比那名居天子は不良天人である。
天人らしい平穏で物静かな暮らしを退屈と感じ、異変を起こしたり地上に遊びに行ったりする不良である。
今日も今日とて穢れに満ちた地上に降り立ち、人里で買い食いでもしようかと思ったところ――幻想郷に似つかわしくない異物を発見した。
興味を惹かれた天人はさっそくそれに歩み寄り観察を始める。
逆Tの字型に加工された鉄の棒が繋ぎ合わされ、道に沿って伸びている。それも左右に二列、平行に。
レールだ。
その合間には木の板を横方向に、一定間隔を開けて敷き詰められている。
枕木だ。
自分には馴染みのないものではあったが、この『道』の名前には思い至れた。
線路だ。
鉱山や鉄道で使われるもので、要するに車輪を鉄の道にはめる事で楽に動かすためのものである。
その端っこがなぜかここにあり、道に沿って伸びている。
で、あるならば。
こんなところにこんなものがある理由も察せられる。
人里の人間が造るには手間がかかりすぎるし、ハッキリ言って邪魔だ。
河童や天狗など技術力のある妖怪が造るにしては、こんな人里近くの道では秩序を乱すだけである。
つまり、誰かがここに造った訳ではない。
と言うか、妙に使い込まれて古びてもいるので、幻想入りしたものであるのは明白である。
外から、忘れられて流れ着いた。それだけのものだ。
線路の内側に入り込み、枕木の感触を靴裏で確かめた天子は、改めてそう結論づけた。
「役目を終えて、忘れ去られて、それでも仕事をしようと、こうして道に沿って這おうとしている」
柔らかな声が降ってくる。
「健気ね。貴方も見習ったらどうかしら」
見上げれば、青々とした天を背に、日傘をさした嫌な奴。
八雲紫が憎たらしく微笑していた。
「こんにちは不良天人。少しは地上に馴染めた?」
「ええ、お陰様で」
「それはよかった。まだ馴染めてないようなら、また"教育"しなければなりませんでしたわ。それはもう美しく残酷に、ね」
笑みを深くする紫。
その表情は実に妖怪らしく、薄気味悪く、そして、美しく残酷なものだった。
「ふぅん。幻想郷の賢者様にそんなにも気にかけられるなんて、私ってば大物ね」
「秩序の根底に手を出そうとしないのであれば、質の悪い天人の一人や二人、居ても居なくてもどうでもいい事よ」
「ふぅん。また手を出しちゃおうかな」
ニコリと、天子もほほ笑んだ。
紫のそれとは違い、無邪気でほがらかで、けれど悪戯っぽくて、蒼天の如く明るい笑顔で。
「生憎、今日は貴方のように"やんちゃ"なお子様の相手をするために来たのではないの」
「あら、私を無視する気?」
「他に用事があると言っているのです。大人しくしていてくれないかしら」
「つまり、無視するって訳ね」
「天界に昇った猿は、与えられた役職に怒って反逆し、結果、山に閉じ込められる……前にもそう言ったわね。そのうち本当にそうなるんじゃないかしら」
「生憎、ここは天界じゃなく地上。幻想郷。お釈迦様の手も届きゃしないわ」
「あら、私の手のひらで踊るのがお好みかしら?」
スッと、紫は手を広げた。白手袋に包まれながらも、はっきりと分かる美麗な形の手。
雄ならばあの手に掴まれて愛されたいと渇望する、蟲惑の罠。女郎蜘蛛の張る糸の網のような、真白い手。
これから比那名居天子を絡め取ろうとする、これから比那名居天子が打ち砕くべき手。
大人しくします見逃してください、と言うのは簡単だ。
退屈しのぎならば別に幻想郷のルールを破る必要は無い。
むしろ幻想郷が無くなってはこちらとしても困る。
だけれども!
八雲紫を前にすると、比那名居天子の心は燃え上がってしまう。
「なにもかも、全部あんたの手の上、ってのは気に喰わない……」
天子は緋想の剣を抜き放つ。
緋色の光が少女を美しく照らし、髪の色を青空から夕焼けへと染めてきらめかせる。
「大人しくしろ、って言われたら……"やんちゃ"したくなるのよ、お子様だからね!」
気合一発、緋色の輝きを逆手に持ってかざした。
同時に、天子から緋色の光が放たれた。円形に広がりながら弾丸となって疾駆する。さながら獲物を包囲して一斉に襲いかからんとする獣の群れのよう。
クスッ。紫は笑い、悠然とした仕草で日傘を盾にした。すると紫へ向かっていたはずの弾幕は傘の表面を滑って軌道をそらしてしまう。さらに、紫の背後に巨大な闇がぱっくりと口を開いて、その中へと吸い込まれていった。
境界を操る能力が生み出す、インチキじみた怪異。
空間の隙間へと呑み込まれた攻撃は、もはや誰にも届く事はない。
「血気盛んな猿は躾けねばなりませんが、他に用事があると言ったでしょう」
「その余裕、地面に引きずり落としてやりたいわ」
「だから、両方一緒に片づけてしまいましょうか」
スキマが、広がる。
八雲紫の背後の景色が完全に消え去り、スキマは大地に貼りつくように伸び、線路の端っこ側をも呑み込みつつあった。
じりりと天子は後ずさる。靴裏には枕木の感触。特に意識してはいなかったが、線路が伸びている側に立っているようだ。
「こんな場所にこんな線路とこんな天人があっては邪魔ですもの。幻想郷はすべてを受け入れます。だけどこういった粗大ゴミは困るのよねぇ……道は綺麗にしておかないと」
良からぬ予感に襲われた天子は咄嗟に後ろへ飛ぶ。
