卯東京駅の卯酉新幹線ホーム。
私はキャリーケースとビジネスバッグを引っ提げ、酉京都行きのヒロシゲに乗車した。切符が示す指定席を探そうと車内を見渡す。平日の昼間だというのに、ヒロシゲの乗客はちらほら。東海道新幹線で賄いきれない需要を満たすために作られた卯酉新幹線のはずだけれど、年々利用者は減少していくばかり。きっと、東京地区を中心に発生している境界の綻びが原因だろう。
科学世紀の技術では境界を観測することはできるけれど、綻びによって何が起こるかは明確に判明していない。正体不明の事象は人々の不安を煽り、憶測やデマを流布させた。うわさを信じた者は境界の綻びが少ないとされる首都の京都に移住。東京地区は境界の研究を進める研究者と、研究施設を残すだけとなってしまった。
指定席を見つけ、腰を下ろす。ボックス席なので迷惑にならないよう、網棚に荷物を上げようとしたが、持ち上げるほどの気力もなく、足元にそのまま置くことにした。正面の席に誰かが来たらどかせばいい。
その後、私の座るボックス席に誰も来ることはなく、ヒロシゲは出発した。酉京都駅までの五十三分間。やっと落ち着くことができる。わずかばかりの時間だけれど、学会での発表と論文の準備で休まることがなかった私としては貴重な休憩時間だった。京都に戻るのは二年ぶりだ。大学卒業後、東京の大学院付属の研究機関に進学し、境界分野を専攻としていくつか成果を上げた。今回は大学時代お世話になった研究室の教授に報告をするための出張だった。そうでなければ私が京都に来ることはなかったと思う。
車内のモニターから今日の天気と結界指数を伝えるニュースが聞こえてくる。視線をやると、そこには国営放送の人気女性アナウンサーが真剣な表情で原稿を読み上げる様子が映っていた。
「本日の京都地区周辺の天気は晴れ。結界指数は三・五です。境界の綻びは現在確認されておりませんが、念のため注意を払って外出をしましょう。もし、境界の綻びを発見しましたら境界対策本部に通報し、速やかにその場を離れましょう。それではみなさん、良い一日を」
聴き慣れた女性アナウンサーの声。政府も対策に追われ大変そうだ。私の研究が少しでも役に立って、世の中の不安を払拭できたらいいのだけれど。
カレイドスクリーンに映し出される人工の景色が酉京都駅まであまり時間がかからないことを伝えてくれた。少ない時間だけれど、寝ることにしよう。一人で起きていても特に何かをする気分にはならなかった。
酉京都駅から市営のバスを使い、大学に到着した。道中、バスの窓から見えた、大学時代行きつけの喫茶店が酷く懐かしく感じられて、心が苦しくなった。
以前所属していた研究室に到着すると、教授が快く迎え入れてくれた。
「やあ、宇佐見さん。お久しぶりです。元気にしていましたか?」
「はい。教授こそ変わらぬ様子で良かったです」
「論文、読みましたよ。すごいじゃないですか。宇佐見さんのおかげで境界の綻びのメカニズムが初めて明確になるかもしれませんね」
「そんな、そんな。大げさですよ。モデルの一つとして提唱したに過ぎませんし、私の考え方に異議を唱える方もいますので……」
「ですが、宇佐見さんが境界分野の最先端を進んでいることは確かです。自分に自信をもってこれからも頑張ってください」
「……ありがとうございます」
「ところで、宇佐見さんはこの研究室に戻ってくる――という考えはありますか?」
「えっ……」
「突然な話ですが、私としては宇佐見さんがこの研究室に戻ってきて欲しいと思っています。修士課程も終わる頃ですから。博士課程をここで過ごされるのはいかがでしょうか?」
「えっと……それは……」
唐突な話に驚き、二の句が継げない。まさか、教授からこんな提案をされるとは夢にも思っていなかった。私の困惑している様子を見て、教授は少しばつが悪そうに会話を繋げた。
