目の前に落ち込んでいる奴がいると、一つの屋根の下につき一つしかない、あの貴重な席を取られたなと思う。どれだけ惨めな椅子を巡っても競争があるものだ。
「もう一杯飲みなよ」と私は言う。言葉が相手の耳に届く前から、相手の青ざめた指が盃に触れる前から私はすでに後悔している。確かにそれは、もう充分に飲んでいる相手に、しかも酒だけでなく重力にも酔っている相手に対してかける最良の言葉ではなかったかもしれない。
でも、私だってその頃にはもうずいぶん酔っていたのだし、そもそもが私の状況と彼女の状況の間に差なんて何一つないのだ。まだ倒れていないからといって傷ついていないわけじゃない。倒れていないことで何か自分が鈍感であるかのように感じさせられるのにはうんざりだった。あるいはその後ろめたさに周りを見回すようなことにも。
それについては、もちろん落ち込んでいる者が悪いわけではない。そんなことはよく知っている。けれどその一方で、私のこんな気持ちをわからない人はほとんどいないんじゃないかとも思う。つまり、それぞれの屋根の下でもっとも弱い者以外には。
私のそうした暗い考えをもちろん察しとってはいなかっただろう、清蘭は私の言葉に素直に頷いて自分の盃を差し出した。私はそれを満たしてやる。彼女を酔わせはしても、決して彼女の心を満たすことのない透明な液体で。私はそのことについて考えようとする。それはアリバイ作りのようなもので、もちろん考え尽くすだけの勇気はない。代わりに私はその液体が彼女の口に吸い込まれていくのを見守っていた。その光景は刃物の傷口のように痛ましい。いっそう悲惨なのは、私がそこに塩を塗り込んでいるも同然だということだけれど。
「ねえ」と傷口が声を発した。清蘭の口は半分開いたその形のままで固まった。しばらくすると、端から一滴が垂れた。
「なに」
「忘れた」と彼女は言った。それから少し目を細めて笑った。
清蘭はここのところずっと塞いでいた。重力、見知らぬ街、異邦人であること。どれもがその原因であるだろうが、それだけですべてが説明できるわけでもない。どこで生きていても悩みはあるものだし、私と同じく地上に残ることを決めたのは彼女だ。私が誘ったわけじゃない。
長屋の隣り合った部屋に私たちは住んでいた。古くて狭く、黄ばんだ畳はすっかり乾ききって隅の方がやや剥げていたが、ともあれ暮らしていくことはできた。少なくとも眠りたいときに邪魔されず安らかに眠ることができた。それはこの郷の誰かのはからいであるようだった。それこそが求めたものであったのだし、また私たちに人質としての価値がないことも確かだったのだが、それでもその平穏さは、微かに私を落ち着かない気持ちにさせた。負けて帰らずにいて、その上で何の咎めもないということは。それから私は自分にかかる強い重力をいましめだと考えようとしてみた。それはなかなか良いところを突いていた。
清蘭もある程度同じことを考えていたのだと思う。彼女は落ち込んでいる状態が今の自分に相応しいと思ったのだ。最初のうち彼女は一種のポーズとしてそうしていた。それはもちろん長くは続かなかった。すぐに精神は行動に従った。彼女は本当に落ち込み始めた。私の部屋に来て月を見ながらぼろぼろと泣いたし、夜の里に私を伴って出て金もないのに酒を飲んだ。
自分の部屋から彼女を閉め出すほど、堕落に付き合わないほど、私は彼女に対して冷淡ではなかったが、かといってこうした分析をさし控えるほど親しく考えることもできなかった。つまりそれは結局のところ、彼女は彼女であって、私ではないということだ。
私たちは月の夜の通りを歩いていた。夜の地上の里は、空に当の月が浮かんでいるということを除けば月の街とそれほど変わらないように思えた。飲食店ももうそろそろ暖簾を仕舞っている。空からの青ざめた光だけに淡く照らされた暗い街が、通りの向こうまで地上に吸いつくようにして続いていた。
今夜の清蘭の足取りはわりあいしっかりとしている。私がうまく後悔したからだ。
「あのときの巫女の目といったらね。覚えてる?」と清蘭は訊いた。
「うん」
「自分が死ぬかもしれないなんて全然これっぽっちも思ってないんだよ。そんなことってある? 普通の人間なのにね」
「普通じゃないんじゃない」
「普通じゃないっていう点で普通じゃないよね」
清蘭は私の返答に満足して頷き、危なっかしく揺れながら身振り手振りをつけて巫女との勝負を演じ始めた。
それは一回の出来事であったのに、同時に無数に繰り返されたことのようにも思えてきた。それは恐らく私たちが何度も何度もその話をしたからだ。
あの戦いをきっかけにして、私たちは軍を抜け、地上に留まった。月に帰る予定も方法もない。そういう、逆行することのできない種類の大きな決断をしたのは初めてのことだった。
もちろん、それは別になにか常軌を逸した、衝動的な類のものではなかった。軍にいるというだけでいつでも危険が伴うし、その上私たちのような下っ端の命がいかに軽んじられているのかということは今回の作戦でもよくわかった。地上にも見知った兎は住んでいたし、飢えているような土地でもない。軍に残るより安全に暮らせるのではないかという考えがあった。私は故郷と平穏とを天秤にかけたのだ。寂寥と未知とを比べたのだ。
その読みは確かに今のところ間違ってはいなかった。今の暮らしはそのときの私が望んだものとそう変わりはない。私たちの暮らしは、常に綱を渡るような、一瞬の判断を誤れば命を落とすようなものではなくなった。また、兵士たちの中には、戦闘の季節が過ぎて街に戻っても、もう二度と元の日々に順応することができないという種類の病み方を、自分で気づかないうちにしてしまう者たちもいるのだが、幸いにして私はそういう性質でなかった。もう一度選択肢が目の前に現れても、私は同じ方を取るだろう。