同時にスキマはグングンと巨大になっていく。いや違う、大きさはそのままだ。近づいているのだ、こちら側へとすごいスピードで。
後ろ向きでは追いつかれる。人間は前へ前へと進む肉体構造をしているのだ。
だから後ろへ向き直って全力で前進。移動速度が一番出る単純な方法である。
スキマに呑み込まれるのは拙い。逃げてばかりもいられない。そこで天子は前方へと飛翔しながらも、身体をくるりを翻させて緋想の剣を振るう。
「天啓気象の剣!」
気質が刃となって空を切り裂き敵の首へと飛んでいく。気質を十分に集められていないため威力はやや心許ないが、その速射性と速度に期待を込めた一撃である。
されどスキマと同じ速度で迫ってくる紫は相も変わらぬ余裕の笑みをたたえ、羽毛のように身を翻させて気質斬撃を回避した。となればもちろん、紫の後方に広がるスキマへと呑み込まれて消失してしまう。
焦るあまり迂闊に放ってしまったのが失敗だったが、技の選択はそれほど悪くなかったはずだ。次はもっと落ち着いて、気質も溜めなくては。
「道とは境界。線路という境界に入り込んでしまった貴方は、もう線路から逃れられない」
紫の言葉に、なにをと思ったのも束の間、それの意味を悟る。
天子は方向転換後は全力で飛ばしていたものの、多少角度が変わる程度の動きはしていたはずだ。しかし足元を見れば枕木が後方へと流れ続けている。
どれだけ飛んでも線路からそれる気配が無い。
前を凝視する。あぜ道はまっすぐ伸びており、線路はそれに沿って這っている。
身体も線路に沿って移動する。
意識して横に逃れようとしても、なぜか前にしか進めない。
いつまで経っても後ろにスキマがあるのは、向こうも方向転換しながら追いかけているのだと思っていた。
しかし違った。自分の進行方向がまったく変わっていなかっただけだ。
「これは――!?」
「私は幻想入りした線路を片づけに来たの。スキマがあぜ道まで片づけないよう色々と調整をした結果、線路の位相だけがズレている。あまり高くも飛べない。貴方はわざわざ内側に入り込んでしまった。まあ、たまにはいいんじゃない? 固定コースでスペルを避けろっていうのも。そうら、追いかけっこと洒落込みましょう。飛光虫ネスト!」
紫の背後のスキマから、無数の発光物体が高速で射出される。
その速度は天子よりはるかに速く、あっという間に追いつかれ、追い抜かれる。
狭い線路の上で当たらないよう回避するのは狂気じみた難易度であり、最初の一発を避けただけでこれ以上は無理だと悟った。
「こぉんの!」
天人の頑強さで弾幕を浴び、歯を食いしばりながら『天罰の石柱』を二本降り注がせる。
天子のスペルもまた線路の境界に縛られ、線路上にしか発言させる事はできなかった。しかし好都合。落下地点を調整しなくてすむというもの。枕木とレールを粉砕しながら設置された二本の石柱は狙い通りに発光弾幕を弾き返してくれた。
おかげで一息ついて気質を整える事ができる。次の一撃はもっと確実に当てられるよう巨大に、確実に仕留められるよう強力に。
「無計画に壊されると、掃除が大変になるじゃない」
八雲紫は面倒くさそうに眉をしかめ、天子の表情には笑みが返り咲いた。
飛光虫ネストを停止させた紫は、壊れた線路が石柱ごとスキマに呑み込まれていく様を見届けるため後ろを振り向く。質量の無い弾幕ならともかく、質量のある弾幕……余計なゴミが入り込むのを嫌がったのだ。
その好機を捉えた天子、しかし線路上から逃れられぬ以上はこちらが圧倒的に不利であると理解しているため、一発で蹴りをつける逆転劇に洒落込もうと即断即決。
「緋想の剣、最大火力で瞬殺コース! 全人類の緋想天ッ!!」
とてつもなく大量の気質が集まり、凝縮を経て一気に解放される。
決壊したダムの如く荒れ狂いながら放出された、超高密度の極大弾幕。
あまりにも眩しい緋色の閃光に気づいた紫が前へと視線を戻した時、すでに眼前は一色に染まっていた。
悲鳴を上げる間も無く、緋想の奔流に呑み込まれた紫は全身をズタズタに引き裂かれながら後方へと押し込まれ、みずからの開いた巨大なスキマの奥へと姿を消してしまった。
「よしっ! どうだ、お釈迦様気取りの下賤な妖怪め。これが私の実力よ。あっはっは。……あれ?」
勝利を確信した天子。
姿を消失させた紫。
相変わらず同じ速度で迫ってくる巨大スキマ。
パアッと輝く花火のような笑顔を浮かべた天子だったが、あっという間に暗闇に閉ざされてしまった。まさしく夜の空に咲いて散る花火のように。
「な、なんで消えないのよー!?」
あぜ道に沿って長く長く伸びる線路を処理すべく、スキマには式が組まれていた。
【線路に沿って進め】
ただそれだけの単純さ。
だがそれゆえの頑なさ。
線路の境界に囚われたままの天子は、線路もろとも呑み込まれるしかないのだ。
「冗談じゃ……っ!!」
またもや身体を前方に向け最速飛翔で脱出を図る。
けれどどうしても線路の上から逃れられない。
逃げても逃げても線路は続く。
逃げても逃げてもあぜ道は……途切れた。
「えっ」
あぜ道は途中で曲がっていた。
だが線路はまっすぐ伸びていた。
あぜ道を見つけて、そこに沿うように幻想入りした線路と言えど、その長さと形が完全に一致していた訳ではない。
