一、
四十四振りの名刀妖刀魔剣神剣の捨て場を探して魂魄妖忌は西行寺家を出奔した。
まず捨てたるは二振りの妖刀。剣聖が振るえば「あらゆるもの」を斬る楼観剣。一切衆生の「迷い」を断つ白桜剣。
「師匠、これは!?」
「これからは、お前がこの剣で幽々子様を守るのだ」
弟子に自らの形見の剣を譲る。魂魄流の後継者がいることが妖忌には幸いであった。
「妖忌、どうしても出ていくのね」
「妖夢もそれなりには使うようになりました。御身の露払い程度はこなせましょう」
幽々子は哀しんだが、引き留めはしなかった。賢い主のことである、事情も大方察しているのだろう。
折しも冥界は秋も深まり、樹々が紅や黄に色づいた葉をはらはらと散らす季節であった。老いたものの旅立ちには、余程ふさわしい。
主を捨て、唯一の愛した家族と弟子を捨て、「魂魄に二振りの剣あり」と称えられた半身のような刀を捨てた。
これにて妖忌が持つは四十二振り。あらゆる剣を捨てるに捨てる旅路の果てに、目指すは「空(くう)」の境地なり。
二、
閻魔が告げた「剣を捨てられないのならば、あなたは死ぬべきなのです」との言葉が出奔のきっかけだった。
予感はあった。磨き抜き、鍛えつくした剣技を以て、主の目指す冥界の平定とそれを通じた幻想の守護の一翼を担った妖忌。しかし、或る時から争いの方から妖忌へと襲い掛かるようになった。
妖忌の所持する 四十四振りの名刀妖刀魔剣神剣を奪いとらんとする人妖の群れ。
天下無双の剣聖の命を食らいて格を上げ、あるいはその身体を乗っ取らんとする神妖の群れ。
まるで、強く成ればなるほど、剣を極めれば極めるほど、むしろ剣の争いに出会うものを巻き込むように思えた。さしずめ「剣闘を誘う程度の能力」とでも言うべきか。
生前の主が「死に誘う力」を自分では抑えることができずに自害したことを、妖忌は思い出していた。あの時、妖忌は主を止められなかったことを強く悔やんだが、同時に「見事」とも思った。二度と再び主を失うまいと力を集めに集める間も、心の片隅にその思いはずっとわだかまっていた。それが、千年も経った今、妖忌の心に繰り返し鮮やかに甦る。
このままでは、世を乱す剣の鬼となるのも時間の問題。あと数十年も持たない。平和になった冥界と幻想郷、楽しそうに笑う主と孫の白玉楼に、争いの種は必要ない。
三、
無縁塚にて、百人の剣客の亡霊と切り結び、邪法破りの九字剣、血に飢えたる鉄華虎徹、再生する名刀蛍丸の三本を捨てた。
妖怪の山の天狗谷にて、刀を奪わんと増長した大天狗の一羽と相対し、風雨雷雪を制する剣、風切、天傘、雷切、蒼姫の四本を捨てた。
うたたねに迷い込んだ夢の中で、かつて殺した一番弟子と立ち会い、夢と現を刹那入れ替える小刀・胡蝶を捨てた。
ある剣は振るい続けてちょうど千回目に折れ果てた。
ある刀は一度きりのその強大な呪いを敵の身体に刻みつけ、単なるなまくらへと変わった。
決して折れぬ剣は火口の中に捨て、触れるものを刃にしてしまう刀は魔界の僻地の深い深い水底に沈めた。
季節は幾度も幾度も巡った。気づくころには妖忌の手元にあるのは四振りの最も厄介な剣のみ。先ごろの戦いで失われた、あらゆる刀を納める鞘のない今、厄介だがそのすべてを身に付けておくしかない。
遂にその旅は、果てへとたどり着く。
四、
白雪地獄へ妖忌は生きたまま歩を進める。地獄の辺境の辺境、永遠に思える氷と雪に覆われた、気が狂うほどの大地の白と、雪雲の黒に覆われた世界である。地獄では、時間の流れは場所によって違っている。此処に到るまで妖忌はその足で一年ほど歩き続けたが、顕界では数十年が経過しているやもしれぬ。
白雪地獄に待つは、楽園の閻魔と、剣を持つ一匹の歪な鬼。
地獄の片隅で、四季映姫は、目を伏せ哀しそうに告げた。「閻魔が、哀しそうに告げる」。すなわち、これは裁きではなく、説教ですらなく、神々や魔神など人外の支配者・賢者が決定した、単なる事実を告げるものである。
「あなたはこの鬼と殺しあわなくてはならない。二人が二人とも残るのであれば、行きつく先は更なる地獄。されど、生き残った方にも、その手に剣がある限り、可及的速やかに死んでいただかねば」
「承知」
妖忌はただ静かに応えた。
殺すべき敵の名は、剣王と呼ばれた亡者の剣聖。ただ、地獄では「剣鬼」という名で呼ばれていた。
地獄に落ちてなお、地獄の亡者・獄卒を斬り続け、鬼神長すら切り伏せて、落とすべき地獄なしとまで言われた鬼。何度となく地獄から這い上がり、異界を荒らしまわっている。冥界や幻想郷に達するのも、時間の問題と思われた。剣と争いの鬼神を、いかなる神も殺すことはできない。神や魔神にとって彼など羽虫に等しくはあったが、滅し切ることもできず、ただ人の世を乱し続ける厄介者。彼を殺すことができるのは、同じ剣士のみである。
