目を開けると、木々の葉陰から弱々しい星の光が見えた。あくびを一つすると土の匂いがして、身体を伸ばすと夜露に濡れた冷たい草の感触がした。それで、跳ね起きた。
魔理沙が目を覚ますと、そこは夜の森だった。
魔法の森ではない。どこか見知らぬ森である。
上体を起こしてぐるりとあたりを見渡して、確かにそこが森であると二度か三度確認すると、それから「はあああ」と何かが抜けたような声をあげた。一体これはどうした事か。
夜の森で大の字になって眠り込むなど正気の沙汰ではない。それほどまでに自分の肝は太くなかった筈だぞと、これまた幾度か自問して立ち上がって今度は土を踏む冷たい感触にまたおかしな声をあげてしまった。驚いて足元を見れば自分は裸足である。それどころか当然目にはいるはずのエプロンも黒いスカートもなく、自分の体を包んでいるのが薄桃色の寝間着だと気づいた時、今度こそ魔理沙は今までで一番大きな声でぎゃあと悲鳴をあげたのだった。
自分の身体をかき抱くようにしながら、喉の奥から悲しげな唸り声が自然に漏れ出てきて、また自分で自分に驚いた。あるべき時にあるべき姿でないとはこれほどに心細いものなのか。いつもの白黒の格好にごついブーツがあればきっと自分はこうはならない。くそうくそう畜生めと呟きながらうろうろと当たりを探って、何をしていたのかと言えば帽子と箒を探していたのだった。
いくら思い返してみたところでこんな場所で寝入る前、自分が何をしていたのかわからない、というよりも、今のこの異常な現実に圧倒されて頭が回らない。ともかく外に居るという事はつまり箒に乗って来たはずで、したがってそこらに箒があるだろうと、そういうつもりだった。しかし考えてみればそれなら自分は寝間着で箒に乗って空を飛びここまで来たはずで、そんな乙女らしからぬ行いをしたなら、それはそれで問題である。
しばらくの間、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながらうろうろとしても箒も帽子もどこにもない。どうやら自分は正真正銘この透かせば肌が見えるような心もとない格好で歩いてここまでやって来て、大地のベッドに身を投げ出して心地よく眠っていたらしいと確認が取れて、魔理沙はまた言葉にならない声を吐き出した。
暗い森に立ち尽くして何でこんな事にと考え始めて、すぐにそれをやめた。具体的な何かという訳ではないが、心当たりは山ほどあるのだ。例えば喰ったキノコにやばい奴が混じっていて異常行動をしたとか、狸か狐に化かされているとか、魔女か妖怪か知り合いの悪戯とか。考えても埒もない。
ともかく、帰らねば。と切り替えられるあたり魔理沙はこの手の出来事に慣れているのかもしれなかった。考えるのは後にして帰ろう。そうしてちょっと足を踏ん張って、魔理沙はぴょんと跳ねた。また跳ねて、またもう一度跳ねて、それから次にまたよく判らない呻きを発した。
どうやら自分は飛べないらしいと気が付いて、ついに背中の毛が逆立つのを感じた。
「あり得ないだろ。いや、どー考えてもあり得ない」
ようやく人語を思い出したのか魔理沙は呟きながら夜の森を歩いている。拾った枝を振り回しながら暗い森を行く。そもそも、知らぬ森のど真ん中で寝てるというところからしてあり得ない。寝間着でそんな場所に来るのもおかしいし、箒がないのもあり得ない。もっと言えばこの森もおかしい。木々の様子からするとそれほど深い森ではないのに、しかし下草は伸び放題荒れ放題で人の手が入った様子もない。故に――
「これは夢だ。夢の世界だ」
と、そういう結論が下されたのだった。一歩踏み出すごとに裸足の足裏につたわる土やら草やらの感触が魔理沙にそうではない事を訴えかけるようだったが、強いて無視した。夢でなかったとしたら、この状況はそうとうに深刻である。夢だ夢だと独り言を呟きながらしかし暑くもないのに汗は出るし、背中につたう危機感はそこに張り付いたままだった。
しばらく歩くと木々の向こうから白い光が見えて、とっさに近くの木の陰に飛び込んだ。夜の森で出会う光といえば妖怪の出す火くらいしかない。見知らぬ妖怪とこんな格好で対峙するのはまっぴら御免だし、知り合いに笑われるはもっと御免だ。魔理沙はかなり長い間木の陰からそうやって光を観察して、それが動きも増えもしないことをようやく確認して近づいてみる決心をした。無視するとか進む向きを変えるという選択肢もあったが、魔理沙にはその光をどこかで見た覚えがあった。
腰を低くして下草を掻き分けて行くと、唐突に森は途切れた。灰色の一枚岩が敷かれているかのようなつるつるの道の向こうに、白い光を放つ街灯がぽつんと突っ立っている。魔理沙はそこでようやくあの光が早苗の家の照明と同じ光だと思い出したのだった。
「あー……」と漏れた声の後に続くはずだった呟きは一体なんだったか、魔理沙自身にもわからない。無機質なその光を中腰のまま見上げながら、ぽかんと口を半開きにして、しばらく固まっていた。
