「寂しくなんかないよ――」
――だから安心して。
「紫、今度ピクニックに行きたいのよね。今の時期、いい場所ない?」
みんなで天界に集まって飲んでいた時には、私はそう尋ねた。
紫はお酒で赤らめた顔をこっちに向けて、一拍開けて口を開く。
「いつ?」
「明日!」
「急ねえ、いつものことだけど。なら太陽の畑を西に抜けた先にある丘がいいと思うわ。一本杉が目印よ」
いきなりの質問にも、紫は当然答えてくれた。
この幻想郷において紫が知らない場所などどこにもない。
どこか行きたいところがあるのなら、紫に聞くのが一番だ。
紫の両脇にいた衣玖と萃香も、私を見てきた。
「明日ですか、誰かと約束でも?」
「いや、今行きたいなって思ったところだったから誰も。衣玖は来る?」
「魅力的なお誘いですが、生憎と天女の女子会に参加しないといけないので」
「そっか、萃香は?」
「私も駄目だね、鬼たちで集まって飲む約束でさー」
連れがいないのは残念だけど、いきなりなんだし仕方がない。
そんな私を衣玖が心配そうな顔で覗いてきた。
「でも一人でピクニックなんて行っても、寂しくはありませんか?」
「大丈夫よ」
私は笑って答える。
「寂しくなんかないよ」
翌日、私は準備をして朝一番に天界から飛び出した。
手には下界で購入したバスケット、箱を風呂敷で包むより持ち運びに便利でお気に入りだ。
中には私手作りのおにぎりをたくさん詰め込んだ。
まず出発地点として博麗神社を選んだ。
霊夢が掃除をしている境内に、帽子が落ちないよう片手で抑えながら降り立つ。
「おはよう霊夢、朝からご苦労様」
「なんだ天子なの、おはよう。朝っぱらから何の用?」
「別にピクニックに行くから通りすがりってだけよ」
「ならここに来ないで直接飛んでいけばいいんじゃない」
「それじゃ楽しくないじゃない、歩いて行こうと思って」
「そう、素敵なお賽銭箱はあっちよ」
両手でバスケットを提げながら話し込んでいると、西の空から見慣れた白黒が飛来した。
箒にまたがって彗星のように飛んできた魔法使いは、慣れた調子で神社の境内を靴底で引っかいて減速し着地する。
「よう、どうした朝からこんなとこに」
「どこがこんなとこよ。ピクニックに行くんだってさ」
「なんだ、一人でか? 寂しいやつだな」
箒から降りた魔理沙は、一人で立つ私を見て率直な感想を口に出した。
でもそんなことない、私が一人でも、見てくれてるやつはいる。
「ううん、寂しくなんかないよ」
神社を出て私は歩く、のんびり進んで昼過ぎ辺りに付けばいい。
テクテク足を進めていると、途中で分かれ道に出た。
どちらの道を選んでも目的地までの時間はさほど変わらないけど、道筋に大きな違いが出る。
特に深く考えず右の道を行こうとした時、妙な風が吹きすさぶ。
「わっ!?」
帽子が飛ばされないように押さえ、身を小さくして風に耐えると、木の葉を巻き上げた風が左の道へ通り抜けていくのが見えた。
私は一度背後の空を見上げて何かを探してから、不自然な風が行く左の道へ振り返った。
「……それもいいかな」
私は導かれるまま歩き出した。
そこから数分後、道に倒れた変な黒いのを見つけた。
遠目で見ると黒い毛虫みたいだったそれは、近くまで来ると黒い長髪と鴉みたいな翼の妖怪が、うつ伏せで倒れてるのだとだとわかった。
「うにゅう……」
「……どうしたの?」
力ない呟きに、ちょっと心配になって話しかけてみると、行き倒れは顔を横に向けて私に見せると、弱々しく唇を動かした。
「お腹空いた……」
「まさかこんなベタなのに出会えるなんて思わなかったわ、感動的だわ」
「ご飯もうないの……お願い助けてー……」
私は手に持ったバスケットを見下ろして、まあいいかと考えた。
鴉の妖怪は道の端に座り込んで、渡したおにぎりを両手に持ってかぶりついている。
その隣に私も両膝を立てて座った。
「よく食べるわね、もう一個いる?」
「うん! 食べる!」
妖怪は新しいおにぎりを持つと、一気に半分ほどかじりついて、太陽みたいな笑みで頬張った。
こいつのために作ったわけじゃないけど、こうまで美味しそうに食べられると嬉しい気持ちになってくる。
しばらくこの妖怪がおにぎりを味わう様を眺めていた。
「どうして倒れてたのよ」
「ん、間欠泉センターの仕事してたら家に帰るの忘れてたの。お燐の作ってくれたお弁当も食べちゃってたし、ガス欠で動けなくなっちゃった」
「ドジねえ」
鳥系の妖怪は忘れっぽい鳥頭が多いと聞いたけど、こいつもご多分に漏れずそうらしい。
腹を膨らませた妖怪は、一転して顔をシュンとしてうつむかせた。
「うう、帰らなかったからさとり様から怒られるかも……」
「家族がいるの?」
「うん、さとり様とお燐と、それとあんまり家にいないけどこいし様と」
呼び方から察するに飼い主かもしれない、なるほどそれなら門限を破れば躾されたりもするだろう。
「いいんじゃない、怒ってもらったら? 言ってくれる誰かがいるのっていいことよ」
「そうなの?」
「うん」
私にも覚えがある、怒ってくれたことも、怒ってくれなかったことも。
私の本来大切な人たちは、怒ってくれはしなかった。嫌そうな顔をして済ませるだけで触れてくれなかった。
それが悲しくて、苦しくて、馬鹿なこともやったりしたけれど、その先に怒ってくれたやつがいたから、今の私がここにいる。
あの日の反省と後悔のチャンスがなければ、私の行く道は今よりいくらか不幸だっただろうと思うのだ。
「そっか……わかった、私帰るね! おにぎり食べちゃってごめん!」
「いいわよ、多めに作ってたし」
私が用意してきたおにぎりは、二人で食べてもまだ余りそうなくらいあった。
この妖怪にかなり食べられたけど、それでもまだひとり分は残ってる。
「たくさん食べさせてくれてありがとう! ……でもお姉さん一人なの?」
「うん、一人でお出かけよ」
「寂しくない? 私もついていこうか?」
鴉の妖怪は、自分のことみたいに不安げにこっちを見てきた。
ちょっと前の話も忘れて人の心配をする妖怪に、私は思わず苦笑してその優しさに言葉を返した。
「あんたは帰るところがあるんでしょ。それに寂しくなんかないよ」
行き倒れと別れた私は、風が吹くまま進み、霧の湖の外周を歩いていた。
霧の向こうに紅い館を眺める景色を楽しみながら、ゆっくりのんびり足を動かす。
湖の方ばかり見ていた私だけど、途中で物音がして反対に振り向いた。
そこには林に上半身を突っ込んだ、青色のワンピースの妖精がいた。
「……なにやってんのあんた?」
「あー! 見つかった、完璧に隠れたさいきょーのあたいを見つけるなんて、中々やるわね!」
頭隠して尻隠さずという言葉も知らないんだろうなと思っていると、妖精は小さなお尻を振り振りさせて木陰から抜け出てきた。
このチルノという氷の妖精は私も知ってる。バカだけど強い妖精としてけっこう有名だし、神社の宴会にも紛れ込んでることは多いから顔を合わせたこともある。
その時に一応はお互い自己紹介を済ませてた筈だけど、チルノは私をみあげて首を傾げた。
「あれ、あんただれ? 大ちゃんは? 鬼かわった?」
「いや、私は天子……あー、いいわもう」
どうせ覚えないだろうし、自己紹介を繰り返すのは諦めた。
とは言え、こいつのことは気に入ってる。この生き方に不安はなく欲もなく、ただあるがままに生きる姿は人では辿り着けない境地の一つだと私は思う。
私も彼女みたいになれたらなんて、そんな益体もないことを考えたこともある。
「あんたはなにやってんの、隠れんぼ?」
「そーだよ、夜からずっと見つかってないんだぞ、すごいだろー!」
「それ先に帰られてるパターンじゃないの」
あんな見つかりやすいのによく一晩保ったもんだと感心するけど、妖精同士の遊びなんてそんなものかもしれない。
得意気だったチルノはハッと何かに気付くと、慌てて私の腕を掴んで引っ張った。
「そうだ隠れんぼしてるんだった、早く隠れないと!」
「あっ、ちょっと私も!?」
反論する間もなく木陰に引きずり込まれた私は、何故か妖精と一緒に隠れんぼをすることになってしまっていた。
チルノと肩を並べて身を寄せ合い、木陰から周囲の様子を覗き込む。
「うしし、大ちゃんまだ見つけられないみたいだなー」
「とっくにゲーム終了してると思うけどねー。このまま隠れ続けるつもり?」
「もっちろんずっと!」
何から何まで楽しそうな生物だ。
「あたいを見つける猛者は何するつもりだったの?」
「私はピクニック」
「一人で? うわー、ボッチだー!」
「うるさい、ボッチじゃないやい」
まあ一昔前なら本物の独りきりだったけど、今はそうじゃない。
かつての私は心を許せる相手なんていなかったけど、今は違う。
少し昔を思い返していると、チルノが不意に手を私の帽子の下に挿し込んで、頭を撫でてきた。
「……なにこれ?」
「ボッチは可哀相だから優しくしないとダメだって大ちゃんが言ってた、よしよし元気だせ」
「は……はは、ありがと」
慰められるのは若干複雑な気持ちだったけど、悪意はないしここは寛容に受け止めてやることにする。
ひんやりとした氷精の手の感触に身震いしていると、湖の方から声が聞こえてきた。
「チルノちゃーん、どこー!? もう帰ろうよー!」
「あっ、大ちゃんだ隠れろ!」
「えっ、まだ探してたの? 良い子すぎでしょあの妖精」
まさか一晩中探してたんだろうか、なんにしろ翌日までわざわざ探しにくる辺り友達想いの妖精だ。
大ちゃんと呼ばれた妖精は、声を上げながら私達の隠れた場所に近づいてきた。
「おーい、チルノちゃーん!」
「うしし、まだ見つかってないな」
