前書き
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけると幸いです。
「ご、ごめん、なざ……ごめんなさいっ!」
そう言って、彼女は可愛い顔をこれ以上ないくらい歪めて、大粒の涙を流しながら桃を手渡してきた。
異変から半年以上、あまりに遅すぎる言葉。
食いしばった歯の隙間から喉を鳴らして、差し出された桃は緊張で強張った指が食い込んで少し型が付いてしまっていたが、それでも彼女は私に歩み寄ってきた。
ずっと悩んできたのだろう、ずっと苦しんできたのだろう、その上で死ぬほどの屈辱を越えてひねり出された言葉だったのだろう。
私はその桃を手に取り、許しを手渡した。
だけど施しを受け取ったのは私の方だったとわかるのはずっと後のことだ。
この日の選択はこれ以上ないくらい傲慢で、恥知らずなものだったが、それでもその手を取れたことは私を晴れ晴れしい気持ちにさせてくれる。
天子、あなたがいてくれるなら、闇夜も無限に色付くわ。
非想九重縁結び
季節は秋、そろそろ寒さも強くなり始めて、秋神様の足蹴りにより綺麗な紅葉も地面に重なり始めた頃。
この妖怪の山も間近に迫った冬を感じずにはいられないが、本日は比較的温かく、日差しに感じる熱と涼やかな風の両方に心を通わせられる穏やかな日であった。
つい、一時間ほど前までは。
「第三防衛ライン突破されました!」
「白狼天狗隊第二陣全滅! 負傷者を収容します!」
「敵二名なおも進行中です!」
「見りゃわかるよ、今日こそ止めるぞ、じゃなきゃ天狗の名折れだ!」
「あぁっ! 河童の機動兵器がやられたぞ!!」
「クソ、あいつら役に立たねえな!」
山の上を浮遊していたUFOに翼を付けたような、一部から便器と呼ばれてたりするそれが、突如立ち上った緋色の閃光に叩き割られて山の斜面に墜落し、ド派手な爆炎を上げた。
もうもうと立ち込める黒煙を背に、手に剣を持って浮かぶ少女が、笑みを深めながら緋色の刃をかざす。
この空色の髪の少女こそ、この良き日の平穏をぶち破った張本人。
「ふははははは!! 喜びなさいよ地べたを這いずる妖怪ども、今日はこの山に遊びに来てやったわよ!!」
「遊びっていうかカチコミですよねこれ」
「その通り! さあさあ戦争よ、素敵な戦争にしましょうよ! あっはははははははは!!!」
狂ったように笑い声を上げる比那名居天子が、着いてきた衣玖に開き直った言葉を返して前に出る。
迎撃に来た天狗の弾幕の中を踊り狂って、楽しそうに剣を振るった。
「こぉらあ! またか天人いい加減にしろぉ!!」
横合いから怒声が飛んできて、そちらに天子が顔を向けると幅の厚い片刃の大剣が迫ってきた。
並の人間ならば呆気なく吹き飛ばされる大質量の斬撃を、冷静に緋想の剣で受け止める。
震えながら食い止められる剣の向こうから、殺気だった鋭い視線が天子を射抜いた。
「おっと、あの鴉のお気に入りの……もみちゃん!」
「椛だ! あとアレのお気に入りなんて寒気がするから言うな!」
切りかかってきた白狼天狗の犬走椛は、力づくで天子をたたっ斬ろうとするが、いくら力を込めても緋想の剣は微動だにしない。天人の馬鹿げた膂力に舌打ちし、紅葉マークの描かれた盾で殴り掛かった。
天子は背をのけぞらせて盾での一撃を紙一重でかわすと、要石を打ち込んで牽制しつつ後ろに下がった。
椛は一度要石を受け止めてから追撃に入ろうとするが、その出だしに電撃が飛んできて抑え込まれてしまった。
「くっ、また邪魔をするのか魚め!」
「いやあ、なんというか私も成り行きで」
「だったらもうちょっと手を抜け!」
「いやいや、できる竜宮の使いとしては、そんなこと出来かねますね」
素晴らしく息の合った援護を見せた衣玖が、天子の後ろに並んで羽衣を揺らした。
気を良くした天子が、剣先を山の頂上へと向ける。
「よっしゃー、この調子でガンガン行くわよ衣玖!」
「ははは、それ行くと衣玖とで掛けてるんですか? 面白すぎて失笑モノですね」
「違うわよ!? いいから黙って援護してなさいよ!」
先週は紅い館、先々週は永遠亭と、こうやって幻想郷の要所を無秩序に攻め込むのが、天子の趣味だった
この妖怪の山においてもやってきたのは一ヶ月ぶり三度目だ。あまりに無謀な突撃に初回はやられてしまったのだが、それでへこたれるどころか逆に闘志を燃やし、衣玖とのコンビネーションに磨きをかけて襲撃を繰り返してきた。
進撃を続ける天界コンビに、目にも留まらぬスピードで割って入ってくる黒い風があった。
「はい、そこの侵入者さんインタビューお願いします!」
右にカメラ、左に団扇を構えた奇妙な二刀流の射命丸あやが、突撃インタビューを試みてきた。
カメラのシャッターを切りながらも、一応は侵入者撃退の体を取ろうとしているのか、団扇を振るって身を切る風を飛ばしてくる。
撮影のフラッシュの直後に飛んできたカマイタチを天子は要石でガードし、その後ろから衣玖が電撃を放って牽制するが、その程度では鴉天狗は捉えられず天子の周囲を旋回する。
普通なら鬱陶しくなりそうなものだが、天子はむしろ注目をあびることに満足してカメラの前でドヤ顔を決めていた。
「今回、三度目の妖怪の山への襲撃ということですが、今回の目的は!?」
「正確には守矢神社への挑戦よ、妖怪の山はついでに遊んでるだけ」
「ほほう、天子さんと守矢神社とは親交が厚く、よく早苗さんに招待されてテレビアニメやら何やらを楽しんでいると聞きましたが」
「だってあいつゲームで私いじめてくるもん。エウティタで私のダブル○ータを○ータでボコボコにしやがった恨みは晴らす、その後ゲームでもリベンジを晴らす」
「なるほど、傲慢な天人が外界の技術欲しさに凶悪な牙を剥いたと」
「そんなこと誰も言ってないけどまあいいわよ」
さらっと脚色するマスコミにも天子は寛容に頷く。
取材もそこそこに切り上げて天子たちが先を急ごうとしたところで、再び椛が突っ込んできて大剣を振るった。
「この、待て下郎!」
「遅い! 剣も将棋ももうちょっと修行しなさい!」
飛びかかってきた椛の剣に対し、天子は緋想の剣を打ち合わせて弾くと上方に飛び上がり、衣玖がその動きに合わせて電撃を椛に浴びせかけた。
盾を媒介に障壁を貼って電撃を防ぐ椛だが、上から背中に回り込んだ天子が、その背中に蹴りを入れた。
文字通り一蹴された椛が地面に落ちそうになるところを、文が風のように間に入ってきて優しく受け止める。
「退きますよ椛、もう十分です」
「あ、文様……!?」
射命丸文の胸に抱き締められた椛は嬉しそうに顔をほころばせると、ハッとなってすぐに離れて、顔を振り回して表情を正す。
「い、今更何しに来たんですかこの駄目鴉!!」
「うっ、上司に向かって酷い言いようですね。そんなに嫌わなくて良いじゃないですかもう」
悪く思っていない部下に怒鳴られて、ショックを受けた文が苦い表情を作る。
「と言うか、撤退ってどうしてですか」
「今回の奴らの目的は上の神社のようです。妖怪の山はあくまで通り道でこれ以上の被害は出ないでしょうし、後は神々におまかせしましょう。上の命令ですよ、大人しく従ってください」
「くぅ、悔しい。また止めれなかった……」
襲撃者の今回の目標は他の天狗たちにも伝達され、今回は天子の進行を止めれなかった時点で負けを認めて大人しくすることにした。
先を行っていた天子たちも、あからさまに攻撃の波が引いていくのを感じ取る。
「どうやら退いてくたようですね」
「ええ、でも本番はここからよ」
「その通りです!!」
謎の声が響き渡り、天子たちは驚いて顔を上に向けた。
晴天だった空は突如として陰りだし、雨が降り出し雷が落ちる。
そんな中、雷雲の間を縫って奇跡のように差した日差しが、天子たちの前に立ちふさがった何者かの姿を照らし出す。
それは身体を斜めに向けたまま左手で顔を覆って、右手に持ったお祓い棒を天にかかげる謎のポーズを取っていた。
「とうとうここまで来てしまいましたか悪しきものたちよ。しかしあなた達の傍若無人もそこまでです!」
「こ、この声は、一体誰なの!!?」
「丸分かりですね」
わざわざ驚いた声を上げてくれる天子に、新たな敵――東風谷早苗がはニヤリと笑って顔を見せた。
「天子さん、ここで会ったが百年目!! 私達の関係に決着を付けましょう!」
「出たわね守谷の風祝、私たちは戦い合う運命、しかしその命も今日までと知りなさい!」
「うわぁー、ノリノリだこの人ら」
威勢よくそれっぽい言葉を並び立てる、両者を衣玖は生暖かい目で見つめていた。
ここに来る途中で天子は恨み節を吐いていたが、つまるところこうやって盛り上がるためだけに妖怪の山を引っ掻き回したのである。
こうまで自分たちの世界に入り込めるのは衣玖には少し羨ましくもあった、真似はしたくないが。
「それじゃあ行きますよ天子さん! とお!」
「いざ尋常に勝負!! おまけのほうは頼むわよ衣玖!」
「えっ? おまけって……」
役目の終わった雷雲もいつのまにか消え失せていて、澄み渡った山の空で邪魔者のいない二人は思う存分に激突しあった。
取り残された衣玖は天子の言葉に首を傾げていたが、どこからか強大なプレッシャーを感知して背中を泡立たせる。
「人様の神社に攻め込んできておいて、オマケ扱いとは大した度胸だねえ」
「ケロケロケロ、さぞや実力者なんだろうねぇ。期待しちゃうよ」
神々しい威圧感の注連縄と御柱を身に着けて腕を組む女性と、それに負けない神性を見せつけてくる少女が蛙のように腰を落として長い舌を伸ばす。
圧倒的強者の貫禄を漂わせる守谷の二柱、八坂神奈子と洩矢諏訪子が衣玖を舐るような目で見つめてきていた。
「こっちが大ボスじゃないですかあー!!!」
哀れな声が山彦になって反響するのを背中に、天子は無数の要石を創りだしそこに緋想の剣を使って気質を込めた。
「さあ行くわよ早苗! あんたが持ち込んできたアニメを元に作り上げた、これぞカナメファンネル!」
緋い霧をまとった要石が自由に動き回りながら早苗へと向かう。
発射される気質の光線と突撃してくる要石の群れを避けて、早苗が最高に目を輝かせていた。
「おぉおおおおお!! これぞまさしくファンネル! いずれ私が超巨大人型秘密兵器ロボを作った際には、サブパイロットは天子さんで決まりですね!」
「何よそれ面白そうね。でも乗るなら私がメインパイロットに決まってるでしょ! あんたを倒してその秘密兵器は私が奪うわ!」
「むむむ、反乱ですか。良いでしょう、仲間割れして戦い合うというのも割と定番です、受けて立ちます!」
威勢よくお祓い棒を振り回す早苗に、天子がもう一度要石を作り出そうと力を込める。
しかし天子は突然、何かに気付いて剣先を下げると、あらぬ方向に顔を向けて今までになく真剣な面持ちになった。
「……来たか」
目を鋭くする天子に、呆気にとられた早苗が攻撃もせずに尋ねてみる。
「どうしたんですか? 今度は空を見上げて意味深ワードを呟くごっこですか?」
「用事ができた。じゃあね早苗!」
「あっ、ちょっと天子さん!?」
疑問に思う早苗を置いてきぼりにして、天子が全速でその場から離脱し始めた。
来た道を辿り、途中にいた神様コンビともすれ違う。
逆走してきた天子に驚いて神奈子と諏訪子の弾幕が一時止み、死にもの狂いで弾幕を凌いでいた衣玖は肩で息をしながら、助けを乞おうと天子に手を伸ばした。
「そ、総領娘様、助けてっ……」
「衣玖! 殿は頼んだわ!」
「はいっ!?」
たった一言だけを残し大切な人が遠ざかっていってしまう。
小さくなる蒼い髪に膨大な喪失感を感じる衣玖が振り向けば、そこには神様コンビならぬ神様トリオがあった。
「天子さん行っちゃいました……仕方ないので妖怪退治で憂さ晴らししときましょう」
「可哀想だけどこっちにもメンツがあるからね、まあやられてくれな」
「弱い者いじめとか楽しいしねー、ケロ」
直後に自分の身に降りかかる不幸を理解し、ただ一言「オワタ」と呟いた。
◇ ◆ ◇
妖怪の山から遠く離れた人気のない丘の上。
冬が近くなり流れ込んでくる風は心地よく、広々とした草の絨毯と開けた空により心が落ち着けるその場所に、普段はめったに出てこない妖怪ががいた。
差した日傘をクルクルと回し、背後に控えていた式神に声をかける。
「ふう、今日の分の仕事はこれで終了ね」
「はい、お疲れ様です紫様」
「ふふふ、藍もご苦労様」
幻想郷の実質的創造者にして管理者、八雲紫である。
博麗大結界の調整や幻想入りする物品の選別など、自分の架した今日のノルマを終え、疲れた心をリフレッシュしにスキマを介してここに出てきていた。
「流石は紫様です、私では時間の掛かる作業でしたが十分の一の時間で済ませてしまいました」
「お世辞は良いわ、今はこの瞬間を楽しみましょう」
紫が目を向けた先にあるのは広い草原、その向こうには人里の人間たちが耕した畑が並んでおり、彼方には鬱蒼と生い茂った妖怪の山を始め雄大な山々が立ち並んでいる。
原初の願いを揺さぶる生命の息吹が網膜に飛び込んでくる。
特に何かをしようというわけでもないが、この幻想郷の姿を眺めているだけで疲れが拭い去られていくようだ。
「見なさい藍、なんて素晴らしい風景……」
その風景は、突如上空から飛来して土砂を巻き上げた岩石に砕かれた。
雑草ごと舞い上がった土塊が雨のようにパラパラと落ちてきて空を汚す。
傘で土の雨を防いでいても、どうしようもない不快さが紫を突き抜けた。
「こぉ……の……本当に、空気の読めない……!!」
「ゆ、紫様、お気を確かに」
土まみれになった藍が自分よりも優先してたしなめてくるが、主人に青筋が立つのを止められない。
更にダメ押しとばかりに挑発的な声が平穏を侵略する。
「私が気質探知の網を張っていたとは知らずにノコノコとやってきたわね、八雲紫! 今日という今日こそは、あんたの息の根を止め――」
やはりというか、当然というか、降って湧いてきた要石の上で仁王立ちになっていた天子に、影が覆いかぶさった。
スキマから上方に現れた紫が、いつもの優雅さを捨てた凶暴な爪をあらん限りの力で振り下ろした。
「死になさい」
「ちょおー!?」
慌てて天子が石の上から飛び退いて奇襲を避けるが、足場になっていた要石は哀れ天子の身代わりとなり暴力的に引き裂かれ六分割となる。
紫は要石の残骸を蹴飛ばして粉々に粉砕すると、逃げた天子を追いかけて閉じた傘で薙ぎ払おうとした。
冷静さを欠いた愚直なまでパワーは齢数百年の大木であろうとへし折ってしまうほどであったが、天子は緋想の剣を構えると当然のようにこれを受け止める。
凄まじい衝撃が天子の身体を駆け抜けたが、むしろ余計の勇ましく眼光を強め大妖怪と睨み合った。
「年寄りの癖に元気なやつね。最初のころはリベンジに来てもやる気なかったくせに」
「おだまり。いつもいつも良い気分に浸っていたら邪魔をしに来て、寛容な私も限界というものよ」
紫は軽く殺気を叩きつけてやると、天子が苦しそうな顔をして緊張し、無駄な力が入るのが得物越しに伝わってきた。
その隙を突く形で押し飛ばしてやると、天子は一度距離を取り改めて意識を戦闘に集中させていく。
「まあいい、あんたのやる気があろうとなかろうとやることは同じ」
紫のプレッシャーに負けて散漫だった天子の気が密度を増し、ドロドロの液体のようにうごめいて周囲にのしかかった。
気は瞬く間に膨れ上がり紫の殺気と拮抗する、相対した紫には世界が立ち所に緋色の煉獄へ変貌したような印象をも受ける。
ある意味、これが紫が一番気に入らないところだった。他の誰でもない、八雲紫に向けられる――膨大な敵意。
「恨みはらさでおくべきか」
浅ましいことだ――そう思った紫に緋色の気質が叩きつけられた。
障壁で防ぎ反撃に転じるが、紫の心はざわめいたまま戻らない。
怒りは怒りを呼び起こす、刺し貫こうとしてくる天子の意識が紫を苛立たせてくる。
逆恨みでここまで敵意を向けてくることが、紫には腹立たしいことこの上なかった。
「私に企みを邪魔されたのは自業自得でしょうに。水に流すチャンスも与えたというのに、愚かな猿ね」
「……ふん、そんな言葉がどうしたっていうのよ。私に頭を下げさせたければ、あんたの本質を私に見せつけてみなさいよ」
弾幕ごっこと言うにはいささか荒すぎる戦いが始まる。
空に無数の光弾が広がるのを、藍は遠目に眺めていた。
「まったく、あいつはよくもまあ飽きずに突っかかれるな。とは言え紫様に悪いが、私にはありがたい」
「――藍様ー!」
自分を呼ぶ声に藍が振り向くと、そこには自由気ままな化け猫が一人、両手をぶんぶん振りながらしなやかな尻尾を踊らせて、藍のもとへと飛び込んできた。
砲弾のようにやってきた式神の橙を、藍は力を入れた腹筋で受け止めた。妖怪といえちょっと腰に来るが、可愛い家族と触れ合うほうが大事だ。
「橙! どうしたんだいこんなところに?」
「紫様の気配を感じたから来てみたんです。またやってるんですね」
橙が見上げた先では、天子が開発した新スペルを紫が安々と攻略し、飛び込んできた要石と気弾を避けて天子に傘での一撃を加えるところだった。
いきり立った天子が切り返そうとするが、今度は紫の側が距離を取り、遠距離から弾幕を張って相手を手玉に取っていた。
「むぅー、私あいつ嫌いです。紫様の機嫌が悪くなるし」
「ははは、確かに怒った紫様は怖いものな」
「紫様もまともに戦わないで逃げればいいのに」
「……あの方は見捨てられない性分だからな。天子も天界住まいとは言え、幻想郷の住人には違いない」
そう言いながら藍の表情はとても柔らかであった。主のその性格を、彼女は美点と心得ている。
その皺寄せが自分のところに来てしまうのだが、それでも藍は主のそんなところを愛しいと思う。
「ところで橙、来てくれたなら丁度いい。この符を周囲に設置したいんだがお願いできるか?」
「いいですけど、何をするんですか?」
藍は袖の下から十二枚の符を取り出し、その半分を橙に手渡した。
動物の絵と達筆な文字が書かれた符を見て、橙が意図がわからず首を傾げる。
「天子を取り囲むようにデータ収集用の結界を張りたいんだ。地面に置いていってくれればいい」
「調べ物ですか? 天子を?」
「天子ではなく彼女の持つ緋想の剣だな。符は十二支順だから間違えるなよ、方角はわかるな?」
「はい!」
藍からの頼みごとに、橙は嬉しそうな声を上げてその健脚で地面を蹴って跳び出して行った。
尊敬する藍からこうやって頼られること自体が、橙には誇らしいのだ。
指示通りに遠のいていく橙に、藍は大きな声で呼びかけた。
「それと橙、今夜はうちで食べるか!?」
「今日は猫達と一緒にいまーす!」
「そろそろ寒くなってきたから気をつけろよー!」
「はーい!」
可愛い式神の残念なところが、自由気ままであまり家に寄り付いてくれないことだった。
寂しいが、あくまで橙の気持ちを重んじて好きにさせていた。
紫たちの中で家族のことを一番に想っているのが藍なのだ。
でも今度家に帰ってきたら嫌がるくらいに引っ付いてやろうと自分を慰めて、いそいそと結界の準備に乗り出した。
戦いは最初から紫が優勢だった。
こと戦闘において天子と紫の間には開きがあるうえ、天子は紫のこととなると怒りにとらわれて動きが直情的で読みやすい、この条件の上で紫が本気で戦えば勝敗は決まっていたようなものだった。
それでも天子が戦い続けたのは、勝つことだけが目的ではなかったからだ。
「気符、天啓気象の剣!」
すでに長時間戦い続けて周辺からは気質がなくなりつつあるのを、天子が洗いざらいかき集める。
