単に、自分を変えたかったからだ。弱い自分。強がってばかりの自分。
「魔理沙」
 身体が揺さぶられる。気持ち悪い。誰だ。どうして私を呼ぶんだ。放っておいてくれ。どうして思い出させる。
「魔理沙!」
 誰なんだ。誰……――――? 声だ。
 誰か、誰かが部屋の中にいる!

 飛び起きた私の眼に映り込んだのは、今にも終わろうとする暁の、明ける寸前の夜闇であった。
 何者かの大きな影が、身体に覆いかぶさるようにしてそこに居る。ぐねぐねと触腕のような物体が眼前で揺れた。部屋内には複数の光源があるはずなのに、そのことごとくが機能していない。芳香の姿は何処にもない。窓から滑り降りる朝露の光だけが、世界の輪郭を齎していた。
 影はそのままゆっくりと伸びて私の頬に触れた。生温い。
「起きたかの。魔理沙」
 嗚呼。声だけで判った。それは、人間の里に住まう化け狸だ。蠢いているものは彼女の尻尾であり、差し出したものは腕であった。どうやって此処を見つけたのか……。
「突然ですまぬが、芳香をまぼろしで引きつけておくにも限界があるからの。手短に要点だけ話すぞ」
「……何ぁ…………」 声を出そうとしたが、何かが喉に引っかかって言葉にならなかった。
「おぬしは今、里にとって良からぬ存在になりつつある。おぬしがどんな状態で、どのような意図でそれを行ったか儂は知らぬが、あまりおいたが過ぎると幻想郷におられんようにするぞ」
 化け狸は一方的に捲し立てる。まるですべての住民を敵に回しているかのような口ぶりだ。私は何も知らない。
「わ……ぁしは何も……ゲホッ」
 思考と音声を一致させる事ができなかった。一度大きく咳き込んで、私は喉に引っ掛かっていた異物を吐き出した。
 ――――……それは、固まった血だった。
「警告はしたぞ。もしシラを切るつもりなら、明日にも博麗の巫女がお前さんを訪ねるじゃろう。再び会わん事を願っておるぞ」
 霊夢が? その化け狸は何も知らない振りをしているが、どう解釈しても事情を把握している口ぶりだ。このまま帰らせるわけにはいかない。私はまだ無事な右手を伸ばし、その妖怪の胸ぐらを掴んだ。
「待て……。何があったか教えろ」
「カッカッカッ。シラを切ったな小娘よ。おぬしは自分の事もわからぬのか?」
 化け狸は私の意志を一笑した。胸ぐらの腕を無理やり引き剥がし、もう片側の手で私の頭を鷲掴みにすると、そのまま寝台に叩きつけてきた。
「ここで始末してもいいのじゃよ?」
「ふざ……けるな! 見ろ。この手を、この足を! 箒に跨っても魔法も使えない! こんな私が何かできると思うか!?」
 がむしゃらに腕と足をばたつかせて、拘束を振りほどこうと力の限り動こうとする。――――と、その瞬間。
 ズドン。と何か重いものが落ちるような、固い音がした。妖怪の腕が取り払われて、私は何が起きたか理解する。
 ……この眼で見たのは、壁に叩きつけられた化け狸であった。そして部屋内には――…………自分以外、他の誰も居ない。
「お前さん、……自分が不自由だと思いこんでいるのかい?」
 苦しそうに肺に詰まった息を抜きながら、化け狸は言った。
 そう、それをしたのは、私自身だった。
 私が有り得ないほどの膂力を発揮して、かの妖怪を拭き払ったのだ。強烈な動きによって留めが外れて、はらり、と包帯が緩んだ。そこから覗いた私の大傷は、……ほとんど治りかけていた。
「どうやら儂ひとりでは力不足なようじゃな。それに、大きな音を立てたせいで僵尸に気付かれてしまったの」
 聞きたいことは沢山ある。しかし、状況が不利と悟った途端、その化け狸は瞬く間に枯れ葉に変化して、あとかたもなく消えてしまった。
 そして入れ替わりのように芳香が戻ってくる。部屋の一方の壁は狸の形にひしゃげたままだ。木組みの板が割れ、隙間から黒ずんだ土が漏れていた。キョンシーは、壁に掛けてあった医療器具が床に散乱している中を平然と進んできた。
「オマエ、トイレに居たのにどうやって瞬間移動した」
 『大丈夫か』でもなく『何があった』でもない。あまりにも見当外れのリアクションに、張り詰めていた緊張の糸がぶつりと切れてしまった。
「話せば長くなるが……――――」 と言い掛けて私は口を噤んだ。
 化け狸の話はごく短かったが、そう至るまでの過程や、先ほど組み立てた仮説を披露すると骨が折れる量になってしまう。それに、相手は脳みそが腐った妖怪だとは云え、あの青娥娘々の部下なのだ。不用意に情報を渡してしまったら、あとが怖い。
「それで、どんな話だ?」
 急に黙りこくってしまった私を訝しがって、芳香が首を傾げながら続きを訊いてくる。
「あー……、それはだな」
 無論、私は正直に話すつもりはない。かと云って、その場しのぎの嘘デタラメを信じ込ませるのも難しいだろう。バックには邪仙がついている。私は続ける。
「すまない。私はもう行かなきゃならないんだ。あとで話すぜ」
 寝台から足を下げて、そのまま前のめりに接地する。ズキ、と鋭い痛みが走るが、長くは続かず一時的なものだった。私は立ち上がる。私は立ち上がれる。
「何処へ行くつもりだ? 死にたいのか」
「逆だぜ。生き延びるためさ」
 八卦炉を手にすると、そのマジックアイテムの中にしっかりと魔力が流入していくのを感じた。治りかけの足はまだ引き摺るが、2本足で歩けるだけでも充分な奇跡であった。
「そうやって言い訳して逃げるのがオマエの得意技か? 最悪、オマエを喰うハメになる」
 化け狸を片腕で投げ飛ばした今の私なら、こんな狭い地下室でも芳香を倒すことは出来るはずだ。だが、私の目的は“自由”じゃない。
 “真実”だ。
「娘々は私の研究成果を知りたいんだろ? だから、お前も私と一緒に行動すればいい。取引したじゃないか」
 私はなおも動きを止めず、部屋隅にある魔法の箒を掴んだ。掌の内側から、幽かな鳴動が伝わってくる。これまでにない大きなうねりが生まれ、先端に芽吹いたツルから蓮のような大輪の花が咲いた。
「命令されているから動けない。ドコに行くつもりだ?」
「私の魔法店だ。そこにすべてが詰まっている」
 相変わらず私の記憶にはモヤが掛かっていた。しかし、その場所に何かがあるのなら、可能性が1%でも残っているのなら、行動してみる価値がある。これまでずっと、そうしてきたように。
「いつもそうやって逃げ出すのか?」
「さっきから同じ言葉の繰り返しばかりじゃないか」
「――……納得できる答えがないからだ」
 その求めている回答とは、誰にとってのものなのだろう。私達は一体、誰の為に世界を知ろうとするのか…………――私はおもむろに手を伸ばし、芳香の額に添えた。
 魔力の満ちた今の私なら、可能だ。芳香を拘束している娘々の札を一気に引きちぎる。
「あッ」
 弱い嗚咽と共に、キョンシーの身体が一度大きく痙攣した。彼女はまるで人形のようになり、力無く関節を曲げてその場に崩れ落ちた。眼と口は固く閉じて、ピクリとも動かなくなる。
 1分。2分。少し待ってみたが芳香が再起動する気配はなかった。悪い冗談だろうか。まさか、札が彼女の本体ということは無いはずだ。その皮膚に触れてみる。冷たい。だが、魂魄のような何かが、まだ芳香の肉体に囚われているのを感じる。
 ――――……それは、自由なのだろうか?
 娘々の施した呪縛が解かれて、芳香は自分の意志を手にしたはずだった。しかし、その魂は天に還らず、此処にある。そのうえ妖怪らしい欲求は朽ちて、まるで疲れ果てて眠りに就くように目を閉じたまま、いつまでも経っても起きなかった。
 嗚呼。これは、ただの屍体だ。心もいつか摩耗して、死に至る。
 私は彼女を肩に担ぐようにして箒に乗せた。せめて、人間と同じように埋めてやろう。ああ、軽い頭痛がする。思い出す。何かを埋めている…………暗い嵐の夜……嫌な気分だ。
 魔力を込めると、ふわり、と魔法の箒が浮かび上がった。いける。そう思った瞬間、凄まじい勢いで私は家の天井を突き破っていた。コントロールが効かない。身体はみるみる内に上昇していき、雲を突き抜け蒼天のもとに躍り出る。
 初めて空を飛んだときのことを思い出す。降りる方法も考えずに闇雲に太陽を目指して、そして遥か上空で泣くほど後悔した。まつげが凍り、三つ編みにした髪に白い霜が降りてくるのを感じる。
 私はあれから成長した。夢の中で回想したあの泣き虫万里沙はもう居ない。私は魔理沙。普通の魔法使いなんだ。
 新しい力とその飛行に慣れるまで、さほど時間は掛からなかった。万象の理が紐となって流れていくのが視える。その筋の一本一本が、まるで意識に引き寄せられるように私の掌の中に収まっていった。たちまち姿勢は安定して、私は幻想郷を神の高みから見下ろした。
 魔法の森の中にポツンとある赤い屋根。私の魔法店。例えどんな運命が待ち構えていても――――……自問自答して、決意を胸に抱く。
 ほんの一日二日に過ぎない期間なのに、もう随分と、自宅に戻っていない気がしていた。怪我したままの左足を突っぱねて、私は地上に降り立った。未だ湿度の抜けきっていない大地がぶよぶよと沈み込んで気持ち悪い。昨日の死神の影響か、鳥や虫の姿も疎らだ。目の前には鍵の掛けられた魔法店。
 そして、そこには紅白に身を包んだ博麗の巫女が、ひとり佇んでいた。