「……まだ隠れてるつもり? もう出ていってあげたら?」
ずっと探してる相手に隠れられて、私よりもあの妖精のほうが可哀相だ。
だけどチルノはよくわかってないらしい。
「だってこれ隠れんぼだよ。見つかったら負けじゃん!」
「そうだけど、勝ち負けより大切なことってあるわよ」
そもそもゲームももう終わってることはとやかく言わないでおく。
それより私は、私の考えてることを優先した。
「あんたの友達はね、チルノのことを本気で心配してるのよ」
「あたいはさいきょーだから大丈夫だし!」
「大丈夫でも、あの子はそれに気付いてないよ」
大ちゃんは私達に気付かないまま、木陰を素通りしていく。
このまま見過ごしてしまったら、きっと今日中に再会することはできなくなってしまう。
「大丈夫なら、友達にそう伝えて、安心してあげないと。伝えられない事実は嘘も同然なんだから」
「……なんでウソなの?」
「あー、そのーなんていうか……あんたが最強だって、知ってもらえないとみんな自分が最強だって勘違いしたままなのよ。だから言ってあげないと」
子供に何かを教えたことなんてなかったからこれで伝わるか不安だったけど、チルノは何か感じたらしくしばらく考え込んだ。
「そっか、大ちゃん知らないんだ……教えないとダメなの?」
「うん。負けてでも、伝えるべきよ。最強なら何回負けたってへっちゃらでしょ?」
「……うん!」
とりあえず納得してもらえたみたいで、チルノは立ち上がって茂みから抜け出した。
「あっ、待った、これだけ持ってきなさい」
そう言って、バスケットからおにぎりを二つ取り出すとチルノに手渡した。
自分の手についたご飯粒をぺろりと舐めて笑いかける
「お腹空いてるでしょ、きっと友達も疲れてるだろうから一緒に食べなさい」
「ありがと! 私は行くけど、ボッチは大丈夫? 寂しかったら一緒に来る?」
「いや、私には行くところがあるし。それに私にも友達がいるから寂しくないよ」
「そうなの!?」
チルノは大層驚いて、おにぎりを両手にうぬぬと唸っていたけど、すぐに大ちゃんのことを思い出して向こうを見た。
「それじゃ行ってくる、じゃあねテンシ!」
その言葉に私がびっくりしちゃって、駆け出していく小さな体に、力なく手を降ることしかできなかった。
「は……ははは、ちゃんと覚えてたじゃないの」
あの妖精みたいな純粋無垢な生き方に憧れを覚えたことがあった、自分もずっと綺麗なままで生きられたら。
でもそれは出来ないし、それで良いと思う。私は恐さも不安も知ってるけど、支えてくれるものもあると知って進んでいけるから。
だからずっと、子供のままでいる必要はない。
「……さて、私も行こっかな」
私は立ち上がって木の葉を払うと、再び歩き始めた。
暑い日差しの中、歩き続けた私はとうとう太陽の畑にまでやってきた。
立ち並ぶ太陽に負けない輝きの大輪に思わず声が出る。
「おぉー、これが!」
今まで空から遠目にここを眺めたりしたことはあったけど、こうやって間近で見るのは今日が初めてだ。
さんさんと煌めく太陽に精一杯の花を咲かせる向日葵たちの、力強い生命の息吹を感じさせる光景は圧巻だ。
この中を通ることにわくわくしていると、向日葵たちを掻き分けて奥から誰かが出てきた。
どこぞのスキマを思い出すような白い日傘を差した女性が私の前に現れて、傘の下から緑色の短めの髪を見せてきた。
私は以前聞いた、この場所に住んでいるという妖怪を思い出す。
「こんにちは、何しに来たの?」
「こんにちは、ここから西にある一本杉までピクニックに来たの」
日傘の妖怪は圧力のある言葉を投げかけてきた。
争いにきたわけでもない以上、刺激することもないと思い素直に返答した。
「そう、あそこに。よく知ってるわね」
「友達から聞いたの」
妖怪は穴場を知っていることに感心しているようだった。
「空は飛べないの?」
「飛べるわ」
「だったら飛んでいきなさい」
「せっかくだから、ここを歩いて行きたいの」
妖怪は私の気持ちを聞いて、日傘をクルクル回して少し考え込むと踵を返した。
「向日葵たちを傷付けられたりしたらたまらないからついてらっしゃい、余計なことをしたら殺すわ」
「はいはーい」
道案内してくれるなら都合が良いと、私は快く後に続いた。
日傘の白を目印に、向日葵畑の隙間を行く。
向日葵はそんなに匂いのない花だけど、それでもこれだけ群れていると濃厚な草の匂いが鼻孔を満たした。
明るい太陽の下で、ひんやりとした向日葵の葉っぱが優しく撫でてくるのをかき分けながら、前に話しかけた。
「あなたが噂の風見幽香?」
「名乗りもしないで名前を呼ぶなんて失礼ね」
「ごめんごめん、私は比那名居天子、天人よ」
「そう、ご丁寧にどうも。知っての通り風見幽香よ」
聞いてた通り威圧的な態度が言葉に滲み出てる、よっぽど過去に何かあったのかもしれないけど、とやかく言うこともないだろう。
そう思って黙っていると、今度は向こうから話しかけてきた。
「お空の上の人間が、地上でピクニック?」
「うん」
「珍しいわね、土で汚れるからって嫌がりそうだけど」
「それだって面白いじゃない。あなたは、土を付けるのは楽しくないの?」
幽香は一度だけ振り向いてこちらを見ると、すぐに前を向いて「そうね」とだけ零した。
「これから行く場所は、風が吹いてるのと一本杉が日除けしてくれるお陰でこの時期でも涼しいところよ」
「そうなんだ」
「知らなかったの?」
「いい場所ないかって聞いて、そのまま来ただけだから」
「変わった人ね。それだけで来るなんて能天気か、その相手を信頼してるのか」
「どっちもよ」
「そう、羨ましい限りね」
「ここの向日葵はあなたが世話をしてるの?」
「そこまでじゃないわ、ただ花達が過ごしやすいよう、少し手伝ってはいるけど、その程度よ」
「でも、ここは花も土も、その中の虫もみんな生き生きしてるわ。いい場所ね」
「当然よ、みんな頑張って生きているもの」
もうお日様は空のてっぺんに辿り着いてていたけど、向日葵たちのお陰で意外と快適に歩けた
柔らかな土を踏みしめているうちに、いつのまにか向日葵畑を横断していた私達は、畑を抜けて開けた場所に出た。
そこからは離れた場所に、聞いていた一本杉の丘が見えた。
「あれがそうよ、歩いてももうすぐそこだわ」
「ありがとう、時間を取らせて悪かったわね」
私は幽香の横を通り抜けて、目的地まで行こうとした。
「待ちなさい」
呼び止められ後ろを向くと、幽香が暑い日差しの下でわざわざ日傘を閉じて口を開いた。
「あなたは先を急いで、向日葵たちを乱暴にかき分けたりしなかったわね。草花を傷付けず、優しくしてくれた」
「ただ楽しんでただけよ」
「それにお花たちは喜んでるのよ、彼女たちに代わってお礼を言うわ」
幽香は首筋に汗を浮かばせながら、にこりと笑いかけてきた。
「またここにいらっしゃい、その時はうちで向日葵のお茶を入れてあげる」
「……うん、わかったわ。絶対来るから、美味しいの用意しててよ」
楽しみが増え、私も釣られてニッコリと笑う。
「あっそうだ、道案内のお礼。よければもらっといて」
私はバスケットからおにぎりを一つ取り出して幽香に差し出した。
「いきなりこんなの渡されてもね」
「いいじゃない、もうお昼だし丁度いいでしょ」
「まあそうね、受け取っておくわ。ありがとう」
いきなりだったけど、幽香は受け取ってくれた。
「そういえばピクニックなのに一人なの? 誰かと待ち合わせの約束でもしてるのかしら」
「いいや」
「何よそれ。お花だって一輪だけで咲いてると寂しがるものよ。ついて行ってあげましょうか?」
「ありがとう、でも大丈夫。見てくれてるやつがいるから、寂しくなんかないよ」
「……そうか、羨ましい限りね」
静かに笑う幽香にバイバイと手を振って別れを告げると、私は改めて歩き始めた。
丘を登り始めた辺りでふと振り向くと、幽香が日傘を差し直して、おにぎりを齧りながら向日葵たちに迎えられているのが見えた。
私はまた笑って、もう振り返らなかった。
「とうちゃーく!」
丘を登り切った私は、木陰の下に立ってそこからの景色に感動した。
眩しさに瞳が震えるけど、負けじと目を見開いて受け止める。
「うわぁー、綺麗ね」
そこからは黄色く広がった太陽の畑を一望でき、その向こう側には霧の湖に青空が映るのを眺めることができた。
そこから更に遠くには地上と地底とを結ぶ入り口に何名かが出入りしているのがわかり、一番遠くには小山の上に博麗神社が立っているのが見えた。
ここを一番良く知ったあいつが勧めてくれただけあった。
遠くから北風が首元を通り抜けて、ここまで歩いた熱を冷ませてくれる。
私は帽子を脱いで木の幹に座り込むと、一息を付いてバスケットの蓋に手を掛けた。
「お昼どうしよっかなー」
開いた内側には、もうおにぎりは一個も残っていなかった。
苦笑いを浮かべた私は、瞳を閉じて心を澄ましながら語りかけた。
「ねえ、見てる? なら、出てきて欲しいな」
少しして、すぐそばで何かが開かれるのがわかった。
布がこすれる音がして、目を開けてみると隣に見えたのは紫色の衣装。
「いつから気付いていたの?」
顔を上げると、いつのまにかそこにいた紫が、柔らかい表情で私のことを見ていた。
目を合わせ、口を開く。
「いつからも何も、紫はこの幻想郷のどこだってずっと見てるじゃない」
「まあそうだけど、私が来るのも折り込み済みかしら?」
紫は閉じた扇子を取り出すと、空のバスケットを指し示した。
「へへ、そういうこと。紫なら来てくれると思った」
「寝てようかと思ったけどね」
「でも来てくれたじゃない」
紫を信じられたから私も安心してやりたいことをやれた、先のことを不安に思わず気持ちを差し出せた。
