01
誰もがその別れを悲しんだ。きっと一番悲しかったのは、お姉さまだ。
× × ×
十六夜咲夜は、お姉さまのトクベツで、館のみんなから頼りにされていたメイド長だ。けれどそんな咲夜も、もういない。お姉さまを置いて、死んでしまったのだ。
あの日からお姉さまは咲夜の部屋で塞ぎこんでいた。まったく食事もとらない。
お姉さまは、目を離すと、自傷や自殺未遂を繰り返すので、最近はパチェが魔法で意識をまどろんだ状態にさせている。
咲夜がいない紅魔館は、時間が止まったようだ。調度品だって満足に磨かれていないし、メイド長に戻った美鈴は相も変わらず不器用だし。
そんなことより、お姉さまはどうしているだろう。自然に足はお姉さまの部屋に向かっていた。
「あ、そうだ。お姉さまに紅茶を淹れてあげようっ」
久しぶりにいいアイデアが浮かんだ。思い立ったが吉日、私は厨房を覗いて美鈴にお茶菓子を貰い、自分の部屋から茶葉とティーセットをトレイに乗せて持ち出した。
空いた左拳でノックをして、入るよーと少し小さく呟いた。
ドアを開け部屋をぐるりと見渡すと、天蓋付きの見慣れたベッドが目に入った。そこにお姉さまは横たわっている。起きているのだろうか。ベッド横の椅子にはパチェが腰かけていた。私の声に振り向いた彼女は、目の下にクマができ、心なしか血色がよくないように思えた。誰に聞いても、憔悴していると答えるだろう。
ベットメイキングもされていない(する者はいなくなってしまった)ベットで、お姉さまは何処を見つめるでもなく、時折瞬きをして、それから静かに涙を流していた。その雫の透明さが、まるでお姉さまの咲夜への思いのようにも思えた。
私はあえて明るく務める。
「お姉さま、紅茶淹れてきたよ。アップルパイもあるから食べよ」
聞こえているのかも分からない。
「ねえレミィ、分かる? 可愛い妹がティータイムのお誘いに来てるのよ」
パチェはお姉さまの手を取って、肩を震わせていた。
お姉さまは咲夜が死んでからというもの食事を摂ろうとしない。吸血鬼の私たちは数ヶ月食事をしなくても平気だけれど、何も食べなければ体の脂肪は削げる。お姉さまの今の体は骨と皮のようなものだ。
「お姉さま、つらいね」
そう心に思ったことを、初めて声に出した。私が踏み入ってはいけない場所のように思っていたから。それほどお姉さまと咲夜は近かったのだ。けれど、私だってもう涙がこぼれそうだ。聴かせてほしい、お姉さまの言葉を。
「お姉さま、たくさんがんばったよ」
「……フラン」
それは数ヶ月ぶりに聞いたお姉さまの声だった。しゃがれていて、聞きやすい音ではなかったけれど、それでもお姉さまだった。パチェはハンカチで目元を押さえている。
「私は、咲夜と出会ったことを……」
お姉さまは、ぽろぽろと涙を零しながらとつとつと堰を切ったように話し出した。
「後悔しているなんて、思いたくないのに」
咲夜と初めて会った夜のこと、一緒に時を止めた空を飛んだこと、星の海を渡る列車に乗ったこと、毎日咲夜が淹れてくれた紅茶を飲んでいたこと、よく咲夜はチョウセンアサガオを煎じたお茶を淹れてくれたこと、紅霧異変を共に起こしたこと、月に一緒に行ったこと、みんなでパーティーをしたこと、それら全ては咲夜がいなければ出来なかったということ。
そして咲夜は、自分を置いて死んでしまったということ。
「人間なんか、従者にするんじゃなかったな」
そう言って、お姉さまは少し困ったように笑った。
私たちはゆっくり相槌を打ち、その夜じゅうお姉さまの紡ぐ言葉を聞いた。
× × ×
お姉さまはあの夜から少しずつ元気になっていった。一緒に紅茶を飲むことも叶った。パチェがかけている魔法も程度の低いものになってきたし、少しずつだけれど前進している。
