この作品は『マエリベリー・ハーンの長い夏休みの終わり』とリンクしております。けれども読まなくても平気です。
里での買い物を終えたころに、ぽつりぽつりと雨が降りはじめた。
山の向こうの空模様から、そろそろ雨が降るであろうことは事前にわかっている。
僕はあわてることなく蛇の目傘を差し、里をながれる川沿いの道を森の方へと向かって歩いた。
途中、柳の木の前にある『鈴奈庵』と看板がかかげられた(看板の『庵』だけがすこし斜めに傾いている)貸本屋の軒先で、知るべの顔をみつけた。
緑の長着に赤い袴、黄色の羽織といったおなじみの姿で、頭には椿の花飾りをしている。
九代目御阿礼の子、稗田阿求であった。
どうやら傘を持っていないのか、阿求は軒先でこまったふうに雨を降らす曇天を見上げていた。
こちらに気づいたのか彼女は僕を見て、ぺこりとうやうやしいお辞儀をした。
しかたなく僕もお辞儀を返し、ふと思案した。
阿求とは見知った間柄である。
挨拶までしてしまい、あきらかに困った様子である彼女をこのまま置いて帰宅するのは、僕の良心がわずかばかりかはばかられるというもの。
僕は彼女の方へと近づいていくと、軒先へと蛇の目傘を差し出し、入るようにとうながした。
彼女はいそいそと僕のとなりに並ぶと、こちらを見上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あなたならきっと助けてくれると信じていました」
「調子のいいことを言うなあ。あからさまに期待の視線を向けてきたじゃあないか」
「ふふっ、突然雨に降られて困っていたの。ちょうどよかったわ」
「ほれみろ、やっぱりそんなふうにおもっていたんだ」
「拗ねないでくださいな。感謝していますって。ええ、本当に」
「さて、どうだかね」
稗田の家は里の中にある大きなお屋敷なので、僕は来た道を戻ろうとした。
しかし、阿求は僕の服の裾をつまむと、くいくいと引っ張った。
「家には戻らないわ。このままあなたの家まで送っていってくれるかしら?」
「それはまた、なんだって僕の家に?」
「実は、私もいよいよ本格的に縁起の執筆に取り組むことにしたの。それで、あなたのことを取材したいのよ」
「へえ、そりゃまた」
縁起とは、代々御阿礼の子が編纂する幻想郷縁起のことである。
元々は人ならざるものたちが跳梁跋扈する幻想郷において、人間という存在の安全を確立させるために作られたものであり、その内容は幻想郷における主だった妖怪のたぐいを記すというものであった。
つまるところ、彼を知り己を知れば百戦殆うからず、というわけだ。
圧倒的弱者の立場である人間にとって、人ならざるものの情報は代々編纂し続けるほどの価値がある。
だが、ここ数十年で幻想郷は大きく変わった。
人間と妖怪は互いに均衡を保ってこそ幻想郷が存在し得ることを悟った妖怪たちが、人間と妖怪の間に生ずる争いに徹底的なルールを敷いたのだ。
人間は積極的に妖怪を退治しようとしなくなり、妖怪はほとんど人間を襲うこともなくなった。
ときおり妙ちくりんな妖怪が妙ちくりんな異変を起こしては、それを妙ちくりんな人間、あるいは妙ちくりんな妖怪が解決して、互いに幻想郷という囲われた世界の生活で溜まった鬱憤を晴らしている。
人間と妖怪の共存する世界になった幻想郷に、果たして今までのような幻想郷縁起の存在は必要といえるだろうか。
「そこで、私は今回の縁起を今までにないものに仕上げようとおもっているの」
阿求は意気揚々として語ってみせ、僕はだまって彼女の言葉に耳を傾けた。
美人薄命の名の通り、阿求はだいたい三十になるころにその命の輝きを失ってしまう。
それは幾重にも輪廻転生を繰り返す御阿礼の子に課せられた宿命のようなものである。
だが、そんな彼女においてもいざ縁起の話となると、ともすれば見る者に長寿をまっとうするのではないかとおもわせるほどに勢いづくのであった。
「今までの縁起はすべて対妖怪用の資料という面が大きかったのよ。だから小難しい言葉がだらだら並んでいるし、読み始めてすぐに放り投げてしまうようなかたっ苦しい内容だったわ」
「酷い言い草だな。過去の君が作ったものじゃないか」
「時代に合わせた内容づくりが肝心なのよ。とくに今どきの若い子に読ませるにはね」
現に私がそうだから、と阿求は得意気に語ったが、転生に転生を重ねて千年以上経つというのに今どきの若い子を自称するのはどうなのだろうか。
とおもったが口にはださないでおいた。
彼女の方から発せられるオーラに殺気を感じたのだ。
よもや覚よろしく人の心が読めるわけでもあるまい、気のせいだとはおもうのだが。
「で、よ。いよいよもって資料的価値すら失いつつある縁起を専門書みたいに仕上げたところで、それを読もうとする酔狂な人はいないでしょう? だから面白おかしい娯楽書ふうに仕上げてみようとおもうのよ。妖怪にそれほど興味がない人でも楽しく読めて、それでいて学べるなんて、お得でしょう?」
「なるほど、たしかにそのとおりだ。となると、なんだね。君のなかで僕という存在は『面白おかしな』ものなのかね?」
「そりゃあもう、役立たずのがらくたを陳列して商売と言い張る勇気の持ち主ですもの。その勇気に免じて英雄伝の欄に記してさしあげてもよろしくてよ?」
「言ったなこの!」
僕と阿求はきゃあきゃあと騒いだが、互いに濡れないように一つの傘に収まっているので言うほど大暴れしたわけでもなく、せいぜい相手の頬をつつきあう程度のものであった。
それから二人して冷静になって、なんだって頬をつつきあわなきゃならんのだと赤面したりしていると、いつのまにか我が家にたどり着いていた。
魔法の森を背に、『香霖堂』と看板の掲げられた異国情緒があふれる、控えめに言って立派なことこの上ない建物である。
「異国情緒が聞いたら嘆き悲しむに違いないわ」
「そこ、うるさいぞ!」
扉を開けて中に入る。
商品を陳列した棚が並んだ店内の奥に障子で仕切られた住居があり、カウンターの裏で靴を脱いで上がる。
「おじゃまします」
六畳ほどの畳の居間は、真ん中に小さな卓袱台があって、阿求をそこに座らせると、土間の炊事場でお茶を淹れて居間へと戻った。
居間のそこかしこにある、実用性の高い道具たちに興味しんしんそうな彼女に、お茶を差し出す。
阿求はすこしはしゃいでいた自分を恥じている様子で、照れくさそうにふーふーとお茶を冷ましながら飲んだ。
「さっき団子も買ってあったんだ。食うか?」
「わあい、いただきます」
先ほど里の甘味茶屋で購入したみたらし団子をお茶菓子にとだすと、阿求は僕の分なんて考えていない様子でぱくぱくと団子を消費していった。
さながら全自動乙女型団子消費機関といった趣である。
「あっ、これ里の裏通りにある甘味茶屋のお団子ですね。私、あそこのお団子好きなんですよ」
「知ってる」
「あれ、私、霖之助さんに話したことありましたっけ?」
「……それより、取材を始めなくていいのか?」
「ああ、そうでしたね」
それから阿求は矢立と無地の折り本を取り出すと、それを卓袱台の上に広げた。
「それでは、取材を始めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「なんだい、かしこまって」
「これが私なりの誠意よ。代々編纂してきた御阿礼の子として、恥ずかしくない振る舞いをしないとね」
「殊勝なこったね。で、なにを聞きたいんだい?」
取材内容は主に僕の素性であったり、店に並んでいる商品の解説であったりした。
阿求が折り本に記した取材内容を覗き込んでみたが、どうにもところどころに棘があるように見えなくもない。
ガラクタとか役に立たないとか、そういった言葉が散見されるのはどうしたことだろうか。
まあ、もとよりこの取材を機に商売繁盛を求めているわけでもないので、別にいいのだが。
そんな感じで取材はつつがなく終了したが、阿求は帰ろうとはしなかった。
こちらとしても雨の中を帰らせるのは忍びないので、お茶のおかわりとお茶菓子を囲んで談笑を楽しんだ。
こうして誰かと他愛のない会話をするのは、いったいいつ以来だろうか。
霧雨さんのところの道具屋から独立して十数年、客相手の会話以外でこうやって盛り上がるのはあの問題児二人以外ではめったにない。
僕は昔のことをおもいだしていた。
ずっとずっと昔、僕がこの幻想郷にやってきてすぐの頃。
あの時も、彼女とこうして笑いながら話しをした。
阿求の笑顔に、その面影が見えた。
僕はすこし、息が苦しくなった。
それからしばらく阿求と談笑していると、いつのまにか雨が上がっており、雲の隙間から陽の光が差し込んでいた。
「それじゃあ、そろそろお暇いたしますね」
「大丈夫かい? なんなら送っていくが」
「ふふ、出不精の霖之助さんが珍しいことを言うのですね。それでまた雨に降られちゃ敵いませんから、気持ちだけ受け取っておきます」
「そうかい。気をつけて」
「もちろん、わきまえていますよ」
阿求は扉の前で深々とお辞儀をしてから、踵を返した。
しばし僕は閉まった扉を見つめていたが、ふとおもい立って居間の隅においてある箪笥の引き出しを開けた。
中に入っている木の箱を取り出し、蓋を開ける。
箱の中には古びた一冊の和装本が入っていた。
表紙は色あせ、題名はかすれてほとんど読み取れないものの、かろうじて『幻想郷縁起』と読み取れる。
頁をめくると、もうすっかり紙が黄ばんでしまっており、慎重に保管していたというのにところどころに染みも目立つ。
そして、栞を挟んでいた頁を開くと、そこにはかつての僕の名前と、その紹介、そして挿絵が数頁にわたって記されていた。
『絶対に忘れたくない、私のとてもとても大切な人』
恥ずかしかったのか、頁の隅の方にとても小さくそう書かれている。
「阿弥……」
ほとんど無意識に彼女の名前を呟いた。
「つまり、ここは幻想郷に入り込みやすいんだ」
そう言って振り返ると、鳥居の下の階段に座っていた二人の少女の姿はすでになかった。
ずっと未来の世界からやってきたという黒髪の少女と異国の少女だった。
夢でも見ていたのだろうかともおもったが、懐にはしっかりと『しゃーぷぺんしる』や『まじっくぺん』が収まっているし、あの『ぽかりすうぇっと』なる甘美な水の味もまだ口の中に残っている。
どうやら僕は結界を越えて幻想郷側へと入りこんだらしい。
そうか。僕はついに幻想郷にたどり着いたのか。
「父上! 母上! ついに僕はあの幻想郷に到達しましたよ!」
僕は境内から一望できるはるか遠くの山々に向かって叫んだ。
かつて父上と母上が語っていた理想郷。
科学信仰が常識となり、魑魅魍魎の存在が駆逐されつつある人間の社会を抜け出し、噂を頼りに東奔西走、苦節数年の末にようやくたどり着いた楽園。
そこに今、僕は立っているのだ!
なんだか感慨深いものがあり、目頭に熱いものが込み上げてきた。
「あのー」
なんだか涙ぐみそうになり、それを払拭するべく見渡す限りの大自然へと響かんばかりに高らかな笑い声をあげている僕の背中に、おずおずと遠慮しがちに声がかけられた。
振り返ると、神社の境内を掃除でもしていたのか、竹箒をもった巫女が若干怯えた様子でそこにいた。
しまった。どうやら見られていたらしい。
「だ、大丈夫、ですか?」
「それは僕の頭が、という意味で言ってる?」
「いえあのその、ごめんなさい! 馬鹿にしているつもりはないんです! ですが、その、なんだかお恥ずかしいことをしていらっしゃったものですから……」
おまけにばっちり聞かれていた。
「忘れてください。きっぱりと。それより、ここは幻想郷でいいんですよね?」
尋ねると、巫女はこくこくと頷いた。
「はい、間違いありません。そしてここが幻想郷の東の果て、内と外とを繋ぐ博麗神社になります」
どうやら彼女はこの神社に住む巫女で、彼女一人で神事などをきりもりしているらしい。
が、人の里からこの神社へとたどり着くには鬱蒼と茂った森の中を進まなければならないらしく、妖怪に襲われる危険性があるためあまり参拝客は来ないようであった。
なんだかいたたまれない気持ちになったので、賽銭箱に一円銀貨を入れてやると非常に喜ばれた。
非常に喜ばれたついでに人里について聞いておくことにした。
「その人里なんだが、どうやって行けばいいのだろうか。できれば今日中に空き家かなにかを見つけて居を構えてしまいたいのでね」
「あなた、外の世界から来たんですか? なら、階段を降りた先の森を抜けてすこし進めば道に出ますけれど……危険ですよ? 妖怪いっぱいいますよ? 食べられちゃいますよ?」
「それは嫌だなあ」
僕は父が人間、母が妖怪の、つまるところ半人半妖であったが、とくに体を鍛えているわけでもなかったので、その実力たるや博麗神社に至る参道の階段を登りきるころには息を切らしてへたり込む程度には体力がなかった。
仮に森の中で妖怪に襲われたとして、きっと普通の人間と同じように呆気なく殺されてしまうだろう。
もっとも、半人半妖であるが故に妖怪に襲われる可能性も半々であり、よほど見境のない凶悪な妖怪でもない限りは襲われる心配はないであろうが。
むしろ、妖怪を許容できない思想を持った人間のほうがよっぽど恐ろしい。
「仕方ありませんね。せっかくお賽銭を入れてくれたのですから、里まで案内しましょう! なあに任せてください。妖怪退治は専門ですから!」
そう言って巫女は胸を張ると、箒を神社の壁に立てかけてから参道の階段の方へさっそうと歩き出した。
「今度はこの階段を降りなきゃならんのか……」
「がんばってください! ほら、ファイトファイト!」
「ところでこのままだと外の世界に出てしまうのではないのかね?」
「いえ、幻想郷の結界はそういう単純な二次元的構造じゃないんです。それに神社周辺は言ってしまえば内と外との境目で、境目と言っても薄っぺらいものじゃなく、こう、なんていうんでしょうね……穴に蓋をするとき、蓋が穴とまったく同じ大きさだと落ちてしまうでしょう? だから蓋は穴よりも少し大きく作る必要がある。蓋が結界で、穴が幻想郷、そして蓋と穴の外の接地面が結界の境目とおもってくれれば大丈夫です」
「なるほど、つまりここは外の世界でもあるし、幻想郷でもあるということだね。てっきり境内がその役割をはたしているものとばかりおもっていたよ」
「いえ、その解釈であっていますよ。ただ、この周辺全域がすべて境内ってだけのことですから」
ようやく階段を下り終えると、そこからは鬱蒼とした森の中の道を、巫女の先導で進んでいく。
道は神社のある小さな山を迂回するように伸びていた。
ときおり妖怪らしきものが草陰からひょいっと現れては、巫女が御札を投げてひょいっと退治した。
そのあまりの手際のよさに惚れ惚れしていると、やがて視界が晴れて森を抜け出した。
道の向こうには田畑がどこまでも広がっており、ところどころに小さな小屋や一軒家はあるものの、視界を遮るものがなく広々とした空や、遠くの森や山が一望できた。
道の脇にはお地蔵様が鎮座しており、道を行き来するものたちを見守っているようであった。
やがて、田畑の向こうにぽつぽつと小さく二階建ての家屋が見えはじめた。
「あれが里です。幻想郷に住む人間は基本的にあの里に住居を構えていますから、あなたもあの里に住むのですよね?」
「……いや」
僕は父上、母上と住んでいた村でのことをおもいだした。
二人は妖怪であるというだけで疎まれ、虐げられ、村の奴らに殺されてしまった。
僕だけが命からがら村を逃げ出し、それからずっと一人でこの幻想郷をもとめて旅を続けていた。
僕は妖怪としても人間としても中途半端な存在だった。
妖怪みたく生きる気はないが、人間に混ざって過ごす気もさらさらない。
「できれば里からすこし離れている方が好ましいな。ほら、あんな感じの」
指差した先には、田圃に囲まれてぽつんと佇んでいる、茅葺屋根の家だった。
しかし巫女は難色を示した。
「やめといたほうがいいですよ。あの家、今は誰も住んでいないんです。住んでいた人は妖怪に食べられちゃって。そういうおっかない妖怪が蔓延っているから、人々はああやって大きな集合体を作って身の安全を守っているんです。悪いことは言いませんから、里の中にしておいたほうがいいですよ」
「それだったら、たぶん大丈夫ですよ。ほら」
そう言って内側に抑制していた妖気を少しだけ解き放つと、巫女はびくっと体をこわばらせて、一歩後ずさるとその手に御札を構えた。
「なっ……あなた、妖怪だったんですか! 騙していたんですね! お賽銭くれたからいい人だとおもったのに!」
「待って待って! 騙していたつもりは毛頭ないって! 僕は半人半妖なんだ。だから妖気も小さくて簡単に封じ込めることができる。あらかじめ言っておかなかったことは悪かったよ。でも、騙すつもりならわざわざこうして打ち明けたりなんてしないだろう?」
「それはまあ……そうかもしれませんけれど……」
巫女はいまだに疑いの眼差しをこちらへと向けていた。
「僕はただ、静かに暮らしたいだけなんだ。外の世界はすでに科学信仰の世界になってしまって、僕たちのような存在は非現実として排除されてしまう。僕は半分は人間だが、半分は妖怪だ。となると、いずれ里の人間たちとのあいだに軋轢が生じるかもしれない。それは嫌なんだ」
「………………」
巫女はしばし思案している様子だったが、やがて深い溜息をつくと、わかりました、とひとこと言って歩き出した。
彼女の後ろをついていくと、道を途中で田圃道のほうに曲がり、やがてあの茅葺屋根の家の前にたどり着いた。
家の中は埃っぽかった。
ずいぶんと人が住んでいないのか、床や壁がところどころ傷んでいる。
そして、居間に上がってみると、茶色っぽく黄ばみ始めている畳に赤黒いしみがあった。
「それ、前に住んでいた人の血ですよ」
さらっと巫女が言い、今更ながら僕はぞっとした。
巫女を見ると、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら小さく首を傾げていた。
「どうします? やっぱり里にしますか?」
「……いや、ここにしよう。汚れてはいるがあまり荒れてはいないようだし、掃除したら見違えるほどきれいになるだろう。うん、住めば都と言うじゃないか。自分の家だとおもったらなんだか気に入ってきたぞ。うんうん!」
「なんだか自分に言い聞かせているふうにも聞こえますけど……まあ、わかりました。私も一応定期的にこの周辺のことは気にかけておきますから、安心してください。それと、引きこもってばかりいないでちゃんと里に顔を出して、ある程度みんなにその存在を認知されてくださいね。万が一のときに困ったことになるのはあなた自身なんですからね」
「あ、ああ……わかった。肝に銘じておこう」
それから里にある便利な店の情報や、困ったことがあったらすぐに神社に相談に来るようにと言って、巫女は帰っていった。
なんだか世話焼きのお姉さんみたいな巫女であった。
「さて、と」
誰に言うでもなく呟いて、僕は家の中を見回した。
まずは、掃除だ。
ゴミを掃き、埃を払い、床や壁を拭き、血に染まった畳を交換し、一部破損した床や壁を修繕すると、おもった通り茅葺屋根のおんぼろ小屋は見違えるほどきれいになった。
縁側につながる居間の障子戸を大きく開け放ち、広がる田園風景を眺めながら僕は一息ついた。
庭にそびえる木から虫の鳴き声がして、どこか遠くからはキジバトの声が響いている。
風が居間を吹き抜けると、いちめん緑の田圃が波紋のように揺れて、さわさわと音を立てた。
長閑だ。
外の世界では急速に失われつつある光景がここにはある。
これこそまさに日本の原風景と言えるだろう。
しばらく長閑な景色を堪能してから、僕は里に向かうことにした。
体の半分が妖怪でできている僕は、数日飲まず食わずで一睡せずともなんの支障もない体であるが、それはそれとして料理は好きであった。
とりあえず下見がてら里を見て歩き、それから先ほどの巫女から教えてもらった店で食材でも買って帰ることにしたのだ。
里の周囲は塀で囲まれており、入り口には立派な門が建っていた。
門をくぐると、まるで江戸時代みたいな古ぼけた町なみがそこにあった。