どうやら自分は外の世界に来てしまったらしい、それも寝間着一丁で。やっとのことでそう理解して、夢だ夢だと思い込むことでなんとか無理くりここまで働いていた魔理沙の行動力は完全に尽きてしまった。
戻ろう、と思った。森の中のあの最初自分が寝ていたところに戻ろう。あそこに戻ってそれでなんとか幻想郷に戻る方法を見つけねばならない。
一歩二歩と後ずさって、森の方に向きを変えた。最初の場所に戻ったところで、そこに幻想郷への帰り道などあるわけも無い。なにか無いかと散々探して結果無かったからここまで裸足で森を徘徊してきたのだ。が、ともかくこのときの魔理沙には戻るしか道が無かった。
「あら、どこいくの?」
背中で声がして振り返ると、そこにいつのまにか人影があった。明るく冷たい街灯の下、日傘を差した彼女の周りはそれを遮ってかえって影が濃い。
「意外と臆病ねェ。勿論、知ってましたけど」
影の中からそう声がして、魔理沙はおずおずとそちらに進み出た。知り合い、なのだろう。いやきっとそうに違いない。なにせあの日傘はよく知っている。声だって間違いない。けれど、その人影は自分のそうあってくれという願望が見せる幻ではないかとさえ思えた。 "外の世界"という舞台装置も、白い街灯の下の知り合いも、寝間着で徘徊している自分も、何もかもが嘘くさいなかで、素足につたわる一枚岩の道の冷たさだけに現実感があった。道の半ばまで進んで、その人影の後ろに『不審者に注意!!』という看板があるのに気付いて小さく吹き出した。それで、ようやく魔理沙は少し落ち着いた。
影の中にいるのは間違えようも無い、八雲紫だった。
「その格好はあんまりね」と、紫はスキマを開いて服とサンダルを出してくれた。白いラインの入った臙脂色のその服はジャージと言うのだと早苗に聞いて魔理沙は知っていた。寝間着の上からジャージを着てぶかぶかのサンダルを履くと、それでも少し心細さがましになった。
「さ、行くわよ」
と、それだけ言って紫は道を歩き出した。
「行く? どこへ?」
尋ねながら、魔理沙は当然「帰るのよ」という言葉が返ってくるものだと思っていた。何か、よく判らない理由で外の世界に飛ばされた自分を連れ戻しに来たのだと、そうとばかり思っていた。前を行くスキマ妖怪は少し振り返って楽しげに言った。
「真実を暴きに」
あっけに取られる魔理沙を置いて、くるくる回る日傘は夜の道を進み始めた。
カツカツと踵の高い靴の音が舗装に響く。闇夜に日傘、その影に暗紫のスキマ妖怪。暗がりがそのまま動いてるかのようだ。音がするのだから確かに足で歩いているはずなのに、ソレはまるで滑るように前を行く。魔理沙は道端に森の道具屋にある標識の変種を見つけて「やはりここは外なのだと」頷き、走る自動車の騒音に目をむき、塀の石がみな同じ大きさ同じ形に整っている事に感心し、前を行く紫の足音が遠いことに気付いて慌てて駆ける。そのたびに魔理沙はゆっくり歩けと抗議の声をあげるが「ゆっくり歩いたらかえって貴方迷子になるわ」とにべも無い。どうも物見遊山をさせるつもりは無いらしい。
歩くうちに周囲は明るくなって、何も知らぬ魔理沙にも段々と繁華な所に近づきつつあるのが判った。通りを行き交う人がだいぶ多くなって、ぶつかれば面倒なことになるかも知れないと、少し緊張した。見るもの聞くもの何もかもが初めてで、なぜ自分はこんな場所に居るのかとか、なぜスキマ妖怪が自分を先導しているのかとか、そんな事を考えるゆとりはもう魔理沙には無かった。見上げるような建物の脇を通り過ぎ、たくさんの自動車が整列している道を渡ると、ついに紫はある建物の前で停止した。「ここよ」とだけ言って日傘を畳むと、何のことやらわからない魔理沙を置いて、さっさとガラスの扉の向こうに行ってしまった。手をかざすとガラス扉は勝手に開いた。引っ込めれば勝手に閉じる。その閉じたガラス扉の文字を見て、魔理沙は一遍に思い出したのだった。
なるほどこれが真実かと、魔理沙はそう思った。
◇◇◇
その日、魔理沙は先日里で仕入れた馬鹿な話と引き換えに夕食にありつこうと神社の石畳に降り立った。ちょうど日も沈もうかという頃で、長く伸びた鳥居の影が社殿のそばまで伸びていた。巫女は掃き掃除でもしてるか、それともどうせ来もしない参拝客を賽銭箱の隣で待ってるか、そんなところだろうという魔理沙の勘は外れたようだった。境内を見渡しても巫女はおろか跳ね回って遊ぶ妖精共さえ見えない。母屋の角をまわって貧相な庭にも巫女はいない。外に居ないなら中である。そういうわけで魔理沙は確認もせずに靴を脱いで縁側に上がった。
見るとちゃぶ台の向こうにいるのは仏頂面の巫女ではなく、すまし顔で茶を飲むスキマ妖怪だった。
「ああ……。なんだ霊夢は留守か」
「少し用事を頼んだのです。久しぶりね魔理沙」
そう言って作り物のような笑みを投げると紫は小さな湯飲みを置いた。この神社には彼女専用の湯飲みまである。無論、魔理沙のもあるが。お互い私物を持ち込むほど頻繁に来ている筈なのに、こうして顔を会わすことはめったにない。きっと、と魔理沙は思う。普段はよほど変な時間に来るのだろうこの妖怪は。とはいえ魔理沙の方とて神社に来るのに時間を選んだ覚えなどないのだが。