時折ひどく不安定になって自分の体を掻き毟ってしまい血だらけになってしまうときは、私がそばについて、ずっと抱きしめるのだ。そうすると、次第に落ち着いてくる。
今日は図書館でお茶会を開いていた。お姉さまが本を選びに行くと、パチェがこっそりと私に囁いた。
「治りかけが一番危ないの」
すぐにお目当ての本が見つかったのか、お姉さまは嬉しそうにしている。
「目を離さないで」
パチェはお姉さまのことを心配している。パチェだけじゃない。美鈴も、小悪魔も、私も、みんながお姉さまのことを気にかけている。
きっと、咲夜だって。
× × ×
珍しく、お姉さまが外に出たいと言った。それを聞いたときはどういった顔をしたらいいかわからず、けれど嬉しかったので頷いた。
久しぶりのお出かけだから、服を自分で選びたい、とお姉さまは言う。着替えを見られたくないから、と私は部屋の外へ追い出されてしまった。部屋に危険なものはおいていないし、少しの間なら大丈夫だろう。
しかしお姉さまはなかなか出てこない。
「お姉さま? 入るよ」
そう声をかけてドアノブを握る。扉にはもちろん鍵なんてかかっていない。私は油断していた。
部屋を見回すと、ベットの横にお姉さまが座っていた。俯いているので表情は分からないが、唾液が喉をかすめるような音が聞こえてきた。
「お姉さま? なにしてるの?」
なんだか嫌な予感がして、ベットに回り込んだ。
「ッ!!!!」
死んだ心地がするというのはこういうことを指すのだろうか。
「お姉さまぁ!!!!!」
お姉さまはベッドの手すりに紐を括り、自らの首を吊っていた。私は急いでお姉さまの首を絞めている縄を千切った。
「フラン……」
するとお姉さまの掠れた声が聞こえた。紅い瞳は揺らいでいる。
「私を殺してくれないか」
私は全てがどうでもよくなるくらいにお姉さまを守りたいと思っているのに、それが叶わない。お姉さまをこんなにも苦しめ、独り占めする咲夜が憎い。憎くてたまらない。
「お姉さまの、馬鹿っ!!!!」
誰も悪くないのに、理不尽な怒りが私を支配する。私は勢いに任せて部屋を飛び出した。お姉さまを、一人残して。
× × ×
「フランお嬢様」
私が泣き疲れてソファーにもたれかかっていると、部屋の扉が叩かれた。美鈴の声だ。
「入っていいよ」
そう声をかけると遠慮がちにドアが開いた。
「あの、フランお嬢様……レミリアお嬢様はどちらでしょうか?」
さぁっと血の気が引いた。お姉さまが、いない。美鈴はお姉さまが私と一緒にいると思っていたのだ。
自己嫌悪でどうにかなりそうになる。私がお姉さまを突き放してしまったから、お姉さまはきっとすごく傷ついたのだ。
弾け飛ぶように館を飛び出した。それから気づく、雨が降っていることに。吸血鬼を殺す酸が降り注いでいた。ぱつんと雫が滴り、服から出ている肌が焼ける。私ですらこんなに痛いのに、弱りきっているお姉さまでは本当に命を落としかねない。
「フランお嬢様!」
雨音の遠くで美鈴の叫ぶ声が聞こえた。
× × ×
がむしゃらに飛び回った。皮膚はまるでヒルにでも吸われたかのように血だらけだ。
湖を越え、魔法の森の上を飛んでいる時だった。木々の隙間からはっきり見えた薄青色の髪の毛。血液と泥で汚れた帽子。弱弱しく畳まれている羽。
「お姉さま!!!」
私はそこに降り立って倒れているお姉さまを抱き寄せた。
「さく、や……?」
目を瞑ったままお姉さまが呟く。私のことを咲夜だと思っているようだ。
「さくや、きてくれたんだね……」
頬に涙が伝う。私はただこの人を抱きしめることしかできない。あまりにも歯がゆい。私はきつく唇を噛む。