妖忌は千年のうち、剣鬼と三度剣を交えたことがある。三度が三度、勝負がつかず、死力を尽くしてなお退かせるのがやっとだった。間違いなく、この殺し合いこそ、妖忌の剣士としての最期となろう。
「妖忌、俺は貴様の臓腑をこの目で見るためだけに、再び肉の身体を得た。冥界に引きこもる貴様を引き摺り出すため、幾千夜を掛けて出会うものを全て斬って回った。貴様の代わりに誰かを斬るたび、俺の剣達は不満げに呻いた。余りに熱が足りぬと」
白髪の鬼に、かつて人の王であった頃の理はもはやない。剣になぜ物を斬るのか、と尋ねても無駄だ。それが己の性分だから、と答えるだけであろう。
妖忌は徐に目を閉じ、一本の刀を腰から抜いた。
骨喰万鬼丸。切る真似をしただけで切るという結果をもたらす邪剣の最高峰。この刀はその刀身を見ただけで見たものを斬る。よって振るうに当たっては、自らも眼をつむり、心眼を以て敵を捉えなければならない。
心眼の世界の中で、剣鬼の身体に一つも傷がついていないことを妖忌は悟る。相手もまた、妖忌が腰の刀に手を掛けた時点で目を閉じ、心眼による闘いに応じたのである。
色の無い世界での数百を数える剣戟の果てに、骨喰万鬼丸は歪んで果てた。相対した敵が未だ斬れていないという矛盾に刀が耐え切れなくなったのだ。
続いて剣鬼は覇王刀を振りかざした。刀身から生じた獄炎が戦さ場を圧倒する絶望的な炎の津波となって妖忌の卑小な身体を飲み込もうとする。覇者の振るう覇王刀の生み出す炎は最高位のものであり、西遊記に語られし芭蕉扇でも消すこと能わざる圧制の火である。 辺りの雪など、一瞬で全て蒸発した。
妖忌は髪留めに差していた小さな針のようなものを抜き、炎の津波に鋭く投げ入れた。小輝針剣・寸鉄。天邪鬼の魔力を帯びたその剣は、その弱さによって、最高位のものを打ち砕く魔法が掛けられていた。剣鬼の覇王刀は土くれとなって果てた。
だが、炎は未だ辺りに燻ぶり、妖忌の剣筋を幾度も阻む。妖忌は短く呼気を整え、三つ目の剣の権能を解放した。緋想の剣・偽打。地獄にふさわしい、紅い雨が炎を消していく。辺り一面に血だまりが広がり、泥濘となって剣鬼の足場を奪う。剣鬼は自らの髪をむんずとひっつかみ、引き抜くや千の針の剣に変えて妖忌へと投げつけた。先ほどの意趣返しか。妖忌は偽打ちで針をはじき、九百九十九本までは地面に落としたが、残る一本を耳に受け、呪いにより片耳の聴力を失った。血の雨が降り、針山が辺り一面に広がる中で、剣鬼と妖忌は数千を数える剣戟を交わした。
どれだけの時間が経ったのだろうか。地獄においては、一瞬と永劫の区別は難しい。
ある時、剣鬼の臥龍剣が妖忌の手から偽打ちを弾き飛ばした。刀は高い弧を描いて、一里先の地獄の断崖へと落ちていった。後数千年程は拾うものも出てはこないだろう。
剣鬼は剣の手を止め、怒ったように声を張り上げる。
「さっさと抜け、最期の剣を」
「流石に手が震えるものでな」
「抜かせ」
最後の一刀。魂魄之太刀。白銀に輝く魅入られるように美しい刀。
妖忌が生涯のうちに切り捨てし幾万の命より奪った魂の欠片、幾万の屍より奪った魄の欠片が、乳白色の霊なる刀身となる一振り。本来柄と鍔しか持たなかった太刀は、人妖斬り千年の業を宿し、剣の神の現身となったのである。
其れを見て、剣鬼はしかし、呵々と笑った。
「遂に為したり。お主にその魂魄之太刀を遣わせることこそ、我が悲願」
その時、妖忌が振るった一撃がどのような軌跡を描いたか、それは誰にも分らぬ。
剣の神の宿す、かつて妖忌がこれまでに振るった幾万の必殺の太刀筋が、一度に華開いたというよりほかにない。
「見事だ。主の生涯の剣のうち、九つも俺の身に届きおったわ」
「裏を云えば、我が必殺の剣は幾万回も防がれたということ」
互いに互いを称賛する。此処に到りて、二人は友のように穏やかに笑いあった。
「いや、俺は九つの命を持っていた。一つ足りねば、結果は違っていただろう。魂魄妖忌の剣の道、確かに見せて頂いた」
妖忌は剣鬼の心の臓を貫いた傷に目を遣る。まるで蝶が羽を休めたようなその傷は、この旅の中の夢の間に一番弟子に見舞ったものと同じだった。
すると、剣を捨てると云いながらまたぞろ屍山血河を築いたこの旅もまた、剣の道に必然だったと言える。妖忌は、そのように考え、その考えに後ろ暗い喜びを覚えた。その顔を見て剣鬼は頷く。二人の鬼と鬼の間に、千年のうちに感じたことのない理解と安らぎが訪れた。
だが、裁定は下されなければならない。
「魂魄妖忌が勝ちましたか」
閻魔は、白を白と告げる、その簡明な物言いで、勝敗を決着させた。
剣鬼は、かつて彼が殺した者たちがみれば憎しみを更に募らせたであろう、悟りを得たかのような顔つきで、穏やかに死んだ。剣の鬼の肉が剣にて死んだ以上、その魂もまた死に、塵となる。尋常の輪廻に戻るには、その業は余りに深すぎた。
妖忌の手の内で、魂魄之太刀もまた崩れ落ち、桜吹雪とも見紛う無量の魂と魄の欠片を、地獄に吹く一陣の風が彼方へと流し去った。