魔理沙の頭の中はともかく、体の方は箒を持って縁側に突っ立ったままである。霊夢が留守なら珍しい奴と茶でもしばくか、という風にはすんなりいかない。魔理沙はこのスキマ妖怪が苦手だ。嫌いという訳では決してないし、宴席でなら絡みもする。しかし二人きりで茶を啜りつつ話し込むという仲でもない。
それで、魔理沙は縁に突っ立って口を曲げている。幾らなんでも座敷を確認した途端に回れ右してサヨウナラという訳にもいくまい。
「そんな所で固まっちゃって、そう露骨に人を嫌うものではないわ。お座りなさいな」
ほらここに――と、言いながら開いたスキマに手を突っ込むと中からいやに派手な包装をされた菓子らしき物と、続けて湯気だった湯飲みを取り出した。
「貴方のお茶もお茶菓子もあります。お話しましょ」
このツルツルの妙な紙に包まれた菓子は間違いなく外の世界のものだろう。珍品で自分を釣ろうという魂胆が見え透いている。安い手口だと魔理沙は口をとがらせ、しかしそれでも箒を置いてちゃぶ台の前に座った。
意識して渋い表情を作っていた魔理沙だったが、手に取った菓子の袋の手触りが初めての感触で、それを破く時のバリバリという音がこれまた今まで聞いた事のない種類の音で、もうそれで浮き立つような気持ちが腹の底の方からせり上がって来て、いつの間にか顔が緩んでしまう。包み紙の内側はまるで磨きたての金属のように銀色に光っている。そこから一つ摘み上げた菓子はまるで重さがないかのようだった。
「どうかしら?」
「不思議な味だ。油っぽい」
スナック菓子ですからね、と対面のスキマ妖怪はわからぬ事を言う。名詞だけ言われても知らぬ者には説明にならないのだ。アレをこうしてこう作った菓子ですと言えばよいのに。コイツは何を言うにしてもわかるようには言わないのだ。
ずずずと茶を啜る。
魔理沙の手に余る大きな湯飲みは型にはめて作ったかのようにキレイな形をしている。魚偏の漢字がぎっしり書き込まれているが、魔理沙には鮒と鰻くらいしか判らない。
「この茶も変な味だ。安っぽい」
「回転寿司の粉末茶ですからね」
「さよか」
わかるように言わないのだから、聞き流すのが得策なのだ。そこで喰い付いても望む答えなど絶対返ってこないのだから聞き流すべきなのだ。
魔理沙はガシガシとスナック菓子という奴を喰いながら、右の耳から入った言葉が左にそのまま抜けていくところを空想した。嫌なことも面倒なこともそんな風に聞き流せたら、どんなに便利だろう。無論現実はそうは行かないわけで、わかっていても聞き流せない事もある。ちょうど今聞いた謎の単語のように。
そう、粉末茶は分かる。どうあれ粉末の茶なのだろう。しかし、しかし『回転寿司』はどうだ。寿司は言うまでも無く食い物、というか料理の名前で、料理の名前の前につく言葉はその料理を説明する言葉だろう。江戸前寿司ならどこの寿司か説明してるし、押し寿司なら料理法を説明しているしマス寿司なら何の寿司か説明している。しかし『回転寿司』はどうだ。
魔理沙はちゃぶ台に視線を落として、安い味の茶をもう一度啜り、しずかに「紫よォ――」と対面の名を呼んだ。
「私はな、お前の誘いに乗ってここに座った事をいま猛烈に後悔してる」
ガシガシと菓子を食いながら言う。スナック菓子には中毒性があると外の世界で言われた事など魔理沙はきっと知らないだろう。
「あら、それにしては美味しそうに食べてるわ」
「この菓子はどうでもいいよ。よくないけど、今はどうでもいい。お前にものを訊いてもお前は絶対こっちに判るように答えない。そして私はその事をよーく知っている。なのにどうしても聞き流せない。訊いても意味無いのに訊かざるを得ない自分の状況が腹立たしいし、そういう状況に追い込んだお前の事が腹立たしいし、釣られて座った自分のアホさが腹立たしい」
幾らなんでも回転寿司はないだろう。
「そうねェ。貴方は身の程を知るべきね」
「黙れよ。わけわからない事ばっか言いやがって」
ガシガシ。
嘘をつくならもっとそれっぽい嘘を吐けばいいのに、馬鹿にしてやがる。
また茶を啜って、フンと息をついて、ようやく魔理沙は顔を上げた。また渋面に戻っている。
「お前は暇をいいことに私をからかって遊んでいるわけだ」
まぁ、酷い。と言いながら言った本人はクスクス笑っている。
「こうして珍しい外の物を見せてあげたというのに」
「私に身の程を云々とか言うけどな、お前は私ごときをからかって遊ぶそのヒネた性根をどうにかするべきだぜ」
憮然とした魔理沙が帽子を取って畳の隅に放ると、そこにスキマが開いて帽子が飲み込まれた、と思うや帽子は魔理沙の頭上に落ちてきて、頭にすぽりと嵌った。どこまでも馬鹿にしてやがる。
「お前な、やる事が狡(こす)いんだよ。何なんだよ。外を知らない小娘に適当なこと言って、『この中に嘘が一つあります。どれでしょう?』とかそういう遊びかよ」
「あら、何の話?」
「回転寿司だよ。回転寿司が嘘だよ。どうだ正解だろう。馬鹿にしやがって」
