〇月×日
それはフランお嬢様の口癖だった。一緒のベッドで眠るとき、瞼をとろんとさせて、聞こえるか聞こえないかくらいのかすれた声で、切なげに言うのだ。
今夜もいつもと同じように、眠る前に童話を読んで、フランお嬢様がまどろみ始めたな、といったくらいの頃、肩に布団を詰めようとした。するとびくりと起き上がって、まるで今からどこかに捨てられてしまうのではないかと思っているかのような不安げな表情をするのだ。
「ママ……」
フランお嬢様はそう言うが、記憶の内にお母様は居ない。
「ママ、愛してるって言って」
このことを、朝目覚めたフランお嬢様に尋ねてみても、本人は覚えていないという。それならいいのかもしれない、と思った自分が居た。フランお嬢様の特別になりたいとは思っていても、私は幻影のような母親になりたいのではなかった。それでも、覚えていないというなら、ほんとうに、いいのではないかと思えてしまうのだ。フランお嬢様が安心して眠れるのなら、私は。
「ママは、あなたを愛してる」
本来主人の妹様に、こんな口を利いて良いはずはない。
「うん」
けれど、フランお嬢様のこの安堵しきった顔を見て、これが正しいのではないかとすら感じる。私はもしかしたら、フランお嬢様の母親だったのかもしれない。
「ママ、ぎゅーってして」
私が優しく腕に力を入れ、抱きしめるとフランお嬢様は、少しずつ穏やかな寝息を立てて眠り始めた。
□月×日
レミリアお嬢様は、フランお嬢様のことをいちばん大切にしている。夜の読み聞かせだって、昔レミリアお嬢様が一人で始めたことだった。
「美鈴」
それなのに、なぜ、私がママで、レミリアお嬢様はママにはならなかったのだろう。こんなにも大切な人に求められることは、嬉しいのに。
「美鈴?」
じっと立ち止まって考え事をしていたことが不審だったのか、咲夜さんが怪訝そうにこちらを見ていた。
「ねえ、最近あなた疲れてるんじゃない?」
咲夜さんが心配そうに綺麗な瞳を揺らしていた。
「体力だけは、自信があるんです」
私がそう笑うと、咲夜さんはそれもそうね、と姿を消してしまった。心配してくれるのは、嬉しいけれど、もっとしっかりしないと、そう思った。
×月〇日
「ママ」
「はいはい」
私はフランお嬢様のお母様を知らない。だから、想像上の、一般的なお母さんを演じる。優しい口調で、包容力があって、そんな理想の母親。
「愛してるって言って」
フランお嬢様は相変わらず、毎晩私でない誰かに乞い願う。
「この世でいちばん愛してる」
だからこの言葉を紡ぎ出しているのも、柔らかい髪に触れたのも、安らかな寝顔を見つめていたのも、きっと紅美鈴ではないのだ。
フランお嬢様が眠りについた後、私の頬には何故か涙が伝っていた。
〇月□日
この数日、レミリアお嬢様がお風邪を召されていた。敬愛する主が苦しそうに息をする姿を見ているのは、心苦しい。せめてものお見舞いに、私は夏みかんを剥いて部屋に向かった。
ドアをノックしようとすると、レミリアお嬢様の声が漏れ聞こえた。その言葉を聞き取った時、私は体の力が抜けてしまった。音を立てないように、静かにへたり込むのが精一杯だった。お嬢様は確かにこう言ったのだ。
『ママ、愛してるって言って』
それは繰り返しフランお嬢様がうなされるように口にしていたあの言葉だった。そして声は続く。今度はフランお嬢様の声だ。私はようやく事の重大さに気が付いた。
「愛してるわ、レミリア」
レミリアお嬢様はフランお嬢様に母親役を求め、抱えきれなくなったフランお嬢様は、私に母親役を求めていたのだ。
もしかすると、レミリアお嬢様はフランお嬢様を寝かしつけに行っていたのではなく、その逆だったのではないか。そうしていつの間にか人格が解離するほどにストレスを感じるようになっていたのではないか。
