しゃなり。しゃなり。一足ごとに、葉が鳴り、紙が鳴り、枝が鳴った。鼻先を緑薬の若い香と仄かな酒精が掠めた。大笹を担ぎなおした。跳ねた細枝の音に、背後を歩く覚り妖怪の呻きが混じった。
「急に動かさないでください」
「さっきの仕返し」
「恨みがましいひとですね」
「伊達に恨みで妖怪堕ちしてないわよ」
しゃなり。しゃなり。妖怪二人で笹を担いで、地底の外れまで運んだ。たどり着いたのは、地底の川を渡す橋。私の仕事場。懐に入った紙の感触を今一度確かめて、笹を下ろした。さとりは何にも言わなかった。
◇
笹の葉さらさら。あとは忘れた。なんでも、願いをかなえてくれるのだそうだ。紙に願いを筆でしたためて、夜風に一日短冊をさらす。翌日には川に流すか燃やすか。川に流せば、流れ行く先がいつか天の川へ。灰と燃やせば、上る煙はいつか満天の星へ。届いた願いを天の星々が読み、それをかなえるらしい。なんとも浪漫的だ。大量の煩悩と紙飾りを細枝に吊るした笹を横目に爪を噛んだ。
「流す方がいいと思うのです。そちらの方がまだ望みもあるでしょう」
「面倒を押し付けないで。炉に放り込めば終わりでしょうに」
「燃やしても、煙は地底に籠るばかりですよ」
「あいにく流れる先は地底のへそなのよ」
流れる川は鈍色の天の下。立つ煙は天蓋に阻まれる。
言ってしまえば、ごみ処理の話だった。
文月の八日。織姫と彦星の熱い逢瀬から一夜。旧都の広場で行われた鬼たちの酒宴、その主賓を飾った笹飾りは、早くもお役御免となっていた。好き放題短冊を吊るされ、ひとしきり酒の肴になった後には、酒気を吸って湿気た短冊と、仄かに酒の匂いの枝垂れる若木 が残るばかり。飾り終えればあとは燃やすか流すかするらしいという地上からの伝聞だけが伝わり、じゃああとは橋姫か地獄の管理者で何とかしてくれと、面倒がった鬼達に片づけを押し付けられた。
「怨霊たちは敏感なもので。清めの札などくべれば一体どうなることか」
「清めどころか煩悩の塊でしょ。短冊見た? アルコール分が四十パーセントはあったわ」
「よく燃えることでしょう。炉を駄目にすると彼岸に叱られます。どうぞご勘弁を」
灼熱の炉を代表する目の前の女は、百は数える短冊の一つをつまんだ。いい酒が飲みたいと、やけに達筆で書かれた願いは四天王のものだろうか。他にも二三、友人の物らしい願い事が、細葉の間に覗いた。「新しい桶がほしい」「立派な巣を張りたい」。安直すぎる願いに、苦笑すら浮かばない。
「そういうあなたは随分と健全なお願いですね。立派ですよ」
「勝手に読むな」
心を土足で踏み込んだ報復に、枝のひと房を振った。読まれて躱された。妬ましい。
「いいじゃないですか。『皆の願いが叶いますように』。天邪鬼もびっくりです」
「勘違い上等だけど、裏はあるわよ」
「存じております」
瞳と同じ深緑の短冊に染み込ませた墨は、他人の願いの成就を望むものだった。別に聖人君子になったわけではない。誰かの願いがかなえられれば、それだけで妬ましいと思える。嫉妬妖怪故、その妬みを糧にできる。我ながら、嫉む相手を増やす手腕には長けていると思う。
「そういうあんたの願い事は?」
「知りたいですか」
「別に」
「心底どうでもいいと思ってる辺り、傷つきますよ。本当に」
傷つきましたという素振りをするさとりを脇に、笹をつまみ上げた。笹自体の重さに、短冊に紙飾り、重量はそれなりだ。燃やすにしろ流すにしろ、さっさと処理をしてしまいたい。笹の中ほどを掴んで、肩に担いだ。笹の葉と百あまりの願いを重しに、若枝の天秤が揺れた。取り落としかけたのを深く担ぎなおそうとして、肩にかかる力が軽くなった。天秤は緩やかな傾斜を示した。後ろからさとりの声がかかる。
「炉にくべるのはご遠慮願いますが、川に流すのでしたら、お手伝いいたします」
「固辞する理由 を聞いてもいい?」
「川岸で涼みたいです」
