はじめは躊躇うように一滴一滴と降り出した雨が、やがて激しく二日降り続き、三日目に降り止んで、夏になった。夏は雨が上がると同時に、ふいとその季節が来たことを分かる。私は夏の日の長さに合わせて目を覚まし、持て余しがちな早朝の時間を、回廊から荒れ庭を眺めて過ごした。
ある朝、小鈴が来た。取り次ぎに出た女中によれば、私と二人で話したい用があるということだった。きっと鈴奈庵に書き下ろしている小説の催促だろうと思ったので、すぐ奥へ通すようにと伝えたが、現れた小鈴は私の予期していた様子とは違っていた。
小鈴は客間へ入るなり用心深い目で室内を見回すと、真面目な顔をして私の方へ早足して来る。そうして私の肩から耳元へ顔を寄せて「私ね、すごいもの持ってるのよ」と思いがけないことを言い出したのだった。
私は、これと同じ言葉を昔九歳の小鈴から耳打ちされたことがあるのを覚えている。そのとき小鈴の見せてきた「すごいもの」とは、鉢の水ごと氷漬けになった悲しげな小めだかだった。
思い出した私は眉をひそめて「嫌よ、また、めだかなんて。気味が悪いんだから……」と、思わずそう言ったものの、もうめだかが凍るような季節では決してなかった。
「何よ、めだかって」
「あんたが持ってきた、あのめだかよ」
「ねえ、すごいものだったら」
私の言ったことは、小鈴には何も思い出されなかったらしい。小鈴はただ「すごいもの」を再度強調しておいて、まるで誰かに聞かれては困るといった様に相変わらず落ち着きなくきょろきょろしている。
「あのね、昨日ね、いつも本を届けに行くお客さんの家でもらったの。誰にも見られないようにして、今日持ってきたんだよ、これ」
そう言いながら小鈴は袂のふくらみへ手を入れて、筆入れに使うような木箱をのぞかせて見せた。
どうせ小鈴がもらえるくらいなものだから、大して貴重なもののはずはなかったが、わざわざ持って見せに来てくれた友達のため、私は一応「すごいもの」の正体を訊いてやることにした。
「それで何よ、すごいものって」
すると小鈴はますます耳元へ寄りついて、手のひらで作った筒を通しながら、「カステラ……」と声をひそめて言ったのだった。
私はばかばかしくなってしまった。それでも小鈴の様子があくまで真面目そうなもので、堪えて何も言わなかった。
「これ、もらったことは親にも内緒なの。人に見つからないところで二人で分けようよ。丸ごとひと箱あるの」
そう言うと小鈴は、カステラと反対の袂から畳んだ地図を出して客間の畳の上に広げた。人里の地図だった。そうして稗田屋敷の前から伸びる東西通りを指で東へ辿り、店屋通りの延長に当たる細い縦道を南へ下った。
「このあたりに丁度良い場所を見つけてあるから、今から行こう。人里の中で誰も知らない場所があるの。……これも内緒なんだからね」
私は本当のところ、そんな寂しい方へ足を踏み入れるのは気が進まなかった。カステラもわざわざ出掛けてまで食べたいとは思えなかった。ただ、「人里の中で誰も知らない場所がある」という小鈴の話には少々興味をひかれた。また、地図を見ているうちに、小鈴が感じているらしい何か子供じみた興奮、上等な菓子を人目に隠れて食べてしまおうという内緒ごっこの気分が、だんだん私にも伝わりはじめていた。私は小鈴の誘いを受けることにした。
「行くのは構わないけど、カステラはもう切ってあるの」と承諾のついでに訊ねた私の口を小鈴はあわてて覆い、「ちゃんと切ってあるよ。大きな声で言わないで」と不注意をとがめる目つきで言った。この友達の中では、カステラを二人じめするために非常な警戒心が必要なようだった。私はそれきりカステラのことは口に出さないように決めて、小鈴の後ろから稗田屋敷を出た。
南東側の裏道には不案内で、他人の記憶を頼りにして歩いていくのが心許無かったが、狭い人里の中のこと、待つほどもなく「もうすぐよ」と小鈴から声がかかった。
正午に近づき暑さを増し始めた日差しの中、古く寂びれた家々の塀を見ながら角をつづら折りに折れる。やがて狭い路地の途中で不意に塀が途切れ、十坪ほどの土地が現れた。何も無い、がらりとした空き地だった。
「人里にこんな土地が余っていたとは知らなかったわ」
「里の地図帳を見ていたときに私が見つけたのよ。隠れておやつを食べるくらいしか使い道無いけど……」