「魂魄妖忌よ、良く成し遂げた」
四季映姫は彫像のような意味深い微笑でねぎらう。
「この旅の最期までに、全ての刀を捨てなければ、儂もまた剣の鬼となり、三千世界に争いを招くものとなると閻魔様は仰られた。 さて、この通り、刀は全て捨てた。ならば、我が身はもはや剣から自由となり、再び争いを招くことはない。儂は生きることを許されるのだな?」
「残念ながら、それは黒です」
妖忌は身体を強張らせるその答えを、しかし内腑の深いところで納得して聞いた。そうだ、そうでなければ、と。答えはもはや分かっていたことだ。
五、
「師匠っーーーーーー!!!」
地獄の天井から、懐かしい声が響く。顔を上げれば、そこには妖夢が幽々子を伴って、落ちるように空中を駆けおりてきたところだった。
「良かった!!! 生きていたんですね! あっ、いえ。師匠ほどともなれば、斬り合いで死んでしまうなんてあり得ないってわかっていましたけれど。でも、師匠は無理しすぎて平気で食事を抜いたりするから心配で心配で」
妖夢は妖忌に抱き着きながら、破顔一笑、幼い子どものように再会を嬉しがった。
対する妖忌は、ただ必要な用件を告げた。
「久しいな妖夢。息災そうで何よりだ。ところで、頼みがある。楼観剣と白桜剣を貸してはくれぬか」
「へ? いいですけど、でも師匠が一度譲った剣を貸してなんてめずらしーー」
「絶対にだめよ、妖夢」
幽々子の手が刀を渡そうとした妖夢の腕を制する。妖夢は驚いて、主の方を見た。いつもの浮雲の如き余裕は幽々子から失われ、ぞっとするような凄みのある目をしていた。
「よろしい。ならば、貴方達にも事実を告げましょう。魂魄妖忌、あなたはーーー。あなたは、人を斬り過ぎている。道に戻るには、既に手遅れであった。このままでは世にとって禍根となる。死ぬより他はなし」
閻魔の言葉に、妖夢は血相を変えた。
「そんなの絶対におかしい! 祖父はただ、斬るべきものを斬り、秩序を愛し、一心に西行寺家に尽くす、高潔な、正しく剣聖と呼ぶに相応しい剣士です。此度の出奔だって本当はーー」
閻魔は手鏡を取り出す。「浄玻璃の鏡」と呼ばれるもので、そのものの罪を映すことができる。
鏡が映す妖忌の傍らには、なぜだが半霊は漂っていない。そしてその手にはあり得ないはずの物が握られていた。
「刀」
「そう、刀。このものは、あまりに多くを斬りすぎた。その霊なる手にはまだ、凄まじき刀が握られている」
「それはおかしな話です、四季様。そのためだからこそ、妖忌は剣を捨てるために出奔し、遂にそれを成したのではないのですか」
幽々子が口を挟む。
「あなたは一番わかっているでしょう。 妖忌殿の魂は、剣戟と殺し合いの熱によって、とうの昔に刀の形に鋳られてしまっていたのです 」
「映姫様。後は自ら言いましょう。儂は最初から間違えていた。あらゆるものを斬る楼観剣、一切の迷いを断つ白桜剣。それは偽りであった。儂がその二刀で敢えて切ることをしなかったものがある。それは、己だ。どうあがいても、死と争いを招くことしかなくなったこの身であれば、真っ先に自分をその二刀で斬ってしかるべき。まず白桜剣で迷いを断ち、次に楼観剣で命を絶つ。そうできなかったことが即ち、儂が死ぬべき理由の全てだ」
「妖夢、もう一度頼む。刀を貸してくれ」
「絶対に、いや、です」
妖夢は叫ぶなり、距離を取るように後ろに大きく跳躍した。だが、空中で見えない壁のようなものにぶつかり、妖忌とは十歩も離れることができなかった。幽々子は、四季映姫に殺気めいた目を向けながら、扇を開く寸前で身体を石のように強張らせていた。
「ごめんなさい」
「閻魔が、謝るなど。恥を知りなさい」
幽々子は幽かな声を絞り出し、四季映姫を呪う。むろん、何の効果もない。
妖忌は片腕を袈裟切りに振るった。まるで剣を持っているかのように斬撃は妖夢へと延びる。妖夢は楼観剣の二薙ぎでそれを打ち消す。
いかに妖忌が剣聖といえど、無刀では、妖刀を持つ妖夢に大きく有利を取られている。また、妖忌には相手を傷つける意思はない。――そうした条件を踏まえてなお、双方の力の差は歴然としていた。
幽鬼剣、獄炎剣、修羅剣、天界剣、人智剣。妖夢が全霊を掛けて繰り出す魂魄流の奥義は、妖忌にしてみれば技ありて心なしと見える。妄執剣「修羅の血」などその最たるものであった。妄執というには余りに子供じみた我儘な剣裁き、修羅というには余りにも真っすぐに過ぎる太刀筋。妖忌は、妄執剣の軌跡に悉く修羅の如き気魄をぶつけ、全て僅かに剣先をそらす。
「妖夢、断迷剣を何故使わぬ」
妖夢は答えない。その眼に涙が滲む。妖忌は、妖夢の剣のうちに既にその心を見ていた。遣いたくとも、遣えぬのだ。断迷剣こそは、白桜剣の力を引き出して放つ、自他の迷いを断つ奥義。その剣は、斯様に動揺した心情で扱えるはずがない。未熟、と妖忌は断ずる。