ただ、決断というのはもっと高らかな、あるいは明白なものだとは思っていた。好むと好まざるとにかかわらず、私はすでに長く銃火器のあいだで暮らしすぎたのかもしれない。私たちが折に触れて巫女との戦闘に立ち返るのも無理はなかった。その出来事以上に今の私たちの生活を華やかに規定しているものは何一つなかったからだ。
いや、そういう言い方もまた自分の心持ちを美化しているような気がする。つまり私は自分が実際に下した選択の瞬間、月が、一つの衛星が自分の人生から静かに、しかし決定的に離れていったということをまだそれほどうまく飲みこめていないのだ。静かな実際の選択の瞬間よりも、その活劇こそを私たちにとっての分岐点として考えた方が、今の私たちにとっては断然座りが良かった。
そして、そのことについて話し合える相手を私たちは互いに互いしか持ちあわせていなかった。
「あいつの針がこっちからこうやって来てね」と清蘭は言う。彼女は土の上で背を反らせながら跳ねた。「私はこう避けた」
「うん」と私は言った。私が頷くのを見て、彼女は次の動作の解説に移った。
「そしたらあいつの札が横から飛んでくるのよ。私は杵を突き出してそれを防いだ」
私はまた頷いた。最初に私にその戦いを説明したときには、彼女は札が思いもしない方向から襲ってきたことに驚き、一旦飛び退いて逃げたという話だったのだ。今では彼女の記憶の中の彼女は、それが初めに語られたときに比べていささか勇ましくなっていた。しかし、そうした差異はもちろん本質的なものではなかった。彼女は自分を偽っているつもりなんて微塵もないだろう。
それは私たちにとっての神話だった。私たちがどうやってこの地に降り立ったのか、その端緒を示す挿話だった。その記憶を持ってこれからの異郷での生活、恐らくは平穏無事な生活を送る上での、燃え尽きぬ懐炉になるはずのものだった。それは何度も語られるうちに、もっと言えば語られるために語られるうちに、川下に流れ着いた石のように角を削られていく話、唇をもっとも滑らかに震わせる形へとその姿を変えていく話なのだ。
月に照らされた通りの真ん中で、彼女は月の軍人として戦ったときの話をしていた。彼女はそれがついさっき起こったことのようにその立ち回りを演じてみせた。そして実際にそれはさほど昔の話ではないのだが、それにもかかわらず、その瞬間とのあいだに、その状況とのあいだに、今や自分たちがどれほどの距離を隔ててしまったのかということを考えると、私はただただ愕然とした。
私はいつしか相槌を打つのをやめてぼうっと月を見上げていた。少し経つと、清蘭は私の視線の移ろいに気づいてその形態模写をやめた。私が目を地上に戻すと、彼女の両目からはすでに涙が零れていた。
私たちはそうして夜によく出歩いていた。人気のない道を歩きながら、故郷の通りのちょっとした一角を思い起こすような場所を見つけるのが私は好きだった。そうしたところを見つければ、気持ちを少し楽にすることもできそうだと思った。つまり、住むところなんてどこだって変わらないのだ、という風に。
実際のところ、昼に歩いても私たちは街でそれほど目立ちはしなかった。私たちは人目を避けるために夜を歩くわけではなかった。兎が二匹で歩いていても、物珍しさに声をかけてくる者はいなかった。街から見れば、住人なんて誰だって変わらない。あるのは足跡の、その一歩の重みの微かな差異だけだ。
しかし、私たちの方から見てみれば、昼の街は見慣れぬ光の洪水なのだ。この街に親しむためには、私は夜の街の記憶を持ってそこに臨むべきだった。それは別のもののように見えて、当然同じものの別の側面なのだ。月の街の記憶を持った私は夜の街に少しばかりの親しみを持ち、夜の街の記憶を持った私は昼の街にも次第に親しみを持つ。そうやって、縄ばしごを渡すようにして街と知り合っていくべきなのだ。私にはそれが結局はできるだろう。昼の光がどれだけ眩く私の両目を射貫いても、一滴の涙も流すことなく、私にはそれができるだろう。
私は自分の部屋で目覚め、私の部屋で眠りこけている清蘭を発見した。黄ばんだ畳に彼女の青い髪が垂れていた。私は壁に背を、窓枠に後頭部を預けて、しばらくぼんやりと彼女の寝顔を見ていた。部屋の中には窓から私の首筋をかすめて陽が差し込んでいた。もう恐らくは午を過ぎていた。私は窓の障子を閉めて帽子を被り、独りで外に出た。
勢い込んで出てみるまでもなく、昼の街には昨晩の残り香が幾つも漂っていた。私は同じ足取りで道を歩いた。私の小さな一歩一歩が六倍の重力で街を踏んだ。コスモスが同じ場所で花弁を風にそよがせていた。私たちが昨夜飲んだ店は昼に定食を出していた。何の疑いもなく昼と夜は繋がっていた。
私は街を人の流れに沿って歩いてみた。早すぎも遅すぎもしない、まっとうなスピードで。前を歩く人間のうなじが見えていた。それは私が歩くのと同じテンポで上下に揺れた。
人々の流れは里の中心部へと向かっているようだった。目的を持たず、大勢の移動の傾向に身を任せていると、私はなんだか自分が大きな群の一部であるように感じた。思い返してみても、月の軍にいた頃はそういう風に感じたことがなかった。そこでは兎たちはそれぞれがもっとばらばらに、思うまま動いていたのだ。一つのソリッドな目的を持たない、こうした曖昧な集団内でむしろそういう感じを受けるというのはずいぶん奇妙なことであるように思えた。
昼の光の中で、人々の顔は明るく照らし出されていた。表情の隅々までがくっきりと輪郭を持っていた。今の私にはその様子はいささか高圧的に見えた。そういう感じ方はねじ曲がっているだろうか? 私にはそうは思えなかった。表が明るいことよりも、人々の表情がくっきりとしすぎていることの方が私には眩しく感じられたのだ。