「ちょっと、入り口で突っ立ってないで」
私が青ざめていると、後ろからパチュリー様の声が聞こえる。振り向くと、パチュリー様の無表情が少し変化する。
「ちょっと、なんで泣いてるの」
私はまた自分でも気が付かないうちに涙を流していたようだった。それはたぶん、自分に対する恥ずかしさと、フランお嬢様の優しさを知り、そして同時に、抱えきれないほどの、愛おしさを覚えたからだった。
× × ×
「誰でもよかったわけじゃないのよ」
パチュリー様は私にやさしく、落ち着いてね、という風に語りかける。それから紅茶をゆるやかにカップに注ぎ、差し出してくれた。
「レミィは妹様に甘えて、妹様はあなたにしか甘えられなかった」
自分のカップに注いだレモンティーをこくりと飲むパチュリー様。私は黙っていた。
「私は、母親になれるでしょうか」
至極まじめに尋ねたけれど、パチュリー様はあっさりとその望みを切り捨てる。
「なれるわけないじゃない。あの子たちの母親像なんて、幻想でしかないのよ。はあ、いったいどうしたらいいのかしら」
□月〇日
レミリアお嬢様の風邪もすっかり良くなってしばらく経った頃、私はフランお嬢様に尋ねてみた。
「フランお嬢様は、レミリアお嬢様のことを、いついかなる時でも、愛していますか」
フランお嬢様は不思議そうに微笑んだ。
「ええ、世界でいちばん愛してる」
その言葉がとても尊いように感じられたのは、きっとフランお嬢様と私は、同じ気持ちでいるからだ。
× × ×
「ねえ、ママ。愛してるって言って」
パチュリー様は母親になんてなれるわけがないと仰ったけれど、私はこの今にも消えてしまいそうなフランお嬢様をほかにどうすることもできないのだ。
たとえフランお嬢様に触れた指が私のものでなくても、言葉が、喋り方が、全て別のものだとしても、それでもやっぱり私はフランお嬢様が大好きなのだった。
「愛してる。世界でいちばん愛してるわ、フラン」
泣き顔を見られないように、フランお嬢様の華奢な体を前から抱きしめる。それでも滴る雫はとどまることを知らない。
「なんで泣いてるの……」
母親役の前でも、フランお嬢様は優しかった。腕を振りほどいて、私の目じりから流れ出る涙を人差し指ですくう。
「大丈夫だよ……」
とんとんとまるで赤ん坊にするように、背中に手を置くフランお嬢様。
レミリアお嬢様がフランお嬢様に甘えてしまう気持ちが理解できた。
「安心してね、めーりん……」
その時確かにフランお嬢様が呼んだのは私だった。優しく髪を撫でてくれる白くて可愛らしい手も、フランお嬢様のものだった。
ほかの誰でもない、いちばん好きな、フランドールお嬢様の。だから私が言う言葉は、もうこれ以外には見つからなかったのだ。
「フランお嬢様」
まっすぐに視線を合わせる。
「うん?」
フランお嬢様はきょとんとしている。
「私は、フランお嬢様のお母様には、なることができません。けれど、それでも、紅美鈴はあなたのことが大切です。世界でいちばん、愛しています」
そこまで言い終えて、自分の心臓が死に物狂いで働いていることに気づく。
「ありがとう」
フランお嬢様のその言葉が全てだった。
「きっと、レミリアお嬢様もわかってくれる日が来ます」
そう言うと、フランお嬢様は眉尻を下げて少し笑ってくれた。
×月□日
一人の夜はやっぱり寂しくて、私は夜勤の仕事を多めに入れた。この頃はとても寒く、マフラーと手袋にコートを羽織ってもまだ体が震える。それでも、あの時フランお嬢様から頂いた優しさの温もりで、この季節ともうまくやっていけそうだ。
