夏。
刺すような日差しが日々降り注ぎ、うだるような熱に幻想郷中が釜風呂の中にいるかのように暑さに悶える季節。
それは昼でも夜でも、どんな場所でも変わらない。
「うー……あっついよぉ……」
地下のひきこもり吸血鬼こと私、フランドール・スカーレット。
ここ数日、まったくもって寝苦しい生活に悩んでいる。暑さのせいで。
体温が人間より低く、暑さには強いと言われている吸血鬼のはずのこの私が、である。
「眠れないよぉ……」
まとわりつくような熱気。じめじめとした湿気。こいつらのせいで夜中に勝手に目が覚めてしまうのだ。
時計を見れば、ベッドに入ってからまだ一時間しか経っていない。
重い身体をもそもそと動かして、なんとかベッドの外に這いずり出る。
こういう時、無理に眠ろうとしても効果はない。逆にストレスを溜めるだけだと経験で知っている。
ではどうすればいいのだろうか?
昔の幼い私なら、きっとすぐに暑さという概念自体をぶっ壊しにかかっただろう。目の前にある自分を苦しめている物を失くしてしまえば、物事はすぐに解決する。そんな自分勝手な考えしか、当時の私には思い浮かばなかったからだ。当然、結果的に館の皆に迷惑を掛けるだろうし、なによりお姉様が良い顔をしない。
だけど今の私は一人前のレディだ。エレガントな淑女なのだ。
エレガントな淑女は、物事をぶっ壊して解決するような野蛮なことはしない! こういう困ったことは、誰かに訊くのが一番だと分かっているのだ。
寝巻のままで自室を抜け出し、明かりの少ない地下の廊下を歩く。
幸いウチには、物事解決のエキスパートであるパチュリー・ノーレッジがいる。知識の宝庫である彼女に訊けば、大体のことには解決法を示してくれる。異変解決の専門家は博麗の巫女だけど、日常での困りごとを解決する専門家は、私は間違いなくパチュリーだと信じていた。
彼女がいるのは同じ地下の図書館だ。私の部屋の隣に位置している。
図書館の扉を静かに開けて、中に入る。
図書館は眠らない場所だ。いつ来ても魔法で作られた温かい灯りが、図書館全体を照らしている。図書館の主は丸いホールの真ん中、彼女の定位置である大きなテーブル前の椅子に座っていた。
「あら、フランドール。随分お早いお目覚めですね。それともいつものように寝付けない方かしら?」
「寝付けない方よ、パチュリー。今夜は昨日よりも、もっと暑くなってるんだもの」
彼女の向かいにある回転椅子の、その背もたれに寄りかかるようして、私は座面に身体を乗せる。
そんな暑さに参った吸血鬼が可笑しいのか、丸眼鏡をかけた魔女はくすくすと笑っていた。
「いい加減、ご自身に冷却魔法をかけられては如何ですか? 流石の暑さなんですから」
「嫌よ。具体的に言うと、手順が超メンドイからやだ。パチュリーが前に教えてくれたやつ、あれすっごく術式が複雑じゃない。魔力の消費もハンパないし」
「おや、フランはエレガントな淑女ではなかったのですか? エレガントな淑女は、汗だくの姿など晒したりしないものですよ。特にご自身が気にかけている方の前では」
「ちょっ……! 人が気にしていることを、そういう風に引き合いに出すのやめてよね。そりゃあ、汗臭いままでお姉様の前に出たくはないけど……。
というか、そもそも魔力は無限じゃないってこと、パチュリー自身がよく分かってるでしょう? 魔力の回復って、とっても時間がかかるんだから」
「ふふっ。まったくフランの言う通りです。おかげで今日も私は一睡も出来そうにありませんしね。まぁ魔女ですから、眠らなくても一向に平気なんですが」
パチュリーの手元にはいくつかの魔法が展開されており、私はその中に術者の魔力を急速回復させるものが発動していることに気づいていた。おそらく彼女はこれまでに何らかの大きな魔法を行っていたか、もしくはこれから行う予定なのだろう。
私は椅子から身を乗り出し、甘えるような声を出して、パチュリーにお願いをしていた。
「だからね、賢者様? 私は魔法に頼らず、優秀な知恵によって、どうにかこの暑さを乗り切りたいの。
ねぇパチュリー……今日はどんないい方法を教えてくれるのかしら……?」
「そうですねぇ……」
賢者様は口元に手を当ててしばらく思案した後、一つの案を私に示してくれていた。
「では自分で魔法を使いたがらないわがままな妹様のために、特別に私からある魔法を教えてあげましょう。その魔法は、夏の夜でもよく眠れるようになる魔法です。でもその魔法を教えるには条件があります。それはこの館の住人で、同じように寝苦しい思いをしている人たちを助けてくること。フランドール、貴女にそれが出来るかしら?」
「あら、結局魔法頼みになっちゃうのね。でもいいわ。他人の魔法なら、私は遠慮しないわよ?」
「そのお返事、了承されたものとみて構いませんね?」