数十回の剣戟が間にあったのは、妖夢の祖父を死なせたくない一心が彼岸此岸の力の差を僅かなりとも埋めたのか、妖忌を剣鬼との殺し合いの疲れが襲ったのか、それとも師が最も愛すべき弟子に最期の稽古を付けさせてやろうとしたからなのかは分からない。その時間は、二人にとって、一瞬のようにも永遠のようにも思えた。
やがて、妖忌は妖夢の手から二刀を奪い取った。
まずは一刀、白桜剣によって、自らの迷いを断つ。
次に楼観剣。もはや、迷いはない。
「潔しや、魂魄妖忌。最期の際までまさに一振りの刀のような人生でした」
四季映姫が詠じるように言った。
妖忌はしばし手を止め、白雪地獄の天井に晴れ間が差すのを見た。奇妙なことにあり得ぬはずの青空と陽光が覗く。妖忌は、それが主と孫が入ってきた境界の裂け目だと気づく。してみれば、あの青は冥界の空か。余程慌てて入ってきたと見え、綻びは空を覆うほどに大きい。
後ろから、引き留めるように柔らかく身体を抱くものが居た。生きているかのように温かな主の手に、妖忌は慈しむように片手を重ねた。
「ばか……おじいちゃん死んじゃったらやだよぉ……」
すぐ足元で、孫が身体を苦しそうに折り曲げたまま、ぐすぐす泣いていた。
一切が、無駄だ。死を操るものが、死ぬなとこの世に引き留める。魂魄流の後継者が、刀を捨て己を捨てる剣の極地をその眼で見てなお、それを肉親が死ぬ悲劇としてしか見ることができない。それに比べて、己の選択のなんと潔いことか。
ここで死ぬことこそが、自らの一振りの剣であると定義し、命を賭して西行寺家に仕え、あまたの敵を斬り捨て、主と孫の見せる温かなやり取りを内心微笑ましく見ながら、剣である自分は彼女たちの作る新しい世界にとって不要なものであるとみて遂に自らを捨てるに至った人生そのもの。つまりそれは――。
「我が生は、最期の際まで剣そのものであった」
妖忌は、はじめて気づいたとでもいうかのように、驚くような顔をした。
「それでは、剣を捨てたことにはならぬ」
妖忌は、愕然として、手から力が抜けていくのを感じた。二つの刃ががしゃりと地面を打つ音が聞こえた。
しばらく、誰も時が止まったように動かなかった。
やがて、妖忌はゆっくりと妖夢を抱き起こした。孫の背負う楼観剣の鞘を改めてまじまじと見る。鞘の先に魔法の紐で結わえ付けられた、一輪の可憐な花。 妖夢の優しい心遣いであろう。剣の道には無駄と見えるそれを、己が無意識に散らさぬように戦っていたと悟ると、妖忌は嗚呼、と嘆息した。綺麗でしょ、と嬉しそうな調子で傍らの幽々子がささやく。
四季映姫は、そこで初めて、その子供のような顔に似合う、裏表のない笑顔を見せた。
「それで、やっと白です」
六、
冥界は桜が咲き始め、華やぐ季節を迎えていた。
「あの場で自刃したとして、その魂は地獄で剣鬼と成り果て、神々によって滅せられる運命だったやもしれません。刀を捨てるというのであれば、自らを道具のように捨てるなどという行為がいかに殺伐としていて、主やお孫さんを悲しませるか、一度でも考えてみるべきだったでしょう。それに想い至らないことが、あなたを刀であると私が断じた理由だったのです。なのに、ぎりぎりまで気がつかないんですから」
「妖忌。もしあなたがあそこで死んでいたら、妖夢は自分が未熟なせいで祖父を殺してしまったと一生悔やんだでしょう。その先は修羅。千年後の剣鬼は間違いなく妖夢だったでしょうね。もしそうなったら、あなたの魂を私は未来永劫いびり尽くしてやるところだったわ」
「おじいちゃん、しばらく抱き着いてやりません。反省してください」
三者三様の説教を聞かされながら、妖忌は白玉楼にぐずぐずと逗留していた。
本来であれば、すぐにでもまた旅へと出立するつもりであった。剣を捨てる境地が、己を捨てるなどという安易な道でないことを悟った今、妖忌が剣鬼となることはもう数百年はあるまい。
しかし、悟りを開くほどの答えを得たわけでもなく、己の中に燻ぶる争いの火と折り合いをつける道を探さねばならない。
そう啖呵を切り、颯爽と腰を上げた瞬間、恐ろしい激痛が身体に走り、しばらく安静にせざるを得なくなったのである。
「まあ良い」と妖忌は独り言ちた。
しばらく会わなかった孫や主が楽し気に語る、博麗の巫女が霊夢という少女になってから幻想郷と冥界の境界が綻んだままとなっているという話には、興味深いものがあった。かつて、争いの多かった時代、冥界と顕界の境界は絶対に開いたままにしてはならないものだった。今は、妖忌が白玉楼に居た頃よりも、大らかな時代なのだろう。当分ゆっくりと静養しながら、新しい時代の話を聞くことも、きっと己の剣の旅にとって無駄なことではないはずだ。
今ではそう思えるのだった。
四十四振りの名刀妖刀魔剣神剣の捨て場を探して魂魄妖忌は西行寺家を出奔した。
まず捨てたるは二振りの妖刀。剣聖が振るえば「あらゆるもの」を斬る楼観剣。一切衆生の「迷い」を断つ白桜剣。