集束した気質が緋想の剣から刃が伸び出るように飛び出てきた。この最後の攻勢を、紫は距離を取って緩やかな軌道で避けた。
逃げる対戦相手に天子は攻撃を続ける。紫と戦う時の天子はいつもこれだ、他の誰かを相手にする場合は色んな攻撃で撹乱してくるのに、紫相手には妙なほど真正面からぶち当たってくる。
やがてたっぷり一分間避け続け、とうとう気質が底をついた。
悔しそうな顔で睨む天子の手の中で、先程までは輝き誇っていた緋想の剣が今は気質で構成された刀身をも維持できず、刃は掻き消えて柄だけが残るのみだった。
「さて、手品のタネもなくなったし、そろそろお開きにしてはどうかしら? それとも自慢の石ころでまだ続ける?」
「――ふん、私を舐めるんじゃないわよ」
挑発を繰り返す紫を、天子は鼻を鳴らして一蹴した。
天子が緋色の瞳を見開いて気合を漲らせる、彼女の小さな躰を目に見えぬ何かが血潮のように駆け巡るのを紫は離れながらに感じた。
直後には炎が灯るような音が空気を叩いて、天子の手元から緋い光の柱が立ち上った。
天子は自分の感情により、気質を自ら作り出したのだ。
「まだ、私の心はまだ叫んでる。ならいつだって、極光はこの手の中に」
万物に宿る気質とは、元々はあらゆる生命が零した想念の残滓である。当然それには人も含まれているのだから、自力で気質を作り出すことは可能である。
だがそれは微量な気質ならの話だ、戦闘に置いて決定打になるほど大量の気質を即座に生み出すのは常人なら不可能だ。
それを天子は、普通なら一年を通じてようやく生み出すはずの気質を、今この場で生成した。
なんという想いの強さだ、例えその発端が何であれ、一個人が精神力のみでそこまでのエネルギーを生み出すことに紫は感嘆を禁じ得ない。
「……その我の強さ、いっそ羨ましいわね」
その激情は例え恨みがあったからと言って作り出せるものでもない、この感情の強さは天性のものと言っていいだろう。
紫は天子の才能を目にして、これをもっと健全な方向に向かわせれたらと一瞬思うがそんな思考など詮無い事、世の中ままならぬ、自らの感情をコントロールできる存在など一握りだ。
とは言え、真正面からこうやって来るだけ上等だ。それならば紫とてやれることはある。
「来なさいな、打ちのめしてあげるわ」
憎しみを抑えられない少女へせめてもの慈悲で、紫は真正面から天子とぶつかろうとした。
両手を広げる紫に、母なる大地のような度量を感じながら、天子は正真正銘最後の攻撃に出た。
天子が雄叫びを上げると彼女の想いが解放され、緋い閃光が辺りを焼く。遠目に見ていた藍と橙が目を細めた。
緋い染まる世界の中で、天子は必死の紫の姿を追っていた。目で、耳で、そして剣で、紫の全てを読み取ろうと心を澄ませた。
怒りを振るって争いながら、緋想の剣を通じて紫の気持ちを探っていた。気質を操作する関係上、そういうのは得意だった。
気質から伝わってくる紫の気持ち、そこには当然ながら幼稚な天子への怒りもある、だがそれが全てではない。
どこか天子を気遣っている。恨めしい相手に戦いでしかぶつかれない天子に、一片の慈悲を持って戦っている。
怒りを示しながらも押し付けすぎず、天子が戦いを止めればすぐにでも話し合う余地を残している。
そのことが天子には悔しかった。
「弾幕結界!」
自らを取り囲む弾幕を前に、天子が感じたのは恐れでも怒りでもない。
「――やっぱり、あんたは憎い相手にも手を伸ばせるのね、紫」
眉をひん曲げて切なそうに、悲鳴のような呟きを零した。
◇ ◆ ◇
八雲家が住まう屋敷は、幻想郷の東端にある博麗神社からもっとも離れたところにある。
つまりは幻想郷の西端、現実と幻想を隔てる博麗大結界の境界線すぐ近くに位置に建てられていた。
友人の萃香に建ててもらった屋敷はかなり大きく、三人で住むにしても広く感じるが、紫が周囲に張った結界により橙を含む八雲家か幽々子と妖夢しか入ってこれないため、落ち着いて休める場所だ。
「まったく、天子の相手は疲れるわね」
「左様ですか」
家に帰ってきた紫は、戦闘で乱れた髪を藍に梳いてもらいながら愚痴をこぼす。
先の弾幕ごっこは、やはり紫の勝利で終わった。
櫛が滑らかな髪を整えるごとに何とも言えない心地よさを感じるが、心は中々晴れてくれない。
「いつも余裕そうに見えますが」
「もちろんあんな怒りに振り回される未熟者に負けるつもりはないわ、とは言え相性が少しね」
紫が脳裏に思い起こすのは、天子の発現させる空の輝き。
「本質として、私と彼女ではお互いに相性最悪よ。まったく忌々しいわ、極光だなんて馬鹿げた気質、あんなのがいてもいいだなんて」
まるで陽の塊のような性質だ。仮にも妖怪である紫とは真逆で、ルールの外でまともに戦えばお互いに致命傷を負うだろう。
それになんといってもあの敵意だ。
紫のような誰からも恐れられる大妖怪が思うべきことではないかもしれないが、本気の敵意というのは感じるのも辛い。
「はあ……」
ルールを無視してこの首を切り捨てに掛かりそうな天子の眼光を思い出し、怖気立って溜息をついた。
一応話し合う余地は残しておいているつもりだが、あれでは望み薄だろう。
しかしいつまでも落ち込んでいても仕方ない。気を取り直した紫は、髪が整うなり振り返って告げた。
「さあ藍、随分疲れたし"眠るわ"――用意を」
「……御意」
その言葉には重要な意味があった。
主のために藍は奥の部屋から新しいお召し物を持ってきた、前もって用意していた新品のドレス。
ドレスを持った藍が主の部屋に踏み入る。一家の長だけあって20畳はある大きな部屋だ。
そこで紫は姿勢を正して座したまま目をつむり、自らの思念をどこかに繋げある情報を伝えていた。
「紫様の準備は完了しましたか?」
「ええ、バックアップは書き込んだ。始めましょうか」
これから眠ると宣言した紫であったが、その部屋には寝具は敷かれてはいなかった
布団どころか枕すらない場所で、紫はいつものドレスを着ていて寝ようとしているとはとても見えない。
そこに藍が畳の上で正座すると、自分の膝を手の平で軽く叩いて主人を招き寄せた。
「どうぞ、紫様」
「ありがとう」
紫は誘われるままに横になると、藍の膝枕に頭を寝かせてうだるげな瞳を閉じる。
そして紫は闇の中を手で探るように右手を上げて、藍にその手を握ってもらった。
手を繋ぐと安心して力を抜いた紫の目元を、藍は空いた手で覆い隠して瞼越しに届くはずの光さえ闇に閉じ込めた。
「ねえ藍」
「はい、紫様」
「……また呼んでくれる?」
「ええ、いつまでもそばにいてお呼びしますとも」
「…………ありがとう、おやすみなさい」
変化が起こったのはすぐだった。
紫の背と畳の隙間から影が、黒くおびただしい何かが這いずり回る百足のように伸びてきた。
手のような形をした黒い謎の物体、いや物体かどうかもわからないそれは、横たわった紫の身体にまとわりつく。
紫が境界を操って引き出す力と同質であるが、どこか異質な意思の籠もった吐き気のする影が広がる。
無数の手形に鷲掴みにされた紫が段々と黒い塊に包まれていく。その光景を、藍は鳥肌を立てながらじっと見守っていた。
やがて黒い影に完全に隠された紫の身体が、溶けるかのようにこの世界から消えていくのを肌で感じた。
「おやすみなさい、紫様」
あちら側から消えた私の目に映ったのは、一面の闇。胸に届くのは妬む声、羨む声、憎悪する声。
現世でもなく異界でもない、根本的な理から違えて概念すら消失してしまう無限の漆黒。
風景と呼ぶには形を持たないそれは、どうにも懐かしくて、どこか哀愁を感じる。
闇の中で、無数の手が私に伸ばされる。
この先はどうなるのか、おおよそのことはわかっているが実際のところは覚えていない。
だが案ずることはない、今までだって私は戻ってこれたしこれからもそうだ。
手と声が私の存在を取り囲み、私の存在を闇に沈める。私の四肢を、胴体を、首を、手が握り締め押さえつけてくる。
意識が黒く塗りつぶされるのを、私は甘んじて受け入れた。
――――ああ、私が消えていく。意識が途切れる刹那、そう感じた。
気がつけば、彼女はそこにいた。
畳の上に手を突いてへたり込んで、何も知らぬ目で畳の網目を覗き込んでいた。
まったく何も考えずにいると身体に妙な震えが走り、どうしたんだろうと疑問に思って、初めて自分が裸だから寒がっているんだと気付いた。
覚束ない頭で五感からの情報を読み取っていく。肌に食い込む畳、イグサの香り、遠く聞こえる虫の声。流れる空気は冷たくて、裸の身体には障る。
段々と回転していく頭で『はて私は誰だろう?』と疑問に思い始めた時、頭上から声をかけられた。
「おはようございます、紫」
彼女の顔が持ち上げられ、自分を見下ろしていた女と目が合った。
狐の耳と九つの尾を持つ美しい女に、なぜだか大きな安心を感じる。
この女はいつから自分を見ていたのだろう。最初からだろうか。この女が妖怪であることはわかる。
妖怪。知っている、この世界の中の陰。
おはようという言葉の意味も知っている、挨拶。
「ゆか……り……?」
最後に唱えられた言葉の意味だけが理解できず、彼女は首を傾げた。
「貴女の名前ですよ、紫」
「ゆかり……ゆかり?」
「そうです、貴方の、名前は、八雲紫」
名を与えられた直後、とんでもない密度の情報が彼女の頭を貫き、耳鳴りが自分の悲鳴をも塗りつぶした。
「――――――!!!」
聞こえないが、きっと自分は叫んでいたのだろう。
――八雲紫、さっき戦ったばかり、スキマ妖怪、八雲藍、昨日の晩御飯は秋刀魚、橙、尻尾が綺麗、幽々子、温かい、魂魄妖夢、剣士、萃香、酒の酔いの感じ、博麗大結界、バックアップ、カウンター、博麗、龍神、契約――
無秩序で膨大な情報がどこからか送られてきて自分の脳に焼き付いた。
次から次へと思い出されては過ぎ去っていくメモリー。
――圧縮された過去、モノクロの思い出、膝枕。世界の隙間、初めて名を持った日、記憶の再生と破滅、維持装置、幻想郷、忘れた日々――
再生される記憶に、頭を抑えて畳の上で背中を丸めて身体を痙攣させて、呼吸もできない有様だった。
あまりの情報量に負荷に耐えられず脳髄は熱され、彼女は畳の上で瞳孔の開いた目を飛び出さんばかりに丸くして、顎が外れそうなほど開いた口からは涎がしたたり落ちた。
――――そして私の名前は、八雲紫である。
最後の一滴が記憶に染み入り、ようやく自分は呼吸を取り戻した。
荒い息を時間を掛けて落ち着かせると、手の甲で涎を拭うと、淀んだ肢体に力を込め頭を振りあげて立ち上がる。
「ただいま、藍」
「おかえりなさいませ、紫様」
そして私は再び紫と成った。
藍は用意していた服を紫に差し出した。
裸のままだった紫はそれを受け取ると、下着を履き、ブラジャーで胸を締め、深い色のドレスに袖を通して帽子をかぶった。
「お腹が空いたわ。ご飯の用意をお願い」
「かしこまりました、デザートはいかがなさいますか」
「私が用意した外界のケーキがあったはずだから、お茶だけ頼むわ」
「はい、紅茶ですね」
何事もなかったように日常に戻っていくよう見えるが正確には違う、八雲紫にとってこれもまた日常の内であり、必要なプロセスなのだ。
スキマ妖怪、大妖怪、妖怪の賢者、そんなふうに呼ばれている紫だが実態は危ういバランスの上に成り立っている存在だ、この世界に完全に適応できていないのか、何か紫の知り得ない要因があるのか、常に『世界の隙間』に引きずり戻されようとしている。
普段は自らの境界を操る能力でこの世界にしがみついているのだが、それでも定期的に元々の居場所である『境界の隙間』に戻らなければならなかった。
いつも紫が使っているスキマは現世と異界との境界線を利用しているに過ぎないが、境界の隙間はもっと次元的に奥の領域だ。
それは妖怪や神でさえ立ち入ってはならない禁忌の領域、世界を成り立たせる境界線上の隙間にある無秩序な世界。
紫の正体は正確に言うと妖怪ですらなく、そこからこの世界に滲み出てきた『異物』だった。
「記憶の方に問題はありませんか?」
ご飯を食べた後、甘いふわふわケーキを別腹に押し込んでいると、机の向こう側に座った藍が尋ねてきた。
「問題なしよ。昨日の夕飯から、春先に食べた朝食の味までよく覚えているわ」
誇るように紫は言いのける。実際、自分が組んだ記憶の再生術式が上手く機能していることは、彼女のちょっとした自慢だった。
境界に戻るプロセスにおいて、避けようのない問題が一つある。原因は不明だが、そのたびに紫は過去の記憶をすべて失ってしまうのだ。
それを回避するのが記憶の再生術式である、あらかじめ自分の記憶のバックアップを別に取っておき、こちらで目覚めたあとで名前を与えられることをトリガーとして、改めて脳に書き込み再生する。
現在においては、そのバックアップの保管場所が、この幻想郷を包む博麗大結界そのものである。
「それは良かったです。もうすぐ冬眠も近いですから、万全でいなければなりませんからね」
その結界の調整役を一任されてる藍としては、記憶の再生が上手く行っているかどうかは非常に不安になるところだ。もしかしたら自分のミスが原因で主人の記憶に欠落が起き、最悪、廃人になってしまうかもしれない。もっともその時はその時で、緊急用の記憶を保存した妖魔本からバックアップを書き込めば済むのだが。
変わりない様子の紫に藍は安心して肩の力を抜いた。
「冬眠の用意はできてる?」
「万事滞りなく」
「いつでもできるようにしておいて頂戴。そろそろメモリーの整理が必要だわ」
「御意」
紫が食べ終わったフォークを置くと、藍は立ち上がり食器をお盆に乗せて背を向けた。
「――藍、どうしてあなたは私を助けてくれるの?」
廊下に消えようとした背中に、どうしてここまで親身になって自分のためにしてくれるのだろうかと、衝動的に尋ねてしまった。
記憶のバックアップも無制限に保存できるわけではない、限られた容量の中で必要な情報だけを残すようにした結果、紫は過去の記憶の殆どを忘却したままだ。
幻想郷の博麗大結界を記録媒体としてからはだいぶ容量が増えたが、それで消去した記憶が戻ってくるわけではない。
藍との出会いは覚えているものの、メモリーに残った記憶と今の状況が地続きに感じられないほど二人の関係は酷い始まりなのだ。
要約すれば、「バックアップの一時保存役に適当な妖怪が欲しかったのでスキマで拉致して脅して強引に試行させた」と言うものだ。
当時の藍は本当に嫌々だったはずだ、裏切れないように二重三重の術式で行動を束縛し無理矢理従えていた。
よくそんなことをした自分に今日までついてきてくれたなと思うし、時折これからも藍は自分のそばに居てくれるのだろうかと無性に不安になる。
約千年前に出会ったばかりに付与した行動束縛術式は今はすべてを解いているため、裏切るか否かについては藍の気持ちに期待するしか無いのだ。
投げかけられたか細い声に、藍は苦笑を漏らしながらゆったりと振り向いた。
「その質問は去年もしてきましたよ」
「あ、あらそうなの?」
「ええ、覚えてはいないでしょうが」
恥ずかしげに熱くなる頬を押さえる紫を見て、ほんの僅かに藍の表情に影が差す。
やはり自分の思い出を忘れさられるというのは藍としても悲しい。
本人が一番辛いのだからと自らを叱咤すると、紫が覚えていない思い出を、自分が彼女についていこうとしたきっかけを想起させた。
「あなたが私の家族だからです。それ以上の理由は必要ありませんよ」
温和な声と表情で答えられ、紫は不安を打ち消され押し黙るしかなかった。
「大事なものは温かなご飯、温かなお風呂、温かな布団、そして温かな家庭。紫様はこの家を支える柱の中心です、私ごときで支えられるならいくらでも支えますとも」
そう言って藍は再び部屋を後にする。
尻尾の目立つ後ろ姿を、紫は揺れる瞳で見つめていた。
「ありがとうね藍」
窓から丸い月に目をやって呟く。
心を許せる家族に唱えた感謝の言葉は、秋の夜に生きる虫の音に紛れて部屋の外までは届かなかったが、きっと気持ちは伝わっていた。
◇ ◆ ◇
紫に負けて大地に伏した天子は、何をするでもなく仰向けで寝転がったまま空を眺めていた。
赤い空が徐々に藍色に移っていき、星々が自分たちの存在を主張し始める。
黄金の月には雲が掛かりその灯りをぼやけさせて、しばらくすると雲が流れて目が眩むような満月の光が天子を、この幻想郷を照らしだした。
夜空なんてずっと天界から眺めてきたけれど、雲の上で見る月はずっと何にも遮られず光り続けている。
それよりかはこうやって変化のある地上の月のほうが美しく思えた。
「……綺麗な空」
傷付いて泥にまみれた体の痛みを、月の光に癒してもらっていると、覗き込んできた人影が明かりを遮った。
「あっ、衣玖、久しびびびびびびびびびびびびびび!!!」
ボロボロの羽衣をまとって現れた衣玖が、天子の両頬を手で挟み込むと全開の電撃を流し込んだ。
「何すんのよ!」
「こっちの台詞ですよ不良娘様。こっちはボロボロにされてなんとか逃げてきたんですからね」
天子は立ち上がって口から煙を吐きながら怒鳴りつけるが、衣玖からは一切引かずに睨み返される。
衣玖の怒りはもっともであることは天子にもわかっているし、拗ねた様子を見せながらもそれ以上は食って掛かりはしない。
「はいはい、悪かったわよ。守矢神社には明日お詫びに行かなきゃ」
「妖怪の山にもですよ」
「わかってるって」
会話をしながらも遠くを見ていてどこか心を置き忘れた天子に、衣玖は溜息をつく。
「その様子では、またいつものゆかりんコンプレックスですか」
「変な名前つけるな。まあそうなんだけど」
強く否定出来ないのが辛い。
言い返せない苛立ちに天子が唸っていると、今度はハンカチを持った手が伸びてきて頬の泥を拭った。
「またこんなに傷付いて、かわいそうに」
「痛みなんてどうでもいいわよ」
「それこそがかわいそうだと言うんです。御自愛くださいよ」
衣玖の言葉にはもう置いて行かれた怒りなどなく思いやりがあった。
しかし頑として受け取らない天子に、衣玖は悲しげに目を伏せて。
「いい加減、紫さんに謝ってしまってはどうですか?」
「…………」
衣玖からの訴えに、天子は口をつぐんだまま聞いている。
天子は紫からある言葉を伝えられている。
投我以桃、報之以李――要は謝れば許そうと、話し合うきっかけを与えられているのだ。
「チャンスは与えてもらっているじゃないですか。本当は総領娘様自身も謝りたがっているんじゃないですか? それなのに意地になって突っ張って……あなたはいつも楽しそうに過ごしているのに、紫さんのことになるとすごく辛そうに走り出して、そんなことを繰り返すより一度頭を下げて話し合ったほうが楽に」
「まだ早い」
じっと聞いていた天子だが、言葉の締めを待たず口を挟んだ。
驚いた衣玖に背を向けて、天子は硬く腕を組むと続ける。
「謝るにはまだ早い。私は知らなきゃいけないのよ」
「知るって、何をですか?」
強張った背中に衣玖は問いかけた。
普段の天子はわがままであるが、驚くほど思考は柔軟で人の話を聞き入れる。
だがこの姿は今ままで見た中で一番硬く、決して他人に入り込ませない壁があった。
「本当に許せるのか、許されても良いのか、許しの先に何があるのか。それを知らなきゃいけない、確かめなきゃいけない。そうじゃなきゃ、私の勇気は踏み出すに弱すぎる」
天子が自分を卑下するような言葉を、衣玖は初めて聞いた。
こんなにも、天子の紫に対する確執とは深いものだったのだろうか。ただ異変の締めを台無しにされた恨みだけかと思ったが違うのか? 衣玖の知らないところでなにかがあったのか?