道を歩く人の姿は多く、里の規模に違わずなかなかの賑わいを見せている。
里を見て歩いていると、気になる店を見つけた。
里の中を流れる小さな川に橋が架かっており、そのそばに植えてある柳の木の向かいに『鈴奈庵』と看板がかかげられた(看板の『庵』だけがすこし斜めに傾いている)貸本屋があったのだ。
はてさて、幻想郷の貸本屋とは一体どのようなものが取り扱われているのかと、好奇心に駆られた僕はそのまま鈴奈庵の暖簾をくぐっていた。
店の中は薄暗く、埃っぽかった。
右を見ても左を見ても本がぎっしり詰まった本棚ばかりで、それはおろか地面にすら本が山のように積まれていた。
店内には蓄音機から流れる音楽と、少女の話し声だけが響いていた。
入口正面の奥には、暖簾がかかった住居の入口の前を塞ぐように机が置いてあり、声の少女はそこに座っていた。
少女は白と葡萄色の市松模様の長着に、萌葱色のスカートを穿いており、その上からフリルエプロンを着ている。
飴色の髪には鈴の髪飾りがあって、少女が小首を傾げるとふわりと踊った。
「いらっしゃいませー。あれ、ご新規さんですかー?」
「あ、ああ、そうだ。たまたま見かけてね、どんなものが置いてあるのかと気になって」
「そうだったんですねー。どうぞゆっくり見ていってくださいー」
そう言ってから、少女はふたたび誰かと話しはじめた。
話し相手の姿は見えない。
なんだかのんびりというか、マイペースそうな少女であった。
店内の隅には二人並んで座れるほどのソファが置いてあって、そこにはすでに先客が腰掛けていた。
緑の長着に赤い袴、黄色の羽織といった姿で、頭には椿の花飾りをしている。
どうやら彼女がその話し相手であるらしい。
聞き耳を立てているわけではないのだが、二人の少女と僕以外に客の姿はなく、自然と二人の会話が耳に入ってくるのでなんともいたたまれない気持ちになる。
やがて何冊かめぼしい本を棚から抜き出し、机の少女に差し出し、お金を払った。
返却期限と取扱の注意を受け、僕は貸本屋を後にした。
それから食料やおやつに団子なんかを購入し、ふたたび貸本屋の前を通って里の門へと向かっていると、貸本屋から椿の花飾りをした少女が出てきた。
彼女はこちらの視線に気がつくと、ぺこりとお辞儀をしてからこちらに駆け寄ってきた。
なにごとかとおもったが、彼女はやわらかな笑みを浮かべながら僕の前で立ち止まり、ふたたびぺこりとお辞儀をした。
「あの、お見かけしたことのない顔ですけれど……もしかして、あたらしくやってきた方でしょうか?」
「ついさっき、外の世界からやってきたばかりだよ」
「ああ、やっぱりそうでしたか!」
少女は僕の手を両手で包み込むように握ると、勢いよく上下にぶんぶんと振った。
大変嬉しそうな笑顔であったが、なにがそんなに嬉しいのかわからず、僕はしばし困惑していた。
「私は稗田阿弥です。里のふるーい家のお嬢様、なんて大層なものじゃないですけれど、まあほどほどに偉いです。えっへん」
阿弥と名乗った少女はない胸を張って言った。
「偉そうだ」
「えっへん」
「態度の話だぞ」
「最初はここでの生活でわからないことや馴染めないこともあるでしょう。そしたら、気軽に私の家に訪ねに来てください。私にわかることでよければ教えてあげられるでしょうから」
社交辞令だろうとおもいつつも、ありがとうと感謝の言葉を述べ、僕は阿弥と別れた。
あんな風に親しみを込めて接してくれる人だって、きっと僕の体の半分が妖怪でできていると知ったら、恐怖と軽蔑の目を向けてくるのではないか。
そう考えてしまうと、やはり里にはあまり近寄らないようにしようと、そういった結論に達してしまう。
……駄目だなあ。せっかく幻想郷に来たっていうのに、これじゃあ今までと変わりない。
その日は帰宅してから少し遅めの昼食を済ませ、貸本屋で借りてきた本を読んですごした。
……そういえば、僕はこの幻想郷という遠い地で、里の人達とも距離を取りながら、一体どうやって過ごせばいいのだろうか。
………………。
翌日、あまり近寄らないようにしようと言っていた里に、僕は向かうこととなった。
そして、どうせ社交辞令だろうと本気にしなかった稗田家へと訪問し、稗田阿弥に相談をすることとなった。
「ほんとうに来たんだ……」
阿弥は驚いた様子で目を見開いた。
「すまない、ちょっと相談事があってな……」
出会って一日、まだろくに会話も交わしていないしお互いのことも知らないというのに、僕は彼女に悩みを打ち明けた。
なぜかはわからないが、彼女には気兼ねなく話してしまうことができた。
「なるほど……いざ幻想郷に来たはいいけれど、なにをどうしたらいいかわからない、と……」
頭のなかにしっかりと刻み込むかのように復唱する阿弥に、僕は頷いてみせた。
里で通りすがりの人に稗田家の場所を教えてもらい、目的地近くにどこまでも延々と続く塀に首を傾げていると、なにを隠そうそれこそが稗田家の塀であり、立派な門をくぐってだだっ広い庭を横切り、ようやくたどり着いた玄関で小間使いさんに取り次いでもらい、案内されたのは軽く十畳はあるだろう立派な畳の部屋だった。
そこで机を挟んで、僕は阿弥と向き合っていた。
座布団がやたらとふあふあしており落ち着かない。
阿弥はなにやら書き物をしていたのか、机の上には筆やら硯やら真っ白な紙やらが散乱しており、古ぼけた書物も山のようにうず高く積まれていた。
隅から隅まできれいなこの広大な屋敷において、この部屋の机の上だけがまるで地震が起こったあとのようにぐちゃぐちゃで汚かった。
「なるほどなるほど……つまり無職。ろくでなしのごく潰し」
「そこまで言ってない」
「よし! 社交辞令で言った言葉を鵜呑みにしてわざわざ訪問してくるお馬鹿さんとの出会いもまたなにかのご縁でしょう!」
「お馬鹿さん言うな」
やっぱり社交辞令だったのか。
「あなた、ちょっと私の仕事を手伝ってくれませんか?」
「仕事……というと、この机の上の片付けとか?」
「それもありますけど、必要な資料を書庫から持ってきたり、取材に同行してもらったり、そういう感じですね」
「取材」彼女の言葉を繰り返す。
取材をするたぐいの職種を、僕はほんの少ししか知らない。
記者とか、記者とか、あとは記者とかである。
「阿弥さんはその、記者かなんかなのかな?」
「阿弥でいいですよ」阿弥はころころと笑った。
「記者じゃないです。私は幻想郷縁起っていう、まあ言ってみれば、妖怪退治お役立て帳を作っているんです。幻想郷縁起はずっとずっと昔から作っていて、私は八代目の編纂者になりますかね」
「ほう、そりゃまた便利そうな」
「いい機会ですから、これから取材に行きましょう! 実は縁起の執筆で少々行き詰まっていまして。気晴らしも兼ねた里の美味しいもの案内をおまけとして掲載しようかとおもっているので、その取材です」
阿弥が立ち上がったので、僕も立ち上がり、彼女の先導で迷路のような屋敷を出た。
庭を横切り、立派な門をくぐり、延々続く塀に沿った道を並んで歩いた。
阿弥が幻想郷縁起の説明の続きを話しはじめた。
「幻想郷縁起はですね、妖怪の特徴や危険度なんかを各妖怪ごとにまとめるんです。幻想郷のどこで遭遇しやすく、なにをすると危険で、なにをすると安全なのか、といった具合ですね」
なるほど、確かに幻想郷において、里の人間は外の世界以上に妖怪に怯えて暮らしている様子であった。
そんな状態なら万が一の妖怪対策本はきっと手にした者に安心をもたらすだろう。
きっと妖怪専門の退治師なんかもいて、この本の情報を頼りに妖怪と戦うに違いない。
もっとも、実用性があるのかどうかはわからないのだが。
もしも僕が縁起に載るのだとしたら、危険度は最低ランクにしてもらってもなんら問題はないだろうと、頭の片隅で僕はおもった。
「社交辞令を真に受けて本当に相談に来てしまう、その勇気に免じて英雄伝の欄に記してさしあげてもよくてよ?」
「言ったなこの!」
僕と阿弥はきゃあきゃあと騒いだが、互いにまだ出会って間もないこともあり、言うほど大暴れしたわけでもなく、せいぜい相手の頬をつつきあう程度のものであった。
それから二人して冷静になって、なんだって頬をつつきあわなきゃならんのだと赤面したりしていると、僕たちは里の中心部にたどり着いた。
もっとも、阿弥の家がそもそも里の中心部にあるのだが。
それから二人して阿弥のお気に入りだという甘味処食べ歩きを遂行し(もちろん店主にしっかりと取材も行っている。阿弥が)、しばらく甘いものは食べなくてもいいやとおもえるほどにそれを堪能した。
目の前の少女もそれは同じらしく、濃いめの緑茶を飲みながら深々と一息ついていた。
「もうしばらく甘いものはいいです……」
「同意するね。最初の団子十本からすでに飛ばしすぎだったよ……」
「ええ。でも、いいおまけ記事が書けそうですわ。さて、と。それじゃあ帰りましょうか」
それから僕は阿弥を家の前まで送り届けた。
門を開けてから、阿弥がこちらに振り返る。
「今回はまあ、本格的な取材じゃなかったから楽だったけれど、本番では身の危険に晒される可能性もあります。それでも、この仕事を受けてもらえますか?」
「ああ、ろくでなしのごく潰しは勘弁願いたいからね」
「そうですか」
ふっと小さく笑ってから、阿弥は改めて頭を下げた。
「それでは、明日からよろしくお願いいたします。毎日、日の出から一刻後にはこの場所に」
「ええっ、そりゃまた、早い時間から活動するんだな……」
「そりゃあもちろん、早寝早起きは長寿の秘訣、ですからね」
阿弥は人差し指を唇に当てて微笑んだ。
その言葉の意味を理解するのは、もうしばらく先のことである。
翌日から、僕の幻想郷での仕事が始まった。
普段は稗田家で阿弥の執筆の手伝い……具体的には、執筆に夢中になって乱雑に積み上がった資料や原稿なんかを整理したり、彼女が求める資料を書庫から引っ張り出してきたり、逆に書庫にしまったり、そんなことをした。
基本的に力仕事が主である。
僕に長々と文字を書いたり、長々と文字を読んだりする仕事は向いていないので、当然といえば当然である。
そしてこれがもっとも大変なのだが、妖怪の取材のために里を出て、わざわざ妖怪がいそうな場所に赴き、取材をするときも、僕は荷物持ちであったり、万が一のときには阿弥の身を守ったり、阿弥を脇に抱えて一目散に逃げたりした。
幻想郷の妖怪たちはとかく喧嘩っ早いというか、好戦的な輩が多く、出会い頭に攻撃されることなど日常茶飯事である。
彼らにとっては遊んでいるつもりなのかもしれないが、人間からしてみれば一発食らっただけで即閻魔さまの下である。
だが、そうやって二人で困難に立ち向かっていくうちに、僕と阿弥はある程度は打ち解けてきていた。
だが、僕はまだ大切なことを彼女に話せないでいた。
自分の中に妖怪の血が混ざっている、半人半妖であるということ。
それを伝えてしまうことによって、彼女に拒絶されてしまうのではないかという恐怖が、僕の足をその場に縫い付けてしまうのだ。
ところで、閻魔様といえば、どうにも幻想郷は彼岸とも繋がっているようで、いちど阿弥とともに三途の川くんだりまで赴くこととなった。
三途の川まで行って、一体誰の取材を行うのかとおもえば、三途の川の船渡しである死神、それに件の閻魔様であった。
まさか人間がそれらを退治するわけでもあるまいし、なぜ取材をするのかと僕は阿弥に尋ねた。
阿弥とともに働き始めておよそ二ヶ月のころだった。
阿弥は中有の道と呼ばれる、三途の川へと続く出店がならんだ通りで、団子を買って食べていた。
「幻想郷縁起は様々な面を併せ持った、幻想郷の妖怪大百科みたいなものです。正確には、人ならざるもの、それらに深く関わっているものを紹介する大百科ですね。だから危険な妖怪も紹介すれば、比較的安全な妖怪も紹介しますし、万が一の際に頼るべき人物も紹介すれば、なんの関係もないけれどとりあえず書いとけば面白そうって方も紹介します。まあ、それでもまだまだ堅苦しい書物であることに変わりはないのですが、初版に比べればだいぶん和らいだ内容になっているのですよ」
「まあ、里の甘味処批評まで載せるくらいだし、ねぇ……」
「もういっそ、甘味処批評だけ独立して刊行しちゃおうかしら」
そう言い、阿弥はみたらし団子をぺろりと平らげた。
黄泉戸喫 になってしまうのではないかと危惧したが、中有の道はまだ此岸なので問題はないようである。
僕はハンケチーフで阿弥の口元についたみたらしのタレをぬぐった。
阿弥は少し頬を染めながら、ありがとうございます、と小さく呟いた。
中有の道を少し進むと、果てしない霧に包まれた川が姿を現し、なにを隠そうそれこそがかの有名な三途の川であった。
川の周辺は明るくもなければ暗くもなく、上を見あげると昼なのか夜なのかよくわからない塩梅の空が広がっていた。
此岸の川べりにはいくつかの木造の船が停泊していて、そのそばには大きな鎌を持った死神が、使者がやってくるのを待っていた。
阿弥はその光景をじっと見つめて目に焼き付けていた。
幻想郷縁起には紹介する人物や場所の絵も記載されているのだが、それらは取材を終えて帰宅した阿弥が記憶を頼りに描いているものであった。
そしてそれは、記憶を頼りにしているとはおもえないほどに緻密に再現された絵なのである。
「それで、ここからどうする? 彼岸に向かうのか?」
「まさか、生きているうちは彼岸にはいけませんよ。死神に膨大な船渡し費を要求されるし、彼岸に降り立ったが最後、生きて戻ることはできません」
「でも、閻魔様に取材をするんだろう?」
「そりゃあまあ、コネがありますから」
そう言って阿弥はいたずらっぽく笑みを見せた。
しばらくすると、霧の向こう側からなにやら言い争いをしながらこちらにやってくる船があった。
言い争っているのは船渡しの死神と、それに乗っている一人の人物。
いや、正確には彼岸からやってきた時点で人ではないのだが、どうにも人ならざるものたちは、人ならざるはずであるのに人と同じ容姿をしていてややこしい。
「なんで流れもほとんどないゆったりした水の上で、あんな荒れ狂う海を渡るみたいな動きができるのよ!」
「そりゃあ、私の操舵技術のたまものですよ!」
「なるほどわかったわ。あなた、一回講習を受けなおしなさい。あんな動かし方をしていたらそのうち死者を三途の川に落としかねないわ。そんなことになったら大問題よ」
「そんときはまあ、私が釣り糸でも垂らしてやりますよ。気分はお釈迦様、ってね」
「不敬!」
その少女(一見すると少女に見えるが、絶対に少女ではない。絶対にだ)は死神の背中をおもいきり蹴り飛ばすと、死神はざぶんと水しぶきをたてて三途の川へと落っこちた。
まったくもう、とぷりぷり憤慨しながら、少女は此岸の川べりに降り立ち、そしてこちらを見た。
「阿弥……もしかして、彼女が?」
「失礼のないようにしてくださいね。あれが閻魔様です。それも幻想郷の死者を裁く担当の」
「死神を蹴落としたぞ……」
一見すると阿弥よりも少々小柄な、こう、全体的にぺたーんとした印象のこの少女が、どうやら閻魔様であるらしい。
もっとひげもじゃの強面の真っ赤なやつを想像していただけに、なんだか拍子抜けであった。
「聞こえているわよ」
「ぎゃあっ!」
べしん、と閻魔様に脇腹を板のような棒のようなもので叩かれた。
その棒にはなにやら筆で文字らしきものが書かれているのだが、よく読めない。
きっとこっちの世界の言葉ではないのだろう。
「なにも言ってないじゃないか!」
「いいえ、聞こえるのよ、あなたの心の声が」
「なんだって幻想郷の妖怪はみんなこうも暴力的なんだ……」
「誰が妖怪ですって!」
「ぎゃあっ!」
「あの、話が進まないんで早くしてもらっていいですか?」
困った様子で阿弥が言い、渋々といった様子で閻魔様は最後に一発、棒で僕の脇腹をおもいっきりひっぱたいた。
こんちくしょうとおもったが、阿弥が「めっ!」と言うので閻魔をじろりと睨むだけにとどめておいた。
もう様とかつけてやるもんか。お前なんか閻魔だ、閻魔。
「待たせたわね。それにしても久しぶりね、阿七。あれ、阿弥だっけ?」
「今は阿弥です。ご無沙汰しております、閻魔様」
「それにしても、阿弥もとうとう縁起の編纂を始めるのね。感慨深いわ……」
阿弥と閻魔のあいだにある関係性がどのようなものなのかは、僕は聞かされてはいなかった。
しかし、阿弥を見る閻魔のその表情は、孫娘を見守るお婆ちゃんのそれであった。
閻魔に脇腹を叩かれる。なぜだ。
「それじゃ、ぱぱっと済ませてしまいましょう。と、その前に、これ、なに」
閻魔が僕を指差して言った。これ呼ばわりである。
「仕事の相棒です。取材や執筆の手伝いをしてもらっています」
「そう……」閻魔の目がじろりとこちらを睨んだ。怖い。
「あなた、人間だけど人間じゃないわね? 妖怪の血が混じっているのかしら……」
「あっ、ちょっ、ばっ!」
僕は慌てて閻魔の口を手で塞ぎ、そのままずるずると阿弥から離れるように引っ張っていった。
「いだだだだだだだ」
がぶり、と閻魔が僕の指を噛む。
手を離すと、怒りのせいか顔を真っ赤にした閻魔が怒鳴った。
「なにをするんですかあなたは!」
僕も声を潜めて返す。
「それはこっちのセリフだ! そのことはまだ阿弥には伝えていないんだよ!」
「嘘をついているの? それはよくないわ。嘘はやめなさい」
「嘘をつかない人間なんていない!」
「あら、わかっているじゃない。そう、嘘をつかない人間なんていない。嘘をついてないなんて言う人間は、その言葉そのものが嘘になる。人間は絶対に嘘をつく。しかし、だからといってそれが嘘をついていい理由にはならないのですよ」
「わかっているさ! でも、タイミングというものがあるんだよ! 今はまだその時じゃない!」
「……そうですか。でも、あまりだらだらと引きずっていると、後々の傷が大きくなるわよ。浅いうちに打ち明けてしまうのが吉だと私はおもいますけれどもねぇ」
「ぐ……」
「しかし、残念ですね。すでに彼女には知られてしまったようです」
はっとして、僕は阿弥の方を見た。
阿弥は信じられないといった表情で、僕のことをじっと見つめていた。
息が苦しくなった。うまく呼吸ができない。
「あとで、お話があります」
阿弥が言った。淡々とした口調だった。それが僕の心を貫いた。
僕はその場から逃げ出したくなった。
やっぱり里に顔をだすんじゃなかったと、後悔が押し寄せる。
閻魔への取材が始まった。
阿弥が閻魔に質問をしたりしているあいだ、僕はただぼうっとその光景を眺めているだけだった。
閻魔に川に蹴落とされた死神もやってきて、彼女の取材も終わると、閻魔と死神は川を渡って彼岸へと帰っていった。
去り際に閻魔と死神にぽんぽんと肩を叩かれる。なんなんだお前らは。
僕たちは里に戻るまでのあいだ、ずっと無言だった。
僕らの醸し出す雰囲気を悟ってか、道中で妖怪に襲われることは一度もなかったが、この空気の重さに比べればむしろ襲われたほうがましである。
里に着いたころにはすっかり日も沈んでしまっていた。
「上がってください」
阿弥を稗田家の門の前まで送り届けると、彼女は僕の袖を掴んで言った。
僕はうなずき、門をくぐった。
いつもの部屋に通され、ふあふあの居心地が悪い座布団に座る。
阿弥は机の向かいに座ると、じっとこちらを見据え、それから口を開いた。
「閻魔様の言っていたこと……半人半妖って、本当なんですか?」
「っ……、ああ、そうだ。僕は人間と妖怪のあいだに生まれた、半人半妖だ」
論より証拠と、僕は今まで彼女の前では出さなかった妖気をすべて放出した。
阿弥の表情が一瞬こわばるのがわかり、僕は悲しくなった。
ああ、やっぱり駄目なんだ、とおもった。
僕は阿弥の言葉を待った。
その言葉はきっと拒絶の言葉だ。
今まで散々、人から浴びせられた言葉だ。
でも、それでも、それを阿弥に言われるのは、とても悲しくおもった。
やがて、阿弥が口を開き、僕は覚悟をして彼女の言葉に耳を澄ませた。
「それじゃあまず、名前と職業、それに能力と住んでいるところを教えてもらえるかしら」
……ん?