「正解も何も、嘘なんかついてませんわ」
「馬鹿言うな。何だよ『回転』って。料理の前につく言葉じゃないだろうが。回転て、回るのかよ! 寿司が! くるくる! ふざけんな!」
「そうよ。まわるのよ、お寿司が」
「嘘吐くときはピクりとでも眉動かせよ。可愛げが無いぜ」
魔理沙は思い切り眉間に皺をつくって湯飲みを取った。コイツのことだからそもそも全部嘘かもしれない、とも思う。不味い茶を啜って向かいを見ると紫は閉じた扇子を唇に当てて、面白そうにこちらを覗っている。悪い顔だと、そう思った。
「『嘘』ねぇ。……嘘、嘘、嘘」
紫は足崩し、しな垂れる様に畳に横になった。左腕を枕にして細くて長い指で畳の目を弄る。横になった紫の腰の辺りの線が、なにか見てはならないものの様な気がして、魔理沙は目をそらした。その瞬間に座敷の低いところから問いが掛かった。
「ねぇ、魔理沙。嘘って何かしら?」
「何って本当じゃないことだろ」
そっぽを向いたまま何気なく答えてしまってから、魔理沙はしくじったとまた後悔した。聞き流すべきなのだ。真面目に対応しては駄目なのだ。特にこういうつかみどころの無い話は危ない。こちらがどんなに考えたところでコイツには追いつけないのだから、結局話の行く先は紫しだいである。そうして最後は馬鹿を見る羽目になる。
「なら真実は?」
適当に答えよう、いっそ茶化すのでも構わない。
「あー……」
畳に寝そべる紫の顔はちゃぶ台に隠れて見えない。
「本当のこと?」
そう言った紫がまたクスクス笑った気がした。
「……そりゃ、ただの言いかえだろ」
「わからない事があるなら調べればよいのです。さぁ、ここに字引きがあります」
魔理沙の脇にスキマが開くと青い表紙の分厚い辞書が重たい音とともに畳に落ちた。魔理沙は辞書を開いた。言われるがままに。
うそ【嘘】一.真実ではないこと。また、その言葉。いつわり。
予想通りの事が書いてあって魔理沙はなぜか妙に嫌な気分になった。次も予想通りだったら、とても困る。そしてきっと、もっと嫌な気分になるだろう。
しんじつ【真実】一.いつわりではないこと。ほんとう。まこと。
何も、驚く事はない。ごくごく当たり前のことだろう。嘘は真実じゃない事で、真実は嘘じゃない事だ。当たり前で当然だ。自分が困る事など何一つ無いはずなのに、この追い詰められていくような嫌な感覚はなんだろう。
魔理沙の焦燥などお構い無しにちゃぶ台の陰から声が飛ぶ。
「このちゃぶ台ね、実は私が子供の頃使っていた物なの」
「……嘘だ。このちゃぶ台は何年か前に大市で私が買ったんだ。前のを私がぶっ壊しちまったからな」
「私ね、実は今とても頭が痛いの」
「……なんだいきなり。とてもそうは見えないぜ」
「あら、私が嘘ついてるって言うのかしら?」
スキマ妖怪がゆっくりと身体を起こす。思ったとおりだ。思ったとおり、悪い顔をしている。
「魔理沙は、真実を知っているの?」
じわり、と部屋が暗くなった気がした。夕暮れ時だ当たり前だと念じながらも、魔理沙は振り返って沈む日を確認することも、部屋を見渡すことも出来なかった。視線はモノを言う紫の口元に、扇子を弄ぶ手元に吸い付けられて外すことが出来ない。
「…………知らねぇよ。ああそうだよ、私はお前が本当に頭が痛いのか、それとも嘘を吐いてるのか、私には知りようが無い。だから判らない」
「なら、私が今言ったのは何?」
「何って……」
ぱちり。音をたてて紫が扇子を開いた。また少し、気付けないほど僅かに、部屋は暗くなった。座敷の四隅から天井の四隅から、徐々に暗くなってゆく。
「私が言ったのは真実?」
「……判らない。そう言ったろ」
「それとも、私が言ったのは嘘?」
「だから、私には判らん!」
すみれ色の扇で口元が隠されるその瞬間、魔理沙は確かに彼女の吊り上がった口角を見た気がした。あの扇子はきっとそれを隠すために違いないと、ぼんやりそう思った。
「嘘は見破られたからこそ嘘なのであって、暴かれなかった嘘は嘘じゃないわよね? なら――」
確かに扇子の向こうで発せられたはずなのに、その声は薄い和紙に跳ね返り、畳に壁に天井に乱反射してようよう魔理沙に届く。
「なら、それは何なのかしら?」
まるでこの部屋が、この場そのものが語るかのように。
「それは……」
真実は嘘ではない事で、真実が露見して初めて嘘は嘘になるのなら、暴かれなかった嘘は――
「真実?」
どこかで声がした気がした。
――そんなわけない。いや、そうなのかな。
口元を隠した化物が上目使いでこちらを覗っている。扇子の裏では嗤っているのか、それとも舌なめずりをしているかもしれない。
魔理沙の脳内では今や警報が唸りをあげている。流されては、駄目なのだ。このスキマ妖怪の手にかかればは口八丁手八丁、相手が弱いと見るやかさにかかって丸め込んで、白い物も黒いという事になってしまう。コイツの前では主体性こそが重要で丸め込まれたらどこに着地させられるかわからない。