「師匠、これは!?」
「これからは、お前がこの剣で幽々子様を守るのだ」
弟子に自らの形見の剣を譲る。魂魄流の後継者がいることが妖忌には幸いであった。
「妖忌、どうしても出ていくのね」
「妖夢もそれなりには使うようになりました。御身の露払い程度はこなせましょう」
幽々子は哀しんだが、引き留めはしなかった。賢い主のことである、事情も大方察しているのだろう。
折しも冥界は秋も深まり、樹々が紅や黄に色づいた葉をはらはらと散らす季節であった。老いたものの旅立ちには、余程ふさわしい。
主を捨て、唯一の愛した家族と弟子を捨て、「魂魄に二振りの剣あり」と称えられた半身のような刀を捨てた。
これにて妖忌が持つは四十二振り。あらゆる剣を捨てるに捨てる旅路の果てに、目指すは「空(くう)」の境地なり。
二、
閻魔が告げた「剣を捨てられないのならば、あなたは死ぬべきなのです」との言葉が出奔のきっかけだった。
予感はあった。磨き抜き、鍛えつくした剣技を以て、主の目指す冥界の平定とそれを通じた幻想の守護の一翼を担った妖忌。しかし、或る時から争いの方から妖忌へと襲い掛かるようになった。
妖忌の所持する 四十四振りの名刀妖刀魔剣神剣を奪いとらんとする人妖の群れ。
天下無双の剣聖の命を食らいて格を上げ、あるいはその身体を乗っ取らんとする神妖の群れ。
まるで、強く成ればなるほど、剣を極めれば極めるほど、むしろ剣の争いに出会うものを巻き込むように思えた。さしずめ「剣闘を誘う程度の能力」とでも言うべきか。
生前の主が「死に誘う力」を自分では抑えることができずに自害したことを、妖忌は思い出していた。あの時、妖忌は主を止められなかったことを強く悔やんだが、同時に「見事」とも思った。二度と再び主を失うまいと力を集めに集める間も、心の片隅にその思いはずっとわだかまっていた。それが、千年も経った今、妖忌の心に繰り返し鮮やかに甦る。
このままでは、世を乱す剣の鬼となるのも時間の問題。あと数十年も持たない。平和になった冥界と幻想郷、楽しそうに笑う主と孫の白玉楼に、争いの種は必要ない。
三、
無縁塚にて、百人の剣客の亡霊と切り結び、邪法破りの九字剣、血に飢えたる鉄華虎徹、再生する名刀蛍丸の三本を捨てた。
妖怪の山の天狗谷にて、刀を奪わんと増長した大天狗の一羽と相対し、風雨雷雪を制する剣、風切、天傘、雷切、蒼姫の四本を捨てた。
うたたねに迷い込んだ夢の中で、かつて殺した一番弟子と立ち会い、夢と現を刹那入れ替える小刀・胡蝶を捨てた。
ある剣は振るい続けてちょうど千回目に折れ果てた。
ある刀は一度きりのその強大な呪いを敵の身体に刻みつけ、単なるなまくらへと変わった。
決して折れぬ剣は火口の中に捨て、触れるものを刃にしてしまう刀は魔界の僻地の深い深い水底に沈めた。
季節は幾度も幾度も巡った。気づくころには妖忌の手元にあるのは四振りの最も厄介な剣のみ。先ごろの戦いで失われた、あらゆる刀を納める鞘のない今、厄介だがそのすべてを身に付けておくしかない。
遂にその旅は、果てへとたどり着く。
四、
白雪地獄へ妖忌は生きたまま歩を進める。地獄の辺境の辺境、永遠に思える氷と雪に覆われた、気が狂うほどの大地の白と、雪雲の黒に覆われた世界である。地獄では、時間の流れは場所によって違っている。此処に到るまで妖忌はその足で一年ほど歩き続けたが、顕界では数十年が経過しているやもしれぬ。
白雪地獄に待つは、楽園の閻魔と、剣を持つ一匹の歪な鬼。
地獄の片隅で、四季映姫は、目を伏せ哀しそうに告げた。「閻魔が、哀しそうに告げる」。すなわち、これは裁きではなく、説教ですらなく、神々や魔神など人外の支配者・賢者が決定した、単なる事実を告げるものである。
「あなたはこの鬼と殺しあわなくてはならない。二人が二人とも残るのであれば、行きつく先は更なる地獄。されど、生き残った方にも、その手に剣がある限り、可及的速やかに死んでいただかねば」
「承知」
妖忌はただ静かに応えた。
殺すべき敵の名は、剣王と呼ばれた亡者の剣聖。ただ、地獄では「剣鬼」という名で呼ばれていた。
地獄に落ちてなお、地獄の亡者・獄卒を斬り続け、鬼神長すら切り伏せて、落とすべき地獄なしとまで言われた鬼。何度となく地獄から這い上がり、異界を荒らしまわっている。冥界や幻想郷に達するのも、時間の問題と思われた。剣と争いの鬼神を、いかなる神も殺すことはできない。神や魔神にとって彼など羽虫に等しくはあったが、滅し切ることもできず、ただ人の世を乱し続ける厄介者。彼を殺すことができるのは、同じ剣士のみである。
妖忌は千年のうち、剣鬼と三度剣を交えたことがある。三度が三度、勝負がつかず、死力を尽くしてなお退かせるのがやっとだった。間違いなく、この殺し合いこそ、妖忌の剣士としての最期となろう。