いくつかの疑問が過ぎるが、その小さな背にそれらを尋ねても突き返されるだけのように思えて口を開けなかった。
「……とは言え、そろそろ結論を出す頃と思うわ。ねえ衣玖、あんたはこの幻想郷をどう思う?」
「どうって……」
振り返った天子に聞かれて、衣玖は意図を掴みかねて悩む。
恐らくは幻想郷の体制だとかパワーバランスだとかについて聞いているわけではないだろう、天子はそういったところに頓着しているわけではない。
「そうですね、私は良いところだと思いますよ」
「そうね、こんな不安定な場所なのに、何だかんだみんな笑顔で回ってる」
衣玖の答えに満足そうに頷いた天子は、首だけで振り返ってようやくいつもどおりの笑顔を見せてくれた。
歯を見せてはにかんだ天子は、今度は柔らかな背中を衣玖に向け、両腕を広げて体全体で夜の風を感じ、月明かりを浴びた。
「今日行った妖怪の山、途中で見えた川で釣りをしたらきっと気持ちよさそう」
「あんな真似して、脳天気に歓迎されるとは思えませんが」
「いつかチャンスは有るわよ。椛とも仲良くしてれば、そのうち招待されるかもよ?」
来るかもわからないいつかをそれでも夢見て、天子は笑う。
「ここは景色は綺麗だし、ご飯は美味しいし、住んでる奴らは面白いやつばかり。私は幻想郷を目一杯楽しんでみた。遊んで食べて戦って、思う存分生きてみた。この場所をあの紫が作ったというのなら、もしかしたら――」
衣玖には天子の言葉の意味が明確にはわからない。
だが決定的な選択の時が間近に迫っていることだけは理解できた。
◇ ◆ ◇
共にボロ負けした天子と衣玖は天界にまで戻ってくると、手を振って別れた。
「それじゃあさよなら、また明日ね」
「ええさよなら、明日は妖怪の山と守矢神社にお詫びですね」
「時間があったら人里にも行ってみましょ、まあ多分、天狗や神々と朝まで呑んだくれることになるだろうけど」
家に帰っていく天子が桃の木々のあいだに隠れていくのを見届けて、さて自分も帰るとしようと衣玖は思う。
帰ると言っても、雲の中を漂って明日になるのを待つだけであるが。一人の時間を与えられたところで、基本的にやることがない。
「――少し、お話してもいいかな?」
去ろうとした衣玖の背中に、温和だが厳かさのある男の声が届いた。
この声には聞き覚えがあった。少し驚いて衣玖が振り向くと、そこには髭を生やした肩幅の良い中年の男が桃の木の影から姿を表した。
「総領様……?」
天子の父上にして比那名居家の現総領であった。
天人らしい超然した佇まいの彼とは、天子が起こした異変の折に直接会ったきりだ。
そんな総領が現れた理由は何か、上の者が出てくる理由にあまりいいものが思い浮かばず衣玖の雰囲気が固くなるのを、総領は手を挙げて制止した。
「そう身構えなくて良い。ただの娘の友人と世間話に来ただけだ、気軽にしてくれ」
「……そうですか、ならそうさせてもらいます」
とりあえず悪い理由ではないと言われ、衣玖も肩の力を抜いて応える。
それを見て総領は気を良くしたように頷き、手に瓢箪と盃を持って歩み寄ってきた。
「うむ、それで結構。お前のように話のわかる聡明な女性が、天子のそばにいて私も嬉しいよ。酒も持ってきてある、これでも飲みながら話をしようじゃないか」
「……口説きに来たんですか?」
「ちがっ……私は母さん一筋だ!」
一転して強い口調で言い張る総領を見て、ああやっぱり天子の父親だなあと衣玖は納得を得る。
いきり立った総領だが、気を落ち着かせると先にあぐらをかいで地面に座り込んだのを見て、衣玖も向かい合って正座で腰を落ち着けた。
渡してもらった盃に総領は自ら酒を注いでくれ、その芳醇な匂いに飲む前からして酔いしれた。
「天子は地上では上手くやっているかね?」
「上手くかと言われると微妙なところです、遊んでばかりで平気で恨みを買うこともやりますから。でも毎日楽しそうですよ」
「そうか、なら良かった」
伝えられた様子は親として完璧な理想ではなかったろうに、父は心底嬉しそうに口端を釣り上げて静かに笑い酒をあおる。
あまり言葉を交わしたことのない相手であったが、お堅いイメージのあった男がこういう風にも笑えるなのかと衣玖は驚く。
衣玖が思っていたよりも、娘想いの父であるらしい。
だからこそこうやって酒を持ってきて話を聞きに来たのだろうが、それならばと衣玖は一口の酒を飲んでから改めて口を開く。
「しかし私に聞くよりも、総領娘様に聞かれてはいかがですか? そのほうが何かとよろしいかと」
「私にその資格はないさ。私が天子にしてやれることといえば、あの娘がやることを全て許して自由にさせておく程度」
その答えに衣玖は眉を曲げ、それは寂しすぎるのではないかと思った。
この父だけの話ではない、許すと言う言葉だけで放って置かれるあの構ってちゃんな天子も含めてだ。
天子からこの総領の話を今まで聞かされたことがなかったが、なるほど思ったより大きな溝があるらしい。
しかし衣玖はこれに黙っていた。天子のために何か言いたい気持ちはあったが、知り合ったばかりの自分が何を言ったところで動かすことなど出来はしまい。
無力な言葉を紡いで途方に暮れようと思えるほど、衣玖は前向きな性格ではなかった。
「天子が地上で幸せそうにやれてるなら何よりだ。衣玖殿にも礼を言う、娘のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「いえ、私も総領娘様には楽しませて貰っていますから」
本人には言わないが、衣玖には天子の姿がどこまでも眩しく、もっと眺めていたいと思えたのだ。
龍神の声を聞き、地震の到来を伝える以外は雲の中を漂うだけだった衣玖に、炎のように燃える意思でのびのびと生きる天子はあっと言う間に憧れになった。
とは言え、それは異変以後の話。
「――それに、彼女の成長を見るのは何よりも面白いです」
衣玖は異変の以前から比那名居天子を少しは知っていた、と言っても比那名居家にはこんなお転婆娘がいると遠くから眺める程度であったが、昔は天子のことを他の天人と同じくつまらない人物と見ていた。
特に生きる目的もなく、かと言ってそれを探すこともできず、ただ無駄に生きながらえて、自暴自棄なじゃじゃ馬。寄る辺なくそれでも生きる姿は健気だがそれ以上でない。それが天子に対する評価だった。
それが異変から変わった。表面的には以前と同じに見えるかもしれないが、核心的部分が確かに変わっているのだ。
現在の天子は決して自暴自棄ではない。あれでどこかに襲撃したあとも桃を持って見舞いに行って頭を下げたりして、幻想郷のお祭りムードに沿ってそれなりに受け入れられるよう努めているし、お陰で致命的な嫌悪はされていない。
今日も争った白狼天狗とも、ちょくちょく会いに行って普段は将棋で勝負してたりするのだから驚きだ。
「あの歳でまだ成長できるのか、優秀な娘だとは思ってたが驚きだ。衣玖殿にはいくら感謝しても足りないな」
「いえ、総領娘様の成長に私など関係ありませんよ」
この成長のきっかけがあるならば、きっと天子がもっとも反発するあの妖怪なのだろう。
天子が紫にいかなる感情を抱いているのかは測り知れないが、それこそが天子の成長の原動力だ。
だからこそ天子が紫と手を取り合う未来を期待しているのだが、さてそこがどうなるかわからない、しかし期待しておこう。
「……もしそのことでお礼を言いたいのなら、それを受け取るに相応しい方がいます。いつか総領娘様が彼女を連れてきたときにじっくりお礼を仰ればいいです」
「ほう、それはその者と会える日が楽しみだ。もっともそんな日が来るかわからないが」
「来ますよ、きっと」
悲観的な父君に、あくまで衣玖は希望を口にした。
衣玖が知る天子も、根はどこまでも前向きだから。
「しかし天子の成長を助けたというその者が気になるな。下界で知り合ったのか?」
「はい、地上の妖怪です。正直なところ、総領娘様との仲はよろしくありませんが」
「ほう、面白いことを言うな。天子を助けたと言うのに、仲が悪いとは」
「総領娘様の壁と言ってもいいですからね、力量としても因縁としても」
「なるほど、試練が形を持って現れたか、良き縁を持ったな。して、なんという名だ?」
「はい、八雲紫と言って、妖怪の賢者とも呼ばれ――」
総領の手からこぼれ落ちた盃がカランと音を立てて続く言葉を遮った。
驚く衣玖の前で、総領は台無しになった酒になど気にもとめず、目を見開いて小刻みに震えている。
「八雲、紫……そ、それは境界を操る妖怪のことか?」
「は、はい、その方ですが」
様子がおかしい総領を前に、恐る恐る衣玖が口にすると、比那名居家の総領はこめかみを痙攣させて勢い良く立ち上がって怒声を吐き捨てた。
「んな――あ、あの妖怪が、あの異物が! 今更天子の前に出てきただと!?」
真っ赤な顔で唾を散らして我武者羅に怒りを撒き散らす姿に、衣玖は驚いて竦み上がった。
しかし怖がってばかりもいられない、総領から語られる言葉は天子を慕っていれば到底看過できないものだった。
「己、異物め、天子の害を成そうというのなら、今度こそ私が討ち取ってくれる!」
「そ、そんな滅多なことは止してください。総領娘様も、近々紫さんに謝ろうとしてるんですよ、ここで貴方が出てきたら台無しじゃないですか!」
衣玖の説得に総領は押し黙ったが、憤怒の表情のままだ。
身を震わす総領は音を立てて腰を下ろすと、自らの目元を手で覆い隠した。
「ふ、ぐ――天子が、彼奴に、頭を下げようと?」
「はい、総領娘様はずっと謝りたがってる様子でしたから」
謝りたいのに素直になれないからこそ、紫と衝突していたのだろう。
本当にただ嫌いなら無視すればいい、ただ憎いだけなら狡猾に仇なすこともできたはずだ、そうはせずに真正面からぶつかったのはある意味で天子の努力と言える。
総領も父としてその気持ちを否定し切ることは出来ないのか、苦しそうな息を漏らしながらも怒りを押し込めようと必死になっている。
「……すまんが、今日はもう帰るぞ」
短く言って総領は立ち上がり、瓢箪も盃も手に取らずに背を向けた。
話が拗れそうで気が気でなかった衣玖だが、とりあえずは穏便に済みそうで内心ホッとして胸に手を当てる。
「だが覚えておけよ竜宮の使い、あれはこの世の異物、我々人間の側に立つ者どころか、お前たち妖怪とすら相容れない間違った存在なのだからな。あんなのと関わって、天子が幸せになれるはずもない」
それだけ言い捨てて総領は帰ってしまった。
衣玖の頭に紫の存在そのものが間違いだと言い切った総領の言葉が残響する。
瓢箪に残った酒も飲む気がせず、呆然としているしかなかった。
◇ ◆ ◇
紫が記憶の再構成を行ってから数日が立ち、もうそろそろ冬眠の時期ということで、友人を集めて白玉楼で宴会を開こうという話になった。
大切な冬眠の前に紫は無性に不安になるし、友人達もしばらくは紫と話せないということで、お互いを元気づけるためにこの時期には毎年やっていることだ。
約束の時間は夕刻であったが、幽々子とのんびり話でもしようと思っていた紫は、昼過ぎにはスキマを通って白玉楼に現れた。
縁側で座っていた幽々子のすぐそばに歩き出て来て、饅頭をお茶請けに湯飲みを手に取っていた親友に手を上げて声をかける。
「はい、こんにちは幽々子」
「あらこんにちは紫。ちょうどいいところに来たわね」
「いいところ?」
幽々子の言葉が気になった紫の耳に、庭から硬い物が激しく打ち合わされる音が響いた。
音のなる方に顔を向けてみると、庭師兼警護役兼剣術指南役という曖昧な立場の妖夢と剣を打ち合う空色の髪が見えて瞳が震えた。
「そおらぁ!!」
掛け声とともに、天子が剣を振り抜いた。
右手に持った木刀で豪快に剣を振り切る。型も何もない無茶苦茶な剣筋で、あえなく妖夢の構える木刀に受け流される。
思いがけない光景に、一瞬紫は驚き、その身を躍らせるに見惚れた。
あまり通じない剣を天子は構わずに振るっている、彼女は勝つために戦っているのではないのだ。
「あの娘、あなたが呼んだの?」
「いいえ。天子はよく妖夢相手に剣術ごっこしに遊びに来るのよ。あと庭の手入れを勝手にやったりしてるわね、あの木とか天子作よ」
「……彼女ってけっこう遊んでるのね」
幽々子が指を指した先を見てみれば、鳥の群れの形に剪定された松の木があった。無駄に趣味が凝っている。
紫以外のことでは、こういった遊びが大好きらしい。
紫が視線を戻すと、妖夢の突きを回避した天子が、大げさに身体を回転させて切り返していた。
今の瞬間にこちらの姿が視界に入っていたはずだが、今は勝負に夢中で気が付いていないようだ。
妖夢の木刀に対して時に跳び、時に掻い潜り、その瞬間の心に従って縦横無尽に身体を動かすその姿は、毛の一本一本までが瑞々しさに溢れている。
そして純粋な想いの乗った剣は、幼い童が振るう紙の剣から童心を残したまま成長したかのようだ。
我が剣を見よ、我が姿を見よと、対戦相手に、世界に、自分自身に見せつけて誇るように遊び狂う。
自分と戦っている時には決して見せないような清々しい笑顔。
まるで無駄ばかりなのにどこか洗練されているその剣に、紫は心を奪われる。
――あんなに夢中になれるなら、私なんて放っておけばいいのに。
紫が思う前で勝負は佳境に移った。
天子は卓越した身体能力と無軌道過ぎる動きで誤魔化しているが、それでも遊びの剣では隙が多すぎる。弾幕ごっこならいざしらず、単純な剣の腕前では妖夢のほうが上手であった。
妖夢はその中でも、天人の身体能力ですら消せない致命的な隙を狙って木刀を滑り込ませた。
脇腹を狙って突き出された木刀を天子はギリギリで避けるが、直後に木刀の切り上げが襲う。
天子は笑った口元をわずかに引き攣らせて大きく後ろに飛んだ。なんとか避けれたが、鋭い太刀筋に髪の毛の先が切り取られてしまった
妖夢は宙に舞う蒼い毛を剣先で弾くと、次の瞬間には天子の目の前に詰め寄っていた。
縮地と呼ばれる独特の移動法だ。また上達したのだろう、傍から見ている紫でさえも一瞬見失いかけた。
あまりの速さに天子は目を丸くしたが、彼女は意識よりも早く反撃に転じていた。
ひたすら勝負を堪能したいという渇望が右足を踏み込ませ、天子は導かれるように握り込んだ木刀を前に出した。
まばたきするほどの僅かな間に互いの木刀が振るわれ、中央で衝突しあい、妖夢の繰り出した面をギリギリのところで防ぐ。
だが妖夢はこれまでに幾度か天子と剣を交えているのだ、この程度の抵抗は予想の範疇。
器用に手首を返して相手と交差した木刀を下に回り込ませると、地面を踏み締めてかち上げた。
守りがこじ開けられ天子の胴体ががら空きになるが、これでもまだ直接切りに行くには甘い、ここ一番での天子のしぶとさはずば抜けている。
まず天子の剣を握る右手を切りつける。
強烈な衝撃が天子の手を痺れさせ、思わず木刀を取りこぼしそうになるのを気合で保った。
だが天子が痛みに気を回していた間に、妖夢の次の太刀が天子の胴を叩いていた。
達人の剣が身体にめり込み、頑強な肉体を持つ天子も顔を苦痛に歪ませる。
更にダメ押しとばかりに顎先を木刀が打ち上げて勝敗が決した。
妖夢も容赦ないなぁと紫は思うが、相手が天子では仕方がないだろうなともわかる。
普通の手合とは気迫が違うのだ、あれが相手はどうしても手元に力が入ってしまう。
しかし天子もさして気にしていないようで、顎を打たれた衝撃で尻もちを付きながらも、お腹を震わせて笑い声を上げた。
「あはははは! まーた負けちゃった、やっぱり妖夢は強いわね」
「本気でやってない相手に言われてもあんまり嬉しくないですけどね」
構えを解いた妖夢が愚痴るように言う。
明らかに今の天子の剣は戦いに特化したものではない。
「天子に手こずっているようではまだまだです」
「うわ、すごいバカにされたムカつく」
「だったら本気で戦ってくださいよ」
「本気よ! 本気で楽しんで戦ってるわよ!」
「そっちの本気じゃなくて、勝つ気の本気で……あーもう」
こちらの理屈が通じないことに妖夢はじれったくなり、天子を手を取って引っ張り起こすと話を終わらせた。
要石や気弾を使わない純粋な剣技だけで、遊んでいる天子にこうまで手こずるのは妖夢にとって不満が残るようだ。
「はあ……こんなのじゃ魂魄の剣を極められるのはいつになるやら」
「あぁ、剣の極みね。雨を斬るには三十年、空気を斬るには五十年、時を斬るには二百年」
「――いえ、そんなものじゃありません」
瞬間、妖夢の気が鋭く張り詰めて天子の意識を刺した。
常人なら目眩くらいは起こせる強大な意志を漏れ出させ、妖夢は木刀を地面に置くと二刀の真剣を引き抜き構えた。
「時を斬るのも全ては過程に過ぎません。我ら魂魄家が目指したものはもっと先にある」
妖夢の視線が妖怪が鍛えたという長刀の楼観剣と、魂魄家の家宝でもある人の迷いを断つ白楼剣の刃先をなぞる。
果たして眼光を鮮烈に輝かせる妖夢の見ている先がどこにあるのか天子には知れなかった。
時を切る絶技を過程と言って捨てた妖夢のそれは自惚れなのか、あるいは天界の天仙をも超えた先に手を伸ばそうとしているのか。
「ただ斬って断つ、それ以上のことを成すことこそが魂魄家の使命――」
妖夢の見せた剣客としての片鱗は、天界で数多の達人を見てきた天子ですらわずかながら圧倒されてしまった。
悔しさ半分期待半分で、自分の怯えを笑い捨てる。
「見てみたいもんね、あんたの言う魂魄の秘剣」
「見せるもんじゃありませんよ。そもそも私じゃ到達できるのかすらですし」
漲らせた覇気を解き、いつもの穏やかさを取り戻した妖夢が謙虚に言って剣を鞘に収める。
控えめな言葉を選ぶ剣士に天子は「私に勝ったんだからそこまで行ってもらわないと困るわ」と無責任な期待を押しつけた。
「それにしても戦って喉乾いちゃったし、お茶でも――ゲェッ、紫!?」
「顔を見るなりゲロでも吐きそうな声を出すなんて下品な娘ね」
ようやく紫に気づいたらしい天子が悲鳴を響かせた。
「紫様、もう来てらっしゃったんですか。すみません、気が付かなくて」
「いいのよ。面白い勝負だったわ」
「ちょっと妖夢! こいつが来るなら来るって言いなさいよ!」
よっぽど紫のことを気に入らないらしく、無関係な妖夢にまで当たり散らす。
戦闘中よりも殺気立つ天子に、幽々子は和やかな笑みで話しかけた。
「ちょうどいいわ、今日は紫の冬眠前に最後の宴会をやる予定なの、天子も混ざったら?」
「ちょっと幽々子?」
「いいからいいから」
止めようとした紫だが、笑顔の幽々子に軽やかに流される。
「……冬眠って、寝るのあんた?」