「ねぇ、私が昔あなたに言ったこと、覚えてる?」
 彼女とはまだ距離がある内に、そう尋ねられた。霊夢は浮かない顔をして、私と目を合わせようとしない。長い眠りに就いた芳香をその場に寝かせて、一歩分、私は隔たりを埋めた。
「いつの話だ?」
 近寄りがたい雰囲気だった。空気がピリピリと静電気を帯びて、今にも雪崩れそうなバランスで揺れている。霊夢は答えた。
「いつかの昔の事よ。いいえ、つい最近も言ったかしら。――――“無理はしないで”って」
「……ああ。よく言われるぜ。霊夢以外にもな」
 風が魔法の森を凪いでいった。静かだ。隠れ家の中に居たときよりもずっと。
「キョンシーを担いで現れたあなたが、何を企んでいるか私は解らない。けど、もう此処には何も無いわ。帰りなさい」
 何かを諦めたように霊夢は吐き捨てた。さっきから私をわざと見ないようにしているようだ。彼女は何か、事情を知っているのか?
 ひとつ、ふたつ。と歩み寄っていく。私の足取りはその静寂に気圧されず、軽やかだった。
「私の帰る場所はココだぜ。私の店。霧雨魔法店だ」
 直前まで来て、私は俯いた霊夢を覗き込んだ。……――目の周りが赤い? 確認するや否や、それほど見られたくなかったのか彼女は私の胸ぐらをつかみ、一気に押し倒してくる。
「あなたが今帰るべきは、此処じゃないのよ」
「……どういうことだぜ?」
 霊夢の様子は尋常ではなかった。普段、あまり表情を変えず飄々としているのに、今日に限ってまるで今にも泣きそうな声色だった。
「魔理沙は何も知る必要はないわ」
 馬乗りになって私の胸に大幣を突き立ててくる。彼女をここまで駆り立てるとは、余程のことなのだろう。私は一体、何を研究していたのだろう。
「霊夢。……――私がもし、その家の中に用があると言ったら、どうする?」
 ああ。それは私の失言だったのだろう。今一番、霊夢が言って欲しくなかった言葉だったのだろう。彼女は唇を噛み、そして
「あなたを止めなきゃいけなくなるわ」
 妖怪に向ける視線と、全く同じ眼光を私に浴びせてきた。
 死神は私の首を狙い、自ら命を断てとまで云った。邪仙は安全を投げ捨ててまで私を身を挺して庇い、霊夢はその秘密が暴かれることを何よりも怖れている。
 どうするべきだ。何が最善か?
 当たり前だ。答えはもう決まっている。
「霊夢。私は真実が知りたい」
「たかが真実よ。私は妖怪退治の専門家。もしこれ以上踏み込むなら――――」
 云うな。云うな。それ以上喋るな。霊夢の心の声が透けて見えた。しかし、意図は汲み取れても、私の意志は止められなかった。
「私は人間だからこそ、好奇心が抑えられないんだ」
 ほんの刹那。完全に時が止まったような気がした。
 木々より滑り落ちる木の葉は宙空で惑い、吹き抜ける風は粘性を帯びて渦になって漂う。空を行き交う雲は写真のように焼け付き、音の波動は滴り落ちる水のように重く浸透していった。
 まるで自分を騙すよう、芝居がかった台詞を霊夢は口にした。
「――……もう、あなたは、退治される側なのよ」
 一気に霊力が爆発し、辺り一面が光に覆われた。
 組み臥された私には為す術なく、大幣を突き立てられた胸は貫かれて潰れ、まるで踏み殺された虫のよう無惨な姿となった。…………――――――以前の弱い私なら、そうなったはずだ。
 私の膂力は軽く霊夢を上回り、その力の爆発が起こる寸前、彼女を引き剥がし、瞬時に後ろに飛び跳ねて体勢を立て直した。
 まるでその動きは妖獣のようだった。自分でも不思議に思うが、力が次々と沸いて出てくる。
「別に私は異変を起こそうってわけじゃないんだぜ。すこし確認するだけだ。記憶さえ蘇れば――――」
 霊夢とは闘いたくなかった。弾幕ごっこならまだしも、殺し合いなんてゴメンだ。今なら彼女すら圧倒できそうだが、博麗の巫女を倒して何の意味があるのか。
 しかし、その返答は大量の御札で伝えられた。魔力の満ち満ちた箒で払い落とし、私は霊夢と対峙した。
「どうせ嘘でしょ?」
 博麗の巫女は冷たく言い放った。どうしてそんな眼で私を視ているんだ。困惑する暇もなく、彼女の姿が一瞬にして視界から消失した。
「嘘かどうか、」 解ってる。霊夢お得意の空間移動だ。真後ろに現れた彼女の、振り上げていたその腕を動く前に受け取って、「私の眼を見て確かめてみろ!」 思いっきり引き寄せて額と額をぶつけてやった。
 ゴツン。私と同じように、霊夢も星が見えたのだろう。一歩。二歩下がって、衝撃をなんとか堪える。ふふ。何故だか笑いがこみ上げてきた。相手は私をどうにかしに来ているのに、変に楽しい。視界が晴れて、再び私達は互いに眼を見合わせた。
「………………ッ!」
 奥歯を噛みしめるような壮絶な霊夢の表情が一瞬映って、そしてそれは次の瞬間には真横に逸らされた。脳裏を支配する思いを振り切るように目を閉じて、彼女はゆっくり退いた。
「……わかったわ。行きなさい」
 小さく霊夢は呟いた。私に言っているはずなのに、それは何処か、自分に言い聞かせているような言葉だった。
 霧雨魔法店への道が拓ける。記憶に新しい、雁字搦めに施錠された玄関の扉。目張りされた窓。一度解いてからもう一度巻き直したのだろう、ドアの鎖は緩んで、肝心の錠前は開いたままだった。
 重い音を鳴らして、その戒めを解く。封印を地面にまっすぐ落として、慣性のままに扉を押していく。何日前のものかわからない冷たい空気が溢れ出てきた。内部は、相も変わらず雑多である。
「魔理沙。もうそこには、何も無いのよ」
 後ろから霊夢の言葉が浴びせかけられた。私は答えを探して奥へ奥へと潜っていく。ここは私の人生の半分だ。他所から借りてきた魔導書や拾い集めた魔石を始め、いつか構造と解き明かそうと思っている器械や、そのうち役立ちそうな貴重な素材の瓶詰め。幻想郷に流れ着いた外の世界のアイテムたち……――――専門分野では河童やその他技術者には敵わないが、広く浅く、どんな分野でも最初の一歩だけは踏み出しているはずだ。そのせいで芽が出ないのかもしれないけども。
 そもそも私の目的は何なのだろう。この膨大なる過去の足跡を眺めて立ち返る。ここが魔法店になる前、緑の魔女は云っていた。
『この世界は摩訶不思議に満ちている。辛くてどうしようもないときは、あの光り輝く訳の分からないものたちを思うのさ』
 ――すると、痛いのも苦しいのもいつの間にか過ぎ去っている。
 この有様は、私の弱さだ。そして、私が探し求める謎は、ついに私自身にまで及んだのだ。
 ずっと逃げ続けたツケが回ってきたのかもしれない。私は研究室に入り込んだ。ほんの少し、何かが腐ったかのような嫌な匂いが鼻腔を突いた。
 作業途中で店をあとにしたのだろうか、開けっ放しの瓶詰めや床にばら撒かれたままの素材がそこかしこに転がっていた。この異臭は恐らくはこれら残骸のものだろうか……調合釜のすぐそばの壁に、一際目立つ黒い染みが付いていた。溶液をこぼしたあとのように見える。
 記憶が蘇ってこない。何があったのか理解できない。予想する限りだと、実験の失敗によって良からぬ存在が生まれて、それを封印するために家を封鎖した、という所だろうか。
 ……――これでは、芳香と共に身を隠していたときの想像とさほど変わりはない。裸で倒れていたのも理由がつかないし、何よりも私が納得できない。そもそも、里が襲撃されている時点で封印の理屈は間違っているのだ。
 じゃあ、私は、霧雨魔法店に何を残したんだ?
 思い出せない。持てる知識を引っ掻き回して、その実験で何が使われたかをトレースしてみる。だが、痕跡として釜の内側にへばりついている素材はみな普遍的なもので、更に魔力的な追跡も何ら特別なものが無かった。
 実験室より出て、2階にある自室に戻っていく。何も変化はない。懐かしさすら覚える部屋は、大図書館から借りた本が平積みになり、薄い埃が表紙を覆っていた。数ヶ月ほど飼い慣らしていたツチノコの檻は空になって吊り下げられて、目張りのされた窓から朝の光が漏れている。
 日記を読む。自分の最後の動きを確認する。直前までやっていた魔法実験の記事を、何度も何度も読み返す。そう、何度も何度も……――――――何度読み返しても、そこには、異変の手がかりになる記述など何処にも描かれていなかった。
 変だ。おかしい。どうして。焦燥を覚えて、私は階段を駆け下りた。記憶に因れば、唯一残っている記憶を信じれば“そこ”にあるはずだ。玄関を飛び出て、魔法店の庭脇に立てかけられているスコップを私は持つ。
「魔理沙。一体何を……」
「ここにあるはずなんだ。ここに……きっと」
 訝しがって寄ってくる霊夢を脇目に、私は必死にその場所を掘り返した。地盤の緩んだ土は簡単にスコップを呑み込んだ。例えば柔らかいものが埋葬されていたとして、この勢いで先端を突き入れてしまったら、明らかにその“何か”を損傷してしまうだろう。だが、私は夢中になって、必死に願うように乱暴に穴を広げていった。
 抵抗はない。やがてその空虚な喪失は、諦めとなって姿を現した。腰ほどまで落ち込み、無を実感する。
 そこには、何も残されていなかった。何も。
 答えなんて無かったのだ。ただ、叡智の有無を勘違いした私が、自分の意志に振り回されていただけなのだ。
 そう、
「魔理沙……」
 ………………そうであれば良かったのに。
 私の名前を呼んだのは霊夢ではなかった。最も整った道のある森の影より、長身の人影が現れて私を遠くから見ていた。
「こ……」 私が漏らすより先に
「霖之助さん!」 霊夢が彼の名前を強く呼んだ。まるで何か暗黙の領域で言い聞かせるように、強く。
「霊夢? …………香霖? 一体、何だ。何か知ってるのか?」
 二人の顔を見直す。冷や汗ひとつかかず、彼らは私を一瞥し、そして逸らした。疑いたくはなかった。しかし、その態度が何もかもを物語っている。
「なあ、霊夢。何か云ってくれよ」
「……だから言ったでしょ。何も無いって」
 霊夢に掴みかかってその瞳を無理やり覗いてみる。そこに映っていたのは私の狼狽しきった顔。自分自身だった。救いを求めた意志が脳髄をぐちゃぐちゃに掻き回して、戸惑ったまま私は香霖へと視線を移す。
「香霖! 霊夢は一体何を隠してるんだ? 教えてくれよ!」 
「霖之助さんに訊いても無駄よ魔理沙。私達は、何も知らないのだから」 遮られる。
「霊夢に聴いてるんじゃない!」
 ――――パンッ。勢い余って私は霊夢の顔をひっぱたいてしまった。横槍を入れられる行為が許せなかった訳じゃない。そうやって庇うような言動をすること自体が、隠し事がある証拠になってしまうからだ。
「…………………」
 普段なら頬を張り返してくるはずの霊夢が、とてつもなく冷たい目で私を見ていた。何だ。一体何なんだ。私が何をしたんだ。一体――――……………………
「霊夢」
 凍りついた時を動かしたのは、香霖の声だった。厭な沈黙を破り、こう、一言、語り掛けてくる。
「いずれ辿り着くさ。すべて教えよう」
 その一言は、霊夢の目頭に涙を生じさせた。力萎えて、私は彼女の胸倉を離した。何故だか途端に、地平線が大きく視界に飛び込んできた気がした。半分以上の、綺麗な青。
 香霖は何を持っているのだろう。突然、皮膚が疼いて、そよ風がたまらなく煩わしくなった。頭が痛い。失くなった部分の記憶と関係があるのか。彼は『アリスも今、香霖堂に居る』と、短く呟いて、すっと踵を返した。霊夢は、私を振り返りもせずにその背についていく。私は…………――
 私は、もう動かない芳香を背に抱えて、ゆっくりと従い始めた。地は固まり始め、抜けていく湿度によって景色はグラグラと不安定に揺れていた。魔法の森の奥から、滅多に聴こえてこない妖精の歌が聴こえる。感覚が、異常に冴えていた。
 そう言えば、私は、何故力を得たのだろう。つい先日、髪を結ってもらった香霖堂が見える。玄関前の狸の置物が、いつものように戯けながら虚空を眺めていた。



 ――――……真実を受け止めるのは難しかった。

 耳元で延々と私に囁きかける、ありもしないノイズが未だ残っている。夜が訪れつつあった。私は香霖堂でそれを知ってしまったのだ。店内に入り、私の姿を確認した途端、胸に飛び込んできたアリスの苦しそうな嗚咽が、未だに生々しく思い出せる。

 ……私は香霖堂の奥へと案内された。芳香を玄関先に置いて、霊夢と、浮かない表情のままのアリスと共に、その物体を見る。
 私が作り出したもの。
 私が追い求めた末に手に入れたもの。説得力のある事実。
 それは人間だった。私がこの世で一番良く知っている人間だ。
 大きめの台に、不相応なほど華奢な体を横たえて彼女は眠っていた。衣服は何も付けず、無垢な桜色の肌を露出していて、見るからに痩せっぽちの子供であった。金色の髪、そして薄い胸板に付けられた新しい十字型の傷、縫い跡。
 ――――……死んでいる。
 顔には見覚えがある。見覚え……――――  ――  …………………    ………私だ。
 これは、私だ。
 霧雨魔理沙が、私の眼の前で死んでいる。
「どういう……ことだぜ?」
 アリスと霊夢は俯いたまま、何も話そうとしない。私は周囲を見回した。香霖堂だ。此処は香霖堂だ。夢のようにぐにゃりと情景が変わって内省的に話しかけてくる事はない。静寂が私に答えてきた。彼女は息をしていない。彼女、いや、私だ。私の心臓は止まっている。じゃあ、今の私は、誰なんだ?
「見つけたのは僕だ。昨日あれから心配になって霊夢と一緒に魔法店に行ったんだ。そのときはもう……かなり経っていたよ」
 香霖は何を話しているのだろう。私がずっと魔法店の中に放置されていた、とでも言いたいのだろうか。それなら、昨日ああして気軽に喋っていたのは、結局何だったのだ。
「…………言っている意味がわからないぜ。だって、私、こんなに綺麗じゃないか」
 動揺のせいか、私の口をついて出た言葉はどこか見当違いの指摘をしていた。部屋の端に立てかけられた姿見鏡に自分の姿が映る。――――………………それも、私だ。
「……見苦しくないように僕が補修したんだ。いずれ君の両親にも伝えなきゃいけないしね」
 まるで私が居なくなってしまった前提のように彼は云う。
「何だよ。私が幽霊だっていうのかよ!」
 落ち着いていられなくなって、私は香霖の手を取り自分の胸に押し当てた。彼の掌には体温が通っている。私のものには…………――?
「ホラ! 心臓も動いてるだろ! 私が死んだみたいに謂うのやめろよ!」
 ああ。判る。心音が高鳴っているのも、めちゃくちゃに心が掻き乱されて涙が出そうになっているのも判る。答えてくれ。答えて………………私は祈るように言葉を待った。だが、一向に返答は来なかった。
「なにか、何か言えよ! いきなり無視するなよ! さっきまで、さっきまで話してくれてたじゃないか!」
「……魔理沙」
 そこで声を拾ったのは霊夢だった。諦めたように眼だけ俯いて、ひとりで呟くようにボソボソと語り掛けてきた。
「あなたはもう……――――」

「そう。人間じゃないのよ」

 静寂を粉々に打ち砕くように、第三の声が突如として生じた。
 ズ、と脳味噌に何かが打ち込まれる感覚がした。気がついたときには、もう何もかもが手遅れだった。私の背後に誰かが居る。聞き覚えのある声を再び奏でて、“それ”はこう続けた。
「芳香をここまで運んでくれてありがとう。おかげで探す手間が省けましたわ」
 霍青娥。邪法によって不老不死を得て、何百年も死神から逃げ続けている幻想郷最悪の邪仙だ。私を匿おうとしていた張本人。彼女の目的は、私の知識、研究の成果、見つけたものであった。嗚呼、そして……――――私は、自分が今、頭蓋骨の中に壁抜けの鑿を入れられている事を理解した。
「あ。私には触れないようにお願いしますわ。何かの拍子に手元が狂ったら、大変なことになってしまいますもの」
 霊夢とアリスが動こうとしている気配をいち早く察して、その邪仙は堂々と釘を刺してのけた。私からは見えないが、彼女が異常に歪んだ笑みを浮かべていることは想像に難くない。
「さあ。手伝ってあげますわ魔理沙さん。貴女が、大事なことを思い出すまで」
 云うと、彼女は火花が散るような音がする“何か”を近づけてきた。手足が凝固して動かない。脳髄を素手で掴まれている気分だ。キョンシーもこうやって作るのか――……もう私が人間でないのならば、私はアンデッドなのか?
「やめなさい、青娥」
 霊夢が口で静止してくる。勿論、戦闘態勢すら取れていない。誰もが、私を案じて動けずに居るのだ。あれ、私は、眼の前で死んでいて――――――……????
「あら、霊夢。ごめんなさい。もう手遅れよ」
 私はどうして二人居るのか。――――……そんな疑問が精神に到達する前に、眼球の奥が激しくスパークした。私の意識は、瞬時にして硬い記憶の殻の中へと沈んでいった………………―――――― ― ――― ―――― ―― ― ―

「何の遊びをしているかは知らないけど、早く戻りなさい。帰れなくなるわよ」
 霊夢の忠告を思い出す。あれは魔法の箒の事を言ったのではなく――――………… ……   …
 …………………  ………     …………  …

「あまり詮索するのも何だが、その姿は一体何の冗談なんだ魔理沙」
 香霖の心配を思い出す。私は彼らの言葉を勘違いしていた。……――――――否。何を指しているか、無意識の内に気付いていたからこそ、取り合わなかった。
 ………   ………………………………… ……    …

 一糸纏わず起きて、施錠された魔法店を見回る。私が起こした行動が、逆再生でトレースされていく。眠りの中で眠りに就き、意識は再び、長い暗闇のトンネルに潜り込んでいった。
 ……――――………… ……
 ………――……
 ……―…

 断片的に遡っていく。……――――――まず大きな失望感――――魔法店の中をフラフラを彷徨う―――――…庭にうずくまっている―――  ―…―光り輝く球体― …――――  ――雷の音――    ―…――  ――――… ――穢れた手を洗う―……―――  ―― ――…―  ……