期待に応えてくれた紫は「仕方ないわね」と言ってスキマから重箱を取り出した。
並べられる料理は二人で食べるには多いくらいで、私はわっと驚いた。
「うわあっ、こんなにいっぱい」
「誰か一人くらいは連れができると思ってたんだもの。こんなとこまで一人で歩いてきて、寂しくなかったの?」
紫が呆れたように微笑を零してくるのに、私は自信たっぷりに笑って見せた。
「だって、ずっと紫が見ててくれたもん――」
「――だから、寂しくなんかなかったよ」
うだるような暑い日差し、窓から入り込んでくる風が髪を揺らす。
部屋の中で私が畳に座りながら語った先では、布団の中で横たわった紫がいた。
――温かな視線――
――私が初めて異変を起こしたあの懐かしい日々から長い時間が経った。
本当の、本当に長い時間。
外界の変化にゆっくりと引っ張られる幻想郷は、増え続ける幻想を受け止めるため成長を続けている。
陸が増え、海が増え、住める場所が増えるとすぐにそこを埋めるコミュニティが形成され、幻想郷の存在をより強固にし、新たな力の流れが循環する。
もう幻想郷のために誰かが世話を焼く必要はない、問題が起こってもそこに住まうみんなが自分たちで解決する。
すでに賢者の手を離れて独立した一つの世界として、忘れられた理想郷は育ったから。
その間、幻想郷ではたくさんの出来事があった。
いくつもの異変が起こり、新しい住人が増え、博麗の巫女は何代も変わり。
――友達の中には人間だけでなく、妖怪たちの中にも亡くなったやつが何人もいた。
紅い館の吸血鬼の片割れが亡くなり当主は妹に移された、冥界では妖夢が孫に剣を指南していて、永遠の屋敷ではうさぎの顔ぶれが変わった。
保守的だった妖怪の山も今は開放的になり、人里では十七代目の御阿礼の子が筆を執っていて、魔法の森では人形使いの遺した自立人形が時折迷い込んできた人間を保護している。
変化が起き、それでもその度に幻想郷は盛り上がりを見せ、絶えることなく喧騒とともに続いている。
その日、私は海に来ていた。
幻想郷は新しく増える住人に対応すべく何度か拡張されていて、今では大洋が拝めるようになっていた。
見晴らしのいい崖の上には墓石が建てられている。
刻まれた家の名は比那名居、私が両親のために建てたお墓だ。
定期的に私はここに来てお墓に花を添えていた。今日は幽香に故人の前になら飾られてもいいと言っているらしい向日葵を分けてもらい、墓石の周りを明るくしてもらった。
そしてお墓参りには、長年の友人である彼女と来るのが定例だった。
「随分立派になられましたね、総領様」
「ちょっとやめてよ、その言いかた好きじゃないって知ってるでしょ?」
灰色のテーブルの向こうで、衣玖がおどけて笑った。
私たちは要石で作った即席の椅子に腰掛けて、これまた要石を利用したテーブルの上にお茶を並べて話し込んでいた。
魔法瓶から注いだ温かいお茶を啜る、魔理沙から分けてもらったきのこ茶だけどゲテモノのようでこれが案外美味しい。
衣玖は私から視線を外し、墓石とその向こうの大海原を眺めた。
「ここにお墓を建てて欲しいと言ったのは、ご両親でしたか」
「うん、晩年になって地上に戻りたいって言い出してね」
天界に上がってからの両親は、死への怯えから極端に地上との関わりを避けていた。
それでも永遠に死から逃れられたものなんて世界中を探したって一握りしかいなくて、やがて天人の五衰が身体を蝕み、死に至った。
お父様もお母様もともにほぼ同時期に亡くなった、命日は数日と離れていない。夫婦仲は良かっただけある。
そして死の際に、私に墓についての遺言を残したのだった。
「見晴らしのいい海の近くで、大地と海とを久しぶりに感じていたいって」
「……あまり仲は良くなかったそうですが、よく聞き入れましたね」
「流石に遺言を無碍にするほど恨んでるわけじゃないわよ、それに」
いい両親ではなかった、人間だった時代を忘れたいみたいに天界での享楽的な人生に没頭しようとして、私のことは気に留めなくなった。
私への愛情はあったけど子供一人満足させるには到底足りない程度で、私がやんちゃをしだせばすぐに面倒臭がって責任を放り出した。
そのことで恨んだりした、憎んだりもした、でも今は両親への想いにそれほどしこりはない。
「最後に、寂しがらせてごめんって言ってくれたからそれでいいかなって」
「……良かったですね」
「うん」
過去は辛かったけど、今が楽しいからそれでいい。
両親から与えられた辛い思い出もまた自分を形作る掛け替えのない要素の一つ、それを受け入れられたから、だからもういいのだ。
「あれから幻想郷の顔ぶれも変わりましたねぇ、天界も閉鎖的だったのがけっこう賑やかになりました……それでも、萃香さんがいなくなって静かですが」
「……そうよねぇ。あいつも結構馴染んでたし」
萃香が姿を消したのは数年前、最後まで子供みたいな小さな姿だった。
いつものようにみんなで集まって宴会をした翌日、空になった一升瓶を抱えながら笑顔で寝転んでいたあいつは、霧になって朝日の中に掻き消え、それから誰も見ていない。
その瞬間をたまたま見かけた自分は、直感的に萃香とはこれで二度と会えないと悟った。つい数時間前までは元気にはしゃいで「ほうら、天子も賢ぶってないで飲め飲め!」って絡んできてたのに、それが最後だという奇妙な確信があった。
宴の騒がしさを抱きしめたまま、幸せに散っていったあいつのことを私は忘れない。
「最後の最期まで陽気なやつだったわ」
「そうですね、今でも思い出せます。あの人と飲むお酒は格別美味しかった……あんな元気な方でも消え去ってしまうんですね。妖怪の寿命も精神的なものが原因ですが、何故だったのでしょう」
「さあね、満足できたんじゃない?」
「だと良いですね。そう願いましょう」
「まあ私としちゃ、あんたが生き残ってることが最大の驚きだけど。ポヤポヤしてるくせによく死なないわねホント」
「ふふ、いい女は生き残るものですよ」
「はは、言ってなさい」
それでもこの年月を生きているということは、それに値する妖怪なんだろう。
変わるものもあれば、変わらないものもある。きっと変わらないものは、それだけ価値のある存在なんだろうと思う。
彼女と友達になれたことに感謝していると、空の上から降りてくる影があった。
ゆったりとしたオレンジ色の導師服の上からでもわかるしなやかな肢体。
揺れる波のようでいて、しっかりとした芯が感じられる品のある二股の黒尾。
幻想郷の賢者の一人として精力的に活動している、八雲橙だ。
昔と違ってすっかり大人になった彼女は地面に降り立つと、軽く会釈してきた。
「やあこんにちは、二人とも久しぶり」
「こんにちは、お久しぶりです橙さん」
「やっほこんにちは、お茶飲む?」
私が魔法瓶を持って掲げるのを、橙は手の平を出して制止した。
「せっかくだけど止めとくよ。世間話も良いけど本題を話したい」
「ふーん、何よ」
橙がいつもと違ってせっかちに、神妙に口を開く。
「紫様が、もう長くないの」
その言葉がいやに重く肩にのしかかってきた。
けど同時に、やっぱりかという思いがあって、コップのお茶を覗き込んだ。
「……そうか」
紫の周りも、だいぶ静かになってしまった。
藍は主人よりも早く逝った、幽々子は亡骸を受け入れて転生したし、萃香もいなくなった。
今度は紫の番だと言われても驚きはない。
ただ一つ気がかりなことは、紫が私を避けていることだった。
ずっと前を思い出す、昔の紫は私が暇を持て余した時はひょっこり現れて何喰わぬ顔で隣りに座ってくれた。
けれど最近はそんなこともなく、もう何ヶ月も顔を合わせていない。
床に伏せていたのか、それとも、私を避けているのか――
「……天子、今更こんなことを言うのはなんだけど、紫様と会って欲しいの。あの方にこのまま死んでほしくない」
橙も私としばらく会わなかったことに後ろめたさを感じているみたいで、こちらの様子を伺いながら切り出してきた。
顔を上げた私は、それに一もなく二もなく頷く。
「もちろんよ」
すでに私の身体からはあらゆる活力が失われ、布団の中の手足はほんの少しも持ち上げられない。
姿は昔と変わらないまま、それでも確かに老いて死を間近に迫った私は、ぼんやりと窓から外を見ていた。
強く輝く日差しに照らされる大地、幻想郷は成長を続け、やがては私の手を離れて一人歩きを始めた。
もはやこの幻想郷に賢者の寵愛など必要なくて、どんな問題が発生してもその代の博麗の巫女と、住人たちが解決してくれる。
それを悟った時に私の老いは始まり、そしてもうすぐ最期の結末にこの身は辿り着くだろう。
かつての友人も多くがいなくなった。
幽々子は生前の因縁と決着を付けて成仏した、とうとう枯れて二度と咲かない桜の下で、泣いている私と妖夢に笑いかけながら終わりを受け入れた。ありがとう、なんて言い遺したけれど、それを言いたいのはこっちだって同じなのに。
家族である藍もまた、橙を育て上げると私より先に逝ってしまった。橙がいるなら大丈夫でしょう、そんなことを言い残す彼女にあなたがいないと駄目よと泣きついて最期まで困らせてしまったが、結局困った顔で笑いながら往生してしまった。
消え去った萃香とは、最後の晩に少しだけ話をした。
内容は、別になんてこと無い。宴会で飲む酒が一番美味しいな、とだけ伝えられて。
翌日、最期まで享楽的な人生を楽しみながら旅立つのを、涙をこらえて見送った。
今はもう、みんな素敵な思い出の中。
過去に思いを馳せていると、襖が開かれて廊下に座した橙の姿が現れた。
「紫様、客人がお見えです」
「橙……」