「いいや違う、違うぞ。他の誰もが知らなくても嘘をついた本人は知ってるんだ。頭が痛いか痛くないか、お前はわかってるだろ。だから違う。嘘は嘘だ」
「嘘は本人の明確な意思の下でのみ使われるものではないでしょう? 意図しない嘘や本人が真実と信じ込んでいる嘘だってあるわ」
「そんなもん……」
「酔っ払いがろれつの回らない口で『あそこに桃色のゾウがいた』と言ったとき、それは嘘? それとも真実? 酔っ払いの事だから幻を見たというのは確かにありそうな事だけど、だからといって彼が見たものは全て幻だとは限らないわ。そしてそれが事実まぼろしだったとしても、彼は彼に見えた真実を語っただけで嘘をつく意図などないわよね?」
「それはお前……そうだ、なにも真実でない事がみんな嘘ってわけじゃない! 見間違いってのがあるだろ。間違いは真実じゃないが嘘でもない!」
「浅はか。浅はかよ魔理沙。嘘と誤りの差など――それこそどうでもよい事です」
そんな訳あるか、という魔法使いの半ば叫ぶような言葉はスキマ妖怪の静かな声に遮られた。
「どうでもよいのです。なぜならそれは誰にも判らないことだから。真実でない何かが嘘なのか間違いなのか、客体には判断しようがありません。なにせそもそも真実でないのだから確かめられない。そして信じ込んでいる主体もまた判断できない。それは決して暴かれることのない事柄なのです」
暴かれない――。
魔法使いはオウム返しにそう呟くしかできない。
「そう、私は頭が痛いのか否かと同じように、それもまた暴くことが出来ない――」
ならば、暴かれなかった嘘は――。
「さぁ、魔理沙。私はもう一度問います。暴かれなかった嘘は、それはいったい何なのかしら?」
影が、と思った。どこもかしこも影だらけだ。見慣れた博麗神社の居間で、見慣れた襖、見慣れた畳、見慣れた天井、見慣れたちゃぶ台。その筈なのに、どこもかしこも影ばかりがやたらと目立つ。まだ陽は暮れてない。そのはずだ。振り返れば縁側の向こうにきっと紅く焼ける空が見えるはずなのだ。なのに魔理沙は振り返れない。振り返って、もしそれが見えなかったら、ただただ昏いばかりの空間が広がっていたら、どうしたらいい。
「ピンクの象が嘘なら――」
扇子の陰からいやにのんびりした声が漏れ出てくる。声はスキマ妖怪の手元から流れ落ち、座敷に溢れる影を這い伝って魔理沙の膝元から昇ってくる。
「――夜の闇に怯えた男が見た、柳の下の幽霊も嘘かもしれないわねェ」
それを嘘だと、他でもないお前が言うのか。ソレが嘘なら、もしソレが嘘なら――
ぱんッ! と音を立てて唐突に襖が開いた。驚いて顔を上げると開け放たれた襖の向こうに眉間に皺を寄せた巫女が立っていた。襖の音も巫女が鳴らせば神前の拍手(かしわで)に等しいのか、部屋を覆い魔理沙の膝を浸していた筈の影は音に吹き飛ばされて、すでにどこにもなかった。
「あら霊夢、お帰りなさい。どうだったかしら?」
見れば紫は魔理沙が最初見たのと同じにこやかな笑みである。霊夢の前でもさっきまでみたいな顔してみやがれ、と心中で毒づきつつ、体じゅうに張り詰めていた緊張がほうと口から抜けていった。
「どうも何も、結界の異常なんて何も無かったわよ」
「あらそう?」
「ほら用事終わったんだから帰りなさいよ」
「ちょっと、目上の者をそう邪険に扱うものではないわ。お夕飯一緒にって言ったでしょ?」
「うっさい。家主が帰れって言ってんのよ。ほら!」
無駄足を踏まされて腹を立てたのか、それとも何か別な理由があってか、巫女は賢者を足で小突き回して結局追い出してしまった。「霊夢ったら酷いわ」とぶちぶち文句を言いながら開いたスキマに潜り込むその瞬間、魔理沙には紫が自分を振り返ったように感じた。
「よー、何も追い出すことも無いんじゃないか?」
「いいのよ。あいつ図々しいんだから。この前なんて朝起きたら――」
霊夢はそこまで言うと妙な顔になってはたと固まった。
「起きたら?」
「…………なんでもない。ねぇ、それよりご飯食べてくでしょ?」
無論、そのつもりで来た。強引に話題を変えたかに見えた巫女はもう鼻歌を謳いながら割烹着をつけている。なんだか釈然としない心持のまま魔理沙も後に従った。この神社でただ飯を食うには手伝いが条件なのだ。
馬鹿話をして台所で笑いあってる最中、ふと魔理沙はあの紫の問いに霊夢ならなんと答えるだろうと思った。どういうわけかこの巫女には嘘が通じない。勘がいいといえばそれまでだが、もしかすれば何かの力で嘘を見抜けるのかもしれない。なら――。
ちゃぶ台に質素な夕食が整えられて、二人で座布に座っても魔理沙の落ち着かない感じはそのままだった。あの影は、この部屋を覆っていた影は一体どこに失せたのだろう。部屋の四隅、頼りなげな行灯の灯が届かぬそこに、天井の角にそれはまだ残っていて、霊夢が席を立って部屋から出て行った隙に、ふと気を抜いたその瞬間に、また溢れ出しやしないかと、馬鹿なことを思ったりした。
宵っ張りの魔理沙と違って神社の夜は早い。晩酌もそこそこに床が延べられた。霊夢が灯を吹き消さんとしたその時、魔理沙は消さないでくれと口から出そうになった。灯を消しても魔理沙が心配したようなことは起らなかった。ただ部屋が暗くなっただけだ。