「もちろんよ。存分に期待して待ってて頂戴! あぁ、でも。人助けするって言っても、具体的に何をすればいいのかな……?」
私の疑問に、パチュリーはホールの壁際にあるソファーを指差して答えた。ソファーには小悪魔が、背中を丸めるようにして眠っていた。
「あの使い魔は昨日と今日、私のために身を粉にして働いてくれました。おかげで作業は捗り、ひと段落つけるところまで内容が進んだので、私は彼女に休息を与えたのです。でもあまりにも疲れていたのでしょうね。あの子は自分の部屋まで戻れず、あそこのソファーまで行った途端、事切れるように眠り込んでしまったのです。
フラン。あの子のために、枕と毛布を持ってきてやってくれませんか? この図書館は本の管理のために空調を強めに効かせています。夏は熱中症が怖いですが、温度差の激しさからくる風邪も怖いものですから」
私は喜んで、彼女のための枕と毛布を持ってきていた。彼女の頭に枕を敷き、毛布をかぶせてやると、それまで少し寝辛そうだったしかめ面が和らいでいった。それで私はどうすればいいかを理解したのだった。暑苦しい部屋は風通しを良くして、逆に涼しすぎる部屋にいる人たちには風邪をひかせないようにすればいいのだ。
パチュリーの所に戻ると「ありがとうございます、妹様」と私は彼女から礼を言われた。
「本当は私がやるべきことだったのですけど、今こっちの方で手が離せなくて」
「いいよ。私の方こそ、パチュリーの邪魔をしちゃったみたいだし。パチュリーの役に立てて、私は嬉しいわ」
「ふふ、妹様は優しくなられました。素敵なことです」
「じゃあ、私は行くね。パチュリーも無理しないでね」
痛み入ります、と彼女はもう一度頭を下げた。そして私は図書館を後にしていた。
そこからの私は夜の紅魔館警備隊隊長、そして一夜限りの臨時メイドのフランドール・スカーレットになっていた。
妖精メイドたちが寝ている宿舎を静かに見て回り、不備のある部屋にはそっと立ち入って、部屋の状態を整えていく。
熱気がこもっている部屋では、しばらく窓とドアを開け放って風の通り道を作った。氷精のメイドたちがいる部屋では逆に、彼女たちの冷気に他のメイドたちが中てられないよう、跳ね除けている子たちの毛布を掛け直した。それを私は全ての部屋で実行していったのだ。とても大変な作業だった。時間があっという間に過ぎていった。でも不思議と疲れは感じなかった。誰かのために行動することが、私は楽しくて仕方がなかった。
ようやく全ての部屋を見終わり、最後に私は庭の片隅に建っている小屋へと向かった。そこは館の門番を務める紅美鈴の休憩室で、美鈴の私室にもなっている小屋だった。だが夜の間は美鈴以外にもう一人、一緒に過ごしている人物がいることを私は知っていた。
「おじゃましまーす……」
ノックはせず、断りの言葉だけ小声で呟いてドアを開ける。中をそっと覗き見た私は美鈴の他に、メイド長の十六夜咲夜が、二人一つのベッドで一緒に眠っているのを確認していた。
端的に言うと、二人の寝相はとても悪かった。包み隠さずに言えば、今まで見てきた妖精メイドたちの、その誰よりも酷かった。二人ともそろって毛布を跳ね除け、手足をあらぬ方向に投げ出し、ペアルックのパジャマは乱れに乱れていた。
美鈴はともかく、館随一の瀟洒で通る咲夜がこんな寝相をしているとなれば。だが彼女が全く瀟洒らしくない様相をしているのは、彼女自身が原因なのではないと私はすぐに気づいていた。即座に部屋の隅に置かれた冷房を確認する。思った通り、冷房は魔力切れで完全に動かなくなっていた。
冷房はパチュリー・ノーレッジ謹製の最高の逸品だ。温度を自動で感知して、気温が高い日は涼しい風を、気温が低い日は温かい風を送り出す。常に設置された部屋を一定の温度に保ち、快適な空間を提供する魔法の空調機。魔力供給はバッテリー式で、交換は誰でも簡単に行える。もの凄く便利なものなのだが、内蔵している魔力回路の構造がかなり複雑で、さらに希少な触媒を多く使っていることもあり、生産数がとても限られているのが欠点だった。私の地下室ですら導入されていない逸品なのだ。
この冷房が置かれている美鈴の小屋は、そんな貴重な魔法空調機が設置されている館で数少ない場所の内の一つだった。先にも言った通り、この小屋は庭の片隅に館と離れて建っている。夏の間、小屋は強烈な日差しを浴び続けるために、冷房が無ければ昼も夜もとても部屋としては機能しない。身体の丈夫な美鈴でさえ、若干参り気味の暑さなのだ。ただの人間に過ぎない咲夜が、夜間とはいえ、冷房の効かない部屋に居続けたらどうなるか? 想像に難くない。
私は暗い部屋を見渡し、美鈴と咲夜の私物で散らかった部屋の中から代えの冷房のバッテリーを探した。だが見つけ出したバッテリーが入っているはずの箱の中身は、既に空っぽになっていた。これでは冷房を動かすことが出来ない! どうすべきだろうか……?