すれ違う人々の顔の中に、見覚えのあるものを私は見つけた。相手も同時に私を見つけた。相手は一瞬驚いて目を見開いたが、私の方に近づいてきた。私たちは通りの真ん中で、双方向への流れのあいだに立った。人々は私たちの横を行き過ぎるときやや怪訝な顔をしたが、何も言わずに少しずつ脇に逸れた。
薬箱を背負い笠を被った、その紫の髪の女は周りのそういった様子を見て、私の袖を引いた。
「通りの邪魔をしてるよ」と彼女は言った。私は頷いて従った。
軒の下まで移動すると、鈴仙は薬箱を降ろし、笠を脱いだ。彼女は息をついて腰を壁につけた。そこで体重を支えて両足を斜め前に出した。それでもまだ彼女の方が私よりも背が高かった。彼女は私の顔を見た。彼女が私に対してそうした意味で気を遣ったわけもなく、それはただの偶然だったが、彼女の表情は軒下の陰の中にあった。
「ちゃんと暮らしている?」と彼女は訊いた。
「まあね」
「びっくりしたよ、あんたたちが郷に残るだなんてね」
「そう?」
「組織の中でうまくやってるように見えたからね、あんたは」
それについては私は何も言わなかった。「清蘭は?」と代わりに訊いた。
「あんたが誘ったんじゃないの?」
「まさか」
「ふうん」と鈴仙は唸った。本当に驚いたみたいだった。私は肩を竦めた。
私たちは家屋の壁を背にしてしばらく黙って通りを眺めていた。鈴仙は瓢箪を取り出して水を一口飲んだ。それから何度か迷った様子を見せて、でも結局口を開いた。
「あのさ……あんたたち永遠亭にツケにして飲んでるでしょう」
「ごめんなさい」
私が素直に謝ったので彼女は少し面食らったように見えた。
「姫様は全然気にしてないけど、そういうのって最終的にあんたらの首を絞めるんだよ」
「そうだと思う」
「別にそんなに暮らしに困ってるわけでもないでしょう? 今日見るまではどうかなと思ってたけど……」
「うん」
「まあ良いよ、少々のことはさ。頼ってくれたって良いのよ。お金のことでもね。結局私とあんたたちとで何が違うってわけでもないし。でもちゃんと一度挨拶に来なさいよ」
「わかった」
相手の思いもかけない従順さを前にして、むしろ心もとないような、逆転した罪悪感のようなものの影を顔の隅に走らせた鈴仙は「じゃ、私まだ仕事あるから。また今度ね」と言い残して去っていった。彼女が日向に出ていき、通りを渡っていくのを私は見送った。私はそこからしばらく動くことができなかった。一時間ほどが経って、家人が訝しげな顔で出てくるまで私はずっとその軒の下にいた。
部屋に帰ったのはもう夕暮れ時だった。私の寝間は上げられていた。清蘭は留守にしているようだった。私は何やら少しほっとしたような気持ちになったが、一人で何かやることがあるわけでもなかった。私は障子を開け放って茜色の空を眺めていた。
清蘭が帰ってきたのは日が沈み切ってからだった。彼女は明るく私の部屋の戸を開け放った。その落差のせいで、私がぼうっとした目を上げるまで幾らかの間が生まれた。彼女は小麦粉の入った袋を持っていた。
「どうしたの」と私は訊いた。彼女は靴を脱いで畳に膝で上がってきた。
「大家さんにもらったのよ」と清蘭は明るい声で言った。「二人で団子屋さんをやらない? 私たちもそろそろ自分でお金を作らないとね」
「そうだね」と私はどうにか言った。胃の底に何か冷たいものが降りるのを感じていた。その加速度でどこかに引きずり込まれないようにするので精いっぱいだった。「悪いけど、ちょっと出てくる」
「私も行く」
「ついて来ないでよ」と私は言った。自分でもびっくりするほど冷淡な声が口から出た。清蘭はぴくりと動きを止めた。「独りにしてくれない?」
私は彼女の顔を見ずに彼女の横をすり抜けた。彼女が息を呑み、喉が鳴る音だけが聞こえた。私は息を止めて振り返らずに部屋を出た。そうせずにはいられなかったのだ。
私は外に出て、夜の通りを逃げるようにして歩き始めた。冷えた夜気は肺を満たした。清水のような空気を私は何度も吸ったり吐いたりしたが、気持ちは一向に収まらなかった。私はやや過呼吸のようになっていた。頭は怒りに湧いていて、そのせいで視界がちかちかと揺れた。その怒りが清蘭の主観からしてみれば些か理不尽であることは沸騰した頭でも理解していたけれど、私が彼女の精神について、今まで言葉には表されなかったずいぶん多くを察してきたその累積と比べれば、断然彼女の無神経さの方が責められるべきだと私は思った。私だって怒ることくらいある。私にだって我慢できないことくらいある。私にだって……。
ずいぶん腹が減っていた。ちょうど飯時で、通りは湯気と灯りで満たされていた。馴染みになりつつある店も幾つかあったけれど、私はどこにも入ろうと思えなかった。持ち合わせはあったのだが、それでも笠と薬箱がどうにも頭をちらついた。私は道を街の中心とは逆側にどんどん歩いていった。
やがて私は里の外れにまで来てしまった。門には誰もいなかった。私は里を出た。外には幾分整備の緩い道が延びていて、両脇には耕地でない草むらが続いていた。草は風になびき、月光が涼しく照らしていた。光は道の微かな凹凸、石の割れた具合を濾過して私の目に見えるように映し出していた。道端の大きな岩に腰かけてそういう様子を私は見た。ようやく呼吸が少し落ち着いてきた。
私は立ち上がってしばらくそのまま歩いていった。たくさんの虫が鳴いていた。私は耳を澄ませた。どうやら聞こえてくるのは虫の声だけではないようだった。草むらの奥に一つだけぽつんと屋台が出ていた。声はそこから聞こえてくる。
「いらっしゃい」と声が聞こえた。
暖簾を潜った私はその明るさと温かさにしばらくぼんやりとしていた。
「早く入りなよ。お客さん初めてでしょう?」
急かされて私は席に着いた。思った通りというか、当たり前だけれど、店主は人間ではなかった。彼女の割烹着の背中からは羽根が生えていた。