私と小鈴は奥の建物の影で短く生えた草の上に腰を下ろして、カステラの箱を開けた。瞬間、小鈴は言葉にならない猫の声のような歓喜を口に漏らし、もとより大きな丸い目をさらに大きく丸く見張った。木箱の中で品ありげな薄紙に包まれた菓子は、空の月を削り出してきたような深い黄色で、その上に焦がした砂糖色の層を敷いている。綺麗な菓子だと私も思った。
そこでふと、カステラを取る前に手を洗いたいわと思い、水筒を持ってこなかったことに気が付いた。そのことを言うと、小鈴は案外しまったという顔はせず、「阿求が忘れ物なんて可笑しいわね」と妙に嬉しそうに言って立ち上がる。そうして空き地の奥を塞ぐ土壁の方へと私を引っ張っていき、壁から突き出した奇妙な金属の取っ手のようなものを見せた。
それは覗き込めば顔が映るほどよく磨き込まれた滑らかな鉄で、下へ向かってゆるく垂れ下がるように曲がっている。小鈴がこの下へ向かう先端に触れ、つまみのようなものを探り出して回すと、そこから綺麗に透きとおった水がどっと流れ出してその手を濡らした。わっと跳び退いたのも間に合わず、跳ね返った水で私のスカートのすそが濡れた。
「どこか地下から水を引いてるみたいなの。飲んでも大丈夫そうよ」
本物の蛇口を見たのは、この時が初めてだった。何らかの経緯で外の世界から人里へ流れ着いたか、あるいは薬缶ヅルのような妖怪の変形だったのかもしれない。これにはカステラなどよりずっと驚かされたが、小鈴の様子では害は無いらしい。おそるおそる水に触れて手を洗うと、指が切れそうなほど冷たかった。
天気の良い屋外に座りながらカステラの控えめな甘さを口に入れると、心底和やかな気分がした。明るすぎる日差しは視界に白い薄衣を掛け、蛇口から流れる水の音だけが静かな一帯に滲み込んでいくようだった。小鈴は一口ごとに「ああ、カステラ美味しい」と言い、私はそのたびに頷いた。
「ところでねえ、さっき話しためだかのこと、何にも覚えてないの?」
「めだか? めだかって?」
「さっき話してたじゃない。それも覚えてない?」
「めだかのことなんて話してたかしら」
「昔私に見せてくれた、凍っためだかのことよ」
「ああ、飼ってたわね、めだか。冬の夜に外に出しっぱなしにしていたら、鉢の水ごと凍っちゃった……」
「そう、そのめだかよ。あれは結局どうなったの? 氷が溶けたとき、めだかは生き返ったのかしら?」
「覚えてないわ。そんな何年も前のこと」
二人で三切れずつのカステラを、たっぷり時間をかけて食べ、また蛇口の水で手を洗ってから空き地を後にした。このとき、私と小鈴が蛇口のつまみを締め直さずにおいてしまったのは、きっと二人とも長くその場に居て、水の音に慣れ過ぎていたせいだったのだろう。
私はカステラのお礼として小鈴を稗田屋敷まで連れて戻り、遅めの昼食を一緒にした。午後から私は書斎へ入って仕事にかかり、小鈴はその隣で書庫から持ち出した本を何冊も広げていつまでも大人しく眺め入っていた。
夕方、窓から差し込む日に赤さが滲み出し、手元の文字が読みにくくなった頃、ようやく小鈴は本から顔を上げて「もう帰らなきゃ」と言った。それならと私も筆を置いて門前まで見送ろうとしたが、書斎の戸を開けて回廊へ出たところで、待ち構えていたように女中達が私を取り囲み、「困りました」「困りました九代目」としきりに訴えてくる。それら女中達の表情には、困惑と、僅かに興奮に近い色が浮かんでいるようだった。一体何を困ることがあったのか、小鈴と二人連れられて行ってみると、階段を上り二階の使用人控え室へ入った。
そうして「ともかく見てください」と言われて窓から顔を出すと、一瞬鏡に反射されたときのような眩しい赤光が窓の外から目に映った。思わず顔を背け、ゆっくりとまた目を戻すと、稗田屋敷の門の外、格子模様に走る人里の道には一面に水が溢れ、夕日差しを受けて輝いているのだった。
はじめ私は自分の目を疑おうとした。しかし目の上に手びさしをして眉根を寄せてみても、やはり見えている事実に変わりはなかった。人里の全体が水に浸かっている。幅の広い東西通りに、大きくて透明な流体が横たわっている。地面に接している物はみんな濡れて黒くなっている。ちょうど南風に揉まれて三の通りに舞い込んできた新聞は、地面へ張り付く直前で赤い夕日差しを映した水面に受け止められ、まるで空中に静止したかのようだった。