「正直でいいわ。行くわよ」
梅雨も明けるか明けないか。湿気は洞窟に閉じこもり、熱気が行き場をなくす。よく考えなくても、灼熱地獄に行くのは憚られた。灰まみれになるのもごめんだ。笹の行先 は地底の外れへ。差のある歩幅に小走りになるさとりがおかしかった。
◇
道行きに、揺れる短冊の一つが目に入った。『……ますように』上半分は笹の葉に紛れて読めないが、一目でさとりのものだと分かった。地霊殿と橋守との往復書簡で、彼女の筆跡はよく目にしている。生来の丸文字を勤勉にしたような、小さな背で精いっぱい胸を張ってるような筆致だ。何かの拍子に、上半分が見えてはつまらない。私は短冊をもぎった。目もくれず半分に畳み、懐へ。何事もなかったかのように歩いた。笹越しにさとりの肩が、びくりと揺れるのが伝わった。
◇
欄干に笹を立てかけて人心地ついた。零時を回った縦穴は、暗く唸るばかりだった。吹き下りてくる風に、たなびくように笹が鳴った。息を切らしたさとりが恨めしげに呟いた。
「途中で重い方を変わってくれたっていいのに……」
「言わなきゃわからないわよ。あんたと違って」
「短冊にでも書いておきましょうか」
「叶うのが来年でいいなら」
肩についた笹の葉を払った。さとりもまるで重労働をしたかのように首を回している。来年は火車あたりに頼んで焼却にしてもらおうと考えていたら、ペットを便利屋扱いするなと睨まれた。
「それで、どうすればいいのかしら」
「舞など躍ってはいかがでしょう」
「巫女の真似事でもしろって?」
「まさか、巫女がするのは祓いまでですよ。あなたは曲がりなりにも神様でしょう」
ずいぶん前に捨てた肩書を持ち出されたものだ。浮世にいたころは、守護神と呼ばれたこともあったか。
結局儀式の真似事はせず、ただ笹を川に流すことになった。一応神事のひとつ、橋から投げ捨てるような無粋はせず、半身を水につけて送り出すことにする。笹を持ち上げて欄干を蹴ると、さとりが不満を漏らした。
「濡れるじゃないですか」
「涼みたいんじゃなかった?」
「それはそうですが……あなたは平気なんですね」
「これでも何日も川に身を浸した思い出があってね。聞きたい?」
「遠慮しておきます」
思い起こす忌まわしい記憶に、さとりが顔をしかめた。あの目はこういう時に不便なのだろう。見たくもないものを見るのはきっと面倒だ。私の目には、今やあらゆる想念や嫉妬が、甘美な生菓子のように見えるけれど。
吐息を漏らして、さとりが諦めたように靴を脱いだ。丸めた靴下を靴に突っ込み、スカートを半ば引き上げた。
欄干を擦り、笹を川へ。二人で平衡を保ちながら、ゆっくりと水面に浮かべた。
細い葉のそれぞれが水膜を僅かに押しやり、波紋と波紋とをぶつけ合った。色とりどりの短冊や紙飾りが水を吸い、色を濃くした。にじみ出る墨は流れに乗って、いつか地底のへそに流れ落ちる。
笹はその枝葉を大きく翼のように広げた。若い緑と酒の香がたなびいた。
緩い地底河をゆっくりと滑っていく笹を、特に感慨もなく見送った。ふと思い出して、懐からさとりの短冊を取り出した。
「ちゃんと読んでくれないのですか。願い事」
「いったでしょう。どうでもいいもの」
「そうですか」
こちらを見ず、半身を水に浸したまま、さとりが呟いた。川の行き着く先に三つの瞳をやったまま、袖を水面に濡らしていた。
半分に折った短冊を指ではじいた。ひらり舞って、流れ行く笹の横に落ちた。墨が滲んで、やがて文字も読めなくなる。薄桃の短冊は、笹の後を追うように流れ、見えなくなった。
「願い事、実は叶ったんですけどね」
「そう。妬ましいことね」
「ええ、さすがは神様です」
しばらく二人、川に浸ったまま流れの行く末を見つめていた。天の川を渡る二人は、星の流れに身を浸すのだろうか。
「急に動かさないでください」
「さっきの仕返し」
「恨みがましいひとですね」