 私は何かを埋めていた。
 とても穢くて、嫌な気分だったのを覚えている。
 星も月も出ていない、暗い嵐の夜だった。

 私は、死んだ猫の死体を埋めていた。
 掌は腐った血で穢れていて、不快な異臭を放っていた。二十歳はゆうに越えているだろうか、死した老猫は乾いた黄色の毛並みを泥の中に横たえて、私の魔法店前で永遠の夢を見ていた。このまま野で朽ちられては寝覚めが悪いと思い、私はそれに墓を作ってやる事にした。星も月も出ていない、暗い嵐の夜だった。
 魔法実験は連日失敗続きで、何とか事態が好転しないだろうかと藁をも掴む思いで大雨の中に突っ込んで、何の収穫もなく帰ってきた矢先の出来事だった。ぽつんと一匹、雨に打たれて今にも流されようとしている老猫に、私は見当外れの感情移入をしたのだろう。塞ぎ込んだ心のまま、身体がずぶ濡れになるのも厭わず、ただただ祈るようにスコップを動かしていた。
 なぜ死ぬのだろう。生物には必ず終わりがある。妖精や幽霊が恒常的にダンスをしている幻想郷にすら、死は絶対的に存在する。猫は何を思って逝ったのだろう。その瞬間、何を感じたのだろう。
 痩せた身体に土を重ねるたび、私の視界がどんどんと閉じていく。まるで現実に蓋をしているようだ。いつまでも芽の出ない魔法の研究なんかやめて、人生に目覚めたらどうだ?
「お前は、真実に向かうことで生きているふりをしているが、その実、嫌な現実から逃げ出す行為を正当化しているだけだ」
 暗示や呪詛のように、独り言は私の口をついて溢れ出る。解っている。家出から始まった私の逃避行は、本当は醜い自我の弱さから生じているなんて事――――……
 何もかもを埋めてしまって、私は一息ついた。それは大きな溜め息だった。一歩。ぐちゃり、と靴の形に泥が変形する。靴下もその中も濡れて歩きにくい。服も下着も肌に貼り付いてしまって全身が鉛のように重くなっていた。逃げる。自宅の玄関をくぐり、屋根の下へと、雨音のしない屋内へと篭っていく。扉を閉めて、その背をもたれかけさせる。目を閉じて、瞼の裏にある星空を仰ぎ見た。
 暗黒星雲がそこには広がっていた。次々と生まれつつある星々が、撹拌しながら息遣いと共に奥底で脈動している。
 ああ、多分、良くなる前兆だ。落ち込めば、その分だけまた明るくなる。人間の心は、まるで絶え間なく上下する波形だ。私は汚れた両手を俯瞰した。
 それは死んだ。私は生きている。
 私とそれは顔見知りですら無い。なのに、私は死を引き継いで、自分の精神の糧にしようとしている。まるで屍肉を漁る肉食動物のようだ。
“何もかもが自分の為にあると思い上がるな”
 だが私は考えるのをやめられない。深く思考するのが苦手な癖に、悔恨や内省を嘲笑うように自分本位に案じ続ける。
 身体が冷えて指先に血が通っていないうえ、抑制された感情が筋肉を凝固させているのにも関わらず、私は自動的に動いていた。
 ――――…  ……―― …日常的な反復。
 意識の水面下では、言葉に昇華できない表現達が死について議論を交わしている。意志と実体が分離してしまったかのよう、私はいつの間にか熱いシャワーを浴びている。嵐の中、冷たい雨の浸透する泥の中で眠る汚れた死体と、自分の生き様を必死に言い訳で繕いながら暖かい部屋で四肢を洗い流す生者。
 答えなどもとより用意されてない自己追求が去ってしまうまで、私は再び逃走を始める。裸になって自室のベッドに横たわる。風の音が遠い。
 眠れそうにない。大雪の降った次の日の子供のように高揚している。さっきまでは確かに沈み込んでいたはずなのに――――…… …― ――― ……
 混沌とした自我のまま、私は軽く薄着を羽織って研究室へと歩いていった。相変わらず、薬と発酵が混じったような匂い。何千、何万と繰り返して、単一の原料なんて失くなってしまった。何もかもが経験のバランスで成り立っている。屋根を打ち付ける雨粒のノイズが気持ちいい。嗚呼。まるで、時が一本の矢として飛び去っていくようだ。血と汚物に塗れた手は清められ、私はまたしても恒常性を取り戻す。繰り返し探求する。繰り返し。繰り返し、繰り返し…………
 ――――……一体、何時間経ったのだろう。
 魔法実験と失敗、そして寝台に戻って眠るを何度も反芻した。嵐は止まず空は昏く、夜と昼の概念がわからなくなっていった。
 雨が弱まったのに気付いたのは、いつだったろう。強風だけが残って、ねずみ色の雷雲をひたすらに撹拌していた。摩擦によって生じた静電気が大きな稲光を生み出し、辺り一面に耳をつんざく破裂音を轟かせた。私はその時も、新しい魔法を探して真実に向かって眼を細めていた。
 何かが出来上がりそうな予感はあった。そしてそれは今現在だけの期待ではなく、私を常に惑わせ続ける無意味な万能感であり、また生きるのに必要な活力でもあった。
 私が魔法を創り始めて、何を得ただろうか。
 ――――――…… ―――― …  ――… ああ。 それは、沢山ある。私は、様々なものを生み出せた。私には可能性があった。―――…… ……   …………――…  …  ―…―――――…  ……………――だが、多くの人々が積み上げる業績に比べれば、あまりにもちっぽけでは無いか?
 眼前で泡立つ混沌に満ちた釜のよう、私はこうして、何か画期的なものが“偶然”出来上がるのを待っている。最高のアイデアが閃く瞬間を、ひたすらに待ち望んでいる。
 私は、永遠の芸術品として自分の人生を昇華させられる、究極の一瞬を、…………つまらない幻想を追っている。
 何かが出来上がりそうではあった。毎日が集大成だった。そしてそれは、今現在、私の眼の前に突然、まさしく偶然の具象化のように現れたのだった。
 ほおずきのような赤い塊。
 そよ風に舞う鳥の羽根のよう、ふわふわと無秩序に浮かんでいる。電気を帯びているのか、部屋内の舞い上がった埃がその物体に吸い寄せられては黒焦げの塵になっていく。高エネルギー体。大図書館の本に、これに似た現象の記述があったのを思い出す。
 球電。近くに落雷のような、強い電力の発散があった時に稀に発生するというプラズマ体だ。それが、私の魔法実験の魔力を吸収して変質している。本によればあまり長い時間出現する訳ではないようだが、目前のものは幾つ秒針を数えても失くならない。
 熱源確保のために置いていた八卦炉がカタカタとまるで共鳴しているように振動し始めた。試しに八卦炉を手に持つと、明らかに球電とリンクしているのが感じられた。これは、新しい魔法だ。詳しい効果は不明だが、電気と魔力が超圧縮されているのが解る。何らかの容器に入れることができれば、安定してエネルギーが得られるだろうか。
 気が逸って、肩が踊るのを抑えられない。私の魔法の可能性がぐっと広がったのだ。熱と光のほかに、雷の性質も扱えるようになる。もし、球電が消失したとしても、同じレシピを使えば電気に対して干渉できるはずだ。当たり前にあった実験が“偶然”によってその本質を露わにしたのだ。
 早速私はかの成果を捕らえようと、マジックアイテムを並べて保存方法を模索した。しかし―――…… … ――
 僅かにその像が揺らいだ気がした。一瞬の見落としは、轟音となって私を襲った。……―― ―  ―― ―――… …何が起きたか判別ができなかった。―――… ――― ―… …―――――――私は、私を見下ろしていた。球電によって明るくなった部屋が、撹拌する暗雲の昏がりに戻っていて、周囲には先程並べた数多の実験器具が散乱していた。…―― ………   …     ――  ……    ……      ……………………  ……  …          ……………気が付くと、私は泥の中で溺れそうになっていた。

 何が起きたかを理解するのには、かなりの時間を要した。
 目覚めた私は、庭の、ある地点の穴の中に埋められていたのだ。奈落から生還するように大地から脱出すると、雨は上がっていた。身体は一糸纏わず、所々乾いた泥がこびり付いていた。
 魔法店に戻り、研究室を見に行く。最期に見た光景が、未だそこにあった。私が居る。そして、
 …………私は、自発呼吸の止まった私自身が、やがて心臓も停止して冷たくなっていくさまを、その傍らで眺めていたのだ。
 私は、自分に降り掛かった真実を覆い隠すため、霧雨魔法店を閉鎖した。そしてそのまま気を失い、新しい朝を迎える―――――  ―――― ―― …
 あの球電は、触れたものの魂魄を綺麗に剥ぎ取る力を持っていたのだろう。私の身体は傷ひとつなく死を迎えた。私が私自身を俯瞰したのも、その分離した魂が見せた一幕なのだ。
 そしてこの躰は、私が埋葬した老猫のものだ。幻想郷は怪異が溢れている。齢20を越える猫が化けるのも珍しくはない。あのあと、土の中で変化するそのプロセスに私の魂が入り込んでしまったのだろう。結果、私は、何事もなかったかのように産まれ直す事となった。
 娘々が探っていたものは球電の魔法だろうか。魂魄を完全に分離できる方法があれば、彼女の目的も随分と楽になる。
 魔法の森で橙に出会ったのは、化け猫の気を感知したからか。小町は、おそらく魂魄を異常な方法で移し替えた私を“正常な末路”に戻すために来たのだろう。
 ――霊夢や香霖の反応が悪かったのは、私の変化に勘付いていたからだったのか。嗚呼。私は、気付いてしまった。
 ………………私は、人妖だ。更にこの躰は……――――



「真実は見つけられたかしら“魔理沙”?」
 みな、心配そうな顔をしていた。追憶への旅が終わり、私は娘々の声で現実へと引き戻された。頭蓋骨に空けられた穴には未だ彼女の指が入り込んでいる。私は、
 ……私は何を云うべきだろう。
 誰かに、何かを表現するなんて出来るだろうか。
 もし今、眼を閉じてしまって、夜遅くそうするみたいに眠りの世界へと旅立てたのなら、すぐにも意識を手放してしまいたい。一夜の夢を経由すれば、何もかもが元通りの日常に戻っていたりするような予定調和が欲しい。
 嗚呼しかし、すでに腕も足も斬られて血が溢れているし、隠れ家で惰眠を貪っている。あれは直視しなければならない現実だ。そして私の背中に連なる過去もまた、ほんとうだ。
「判ったでしょう?」 青娥は私の耳元に唇を近づけて囁いてくる。「貴女はどうしようもない罪業を背負っていますわ。里で起きた妖怪騒ぎも、みなその手で直接引き起こして――――」
「魔理沙、耳を貸さないで! そいつの話す事は全部デタラメよ」  
 そこで声を荒げたのは霊夢だった。邪仙と正面から相対して、鬼気迫る勢いで凄んでくる。しかし、私を案じてか一歩も踏み出せないようだ。
「あら霊夢さん。幻想郷を守る巫女であるアナタが一番“そういうこと”を耳にするんじゃないかしら?」
「魔理沙。あなたは何も思い出さなくていいの。あなたはただ……――――」
「ただ、なに? 死んでしまった? 魂が剥がれた? それとも、悪夢でも見ているだけって嘯くつもり?」
「私の言葉を幾ら遮っても無駄よ。アンタの嘘なんて誰も信じないわ」
「先に遮ったのはどっちかしら? 信じる信じない以前に、これは事実ですわ」
「自分に都合の良い出来事を持ち出しただけのクセに……」
「お互い様でしょう?」
 背後で青娥がケタケタと笑っている。衣服のない人間の私の死体を囲んで、博麗の巫女と邪仙が何か言い合っている。すべてが対岸の火事のようだった。現実から意識は剥離して、まるでミニチュアの中で行われる人形劇を上から眺めているような感覚に襲われていた。私は多分、この言い争いを止める権利がある。
 だが、それに、現実を変える力はあるだろうか。
 もし娘々の言葉が真実なら、――――いや事実なのだろう。彼女の言葉には思い当たる節がある。睡眠のあと空腹が紛れていたり、手に乾いた血が付着していたり、喉奥には血が……二度目に、私は誰かを襲ったのだろうか。
 混乱する。
 どうすべきか、判らない。
 …………――――――判りたくない。
「さ。魔理沙さんは何も答えたがらないようですし、本題に入りましょうか?」
 云うと、娘々は私の頭から壁抜けの鑿を離した。今にも飛び掛かろうとする霊夢を牽制するように、一歩下がり、私を間に入れてくる。そして、此処に居る誰もが避けようとしていた事実に容赦なく触れた。
「あなた方は、彼女をどうするおつもりですか?」
 それは金切り声を上げてしまいたいほどに、苦痛で、恐ろしく、逃げ出したい運命であった。私が人妖であるという事は、……
 すなわち、退治される側なのだ。
「あなた方は」 娘々は流れるようにひとりひとりを指して言葉を滑らせた。「幻想郷の住民として、それなりの力を行使できる立場にある。半妖、魔法使い、博麗の巫女……――。共に異変を解決したり、幼少期から彼女と関わっていたり、特に霊夢。貴女には重大な役目がある」
 青娥はわざとそこで台詞を切った。私が見る三人の顔、香霖、アリス、霊夢の表情は困惑と鬱屈に満ちていて、私と同じく喉からさきに現実が詰まってしまい、声が出てこなくなっているようだった。
 幻想郷のルール。人間と妖怪のバランス、その境界を守ること。ひいては幻想郷を存続させること。そのためにスペルカードルールがあり、そのために博麗の巫女が居る。
 もしひとりの人間が、リスクなどほとんど無しに頑強な妖怪に生まれ変わってしまったら――――そのうえ、変化した人物が、これまで幻想郷の秩序を保っていた“ルール側”の、例えば小道具屋の家出娘だったとしたら?
 姿形が人間のままであれば隠し通せるか? 人間にも妖怪にも知られなければ良いか? 私は、魔法の森で橙に会っている。幻想郷の創始者で賢者のひとりである八雲紫の式神に。彼女は、化け猫となりかけたあの老猫を追ってきたのだろう。もう、何もかも手遅れだ。
 長い沈黙を破り、青娥娘々はこれから起こるであろう、異変の核心に触れる。
「博麗霊夢。貴女は、彼女霧雨魔理沙を退治しなければなりませんわ。そんなコト、嫌でしょう?」
 私の背後で見えないが、その邪仙が意地の悪い笑みを浮かべているのが解る。問われた霊夢は、押し黙ったままだ。私が視線を向けると、ハッとしたように彼女は目を丸くした。現実が追いついたのか、無理に声を絞り出す。
「嘘ばかり並べないで」
 苦しそうに、まるで自分の身を切るような応答だった。私は――――何を、何を云うべきだろう。