私は驚きの中で、咄嗟に発するべき言葉に迷った。今は何を言っても場違いか滑稽になりそうで、いつまでも口が開けそうになかった。すると、私の後ろから外を見ていた小鈴は、ただ「水だ……」と独り言のような声を漏らし、それが変に私の実感を誘った。
里の人々は混乱しながらも、既に事態に対処しはじめていた。見回すと、住居の周りでは荷物を担いだ大人たちが何人も歩き回って片づけをしたり、土嚢を積み上げて水をせきとめたりしている。水のかさはどうやら脛のあたりまでで、さほど深くは無いらしい。みんな服の裾をまくりあげて、空気を跨ぎ越すようにのしのしと歩いている。稗田屋敷の邸内は塀に囲われて水の浸入を防いでいるが、門扉の隙間などからはどうしても水が入り込んでしまうらしく、ここでも使用人達が蔵から俵を担ぎだして隙間を埋めようと働いていた。
女中達の話によれば、私と小鈴が書斎に入ってから一刻ほどあとで、どこからか水が溢れて来たのだという。その変化の過程に立ち会わなかった私にとっては、今窓から見える風景は全く夢のようにしか思われない。
「ああ、うちの店が心配だわ、本は水に弱いのに……」
小鈴が途方に暮れたような声を出した。
「これ以上水位が増しそうな気配はないし、きっと大したことにはならないわよ」
「里の人みんな驚いてるね」
「水の流れはほとんどないようだけど、安全のためだから今日のところはうちに泊まっていく方が良いわ」
その場は使用人達の手前、そんな会話をして自然を装っていたものの、私も小鈴もこの洪水の出所を考えようとして、例の空き地に開き放しのまま残してきた蛇口のことを思い浮かべないわけにはいかなかった。
やがて稗田屋敷の門の内側にも重ねた俵で囲みが作られ、漏れ込んだ水はその囲いの中で小さな池のようになって食い止められた。囲いから身を乗り出して水に手を浸すと、指が切れそうなほど冷たかった。
私の勧めに応じて稗田屋敷に泊まることを決めた小鈴は、はじめしきりに鈴奈庵を心配して帰りたがっていたものの、次第に里の動きが静まり、夜になっても水位に変化が無いことを見ると、一転して旅行客の気分で楽しそうにしだした。
空き部屋の中から寝たい所を選ぶように促すと、さんざん部屋を見比べて悩んでから二階の狭い一室を選んだ。
「ここは、窓の景色が一番広いし、海沿いの宿に来たみたいじゃない」
そう言って小鈴は窓辺に寄り立ち、月明かりが幽かに照らす広い水面を遠く見ていた。
「海なんて見たことないでしょ。こんなに海から近いと、高波が来たときここも濡れちゃうんじゃないかしら」
「だからほら、そうなってるじゃない」
「それよりも、船に乗ってると思った方が良いと思うわ。この屋敷も向こうの家も、全部船なのよ」
「でもそれじゃあ、変な船だわ」
夕食の後には風呂に入り、着物を予備の女中服に着替えると、湯気の立つ顔で私に案内を命じて屋敷の中をうろうろ探検した。寝る前には書斎へ入ってきて私の隣で本を読んだ。
「ねえ、あんな小さな水道のせいで、人里が水浸しになるわけないよね?」
本から顔を上げないまま、唐突に問いかけられる。私も筆を動かす手を止めず、「そりゃあ、そうよ」と、勤めて平静に返事をした。
「あんな水で洪水が起こるなら、雨が降ったら幻想郷は水没しちゃうわよ。きっと何か異変でも起きたんでしょう。待ってれば専門家が解決するわよ」
「それを言うなら、あれが異変のきっかけだったのかも……異変ならどんなことだって起こり得るんでしょう?」
「もしそうだとしても、私達が蛇口を締めに行けば良いだけよ」
「じゃあ、私達がそうしなかったら、ずっとこのままかも」
「このままの状態が続いたら、原稿の〆切が伸びるわね……」
そう言ってから私は、不意にある奇妙な空想にとらわれた。
このまま人里は水に浸されたまま、いつまでも動かない。するといずれは商人達が水に浮かぶ屋台のようなものを作り、それを曳きながら各家を回って商売をするようになる。さらに、筏に人を乗せて運ぶ移動手段が発達し、その筏の上で酒を飲む楽しみなども流行る。防水加工に優れた河童の機械は以前にも増して人気を集める。私はそんな人里の中でぼんやりして暮らしながら、また人々が本を読む暇を取り戻すのを待っている。しかしどんなに待っても原稿の〆切は先へ伸び続け、完成を迫られない文章を書き迷っているうちに、冬になる。そうしてある寒い夜に、人里は水の中で凍りついて、とうとう本当に時間を止めてしまう。その光景は、昔見た鉢の中の小めだかに似ている。