考えるまでもないことだった。冷房は今すぐ必要なのだ。私はまったく躊躇わなかった。羽の宝石の一つを引きちぎり、それを触媒にして、私は冷房の中のバッテリーに自分の魔力を供給し始めていた。
魔力が再充填されるのには時間がかかる。冷房の隣に座って、私はぼんやりと時間が経つのを待っていた。
妹様は、優しくなられましたね。ふと思い出されたパチュリーの言葉に、思いを馳せる。
自分がこんな風に『他人に親切にしよう』と思うようになったのは、一体いつくらいの頃からだっただろうか? 正直よく覚えていない。でも以前にお姉様が赤い霧を幻想郷中に放って、それで巫女と魔法使いがここにやってきた異変。ずっとひきこもり生活だった私の日常が、あれ以降、少しずつ変わっていったのは間違いないことだった。巫女や魔法使いを含めた、館以外の人たちと触れ合う機会が増えていって。それまでの私はお姉様やパチュリー、咲夜以外には、館のメイドたちとも話をする機会があまりなかった。自分の部屋から出てみようとしたことすら、ほとんどなかったのだ。あの頃の私は短気で、陰湿で、そしてとても臆病だった。
そういう頃の自分と比べると、私は確かに変わったと自分でも思う。でもそれを言うなら、館のみんなも私と同じくらい変わったと思うのだ。みんな以前と比べてなんだか明るくなったし、それに私に対しても普通に、自然に接するようになった。厄介な腫れ物に触れるようにではなく、一人の吸血鬼として、フランドール・スカーレットという少女として、私を見てくれるようになった。それが私には嬉しかった。だからこそ私は変わることが出来たのだと、私自身はそう思っている。
ピッピッピッという魔法音に、ハッと意識が現実に帰る。いつの間にか魔力は満タンになっていて、冷房はとっくに再稼働を始めていた。手足をあちこちに放っていた二人は、いつしか咲夜の身体が冷えすぎないよう、美鈴が彼女を抱きしめるような格好で落ち着いていた。素敵な光景だな……、と私は素直にそう思った。美鈴は咲夜のことが、とても大好きなのだ。二人に毛布を掛け直し、私は静かに外へ出ていた。
扉を開けた目の前の地面に、手紙が置かれていた。拾おうと手を伸ばすとひとりでに封が開いて、中の手紙が宙に浮かび上がった。パチュリーからの手紙だ、と私はすぐに理解していた。
『お疲れ様です、フランドール。よく館中を見て回って、下々の者たちのために尽くされましたね。主の妹としてとてもふさわしい、鑑となる立派な行為でした。約束通り、お望みの魔法をお教えしましょう。
地図を同梱しています。それの印が付いている場所に行ってみなさい。そこで貴女の望むものが、きっと得られるはずです』
一緒に示された地図は、紅魔館の見取り図だった。印の付いた場所を確認した私は、一人小さく笑っていた。パチュリーの考えていたことが、ようやく分かったからだ。
「最高よ、パチュリー・ノーレッジ! 貴女はやっぱり最高の魔女だわ!」
私は即座に先ほど使い残していた触媒を用いて魔方陣を展開し、汗臭くなっていた衣服と自分の身体を消臭する魔法をかけていた。これでまた魔力を消費することになってしまったが、これから会うことになるであろう人物のことを想うと、まったく躊躇いはなかった。
魔力を大量に消費したせいか、忘れていた暑さと疲労を徐々に感じるようになっていた。身体を思ったほどには動かせず、紅い館の中を歩く足取りは重いものになりつつあったが、心は今までで最高に軽くなっていた。
そっと静かに、でも心持ち早足で、目的地に辿り着く。そこはレミリアお姉様の寝室だった。
音を立てないように扉を押し開け、中へ入る。
私はそろそろと忍び足で、お姉様が寝ているはずのベッドへゆっくりと近づいていった。眠っている間に隣に潜り込んで、朝起きた時に驚かしてやろうという肚積もりだったのだ。
しかしベッドの中を覗き込んだ私は、そこで合わないはずの目と目が合ってしまっていた。数瞬の間、互いにじっと見つめ合う。そうして耐え切れなくなって、私たちはくすくすと笑い出していた。
「ねぇ。お姉様?」
「なんだい、フラン?」
「この一晩、そうやってずっと起きていたの?」
「まさか。お前がここに来る運命が見えていたからね。だから今起きたばかりなのさ」
お姉様の言葉は尤もらしく聞こえた。だがその言葉は嘘だろうと、私は確信していた。