力ない私から了承を得るより先に橙が襖を開ききる。
そこにいたのは、予想と違って緋色の羽衣をゆらゆらさせる竜宮の使いの姿だった。
「お久しぶりです、天子様でなくて残念でしたか?」
「衣玖……」
「私も少しお話したかったので、先を譲ってもらいました」
衣玖が戸を越えて部屋の中に入ると、橙は襖を閉めて場を去った。
いつのまにか古い友人になった衣玖は、布団の傍に座ると改めて口を開いた。
「こんにちは、お見舞いに来ましたよ」
「……ありがとう、わざわざ」
「お礼を言うのは私の方です、あなたには何度もお世話になりました。特に天子様については私も、天子様自身も、感謝し尽くせないほどですよ」
「天子……」
比那名居天子、最初は力でしか自己表現の出来なかったのに、あっという間に素敵な女性に育った彼女。
いつからか、彼女は自然な優しさを手に入れた、着飾らずにありのままの自分をさらけ出したまま、人に歩み寄れるよう成長した。
それを見守れたことは、私の中でも指折りの幸運に思う。
けれど。
「私が、そんなに感謝されていい存在なのかしら……」
消せない不安があった。
「やはりですか。ここ数年、あなたの天子様を見る目が以前と違うなと思っていました。未練があるのですか」
気付かれていたことが情けなくて唇を噛み、眉間に力がこもった。
けれど当然か、衣玖もまた天子の成長を見守り、そして間近で支えてきた一人なのだから。
「……ある。ずっと、怖くて言えなかったことが」
「天子様は、あなたのことを好いているではありませんか」
「それはわかるわ……けれど、だからこそ確かめるのが怖いのよ」
かつて藍に不安を漏らしたときも気にしなくていいと言ってくれた。自分でも杞憂かもしれないとは思う。
それでも、言わなければ気が済まない懸念がずっと昔から、長いあいだ胸に残っている。
「何が怖いのですか?」
「…………」
「……私相手では言えませんか」
口をつぐむ私に衣玖は残念がる様子もない、確認のため聞いた程度なんだろう。
話すことはもう終わったのか、衣玖は私のそばから立ち上がった。
「やはり私では重荷を軽くすることはできないよう。挨拶も済んだことですし、ひとまず退場するとします」
そう言った衣玖は、私の前で襖を引く。
開かれた先に見えた極光の飾りに私は息を呑む。
廊下を見上げると、そこには困った顔した天子が、手を後ろに組んで立ち塞がっていた。
「後は、当人たちで話し合いを」
眼を見開く私の前で、衣玖は丁寧にお辞儀をして部屋から出る。
「それでは、悔いのないように」
天子が入れ替わって部屋に入ってくると、廊下の衣玖が襖を閉めた。
私が呆然としていると、天子は布団の傍に座り込んでこちらを見下ろしてきた。
「ぁ……」
何を言うべきか、前もって考えていたと言うのに喉の奥から出てこない。
「こんにちは、紫。来たよ」
「……ぁ……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯で、私は少し黙ってしまう。
「ふふふ、何よ黙っちゃって。そんなに私と会えたのが感動しちゃった?」
「……まさか、むしろこっちが心配してたくらいだわ、寂しがって暴れてないかって」
「あー、ひどーい。もうそんな歳じゃないわよ」
まさか天子に気を遣われる日が来ようとは、初めて会った時は思いもしなかっただろう。
この期に及んで狼狽える自分にバツが悪くなって、取り繕うためお節介な言葉が口をつく。
「……お盆だったけど、お墓参りはした?」
「うん、幽香からお花分けてもらってお供えしたよ」
「衣玖に、迷惑はかけてない?」
「大丈夫よ、私だって少しは落ち着いたんだから」
私の世迷言に、天子は急かすことなく聞き入ってくれた。
そんな態度に少しだけ安心させられた。
天子は自分で言う以上に、彼女は素晴らしい女性に成長した。
仲違いしたご両親のことも許し、最後の願いを受け止めた。
騒がしいのが好きなのは変わらないけれど、迷惑を掛けすぎないよう気を使えるようになった。
優しくなった。
暴れ馬のようにがむしゃらに走るしかできなかった彼女が、こうして老人の死に際に優しく笑いかけるようになっただなんて、奇蹟のようだ。
そこに辿り着いた天子の頑張りに勇気を貰い、私は恐る恐る口を開いた。
「天子、私はずっと不安だった。特にあなたに関しては」
怯えに喉が竦みそうになる。
それでも私は閉じそうな口を必死に開く。
「私は幻想の行く先を滅亡と決めつけてこの幻想郷を作った。でもそれは可能性を潰す行為だったんじゃないかといつも思うの。私が余計なことをしなければ、妖怪も神も外の世界で生きていけたかもしれない、それを私の感情でここに縛り付けてしまった」
老人の独白が一筋の涙になって、頭に敷いた枕を濡らす。
ずっと怖かった、私のしたことが何もかも間違いじゃなかったのかと。
その際たる者が天子だ、彼女は妖怪ではなく幻想郷がなくとも生存が約束されているのに。
「天子、私があなたの人生を歪めてしまった。あなたなら外の世界でもきっとたくましく、素敵に生きていけたでしょうに、この檻の中に閉じ込めてしまった。あらゆる可能性を潰してしまった」
「でも、紫は優しくしてくれたじゃない」
「それで許されることではないわ」
ずっとずっと後悔していた、悔いながら止まれず歩き続けてきた。
今までは精一杯の虚勢を張り、すべては自分の思い通りなのだと言うかのように振る舞ってきたけれど、もはや虚飾をかぶる力もない。
「ごめんなさい天子。あなたの人生を縛り付けてしまって、本当にごめんなさい」
涙が止まらず頬を流れる。
老いぼれのわずかに残った活力が後悔とともに失われていく。
私は天井を見つめたまま動けずにいた、天子がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。
でも、それは無責任というものだ。自分がしたことに対する気持ちは受け止めねばならない。
私は力を振り絞り、瞳を動かして涙で滲んだ視界に天子の姿を収めた。
ぼやけた世界に時間を掛けて焦点が定まる。
明瞭になる世界の中で、窓からの日差しを受けて白く輝く彼女は、優しい微笑みを浮かんでいた。
「なら、私は全部許すよ。紫」
息が詰まる私の前で、天子は傍に近寄ると、膝立ちになって覆いかぶさってきた。
「紫は私の人生を決定付けたけど、これっぽっちも恨んでなんかない。私はこの幻想郷に来れて本当に良かった」
天子が布団の上から体を重ねて、抱きしめるように私を包み込む。
伝わる柔らかさに、凍り付いていた不安が融かされていく。
「ここは紫の優しさで満ちてるから私も素直になれた。ずっと見ていてくれたから、安心してやりたいと思ったことを、正しい形でやれるようになったわ」
天子は掛け布団の下に手を差し込むと、私の手を握ってそう言った。
「紫のお陰で、一瞬だって寂しくなんかなかったよ。だから、全部良いのよ」
間近で感じた温もりに、私の涙は堰き止められた。
力が抜け、緩んでいく心を唇に乗せ、最後の心残りを吐き出す。
「……私が初めてあなたの前に出てきたとき、こっぴどく怒ってしまったわね」
「うん」
「あなたは素敵な可能性に満ち溢れてるのに、他人を傷付けてばかりなのがもったいなくて、つい厳しくあたってしまった」
「私は嬉しかったよ、私と全力でぶつかってくれて」
天子は体を起き上がらせると、強い輝きを灯した瞳で私をじっと見つめてきた。
「紫。あんたのお陰で私は誰かに優しくなれるようになった、今の私がいるのは紫のお陰。今の私を見て、紫はどう感じる?」
「……とっても素敵よ」
光り輝く彼女を支えていた一人が私だと言ってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。
憂いなく澄んだ空気を吸った私は、最後の最後に問いかけた。
「私は先に往くけれど、天子はどうする?」
「ここに残るわ。まだ幻想が続くなら、紫の代わりに見守ることにする」
「私に縛られ続けることはないのよ?」
「良いの、ここがいい」
私の目が閉じる最後まで、天子は笑顔を私の脳裏に与えてくれた。
「ここは紫の愛でいっぱいだから、ここにいる限り寂しくなんかないから。この幻想郷が、私が生きたい場所なのよ」
幻想は続く、忘れられた者たちを受け止めてゆっくりと拡張していく。
終わる者がいても、その跡を継いで歩き続ける者たちがいる。
私もその一人で、私は生涯ここに住まい、あいつのくれたものを今度は私が分け与えていく。
少し心が冷たくなっても大丈夫。
目を閉じれば感じる日差しと風と、遠くから響いてくる誰かの笑い声が、紫の一部だから。
「だから、寂しくなんかないよ――」
――この幻想郷は愛でいっぱいだから。
――だから安心して。
「紫、今度ピクニックに行きたいのよね。今の時期、いい場所ない?」
みんなで天界に集まって飲んでいた時には、私はそう尋ねた。
紫はお酒で赤らめた顔をこっちに向けて、一拍開けて口を開く。
「いつ?」
「明日!」
「急ねえ、いつものことだけど。なら太陽の畑を西に抜けた先にある丘がいいと思うわ。一本杉が目印よ」
いきなりの質問にも、紫は当然答えてくれた。
この幻想郷において紫が知らない場所などどこにもない。
どこか行きたいところがあるのなら、紫に聞くのが一番だ。
紫の両脇にいた衣玖と萃香も、私を見てきた。
「明日ですか、誰かと約束でも?」
「いや、今行きたいなって思ったところだったから誰も。衣玖は来る?」
「魅力的なお誘いですが、生憎と天女の女子会に参加しないといけないので」
「そっか、萃香は?」
「私も駄目だね、鬼たちで集まって飲む約束でさー」