あぜ道の描く曲線に対応できずに道をそれ、よりにもよって道沿いに生い茂る森の中へと入り込んでしまっていた。
当然、線路に沿って進む天子も森の中に突入する。
当然、線路に沿って進むスキマも森の中に突入する。
「うひゃあー!」
無数の木々が、生命に満ちた地上の景色が、後ろへと流れていく。
不思議な事に線路上に木は一本も生えていなかった。幻想入りの影響で空間が歪んで木の位置がズレたのかもしれない。
しかし木とは枝を伸ばすものである。
前方には無数の枝が鬱陶しいほどに茂っていた。
線路の境界に閉じ込められた天子は外に出られないというのに、線路の境界の外から生える枝はそんなの知るかとばかりに侵入してきている。理不尽だ。
ついさきほど最大級のスペルを放った天子は息切れを起こしており、全力飛行も継続しているためまったく回復していない。適当なスペルで進路上の枝をすっ飛ばす体力が無く、弾幕を避けるが如く上へ下へと軌道修正するがすべてを回避するなどできはしなかった。
幸運と言うべきか、鋼すら通さぬ天人の肉体が木の枝くらいで傷つく道理は無い。眼球に枝の先端が直撃しても平気へっちゃらだ。
不運と言うべきか、服が引っかかって速度を落とされたり、服が引っかかって破れたり、帽子が引っかかって落としてしまったり、スカートが引っかかって破れたり、まるで弾幕ごっこに敗けた直後のように衣装がボロボロになっていった。
「ひい! 乙女の柔肌がー!」
鋼すら通さぬ柔肌の露出を増やしながら、天子はスキマに追いつかれつつあった。
このスキマは天子を退治するためのものではなく、幻想入りした線路を片づけるためのものである。
であるならば、進路上にいる天子が呑み込まれたらいったいどうなるのだろうか?
ゴミ捨て場にでも放り出されるならまだいい。不要なものはスキマの中に永久投棄なんて手抜き工事だったらスキマの漂流者になってしまう。
スキマを操る八雲紫ならば自由に脱出できるだろう、空間の操作に長けている者もなんとかなるだろう。
じゃあ天子は?
景色は流れる。
後ろへ流れる。
前に全速前進しているはずの少女も、後ろに流されているかのような錯覚に襲われた。
スキマが迫ってくる。
ガタンゴトンと音を立てて。
スキマが近づいてくる。
ガタンゴトンと大地を揺らしながら。
スキマが。
ガタンゴトンと。
「……あれ? なんか聞き覚えの……」
なんか聞き覚えのある音だったので、天子は恐る恐る振り返った。
スキマの奥に二つの光が見える。左右に並んだその光は、まるで獰猛な肉食獣が夜の闇を駆けているかのよう。
だが獣の瞳にしては明るすぎる。前方を照らすための強い光だ。
「なんの光ぃ!?」
スキマから光の主が現れた瞬間、天子はそれがなんであるかを理解した。
巨大な鋼鉄の箱が、蛇のように連なって走っている。
その先頭の屋根に、肩がはだけるほどボロボロになったあの女が、美しく残酷な笑みを浮かべて座っていた。
まさにまさしくこれこそが、八雲紫のあのスペル!
「廃線」
逃れられないと悟った天子にできる事と言えば、飛翔をやめて慣性で飛んでいる間に全エネルギーを防御に集中させるだけだった。
もはや要石を出す事もできない程度の、悪あがきの防御はあまりにも心許ない。
圧倒的質量と速度と頑強さで大地を揺らす、電車が相手では。
「ぶらり廃駅下車の旅!!」
八雲紫の美声が、天地をつんざくような轟音によってかき消される。
だがそれは音の発生源である比那名居天子にそう聞こえただけあって、小娘一人の質量が撥ね飛ばされる音など、電車の走行音の前には小さなものでしかなかった。
全人類の緋想天を浴びた八雲紫と同じように、悲鳴を上げる暇すら無く比那名居天子は高く、空高く、蒼穹の空高く、撥ね飛ばされた。
その下方では役目を終えた電車がスキマの中へと吸い込まれていき、ガタンゴトンというあの音も消失。
森の中にまで伸びていた線路も、天子が撥ねられた地点から十数メートル程度の距離で途切れており、そのすべてを呑み込んだスキマもまた閉じてしまった。
終着点は目の前だったのだ。
線路が途切れている事に気づけていれば、なんとかそこまで持ちこたえて線路の境界から脱出する事も可能だっただろう。
もっとも、それをさせないため紫が猛追の電車攻撃をしかけたのだが。
▽ ▽ ▽
青空高く飛ばされた天子は、空色の髪をバサバサとなびかせる。
回転する景色の中、かすれた瞳に様々なものが映った。
吸い込まれそうなほど蒼い空、ゆるやかに流れる白い雲、舞い散る木の葉、人間の里、遠くの山、幻想郷では珍しくもない空飛ぶ人影、幻想郷でなくとも珍しくもない空飛ぶ鳥、近づいてくる森の青々とした屋根、穢れに満ちたあたたかい大地。
子供達が遊んでいる。かつて地子という名前だった少女もそこにいた。友達と仲良く楽しく無邪気に笑い合っている。ただの人間としての営みがそこにはあった。もう戻ってこないあの日々の笑顔を見た。
白い手を見た。
白手袋に包まれながらも、はっきりと分かる美麗な形の手。
父親に叱られて泣いている子供を、優しく慰めてくれる母親のように柔らかな手。
知っている誰かの手だ。
――あ、り、が、と、う――
どこからか聞こえてきたのは、誰の声だったのだろう?