「えっと……今、なんて?」
「だから、名前と職業、能力と住んでいるところを教えて。わかってはいるけれど、一応、ね」
そう言って、今度は阿弥が僕の言葉を待った。
なんだっていきなりそんな……それに、その質問はいつも妖怪相手に取材をするときの常套句である。
阿弥がなにを考えているのか、さっぱり理解できなかった。
疑問におもいながら答えると、その後も阿弥は矢継ぎ早に僕を質問攻めにした。
「普段はどんな生活をしているの?」
「どんなって……基本的に阿弥の仕事の手伝いだけど……」
「人を襲ったことは? もしくは、襲おうとしたことは?」
「どっちもないな。襲われたことならあるが」
「人間相手には友好的な方だとおもう? それとも悪い?」
「特にどっちというわけでも……なあ、これは一体なんなんだ?」
とうとう耐えきれなくなって尋ねると、阿弥はきょとんとした顔になった。
「なにって……取材でしょう? あなた、今までいったいなにを見てきたのよ」
「そうじゃなくて、なんで僕は取材を受けているんだ?」
「そりゃあ、縁起に載せるためよ」
阿弥はころころと笑った。
僕はなんだか拍子抜けしてしまい、大きなため息を漏らした。
阿弥はやさしく微笑むと、机に頬杖をついた。
「そりゃあまあ、最初はびっくりしたし、少し残念におもったわ。なんで最初から話してくれなかったんだろうって。でも、あなたが半分妖怪だからって、私はあなたを追い出したり、殺したりはしないですよ。そんなつまらない理由で人を拒絶したりしません。だから、私を信じてください。相棒じゃないですか」
僕は絶句した。
受け入れてもらえない、きっとまた酷い目に遭う、そうやって相手を拒絶していたのは僕の方だったのだ。
阿弥の言葉で、僕は少しだけ胸の内がすっきりしたような気がした。
「ああ……そうだな、相棒だ。ありがとう、阿弥」
「ふふっ、どういたしまして。それじゃ、取材の続きよ。話してくれる? あなたのこと」
「ああ、そうだな。それじゃあ……幻想郷に来るまでの、旅の話でもしようかな……」
それから、阿弥とずっと話をした。
外の世界のこと、旅の途中のこと、両親のこと。
ふと気がつくと、阿弥は机にうつぶせになって小さな寝息を立てていた。
もう日が沈んでだいぶ経つ。
そういえば、阿弥は早寝早起きだと言っていたし、いつもならとっくに寝ている時間なのかもしれない。
それでも、阿弥は僕の話を聞いてくれた。
それがたまらなく嬉しかった。
僕は小間使いさんを呼び、阿弥の長着を脱がせてから、彼女を横抱きして寝室まで運んだ。
阿弥を布団に寝かせると、小間使いさんが「もう遅いですから、どうぞ泊まっていってください」と言った。
「えっ、いやでも、さすがに一緒に寝るのはどうかと……」
「なにを言っているのですか。別々の部屋に決まっているじゃないですか、破廉恥ですね」
「うっ」おもわず変な声が漏れてしまった。
結局、阿弥の寝室の隣にある空き部屋に布団を敷いてもらい、そこで寝ることになった。
知らない部屋。知らない天井。やたらふあふあした布団。ふすまの向こう側に寝ている阿弥。
……寝られるはずがなかった。
もちろん、だからといって隣の部屋にいる阿弥の寝顔を覗き込むほど、僕も落ちぶれていないし、そもそもそんな度胸もない。
なんども右へ左へ寝返りを打ち、しばらくしてようやく僕は眠りについた。
目を覚ました。瞼の向こう側がほのかに明るい。どうやら朝になったらしい。
ゆっくりと瞼を開くと、見たことのない天井と、僕の顔を覗き込む阿弥の顔があった。
「あ、起きましたか?」
「………………うわっ!?」
僕は慌てて起き上がり、彼女から距離を取った。
阿弥は僕が寝ていた布団のかたわらに座って、くすくすと笑っている。
その頬にはほんのりと朱が差していた。
「昨日、私の寝顔を見たお返しです」
どうやら僕の寝顔を見ていたらしい。
「お、おはよう……」
「はい、おはようございます。朝食ができていますから、一緒に食べましょう?」
「ああ、わかった……」
小間使いさんがいっしょに朝食を摂るはずもなく、僕と阿弥だけの朝食だった。
阿弥は、普段は一人で食べているから嬉しい、と笑顔で語っていた。
朝食を終え、少し休憩してから、僕達は今日の仕事を始めた。
今日は昨日の取材を元に縁起の執筆を行った。もちろん、阿弥が、である。
今日も今日とて、僕は彼女のサポートに回っていた。
阿弥は閻魔と死神の紹介文を書き終えると、今度は二人の姿絵をなにも見ずに描き始めた。
「相変わらず、すごい再現度だ」
「見たままの姿をそのまま描いているだけですから、たいしてすごくもありませんよ」
謙遜ではなく、本気でそうおもっているらしいところが阿弥の非常識なところであると、僕はおもった。
翌日、僕たちは取材のために博麗神社を訪れた。
神社ではあの時の巫女が境内を箒で掃除しており、僕と阿弥を見ると驚いたような顔をした。
「あら、あなた……なんで阿弥と一緒に?」
「知り合いなの? 彼は今、私のところで働いているのよ。ね?」
「あ、はい。お世話してます」
「ちょっと! そこは『お世話になっています』でしょう!」
「ここに来るまでの階段で途中で『もうむりぃ、負ぶさってぇ』って泣きついてきた人がいうセリフじゃない」
「なんですってぇ!?」
「あーはいはい、痴話喧嘩なら他所でやってほしいわね。取材なんでしょう?」
巫女が呆れた風に言い、阿弥が真剣な表情になったので、僕と阿弥の掛け合い漫才は終了した。
それからいつものように巫女への取材をし、それが終わったらおみやげに買ってきた団子を皆で食べた。
みたらし団子を頬張りながら、巫女が言った。
「それにしてもあなた、ちゃんと言ってあるんでしょうね? その、自分の素性のこと」
「ああ、それなんですが……」
閻魔とのことを巫女に話すと、巫女は呆れた様子でため息をついた。
「馬鹿だわ」
「まったく、大馬鹿ですよね」
巫女が言い、阿弥が同調する。
「最悪、退治されていたわよ。素性を隠して旧家のお嬢様に近づくなんて、まるで狼だわ」
「まったく、ケダモノですよね」
「待って。色々と待って」
巫女が言い、阿弥が同調し、僕が反論したが無視された。
それから巫女はニヤニヤと笑みを浮かべながら、僕と阿弥の顔を覗き込んできた。
「で? あなたたち、どこまでやったのよ」
「やった、と言うと?」
阿弥が首を傾げて返す。
僕は言葉の雰囲気からなんとなく言いたいことを察したが、万が一にでも墓穴を掘るとあとが面倒なので、黙っていることにした。
「とぼけないでよ阿弥、見てればわかるわ。二人とも、けっこういい感じじゃない。口づけまでいった感じかしら?」
「くっ……くっ!? くっ、くくくくっ……くうううう!?」
突然、阿弥が狂ったように叫んだかとおもうと、顔をまるで天狗みたいに真っ赤に染めて、かとおもうとそのまま動かなくなってしまった。
心なしか頭から煙が上っているようにも見えた。
「ありゃ?」
「ああ、阿弥が壊れた……」
阿弥が座ったまま失神してしまったので、巫女の興味の矛先は自ずと僕へ向けられた。
「で? 言ってる意味はわかっているんでしょう?」
「いや、まあ……でも、僕と阿弥はそういう関係じゃないですよ。仕事の相棒ですし、最近は仕事以外でもかなり打ち解けられました。でも、本当に、そういうんじゃないんです」
「ふうん? まあ、いいけどね。でも、後悔先に立たずって言うじゃない。その時が来てからじゃ遅いとおもうんだけどなあ」
巫女の言葉の意味がわからず、僕は彼女の方を見た。
巫女は団子をもぐもぐとしていたが、やがて飲み込むと、僕に言った。
「阿弥、持ってあと五年もないわよ」
「………………はぁ」
最初は、言っている意味がよくわからなかった。
持ってあと五年もない。
なにが持ってあと五年もないのだ。
いや、僕はただ混乱しているだけなんだ。
落ち着けば、だいたいこういう言い回しがなにを指しているのかなんて明白じゃないか。
つまり、それは……それは、そういうことなのか?
「五年って……どういうことですか……」
「……聞かされてないのね。阿弥は御阿礼の子。百数十年に一度、稗田家に誕生する阿礼の生まれ変わりで、幻想郷縁起の編纂者。今まで転生してきたすべての御阿礼の子の、縁起に関する記憶を引き継いでいる、見たものを決して忘れない天才的頭脳の持ち主にして、三十に満たない年齢で命を落とす、薄命の子なのよ」
五年。あと五年。意味がわからなかった。
五年以内に、阿弥が死ぬ?
死んで、死んだら、そしたら……阿弥はいなくなるのだ。
僕は阿弥を見た。
いつの間にか意識を回復させていた阿弥は、いつも通りの笑顔だった。
「阿弥……今の話って……」
僕が口を開くと、まるでそれを遮るかのように阿弥は突然立ち上がった。
それから、満面の笑みを浮かべて僕に手を差し伸べてきた。
「さ、そろそろお暇しましょう! あまり長居するのもよくないですよ」
「あ、ああ……」
手を握り返し、立ちあがる。
阿弥は巫女の方に振り返ると、ぺこりと頭を下げてお辞儀をした。
「取材、受けてくれてありがとう」
「いい記事を期待しているわ」
「もちろんよ!」
……いや、阿弥の笑みは、いつも通りの笑顔ではなかった。
どこか、苦しそうな、悲しそうな、そしてそれを内側に必死に押さえ込もうとしている、そんな笑顔だった。
階段を降り、森のなかを通る道を抜ける。
僕達はずっと無言だった。
けれども僕は、彼女に尋ねないわけにはいかなかった。
『後悔先に立たずって言うじゃない。その時が来てからじゃ遅いとおもうんだけどなあ』
巫女の言葉が脳裏に蘇る。
僕は、阿弥の名前を呼んで彼女を呼び止めた。
「阿弥、巫女が言っていた……五年以内に死ぬって、本当なのか?」
阿弥が立ち止まり、振り返った。
胸が締め付けられるように痛んだ。
僕は、彼女の口からそんなものはでたらめだと言ってほしかったのかもしれない。
けれども、僕を見つめる阿弥は今にも泣き出しそうな表情で、それが本当のことなんだと、無理矢理にでも理解させられた。
やがて、ぽつり、ぽつり、と阿弥は語りはじめた。
「……ええ、本当よ。私はあと五年以内に死ぬ」
「そんな……どうにかならないのか?」
「これはどうあがいても免れることのできない、御阿礼の子の宿命なの。死んで、そしたら閻魔のもとで百年以上、次の肉体ができるまで働くの。すべて、何百年も前から決まっていることなのよ」
「でも……それじゃあ……僕は、どうしたらいいんだ」
僕は、無意識に阿弥の肩を掴んでいた。
「君のことが好きになってしまった! そんな……五年も経たずに別れないといけないなんて嫌だ!」
阿弥は驚いた表情をしていたが、その目に涙を溜め込み、やがてぽろぽろと頬をこぼれていった。
「しっ、知らないわよっ! そんなっ……私だって、あなたのことが……すっ、好きに、なっちゃったじゃないっ! 未練があって死ぬに死ねないわよこれじゃあっ!」
「だったら死なないでくれ!」
「私だって死にたくないわよ!」
僕は阿弥を抱き寄せ、どこにも行かないように強く強く抱きしめた。
阿弥が僕の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
右手で阿弥の髪をくしゃりと撫で、頬を寄せる。
どれくらい経っただろうか、しばらくそうして抱きあっていたが、やがて阿弥が落ち着きを取り戻すと、どちらからともなく僕たちは体を離した。
阿弥の頬に涙の跡が残っていたので、頬に手を添えて親指で拭ってやる。
阿弥の濡れた瞳が、じっと僕を見つめていた。
「阿弥……」
「……うん」
彼女の名を呼ぶと、阿弥は小さく頷いた。
それから僕と阿弥は、そっと顔を寄せ合った。
ほんの少しの時間だったけれど、僕にはまるで永遠のように感じられた。
しばらく重なり合っていた二人の影が離れて、阿弥は恥ずかしそうに口元を隠しながら赤面した。
「口づけは……その、初めてです。産まれて初めて。なんだか、ふわっとしたものなのですね……」
「まあ、ものによるんじゃないかな。互いの舌を絡め合うような接吻もあるし」
「まあ! なんて破廉恥な! それでは、ぜひともあとで試してみましょう! 経験せずに死ぬなんて嫌です! こうなったらなんでもとことん試してみましょう! さあさあ!」
「ま、待ってくれ! 雰囲気が台無しだ!」
阿弥に手を引かれて、僕たちはあぜ道を走った。
「でも、良かったです」
日が沈んで夜になった。
阿弥は里のお屋敷には戻らずに、僕の家にいた。
乱れた衣服を抱き寄せるようにしながら、縁側に座っていた阿弥は、居間にいる僕の方を振り返って微笑んだ。
「それは……舌を絡め合うような接吻のことかい? それともそのあとの――」
「だっ、誰もそんなことは言っていません! そうではなく、あなたが半人半妖だったことが、です」
「ほう、そりゃまた、なぜ?」
僕は立ち上がり、阿弥の隣に座った。
阿弥は先ほどまでのことをおもいだしたのか、顔を赤らめて、ふい、と僕から視線をそらしてしまった。
「あなたは妖怪の血を引いていますから、確実に百年、二百年は生きるでしょう。もっと生きるかもしれません。そしたらもしかしたら、九代目の私と逢えるかもしれないじゃないですか」
「……御阿礼の子ってのは、転生したら前世の記憶も引き継ぐもんなのかい?」
「いえ、幻想郷縁起に関わる一部だけです。ですから、実質別の人、ということになっちゃいますかね。でも、そのための縁起ですから」
よいしょ、と阿弥は僕の隣にぴったりとくっつくと、もたれかかるように僕の肩に頭をあずけた。
それから彼女の左手がそっと僕の右手に重ねられ、指と指が絡み合った。
「縁起に書いてあることなら忘れない。だから、あなたのことを縁起に書いておけば、絶対に忘れません。忘れたくないんです。絶対に」
阿弥がこちらを見上げた。
彼女の頬に手を添えると、阿弥はくすぐったそうに身をよじらせた。
「……だから、来世の私も、こうやって愛してくれますか?」
「もちろんだとも。なんど生まれ変わったって愛してるよ、阿弥」
そのままふたたび彼女の唇をふさぎ、唾液を混ぜ合わせるみたいに舌を絡めた。
顔を離すと、阿弥はうっとりと呆けた表情をしており、舌先からは唾液が糸を引いて垂れていた。
「……やばい、そそられる」
「んなっ! ……もうっ! 雰囲気が台無しじゃないですか!」
「それはお互い様だろう?」
二人して、縁側に寝転がる。
眩しいほどに輝く満天の星空を見上げながら、僕たちはしばらく無言のままそうしていた。
手をつなぎあったまま、ずっと、そうしていた。
「あ、でも男に生まれ変わる可能性もあるんですよね」
「……本当に、台無しだなあ」
台無しである。
あれから、一年後には晴れて八冊目の幻想郷縁起が完成し、あの鈴奈庵という貸本屋にて製本されることとなった。
僕のことを記した記事だが、阿弥の意向で阿弥の手元に残る分と、僕の手元に残る分の二冊にだけ収録されることとなった。
僕の記事は文章量も挿絵の数も、他の妖怪の記事と比べて三倍近くあり、誰が見てもあからさまな贔屓がされていることは明白であった。
そもそも記事とは名ばかりの、読めば僕の素性から阿弥との馴れ初め、その他様々なことを赤裸々に記した暴露本に他ならない。
願わくは他人に読まれてしまうことだけは絶対に避けておきたい内容に仕上がっていた。
さすがに初夜のことまで記されているのは狂気の沙汰としかおもえない。
なので、一般に販売される分には収録しないことにしたのだ。
当たり前である。
そうしてこの特別な縁起は、僕と阿弥だけの秘密となったのだ。
なんだか照れくさいわ、と阿弥は恥ずかしそうに言った。可愛かった。
初夜のことを記しておいて恥ずかしいもないだろうと言ってやると、阿弥の顔はますます赤く染まった。可愛かった。
そして、御阿礼の子としての役目をこなした阿弥は、それからさらに数年かけて転生の術の準備をした。
僕は縁起の執筆という仕事がなくなっても、いつも彼女のそばにいた。
転生の術の準備のあいだも、ずっと彼女を見続けてきた。
幸せな時間だった。
だが、阿弥は出会った当初と比べて、明らかにやつれているのがわかった。
彼女の死期が迫っている。直感的に、僕はそう感じていた。
そしてある日、とうとう阿弥は倒れた。
出会ってからもう五年が経っており、いつ死んでしまったとしてもおかしくはなかったのだ。
阿弥が寝たきりになっても、僕はずっと彼女のそばにいた。
布団で寝ている彼女のそばにあぐらをかいて座って、彼女の手を握って、弱々しい声で話す彼女の話し相手になった。
食べやすいように柔らかく煮込んだ味気ない食事を一緒に食べた。
目がよく見えないという彼女の代わりに本を朗読した。
阿弥は日に日に弱々しくなっていったが、それでも笑顔だけは絶やさなかった。
そんな彼女を見ているのが辛くて、僕が泣きそうな顔をしていると、ほとんど見えていないというのに阿弥は慰めるように僕の顔を撫でた。
「そんな顔、しないでください。私、もうすぐ死んじゃいそうだっていうのに、全然寂しくないんですよ? こんなの初めてです」
「僕は寂しいよ、阿弥。もっと、ずっとずっと、君と一緒にいたかった……」
「ふふ、情けない声を出さないでください。大丈夫です……。たった百年とちょっとですよ。そしたら、私は生まれ変わります。それまで、私を待っていてくださいね……? 約束、ですよ……?」
「ああ……ああ! もちろんだとも! ずっとずっと待ち続けるさ!」
「浮気……したら、閻魔様の元を抜け出してでも祟りに行きますからね……?」
「……ああ、わかっているとも」
阿弥の手を優しく握ると、阿弥は小さく微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。
それから彼女は目をさますことなく、翌日に息を引き取った。
それから百年と少しが経ち、里に住む人達もほとんどまるっと入れ替わり、博麗神社の巫女も何人目かの新しい巫女に代替わりした頃。
里にあった道具店で修行をし、僕は道具屋として独立して魔法の森の近くに店も構えていた。
名前も、森近霖之助と改めていた。
幻想郷の様相はだいぶん変わっており、一方でまったく変わっていないところもあった。
なんにしても、百年以上もここで過ごしていると、やってきたばかりの当時がまるで嘘みたいに、僕も幻想郷に染まっていた。
そんなある時、天狗が書く新聞の一面に、九代目の御阿礼の子の生誕を知らせる記事が載せられていた。
あらかじめ作られた肉体に魂を入れるからなのか、記事の写真に映し出されているのは齢八つほどの少女であり、その顔には阿弥の面影が色濃く出ていた。
名前は稗田阿求というらしい。
僕は胸が高鳴るのを感じた。
百年以上待ち続けた彼女が、ついに帰ってきたのだ。
僕は彼女の元へと向かった。
百年以上が経ち、名前も住む場所も変わってしまった。
彼女の方から僕のことを見つけ出すのは困難に違いない。
里へと向かい、長い長い塀に沿って歩き、そしてあの大きな古びた門の前に立つ。
この門を叩くのも、かなり久々になる。
僕は門の前に立ち、腕を上げたところで、ふとおもった。
今、稗田家に僕のことを知っている人物は一人もいない。
僕が彼女を尋ねたところで、片や旧家の特別なお嬢様、片や森の奥にひっそり居を構える半人半妖のしがない道具屋である。
果たして会わせてもらえるものだろうか。
僕はしばし門の前でいったりきたりして逡巡していたが、やがて意を決し、門を叩いた。
しばらくすると門が開いて、小間使いさんとおぼしき女性が顔を出した。
