結論だけを言ってしまうと、外の世界は崩壊したのだそうだ。
『人間同士で大きな喧嘩をしたのよ。それはそれは大きな喧嘩ですわ。私たちの弾幕なんか、鬱陶しいからと殺される羽虫のような、そんな規模の喧嘩。それで外の世界からは全部消えてしまったわ。人も、文明も、歴史も。概ね、跡形もなくね。だから、博麗大結界等の境界は取り除くことにしたのよ。今更隠したところで、誰も見ていないから。あなた達も、外の世界を一度見てくるといいわ。幻想郷に負けず劣らず、素敵なところよ』
あの胡散臭いスキマ妖怪にそう説明されたのは、もう半年前のことだ。
ああ、そうなんだ、くらいにしか思わなかった。
幻想郷にいる限り、外との繋がりはほとんどないのだから、当然と言えばまあそうだろう。
それにわたしは、普段から紅魔館に閉じこもっていて、外のことなどほとんど知らない。
しかし、いま重要なことはそんなことじゃない。
「ほんとに誰もいないみたいですね。さっきから、誰ともすれ違いません」
「逆に誰かいたら困るのはわたしよ。見られたら面倒だもの」
「それもそうですけど。しかし、なかなか着きませんね。もう出発してから2時間くらい経ってますよ」
「仕方ないじゃない、海まで行かなきゃいけないんだから」
「そもそも行き先って、どこでしたっけ? 忘れちゃいました」
「あくありうむ? すいぞくかん? だったかしら。行けば分かるって、パチュリーが言ってたわ」
「水族館ですか。魚がいっぱいいるんですよね、たしか」
そう、外の世界が云々は今は大したことじゃない。
いま重要なのは、わたしと美鈴が外の世界に二人でいる、ということだ。
きっかけはパチュリーに、『外に出てみてはどうかしら』と言われたのが始まりだった。
『ほら、今なら外の世界には人間は全然いないみたいだから。人目は気にしなくて済むわよ』
『えー、でも、お姉様が止めるんじゃ……』
『もう外の世界は壊れきっているんだから、あなたが壊してしまう心配はないわ』
『そう、なのかな』
『ええ、そうよ。レミィには私が説明しておくから、美鈴とでも出かけてらっしゃい』
『なっ、なんで、ここで美鈴の名前がでるのよ』
『だって最近の妹様はとくに美鈴と仲がよろしいじゃない? 朝から起きてるのね、なんて思ったら美鈴のとこにいたリ。美鈴と一緒に花の世話をしながら談笑したり。雨の日だって、館の中から遠目に門のほうを見つめてたり。しかも、美鈴におやすみなさいを言うために遅くまで起きてるっていうじゃないの。すごいというか、微笑ましいというか』
『そ、そこまでべったりじゃないわよ! 偶然、そう、たまたま美鈴に用事があっただけよ。それだけのことなのよ、うん。というか、なんでそこまで知ってるの。ちょっと怖いよ』
『ここ最近のレミィが毎日愚痴ってくるのよ。フランを美鈴に取られたぁ、私だってフランといちゃつきたいぃ、ってね。おかげで本をまともに読む時間がどんどん削られていくわ。こっちの都合も考えてほしいものね』
『そんな嬉しそうな顔でいわれても。で、愚痴られるのが面倒だから、わたしたちに外に行ってこいというわけね』
『その通りよ。どうせなら、海を見てくるといいわ。幻想郷じゃ絶対に見れないから』
『せっかくだし、そうさせてもらうね。その、ええと、色々とありがとう、パチュリー』
『どういたしまして、妹様。水族館に行ってみるのもありよ。デートスポットらしいし』
『わたしをいじり倒すのをやめろぉ!』
そんな風に提案されたのは午前中のことで、その後すぐに美鈴を誘って出発した。
パチュリーには海を見てこいと言われたが、どうせなので水族館(というらしい)に行ってみることにした。
魚が見たかっただけである。それ以上でもそれ以下でもない。
でーとすぽっとなどという、吸血鬼にはおよそ似合わない言葉に反応したり興味を持ったわけではないのだ。
べつに一人で行ってもよかったのよ、わたしは。ただパチュリーが美鈴を誘えって言うから、仕方なく、仕方なく声を掛けたのよ。
それなのに美鈴が、『やったやった、妹様とデートだ。すぐ行きましょう今すぐ行きましょう時間がもったいない』なんて言うから。
そんな風に喜ばれたら、そのでーとすぽっととやらに行く以外に選択肢はないじゃないか。ちくしょう、美鈴め。
だからわたしが美鈴と二人で出掛けたかったとか、ましてわたしの頭の中が乙女チックに染まっているとか、そんなことは決してないのだ。
話がそれた。
とにかく、そんなこんなでわたしたちは水族館へ向かっている最中である。