「宇佐見さんが最先端の研究をするために、境界の綻びが多い東京で多くのサンプルを集めているのは知っています。しかし、解析技術ならこの研究室も高い水準にあります。ぜひ、整った環境で現在の研究をより先に進めて欲しく、宇佐見さんさえよければ共同研究も――」
「とても光栄です……。検討させていただきたいと思います」
「宇佐見さん、ありがとうございます。提案しておきながらですが、急な話ですので東京の研究所に一度、話を持ち帰ってください」
「はい、わかりました」
私は教授との話を済ませ、久々に会った研究室のメンバーと談義を交わした。現在進めている研究から、日常生活に関して。私の方から日常面で話せることはあまりないけれど、みんなの話が面白くて、とても盛り上がった。研究室のメンバーは変わらず、とても元気そうでなによりだ。
研究室を後にし、キャンパス内を散策する。
理学部棟と呼ばれる南館、文学部の北館、心理学部の東館、人工芝が植え付けられた運動場。
二年ぶりに見た景色は何一つ、変わることはなかった。卒業以来、初めて訪れたものだから、随分と様変わりしていると思っていたのに。
さきほど、教授から提案された内容はどうするべきか。本音としては、悩ましい。教授の研究室なら、解析設備は十分にあり、今の研究テーマをより先に進められそうだ。しかし、あまり研究室に居たいとは思えない。正確に言えば京都周辺だけれど。東京の大学院に進んだのも、最先端の研究をするというのは表向きの理由で、本当の理由は京都から出ていきたかったから。
ほどなく歩いていると、広場とカフェテラスが見えてきた。今でも学生の溜まり場になっているようだ。私も在籍中は良く利用し、メリーと秘封倶楽部の打ち合わせを行う事が多かった。メリーと最後に話したのも、このカフェテラスだとはっきり覚えている。私は未だに、秘封倶楽部が解散した日のことを忘れることができないでいる。
私はキャリーケースとビジネスバッグを引っ提げ、酉京都行きのヒロシゲに乗車した。切符が示す指定席を探そうと車内を見渡す。平日の昼間だというのに、ヒロシゲの乗客はちらほら。東海道新幹線で賄いきれない需要を満たすために作られた卯酉新幹線のはずだけれど、年々利用者は減少していくばかり。きっと、東京地区を中心に発生している境界の綻びが原因だろう。
科学世紀の技術では境界を観測することはできるけれど、綻びによって何が起こるかは明確に判明していない。正体不明の事象は人々の不安を煽り、憶測やデマを流布させた。うわさを信じた者は境界の綻びが少ないとされる首都の京都に移住。東京地区は境界の研究を進める研究者と、研究施設を残すだけとなってしまった。
指定席を見つけ、腰を下ろす。ボックス席なので迷惑にならないよう、網棚に荷物を上げようとしたが、持ち上げるほどの気力もなく、足元にそのまま置くことにした。正面の席に誰かが来たらどかせばいい。
その後、私の座るボックス席に誰も来ることはなく、ヒロシゲは出発した。酉京都駅までの五十三分間。やっと落ち着くことができる。わずかばかりの時間だけれど、学会での発表と論文の準備で休まることがなかった私としては貴重な休憩時間だった。京都に戻るのは二年ぶりだ。大学卒業後、東京の大学院付属の研究機関に進学し、境界分野を専攻としていくつか成果を上げた。今回は大学時代お世話になった研究室の教授に報告をするための出張だった。そうでなければ私が京都に来ることはなかったと思う。
車内のモニターから今日の天気と結界指数を伝えるニュースが聞こえてくる。視線をやると、そこには国営放送の人気女性アナウンサーが真剣な表情で原稿を読み上げる様子が映っていた。
「本日の京都地区周辺の天気は晴れ。結界指数は三・五です。境界の綻びは現在確認されておりませんが、念のため注意を払って外出をしましょう。もし、境界の綻びを発見しましたら境界対策本部に通報し、速やかにその場を離れましょう。それではみなさん、良い一日を」