「妖忌、俺は貴様の臓腑をこの目で見るためだけに、再び肉の身体を得た。冥界に引きこもる貴様を引き摺り出すため、幾千夜を掛けて出会うものを全て斬って回った。貴様の代わりに誰かを斬るたび、俺の剣達は不満げに呻いた。余りに熱が足りぬと」
白髪の鬼に、かつて人の王であった頃の理はもはやない。剣になぜ物を斬るのか、と尋ねても無駄だ。それが己の性分だから、と答えるだけであろう。
妖忌は徐に目を閉じ、一本の刀を腰から抜いた。
骨喰万鬼丸。切る真似をしただけで切るという結果をもたらす邪剣の最高峰。この刀はその刀身を見ただけで見たものを斬る。よって振るうに当たっては、自らも眼をつむり、心眼を以て敵を捉えなければならない。
心眼の世界の中で、剣鬼の身体に一つも傷がついていないことを妖忌は悟る。相手もまた、妖忌が腰の刀に手を掛けた時点で目を閉じ、心眼による闘いに応じたのである。
色の無い世界での数百を数える剣戟の果てに、骨喰万鬼丸は歪んで果てた。相対した敵が未だ斬れていないという矛盾に刀が耐え切れなくなったのだ。
続いて剣鬼は覇王刀を振りかざした。刀身から生じた獄炎が戦さ場を圧倒する絶望的な炎の津波となって妖忌の卑小な身体を飲み込もうとする。覇者の振るう覇王刀の生み出す炎は最高位のものであり、西遊記に語られし芭蕉扇でも消すこと能わざる圧制の火である。 辺りの雪など、一瞬で全て蒸発した。
妖忌は髪留めに差していた小さな針のようなものを抜き、炎の津波に鋭く投げ入れた。小輝針剣・寸鉄。天邪鬼の魔力を帯びたその剣は、その弱さによって、最高位のものを打ち砕く魔法が掛けられていた。剣鬼の覇王刀は土くれとなって果てた。
だが、炎は未だ辺りに燻ぶり、妖忌の剣筋を幾度も阻む。妖忌は短く呼気を整え、三つ目の剣の権能を解放した。緋想の剣・偽打。地獄にふさわしい、紅い雨が炎を消していく。辺り一面に血だまりが広がり、泥濘となって剣鬼の足場を奪う。剣鬼は自らの髪をむんずとひっつかみ、引き抜くや千の針の剣に変えて妖忌へと投げつけた。先ほどの意趣返しか。妖忌は偽打ちで針をはじき、九百九十九本までは地面に落としたが、残る一本を耳に受け、呪いにより片耳の聴力を失った。血の雨が降り、針山が辺り一面に広がる中で、剣鬼と妖忌は数千を数える剣戟を交わした。
どれだけの時間が経ったのだろうか。地獄においては、一瞬と永劫の区別は難しい。
ある時、剣鬼の臥龍剣が妖忌の手から偽打ちを弾き飛ばした。刀は高い弧を描いて、一里先の地獄の断崖へと落ちていった。後数千年程は拾うものも出てはこないだろう。
剣鬼は剣の手を止め、怒ったように声を張り上げる。
「さっさと抜け、最期の剣を」
「流石に手が震えるものでな」
「抜かせ」
最後の一刀。魂魄之太刀。白銀に輝く魅入られるように美しい刀。
妖忌が生涯のうちに切り捨てし幾万の命より奪った魂の欠片、幾万の屍より奪った魄の欠片が、乳白色の霊なる刀身となる一振り。本来柄と鍔しか持たなかった太刀は、人妖斬り千年の業を宿し、剣の神の現身となったのである。
其れを見て、剣鬼はしかし、呵々と笑った。
「遂に為したり。お主にその魂魄之太刀を遣わせることこそ、我が悲願」
その時、妖忌が振るった一撃がどのような軌跡を描いたか、それは誰にも分らぬ。
剣の神の宿す、かつて妖忌がこれまでに振るった幾万の必殺の太刀筋が、一度に華開いたというよりほかにない。
「見事だ。主の生涯の剣のうち、九つも俺の身に届きおったわ」
「裏を云えば、我が必殺の剣は幾万回も防がれたということ」
互いに互いを称賛する。此処に到りて、二人は友のように穏やかに笑いあった。
「いや、俺は九つの命を持っていた。一つ足りねば、結果は違っていただろう。魂魄妖忌の剣の道、確かに見せて頂いた」
妖忌は剣鬼の心の臓を貫いた傷に目を遣る。まるで蝶が羽を休めたようなその傷は、この旅の中の夢の間に一番弟子に見舞ったものと同じだった。
すると、剣を捨てると云いながらまたぞろ屍山血河を築いたこの旅もまた、剣の道に必然だったと言える。妖忌は、そのように考え、その考えに後ろ暗い喜びを覚えた。その顔を見て剣鬼は頷く。二人の鬼と鬼の間に、千年のうちに感じたことのない理解と安らぎが訪れた。
だが、裁定は下されなければならない。
「魂魄妖忌が勝ちましたか」
閻魔は、白を白と告げる、その簡明な物言いで、勝敗を決着させた。
剣鬼は、かつて彼が殺した者たちがみれば憎しみを更に募らせたであろう、悟りを得たかのような顔つきで、穏やかに死んだ。剣の鬼の肉が剣にて死んだ以上、その魂もまた死に、塵となる。尋常の輪廻に戻るには、その業は余りに深すぎた。
妖忌の手の内で、魂魄之太刀もまた崩れ落ち、桜吹雪とも見紛う無量の魂と魄の欠片を、地獄に吹く一陣の風が彼方へと流し去った。
「魂魄妖忌よ、良く成し遂げた」
四季映姫は彫像のような意味深い微笑でねぎらう。