もちろん根拠のない、ただの勘だ。だけど私の大好きなお姉様は、自分が妹のために苦労しているところを、当人には極力見せないようにしようとする傾向があった。そんな気遣いが当人である私に、とっくに見抜かれているとは思いもしないで。
きっとパチュリーとお姉様は最初から結託していたに違いないのだ。私がパチュリーの元を訪れた、あの時から。そうでなければパチュリーはわざわざお姉様の寝室に、私を誘導させようとなんてしなかっただろう。特にパチュリーは、私がお姉様をどれだけ好いているかを知っていた。そんなパチュリーがお姉様に掛け合って、今このように私が驚くよう仕向けたのだとしたら。愛情を感じる二人の行動に、私は涙が出そうになっていた。
「おいで。フラン」
お姉様が布団を広げて、私をベッドに誘う。私は誘われるままに、お姉様の作った空間に身体を潜り込ませた。意外、というよりは驚くほどに、ベッドの中は涼しかった。両腕が背中に回される。私もお姉様を求めるように、その身体を抱きしめていた。
お姉様の香りを、私は感じていた。お姉様らしい気品さと、気高さと。そして包み込むような寛容さを感じさせる香りを。ふっと笑みを浮かべて、私は小さく息を吐いた。酔いしれそうな素敵な感覚が穏やかな風に乗って、お姉様の周りを取り巻いていた。
そう、風が。涼しさを感じる風が、お姉様から吹いていたのだ。そのことに私は気づいて、可笑しくならざるを得なくなっていた。
「ふふふっ……お姉様?」
「なぁに? 私の可愛いフラン?」
「お姉様の胸の中……そこに何を隠し持っているのかしら?」
私の言葉にお姉様はにっこりと笑ってみせると、胸の間に手を入れて何かを取り出して見せていた。
暗闇の中に小さな灯りが広がっていった。お姉様が手に持った小さな光。魔力回路の中に封じられた魔法が、冷たい風を生み出していたのだ。感嘆の溜め息を、私は漏らした。
「涼しい……。それに、きれいな光……」
「パチュリーの研究成果の一つでね。小型の魔法空調機の試作品だそうだ」
「とても素敵ね、お姉様。あぁ、でも! パチュリーはずるいわ。私が訊いてもこんなの貸してくれなかったのに、お姉様にはあっさり渡しちゃうなんて」
「ふふっ、パチュリーはずるいか。私はずるくないのか?」
「ずるいわ。お姉様もずるい」
「そうだろう。私だってそう思っていたんだ。独り占めは良くないってね。だから……」
お姉様は呟くと、私の胸の間にその光を預けていた。
「これはフランに貸しておく。そして明日は、私がお前の所に行こう」
身体全体に、涼しさが広がっていった。暑さを忘れていった私はお姉様の身体を抱きしめたまま、もうそこから動くことが出来なくなっていた。安堵が疲労を完全に思い出させていた。疲労は睡魔を再び呼び覚まして、私の意識を夢の世界へ誘おうとしていた。
お姉様が宝石の欠けた私の羽を、愛おしそうに触れていた。
「この羽は」お姉様は言った。
「お前が家族を愛し、そして家族がお前を愛した証だ。私はこの羽を持つお前を、誇りに思う」
そうして最後にお姉様は、私の額にキスをしてくれた。それがその夜、私が覚えた最後の記憶になった。
「私の愛しいフラン。世界がお前を変えたのではない、お前が世界を変えたんだ。
これからも自分を信じて、前へ進んで行きなさい……」
微睡みが、私の意識を溶かしていく。
おやすみなさい、お姉様。おやすみなさい、紅魔館のみんな。
明日は少し、涼しくなるといいな。
眠れない夜に、涼しさを求めて。
刺すような日差しが日々降り注ぎ、うだるような熱に幻想郷中が釜風呂の中にいるかのように暑さに悶える季節。
それは昼でも夜でも、どんな場所でも変わらない。
「うー……あっついよぉ……」
地下のひきこもり吸血鬼こと私、フランドール・スカーレット。
ここ数日、まったくもって寝苦しい生活に悩んでいる。暑さのせいで。
体温が人間より低く、暑さには強いと言われている吸血鬼のはずのこの私が、である。
「眠れないよぉ……」
まとわりつくような熱気。じめじめとした湿気。こいつらのせいで夜中に勝手に目が覚めてしまうのだ。
時計を見れば、ベッドに入ってからまだ一時間しか経っていない。
重い身体をもそもそと動かして、なんとかベッドの外に這いずり出る。
こういう時、無理に眠ろうとしても効果はない。逆にストレスを溜めるだけだと経験で知っている。
ではどうすればいいのだろうか?