てくてく、てくてく、と美鈴とふたりで並んで目的地までの道を歩いた。
もう海は見えていて、雲の隙間からやんわりと溢れた光が、水面できらきらと反射している。
空は厚い雲に覆われていて、鈍い灰色が途切れたところから見える真直ぐな青が、静かに広がっていた。
わたしたちの周りはぼろぼろの廃墟だらけだ。動物も植物も人間も、なにもない。わたしたち二人の音以外には、なにも聞こえない。
なのに空と海だけがどこまでも綺麗で、それがひどく幻想的に映った。ただひたすらに美しい世界だった。
「しっかし、見事に廃墟ばかりですね。あの建物なんて穴が開いてるじゃないですか。こっちの家はひっくり返ってます」
「この道はなにか焼けたような跡があるし、どこもかしこも滅茶苦茶になってるね。こりゃひどい」
「行き先は水族館でしたっけ。建物は無事なんでしょうか……? この調子だと、ダメみたいですけど」
「まあ、そうなら海でも見て帰りましょ。この機会を逃すのはもったいないわ」
「ええ、そうしましょう。でも珍しいこともあるもんですね、妹様から外出を誘ってくるなんて」
「ま、まあ、そういう気分だったということよ。お姉様には無断で出てきたけど」
「それって私が後で叱られるやつじゃないですか!? あー、どうしよう、減給されてしまう……」
「生々しいこと言わないでよ。わたしも一緒に叱られてあげるからさ、それでいいじゃない」
「私は何も悪くないことをしっかりと説明してくださいね」
「ざんねん、共犯よ。諦めなさい」
「ああ減給されてしまう……。ボーナスだってまだなのに……。いかないで私のお給料……」
てくてく、てくてく。
ふたり並んでくだらない会話をしながら、ゆっくりと歩いた。
水族館がどこにあるのかは知らないが、海を目指せばわかる、とパチュリーは言っていた。
だから海へ向かって歩いた。
一歩一歩踏みしめるように、靴の先を鳴らしながら、ゆっくりと歩いた。
ゆったりと穏やかな時間がわたしたちの間には流れていて、吹いてくる風すらも優しかった。
てくてく、てくてく。
疲れを知らないかのように歩き続けた。
時間を忘れたかのように話続けた。
気持ち良いくらいに開放的な気分になって、わたしは心から楽しいと感じていた。
すかすかの廃墟も、頬を撫でる風も、隣で笑う美鈴も、海も空もぜんぶぜんぶ、きらきらと輝いていた。
「ねえ、美鈴。わたしは今、とっても楽しいわ。とっても。来てよかったって、そう思うわ――!」
紅魔館の外だって、幻想郷の外だって、悪いところなんて一つもないじゃないか。
隣りでふんわりと笑った美鈴をみて、わたしはそう思った。
***
静かな海の底を歩いた。
冷たくなんかなくて、むしろ温かい、静けさと小さな光に包まれた海だ。
波も音もない透明な海の底に、上も下も右も左も青い世界に、わたしと美鈴はいた。
「人間って、水族館って、すごいわね。こんなに大きな水槽は初めてだよ」
「ほんとに綺麗ですよね。施設が生きててよかったです」
「よく無事だったよね。外はあんなにぼろぼろだったのに」
「魚たちもまだ生きてますしね。死んでたらどうしようかと思ってました」
水族館は外観に多少の傷はあったものの、概ね無事に生きていた。
中に入ってみるとそこは、青一色に染められたしんと静まり返った空間だった。
大きな水槽、小さな水槽、丸い水槽、細長い水槽、どれもが青く光っていた。
その水槽の中を、大きさも形も違う生き物がゆらゆらと優雅に、何匹も何十匹も泳いでいた。
まるで館全体が一つの水槽のようで、死んでしまった外の世界でもこの場所だけは生き続けているのだと思った。
「海の底にいるみたいね、わたしたち。流水は苦手だけど、ここは好きだわ」
「流水はアウトなんですから、海に沈んだら死ぬんじゃないですかね、妹様」
「少しは空気を読みなさいよ、美鈴……。あなたを沈めるわよ」
「冗談ですってば。でも海の中ってきっと、こんな風に透き通ってるんでしょうね。魚が陸に上がろうとしないのも分かる気がします」
「ええ、こんなにきれいだもんね。水中で泳げる魚がすこし羨ましいわ」
きっとこの海の中を泳ぐことはとても楽しいのだろう、なんて思いながら館全体をゆっくりと見て回った。
本でしか見たことの無かった魚や、妙に奇抜な色をした魚や、わたしの何倍もある大きな魚が沢山いた。
わたしと美鈴は、冗談を言い合ったり言葉を交わすことなく魚を見たりと、思い思いにこの時間を過ごした。