私はお姉さまをゆっくり抱えて館への道を帰った。心の痛みも体の痛みも感じないようにして。
美鈴は私たちを探し回っていたらしく雨に濡れていた。玄関に倒れこむように帰ってきた私とお姉さまをパチェ、美鈴、小悪魔が囲む。パチェがすぐに治癒魔法をかけようとしたとき、パチェの顔が悲壮に満ちたものとなった。
「こんなのって、あんまりよ……」
小さくパチェが悲しそうに呟く。何かを察した美鈴が、私の目線まで屈み、ゆっくりと口を開いた。
「レミリアお嬢様は、視力と聴力を失っておられます」
それは、もう私がフランドールとして認知されないということなのだろうか。
パチェは泣いていた。子供のように自分だけを責めて泣いていた。
「私が悪いの……」
枯れたはずの涙がこみ上げてくる。
「今後のことを、考えましょう」
黙っていた美鈴が口を開いた。とても、重い一言だった。小悪魔はパチェの背中を何も言わずにさすっていた。
× × ×
「あく、あ」
さくや、そう言いたいのだろう。お姉さまは私のことを咲夜だと思っている。
「う、うきたよ」
お姉さまはいつもそう言う。好きだよ、って言ってくれる。けれど、それは私に対する言葉じゃない。私は何も出来ずにただお姉さまの隣にいる。
「お姉さま」
この声は届かない。あまりにもその現実が辛くてお姉さまを抱きしめた。華奢な腕が折れてしまうかというほどに。
「うぅ、う」
お姉さまがうなる。
「ごめんね、痛いね」
そう言って腕を離す。
「う、ぅ。あ、くあ」
そうくぐもった声で"私"を呼ぶお姉さま。涙がこぼれそうになるのを堪えていると、ぽん、と頭に優しい手が置かれた。
「おねえ、さま……?」
お姉さまが私の髪を撫でてくれている。ああ、やっぱりお姉さまはお姉さまなのか。こんなに変わってしまっても、お姉さまなのだ。
咲夜の代わりでもいい。お姉さまのそばにいたい。
ただただ虚しくて、苦しい毎日でも、お姉さまが戻ってくるまで私はこの人の隣にいよう。
「だいすきだよ、お姉さま」
いつかは心の傷だって癒えるはずだ。お姉さまだって立ち直る。それまで私は"咲夜"でいよう……。
02
あれから数ヶ月が経った。
美鈴は仕事を続けつつ独学でお姉さまの救い方を学んでいる。パチェと小悪魔は図書館中の文献からお姉さまと同じ症状が出ている例を調べていた。
私は――。
× × ×
「あくあ」
もうお馴染みのお姉さまの"咲夜"を呼ぶ声。
「ここにいるよ」
この声はお姉さまに届いていない。私はくせっ毛で薄紫色のその髪を優しく撫でた。まるで昔咲夜がお姉さまにしていたように。
「う、きた、よ」
好きだよ、そうお姉さまはにこにこと花が綻ぶように笑う。耳が聞こえず、自分の発音すらもう分からない今、もうお姉さまは正しく言葉を発せない。
「あくあ」
それでも痛いほどに伝わるお姉さまの咲夜への想い。耳をふさぎたいほどに真っ直ぐな愛情表現。
「うん、好きだよ。……離れていても、何処にいたって、咲夜は一緒だよ」
聞こえていないはずなのに、お姉さまはにっこり笑った。
× × ×
あれから私たち姉妹は同じ部屋で寝食を共にしている。いつ、何があっても、今度こそお姉さまを守れるように。
「今日はパチェのところで検査だよ」
そう声をかけると、お姉さまはきゅっと小さな手を握った。何か悲しいことでも思い出したのだろうか。
「大丈夫だよ」
優しく手を取って、私たちは歩き出した。
「フラン」
検査が終わると、パチェが泣きそうな顔で迫ってきた。久しぶりに彼女に会ったけれど、かなりやつれているように感じた。
「レミィになにか変わりはない?」
「……特には」
そう呟くとなんだかこの数ヶ月が虚しく思えてきた。
「あのね、レミィはもう」