「ねえ、やっぱり思い出せない? 例のめだかが、最後にどうなったか」
「うん、だめね。氷が融けて生き返ったような気もするし、やっぱり死んじゃったような気もするし……」
私は、小鈴がめだかの結末を思い出してくれないので、もう空想の先を続けることが出来なかった。
水は翌朝になっても少しも退かず、人里の景色は朝日を受けて蜃気楼のように揺れていた。
朝食の席で小鈴は妙にはしゃいだ様子で、これから一旦鈴奈庵へ帰り、着替えと本を持ってまた屋敷へ来るつもりだと言う。何のためにわざわざ屋敷へ戻って来る必要があるのかと私が言うと、「だって、水が退かないうちは家の手伝いもほとんど無いだろうし、阿求とこなら落ちついて読書してられそうだから」と呑気すぎる答えだった。
どうせ水の中を歩けば濡れるからと、小鈴は昨日脱いだ着物にまた着替え直したが、相変わらず袂にはカステラの箱を大事に隠していた。閉じた門扉は水圧に抑えられて容易には動かず、使用人三人の協力でのろのろと開いた隙間を通って小鈴は出て行った。
小鈴が帰ってしまうと、私は朝から書斎へ入って小説の仕事を始めた。昨日に続いて快晴の天気だったが、表通りからは普段の活気あるざわめきは聞こえず、ただ涼しい静かさが辺りに漂っている。この分では〆切は伸びるに違いなかったが、こんな非常時でも小鈴だけは自分の書いたものを読みたがってくれるのだろうと思えば、私もまだ手を動かす気になれた。
真昼ごろ屋敷へ戻った小鈴は、十五冊もの本を胸に抱えて来た。その中には私に勧めてくれるためのものが三冊と、特に貴重なのでこちらへ避難させてきたというものが六冊含まれていた。しかし、そんな大事な荷物に手を塞がれていたにしては、見たところ小鈴の服にも髪にも湿っている様子がなかったので、どうやってこんなに早く戻ったのかと訊いてみると、驚いたことに昨夜私の空想した筏屋が既に商売を始めていて小鈴を運んできてくれたと言うのだった。小鈴は「おかげで明日からも濡れずに遊びに来れそう」とまた呑気なことを言い、私はこの土地の人々の異変に対する適応の早さを改めて感じた。
私達がいつまでも書斎で話しこんでいるので、そのうち気を使った女中が羊羹を出してくれると言った。小鈴は喜び、二階の部屋で外を眺めながら食べることを提案した。水を見ものにして楽しむという趣向の点では、この提案も空想の筏酒が実現したようなものだと思う。
小鈴お気に入りの空き部屋に座布団を敷き、南向きの窓を開けると、真昼の日光が室内にまともに注ぎ込み、その光線の中を細かな塵が漂い流れだした。里の往来では、小鈴の話に聞いたとおりの大きな筏を曳いて歩く人影が質屋の角に見えた。視線を転じて空を見上げると、天狗らしき娘達が忙しげに飛び回って写真を撮っている。昨日の混乱模様とは変わって、今日の人里はほとんど眠りについたように穏やかに感じられた。私と小鈴は盆に載せた冷茶と羊羹を挟んで座り、しばらく無言のままで居た。
私は、明日のこの時間のことを考えた。明日になっても水が退かなければ、小鈴はまた筏に乗って来て、そうしてまた二人ここで外を眺めながら菓子を食べるだろう。それは明後日になっても同じことだろう。しかし、いつまでもそう呑気でいては、いずれ冬が来てしまう。そうなる前に、どこかであの冷たい水をかき分けて、例の蛇口を締めに行かなければならない。私はふと、部屋に充満している湿った空気の匂いに、重い気だるさを感じる。
そのとき、白昼夢のような考えと共に宙をさまよっていた私の視線を遮り、面白そうな笑みを浮かべた小鈴がひらひらと手を振った。私は小鈴にからかわれて笑いそうになる口元をわざと大きくした溜め息で誤魔化しながら、もうそれ以上の考えを打ち切ることにした。そうして盆に手を伸ばして、結露で濡れた湯飲みから冷茶を飲んだ。
今はまだ、もうしばらくこの気だるい時間の中で、私の友達とお喋りしていたかった。
ある朝、小鈴が来た。取り次ぎに出た女中によれば、私と二人で話したい用があるということだった。きっと鈴奈庵に書き下ろしている小説の催促だろうと思ったので、すぐ奥へ通すようにと伝えたが、現れた小鈴は私の予期していた様子とは違っていた。