朦朧とする意識の中、天子は身体に感じるぬくもりに心地よさを感じていた。
「これは、思わぬ結果になってしまったようね」
このまま、まどろんでいたい。
「役目を終えて、忘れ去られて、それでも仕事をしようと――」
もうしばらく、このまま。
「舗装されていない地面を走ったのでは、この子に追いつく事ができなかったかもしれません」
母に抱かれる子供のように。
「電車は線路の上が一番速く走れるものね」
このぬくもりの中で。
「で、こっちのこいつはどうしてくれようかしら」
ふいに、声が刺々しくなる。
なんだろうと思って目を開くと、八雲紫に顔を覗き込まれていた。
「えっ? あっ、なに?」
「起きた? 下ろすわよ」
八雲紫の顔が遠ざかる。
ドスンと、比那名居天子は地に落ちて尻餅をついた。
それくらいで痛むほどやわな身体ではないが、電車で撥ねられたあととなればしんどいものがある。
「イタタ……なによ、なにが……?」
八雲紫の前で尻餅をついている自分に気づき、比那名居天子は客観的視点を取り戻す。
自分はついさっきまで、こいつにお姫様抱っこされていたのではないか?
電車に撥ね飛ばされて落下した自分を、こいつの白い手で受け止められたのではないか?
心地よいと思っていたあのぬくもりは、こいつの――。
カアッと、ほっぺが緋色に染まる。
「なななっ、なにしてくれちゃってんのよ!」
「せっかく抱き支えて上げたのに、その言い草はないんじゃない?」
「抱きっ――」
飛び起きた天子は、あの衝撃の中まだ緋想の剣を手放していなかったと気づき、反射的に構える。
しかし紫はすでに戦意を喪失しているのか、覚めた顔で見つめ返してくるだけである。
天子もなぜか毒気がすっかり抜けており、構えたはいいがこれからどうしようと困ってしまった。
それが伝わったのか八雲紫はため息をつき、砕けた口調で言う。
「今日のところはこれくらいにしといて上げる。せっかくの余韻を壊したくないもの」
「それはこっちの台詞」
お互い一勝一敗。
服もボロボロになってしまい、これ以上戦うのもはしたない。ここらが引き際だろう。
互いに異なる余韻を抱き、片方は意識的にそれを残そうとし、片方は無意識にそれを残そうとしていた。
天子は緋想の剣をしまうと、頭の軽さに気づいて頭に手をやると、帽子を落とした事を思い出して眉をしかめる。
文句のひとつでも言ってやろうと口を開いて。
「あの線路、どうなったの?」
出てきたのは疑問だった。
紫は淡々とした声色で答える。
「幻想郷には時々、ああいった大きすぎる粗大ゴミが流れ着く。森の中に鉄塔が生えたりね。あまり邪魔にならなければ放置してもいいのだけど、そうもいかないものは処理するしかない」
「……ふーん」
「とはいえ」
紫は森を見やった。
線路のせいで木々の位置がズレてしまっていたため開いていた道がもはや消え失せ、森の木々は生き物に直進させまいとするかのように所狭しと生い茂っている。
線路など最初から無かったかのように。
「役目を果たし終えは道具というのは、供養して処理するのが一番の礼儀なのよ」
結局処理する事は変わらない。
無理やり使い続けても壊れてしまうだけだし、無理やり修理しても限度がある。
結局処理する事は正しいのだ。
しかし。
「線路、壊しちゃって悪かったわね」
処理するために壊す事はあるだろう。大きな物となれば尚更だ。
天子の行った破壊はそういうものではない。
けれど身を守るための不可抗力だ。仕方のない事だったと言える。
それでも、天子は今さらながら申し訳ない気持ちが湧いてきたのだ。
紫は目を丸くさせると、みずからの手元にスキマを開く。攻撃的な意図は見えない。
「意外。貴方が謝るなんて」
「あんたに謝った訳じゃないわよ」
スキマからは無くした帽子が出てきて、極自然な仕草で手渡される。
受け取った時、互いの指先が触れた。
「声が、聞こえた気がしたから」
誰の、とは言わなかった。
紫も、それを訊ねはしなかった。
「そう」
ただ、小さくほほ笑んで――。
妖怪らしいものではなく、鬱気味悪くもなく、そして、美しく慈悲深いものだった。
廃線追いかけっこなんてものをやらされなかったら、この柔らかな笑みを見る事もなかったのだろうか。
そんな八雲紫を前にしているのが妙に気恥ずかしくなって、天子は乱雑に帽子をかぶる。
「あくまで! 今日のところはこれでおしまいってだけよ。今度は完全無欠の大勝利をしてやるわ」
「まったく。少しは大人しくなってくれると助かるのだけれど」
「さっきも言ったでしょ」
天子もまたほほ笑んだ。
先ほどと変わらず、無邪気でほがらかで、けれど悪戯っぽくて、蒼天の如く明るい笑顔で。
「大人しくしろ、って言われたら……"やんちゃ"したくなるのよ、お子様だからね!」
だから結局。
これからも二人はこんな感じでぶつかったりするのだろう。
線路のレールのように、この距離感を維持しながら。
END
天人らしい平穏で物静かな暮らしを退屈と感じ、異変を起こしたり地上に遊びに行ったりする不良である。
今日も今日とて穢れに満ちた地上に降り立ち、人里で買い食いでもしようかと思ったところ――幻想郷に似つかわしくない異物を発見した。
興味を惹かれた天人はさっそくそれに歩み寄り観察を始める。
逆Tの字型に加工された鉄の棒が繋ぎ合わされ、道に沿って伸びている。それも左右に二列、平行に。
レールだ。
その合間には木の板を横方向に、一定間隔を開けて敷き詰められている。
枕木だ。
自分には馴染みのないものではあったが、この『道』の名前には思い至れた。
線路だ。
鉱山や鉄道で使われるもので、要するに車輪を鉄の道にはめる事で楽に動かすためのものである。