聴き慣れた女性アナウンサーの声。政府も対策に追われ大変そうだ。私の研究が少しでも役に立って、世の中の不安を払拭できたらいいのだけれど。
カレイドスクリーンに映し出される人工の景色が酉京都駅まであまり時間がかからないことを伝えてくれた。少ない時間だけれど、寝ることにしよう。一人で起きていても特に何かをする気分にはならなかった。
酉京都駅から市営のバスを使い、大学に到着した。道中、バスの窓から見えた、大学時代行きつけの喫茶店が酷く懐かしく感じられて、心が苦しくなった。
以前所属していた研究室に到着すると、教授が快く迎え入れてくれた。
「やあ、宇佐見さん。お久しぶりです。元気にしていましたか?」
「はい。教授こそ変わらぬ様子で良かったです」
「論文、読みましたよ。すごいじゃないですか。宇佐見さんのおかげで境界の綻びのメカニズムが初めて明確になるかもしれませんね」
「そんな、そんな。大げさですよ。モデルの一つとして提唱したに過ぎませんし、私の考え方に異議を唱える方もいますので……」
「ですが、宇佐見さんが境界分野の最先端を進んでいることは確かです。自分に自信をもってこれからも頑張ってください」
「……ありがとうございます」
「ところで、宇佐見さんはこの研究室に戻ってくる――という考えはありますか?」
「えっ……」
「突然な話ですが、私としては宇佐見さんがこの研究室に戻ってきて欲しいと思っています。修士課程も終わる頃ですから。博士課程をここで過ごされるのはいかがでしょうか?」
「えっと……それは……」
唐突な話に驚き、二の句が継げない。まさか、教授からこんな提案をされるとは夢にも思っていなかった。私の困惑している様子を見て、教授は少しばつが悪そうに会話を繋げた。
「宇佐見さんが最先端の研究をするために、境界の綻びが多い東京で多くのサンプルを集めているのは知っています。しかし、解析技術ならこの研究室も高い水準にあります。ぜひ、整った環境で現在の研究をより先に進めて欲しく、宇佐見さんさえよければ共同研究も――」
「とても光栄です……。検討させていただきたいと思います」
「宇佐見さん、ありがとうございます。提案しておきながらですが、急な話ですので東京の研究所に一度、話を持ち帰ってください」
「はい、わかりました」
私は教授との話を済ませ、久々に会った研究室のメンバーと談義を交わした。現在進めている研究から、日常生活に関して。私の方から日常面で話せることはあまりないけれど、みんなの話が面白くて、とても盛り上がった。研究室のメンバーは変わらず、とても元気そうでなによりだ。
研究室を後にし、キャンパス内を散策する。
理学部棟と呼ばれる南館、文学部の北館、心理学部の東館、人工芝が植え付けられた運動場。
二年ぶりに見た景色は何一つ、変わることはなかった。卒業以来、初めて訪れたものだから、随分と様変わりしていると思っていたのに。
さきほど、教授から提案された内容はどうするべきか。本音としては、悩ましい。教授の研究室なら、解析設備は十分にあり、今の研究テーマをより先に進められそうだ。しかし、あまり研究室に居たいとは思えない。正確に言えば京都周辺だけれど。東京の大学院に進んだのも、最先端の研究をするというのは表向きの理由で、本当の理由は京都から出ていきたかったから。
ほどなく歩いていると、広場とカフェテラスが見えてきた。今でも学生の溜まり場になっているようだ。私も在籍中は良く利用し、メリーと秘封倶楽部の打ち合わせを行う事が多かった。メリーと最後に話したのも、このカフェテラスだとはっきり覚えている。私は未だに、秘封倶楽部が解散した日のことを忘れることができないでいる。