「兎さんね。永遠亭の?」
「いや……」
「他所にもいるんだね。知らなかった。初めての人にはサービスするからね。屋台ごと食べたりしなければ……」と言って女将は奥の方の席を一瞥した。
「いや、そんなことしたことないじゃん」と先客は言った。彼女は私よりも明るい金の髪をしていて、それが黒い服によく映えた。客は彼女一人だけだった。
私は屋台で麦焼酎の水割りを飲んでヤツメウナギの蒲焼きを食べた。奇妙な料理だったが、確かに美味かった。食べながら、二人に尋ねられるままに身の上話をした。酒のせいで知らず口の滑りが良くなっていたけれど、そもそもは地上を攻撃しにやってきたことを隠すだけの知能はまだ働いていた。もう一人の兎と隣り合って暮らしていることを私は話した。自分で選んだことなのにお互いに一種のホームシックにかかっていることを、私は相手ほどそれをうまく発散することができないということを私は話した。それで自分ばかりが我慢しているような気がしていることを私は話した。そのくせ彼女が一人で先に立ち直りかけているということを。そのことにショックを受けているけれど、結局は何もかも自分が正直に話していない、相手に向き合っていないことの表れでしかないようにも感じるということを私は話した。初対面の相手にこんな風に話しているというのに。それは奇妙なことだった。女将は他人の話を聞くのが半分仕事のようなものなのだろうけれど、客の女に対しても気取りなく話してしまうのはなぜだろうと私は不思議に思った。それはアルコールだけが原因だとは思えなかった。
そして、口に出して話してみると、それはまるで他人の人生のことのように思えた。それにあまりにも馬鹿げているようにも。私は恥じ入って一旦口を閉じ、今度は私の方から少し尋ねた。客の妖怪はルーミアという名前だそうだった。それ以外のことはほとんど何もわからなかった。
食後に女将は皿に山盛りで団子を出した。「今夜は十五夜だものね」と彼女は言った。私は彼女に言われてそのことに初めて気づいた。これほど月のことを考え、月の話をしていたというのに。私はもう本当に情けない思いでいっぱいだった。私とルーミアは団子をたくさん食べた。甘い団子は酒にはまったく合わなかったけれど、私たちは気にしなかった。私も彼女ももうずいぶん飲んでいた。
「ねえ」とルーミアはふと思いついたように言った。彼女の目はとろんとしていて、顔は火照っていた。「ここに来てまだ日が浅いんでしょう? 妖怪たちはみんな弾幕ごっこをするんだよ。手合わせしようよ」
「やめた方が良いよ」と私は何とか言った。猛烈に眠かった。「私今強くなってるから……」
「何それ。挑発してるの? 結構やる気だね」
「そうじゃなくてさあ……」
「何でも良いけどここじゃなくて向こうでやってよね」と女将は訴えるように言った。
ルーミアに肩の下から手を回されて、私は抱き起こされるようにして立ち上がった。立ち上がるときに椅子が後ろに倒れた。私たちはよろけながら何歩か歩いた。それも長くは続かなかった。私たちは互いの足に躓いて転んだ。私は仰向けになった。身体に衝撃はなかった。草が柔らかく身体を包んだ。真上に満月が見えていた。私は動けなかった。目から涙が零れるのを感じていた。
「あ、ごめん、ごめんね。痛かった?」
ルーミアは身体を起こして私の上に屈みこんでいた。彼女は指で私の額を触った。本当に心配そうな顔で、彼女の酔いは一瞬で半分くらい醒めてしまったようだった。私は仰向けになったままで首を横に振った。うまく喋れなかったのだ。彼女が遊びとはいえ、ある種の決闘をしようと言っておきながら、次の瞬間に私が身体を打ったのではないかと心配する、その矛盾はほとんど分裂していると言っても良かったけれど、不思議と私は違和感を覚えなかった。
「月の裏に帰りたい?」とルーミアは訊いた。彼女は私の視線に気づいていた。私が何を見ているのかということに。私はまた首を横に振った。彼女は頷いた。次の瞬間視界が真っ暗になった。私はびっくりした。
「慌てないで。これは私の能力だから」と彼女は言った。確かに彼女の指はまだ私の額に触れていた。「しばらくこうしててあげるよ。よく知らない奴に泣いてるところなんか見られたくないでしょう?」
私は首を動かした。暗闇の中にいたけれど、ルーミアは私の額に触れていたので私がどちらの方向に首を振ったのかを知ることができた。彼女は少し笑った。
暗闇の中は居心地が良かった。まったく、一瞬のあいだにびっくりするほど私は落ち着いていた。どうしてこの女にはそんなことができるのだろう。私にはわからなかった。しかしそれを解き明かそうとも私はまったく思わなかった。暗闇は中が見えないから暗闇なのだということは私にもわかっていた。
「ねえ、なんにでも慣れちゃうもんだよ」とルーミアは言った。「だけど、それが嫌なんでしょう?」
私は黙って頷いた。それ以上彼女は喋らなかった。私も何も言わなかった。喋らなくても、月明かりに照らされなくても、そのときの私たちはお互いが考えていることがよくわかった。暗闇の中に涙の最後の一滴が溶けていくまで私たちはそうしていた。
「もう一杯飲みなよ」と私は言う。言葉が相手の耳に届く前から、相手の青ざめた指が盃に触れる前から私はすでに後悔している。確かにそれは、もう充分に飲んでいる相手に、しかも酒だけでなく重力にも酔っている相手に対してかける最良の言葉ではなかったかもしれない。
でも、私だってその頃にはもうずいぶん酔っていたのだし、そもそもが私の状況と彼女の状況の間に差なんて何一つないのだ。まだ倒れていないからといって傷ついていないわけじゃない。倒れていないことで何か自分が鈍感であるかのように感じさせられるのにはうんざりだった。あるいはその後ろめたさに周りを見回すようなことにも。