昔の幼い私なら、きっとすぐに暑さという概念自体をぶっ壊しにかかっただろう。目の前にある自分を苦しめている物を失くしてしまえば、物事はすぐに解決する。そんな自分勝手な考えしか、当時の私には思い浮かばなかったからだ。当然、結果的に館の皆に迷惑を掛けるだろうし、なによりお姉様が良い顔をしない。
だけど今の私は一人前のレディだ。エレガントな淑女なのだ。
エレガントな淑女は、物事をぶっ壊して解決するような野蛮なことはしない! こういう困ったことは、誰かに訊くのが一番だと分かっているのだ。
寝巻のままで自室を抜け出し、明かりの少ない地下の廊下を歩く。
幸いウチには、物事解決のエキスパートであるパチュリー・ノーレッジがいる。知識の宝庫である彼女に訊けば、大体のことには解決法を示してくれる。異変解決の専門家は博麗の巫女だけど、日常での困りごとを解決する専門家は、私は間違いなくパチュリーだと信じていた。
彼女がいるのは同じ地下の図書館だ。私の部屋の隣に位置している。
図書館の扉を静かに開けて、中に入る。
図書館は眠らない場所だ。いつ来ても魔法で作られた温かい灯りが、図書館全体を照らしている。図書館の主は丸いホールの真ん中、彼女の定位置である大きなテーブル前の椅子に座っていた。
「あら、フランドール。随分お早いお目覚めですね。それともいつものように寝付けない方かしら?」
「寝付けない方よ、パチュリー。今夜は昨日よりも、もっと暑くなってるんだもの」
彼女の向かいにある回転椅子の、その背もたれに寄りかかるようして、私は座面に身体を乗せる。
そんな暑さに参った吸血鬼が可笑しいのか、丸眼鏡をかけた魔女はくすくすと笑っていた。
「いい加減、ご自身に冷却魔法をかけられては如何ですか? 流石の暑さなんですから」
「嫌よ。具体的に言うと、手順が超メンドイからやだ。パチュリーが前に教えてくれたやつ、あれすっごく術式が複雑じゃない。魔力の消費もハンパないし」
「おや、フランはエレガントな淑女ではなかったのですか? エレガントな淑女は、汗だくの姿など晒したりしないものですよ。特にご自身が気にかけている方の前では」
「ちょっ……! 人が気にしていることを、そういう風に引き合いに出すのやめてよね。そりゃあ、汗臭いままでお姉様の前に出たくはないけど……。
というか、そもそも魔力は無限じゃないってこと、パチュリー自身がよく分かってるでしょう? 魔力の回復って、とっても時間がかかるんだから」
「ふふっ。まったくフランの言う通りです。おかげで今日も私は一睡も出来そうにありませんしね。まぁ魔女ですから、眠らなくても一向に平気なんですが」
パチュリーの手元にはいくつかの魔法が展開されており、私はその中に術者の魔力を急速回復させるものが発動していることに気づいていた。おそらく彼女はこれまでに何らかの大きな魔法を行っていたか、もしくはこれから行う予定なのだろう。
私は椅子から身を乗り出し、甘えるような声を出して、パチュリーにお願いをしていた。
「だからね、賢者様? 私は魔法に頼らず、優秀な知恵によって、どうにかこの暑さを乗り切りたいの。
ねぇパチュリー……今日はどんないい方法を教えてくれるのかしら……?」
「そうですねぇ……」
賢者様は口元に手を当ててしばらく思案した後、一つの案を私に示してくれていた。
「では自分で魔法を使いたがらないわがままな妹様のために、特別に私からある魔法を教えてあげましょう。その魔法は、夏の夜でもよく眠れるようになる魔法です。でもその魔法を教えるには条件があります。それはこの館の住人で、同じように寝苦しい思いをしている人たちを助けてくること。フランドール、貴女にそれが出来るかしら?」
「あら、結局魔法頼みになっちゃうのね。でもいいわ。他人の魔法なら、私は遠慮しないわよ?」
「そのお返事、了承されたものとみて構いませんね?」
「もちろんよ。存分に期待して待ってて頂戴! あぁ、でも。人助けするって言っても、具体的に何をすればいいのかな……?」
私の疑問に、パチュリーはホールの壁際にあるソファーを指差して答えた。ソファーには小悪魔が、背中を丸めるようにして眠っていた。
「あの使い魔は昨日と今日、私のために身を粉にして働いてくれました。おかげで作業は捗り、ひと段落つけるところまで内容が進んだので、私は彼女に休息を与えたのです。でもあまりにも疲れていたのでしょうね。あの子は自分の部屋まで戻れず、あそこのソファーまで行った途端、事切れるように眠り込んでしまったのです。