「この旅の最期までに、全ての刀を捨てなければ、儂もまた剣の鬼となり、三千世界に争いを招くものとなると閻魔様は仰られた。 さて、この通り、刀は全て捨てた。ならば、我が身はもはや剣から自由となり、再び争いを招くことはない。儂は生きることを許されるのだな?」
「残念ながら、それは黒です」
妖忌は身体を強張らせるその答えを、しかし内腑の深いところで納得して聞いた。そうだ、そうでなければ、と。答えはもはや分かっていたことだ。
五、
「師匠っーーーーーー!!!」
地獄の天井から、懐かしい声が響く。顔を上げれば、そこには妖夢が幽々子を伴って、落ちるように空中を駆けおりてきたところだった。
「良かった!!! 生きていたんですね! あっ、いえ。師匠ほどともなれば、斬り合いで死んでしまうなんてあり得ないってわかっていましたけれど。でも、師匠は無理しすぎて平気で食事を抜いたりするから心配で心配で」
妖夢は妖忌に抱き着きながら、破顔一笑、幼い子どものように再会を嬉しがった。
対する妖忌は、ただ必要な用件を告げた。
「久しいな妖夢。息災そうで何よりだ。ところで、頼みがある。楼観剣と白桜剣を貸してはくれぬか」
「へ? いいですけど、でも師匠が一度譲った剣を貸してなんてめずらしーー」
「絶対にだめよ、妖夢」
幽々子の手が刀を渡そうとした妖夢の腕を制する。妖夢は驚いて、主の方を見た。いつもの浮雲の如き余裕は幽々子から失われ、ぞっとするような凄みのある目をしていた。
「よろしい。ならば、貴方達にも事実を告げましょう。魂魄妖忌、あなたはーーー。あなたは、人を斬り過ぎている。道に戻るには、既に手遅れであった。このままでは世にとって禍根となる。死ぬより他はなし」
閻魔の言葉に、妖夢は血相を変えた。
「そんなの絶対におかしい! 祖父はただ、斬るべきものを斬り、秩序を愛し、一心に西行寺家に尽くす、高潔な、正しく剣聖と呼ぶに相応しい剣士です。此度の出奔だって本当はーー」
閻魔は手鏡を取り出す。「浄玻璃の鏡」と呼ばれるもので、そのものの罪を映すことができる。
鏡が映す妖忌の傍らには、なぜだが半霊は漂っていない。そしてその手にはあり得ないはずの物が握られていた。
「刀」
「そう、刀。このものは、あまりに多くを斬りすぎた。その霊なる手にはまだ、凄まじき刀が握られている」
「それはおかしな話です、四季様。そのためだからこそ、妖忌は剣を捨てるために出奔し、遂にそれを成したのではないのですか」
幽々子が口を挟む。
「あなたは一番わかっているでしょう。 妖忌殿の魂は、剣戟と殺し合いの熱によって、とうの昔に刀の形に鋳られてしまっていたのです 」
「映姫様。後は自ら言いましょう。儂は最初から間違えていた。あらゆるものを斬る楼観剣、一切の迷いを断つ白桜剣。それは偽りであった。儂がその二刀で敢えて切ることをしなかったものがある。それは、己だ。どうあがいても、死と争いを招くことしかなくなったこの身であれば、真っ先に自分をその二刀で斬ってしかるべき。まず白桜剣で迷いを断ち、次に楼観剣で命を絶つ。そうできなかったことが即ち、儂が死ぬべき理由の全てだ」
「妖夢、もう一度頼む。刀を貸してくれ」
「絶対に、いや、です」
妖夢は叫ぶなり、距離を取るように後ろに大きく跳躍した。だが、空中で見えない壁のようなものにぶつかり、妖忌とは十歩も離れることができなかった。幽々子は、四季映姫に殺気めいた目を向けながら、扇を開く寸前で身体を石のように強張らせていた。
「ごめんなさい」
「閻魔が、謝るなど。恥を知りなさい」
幽々子は幽かな声を絞り出し、四季映姫を呪う。むろん、何の効果もない。
妖忌は片腕を袈裟切りに振るった。まるで剣を持っているかのように斬撃は妖夢へと延びる。妖夢は楼観剣の二薙ぎでそれを打ち消す。
いかに妖忌が剣聖といえど、無刀では、妖刀を持つ妖夢に大きく有利を取られている。また、妖忌には相手を傷つける意思はない。――そうした条件を踏まえてなお、双方の力の差は歴然としていた。
幽鬼剣、獄炎剣、修羅剣、天界剣、人智剣。妖夢が全霊を掛けて繰り出す魂魄流の奥義は、妖忌にしてみれば技ありて心なしと見える。妄執剣「修羅の血」などその最たるものであった。妄執というには余りに子供じみた我儘な剣裁き、修羅というには余りにも真っすぐに過ぎる太刀筋。妖忌は、妄執剣の軌跡に悉く修羅の如き気魄をぶつけ、全て僅かに剣先をそらす。
「妖夢、断迷剣を何故使わぬ」
妖夢は答えない。その眼に涙が滲む。妖忌は、妖夢の剣のうちに既にその心を見ていた。遣いたくとも、遣えぬのだ。断迷剣こそは、白桜剣の力を引き出して放つ、自他の迷いを断つ奥義。その剣は、斯様に動揺した心情で扱えるはずがない。未熟、と妖忌は断ずる。
数十回の剣戟が間にあったのは、妖夢の祖父を死なせたくない一心が彼岸此岸の力の差を僅かなりとも埋めたのか、妖忌を剣鬼との殺し合いの疲れが襲ったのか、それとも師が最も愛すべき弟子に最期の稽古を付けさせてやろうとしたからなのかは分からない。その時間は、二人にとって、一瞬のようにも永遠のようにも思えた。