それについては、もちろん落ち込んでいる者が悪いわけではない。そんなことはよく知っている。けれどその一方で、私のこんな気持ちをわからない人はほとんどいないんじゃないかとも思う。つまり、それぞれの屋根の下でもっとも弱い者以外には。
私のそうした暗い考えをもちろん察しとってはいなかっただろう、清蘭は私の言葉に素直に頷いて自分の盃を差し出した。私はそれを満たしてやる。彼女を酔わせはしても、決して彼女の心を満たすことのない透明な液体で。私はそのことについて考えようとする。それはアリバイ作りのようなもので、もちろん考え尽くすだけの勇気はない。代わりに私はその液体が彼女の口に吸い込まれていくのを見守っていた。その光景は刃物の傷口のように痛ましい。いっそう悲惨なのは、私がそこに塩を塗り込んでいるも同然だということだけれど。
「ねえ」と傷口が声を発した。清蘭の口は半分開いたその形のままで固まった。しばらくすると、端から一滴が垂れた。
「なに」
「忘れた」と彼女は言った。それから少し目を細めて笑った。
清蘭はここのところずっと塞いでいた。重力、見知らぬ街、異邦人であること。どれもがその原因であるだろうが、それだけですべてが説明できるわけでもない。どこで生きていても悩みはあるものだし、私と同じく地上に残ることを決めたのは彼女だ。私が誘ったわけじゃない。
長屋の隣り合った部屋に私たちは住んでいた。古くて狭く、黄ばんだ畳はすっかり乾ききって隅の方がやや剥げていたが、ともあれ暮らしていくことはできた。少なくとも眠りたいときに邪魔されず安らかに眠ることができた。それはこの郷の誰かのはからいであるようだった。それこそが求めたものであったのだし、また私たちに人質としての価値がないことも確かだったのだが、それでもその平穏さは、微かに私を落ち着かない気持ちにさせた。負けて帰らずにいて、その上で何の咎めもないということは。それから私は自分にかかる強い重力をいましめだと考えようとしてみた。それはなかなか良いところを突いていた。
清蘭もある程度同じことを考えていたのだと思う。彼女は落ち込んでいる状態が今の自分に相応しいと思ったのだ。最初のうち彼女は一種のポーズとしてそうしていた。それはもちろん長くは続かなかった。すぐに精神は行動に従った。彼女は本当に落ち込み始めた。私の部屋に来て月を見ながらぼろぼろと泣いたし、夜の里に私を伴って出て金もないのに酒を飲んだ。
自分の部屋から彼女を閉め出すほど、堕落に付き合わないほど、私は彼女に対して冷淡ではなかったが、かといってこうした分析をさし控えるほど親しく考えることもできなかった。つまりそれは結局のところ、彼女は彼女であって、私ではないということだ。
私たちは月の夜の通りを歩いていた。夜の地上の里は、空に当の月が浮かんでいるということを除けば月の街とそれほど変わらないように思えた。飲食店ももうそろそろ暖簾を仕舞っている。空からの青ざめた光だけに淡く照らされた暗い街が、通りの向こうまで地上に吸いつくようにして続いていた。
今夜の清蘭の足取りはわりあいしっかりとしている。私がうまく後悔したからだ。
「あのときの巫女の目といったらね。覚えてる?」と清蘭は訊いた。
「うん」
「自分が死ぬかもしれないなんて全然これっぽっちも思ってないんだよ。そんなことってある? 普通の人間なのにね」
「普通じゃないんじゃない」
「普通じゃないっていう点で普通じゃないよね」
清蘭は私の返答に満足して頷き、危なっかしく揺れながら身振り手振りをつけて巫女との勝負を演じ始めた。
それは一回の出来事であったのに、同時に無数に繰り返されたことのようにも思えてきた。それは恐らく私たちが何度も何度もその話をしたからだ。
あの戦いをきっかけにして、私たちは軍を抜け、地上に留まった。月に帰る予定も方法もない。そういう、逆行することのできない種類の大きな決断をしたのは初めてのことだった。
もちろん、それは別になにか常軌を逸した、衝動的な類のものではなかった。軍にいるというだけでいつでも危険が伴うし、その上私たちのような下っ端の命がいかに軽んじられているのかということは今回の作戦でもよくわかった。地上にも見知った兎は住んでいたし、飢えているような土地でもない。軍に残るより安全に暮らせるのではないかという考えがあった。私は故郷と平穏とを天秤にかけたのだ。寂寥と未知とを比べたのだ。
その読みは確かに今のところ間違ってはいなかった。今の暮らしはそのときの私が望んだものとそう変わりはない。私たちの暮らしは、常に綱を渡るような、一瞬の判断を誤れば命を落とすようなものではなくなった。また、兵士たちの中には、戦闘の季節が過ぎて街に戻っても、もう二度と元の日々に順応することができないという種類の病み方を、自分で気づかないうちにしてしまう者たちもいるのだが、幸いにして私はそういう性質でなかった。もう一度選択肢が目の前に現れても、私は同じ方を取るだろう。
ただ、決断というのはもっと高らかな、あるいは明白なものだとは思っていた。好むと好まざるとにかかわらず、私はすでに長く銃火器のあいだで暮らしすぎたのかもしれない。私たちが折に触れて巫女との戦闘に立ち返るのも無理はなかった。その出来事以上に今の私たちの生活を華やかに規定しているものは何一つなかったからだ。
いや、そういう言い方もまた自分の心持ちを美化しているような気がする。つまり私は自分が実際に下した選択の瞬間、月が、一つの衛星が自分の人生から静かに、しかし決定的に離れていったということをまだそれほどうまく飲みこめていないのだ。静かな実際の選択の瞬間よりも、その活劇こそを私たちにとっての分岐点として考えた方が、今の私たちにとっては断然座りが良かった。
そして、そのことについて話し合える相手を私たちは互いに互いしか持ちあわせていなかった。