小鈴は客間へ入るなり用心深い目で室内を見回すと、真面目な顔をして私の方へ早足して来る。そうして私の肩から耳元へ顔を寄せて「私ね、すごいもの持ってるのよ」と思いがけないことを言い出したのだった。
私は、これと同じ言葉を昔九歳の小鈴から耳打ちされたことがあるのを覚えている。そのとき小鈴の見せてきた「すごいもの」とは、鉢の水ごと氷漬けになった悲しげな小めだかだった。
思い出した私は眉をひそめて「嫌よ、また、めだかなんて。気味が悪いんだから……」と、思わずそう言ったものの、もうめだかが凍るような季節では決してなかった。
「何よ、めだかって」
「あんたが持ってきた、あのめだかよ」
「ねえ、すごいものだったら」
私の言ったことは、小鈴には何も思い出されなかったらしい。小鈴はただ「すごいもの」を再度強調しておいて、まるで誰かに聞かれては困るといった様に相変わらず落ち着きなくきょろきょろしている。
「あのね、昨日ね、いつも本を届けに行くお客さんの家でもらったの。誰にも見られないようにして、今日持ってきたんだよ、これ」
そう言いながら小鈴は袂のふくらみへ手を入れて、筆入れに使うような木箱をのぞかせて見せた。
どうせ小鈴がもらえるくらいなものだから、大して貴重なもののはずはなかったが、わざわざ持って見せに来てくれた友達のため、私は一応「すごいもの」の正体を訊いてやることにした。
「それで何よ、すごいものって」
すると小鈴はますます耳元へ寄りついて、手のひらで作った筒を通しながら、「カステラ……」と声をひそめて言ったのだった。
私はばかばかしくなってしまった。それでも小鈴の様子があくまで真面目そうなもので、堪えて何も言わなかった。
「これ、もらったことは親にも内緒なの。人に見つからないところで二人で分けようよ。丸ごとひと箱あるの」
そう言うと小鈴は、カステラと反対の袂から畳んだ地図を出して客間の畳の上に広げた。人里の地図だった。そうして稗田屋敷の前から伸びる東西通りを指で東へ辿り、店屋通りの延長に当たる細い縦道を南へ下った。
「このあたりに丁度良い場所を見つけてあるから、今から行こう。人里の中で誰も知らない場所があるの。……これも内緒なんだからね」
私は本当のところ、そんな寂しい方へ足を踏み入れるのは気が進まなかった。カステラもわざわざ出掛けてまで食べたいとは思えなかった。ただ、「人里の中で誰も知らない場所がある」という小鈴の話には少々興味をひかれた。また、地図を見ているうちに、小鈴が感じているらしい何か子供じみた興奮、上等な菓子を人目に隠れて食べてしまおうという内緒ごっこの気分が、だんだん私にも伝わりはじめていた。私は小鈴の誘いを受けることにした。
「行くのは構わないけど、カステラはもう切ってあるの」と承諾のついでに訊ねた私の口を小鈴はあわてて覆い、「ちゃんと切ってあるよ。大きな声で言わないで」と不注意をとがめる目つきで言った。この友達の中では、カステラを二人じめするために非常な警戒心が必要なようだった。私はそれきりカステラのことは口に出さないように決めて、小鈴の後ろから稗田屋敷を出た。
南東側の裏道には不案内で、他人の記憶を頼りにして歩いていくのが心許無かったが、狭い人里の中のこと、待つほどもなく「もうすぐよ」と小鈴から声がかかった。
正午に近づき暑さを増し始めた日差しの中、古く寂びれた家々の塀を見ながら角をつづら折りに折れる。やがて狭い路地の途中で不意に塀が途切れ、十坪ほどの土地が現れた。何も無い、がらりとした空き地だった。
「人里にこんな土地が余っていたとは知らなかったわ」
「里の地図帳を見ていたときに私が見つけたのよ。隠れておやつを食べるくらいしか使い道無いけど……」
私と小鈴は奥の建物の影で短く生えた草の上に腰を下ろして、カステラの箱を開けた。瞬間、小鈴は言葉にならない猫の声のような歓喜を口に漏らし、もとより大きな丸い目をさらに大きく丸く見張った。木箱の中で品ありげな薄紙に包まれた菓子は、空の月を削り出してきたような深い黄色で、その上に焦がした砂糖色の層を敷いている。綺麗な菓子だと私も思った。
そこでふと、カステラを取る前に手を洗いたいわと思い、水筒を持ってこなかったことに気が付いた。そのことを言うと、小鈴は案外しまったという顔はせず、「阿求が忘れ物なんて可笑しいわね」と妙に嬉しそうに言って立ち上がる。そうして空き地の奥を塞ぐ土壁の方へと私を引っ張っていき、壁から突き出した奇妙な金属の取っ手のようなものを見せた。
