何時も不思議に思う。この時期になると、ある薬が飛ぶ様に売れ始める。それは瓶詰めされた水薬であり、大きさは掌に収まる程で、薄紅色をしていて、梨のような甘くみずみずしい香りを放ち、実際舐めてみると大いに甘い。
一見すると只の苺シロップのようにも見えるのだが、しかしこの薬、只の薬ではない。私の師匠、八意永琳様の調合なされた魔法薬なのである。
笠を被って薬売りに変装し、里中を練り歩くと、あちらこちらで声を掛けられる。置き薬の更新ではない。と言うか、置き薬の更新はあんまりされない。一般家庭でそんなに大量の薬が必要になる事などあまり無いし、もしもあったとしたら、その時は受診を勧めている。我が永遠亭は診療所も兼ねているからね。すごいでしょ。
まあちょっと話が逸れたが、要するに皆、この薬が目当てなのだ。
買って行くのは大体見知った連中である。紅魔館のメイド長やハクタクの先生、里中だと言うのに九尾狐の化けた奴もいた……まあ、月兎の私が言えた義理では無いのだけれど。
挙げ句の果てには妖精までもが買い付けに来る始末。サイドポニーを揺らしながら、どうやって手に入れたのか、僅かな硬貨を握りしめて。いつもちょっと代金に足りないのだが、そんな様子で来られたのでは仕方が無い。不足分は私が身銭を切っている。そこはそれ、今じゃ私も地上の兎。義理と人情には弱い訳なのですよ。
「thanks a lot!」
その場で即座に水薬を一気飲みした白黒魔女が、満面の笑みで言う。礼一つにも英語の飛び交う今日この頃。仄かに顔を赤らめながら意気揚々と駆けて行く後ろ姿は、何となく心地良いものがある。うん、いい仕事したな、私。
しかし、やはり疑問は残る。
みんな一体、何に使うんだろう?
聞こえる言葉を英語に変換する翻訳剤なんて。
「おかしいと思いませんか、師匠」
永遠亭に戻った私は、お師匠様に疑問をぶつけてみた。
我が師匠、八意永琳様は偉大なる月の賢者。彼のお方を表すならば、才色兼備白眉最良秀外恵中絶対無敵。その知を前にして解き明かされぬ謎などこの宇宙に存在しない。
「幻想郷で英語なんて誰も使わない筈なのに」
もしやみんな、外界へとヴァカンスに出掛けているのかしらん?
「優曇華」
カルテを書くペンを置いて、八意様は私の方へと向き直った。そのお顔は優しい微笑を湛えており、私はちょっと震えてしまう。……だってお師匠様ったら、お説教の時にも同じ顔でなさるんだもの。
「今日は十五夜ね」
「ええ、そろそろ頃合いですね」
「お月見の準備は整っていて?」
「てゐ達が張り切っていましたよ」
「大変よろしい」
窓の先を見やって、八意様は頷いた。その頰は少し紅潮なさっているようにも見える。診療所を開業してからと言うもの、お師匠様は大変お忙しい。疲れが溜まっておられるのだろうか。いくら完全無欠の永琳様と言えども、少し心配である。
「なら、そろそろ始めましょうか。姫様を呼びに行きましょう」
そうして、すっくと席を立たれた。私の疑問は華麗に流されてしまったけれど、まあそれはいいか。
私が先立ち部屋を出ようとすると、
「あ、ちょっと待って」
言うなり、お師匠様は件の水薬を一気飲みした。腰に手を当て、それはそれはお美しいフォームで。
んー? なんでお師匠様まであの薬を?
「ok. let's go」
私の疑問の眼差しは、永琳様のすこぶる良い笑顔で掻き消されてしまった。
……まあ、いいか。お師匠様もなんだか嬉しそうだし。細かい事は考えないのが地上の兎の正しい在り方なのだ。
廊下に出て姫様のお部屋へと向かえば、途中、中庭に面した縁側を通る。姫様が非常な情熱を傾けて整えられたこの中庭では今、てゐ達が餅を搗いている。彼女達の餅搗きは十五夜を彩る音楽。これが無きゃお月見じゃないわ。
天上を見やれば、空には真ん丸の月が浮かんでいる。かつて私は、彼処に住んでいた。戦いに恐怖し、主も仲間も何もかも投げ出して逃げ出して、私は地上の兎になったのだ。
あの月を見上げると何時も思う。いつか運命が追いついて来て、私を捕らえてしまうのではないかと。
なんだか心細くなってしまって、私はお師匠様の方を振り返った。
逃げ出した私を匿って下さったのは、敬愛する姫様と、八意永琳様。二人はこの私に大いなる安らぎと生きる意味とを与えて下さった。そのご恩はどれだけお仕えしようと返せるものではない。私の宝だ。
月影を浴びて立つ永琳様のそのお姿は、お美しいなどという薄っぺらな言葉ではとても言い尽くせぬ。私の挙動不審を見やって小首を傾げるその仕草に、今しがたの鬱気も忘れて、私の胸が高鳴った。
慌てて月に瞳を戻し、私は取り繕いの声を上げた。
「見てくださいよ、お師匠様。月が綺麗ですね」
指差さば、やれ、何て事無い只の月。何も怖れる必要など無い。私は今、地上の、この永遠亭の幸せな兎なのだから。
その時。
背後からドゴォン! と派手な破壊音がして、空気がビリビリと振動した。
すわ、襲撃か!? 一体誰が。
反射的に身を低くする。兎に角、姫様と八意様をお守りしなければ。
指鉄砲を構えて振り返った私は、しかし唖然としてしまった。
「……何やってるんですか、お師匠様」
永琳様が永遠亭の柱に思い切り額を打ち付けていたのである。柱には大きなヒビが入って、周囲にはもうもうと埃が舞っていた。庭の兎達も驚いて、餅を搗く楽しげなあの音がピタリと止まった。
八意様は微動だにせず、沈黙が場を支配する。その異様な光景に、何となく近づき難いものを感じて、私は一歩引いてしまった。
暫くして、お師匠様が深い深い溜息を吐いた。そうしてくるりと振り返ったそのお顔には、いつもの優しい微笑みが浮かんでいた。
「何でもないのよ」
「えっ、あのでも、額から血が出てますけれど」
「全然、何でもないのよ」
「えっ、でも」
「さあ、姫様を呼びに行きましょう」
そう仰るなり、スタスタと先を歩いて行ってしまう。
私は首を捻りながらもその後に従った。何だか、八意様はすれ違いざまに「自分の薬も効かないなんて、困ったものね」なんて呟いておられたような気がする。一体何の事だろう。さっき飲んだ薬が効かなくて困ってるのかな? まさか永琳様、英語が苦手だったりして。……まさかね。
次の日、永遠亭の診察待合室は見知った顔の少女達で溢れ返っていた。あの薬を買っていった者達だ。皆症状は同じ、貧血らしい。お師匠様の診断によると、鼻血の出しすぎだとの事である。
あの薬……みんな一体、何に使ったんだろう。
妖精さんのために身銭切っちゃう鈴仙に優しさを感じました
そして永琳……