だからパチェがその後に言ったことはひどく私を困惑させた。てっきりお姉さまはもう治らないとか、そんなようなことが分かってしまったのかなって思っていたから。
「レミィ、目も耳も、正常なの」
今回の検査で、確実にそうであると、分かってしまったのだという。では。
では、今のレミリア・スカーレットはいったい、何だというのだろう。
「レミィが何を思っているのか私には分からないけれど……。ごめんなさい。あなたに言うのが一番辛いけれど、あなたにしか言えなかったの」
そう言ってパチェは書斎に消えて行った。泣いていたのかもしれない。
× × ×
パチェからの告白を受けた後、私たちは部屋のベッドで横たわっていた。
「お姉さま」
聞こえているの、見えているの、フランドールだよ。
「ごめんなさい」
それは久しぶりに聞いたお姉さまのきれいな言葉だった。
「辛くて、フランに縋ってしまったの。最初は本当に咲夜が来てくれたのかと思っていた。でも、抱きしめてもらう背丈も、私を撫でてくれる手も、香りも、咲夜のものではなかった」
お姉さまは今までため込んでいた気持ちを吐露し続けた。
「途中から気づいてはいたの。一ヶ月くらい前、私の視聴覚がまともに戻って、その時、私の隣でフランが眠っていたの。それで全部分かってしまった。いつ言おうかと、ずっと悩んでいた」
お姉さまはなんてひどいのだろう。ずっと私に演技をしていたのだ。
「私の隣にいてくれたのは、咲夜じゃなくて、フランだったのね」
涙をぽろぽろ零しながらそんなことを言われたら、私だって泣きたくなる。
また「フラン」としてお姉さまに会えたのだから。
× × ×
03
お姉さまはそれから、少し明るくなった。部屋の隅から隅まで引かれていた遮光カーテンをなくし、三食きちんと食べるようになり、お風呂にも入っている。
それでもお姉さまは少し不安定なところがある。発作を起こしては自傷行為に走り、咲夜の部屋で涙を流す。
衝動が私を襲う。心のどこかで咲夜を恨んでいる私がいる。
お姉さまのなかにいる咲夜を壊してしまおうか。そんな暴力的な考えが脳裏によぎる。そうすれば、きっとお姉さまはまた昔みたいに笑えるはずだ。
「どうすればいいのかな」
目をゆっくり握りつぶしてゆく。咲夜との思い出、咲夜の香り、咲夜の存在。全てを消そう。そうすれば、お姉さまは辛いことから開放されるはずなのだ。そして私も。
ごめんね咲夜、
ごめんね、お姉さま。
「私の運命は、そう簡単には変わらないのよ。たとえ、あなたの力であっても」
手のひらに力を入れて、目を探していると部屋の扉が開かれた。
「私の中の咲夜は、永遠に死なない。それを教えてくれたのは、フラン、あなたでしょう」
「あ、ぉ、おねえ、さま」
「あなたに守られて、あなたを守ることを思い出したのよ」
強くて優しいお姉さま。大好きなお姉さま。
「おかえりなさい! お姉さま!」
扉の向こうにはパチェ、美鈴、小悪魔がおり、溢れんばかりの喜びを込めてお互い抱き合っている。
「うん、ただいま」
お姉さまは少し照れくさそうに微笑んだ。
鬱に終わりはないけれど、きっとこれからも苦しいことがあると思うけれど、それでもお姉さまには私が、みんながいる。
これが紅魔館なりのハッピーエンド、どこかできっと、咲夜も見ているよね。
誰もがその別れを悲しんだ。きっと一番悲しかったのは、お姉さまだ。
× × ×
十六夜咲夜は、お姉さまのトクベツで、館のみんなから頼りにされていたメイド長だ。けれどそんな咲夜も、もういない。お姉さまを置いて、死んでしまったのだ。
あの日からお姉さまは咲夜の部屋で塞ぎこんでいた。まったく食事もとらない。
お姉さまは、目を離すと、自傷や自殺未遂を繰り返すので、最近はパチェが魔法で意識をまどろんだ状態にさせている。