それは覗き込めば顔が映るほどよく磨き込まれた滑らかな鉄で、下へ向かってゆるく垂れ下がるように曲がっている。小鈴がこの下へ向かう先端に触れ、つまみのようなものを探り出して回すと、そこから綺麗に透きとおった水がどっと流れ出してその手を濡らした。わっと跳び退いたのも間に合わず、跳ね返った水で私のスカートのすそが濡れた。
「どこか地下から水を引いてるみたいなの。飲んでも大丈夫そうよ」
本物の蛇口を見たのは、この時が初めてだった。何らかの経緯で外の世界から人里へ流れ着いたか、あるいは薬缶ヅルのような妖怪の変形だったのかもしれない。これにはカステラなどよりずっと驚かされたが、小鈴の様子では害は無いらしい。おそるおそる水に触れて手を洗うと、指が切れそうなほど冷たかった。
天気の良い屋外に座りながらカステラの控えめな甘さを口に入れると、心底和やかな気分がした。明るすぎる日差しは視界に白い薄衣を掛け、蛇口から流れる水の音だけが静かな一帯に滲み込んでいくようだった。小鈴は一口ごとに「ああ、カステラ美味しい」と言い、私はそのたびに頷いた。
「ところでねえ、さっき話しためだかのこと、何にも覚えてないの?」
「めだか? めだかって?」
「さっき話してたじゃない。それも覚えてない?」
「めだかのことなんて話してたかしら」
「昔私に見せてくれた、凍っためだかのことよ」
「ああ、飼ってたわね、めだか。冬の夜に外に出しっぱなしにしていたら、鉢の水ごと凍っちゃった……」
「そう、そのめだかよ。あれは結局どうなったの? 氷が溶けたとき、めだかは生き返ったのかしら?」
「覚えてないわ。そんな何年も前のこと」
二人で三切れずつのカステラを、たっぷり時間をかけて食べ、また蛇口の水で手を洗ってから空き地を後にした。このとき、私と小鈴が蛇口のつまみを締め直さずにおいてしまったのは、きっと二人とも長くその場に居て、水の音に慣れ過ぎていたせいだったのだろう。
私はカステラのお礼として小鈴を稗田屋敷まで連れて戻り、遅めの昼食を一緒にした。午後から私は書斎へ入って仕事にかかり、小鈴はその隣で書庫から持ち出した本を何冊も広げていつまでも大人しく眺め入っていた。
夕方、窓から差し込む日に赤さが滲み出し、手元の文字が読みにくくなった頃、ようやく小鈴は本から顔を上げて「もう帰らなきゃ」と言った。それならと私も筆を置いて門前まで見送ろうとしたが、書斎の戸を開けて回廊へ出たところで、待ち構えていたように女中達が私を取り囲み、「困りました」「困りました九代目」としきりに訴えてくる。それら女中達の表情には、困惑と、僅かに興奮に近い色が浮かんでいるようだった。一体何を困ることがあったのか、小鈴と二人連れられて行ってみると、階段を上り二階の使用人控え室へ入った。
そうして「ともかく見てください」と言われて窓から顔を出すと、一瞬鏡に反射されたときのような眩しい赤光が窓の外から目に映った。思わず顔を背け、ゆっくりとまた目を戻すと、稗田屋敷の門の外、格子模様に走る人里の道には一面に水が溢れ、夕日差しを受けて輝いているのだった。
はじめ私は自分の目を疑おうとした。しかし目の上に手びさしをして眉根を寄せてみても、やはり見えている事実に変わりはなかった。人里の全体が水に浸かっている。幅の広い東西通りに、大きくて透明な流体が横たわっている。地面に接している物はみんな濡れて黒くなっている。ちょうど南風に揉まれて三の通りに舞い込んできた新聞は、地面へ張り付く直前で赤い夕日差しを映した水面に受け止められ、まるで空中に静止したかのようだった。
私は驚きの中で、咄嗟に発するべき言葉に迷った。今は何を言っても場違いか滑稽になりそうで、いつまでも口が開けそうになかった。すると、私の後ろから外を見ていた小鈴は、ただ「水だ……」と独り言のような声を漏らし、それが変に私の実感を誘った。
里の人々は混乱しながらも、既に事態に対処しはじめていた。見回すと、住居の周りでは荷物を担いだ大人たちが何人も歩き回って片づけをしたり、土嚢を積み上げて水をせきとめたりしている。水のかさはどうやら脛のあたりまでで、さほど深くは無いらしい。みんな服の裾をまくりあげて、空気を跨ぎ越すようにのしのしと歩いている。稗田屋敷の邸内は塀に囲われて水の浸入を防いでいるが、門扉の隙間などからはどうしても水が入り込んでしまうらしく、ここでも使用人達が蔵から俵を担ぎだして隙間を埋めようと働いていた。