「あいつの針がこっちからこうやって来てね」と清蘭は言う。彼女は土の上で背を反らせながら跳ねた。「私はこう避けた」
「うん」と私は言った。私が頷くのを見て、彼女は次の動作の解説に移った。
「そしたらあいつの札が横から飛んでくるのよ。私は杵を突き出してそれを防いだ」
私はまた頷いた。最初に私にその戦いを説明したときには、彼女は札が思いもしない方向から襲ってきたことに驚き、一旦飛び退いて逃げたという話だったのだ。今では彼女の記憶の中の彼女は、それが初めに語られたときに比べていささか勇ましくなっていた。しかし、そうした差異はもちろん本質的なものではなかった。彼女は自分を偽っているつもりなんて微塵もないだろう。
それは私たちにとっての神話だった。私たちがどうやってこの地に降り立ったのか、その端緒を示す挿話だった。その記憶を持ってこれからの異郷での生活、恐らくは平穏無事な生活を送る上での、燃え尽きぬ懐炉になるはずのものだった。それは何度も語られるうちに、もっと言えば語られるために語られるうちに、川下に流れ着いた石のように角を削られていく話、唇をもっとも滑らかに震わせる形へとその姿を変えていく話なのだ。
月に照らされた通りの真ん中で、彼女は月の軍人として戦ったときの話をしていた。彼女はそれがついさっき起こったことのようにその立ち回りを演じてみせた。そして実際にそれはさほど昔の話ではないのだが、それにもかかわらず、その瞬間とのあいだに、その状況とのあいだに、今や自分たちがどれほどの距離を隔ててしまったのかということを考えると、私はただただ愕然とした。
私はいつしか相槌を打つのをやめてぼうっと月を見上げていた。少し経つと、清蘭は私の視線の移ろいに気づいてその形態模写をやめた。私が目を地上に戻すと、彼女の両目からはすでに涙が零れていた。
私たちはそうして夜によく出歩いていた。人気のない道を歩きながら、故郷の通りのちょっとした一角を思い起こすような場所を見つけるのが私は好きだった。そうしたところを見つければ、気持ちを少し楽にすることもできそうだと思った。つまり、住むところなんてどこだって変わらないのだ、という風に。
実際のところ、昼に歩いても私たちは街でそれほど目立ちはしなかった。私たちは人目を避けるために夜を歩くわけではなかった。兎が二匹で歩いていても、物珍しさに声をかけてくる者はいなかった。街から見れば、住人なんて誰だって変わらない。あるのは足跡の、その一歩の重みの微かな差異だけだ。
しかし、私たちの方から見てみれば、昼の街は見慣れぬ光の洪水なのだ。この街に親しむためには、私は夜の街の記憶を持ってそこに臨むべきだった。それは別のもののように見えて、当然同じものの別の側面なのだ。月の街の記憶を持った私は夜の街に少しばかりの親しみを持ち、夜の街の記憶を持った私は昼の街にも次第に親しみを持つ。そうやって、縄ばしごを渡すようにして街と知り合っていくべきなのだ。私にはそれが結局はできるだろう。昼の光がどれだけ眩く私の両目を射貫いても、一滴の涙も流すことなく、私にはそれができるだろう。
私は自分の部屋で目覚め、私の部屋で眠りこけている清蘭を発見した。黄ばんだ畳に彼女の青い髪が垂れていた。私は壁に背を、窓枠に後頭部を預けて、しばらくぼんやりと彼女の寝顔を見ていた。部屋の中には窓から私の首筋をかすめて陽が差し込んでいた。もう恐らくは午を過ぎていた。私は窓の障子を閉めて帽子を被り、独りで外に出た。
勢い込んで出てみるまでもなく、昼の街には昨晩の残り香が幾つも漂っていた。私は同じ足取りで道を歩いた。私の小さな一歩一歩が六倍の重力で街を踏んだ。コスモスが同じ場所で花弁を風にそよがせていた。私たちが昨夜飲んだ店は昼に定食を出していた。何の疑いもなく昼と夜は繋がっていた。
私は街を人の流れに沿って歩いてみた。早すぎも遅すぎもしない、まっとうなスピードで。前を歩く人間のうなじが見えていた。それは私が歩くのと同じテンポで上下に揺れた。
人々の流れは里の中心部へと向かっているようだった。目的を持たず、大勢の移動の傾向に身を任せていると、私はなんだか自分が大きな群の一部であるように感じた。思い返してみても、月の軍にいた頃はそういう風に感じたことがなかった。そこでは兎たちはそれぞれがもっとばらばらに、思うまま動いていたのだ。一つのソリッドな目的を持たない、こうした曖昧な集団内でむしろそういう感じを受けるというのはずいぶん奇妙なことであるように思えた。
昼の光の中で、人々の顔は明るく照らし出されていた。表情の隅々までがくっきりと輪郭を持っていた。今の私にはその様子はいささか高圧的に見えた。そういう感じ方はねじ曲がっているだろうか? 私にはそうは思えなかった。表が明るいことよりも、人々の表情がくっきりとしすぎていることの方が私には眩しく感じられたのだ。
すれ違う人々の顔の中に、見覚えのあるものを私は見つけた。相手も同時に私を見つけた。相手は一瞬驚いて目を見開いたが、私の方に近づいてきた。私たちは通りの真ん中で、双方向への流れのあいだに立った。人々は私たちの横を行き過ぎるときやや怪訝な顔をしたが、何も言わずに少しずつ脇に逸れた。
薬箱を背負い笠を被った、その紫の髪の女は周りのそういった様子を見て、私の袖を引いた。
「通りの邪魔をしてるよ」と彼女は言った。私は頷いて従った。
軒の下まで移動すると、鈴仙は薬箱を降ろし、笠を脱いだ。彼女は息をついて腰を壁につけた。そこで体重を支えて両足を斜め前に出した。それでもまだ彼女の方が私よりも背が高かった。彼女は私の顔を見た。彼女が私に対してそうした意味で気を遣ったわけもなく、それはただの偶然だったが、彼女の表情は軒下の陰の中にあった。
「ちゃんと暮らしている?」と彼女は訊いた。