咲夜がいない紅魔館は、時間が止まったようだ。調度品だって満足に磨かれていないし、メイド長に戻った美鈴は相も変わらず不器用だし。
そんなことより、お姉さまはどうしているだろう。自然に足はお姉さまの部屋に向かっていた。
「あ、そうだ。お姉さまに紅茶を淹れてあげようっ」
久しぶりにいいアイデアが浮かんだ。思い立ったが吉日、私は厨房を覗いて美鈴にお茶菓子を貰い、自分の部屋から茶葉とティーセットをトレイに乗せて持ち出した。
空いた左拳でノックをして、入るよーと少し小さく呟いた。
ドアを開け部屋をぐるりと見渡すと、天蓋付きの見慣れたベッドが目に入った。そこにお姉さまは横たわっている。起きているのだろうか。ベッド横の椅子にはパチェが腰かけていた。私の声に振り向いた彼女は、目の下にクマができ、心なしか血色がよくないように思えた。誰に聞いても、憔悴していると答えるだろう。
ベットメイキングもされていない(する者はいなくなってしまった)ベットで、お姉さまは何処を見つめるでもなく、時折瞬きをして、それから静かに涙を流していた。その雫の透明さが、まるでお姉さまの咲夜への思いのようにも思えた。
私はあえて明るく務める。
「お姉さま、紅茶淹れてきたよ。アップルパイもあるから食べよ」
聞こえているのかも分からない。
「ねえレミィ、分かる? 可愛い妹がティータイムのお誘いに来てるのよ」
パチェはお姉さまの手を取って、肩を震わせていた。
お姉さまは咲夜が死んでからというもの食事を摂ろうとしない。吸血鬼の私たちは数ヶ月食事をしなくても平気だけれど、何も食べなければ体の脂肪は削げる。お姉さまの今の体は骨と皮のようなものだ。
「お姉さま、つらいね」
そう心に思ったことを、初めて声に出した。私が踏み入ってはいけない場所のように思っていたから。それほどお姉さまと咲夜は近かったのだ。けれど、私だってもう涙がこぼれそうだ。聴かせてほしい、お姉さまの言葉を。
「お姉さま、たくさんがんばったよ」
「……フラン」
それは数ヶ月ぶりに聞いたお姉さまの声だった。しゃがれていて、聞きやすい音ではなかったけれど、それでもお姉さまだった。パチェはハンカチで目元を押さえている。
「私は、咲夜と出会ったことを……」
お姉さまは、ぽろぽろと涙を零しながらとつとつと堰を切ったように話し出した。
「後悔しているなんて、思いたくないのに」
咲夜と初めて会った夜のこと、一緒に時を止めた空を飛んだこと、星の海を渡る列車に乗ったこと、毎日咲夜が淹れてくれた紅茶を飲んでいたこと、よく咲夜はチョウセンアサガオを煎じたお茶を淹れてくれたこと、紅霧異変を共に起こしたこと、月に一緒に行ったこと、みんなでパーティーをしたこと、それら全ては咲夜がいなければ出来なかったということ。
そして咲夜は、自分を置いて死んでしまったということ。
「人間なんか、従者にするんじゃなかったな」
そう言って、お姉さまは少し困ったように笑った。
私たちはゆっくり相槌を打ち、その夜じゅうお姉さまの紡ぐ言葉を聞いた。
× × ×
お姉さまはあの夜から少しずつ元気になっていった。一緒に紅茶を飲むことも叶った。パチェがかけている魔法も程度の低いものになってきたし、少しずつだけれど前進している。
時折ひどく不安定になって自分の体を掻き毟ってしまい血だらけになってしまうときは、私がそばについて、ずっと抱きしめるのだ。そうすると、次第に落ち着いてくる。
今日は図書館でお茶会を開いていた。お姉さまが本を選びに行くと、パチェがこっそりと私に囁いた。
「治りかけが一番危ないの」
すぐにお目当ての本が見つかったのか、お姉さまは嬉しそうにしている。
「目を離さないで」