その端っこがなぜかここにあり、道に沿って伸びている。
で、あるならば。
こんなところにこんなものがある理由も察せられる。
人里の人間が造るには手間がかかりすぎるし、ハッキリ言って邪魔だ。
河童や天狗など技術力のある妖怪が造るにしては、こんな人里近くの道では秩序を乱すだけである。
つまり、誰かがここに造った訳ではない。
と言うか、妙に使い込まれて古びてもいるので、幻想入りしたものであるのは明白である。
外から、忘れられて流れ着いた。それだけのものだ。
線路の内側に入り込み、枕木の感触を靴裏で確かめた天子は、改めてそう結論づけた。
「役目を終えて、忘れ去られて、それでも仕事をしようと、こうして道に沿って這おうとしている」
柔らかな声が降ってくる。
「健気ね。貴方も見習ったらどうかしら」
見上げれば、青々とした天を背に、日傘をさした嫌な奴。
八雲紫が憎たらしく微笑していた。
「こんにちは不良天人。少しは地上に馴染めた?」
「ええ、お陰様で」
「それはよかった。まだ馴染めてないようなら、また"教育"しなければなりませんでしたわ。それはもう美しく残酷に、ね」
笑みを深くする紫。
その表情は実に妖怪らしく、薄気味悪く、そして、美しく残酷なものだった。
「ふぅん。幻想郷の賢者様にそんなにも気にかけられるなんて、私ってば大物ね」
「秩序の根底に手を出そうとしないのであれば、質の悪い天人の一人や二人、居ても居なくてもどうでもいい事よ」
「ふぅん。また手を出しちゃおうかな」
ニコリと、天子もほほ笑んだ。
紫のそれとは違い、無邪気でほがらかで、けれど悪戯っぽくて、蒼天の如く明るい笑顔で。
「生憎、今日は貴方のように"やんちゃ"なお子様の相手をするために来たのではないの」
「あら、私を無視する気?」
「他に用事があると言っているのです。大人しくしていてくれないかしら」
「つまり、無視するって訳ね」
「天界に昇った猿は、与えられた役職に怒って反逆し、結果、山に閉じ込められる……前にもそう言ったわね。そのうち本当にそうなるんじゃないかしら」
「生憎、ここは天界じゃなく地上。幻想郷。お釈迦様の手も届きゃしないわ」
「あら、私の手のひらで踊るのがお好みかしら?」
スッと、紫は手を広げた。白手袋に包まれながらも、はっきりと分かる美麗な形の手。
雄ならばあの手に掴まれて愛されたいと渇望する、蟲惑の罠。女郎蜘蛛の張る糸の網のような、真白い手。
これから比那名居天子を絡め取ろうとする、これから比那名居天子が打ち砕くべき手。
大人しくします見逃してください、と言うのは簡単だ。
退屈しのぎならば別に幻想郷のルールを破る必要は無い。
むしろ幻想郷が無くなってはこちらとしても困る。
だけれども!
八雲紫を前にすると、比那名居天子の心は燃え上がってしまう。
「なにもかも、全部あんたの手の上、ってのは気に喰わない……」
天子は緋想の剣を抜き放つ。
緋色の光が少女を美しく照らし、髪の色を青空から夕焼けへと染めてきらめかせる。
「大人しくしろ、って言われたら……"やんちゃ"したくなるのよ、お子様だからね!」
気合一発、緋色の輝きを逆手に持ってかざした。
同時に、天子から緋色の光が放たれた。円形に広がりながら弾丸となって疾駆する。さながら獲物を包囲して一斉に襲いかからんとする獣の群れのよう。
クスッ。紫は笑い、悠然とした仕草で日傘を盾にした。すると紫へ向かっていたはずの弾幕は傘の表面を滑って軌道をそらしてしまう。さらに、紫の背後に巨大な闇がぱっくりと口を開いて、その中へと吸い込まれていった。
境界を操る能力が生み出す、インチキじみた怪異。
空間の隙間へと呑み込まれた攻撃は、もはや誰にも届く事はない。
「血気盛んな猿は躾けねばなりませんが、他に用事があると言ったでしょう」
「その余裕、地面に引きずり落としてやりたいわ」
「だから、両方一緒に片づけてしまいましょうか」
スキマが、広がる。
八雲紫の背後の景色が完全に消え去り、スキマは大地に貼りつくように伸び、線路の端っこ側をも呑み込みつつあった。
じりりと天子は後ずさる。靴裏には枕木の感触。特に意識してはいなかったが、線路が伸びている側に立っているようだ。
「こんな場所にこんな線路とこんな天人があっては邪魔ですもの。幻想郷はすべてを受け入れます。だけどこういった粗大ゴミは困るのよねぇ……道は綺麗にしておかないと」
良からぬ予感に襲われた天子は咄嗟に後ろへ飛ぶ。
同時にスキマはグングンと巨大になっていく。いや違う、大きさはそのままだ。近づいているのだ、こちら側へとすごいスピードで。
後ろ向きでは追いつかれる。人間は前へ前へと進む肉体構造をしているのだ。
だから後ろへ向き直って全力で前進。移動速度が一番出る単純な方法である。
スキマに呑み込まれるのは拙い。逃げてばかりもいられない。そこで天子は前方へと飛翔しながらも、身体をくるりを翻させて緋想の剣を振るう。
「天啓気象の剣!」
気質が刃となって空を切り裂き敵の首へと飛んでいく。気質を十分に集められていないため威力はやや心許ないが、その速射性と速度に期待を込めた一撃である。
されどスキマと同じ速度で迫ってくる紫は相も変わらぬ余裕の笑みをたたえ、羽毛のように身を翻させて気質斬撃を回避した。となればもちろん、紫の後方に広がるスキマへと呑み込まれて消失してしまう。
焦るあまり迂闊に放ってしまったのが失敗だったが、技の選択はそれほど悪くなかったはずだ。次はもっと落ち着いて、気質も溜めなくては。
「道とは境界。線路という境界に入り込んでしまった貴方は、もう線路から逃れられない」
紫の言葉に、なにをと思ったのも束の間、それの意味を悟る。