「まあね」
「びっくりしたよ、あんたたちが郷に残るだなんてね」
「そう?」
「組織の中でうまくやってるように見えたからね、あんたは」
それについては私は何も言わなかった。「清蘭は?」と代わりに訊いた。
「あんたが誘ったんじゃないの?」
「まさか」
「ふうん」と鈴仙は唸った。本当に驚いたみたいだった。私は肩を竦めた。
私たちは家屋の壁を背にしてしばらく黙って通りを眺めていた。鈴仙は瓢箪を取り出して水を一口飲んだ。それから何度か迷った様子を見せて、でも結局口を開いた。
「あのさ……あんたたち永遠亭にツケにして飲んでるでしょう」
「ごめんなさい」
私が素直に謝ったので彼女は少し面食らったように見えた。
「姫様は全然気にしてないけど、そういうのって最終的にあんたらの首を絞めるんだよ」
「そうだと思う」
「別にそんなに暮らしに困ってるわけでもないでしょう? 今日見るまではどうかなと思ってたけど……」
「うん」
「まあ良いよ、少々のことはさ。頼ってくれたって良いのよ。お金のことでもね。結局私とあんたたちとで何が違うってわけでもないし。でもちゃんと一度挨拶に来なさいよ」
「わかった」
相手の思いもかけない従順さを前にして、むしろ心もとないような、逆転した罪悪感のようなものの影を顔の隅に走らせた鈴仙は「じゃ、私まだ仕事あるから。また今度ね」と言い残して去っていった。彼女が日向に出ていき、通りを渡っていくのを私は見送った。私はそこからしばらく動くことができなかった。一時間ほどが経って、家人が訝しげな顔で出てくるまで私はずっとその軒の下にいた。
部屋に帰ったのはもう夕暮れ時だった。私の寝間は上げられていた。清蘭は留守にしているようだった。私は何やら少しほっとしたような気持ちになったが、一人で何かやることがあるわけでもなかった。私は障子を開け放って茜色の空を眺めていた。
清蘭が帰ってきたのは日が沈み切ってからだった。彼女は明るく私の部屋の戸を開け放った。その落差のせいで、私がぼうっとした目を上げるまで幾らかの間が生まれた。彼女は小麦粉の入った袋を持っていた。
「どうしたの」と私は訊いた。彼女は靴を脱いで畳に膝で上がってきた。
「大家さんにもらったのよ」と清蘭は明るい声で言った。「二人で団子屋さんをやらない? 私たちもそろそろ自分でお金を作らないとね」
「そうだね」と私はどうにか言った。胃の底に何か冷たいものが降りるのを感じていた。その加速度でどこかに引きずり込まれないようにするので精いっぱいだった。「悪いけど、ちょっと出てくる」
「私も行く」
「ついて来ないでよ」と私は言った。自分でもびっくりするほど冷淡な声が口から出た。清蘭はぴくりと動きを止めた。「独りにしてくれない?」
私は彼女の顔を見ずに彼女の横をすり抜けた。彼女が息を呑み、喉が鳴る音だけが聞こえた。私は息を止めて振り返らずに部屋を出た。そうせずにはいられなかったのだ。
私は外に出て、夜の通りを逃げるようにして歩き始めた。冷えた夜気は肺を満たした。清水のような空気を私は何度も吸ったり吐いたりしたが、気持ちは一向に収まらなかった。私はやや過呼吸のようになっていた。頭は怒りに湧いていて、そのせいで視界がちかちかと揺れた。その怒りが清蘭の主観からしてみれば些か理不尽であることは沸騰した頭でも理解していたけれど、私が彼女の精神について、今まで言葉には表されなかったずいぶん多くを察してきたその累積と比べれば、断然彼女の無神経さの方が責められるべきだと私は思った。私だって怒ることくらいある。私にだって我慢できないことくらいある。私にだって……。
ずいぶん腹が減っていた。ちょうど飯時で、通りは湯気と灯りで満たされていた。馴染みになりつつある店も幾つかあったけれど、私はどこにも入ろうと思えなかった。持ち合わせはあったのだが、それでも笠と薬箱がどうにも頭をちらついた。私は道を街の中心とは逆側にどんどん歩いていった。
やがて私は里の外れにまで来てしまった。門には誰もいなかった。私は里を出た。外には幾分整備の緩い道が延びていて、両脇には耕地でない草むらが続いていた。草は風になびき、月光が涼しく照らしていた。光は道の微かな凹凸、石の割れた具合を濾過して私の目に見えるように映し出していた。道端の大きな岩に腰かけてそういう様子を私は見た。ようやく呼吸が少し落ち着いてきた。
私は立ち上がってしばらくそのまま歩いていった。たくさんの虫が鳴いていた。私は耳を澄ませた。どうやら聞こえてくるのは虫の声だけではないようだった。草むらの奥に一つだけぽつんと屋台が出ていた。声はそこから聞こえてくる。
「いらっしゃい」と声が聞こえた。
暖簾を潜った私はその明るさと温かさにしばらくぼんやりとしていた。
「早く入りなよ。お客さん初めてでしょう?」
急かされて私は席に着いた。思った通りというか、当たり前だけれど、店主は人間ではなかった。彼女の割烹着の背中からは羽根が生えていた。
「兎さんね。永遠亭の?」
「いや……」
「他所にもいるんだね。知らなかった。初めての人にはサービスするからね。屋台ごと食べたりしなければ……」と言って女将は奥の方の席を一瞥した。
「いや、そんなことしたことないじゃん」と先客は言った。彼女は私よりも明るい金の髪をしていて、それが黒い服によく映えた。客は彼女一人だけだった。
