「そういえば、今日は『くさのみ』の日だったじゃない」
そう独りごちたのは昼前のことだった。
いつも通り屋台の仕込みで得意の農家を回り、一通り準備が済んだところで唐突にそのことを思い出した。
くさのみ、とは草の根ネットワーク飲み会の略称のことだ。
何月かに一回開かれるくさのみは決して定期的では無いため
記憶力のあまり無い私にはかなりの負担であったりするのだが
草の根ネットワークのやつらはなんだかんだ大量に酒を飲んでくれるので、大変ありがたい存在でもある。
最近は悪友のルーミアもそいつらと仲良くしているみたいで
食べ物のほうの売上も良い。あとあの狼女がよく食べるんだ。
ふんと息を吐き今日仕込んだ材料を見やる。
少しばかり、心もとない気もする。
最近急に寒くなってきた。よって肴の消費量は増える。
妖怪と言えど食べ物を食べるということはエネルギーを得るということだから
やっぱりこうした手のかじかむ季節には、なんだかんだ温かい肴、焼き物や煮物などが求められるのだ。
焼き物は自慢のウナギがある。
煮物は大量に作ればあとが楽なので、もう今のうちに作っておきたい。
……やはり、材料が心もとない。
里で少し野菜などを仕入れたほうが良いだろう。
「そういえば、煮物、か」
実は、先ほど思い出したのは、くさのみのことだけではない。
『そういえば』という独り言のせいでもう一つ思い出したことがあった。
私は翼を広げて里に向かうことにした。
そういえば少し前に里にあった、妙な食堂の事を考えながら。
『そういえば満腹食堂』
『満腹食堂』
それがその妙な食堂の名前だ。
今はもうない。かつて、あった。
しかし、何が妙なのかと聞かれても、何が妙なのか思いつかない、というのが正直な話だが
その存在は妙と言わざるを得ない、そういう雰囲気があった。
老齢の女性が一人で経営していたその食堂は
机が三つ、椅子が六つ程しか置けないほどの広さしかなかった。
しかし今考えると、なるほど、一人で経営していくにはそれが十分な大きさだったのだろう。
特に繁盛しているわけではなかったが閑古鳥が鳴いているようでもなかったと記憶している。
私がその食堂に行くのは、今日のように食糧を調達しに里に来るときであった。
といっても、里に行く前まではその食堂のことなどいっさい頭になく
ある程度めぼしいものを購入し一息ついたところで
「ああ、そういえば、あそこに食堂があったな」と思い出し、小腹を満たしに行くのであった。
店に入ると、他の客は一人か二人、常に居たように思う。
私が食堂のドアを開けると、その老齢な女性は私を見て、決まって「あら」と言う。
そして「そういえば、もうそんな時期なのねえ」と続ける。
私は「どうも」なんて言って席につくわけだけど、実はこれは私だけに言う台詞ではない。
彼女は来た客全員の顔を見て「そういえばそんな時期なのねえ」と台詞を吐くのだ。
そんな「そういえば」な挨拶をした後は、席に座ってぼうとしてるしか、やることは無い。
店員が一人しか居ないのだから、女性が台所に入ると接客も何も、全てあとまわしにされてしまうのだ。
職業柄、手伝いを申し出ようかと思ったこともあるが
年老いた人間という生き物は、そこに見えない何か、プライドや誇りのような類を持っていることを
私は知っていたので、それを考えると私は結局、ぼうと店の内壁を見ることしか出来なかったのだ。
先に居た客の料理を作り終えると、女性がやっとぬるいお茶を持って「いつものかい?」と聞いてくる。
お茶を私の前に置くその手には、歴史が刻まれていたことを覚えている。
私はその女性の問いかけに対して「うん、いつものちょうだい」と答える。
そういえば、これ以外の会話はしたことない気がする。
十分ほど待たされ、その内先の客は食べ終わり新しい客が入ってぼうと壁を見つめて待っている頃
やっと出てくるのが私の「いつもの」。野菜炒めと小鉢に入ったひじき煮。これが私のいつものだ。
この幻想郷において海産物であるひじきは珍しい。しかも魚肉を作ったさつま揚げも入っている。
私はメインの野菜炒めよりも、野菜炒めに付いているこのひじき煮を好んでいた。