パチェはお姉さまのことを心配している。パチェだけじゃない。美鈴も、小悪魔も、私も、みんながお姉さまのことを気にかけている。
きっと、咲夜だって。
× × ×
珍しく、お姉さまが外に出たいと言った。それを聞いたときはどういった顔をしたらいいかわからず、けれど嬉しかったので頷いた。
久しぶりのお出かけだから、服を自分で選びたい、とお姉さまは言う。着替えを見られたくないから、と私は部屋の外へ追い出されてしまった。部屋に危険なものはおいていないし、少しの間なら大丈夫だろう。
しかしお姉さまはなかなか出てこない。
「お姉さま? 入るよ」
そう声をかけてドアノブを握る。扉にはもちろん鍵なんてかかっていない。私は油断していた。
部屋を見回すと、ベットの横にお姉さまが座っていた。俯いているので表情は分からないが、唾液が喉をかすめるような音が聞こえてきた。
「お姉さま? なにしてるの?」
なんだか嫌な予感がして、ベットに回り込んだ。
「ッ!!!!」
死んだ心地がするというのはこういうことを指すのだろうか。
「お姉さまぁ!!!!!」
お姉さまはベッドの手すりに紐を括り、自らの首を吊っていた。私は急いでお姉さまの首を絞めている縄を千切った。
「フラン……」
するとお姉さまの掠れた声が聞こえた。紅い瞳は揺らいでいる。
「私を殺してくれないか」
私は全てがどうでもよくなるくらいにお姉さまを守りたいと思っているのに、それが叶わない。お姉さまをこんなにも苦しめ、独り占めする咲夜が憎い。憎くてたまらない。
「お姉さまの、馬鹿っ!!!!」
誰も悪くないのに、理不尽な怒りが私を支配する。私は勢いに任せて部屋を飛び出した。お姉さまを、一人残して。
× × ×
「フランお嬢様」
私が泣き疲れてソファーにもたれかかっていると、部屋の扉が叩かれた。美鈴の声だ。
「入っていいよ」
そう声をかけると遠慮がちにドアが開いた。
「あの、フランお嬢様……レミリアお嬢様はどちらでしょうか?」
さぁっと血の気が引いた。お姉さまが、いない。美鈴はお姉さまが私と一緒にいると思っていたのだ。
自己嫌悪でどうにかなりそうになる。私がお姉さまを突き放してしまったから、お姉さまはきっとすごく傷ついたのだ。
弾け飛ぶように館を飛び出した。それから気づく、雨が降っていることに。吸血鬼を殺す酸が降り注いでいた。ぱつんと雫が滴り、服から出ている肌が焼ける。私ですらこんなに痛いのに、弱りきっているお姉さまでは本当に命を落としかねない。
「フランお嬢様!」
雨音の遠くで美鈴の叫ぶ声が聞こえた。
× × ×
がむしゃらに飛び回った。皮膚はまるでヒルにでも吸われたかのように血だらけだ。
湖を越え、魔法の森の上を飛んでいる時だった。木々の隙間からはっきり見えた薄青色の髪の毛。血液と泥で汚れた帽子。弱弱しく畳まれている羽。
「お姉さま!!!」
私はそこに降り立って倒れているお姉さまを抱き寄せた。
「さく、や……?」
目を瞑ったままお姉さまが呟く。私のことを咲夜だと思っているようだ。
「さくや、きてくれたんだね……」
頬に涙が伝う。私はただこの人を抱きしめることしかできない。あまりにも歯がゆい。私はきつく唇を噛む。
私はお姉さまをゆっくり抱えて館への道を帰った。心の痛みも体の痛みも感じないようにして。
美鈴は私たちを探し回っていたらしく雨に濡れていた。玄関に倒れこむように帰ってきた私とお姉さまをパチェ、美鈴、小悪魔が囲む。パチェがすぐに治癒魔法をかけようとしたとき、パチェの顔が悲壮に満ちたものとなった。
「こんなのって、あんまりよ……」
小さくパチェが悲しそうに呟く。何かを察した美鈴が、私の目線まで屈み、ゆっくりと口を開いた。