私は屋台で麦焼酎の水割りを飲んでヤツメウナギの蒲焼きを食べた。奇妙な料理だったが、確かに美味かった。食べながら、二人に尋ねられるままに身の上話をした。酒のせいで知らず口の滑りが良くなっていたけれど、そもそもは地上を攻撃しにやってきたことを隠すだけの知能はまだ働いていた。もう一人の兎と隣り合って暮らしていることを私は話した。自分で選んだことなのにお互いに一種のホームシックにかかっていることを、私は相手ほどそれをうまく発散することができないということを私は話した。それで自分ばかりが我慢しているような気がしていることを私は話した。そのくせ彼女が一人で先に立ち直りかけているということを。そのことにショックを受けているけれど、結局は何もかも自分が正直に話していない、相手に向き合っていないことの表れでしかないようにも感じるということを私は話した。初対面の相手にこんな風に話しているというのに。それは奇妙なことだった。女将は他人の話を聞くのが半分仕事のようなものなのだろうけれど、客の女に対しても気取りなく話してしまうのはなぜだろうと私は不思議に思った。それはアルコールだけが原因だとは思えなかった。
そして、口に出して話してみると、それはまるで他人の人生のことのように思えた。それにあまりにも馬鹿げているようにも。私は恥じ入って一旦口を閉じ、今度は私の方から少し尋ねた。客の妖怪はルーミアという名前だそうだった。それ以外のことはほとんど何もわからなかった。
食後に女将は皿に山盛りで団子を出した。「今夜は十五夜だものね」と彼女は言った。私は彼女に言われてそのことに初めて気づいた。これほど月のことを考え、月の話をしていたというのに。私はもう本当に情けない思いでいっぱいだった。私とルーミアは団子をたくさん食べた。甘い団子は酒にはまったく合わなかったけれど、私たちは気にしなかった。私も彼女ももうずいぶん飲んでいた。
「ねえ」とルーミアはふと思いついたように言った。彼女の目はとろんとしていて、顔は火照っていた。「ここに来てまだ日が浅いんでしょう? 妖怪たちはみんな弾幕ごっこをするんだよ。手合わせしようよ」
「やめた方が良いよ」と私は何とか言った。猛烈に眠かった。「私今強くなってるから……」
「何それ。挑発してるの? 結構やる気だね」
「そうじゃなくてさあ……」
「何でも良いけどここじゃなくて向こうでやってよね」と女将は訴えるように言った。
ルーミアに肩の下から手を回されて、私は抱き起こされるようにして立ち上がった。立ち上がるときに椅子が後ろに倒れた。私たちはよろけながら何歩か歩いた。それも長くは続かなかった。私たちは互いの足に躓いて転んだ。私は仰向けになった。身体に衝撃はなかった。草が柔らかく身体を包んだ。真上に満月が見えていた。私は動けなかった。目から涙が零れるのを感じていた。
「あ、ごめん、ごめんね。痛かった?」
ルーミアは身体を起こして私の上に屈みこんでいた。彼女は指で私の額を触った。本当に心配そうな顔で、彼女の酔いは一瞬で半分くらい醒めてしまったようだった。私は仰向けになったままで首を横に振った。うまく喋れなかったのだ。彼女が遊びとはいえ、ある種の決闘をしようと言っておきながら、次の瞬間に私が身体を打ったのではないかと心配する、その矛盾はほとんど分裂していると言っても良かったけれど、不思議と私は違和感を覚えなかった。
「月の裏に帰りたい?」とルーミアは訊いた。彼女は私の視線に気づいていた。私が何を見ているのかということに。私はまた首を横に振った。彼女は頷いた。次の瞬間視界が真っ暗になった。私はびっくりした。
「慌てないで。これは私の能力だから」と彼女は言った。確かに彼女の指はまだ私の額に触れていた。「しばらくこうしててあげるよ。よく知らない奴に泣いてるところなんか見られたくないでしょう?」
私は首を動かした。暗闇の中にいたけれど、ルーミアは私の額に触れていたので私がどちらの方向に首を振ったのかを知ることができた。彼女は少し笑った。
暗闇の中は居心地が良かった。まったく、一瞬のあいだにびっくりするほど私は落ち着いていた。どうしてこの女にはそんなことができるのだろう。私にはわからなかった。しかしそれを解き明かそうとも私はまったく思わなかった。暗闇は中が見えないから暗闇なのだということは私にもわかっていた。
「ねえ、なんにでも慣れちゃうもんだよ」とルーミアは言った。「だけど、それが嫌なんでしょう?」
私は黙って頷いた。それ以上彼女は喋らなかった。私も何も言わなかった。喋らなくても、月明かりに照らされなくても、そのときの私たちはお互いが考えていることがよくわかった。暗闇の中に涙の最後の一滴が溶けていくまで私たちはそうしていた。
辛く苦しい生活を送りながらも、案外周りが支えようとしてくれるところが良かったです
後はその手を取れるかどうかだと思いました
どんな故郷であれ それは経験や観念として 頭に染みついていますものね
故郷を去ることはできるが 故郷と無関係でいることはできはしない 月が地上を照らすかぎり それをまったく忘れることも むろんできはしない 故郷とは“かく在る”ための土台なのだから
すばらしい作品でした
次回も期待しています
何言ってんですかね。
とにかく良かったです。
文章はとても読みやすく、それが読破する一助になったと思います。
自分がどうすればいいか理解できる賢さがあり、しかしそれゆえに、どうにもできない事に苦しめられる自分をどうする事もできず、それもまた理解できてしまう。そういう時に、今まで傷ついてこなかった分だけ立ち直るのに時間がかかったりもする。
鈴瑚のやるせない心情がとても良く描かれている良作でした。
彼女もうさぎなんですね
夜を感じられる静かな引き方も素敵
惜しむらくは三人称を書き慣れているのか手癖のようなところどころあり、校正漏れらしき箇所がひとつ見受けられたことでしょうか(それでもどうでもいいと思えるほど最後まで持っていかれました)
とても楽しめました、ありがとうございました
ルミ珊キテル…
思い当たることが沢山あって、私はその変化を拒否してきた側の人間でした。
新天地での彼女たちは、時折月を見上げて涙を流しながらも、この地に慣れ親しんでいくのでしょう。