しかし今思うと、どうやってひじきなんか仕入れていたのだろう。
私の得意先にはひじきを扱っているところなんてないし、どこかの筋と仲が良かったのかもしれない。
まあ、こんなこと考えても仕方がない。この謎は永遠にわからないままなのだから。
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「流石に……ひじきは置いてないかあ」
里にやってきた私は八百屋、川魚を扱う料理屋、乾物屋、嗜好品をよく扱う雑貨屋なんかにも回って食糧を仕入れていった。
ついでにひじきがあったら今夜出してみようとも思ったがそれは叶わず
結局今夜の煮物は肉じゃがにすることにした。
おでんはちょっと早いし、誰でも好きだし。
ある程度買い物を済まし、茶屋に入った。
最近の里の店は、ある程度の格好をしていれば人妖関係なく入れるので(気付いていないだけかもしれないが)大変ありがたい。
私は団子を熱いお茶で流しながら、なんとなく最後に行った満腹食堂の時の事を思い出していた。
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「いつものかい?」
「うん、いつものちょうだい」
「はいよ……ふう」
「……?」
そういえば、その時にも前兆はあったのかもしれない。
私が最後に行ったその日、その女性はいつもより疲れているような、やつれているように見えたのだ。
客が連続して一時的に忙しくなったものだとその時は思ったが
現にその女性は、その後亡くなってしまうのである。
そして、私が満腹食堂が無くなったのに気付いたのはやっぱりしばらく後のことになる。
その時も数ヶ月ぶりに「そういえば」と思い満腹食堂へと向かったわけだが
店の前で着いた私は、「あれ」と声を上げて足を止めた。
いつも空いているはずの満腹食堂のシャッターがしまっていたのだ。
そういえば、あの満腹食堂が閉まっているのを見たときがそれが初めてだったかもしれない。
私はそのシャッターを見つめ、少しの間そのまま立ち止まっていたが
突然はっとして、特に何も思うことなく別の店に行こうと満腹食堂のもとを立ち去った。
そしてその次の「そういえば」の日。
そういえば、前回は閉まっていたな、と考えながら満腹食堂の前に行ってみると
なんとそこはもう、満腹食堂ではない別の店が開かれていたのだ。
幸い飲食店だったので、食事ついでに聞いてみると
満腹食堂の店主であった女性は私が最後に訪れた数日後に亡くなってしまった、とのことだった。
人間なんていうのはからかいの対象だが、あの女性は少しでも世話になった人間だ。
線香でもあげてやろうかとも考えたが、その時初めて、私はその女性のことを何も知らないんだという事に気づかされた。
名前も知らない。年も知らない。交友関係も知らない。他の客と親しく話していたかも覚えていない。
更に、特に興味もなかったので私以外にどんな客が居たかも覚えていない。
なので、私はそれから満腹食堂に関わることは全くと言っていいほどなかったのだ。
これが、私が満腹食堂に関わった全ての記憶である。
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夕飯前なのもあって里のあたりは様々な匂いで溢れていた。
当たり前だが、そこに満腹食堂の匂いはない。
特に意識も無かったが、私はなんとなく満腹食堂があった道を通って帰ることにした。
冒頭に私が「そういえば」という独り言をしなかったらきっと、そんな行動はしなかったと思う。
「あ」
そこには珍しい顔が見えた。
姿は変えても妖気はわかる。
いつかのおかしな夜に出会った賢者の式、九尾の狐がかつて満腹食堂だった店を、笑うも泣くもなく、ただぼうと見つめていた。
気のせいか、不思議とその姿に見覚えがあったように思う。
ともあれ、話しかける道理は無い。
私は満腹食堂だった店を一瞥し、狐の後ろを通り抜けた。
すると、狐は私の背中に声を投げつけてきた。
「ここにあった、ぼろぼろの食堂は無くなってしまったのか」
きっと狐は私が妖怪だと気付いたのだろう。
そう思ったのは、そのぶっきらぼうな言い草が初対面の人間に話しかけるようなものではなかったからだ。