神社に置きっぱなしの寝間着に着替えて布団に潜り込むと、隣から待っていたように声がした。
「ねぇ、紫となに話してたの?」
「あー……、まぁ世間話みたいなもんだよ」
「ふぅん」
「なんだよ、気になるか?」
「別に」
もそりと布団が動いて、霊夢が寝返りをうったのがわかった。
やはり、問うてみようか。暴かれなかった嘘は何なのか――
「わかってると思うけどさ、あいつの言うこと真に受けないほうがいいわよ」
「……おう」
寝つきは、悪かった。いっそ布団を飛び出て箒に飛び乗り、疲れ果てるまで飛び回ろうかとも思った。博麗神社の見慣れた天井、右を向けば開け放ったままの障子の向こうに見慣れた貧相な庭。なにも変わったものなど無いはずなのに、何かが変わってしまった気がする。居心地の悪さに寝返りをうつと霊夢の後頭部が見えた。何も変ってはいない。その筈なのに眺めているだけではどうにも不確かで、触って掴んで撫で回してみないと確信が持てないような。なのにすぐそばにある黒髪に手を伸ばすのは、なぜだか躊躇われた。
もう一度、寝返りを打った。庭は月あかりで明るい。もう庇の上まで昇っているのだろう。
魔理沙はもそもそと布団から抜け出し、音が立たないよう注意して戸棚から徳利を引き出した。月見酒のつもりだったが、今の自分に何かを楽しむような心の弾力が無いのはわかりきっていた。ようは寝酒である。肴もない。
縁側まで出るとやっと月が見えた。湯飲みに酒を注ぐと底に残っていた茶っ葉が浮いた。ちびりと舐めて月を見ても魔理沙の気分は変わらなかった。
あいつは結局――
「何が言いたかったんだ」
思わず、声に出ていた。暴かれなかった嘘は真実なのか、それともやはり嘘なのか。
一人で飲む酒はよくまわる。肴もないからなおさらだ。こうやって酒精に浸かってしまえばピンクの象も見えるのだろうか。いやいや、と魔理沙は大げさに頭を振った。居ないものは居ないのだ。そう、ピンクの象など居やしない。そうすると柳の下の幽霊も。ならば廃洋館の騒霊も、跳ね回る妖精も、森の魔女も吸血鬼も。
――嘘なのか。
ああ、そうだ。スキマ妖怪なんて一番怪しい。それから――
妖怪退治をする巫女も。
なにか、そうしないといけない気がして魔理沙は振り返った。もう酔いのせいで瞼を支えるのがやっとだ。座敷の布団から静かな寝息が聞こえる。けれど盛り上がった布団に隠れて親友の顔は見えなかった。
そうだ、忘れていた。
「魔法使いもな……」
ぽつりと呟いて上体は後ろに倒れ、空の徳利も倒れて縁側を転がった。そうしてやっと魔理沙は眠りの床についた。
◇◇◇
魔理沙の目前ではきらきら光る魚の切り身が酢飯に乗って次から次に流れている。ついでにどう考えても寿司とは関係なさそうなものまで皿に乗って流れているが、これはまぁよかろう。蕎麦屋だって天丼を出すのだし。
「これが、回転寿司か……」
「どう? まわってるでしょ?」
「まわってるな、確かに」
勝手に取って食べていいのだと紫は一皿とって箸を割った。まさかそんな事はないだろうと躊躇していると、店員はテーブルに残った皿の色で客が何を食ったのかわかるのだという。それでやっと納得して魔理沙もちょうど目の前に来た皿を取った。
「お茶も自分で淹れるのです」と紫は言った。伏せられていた湯飲みを取ると、それはあの魚偏の漢字がびっしり書かれた湯のみだった。粉末茶はなるほど粉末だった。寿司は、不思議な味だった。 口に入れると魚の切り身と酢飯はほろりと溶けて混ざり合った。魚といえば泥臭いものと思っていたから癖のなさに驚いたし、脂の乗った身の柔らかさといったらなかった。食べるそばから来る皿を取っていると、干からびて無さそうなのを取るようにと注意された。紫はいちいち注文して、出来たてばかりを食べているようだった。
「しかし、考えていたのと違う」
「あら、そう?」
「これは『回っている』というより『周っている』だろう。回転じゃなくて周回だ、周回寿司だぜ」
「あら、屁理屈? お寿司が独楽のように回るわけないでしょう。腐ってなくても豆腐は豆腐だわ」
「このやり方はむしろ流しそうめんに近い。流し寿司だ」
魔理沙はなおもぶつぶつ言いながらまた一皿取った。それを食べて茶を啜って、一息をついた。満腹すると人は落ち着くものだ。異世界に来て見るもの聞くものに一々反応していた魔理沙もやっと弛緩しようかとしていた。
落ち着いてみれば、自分が未だに異常事態のただなかにあるのは明白だった。目を開けたら外の世界にいて、しかも八雲紫と回転寿司なる妙なものを食っている。あれこれ考えるなら自分のこの現状をこそ考えるべきであって、回転寿司の実態がいかに名前に即していないかなど、どうでもいいことだった。
手の中の湯飲みは相変わらず魔理沙の手には大きすぎで、線はどこまでも真っ直ぐで、ふちは月のようにまんまるだった。ぎっしり並んだ魚偏の漢字一つ一つも、たぶん前と同じなのだろう。