そうして歩を進めていくうちに、わたしは一つの水槽の前で立ち止まった。
通路の隅に置かれたおよそ目立ちそうもないその水槽に、わたしはどうしようもなく目を奪われた。
一匹の死んだ熱帯魚が入った、小さな水槽だった。
強烈な死だった。
この大きな生きている水族館の中で、この熱帯魚だけが小さくぽつんと死んでいた。
水面に浮かんだ熱帯魚の死骸が照明に照らされて、鮮明な赤や青や黄がわたしの目に映った。
水草や藻でぼんやりと濁った水槽のなかで、その熱帯魚の死だけが鮮やかだった。
水槽に閉じ込められて、美しく静かに死んでいた。
これは〝わたし〟だと、そう思った。
地下に閉じこもっていた独りよがりな〝わたし〟じゃないかと、そう思った。
壊してしまうことも壊れてしまうことも嫌で、自分からも皆からも世界からも逃げ出した〝わたし〟が、水槽に閉じこめられて死んでいた。
〝わたし〟はきっと、誰もいらない何処かに行きたかったのだ。
お姉様も咲夜も美鈴もパチュリーも小悪魔もいない、壊れた自分もいない、なにも壊れる事のない、そんな場所へ。
傷つくこともない、傷つけることもない、自分にとって都合のよい、そんな場所へ。
〝わたし〟にとって、それは地下だった。何もかもを受け付けない閉鎖的な場所が、その時はひどく正しいものに見えた。
だから逃げたのだ。だから閉じこもったのだ。だから独りになったのだ。
けれど逃げた先は行き止まりで、自分にとって都合のよい場所は、自分の都合では動いてくれなかった。
誰もいなかった。何もなかった。でもそれは、〝わたし〟の望んだ通りだった。
けれど、寂しい場所だった。けれど、自分は壊れたままだった。でもそれは、〝わたし〟の望んだ通りではなかった。
じゃあ、何処へ行けばよかったというのだ。どうすればよかったというのだ。そう思い始めるともう、正しく考えることさえできなくなった。
そうして気付いたときには、もう何処へも行けなくなってしまっていた。
何処かへ行ってしまいたくて、でも、何処へも行けなくなってしまった。
だからその熱帯魚の死は、きっと〝わたし〟の死なのだ。
「―――それでも、わたしは出てきたわ」
「妹様? どうしました?」
「それでも出てこれたのよ、わたしは。お姉様が、咲夜が、美鈴が、パチュリーが、小悪魔が助けてくれたわ。あの巫女や魔法使いだって、見知らぬわたしの所まで来てくれた。わたしがわたしを諦めても、見放すひとなんて一人もいやしなかった。だから今、わたしはここにいるのよ」
わたしが閉ざされてしまうことはなかった。皆がいたから。一人ぼっちじゃなかったから。
それで余計にこの熱帯魚の死が、冷たく孤独なもののように見えた。
この大きな水族館の中で、こんな目立たない端っこでぽつんと死んでしまって。
わたしたちが来なければ、その死の存在すら知られることはなくて。
この美しさを知っているのは、わたしたちだけしかいなくて。
まるで地下に閉じこもっていた時のような、冷たい孤独をわたしは感じた。
熱帯魚の死も、それを知ってしまったわたしも、ひどく孤独だった。
「妹様、大丈夫ですか。気分が悪いのでしたら―――」
「なんでもないわよ。だいじょうぶだから」
「じゃあなんで、そんなに寂しそうなんですか」
「……こんなときに限ってわたしの気を読もうとしないで。ずるいわよ」
何色か分からない感情が、わたしのなかでどんどん重たくなっていった。
哀しいのだろうか。淋しいのだろうか。怖いのだろうか。
うまく分類してみようとするけれど、思うように割り切ることができない。
何か言葉にしてみようとするけれど、この気持ちの正体は分からない。
熱帯魚の潤んだ瞳が、わたしを真直ぐに見つめていた。
何かを読み取ることは出来そうもない、無色の瞳だった。
「もしかして、この熱帯魚ですか? それで、悲しんでいるんですか?」
「そう、かもしれない。分からないのよ、上手く言えないけれど」
「……優しいですね、妹様は。あなたのそういう所が、一番好きです」
そう言うと美鈴は、水槽の上蓋をゆっくり外した。
今まで水槽の中に閉じ込められていた臭いが、ゆらゆらとわたしの周りに広がった。
鼻の奥まで残って離れてくれない、強烈な生臭さだった。
もう死んでしまったというのに、強く生きている臭いだった。
そうやってぼんやり眺めているうちに美鈴は、熱帯魚を掌で掬って、わたしに向かって言った。
「この子を埋めに行きましょう。ここに置き去りにするのは、あんまりです」