「はい、なにかご用でしょうか?」
「あの、阿弥……じゃなかった。阿求さんにお取り次ぎ願えませんか?」
「失礼ですが、あなたは?」
訝しむようにこちらを見る小間使いさんに、僕は当時の名前を名乗った。
確認してまいります、と言って小間使いさんは門を閉じたが、そう時間もかからないうちにふたたび戻ってくると、淡々と言った。
「阿求様に確認してまいりました。そのような名前の方に心当たりはないそうです。申し訳ありませんが、お引き取りください」
一瞬、頭の中が真っ白になったのがわかった。
僕は、はあ、と曖昧な返事をして、稗田のお屋敷を後にした。
ずっと、どうして阿求が僕のことを覚えていないのかを考え続けた。
阿弥が作った幻想郷縁起は二種類ある。
一つは一般に流通した幻想郷縁起。
もう一つは、僕と阿弥以外に持つものがいない、特別な幻想郷縁起だ。
もし、御阿礼の子に受け継がれる縁起の記憶が、一般に流通した方の縁起の記憶なのだとしたら、僕とともに過ごした記憶は彼女の中には無いことになる。
僕は絶望した。
阿弥との幸せな時間の記憶は、もう彼女の中には残っていないのだ。
……がだ、考えてみるとそれはあたり前のことなのかもしれない。
片や長命の半人半妖、片や短命の人間。
歴然とした寿命の差はどうにもならないし、そもそも阿求は阿弥の生まれ変わりとはいえ、縁起の記憶しか受け継いでいない阿求は、彼女とは別の人間なのだ。
僕のことを覚えていないのも、そもそも別の人間なのだからあたり前のことなのである。
………………。
頬を涙が伝っていた。
馬鹿馬鹿しい、とおもいながら腕で涙を拭う。
百年だ、百年。そんなに経ったのだ。
それをいまだにうじうじと……本当に、馬鹿馬鹿しい。
そうおもってはみても、涙は止まらなかった。
ああ、僕は本当に阿弥のことが好きなのだ、今でも変わらずずっとずっと好きなのだと、僕は実感した。
恐らく、もう阿求と会うことはないだろう。
彼女は阿弥ではない。稗田阿求なのだ。
そして僕は森近霖之助。かつての僕ではない。
今やもう、僕と彼女のあいだに、接点なんてありはしないのだ。
なんておもっていたのに、おもいのほか早く阿求と出会うこととなった。
きっかけは稗田家の主人と、修行した道具屋の親父さんが親しかったことに由来する。
もっとも、阿弥のときのように親密な間柄というわけでもなく、知り合い、顔見知り、友人関係といった程度のものであった。
阿弥の顔がちらつくのは苦痛でもあったが、接してみるとやはり阿求と阿弥とではまったく中身が異なっていた。
だからだろうか、僕はごくごく普通に阿求と接することができた。
そうして数年、阿求が十歳になろうとしたとき、とうとう彼女が幻想郷縁起の執筆を始め、僕が取材を受けて今に至るのだ。
居間で阿弥が執筆した幻想郷縁起を読んでいると、店の扉が開く音がした。
それから、さっき帰ったばかりの阿求がひょっこりと居間に顔を覗かせた。
「あのー、霖之助さん。さっきの今で申し訳ないのだけど、ちょっと相談が……」
「ん? 相談?」
僕は本を閉じて卓袱台の上に置いた。
阿求はいそいそと居間に上がると、僕の正面にちょこんと正座した。
それからまっすぐに僕を見つめて、改まった口調で話しだした。
「実は、せっかくここまで来たのだから無縁塚の方まで行ってみようかとおもいまして」
「無縁塚か」
あそこなら僕もなんどか訪れている。
身元不明の遺体を焼いて弔ったり、その遺体が所持している外の世界の道具であったり、または冥界の道具であったりをありがたく頂戴するために。
なので、僕は無縁塚へと至る道や、無縁塚に関してはそれなりに知識があった。
「で、ですね。霖之助さんにも、ぜひご同行いただけたらとおもいまして……」
「なんだって僕が?」
首を傾げて尋ねると、阿求は恥ずかしそうにもじもじとし始めた。
「だって、一人で行くには、ちょっと怖いじゃないですか……」
数秒間、無言の間が続いた。
それから僕はいよいよ耐えきれなくなって、笑い声をあげた。
阿求がさらに恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め上げたかとおもうと、座っていた座布団を持ち上げて僕へと押し付けてきた。
そして僕が抱えるように手にした座布団めがけて、ぼす、ぼす、となんども殴りかかってきた。
「ちょ、待って! 痛い! 痛いって! あはははは!」
「なんで笑うんですか! ひどいです! 霖之助さんの鬼! 悪魔! 妖怪!」
「はははは! だから痛いってば! うりゃっ!」
僕は阿求の両肩をがっちりと押さえるように掴むと、そのまま抱き寄せた。
もちろん、僕が抱える座布団にである。
ぼふん、と座布団に顔を埋めた阿求は、くぐもった声で「あはははは!」と笑った。
それがおかしくて僕も笑う。
お互いにお互いが笑うのがおかしくて笑っているのだ。
永久機関である。笑い疲れてお腹が痛くなるまで、しばらく抜け出せなかった。
二人といっしょに魔法の森を無縁塚へと向かって歩いていく。
正確には、僕が阿求を背負って歩いていた。
森に入って早々、阿求は気分を悪くしてしまったのだ。
かといって戻るかと尋ねれば戻りたくないと言うので、仕方なく僕が負ぶさっているのだ。
「いいですねー、これ。楽ちんですね。霖之助さん、こんどからこうやって私を背負ってくれませんか?」
「元気そうだな。よし下ろすぞ」
「冗談、冗談ですってば! もういやだなあ霖之助さんったら!」
そう言いながら阿求は僕の首に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
意地でも離れないぞという意志がありありと感じられる。
仕方がないので彼女を負ぶさったまま森を進んだ。
「……霖之助さん」
背中から阿求の声がした。
先ほどまでとはうってかわって、しっかりとした、真面目な口調だった。
「ん? なんだい?」
「さっき、卓袱台の上に置いてあったのって、あれ、幻想郷縁起ですよね?」
どうやらさっき、居間に上がってきたときに目ざとく見つけていたらしい。
僕は頷いた。
「そうだ。あれは八代目の御阿礼の子、阿弥が執筆した縁起だよ」
「そう……ですか。でもあれ、普通に売っていたやつではないですよね?」
「……どうして、そうおもうんだい?」
「阿弥のころに作った縁起、実はうちに二種類あるんです。私の記憶にあるのは普通に流通した縁起ですが、私の記憶にない、もう一種類の縁起があるんです。霖之助さんが持っていた縁起は、その私の記憶にない方の縁起といっしょでした。表紙の紙の色が普通のとは違うんです」
「……そうだったのか」
気がつくと、僕たちは森を抜け、再思の道まで来ていた。
秋になると辺り一面を真っ赤な彼岸花が覆い尽くすが、今は一見すると何の変哲もない草原の中を進む道である。
「読んだことがあるんです。記憶にない方の縁起。私くらいの天才ともなれば縁起の内容なんて覚えていますから、普通の縁起と異なる箇所がどこかくらいはすぐにわかります。……で、その異なる箇所というのが、ですね……」
阿求は言いづらそうにごにょごにょと語尾を濁していった。
「あの愛だの恋だの性行為だのを赤裸々に書き綴った頁だろう?」
「は、はい……そこですぅ……」
背中越しに阿求の体温が伝わる。すごく熱い。
「私、あの人の記憶は全然ないんです。たぶん、阿弥はあの人との記憶を引き継ぎたくて縁起に記したんでしょうけれど……恐らくあの恥ずかしい記事が一般の縁起には記されていなかったから、記憶は引き継がれなかったのでしょう」
阿求の推理も、おおむね僕が考えたものと同様であるらしかった。
僕は黙って頷いて先をうながした。
「でも、私、小さい頃にあの頁を読んで、かつての私がこんなにも愛した相手は誰なんだろうって、ずっと考えていました。半人半妖の青年。それならばまだ生きているかもしれない。それに私が生まれて間もないころに、彼の名前と同じ人物がうちを訪ねてきたんです。その時はまだその名前を知らなかったので、お会いすることはなかったのですが……きっとその人が彼に違いないと、そう確信しました。そうおもっていた矢先に霖之助さん、あなたに出会ったんです。名前も違うし、性格も記述とくらべてだいぶん変人寄りになっていましたが……」
「やかましいわ」
「でも、あなたにはあの挿絵の人物の面影がありました。それでもまだ確証は持てませんでしたが……霖之助さんが持っていた縁起を見て、確信しました」
背中が軽くなり、阿求が地面に降り立った。
それから彼女はぐるりと回り込んできて、僕の正面に立つと、まっすぐに僕を見上げるように見つめた。
「……阿弥が愛したのは、あなただったんですね」
「……そうだ。僕は阿弥を愛していた。心から、彼女のことを愛していた」
ぼすん、と腹に衝撃があって、みると阿求がそこに突進するみたいに抱きついていた。
背中に回された手が、締め付けるようにぎゅっと力を込められる。
「やっと逢えた! ずっとずっと、ずーっと逢いたかった! 記憶がなくてもわかります! 阿弥は……私は、ずっとあなたに逢える日を待ち焦がれていました。百年以上、ずっとです! ああ、そしてようやく……」
阿求は抱きついたまま僕を見上げた。
その目からは涙がこぼれている。
彼女の中にある阿弥としての記憶が無意識にそうさせているのか、それともあの頁を読んだ阿求が阿弥の記憶を追体験したからなのかはわからない。
けれども、今、僕は紛れもなく阿弥と話し、抱き合っているのだ。
「好きです! 百年経っても、あなたのことが心の底から大好きです!」
「僕もだよ、阿弥。……いや、阿求」
阿求の涙を指で拭ってやって、それから僕は阿求の体を抱き上げた。
小さく軽い彼女の体はたやすく持ち上がった。
阿求は期待の眼差しでこちらを見つめ、それからゆっくり目を閉じた。
そんな彼女の期待に応えるように、僕は彼女の小さな唇へと顔を寄せた。
キスは唇が軽く触れ合うような、お子様向けの“ちゅー”であった。
阿求は不満そうにしているが、大人のキスは大人になってからである。
なにせ今の阿求は未だ十にも満たない年齢なのだ。
よろしくない。いくら転生しているといえどもさすがによろしくない。
例に漏れず、他の御阿礼の子と同様に阿求も三十になるかならないかというところで、静かに命の灯火を消してしまった。
だが、死の間際に阿求は自信満々に言っていた。
「それじゃ、百年とちょっとのあいだ、浮気しないで待っていてよね」
阿求には、もう僕と過ごした記憶がなくなってしまうかもしれないなんて不安はなかった。
なぜなら、阿求が作った九冊目の幻想郷縁起には、しっかりと僕のことが書かれているのである。
それもあろうことか、一般流通分に、阿求の旦那として、である。
これで絶対に忘れることはないと阿求は豪語していたが、それがどれほど恥ずかしいことになるのかを、本を刷る前の阿求はまだ知らなかった。
霊夢や魔理沙、貸本屋の本居小鈴を始めとする様々な人達からいじられ、茶化され、祝福されたのは言うまでもない。
それから、幼いうちに縁起を書き終えた阿求は、それ以外にもさまざまな本を書いた。
本を書いているあいだの阿求は、まるでこのまま長寿を全うするんじゃないかというくらいに元気だった。
なのに、やはり運命には逆らえないものなのだろうか。阿求はある日、突然、倒れたのだ。
けれども、起き上がれなくなっても阿求は元気だった。
僕が顔を見せるとまるで幼い子供のようにはしゃいでいた。
「ああ、しばらくお別れになるのは悲しいけれど、次の転生が今から楽しみだわ」
「もし僕が死んじゃっていたらどうする?」
「生きて」
阿求は至極真面目な顔でそう言った。
「無茶を言うなあ」
「無茶してよ、私にまた会いたくないの?」
「会いたいなあ……じゃあ、無茶するか」
「うん、頑張って。それじゃあ……また、ね。霖之助さん」
「ああ、またな。阿求」
口づけを交わす。それから、ふにゃりとだらしない笑みを浮かべて、そのまま阿求は永遠の眠りについた。
「だらしのない死に顔だなあ」
阿求の顔をもにゅもにゅと撫でながら呟く。
それから僕は、冷たくなっていく彼女の体を起こし、ぎゅっと抱きしめ続けた。
阿求が死んでしまってから十年と経たないうちに、幻想郷はなくなってしまった。
なにが起こったのか、詳しくはわからなかった。
けれどもある日、突然幻想郷は消失し、多くの妖怪や里の人達がいなくなってしまった。
もちろん、稗田家もだ。
僕がどこにも消えることなく生き残れたのは、本当に偶然というほかないだろう。
つまるところ、とうとう阿求とふたたび相まみえることは叶わなくなってしまったということだ。
僕はずいぶんと様変わりした外の世界を何年も彷徨い歩き、そして紆余曲折を経て老齢の女性が経営している京都の小さな道具店で働くこととなった。
住む場所がないと言うと、店の二階にある小さな空き部屋に住まわせてもらえた。
そこで数年、僕は働いた。
やがて店主の女性が老衰で亡くなると、僕は彼女からこの店を引き継ぐこととなった。
一日に客は二人、三人ほどふらっと訪れる程度であったが、香霖堂よりはましであった。
僕は数十年に一度、名前を変えながら細々とその店を経営し続けた。
そして、百年以上が経って、僕の寿命もいよいよあと百年にも満たなくなってきた頃。
なんの前触れもなくその三人は現れたのだ。
夕方になり、そろそろ店じまいを始めようとしたところ、店の扉が開いて三人の少女が店内へと入ってきた。
「いらっしゃい」
声をかけ、三人を見た僕は絶句した。
一人は黒髪の少女で、もう一人は金髪の異国の少女であった。
二人ともどこかで見たことがあるような顔をしていたが、おもいだせなかった。
そして、その二人に連れられるようにして店内へと入ってきた、女子校生だろうか、セーラー服を着た少女。
その少女は不安そうな顔で僕を見て、そして口に手を当てたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
その頭には、椿の花飾りが美しく咲き誇っていた。
「ああ……」
僕はおもわず声を漏らしていた。
間違いない。彼女だ。
もう一生会えないものとおもっていたのに、彼女は今、目の前にいるのだ。
僕が彼女に駆け寄るのと、彼女が僕に駆け寄るのは同時だった。
そして僕たちは、店の真ん中で強く抱きしめあった。
「ずっと会いたかった」
「僕もだ」
「もう逢えないのかとおもった」
「僕もだ」
「ただいま」彼女が言った。
「おかえり」僕が言った。
それから僕らは口づけをした。なんどもなんどもした。
居づらくなったのか、さっきの二人はいつの間にか店内から姿を消していた。
お礼を言う暇もなかった。こんど会ったら、なにか美味しいものを奢ってでも感謝しないといけない。
でも、いまは、もうすこし、彼女と二人の時間を、楽しみたかった。
彼女は十代目の御阿礼の子……ではなかった。
幻想郷が消失した今、もはや御阿礼の子として転生する必要性はないのだ。
では、彼女は一体なんなのであるのかというと、彼女は自らを阿礼と名乗った。
もちろん、千年以上前に古事記を編纂したあの阿礼ではない。
彼女は阿求の頃の僕とのおもいでの記憶だけを引き継いだ、阿求の生まれ変わりの、ただの人間だった。
「私が死んでからすぐに幻想郷がなくなって、閻魔様に言われたんです。もう御阿礼の子として転生する必要性はなくなった。けれども、転生後の肉体を用意する儀式は執り行ってしまったから、普通の人間として転生しなさい、って。それで、霖之助さんとの記憶だけを引き継いで転生させてもらったんです」
「それじゃあ、もう……」
「はい! 私、やっと長寿を全うできるんですよ! えへへ」
僕は嬉しさのあまり阿礼を力いっぱい抱きしめ、そのまま店内にあるソファーに倒れ込んだ。
「きゃあああ!」
阿礼が嬉しそうに悲鳴をあげた。
それから、ソファーに重なり合いながら寝転がって、僕たちはお互いのことを話した。
阿礼ははるか昔に稗田家から枝分かれした家系の末裔に、長女として生まれたようだった。
今は市内の高校に通っており、常に学年トップの地位をキープしているのだという。
御阿礼の子でなくなっても、彼女の類まれな頭脳は健在であった。
そして阿礼は、本当に僅かな手がかりを元に僕のことを探し続けていたらしい。
そして、偶然に知り合ったさっきの二人……秘封倶楽部と名乗る市内の大学のオカルトサークルらしいのだが……の協力を得て、僕の元までたどり着いたらしい。
「本当に、あの二人にはお礼をしなくちゃな」
「でも、マエリベリーさん……あの金髪のきれいな人なんだけど、私がお礼をって言ったら『ノブレスオブリージュですわ』なんて言うのよ」
「それって……」
どこかで聞いたことのあるセリフだった。
やはり彼女たちとは以前にどこかで出会ったことがあるのだろうか。
僕にも阿弥や阿求、そして阿礼のような記憶力があったら、覚えていたのかもしれない。
それから、阿礼は学校が終わってから毎日、僕が経営する道具店に入り浸るようになった。
店内にあるソファーと机で宿題をしたり、店内の掃除をしたり、お客さん相手に談笑をしたりしていた。
結婚はいつにしようか、と唐突に阿礼は言った。
阿弥のときも、阿求のときも、彼女の立場が立場なだけに、事実上結婚しているも同然の関係でも、結婚式は挙げなかった。
「下鴨神社で神前式がいいとおもうなー、私」
「それよりも先にしなければいけないことが山ほどあるとおもうんだがな」
「あっ! お父さんとお母さんに挨拶してもらわなきゃですよね! 最近、お父さんが私がここに入り浸っているのを怪しくおもい始めているみたいで」
「ご両親にいってないのかい、僕のこと」
「いったらお父さんが爆発するもの」
阿礼はそういってころころ笑ったが、僕にはとても笑えなかった。
しかし、いずれは挨拶にいく必要がありそうだ。
こういうことは、いつまでも隠し通せるものでもない。
傷が浅いうちに早めに伝えてしまうのも、一種の手であろう。
僕は阿礼の隣に座った。
阿礼はスマートフォンで、市内で神前式を挙げるプランを紹介したサイトを見ていた。
「阿弥のときにも、阿求のときにも、できなかったことがいっぱいあるわ。結婚式もそうだし、子供も欲しいな。どれも、あなたといっしょじゃなければできないことなの。これから死ぬまで、長い間、どうぞよろしくお願いしますね、旦那様」
もちろんだよ、と言って、僕は阿礼と顔を寄せ合った。
里での買い物を終えたころに、ぽつりぽつりと雨が降りはじめた。
山の向こうの空模様から、そろそろ雨が降るであろうことは事前にわかっている。
僕はあわてることなく蛇の目傘を差し、里をながれる川沿いの道を森の方へと向かって歩いた。
途中、柳の木の前にある『鈴奈庵』と看板がかかげられた(看板の『庵』だけがすこし斜めに傾いている)貸本屋の軒先で、知るべの顔をみつけた。
緑の長着に赤い袴、黄色の羽織といったおなじみの姿で、頭には椿の花飾りをしている。
九代目御阿礼の子、稗田阿求であった。
どうやら傘を持っていないのか、阿求は軒先でこまったふうに雨を降らす曇天を見上げていた。
こちらに気づいたのか彼女は僕を見て、ぺこりとうやうやしいお辞儀をした。
しかたなく僕もお辞儀を返し、ふと思案した。
阿求とは見知った間柄である。
挨拶までしてしまい、あきらかに困った様子である彼女をこのまま置いて帰宅するのは、僕の良心がわずかばかりかはばかられるというもの。