「ええ、そうよ。だからと言って私の眠っている間に下手な考えは起こさないようにね。緊急事態となれば途中で切り上げるくらいはするわ」
「……天界であんたについて聞いた噂じゃ、そんな話なかったけどね。まあいいわ」
冬眠中も問題があれば起こすようにと藍に言い聞かせてある。
疑問だけ解いた天子は案の定、鼻息を荒くして腕を組み威圧的な態度を見せつけた。
「ふんだ、だーれがそんなやつと一緒に。とは言え宴の邪魔をするほど無粋でもないから今日のところは帰ってやるわ」
「はいはい、だと思ったわ不良天人さん。お好きにどうぞ」
紫も大概天子の性格をわかっており、手の甲を見せて追い払う仕草をする。
天子もそれ以上言葉を交わそうともせず、一同に背を向けて白玉楼の門を開けると去っていった。
「……それにしても冬眠か、なるほど」
門を閉め忘れるほど考え込みながら言い残した言葉が紫の不安を煽ったが、藍が対応してくれることを考えれば大丈夫なはずだ。多分。
「あらら、帰っちゃったかい。残念だねい」
紫が胸中の不安を振り払っていると、突然虚空から聞こえた声が木霊した。
どこからか霧が湧き出て縁側に座っていた紫と幽々子の周りに渦巻き、霧が収束し一つの形を取って姿を現す。
可愛らしい幼い女の身体と、それに不釣り合いな鎖と分銅、瓢箪、そして頭に生えた異様な二本の角。
「あら萃香、いらっしゃい。あなたももう来てたのね」
「やっほー。お邪魔してるよ幽々子、妖夢」
「萃香さんが来たならお茶よりお酒ですね……って、もう出来上がってるじゃないですか」
宴会前だというのに早速酒臭い息を漂わせる子供のような鬼は、鬼の四天王とも呼ばれる紫の友人の伊吹萃香だ。
「萃香まであの小娘を歓迎したいの?」
「ああそうさ。お前と違って私はあいつを気に入ってるからねえ」
「紫も天子も話し合えば仲良くなれるんじゃないかとおもうのよ。馬が合うと思うわ」
「そーそー、私も同意見だね」
「あなた達がどう思おうと向こうが敵意を示す限り意味が無いわね。一応、歩み寄ってこれるよう配慮はしたつもりだったけど」
『投我以桃、報之以李』と伝え、とりあえずチャンスを与えたのは確かだ。
そのチャンスを本人が不意にしているがしょうがないだろう、大抵の者はそういうものだ。
「まあ別にいいでしょう。私がいなくとも彼女は元気にやって行けてるもの」
どうせ紫の存在など天子にとっては本来取るに足らないことだろう、恨みも時間とともに風化して、いつか幻想郷に馴染んだ住人になる。
「やっぱり紫は優しいわね、自分の気持ちよりも天子の為を考えてる」
「別にそんな、私は幻想郷のことを考えてるだけよ」
照れ臭そうに紫は誤魔化すが、天子にも慈悲を持っているのは明らかであった。
「でもだからこそ天子と仲良くしてほしいわね。紫の優しさは自分に後ろ向きだから、あの娘のような明るさが必要だと思うの」
「……ああ、幽々子が言うのはそういうこと」
しかたないことだが、紫の周りにいるのは妖怪であったり亡霊であったりと陰の気配の強い者ばかり。
天子のような陽の気質を持った者が友達になってくれれば、紫にとっていい刺激になると幽々子は思っているのだ。
幽々子は何かと紫に気を回してくれるが、少しばかりお節介というものである。
「生前の私じゃ、果たせなかったことだしね」
思い出せない人間時代に手を伸ばそうとし、幽々子は自虐気味に言葉を零した。
それにつられて紫も悲しい顔をする。生前の幽々子との記憶は、紫の根幹を成すかけがえない思い出として今も残している、その出来事を思い出すと結末に胸が詰まる。
妖夢もまた主人が見せた陰りに何か思うところがあるのか、切なそうに表情を暗くさせていた。
辛気臭い空気になったところで、酒臭い息を吐いた萃香が、紫と幽々子の首に腕を回して身を引き寄せた。
「まあまあ、来年のことを言うと鬼が笑うよ。それより飲もう! 紫の一年を祝って騒ごうじゃないか」
「そうね、そうしましょう……いや、その前にまた新しい客よ」
紫が白玉楼の開きっぱなしの門へと目を向けると、虚空に僅かな空間の歪みを捉えた。
そして文字通り瞬間的に、門の前に二人の人影が現れる。
大鎌を担いだ赤髪の女性と、硬い雰囲気の小柄な緑髪の女性を見て、紫はわずかに顔をしかめる。萃香などは「げっ」と言うと霧になって逃げ隠れてしまった。
「こんにちは幽々子さん、今日は冥界の管理について話に来ましたが……間が悪かったようですね」
幻想郷の死後の裁判を担当する閻魔の一人、四季映姫・ヤマザナドゥとその部下の小野塚小町だ。
これからお楽しみというところでいきなりの訪問に、さしもの幽々子も不機嫌そうに眉を寄せた。
「アポイントメントは取っておいてくださらない?」
「すみません、休みの日の散歩ついでにと来てみましたがぶしつけでした。日を改めて来させてもらいますが、冥界へ送る魂の量の予定表だけでも受け取って下さい」
映姫が取り出した巻物を、妖夢が代わりに前に出て受け取った。
後は大人しく帰って欲しいと誰もが思っていたところだが、映姫は帰路に付く前に紫へと冷たい視線を浴びせかけた。
「お久しぶりですね八雲紫。あなたとは顔を合わせる機会は希少だ」
「ええ、いつも私が逃げ回っておりますもの」
なにせこの閻魔は、この世界の理が形を持って歩き出したような堅物だ。
存在の根本から世界に反する紫にとっては目の上のたんこぶだ。
「閻魔のあなたがわざわざ小間使い?」
「地獄は人事再編で人手不足ですから、やれる者がやれることをやるしかないのです」
「まあ、あなたの部下がクビにならない辺り、人手不足は本当のようね」
皮肉を言った紫はサボり魔の死神に見やる。
粘着く視線に絡みつかれた小町は快活な笑い声を上げた。
「あはは、映姫様は厳しいからね、私くらいのエリートじゃないとついて行けないのさ」
「……小町、余計なことは言わなくていいですよ」
「アイアイサー」
要約すれば厳しすぎて部下に逃げられるということなのだろう、映姫も自覚はあるのか様子で苦そうな顔を俯かせた。
恥じ入る閻魔は咳払いをして話を戻す。
「毎回言っていますが、あなたはあるべき場所に戻るべきだ」
やっぱり来たなと、紫は苦い顔をする。
元より説教が趣味な映姫からしてみれば、紫は格好の得物なのだ。
「あなたの存在は居て良いものではない、無理な形でこの世に顕現することは、世界の均衡を乱すばかり」
「そう言われても気が付いたらこっちにいるんですもの。無意識なんだからどうにもできませんわ」
「あなたなら無意識下の心理にも手を伸ばせるでしょうに、それすらしないのは怠惰です」
実際映姫が言うような努力はしていないのだから耳が痛い。
困った顔をする紫に、映姫はなおも説教を続けた。
「命あるものは産声を上げた時から……いや、母の胎内で魂を宿し、可能性を生み出した時点で罪を背負うもの。あらゆる存在は自らの罪を抱えて償うために生きているが、その中でもあなたの罪は特大だ。境界を超えてこちら側に来るなど世界の理に反する、その先には多くの悲しみが待っていますよ」
その内容に、幽々子がわずかに苛立たしい空気を醸し出すのがわかる。お陰でそばにいる妖夢がオロオロし始めた。
しかし映姫の言葉に対し、紫は一切の否定を持てなかった。
悔しいが何もかも言うとおりだと思う、自分はいつ誰かの悲しみを生まないとも限らない歪な存在だ。
この世界に元々いる者から見れば、自分のような異物は排除されてしかるべきだろう、だがだからと言って黙ってそれに従うほど弱くもなかった。
「私はすでにこちらの世界で多くの繋がりを得ました。みんなを悲しませないためにも、ここで生きていきたいのですよ」
自分には愛する家族がいて、慕ってくれる友人もいる、自分がいなくなることは彼女たちを悲しませることだと紫はわかっているつもりだった。
その宣言に幽々子は嬉しそうに表情を緩め、映姫もまたとりたてて反論する気もないのかそれで話を切り上げた。
「用件も済みましたし、そろそろ御暇させていただきます」
「あら、そろそろお茶漬けでも勧めようかと思いましたのに」
「止めたほうが良いよ。この人、平気な顔でおかわりまで食ってくから」
「どういう意味ですかそれは」
幽々子の皮肉に部下まで悪乗りされ、嫌われ者だと自覚している映姫はそこまで恥知らずではないと小町を睨みつける。
しかしこの堅物の部下を続けているだけあって肝が据わっているようで、その程度の威圧など物ともせず死神はヘラヘラ笑っている。
仕方なく溜息を吐いた映姫は、最後に少しだけ紫に言い残した。
「罪を背負いながらもこちらで生きるというのならば、それを償えるよう前向きに生きることです」
そして映姫は小町を連れて帰っていく。
門前まで歩いたところで、小町の能力によって瞬間的に超距離を移動して、紫たちの前から忽然と姿を消した。
説教魔人がいなくなったとみて、姿を消していた萃香も分散した霧から再び萃まって姿を表した。
「相変わらず固いやつだね」
「一応励ましてるつもりなんでしょう」
「あれで?」
嫌な相手であることこの上なかったが、あの閻魔の性根が善性であることは紫は承知していた。
閻魔であること以外に自己表現することができない、壊滅的に不器用な性格というだけなのだ。
だから紫も嫌ってはいるが憎んだりなどはしていない。耳が痛かとろうと、本人のためにも軽く流してやることが一番だ。
「さてそれじゃあ改めて宴を始めましょうか」
紫が手を叩き音を鳴らして空気を入れ替える。
嫌なことを忘れて幽々子と萃香も笑みを深め、妖夢は粛々と宴会の準備を始めた。
「妖夢ー! 準備をお願いね。あっ、でも先にお茶のおかわりを」
「はいはい、わかりましたよ。ちょっと待っててください、この日のための良い茶葉があるんです」
「もうすぐ藍と橙も来るから遠慮なく準備に使ってあげてね」
白玉楼に笑い声がこだまする。これならこれからのことを考えて陰鬱な気持ちになっていた紫も気が紛れるというものだ。
この宴会が終わればすぐにでも冬眠に入る。冬眠と言ってもただ寝ているだけではない。
冬の間、自衛用の結界に包まれながら、自らの夢の中でこの一年の記憶の整理をしてバックアップの容量を減らす。
その作業こそが八雲紫にとっての冬眠なのだ。
◇ ◆ ◇
「これは削除――こっちも削除――」
冬の時期、冬眠しているはずの紫の意識は誰もいない夜の屋敷にあった。
庭ではまだ咲かないはずの桜の花びらが、開け放たれた縁側から舞い込んでくる。
今の紫は冬眠の真っ最中。紫は腕置きに体重を預けただらしない姿勢で机のお茶を時折口に運びながら、目の前に浮かんだ画面から削除候補のメモリーを順番に閲覧していた。
ここは夢を模倣した内面意識の精神空間だ、夢の性質を理解している紫は作業をするのに最適な環境を作ることができる。つまりは散っても花びらの減らない桜の木に、自分の家のレプリカ、いくらお茶を注いでも中身がなくならない急須。
これらの他にも欲しい道具や甘味を即座に作り出すことができる。味覚も含めて完全に再現できるため、住み心地だけは現実より良いだろう。ただ一緒にいてくれる家族と友人は虚しくて作る気にならないが。
ここで紫はここ一年の記憶の内、不必要と判断したメモリーを次々と削除していった。
外界のパソコン画面を模したインターフェイスに浮かび上がるのは、他愛ない日常の思い出。
作ってくれた料理に美味しいと伝えると嬉しそうに笑ってくれた藍、自分の手で作った木の人形を楽しそうに見せてくれる橙。自己を保つには必要のないそれを次々に切り捨てる。
「これも削除ね」
幽々子に驚かされた妖夢の叫びが、削除の一言だけで消去される。冬が開ければもう二度と思い出されない。
博麗大結界を記録媒体として利用したメモリーのバックアップだが、実際のところ何から何まで保存できるほど容量は大きくない。
一分一秒ごとに世界を感じ取る記憶は膨大であるし、昔から継承し続けている重要なメモリーにも容量を割かなければならない。
特に重要なメモリーに関しては妖魔本という形で別途に保存してあるが、それらからいちいち記憶を読み込んでいてはいざという時に咄嗟に対応できないし、なによりそれでは非常に疲れる。メモリーを脳に書き込むのだって相当な負担なのだ。
紫自身の精神と体力の消耗は、こちら側での活動期間を大幅に縮めてすぐに境界の隙間に引き戻されることに繋がる、記憶容量を増やそうとしてそれでは本末転倒だ。
結果として幻想郷のおこりや身の回りの環境や生い立ちなどは常に思い出せるよう大結界のバックアップ内に含められており、追加で保存できるメモリーはせいぜいが一年分程度。
些細な思い出とて大切ではあるが、生存のためには重要ではないのだ。
「この記憶は重要ね、圧縮して残しておかないと。とりあえずモノクロ化して画質を落として……っと」
画面が変わり、異変に関する記憶に移ると操作を変更する。
まず道具を作り出した。意識に応じて空間が泡立つとその下からパソコンのマウスが現れ、それを動かして手元のみの操作で記憶を変化させる。
映像となった思い出から一つの場面を切り取って画像のみに変え、そこから更に容量を減らすよう画質を落とす。
写り込んだ画面では、あの比那名居天子がギザギザの目立つ絵となって表示されていた。そこから更に印象的な空色の髪の毛を残して他は白黒に変化させ容量を極限まで減らす。
異変の首謀者たる彼女は今や幻想郷の重要人物だ、その姿形のメモリーは残す必要がある。
「今年の後半はこいつにだいぶ苦しめられたわね」
神経質そうに机を指で叩いて、湯気が立つお茶を啜る。
作業に適した環境と道具により滞りはないとは言え、延々と続く記憶の整理はどうしても苛立ってくる。
何より一人というのが辛い。冬が過ぎるくらいまでのあいだ、家族の顔を思い出の中でしか見れないのはやはり寂しい。それにその思い出も消していかないといけないのだ。
そんな中で見せられたのがこの憎らしい顔である、機嫌が悪くなりもする。
何故か夢の中にいる間は境界の隙間に引き込まれないのは安心できる点だが、それで独りの寂しさが慰められるわけではない。
「異変の概要は文章ログにして残せば十分ね。緋想の剣と比那名居家の能力で……」
今度は墨の乗った筆と紙を作り出すと、文字を書き連ね天子が起こした異変の記述を並べていく。
こうして文字だけの形態にするのが、最も記憶の容量を減らせるのだ。
異変のことについて記したら、今度は比那名居天子の情報をまとめていく。
成り上がりの天人、比那名居家の末裔、要石と気質を駆使して戦う、愛剣は緋想の剣、性格は傲慢だが根は前向きで諦めが悪い。
書き終わった紙は机の上を滑り、部屋の脇に置かれていた分厚い本の頁の隙間に吸い込まれた。
これは現実世界に博麗大結界ともリンクされており、ログ化されたメモリーが保存された。
「はい、それじゃ残りは削除と」
そうして落成式で乱入された天子の驚いた表情を削除したところで、メモリーの整理は再び日常の記憶に入り、また思い出を消していく。
いくつか文字で出来事を残しながら、途中で気になる記憶に突き当たり紫は手を止めた。
「これはどうしようかしら」
浮かんだ画面に手を伸ばし、ボタンを押すように画面を指で叩く。
すると残った思い出が画面上で動画として再生され、その時の音声が再現された。
『投我以桃、報之以李。私に桃を持ってくれば、李を持って許しましょう』
画面の中で、弾幕ごっこに敗北した比那名居天子が地に伏せるのが映りながら、自分の声が唱えられた。
天子と幾度かの対決のあとに伝えた言葉だ。
紫は天子を嫌いながらも、怒りでしか走ってこれない彼女にわずかながら同情していた。
だからそれ以外の道を歩くきっかけくらいは作ってあげようと、この言葉を投げかけたのだ。
しかしその後の天子の反応は芳しいものではなかった。
「……もう消してしまってもしいかしら」
あれからも天子は敵対を続け、この言葉が今更意味を持ってくれるとは思えない。
それに気にかけた相手が応えてくれない虚しさから、いっそ忘れてしまえば楽になるだろうとも思った。
誘惑にかられて削除と口にしようとする。。
しかしだ、記憶を失う苦労と悲しさを知っているのに、自ら望んで記憶を捨てるというのは、今まで自分の人生に反することではないか。
冬眠前に藍に尋ねてしまった疑問を思い出す。
何故自分に従ってくれるのかと聞いたあの一瞬に、藍が悲しんでいたのを紫は感じた、去年の記憶が残っていれば不安になって尋ねることもなかっただろうに、記憶が無いゆえに不安と疑念を抱き無遠慮に悲しみをばらまいた。
記憶を失う宿命から仕方なくそうしてしまうのはまだ良い、だが自分からそれを選んでしまうのはどうなのだろう。
思い出から逃げようとする紫だったが、意地が記憶を削除しようとする手の動きを止めた。
「……もう一年くらいは残しておきましょうか」
どうせワンシーンだけの短い記憶だ、残しておいてもそこまで容量は取らない。
画質や音声の劣化などの容量削減処理だけして、後は手付かずのまま次の思い出に作業を移した。
◇ ◆ ◇
冬になり紫が長い眠りについている間、橙は頻繁に家に帰るようになっていた。
寒さが増してきてマヨヒガのボロ屋敷では辛いというのもあるが、藍を一人にさせっぱなしというのは流石に橙としても心地が悪いのだ。
彼女が炬燵の中で丸くなっていると、念話で藍から簡単な命令が届いてきた。
「自分のもとに来てくれ」という内容だ。紫と藍くらいの妖怪になれば念話だけですべての会話を済ませられるのだが、橙はまだ未熟なために事前に用意された文章しか受信できない。
どうせまた用事を頼まれるんだろうなと思いながら橙は炬燵から抜け出すと、冷たい廊下を走って藍の部屋へと駆け込んだ。
「藍様ー、お呼びですかー?」
「ああ橙、来てくれてありがとう、でもちょっと待っておくれ」
机に向かって一心不乱にペンを動かしていた藍は、自分で自室に呼んだはずの橙に顔も向けずに答えた。
顔には集中して作業する時に用意した伊達眼鏡が掛けられており、ガラス板から見える謎の数式と格闘している。
これがプライベートでの藍の姿だった。いつも熱心に何かを研究していて、夢中になると他のことが疎かになってしまう。
紫が起きている間は手綱を取られているが、冬眠中はこうやって計算にのめり込んでばかりだ。
「すまない、ここだけやったら行くよ。今良いところなんだ」
「もう藍様ったらすぐ夢中になっちゃうんだから、早めにお願いしますね!」
「ははは、すまんね」
橙がちょっとだけ偉そうぶるのに藍は言い返せず苦笑を漏らす。
暇ができてしまった橙は、藍を待つあいだ部屋の中を見物してみることにした。
プラスチックと言うらしい素材で出来たパソコンとか言うモノや、名前も全くわからぬ実験器具の数々。