フラン。あの子のために、枕と毛布を持ってきてやってくれませんか? この図書館は本の管理のために空調を強めに効かせています。夏は熱中症が怖いですが、温度差の激しさからくる風邪も怖いものですから」
私は喜んで、彼女のための枕と毛布を持ってきていた。彼女の頭に枕を敷き、毛布をかぶせてやると、それまで少し寝辛そうだったしかめ面が和らいでいった。それで私はどうすればいいかを理解したのだった。暑苦しい部屋は風通しを良くして、逆に涼しすぎる部屋にいる人たちには風邪をひかせないようにすればいいのだ。
パチュリーの所に戻ると「ありがとうございます、妹様」と私は彼女から礼を言われた。
「本当は私がやるべきことだったのですけど、今こっちの方で手が離せなくて」
「いいよ。私の方こそ、パチュリーの邪魔をしちゃったみたいだし。パチュリーの役に立てて、私は嬉しいわ」
「ふふ、妹様は優しくなられました。素敵なことです」
「じゃあ、私は行くね。パチュリーも無理しないでね」
痛み入ります、と彼女はもう一度頭を下げた。そして私は図書館を後にしていた。
そこからの私は夜の紅魔館警備隊隊長、そして一夜限りの臨時メイドのフランドール・スカーレットになっていた。
妖精メイドたちが寝ている宿舎を静かに見て回り、不備のある部屋にはそっと立ち入って、部屋の状態を整えていく。
熱気がこもっている部屋では、しばらく窓とドアを開け放って風の通り道を作った。氷精のメイドたちがいる部屋では逆に、彼女たちの冷気に他のメイドたちが中てられないよう、跳ね除けている子たちの毛布を掛け直した。それを私は全ての部屋で実行していったのだ。とても大変な作業だった。時間があっという間に過ぎていった。でも不思議と疲れは感じなかった。誰かのために行動することが、私は楽しくて仕方がなかった。
ようやく全ての部屋を見終わり、最後に私は庭の片隅に建っている小屋へと向かった。そこは館の門番を務める紅美鈴の休憩室で、美鈴の私室にもなっている小屋だった。だが夜の間は美鈴以外にもう一人、一緒に過ごしている人物がいることを私は知っていた。
「おじゃましまーす……」
ノックはせず、断りの言葉だけ小声で呟いてドアを開ける。中をそっと覗き見た私は美鈴の他に、メイド長の十六夜咲夜が、二人一つのベッドで一緒に眠っているのを確認していた。
端的に言うと、二人の寝相はとても悪かった。包み隠さずに言えば、今まで見てきた妖精メイドたちの、その誰よりも酷かった。二人ともそろって毛布を跳ね除け、手足をあらぬ方向に投げ出し、ペアルックのパジャマは乱れに乱れていた。
美鈴はともかく、館随一の瀟洒で通る咲夜がこんな寝相をしているとなれば。だが彼女が全く瀟洒らしくない様相をしているのは、彼女自身が原因なのではないと私はすぐに気づいていた。即座に部屋の隅に置かれた冷房を確認する。思った通り、冷房は魔力切れで完全に動かなくなっていた。
冷房はパチュリー・ノーレッジ謹製の最高の逸品だ。温度を自動で感知して、気温が高い日は涼しい風を、気温が低い日は温かい風を送り出す。常に設置された部屋を一定の温度に保ち、快適な空間を提供する魔法の空調機。魔力供給はバッテリー式で、交換は誰でも簡単に行える。もの凄く便利なものなのだが、内蔵している魔力回路の構造がかなり複雑で、さらに希少な触媒を多く使っていることもあり、生産数がとても限られているのが欠点だった。私の地下室ですら導入されていない逸品なのだ。
この冷房が置かれている美鈴の小屋は、そんな貴重な魔法空調機が設置されている館で数少ない場所の内の一つだった。先にも言った通り、この小屋は庭の片隅に館と離れて建っている。夏の間、小屋は強烈な日差しを浴び続けるために、冷房が無ければ昼も夜もとても部屋としては機能しない。身体の丈夫な美鈴でさえ、若干参り気味の暑さなのだ。ただの人間に過ぎない咲夜が、夜間とはいえ、冷房の効かない部屋に居続けたらどうなるか? 想像に難くない。
私は暗い部屋を見渡し、美鈴と咲夜の私物で散らかった部屋の中から代えの冷房のバッテリーを探した。だが見つけ出したバッテリーが入っているはずの箱の中身は、既に空っぽになっていた。これでは冷房を動かすことが出来ない! どうすべきだろうか……?