「――――……いいんだ霊夢」

 気が付くと、言葉は自然に滑り出ていた。
「霊夢。私はすべてを思い出したんだ。もう、私を守らなくていいんだぜ?」
 何を口走っているんだ。単なる自暴自棄じゃないか。
「私は人妖だ。それは自分が一番良くわかっている。けどひとつ言い訳させてもらうと、望んでなったわけじゃないんだぜ。だから、何も気を揉まなくていいんだ。運が悪かっただけ……」
 何の慰めにもなっていない。だが、他にどう表現すればいいのだろう。邪仙のようあらゆる障害から逃げ続けるとか、自殺して巫女の手間を減らすとか、それ以外の幻想を追い求めるとか、何もかも気休めに過ぎない。
「…………みんな、ごめんな」
 部屋に横たわる私は、もう二度と息をしないのだ。
 誰もがそれを理解していて、誰もが声を失っていた。あるひとりの、魂魄を操り屍体を蠢かす邪悪な仙人を除いては。
「そこで名案がありますわ。私に彼女を任せてくだされば、何とか出来るかもしれません」
 まるでみなし児でもを受け取りに来たように、声を弾ませて提案してくる。どう考えても罠だ。あの芳香のよう意識を奪われて隷属されるか、情報だけを盗まれて捨てられるに違いない。
 ……だが、彼女は私の記憶を蘇らせることが出来た。
「――――悪いけど詐欺師の戯言に構っている余裕はないのよ。
判ったら早く消えなさい」
 霊夢が冷たく突き放した。当たり前だ。いきなり現れて私を人質に取ったものの甘言に騙されるはずがない。次いで、香霖が長い沈黙を破ってこう述べた。
「青娥娘々、と言ったね。僕たちは君のような外法を使えない。わかるだろう? 例え本当に死者蘇生を実現したとしても、倫理的に同意できないんだ。それが親しい者を救う唯一の方法だとしてもだ」
 もし人妖となる訳でなく、まるで聖人のように復活が出来たのならどれだけ素晴らしいだろう。しかし、同時にとてつもなく恐ろしい事だとも感じる。悪人善人関係なく、他者の意で呼び起こされるのだ。彼の云う主張は最もだ。娘々はそれを聴くと鼻で笑うような息を吐き、言葉を重ねた。
「おかしな事を言っているのに気付きませんの? 少女の死体を弄って成形したアナタの倫理は、誰が基準なのです? そもそも私は死者を蘇生するとは一度も言ってませんし、救うとも言っていない。私なりの方法で事態を収めるのですわ」
 ギリ、と距離があってもわかるくらいに霊夢が強く歯噛みをしたのが聴こえてきた。鬼気迫る表情で邪仙を睨みつける。
「つまり、青娥。アンタは魔理沙を攫いに来た。そういうことなのね」
 何故だろう。背後に居るはずの娘々の気配が、そのとき一瞬、跳ねたような気がした。まるでその言葉を待っていたかのよう……――――
「その通りですわ。けれど、もう必要ありませんわ」
「どういう事よ!」 青娥の真の目的が見えず、霊夢は更に感情を激化させた。
「あら」 対する娘々は、初めからなにひとつ言葉を受け取る気なんて無かったかのよう、超然と返してきた。「魔理沙さんがあなた方の側に居たい、なんて思うかしら? 今の彼女が」
「なにを莫迦な――――」
「だってそうでしょう? あなた方と共に過ごすことは、早い死を意味する。霊夢さん。アナタがもし引導を渡せなくとも、小野塚小町が、二ッ岩マミゾウが、果ては八雲紫が彼女を始末しにくるでしょう。その点、私なら匿えます」
「それは……」
 霊夢は言葉を再び失ってしまった。私が直面している現実は、簡単には覆せないのだ。
「あなた方は魔理沙さんを過小評価しすぎなのです。彼女が人妖と化したのは知っていますでしょう? 問題は変化ではなく、その前なのです。彼女の魂魄は“綺麗に”憑いている」
 青娥娘々の語るひとつの可能性は、私の見つけ出した力のまた別の側面を浮き彫りにさせるものであった。
「魂魄と云うものは死すれば天と地、そして墓――つまり屍体へと帰依するものなのです。しかし彼女は七魄(感情)すら喪われずにこうして存在している。つまり、完璧に魂魄を引き剥がす魔法を作り上げたのですわ。それと私の知識さえあれば、魔理沙さんを人に戻すことだって可能になりますわ」
 だが恐らくは、彼女の性質からしてそれは外法なのだろう。
「“私が”魔理沙さんの施術を行えば、罪が増えるのは私だけ。win―winの提案だと思いません?」
 どうしてここまで自分をダシに使えるのだろう。それ程までにあの球電は異常な魔法だったのか? いや確かに邪仙から見れば夢の技術なのだろう。だが、だがやはり――――
「……人間に戻す際に用意する身体は、どうするつもりだい?」
 私の死体を拾ってきた香霖が云う。そうだ。もうすでに、私の肉体は死んでいるのだ。すると、即座に青娥は返してきた。
「わかっているでしょう? 彼女ひとりの損失の大きさに比べたら――――……」
「僕は賛同できないな」
 私のために、誰かが犠牲になる。この話の焦点は、私が青娥娘々に球電魔法を教えるか否かにある。約束を守ってくれる保証はないが、今現在、唯一の道…………なのか?
「私も、…………見過ごす訳にはいかないわ」
 目を伏せて、半ば機械的に霊夢も連なった。アリスは未だ黙したままだ。どうなるのか。どうするのか。私は、
「そう。けれど、彼女が拒否するかしら?」
 娘々は私の両腕を抱えるようにして、一歩前に差し出してくる。生きるか死ぬか。受け入れるか、否定するか。
「さあ、魔理沙さん。あなたの答えを聞かせて頂戴?」
 耳元をくすぐるように彼女は言ってきた。もし、本当に私の首を縦に振らせたいのなら、三人から見えない後ろで、私の胸に壁抜け鑿でも差し込んでいるはずだ。だが、今、それは無い。
 邪仙の意図が見えない。私が否定することで、何らかの策が成就するのか。それとも私が青娥娘々に付いていくと過信しているのか? ……――――いや。
 彼女は関係ない。私は、ひとつの選択を迫られているのだ。
 青娥が恐ろしげな陰謀を持っているとか、霊夢や香霖やアリスを悲しませたくないとか、そういうものじゃない。
 私が、私自身が、どうしたいか、だ。
 何が何でも生きるのか、運命を受け入れて死を享受するのか。
 今まで逃げ続けてきた人生だ。いざ立ち向かうとなれば、死ぬ勇気が要る、だと? 巫山戯ている。馬鹿馬鹿しい。
 ……だが、現実だ。時間は過ぎるし、起きたことは変えられない。
 私は何を選ぶ?
 私は……
「私は――――――――」
 ……………………………………………………
     『万里沙。あなたはいつも楽しそうでいいわね』
           …………ふと思い出すのは霊夢の言葉だった。
  『あー? 楽しい時はそうするもんだぜ』
 続けて私が言った他愛もない返答。
 ………………………………。
   ………………。
『…………あなたらしいわ』
        ……………………懐かしい答えだった。
 …………………。
 …………。
 ……。
 私は、
 ――――――…………私らしく。
「私は、他の誰かになるつもりはないぜ」
 体温をまるで感じない邪仙の腕を振り払い、私は後ろに振り返った。そして、今闘うべきであろう相手の目を真っ直ぐ見据えた。
 ……――――それは、瑪瑙のような深く混沌とした瞳で私を見下ろしていた。笑みとも悲しみともつかない仮面のような表情を貼り付けて、僵尸よりも冷たい息を吐き出した。
「あら、残念」 その女は、私の選択なんてまるで取るに足らない遊びの合いの手だとでも云うように、いとも簡単に切り捨てた。「それも貴女の自由よ。けれど、貴女だけが貴女を大事に思っているなんて、思い上がらないことね」
 捨て台詞のような波紋をその場に残して、青娥娘々はあっという間に床を突き抜け、その場から居なくなってしまった。まるで白昼夢のようだ。いやしかし、遺されたものは、ある一幕が終わっても未だ、何も変わらぬ現実をそこに展開していた。
 長い、長い長い沈黙の時間が、私の死のうえに降り掛かった。
 これから私は、選択のさきにある、決断をしなければならない。
 …………………――――
 …………―――
 ……――
 …―



 金色の残滓が、重力に惹かれて落ちていった。天より垂らされた救いの糸が切れて、その残骸が地上で束になっているようだった。耳元に刃物が差し込まれる。それは薄暗い部屋内に射し込む昼光に煌めいて、私を削っていく。
 何日か前、香霖に結ってもらったのと同じような姿勢で、私は髪を切ってもらった。足元には、私だけの特異な金髪が積もり上がっている。足首まであったあんなに長かった髪が、今では肩のあたりですっぱりと断たれている。残してもらった左のもみあげだけ編んでもらい、そのうえで私がリボンを巻いた。
「つまり君は、僕に嘘を吐けと、そういうんだな?」
 あれから、ほんの少しの幕間を挟んだ。泣き出したアリスをなだめたり、香霖が私をどうするつもりだったかを聴いたりした。霊夢とは口数少なく、眼で言葉を交わしあった。香霖堂前に寝かせておいた芳香の姿はすでになく、空を仰ぐと、自分が死んでしまった悲しみなんてこの世界の何処にも落ちていないように、あまりにもさっぱりとした晴れの光が満ちていた。
「ああ。すまない。悲しませたくないんだ」
 太陽のもとに躍り出て、私は背中でそう返した。後ろでは香霖堂の玄関庇の下で影になった霖之助が、難しい顔をして私にも聴こえるように溜め息を吐いた。
「もう一度確認するよ。君は僕に、一生嘘を言いふらし続けろ、と要求するわけだね? それがどれだけ大変な事か、それに君の両親に対して、とても残酷な事だと、そう思わないのかい?」
 私は香霖にある提案をしていた。それがどんな結末を齎すのか、どんな恐ろしい事なのか、深く考える時間は無かった。ただ感情に流されて、自分特有の世間知らずさから生まれた我儘なのかもしれない。いや、十中八九そうなのだろう。
「解ってる。納得できなければ、無視してくれていいさ。けどもし伝えてしまったら、悲しすぎるじゃないか」
 その案は、私の死を両親に伝えない、という馬鹿馬鹿しいものだった。もしこれが香霖に受け入れられれば、私の家族は、私の虚像を死ぬまで見続ける事になるだろう。しかし、家出した自分の一人娘に好きなようにやらせていた結果が事故死であると云うのも、また残酷だ。
「君は僕が断れないのを知ってて言っているのか? 確かに君は極度の親不孝者で、家出以来ずっと戻ってないから騙るのは簡単だろう。けどそれは、君の死という事実から、両親の運命を歪める行為なんだよ? 君が生きているという空っぽの希望を縋りながら、彼らは死んでいくんだ。君は、それでも嘘を吐けと、そう、言うんだね?」
 念を押すように言葉を重ねてくる香霖へと、私は振り向いた。数年前と全く変わらないような、香霖堂の光景。私に新しい服を作って送り出してくれた日も、こんな明るさがあったか。
「…………――ああ。出来なくても、せめて、伝えるのを2日だけ待って欲しい。その間に色々、その…………整理する」
 私のことは私が一番よくわかってる、はずだった。以前の身の程知らずだった私に較べれば、今はもうすこしマシだろうか。香霖は自分の眉毛を掻いて、平常を装おうとしている。彼は再び大きく重い息を吐いて、飲み込むように言う。
「……わかった。君との約束は守れそうにないが、君の意見は尊重するよ。…………それで、これからどうするつもりだい?」
 どうするか。出来ることは少ない。しかし無意味ではない。私は、娘々に答えたときすでに決意していた。
「最期まで足掻いてみるぜ」
 私が唯一“生き残る”方法――――それは偶然にも、邪仙が立て並べたアイデアの中にあった。実現は不可能に近い。いや、きっと無理で、自己満足のための逃避なのだろう。ただ、私は気力に満ち溢れていた。魔法の箒に伝わる力が、今にも弾け飛びそうなくらいに震えている。悔いのないように生きる。生きる? 何だか不思議な感覚だ。ついさっきまでは自分の葬式の算段でもしているかのよう陰鬱な感情に支配されていたのに、今では身体中が大空へ飛び上がりたい欲求でいっぱいだった。
「じゃあな。香り――――」
「待ちなさい魔理沙!!」
 箒に跨るその寸前、私を静止する声が辺り一面に響いた。誰だ、と振り向くまでもなく、その主は判る。霊夢だ。香霖堂の中から駆け足で現れた彼女は、手に退魔針を握っていた。
「まだあなたを行かせる訳にはいかないわ!」
 その眼は、私がよく間近で見た感情を宿していた。異変解決の時の、調子付く妖怪たちに向けるものと同じ眼。私は懐の中にある八卦炉に手をかけた。
「霊夢。……――――今、闘うのか?」
 私と博麗の巫女は、立場的には敵対関係にある。これまで見逃れるどころか、庇われてきたのが奇跡なくらいだ。私の言葉を受けて、霊夢は急激に声のトーンを落とした。
「……そのつもりはないわ。けれど、あなたの出方次第では――――――やるわ」 私の方へと駆け寄る速度も落ちて、彼女はちょうど香霖と私の間あたりで止まった。「それに、今は良いでしょうけど、紫が動き始めたら私は…………もう味方ではなくなるわ」
 知っている。それは最悪の未来だ。もし何もしなければ、確実に私達に訪れるだろう。だからこそ霊夢は私に問うた。
 これから先、無きに等しい道を、どうやって歩むか。
「魔理沙。あなたはどうするつもりなの?」
 私の答えはすでに決まっていた。――――まあ、決めようにも、ほとんど選択肢なんて無かったのだが。
「もう一度、同じ魔法を使おうと思う」
 それを聴いた途端、霊夢の顔が当惑に歪んだ。
「――――馬鹿じゃないアンタ!?」
 そう言われるのは解っていた。これまでの経緯を知っていれば、誰だって反対するだろう。だから香霖にはなるべく具体的な事を伝えなかった。……話が聞こえる距離なのはまあ、不測の事態なのだが――――霊夢には、事が終わったあとに結果だけを教えようと思っていた。
「案外現実的な計画なんだぜ? さっきアリスをなだめているときに二人で話し合ったんだ。あの魔法で魂魄を抜き取れば、人形への憑依も可能だってさ。私は人妖でなく、アリスの式神になる」
 傍から見れば滅茶苦茶な理論だった。だが、球電はそんな偶然が重なってできた一種の奇跡だ。無ではない。それに、パワーアップした私の魔力を使えば、机上の空論でも無いはずなんだ。
「……理屈はわかるわ。確かにそれが成功すれば、あなたが人形の身体に満足するだけで済む話になるかもしれない。けど大事な事をひとつ忘れているわ。それは――――……不可能だ、という事よ」
「やってみなきゃ判らないぜ。……いや、やるしかないんだ」
 即座に答えた私に、霊夢は頭を抱えるような仕草で返した。わかってる。同意はできないし、説得力もないって事は。何しろ私は、私を死に至らしめた愚行をもう一度しようとしているのだ。
「魔理沙。あなたは………………いいえ。いいわ。私には、止める理由なんてない」
 結局、私に残された時間はあと僅かなのだ。もし他に道があるとしたら何があるだろう。幻想郷のルールをひっくり返すような異変を起こしたり、逆に完全に幻想郷を捨てて新しい天地を探したり……霊夢は、私の現状を案じたのだろうか、それ以上苦言を広げなかった。
「霊夢、提案があるんだが――――」 記憶が全て戻ってきたとき、私は自分の身体の秘密に気付いてしまった。人妖の満ち満ちる妖力ではない、もうひとつの変化。“それ”は恐らくは、絶対に避けられないのだろう。
 これから口走る言葉の続きは、押し付けがましい無神経な台詞だ。拒否されて、挙句殴られても構わない。だが、私は言う。
「今日だけ手伝ってくれないか?」
「ハア!? 馬ッッ鹿じゃないの?」
「今日だけでいいんだ」
 こんな茶番に付き合ってくれるのは、幼い頃から遊んできた霊夢しかいない。私は自分の顔から笑みを剥ぎ取って、今の気持ちをそこに置いた。
「頼む」 頭を僅かに下げて嘆願する。
 思えば奇妙な日だった。彼女達から見れば、親しいものが死に、その姿をした妖怪が現れ、そのうえ邪仙と意地の張り合いをしたあと、更に私の我儘へと巻き込まれるのだ。
 親友や育ての親同然の人間に、断れないと知って頼み込む私は、ずるいだろうか? 蒐集家として魔導書を渫っていた時期は、私を中心に宇宙が動くのだと思いあがっていた。
 今では私は過去の人だ。
「…………わかったわ。そこまで云うのなら」
「ありがとう。霊夢」
 私は霊夢を連れて香霖堂を出発することにした。後ろから香霖がこう、心配そうに投げ掛けてきた。
「魔理沙。……いってらっしゃい」
「行ってくるぜ、香霖」
 嗚呼。あの頃に戻れたら。万理一空。今も、いつ如何なる過去の一瞬も、同じような空があった。何百、何千回繰り返しただろう。一年は四つの季節に分かれて、私は何度も色付く幻想郷を見てきた。明日は必ず、明日の形をしていた。夢は夢の、友達は友達の姿をしていた。
 …………――――――――――私はふと、その日常に、自分が居ない想像をしてしまった。空へと舞い上がり、無限とも思える幽玄の里を見渡す。体温が急激に上昇を始め、体の底から身震いする。吸い込んだ息が肺の中で凍りついて、私は自分が今、存在していることを理解した。
 当たり前の、当たり前の日常。私はその円環の中心へと降りていく。あの魔法を再び得るために、幾度となく周遊したその世界を、また再び、違った、人妖の眼で回っていくのだ。
 連続した時間が、走馬灯のように私の未来へと伸びていた。
 語り、遊び、探し、触れ合う平生……――――――

「ねえ魔理沙。このキノコでいいの?」
「んーちょっと違うな霊夢。これは柄にササクレがなくて放射状線があるから、モドキの方だな」
「細かっ……さっきからニセモドキダマシあるけど、何が本物なのよ」
「とりあえず今探してるのは柄がもっとザラザラしてる感じで、傘の下につば――前掛けみたいなのあるだろ? それと、上部にふりかけみたいなのが載ってたら間違いなくそれ」
「んんんー? さっき魔理沙が見つけたやつと特徴違わない?」
「ああ。雨で傘上のイボが取れたり、つばが落ちたりすることもあるぜ? 魔法の森は個体差が激しいから、柄のササクレや放射状線が薄い場合もある」
「それじゃ判んないじゃない!」
「いやこれでも見分けやすい方なんだ。難度が高くなると幼菌と老菌で別種に見えるものがあるから、生えている場所と前年までの傾向を覚えておく必要がある」
「…………もし間違えたら?」
「実験に使う分はさほど影響はないが、誤食したら最悪死ぬ。死ななくても種によっては一ヶ月痛みにのたうち回る事がある」
「ひー」