連れがいないのは残念だけど、いきなりなんだし仕方がない。
そんな私を衣玖が心配そうな顔で覗いてきた。
「でも一人でピクニックなんて行っても、寂しくはありませんか?」
「大丈夫よ」
私は笑って答える。
「寂しくなんかないよ」
翌日、私は準備をして朝一番に天界から飛び出した。
手には下界で購入したバスケット、箱を風呂敷で包むより持ち運びに便利でお気に入りだ。
中には私手作りのおにぎりをたくさん詰め込んだ。
まず出発地点として博麗神社を選んだ。
霊夢が掃除をしている境内に、帽子が落ちないよう片手で抑えながら降り立つ。
「おはよう霊夢、朝からご苦労様」
「なんだ天子なの、おはよう。朝っぱらから何の用?」
「別にピクニックに行くから通りすがりってだけよ」
「ならここに来ないで直接飛んでいけばいいんじゃない」
「それじゃ楽しくないじゃない、歩いて行こうと思って」
「そう、素敵なお賽銭箱はあっちよ」
両手でバスケットを提げながら話し込んでいると、西の空から見慣れた白黒が飛来した。
箒にまたがって彗星のように飛んできた魔法使いは、慣れた調子で神社の境内を靴底で引っかいて減速し着地する。
「よう、どうした朝からこんなとこに」
「どこがこんなとこよ。ピクニックに行くんだってさ」
「なんだ、一人でか? 寂しいやつだな」
箒から降りた魔理沙は、一人で立つ私を見て率直な感想を口に出した。
でもそんなことない、私が一人でも、見てくれてるやつはいる。
「ううん、寂しくなんかないよ」
神社を出て私は歩く、のんびり進んで昼過ぎ辺りに付けばいい。
テクテク足を進めていると、途中で分かれ道に出た。
どちらの道を選んでも目的地までの時間はさほど変わらないけど、道筋に大きな違いが出る。
特に深く考えず右の道を行こうとした時、妙な風が吹きすさぶ。
「わっ!?」
帽子が飛ばされないように押さえ、身を小さくして風に耐えると、木の葉を巻き上げた風が左の道へ通り抜けていくのが見えた。
私は一度背後の空を見上げて何かを探してから、不自然な風が行く左の道へ振り返った。
「……それもいいかな」
私は導かれるまま歩き出した。
そこから数分後、道に倒れた変な黒いのを見つけた。
遠目で見ると黒い毛虫みたいだったそれは、近くまで来ると黒い長髪と鴉みたいな翼の妖怪が、うつ伏せで倒れてるのだとだとわかった。
「うにゅう……」
「……どうしたの?」
力ない呟きに、ちょっと心配になって話しかけてみると、行き倒れは顔を横に向けて私に見せると、弱々しく唇を動かした。
「お腹空いた……」
「まさかこんなベタなのに出会えるなんて思わなかったわ、感動的だわ」
「ご飯もうないの……お願い助けてー……」
私は手に持ったバスケットを見下ろして、まあいいかと考えた。
鴉の妖怪は道の端に座り込んで、渡したおにぎりを両手に持ってかぶりついている。
その隣に私も両膝を立てて座った。
「よく食べるわね、もう一個いる?」
「うん! 食べる!」
妖怪は新しいおにぎりを持つと、一気に半分ほどかじりついて、太陽みたいな笑みで頬張った。
こいつのために作ったわけじゃないけど、こうまで美味しそうに食べられると嬉しい気持ちになってくる。
しばらくこの妖怪がおにぎりを味わう様を眺めていた。
「どうして倒れてたのよ」
「ん、間欠泉センターの仕事してたら家に帰るの忘れてたの。お燐の作ってくれたお弁当も食べちゃってたし、ガス欠で動けなくなっちゃった」
「ドジねえ」
鳥系の妖怪は忘れっぽい鳥頭が多いと聞いたけど、こいつもご多分に漏れずそうらしい。
腹を膨らませた妖怪は、一転して顔をシュンとしてうつむかせた。
「うう、帰らなかったからさとり様から怒られるかも……」
「家族がいるの?」
「うん、さとり様とお燐と、それとあんまり家にいないけどこいし様と」
呼び方から察するに飼い主かもしれない、なるほどそれなら門限を破れば躾されたりもするだろう。
「いいんじゃない、怒ってもらったら? 言ってくれる誰かがいるのっていいことよ」
「そうなの?」
「うん」
私にも覚えがある、怒ってくれたことも、怒ってくれなかったことも。
私の本来大切な人たちは、怒ってくれはしなかった。嫌そうな顔をして済ませるだけで触れてくれなかった。
それが悲しくて、苦しくて、馬鹿なこともやったりしたけれど、その先に怒ってくれたやつがいたから、今の私がここにいる。
あの日の反省と後悔のチャンスがなければ、私の行く道は今よりいくらか不幸だっただろうと思うのだ。
「そっか……わかった、私帰るね! おにぎり食べちゃってごめん!」
「いいわよ、多めに作ってたし」
私が用意してきたおにぎりは、二人で食べてもまだ余りそうなくらいあった。
この妖怪にかなり食べられたけど、それでもまだひとり分は残ってる。
「たくさん食べさせてくれてありがとう! ……でもお姉さん一人なの?」
「うん、一人でお出かけよ」
「寂しくない? 私もついていこうか?」
鴉の妖怪は、自分のことみたいに不安げにこっちを見てきた。
ちょっと前の話も忘れて人の心配をする妖怪に、私は思わず苦笑してその優しさに言葉を返した。
「あんたは帰るところがあるんでしょ。それに寂しくなんかないよ」
行き倒れと別れた私は、風が吹くまま進み、霧の湖の外周を歩いていた。
霧の向こうに紅い館を眺める景色を楽しみながら、ゆっくりのんびり足を動かす。
湖の方ばかり見ていた私だけど、途中で物音がして反対に振り向いた。
そこには林に上半身を突っ込んだ、青色のワンピースの妖精がいた。
「……なにやってんのあんた?」
「あー! 見つかった、完璧に隠れたさいきょーのあたいを見つけるなんて、中々やるわね!」
頭隠して尻隠さずという言葉も知らないんだろうなと思っていると、妖精は小さなお尻を振り振りさせて木陰から抜け出てきた。
このチルノという氷の妖精は私も知ってる。バカだけど強い妖精としてけっこう有名だし、神社の宴会にも紛れ込んでることは多いから顔を合わせたこともある。
その時に一応はお互い自己紹介を済ませてた筈だけど、チルノは私をみあげて首を傾げた。
「あれ、あんただれ? 大ちゃんは? 鬼かわった?」
「いや、私は天子……あー、いいわもう」
どうせ覚えないだろうし、自己紹介を繰り返すのは諦めた。
とは言え、こいつのことは気に入ってる。この生き方に不安はなく欲もなく、ただあるがままに生きる姿は人では辿り着けない境地の一つだと私は思う。
私も彼女みたいになれたらなんて、そんな益体もないことを考えたこともある。
「あんたはなにやってんの、隠れんぼ?」
「そーだよ、夜からずっと見つかってないんだぞ、すごいだろー!」
「それ先に帰られてるパターンじゃないの」
あんな見つかりやすいのによく一晩保ったもんだと感心するけど、妖精同士の遊びなんてそんなものかもしれない。
得意気だったチルノはハッと何かに気付くと、慌てて私の腕を掴んで引っ張った。
「そうだ隠れんぼしてるんだった、早く隠れないと!」
「あっ、ちょっと私も!?」
反論する間もなく木陰に引きずり込まれた私は、何故か妖精と一緒に隠れんぼをすることになってしまっていた。
チルノと肩を並べて身を寄せ合い、木陰から周囲の様子を覗き込む。
「うしし、大ちゃんまだ見つけられないみたいだなー」
「とっくにゲーム終了してると思うけどねー。このまま隠れ続けるつもり?」
「もっちろんずっと!」
何から何まで楽しそうな生物だ。
「あたいを見つける猛者は何するつもりだったの?」
「私はピクニック」
「一人で? うわー、ボッチだー!」
「うるさい、ボッチじゃないやい」
まあ一昔前なら本物の独りきりだったけど、今はそうじゃない。
かつての私は心を許せる相手なんていなかったけど、今は違う。
少し昔を思い返していると、チルノが不意に手を私の帽子の下に挿し込んで、頭を撫でてきた。
「……なにこれ?」
「ボッチは可哀相だから優しくしないとダメだって大ちゃんが言ってた、よしよし元気だせ」
「は……はは、ありがと」
慰められるのは若干複雑な気持ちだったけど、悪意はないしここは寛容に受け止めてやることにする。
ひんやりとした氷精の手の感触に身震いしていると、湖の方から声が聞こえてきた。
「チルノちゃーん、どこー!? もう帰ろうよー!」
「あっ、大ちゃんだ隠れろ!」
「えっ、まだ探してたの? 良い子すぎでしょあの妖精」
まさか一晩中探してたんだろうか、なんにしろ翌日までわざわざ探しにくる辺り友達想いの妖精だ。
大ちゃんと呼ばれた妖精は、声を上げながら私達の隠れた場所に近づいてきた。
「おーい、チルノちゃーん!」
「うしし、まだ見つかってないな」
「……まだ隠れてるつもり? もう出ていってあげたら?」
ずっと探してる相手に隠れられて、私よりもあの妖精のほうが可哀相だ。
だけどチルノはよくわかってないらしい。
「だってこれ隠れんぼだよ。見つかったら負けじゃん!」
「そうだけど、勝ち負けより大切なことってあるわよ」
そもそもゲームももう終わってることはとやかく言わないでおく。
それより私は、私の考えてることを優先した。
「あんたの友達はね、チルノのことを本気で心配してるのよ」
「あたいはさいきょーだから大丈夫だし!」
「大丈夫でも、あの子はそれに気付いてないよ」
大ちゃんは私達に気付かないまま、木陰を素通りしていく。
このまま見過ごしてしまったら、きっと今日中に再会することはできなくなってしまう。
「大丈夫なら、友達にそう伝えて、安心してあげないと。伝えられない事実は嘘も同然なんだから」
「……なんでウソなの?」