天子は方向転換後は全力で飛ばしていたものの、多少角度が変わる程度の動きはしていたはずだ。しかし足元を見れば枕木が後方へと流れ続けている。
どれだけ飛んでも線路からそれる気配が無い。
前を凝視する。あぜ道はまっすぐ伸びており、線路はそれに沿って這っている。
身体も線路に沿って移動する。
意識して横に逃れようとしても、なぜか前にしか進めない。
いつまで経っても後ろにスキマがあるのは、向こうも方向転換しながら追いかけているのだと思っていた。
しかし違った。自分の進行方向がまったく変わっていなかっただけだ。
「これは――!?」
「私は幻想入りした線路を片づけに来たの。スキマがあぜ道まで片づけないよう色々と調整をした結果、線路の位相だけがズレている。あまり高くも飛べない。貴方はわざわざ内側に入り込んでしまった。まあ、たまにはいいんじゃない? 固定コースでスペルを避けろっていうのも。そうら、追いかけっこと洒落込みましょう。飛光虫ネスト!」
紫の背後のスキマから、無数の発光物体が高速で射出される。
その速度は天子よりはるかに速く、あっという間に追いつかれ、追い抜かれる。
狭い線路の上で当たらないよう回避するのは狂気じみた難易度であり、最初の一発を避けただけでこれ以上は無理だと悟った。
「こぉんの!」
天人の頑強さで弾幕を浴び、歯を食いしばりながら『天罰の石柱』を二本降り注がせる。
天子のスペルもまた線路の境界に縛られ、線路上にしか発言させる事はできなかった。しかし好都合。落下地点を調整しなくてすむというもの。枕木とレールを粉砕しながら設置された二本の石柱は狙い通りに発光弾幕を弾き返してくれた。
おかげで一息ついて気質を整える事ができる。次の一撃はもっと確実に当てられるよう巨大に、確実に仕留められるよう強力に。
「無計画に壊されると、掃除が大変になるじゃない」
八雲紫は面倒くさそうに眉をしかめ、天子の表情には笑みが返り咲いた。
飛光虫ネストを停止させた紫は、壊れた線路が石柱ごとスキマに呑み込まれていく様を見届けるため後ろを振り向く。質量の無い弾幕ならともかく、質量のある弾幕……余計なゴミが入り込むのを嫌がったのだ。
その好機を捉えた天子、しかし線路上から逃れられぬ以上はこちらが圧倒的に不利であると理解しているため、一発で蹴りをつける逆転劇に洒落込もうと即断即決。
「緋想の剣、最大火力で瞬殺コース! 全人類の緋想天ッ!!」
とてつもなく大量の気質が集まり、凝縮を経て一気に解放される。
決壊したダムの如く荒れ狂いながら放出された、超高密度の極大弾幕。
あまりにも眩しい緋色の閃光に気づいた紫が前へと視線を戻した時、すでに眼前は一色に染まっていた。
悲鳴を上げる間も無く、緋想の奔流に呑み込まれた紫は全身をズタズタに引き裂かれながら後方へと押し込まれ、みずからの開いた巨大なスキマの奥へと姿を消してしまった。
「よしっ! どうだ、お釈迦様気取りの下賤な妖怪め。これが私の実力よ。あっはっは。……あれ?」
勝利を確信した天子。
姿を消失させた紫。
相変わらず同じ速度で迫ってくる巨大スキマ。
パアッと輝く花火のような笑顔を浮かべた天子だったが、あっという間に暗闇に閉ざされてしまった。まさしく夜の空に咲いて散る花火のように。
「な、なんで消えないのよー!?」
あぜ道に沿って長く長く伸びる線路を処理すべく、スキマには式が組まれていた。
【線路に沿って進め】
ただそれだけの単純さ。
だがそれゆえの頑なさ。
線路の境界に囚われたままの天子は、線路もろとも呑み込まれるしかないのだ。
「冗談じゃ……っ!!」
またもや身体を前方に向け最速飛翔で脱出を図る。
けれどどうしても線路の上から逃れられない。
逃げても逃げても線路は続く。
逃げても逃げてもあぜ道は……途切れた。
「えっ」
あぜ道は途中で曲がっていた。
だが線路はまっすぐ伸びていた。
あぜ道を見つけて、そこに沿うように幻想入りした線路と言えど、その長さと形が完全に一致していた訳ではない。
あぜ道の描く曲線に対応できずに道をそれ、よりにもよって道沿いに生い茂る森の中へと入り込んでしまっていた。
当然、線路に沿って進む天子も森の中に突入する。
当然、線路に沿って進むスキマも森の中に突入する。
「うひゃあー!」
無数の木々が、生命に満ちた地上の景色が、後ろへと流れていく。
不思議な事に線路上に木は一本も生えていなかった。幻想入りの影響で空間が歪んで木の位置がズレたのかもしれない。
しかし木とは枝を伸ばすものである。
前方には無数の枝が鬱陶しいほどに茂っていた。
線路の境界に閉じ込められた天子は外に出られないというのに、線路の境界の外から生える枝はそんなの知るかとばかりに侵入してきている。理不尽だ。
ついさきほど最大級のスペルを放った天子は息切れを起こしており、全力飛行も継続しているためまったく回復していない。適当なスペルで進路上の枝をすっ飛ばす体力が無く、弾幕を避けるが如く上へ下へと軌道修正するがすべてを回避するなどできはしなかった。
幸運と言うべきか、鋼すら通さぬ天人の肉体が木の枝くらいで傷つく道理は無い。眼球に枝の先端が直撃しても平気へっちゃらだ。
不運と言うべきか、服が引っかかって速度を落とされたり、服が引っかかって破れたり、帽子が引っかかって落としてしまったり、スカートが引っかかって破れたり、まるで弾幕ごっこに敗けた直後のように衣装がボロボロになっていった。
「ひい! 乙女の柔肌がー!」
鋼すら通さぬ柔肌の露出を増やしながら、天子はスキマに追いつかれつつあった。
このスキマは天子を退治するためのものではなく、幻想入りした線路を片づけるためのものである。
であるならば、進路上にいる天子が呑み込まれたらいったいどうなるのだろうか?