「霊夢。ちょっとコッチ来てくれよ。面白いもの見つけたぜ」
「何よ魔理沙。また変な匂いのするキノコとか?」
「キノコは半分くらい関係してるな。この影にあるやつ」
「半分って何よ。……うーん。これもキノコじゃないの? ノボリ、何とかとか云ってたやつ」
「遠目だとそう錯覚するかもな。もうちょっと近くで見てみるんだぜ」
「何か今回はやけに誘導するわね…………あっ、花がある」
「これはシャクジョウソウ科の腐生植物なんだ。他の場所だと見分けやすいんだが、魔法の森だと環境のせいか変種が出る」
「ふうん。で、半分くらいキノコに似てるから珍しいだけなの?」
「いや別段キノコに似てる訳ではないんだが、この季節に出ることは少ないし、生活環にモノトロポイド菌根を使うんだ」
「ものと……何?」
「簡単に説明すると生きたキノコの菌から栄養分を摂っているんだ。似たような系統だとラン科植物があるな」
「キノコってそんな栄養あるの?」
「あんまり……そもそも外生菌自体も他の樹木から栄養を得てるわけだから、二重の寄生って形になるな」
「なんでそんな面倒臭い生態に……」
「この植物、茎から花まで真っ白だろ? 葉緑素が無くて光合成できないんだ」
「それさ、大元の樹木が倒れたら全部パァじゃない?」
「まあ、短命な菌や草花から見たら、何十年何百年と成長し続ける樹木は永遠を生きているようにも思えるのさ」

「ひゃー!」
「霊夢こっちだ。あの岩の麓なら雨が来ない」
「わかってるわよ魔理沙。もー何でこんな目に合うのよ!」
「あんなに晴れてたのにな。ま、曇るスピードからして通り雨だからすぐ止むさ」
「もう何もかも手遅れよ! ああもう下着までびしょびしょ」
「いっその事このまま家まで走ろうか? 結局お風呂に入ることになるだろうし」
「嫌よこんな土砂降りの中。それにいいの? 採取したアイテムがこれまで以上に水濡れするのよ?」
「心配しなくてもいいさ。どのみち数日間乾燥させたり、瓶詰めにして発酵させなきゃいけないものばかりさ」
「ふーん。そうなら良いけど…………――ん? んん? それ、今日の実験は何を使う気なのよ」
「魔法店にあらかた揃ってるが、何か問題あったか?」
「はぁ!? アンタ、今日だけ手伝ってって言ったじゃない!」
「……そうだけど。どっか予定がマズかったか?」
「いやいやいや。問題しかないわよ! アンタがまるでひとりじゃ間に合わなそうな雰囲気出したから手伝ったのに、なに悠長に数日後の仕込みとかしてるのよ!」
「あー……。まあそれはだな。えっと、…………――なるべく実験をした時と同じ行動をトレースしたほうが成功率上がるんじゃないかって思ってさ」
「もーそれ絶対今考えたでしょ? 正直に話しなさい」
「話してもいいが、明日な」
「わかったわよ明日まで待つわ……なんて言うとでも思う!? こーんな冷たい思いするハメになったのよ!」
「今日の霊夢はノリがいいな。それはそうとごめんな」
「謝るよりもさきに言うことがあるでしょ」
「お。雨が弱まってきた。これなら木の下を伝えば降られずに帰れそうだな」
「ごまかなさいでよ。――あっ待ちなさい!」
「鬼ごっこだぜ霊夢。魔法店に戻るまでに私に触れたら、何でも話してやるぜー」
「労力に見合わないゲームやめて。どうせロクでもない理由なんでしょ! 待ーちーなーさーい!」

「本当にもう。たまに付き合ってやるとこうなんだから」
「ごめんごめん霊夢。お詫びに背中流してやるぜ」
「子供の頃思い出しちゃったわよ。魔理沙が変なこと思いついて、それで私を巻き込んでくるの」
「私はすごい楽しかったぜ。霊夢はどうなんだ?」
「そりゃ……まぁ、………………楽しかったけど」
「素直じゃないなー霊夢は」
「アンタねぇ……っ! ――――――……ハァ、まあいいやもう。大変だった分だけ暖まらせてもらうわ」
「それが正解さ。何も深く考える必要はないんだぜ。良い方向に向かうんだ。例え嫌なことがあっても」
「何よ大袈裟な……。あっ、この石鹸良い匂い」
「魔法の森の奥の方にある樹皮から取ったオイルを混ぜたんだ。結構肌に良いっぽいぜ」
「へー。色々試してるのね」
「探してみると見つかるもんだ。あ、霊夢。そういえばさ、馬のおしっこってシャンプーに使えるのか? 試したくないから知らないんだ」
「……………………人が髪流してるときにそれ言う?」
「純粋な疑問」
「モノが不純よ!」
「モノ……――――すごい例え方だ」
「アンタが座ってなきゃお尻を思いっきり叩いてるところよ。さき湯船浸からせてもらうわ」
「あ、いいぜー」
「ふおー。……ちょっと熱いわね」
「そこ、ひねると水出せるから使っていいぜ」
「……何これすごいじゃない。作ったの?」
「んー香霖と一緒にやった。……ほとんどやってもらったけど」
「へぇ。私のところもやってもらおうかしら」
「自動的に水源から吸い上げるやつじゃないから、毎朝水交換しなきゃならないぜ。掃除も大変」
「デメリットも多いのね」
「紅魔館みたいに魔法で補えればいいんだが、私は苦手」
「便利すぎると人間堕落しちゃうからそれで良いわよ。現にあの館、主が毎日のように暇を持て余してるじゃない」
「使える時間が多すぎるのも考えものだな」
「自由なんて、生き物の尺度としては不十分なのよ。何もかも程々がバランス取れてていいわ。適度に働いて、適度に休んで……――――」
「そういう者に、私はなりたい」
「もうなってるわよ」
「………………そうだな」

「これは半分に割ればいいのよね魔理沙」
「ああ。その実は切れ目さえ入れれば真っ二つになるぜ。面倒だが霊夢、果肉は崩して容器に入れて、中の種は染料として使えるから分けといてくれ」
「はーい。そっちは大丈夫? 芋の皮剥くの大変そうだけど」
「うーん。結構昔からやってるはずなんだが、未だに慣れないんだぜ」
「料理代わろうか? 私が調合の方やってるのも変だし」
「いや、せっかくだから私がご馳走したいんだ」
「そう? それならお言葉に……って危なっかしい。あーちょっと指切ってるじゃない。貸しなさいよ」
「あっ霊夢……」
「包丁はこう持って、もっとゆっくりやってくの。真っ直ぐに力を入れるというより、上下に動かす感じに……」
「おお……すごい綺麗になるな」
「マッシュにする場合はもう最初に茹でちゃって、あとで軽く切れ目を入れて皮を取る方が楽かもね」
「勉強になる」
「なんでアンタ実験の方はあんな細かいのに料理は雑なのよ…………」
「何でだろうな」
「どうして他人事なのよ」
「いや考えたことなかった。形は悪くてもレシピと味付けさえキチンとすれば美味しいからなぁ……」
「損失が多いじゃない。具材とか時間とか。見た目も良くない」
「ひとりだしどうせ……って思ってたぜ。良く考えたら誰かに食べさせよう、なんて考えたこともなかったな」
「極端ねえ……アリスが良くお裾分けに来ると思うけど、それ見て気づかなかった?」
「あんまり。あ、けどさ」
「けど、何よ」
「霊夢が一番最初だぜ。私が、誰かのために“丁寧”に作った料理食べるの」
「なっ……ちょ、いちいち大袈裟よ。そんな最初とか――」
「ま、だからさ。早くそこどいてくれ。料理は私がやるんだぜ」
「…………アンタってさ。びっくりするくらい不器用よね」
「知ってる。だから私は、こうするしか無いんだ」

「霊夢おかえり。で、誰だった?」
「アリスだったわ。もうすぐ義体の調整が終わるってさ」
「早いな。さすが人形師」
「作りかけだった等身大のものを流用したらしいわ。コッチが順調に進んでるって伝えたら安心してたわよ彼女」
「何だかこれだけ思い通りだとあとが怖いぜ」
「きっと杞憂よ魔理沙。例えすべてを失っても、あなたはあなたのまま。いつも通り出来るわ」
「……そうだと良いな」
「そう信じましょう。幻想郷はそのためにある」
「――――日が暮れてきたな」

 ………………………………
 …………………
 ……………………………あっという間じゃないか。

「明かりをつけましょう」 アリスが上海人形に命令して、研究室四隅のカンテラに火種を持っていった。太陽はすでに地平線から姿を消して、私達は黒き星々のもとに居た。あれから何度試行しただろう。私がこれまでに行った探求量と比較すればちっぽけな進展に過ぎないが、その場には過去とは比べ物にならないほどの熱気が満ちていた。
 植物がツタを這わせて色彩豊かな花々を咲かせていくように、次々と話題は生まれ、一瞬あとには新しい発見があった。さながら温室のよう、殺風景な素材棚や実験器具はひとつひとつが色づいた花弁となり、私達はそれを取り合ってそして綺麗な花輪を作ろうとしている。
 私が魔力を発散して、霊夢がその流れを読み、アリスがコントロールして形にしていく。実験は思ったよりずっと順調に進んでいた。私の入るべき人形の器が、部屋の隅でそのときを刻一刻と待ち望んでいる。稲光が魔女の釜を周遊して、あたり一面には白檀と蓮の混ざったような妖艶な香りが満ちていく。魔法の森に住まう妖精たちが飛び起きて、霧雨魔法店の周りにフェアリーサークルを描き始めた。しまいには部屋の至る所にある家具に魔が住み着き、鈍い光を放ち出って踊りだした。まさに魔女の舞踏会であった。
 ――――――だが。
 一向に結末は訪れなかった。球電は生じた途端にマッチの上の炎のように簡単に吹き消えてしまい、あの嵐の日の再現はまるで生まれてこなかった。一回の実験に短くて10分。手こずって30分。手順を重ねるほどに、あとになるほどに室内は汚れていき、段々と予想通りの反応が起こらなくなってくる。月が夜空を駆け巡り、そしてすぐにも落ちていく…………
 やがて月明かりさえも去り、真夜中で最も暗い時間が大きな口を開いた。私達は疲労の渦に呑み込まれ、ある失敗を境に、入口付近にあるテーブルに座り込んだ。「魔理沙。まだ諦めちゃダメよ。もう一度、やりましょう」 アリスが寝不足の目をこすって無理に立ち上がろうとする。彼女はすぐに目眩に襲われて、私は慌ててその身体を抱きかかえた。
「アリス、無理するなよ。これがダメなら、また別の方法を探ればいいさ」 私は今できる精一杯の言葉をかけてやる。
「……怖いのよ。今しなきゃ、魔理沙が居なくなっちゃいそうで」
 アリスは何かを察知しているようだった。恐らく、食事も摂らずに人形の整備からコチラの作業までぶっ続けで働いたのだろう、彼女の表情からは余裕が消えていた。私は、「アリスは心配症なだけだぜ。このままだと効率も悪くなるし、一旦屋敷に戻って休むんだ」 などと甘い言葉を吐いてその背中をさすってやった。
 それでもアリスは中々首を縦に振らなかった。その身に感じていた予感が、よほど真に迫っていたのか自身のグリモワールから無理に魔力を押し出そうとする。
「やめてくれ!」 私の強い一喝によって、ようやく彼女は動きを止めた。「そんなボロボロになってるアリス、見たくないんだぜ」 何かを隠すための言い訳にも聴こえるような、有り体の続きを重ねて、魔力を吸い続ける彼女のグリモワールをはたき落とした。
「けどもしも……――――もしもの事があったら」
 魔導書を拾う気力も潰えてしまったよう、アリスはそのまま硬直して嗚咽をあげ始めた。ああ、思い返すと、私の死体と出会ってから、まだ一日も経っていない。「もしも、なんて無いんだぜ……――――」 彼女には気休めの言葉かもしれない。ただ、私は、唇を噛み締めながらそう言って、アリスの頭を撫でて落ち着かせた。「なに。明日また来ればいいさ。私は変わらず此処に居る」
 沈黙はどれだけ長引いただろう。アリスの声が弱くなっていき、深い闇がカンテラの火を揺らした。私達の影は長く伸びていた。
「……魔理沙」 重い空気に押し潰されるように、アリスはごく小さな声で呟いた。「約束して。明日も、明後日も、そのまたあとも生きていて」 彼女は散失しつつある言葉を無理に組み立てたよう、途切れ途切れに言った。私は――――――、
 私は、答えず、ただ、彼女の手を握った。そしてそれは握り返される。言いたい事がもっとあったのだろう、アリスは口をパクパクさせて何かを伝えようとするが、感情に遮られたようで短く息を吐くだけだった。彼女が心を空気とともに飲み込む音が私にも聴こえた。
 アリスはグリモワールを拾い、踵を返した。部屋を出る前、一度だけ私の瞳を見てきた。私は無理に笑顔を作り、彼女を送り出した。
 部屋には私と霊夢二人になった。
「霊夢は帰らないのか?」
「疲れたからここで休ませて」
 霊夢は地に根が張ったようにテーブルから動こうとしなかった。確かに博麗神社への道はアリスの屋敷と比べて遠く、かつ険しいが、空を飛べる彼女にとってはそう難しくないはずだ。
「んー。無理してでもさっさと帰って寝たほうが良いぜ? 日が昇ったら眠りにくくなるからさ」
「……あなた、アリスのときと随分違うじゃないの。あっちには無理するな、私は無理してもいい」
 作業疲れか、それとも無意味な散歩に付き合わされてイライラしているのか、霊夢は妙に突っかかってきた。顔はテーブルに突っ伏したままで、その表情はわからない。
「そう言う訳じゃないさ。私はあまり、その……――――私のために頑張りすぎないで欲しいって思ってるだけだ」
「頭を下げた側のいう言葉じゃないわソレ」
 どうやら意地でも動くつもりはないらしい。面倒なのか、疲れか、別の理由に突き動かされているのか、霊夢は声だけで私を聞き流していく。
 しょうがない。「じゃあさ、私の寝室を使っていいから、そこで寝なよ」 私は出来るだけの譲歩をして、彼女に提案した。
「アンタはどうするのよ」 すると、顔だけ傾けて目を合わせてきた。私は、
「私は、まあこんな身体だし限界までやってみるつもりだ」
 何故だろう。正直に話してしまった。こんな事言ったら、余計霊夢を追い払えなくなる。人妖とは云え、すでに強い眠気に襲われている。娘々の地下室でもそうだったが、妖怪でも眠りは必要なようだ。
「それなら私はここで見てるわよ」
「ハア? なんで」
 ものぐさの極みのような言葉を聞いて、私は困惑してしまった。その行為にメリットなんてあるはずがない。納得できる理由を尋ねるか? いや、今すぐ説得した方がいいのか? ――風邪引くぞ、とかそういう………………
「何でって、……そりゃ退屈しないからよ」
 ――――だが、思い出す。昔から、こうしてゴネり始めた霊夢は、絶対に自分を譲ろうとしない。私は少し考えたあと、思考に乱れを感じて、続きを練るのを諦めた。今の酩酊状態では、彼女を椅子からどけることも不可能だろう。
「……わかったよ。上から毛布持ってきて掛けてやるから、なるべく暖かくしてろよ。疲れたら帰れる内にすぐ帰るんだぜ?」
「あいあい」
 寝室から掛毛布を一枚運んできて、霊夢に渡してやった。太陽も月もなく、夜は凍りつつある。息が白くなるほどではないが、手足の先がゆっくりと冷えていくのを感じる。
 私は実験を再開した。独りで行う探求は、気楽な反面、どこか心奥に空しさが常駐しているが、霊夢のお陰でその負担はなくなった。ものを調合し、撹拌して、魔力を流し、凝固させ、反応させて、また繰り返し……――――
 データを取るために書き込んでいたメモが、16枚を越えたあたりで私は足に違和感を覚えた。怪我した方の足だ。僅かにあった痒みもなくなり、ふと左手首を見返すと、そこには傷跡も無く何もかもが完治していた。眼が映した光景は、やがて眠りに侵食されていき、暖炉の直前、ちょっとした壁の出っ張りにほんの一瞬腰を預けた途端、私の意識は消沈した。
 眠り。喉奥から夢の世界がこみ上げてきて、耳の裏へと侵食していく。たちまち私は追憶の虜になった。
 …………………………眠り。