それはフランお嬢様の口癖だった。一緒のベッドで眠るとき、瞼をとろんとさせて、聞こえるか聞こえないかくらいのかすれた声で、切なげに言うのだ。
今夜もいつもと同じように、眠る前に童話を読んで、フランお嬢様がまどろみ始めたな、といったくらいの頃、肩に布団を詰めようとした。するとびくりと起き上がって、まるで今からどこかに捨てられてしまうのではないかと思っているかのような不安げな表情をするのだ。
「ママ……」
フランお嬢様はそう言うが、記憶の内にお母様は居ない。
「ママ、愛してるって言って」
このことを、朝目覚めたフランお嬢様に尋ねてみても、本人は覚えていないという。それならいいのかもしれない、と思った自分が居た。フランお嬢様の特別になりたいとは思っていても、私は幻影のような母親になりたいのではなかった。それでも、覚えていないというなら、ほんとうに、いいのではないかと思えてしまうのだ。フランお嬢様が安心して眠れるのなら、私は。
「ママは、あなたを愛してる」
本来主人の妹様に、こんな口を利いて良いはずはない。
「うん」
けれど、フランお嬢様のこの安堵しきった顔を見て、これが正しいのではないかとすら感じる。私はもしかしたら、フランお嬢様の母親だったのかもしれない。
「ママ、ぎゅーってして」
私が優しく腕に力を入れ、抱きしめるとフランお嬢様は、少しずつ穏やかな寝息を立てて眠り始めた。
□月×日
レミリアお嬢様は、フランお嬢様のことをいちばん大切にしている。夜の読み聞かせだって、昔レミリアお嬢様が一人で始めたことだった。
「美鈴」
それなのに、なぜ、私がママで、レミリアお嬢様はママにはならなかったのだろう。こんなにも大切な人に求められることは、嬉しいのに。
「美鈴?」
じっと立ち止まって考え事をしていたことが不審だったのか、咲夜さんが怪訝そうにこちらを見ていた。
「ねえ、最近あなた疲れてるんじゃない?」
咲夜さんが心配そうに綺麗な瞳を揺らしていた。
「体力だけは、自信があるんです」
私がそう笑うと、咲夜さんはそれもそうね、と姿を消してしまった。心配してくれるのは、嬉しいけれど、もっとしっかりしないと、そう思った。
×月〇日
「ママ」
「はいはい」
私はフランお嬢様のお母様を知らない。だから、想像上の、一般的なお母さんを演じる。優しい口調で、包容力があって、そんな理想の母親。
「愛してるって言って」
フランお嬢様は相変わらず、毎晩私でない誰かに乞い願う。
「この世でいちばん愛してる」
だからこの言葉を紡ぎ出しているのも、柔らかい髪に触れたのも、安らかな寝顔を見つめていたのも、きっと紅美鈴ではないのだ。
フランお嬢様が眠りについた後、私の頬には何故か涙が伝っていた。
〇月□日
この数日、レミリアお嬢様がお風邪を召されていた。敬愛する主が苦しそうに息をする姿を見ているのは、心苦しい。せめてものお見舞いに、私は夏みかんを剥いて部屋に向かった。
ドアをノックしようとすると、レミリアお嬢様の声が漏れ聞こえた。その言葉を聞き取った時、私は体の力が抜けてしまった。音を立てないように、静かにへたり込むのが精一杯だった。お嬢様は確かにこう言ったのだ。
『ママ、愛してるって言って』
それは繰り返しフランお嬢様がうなされるように口にしていたあの言葉だった。そして声は続く。今度はフランお嬢様の声だ。私はようやく事の重大さに気が付いた。
「愛してるわ、レミリア」
レミリアお嬢様はフランお嬢様に母親役を求め、抱えきれなくなったフランお嬢様は、私に母親役を求めていたのだ。
もしかすると、レミリアお嬢様はフランお嬢様を寝かしつけに行っていたのではなく、その逆だったのではないか。そうしていつの間にか人格が解離するほどにストレスを感じるようになっていたのではないか。