「……満腹食堂のこと?」
「そう、そうだ。そんな名前の店だった。たしかそれだ」
「店主の女性が亡くなったと風の噂で聞いたわ。親族も跡継ぎも居なかったから、そのまま」
「……そうか、そうだったのか」
それだけ言うと、狐は少し下を向いて「ありがとう」と言った。
普段の私ならそのまま去っただろう。
これから仕込みもあるし、この式にはいじめられた覚えしか無い。
しかし今日の私はいつもと違う、「そういえば」の私なのだ。
その落ち込む背中に言葉を投げた。
「あそこはいい店だった」
狐は少しの間の後に口を開いた。
「……そうだ、そうだな。いい店だった。たまに人間に化けて来ていたんだ。
本当にたまに、『そういえば最近あの食堂に行ってないな』と時々思って……」
狐の発言に心臓がびくりと跳ねた。
「わ、私もたまに来てたの。普段は気にもしていないけど、近くに来た時やっと思い出すのよね。
『そういえば近くにこの食堂があったな』って」
「……私の主人もこの店を気に入っていた。こだわりが強い主人だから、珍しいなと思ったもんだ。
私は是非主人で二人で来たかったのだが、二人で行くと店主が大変になるから、時間をずらして、なんて妙な気を遣って……」
存外、この店にフアンは多かったのかもしれない。
それに、その中に妖怪の賢者も居たのなら、なぜこの店がひじきとさつま揚げなんかを扱えたのかというのもわかる気がする。
「ここの厚揚げが好きだった。特別に美味しかったわけでもない。
ただ何かのきっかけで、『そういえば』と思い出すと、無性に食べたくなったんだ」
狐はそう強い口調で言い、顔を私の方へ向けた。
あれ、そういえば。
ふっと笑いがこみ上げてきた。
「そういえば、貴女のこと店の中で見たかもしれない」
狐も同様に、暗い顔で少しだけ頬を上げた。
「そういえば、お前の顔も見覚えが有る気がするな」
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その後は狐と会話も何もなく、私は帰路についた。
早々に屋台に明かりを灯し、煮物の準備をする。
そろそろ手を付けなければ、くさのみに間に合わなくなってしまう。
料理をしている時は即興の歌が歌える。
何も考えず、出てくるまま出てきた即興の歌。
「夜の夢ぇ、夜の道ぃ、人は暗夜に何を見るぅ」
人参を切りながら、じゃがいもの皮を剥きながら、だしの味見をしながら、歌いながら、私は満腹食堂の事を思っていた。
満腹食堂のあの女性は、どういう考えで「そういえば」と客に言い続け
客から「そういえば」と言われ続けたのだろう。
身よりもなく、客との会話もなく、ただ一人で。
何が彼女を生涯が終えるまでの原動力になったのだろう。
今となってはもうわからない。
彼女に聞くことすら出来ない。
「はい完成~」
完成させた肉じゃがを一口味見。
ふむ、なかなか悪くない。
時間も頃合いだ。
そろそろウナギを焼いて、燗にするためのお湯を温めて……
「来たよー」
なぜ既に酔っ払っているのかわからないが
ルーミアは屋台椅子にどかりと座り、酒臭い息を吐いて椀をちんちん鳴らし始めた。
「ちょっと、なんでもう酔っ払ってるの」
「久しぶりだから楽しくなっちゃって。影狼は姫を連れてくるって」
「赤蛮奇は?」
「何か包んでもってくから先に行っとけって言われた」
「あら有り難い。ということはルーミア、要するに何もやることがないから先に飲んでたのね」
えへへと笑う悪友を小突いてやり準備を整える。
まずは焼けたウナギと冷を一合。
ルーミアは最初はこれを出すと喜ぶのだ。
「お、わかってるね」
「そりゃね。何年付き合ってると思ってるのよ」
「んー何年?」
「そんなの私が覚えてるわけないでしょ!」
「まあそうだよね。……くはあ。寒い中冷たい酒であったまる、いいよねえ」
とは言いつつも、今宵は冷える。
ルーミアはいつもの白いドレスシャツに袖のない黒いあれを被っているだけだ。
くしょんとくしゃみを二回放った。
「あー噂されてる。おでんないの?」
「寒いだけでしょ。おでんはまだよ」
「うへー」
「でも肉じゃがなら有るわよ」