よく新しい機材を紫に頼んでいるらしく、今年も冬までに名前もわからぬ妙な物が増えた。藍が綺麗好き故に使わなくなったものは物置にしまって整頓されているが、それでも部屋の半分以上は物言わぬ機械たちが占領してしまっている。
その中で橙がとりわけ興味を惹かれたものがあった。つい先日そこに新しく置かれた物で、藍の手作りらしくこの部屋にある物としては珍しく木製だ。
四角い柱のようなそれは中がくり抜かれており、一面にだけガラスが取り付けられ中が見れるようになっていた。
この前見たときには中に何もなかったはずだが、今は内側から緋色の灯りが放たれていた。
「綺麗……」
炎のようにも思えるが、それとはまた違う優しい灯りだ。
これと似ているものはなんだろうと考えて、そういえば天子の使う緋想の剣と似ているなと思い当たった。
「気になるかい?」
いつのまにか書き物を終えた藍が後ろに立っていた。
緋色の光は藍の顔をほのかに照らしており、伊達眼鏡のガラス板に光が反射して目元を隠してしまっていた。
「藍様、これはなんですか?」
「時空間に対して垂直に気質を打ち込む装置さ。気質を境界の内部に潜り込ませ、反応を見ているんだ」
「境界……」
藍の言っていることは、つまりは紫が闇の底に眠る時の、あの暗い場所を探っているということだと橙にはわかった。
「――藍様、境界の向こう側は怖いですよ」
おぞましさに尻尾を逆立たせ、目を見開いた橙が低い声で言い放った。
「……そうか、お前は向こう側を覗いたことがあるんだったな。不用意で悪かった、だがこれは紫様に安全面で審査してもらってからやっている。大丈夫さ」
藍が手を伸ばし、橙の身体のこわばりを溶かすよう頭を撫でた。
優しく言い聞かされ少し落ち着いた橙だが、まだ緊張は取れていないようで不安を口にする。
「もし、これが原因で境界が乱れたらどうなりますか」
「下手をすればこれがきっかけで幻想郷の一つくらいは潰れるかもな」
「やっぱり……」
橙はもう一度緋色の輝きを見つめる。じっと緋色の灯りを眺めていると次第に不安が薄れてきた。
こんなに優しい輝きがそんな恐ろしい結果を引き起こすとは思えなかったのだ。
主の主が許可を出した以上は大丈夫なのだろう、汗ばんだ自分の手を開いて頭から感じる藍の手の心地よさに身を任せた。
「気質とは想いの力だ。想う力に時間も場所も関係ない、あらゆる境界を超えてそこに届く」
「なんだかロマンチックですねそれって」
「それに境界の内部にも気質は存在しているらしいからな、紫様がそうであるように向こう側にも心を持った何らかの存在がいるのだから当然だが。故に気質の性質を変換して向こうの世界に馴染みやすい形式にすれば、より境界に対して浸透しやすく」
「台無しです藍様……」
夢想に胸を躍らせ始めたところで、理論的な話に水をさされて橙は苦い顔をする。
「ところでこれ、天子の剣と似てますね」
「ああ、これは緋想の剣を参考に作ったものだからな。何度も紫様に突っかかってたからデータは取り放題だった」
「何であの剣なんですか?」
「気質の操作という点において、この世にあれ以上の宝具はないよ。あれこそは、紫様を滅するために、永い時間を掛けて天界が作り出した技術の結晶だ。まあ無意味だったんだが」
藍から侮蔑を含めて語られた言葉に橙は驚いて振り向いた。
その表紙に乗せていた手を弾かれた藍は、袖の下で両手を組ませて凛然と佇んでいる。
「滅する? 紫様を?」
「覚えておけ橙。どれだけあの方が誰かを愛そうと、紫様の存在がこの世界にとって危険な異物なのは事実なのだ。当然敵も多い、この幻想郷にも紫様に対抗しようとした者たちの末裔がいくつかいる」
橙にはその言葉はショックだった。紫に敵がいるということではない、他でもない藍の口からハッキリと『異物』と語られたことがだ。
紫が妖怪から見ても危険な存在だと、ありのままの厳しい現実を認めるには、まだ橙は幼すぎた。
困惑したまま続けざまに尋ねる。
「ねえ藍様、もしその人達が紫様を倒そうとしたら、どうしますか?」
「当然、紫様のために戦うまでさ。家族だからな」
藍はそんな幼稚な動揺を鮮やかに払ってみせた。
堂々と当然のように言われた言葉が心に染みて、橙の顔にようやく笑顔が浮かぶ。
大丈夫だ、藍様には紫様がいて、紫様には藍様がいる。そのことは橙にこれ以上ない安心感を与えた。
そして今はただのおまけにすぎない自分だが、その一員であることがとても喜ばしい。
「さあ、随分話し込んでしまったな。それでは研究の続きを……」
「の前に! 藍様の用事はなんですか?」
「おっとそうだったそうだった」
隙あらば机に向かおうとする尻尾を捕まえて、橙はもう一度面向かった。
「お使いに言ってきてくれるかな。これがメモな」
「もー、藍様ったら。最近私に押し付けてばっかりじゃないですか、結界の調整以外ずっと引き篭もってます。せっかく私も帰ってきたのにー」
「うっ……ご、ごめんよ。わかった、明日は一緒にどこか出かけよう! だから今日だけは頼むよ」
「わかりました、明日は絶対ですよ!」
膨れっ面をする橙だが、約束を取り付けられただけで上出来だと内心喜んでいた。
メモを受け取って軽い足取りで部屋を出て行く。
「それじゃあ藍様行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
元気のいい式神に手を降って見送った後、藍は一人になった部屋で、そっと眼鏡を外した。
「さて、ここのところ我が家の周りを嗅ぎ回っているやつがいるな。屋敷の結界に阻まれて来れないようだが……」
机の上にそっと置こうとしたが、つい力んだ手がレンズを囲むフレームを歪め、爪先が机に食い込んだ。
「研究を続けたいところだが、私達家族に害する鼠は誰だろうと排除する」
殺気立った眼を見開いて、藍がまだ見ぬ外敵に威嚇するかのごとく喉を鳴らした。
だがそれもこの部屋の中までだ、藍は自らの殺気を押し殺して気配を絶ると、先に出た橙の後に続いていった。
◇ ◆ ◇
橙は空を飛ぶのは寒いからと、雪の上を走って人里に向かっていた。
元々は猫から変化した妖怪であるし、二足歩行でも空より地上を走るほうが性に合う。
シャクシャクとテンポよく雪を踏み締めながら、かじかむ手を口元に寄せ息を当てた。
「うぅ~、寒い! 早く済ませて炬燵で温まろっと!」
お使いでは余ったお金のいくらかを自由に使っていいという取り決めがある、おまんじゅうでも買って炬燵でほっこりしながらおやつにしようと考えていた。
その時にはついでに明日の計画でも練ろうと思いながら木々の間を縫って行く――
「そこな化け猫。ちょっと待ちなさい」
どこからか聞こえてきた高圧的な声に橙は思わず立ち止まった。
驚いて周りを見渡した直後に、上空から巨大な岩石が降ってきて橙の目の前に轟音を立てて突き刺さった。
「うわぶっ!?」
跳ね除けられた雪を顔にかぶってしまい、冷たさに悲鳴を上げてしまう。
顔についた雪をはたき落として前を向くと、特徴的な注連縄のついた岩石と、その上に座った少女が瞳に映った。
「ひ、比那名居天子……」
上から見下ろしてくる人物に、橙は声を震わせた。
いつもいつも一家の長に敵意を向けてくるあの脅威が、今は自分の前にいるのだ。
無味乾燥な顔をした天子が、緋色の瞳でこちらを覗き込んでいる。
紫が相手では一蹴される天子だが、それでも橙から見れば相当な実力者には違いない。
黙ってこちらを見ているだけで威圧感がのしかかり、橙はたじろいで後ずさりした。
「八雲橙……じゃないんだっけ? ただの橙? どっちでもいいわ、あいつの家族には違いない」
「な、なんのよう!?」
警戒して声を荒立たせる橙に、天子は大した動揺もなく平然と口を開く。
「あんたに聞きたいことが――いや、もう一人来たか」
言葉を終えた直後、天子の背後の林から金色の閃光が疾走った。
凶悪な爪を立てて突っ込んできた脅威に、天子は振り向きもせず要石を作り出し、背中越しに受け止めさせた。
現れた何者かは不意打ちにもかかわらず防御され、舌打ちを鳴らして橙を庇うように場に割って入った。
「八雲藍か、丁度いいわ。どっちかって言えばあんたと話したかった」
予想通りと言うように天子はニヤついて、要石から飛び降りた。
橙を遮って立つのは白面金毛九尾の狐の勇猛な姿。
「藍様!」
「比那名居天子、私の可愛い式に手を出す気か」
藍は屋敷の周囲を探っているのが天子だということは予想していたが、橙を囮としただけでこうまで直接的な手段を取ってくるとは思わなかった。
ただ主に突っかかってくるだけなら構わないが、か弱い式神を狙おうというのなら藍とて容赦はしない。
敵意を剥き出しにして構えた手刀に妖気を集中させた。
「紫様に勝てないから、今度は橙を狙おうというわけか? 見下げたものだな」
まとった妖気が爪先から伸び、金色に輝く刀剣のような形を取る。
いざとなればスペルカードルールすら無視して殺しにかかって来る気だろう。
天子は冷静に説いた。
「違う。私は、話を聞きたいだけよ」
「ふん、信用できんな。敵意がないというのなら、その証を見せてみろ」
藍はできるものならやってみろと、挑発のつもりでそう言いのけた。
だが鼻を鳴らして仁王だつ九尾に、天子は何食わぬ顔で、懐から緋想の剣を取り出す。
気質の刀身が解かれて柄だけのそれを、天子は無造作に投げつけて藍に寄こした。
「これで、信じて貰える?」
思わぬ行動に、反射的に剣を受け取った藍はしばし硬直してしまった。
状況を受け止めきれず、疑惑の目で天子を睨みつけるしかなかったが、天子も一切動じず見つめ返してくる。
本当に敵意が一欠片も見えない。
その態度に藍が動揺していると、天子は更に自ら跪き、開いた手を上に両手を前に差し出した。
「それでも信じてもらえないなら、四肢を縛ってくれて結構」
――なんなのだこの覚悟は。
なりふり構わず武力と安全を差し出すというのは、壮絶な決意がなければ出来ないことだ。
藍だって天子のことは嫌いだ、彼女のせいで紫がいつも難儀しているのだから当然だ。
そんな相手に身を差し出せば嬲りものにされる可能性すらあるのに、それをわかって天子はこれをやっている。
「……いや、いい。無闇に疑った非礼を詫びよう。だが答えてやれるかはわからんぞ」
とは言え、あくまで藍は理性的に行動した。ここで感情的に天子を苦しませては、結果的に主の格が落ちるし、天子が持つ紫への恨みを加速させかねない。
妖気の刃を解き戦闘形態を解除する藍だが、あくまで橙をかばい警戒を怠らない。
「私が聞きたいことは一つよ」
天子はその程度のことは構わないと無視し、立ち上がると想いを口にした。
「どうして八雲紫は幻想郷を作ったのか」
主の核心に迫る質問に、藍たちには最大級の緊張が走った。
悲鳴が漏れそうになる橙を、藍が身振りで静止させる。
動揺が声に現れるのを必死に抑えながら、藍は慎重に言葉を選んだ。
「……それは妖怪が滅ぶのを防ぐためだ。消え行く妖怪を集め、生きられるように」
「それは名分でしょ、紫の目的はもっと別にあるはず」
藍は、もしや主の記憶に関する事柄を勘付いているのではと考えた。
だとしたら面白くない。この危険人物が、紫の弱点を知ってそれを悪用しないはずがない
いっそのこと、あらゆるリスクを看過してでも始末するべきかもしれない。
背後にやった手に、再び妖気を集めようとした。
「でもそれもきっと、本当の理由じゃない」
だが続けざまに語られた言葉に藍の妖気は霧散した。
その天子の評定は今まで見たことがないほど優しげで、紫の話をしているというのに彼女に対する敵意がない。
藍の背後で守られる橙も、その声を聴くだけで不思議と気持ちが静まり震えが止まっていた。
まるでこの幻想郷を作った紫を尊敬するかのように、澄んだ声で謳い上げた。
「私が思うにこの幻想郷は無駄な要素が多すぎる。まったくもって効率的じゃなくて、何か目的があるなら今の幻想郷の形態じゃなくてよかった気がするのよ。それなのに紫は非効率なこの方法を選んだ。目的なんてどうでもいい、その理由を私は知りたい」
今までの天子とは何かが決定的に違う雰囲気だ、今の彼女は敵意を無くして歩み寄ろうとしている。
藍はとうとう闘志を静め、肩の力を抜いた。
今の彼女にならそこまでの警戒はいらないと感じたのだ。
そうは思っても当然ながら紫の弱点をありのまま伝えるつもりはない。あくまで断片的に、しかしずっと傍にいた家族として確かな考えを藍は口にした。
「それは、紫様が誰かのために悲しめる方だからだ」
それが藍のありのままの感想だった。
事情を知らぬものから聞けば意味の分からない言葉だろうに、それを聞いた天子は瞳を閉じて神妙な顔をして頷いた。
「……そう」
何か得心した天子は、面を上げると藍に歩み寄ってきた。
つい驚いて身構える藍に、無造作に手の平を伸ばす。
「もう良いわ、剣を返して」
「あ、あぁ……」
藍は言われた通りに、緋想の剣を天子に渡した。
帰ろうとする天子だが、九つの尻尾の後ろから橙が覗き込んできていることに気が付いた。
「ああそうだ、一応あんたにも聞いてみなきゃね。橙はどうしてだと思うの?」
情報は多いほど良いと、ついでに橙にも同じ内容を尋ねてみる。
さっきの様子じゃあまりいい答えは返って来ないかと思っていた天子だったが、予想に反して橙は至極冷静に話し始めた。
「紫様は……いっぱい怖いことを知ってる方だと思うんです。だから優しいんです。普通の人にも妖怪にも見えないアレを見て、それでも優しくできる紫様を私は尊敬してます」
一瞬、橙の眼に恐ろしいものが映ったような気がして、天子はゾッとして肝が冷えた。
橙自身が恐ろしいのではない、彼女と紫が見たという何かがそれほどまで恐ろしいのだ。
その正体が何なのか、強烈に心を惹かれたが、それについて教えてもらえるとは思えなかった。
恐怖は口を固くする。無理矢理言葉でこじ開けようとすれば、頑なになるだけだろう。
ここまで聞けただけで十分な成果だと結論づけ、天子は振り返って大地に突き刺さった要石の傍で佇んだ。
「用は済んだ、礼を言うわ。私はしばらくここにいたいからどこへでも行きなさいな」
「そうか。では私達も忙しいので失礼するよ。行こう橙」
「は、はい、藍様」
藍は礼を言う態度ではないなと思ったが、そこにとやかく言ったところで良いことがあるわけでもないので、それ以上は言わずに橙を連れて人里の方へ去っていった。
「ところで藍様、いやにタイミングぴったりだったけどどうしてですか?」
「いやー、それはそのだな」
「もしかして私、何も知らされずに餌役やらされてました?」
「いやな、そういうわけじゃなくてだな」
「私、今日は色んなお店に回りたいなー」
「……す、すまなかった。今日はこれから付き合うから」
「明日もですよ! 約束、忘れてませんからね!」
和気藹々とした声が天使の耳に届いたが、それも徐々に遠ざかっていく。
残された天の少女は、要石を向かい合って突っ立ったまま押し黙っていた。
冷たい空気が木々の間を流れて天子の頬を撫でる。静かに吐いた息が白く煙るのを見開かれていた眼でしっかりと見ていた。
雲がゆっくりと流れる下で一刻は過ぎた頃、拳を握り、震わせた。
「――――うわあああああああああああああああああああ!!!」
突如として叫び声を上げた天子が、要石に鉄拳を叩きつけた。
渾身の力を叩き込まれ、堅牢なはずの要石が粉々に砕き散らされる。
ガラガラと音を立て、粉塵が巻き上がる前で天子は怒鳴り散らした。
「できるって言うのかあんたは!? 許せるって言うのか!? よりにもよってあんたみたいなやつが、この世界の異物なんて忌み嫌われるあんたが! 怒りも憎しみも捨てられるっていうのか!!」
狂乱して口走った無念が誰もいない雪景色に吸い込まれる。
石の残骸の前でそれでも足りず、膝を突いて雪に両の拳を叩く。
地面を向いてうずくまったままこれでもかと口を開けた叫んだ。
「いいわよ許してみなさいよ! 私に見せつけてみなさいよ! もし許せるなら、許せたならその時は!!」
いつかの未来を想像し、顔を上げた天子の頬は、大粒の涙で濡れていた。
「――私も、救われる」
長い時を生きた超人の言葉でなく、幼い少女の嘆きは誰にも聞こえることはなかった。
◇ ◆ ◇
冬が明け桜が咲き誇る心地よい春に、ようやく紫が目を覚ました。
途中で地底で異変が起きたことで叩き起こされたりしてしまったが、今回もメモリーの整理は無事に完了した。
ずっと寝ていて血の巡らない身体を重たいと感じながらも起き上がらせて、窓の外を覗いてみればそこには夢でない本物の桜が咲いている。
紫の起床とともに冬眠用の結界が解除されたのを有能な式神がすぐさま察知して、窓から外の風景を眺めていた紫の背後に現れた。
「おはようございます紫様」
「おふぁよぉ、らん……ふわあ」
眠い目をこする紫に藍が「これをどうぞ」と蒸した手ぬぐいを渡してくれた。
藍は急いでお風呂を沸かし、紫が湯浴びをしているあいだに、長期間なにも食べずにいた寝ていた主のために多めの朝食を作った。
お風呂から上がった紫がざっと四人分はある朝ごはんを食べ終え、湯飲みを手に一服していると、藍が一枚の封筒を取り出した。
「紫様、起きてすぐにで悪いですが、手紙を預かっていますよ」
「手紙? 私に?」
藍から手渡されたそれを手に取ると、封筒には歪んだ文字で「果たし状」と書かれていた。
「……なにこれ」
「とにかく読んでみてください」
すでに嫌な予感がしてならないが、藍に促され仕方なく中を見ると、震えた字が並んでいた。
拝啓、八雲紫様。
決着を付けたいと思います。
夕方、霧の湖に来てください。
――――比那名居天子より。
「うへぇ」
面倒臭さが露骨に口に出た。
穏やかな食後の余韻がぶち壊されて、紫は顔をしかめて手紙を放ると、紙は机の上を滑るように遠くへ離れた。
「行きませんか?」
「行かないわよ、寝起きで機嫌が悪いのに付き合ってられないわ」
すでに記憶の大幅な削除が完了し、天子に関する思い出のほとんどは消去されていたが、記憶を失ってもその人物に対する感情は残るのだ。
だから何度記憶を失っても紫は家族の藍に安心を感じるし、度々人の機嫌を邪魔立てしてきたらしい愚か者には嫌悪感を覚える。
「そもそも私は天人が嫌いなの、知ってるでしょう?」
「ええ、そうですね」
「いつもいつも寄ってたかって私の事いじめてきて。まあほとんど覚えてないんだけど」
去年の行動ログによればさんざん勝負を挑んできたらしい天子に対してもそうだが、元々紫は天人全体に対して恨みを抱いている。