「ちょっと、入り口で突っ立ってないで」
私が青ざめていると、後ろからパチュリー様の声が聞こえる。振り向くと、パチュリー様の無表情が少し変化する。
「ちょっと、なんで泣いてるの」
私はまた自分でも気が付かないうちに涙を流していたようだった。それはたぶん、自分に対する恥ずかしさと、フランお嬢様の優しさを知り、そして同時に、抱えきれないほどの、愛おしさを覚えたからだった。
× × ×
「誰でもよかったわけじゃないのよ」
パチュリー様は私にやさしく、落ち着いてね、という風に語りかける。それから紅茶をゆるやかにカップに注ぎ、差し出してくれた。
「レミィは妹様に甘えて、妹様はあなたにしか甘えられなかった」
自分のカップに注いだレモンティーをこくりと飲むパチュリー様。私は黙っていた。
「私は、母親になれるでしょうか」
至極まじめに尋ねたけれど、パチュリー様はあっさりとその望みを切り捨てる。
「なれるわけないじゃない。あの子たちの母親像なんて、幻想でしかないのよ。はあ、いったいどうしたらいいのかしら」
□月〇日
レミリアお嬢様の風邪もすっかり良くなってしばらく経った頃、私はフランお嬢様に尋ねてみた。
「フランお嬢様は、レミリアお嬢様のことを、いついかなる時でも、愛していますか」
フランお嬢様は不思議そうに微笑んだ。
「ええ、世界でいちばん愛してる」
その言葉がとても尊いように感じられたのは、きっとフランお嬢様と私は、同じ気持ちでいるからだ。
× × ×
「ねえ、ママ。愛してるって言って」
パチュリー様は母親になんてなれるわけがないと仰ったけれど、私はこの今にも消えてしまいそうなフランお嬢様をほかにどうすることもできないのだ。
たとえフランお嬢様に触れた指が私のものでなくても、言葉が、喋り方が、全て別のものだとしても、それでもやっぱり私はフランお嬢様が大好きなのだった。
「愛してる。世界でいちばん愛してるわ、フラン」
泣き顔を見られないように、フランお嬢様の華奢な体を前から抱きしめる。それでも滴る雫はとどまることを知らない。
「なんで泣いてるの……」
母親役の前でも、フランお嬢様は優しかった。腕を振りほどいて、私の目じりから流れ出る涙を人差し指ですくう。
「大丈夫だよ……」
とんとんとまるで赤ん坊にするように、背中に手を置くフランお嬢様。
レミリアお嬢様がフランお嬢様に甘えてしまう気持ちが理解できた。
「安心してね、めーりん……」
その時確かにフランお嬢様が呼んだのは私だった。優しく髪を撫でてくれる白くて可愛らしい手も、フランお嬢様のものだった。
ほかの誰でもない、いちばん好きな、フランドールお嬢様の。だから私が言う言葉は、もうこれ以外には見つからなかったのだ。
「フランお嬢様」
まっすぐに視線を合わせる。
「うん?」
フランお嬢様はきょとんとしている。
「私は、フランお嬢様のお母様には、なることができません。けれど、それでも、紅美鈴はあなたのことが大切です。世界でいちばん、愛しています」
そこまで言い終えて、自分の心臓が死に物狂いで働いていることに気づく。
「ありがとう」
フランお嬢様のその言葉が全てだった。
「きっと、レミリアお嬢様もわかってくれる日が来ます」
そう言うと、フランお嬢様は眉尻を下げて少し笑ってくれた。
×月□日
一人の夜はやっぱり寂しくて、私は夜勤の仕事を多めに入れた。この頃はとても寒く、マフラーと手袋にコートを羽織ってもまだ体が震える。それでも、あの時フランお嬢様から頂いた優しさの温もりで、この季節ともうまくやっていけそうだ。
切なくも愛らしい素敵なお話でした