「あー、そのーなんていうか……あんたが最強だって、知ってもらえないとみんな自分が最強だって勘違いしたままなのよ。だから言ってあげないと」
子供に何かを教えたことなんてなかったからこれで伝わるか不安だったけど、チルノは何か感じたらしくしばらく考え込んだ。
「そっか、大ちゃん知らないんだ……教えないとダメなの?」
「うん。負けてでも、伝えるべきよ。最強なら何回負けたってへっちゃらでしょ?」
「……うん!」
とりあえず納得してもらえたみたいで、チルノは立ち上がって茂みから抜け出した。
「あっ、待った、これだけ持ってきなさい」
そう言って、バスケットからおにぎりを二つ取り出すとチルノに手渡した。
自分の手についたご飯粒をぺろりと舐めて笑いかける
「お腹空いてるでしょ、きっと友達も疲れてるだろうから一緒に食べなさい」
「ありがと! 私は行くけど、ボッチは大丈夫? 寂しかったら一緒に来る?」
「いや、私には行くところがあるし。それに私にも友達がいるから寂しくないよ」
「そうなの!?」
チルノは大層驚いて、おにぎりを両手にうぬぬと唸っていたけど、すぐに大ちゃんのことを思い出して向こうを見た。
「それじゃ行ってくる、じゃあねテンシ!」
その言葉に私がびっくりしちゃって、駆け出していく小さな体に、力なく手を降ることしかできなかった。
「は……ははは、ちゃんと覚えてたじゃないの」
あの妖精みたいな純粋無垢な生き方に憧れを覚えたことがあった、自分もずっと綺麗なままで生きられたら。
でもそれは出来ないし、それで良いと思う。私は恐さも不安も知ってるけど、支えてくれるものもあると知って進んでいけるから。
だからずっと、子供のままでいる必要はない。
「……さて、私も行こっかな」
私は立ち上がって木の葉を払うと、再び歩き始めた。
暑い日差しの中、歩き続けた私はとうとう太陽の畑にまでやってきた。
立ち並ぶ太陽に負けない輝きの大輪に思わず声が出る。
「おぉー、これが!」
今まで空から遠目にここを眺めたりしたことはあったけど、こうやって間近で見るのは今日が初めてだ。
さんさんと煌めく太陽に精一杯の花を咲かせる向日葵たちの、力強い生命の息吹を感じさせる光景は圧巻だ。
この中を通ることにわくわくしていると、向日葵たちを掻き分けて奥から誰かが出てきた。
どこぞのスキマを思い出すような白い日傘を差した女性が私の前に現れて、傘の下から緑色の短めの髪を見せてきた。
私は以前聞いた、この場所に住んでいるという妖怪を思い出す。
「こんにちは、何しに来たの?」
「こんにちは、ここから西にある一本杉までピクニックに来たの」
日傘の妖怪は圧力のある言葉を投げかけてきた。
争いにきたわけでもない以上、刺激することもないと思い素直に返答した。
「そう、あそこに。よく知ってるわね」
「友達から聞いたの」
妖怪は穴場を知っていることに感心しているようだった。
「空は飛べないの?」
「飛べるわ」
「だったら飛んでいきなさい」
「せっかくだから、ここを歩いて行きたいの」
妖怪は私の気持ちを聞いて、日傘をクルクル回して少し考え込むと踵を返した。
「向日葵たちを傷付けられたりしたらたまらないからついてらっしゃい、余計なことをしたら殺すわ」
「はいはーい」
道案内してくれるなら都合が良いと、私は快く後に続いた。
日傘の白を目印に、向日葵畑の隙間を行く。
向日葵はそんなに匂いのない花だけど、それでもこれだけ群れていると濃厚な草の匂いが鼻孔を満たした。
明るい太陽の下で、ひんやりとした向日葵の葉っぱが優しく撫でてくるのをかき分けながら、前に話しかけた。
「あなたが噂の風見幽香?」
「名乗りもしないで名前を呼ぶなんて失礼ね」
「ごめんごめん、私は比那名居天子、天人よ」
「そう、ご丁寧にどうも。知っての通り風見幽香よ」
聞いてた通り威圧的な態度が言葉に滲み出てる、よっぽど過去に何かあったのかもしれないけど、とやかく言うこともないだろう。
そう思って黙っていると、今度は向こうから話しかけてきた。
「お空の上の人間が、地上でピクニック?」
「うん」
「珍しいわね、土で汚れるからって嫌がりそうだけど」
「それだって面白いじゃない。あなたは、土を付けるのは楽しくないの?」
幽香は一度だけ振り向いてこちらを見ると、すぐに前を向いて「そうね」とだけ零した。
「これから行く場所は、風が吹いてるのと一本杉が日除けしてくれるお陰でこの時期でも涼しいところよ」
「そうなんだ」
「知らなかったの?」
「いい場所ないかって聞いて、そのまま来ただけだから」
「変わった人ね。それだけで来るなんて能天気か、その相手を信頼してるのか」
「どっちもよ」
「そう、羨ましい限りね」
「ここの向日葵はあなたが世話をしてるの?」
「そこまでじゃないわ、ただ花達が過ごしやすいよう、少し手伝ってはいるけど、その程度よ」
「でも、ここは花も土も、その中の虫もみんな生き生きしてるわ。いい場所ね」
「当然よ、みんな頑張って生きているもの」
もうお日様は空のてっぺんに辿り着いてていたけど、向日葵たちのお陰で意外と快適に歩けた
柔らかな土を踏みしめているうちに、いつのまにか向日葵畑を横断していた私達は、畑を抜けて開けた場所に出た。
そこからは離れた場所に、聞いていた一本杉の丘が見えた。
「あれがそうよ、歩いてももうすぐそこだわ」
「ありがとう、時間を取らせて悪かったわね」
私は幽香の横を通り抜けて、目的地まで行こうとした。
「待ちなさい」
呼び止められ後ろを向くと、幽香が暑い日差しの下でわざわざ日傘を閉じて口を開いた。
「あなたは先を急いで、向日葵たちを乱暴にかき分けたりしなかったわね。草花を傷付けず、優しくしてくれた」
「ただ楽しんでただけよ」
「それにお花たちは喜んでるのよ、彼女たちに代わってお礼を言うわ」
幽香は首筋に汗を浮かばせながら、にこりと笑いかけてきた。
「またここにいらっしゃい、その時はうちで向日葵のお茶を入れてあげる」
「……うん、わかったわ。絶対来るから、美味しいの用意しててよ」
楽しみが増え、私も釣られてニッコリと笑う。
「あっそうだ、道案内のお礼。よければもらっといて」
私はバスケットからおにぎりを一つ取り出して幽香に差し出した。
「いきなりこんなの渡されてもね」
「いいじゃない、もうお昼だし丁度いいでしょ」
「まあそうね、受け取っておくわ。ありがとう」
いきなりだったけど、幽香は受け取ってくれた。
「そういえばピクニックなのに一人なの? 誰かと待ち合わせの約束でもしてるのかしら」
「いいや」
「何よそれ。お花だって一輪だけで咲いてると寂しがるものよ。ついて行ってあげましょうか?」
「ありがとう、でも大丈夫。見てくれてるやつがいるから、寂しくなんかないよ」
「……そうか、羨ましい限りね」
静かに笑う幽香にバイバイと手を振って別れを告げると、私は改めて歩き始めた。
丘を登り始めた辺りでふと振り向くと、幽香が日傘を差し直して、おにぎりを齧りながら向日葵たちに迎えられているのが見えた。
私はまた笑って、もう振り返らなかった。
「とうちゃーく!」
丘を登り切った私は、木陰の下に立ってそこからの景色に感動した。
眩しさに瞳が震えるけど、負けじと目を見開いて受け止める。
「うわぁー、綺麗ね」
そこからは黄色く広がった太陽の畑を一望でき、その向こう側には霧の湖に青空が映るのを眺めることができた。
そこから更に遠くには地上と地底とを結ぶ入り口に何名かが出入りしているのがわかり、一番遠くには小山の上に博麗神社が立っているのが見えた。
ここを一番良く知ったあいつが勧めてくれただけあった。
遠くから北風が首元を通り抜けて、ここまで歩いた熱を冷ませてくれる。
私は帽子を脱いで木の幹に座り込むと、一息を付いてバスケットの蓋に手を掛けた。
「お昼どうしよっかなー」
開いた内側には、もうおにぎりは一個も残っていなかった。
苦笑いを浮かべた私は、瞳を閉じて心を澄ましながら語りかけた。
「ねえ、見てる? なら、出てきて欲しいな」
少しして、すぐそばで何かが開かれるのがわかった。
布がこすれる音がして、目を開けてみると隣に見えたのは紫色の衣装。
「いつから気付いていたの?」
顔を上げると、いつのまにかそこにいた紫が、柔らかい表情で私のことを見ていた。
目を合わせ、口を開く。
「いつからも何も、紫はこの幻想郷のどこだってずっと見てるじゃない」
「まあそうだけど、私が来るのも折り込み済みかしら?」
紫は閉じた扇子を取り出すと、空のバスケットを指し示した。
「へへ、そういうこと。紫なら来てくれると思った」
「寝てようかと思ったけどね」
「でも来てくれたじゃない」
紫を信じられたから私も安心してやりたいことをやれた、先のことを不安に思わず気持ちを差し出せた。
期待に応えてくれた紫は「仕方ないわね」と言ってスキマから重箱を取り出した。
並べられる料理は二人で食べるには多いくらいで、私はわっと驚いた。
「うわあっ、こんなにいっぱい」
「誰か一人くらいは連れができると思ってたんだもの。こんなとこまで一人で歩いてきて、寂しくなかったの?」
紫が呆れたように微笑を零してくるのに、私は自信たっぷりに笑って見せた。
「だって、ずっと紫が見ててくれたもん――」
「――だから、寂しくなんかなかったよ」
うだるような暑い日差し、窓から入り込んでくる風が髪を揺らす。
部屋の中で私が畳に座りながら語った先では、布団の中で横たわった紫がいた。
――温かな視線――
――私が初めて異変を起こしたあの懐かしい日々から長い時間が経った。
本当の、本当に長い時間。
外界の変化にゆっくりと引っ張られる幻想郷は、増え続ける幻想を受け止めるため成長を続けている。