「レミリアお嬢様は、視力と聴力を失っておられます」
それは、もう私がフランドールとして認知されないということなのだろうか。
パチェは泣いていた。子供のように自分だけを責めて泣いていた。
「私が悪いの……」
枯れたはずの涙がこみ上げてくる。
「今後のことを、考えましょう」
黙っていた美鈴が口を開いた。とても、重い一言だった。小悪魔はパチェの背中を何も言わずにさすっていた。
× × ×
「あく、あ」
さくや、そう言いたいのだろう。お姉さまは私のことを咲夜だと思っている。
「う、うきたよ」
お姉さまはいつもそう言う。好きだよ、って言ってくれる。けれど、それは私に対する言葉じゃない。私は何も出来ずにただお姉さまの隣にいる。
「お姉さま」
この声は届かない。あまりにもその現実が辛くてお姉さまを抱きしめた。華奢な腕が折れてしまうかというほどに。
「うぅ、う」
お姉さまがうなる。
「ごめんね、痛いね」
そう言って腕を離す。
「う、ぅ。あ、くあ」
そうくぐもった声で"私"を呼ぶお姉さま。涙がこぼれそうになるのを堪えていると、ぽん、と頭に優しい手が置かれた。
「おねえ、さま……?」
お姉さまが私の髪を撫でてくれている。ああ、やっぱりお姉さまはお姉さまなのか。こんなに変わってしまっても、お姉さまなのだ。
咲夜の代わりでもいい。お姉さまのそばにいたい。
ただただ虚しくて、苦しい毎日でも、お姉さまが戻ってくるまで私はこの人の隣にいよう。
「だいすきだよ、お姉さま」
いつかは心の傷だって癒えるはずだ。お姉さまだって立ち直る。それまで私は"咲夜"でいよう……。
02
あれから数ヶ月が経った。
美鈴は仕事を続けつつ独学でお姉さまの救い方を学んでいる。パチェと小悪魔は図書館中の文献からお姉さまと同じ症状が出ている例を調べていた。
私は――。
× × ×
「あくあ」
もうお馴染みのお姉さまの"咲夜"を呼ぶ声。
「ここにいるよ」
この声はお姉さまに届いていない。私はくせっ毛で薄紫色のその髪を優しく撫でた。まるで昔咲夜がお姉さまにしていたように。
「う、きた、よ」
好きだよ、そうお姉さまはにこにこと花が綻ぶように笑う。耳が聞こえず、自分の発音すらもう分からない今、もうお姉さまは正しく言葉を発せない。
「あくあ」
それでも痛いほどに伝わるお姉さまの咲夜への想い。耳をふさぎたいほどに真っ直ぐな愛情表現。
「うん、好きだよ。……離れていても、何処にいたって、咲夜は一緒だよ」
聞こえていないはずなのに、お姉さまはにっこり笑った。
× × ×
あれから私たち姉妹は同じ部屋で寝食を共にしている。いつ、何があっても、今度こそお姉さまを守れるように。
「今日はパチェのところで検査だよ」
そう声をかけると、お姉さまはきゅっと小さな手を握った。何か悲しいことでも思い出したのだろうか。
「大丈夫だよ」
優しく手を取って、私たちは歩き出した。
「フラン」
検査が終わると、パチェが泣きそうな顔で迫ってきた。久しぶりに彼女に会ったけれど、かなりやつれているように感じた。
「レミィになにか変わりはない?」
「……特には」
そう呟くとなんだかこの数ヶ月が虚しく思えてきた。
「あのね、レミィはもう」
だからパチェがその後に言ったことはひどく私を困惑させた。てっきりお姉さまはもう治らないとか、そんなようなことが分かってしまったのかなって思っていたから。
「レミィ、目も耳も、正常なの」
今回の検査で、確実にそうであると、分かってしまったのだという。では。
では、今のレミリア・スカーレットはいったい、何だというのだろう。
「レミィが何を思っているのか私には分からないけれど……。ごめんなさい。あなたに言うのが一番辛いけれど、あなたにしか言えなかったの」