そもそも何故いつも向こうから挑まれるのに、好き好んでこちらから戦いに出向かなければならないのか。
それにこの手紙のみみずがのたくったかのような文字はなんだろう。
怒りを思い出して手を震わせたりしたのだろうか、まさかこの字があの天人の腕前とかなら笑えそうだが、下手すぎるし逆に絶句するかもしれない。
「大体これには日付も時刻も書いてないじゃない」
「必要ないのでしょう、天子はいつも待っていますから」
馬鹿らしいと一蹴しようとした紫だが、藍の言葉を聞いて思いとどまった。
「待ってるって、どういうこと?」
「手紙は私も拝見しました。天子はこれを私に渡した日から、毎日夕暮れ時には湖でじっとあなたを待っています。かれこれ二ヶ月ほどになりますかね」
明かされた事実にはさしもの紫も驚いた、あの止まったら心が死んでしまいそうな娘が二ヶ月も同じ場所に来ているなんて。
単なる執着、というには真面目過ぎる気がする。
紫が知っている天子とは何かが違うような。
「いつ紫様が起きても良いように、いつ気が変わって良いように、三時間は丘の上で待ち続けています。きっと今後も、紫様が現れるまで続けるでしょう」
そこまでされては紫も無下には扱えなかった。
部屋の壁に掛けられた時計を仰ぎ見る。現時刻は午後四時、話が本当ならそろそろ待っている頃だろう。
机の端の手紙に浮かぶ汚い字を眺める紫は、思い悩みながらお茶を飲み干すと、諦めてため息を吐いて立ち上がる。
「出るわよ藍。一応あなたも着いてきなさい」
「御意」
天子も一応は幻想郷の一員であるしと思い、わがままに付き合う慈悲を持って紫は霧の湖へとスキマを開く。
この選択には『決着を付ける』という言葉がわずかに引っ掛かったのもあった。
天子が何か自分を倒す策を思いついたのか、それとも秘密兵器でも用意しているのか。
そんなところに向かおうなんて、自分のことながら馬鹿らしいなと思った。
「らしくもない気遣いかしらね」
「らしいと思いますよ」
「……おだまりっ」
「いだっ」
呟きに返されて、つい紫は藍の額を指で弾いた。
◇ ◆ ◇
夕暮れ時、昼と夜が曖昧になる不思議な時間。
西の空が世界を紅く照らす中、肩から鞄を提げた天子は要石に腰掛けて、手元の竿から湖に垂らした糸をじっと見つめていた。
黙って待ち続ける彼女の隣には、衣玖がお供としてふよふよ浮かんでいる。
当然ながら魚がかかるのを待っているわけではない、そもそも釣り針には餌もついていないし、針も真っ直ぐで魚がかかるような作りでもなかった。
しかして太公望の真似事というわけでもない。
紫を待つあいだ暇を潰したいが、あまり他のことに夢中になって心を乱すようなことをしたくないと考え、釣れない釣りという非生産的な遊びを続けていた。
つまらないのに特に不満を表すでもなく、天子はただ心を押し殺したような無表情だ。
「……あんたもさ、こんなつまらないことによく付き合うわね」
ふと天子が視線を変えないままに話しかけた。
少々無礼な物言いに、衣玖は温和な笑みを浮かべて返す。
「そうつまらなくはないですよ。何をするでもなく雲の中を漂っていた時よりも、あなたを見守るほうが楽しいです」
「……ありがと、衣玖」
ぶっきらぼうにだがお礼を言ってくれた天子に、衣玖は嬉しくも照れ臭そうに苦笑した。
いつもならこのまま大した会話もないまま日が暮れるまで待ち続けるのだが、二ヶ月を超えてとうとう変化が起きた。
二人の背後で空間が乱れる、境界が操られここではないどこかと繋がる。
そこから現れた者の気配を感じ取り、天子は緊張した面持ちで顔を上げた。
「総領娘様」
「……うん」
硬い声色で頷いた天子は、鞄を確認するように手で押さえて要石から降りると振り返った。
そこにいたのはあまりに強いおぞましい陰の気。この幻想郷の実質的な頭である八雲紫が、式神を連れて異空間から這い出てくる。
天子が望んだ待ち人がついに姿を現したのだ。
「ごきげんよう……さて、改まってなんのようかしら不良天人さん?」
一応は来たものの、紫の態度はいつもより辛辣である。なんせ長いメモリーの整理が終わったばかりでまだ神経質なのだ。
強い物言いに天子は一瞬怖じ気づくが、奥歯を噛み締めて紫の前に踏み出した。
近くまで寄ってきた天子は、身長の高い紫を見上げたまま、硬い表情でスカートの裾を握りしめている。
「……?」
戦闘になるのかと思いきや、何もしてこない天子に紫は疑問を浮かべる。
それなのに天子を取り巻く空気だけはいやに鋭く尖っていく。
動かない状況に面向かった二人の間で緊張感だけが高まっていき、とうとう天子が後ろ腰に手を回して鞄に挿し込んだ。
とうとう仕掛けてくるかと覚悟を決める紫に、天子からあるものが差し出された。
「……えっ?」
天子の手に握られていたのは、一つの桃だった。
まるで敵意の感じられない行動に紫が呆気にとられていると、天子は顔全体をこれ以上ないくらいに歪めて、閉じた目の端から大粒の涙を流して濁った声を上げた。
「ご、ごめん、なざ……ごめんなさいっ!」
予想だにしなかった言葉に、紫はただただ目を丸くして固まるしかなかった。
意味がすぐには飲み込めず、天子の背後で浮かんでいる竜宮の使いに目をやると、童を見守るようなにこやかな笑みで返されて、ようやく事態を飲み込む。
確かに「投我以桃、報之以李」と言ったのは紫自身だ、だがもはや天子から本当に謝ってもらえると期待はしていなかったはずだ。
それがこうして天子は自分から頭を下げている。
頭で理解しても未だに信じがたく、付き添っていた藍を振り返ってみれば、何かを促すように頷かれた。冬眠中に何があったか知らないが、どうやら彼女には予想通りだったらしい。
紫はほんの少しだけどうするか悩んだ。今までさんざん喧嘩を売られてきて、桃の一つで許すのは虫がよすぎるんじゃないかと意地の悪い考えが浮かぶ。
だが最初に許してもいいと言ったのは自分であるし、それになによりも、この少女の精一杯の気持ちを受け取ってあげたいと思った。
泣くほどの気持ちを、誰にも受け取ってもらえないのは悲しすぎる。
「……そんなに強く握っては桃が可哀想よ」
左手を伸ばした紫は、指が食い込んだ桃でなく、まず天子の帽子を左手で持ち上げた。
下からあらわになった頭を右手で優しく撫で、泣いて怖がる天子を落ち着ける。
眉間の皺を解いて瞼を開けた天子は、少し困惑したように自分に触れる紫の腕を見上げた。
肌を通してお互いの温かさが伝わり合う。手の平から感じる動きに、天子の身体が驚くほどに強張っているのがわかって、あまりの緊張ぶりに紫は不憫に思う。
頭においていた右手を下ろし指先で天子の涙を拭ってあげると、歪んでしまった桃を手に取ってほほ笑みを浮かべてみせた。
「あなたの気持ちは受け取ったわ、宜しければ私のもお願い」
紫は桃の代わりに、天子の帽子を差し出した。
「これからは仲良くしてね?」
それを聞いた天子は、泣き顔をさらにクシャクシャにして、涙で一杯の目元を腕で隠しながら帽子を受け取った。
「………………うん」
その記憶は、紫の大切なメモリーの一つとして丁寧にしまわれた。
天子と出会ってから冬が来るまでの記憶はそのほとんどを喪ってしまったが、この時に感じた想いは色褪せることなく残ることとなる。
永遠に――――
◇ ◆ ◇
桃の一件の後、紫は比那名居天子のことをある程度は友好的な相手だと認識し、また気にかけてあげるべき住人の一人だと思うようになった。
時たまスキマから天子の様子を覗き見て、暇そうならコンタクトを取ってみた。管理者として天子の能力は危険であったから取り入れそうならそうすべきという判断もあったし、あの涙を流しながらでも謝ろうとした気持ちに報いたかった。
誰であれ謝って自らの非を認めるのは否なものだ、天子のようにプライドが高いものであれば特に強い苦痛を感じるだろう。
それでも頭を下げた天子を、紫は認めていた。
「あっ、紫……」
現れた紫に天子は戸惑いを漏らす。
いたたまれなさそうに視線を逸らし、もう一度紫を見て、また逸らす。
「えっと……こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。何をしていたの?」
「何って、暇してただけよ。あんただっていつもの盗み見でそのくらいわかってんでしょ……って、ごめん」
また以前のような威圧的な言葉を取ろうとして、咄嗟に天子が頭を下げる。
「謝らなくても良いわ。私も暇だし、少し話していってもいいかしら」
「……別に、良いけど。私なんかでいいの?」
「もちろんよ」
最初はそんな風に恐る恐る触れ合うようなコミュニケーションだった。
出会うなり戦いということはなくなり、興が乗れば弾幕ごっこを楽しむことがあったが、それ以外にも囲碁や将棋などのボードゲームやお酒の飲み比べなど、その時の気分で幅広い遊びを選んだ。
態度を軟化させた天子との交友は、紫にとってそう嫌なものではなかった。
お互いのことを話しながら一緒に釣りをしたりもした。釣り針はちゃんと曲がっているものを使い、釣れたものを二人で串焼きにして一緒に食べた。
「天人なのに魚なんて食べていいのかしら?」
「別に悟りの境地なんて目指してないし。この大地に根付いた命をしっかり食べて、そのぶんこの地上で遊んで色んなやつとか関わって、私の想いを遺すのよ」
「……そう、意外としっかりした考えじゃない」
「う、うるさい、そんなんじゃないわよ」
幼さを保ちながら、一方で自分なりの哲学を持っている、そんな天子の性質に触れるのは面白かった。
そうして紫は時間を掛けて天子と交友を温めた。
途中冬眠を挟み記憶の大幅な削除があっても、天子に対しての好意は少しずつ積み上げられて行った。
そうして思い出を積み重ねて、桃を受け取ったあの日から数年の月日が経った。
「……白味噌なのね」
ある春先の朝食の席で、紫が手に持ったお椀に注がれた味噌汁を残念そうに言う。
暗い声に向かい側で並んで座っていた藍と橙が、一家の長の顔を覗き込んできた。
「お嫌いでしたか?」
「嫌いとまでは言わないけど、あまり好きじゃないわね。たまにはいいけど、あまり何度も食べたくはないわ」
「あれ? 去年までの紫様は白味噌大好きでしたよー?」
「そうだったかしら?」
記憶を探ろうにも、そんな瑣末なことにバックアップの容量を割いておらず、好き嫌いなど冬眠明けに喪失してしまっている。
思い出せないことを考えても仕方ない、重要なのは現在の紫がどう感じているかだ。
「では今年は白味噌以外を試してみますね」
「ありがとうね」
「いえいえ、それより冷めないうちにいただきましょう」
藍の言葉にまず紫が頷いて、両手を合わせていただきますと口にした。
そして藍と橙と、もう一人、合わせて三人がそれに続いた。
「それにしてもありがとうございます、天子様の分だけでなく、私までご馳走になってしまって」
「いやいやいいさ、気にすることはない」
「ええそうよ。招いた以上は天子だけでなくあなたも客人、存分にもてなされてくださいな」
控えめな主張をしてきた衣玖は紫の隣から少し離れた位置に正座したまま「それではありがたく」と礼を返し、香りの立つ焼き魚に舌鼓を打つ。
永江衣玖、去年以前の記憶はほとんど消去したので彼女との思い出は皆無だが、性格などのプロファイルについては圧縮されたデータに保存している。
紫は客人が満足しているのを確認すると、視線をずらして紫と衣玖のあいだにある五人目の席を見た。
「その天子はまだ寝てるようね」
「昨日は随分と酔っていましたからね、でもそろそろ……おっと、来ましたよ」
廊下からドタドタと思い足音がなり、四人が朝食を食べていた居間の襖が引かれた。
そこにいた天子は、げっそりとした表情で乱れた髪を垂らし、倒れ込むように部屋に入ってくる。
「うぅぅ、いく水ぅ……」
「はいはい、どうぞ」
これを見越して事前に用意していたコップを衣玖は天子に手渡す。
天子は震える手でなんとかコップを掴んで、注がれていた水を喉の奥に流し込んだ。
水の冷たさに蔓延する二日酔いの毒気をわずかに拭い、早速天子はご飯を食べている紫に突っかかる。
「このインチキババア! 昨日終わりかけで気づいたけど、飲み勝負であんた水飲んでたでしょ!?」
「あーら、なんのことかしら?」
向かい側にいる橙は天子の二日酔いとは思えない声量にしかめっ面で睨めつけてきたが、耳元で怒鳴られても紫は平然と箸を進めていた。
「それを言うならあなたが持ってきたお酒だって、妖怪特攻の毒酒じゃない」
「ぐぬっ、なんでバレてるのよ」
「あんなの蓋開けた瞬間に臭いでわかるわよ」
「妖怪には脳に痺れるくらい良い匂いでしたからねぇ。あれを天子様が持ってくればそりゃあ警戒されますよ」
指摘されて天子が重い頭を俯かせるのを見て、紫の脳裏には慰めるか更に弄るかの選択肢が浮かび、迷わず追撃を選んだ。
「昨日は大変だったのよ。天子ったら顔真っ赤にして私に抱きついてきて、ゆかりといっしょにねるんだー! って離れなくて」
「ええっ!? う、嘘よ、そんなことしてないわよ!」
「してましたわ、ねえ衣玖さん?」
「ええ、引き剥がすのに苦労しましたね紫さん」
わざとらしく小芝居する友人と部下の前で、天子は耳まで真っ赤になって絶句し、帽子を下げて顔を隠そうとする。
「ぐぐぐ、比那名居天子一生の不覚だわ。紫に弱みを握られるなんて……」
「安心なさい天子、あなたの弱みなんて写真付きで何十個も妖魔本にファイルしてるから、今更一つ増えた程度じゃ変わりないわ」
「焼き捨てろそんなもん! うぅ、頭痛い……」
恥ずかしがりながら吐き捨てる天子を見て、紫は満足げに笑い声を上げた。
なんだかんだで、天子からもけっこうな親愛を示してくれるのだ。だからこそ普段の小競り合いも楽しく突っつきあえる。
「そういえば衣玖。あなたは天子様って呼んでるけど、前からその呼び方だったかしら?」
「いえ、今年になってからですよ。何故か元から従者と間違われることが多かったのですし、正式に比那名居家に仕えることになりました。この前、従者の会なんてのにもお呼ばれされて、料理の仕方とか教えてもらいましたよ。妖夢さんが作ってくれたおはぎが美味しかったです」
「なにそれ私知らない、面白そうずるい……」
以外な衣玖の人脈に天子が死にそうな声で妬ましさを口にする。
「ふふふ、従者の会、略して従者会は主禁制だからな。残念だが天子は来られないぞ」
「藍様、一文字しか略せてませんそれ」
普段のしっかりした姿とは違ってボケたことを言う藍に、これが自分の仕事だと言わんばかりに橙が突っ込む。
いつもの天子ならこれにもまだ突っかかるところなのだが、調子が悪くて項垂れるしかないようだ。
寝起きの二日酔いと相まって苦しむ天子を見て、紫はしょうがないな苦笑した。
「ほら、いつまでも情けない顔してないの」
こうなる気がしていたので、事前に用意していた濡れタオルをスキマから取り出して、天子の顔に近づけた。
驚いて顔を上げた天子から目やにを拭う。
「朝なんだからシャキっとしなさいな」
「わ、わかってるわよもう。自分で拭けるわ、貸しなさいよ」
世話をされることに恥ずかしがった天子が、紫からタオルを奪ってむくんだ顔に押し当てる。
「ならけっこう。せっかくの藍が作ってくれたご飯よ。ちゃんと身だしなみを整えて、落ち着いて味わいなさい」
「白味噌に文句をつけられる程度の料理ですがね」
「うるさいわ。以外に根に持つわねあなた」
「紫様の式神ですので」
「どういう意味なのかしらそれ」
紫が小言の減らない家族に黙っていろと睨みつけていると、天子はタオルを鼻先にまで下げて上目遣いで見つめてきた。
「……ありがと、紫」
「……どういたしまして」
二人はお互いに相手のことを騙くらかして、隙あらば優位に立とうと争って。
それでもこうやって気を許し、穏やかなときを過ごすことのできる良き友人となっていた。
朝食も終わり、客人は「二日酔いをさっぱりさせたいから銭湯に行ってくる」と言いだした。天子らしい忙しなさだ。
「ありがとうございました。ほら、天子様も」
「わかってるわよ。ありがとね藍、朝ごはん美味しかったわ……それから紫! 次会った時は覚悟なさいよ!」
「はあー……どうしてこう素直じゃないですか」
不遜な態度にため息をつく衣玖だったが、天子の態度は謝る以前のものと違って棘がなく、この不遜さも気の知れあった仲だからこそ見せる態度だ。
それをわかっているからこそ、紫も腹を立てたりせず指を突きつけてくる天子にやんわりとした笑みで手を振る。
「そっちこそ次の負け惜しみを考えておきなさい。それともうすぐ白玉楼で宴会があるけど来る?」
「行く! それじゃ!」
「それでは失礼します」
「またね、ふたりとも」
出て行く二人を見送ったあとで、紫は居間に戻りお茶をすすり改めて余韻に浸っていた。
目を閉じて、天子との時間を思い出す。
冬が開けてから最初の邂逅、記憶の殆どをロストしてから初めて会った天子との一日半。
「ああ、楽しかったわね」
天子と直接触れ合った過去の記憶は僅かな思い出だけしかなかったが、冬眠より目覚めてから彼女のことを思い浮かべて、猛烈に会いたいという欲求に駆られたのだ。
記憶にはない、しかし確かに残った天子への想い、好意。それに押されて、昨日は天子のもとに駆け寄ってしまった。
ほんの少しだけ残った思い出と文章ログ化された情報だけでどこまで付き合えるか不安だったが、ちゃんと友達として一緒に過ごすことが出来て良かった。
「それにしても天子とここまで仲が良くなるとは思いませんでしたね。最初は敵意ばかりで話にならなさそうでしたが」
「そうだったらしいわね。今の天子だけ見てると考えられないけど」
「おや、あまり覚えてませんか」
「えぇ、その時期の記憶は全部消しちゃったわ」
天子と険悪な仲だったころの記憶の大半は、桃を手に謝ってもらえた直前の冬眠時に削除してしまっていた。
すでに紫にとって当時の思い出は霞の向こうに消えてしまったどころか、手の伸ばしようのない暗黒の奈落に零し落としたようなものだ。
話を聞くにろくでもないだろうに当時の天子はどんな人だったのかと気になり、自ら選んで削除したことを今更ながらもどかしく感じてしまう。
「その時はどんな風だった?」
「天子の方からなんども戦いを挑まれての連続でしたね」
「それだったら多分だけど今も同じだわ。昨日もね、会うなり勝負しろーって言ってきて、どうもライバル視されてるみたいで頻繁に挑んできてるらしいわ」
「今とはまとっている空気がだいぶ違いますよ。その頃の天子は紫様への敵意に溢れていて、紫様も会うたびにイライラしてました」
「へぇー、妙な話ね」