女中達の話によれば、私と小鈴が書斎に入ってから一刻ほどあとで、どこからか水が溢れて来たのだという。その変化の過程に立ち会わなかった私にとっては、今窓から見える風景は全く夢のようにしか思われない。
「ああ、うちの店が心配だわ、本は水に弱いのに……」
小鈴が途方に暮れたような声を出した。
「これ以上水位が増しそうな気配はないし、きっと大したことにはならないわよ」
「里の人みんな驚いてるね」
「水の流れはほとんどないようだけど、安全のためだから今日のところはうちに泊まっていく方が良いわ」
その場は使用人達の手前、そんな会話をして自然を装っていたものの、私も小鈴もこの洪水の出所を考えようとして、例の空き地に開き放しのまま残してきた蛇口のことを思い浮かべないわけにはいかなかった。
やがて稗田屋敷の門の内側にも重ねた俵で囲みが作られ、漏れ込んだ水はその囲いの中で小さな池のようになって食い止められた。囲いから身を乗り出して水に手を浸すと、指が切れそうなほど冷たかった。
私の勧めに応じて稗田屋敷に泊まることを決めた小鈴は、はじめしきりに鈴奈庵を心配して帰りたがっていたものの、次第に里の動きが静まり、夜になっても水位に変化が無いことを見ると、一転して旅行客の気分で楽しそうにしだした。
空き部屋の中から寝たい所を選ぶように促すと、さんざん部屋を見比べて悩んでから二階の狭い一室を選んだ。
「ここは、窓の景色が一番広いし、海沿いの宿に来たみたいじゃない」
そう言って小鈴は窓辺に寄り立ち、月明かりが幽かに照らす広い水面を遠く見ていた。
「海なんて見たことないでしょ。こんなに海から近いと、高波が来たときここも濡れちゃうんじゃないかしら」
「だからほら、そうなってるじゃない」
「それよりも、船に乗ってると思った方が良いと思うわ。この屋敷も向こうの家も、全部船なのよ」
「でもそれじゃあ、変な船だわ」
夕食の後には風呂に入り、着物を予備の女中服に着替えると、湯気の立つ顔で私に案内を命じて屋敷の中をうろうろ探検した。寝る前には書斎へ入ってきて私の隣で本を読んだ。
「ねえ、あんな小さな水道のせいで、人里が水浸しになるわけないよね?」
本から顔を上げないまま、唐突に問いかけられる。私も筆を動かす手を止めず、「そりゃあ、そうよ」と、勤めて平静に返事をした。
「あんな水で洪水が起こるなら、雨が降ったら幻想郷は水没しちゃうわよ。きっと何か異変でも起きたんでしょう。待ってれば専門家が解決するわよ」
「それを言うなら、あれが異変のきっかけだったのかも……異変ならどんなことだって起こり得るんでしょう?」
「もしそうだとしても、私達が蛇口を締めに行けば良いだけよ」
「じゃあ、私達がそうしなかったら、ずっとこのままかも」
「このままの状態が続いたら、原稿の〆切が伸びるわね……」
そう言ってから私は、不意にある奇妙な空想にとらわれた。
このまま人里は水に浸されたまま、いつまでも動かない。するといずれは商人達が水に浮かぶ屋台のようなものを作り、それを曳きながら各家を回って商売をするようになる。さらに、筏に人を乗せて運ぶ移動手段が発達し、その筏の上で酒を飲む楽しみなども流行る。防水加工に優れた河童の機械は以前にも増して人気を集める。私はそんな人里の中でぼんやりして暮らしながら、また人々が本を読む暇を取り戻すのを待っている。しかしどんなに待っても原稿の〆切は先へ伸び続け、完成を迫られない文章を書き迷っているうちに、冬になる。そうしてある寒い夜に、人里は水の中で凍りついて、とうとう本当に時間を止めてしまう。その光景は、昔見た鉢の中の小めだかに似ている。
「ねえ、やっぱり思い出せない? 例のめだかが、最後にどうなったか」
「うん、だめね。氷が融けて生き返ったような気もするし、やっぱり死んじゃったような気もするし……」
私は、小鈴がめだかの結末を思い出してくれないので、もう空想の先を続けることが出来なかった。
水は翌朝になっても少しも退かず、人里の景色は朝日を受けて蜃気楼のように揺れていた。
朝食の席で小鈴は妙にはしゃいだ様子で、これから一旦鈴奈庵へ帰り、着替えと本を持ってまた屋敷へ来るつもりだと言う。何のためにわざわざ屋敷へ戻って来る必要があるのかと私が言うと、「だって、水が退かないうちは家の手伝いもほとんど無いだろうし、阿求とこなら落ちついて読書してられそうだから」と呑気すぎる答えだった。