美鈴はそれだけ言うと、空いた手でわたしの手を優しく握って歩き出した。
熱帯魚のいなくなった水槽はもう、輝いてなど見えやしなかった。
***
熱帯魚は水族館の裏庭に埋めた。
外に出た時にはすっかり日が傾いていて、空は藍色に染まりつつあった。
風は少しだけ冷たくなっていたけど、その分繋いだ手が温かかった。
水族館を出てくる最中も、熱帯魚を埋める最中も、わたしたちは言葉を発しなかった。
ただ一つ、さようなら、とだけ言って熱帯魚に土を被せた。
わたしが言うべき言葉は、それだけしかない様な気がした。
「すいませんでした、付き合わせてしまって。あそこで死なせたままは嫌でして」
「わたしもごめんね。急に変なこと言ったりして」
「いえ、気にしてません。きっと悲しかったのでしょう、妹様は」
「……あの熱帯魚が、わたしに見えたのよ。昔のわたしに。ああやって閉じこもったままだと、いつかわたしは死んでいたんだろうなって思って、それが無性に寂しく感じたのよ」
「でも、今妹様は此処にいるじゃないですか」
「そうね、わたしは出てきたわ。でもあの熱帯魚は何処にも行けなくて、そのまま死んでしまって、それがやりきれないのよ」
あの鮮やかな美しささえ、今はもう土の下だ。
これであの熱帯魚は報われるのだろうか。
昔の〝わたし〟は救われたりするのだろうか。
もう一度小さく、さようなら、と埋めた場所に向かって呟いた。
「感傷が過ぎたわ。あんまり気にしないでね、独り言みたいなものだから」
「優しさに大きいも小さいもないですよ。それは大切にすべきものです。決して感傷なんかじゃないですよ」
「そう、かな。わたしは、優しくできたのかな」
「妹様が優しくなかったことなんて、一度もありません。今も昔も、変わらずにです」
そうだといいな、とそう思った。
誰かにとって優しくなれたのなら、何かに優しくできたのなら、このグチャグチャな気持ちも少しは軽くなる気がした。
それでもちょっとだけ感傷だと思ったことは言わないけれど。
「最近の妹様は特に明るくなってきてますからね。私の所にもよく来てくれますし」
「それは、まあ、地下に籠りっきりも暇だし……。他にすることもないし……」
「今日だってこうして一緒に出掛けることができて、とても嬉しいです」
「ん、そうね、わたしも楽しかったわ。あなたがいてよかった」
「そうです、楽しいんですよこの世界は。嫌なことも悲しいことも含めて、ね」
「そうだね」
「だからもっと色んな場所に行きましょう。もっと沢山のことを知りましょう」
「……その時は、また一緒に来てくれる?」
「どこにだって行きますよ。あなたがいれば、それだけで楽しいです」
わたしはもう閉じこもってなどいないのだ。行こうと思えば何処にだって行けるのだ。
あの熱帯魚のように海を泳ぐことは出来ないけれど、この地上だってまだまだ広い。
行ったことの無い場所も、まだ知らないことも沢山あった。
明日も何処かへ行ってみようかなんて考えて、お姉様のことをすっかり忘れていることに気付いた。
帰ったら怒られるかなぁ。心配をするあまり、泣いてるかもしれない。
「もう、帰りましょ。そろそろお姉様が心配だわ」
「心配してるのはお嬢様の方ですよ、もう。帰ったら怒られるのかな、やだなあ」
手を繋いだままわたしたちは歩き出した。
美鈴の大きな手がわたしのちっぽけな手を包み込んで、じんわりと温かかった。
わたしはいま孤独なんかじゃない、と気付いて少し嬉しい気持ちになった。
帰ったらあの熱帯魚でも絵に描いてみようか。日記をつけてみるのも悪くなさそうだ。
不思議と、あの熱帯魚のことは忘れたくなかった。いつまでも覚えていたいと、そう思った。
さようなら、と心の中で嚙み砕くようにつぶやいて、わたしはゆっくり息を吸った。
あの熱帯魚の鮮やかさが、いとおしかったのだと気が付いた。
美鈴というかがり火と共に、てくてくと世界を歩む妹様。
水族館の中で死んでいる熱帯魚に自分を重ねる妹様。
昔はどうあれ、今は皆に愛されフランな妹様。
彼女が進む未来は幸福に包まれているのでしょう。
ところで美鈴の給料が、どの位減額されたのか気になる今日この頃。
荒廃した世界という舞台設定は非常に好みなのでもっと色々やってほしかったところですが、軸がぶれるのも考えものなので悩ましいですね
最後の一文も好きです
フランが強い力と反比例するように繊細な心の持ち主でよかったです
それにちゃんと付き合ってくれる美鈴も優しい
その関係性が綺麗だと思いました