「伊達に恨みで妖怪堕ちしてないわよ」
しゃなり。しゃなり。妖怪二人で笹を担いで、地底の外れまで運んだ。たどり着いたのは、地底の川を渡す橋。私の仕事場。懐に入った紙の感触を今一度確かめて、笹を下ろした。さとりは何にも言わなかった。
◇
笹の葉さらさら。あとは忘れた。なんでも、願いをかなえてくれるのだそうだ。紙に願いを筆でしたためて、夜風に一日短冊をさらす。翌日には川に流すか燃やすか。川に流せば、流れ行く先がいつか天の川へ。灰と燃やせば、上る煙はいつか満天の星へ。届いた願いを天の星々が読み、それをかなえるらしい。なんとも浪漫的だ。大量の煩悩と紙飾りを細枝に吊るした笹を横目に爪を噛んだ。
「流す方がいいと思うのです。そちらの方がまだ望みもあるでしょう」
「面倒を押し付けないで。炉に放り込めば終わりでしょうに」
「燃やしても、煙は地底に籠るばかりですよ」
「あいにく流れる先は地底のへそなのよ」
流れる川は鈍色の天の下。立つ煙は天蓋に阻まれる。
言ってしまえば、ごみ処理の話だった。
文月の八日。織姫と彦星の熱い逢瀬から一夜。旧都の広場で行われた鬼たちの酒宴、その主賓を飾った笹飾りは、早くもお役御免となっていた。好き放題短冊を吊るされ、ひとしきり酒の肴になった後には、酒気を吸って湿気た短冊と、仄かに酒の匂いの枝垂れる若木 が残るばかり。飾り終えればあとは燃やすか流すかするらしいという地上からの伝聞だけが伝わり、じゃああとは橋姫か地獄の管理者で何とかしてくれと、面倒がった鬼達に片づけを押し付けられた。
「怨霊たちは敏感なもので。清めの札などくべれば一体どうなることか」
「清めどころか煩悩の塊でしょ。短冊見た? アルコール分が四十パーセントはあったわ」
「よく燃えることでしょう。炉を駄目にすると彼岸に叱られます。どうぞご勘弁を」
灼熱の炉を代表する目の前の女は、百は数える短冊の一つをつまんだ。いい酒が飲みたいと、やけに達筆で書かれた願いは四天王のものだろうか。他にも二三、友人の物らしい願い事が、細葉の間に覗いた。「新しい桶がほしい」「立派な巣を張りたい」。安直すぎる願いに、苦笑すら浮かばない。
「そういうあなたは随分と健全なお願いですね。立派ですよ」
「勝手に読むな」
心を土足で踏み込んだ報復に、枝のひと房を振った。読まれて躱された。妬ましい。
「いいじゃないですか。『皆の願いが叶いますように』。天邪鬼もびっくりです」
「勘違い上等だけど、裏はあるわよ」
「存じております」
瞳と同じ深緑の短冊に染み込ませた墨は、他人の願いの成就を望むものだった。別に聖人君子になったわけではない。誰かの願いがかなえられれば、それだけで妬ましいと思える。嫉妬妖怪故、その妬みを糧にできる。我ながら、嫉む相手を増やす手腕には長けていると思う。
「そういうあんたの願い事は?」
「知りたいですか」
「別に」
「心底どうでもいいと思ってる辺り、傷つきますよ。本当に」
傷つきましたという素振りをするさとりを脇に、笹をつまみ上げた。笹自体の重さに、短冊に紙飾り、重量はそれなりだ。燃やすにしろ流すにしろ、さっさと処理をしてしまいたい。笹の中ほどを掴んで、肩に担いだ。笹の葉と百あまりの願いを重しに、若枝の天秤が揺れた。取り落としかけたのを深く担ぎなおそうとして、肩にかかる力が軽くなった。天秤は緩やかな傾斜を示した。後ろからさとりの声がかかる。
「炉にくべるのはご遠慮願いますが、川に流すのでしたら、お手伝いいたします」
「固辞する理由 を聞いてもいい?」
「川岸で涼みたいです」
「正直でいいわ。行くわよ」
梅雨も明けるか明けないか。湿気は洞窟に閉じこもり、熱気が行き場をなくす。よく考えなくても、灼熱地獄に行くのは憚られた。灰まみれになるのもごめんだ。笹の行先 は地底の外れへ。差のある歩幅に小走りになるさとりがおかしかった。
◇