やがて、妖忌は妖夢の手から二刀を奪い取った。
まずは一刀、白桜剣によって、自らの迷いを断つ。
次に楼観剣。もはや、迷いはない。
「潔しや、魂魄妖忌。最期の際までまさに一振りの刀のような人生でした」
四季映姫が詠じるように言った。
妖忌はしばし手を止め、白雪地獄の天井に晴れ間が差すのを見た。奇妙なことにあり得ぬはずの青空と陽光が覗く。妖忌は、それが主と孫が入ってきた境界の裂け目だと気づく。してみれば、あの青は冥界の空か。余程慌てて入ってきたと見え、綻びは空を覆うほどに大きい。
後ろから、引き留めるように柔らかく身体を抱くものが居た。生きているかのように温かな主の手に、妖忌は慈しむように片手を重ねた。
「ばか……おじいちゃん死んじゃったらやだよぉ……」
すぐ足元で、孫が身体を苦しそうに折り曲げたまま、ぐすぐす泣いていた。
一切が、無駄だ。死を操るものが、死ぬなとこの世に引き留める。魂魄流の後継者が、刀を捨て己を捨てる剣の極地をその眼で見てなお、それを肉親が死ぬ悲劇としてしか見ることができない。それに比べて、己の選択のなんと潔いことか。
ここで死ぬことこそが、自らの一振りの剣であると定義し、命を賭して西行寺家に仕え、あまたの敵を斬り捨て、主と孫の見せる温かなやり取りを内心微笑ましく見ながら、剣である自分は彼女たちの作る新しい世界にとって不要なものであるとみて遂に自らを捨てるに至った人生そのもの。つまりそれは――。
「我が生は、最期の際まで剣そのものであった」
妖忌は、はじめて気づいたとでもいうかのように、驚くような顔をした。
「それでは、剣を捨てたことにはならぬ」
妖忌は、愕然として、手から力が抜けていくのを感じた。二つの刃ががしゃりと地面を打つ音が聞こえた。
しばらく、誰も時が止まったように動かなかった。
やがて、妖忌はゆっくりと妖夢を抱き起こした。孫の背負う楼観剣の鞘を改めてまじまじと見る。鞘の先に魔法の紐で結わえ付けられた、一輪の可憐な花。 妖夢の優しい心遣いであろう。剣の道には無駄と見えるそれを、己が無意識に散らさぬように戦っていたと悟ると、妖忌は嗚呼、と嘆息した。綺麗でしょ、と嬉しそうな調子で傍らの幽々子がささやく。
四季映姫は、そこで初めて、その子供のような顔に似合う、裏表のない笑顔を見せた。
「それで、やっと白です」
六、
冥界は桜が咲き始め、華やぐ季節を迎えていた。
「あの場で自刃したとして、その魂は地獄で剣鬼と成り果て、神々によって滅せられる運命だったやもしれません。刀を捨てるというのであれば、自らを道具のように捨てるなどという行為がいかに殺伐としていて、主やお孫さんを悲しませるか、一度でも考えてみるべきだったでしょう。それに想い至らないことが、あなたを刀であると私が断じた理由だったのです。なのに、ぎりぎりまで気がつかないんですから」
「妖忌。もしあなたがあそこで死んでいたら、妖夢は自分が未熟なせいで祖父を殺してしまったと一生悔やんだでしょう。その先は修羅。千年後の剣鬼は間違いなく妖夢だったでしょうね。もしそうなったら、あなたの魂を私は未来永劫いびり尽くしてやるところだったわ」
「おじいちゃん、しばらく抱き着いてやりません。反省してください」
三者三様の説教を聞かされながら、妖忌は白玉楼にぐずぐずと逗留していた。
本来であれば、すぐにでもまた旅へと出立するつもりであった。剣を捨てる境地が、己を捨てるなどという安易な道でないことを悟った今、妖忌が剣鬼となることはもう数百年はあるまい。
しかし、悟りを開くほどの答えを得たわけでもなく、己の中に燻ぶる争いの火と折り合いをつける道を探さねばならない。
そう啖呵を切り、颯爽と腰を上げた瞬間、恐ろしい激痛が身体に走り、しばらく安静にせざるを得なくなったのである。
「まあ良い」と妖忌は独り言ちた。
しばらく会わなかった孫や主が楽し気に語る、博麗の巫女が霊夢という少女になってから幻想郷と冥界の境界が綻んだままとなっているという話には、興味深いものがあった。かつて、争いの多かった時代、冥界と顕界の境界は絶対に開いたままにしてはならないものだった。今は、妖忌が白玉楼に居た頃よりも、大らかな時代なのだろう。当分ゆっくりと静養しながら、新しい時代の話を聞くことも、きっと己の剣の旅にとって無駄なことではないはずだ。
今ではそう思えるのだった。
偉大な剣豪の最後の旅に同行したような満足感がありました
素晴らしい没入感でした
妖忌「なんだぁ…? てめェ…」
妖忌、キレた!
堪能いたしました。お美事にござりまする
一気呵成に畳み掛けられ、勢いのままに読み切ってしまいました。
限界まで圧縮したであろう文章の中に確かな物語があり、落ちも含めて秀逸です。
ハッピーエンドなのが嬉しかったです。