僕は彼女の方へと近づいていくと、軒先へと蛇の目傘を差し出し、入るようにとうながした。
彼女はいそいそと僕のとなりに並ぶと、こちらを見上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あなたならきっと助けてくれると信じていました」
「調子のいいことを言うなあ。あからさまに期待の視線を向けてきたじゃあないか」
「ふふっ、突然雨に降られて困っていたの。ちょうどよかったわ」
「ほれみろ、やっぱりそんなふうにおもっていたんだ」
「拗ねないでくださいな。感謝していますって。ええ、本当に」
「さて、どうだかね」
稗田の家は里の中にある大きなお屋敷なので、僕は来た道を戻ろうとした。
しかし、阿求は僕の服の裾をつまむと、くいくいと引っ張った。
「家には戻らないわ。このままあなたの家まで送っていってくれるかしら?」
「それはまた、なんだって僕の家に?」
「実は、私もいよいよ本格的に縁起の執筆に取り組むことにしたの。それで、あなたのことを取材したいのよ」
「へえ、そりゃまた」
縁起とは、代々御阿礼の子が編纂する幻想郷縁起のことである。
元々は人ならざるものたちが跳梁跋扈する幻想郷において、人間という存在の安全を確立させるために作られたものであり、その内容は幻想郷における主だった妖怪のたぐいを記すというものであった。
つまるところ、彼を知り己を知れば百戦殆うからず、というわけだ。
圧倒的弱者の立場である人間にとって、人ならざるものの情報は代々編纂し続けるほどの価値がある。
だが、ここ数十年で幻想郷は大きく変わった。
人間と妖怪は互いに均衡を保ってこそ幻想郷が存在し得ることを悟った妖怪たちが、人間と妖怪の間に生ずる争いに徹底的なルールを敷いたのだ。
人間は積極的に妖怪を退治しようとしなくなり、妖怪はほとんど人間を襲うこともなくなった。
ときおり妙ちくりんな妖怪が妙ちくりんな異変を起こしては、それを妙ちくりんな人間、あるいは妙ちくりんな妖怪が解決して、互いに幻想郷という囲われた世界の生活で溜まった鬱憤を晴らしている。
人間と妖怪の共存する世界になった幻想郷に、果たして今までのような幻想郷縁起の存在は必要といえるだろうか。
「そこで、私は今回の縁起を今までにないものに仕上げようとおもっているの」
阿求は意気揚々として語ってみせ、僕はだまって彼女の言葉に耳を傾けた。
美人薄命の名の通り、阿求はだいたい三十になるころにその命の輝きを失ってしまう。
それは幾重にも輪廻転生を繰り返す御阿礼の子に課せられた宿命のようなものである。
だが、そんな彼女においてもいざ縁起の話となると、ともすれば見る者に長寿をまっとうするのではないかとおもわせるほどに勢いづくのであった。
「今までの縁起はすべて対妖怪用の資料という面が大きかったのよ。だから小難しい言葉がだらだら並んでいるし、読み始めてすぐに放り投げてしまうようなかたっ苦しい内容だったわ」
「酷い言い草だな。過去の君が作ったものじゃないか」
「時代に合わせた内容づくりが肝心なのよ。とくに今どきの若い子に読ませるにはね」
現に私がそうだから、と阿求は得意気に語ったが、転生に転生を重ねて千年以上経つというのに今どきの若い子を自称するのはどうなのだろうか。
とおもったが口にはださないでおいた。
彼女の方から発せられるオーラに殺気を感じたのだ。
よもや覚よろしく人の心が読めるわけでもあるまい、気のせいだとはおもうのだが。
「で、よ。いよいよもって資料的価値すら失いつつある縁起を専門書みたいに仕上げたところで、それを読もうとする酔狂な人はいないでしょう? だから面白おかしい娯楽書ふうに仕上げてみようとおもうのよ。妖怪にそれほど興味がない人でも楽しく読めて、それでいて学べるなんて、お得でしょう?」
「なるほど、たしかにそのとおりだ。となると、なんだね。君のなかで僕という存在は『面白おかしな』ものなのかね?」
「そりゃあもう、役立たずのがらくたを陳列して商売と言い張る勇気の持ち主ですもの。その勇気に免じて英雄伝の欄に記してさしあげてもよろしくてよ?」
「言ったなこの!」
僕と阿求はきゃあきゃあと騒いだが、互いに濡れないように一つの傘に収まっているので言うほど大暴れしたわけでもなく、せいぜい相手の頬をつつきあう程度のものであった。
それから二人して冷静になって、なんだって頬をつつきあわなきゃならんのだと赤面したりしていると、いつのまにか我が家にたどり着いていた。
魔法の森を背に、『香霖堂』と看板の掲げられた異国情緒があふれる、控えめに言って立派なことこの上ない建物である。
「異国情緒が聞いたら嘆き悲しむに違いないわ」
「そこ、うるさいぞ!」
扉を開けて中に入る。
商品を陳列した棚が並んだ店内の奥に障子で仕切られた住居があり、カウンターの裏で靴を脱いで上がる。
「おじゃまします」
六畳ほどの畳の居間は、真ん中に小さな卓袱台があって、阿求をそこに座らせると、土間の炊事場でお茶を淹れて居間へと戻った。
居間のそこかしこにある、実用性の高い道具たちに興味しんしんそうな彼女に、お茶を差し出す。
阿求はすこしはしゃいでいた自分を恥じている様子で、照れくさそうにふーふーとお茶を冷ましながら飲んだ。
「さっき団子も買ってあったんだ。食うか?」
「わあい、いただきます」
先ほど里の甘味茶屋で購入したみたらし団子をお茶菓子にとだすと、阿求は僕の分なんて考えていない様子でぱくぱくと団子を消費していった。
さながら全自動乙女型団子消費機関といった趣である。
「あっ、これ里の裏通りにある甘味茶屋のお団子ですね。私、あそこのお団子好きなんですよ」
「知ってる」
「あれ、私、霖之助さんに話したことありましたっけ?」
「……それより、取材を始めなくていいのか?」
「ああ、そうでしたね」
それから阿求は矢立と無地の折り本を取り出すと、それを卓袱台の上に広げた。
「それでは、取材を始めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「なんだい、かしこまって」
「これが私なりの誠意よ。代々編纂してきた御阿礼の子として、恥ずかしくない振る舞いをしないとね」
「殊勝なこったね。で、なにを聞きたいんだい?」
取材内容は主に僕の素性であったり、店に並んでいる商品の解説であったりした。
阿求が折り本に記した取材内容を覗き込んでみたが、どうにもところどころに棘があるように見えなくもない。
ガラクタとか役に立たないとか、そういった言葉が散見されるのはどうしたことだろうか。
まあ、もとよりこの取材を機に商売繁盛を求めているわけでもないので、別にいいのだが。
そんな感じで取材はつつがなく終了したが、阿求は帰ろうとはしなかった。
こちらとしても雨の中を帰らせるのは忍びないので、お茶のおかわりとお茶菓子を囲んで談笑を楽しんだ。
こうして誰かと他愛のない会話をするのは、いったいいつ以来だろうか。
霧雨さんのところの道具屋から独立して十数年、客相手の会話以外でこうやって盛り上がるのはあの問題児二人以外ではめったにない。
僕は昔のことをおもいだしていた。
ずっとずっと昔、僕がこの幻想郷にやってきてすぐの頃。
あの時も、彼女とこうして笑いながら話しをした。
阿求の笑顔に、その面影が見えた。
僕はすこし、息が苦しくなった。
それからしばらく阿求と談笑していると、いつのまにか雨が上がっており、雲の隙間から陽の光が差し込んでいた。
「それじゃあ、そろそろお暇いたしますね」
「大丈夫かい? なんなら送っていくが」
「ふふ、出不精の霖之助さんが珍しいことを言うのですね。それでまた雨に降られちゃ敵いませんから、気持ちだけ受け取っておきます」
「そうかい。気をつけて」
「もちろん、わきまえていますよ」
阿求は扉の前で深々とお辞儀をしてから、踵を返した。
しばし僕は閉まった扉を見つめていたが、ふとおもい立って居間の隅においてある箪笥の引き出しを開けた。
中に入っている木の箱を取り出し、蓋を開ける。
箱の中には古びた一冊の和装本が入っていた。
表紙は色あせ、題名はかすれてほとんど読み取れないものの、かろうじて『幻想郷縁起』と読み取れる。
頁をめくると、もうすっかり紙が黄ばんでしまっており、慎重に保管していたというのにところどころに染みも目立つ。
そして、栞を挟んでいた頁を開くと、そこにはかつての僕の名前と、その紹介、そして挿絵が数頁にわたって記されていた。
『絶対に忘れたくない、私のとてもとても大切な人』
恥ずかしかったのか、頁の隅の方にとても小さくそう書かれている。
「阿弥……」
ほとんど無意識に彼女の名前を呟いた。
「つまり、ここは幻想郷に入り込みやすいんだ」
そう言って振り返ると、鳥居の下の階段に座っていた二人の少女の姿はすでになかった。
ずっと未来の世界からやってきたという黒髪の少女と異国の少女だった。
夢でも見ていたのだろうかともおもったが、懐にはしっかりと『しゃーぷぺんしる』や『まじっくぺん』が収まっているし、あの『ぽかりすうぇっと』なる甘美な水の味もまだ口の中に残っている。
どうやら僕は結界を越えて幻想郷側へと入りこんだらしい。
そうか。僕はついに幻想郷にたどり着いたのか。
「父上! 母上! ついに僕はあの幻想郷に到達しましたよ!」
僕は境内から一望できるはるか遠くの山々に向かって叫んだ。
かつて父上と母上が語っていた理想郷。
科学信仰が常識となり、魑魅魍魎の存在が駆逐されつつある人間の社会を抜け出し、噂を頼りに東奔西走、苦節数年の末にようやくたどり着いた楽園。
そこに今、僕は立っているのだ!
なんだか感慨深いものがあり、目頭に熱いものが込み上げてきた。
「あのー」
なんだか涙ぐみそうになり、それを払拭するべく見渡す限りの大自然へと響かんばかりに高らかな笑い声をあげている僕の背中に、おずおずと遠慮しがちに声がかけられた。
振り返ると、神社の境内を掃除でもしていたのか、竹箒をもった巫女が若干怯えた様子でそこにいた。
しまった。どうやら見られていたらしい。
「だ、大丈夫、ですか?」
「それは僕の頭が、という意味で言ってる?」
「いえあのその、ごめんなさい! 馬鹿にしているつもりはないんです! ですが、その、なんだかお恥ずかしいことをしていらっしゃったものですから……」
おまけにばっちり聞かれていた。
「忘れてください。きっぱりと。それより、ここは幻想郷でいいんですよね?」
尋ねると、巫女はこくこくと頷いた。
「はい、間違いありません。そしてここが幻想郷の東の果て、内と外とを繋ぐ博麗神社になります」
どうやら彼女はこの神社に住む巫女で、彼女一人で神事などをきりもりしているらしい。
が、人の里からこの神社へとたどり着くには鬱蒼と茂った森の中を進まなければならないらしく、妖怪に襲われる危険性があるためあまり参拝客は来ないようであった。
なんだかいたたまれない気持ちになったので、賽銭箱に一円銀貨を入れてやると非常に喜ばれた。
非常に喜ばれたついでに人里について聞いておくことにした。
「その人里なんだが、どうやって行けばいいのだろうか。できれば今日中に空き家かなにかを見つけて居を構えてしまいたいのでね」
「あなた、外の世界から来たんですか? なら、階段を降りた先の森を抜けてすこし進めば道に出ますけれど……危険ですよ? 妖怪いっぱいいますよ? 食べられちゃいますよ?」
「それは嫌だなあ」
僕は父が人間、母が妖怪の、つまるところ半人半妖であったが、とくに体を鍛えているわけでもなかったので、その実力たるや博麗神社に至る参道の階段を登りきるころには息を切らしてへたり込む程度には体力がなかった。
仮に森の中で妖怪に襲われたとして、きっと普通の人間と同じように呆気なく殺されてしまうだろう。
もっとも、半人半妖であるが故に妖怪に襲われる可能性も半々であり、よほど見境のない凶悪な妖怪でもない限りは襲われる心配はないであろうが。
むしろ、妖怪を許容できない思想を持った人間のほうがよっぽど恐ろしい。
「仕方ありませんね。せっかくお賽銭を入れてくれたのですから、里まで案内しましょう! なあに任せてください。妖怪退治は専門ですから!」
そう言って巫女は胸を張ると、箒を神社の壁に立てかけてから参道の階段の方へさっそうと歩き出した。
「今度はこの階段を降りなきゃならんのか……」
「がんばってください! ほら、ファイトファイト!」
「ところでこのままだと外の世界に出てしまうのではないのかね?」
「いえ、幻想郷の結界はそういう単純な二次元的構造じゃないんです。それに神社周辺は言ってしまえば内と外との境目で、境目と言っても薄っぺらいものじゃなく、こう、なんていうんでしょうね……穴に蓋をするとき、蓋が穴とまったく同じ大きさだと落ちてしまうでしょう? だから蓋は穴よりも少し大きく作る必要がある。蓋が結界で、穴が幻想郷、そして蓋と穴の外の接地面が結界の境目とおもってくれれば大丈夫です」
「なるほど、つまりここは外の世界でもあるし、幻想郷でもあるということだね。てっきり境内がその役割をはたしているものとばかりおもっていたよ」
「いえ、その解釈であっていますよ。ただ、この周辺全域がすべて境内ってだけのことですから」
ようやく階段を下り終えると、そこからは鬱蒼とした森の中の道を、巫女の先導で進んでいく。
道は神社のある小さな山を迂回するように伸びていた。
ときおり妖怪らしきものが草陰からひょいっと現れては、巫女が御札を投げてひょいっと退治した。
そのあまりの手際のよさに惚れ惚れしていると、やがて視界が晴れて森を抜け出した。
道の向こうには田畑がどこまでも広がっており、ところどころに小さな小屋や一軒家はあるものの、視界を遮るものがなく広々とした空や、遠くの森や山が一望できた。
道の脇にはお地蔵様が鎮座しており、道を行き来するものたちを見守っているようであった。
やがて、田畑の向こうにぽつぽつと小さく二階建ての家屋が見えはじめた。
「あれが里です。幻想郷に住む人間は基本的にあの里に住居を構えていますから、あなたもあの里に住むのですよね?」
「……いや」
僕は父上、母上と住んでいた村でのことをおもいだした。
二人は妖怪であるというだけで疎まれ、虐げられ、村の奴らに殺されてしまった。
僕だけが命からがら村を逃げ出し、それからずっと一人でこの幻想郷をもとめて旅を続けていた。
僕は妖怪としても人間としても中途半端な存在だった。
妖怪みたく生きる気はないが、人間に混ざって過ごす気もさらさらない。
「できれば里からすこし離れている方が好ましいな。ほら、あんな感じの」
指差した先には、田圃に囲まれてぽつんと佇んでいる、茅葺屋根の家だった。
しかし巫女は難色を示した。
「やめといたほうがいいですよ。あの家、今は誰も住んでいないんです。住んでいた人は妖怪に食べられちゃって。そういうおっかない妖怪が蔓延っているから、人々はああやって大きな集合体を作って身の安全を守っているんです。悪いことは言いませんから、里の中にしておいたほうがいいですよ」
「それだったら、たぶん大丈夫ですよ。ほら」
そう言って内側に抑制していた妖気を少しだけ解き放つと、巫女はびくっと体をこわばらせて、一歩後ずさるとその手に御札を構えた。
「なっ……あなた、妖怪だったんですか! 騙していたんですね! お賽銭くれたからいい人だとおもったのに!」
「待って待って! 騙していたつもりは毛頭ないって! 僕は半人半妖なんだ。だから妖気も小さくて簡単に封じ込めることができる。あらかじめ言っておかなかったことは悪かったよ。でも、騙すつもりならわざわざこうして打ち明けたりなんてしないだろう?」
「それはまあ……そうかもしれませんけれど……」
巫女はいまだに疑いの眼差しをこちらへと向けていた。
「僕はただ、静かに暮らしたいだけなんだ。外の世界はすでに科学信仰の世界になってしまって、僕たちのような存在は非現実として排除されてしまう。僕は半分は人間だが、半分は妖怪だ。となると、いずれ里の人間たちとのあいだに軋轢が生じるかもしれない。それは嫌なんだ」
「………………」
巫女はしばし思案している様子だったが、やがて深い溜息をつくと、わかりました、とひとこと言って歩き出した。
彼女の後ろをついていくと、道を途中で田圃道のほうに曲がり、やがてあの茅葺屋根の家の前にたどり着いた。
家の中は埃っぽかった。
ずいぶんと人が住んでいないのか、床や壁がところどころ傷んでいる。
そして、居間に上がってみると、茶色っぽく黄ばみ始めている畳に赤黒いしみがあった。
「それ、前に住んでいた人の血ですよ」
さらっと巫女が言い、今更ながら僕はぞっとした。
巫女を見ると、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら小さく首を傾げていた。
「どうします? やっぱり里にしますか?」
「……いや、ここにしよう。汚れてはいるがあまり荒れてはいないようだし、掃除したら見違えるほどきれいになるだろう。うん、住めば都と言うじゃないか。自分の家だとおもったらなんだか気に入ってきたぞ。うんうん!」
「なんだか自分に言い聞かせているふうにも聞こえますけど……まあ、わかりました。私も一応定期的にこの周辺のことは気にかけておきますから、安心してください。それと、引きこもってばかりいないでちゃんと里に顔を出して、ある程度みんなにその存在を認知されてくださいね。万が一のときに困ったことになるのはあなた自身なんですからね」
「あ、ああ……わかった。肝に銘じておこう」
それから里にある便利な店の情報や、困ったことがあったらすぐに神社に相談に来るようにと言って、巫女は帰っていった。
なんだか世話焼きのお姉さんみたいな巫女であった。
「さて、と」
誰に言うでもなく呟いて、僕は家の中を見回した。
まずは、掃除だ。
ゴミを掃き、埃を払い、床や壁を拭き、血に染まった畳を交換し、一部破損した床や壁を修繕すると、おもった通り茅葺屋根のおんぼろ小屋は見違えるほどきれいになった。
縁側につながる居間の障子戸を大きく開け放ち、広がる田園風景を眺めながら僕は一息ついた。
庭にそびえる木から虫の鳴き声がして、どこか遠くからはキジバトの声が響いている。
風が居間を吹き抜けると、いちめん緑の田圃が波紋のように揺れて、さわさわと音を立てた。
長閑だ。
外の世界では急速に失われつつある光景がここにはある。
これこそまさに日本の原風景と言えるだろう。
しばらく長閑な景色を堪能してから、僕は里に向かうことにした。
体の半分が妖怪でできている僕は、数日飲まず食わずで一睡せずともなんの支障もない体であるが、それはそれとして料理は好きであった。
とりあえず下見がてら里を見て歩き、それから先ほどの巫女から教えてもらった店で食材でも買って帰ることにしたのだ。
里の周囲は塀で囲まれており、入り口には立派な門が建っていた。
門をくぐると、まるで江戸時代みたいな古ぼけた町なみがそこにあった。
道を歩く人の姿は多く、里の規模に違わずなかなかの賑わいを見せている。
里を見て歩いていると、気になる店を見つけた。
里の中を流れる小さな川に橋が架かっており、そのそばに植えてある柳の木の向かいに『鈴奈庵』と看板がかかげられた(看板の『庵』だけがすこし斜めに傾いている)貸本屋があったのだ。
はてさて、幻想郷の貸本屋とは一体どのようなものが取り扱われているのかと、好奇心に駆られた僕はそのまま鈴奈庵の暖簾をくぐっていた。