「あら、静かねぇ。食べ終わったら『あれはなんだ、これはなんだ』と五月蝿くなると思っていたのに」
「なぁ紫、ここに書いてある字、全部読めるか?」
「ええ、もちろん。読み上げてあげて欲しい?」
「いや、いい。私は鮒と鯉と鰻くらいしかわからん。お前がずらずらと魚の名前を唱えたところで、それが当たっているのかわからん。それどころか魚の名前自体ここに書いてあるほど知らん。だから実際には居もしない魚をお前が言っても気付けないだろうな」
「本当か嘘かわからない。しかし、この湯飲みはなんたらという魚が居ると言ってるわけだ」
「字引きが欲しいなら出してあげるわよ?」
紫はまた一皿取った。
「回転寿司だって真実だったでしょう?」
博麗神社での紫の謎かけが、遠い昔のことのように思えた。実際はあれからつい何時間かしか経ってないはずなのに。あのあと、酔っ払った自分は何を考えていたか。どう考えても嘘としか思われなかった回転寿司は真実だった。自分という存在と同じくらいに確かで当たり前だったあの世界は、嘘なのかもしれなかった。嘘は真実ではないことで、真実は嘘でないことだ。そこに一本線を引くなら、それが虚実の境界で、そこで世界を分けるなら、"向こう"は嘘なのか。
◇◇◇
店を出るともうだいぶ遅い時間なのか通りの人はだいぶ少なくなっていた。周りの店も閉まり始めているようで、立ち並んだ店々から途切れる事無く溢れ出していた照明が所々途絶えて、通りには陰の溜まった場所が出来ていた。スキマ妖怪は相変わらず魔理沙の前をいく。けれどその歩き方は回転寿司に着くまでの、明らかに目的地を目指しているという感じのものではなく、なにか気ままに散歩でもしているような、そんな足取りだった。紫は何も話さなかった。魔理沙もジャージのポケットに手を突っ込んでついて行くだけだった。ただ考えることが、考えなければいけない事が山のようにあって、きょろきょろする暇も、何かに驚く余裕もなかった。
霊夢に会いたかった。嘘の通じない巫女、もし巫女が嘘と実の境目を見抜けるなら、その瞳には真実しか映らないのだろうか。もしそうなら、もしそうなら――。その瞳に映る世界は何と寒々としたものだろう。
――そんなわけあるもんか。
魔理沙は小さく呟いた。
横道に入ってしばらく行ったあとで紫は立ち止まった。そこは別にどうという場所でもないようで、しかしひときわ暗い場所だった。周りは閉まった店と民家で雑然としていた。
スキマ妖怪は魔理沙の方を向いて日傘のしたから「それじゃ、そろそろ時間よ」と、そう言った。
「ん。そうか……時間か」
特に驚きはしなかった。予想は、だいぶ前についていた。
「飲み込みがよくて助かるわ。泣きわめかれたらどうしようかと」
「このまま手ェ振って『んじゃなー』つって、それで別れられたら格好いいんだけどな」
自分はもう戻れないかも知れないという可能性は、考えてみれば当然のものだった。 幻想郷に迷い込んでまた外に帰る外来人は幻想郷での記憶を消されるのだと聞いたことがある。ならば、外に放り出された自分も、同じようにされるかもしれない。紫が来たのはそのためかもしれなかった。
「私が"こっち"に飛ばされたのは"向こう"を疑ったからなんだろ?」
「霊夢が言ったとおり、結界に問題は無いようね。虚実の結界はちゃんと機能しているわ。ねぇ魔理沙」
「なぁ、紫――」
魔理沙はどこを見るでもなく、ちょっと俯いたままだ。
「――虚実に境界なんてないんだろ?」
「あら、そう?」
ぱちり。紫の扇子が鳴ったのが聞こえた。
「私はお前の話をそう理解したんだがな。厳然確固とした真実なんてどこにも無い。嘘と真なんてあやふやに入り混じって分別なんて出来ない。そういう事だろ? この世の真ん中に一本線を引いて『こちらは真実、こちらは嘘』なんて分けるもんじゃないんだ。
"向こう"も"こっち"も、虚実なんてのはぐちゃぐちゃだ。そうだろ?」
「そうかもしれないわね。でも、わかるでしょう? 暴かれてしまえば、もう前には戻れない。暴かれてしまえば、嘘は嘘。そうではなくて?」
紫がすいと扇子を振り、その軌跡がそのまま裂けた。その裂け目から昏い内側がのぞいている。
「さ、魔理沙。目を閉じなさい」
知ったことか。魔理沙は腰に手をやって辺りを見回した。塀のそばに半ば放置されたように置かれた鉢植えの陰を、灯りの消えた看板の陰を、電柱の陰を自転車の陰を。大丈夫だ、とそう思った。ひときわ暗いこの場所だけども、影は溢れ出してはいなかった。
「ピンクの象が嘘なのは……それを誰も信じなかったからだ。信じればピンクの象だって居るし、疑えば何もかもが幻だ」
神社で見たあの影も。
「回転寿司は真実だったでしょう?」
「ふん。あの店も、あの辞書も、いま私が立ってるこの世界も、全部お前が用意した偽物かもしれない。そうだろ?」
魔理沙は精一杯背をそらした。箒があればもうちょっとましな仁王立ちができるのにな。
「言うべきことは言いつくした?」
口に虚ろと書いて嘘。しかし嘘の全てが虚ろなわけでもない。見たもの感じたものすべてが真実でもない。そう、このスキマ妖怪と対峙する時は主体性こそ肝要なのだ。