そう言ってパチェは書斎に消えて行った。泣いていたのかもしれない。
× × ×
パチェからの告白を受けた後、私たちは部屋のベッドで横たわっていた。
「お姉さま」
聞こえているの、見えているの、フランドールだよ。
「ごめんなさい」
それは久しぶりに聞いたお姉さまのきれいな言葉だった。
「辛くて、フランに縋ってしまったの。最初は本当に咲夜が来てくれたのかと思っていた。でも、抱きしめてもらう背丈も、私を撫でてくれる手も、香りも、咲夜のものではなかった」
お姉さまは今までため込んでいた気持ちを吐露し続けた。
「途中から気づいてはいたの。一ヶ月くらい前、私の視聴覚がまともに戻って、その時、私の隣でフランが眠っていたの。それで全部分かってしまった。いつ言おうかと、ずっと悩んでいた」
お姉さまはなんてひどいのだろう。ずっと私に演技をしていたのだ。
「私の隣にいてくれたのは、咲夜じゃなくて、フランだったのね」
涙をぽろぽろ零しながらそんなことを言われたら、私だって泣きたくなる。
また「フラン」としてお姉さまに会えたのだから。
× × ×
03
お姉さまはそれから、少し明るくなった。部屋の隅から隅まで引かれていた遮光カーテンをなくし、三食きちんと食べるようになり、お風呂にも入っている。
それでもお姉さまは少し不安定なところがある。発作を起こしては自傷行為に走り、咲夜の部屋で涙を流す。
衝動が私を襲う。心のどこかで咲夜を恨んでいる私がいる。
お姉さまのなかにいる咲夜を壊してしまおうか。そんな暴力的な考えが脳裏によぎる。そうすれば、きっとお姉さまはまた昔みたいに笑えるはずだ。
「どうすればいいのかな」
目をゆっくり握りつぶしてゆく。咲夜との思い出、咲夜の香り、咲夜の存在。全てを消そう。そうすれば、お姉さまは辛いことから開放されるはずなのだ。そして私も。
ごめんね咲夜、
ごめんね、お姉さま。
「私の運命は、そう簡単には変わらないのよ。たとえ、あなたの力であっても」
手のひらに力を入れて、目を探していると部屋の扉が開かれた。
「私の中の咲夜は、永遠に死なない。それを教えてくれたのは、フラン、あなたでしょう」
「あ、ぉ、おねえ、さま」
「あなたに守られて、あなたを守ることを思い出したのよ」
強くて優しいお姉さま。大好きなお姉さま。
「おかえりなさい! お姉さま!」
扉の向こうにはパチェ、美鈴、小悪魔がおり、溢れんばかりの喜びを込めてお互い抱き合っている。
「うん、ただいま」
お姉さまは少し照れくさそうに微笑んだ。
鬱に終わりはないけれど、きっとこれからも苦しいことがあると思うけれど、それでもお姉さまには私が、みんながいる。
これが紅魔館なりのハッピーエンド、どこかできっと、咲夜も見ているよね。
このあたりでうるっときた。
小悪魔おり、という部分って仕様か「が」が抜けてるのかどちらでしょう。
葛藤するフランがとてもよかったです。
また叩かれるかもしれないですが、私は鬱病です。
だから、紅魔館の皆が一つになってレミリアの回復を願う行為に灯がありました。
願わくば平和な紅魔館がある事を望みます。
うつに限らず精神疾患は周囲の協力なしには快復を望めないものですが、紅魔館メンバーがその役割というかそれぞれの優しさとレミリアへの思いをもって、レミリアを支えている様子がよく伝わってきました。
ここからはあくまで、単なる私個人の思いつきでしかないのですが、もしもはる先生が同じ題材で長編を書くことがあるのならば、こういった過程の中でどうしても現れてしまう疲れや苛立ちをも描写したものが読みたいな、なんて思います。
それでもこのメンバーたちならハッピーエンドが望めると、はる先生の文章から感じたから、尚更に。