今の天子とあまりにも釣り合わない内容に、少しばかり違和感を覚えた。
落成式を台無しにしたことのログは残っているので、そのことで天子が恨みを持っていたのはわかる。
だがそれだけのことで敵意を振りまくほど、天子の器量が浅いとは思えないのだ。
謝ってくれた時のメモリーを思い出して、紫が出した結論がそれだった。
「でも幽々子様はこうなることを予見していたようでしたがね」
「うふふ、幽々子だもの」
「まったく、こっちはずっと一緒に住んでるのに敵いませんよ」
おそらくは、世界で一番紫のことをわかっているのが幽々子だろう。
彼女は亡霊となって以来ずっと紫のことを見ているが、その熱心さは家族と友人の垣根もやすやすと超えている。
「ただ、今の彼女との関係も少しねえ……」
「何か問題でも?」
「私は、天子のことを許したとなっているわけだけど、その時の私は天子のことをほとんど覚えていなかったわけじゃない? それなのに許されたと思って安心してる天子を見ると、罪悪感がね」
天子には自分が記憶を定期的に喪うことは説明していない。自分の最重要の秘密であり、そう簡単に教えて良いことではない。
この秘密を知っているのは家族である藍と橙の他には、幽々子と魂魄家、それと萃香だけだ。
立場を考えればこれ以上秘密を漏らす訳にはいかない、天子とはこのことを打ち明けずに付き合っていくべきだ。
しかしこれからもずっと天子を騙して行かなければならないと思うと、自分のほうが辛くなってしまう。
「言っちゃえば良いんじゃないですか?」
紫が声の方を見ると、机を挟んだ向かい側で寝転んでいた橙が黒い猫耳を揺らして起き上がっていた。
「だって元々知ってる幽々子様たちならともかく、萃香さんにだって教えてるじゃないですか」
「萃香は……一度彼女を怒らせちゃったことがあって、そのお詫びで一つ秘密を教えることになったからよ」
「でもその萃香さんより仲良くなってるしぃー」
「……そ、そんなに仲良さそう?」
「はい」
断言されて何故か頬が熱くなった。
「だって去年も萃香さんがうちに来たのなんて数回だけだったのに、天子たちは一ヶ月に一回くらいは泊りがけで飲んでるし。天子が衣玖さんも一緒じゃないとヤダって言ったら一緒に連れてきちゃうし、天子のわがままなら何だかんだ言って聞いちゃってるじゃないですか」
「そ、そうだったかしらー。おほほ」
照れくさくなってきて、咄嗟にスキマから扇子を取り出して口元を隠す。
昨日会った時はつい自然と家に招いてしまったが、前からそうだったとは。
とりあえず今後は天子を招待するのは控えようと決意する。
「藍様もそう思いませんか? もう天子にも教えちゃえばいいのにって」
「……私からは何も言いませんよ。ただ紫様の思うようにすれば宜しいかと」
藍はしげしげと頭を垂れそう言い切るのを見て、橙はむうと口をすぼめた。
藍自身も何か言いたいことがあるだろうに、あえてそれを封印して、紫に従うことを徹している。
「ただ言わせてもらうならば、今の中途半端な関係を続けていればどこかで歪が生じるでしょう。正直に話すか、潔く関係を断つか、どちらか選ぶべきだとだけは申し上げます」
「それは……そうかもね」
このまま交友関係を持ったまま騙し続けるというのは難しいだろう、負い目からどうしても態度がよそよそしくなり、そうすれば勘付かれる可能性があり、可能性があれば長い時間を共に過ごすうちにいつか必ず起こり得る。
隠し事をしていて、打ち明ける前にバレるというのが最悪のパターンだ。
「藍様ったら言うこときつすぎません?」
「きつくても選択は必要なことだ、紫様の環境に限らず中途半端は何でもダメさ」
「藍の言うとおりかもね……近いうちに決めましょうか」
紫の返答に、橙は嫌な予感が走った。
なにせ家族から見ても、紫は面倒くさい重荷を背負った面倒くさい性格の面倒くさい妖怪なのだ。
こと天子に関しても面倒くさい方向に走ってドツボにハマる気がする。
どう見ても紫と天子は大がつく仲良し、縁を切ろうとしたところで全てが済むはずがない、絶対に話しが拗れて後味の悪いものを残すことだろう。
藍様もそう言ってくれればいいのにと思うが、これ以上は何も言ってくれないだろう。
どうすればいいだろうかと首と尻尾を傾ける橙であったが、突如として閃いて尻尾をピンと天井に立てた。
そうだこれだこれしかない、が自分がそこまででしゃばってしまっていいのだろうか。否さ、いまいち奥手な一家の長のことを考えるとこれくらいは必要である。
ここは八雲家秘の蔵っ子たる自分の出番だと、橙は「くっふっふ」と笑いを漏らしていた。
◇ ◆ ◇
博麗霊夢は巫女である。
巫女の仕事とは、異変が起こったら適当に解決すること、妖怪が人里の人間に手を出してきたらボコボコにすること、あと幻想郷の規律を守ること、そのくらいだ。
つまり巫女の仕事は常に後手であり、基本暇な職業なのだ。他の神社の巫女はどうか知らないが、とにかく霊夢の場合はそうだ。
普通ならお金に困るところだが、巫女の存在は幻想郷にとって必要なので、食べる分に関しては困らないよう常時現物支給されている、つまり普段は働かなくても食っていけるのだ。ビバ巫女。
まあお金がないと嗜好品も買えないのが辛いところだが、幸いたまーに人里から依頼される仕事で溜めたわずかなお小遣いはあるし、知り合いからぶんどった茶葉とお酒もあるので今のところはそこまで貧窮してない。
せめて参拝客でも来たらもうちょっと忙しくなるのだが、いざという時にはここの巫女が一番頼りになるものの、幻想郷の東端という立地からして交通は不便であり、平時に普通の人間はほとんど誰も来ない。
というわけで、今日も霊夢はのんびりと、これが幻想郷の巫女スタイルだと縁側でお茶でも飲んでいた。
しかしながら、だからといって霊夢の日常が常に退屈だけというわけではない。
「やっほー、霊夢来てあげたわよ」
「こんにちは霊夢さん、お邪魔します」
「邪魔するなら帰って」
「だってさ衣玖」
「あんたに言ってんのよあんたに」
しれっと後ろの衣玖に話を逸らす天子を、霊夢がジロリと睨みつけた。
裏表がなく清々しい強さを持った霊夢は、同じく強い力を持った妖怪や神などといった者から好かれやすい。
そのため、こんな風に霊夢のもとには定期的に知り合いが尋ねてくるのだった。
霊夢自身はとくにありがたがることもなくむしろ迷惑に感じているのだが、逆にその素っ気なさが他者を惹きつけるのだ。
「参拝に来たなら素敵なお賽銭箱はあちらよ」
「残念、参拝じゃなくて寄り道でした。旧地獄上の温泉に行こうって思ってね。霊夢も来る?」
「いいわよ朝っぱらから、面倒だし」
「ものぐさね、というか無欲よねあんたって」
そこまで言って天子は背伸びすると、開かれた縁側から神社の奥を覗き見た。
よくわからない行動に、霊夢は何やってるんだこいつはと訝しむ。
「そういえば、今日は魔理沙のやついないの?」
「……なんでいの一番に出る疑問がそれなのよ」
げんなりする霊夢だが、その疑念の理由がわかってしまうところが情けなかった。
「だってここに来るといっつもいるしね。いっそ一緒に暮らしたら?」
「嫌よ、うちの神社がゴミだらけになったら参拝客が減るじゃない」
本人はゴミではないと言っているがどう見てもゴミ山の魔理沙宅を思い浮かべて、霊夢が嫌そうに首を振る。
しかしそれを見ていた衣玖は、元々参拝客などいないのでは? と思ったが口にはしなかった。
「元々参拝客なんていないじゃないのうぎゃあ!?」
不用意な発言をした天子が虚空から現れた陰陽玉を叩きつけられるのを見て、黙っておいてよかったと思った。
直撃を受けた頭を押さえて地面にうずくまる天子に、霊夢はフンと鼻息を鳴らして溜飲を下げた。
「魔理沙はここに限らず幻想郷中ぶらぶらしてるし、機嫌しだいでウチにだって何日も来ないわよ。それにあいつは実験とかで家にこもることも多いし、今回もその辺りなんじゃない」
「いだだ……私ほどじゃないけど自由なやつよね」
その言葉を聞いて、不意に霊夢が空を見た。
「魔理沙は自由なやつよ、この幻想郷で一番」
それは儚くて、世界に満ちることなく快晴の青空に溶け落ちるような声だった。
どこか羨むように空を見つめる霊夢の様子に、立ち上がった天子は呆気に取られる。
後ろの衣玖は、無表情のまま見守っていた。
「霊夢って、そんな顔もできたんだ」
「なによそれ」
「いや、案外人間らしいなって話。そういうのも好きよ、うんうん」
「意味がわからないんだけど」
霊夢が睨みつけてくる前で、天子は勝手に一人納得して頷く。
天子は霊夢のことを人間離れしたやつだと思っていが、垣間見せたものは執着と呼べるものだった。
執着心とは見ようによっては醜いが天子はそれを否定しるつもりはない、未だ幸福に到達しない者においては、それを足掛かりにする他ないのだから。
天子は初めて、心まで空に飛び行く霊夢にちょっとした共感を覚えた。
「それじゃ私は行くわ、面白い話しありがとね」
「帰る前に素敵なお賽銭箱はあちらよ」
「残念、今は手持ちがないの、じゃあね」
そう言って天子は軽く手を振ると、賽銭箱には目もくれず飛びだってしまった。
それに倣い、衣玖もペコリと一例を残して着いていく。
霊夢は礼儀正しい竜宮の使いを見て、結局あいつは最初の一言以外話さなかったな、あれで楽しいんだろうかと思いながらお茶をすする。
暇人が消えて暇になったし、さてやる気はないがとりあえず掃除でもしようかと思って湯呑みを置くと、その隣にいつのまにか座っていた女の姿があって驚いて身体が跳ねた。
「うわっ!?」
「ごきげんよう霊夢」
「いきなり出てくんじゃないわよ!」
スキマから現れたのだろう紫が笑いかけてきたのを、霊夢は怒鳴り声で返した。
しかし案の定、紫は堪えて内容でうふふと気味の悪い笑みを浮かべている。
「あんたまで何のようよ」
「いやあ、さっきの話を見ていたらつい出てきたくなっちゃって」
「覗きとか趣味が悪いわよ」
藍や橙との相談のあと自らの秘密を告白するかどうか決めかねて、とりあえずスキマから天子をストーキングしていた紫は、さっきの霊夢の様子もばっちり見ていた。
そこで古くから博麗の巫女に関わるものとして、一言言わねばならないと出てきたのだ。
「魔理沙だけじゃない、あなたも自由よ霊夢」
伝えられた短い言葉に、霊夢は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして口を閉じた。
しかしすぐに不機嫌そうに口をすぼめると、恨みさえ持って紫を睨みつけた。
「あんたがそれを言うの? 自分は巫女をこき使うくせに」
「えぇ、言うわ」
反抗的な態度の霊夢を前にして、紫は飄々と答える。
霊夢は真意を測りかねて疑い探るように見つめていたが、この胡散臭い妖怪はうふふと笑って縁側から立ち上がると帰り道のスキマを開いた。
「きっと今日の夕方には魔理沙の実験も済んでここに来ると思うわ。晩御飯、用意してあげたら喜ぶわよ」
たったそれだけの忠告を残し、紫は博麗神社から姿を消す。
誰も居なくなった空間を霊夢はむすっとした不機嫌な表情で見ていたが、やがて腰を上げて神社の奥に食料の備蓄を確認しに行った。
博麗霊夢は巫女である。
やりたいこともあまりなく、今日も適度な暇を満喫してる。
◇ ◆ ◇
「やっほー! 貸し切りよ衣玖!」
湯けむりが立つ銭湯で天子が勢い良く跳び上がり、湯船にダイブして大きな水柱を上げた。
それなりに朝早い時間であるため他の客の姿も見えず、天子は存分に声を響かせる。
「天子様、怒られますよ」
「いいのいいの怒らせとけば。それに他のお客もいないし」
「だからってうるさくしていいわけじゃないでしょうに。そんなのだからいつも紫さんと喧嘩してしまうんですよ」
小言を言う衣玖だがこの程度はいつものことで、言っても聞かないことがわかっているのでそれ以上は咎めなかった。
それより自分もお風呂を楽しもうと肩まで湯に浸かり、その心地良さに抱かれた。
「……うん?」
のんびり湯の揺らぎに身を任せて泳ぎ回る天子を眺めていると、天子の左肩に変な模様がついているように見えた。
湯気のせいで見間違っただけかと思って凝視してみるが、気のせいではなく柔らかそうな肌に古い傷跡が付いていた。
「何よ衣玖、そんなに睨んできて」
「いやぁ、その肩についてるのはなんだろうかと思いまして」
「肩? ……ああ、これか」
視線に気づいた天子は泳ぐのを止めて、衣玖の隣に並び腰を落ち着けた。
「どうしたんですかそれ? 天人がそんな怪我をしてるなんて珍しいですけど」
「これ相当古いやつだからねぇ。天界に上がってきてすぐに出来た傷だから、まだ仙桃の効果が出てなかったのよ」
天界に実っている仙桃は食べているだけで肉体を強靭なものにしてくれる、その御蔭で天人はみな頑丈な肉体を持った者ばかりで天子も例外ではない。
ナイフでも傷つかない身体なのだから、傷がついたのが頑健になる前なのは当然か。
「それは運が悪かったですね。事故か何かですか?」
「うーんとね、どうしよっかな……まあ衣玖なら良いか」
傷跡を指でなでた天子は「秘密にしててね」と前置きを述べる。
「実は昔、お父様に虐待されてた時期があってね、その時に付いちゃった」
「――えっ?」
耳に入った情報が信じられず思わず聞き返してしまった。
だが気不味そうに笑って誤魔化す天子に、間違いではないと教えられる。
「あのお父様が虐待とか信じられない?」
「いや、その……まあ、そうですね、はい」
「今のお父様はだいぶ安定してるから、今だけ見ればそりゃそうようね。私のいない影でコソコソ会ってるようだけど、どうせ昔のことはあんまり聞いてないでしょ」
衣玖は裏で総領と会っていたことを指摘されドキリとするが、天子は特に文句を言うつもりもないらしく話を続けた。
「昔も昔、まだ私らが人間だった頃にさ、お母様が死んじゃったのよ」
「……はい、そのことは私も小耳に挟んでいます」
衣玖は定期的に天子の父である比那名居家総領と密談している。
基本的には天子が日々をどう過ごしているかを一方的に話すばかりだが、その中で総領の口から天子の母君がすでに亡くなっているということも聞き及んでいた。
「もうちょっと遅ければお母様も天人になれたんだけどねぇ。しかもその死に方があんまり良いものじゃなくて、それでお父様はかなり病んじゃったのよ。人間だった頃は情緒不安定過ぎて仕事ができないから名居守様に肩代わりしてもらって、天人になってからもしばらくは柱に頭をぶつけたり刃物で自傷したりしちゃってたわ。流石に見てられなかったから止めに入ったんだけど、そしたら代わりに私を殴るのよ。一応殴るだけにはとどめてたんだけど、一回だけ刃物持ったまま殴ってきて切り傷ついちゃったわけ」
続けて語られた内容には絶句するしかなかった。
比那名居家の総領に関しては不器用そうなところがあるものの、根は誠実で、家族仲が上手く行っていないのは不器用ゆえに意思疎通がきちんと取れていないから、衣玖は勝手にそう考えていた。
「……それで耐えたのですか」
「なんといっても、唯一残った家族だからね」
だからといって普通ならそこまで体を張れないものだ。
母親が死んだのなら辛いのは天子も同じだ、それなのに気が触れた父親を助けようなど無理がある。
事実、無視できない悪影響もあったようだ。
「……父君が怖いですか天子様」
飄々とした態度で語っていた天子の顔が強張った。
天子との付き合いが長くなってきた衣玖は、話しながら天子の声が僅かに震えるのを感じ取っていた。
親に暴力を振るわれればそれを恐怖に感じる、当たり前の話だ。
「……うん、少しね」
強がった言葉を選ぶ天子だが、きっと少しと言うには重い枷なのだろう。
もしかしたら総領が影で衣玖と会っていたことについて何も言わなかったのも、父が怖いからなのかも知れない。
わがまま娘のこんなにしおらしい姿を衣玖は初めて見て、自分にできるなら慰めてあげたいと思う。
「よく頑張りましたね」
衣玖は天子に近づくと、慈愛と尊敬を持って頭に手を添えた。
自分より一回りも小さい彼女のどこにそんな力があるのだろうと感動しながら優しく撫でる。
「ちょっと衣玖、そんな子供扱いしないでよ」
「おや、紫さん以外ではお気に召しませんか?」
「な、何でそこで紫が出てくるのよ!」
反抗的な声を上げつつも、天子は手を振り払うことはしなかった。
「どういう母親だったか、聞いてみても良いですか?」
「うん……そうね、良い人だったわよ」
天子は静かに語り始めた。
遠い目に映るのは、遥か昔の情景。
この少女がそう言うからには、きっと贔屓を抜きにしても良き女性だったのだろうと衣玖は思う。
「私と違って優しくて、寛容で、色んな人を愛することができて、愛してもらえる人だった。もちろん私にも。名居家の血筋の一人で、まあ血を絶やさないための計画的な結婚だったけど、本気でお父様のことを愛してたわ」
衣玖は総領が「今でも母さん一筋だ」と言っていたのを思い出した、それだけ他人から愛されるからには他人を愛せる人なのは道理だ。
きっと天子のことも愛していたのだろうが、だからこそそれを喪った影響を考えると胸が痛む。
「遊びや釣り、料理から武術まで何でも教えてくれた。特に私の能力をどう扱えば良いかは、お父様よりもずっと親身になってくれたわ」
「へえ、能力の扱い方ですか」
つまりは師匠のようなものか、素晴らしい親子関係だ。
天子は遠い目をして湯煙のように過去の記憶を思い出す。
「要石には想いを込めなさいって。もし将来、緋想の剣を使うことになった時も、それが一番大切なんだって」
なぜ能力の話で緋想の剣が絡んでくるのか、文脈を読めず首を傾げる衣玖だったが、天子はそれに気付いているのかいないのか、無視してうつむき湯船を覗き込んだ。
水面に映るのは昔と変わらず幼い天子の顔、かつてと違うのはその悲しい表情。
自身の姿に母親を見つけて、死別した日からずっと抱えていた言葉を漏らす。
「良い人だった……死んで良い人なんかじゃなかったのに。時折思うわ、お母様じゃなく、死ぬのが私なら良かったんじゃないかって」
あの日に死んでいたのが自分だったなら、父は家族を傷つけるほど狂わなかっただろうかと、自分も傷つけられ苦しむことはなかっただろうかと、後悔にすら満たない暗い情念が胸を締め付ける。
心臓の内側から疼くような傷みに天子は表情を歪め、それを見られたくないと衣玖から顔を背けた。
「天子様が死ぬべき人だなんて、私はさらさら思いませんよ。きっと天子様が生きていたのなら、それには意味があると思います。天子様が生きるべきだからこそ、あなたは今日まで生きてきたんです」