「つまり――、私は何を信じるか。アレはそういう話だろ」
「……そうね」
扇子で隠した向こうから、微かにそう聞こえた。
その瞬間、空中の小さなスキマからその内側が溢れ出した。まるで袋が裏返るように、スキマの内と外は反転し一瞬のうちに魔理沙は暗紫の闇に飲まれた。全てが暗紫に飲み込まれ上下も左右もない。魔理沙は自分が立っているのかひっくり返っているのかもわからなかった。目は開いている筈なのに、もう何も捉えることが出来ない。なにせ目の前にかざした自分の両手さえ見えないのだ。手をかざしてもそれは見えず、足をばたつかせたところで体の向きも変らない。いや、実際は変っているのかもしれないが暗紫一色の世界ではそれもわからない。魔理沙はきっと溺れる仔犬のように激しく足を動かしている筈なのに、本当に自分がそうしているのか、それさえ怪しくなってくる。見開いているつもりの目も実際は閉じているのかもしれない。
自分の身体を自分で知覚できないというのは不思議な感じだった。たったそれだけの事で、自分の身体という何にも増して確かだったものが、突然幻かなにかになってしまったかのように。
そんな何もかもが不確かな魔理沙に声だけが聞こえた。
「ねぇ魔理沙、嘘は楽園。そう思わない? 暴かれさえしなければ、誰にも邪魔されず、誰にも侵されない。そうでしょ?」
「いいえ、それは実際嘘ですらない。それは嘘ではなく、かといって真実でもなく。嘘であり、かつ真実でもある。そうでしょ?」
「虚実の境界は空にかかる虹のようなもの。虹は確かにそこに見えるのに、淵は空と溶け合ってどこからが虹でどこからが空か、はっきりとは言えないでしょう? 虹のそれぞれの色だってそう。互いに溶け合ってどこからどこまでが何色なのかハッキリしない。けれどもそれぞれの色が無いわけでは決してない」
――ああ、虹か。いいなそれ。
やがて魔理沙は手足をばたつかせるのをやめた。海ってのはこんな感じかも知れないと、そんなことを考えた。
「ねぇ魔理沙、あの問いをもう一度するわ」
無遠慮に声だけが続く。
「暴かれなかった嘘。それは、一体なんなのかしら」
――さぁな。……幻想とでも言うんだろ。
確かに口を開いて言った筈だが、はたして声は出ていたかどうか。遠のく意識の中で、魔理沙は目だけは開けておかないと、とそう思った。起きたら寝間着一丁で森の中なんてのはもう御免だった。
「ねぇ魔理沙。私ね、むかし虹の根元に行ったことがあるのよ」
最後に聞こえた声はそんなことを言っていた気がした。
◇◇◇
目を開けると、眼前に巫女の仏頂面があった。あくびをして手足を伸ばすと途端に頭の芯に鉛痛が襲ってきた。
「あー……、おはよう」
「ん、おはよ。買ったばっかりの徳利が空になってそこに転がってるんだけど、なんか言い訳はある?」
「……底に二合もなかった」
「嘘おっしゃい。おととい買ったばっかりなのよ」
巫女はずきずきと鳴っている魔理沙の頭を一つはたくと、布巾を放ってきた。足を拭いてちゃぶ台につけという。見ると味噌汁が湯気を立てている。
「あんた昨日何してたのよ。足泥だらけだし、着てる物も違うし」
言われてぼんやりと自分の姿を眺め回した。足は汚れ、臙脂色のこの服は山の神社で見た外の世界のものだ。もしや早苗のかと思って付いている筈の名札を探したが無いようだった。
確かに、霊夢が言うように変なのかもしれなかった。起きたら自分の知らない服を着ているし、足は汚れているし、それはおかしな事なのだろう。だろうけど、しかし。言われるままにぼうと足を拭きながら魔理沙は思っていた。これはこれで当たり前のような、そんな気もした。きっとぶかぶかのサンダルも縁側のどこかに落ちているんだろうとも思った。
「朝飯手伝えなくて悪かったな」
「まったくよ。あんたのせいでほとんど昼ご飯だし」
庭を振り返ると、確かにもう日は高かった。
「で、昨日何してたのよ?」
「いや、それがよく憶えてない」
見渡せば、見慣れた座敷、見慣れた庭、遅い朝食をつつく巫女。何も変ったところなど無い。味噌汁を啜りながら、覗き見ると口調の割りに巫女の機嫌は悪く無さそうだった。
「私に嘘は通じないわよ」
ああ、そうだろうとも。魔理沙はなぜだか口元に浮かんできた笑みをごまかそうと、話題を転じた。
「なぁ、今日なんか予定あるか?」
「別に。あんたは何かしたいことでもあるの?」
うん、と言いながら考えていた。
外は快晴、雲もない。庭の土は乾ききっていて、雨が降った跡など欠片もない。しかし、きっとそれはあるだろう。
――虹の根元を探しに行こうと誘ったら、コイツは承知するかな。
足りない頭を捻りながら紫の話を聞いていましたが、考えるだけ無駄かもしれないと思うと楽になりました。
素敵でした。掛け合いもお話も。物語の筋が一本通っているから、現代入りだって受け入れられました。
虹が真実と嘘の境界なら、その根本は何なんでしょう?
虹の根元云々の話は「虹の見る夢」(手負い氏)からですかね?