道行きに、揺れる短冊の一つが目に入った。『……ますように』上半分は笹の葉に紛れて読めないが、一目でさとりのものだと分かった。地霊殿と橋守との往復書簡で、彼女の筆跡はよく目にしている。生来の丸文字を勤勉にしたような、小さな背で精いっぱい胸を張ってるような筆致だ。何かの拍子に、上半分が見えてはつまらない。私は短冊をもぎった。目もくれず半分に畳み、懐へ。何事もなかったかのように歩いた。笹越しにさとりの肩が、びくりと揺れるのが伝わった。
◇
欄干に笹を立てかけて人心地ついた。零時を回った縦穴は、暗く唸るばかりだった。吹き下りてくる風に、たなびくように笹が鳴った。息を切らしたさとりが恨めしげに呟いた。
「途中で重い方を変わってくれたっていいのに……」
「言わなきゃわからないわよ。あんたと違って」
「短冊にでも書いておきましょうか」
「叶うのが来年でいいなら」
肩についた笹の葉を払った。さとりもまるで重労働をしたかのように首を回している。来年は火車あたりに頼んで焼却にしてもらおうと考えていたら、ペットを便利屋扱いするなと睨まれた。
「それで、どうすればいいのかしら」
「舞など躍ってはいかがでしょう」
「巫女の真似事でもしろって?」
「まさか、巫女がするのは祓いまでですよ。あなたは曲がりなりにも神様でしょう」
ずいぶん前に捨てた肩書を持ち出されたものだ。浮世にいたころは、守護神と呼ばれたこともあったか。
結局儀式の真似事はせず、ただ笹を川に流すことになった。一応神事のひとつ、橋から投げ捨てるような無粋はせず、半身を水につけて送り出すことにする。笹を持ち上げて欄干を蹴ると、さとりが不満を漏らした。
「濡れるじゃないですか」
「涼みたいんじゃなかった?」
「それはそうですが……あなたは平気なんですね」
「これでも何日も川に身を浸した思い出があってね。聞きたい?」
「遠慮しておきます」
思い起こす忌まわしい記憶に、さとりが顔をしかめた。あの目はこういう時に不便なのだろう。見たくもないものを見るのはきっと面倒だ。私の目には、今やあらゆる想念や嫉妬が、甘美な生菓子のように見えるけれど。
吐息を漏らして、さとりが諦めたように靴を脱いだ。丸めた靴下を靴に突っ込み、スカートを半ば引き上げた。
欄干を擦り、笹を川へ。二人で平衡を保ちながら、ゆっくりと水面に浮かべた。
細い葉のそれぞれが水膜を僅かに押しやり、波紋と波紋とをぶつけ合った。色とりどりの短冊や紙飾りが水を吸い、色を濃くした。にじみ出る墨は流れに乗って、いつか地底のへそに流れ落ちる。
笹はその枝葉を大きく翼のように広げた。若い緑と酒の香がたなびいた。
緩い地底河をゆっくりと滑っていく笹を、特に感慨もなく見送った。ふと思い出して、懐からさとりの短冊を取り出した。
「ちゃんと読んでくれないのですか。願い事」
「いったでしょう。どうでもいいもの」
「そうですか」
こちらを見ず、半身を水に浸したまま、さとりが呟いた。川の行き着く先に三つの瞳をやったまま、袖を水面に濡らしていた。
半分に折った短冊を指ではじいた。ひらり舞って、流れ行く笹の横に落ちた。墨が滲んで、やがて文字も読めなくなる。薄桃の短冊は、笹の後を追うように流れ、見えなくなった。
「願い事、実は叶ったんですけどね」
「そう。妬ましいことね」
「ええ、さすがは神様です」
しばらく二人、川に浸ったまま流れの行く末を見つめていた。天の川を渡る二人は、星の流れに身を浸すのだろうか。
七夕に七夕後のお話を投下する天邪鬼、嫌いじゃないです
祭りの後らしく、のんびりほのぼのとした雰囲気で気持ちが落ち着く感じがしました。
素晴らしいさとパルでした!ありがとうございます!
あとさとりんが靴を脱いで水に浸からせるところがエロいと思いました(煩悩)
なんとなく、ひねくれ者同士このふたりは相性が良く見えます。
水も滴るいい妖怪を二人も拝めて最高です