ゴミ捨て場にでも放り出されるならまだいい。不要なものはスキマの中に永久投棄なんて手抜き工事だったらスキマの漂流者になってしまう。
スキマを操る八雲紫ならば自由に脱出できるだろう、空間の操作に長けている者もなんとかなるだろう。
じゃあ天子は?
景色は流れる。
後ろへ流れる。
前に全速前進しているはずの少女も、後ろに流されているかのような錯覚に襲われた。
スキマが迫ってくる。
ガタンゴトンと音を立てて。
スキマが近づいてくる。
ガタンゴトンと大地を揺らしながら。
スキマが。
ガタンゴトンと。
「……あれ? なんか聞き覚えの……」
なんか聞き覚えのある音だったので、天子は恐る恐る振り返った。
スキマの奥に二つの光が見える。左右に並んだその光は、まるで獰猛な肉食獣が夜の闇を駆けているかのよう。
だが獣の瞳にしては明るすぎる。前方を照らすための強い光だ。
「なんの光ぃ!?」
スキマから光の主が現れた瞬間、天子はそれがなんであるかを理解した。
巨大な鋼鉄の箱が、蛇のように連なって走っている。
その先頭の屋根に、肩がはだけるほどボロボロになったあの女が、美しく残酷な笑みを浮かべて座っていた。
まさにまさしくこれこそが、八雲紫のあのスペル!
「廃線」
逃れられないと悟った天子にできる事と言えば、飛翔をやめて慣性で飛んでいる間に全エネルギーを防御に集中させるだけだった。
もはや要石を出す事もできない程度の、悪あがきの防御はあまりにも心許ない。
圧倒的質量と速度と頑強さで大地を揺らす、電車が相手では。
「ぶらり廃駅下車の旅!!」
八雲紫の美声が、天地をつんざくような轟音によってかき消される。
だがそれは音の発生源である比那名居天子にそう聞こえただけあって、小娘一人の質量が撥ね飛ばされる音など、電車の走行音の前には小さなものでしかなかった。
全人類の緋想天を浴びた八雲紫と同じように、悲鳴を上げる暇すら無く比那名居天子は高く、空高く、蒼穹の空高く、撥ね飛ばされた。
その下方では役目を終えた電車がスキマの中へと吸い込まれていき、ガタンゴトンというあの音も消失。
森の中にまで伸びていた線路も、天子が撥ねられた地点から十数メートル程度の距離で途切れており、そのすべてを呑み込んだスキマもまた閉じてしまった。
終着点は目の前だったのだ。
線路が途切れている事に気づけていれば、なんとかそこまで持ちこたえて線路の境界から脱出する事も可能だっただろう。
もっとも、それをさせないため紫が猛追の電車攻撃をしかけたのだが。
▽ ▽ ▽
青空高く飛ばされた天子は、空色の髪をバサバサとなびかせる。
回転する景色の中、かすれた瞳に様々なものが映った。
吸い込まれそうなほど蒼い空、ゆるやかに流れる白い雲、舞い散る木の葉、人間の里、遠くの山、幻想郷では珍しくもない空飛ぶ人影、幻想郷でなくとも珍しくもない空飛ぶ鳥、近づいてくる森の青々とした屋根、穢れに満ちたあたたかい大地。
子供達が遊んでいる。かつて地子という名前だった少女もそこにいた。友達と仲良く楽しく無邪気に笑い合っている。ただの人間としての営みがそこにはあった。もう戻ってこないあの日々の笑顔を見た。
白い手を見た。
白手袋に包まれながらも、はっきりと分かる美麗な形の手。
父親に叱られて泣いている子供を、優しく慰めてくれる母親のように柔らかな手。
知っている誰かの手だ。
――あ、り、が、と、う――
どこからか聞こえてきたのは、誰の声だったのだろう?