 歩く。歩く。霧雨魔法店から、魔法の森の奥地へ。霊夢は私がキノコを使って魔法を改良していくのを知っているらしく、森に入ってすぐに地面にあったベニタケ科を喜々として報告してくる。私が比較的よく見ると教えてやると、霊夢は露骨に残念そうにそのキノコをジロジロ見ていた。森の中には未だ大雨の名残が水溜りとして点在していて、私達は慎重に進んでいる。強風によって壊された菌株がチラホラ散見して、そのたびに霊夢は私にキノコの名前を聴いてきた。奥深くともなると綺麗な状態の毒菌がそこかしこに増えていて、取り籠の中身は充実していった。本来ならばもっと光量が多く、樹木もここまで密ではない場所をキノコは好むのだが、魔法の森の場合それは違うらしい。疑問を投げ掛けてきた霊夢に、私は経験から身につけた知識を披露した。木の生育には菌根菌が重要であること、菌の発生には外部刺激が必要不可欠であること、菌を構成するタンパク質とアミノ酸は人間の脳および精神に大きな影響を与えること、森の地中にはひとつの巨大な菌が根を張っていること、魔法の森は幻想郷にある複数の地脈の合流点にあること、それらをすべて含めたうえで自分の魔法が生まれること。魔法の森にある植物の多様性。ユリ科のような葉の付き方をする広葉樹、竜血樹に似た形状に成長する蔦植物、幹に果実が生じるジャボチカバのような珍種、語っても語り尽くせないほどだ。シャクジョウソウ科のアルビノ草を見送って円を描くように森を巡る。野の果実を齧って、指先を果汁で染める。稀に現れる耳の裂けた鹿や足の長い兎。鳶の声が空を舞っていた。小さな谷になっている沢を伝い、緑の絡みついた岩場に辿り着く。岩には珍菌がへばりついている。周囲を散策する。通り雨に降られる。霊夢と一緒に雨宿りする。軽口を言い合う。昏くなった空を見上げる。雷が幾つも通り過ぎる。稲光。私は走り出す。霊夢も走る。水を吸った衣服が重い。靴の中は泥だらけだ。手足の指が冷えてくる。霧雨魔法店に戻る。服を絞って水気を押し出す。採取した素材を避けておく。風呂場に向かう。浴槽に水を張る。八卦炉と装置をつなぎ合わせて加熱する。私と霊夢は服を脱ぐ。白い肌。髪が顔に貼り付く。身体を流す。暖かい。石鹸は良い匂い。霊夢は私より胸が大きい。湯の熱さに顔が赤くなる。入浴する。天窓から雨の後のまだらの空を見上げる。話し合う。互いの身体を触り合う。目を閉じる。私達は研究室と同室になっている台所に居る。私が料理をする。霊夢には素材の処理をしてもらう。氷室で保存しておいた野菜を切る赤いもの緑のものを半分にする葉のあるものは指でちぎった皮むきは苦手だ霊夢はぎこちなくキノコを潰した複数の薬品を迷ったあげく実を漬け込んだ乾燥させるために串に刺して干した手伝ってもらい私は料理を霊夢は下処理を綺麗にこなした。混ぜる瓶詰め茶褐色から深紫に固形物が泡を立て甘い香りと渋み撹拌して結晶化加熱して急速に冷やす混ぜる魔力を込める棚から道具を取る倒す開ける混ぜる混ぜる混ぜる話し掛ける解説する思い出す思い出す手順を続ける話す混ぜる混ぜる――――――あらゆるものが大釜に混ざっていく。
 そういった、記憶として夢を回想した。
 こうして過去になっていく――― ―… ……… …  …



「なあ、霊夢」
 夢の最奥で、私は子供になっていた。博麗神社の縁側で、沈みゆく夕日を見ている。
「これから夜が来るだろ?」
 言うと、隣りに座る霊夢が呆気に取られたような顔をして、私に振り返った。鈴虫の鳴き声が聞こえる。
「なに当たり前のことを……」
 それは日常でもある。日の出とともに朝が始まり、日没を境に夜が来る。私は星々が薄っすらと透けて見え始めた空を指差した。
「私の名前、万里沙ってさ。万理一空って意味なんだ」
「突然何よ」
「私達はみな、たったひとつの空のもとに生まれてくる。私が生まれた日にあった流星群も、きっと世界中の人々がそれを見た」
 天に伸ばした手を開く。数多の星屑をその掌に掴めないかと宙を探すも、動きは風を切るだけだ。
「何が言いたいのよ」
 冗談だと感じたのか、半分笑いながら霊夢は尋ねてくる。私の目は煌々と笑う月を睨んでいた。
「たまに夜が怖くなるんだ。同じ空の下なのに、自分ひとりっきりみたいな、そう感じる時がある」
「ふうん。明日が来るのは気休めにならないの?」
 私と彼女の違いはなんだろう。博麗の巫女は夜闇の具現化とも云える妖怪をいつも相手にしているからだろうか。一般人の私にはその悠然とした態度の源泉が判らなかった。
「いや、明日が来ることも怖いんだ」
 いつの季節か。郷愁の匂いを含んだ風が髪を凪いでいく。伸ばした指先の間に夕陽を挟んで、その光を遮ったり目に焼き付けたりする。視界に、黒い暗点の残像が現れた。
「何よそれ」
「今日までは素晴らしかったさ。けど、いつまでも上手くいくなんて思えない。明日、明後日、一年、十年、五十年……」
 この夢は、いつの記憶だろう。子供の私って、こんな悩みを抱えてたっけ? 言い淀むことなく話し掛けて、霊夢が当然のように答えてくれる。
「まるで努力を放棄したみたいな言い方ね」
「……まあ、わかってるさ。頑張り次第ってのはさ」
 握り拳を作って地平線の残滓を呑み込んだ。やがて急激に空の色が冷え込んで、長い夜が訪れた。手を後ろについて、凭れこむように私は夜を仰いだ。言う。
「私はさ。霊夢。あの夜の向こう側に行きたいんだ」
 またしても唐突な表現だったが、続く言葉があると察知したのか霊夢は黙して耳を傾けてきた。
「流れ星になって、夜を駆ける。魔法が使えたら、星の魔法が良いな。それで夜空のゲートをこじ開けるんだ」
「…………私の真似ばかりしてたら、そんなの無理よ」
 私は霊夢の真似を、よく――――……してたかな? 思い出せるのは彼女に憧れを抱いていたという事だけだ。しかし、次に私が答えた言葉ははっきりと覚えている。
「じゃあそれは別の魔法にする。“星”と……そうだな、好きなものを真似るから“恋”の魔法」
「なっ、ばっ……好きって何よ」
 この時の霊夢の顔は鮮明に思い出せる。いつかの記憶が混ざり込んで出来たのかもしれないが、照れ隠しする珍しい彼女の顔。思うに、ああいうものこそ霊夢の本当の表情なのだろう。
「私は霊夢が好きだ。幻想郷も好きだし、夜空も好き。けど、怖いこともあるんだ。だから私は自分を克服したくて――――……」
 その瞬間、私の身体は成長していた。人妖の身体。縁側にはもう霊夢は居なかった。空から、一本の光の糸が伸びてきている。
 私が生まれた日の、私自身の眼では見たことのない流星群が夜に飛来していた。光の線は闇を突き破り、星々の間を透り抜けてひとつの扉に集約していた。透明の、鳥居に囲まれた扉だ。一度、桜が咲き乱れた異変の時に、似たようなものを見たことがある。天空の花の都――――……………………
 私の手に魔法の箒が握られた。ふわり、と浮き上がって、天へと昇っていく。あそこに辿り着けば、何もかもが解る。そんな気がした。真実がある予感があった。真っ黒な道なのに、登るにつれて辺り一面が眩いばかりの光に覆われていく。次第に私の速度も落ちていく――――あとすこしなのに。夢よ、覚めないでくれ――――――――  ――――  ― 扉に、
 手が触れ

 その感触は柔らかかった。
 気が付くと、天地が真横に倒れ伏していた。目を開くと何もかもがぼやけていて像を結んでくれなかった。五体に重さを感じて、私は自分が仰向けになっていることに気付いた。夢の水面から抜け出した手に、触れるものがある。空へと向かった視線と手のひら。次第に意識がはっきりと輪郭を形作っていき、無秩序だった夢の景色がひとつの真実に収束していった。
 霊夢だ。私は霊夢の膝枕の上で眠っていた。
「あら。おはよう魔理沙」
 夢中で突き出した腕は、霊夢の温かい手に握られていた。魔法店。私の今は、昨日までと繋がった。
「あっ」
 ゴツン。反射的に出た声が、彗星同士の衝突のように瞬時に弾けた。霊夢の「きゃっ」 という短い驚きも同時に聴こえる。あまりに突然の朝で、私は驚いて咄嗟に上半身を起き上がらせてしまっていた。結果、私と霊夢は互いに額をぶつけて、痛みと星を交互に見ることになった。
「――――ちょ……何するのよ」
 頭を抱えて彼女が苦言を呈してきた。私も同じだ。涙目になりながら閉じてしまった瞼を上げる。まず俯いた目に飛び込んできたのは、私が夜、霊夢にかけてやった毛布だった。それが今、私の胸から膝までを覆っている……――――
「ごめんだぜ。あと、――……ありがと」
 伝えたい事が多すぎた。
「何で頭突きをして感謝してくるのよ……」
 世界のすべてが一新したようだった。相変わらず太陽は昇り、私は朝の冷たい空気を吸っていて、そして心臓が動いている。鳥が飛び去っていく羽ばたきが聴こえて、風が魔法店をわずかに揺らしていた。まるで嵐の後のよう強い風だけが残って、雨や夜闇とは比べものにならない程の光に満ちている。
「――――……とりあえずおはよう」
 遅れた挨拶を私は返す。体を捻って、起き上がろうとする。
 ――――――――だが。
 そこは家の中ではなく、軒先の草地の上であった。
 骨が軋む。肩や膝だけではなく、首から繋がる全身の筋肉に針が入っているような痛みが走った。私は気づく。毛布をのけた私の衣服が、所々泥で汚れてほつれてしまっているのを……。
 霊夢の顔を見る。彼女は“いつものような”表情だ。疲れている様子は微塵も出さず、――しかし私の眼には、その奥に強い動揺が潜んでいるのが判った。多分、ほとんど寝てない。
 記憶が蘇ってきた。それは娘々の部屋で目覚めた時の、昨日の早朝の出来事だった。夢から覚めた私の口には、血が、べっとりと付いていた――――――…………
「……そうか。私は、また、なってしまったのか」
 私はついに悟った。無意識の人妖なのだ。心地よい夢の間、私は自分を忘れている。――……そうしてやっと霊夢に退治されたのだ。以前とは違い空腹であり、尚また身体が傷だらけである。妖怪の志半ばで阻止された肉体は、魔法店の庭で倒され、彼女に寝かされていた。
「………………まだ紫は来ていないわ」
 霊夢が小さく呟いた。猶予は後どれくらいだろう。
「霊夢」
 私は言葉を一度飲み込んで、口角を無理に引き攣らせた。笑う。笑っている顔。大丈夫だと、安心させるような表情。意識に枷を括り付けて、霊夢に微笑みかけた。
「もう一度言うぜ。ありがとう」
 そして彼女に返す暇も与えずに、私は言った。
「――――あとは私だけでなんとかなる。霊夢は一度神社に帰って休んでてくれ」
 自分の事を一番良く知っているのは私自身だ。だから私は決めなければならない。
「何言ってるのよ。ここまでしたら最後まで付き合うわ」
 立ち上がろうとした霊夢が、その場で尻餅をついた。夜通し私と付き合ったせいか、彼女の体力は予想以上に削れていたようだった。
「いや、休むべきだぜ。幸い、まだ紫にも小町にも気付かれてない。
それに私とは別の異変が起きたら大変だろ?」
 舌が歪みそうだった。私は自分の欲望を無理やり喉奥へと押し込めた。思いやりと嘘。それは相反しない。決断が迫っていた。それは――――
「そう、……そうね。そうするわ」
 私の顔色を見て、霊夢は察したようだった。何が起きているのか、何が起きるはずがないのか。この躰。
「まあ、すぐにどうにかなるわけじゃあ無いしな」
 言い、霊夢に手を貸した。これから彼女を魔法店から送り出す。残された私は再びひとりになる。私が選ぶ道。時間は待ってはくれない。
 ――――この魂魄と身体は変化に向かっている。
 それに、紫と小町が私を察知していないはずがないのだ。なにしろ、真夜中に私と霊夢は一度やりあっている。彼女達、監視者の眼にはそれが映っていたはずだ。なのにも関わらず、未だ干渉がない。霊夢も同じ場所に居るからか? 否。
「魔理沙。……無理しないでね」
 いつか聞いた言葉だ。私は声無く頷いて、その背中を見送った。
 私が見逃されているのは彼女のためだろう。小町が言っていた“悲劇”はもう起こされたのだ。空を仰ぎ見る。誰もが、その日の天気を知るために見上げている。青い。その天の高さは、比較する雲ひとつないために推し量れない。
 ……手に暖かさが残っている。

 耳奥がこそばゆい。私は寝室のベッドに横たわった。
 魔法店2階にあるこの場所からは、空がよく見える。ベッドに隣接するように横窓があり、私の前髪に触れる位置で白いカーテンが揺れていた。そよ風が現実を揺らしている。
 お風呂で汚れた身体を禊ぎ直して、新しい衣服に袖を通していた。肌を透き通っていく風が、微かな痛みのように胎動する。心音が聴こえる。眼を閉じると、私の存在が希薄になっていった。意識だけが飛び出して、ミニチュア化した魔法店を俯瞰している。静かだ。
 瞼をあげる。何度見ただろうか。移住してきた当時、この天井が慣れなかった。部屋内の暗がりに視線を通す。私の軌跡。移住当初何もなかった本棚には魔導書が隙間なく敷き詰められて、溢れた分が床に積み上がっている。そのどれも、背表紙を見ただけで大体の内容を思い出せる。中には私自身が書いた稚拙な本も紛れている。絵を描き、文字を満たして、一枚一枚仕上げていく――――。恋符のために、これまで見てきたスペルカードを主観を交えてまとめたものもある。ある時は吸血鬼の住む館に赴き、ある時は地獄の温泉に降りていく。枕元のリボン付きの三角帽子、立て掛けられた魔法の箒、白黒の服。
 空っぽのツチノコの檻が、目先で浮いていた。小さな入口は破られて、外の世界と繋がっている。
 私は手紙を書くことにした。誰宛でもない、誰か見知らぬ人間に受け取って欲しい書き置きだ。もし何者かが、私の留守中にこの魔法店に宝探しに来たとき、読んで期待を募らせるような、悪戯の地図。それを四つ折りにして、ツチノコの檻の中にぶら下げておいた。
 私は来た道を戻っていく……。二階の寝室から、下階の実験室へ。通路はいつもの通り、私が蒐集したもので騒がしかった。やるべきことを、やろう。重い腕を持ち上げて、大釜に向かって延ばした。混沌たる魔力の源泉――――――……
 ………………………………――――――――
 …………――――しかし。
 ふと実験用具から目を逸らすと、窓から、赤い、暮れなずむ太陽の日が落ち込んできていた。おかしいな、まるで、

 ―― ―   ――  ………まるで一瞬の出来事のようだった。

 独りで始めた長大な実験は、ついに実を結ぶ事がなかった。そして時間は待ってはくれないのだ。
 何をするのか、もう決めていた。振り返るとまるで虚無のようであった精錬の日々は、考える時間だけは永遠のような長さで与えてくれた。魂魄を自由にする夢の魔法を再び作り上げようとして大釜を撹拌させているとき、私は心奥で言葉を蒸留させていた。“告白”の言葉だ。嗚呼。恋い焦がれるとはこんな感情なのか。
 魔法店を出ると、夕陽が私の影を長く伸ばしていた。幻想郷の空は、みなに知られる万物一空の世界は、ただそこにあった。もうすぐ星々が私を攫いに来るだろう。過ぎ去っていく。私が流れていく。私は、来た道を帰り始めた。