「あーいいねそういうの。ちょうだいな。肉もいっぱい。じゃがもいっぱいで」
大きめの容器にたっぷり入れてやった。
よし、特別だ。
唐辛子を擦ったのも乗せてやろう。
きっとあったまる。
「はいおまたせ」
「来た来た。いただきます」
あんぐりと一口。もぐもぐ、冷を一口。ぐびり。
見てたら私も飲みたくなってきた。
ある程度準備が済んだら私も先に飲み始めてしまおう。
「どう?」
「ほいひい。もぐもぐ」
「良かったわ」
「ごくん。やっぱりこれだねえ。そういえば、忘れてたよ」
「え?」
ルーミアの台詞に心臓がびくんと揺れた。
『そういえば』。
「そういえば、ミスティアは煮物が得意だったよね。忘れてた」
「そ、そう?」
「美味しい美味しい。これ好きだよ」
ああ、なるほど。なるほど、なるほど。
阿呆みたいに顔を綻ばせて私の料理を食べる親友を見て、妙に納得がいってしまった。
それは、誰かから言われる『そういえば』は、中々に愉快だったこと。
なんとなく私という存在を認識してもらった感じがすること。
私はそれらの感覚に、妙に納得してしまったのだ。
「どしたん変な顔して」
「……んーん、なんでも。私も早く飲みたいからちゃっちゃとやっちゃお」
「そうだよ、今日は宴会なんだから。ミスティアばかり働いてちゃ駄目」
もしかしたら、あの女性も同じ気持ちだったのではないか。
そう感じていたから客全員に『そういえば』と言っていたのではないか。
そう言われたくて、私たちは『そういえば』とあの店の事を思い出していたのではないか。
それはもちろん、今となってはもうわからないことだ。
この先もずっとわからないこと。
だけど、私は寂しくはない。
少なくとも私の中で、あの女性は、満腹食堂は、もう『そういえば』なのだ。
もしかしたら満腹食堂に通っていた他の客も、あの狐も同じ気持ちなのかもしれない。
私はきっと、明日、明後日、一週間後には、満腹食堂の事を忘れることになるだろう。
忘れていつも通り、何も思わずに生活していくのだろう。
しかし、ある時思い出すのだ。
そういえば、あんな店があった、と。
満腹食堂の事、あの女性の事、今日狐と話した事。ルーミアに「そういえば」と言われた事。
そして、あの女性が何故客に「そういえば」と言っていたかという事。
それら全部を、「そういえば」と思い出すのだろう。
「あそこはいい店だった」
先程、狐に言った台詞をもう一度口に出した。
あそこはいい店だった。そういえばあそこはいい店だった。
覚えている、私は覚えている。
何度も何度も頷いて、噛み締めた。
感情に説明がつかない。何故流れたのかはわからない。
そんな、頬を伝った、たった一粒の涙を拭い、私は宴会の準備をするべく懸命に手と口を動かした。
「夜の夢ぇ、夜の道ぃ、人は暗夜に何を見るぅ。
夜の無名ぃ、夜の満ちぃ、人の隙間にちらり見るぅ」
『そういえば満腹食堂』
終わり
語り口は文句無しなのですが……。
そういえば、最近近所にできた食堂、行ってみようかしら
思い出す度に、その時の気持ちと、その時から今までの時間の流れを感じて、なんだか寂しいような、暖かいような。
文章のリズムも、物語の流れも、なんだかゆっくりで。ノスタルジーを感じました。
もう夜更けですが、なんだか何処に食べに行きたくなってしまいました。お腹は減っていませんけどね。そういえば、近くに夜中までやっているお店があったような気がします。
うおォん こういうのでいいんだよ こういうので
ふと思い出したら失っていた、という寂しさや悲しさを感じました
すごく印象深いというわけではない、でも時々「そういえば」こんなお話があったなと
思い出したくなるような素敵な作品でした。
次の休みに行ってみようかな。
心が温まりました。
題名を見た時、とうとうミスチーもお店を持ったのか。と思って読んでみて、良い意味で予想を裏切られました。
お腹も心も満腹です。ご馳走様でした。
そういえば、もう秋なんですね。
確かに共感出来る内容でした
そういえばの一言から回顧される何気ない出来事
しかし日常の一部がいつの間にか失われていたたような寂寥感を「そういえば」のひとことで想起させると言うのが上手いと思った