朦朧とする意識の中、天子は身体に感じるぬくもりに心地よさを感じていた。
「これは、思わぬ結果になってしまったようね」
このまま、まどろんでいたい。
「役目を終えて、忘れ去られて、それでも仕事をしようと――」
もうしばらく、このまま。
「舗装されていない地面を走ったのでは、この子に追いつく事ができなかったかもしれません」
母に抱かれる子供のように。
「電車は線路の上が一番速く走れるものね」
このぬくもりの中で。
「で、こっちのこいつはどうしてくれようかしら」
ふいに、声が刺々しくなる。
なんだろうと思って目を開くと、八雲紫に顔を覗き込まれていた。
「えっ? あっ、なに?」
「起きた? 下ろすわよ」
八雲紫の顔が遠ざかる。
ドスンと、比那名居天子は地に落ちて尻餅をついた。
それくらいで痛むほどやわな身体ではないが、電車で撥ねられたあととなればしんどいものがある。
「イタタ……なによ、なにが……?」
八雲紫の前で尻餅をついている自分に気づき、比那名居天子は客観的視点を取り戻す。
自分はついさっきまで、こいつにお姫様抱っこされていたのではないか?
電車に撥ね飛ばされて落下した自分を、こいつの白い手で受け止められたのではないか?
心地よいと思っていたあのぬくもりは、こいつの――。
カアッと、ほっぺが緋色に染まる。
「なななっ、なにしてくれちゃってんのよ!」
「せっかく抱き支えて上げたのに、その言い草はないんじゃない?」
「抱きっ――」
飛び起きた天子は、あの衝撃の中まだ緋想の剣を手放していなかったと気づき、反射的に構える。
しかし紫はすでに戦意を喪失しているのか、覚めた顔で見つめ返してくるだけである。
天子もなぜか毒気がすっかり抜けており、構えたはいいがこれからどうしようと困ってしまった。
それが伝わったのか八雲紫はため息をつき、砕けた口調で言う。
「今日のところはこれくらいにしといて上げる。せっかくの余韻を壊したくないもの」
「それはこっちの台詞」
お互い一勝一敗。
服もボロボロになってしまい、これ以上戦うのもはしたない。ここらが引き際だろう。
互いに異なる余韻を抱き、片方は意識的にそれを残そうとし、片方は無意識にそれを残そうとしていた。
天子は緋想の剣をしまうと、頭の軽さに気づいて頭に手をやると、帽子を落とした事を思い出して眉をしかめる。
文句のひとつでも言ってやろうと口を開いて。
「あの線路、どうなったの?」
出てきたのは疑問だった。
紫は淡々とした声色で答える。
「幻想郷には時々、ああいった大きすぎる粗大ゴミが流れ着く。森の中に鉄塔が生えたりね。あまり邪魔にならなければ放置してもいいのだけど、そうもいかないものは処理するしかない」
「……ふーん」
「とはいえ」
紫は森を見やった。
線路のせいで木々の位置がズレてしまっていたため開いていた道がもはや消え失せ、森の木々は生き物に直進させまいとするかのように所狭しと生い茂っている。
線路など最初から無かったかのように。
「役目を果たし終えは道具というのは、供養して処理するのが一番の礼儀なのよ」
結局処理する事は変わらない。
無理やり使い続けても壊れてしまうだけだし、無理やり修理しても限度がある。
結局処理する事は正しいのだ。
しかし。
「線路、壊しちゃって悪かったわね」
処理するために壊す事はあるだろう。大きな物となれば尚更だ。
天子の行った破壊はそういうものではない。
けれど身を守るための不可抗力だ。仕方のない事だったと言える。
それでも、天子は今さらながら申し訳ない気持ちが湧いてきたのだ。
紫は目を丸くさせると、みずからの手元にスキマを開く。攻撃的な意図は見えない。
「意外。貴方が謝るなんて」
「あんたに謝った訳じゃないわよ」
スキマからは無くした帽子が出てきて、極自然な仕草で手渡される。
受け取った時、互いの指先が触れた。
「声が、聞こえた気がしたから」
誰の、とは言わなかった。
紫も、それを訊ねはしなかった。
「そう」
ただ、小さくほほ笑んで――。
妖怪らしいものではなく、鬱気味悪くもなく、そして、美しく慈悲深いものだった。
廃線追いかけっこなんてものをやらされなかったら、この柔らかな笑みを見る事もなかったのだろうか。
そんな八雲紫を前にしているのが妙に気恥ずかしくなって、天子は乱雑に帽子をかぶる。
「あくまで! 今日のところはこれでおしまいってだけよ。今度は完全無欠の大勝利をしてやるわ」
「まったく。少しは大人しくなってくれると助かるのだけれど」
「さっきも言ったでしょ」
天子もまたほほ笑んだ。
先ほどと変わらず、無邪気でほがらかで、けれど悪戯っぽくて、蒼天の如く明るい笑顔で。
「大人しくしろ、って言われたら……"やんちゃ"したくなるのよ、お子様だからね!」
だから結局。
これからも二人はこんな感じでぶつかったりするのだろう。
線路のレールのように、この距離感を維持しながら。
END
ありがとうございます神主様仏様イムス様!ありがとうございます!
いいですねゆかてん……反発して喧嘩して、されどもその先で何か見出しちゃうゆかてん尊い……からだがゆかてんをもとめる
立ち向かうき満々な天子も、珍しく敵意満々なゆかりんも可愛い……ぶつかる二人は最高に輝いてます
素晴らしい作品をありがとうございます
何の光!?がラカンの声で聞こえて来てワロタ
ごく自然に一触即発で、ごく当たり前に戦いになり、ごく当然に仲直りする所に幻想郷の不変な日常を感じました
線路上から逃れられないという不気味さも紫らしくてすごく良かったです
ゆかてんの作法とも言うべき絶妙な距離感に震えました
その末を見届けた大人っぽさと、喧嘩を売ってワクワクを買う子供っぽさが共存した天子の描き方が凄いと思った。
しかし衣服がボロボロの二人に追いかけっこをやってもらう線路けしからん