考えるまでもないことだった。冷房は今すぐ必要なのだ。私はまったく躊躇わなかった。羽の宝石の一つを引きちぎり、それを触媒にして、私は冷房の中のバッテリーに自分の魔力を供給し始めていた。
魔力が再充填されるのには時間がかかる。冷房の隣に座って、私はぼんやりと時間が経つのを待っていた。
妹様は、優しくなられましたね。ふと思い出されたパチュリーの言葉に、思いを馳せる。
自分がこんな風に『他人に親切にしよう』と思うようになったのは、一体いつくらいの頃からだっただろうか? 正直よく覚えていない。でも以前にお姉様が赤い霧を幻想郷中に放って、それで巫女と魔法使いがここにやってきた異変。ずっとひきこもり生活だった私の日常が、あれ以降、少しずつ変わっていったのは間違いないことだった。巫女や魔法使いを含めた、館以外の人たちと触れ合う機会が増えていって。それまでの私はお姉様やパチュリー、咲夜以外には、館のメイドたちとも話をする機会があまりなかった。自分の部屋から出てみようとしたことすら、ほとんどなかったのだ。あの頃の私は短気で、陰湿で、そしてとても臆病だった。
そういう頃の自分と比べると、私は確かに変わったと自分でも思う。でもそれを言うなら、館のみんなも私と同じくらい変わったと思うのだ。みんな以前と比べてなんだか明るくなったし、それに私に対しても普通に、自然に接するようになった。厄介な腫れ物に触れるようにではなく、一人の吸血鬼として、フランドール・スカーレットという少女として、私を見てくれるようになった。それが私には嬉しかった。だからこそ私は変わることが出来たのだと、私自身はそう思っている。
ピッピッピッという魔法音に、ハッと意識が現実に帰る。いつの間にか魔力は満タンになっていて、冷房はとっくに再稼働を始めていた。手足をあちこちに放っていた二人は、いつしか咲夜の身体が冷えすぎないよう、美鈴が彼女を抱きしめるような格好で落ち着いていた。素敵な光景だな……、と私は素直にそう思った。美鈴は咲夜のことが、とても大好きなのだ。二人に毛布を掛け直し、私は静かに外へ出ていた。
扉を開けた目の前の地面に、手紙が置かれていた。拾おうと手を伸ばすとひとりでに封が開いて、中の手紙が宙に浮かび上がった。パチュリーからの手紙だ、と私はすぐに理解していた。
『お疲れ様です、フランドール。よく館中を見て回って、下々の者たちのために尽くされましたね。主の妹としてとてもふさわしい、鑑となる立派な行為でした。約束通り、お望みの魔法をお教えしましょう。
地図を同梱しています。それの印が付いている場所に行ってみなさい。そこで貴女の望むものが、きっと得られるはずです』
一緒に示された地図は、紅魔館の見取り図だった。印の付いた場所を確認した私は、一人小さく笑っていた。パチュリーの考えていたことが、ようやく分かったからだ。
「最高よ、パチュリー・ノーレッジ! 貴女はやっぱり最高の魔女だわ!」
私は即座に先ほど使い残していた触媒を用いて魔方陣を展開し、汗臭くなっていた衣服と自分の身体を消臭する魔法をかけていた。これでまた魔力を消費することになってしまったが、これから会うことになるであろう人物のことを想うと、まったく躊躇いはなかった。
魔力を大量に消費したせいか、忘れていた暑さと疲労を徐々に感じるようになっていた。身体を思ったほどには動かせず、紅い館の中を歩く足取りは重いものになりつつあったが、心は今までで最高に軽くなっていた。
そっと静かに、でも心持ち早足で、目的地に辿り着く。そこはレミリアお姉様の寝室だった。
音を立てないように扉を押し開け、中へ入る。
私はそろそろと忍び足で、お姉様が寝ているはずのベッドへゆっくりと近づいていった。眠っている間に隣に潜り込んで、朝起きた時に驚かしてやろうという肚積もりだったのだ。
しかしベッドの中を覗き込んだ私は、そこで合わないはずの目と目が合ってしまっていた。数瞬の間、互いにじっと見つめ合う。そうして耐え切れなくなって、私たちはくすくすと笑い出していた。
「ねぇ。お姉様?」
「なんだい、フラン?」
「この一晩、そうやってずっと起きていたの?」
「まさか。お前がここに来る運命が見えていたからね。だから今起きたばかりなのさ」
お姉様の言葉は尤もらしく聞こえた。だがその言葉は嘘だろうと、私は確信していた。