どうせ水の中を歩けば濡れるからと、小鈴は昨日脱いだ着物にまた着替え直したが、相変わらず袂にはカステラの箱を大事に隠していた。閉じた門扉は水圧に抑えられて容易には動かず、使用人三人の協力でのろのろと開いた隙間を通って小鈴は出て行った。
小鈴が帰ってしまうと、私は朝から書斎へ入って小説の仕事を始めた。昨日に続いて快晴の天気だったが、表通りからは普段の活気あるざわめきは聞こえず、ただ涼しい静かさが辺りに漂っている。この分では〆切は伸びるに違いなかったが、こんな非常時でも小鈴だけは自分の書いたものを読みたがってくれるのだろうと思えば、私もまだ手を動かす気になれた。
真昼ごろ屋敷へ戻った小鈴は、十五冊もの本を胸に抱えて来た。その中には私に勧めてくれるためのものが三冊と、特に貴重なのでこちらへ避難させてきたというものが六冊含まれていた。しかし、そんな大事な荷物に手を塞がれていたにしては、見たところ小鈴の服にも髪にも湿っている様子がなかったので、どうやってこんなに早く戻ったのかと訊いてみると、驚いたことに昨夜私の空想した筏屋が既に商売を始めていて小鈴を運んできてくれたと言うのだった。小鈴は「おかげで明日からも濡れずに遊びに来れそう」とまた呑気なことを言い、私はこの土地の人々の異変に対する適応の早さを改めて感じた。
私達がいつまでも書斎で話しこんでいるので、そのうち気を使った女中が羊羹を出してくれると言った。小鈴は喜び、二階の部屋で外を眺めながら食べることを提案した。水を見ものにして楽しむという趣向の点では、この提案も空想の筏酒が実現したようなものだと思う。
小鈴お気に入りの空き部屋に座布団を敷き、南向きの窓を開けると、真昼の日光が室内にまともに注ぎ込み、その光線の中を細かな塵が漂い流れだした。里の往来では、小鈴の話に聞いたとおりの大きな筏を曳いて歩く人影が質屋の角に見えた。視線を転じて空を見上げると、天狗らしき娘達が忙しげに飛び回って写真を撮っている。昨日の混乱模様とは変わって、今日の人里はほとんど眠りについたように穏やかに感じられた。私と小鈴は盆に載せた冷茶と羊羹を挟んで座り、しばらく無言のままで居た。
私は、明日のこの時間のことを考えた。明日になっても水が退かなければ、小鈴はまた筏に乗って来て、そうしてまた二人ここで外を眺めながら菓子を食べるだろう。それは明後日になっても同じことだろう。しかし、いつまでもそう呑気でいては、いずれ冬が来てしまう。そうなる前に、どこかであの冷たい水をかき分けて、例の蛇口を締めに行かなければならない。私はふと、部屋に充満している湿った空気の匂いに、重い気だるさを感じる。
そのとき、白昼夢のような考えと共に宙をさまよっていた私の視線を遮り、面白そうな笑みを浮かべた小鈴がひらひらと手を振った。私は小鈴にからかわれて笑いそうになる口元をわざと大きくした溜め息で誤魔化しながら、もうそれ以上の考えを打ち切ることにした。そうして盆に手を伸ばして、結露で濡れた湯飲みから冷茶を飲んだ。
今はまだ、もうしばらくこの気だるい時間の中で、私の友達とお喋りしていたかった。
海を見たことのない、見ることもないであろう小鈴の反応がとても印象的
一方で、子どもの頃誰の心の中にもあるようなわくわくする秘密の場所の楽しさを小鈴と一緒に味わいながらも、異変をそのまま放置すると最後にはかえって全部おじゃんになることを知る大人の視点をもった阿求
矛盾する心情がとてもあきゅすずでした
今はただこの異変を楽しみたいという思いと、いつか動かなければ永遠に静止してしまうというチキンレースのような葛藤が、阿求にはあるのかなと思いました。
不思議が面白い貴兄の作品が好きです。
作中の立ち振る舞いだけで阿求と小鈴の関係のとても深い部分まで表現されているのが凄い。
また、あきゅすずだと文体と合いますね。
ふたりの友情と情景が目に浮かぶようでとても良かったです。
子供の様に悪気が全くなくて人里を水びだしにしてしまう辺りは、
幻想郷に存在する闇の部分を垣間見た様な気がしました。
そんな澄み切った空気と対照的な、二人のあいだのゆるんだ空気が読後に残りました。
カステラに興奮する小鈴ちゃんがたまらなくかわいい