店の中は薄暗く、埃っぽかった。
右を見ても左を見ても本がぎっしり詰まった本棚ばかりで、それはおろか地面にすら本が山のように積まれていた。
店内には蓄音機から流れる音楽と、少女の話し声だけが響いていた。
入口正面の奥には、暖簾がかかった住居の入口の前を塞ぐように机が置いてあり、声の少女はそこに座っていた。
少女は白と葡萄色の市松模様の長着に、萌葱色のスカートを穿いており、その上からフリルエプロンを着ている。
飴色の髪には鈴の髪飾りがあって、少女が小首を傾げるとふわりと踊った。
「いらっしゃいませー。あれ、ご新規さんですかー?」
「あ、ああ、そうだ。たまたま見かけてね、どんなものが置いてあるのかと気になって」
「そうだったんですねー。どうぞゆっくり見ていってくださいー」
そう言ってから、少女はふたたび誰かと話しはじめた。
話し相手の姿は見えない。
なんだかのんびりというか、マイペースそうな少女であった。
店内の隅には二人並んで座れるほどのソファが置いてあって、そこにはすでに先客が腰掛けていた。
緑の長着に赤い袴、黄色の羽織といった姿で、頭には椿の花飾りをしている。
どうやら彼女がその話し相手であるらしい。
聞き耳を立てているわけではないのだが、二人の少女と僕以外に客の姿はなく、自然と二人の会話が耳に入ってくるのでなんともいたたまれない気持ちになる。
やがて何冊かめぼしい本を棚から抜き出し、机の少女に差し出し、お金を払った。
返却期限と取扱の注意を受け、僕は貸本屋を後にした。
それから食料やおやつに団子なんかを購入し、ふたたび貸本屋の前を通って里の門へと向かっていると、貸本屋から椿の花飾りをした少女が出てきた。
彼女はこちらの視線に気がつくと、ぺこりとお辞儀をしてからこちらに駆け寄ってきた。
なにごとかとおもったが、彼女はやわらかな笑みを浮かべながら僕の前で立ち止まり、ふたたびぺこりとお辞儀をした。
「あの、お見かけしたことのない顔ですけれど……もしかして、あたらしくやってきた方でしょうか?」
「ついさっき、外の世界からやってきたばかりだよ」
「ああ、やっぱりそうでしたか!」
少女は僕の手を両手で包み込むように握ると、勢いよく上下にぶんぶんと振った。
大変嬉しそうな笑顔であったが、なにがそんなに嬉しいのかわからず、僕はしばし困惑していた。
「私は稗田阿弥です。里のふるーい家のお嬢様、なんて大層なものじゃないですけれど、まあほどほどに偉いです。えっへん」
阿弥と名乗った少女はない胸を張って言った。
「偉そうだ」
「えっへん」
「態度の話だぞ」
「最初はここでの生活でわからないことや馴染めないこともあるでしょう。そしたら、気軽に私の家に訪ねに来てください。私にわかることでよければ教えてあげられるでしょうから」
社交辞令だろうとおもいつつも、ありがとうと感謝の言葉を述べ、僕は阿弥と別れた。
あんな風に親しみを込めて接してくれる人だって、きっと僕の体の半分が妖怪でできていると知ったら、恐怖と軽蔑の目を向けてくるのではないか。
そう考えてしまうと、やはり里にはあまり近寄らないようにしようと、そういった結論に達してしまう。
……駄目だなあ。せっかく幻想郷に来たっていうのに、これじゃあ今までと変わりない。
その日は帰宅してから少し遅めの昼食を済ませ、貸本屋で借りてきた本を読んですごした。
……そういえば、僕はこの幻想郷という遠い地で、里の人達とも距離を取りながら、一体どうやって過ごせばいいのだろうか。
………………。
翌日、あまり近寄らないようにしようと言っていた里に、僕は向かうこととなった。
そして、どうせ社交辞令だろうと本気にしなかった稗田家へと訪問し、稗田阿弥に相談をすることとなった。
「ほんとうに来たんだ……」
阿弥は驚いた様子で目を見開いた。
「すまない、ちょっと相談事があってな……」
出会って一日、まだろくに会話も交わしていないしお互いのことも知らないというのに、僕は彼女に悩みを打ち明けた。
なぜかはわからないが、彼女には気兼ねなく話してしまうことができた。
「なるほど……いざ幻想郷に来たはいいけれど、なにをどうしたらいいかわからない、と……」
頭のなかにしっかりと刻み込むかのように復唱する阿弥に、僕は頷いてみせた。
里で通りすがりの人に稗田家の場所を教えてもらい、目的地近くにどこまでも延々と続く塀に首を傾げていると、なにを隠そうそれこそが稗田家の塀であり、立派な門をくぐってだだっ広い庭を横切り、ようやくたどり着いた玄関で小間使いさんに取り次いでもらい、案内されたのは軽く十畳はあるだろう立派な畳の部屋だった。
そこで机を挟んで、僕は阿弥と向き合っていた。
座布団がやたらとふあふあしており落ち着かない。
阿弥はなにやら書き物をしていたのか、机の上には筆やら硯やら真っ白な紙やらが散乱しており、古ぼけた書物も山のようにうず高く積まれていた。
隅から隅まできれいなこの広大な屋敷において、この部屋の机の上だけがまるで地震が起こったあとのようにぐちゃぐちゃで汚かった。
「なるほどなるほど……つまり無職。ろくでなしのごく潰し」
「そこまで言ってない」
「よし! 社交辞令で言った言葉を鵜呑みにしてわざわざ訪問してくるお馬鹿さんとの出会いもまたなにかのご縁でしょう!」
「お馬鹿さん言うな」
やっぱり社交辞令だったのか。
「あなた、ちょっと私の仕事を手伝ってくれませんか?」
「仕事……というと、この机の上の片付けとか?」
「それもありますけど、必要な資料を書庫から持ってきたり、取材に同行してもらったり、そういう感じですね」
「取材」彼女の言葉を繰り返す。
取材をするたぐいの職種を、僕はほんの少ししか知らない。
記者とか、記者とか、あとは記者とかである。
「阿弥さんはその、記者かなんかなのかな?」
「阿弥でいいですよ」阿弥はころころと笑った。
「記者じゃないです。私は幻想郷縁起っていう、まあ言ってみれば、妖怪退治お役立て帳を作っているんです。幻想郷縁起はずっとずっと昔から作っていて、私は八代目の編纂者になりますかね」
「ほう、そりゃまた便利そうな」
「いい機会ですから、これから取材に行きましょう! 実は縁起の執筆で少々行き詰まっていまして。気晴らしも兼ねた里の美味しいもの案内をおまけとして掲載しようかとおもっているので、その取材です」
阿弥が立ち上がったので、僕も立ち上がり、彼女の先導で迷路のような屋敷を出た。
庭を横切り、立派な門をくぐり、延々続く塀に沿った道を並んで歩いた。
阿弥が幻想郷縁起の説明の続きを話しはじめた。
「幻想郷縁起はですね、妖怪の特徴や危険度なんかを各妖怪ごとにまとめるんです。幻想郷のどこで遭遇しやすく、なにをすると危険で、なにをすると安全なのか、といった具合ですね」
なるほど、確かに幻想郷において、里の人間は外の世界以上に妖怪に怯えて暮らしている様子であった。
そんな状態なら万が一の妖怪対策本はきっと手にした者に安心をもたらすだろう。
きっと妖怪専門の退治師なんかもいて、この本の情報を頼りに妖怪と戦うに違いない。
もっとも、実用性があるのかどうかはわからないのだが。
もしも僕が縁起に載るのだとしたら、危険度は最低ランクにしてもらってもなんら問題はないだろうと、頭の片隅で僕はおもった。
「社交辞令を真に受けて本当に相談に来てしまう、その勇気に免じて英雄伝の欄に記してさしあげてもよくてよ?」
「言ったなこの!」
僕と阿弥はきゃあきゃあと騒いだが、互いにまだ出会って間もないこともあり、言うほど大暴れしたわけでもなく、せいぜい相手の頬をつつきあう程度のものであった。
それから二人して冷静になって、なんだって頬をつつきあわなきゃならんのだと赤面したりしていると、僕たちは里の中心部にたどり着いた。
もっとも、阿弥の家がそもそも里の中心部にあるのだが。
それから二人して阿弥のお気に入りだという甘味処食べ歩きを遂行し(もちろん店主にしっかりと取材も行っている。阿弥が)、しばらく甘いものは食べなくてもいいやとおもえるほどにそれを堪能した。
目の前の少女もそれは同じらしく、濃いめの緑茶を飲みながら深々と一息ついていた。
「もうしばらく甘いものはいいです……」
「同意するね。最初の団子十本からすでに飛ばしすぎだったよ……」
「ええ。でも、いいおまけ記事が書けそうですわ。さて、と。それじゃあ帰りましょうか」
それから僕は阿弥を家の前まで送り届けた。
門を開けてから、阿弥がこちらに振り返る。
「今回はまあ、本格的な取材じゃなかったから楽だったけれど、本番では身の危険に晒される可能性もあります。それでも、この仕事を受けてもらえますか?」
「ああ、ろくでなしのごく潰しは勘弁願いたいからね」
「そうですか」
ふっと小さく笑ってから、阿弥は改めて頭を下げた。
「それでは、明日からよろしくお願いいたします。毎日、日の出から一刻後にはこの場所に」
「ええっ、そりゃまた、早い時間から活動するんだな……」
「そりゃあもちろん、早寝早起きは長寿の秘訣、ですからね」
阿弥は人差し指を唇に当てて微笑んだ。
その言葉の意味を理解するのは、もうしばらく先のことである。
翌日から、僕の幻想郷での仕事が始まった。
普段は稗田家で阿弥の執筆の手伝い……具体的には、執筆に夢中になって乱雑に積み上がった資料や原稿なんかを整理したり、彼女が求める資料を書庫から引っ張り出してきたり、逆に書庫にしまったり、そんなことをした。
基本的に力仕事が主である。
僕に長々と文字を書いたり、長々と文字を読んだりする仕事は向いていないので、当然といえば当然である。
そしてこれがもっとも大変なのだが、妖怪の取材のために里を出て、わざわざ妖怪がいそうな場所に赴き、取材をするときも、僕は荷物持ちであったり、万が一のときには阿弥の身を守ったり、阿弥を脇に抱えて一目散に逃げたりした。
幻想郷の妖怪たちはとかく喧嘩っ早いというか、好戦的な輩が多く、出会い頭に攻撃されることなど日常茶飯事である。
彼らにとっては遊んでいるつもりなのかもしれないが、人間からしてみれば一発食らっただけで即閻魔さまの下である。
だが、そうやって二人で困難に立ち向かっていくうちに、僕と阿弥はある程度は打ち解けてきていた。
だが、僕はまだ大切なことを彼女に話せないでいた。
自分の中に妖怪の血が混ざっている、半人半妖であるということ。
それを伝えてしまうことによって、彼女に拒絶されてしまうのではないかという恐怖が、僕の足をその場に縫い付けてしまうのだ。
ところで、閻魔様といえば、どうにも幻想郷は彼岸とも繋がっているようで、いちど阿弥とともに三途の川くんだりまで赴くこととなった。
三途の川まで行って、一体誰の取材を行うのかとおもえば、三途の川の船渡しである死神、それに件の閻魔様であった。
まさか人間がそれらを退治するわけでもあるまいし、なぜ取材をするのかと僕は阿弥に尋ねた。
阿弥とともに働き始めておよそ二ヶ月のころだった。
阿弥は中有の道と呼ばれる、三途の川へと続く出店がならんだ通りで、団子を買って食べていた。
「幻想郷縁起は様々な面を併せ持った、幻想郷の妖怪大百科みたいなものです。正確には、人ならざるもの、それらに深く関わっているものを紹介する大百科ですね。だから危険な妖怪も紹介すれば、比較的安全な妖怪も紹介しますし、万が一の際に頼るべき人物も紹介すれば、なんの関係もないけれどとりあえず書いとけば面白そうって方も紹介します。まあ、それでもまだまだ堅苦しい書物であることに変わりはないのですが、初版に比べればだいぶん和らいだ内容になっているのですよ」
「まあ、里の甘味処批評まで載せるくらいだし、ねぇ……」
「もういっそ、甘味処批評だけ独立して刊行しちゃおうかしら」
そう言い、阿弥はみたらし団子をぺろりと平らげた。
僕はハンケチーフで阿弥の口元についたみたらしのタレをぬぐった。
阿弥は少し頬を染めながら、ありがとうございます、と小さく呟いた。
中有の道を少し進むと、果てしない霧に包まれた川が姿を現し、なにを隠そうそれこそがかの有名な三途の川であった。
川の周辺は明るくもなければ暗くもなく、上を見あげると昼なのか夜なのかよくわからない塩梅の空が広がっていた。
此岸の川べりにはいくつかの木造の船が停泊していて、そのそばには大きな鎌を持った死神が、使者がやってくるのを待っていた。
阿弥はその光景をじっと見つめて目に焼き付けていた。
幻想郷縁起には紹介する人物や場所の絵も記載されているのだが、それらは取材を終えて帰宅した阿弥が記憶を頼りに描いているものであった。
そしてそれは、記憶を頼りにしているとはおもえないほどに緻密に再現された絵なのである。
「それで、ここからどうする? 彼岸に向かうのか?」
「まさか、生きているうちは彼岸にはいけませんよ。死神に膨大な船渡し費を要求されるし、彼岸に降り立ったが最後、生きて戻ることはできません」
「でも、閻魔様に取材をするんだろう?」
「そりゃあまあ、コネがありますから」
そう言って阿弥はいたずらっぽく笑みを見せた。
しばらくすると、霧の向こう側からなにやら言い争いをしながらこちらにやってくる船があった。
言い争っているのは船渡しの死神と、それに乗っている一人の人物。
いや、正確には彼岸からやってきた時点で人ではないのだが、どうにも人ならざるものたちは、人ならざるはずであるのに人と同じ容姿をしていてややこしい。
「なんで流れもほとんどないゆったりした水の上で、あんな荒れ狂う海を渡るみたいな動きができるのよ!」
「そりゃあ、私の操舵技術のたまものですよ!」
「なるほどわかったわ。あなた、一回講習を受けなおしなさい。あんな動かし方をしていたらそのうち死者を三途の川に落としかねないわ。そんなことになったら大問題よ」
「そんときはまあ、私が釣り糸でも垂らしてやりますよ。気分はお釈迦様、ってね」
「不敬!」
その少女(一見すると少女に見えるが、絶対に少女ではない。絶対にだ)は死神の背中をおもいきり蹴り飛ばすと、死神はざぶんと水しぶきをたてて三途の川へと落っこちた。
まったくもう、とぷりぷり憤慨しながら、少女は此岸の川べりに降り立ち、そしてこちらを見た。
「阿弥……もしかして、彼女が?」
「失礼のないようにしてくださいね。あれが閻魔様です。それも幻想郷の死者を裁く担当の」
「死神を蹴落としたぞ……」
一見すると阿弥よりも少々小柄な、こう、全体的にぺたーんとした印象のこの少女が、どうやら閻魔様であるらしい。
もっとひげもじゃの強面の真っ赤なやつを想像していただけに、なんだか拍子抜けであった。
「聞こえているわよ」
「ぎゃあっ!」
べしん、と閻魔様に脇腹を板のような棒のようなもので叩かれた。
その棒にはなにやら筆で文字らしきものが書かれているのだが、よく読めない。
きっとこっちの世界の言葉ではないのだろう。
「なにも言ってないじゃないか!」
「いいえ、聞こえるのよ、あなたの心の声が」
「なんだって幻想郷の妖怪はみんなこうも暴力的なんだ……」
「誰が妖怪ですって!」
「ぎゃあっ!」
「あの、話が進まないんで早くしてもらっていいですか?」
困った様子で阿弥が言い、渋々といった様子で閻魔様は最後に一発、棒で僕の脇腹をおもいっきりひっぱたいた。
こんちくしょうとおもったが、阿弥が「めっ!」と言うので閻魔をじろりと睨むだけにとどめておいた。
もう様とかつけてやるもんか。お前なんか閻魔だ、閻魔。
「待たせたわね。それにしても久しぶりね、阿七。あれ、阿弥だっけ?」
「今は阿弥です。ご無沙汰しております、閻魔様」
「それにしても、阿弥もとうとう縁起の編纂を始めるのね。感慨深いわ……」
阿弥と閻魔のあいだにある関係性がどのようなものなのかは、僕は聞かされてはいなかった。
しかし、阿弥を見る閻魔のその表情は、孫娘を見守るお婆ちゃんのそれであった。
閻魔に脇腹を叩かれる。なぜだ。
「それじゃ、ぱぱっと済ませてしまいましょう。と、その前に、これ、なに」
閻魔が僕を指差して言った。これ呼ばわりである。
「仕事の相棒です。取材や執筆の手伝いをしてもらっています」
「そう……」閻魔の目がじろりとこちらを睨んだ。怖い。
「あなた、人間だけど人間じゃないわね? 妖怪の血が混じっているのかしら……」
「あっ、ちょっ、ばっ!」
僕は慌てて閻魔の口を手で塞ぎ、そのままずるずると阿弥から離れるように引っ張っていった。
「いだだだだだだだ」
がぶり、と閻魔が僕の指を噛む。
手を離すと、怒りのせいか顔を真っ赤にした閻魔が怒鳴った。
「なにをするんですかあなたは!」
僕も声を潜めて返す。
「それはこっちのセリフだ! そのことはまだ阿弥には伝えていないんだよ!」
「嘘をついているの? それはよくないわ。嘘はやめなさい」
「嘘をつかない人間なんていない!」
「あら、わかっているじゃない。そう、嘘をつかない人間なんていない。嘘をついてないなんて言う人間は、その言葉そのものが嘘になる。人間は絶対に嘘をつく。しかし、だからといってそれが嘘をついていい理由にはならないのですよ」
「わかっているさ! でも、タイミングというものがあるんだよ! 今はまだその時じゃない!」
「……そうですか。でも、あまりだらだらと引きずっていると、後々の傷が大きくなるわよ。浅いうちに打ち明けてしまうのが吉だと私はおもいますけれどもねぇ」
「ぐ……」
「しかし、残念ですね。すでに彼女には知られてしまったようです」
はっとして、僕は阿弥の方を見た。
阿弥は信じられないといった表情で、僕のことをじっと見つめていた。
息が苦しくなった。うまく呼吸ができない。
「あとで、お話があります」
阿弥が言った。淡々とした口調だった。それが僕の心を貫いた。
僕はその場から逃げ出したくなった。
やっぱり里に顔をだすんじゃなかったと、後悔が押し寄せる。
閻魔への取材が始まった。
阿弥が閻魔に質問をしたりしているあいだ、僕はただぼうっとその光景を眺めているだけだった。
閻魔に川に蹴落とされた死神もやってきて、彼女の取材も終わると、閻魔と死神は川を渡って彼岸へと帰っていった。
去り際に閻魔と死神にぽんぽんと肩を叩かれる。なんなんだお前らは。
僕たちは里に戻るまでのあいだ、ずっと無言だった。
僕らの醸し出す雰囲気を悟ってか、道中で妖怪に襲われることは一度もなかったが、この空気の重さに比べればむしろ襲われたほうがましである。
里に着いたころにはすっかり日も沈んでしまっていた。
「上がってください」
阿弥を稗田家の門の前まで送り届けると、彼女は僕の袖を掴んで言った。
僕はうなずき、門をくぐった。
いつもの部屋に通され、ふあふあの居心地が悪い座布団に座る。
阿弥は机の向かいに座ると、じっとこちらを見据え、それから口を開いた。
「閻魔様の言っていたこと……半人半妖って、本当なんですか?」
「っ……、ああ、そうだ。僕は人間と妖怪のあいだに生まれた、半人半妖だ」
論より証拠と、僕は今まで彼女の前では出さなかった妖気をすべて放出した。
阿弥の表情が一瞬こわばるのがわかり、僕は悲しくなった。
ああ、やっぱり駄目なんだ、とおもった。
僕は阿弥の言葉を待った。
その言葉はきっと拒絶の言葉だ。
今まで散々、人から浴びせられた言葉だ。
でも、それでも、それを阿弥に言われるのは、とても悲しくおもった。
やがて、阿弥が口を開き、僕は覚悟をして彼女の言葉に耳を澄ませた。
「それじゃあまず、名前と職業、それに能力と住んでいるところを教えてもらえるかしら」
……ん?