 髪を短くした私に気付いてくれるだろうか。
 扉をノックして、声で伝える。道具店は何も、なにひとつ変わらずそこにあった。雑多に置かれた商品はみな新調されていたが、それらを包む外殻に変化はない。私が物をぶつけて凹ませた銅の台座も、草の汁でつけた黒い染みの落書きも、途中で止まっている私の身長を刻みつけた柱も、当たり前のようにひとりの家出娘を待っていた。
 “彼女”の眼が私を見て、そして“彼”が呼ばれた。私は、彼から弱い平手打ちを頬に受けた。そして、この小さな肩を抱き締められた。
 あれだけ練った言葉が出ない。小さく「ごめん。私は元気だぜ」 と震えて言うのが精一杯だった。
 何を言われたのか、離れて何年にも積もり積もった彼らの声は、すべて胸に浸透して、そして跡形もなく溶けいった。ただ、簡単なことだった。ほんの僅かな距離。だがそれは歩むのに数年も掛かるような、途方もない旅だった。
 厳格だった彼は白髪も増えてすっかり落ち着いて、彼女は少し痩せたようだった。私はと言うと、歯はみな生え変わり、身長は頭ひとつ分伸びて、難しい言葉を沢山覚えた。茶の間で食卓を囲み、聴かれて、私はこれまでの摩訶不思議な旅を物語った。生活のこと、自然のこと、異変のこと、友人のこと。
 魔法という曖昧模糊な存在が苦手な彼が、私の話を最後まで黙って聴いてくれた。逆に私が尋ねると、彼らは平凡な、当たり前の日常の話を繰り出した。最近の天気や里の流行り、近所付き合いに新しく作った道具の事。どれもが単純でつまらなく、そして嬉しかった。
 私は、その、傷のある柱に、新しい自分の軌跡を刻み入れた。日付と名前を書き残して、成長の証明を作る。
 夕陽が完全に地平線に呑まれて、常夜灯が里を照らしていた。二人と手を握って、再会の約束をする。一晩泊まっていけ、と言われたが私はそれを拒否した。
 ……――――私は眠る訳にはいかない。
 一歩外界へ踏み出すと、夜は静謐とした空気で満たされていた。手を振る彼女に挨拶を返して、私は十数歩進んで、そして魔法の箒に乗った。空へと昇っていく。里の光が小さくなっていく。天と地、その双方がまるで星空のように輝いていた。彼ら――父と母は、元気そうだった。帰る場所はあったのだ。
 ―― ― …  …私は、手を大きく広げて、星々を抱き寄せるように全身で月の光を受け止めた。重力から逆さになって、螺旋状に落下していく――― ―  ……
 私は、まだ、…………………………………

 月の光をぼんやりと見ている霊夢が、縁側でひとり座っていた。
「ごめんな。霊夢。夕日が落ちるまでに間に合わなかった」
 言って、その隣に座る。彼女は、そのまま振り返りもせずに私に答えた。
「約束してたっけ。……あなたのせいで昼寝しちゃって、夜になっても全く眠くならないわ」
 いつかの記憶。夕方、彼女と語らい合った思い出。
「私が勝手に思い込んでるだけ。約束はしてないぜ。まあ、約束をしに来たわけだが」
「そ」
 素っ気なく霊夢は反応した。もしかしたら、もう約束の内容も見当が付いているのかもしれない。
「アリスはどうしたの? 私よりもまずあの子に伝えるべきじゃない?」
「いや、アリスは居なかった」
 まず告白をして、そのあと約束をしようと思っていた。霊夢はそんな私の心を完全に見透かしていた。私が研究を行っている昼中、紫も小町も襲ってこなかった。アリスも訪ねて来ることはなく、私があとで洋館を見に行っても、その姿はなかった。
「……魔理沙。あなたは本物の馬鹿で、どうしようもないわ」
 霊夢の声は震えていた。
「わかってる。こんなに無理ばっかり押し付けてるのに、何もあげられなくてごめんな、霊夢」
「無理は私の仕事よ。あなたは、無理をしてはダメ」
 何も考えられなくなっていく。意識が真っ白になって、会話が続かなかった。告白も約束もどうでも良くなって、ただ、肩を寄り添わせていたいと感じた。
 白い雲とは違い、星は数カ月かけて空を駆けていく。変わらぬ光景がその夜にはあった。規則正しく発せられる虫の声。耳奥に響く、いつかの遠い里の喧騒だけがノイズのように浮かび上がっている。縁側の木の質感。本当に幼い頃に触れたその木目の感触は、変わらずある。息を意識的に吸っていた。
 冷えた指を霊夢のものに這わせた。彼女の手も同じように冷えていた。私はその袖を縋るように掴んで、ゆっくりと傾いて身体を預けた。眼を閉じると、鮮やかに見えるほどに色づいた原風景で二人が軒先を走り回っていた。時は止まって、月だけがその永遠の中で独り進んでいく――――……。
「なあ霊夢」
 呼びかける。子供の彼女が、博麗の巫女が、私が見た今の霊夢が、声に誘われてこちらを振り向いた。私は背伸びをするように腕をつんと伸ばして体を支えて、少しだけ背の高い彼女の唇に、自分のものを合わせた。
 そして、告白する。

「私は、…………もうすぐ、死ぬんだ」

 それは決意ではなかった。憶測でも運命でもなく、現象だった。幻想郷の空を星々が廻るように、魔法の森に生物が息衝くように、みな各々の生業を日々繰り返していくように、当たり前の、日常にも潜んでいる、当然の、事象だった。
「……魔理沙。あのね、人妖として私に退治されるよりも、死を選ぶだなんて、莫迦げて――――」
「違うんだ」 霊夢の言葉を遮る。確かに、妖怪化は進んでいる。今日眠ってしまえば、恐らく次目覚める時には人間の意識が残っていないだろう。しかし、私があの永い追憶の旅から帰ったときに自覚した異変は、もっと別のものだった。
 言う。「私の魔法は、不完全だったんだ。……この魂は、もう」
 もうすぐ完全に消える。この身体を持った事自体が奇跡なのだ。この世界に産声をあげることは、きっとその奇跡と同じ、神秘の源より垂れた一滴なのだろう。
 死。それは芳香が夢見る眠りのよう、安らかなものだろうか。彼女は言った。怖いものは無い、と。死の側に立った僵尸は、夢と現実の境で、誰かの声に従って覚醒し続ける。
「――――いつまで保つの?」
 現し世に居られる時間はどれだけあるだろう。妖怪は永遠か? それとも万物は、流れ行く川面に一瞬映った空の形のようなものだろうか。私は…………知っている。
「明日、にはいけない」
 今刹那、霊夢と一緒に肩を並べる、その瞬間が終わらなければいいのに。
「そう。だから昨日私を誘ったのね。…………それで、あなたはどうなりたいのよ。魔理沙」
 彼女の髪が揺れる。私の顔を覗き込んで、この眼を見てくる。明日のない人妖に、どうなりたいか、なんて冗談にしか聞こえない。私は、――――  …  ……… ダメだ。何も出てこない。
「人知れず、死ぬさ」 意志を経由せず、私は言っていた。
 時の歯車が急激に動き出した気がした。景色は移ろい、瞳の奥にあった光に夜闇が被さる。指から暖かさが消えたのが簡単に把握できて、虫と風が奏でていた音楽は耳障りな雑音になった。それでも、霊夢は淡々と私の言葉に応えてきた。
「いいえ。壊れる前に私に退治されれば、少なくともあなたの魂は冥界に向かって引かれていくでしょう。魂魄が散り散りになって、完全な妖怪だけが残るよりはマシよ」
 博麗の巫女は、後ろ髪を留めているリボンを巻き直していた。合理的だ。それでいい。それが最善。私の“告白”への返答は、現実的な提案で幕を閉じた。
「いいのか? 霊夢」
「私の仕事よ。それも何代も前からの、宿命よ」
 私の知るすべての時間軸の霊夢が合わさってそこに居た。感情を押し殺した表情をして、立ち上がる。
「霊夢、ありがとう」 私は連なって腰を上げた。
「……それで、約束って何?」
「いや、………………もし私が里に害悪を齎す異変になったら、容赦なく、殺してくれって言おうとしただけだぜ」
「そうね。約束は守れそうにもないわ。あなたは、里を襲う前に私に懲らしめられるでしょう」
 風が私達を凪いでいった。言葉無く、月が流れ行く姿を立ち竦んで眺めている。冗談には思えないジョークで、私達二人は顔を見合わせて笑った。肩を躍らせる引きつりはなく、互いの無事を祈るような笑みだった。
「あのさ、霊夢。最期のワガママいいか?」
 虚無と恐怖に支配された五体の束縛から、私の心は飛び立っていた。私は強くなった。だから――――
「最後に、スペルカード勝負しようぜ」
 その提案を聞くと、その場の空気をぶち破って、霊夢は吹き出してしまった。まるで子供の遊びをするみたいに、手軽に、かつ楽しげに私はその答えを待った。
「――――――あなたらしいわ。負け越しでは終われない、って事?」
「ああそうだぜ。今の私なら、霊夢にだって勝てる」
 何のために人生はあるのだろう。深いことを考えるのは苦手だ。時間だけは、思考に費やす時間だけは長くあった。私はどうありたい? 永遠に生きて――最高の魔法を――大切な誰かと――不思議な日常を――誰よりも一番に――世界を救い――いつも楽しく――――私は、私らしく!
『力を求めるあまり人妖の法にまで頼るなんて。あなたは弱いものがどれだけ力に怯えるか、解らないの?』
『強きお前を倒すことそのものが、弱い私を変える唯一の術だ! 私は私の力を証明してみせる』
『万里沙。私はあなたを調伏して人間の生命を守るわ』
『霊夢。私はお前を超えて人間の尊厳を守る』
『星空のもとで眠れ、一空の魔法使い!』
『記憶のなかで眠れ、懐かしき巫女!』
 私達は芝居がかった台詞を言い合って、真っ暗な空の孔へと舞い上がった。