陸が増え、海が増え、住める場所が増えるとすぐにそこを埋めるコミュニティが形成され、幻想郷の存在をより強固にし、新たな力の流れが循環する。
もう幻想郷のために誰かが世話を焼く必要はない、問題が起こってもそこに住まうみんなが自分たちで解決する。
すでに賢者の手を離れて独立した一つの世界として、忘れられた理想郷は育ったから。
その間、幻想郷ではたくさんの出来事があった。
いくつもの異変が起こり、新しい住人が増え、博麗の巫女は何代も変わり。
――友達の中には人間だけでなく、妖怪たちの中にも亡くなったやつが何人もいた。
紅い館の吸血鬼の片割れが亡くなり当主は妹に移された、冥界では妖夢が孫に剣を指南していて、永遠の屋敷ではうさぎの顔ぶれが変わった。
保守的だった妖怪の山も今は開放的になり、人里では十七代目の御阿礼の子が筆を執っていて、魔法の森では人形使いの遺した自立人形が時折迷い込んできた人間を保護している。
変化が起き、それでもその度に幻想郷は盛り上がりを見せ、絶えることなく喧騒とともに続いている。
その日、私は海に来ていた。
幻想郷は新しく増える住人に対応すべく何度か拡張されていて、今では大洋が拝めるようになっていた。
見晴らしのいい崖の上には墓石が建てられている。
刻まれた家の名は比那名居、私が両親のために建てたお墓だ。
定期的に私はここに来てお墓に花を添えていた。今日は幽香に故人の前になら飾られてもいいと言っているらしい向日葵を分けてもらい、墓石の周りを明るくしてもらった。
そしてお墓参りには、長年の友人である彼女と来るのが定例だった。
「随分立派になられましたね、総領様」
「ちょっとやめてよ、その言いかた好きじゃないって知ってるでしょ?」
灰色のテーブルの向こうで、衣玖がおどけて笑った。
私たちは要石で作った即席の椅子に腰掛けて、これまた要石を利用したテーブルの上にお茶を並べて話し込んでいた。
魔法瓶から注いだ温かいお茶を啜る、魔理沙から分けてもらったきのこ茶だけどゲテモノのようでこれが案外美味しい。
衣玖は私から視線を外し、墓石とその向こうの大海原を眺めた。
「ここにお墓を建てて欲しいと言ったのは、ご両親でしたか」
「うん、晩年になって地上に戻りたいって言い出してね」
天界に上がってからの両親は、死への怯えから極端に地上との関わりを避けていた。
それでも永遠に死から逃れられたものなんて世界中を探したって一握りしかいなくて、やがて天人の五衰が身体を蝕み、死に至った。
お父様もお母様もともにほぼ同時期に亡くなった、命日は数日と離れていない。夫婦仲は良かっただけある。
そして死の際に、私に墓についての遺言を残したのだった。
「見晴らしのいい海の近くで、大地と海とを久しぶりに感じていたいって」
「……あまり仲は良くなかったそうですが、よく聞き入れましたね」
「流石に遺言を無碍にするほど恨んでるわけじゃないわよ、それに」
いい両親ではなかった、人間だった時代を忘れたいみたいに天界での享楽的な人生に没頭しようとして、私のことは気に留めなくなった。
私への愛情はあったけど子供一人満足させるには到底足りない程度で、私がやんちゃをしだせばすぐに面倒臭がって責任を放り出した。
そのことで恨んだりした、憎んだりもした、でも今は両親への想いにそれほどしこりはない。
「最後に、寂しがらせてごめんって言ってくれたからそれでいいかなって」
「……良かったですね」
「うん」
過去は辛かったけど、今が楽しいからそれでいい。
両親から与えられた辛い思い出もまた自分を形作る掛け替えのない要素の一つ、それを受け入れられたから、だからもういいのだ。
「あれから幻想郷の顔ぶれも変わりましたねぇ、天界も閉鎖的だったのがけっこう賑やかになりました……それでも、萃香さんがいなくなって静かですが」
「……そうよねぇ。あいつも結構馴染んでたし」
萃香が姿を消したのは数年前、最後まで子供みたいな小さな姿だった。
いつものようにみんなで集まって宴会をした翌日、空になった一升瓶を抱えながら笑顔で寝転んでいたあいつは、霧になって朝日の中に掻き消え、それから誰も見ていない。
その瞬間をたまたま見かけた自分は、直感的に萃香とはこれで二度と会えないと悟った。つい数時間前までは元気にはしゃいで「ほうら、天子も賢ぶってないで飲め飲め!」って絡んできてたのに、それが最後だという奇妙な確信があった。
宴の騒がしさを抱きしめたまま、幸せに散っていったあいつのことを私は忘れない。
「最後の最期まで陽気なやつだったわ」
「そうですね、今でも思い出せます。あの人と飲むお酒は格別美味しかった……あんな元気な方でも消え去ってしまうんですね。妖怪の寿命も精神的なものが原因ですが、何故だったのでしょう」
「さあね、満足できたんじゃない?」
「だと良いですね。そう願いましょう」
「まあ私としちゃ、あんたが生き残ってることが最大の驚きだけど。ポヤポヤしてるくせによく死なないわねホント」
「ふふ、いい女は生き残るものですよ」
「はは、言ってなさい」
それでもこの年月を生きているということは、それに値する妖怪なんだろう。
変わるものもあれば、変わらないものもある。きっと変わらないものは、それだけ価値のある存在なんだろうと思う。
彼女と友達になれたことに感謝していると、空の上から降りてくる影があった。
ゆったりとしたオレンジ色の導師服の上からでもわかるしなやかな肢体。
揺れる波のようでいて、しっかりとした芯が感じられる品のある二股の黒尾。
幻想郷の賢者の一人として精力的に活動している、八雲橙だ。
昔と違ってすっかり大人になった彼女は地面に降り立つと、軽く会釈してきた。
「やあこんにちは、二人とも久しぶり」
「こんにちは、お久しぶりです橙さん」
「やっほこんにちは、お茶飲む?」
私が魔法瓶を持って掲げるのを、橙は手の平を出して制止した。
「せっかくだけど止めとくよ。世間話も良いけど本題を話したい」
「ふーん、何よ」
橙がいつもと違ってせっかちに、神妙に口を開く。
「紫様が、もう長くないの」
その言葉がいやに重く肩にのしかかってきた。
けど同時に、やっぱりかという思いがあって、コップのお茶を覗き込んだ。
「……そうか」
紫の周りも、だいぶ静かになってしまった。
藍は主人よりも早く逝った、幽々子は亡骸を受け入れて転生したし、萃香もいなくなった。
今度は紫の番だと言われても驚きはない。
ただ一つ気がかりなことは、紫が私を避けていることだった。
ずっと前を思い出す、昔の紫は私が暇を持て余した時はひょっこり現れて何喰わぬ顔で隣りに座ってくれた。
けれど最近はそんなこともなく、もう何ヶ月も顔を合わせていない。
床に伏せていたのか、それとも、私を避けているのか――
「……天子、今更こんなことを言うのはなんだけど、紫様と会って欲しいの。あの方にこのまま死んでほしくない」
橙も私としばらく会わなかったことに後ろめたさを感じているみたいで、こちらの様子を伺いながら切り出してきた。
顔を上げた私は、それに一もなく二もなく頷く。
「もちろんよ」
すでに私の身体からはあらゆる活力が失われ、布団の中の手足はほんの少しも持ち上げられない。
姿は昔と変わらないまま、それでも確かに老いて死を間近に迫った私は、ぼんやりと窓から外を見ていた。
強く輝く日差しに照らされる大地、幻想郷は成長を続け、やがては私の手を離れて一人歩きを始めた。
もはやこの幻想郷に賢者の寵愛など必要なくて、どんな問題が発生してもその代の博麗の巫女と、住人たちが解決してくれる。
それを悟った時に私の老いは始まり、そしてもうすぐ最期の結末にこの身は辿り着くだろう。
かつての友人も多くがいなくなった。
幽々子は生前の因縁と決着を付けて成仏した、とうとう枯れて二度と咲かない桜の下で、泣いている私と妖夢に笑いかけながら終わりを受け入れた。ありがとう、なんて言い遺したけれど、それを言いたいのはこっちだって同じなのに。
家族である藍もまた、橙を育て上げると私より先に逝ってしまった。橙がいるなら大丈夫でしょう、そんなことを言い残す彼女にあなたがいないと駄目よと泣きついて最期まで困らせてしまったが、結局困った顔で笑いながら往生してしまった。
消え去った萃香とは、最後の晩に少しだけ話をした。
内容は、別になんてこと無い。宴会で飲む酒が一番美味しいな、とだけ伝えられて。
翌日、最期まで享楽的な人生を楽しみながら旅立つのを、涙をこらえて見送った。
今はもう、みんな素敵な思い出の中。
過去に思いを馳せていると、襖が開かれて廊下に座した橙の姿が現れた。
「紫様、客人がお見えです」
「橙……」
力ない私から了承を得るより先に橙が襖を開ききる。
そこにいたのは、予想と違って緋色の羽衣をゆらゆらさせる竜宮の使いの姿だった。
「お久しぶりです、天子様でなくて残念でしたか?」
「衣玖……」
「私も少しお話したかったので、先を譲ってもらいました」
衣玖が戸を越えて部屋の中に入ると、橙は襖を閉めて場を去った。
いつのまにか古い友人になった衣玖は、布団の傍に座ると改めて口を開いた。
「こんにちは、お見舞いに来ましたよ」
「……ありがとう、わざわざ」
「お礼を言うのは私の方です、あなたには何度もお世話になりました。特に天子様については私も、天子様自身も、感謝し尽くせないほどですよ」
「天子……」
比那名居天子、最初は力でしか自己表現の出来なかったのに、あっという間に素敵な女性に育った彼女。
いつからか、彼女は自然な優しさを手に入れた、着飾らずにありのままの自分をさらけ出したまま、人に歩み寄れるよう成長した。