「えっと……今、なんて?」
「だから、名前と職業、能力と住んでいるところを教えて。わかってはいるけれど、一応、ね」
そう言って、今度は阿弥が僕の言葉を待った。
なんだっていきなりそんな……それに、その質問はいつも妖怪相手に取材をするときの常套句である。
阿弥がなにを考えているのか、さっぱり理解できなかった。
疑問におもいながら答えると、その後も阿弥は矢継ぎ早に僕を質問攻めにした。
「普段はどんな生活をしているの?」
「どんなって……基本的に阿弥の仕事の手伝いだけど……」
「人を襲ったことは? もしくは、襲おうとしたことは?」
「どっちもないな。襲われたことならあるが」
「人間相手には友好的な方だとおもう? それとも悪い?」
「特にどっちというわけでも……なあ、これは一体なんなんだ?」
とうとう耐えきれなくなって尋ねると、阿弥はきょとんとした顔になった。
「なにって……取材でしょう? あなた、今までいったいなにを見てきたのよ」
「そうじゃなくて、なんで僕は取材を受けているんだ?」
「そりゃあ、縁起に載せるためよ」
阿弥はころころと笑った。
僕はなんだか拍子抜けしてしまい、大きなため息を漏らした。
阿弥はやさしく微笑むと、机に頬杖をついた。
「そりゃあまあ、最初はびっくりしたし、少し残念におもったわ。なんで最初から話してくれなかったんだろうって。でも、あなたが半分妖怪だからって、私はあなたを追い出したり、殺したりはしないですよ。そんなつまらない理由で人を拒絶したりしません。だから、私を信じてください。相棒じゃないですか」
僕は絶句した。
受け入れてもらえない、きっとまた酷い目に遭う、そうやって相手を拒絶していたのは僕の方だったのだ。
阿弥の言葉で、僕は少しだけ胸の内がすっきりしたような気がした。
「ああ……そうだな、相棒だ。ありがとう、阿弥」
「ふふっ、どういたしまして。それじゃ、取材の続きよ。話してくれる? あなたのこと」
「ああ、そうだな。それじゃあ……幻想郷に来るまでの、旅の話でもしようかな……」
それから、阿弥とずっと話をした。
外の世界のこと、旅の途中のこと、両親のこと。
ふと気がつくと、阿弥は机にうつぶせになって小さな寝息を立てていた。
もう日が沈んでだいぶ経つ。
そういえば、阿弥は早寝早起きだと言っていたし、いつもならとっくに寝ている時間なのかもしれない。
それでも、阿弥は僕の話を聞いてくれた。
それがたまらなく嬉しかった。
僕は小間使いさんを呼び、阿弥の長着を脱がせてから、彼女を横抱きして寝室まで運んだ。
阿弥を布団に寝かせると、小間使いさんが「もう遅いですから、どうぞ泊まっていってください」と言った。
「えっ、いやでも、さすがに一緒に寝るのはどうかと……」
「なにを言っているのですか。別々の部屋に決まっているじゃないですか、破廉恥ですね」
「うっ」おもわず変な声が漏れてしまった。
結局、阿弥の寝室の隣にある空き部屋に布団を敷いてもらい、そこで寝ることになった。
知らない部屋。知らない天井。やたらふあふあした布団。ふすまの向こう側に寝ている阿弥。
……寝られるはずがなかった。
もちろん、だからといって隣の部屋にいる阿弥の寝顔を覗き込むほど、僕も落ちぶれていないし、そもそもそんな度胸もない。
なんども右へ左へ寝返りを打ち、しばらくしてようやく僕は眠りについた。
目を覚ました。瞼の向こう側がほのかに明るい。どうやら朝になったらしい。
ゆっくりと瞼を開くと、見たことのない天井と、僕の顔を覗き込む阿弥の顔があった。
「あ、起きましたか?」
「………………うわっ!?」
僕は慌てて起き上がり、彼女から距離を取った。
阿弥は僕が寝ていた布団のかたわらに座って、くすくすと笑っている。
その頬にはほんのりと朱が差していた。
「昨日、私の寝顔を見たお返しです」
どうやら僕の寝顔を見ていたらしい。
「お、おはよう……」
「はい、おはようございます。朝食ができていますから、一緒に食べましょう?」
「ああ、わかった……」
小間使いさんがいっしょに朝食を摂るはずもなく、僕と阿弥だけの朝食だった。
阿弥は、普段は一人で食べているから嬉しい、と笑顔で語っていた。
朝食を終え、少し休憩してから、僕達は今日の仕事を始めた。
今日は昨日の取材を元に縁起の執筆を行った。もちろん、阿弥が、である。
今日も今日とて、僕は彼女のサポートに回っていた。
阿弥は閻魔と死神の紹介文を書き終えると、今度は二人の姿絵をなにも見ずに描き始めた。
「相変わらず、すごい再現度だ」
「見たままの姿をそのまま描いているだけですから、たいしてすごくもありませんよ」
謙遜ではなく、本気でそうおもっているらしいところが阿弥の非常識なところであると、僕はおもった。
翌日、僕たちは取材のために博麗神社を訪れた。
神社ではあの時の巫女が境内を箒で掃除しており、僕と阿弥を見ると驚いたような顔をした。
「あら、あなた……なんで阿弥と一緒に?」
「知り合いなの? 彼は今、私のところで働いているのよ。ね?」
「あ、はい。お世話してます」
「ちょっと! そこは『お世話になっています』でしょう!」
「ここに来るまでの階段で途中で『もうむりぃ、負ぶさってぇ』って泣きついてきた人がいうセリフじゃない」
「なんですってぇ!?」
「あーはいはい、痴話喧嘩なら他所でやってほしいわね。取材なんでしょう?」
巫女が呆れた風に言い、阿弥が真剣な表情になったので、僕と阿弥の掛け合い漫才は終了した。
それからいつものように巫女への取材をし、それが終わったらおみやげに買ってきた団子を皆で食べた。
みたらし団子を頬張りながら、巫女が言った。
「それにしてもあなた、ちゃんと言ってあるんでしょうね? その、自分の素性のこと」
「ああ、それなんですが……」
閻魔とのことを巫女に話すと、巫女は呆れた様子でため息をついた。
「馬鹿だわ」
「まったく、大馬鹿ですよね」
巫女が言い、阿弥が同調する。
「最悪、退治されていたわよ。素性を隠して旧家のお嬢様に近づくなんて、まるで狼だわ」
「まったく、ケダモノですよね」
「待って。色々と待って」
巫女が言い、阿弥が同調し、僕が反論したが無視された。
それから巫女はニヤニヤと笑みを浮かべながら、僕と阿弥の顔を覗き込んできた。
「で? あなたたち、どこまでやったのよ」
「やった、と言うと?」
阿弥が首を傾げて返す。
僕は言葉の雰囲気からなんとなく言いたいことを察したが、万が一にでも墓穴を掘るとあとが面倒なので、黙っていることにした。
「とぼけないでよ阿弥、見てればわかるわ。二人とも、けっこういい感じじゃない。口づけまでいった感じかしら?」
「くっ……くっ!? くっ、くくくくっ……くうううう!?」
突然、阿弥が狂ったように叫んだかとおもうと、顔をまるで天狗みたいに真っ赤に染めて、かとおもうとそのまま動かなくなってしまった。
心なしか頭から煙が上っているようにも見えた。
「ありゃ?」
「ああ、阿弥が壊れた……」
阿弥が座ったまま失神してしまったので、巫女の興味の矛先は自ずと僕へ向けられた。
「で? 言ってる意味はわかっているんでしょう?」
「いや、まあ……でも、僕と阿弥はそういう関係じゃないですよ。仕事の相棒ですし、最近は仕事以外でもかなり打ち解けられました。でも、本当に、そういうんじゃないんです」
「ふうん? まあ、いいけどね。でも、後悔先に立たずって言うじゃない。その時が来てからじゃ遅いとおもうんだけどなあ」
巫女の言葉の意味がわからず、僕は彼女の方を見た。
巫女は団子をもぐもぐとしていたが、やがて飲み込むと、僕に言った。
「阿弥、持ってあと五年もないわよ」
「………………はぁ」
最初は、言っている意味がよくわからなかった。
持ってあと五年もない。
なにが持ってあと五年もないのだ。
いや、僕はただ混乱しているだけなんだ。
落ち着けば、だいたいこういう言い回しがなにを指しているのかなんて明白じゃないか。
つまり、それは……それは、そういうことなのか?
「五年って……どういうことですか……」
「……聞かされてないのね。阿弥は御阿礼の子。百数十年に一度、稗田家に誕生する阿礼の生まれ変わりで、幻想郷縁起の編纂者。今まで転生してきたすべての御阿礼の子の、縁起に関する記憶を引き継いでいる、見たものを決して忘れない天才的頭脳の持ち主にして、三十に満たない年齢で命を落とす、薄命の子なのよ」
五年。あと五年。意味がわからなかった。
五年以内に、阿弥が死ぬ?
死んで、死んだら、そしたら……阿弥はいなくなるのだ。
僕は阿弥を見た。
いつの間にか意識を回復させていた阿弥は、いつも通りの笑顔だった。
「阿弥……今の話って……」
僕が口を開くと、まるでそれを遮るかのように阿弥は突然立ち上がった。
それから、満面の笑みを浮かべて僕に手を差し伸べてきた。
「さ、そろそろお暇しましょう! あまり長居するのもよくないですよ」
「あ、ああ……」
手を握り返し、立ちあがる。
阿弥は巫女の方に振り返ると、ぺこりと頭を下げてお辞儀をした。
「取材、受けてくれてありがとう」
「いい記事を期待しているわ」
「もちろんよ!」
……いや、阿弥の笑みは、いつも通りの笑顔ではなかった。
どこか、苦しそうな、悲しそうな、そしてそれを内側に必死に押さえ込もうとしている、そんな笑顔だった。
階段を降り、森のなかを通る道を抜ける。
僕達はずっと無言だった。
けれども僕は、彼女に尋ねないわけにはいかなかった。
『後悔先に立たずって言うじゃない。その時が来てからじゃ遅いとおもうんだけどなあ』
巫女の言葉が脳裏に蘇る。
僕は、阿弥の名前を呼んで彼女を呼び止めた。
「阿弥、巫女が言っていた……五年以内に死ぬって、本当なのか?」
阿弥が立ち止まり、振り返った。
胸が締め付けられるように痛んだ。
僕は、彼女の口からそんなものはでたらめだと言ってほしかったのかもしれない。
けれども、僕を見つめる阿弥は今にも泣き出しそうな表情で、それが本当のことなんだと、無理矢理にでも理解させられた。
やがて、ぽつり、ぽつり、と阿弥は語りはじめた。
「……ええ、本当よ。私はあと五年以内に死ぬ」
「そんな……どうにかならないのか?」
「これはどうあがいても免れることのできない、御阿礼の子の宿命なの。死んで、そしたら閻魔のもとで百年以上、次の肉体ができるまで働くの。すべて、何百年も前から決まっていることなのよ」
「でも……それじゃあ……僕は、どうしたらいいんだ」
僕は、無意識に阿弥の肩を掴んでいた。
「君のことが好きになってしまった! そんな……五年も経たずに別れないといけないなんて嫌だ!」
阿弥は驚いた表情をしていたが、その目に涙を溜め込み、やがてぽろぽろと頬をこぼれていった。
「しっ、知らないわよっ! そんなっ……私だって、あなたのことが……すっ、好きに、なっちゃったじゃないっ! 未練があって死ぬに死ねないわよこれじゃあっ!」
「だったら死なないでくれ!」
「私だって死にたくないわよ!」
僕は阿弥を抱き寄せ、どこにも行かないように強く強く抱きしめた。
阿弥が僕の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
右手で阿弥の髪をくしゃりと撫で、頬を寄せる。
どれくらい経っただろうか、しばらくそうして抱きあっていたが、やがて阿弥が落ち着きを取り戻すと、どちらからともなく僕たちは体を離した。
阿弥の頬に涙の跡が残っていたので、頬に手を添えて親指で拭ってやる。
阿弥の濡れた瞳が、じっと僕を見つめていた。
「阿弥……」
「……うん」
彼女の名を呼ぶと、阿弥は小さく頷いた。
それから僕と阿弥は、そっと顔を寄せ合った。
ほんの少しの時間だったけれど、僕にはまるで永遠のように感じられた。
しばらく重なり合っていた二人の影が離れて、阿弥は恥ずかしそうに口元を隠しながら赤面した。
「口づけは……その、初めてです。産まれて初めて。なんだか、ふわっとしたものなのですね……」
「まあ、ものによるんじゃないかな。互いの舌を絡め合うような接吻もあるし」
「まあ! なんて破廉恥な! それでは、ぜひともあとで試してみましょう! 経験せずに死ぬなんて嫌です! こうなったらなんでもとことん試してみましょう! さあさあ!」
「ま、待ってくれ! 雰囲気が台無しだ!」
阿弥に手を引かれて、僕たちはあぜ道を走った。
「でも、良かったです」
日が沈んで夜になった。
阿弥は里のお屋敷には戻らずに、僕の家にいた。
乱れた衣服を抱き寄せるようにしながら、縁側に座っていた阿弥は、居間にいる僕の方を振り返って微笑んだ。
「それは……舌を絡め合うような接吻のことかい? それともそのあとの――」
「だっ、誰もそんなことは言っていません! そうではなく、あなたが半人半妖だったことが、です」
「ほう、そりゃまた、なぜ?」
僕は立ち上がり、阿弥の隣に座った。
阿弥は先ほどまでのことをおもいだしたのか、顔を赤らめて、ふい、と僕から視線をそらしてしまった。
「あなたは妖怪の血を引いていますから、確実に百年、二百年は生きるでしょう。もっと生きるかもしれません。そしたらもしかしたら、九代目の私と逢えるかもしれないじゃないですか」
「……御阿礼の子ってのは、転生したら前世の記憶も引き継ぐもんなのかい?」
「いえ、幻想郷縁起に関わる一部だけです。ですから、実質別の人、ということになっちゃいますかね。でも、そのための縁起ですから」
よいしょ、と阿弥は僕の隣にぴったりとくっつくと、もたれかかるように僕の肩に頭をあずけた。
それから彼女の左手がそっと僕の右手に重ねられ、指と指が絡み合った。
「縁起に書いてあることなら忘れない。だから、あなたのことを縁起に書いておけば、絶対に忘れません。忘れたくないんです。絶対に」
阿弥がこちらを見上げた。
彼女の頬に手を添えると、阿弥はくすぐったそうに身をよじらせた。
「……だから、来世の私も、こうやって愛してくれますか?」
「もちろんだとも。なんど生まれ変わったって愛してるよ、阿弥」
そのままふたたび彼女の唇をふさぎ、唾液を混ぜ合わせるみたいに舌を絡めた。
顔を離すと、阿弥はうっとりと呆けた表情をしており、舌先からは唾液が糸を引いて垂れていた。
「……やばい、そそられる」
「んなっ! ……もうっ! 雰囲気が台無しじゃないですか!」
「それはお互い様だろう?」
二人して、縁側に寝転がる。
眩しいほどに輝く満天の星空を見上げながら、僕たちはしばらく無言のままそうしていた。
手をつなぎあったまま、ずっと、そうしていた。
「あ、でも男に生まれ変わる可能性もあるんですよね」
「……本当に、台無しだなあ」
台無しである。
あれから、一年後には晴れて八冊目の幻想郷縁起が完成し、あの鈴奈庵という貸本屋にて製本されることとなった。
僕のことを記した記事だが、阿弥の意向で阿弥の手元に残る分と、僕の手元に残る分の二冊にだけ収録されることとなった。
僕の記事は文章量も挿絵の数も、他の妖怪の記事と比べて三倍近くあり、誰が見てもあからさまな贔屓がされていることは明白であった。
そもそも記事とは名ばかりの、読めば僕の素性から阿弥との馴れ初め、その他様々なことを赤裸々に記した暴露本に他ならない。
願わくは他人に読まれてしまうことだけは絶対に避けておきたい内容に仕上がっていた。
さすがに初夜のことまで記されているのは狂気の沙汰としかおもえない。
なので、一般に販売される分には収録しないことにしたのだ。
当たり前である。
そうしてこの特別な縁起は、僕と阿弥だけの秘密となったのだ。
なんだか照れくさいわ、と阿弥は恥ずかしそうに言った。可愛かった。
初夜のことを記しておいて恥ずかしいもないだろうと言ってやると、阿弥の顔はますます赤く染まった。可愛かった。
そして、御阿礼の子としての役目をこなした阿弥は、それからさらに数年かけて転生の術の準備をした。
僕は縁起の執筆という仕事がなくなっても、いつも彼女のそばにいた。
転生の術の準備のあいだも、ずっと彼女を見続けてきた。
幸せな時間だった。
だが、阿弥は出会った当初と比べて、明らかにやつれているのがわかった。
彼女の死期が迫っている。直感的に、僕はそう感じていた。
そしてある日、とうとう阿弥は倒れた。
出会ってからもう五年が経っており、いつ死んでしまったとしてもおかしくはなかったのだ。
阿弥が寝たきりになっても、僕はずっと彼女のそばにいた。
布団で寝ている彼女のそばにあぐらをかいて座って、彼女の手を握って、弱々しい声で話す彼女の話し相手になった。
食べやすいように柔らかく煮込んだ味気ない食事を一緒に食べた。
目がよく見えないという彼女の代わりに本を朗読した。
阿弥は日に日に弱々しくなっていったが、それでも笑顔だけは絶やさなかった。
そんな彼女を見ているのが辛くて、僕が泣きそうな顔をしていると、ほとんど見えていないというのに阿弥は慰めるように僕の顔を撫でた。
「そんな顔、しないでください。私、もうすぐ死んじゃいそうだっていうのに、全然寂しくないんですよ? こんなの初めてです」
「僕は寂しいよ、阿弥。もっと、ずっとずっと、君と一緒にいたかった……」
「ふふ、情けない声を出さないでください。大丈夫です……。たった百年とちょっとですよ。そしたら、私は生まれ変わります。それまで、私を待っていてくださいね……? 約束、ですよ……?」
「ああ……ああ! もちろんだとも! ずっとずっと待ち続けるさ!」
「浮気……したら、閻魔様の元を抜け出してでも祟りに行きますからね……?」
「……ああ、わかっているとも」
阿弥の手を優しく握ると、阿弥は小さく微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。
それから彼女は目をさますことなく、翌日に息を引き取った。
それから百年と少しが経ち、里に住む人達もほとんどまるっと入れ替わり、博麗神社の巫女も何人目かの新しい巫女に代替わりした頃。
里にあった道具店で修行をし、僕は道具屋として独立して魔法の森の近くに店も構えていた。
名前も、森近霖之助と改めていた。
幻想郷の様相はだいぶん変わっており、一方でまったく変わっていないところもあった。
なんにしても、百年以上もここで過ごしていると、やってきたばかりの当時がまるで嘘みたいに、僕も幻想郷に染まっていた。
そんなある時、天狗が書く新聞の一面に、九代目の御阿礼の子の生誕を知らせる記事が載せられていた。
あらかじめ作られた肉体に魂を入れるからなのか、記事の写真に映し出されているのは齢八つほどの少女であり、その顔には阿弥の面影が色濃く出ていた。
名前は稗田阿求というらしい。
僕は胸が高鳴るのを感じた。
百年以上待ち続けた彼女が、ついに帰ってきたのだ。
僕は彼女の元へと向かった。
百年以上が経ち、名前も住む場所も変わってしまった。
彼女の方から僕のことを見つけ出すのは困難に違いない。
里へと向かい、長い長い塀に沿って歩き、そしてあの大きな古びた門の前に立つ。