もちろん根拠のない、ただの勘だ。だけど私の大好きなお姉様は、自分が妹のために苦労しているところを、当人には極力見せないようにしようとする傾向があった。そんな気遣いが当人である私に、とっくに見抜かれているとは思いもしないで。
きっとパチュリーとお姉様は最初から結託していたに違いないのだ。私がパチュリーの元を訪れた、あの時から。そうでなければパチュリーはわざわざお姉様の寝室に、私を誘導させようとなんてしなかっただろう。特にパチュリーは、私がお姉様をどれだけ好いているかを知っていた。そんなパチュリーがお姉様に掛け合って、今このように私が驚くよう仕向けたのだとしたら。愛情を感じる二人の行動に、私は涙が出そうになっていた。
「おいで。フラン」
お姉様が布団を広げて、私をベッドに誘う。私は誘われるままに、お姉様の作った空間に身体を潜り込ませた。意外、というよりは驚くほどに、ベッドの中は涼しかった。両腕が背中に回される。私もお姉様を求めるように、その身体を抱きしめていた。
お姉様の香りを、私は感じていた。お姉様らしい気品さと、気高さと。そして包み込むような寛容さを感じさせる香りを。ふっと笑みを浮かべて、私は小さく息を吐いた。酔いしれそうな素敵な感覚が穏やかな風に乗って、お姉様の周りを取り巻いていた。
そう、風が。涼しさを感じる風が、お姉様から吹いていたのだ。そのことに私は気づいて、可笑しくならざるを得なくなっていた。
「ふふふっ……お姉様?」
「なぁに? 私の可愛いフラン?」
「お姉様の胸の中……そこに何を隠し持っているのかしら?」
私の言葉にお姉様はにっこりと笑ってみせると、胸の間に手を入れて何かを取り出して見せていた。
暗闇の中に小さな灯りが広がっていった。お姉様が手に持った小さな光。魔力回路の中に封じられた魔法が、冷たい風を生み出していたのだ。感嘆の溜め息を、私は漏らした。
「涼しい……。それに、きれいな光……」
「パチュリーの研究成果の一つでね。小型の魔法空調機の試作品だそうだ」
「とても素敵ね、お姉様。あぁ、でも! パチュリーはずるいわ。私が訊いてもこんなの貸してくれなかったのに、お姉様にはあっさり渡しちゃうなんて」
「ふふっ、パチュリーはずるいか。私はずるくないのか?」
「ずるいわ。お姉様もずるい」
「そうだろう。私だってそう思っていたんだ。独り占めは良くないってね。だから……」
お姉様は呟くと、私の胸の間にその光を預けていた。
「これはフランに貸しておく。そして明日は、私がお前の所に行こう」
身体全体に、涼しさが広がっていった。暑さを忘れていった私はお姉様の身体を抱きしめたまま、もうそこから動くことが出来なくなっていた。安堵が疲労を完全に思い出させていた。疲労は睡魔を再び呼び覚まして、私の意識を夢の世界へ誘おうとしていた。
お姉様が宝石の欠けた私の羽を、愛おしそうに触れていた。
「この羽は」お姉様は言った。
「お前が家族を愛し、そして家族がお前を愛した証だ。私はこの羽を持つお前を、誇りに思う」
そうして最後にお姉様は、私の額にキスをしてくれた。それがその夜、私が覚えた最後の記憶になった。
「私の愛しいフラン。世界がお前を変えたのではない、お前が世界を変えたんだ。
これからも自分を信じて、前へ進んで行きなさい……」
微睡みが、私の意識を溶かしていく。
おやすみなさい、お姉様。おやすみなさい、紅魔館のみんな。
明日は少し、涼しくなるといいな。
眠れない夜に、涼しさを求めて。
なにより、フランドールの優しさをよく見せた上での、流れでしたのでより伝わります。
涼しさを求める話なのに、心が温まりました。
ただ、レミィがパチェ呼びしていないのが少し不自然でした。
可愛いフランちゃんいいなぁ
いつかその全貌を読んでみたいです
お姉ちゃんに敬意を払うフランがいじらしくてかわいかったです
ただ本筋に関係ない設定や説明が多くてテンポが悪くなっているような気もしました
さらっと同衾してる美鈴と咲夜も熱中症1歩手前で良かったです
フランの羽の宝石が当然のようにパージされて笑いました。
>可笑しくならざるを得なくなっていた
とかもうガチガチ。言葉がすんなり入ってこないんだよねー。
地の文が一人称視点なのに説明文過ぎる=フランらしくないのが気になりましたね。一人称なのに三人称っぽくてチグハグ。
フランの気持ちや思考に寄せたらもっと読みやすくなっていいんじゃないかと思います。