「どうして、か。それを私に答えろというのだな」 私は言う。
 霊夢は私に向かって放射状に御札を展開していた。大量の弾の内、私を狙ったものはたったひとつで、それだけが相当なスピードで飛んでくる。上手く体を捻って避けても、放射状の弾幕に隠れて次弾が飛んでくる――――初めは彼女のこの小手調べに良く騙された。今の私なら、幻想郷最速になれる私なら、その隙間を縫って次が来る前にすべて追い越せる。
「ええ。どうしてあなたは“そう”したの?」
 私は彼女の周りを回転しつつ5つの星を設置する。奴隷タイプの使役が苦手な私がプログラムできる限度の、単純な命令を繰り返す弾だ。それは流星のように広がる尾を引いて飛び、霊夢を囲むように回って、そして間隔を狭めていく。
「さあな。答えは“わからない” 星が綺麗だったからかもしれないし、偶然できた最初の魔法がそうだったのかもしれない。妖怪に対抗できる術がそれしかなかったか、自分の由来を探し求めた結果かもしれない。憧れた誰かを真似る内になったのかもしれない。もしかしたら、私は黄色の髪の毛に操られてるかもな」
 私の彗星が彼女に達するほんの直前、その姿が残像を残して消えた。霊夢の得意とする結界の隙間を利用したズル技だ。大体そういう時は私の後ろに出てきて、そしてカカト落としでも喰らわせてくる。魔法の箒の頭を振ってほぼ直角に曲がると、案の定、さっきまで私の居た場所に霊夢が物理攻撃を加えていた。
「“わからない”のが答えなの? 自分の核がないと、不安にならない?」
 霊夢には置き土産を与えてやった。衝撃を加えると爆発する、調合瓶だ。だが、彼女の判断は迅速で、私が場から離れたのを確認すると上手く腰を捻ってその瓶の勢いを殺し、あろうことかこちらに蹴り返してくる。星弾は間に合わない。私は八卦炉から極小のレーザーを発し、二人の中間でそれを破裂させた。
「私の師匠曰く、この世界は摩訶不思議に満ちている。辛くてどうしようもないときは、あの光り輝く“訳の分からないもの”たちを思うのさ」
 次の瞬間、霊夢はスペルカードを宣言した。夢符・二重結界。夢の中でもやられた、あのスペルだ。彼女を中心として、大小2つの結界が張られる。しかも、私はその結界の間に挟まれる形になっていた。夥しい程の御札が結界内を飛び交い始め、四方八方から私に向かって襲い掛かってくる。
「結果あなたはどうなったの? その師匠の出来損ないみたいな妖怪になって、何かを成就できたというの?」
 以前の私なら、そこで詰んでいた。自分の身の回りのすべてが、眼にも止まらないスピードで通り過ぎてしまったように見えて、無茶をするしかなかった。けれど、私はその一分一秒を感じられるようになった。学んで、悩んで、身体が覚えた。私には、この迷いの結界の中、進むべき道が見えた。届く。手が届く。
「私の歩んだ軌跡は此処にある!」
 スペルカードを宣言する。魔符・ミルキーウェイ――私が星の渦になり、全方位に星弾を打ち出すスペルだ。今度は霊夢が避ける番だ。私はいつまでもこの結界の内側に居ることが出来る。
「あなたは何を犠牲にしたの? それっぽっちのために、一体、どれだけ多くの無駄を出したの?」
 まるで始めから弾の向かう先が判っているように、霊夢は容易く躱していく。何か、違和感に気付いた。徐々に結界の位置が移動している。彼女は、何処かに誘おうとしているようだった。望むところだ。私は明らかに不利になるであろうその罠に、自ら飛び込んでいった。
「ああすればよかっただろう、こうすればよかっただろう、なんて、本当はほんの僅かな距離なんだ。たった一歩の、ただ扉を叩く、それだけで良かったんだ」
 月が、丸く空を飾っていた。景色は竹林に呑み込まれていた。霊夢はこの場所に私を連れてきたかったらしい。長い、永遠に続く夜――――霊夢のスペルカードが時間切れを迎えて、結界が霧散する。
「あなたが納得しようとも、取り返しのつかないものはあるわ」
 霊夢は陰陽玉を取り出した。彼女が一度それを掲げると、陰陽玉の分身が数十拡散して、竹林の中を無茶苦茶な軌道を描いて反射し始める。そしてまるで意志があるように、私の進もうとする道を塞ぐように飛来してきた。
「確かに失った時は戻せない。だが、私には得たものがある」
 途端、私のスペルカードも限界を迎える。霊夢の考えは読める。陰陽玉で足止めをして、動きの止まった隙を突こうというのだろう。私は奴隷タイプの星を周囲に展開して、攻め手の侵攻方向を限定させる。わざと分かりやすい隙を作って、彼女の攻撃を避けやすくする戦法だ。
「最期に何もかも失うとしたら? あなたには何が残るの?」
 私の手が読まれていたのか、霊夢が次のスペルカードを宣言するために一旦引いた。月を背にして、意気揚々と霊力を集中させている。私も後を追うようにスペルカードを用意した。
「私には“わからない”」
 霊符・夢想封印 散――魔符・スターダストレヴァリエ。宣言は同時だった。霊夢の霊力が、凄まじい速さで御札と陰陽玉になって発射される。私のスペルカードは発動するまでに時間が掛かる。それまで避けきらなくては。
「わからない事が希望なの? 空虚なまま死を迎えるの?」
 私の集中力は極限まで研ぎ澄まされていた。彼女の力が、スローモーションに見える。ただ眼の前のことに集中するだけで、全ての道が拓けていく。当たるも当たらぬも八卦。その8つの方角を見通せるのならば、今の私に敵はない。スペルカードが本来の形を形成した。
「じゃあ、霊夢には、私の意味がわかるのか?」
 次は霊夢の番だ。周囲に広がった7つの星は、3つの尾を持って回転を始める。その軌跡は、私の手の先を廻るように幾つかの円を作った。とっておきの奴隷タイプだ。その円の中心に入りでもしない限り、絶対に星弾を避けることはできないだろう。
「――――そんなの、言葉じゃ伝え足りないわよ!」
 霊夢は全部知っていた。霊夢は尾に従うようぐるりと動いて、難なく円の中に入っていった。だが次弾はどうだろう。私のものも、霊夢のものも、何度も何度もやって慣れるものだろうか。否、完璧なんてない。まさに八卦。占い、祈る。一歩先に進めることを、運良く切り抜けられることを。
「霊夢は好きか? 幻想郷や私のこと」
 あっという間にスペルカードの終わる時間が来た。私達は声高らかに宣言した。次の、次の次の展開を。
「ええ。――だから、だから私は闘っているのよ!」
 夢符・夢想封印 集――恋符・ノンディレクションレーザー。五芒星の形に霊夢の展開した御札は、私を追尾するように飛んでくる。私は知っている。この追尾は二段階あって、上手く誘導する必要がある事を。同時に霊夢も知っていた。私のスペルカードが、5つのレーザーを交互に回転させるものである事を。理解して、その時間を共有する。
「安心したよ。……ホラ、不安にならないだろ?」
 私達は肩を並べて、幻想郷で生きていた。記憶の中でも同じように、嗚呼、夕陽を見ている。私は八卦炉を取り出した。次の瞬間も今に終わろうとしている。ああ、短い――――
「…………妖怪は恐怖の象徴よ。もし、あなたが怖れを感じないなら――――――」
 わかっている。わかっていたさ。魔力の使い過ぎが原因だろうか、八卦炉を持つ腕の爪が、あの化け猫のように長くなっているのが見えた。三角帽子の中が痒く感じる。私は、更に次のスペルカードを取り出した。やはり、宣言は同時。光符・アースライトレイ――夢符・夢想封印 瞬。
「私は人間だ! だから人間らしく、人間のサガを通してみせる!」
 八卦炉から光を溜めた魔力を放出する。それは地に取り憑いて、幾つかの光の柱を作り出した。霊夢はあの、結界を利用した“ゆっくりとした早さで瞬間移動”をして、それを乗り越えていく。しかし私は彼女から一時も目を離さなかった。二人の間に交わされるのは、互いに真っ直ぐ向けた、狙い澄ましたものだけ。
「あなたは一体、どうありたいの!?」
 残るスペルカードはたった2つ。私と霊夢合わせて2つ。あと一度言ってしまえば、それで最後。遊びはいつも、その時間が来れば終わりを告げる。ぜんぶの期限は“帰るまで”
「私は霧雨魔理沙! 私はわたし! 霊夢、見ててくれ、これが、私だ!」
 八卦炉に願いを込めて、私は宣言した。
『恋符・マスタースパーク!』
『夢想天生!』
 光が流星群のよう走って、それは大きな奔流になっていった。そして無意識状態になった霊夢を透過して、彼女が生じさせた御札と相殺して無数の光の筋になって拡散していった。それはさながら、幻想郷に星が降るような、そんな十数年振りの光景――――
 …………私は思い返していた。これまで霊夢と一緒に“遊んだ”その日々を。ああ、そういえば霊夢のこれって、私がスペルカードの名前を付けたんだっけ?
 決闘が終わる。そう、卑怯なことに、この状態になった霊夢は弾が当たらなくなるのだ。そして私が彼女の攻撃を全て蒸発させるのだから、この勝負の決着は――――――
 ――勝ち負けなんて、どうでもいいか。
 と、そう思いが過ぎった瞬間の出来事だった。時間切れになった途端、突然霊夢が地に落ちたのだ。何が起きたのか。私も追って竹林に足を下ろすと、そこには影が2つあった。
「間に合ったわ。魔理沙!」
 一人はアリスだった。泣き腫らしたのか、赤い眼をしてそこに居る。もう一人は、霊夢の胸に手を貫通させていた。
「安心して。本当に突き破っているわけじゃありませんわ」
 青娥娘々が鑿を使って、霊夢の動きを完全に封じていたのだ。
「一体何のつもりだアリス!」
 私が怒りに任せて問うと、意外にもアリスは不思議そうに驚いてその場で狼狽えた。しかし、すぐにも気勢を持ち直して言う。
「――退治されるのを防いだのよ魔理沙! あなたこそどうしちゃったのよ!」
 確かに、そう見えたのかもしれない。だが、どうしてアリスが娘々と一緒に居るのだろう。私が視線を向けると、彼女は、ニコと無邪気で屈託のない笑みで返してきた。思い出す。
『それも貴女の自由よ。けれど、貴女だけが貴女を大事に思っているなんて、思い上がらないことね』
 彼女は言っていた。つまり、次の手はもう打っていたのだ。誰かの願いを叶えるように、その心の隙間に入り込んだ。――そして、ふと、私は自分の手の異変に気付いた。手首まで、獣のような形に変化している。
「――私は、」
「魔理沙! 私と一緒に逃げましょう! 幻想郷なんて捨てて、普通の女の子として過ごすの!」
 アリスは私の姿に物怖じせず、一気に駆け寄ってきてこの肩を揺らした。彼女の手は、暖かい。何かを探してずっと走っていたのか息も荒く、熱に浮かされたような顔をしていた。
「アリス、聞いてくれ、私は」
「わかってるわ! 妖怪化が進んでいるんでしょう! 幻想郷から逃げてしまえば、あなたの魔法と私の人形でなんとでもなるわ! だから――――――」
 気付いたときには、現実は侵食している。私はどうするべきか。また決断だ。生きることは決断の連続。それはどんな未来を造るのだろう。
 私は、選んだ。
「アリス。魔法は不完全だったんだ。私の魂は、もう消える」
 真実を伝えた。両親には嘘を伝えるよう香霖に言ったのに、私は、なんて我儘なんだ。そうして“私”は積み上がっていくんだと、思う。アリス、お前はどう思う?
「嘘よ! そんなの嘘! 最後まで足掻きましょう! ねえ、青娥も協力してくれるのよ! みんなで力を合わせれば――――」
「いや、……………ここまでなんだ」
 諦めか? それとも慰めか? 夜は深くなりつつある。もうすぐ私は霧消する。ほんの一秒でも、希望を持つ続けるのが人間か? 突然の受け入れられない死を軽くするために、予告するのが優しさか? 私にしてやれることは何だ?
 ――…………考えるのは苦手だ。私はアリスをそっと抱き寄せた。しかし、
「あなたらしくないわ魔理沙!」
 その腕は払われて、私は突き飛ばされてしまった。
「あなたを失うのが耐えられない! 大丈夫、あなたは死なない、私が殺させない! 幻想郷の悪意から守るわ!」
「アリス、でも」
「絶対なんて無いわ! あなたは生きるの、生きて――――」

「――――いえ」

 その言葉の拮抗を崩したのは、他でもない青娥娘々の声だった。
「魔理沙さんは死んでしまいますわ。それももうすぐ」
 絶句だった。アリスの、声無き叫びが私の心臓を引き裂いた。月が落ちてきそうだった。青娥は霊夢の胸から鑿を引き抜いて、一歩下がった。
「霊夢さんとの闘いでなったのかと思いましたが、魂魄の形が修復しないのを見ると本当にそうですのね。術式が不完全で魂魄が壊れたら使い物になりませんわ」
 邪仙は再び私に笑顔を向けてきて、そして、
「もうこんな場所に用はありませんわ。皆様、御機嫌よう」
 闇に溶けるよう、まるで闇そのものであったかのよう、その場から姿を消していった。私と娘々。何が違うのだろう。自分の我儘で誰かを振り回して、そうして勝手に消えていく。
 芳香はどうしているのだろう。彼女に救いはあるのか? アリスはこれからどうするのだろう。彼女に救いはあるのか?
「――アリス、これを預かって欲しいんだ」
 私は彼女の頭に、自分の白黒帽子を載せた。そのあと、一度は拒否された抱擁を、もう一回した。うずくまる彼女の心が落ち着くまで、ずっとそうしていた。肩越しに遠くの霊夢と目が合った。私達は言葉を発しなかった。時間は迫っていた。 
 時は傷を癒やしてくれる。時は心を動かしてくれる。永遠はなく、永遠の苦しみもない。だが、私がこれからいくべき場所は、何処だろう。
 死神の言うとおり、これが悲劇なら、私は何を嘆くだろう。霊夢は、何を思うだろう。アリスは、香霖は、両親は、みんなは、どう感じるんだろう。
 月は太陽のように沈んでいった。眠気が襲ってくる。私は、霊夢とアリスと共に、博麗神社に帰ってきた。
 ――――帰ってきた。

 縁側で横になった私の手を、傍らで二人が握っていた。
 何故か懐かしさがこみ上げてきた。夏の暑い日、入道雲を見ながら、こうして空を眺めていた記憶。今では、霊夢とアリスの顔が見える。
「なあ、霊夢。私は変われたか?」
 息苦しさや痛みを感じない。私はただ、瞼を上げているのが難しくなっただけだ。眠りが背中に張り付いている。
「あなたは、あなたよ」
 答えを聞いて、私は微笑みかけた。眼を瞑ってしまっても、笑うことは出来る。ああ――――いとおしい。
「やだなぁ……死にたくない。死にたくないよ……………」
 幼いころ、眠るのが嫌だった。その日が終わってしまうのが勿体なかった。楽しさがずっと続いていた。今も、ずっと――――――…………
 私はみんなに嘘を吐いていた。本当は、平気じゃない。
 息が透き通っていく。私はそして、眼を閉じて、



 ――――――……二度と目を覚ますことはなかった。










 
 霧の湖のような、真っ白い霧の中で水音だけが進んでいた。
「そう邪険にするな。魂魄が削れた結果さ」
 私は小さな渡し舟に乗っていた。彼女曰く、この幼い躰は魂の状態を表すらしい。もう息をしていない。名残惜しく霧を吸い込もうとするが、どうやって呼吸をするか、てんで記憶にない。
「――なあ、もしかして私のためだったのか?」
 渡守は小野塚小町だった。偶然か、それとも彼女の意志なのか。小町はするりと躱し抜けるよう、「さあ?」 とだけ答えた。悲劇を起こさないよう私を殺す、というのは、霊夢やアリス、そして未練タラタラの私のために、恨まれ仕事を引き受けてくれようとしたのだろうか。今となっては答えは沈黙の彼方だ。
「やっぱり私は地獄行きか?」
 声は風に吹き飛ぶ塵芥のようすぐに霧に消えていった。ひと掻き、ふた掻き、櫂を動かす小町は黙している。私の手は小さくなって、しかし記憶は奪われず、小さな魂魄のひとりとして此処に居る。やがて向こう岸があるのか、櫂の音が浅くなると、小町はこう答えた。
「いんや。親の前に死んだから賽の河原で立ち往生さ」
「そっか」
 妙に納得してしまった。ひとつ積んでは父のため、ひとつ積んでは母のため――何もかも中途半端だった。でも、私が辿り着く場所では、そんな子供達が一杯居るんだろう。
「何年くらいだ?」
 死したものはいつ救われるんだろう。聞くところによると、仏教の世界観では、とんでもない年数を要する事があるそうだ。
「数年後かもしれんし、数万年掛かるかもしれん」
 もしも数百年経ったら、私は何処に生まれ直すのだろう。これまでの何もかもは一新してしまって、見知らぬ言葉に、見知らぬ文化の中、思いもよらぬ装置に囲まれて、信じられないような理由で生きていくのだろうか。
「私はどうして生きてたんだろうな」
 つい口を出る。その疑問は、やはり“わからない”まま終わるんだろう。星も月もなく、光はぼんやりと水面に満ちている。
「それは残された者達が決めることだ。そうやって現し世は次の世代へと移り変わっていく」
「“この世界は摩訶不思議に満ちている”か」
 緑の髪の魔女のことを思い返す。私は彼女から残されたものを、きちんと伝えることが出来たろうか。それに、みな、霊夢やアリスや香霖達から、色んな事を教わった。それはもう誰かに教え伝えたとして足りないくらい――…………
「嘘ばっかり重ねて、逃げてきたかな」
 呟いて回想する。私はいつも全力だった。戦うか逃げるか、勝つか負けるか、強い弱いなんてのは、結局誰かから見た、“向きの違い”に過ぎないのかもしれない。私の手にはもう、八卦炉は無かった。
「魔理沙、嘘は嘘でも幻想郷での“嘘”さ。――――対岸に着くまで暫く時間がある。もしも、の話をしてやろうか?」
 私は自分の髪に触れてみた。肩ほどの、金色の髪。最期に私に残されたものは、遺したものは何だろう。私は選ぶ事ができる。彼女に話を訊くか、それとも――耳を塞ぐか。
「……ああ、頼む」 私は願った。
「あの世界には幻想が残っている。何でも起きうると思わないか? もしも、――――――……」
 例えば、から始まった死神の話は、まるで彼岸花の花弁のよう、幾叉にも分かれて私の前に咲いていった。
 例えば、魂魄の魔法が実は完全なる術だったら。
 例えば、里に残った片葉の葦の噂が私の人妖騒ぎと習合したら。例えば、青娥娘々の持つ秘術で蘇らせられたら。両親が思う私の生存が神に聞き届けられたら。魔法店に残された悪戯の手紙を誰かが読んだのなら。香霖堂で焼却を待つ私の遺体に魂を降ろしたら。アリスが作り上げた人形と魔法を完成させたら。霊夢が私を名もなき祭神として祀ったら。私自身が賽の河原から自身の力で這い上がったら。知り合いの地蔵が地獄から掬い上げてくれたら。魔女が、河童が、管理者が、里人が、異変が、幻想郷が例えば、例えば、例えば――――――――
「なあに。なにひとつ実現しなくとも、私がたまに様子を見てきてやろう」
「なあ、死神」
 私は彼女を呼び捨てにする。もうすぐ岸が見える。別れの時間が近づいている。それは長い孤独か。一旦の完結か。
「私の髪って、何で黄色いんだろう?」
 問われた彼女は首をかしげて、
「まあ、似合ってるよ」
 と一言だけ囁いて、私を送り出した。










 
 ――――そうして私は、いくつかの夜を挟み
       「おかえり」
        誰かが望んだ場所に、帰ってきたのだ。

 
henry
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コメント



0.180簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
全てを可能性に留めたのはハイセンスでした
7.100名前が無い程度の能力削除
ラブラブデート部分ちょっとだけじゃないか!ふざくんなっ!(歓喜の鼻血ブー)
絶対タイトル詐欺だと思ってたらやっぱり重いじゃないの……ぐへへ大好物でっせ。だぜ魔理沙を見たの久々かも
努力家とはいえ危うい生き方をしていることには変わらなくて、彼女が向かえるひとつであろう結末はやはり悲しい。あとがきでの可能性でかなり救われましたが、それでも魔理沙が死んだ事実は消えなくて、その時間を生きた人たちの心の空白を考えると……ああ、魔理沙っ!
覚悟を決めていた霊夢はともかくとして変に希望を持たされたアリスのこれからが危ぶまれましたね。許すまじ邪仙(とてもらしくてバトル部分含めて素敵でした)
霖之助がなぜ魔理沙の服をこしらえてくれるのか、お人好しや世話好きでない理由のひとつがうかがえて、そこも個人的にツボでした
とても面白かったです、ありがとうございました。進撃のミコチと同じくらいにまた氏の作品が読めることを期待しております
8.100名前が無い程度の能力削除
題名はともかくすごく素敵な内容でした。
『誰かが望んだ場所に、帰ってきたのだ。』という部分が特にお気に入りです。
……もっと評価されるべき(ボソッ)