それを見守れたことは、私の中でも指折りの幸運に思う。
けれど。
「私が、そんなに感謝されていい存在なのかしら……」
消せない不安があった。
「やはりですか。ここ数年、あなたの天子様を見る目が以前と違うなと思っていました。未練があるのですか」
気付かれていたことが情けなくて唇を噛み、眉間に力がこもった。
けれど当然か、衣玖もまた天子の成長を見守り、そして間近で支えてきた一人なのだから。
「……ある。ずっと、怖くて言えなかったことが」
「天子様は、あなたのことを好いているではありませんか」
「それはわかるわ……けれど、だからこそ確かめるのが怖いのよ」
かつて藍に不安を漏らしたときも気にしなくていいと言ってくれた。自分でも杞憂かもしれないとは思う。
それでも、言わなければ気が済まない懸念がずっと昔から、長いあいだ胸に残っている。
「何が怖いのですか?」
「…………」
「……私相手では言えませんか」
口をつぐむ私に衣玖は残念がる様子もない、確認のため聞いた程度なんだろう。
話すことはもう終わったのか、衣玖は私のそばから立ち上がった。
「やはり私では重荷を軽くすることはできないよう。挨拶も済んだことですし、ひとまず退場するとします」
そう言った衣玖は、私の前で襖を引く。
開かれた先に見えた極光の飾りに私は息を呑む。
廊下を見上げると、そこには困った顔した天子が、手を後ろに組んで立ち塞がっていた。
「後は、当人たちで話し合いを」
眼を見開く私の前で、衣玖は丁寧にお辞儀をして部屋から出る。
「それでは、悔いのないように」
天子が入れ替わって部屋に入ってくると、廊下の衣玖が襖を閉めた。
私が呆然としていると、天子は布団の傍に座り込んでこちらを見下ろしてきた。
「ぁ……」
何を言うべきか、前もって考えていたと言うのに喉の奥から出てこない。
「こんにちは、紫。来たよ」
「……ぁ……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯で、私は少し黙ってしまう。
「ふふふ、何よ黙っちゃって。そんなに私と会えたのが感動しちゃった?」
「……まさか、むしろこっちが心配してたくらいだわ、寂しがって暴れてないかって」
「あー、ひどーい。もうそんな歳じゃないわよ」
まさか天子に気を遣われる日が来ようとは、初めて会った時は思いもしなかっただろう。
この期に及んで狼狽える自分にバツが悪くなって、取り繕うためお節介な言葉が口をつく。
「……お盆だったけど、お墓参りはした?」
「うん、幽香からお花分けてもらってお供えしたよ」
「衣玖に、迷惑はかけてない?」
「大丈夫よ、私だって少しは落ち着いたんだから」
私の世迷言に、天子は急かすことなく聞き入ってくれた。
そんな態度に少しだけ安心させられた。
天子は自分で言う以上に、彼女は素晴らしい女性に成長した。
仲違いしたご両親のことも許し、最後の願いを受け止めた。
騒がしいのが好きなのは変わらないけれど、迷惑を掛けすぎないよう気を使えるようになった。
優しくなった。
暴れ馬のようにがむしゃらに走るしかできなかった彼女が、こうして老人の死に際に優しく笑いかけるようになっただなんて、奇蹟のようだ。
そこに辿り着いた天子の頑張りに勇気を貰い、私は恐る恐る口を開いた。
「天子、私はずっと不安だった。特にあなたに関しては」
怯えに喉が竦みそうになる。
それでも私は閉じそうな口を必死に開く。
「私は幻想の行く先を滅亡と決めつけてこの幻想郷を作った。でもそれは可能性を潰す行為だったんじゃないかといつも思うの。私が余計なことをしなければ、妖怪も神も外の世界で生きていけたかもしれない、それを私の感情でここに縛り付けてしまった」
老人の独白が一筋の涙になって、頭に敷いた枕を濡らす。
ずっと怖かった、私のしたことが何もかも間違いじゃなかったのかと。
その際たる者が天子だ、彼女は妖怪ではなく幻想郷がなくとも生存が約束されているのに。
「天子、私があなたの人生を歪めてしまった。あなたなら外の世界でもきっとたくましく、素敵に生きていけたでしょうに、この檻の中に閉じ込めてしまった。あらゆる可能性を潰してしまった」
「でも、紫は優しくしてくれたじゃない」
「それで許されることではないわ」
ずっとずっと後悔していた、悔いながら止まれず歩き続けてきた。
今までは精一杯の虚勢を張り、すべては自分の思い通りなのだと言うかのように振る舞ってきたけれど、もはや虚飾をかぶる力もない。
「ごめんなさい天子。あなたの人生を縛り付けてしまって、本当にごめんなさい」
涙が止まらず頬を流れる。
老いぼれのわずかに残った活力が後悔とともに失われていく。
私は天井を見つめたまま動けずにいた、天子がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。
でも、それは無責任というものだ。自分がしたことに対する気持ちは受け止めねばならない。
私は力を振り絞り、瞳を動かして涙で滲んだ視界に天子の姿を収めた。
ぼやけた世界に時間を掛けて焦点が定まる。
明瞭になる世界の中で、窓からの日差しを受けて白く輝く彼女は、優しい微笑みを浮かんでいた。
「なら、私は全部許すよ。紫」
息が詰まる私の前で、天子は傍に近寄ると、膝立ちになって覆いかぶさってきた。
「紫は私の人生を決定付けたけど、これっぽっちも恨んでなんかない。私はこの幻想郷に来れて本当に良かった」
天子が布団の上から体を重ねて、抱きしめるように私を包み込む。
伝わる柔らかさに、凍り付いていた不安が融かされていく。
「ここは紫の優しさで満ちてるから私も素直になれた。ずっと見ていてくれたから、安心してやりたいと思ったことを、正しい形でやれるようになったわ」
天子は掛け布団の下に手を差し込むと、私の手を握ってそう言った。
「紫のお陰で、一瞬だって寂しくなんかなかったよ。だから、全部良いのよ」
間近で感じた温もりに、私の涙は堰き止められた。
力が抜け、緩んでいく心を唇に乗せ、最後の心残りを吐き出す。
「……私が初めてあなたの前に出てきたとき、こっぴどく怒ってしまったわね」
「うん」
「あなたは素敵な可能性に満ち溢れてるのに、他人を傷付けてばかりなのがもったいなくて、つい厳しくあたってしまった」
「私は嬉しかったよ、私と全力でぶつかってくれて」
天子は体を起き上がらせると、強い輝きを灯した瞳で私をじっと見つめてきた。
「紫。あんたのお陰で私は誰かに優しくなれるようになった、今の私がいるのは紫のお陰。今の私を見て、紫はどう感じる?」
「……とっても素敵よ」
光り輝く彼女を支えていた一人が私だと言ってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。
憂いなく澄んだ空気を吸った私は、最後の最後に問いかけた。
「私は先に往くけれど、天子はどうする?」
「ここに残るわ。まだ幻想が続くなら、紫の代わりに見守ることにする」
「私に縛られ続けることはないのよ?」
「良いの、ここがいい」
私の目が閉じる最後まで、天子は笑顔を私の脳裏に与えてくれた。
「ここは紫の愛でいっぱいだから、ここにいる限り寂しくなんかないから。この幻想郷が、私が生きたい場所なのよ」
幻想は続く、忘れられた者たちを受け止めてゆっくりと拡張していく。
終わる者がいても、その跡を継いで歩き続ける者たちがいる。
私もその一人で、私は生涯ここに住まい、あいつのくれたものを今度は私が分け与えていく。
少し心が冷たくなっても大丈夫。
目を閉じれば感じる日差しと風と、遠くから響いてくる誰かの笑い声が、紫の一部だから。
「だから、寂しくなんかないよ――」
――この幻想郷は愛でいっぱいだから。
ありがとうございました
一見不変に見えてもその実万物は変わらずにはいられないわけで、天子ちゃんもいつか誰かにバトンを渡す時が来るんでしょうか。
それはそうとこのゆかりんたまに天子ちゃんに負い目感じてんなゆかてんのきっかけになるからもっとやれ(豹変)
たとえ死に別れることになっても大切な人に何かを残せれば辛いばかりじゃないですよね
紫が見ていてくれていると確信している天子に不動の絆を感じました
怖がりで考え過ぎな紫とそれを受け入れる天子が普段と逆なような気がしてとても新鮮に思えます
愛に溢れた素敵な幻想郷でした
冒頭で寿命モノだろうなぁと構えていたら涙腺よりも心にくる優しい終わり方でした。
不良天人として邪険に扱われていた彼女にとって、紫はまさに母親的存在に近しいのでしょうね……与えられた愛を紡いでいく幻想郷という場所がゆかてんなのだ、なのだっ……!
ゆかてん万歳ぃぃぃぃぃぃ(ry
誤字脱字報告でございます↓
こいつもご多分漏れずそうらしい。力なく手を降ることしかできなかった→ご多分に漏れず?(意図してだったらごめんなさい汗)
「寂しくない? 私着いてこうか?」
「向日葵たちを傷付けられたりしたらたまらないから着いてらっしゃい、余計なことをしたら殺すわ」→ついて・付いて(こちらも意図してだったらごめんなさい汗)
終わるけど、寂しくなんかないよ
この物語があったから。
前半は流れというかオチが読めて退屈かなと思いましたが、後半で返されて驚きました
あったかい幻想郷は大好きです。ありがとうございました
お互いの愛の深さ、だからこそ天子は「寂しくなんかないよ」と言えると思うのです。
殴り合いでもなく。いちゃいちゃでもなく。
こんなおだやかなゆかてんは、見たことがありません。
ありがとうございました。
ぐすん。