この門を叩くのも、かなり久々になる。
僕は門の前に立ち、腕を上げたところで、ふとおもった。
今、稗田家に僕のことを知っている人物は一人もいない。
僕が彼女を尋ねたところで、片や旧家の特別なお嬢様、片や森の奥にひっそり居を構える半人半妖のしがない道具屋である。
果たして会わせてもらえるものだろうか。
僕はしばし門の前でいったりきたりして逡巡していたが、やがて意を決し、門を叩いた。
しばらくすると門が開いて、小間使いさんとおぼしき女性が顔を出した。
「はい、なにかご用でしょうか?」
「あの、阿弥……じゃなかった。阿求さんにお取り次ぎ願えませんか?」
「失礼ですが、あなたは?」
訝しむようにこちらを見る小間使いさんに、僕は当時の名前を名乗った。
確認してまいります、と言って小間使いさんは門を閉じたが、そう時間もかからないうちにふたたび戻ってくると、淡々と言った。
「阿求様に確認してまいりました。そのような名前の方に心当たりはないそうです。申し訳ありませんが、お引き取りください」
一瞬、頭の中が真っ白になったのがわかった。
僕は、はあ、と曖昧な返事をして、稗田のお屋敷を後にした。
ずっと、どうして阿求が僕のことを覚えていないのかを考え続けた。
阿弥が作った幻想郷縁起は二種類ある。
一つは一般に流通した幻想郷縁起。
もう一つは、僕と阿弥以外に持つものがいない、特別な幻想郷縁起だ。
もし、御阿礼の子に受け継がれる縁起の記憶が、一般に流通した方の縁起の記憶なのだとしたら、僕とともに過ごした記憶は彼女の中には無いことになる。
僕は絶望した。
阿弥との幸せな時間の記憶は、もう彼女の中には残っていないのだ。
……がだ、考えてみるとそれはあたり前のことなのかもしれない。
片や長命の半人半妖、片や短命の人間。
歴然とした寿命の差はどうにもならないし、そもそも阿求は阿弥の生まれ変わりとはいえ、縁起の記憶しか受け継いでいない阿求は、彼女とは別の人間なのだ。
僕のことを覚えていないのも、そもそも別の人間なのだからあたり前のことなのである。
………………。
頬を涙が伝っていた。
馬鹿馬鹿しい、とおもいながら腕で涙を拭う。
百年だ、百年。そんなに経ったのだ。
それをいまだにうじうじと……本当に、馬鹿馬鹿しい。
そうおもってはみても、涙は止まらなかった。
ああ、僕は本当に阿弥のことが好きなのだ、今でも変わらずずっとずっと好きなのだと、僕は実感した。
恐らく、もう阿求と会うことはないだろう。
彼女は阿弥ではない。稗田阿求なのだ。
そして僕は森近霖之助。かつての僕ではない。
今やもう、僕と彼女のあいだに、接点なんてありはしないのだ。
なんておもっていたのに、おもいのほか早く阿求と出会うこととなった。
きっかけは稗田家の主人と、修行した道具屋の親父さんが親しかったことに由来する。
もっとも、阿弥のときのように親密な間柄というわけでもなく、知り合い、顔見知り、友人関係といった程度のものであった。
阿弥の顔がちらつくのは苦痛でもあったが、接してみるとやはり阿求と阿弥とではまったく中身が異なっていた。
だからだろうか、僕はごくごく普通に阿求と接することができた。
そうして数年、阿求が十歳になろうとしたとき、とうとう彼女が幻想郷縁起の執筆を始め、僕が取材を受けて今に至るのだ。
居間で阿弥が執筆した幻想郷縁起を読んでいると、店の扉が開く音がした。
それから、さっき帰ったばかりの阿求がひょっこりと居間に顔を覗かせた。
「あのー、霖之助さん。さっきの今で申し訳ないのだけど、ちょっと相談が……」
「ん? 相談?」
僕は本を閉じて卓袱台の上に置いた。
阿求はいそいそと居間に上がると、僕の正面にちょこんと正座した。
それからまっすぐに僕を見つめて、改まった口調で話しだした。
「実は、せっかくここまで来たのだから無縁塚の方まで行ってみようかとおもいまして」
「無縁塚か」
あそこなら僕もなんどか訪れている。
身元不明の遺体を焼いて弔ったり、その遺体が所持している外の世界の道具であったり、または冥界の道具であったりをありがたく頂戴するために。
なので、僕は無縁塚へと至る道や、無縁塚に関してはそれなりに知識があった。
「で、ですね。霖之助さんにも、ぜひご同行いただけたらとおもいまして……」
「なんだって僕が?」
首を傾げて尋ねると、阿求は恥ずかしそうにもじもじとし始めた。
「だって、一人で行くには、ちょっと怖いじゃないですか……」
数秒間、無言の間が続いた。
それから僕はいよいよ耐えきれなくなって、笑い声をあげた。
阿求がさらに恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め上げたかとおもうと、座っていた座布団を持ち上げて僕へと押し付けてきた。
そして僕が抱えるように手にした座布団めがけて、ぼす、ぼす、となんども殴りかかってきた。
「ちょ、待って! 痛い! 痛いって! あはははは!」
「なんで笑うんですか! ひどいです! 霖之助さんの鬼! 悪魔! 妖怪!」
「はははは! だから痛いってば! うりゃっ!」
僕は阿求の両肩をがっちりと押さえるように掴むと、そのまま抱き寄せた。
もちろん、僕が抱える座布団にである。
ぼふん、と座布団に顔を埋めた阿求は、くぐもった声で「あはははは!」と笑った。
それがおかしくて僕も笑う。
お互いにお互いが笑うのがおかしくて笑っているのだ。
永久機関である。笑い疲れてお腹が痛くなるまで、しばらく抜け出せなかった。
二人といっしょに魔法の森を無縁塚へと向かって歩いていく。
正確には、僕が阿求を背負って歩いていた。
森に入って早々、阿求は気分を悪くしてしまったのだ。
かといって戻るかと尋ねれば戻りたくないと言うので、仕方なく僕が負ぶさっているのだ。
「いいですねー、これ。楽ちんですね。霖之助さん、こんどからこうやって私を背負ってくれませんか?」
「元気そうだな。よし下ろすぞ」
「冗談、冗談ですってば! もういやだなあ霖之助さんったら!」
そう言いながら阿求は僕の首に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
意地でも離れないぞという意志がありありと感じられる。
仕方がないので彼女を負ぶさったまま森を進んだ。
「……霖之助さん」
背中から阿求の声がした。
先ほどまでとはうってかわって、しっかりとした、真面目な口調だった。
「ん? なんだい?」
「さっき、卓袱台の上に置いてあったのって、あれ、幻想郷縁起ですよね?」
どうやらさっき、居間に上がってきたときに目ざとく見つけていたらしい。
僕は頷いた。
「そうだ。あれは八代目の御阿礼の子、阿弥が執筆した縁起だよ」
「そう……ですか。でもあれ、普通に売っていたやつではないですよね?」
「……どうして、そうおもうんだい?」
「阿弥のころに作った縁起、実はうちに二種類あるんです。私の記憶にあるのは普通に流通した縁起ですが、私の記憶にない、もう一種類の縁起があるんです。霖之助さんが持っていた縁起は、その私の記憶にない方の縁起といっしょでした。表紙の紙の色が普通のとは違うんです」
「……そうだったのか」
気がつくと、僕たちは森を抜け、再思の道まで来ていた。
秋になると辺り一面を真っ赤な彼岸花が覆い尽くすが、今は一見すると何の変哲もない草原の中を進む道である。
「読んだことがあるんです。記憶にない方の縁起。私くらいの天才ともなれば縁起の内容なんて覚えていますから、普通の縁起と異なる箇所がどこかくらいはすぐにわかります。……で、その異なる箇所というのが、ですね……」
阿求は言いづらそうにごにょごにょと語尾を濁していった。
「あの愛だの恋だの性行為だのを赤裸々に書き綴った頁だろう?」
「は、はい……そこですぅ……」
背中越しに阿求の体温が伝わる。すごく熱い。
「私、あの人の記憶は全然ないんです。たぶん、阿弥はあの人との記憶を引き継ぎたくて縁起に記したんでしょうけれど……恐らくあの恥ずかしい記事が一般の縁起には記されていなかったから、記憶は引き継がれなかったのでしょう」
阿求の推理も、おおむね僕が考えたものと同様であるらしかった。
僕は黙って頷いて先をうながした。
「でも、私、小さい頃にあの頁を読んで、かつての私がこんなにも愛した相手は誰なんだろうって、ずっと考えていました。半人半妖の青年。それならばまだ生きているかもしれない。それに私が生まれて間もないころに、彼の名前と同じ人物がうちを訪ねてきたんです。その時はまだその名前を知らなかったので、お会いすることはなかったのですが……きっとその人が彼に違いないと、そう確信しました。そうおもっていた矢先に霖之助さん、あなたに出会ったんです。名前も違うし、性格も記述とくらべてだいぶん変人寄りになっていましたが……」
「やかましいわ」
「でも、あなたにはあの挿絵の人物の面影がありました。それでもまだ確証は持てませんでしたが……霖之助さんが持っていた縁起を見て、確信しました」
背中が軽くなり、阿求が地面に降り立った。
それから彼女はぐるりと回り込んできて、僕の正面に立つと、まっすぐに僕を見上げるように見つめた。
「……阿弥が愛したのは、あなただったんですね」
「……そうだ。僕は阿弥を愛していた。心から、彼女のことを愛していた」
ぼすん、と腹に衝撃があって、みると阿求がそこに突進するみたいに抱きついていた。
背中に回された手が、締め付けるようにぎゅっと力を込められる。
「やっと逢えた! ずっとずっと、ずーっと逢いたかった! 記憶がなくてもわかります! 阿弥は……私は、ずっとあなたに逢える日を待ち焦がれていました。百年以上、ずっとです! ああ、そしてようやく……」
阿求は抱きついたまま僕を見上げた。
その目からは涙がこぼれている。
彼女の中にある阿弥としての記憶が無意識にそうさせているのか、それともあの頁を読んだ阿求が阿弥の記憶を追体験したからなのかはわからない。
けれども、今、僕は紛れもなく阿弥と話し、抱き合っているのだ。
「好きです! 百年経っても、あなたのことが心の底から大好きです!」
「僕もだよ、阿弥。……いや、阿求」
阿求の涙を指で拭ってやって、それから僕は阿求の体を抱き上げた。
小さく軽い彼女の体はたやすく持ち上がった。
阿求は期待の眼差しでこちらを見つめ、それからゆっくり目を閉じた。
そんな彼女の期待に応えるように、僕は彼女の小さな唇へと顔を寄せた。
キスは唇が軽く触れ合うような、お子様向けの“ちゅー”であった。
阿求は不満そうにしているが、大人のキスは大人になってからである。
なにせ今の阿求は未だ十にも満たない年齢なのだ。
よろしくない。いくら転生しているといえどもさすがによろしくない。
例に漏れず、他の御阿礼の子と同様に阿求も三十になるかならないかというところで、静かに命の灯火を消してしまった。
だが、死の間際に阿求は自信満々に言っていた。
「それじゃ、百年とちょっとのあいだ、浮気しないで待っていてよね」
阿求には、もう僕と過ごした記憶がなくなってしまうかもしれないなんて不安はなかった。
なぜなら、阿求が作った九冊目の幻想郷縁起には、しっかりと僕のことが書かれているのである。
それもあろうことか、一般流通分に、阿求の旦那として、である。
これで絶対に忘れることはないと阿求は豪語していたが、それがどれほど恥ずかしいことになるのかを、本を刷る前の阿求はまだ知らなかった。
霊夢や魔理沙、貸本屋の本居小鈴を始めとする様々な人達からいじられ、茶化され、祝福されたのは言うまでもない。
それから、幼いうちに縁起を書き終えた阿求は、それ以外にもさまざまな本を書いた。
本を書いているあいだの阿求は、まるでこのまま長寿を全うするんじゃないかというくらいに元気だった。
なのに、やはり運命には逆らえないものなのだろうか。阿求はある日、突然、倒れたのだ。
けれども、起き上がれなくなっても阿求は元気だった。
僕が顔を見せるとまるで幼い子供のようにはしゃいでいた。
「ああ、しばらくお別れになるのは悲しいけれど、次の転生が今から楽しみだわ」
「もし僕が死んじゃっていたらどうする?」
「生きて」
阿求は至極真面目な顔でそう言った。
「無茶を言うなあ」
「無茶してよ、私にまた会いたくないの?」
「会いたいなあ……じゃあ、無茶するか」
「うん、頑張って。それじゃあ……また、ね。霖之助さん」
「ああ、またな。阿求」
口づけを交わす。それから、ふにゃりとだらしない笑みを浮かべて、そのまま阿求は永遠の眠りについた。
「だらしのない死に顔だなあ」
阿求の顔をもにゅもにゅと撫でながら呟く。
それから僕は、冷たくなっていく彼女の体を起こし、ぎゅっと抱きしめ続けた。
阿求が死んでしまってから十年と経たないうちに、幻想郷はなくなってしまった。
なにが起こったのか、詳しくはわからなかった。
けれどもある日、突然幻想郷は消失し、多くの妖怪や里の人達がいなくなってしまった。
もちろん、稗田家もだ。
僕がどこにも消えることなく生き残れたのは、本当に偶然というほかないだろう。
つまるところ、とうとう阿求とふたたび相まみえることは叶わなくなってしまったということだ。
僕はずいぶんと様変わりした外の世界を何年も彷徨い歩き、そして紆余曲折を経て老齢の女性が経営している京都の小さな道具店で働くこととなった。
住む場所がないと言うと、店の二階にある小さな空き部屋に住まわせてもらえた。
そこで数年、僕は働いた。
やがて店主の女性が老衰で亡くなると、僕は彼女からこの店を引き継ぐこととなった。
一日に客は二人、三人ほどふらっと訪れる程度であったが、香霖堂よりはましであった。
僕は数十年に一度、名前を変えながら細々とその店を経営し続けた。
そして、百年以上が経って、僕の寿命もいよいよあと百年にも満たなくなってきた頃。
なんの前触れもなくその三人は現れたのだ。
夕方になり、そろそろ店じまいを始めようとしたところ、店の扉が開いて三人の少女が店内へと入ってきた。
「いらっしゃい」
声をかけ、三人を見た僕は絶句した。
一人は黒髪の少女で、もう一人は金髪の異国の少女であった。
二人ともどこかで見たことがあるような顔をしていたが、おもいだせなかった。
そして、その二人に連れられるようにして店内へと入ってきた、女子校生だろうか、セーラー服を着た少女。
その少女は不安そうな顔で僕を見て、そして口に手を当てたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
その頭には、椿の花飾りが美しく咲き誇っていた。
「ああ……」
僕はおもわず声を漏らしていた。
間違いない。彼女だ。
もう一生会えないものとおもっていたのに、彼女は今、目の前にいるのだ。
僕が彼女に駆け寄るのと、彼女が僕に駆け寄るのは同時だった。
そして僕たちは、店の真ん中で強く抱きしめあった。
「ずっと会いたかった」
「僕もだ」
「もう逢えないのかとおもった」
「僕もだ」
「ただいま」彼女が言った。
「おかえり」僕が言った。
それから僕らは口づけをした。なんどもなんどもした。
居づらくなったのか、さっきの二人はいつの間にか店内から姿を消していた。
お礼を言う暇もなかった。こんど会ったら、なにか美味しいものを奢ってでも感謝しないといけない。
でも、いまは、もうすこし、彼女と二人の時間を、楽しみたかった。
彼女は十代目の御阿礼の子……ではなかった。
幻想郷が消失した今、もはや御阿礼の子として転生する必要性はないのだ。
では、彼女は一体なんなのであるのかというと、彼女は自らを阿礼と名乗った。
もちろん、千年以上前に古事記を編纂したあの阿礼ではない。
彼女は阿求の頃の僕とのおもいでの記憶だけを引き継いだ、阿求の生まれ変わりの、ただの人間だった。
「私が死んでからすぐに幻想郷がなくなって、閻魔様に言われたんです。もう御阿礼の子として転生する必要性はなくなった。けれども、転生後の肉体を用意する儀式は執り行ってしまったから、普通の人間として転生しなさい、って。それで、霖之助さんとの記憶だけを引き継いで転生させてもらったんです」
「それじゃあ、もう……」
「はい! 私、やっと長寿を全うできるんですよ! えへへ」
僕は嬉しさのあまり阿礼を力いっぱい抱きしめ、そのまま店内にあるソファーに倒れ込んだ。
「きゃあああ!」
阿礼が嬉しそうに悲鳴をあげた。
それから、ソファーに重なり合いながら寝転がって、僕たちはお互いのことを話した。
阿礼ははるか昔に稗田家から枝分かれした家系の末裔に、長女として生まれたようだった。
今は市内の高校に通っており、常に学年トップの地位をキープしているのだという。
御阿礼の子でなくなっても、彼女の類まれな頭脳は健在であった。
そして阿礼は、本当に僅かな手がかりを元に僕のことを探し続けていたらしい。
そして、偶然に知り合ったさっきの二人……秘封倶楽部と名乗る市内の大学のオカルトサークルらしいのだが……の協力を得て、僕の元までたどり着いたらしい。
「本当に、あの二人にはお礼をしなくちゃな」
「でも、マエリベリーさん……あの金髪のきれいな人なんだけど、私がお礼をって言ったら『ノブレスオブリージュですわ』なんて言うのよ」
「それって……」
どこかで聞いたことのあるセリフだった。
やはり彼女たちとは以前にどこかで出会ったことがあるのだろうか。
僕にも阿弥や阿求、そして阿礼のような記憶力があったら、覚えていたのかもしれない。
それから、阿礼は学校が終わってから毎日、僕が経営する道具店に入り浸るようになった。
店内にあるソファーと机で宿題をしたり、店内の掃除をしたり、お客さん相手に談笑をしたりしていた。
結婚はいつにしようか、と唐突に阿礼は言った。
阿弥のときも、阿求のときも、彼女の立場が立場なだけに、事実上結婚しているも同然の関係でも、結婚式は挙げなかった。
「下鴨神社で神前式がいいとおもうなー、私」
「それよりも先にしなければいけないことが山ほどあるとおもうんだがな」
「あっ! お父さんとお母さんに挨拶してもらわなきゃですよね! 最近、お父さんが私がここに入り浸っているのを怪しくおもい始めているみたいで」
「ご両親にいってないのかい、僕のこと」
「いったらお父さんが爆発するもの」
阿礼はそういってころころ笑ったが、僕にはとても笑えなかった。
しかし、いずれは挨拶にいく必要がありそうだ。
こういうことは、いつまでも隠し通せるものでもない。
傷が浅いうちに早めに伝えてしまうのも、一種の手であろう。
僕は阿礼の隣に座った。
阿礼はスマートフォンで、市内で神前式を挙げるプランを紹介したサイトを見ていた。
「阿弥のときにも、阿求のときにも、できなかったことがいっぱいあるわ。結婚式もそうだし、子供も欲しいな。どれも、あなたといっしょじゃなければできないことなの。これから死ぬまで、長い間、どうぞよろしくお願いしますね、旦那様」
もちろんだよ、と言って、僕は阿礼と顔を寄せ合った。