衣玖は天子の表情を追わず、ただ自分の気持ちと考えを唱えた。
これはその場の気休めではなく、彼女が持つ信仰にも似た信頼だった。
「あなたはお母様に負けないくらい素晴らしい人です」
「……ありがと、衣玖」
正式な従者にそう断じられ、天子はようやく眉間の力を抜いて顔を上げた。
自分が生きていてくれて嬉しいと言ってくれる誰かがいる、それだけで天子には家庭から失われた安心を久しく感じることが出来た。
ふと、思いついたかのように天子がぽつりと呟く。
「……もし紫が私の身の上を聞いたら、どう思うのかしら」
「天子様が生きてきてくれてよかったと、そう思ってくれますよ」
「そう……」
天子は湯船から上半身を乗り出させ、地面の上で組んだ腕に顎を乗せ、また遠くを見やった。
「そうだとしたら……因果だわね。あいつを倒すために生まれた一族が生きててくれてよかったなんて」
「……紫さんを倒すため?」
「そうよ、衣玖は知らないの? 私も、比那名居家も、いいや天界も月の都も何もかも、この世界の異物であるスキマ妖怪を滅するために生まれたのよ」
「は……はい?」
いきなり語られた壮大な話に、衣玖は呆気にとられて曖昧な言葉を返すしかなかった。
衣玖に向き直った天子は、そんな従者を面白そうに笑って、自慢げに言葉を続ける。
「例えば私の使ってる緋想の剣、あれは元から私のような名居家に連なる血族が要石と合わせて運用することを前提で作られた。大地の気質を要石を利用して貯蔵して、それを緋想の剣で行使する。あいつの本質を暴いてそれに合わせた気質に変換し、紫を完全に滅殺しようとしたのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。紫さんも、月の都などが相手では勝負にならないという話でしたが」
「そうね、殺すだけなら十分できる、けどそれ以上ができなかった」
何が何だか分からないと呆然にする衣玖から、天子は目を離して空に浮かぶ雲を眺めた。
「聞きたいなら私よりももっと適任がいる。龍神様に聞いてみなさいよ、あの神様は何億も昔から紫と敵対してきたらしいし」
「紫さん、そんな長生きなんですか」
「そうよババアよあいつ。ただ私が聞いてた話と、今の紫は随分と様子が違うけど。昔は知性を持たず徘徊してたって話なんだけど、まあ私の情報も古いしね」
唐突に明かされた事実に、衣玖の胸に不安が過る。
衣玖から見ても紫とはそれなりの付き合いになる、天子を通して合っているうちに彼女ともちょっとした友人程度の交友関係にはある。
そんな知り合いが想像を超えた存在であると言われ、脳内に思い出された紫の笑顔が歪められていく。
「……紫さんは、何者なんですか」
「異物、それに尽きるわ」
真っ黒な暗闇のような言葉に衣玖は硬い表情を浮かべた。
緊張する従者に、天子は軽く溜息をついてちょっと優しめに声をかけた。
「安心していいわよ。あいつは世界をぶち壊すような邪悪な企みとかはなさそうだし、私だってもう紫とは敵対するつもりはない。異変でかち合ってぶん殴り合うとかなら面白そうだけど」
「発想が野蛮すぎでしょ」
「いいのよあいつも楽しんでるんだから」
気心が知れたとはいえ礼儀がなさすぎると呆れる衣玖だが、お陰で怯えも和らいだ。
お湯に浸かっていた肩から力が抜けるのを見て、天子も良かったと静かに笑う。
そうして気が抜けたのもあって、天子がつい言葉を漏らした。
「ただ、今更あいつが私の前に出てきたことには因果を感じる。できればこの因縁が、良き縁になってくれればいいけど」
「なりますよ」
間を置かずに断言されて、天子は驚いて衣玖の顔を見る。
衣玖はとても優しい表情で天子の視線に応え、どこまでも天子と紫を信じて続きを唱えた。
「ここでの紫さんとの出会いは、間違いなく天子さんにとって良いものです。だから安心して下さい」
「ありがとう、そう言ってくれて」
在りし日の思い出、まだ幸せを信じられた幼き頃の夜。
まだ地子という名だった少女の上で、暗いはずの夜をまばゆい光が覆っていた。
緋く瞬き揺らめく光の幕は、今まで見た何よりも美しいと感じられた。
「わあ、すごーい!」
日本ではほとんど見られることのない極光と言う名の天候。
それは天界から降りてきた天人が、作りかけの緋想の剣を使って地子の気質を見せてくれたものだった。
「こんなに綺麗だなんてお母さんもびっくりだわ。きっと地子は天に愛されてるのね」
「極光って言うんでしょこれ! ねえ、お母様はどんな気質なの!?」
興奮した地子が母親に早口でまくしたてた。
未熟な自分でもこれだけの景色を作り出せたのなら、尊敬する母親ならもっと美しいものを見せてくれると信じたのだ。
「私は雨よ、普通の気質ね」
「えー、嘘でしょ。お母様ったら私のこと騙してるんじゃない?」
「嘘じゃないわよ。地子、あなたは私よりもずっと素晴らしい女の子になれるのだから」
親が世界のすべてだと思っている娘に、母はそれも超えてどこまでも上へ行けると優しく説く。
それでも納得が行かず残念がる娘を見て、母は屈んで目の前の小さな頭に手を置く。
「極光なんて気質を持つ人は他にいない。あなたがその心を持って生まれてきたことには何か意味があるはず」
優しく撫でてくれる母の温かさが、夜の肌寒さから護ってくれるようだった。
幼いころの地子が確かに感じたそれは、遠い未来になってもなお彼女を支える無償の愛。
「あなたはいつかどこかで、誰かを助けられる人なのかもね」
あの日から、極光は未だ天子の手にある。
それが母の残した言葉が、まだ消えずに続いているということなんだろうか。
◇ ◆ ◇
紫が冬眠から目覚めて数日、彼女を中心として宴会が予定された日。
「おっ」
「ちわーす」
中身の詰まった風呂敷を持った天子と、いつもどおり酔っ払った萃香が白玉楼へと続く冥界の階段の前で鉢合わせした。
「萃香も宴会?」
「ああそうさ、天子もやっぱり来たんだね。衣玖は?」
「龍神のほうでお仕事だって言って来れなかったわ」
「ありゃりゃ残念だね」
「それじゃあ……歩いて行く?」
「そだねー、そうしよう」
どうせ会ったのだ、急いで飛んで行くというのは無粋だろう。
会話を楽しみながら階段を上ることとして、二人は肩を並べて石造りの段差に足をかけた。
「天子は何持ってきたんだい?」
「桃」
「またかあ、いい加減飽きたよ」
「あんたが食べ過ぎなのよ。けっこう評判なんだから」
「まあ美味しいけどねー……」
よく天界に来て管を巻いている萃香には、天界の桃はすでに食べ飽きてしまったらしい。
天子としてはちょっと残念な気持ちもあるが、他のやつらが喜べばそれでいいだろうと気を取り直した。
「紫のやつと仲良くやってるみたいだね」
「うん、まあそこそこね」
「そこそこというにはお熱い関係みたいだけどねぇ、よく同じ屋根の下で眠ってるそうじゃないか」
「うっさい、変な言い方するんじゃないわよ」
茶化されて天子は顔を背ける、頬が熱いのは春の陽気のせいだと自分を誤魔化した。
それを見て萃香は満足そうな顔で階段の上を見上げる。
「やっぱ私の予想通り、きっかけさえあれば仲良くなるのはすぐだったね」
「何よそれ、後から適当に法螺吹いてるだけじゃないの」
「鬼は嘘つかないよ、たまにしか」
「たまにはつくんだ」
「私は鬼の中でもはぐれものだからね」
天子は適当なことをいう鬼に呆れながら、謝ってすぐのころの紫を思い出す。
敵意をぶつけてばかりだった自分を紫は嫌いだったろうに、謝罪一つで水に流して優しく接してくれた。
「私を気遣ってちょくちょく顔見せてくれたりしてくれてるし。あいつがあんなに良くしてくれるとは思わなかった」
そして自分が、こんなにも紫に心を寄せられるだなんて予想外だったと、心に思った。
謝ったところで二人の確執がすべて埋まっわけではなかったのに、それを補って余りあるほど紫との日々は楽しかった。
今日これからの宴会も、紫がいてくれると思うと普段より待ちきれない気持ちになる。
「いやいや、紫が天子に惹かれるのは当然さね。まああいつは元々お節介だけど、それ以上にあんたの性質はそういうもんだ」
天子がドキドキする胸を押さえていると唐突に言われ、不思議そうに萃香を見下ろす。
「性質って……気質?」
「それも含めてだ、天子は陽の気がバカに強いからね。強大な妖怪であればあるほど物すっごく惹かれるか、あるいはムカついてドツキ合おうとするかのどっちかさ。陰気な私らには天子は眩しすぎるよ」
「あんたが陰気とは思えないけど」
「そんなことないよ」
天子のことを萃香は首を振って否定する。
「私ら妖怪はみんな陰気さ、根っからの陽の人間と比べたらみんなどこか間違ってる。鬼のあいだじゃ戦って勇者に討たれて死ぬのは誉れなんて言われてるが、人間と違って守るものもないのに死が尊いなんておかしな話さ」
「そうかしら、考え方次第だと思うけど」
「でも、天子は自分のために戦って死にたいなんて思わないだろ?」
そう言われ、天子は少し考えてみる。
紫と険悪だった頃の自分なら、紫を殺すためなら命を捨ててもいいと考えるだろうか?
将来的に子供でも産まれてその子のためにならともかく、ただ自分の我欲のためだけに身を滅ぼせるか。
「……思わないわね」
天子自身、自分に自己破滅的な傾向があることはわかっている。じゃないと騒ぎたいだけで異変を起こしたりはしないだろう。
だがそれでも、決定的な身の破滅だけはする気が起きなかったし、そうする自分も想像できなかった。
「だろう? それがお前故さ」
何故か萃香が得意気に指を向けてくる。
これが特別なこととは天子には思えなかったが、妖怪から見ればそういうものなのだろうと話半分に頷いておいた。
「まあそれがなくても、天子が謝ったの冬眠の直後だったしねえ」
「冬眠の後だったらどうだっていうのよ?」
「そりゃお前……えっ、聞いてないの?」
自分から話を振っておいて、萃香は信じられなさそうに天子を見つめてくる。
その困惑に不穏な何かを感じて天子は鋭い視線で見つめ返した。
「なんだい、天子は知らなかったの。てっきりもう紫から聞いてるかと……」
「何よ気になるじゃない言いなさいよ」
「言えないねえ、私は基本嘘は吐かないけど隠し事はするよ」
「おのれこの人でなしめ」
「そーだよ鬼だよ」
冬眠が何だというのだ、紫自身が異物と言われていることと関係あるのだろうか、それが自分との関係にどう繋がる。
とにかく紫が隠し事をしているということはわかり、わずかな不信が天子の中で芽を出す。
そしてその隠し事を萃香は知っていた自分には知らされていないことに、嫉妬の炎が頭の裏側を熱くしていく。
天子が不機嫌になっていくのを感じ取って萃香はしまったと、気不味そうに頬をかいて自分の不用意さを悔いた。
二人の空気が重くなりかけたその時、はつらつとした声がどこからか響いた。
「――そこな天人、ちょっと待ちなさい」
「……誰よ?」
聞き覚えのある台詞に天子が声のしてきた背後を振り向く。
すると天子の目の前で木の葉がうずまき、その中心から煙を立てて二股の尾が現れた。
「私でーす!」
明るい声で手足を思いっきり伸ばして飛び跳ねる橙が、暗い雰囲気などどこかへ飛ばしてしまった。
毒気を抜かれてしまい、天子と萃香は口元を緩めて以外な人物を迎え入れた。
「どうしたぃ橙嬢ちゃん、一人で私らに絡んでくるのは珍しいね」
「むっふっふ、今日は紫様にも藍様にも秘密でお話があるのです」
「おっ、何だか面白そうじゃないの」
悪巧みは天子も大好きだ、それが頭の良いやつを相手にするならなおのこと面白い。
しかし橙から言われたことに、天子は驚いて腹を立てることとなった。
「でも天子には嫌な話だと思うんだけど、近々紫様が天子から縁切りするかもしれないくて」
「……はあ!? どういうこと!?」
「あっ……なーるほどね、そうかいそうなるのか」
苛立たしげな声を上げる天子とは違い、萃香は納得したかの様子だ。
「萃香は何か知ってるの!?」
「知ってるけど言ーわない。まあ卑屈なあいつらしいことさ」
さてはさっきの隠し事に関係あるなと勘付いたが、追求したところで答えてはくれなさそうだ。
「ちぇーん!」
「私もダメー。言ったら藍様に怒られるもん」
交差させた手でバツマークを作って橙は拒否する。
わけがわからず、天子の中で急速に肥大化した不安が、小さな爆発を引き起こし始めた。
「どういうことなのよ、何なのよあいつ! 本当は私のこと裏で笑ってたりしたわけ!?」
「落ち着きなよ天子。仲良くなったからこそってやつだよ」
ここにいない相手にまくし立てる天子を、萃香はのんびりとした口調で止めに入った。
「紫のやつは陰気で根暗でそのうえ臆病者だからね。距離が近くなりすぎたから困惑して、焦って変なことしちゃいそうってだけさ」
「うー、紫様が言われ放題だけどあんまり反論できません」
「孫からもそういう評価なのあいつ……?」
若干紫が不憫に感じたが、天子もこの意見には納得してしまったので擁護はできなかった。
それよりもとりあえず紫が悪意を持っているわけではないと教えられ、天子は安心して怒りを収め始めたところに、橙が重ねて告げる。
「勘違いしないで欲しいけど、紫様も本当は天子と離れたいって思ってるわけじゃないんだよ? だからさ、そうなる前に手を打っちゃおうと思って」
「つまり、何か策があるということね」
天子に聞かれた橙が得意げな顔で胸を張り、天子と萃香の脇を抜けて階段を軽やかなステップで登る。
二人に振り返った橙は、指を天に立てて宣言した。
「ここに、紫様メロンメロン作戦を開始するよ!」
◇ ◆ ◇
天子たちよりいち早く白玉楼に到着していた紫は、幽々子と一緒に縁側でのんびりとお茶を楽しみながら駄弁っていた。
「今日の宴会、天子も来るそうよ」
「あらそう、今日もまた賑やかになっちゃうわね。うふふ」
紫から伝えられたことに幽々子は嬉しそうに笑う。
これは天子が来ることが嬉しいというよりも、紫の周囲が賑わってくれて嬉しいという笑みだ。
「天子も随分と紫に懐いてくれたわね。やっぱり私の見立てに間違いはなかったわ」
「前から私と天子の仲を取り持とうとしてくれてたらしいわね」
「えぇ、前から優良物件ですよーっておすすめしてたわ。その時は受け入れてもらえなかったけど」
「そんなに気を使ってもらわなくても、幽々子たちがいてくれれば寂しくないし十分よ」
「そんなことないわ。自分じゃ気づけないでしょうけど、紫ったら天子と仲良くなってから笑うことが増えたのよ?」
「……えっ?」
幽々子に指摘されて、なぜだか紫の頬が熱くなった。
天子と仲が良いということを言われただけなのに、この胸の高鳴りはなんだろうか。
不可解さに熱い頬を手で押さえながらつい照れてしまう。
「紫は記憶を失うってだけでも大変だし、いつも負担ばっかり背負ってるから心配だったのよ」
「心配……ね」
気持ちは嬉しいが、心配しているのはむしろ自分なのだがと紫は苦笑する。幽々子はある意味で自分の半身のようなものなのだから
すべての始まりは約1000年、当時の紫は記憶を保管する術を持たず、自らの存在もわからないまま意思なき獣のようにこの世を徘徊していた。
その時の紫は何もかもが憎かった、世のすべてを恨んで妬んで羨んでいた。何故かはわからない、だが紫はそこらの妖怪とは根本から違うあまりに特異な存在であり、一部の術者からは危険視されていたはずだから、この世界から追い立てられる内にそうなったのだろうと予想が付く。
あの日もそうだった、まだ名前すら持たずにいた紫はボロボロの体で逃げていた。
原因は覚えていない、その後の出来事に比べれば些細な事なので削除してしまった。だがスキマ妖怪はたどり着いたのだ、後に西行妖と呼ばれる桜の下で、父と彼を慕う狂信者たちの死に憂いていた儚げな女のところへ。
『傷ついているの……?』
『疲れているの?』
『お腹が空いたなら、うちに来る?』
紫が出会った生前の幽々子は、身辺に溢れた死に嘆き絶望していた。だがその深い悲しみからこそ、傷ついた見知らぬ妖怪さえ優しくしてみせた。
人間だった頃の幽々子は今よりも儚げで、だが芯は強く、誰よりも優しい人だった。
彼女が施してくれた白いご飯は、人間の肉などよりも遥かに大きな力をスキマ妖怪に与えた。
名前がないとわかれば、幽々子は八雲紫という素敵な名前を付けてくれた。
後に文献を確認すればスキマ妖怪の存在は天界が生まれた頃にまで遡れたが、八雲紫の本当の人生はそこから始まったのだ。
記憶を失うことを幽々子に悲しいと言われ、紫は即興で記憶の再生術式を組み上げた。メモリーの一時保管役に大陸から九尾を連れてきて無理矢理協力してもらった。
紫と幽々子、それと無理矢理に新しい名前を与えて従えた藍、三人で過ごした日々はいつまでも続く春の陽気のようにとても楽しく――唯一藍は嫌がっていたが――それらは決して忘れてはいけない栄光の思い出、紫という存在をなす根幹、人生の出発点として、何度記憶を失おうとこれだけは脳に刻み込んでいる。
そしてまた亡霊となり生前の記憶を失った幽々子も、紫に多くのものを与えられた。
記憶を失い自らの意味を見失い、どうすればいいかわからなかった幽々子を紫は保護し、生前の彼女がしてくれたように幽々子に出来る限りの慈愛を与えた。
紫は人間だった幽々子に中身を与えられ、亡霊の幽々子は八雲紫に中身を与えられた。
互いに自らを分け合った二人は、半身と呼んで然るべき存在なのだ。
それ以降、幽々子の警護役を申し出た妖忌を交えて暮らしていたが、どうも幽々子は紫に己の存在理由を依存しがちだ。
近年は妖夢が幽々子のそばで頑張ってくれるお陰で自立する傾向にあるが、まだまだ危ういところが多いというか、紫に執着しすぎているというのが去年の紫がメモリーを削除する間際に出した幽々子評だった。
今年のうちにまた一歩進んでくれたら良いのだがと、紫は親友の未来に希望を願う。
その気持ちを知ってか知らずか、幽々子は紫の世話焼きに夢中だ。
「紫はあんまり友達が多いタイプじゃないし……でも天子の性質なら絶対、紫の人生を明るく彩ってくれるって思ってたわ、いっそ恋人にでもしちゃえば?」
「も、もう幽々子ったら。冗談ばっかり言って」
紫からすれば飛躍した結論に思わずたじろぐ。
「第一に女同士じゃない。私達妖怪は人間ほど生殖本能がたくましくないから気にしないのが多いけど、天子は元人間よ。しかも由緒正しい血筋のお嬢様、その辺りのしがらみは強いでしょう」
「愛の前にそんなの関係ないものよ」
「それはまあ……幽々子が言うならそうなのでしょうけど」
紫は言い返せず同意してしまう。
というのも、幽々子が妖夢に対して"従者を超えた親愛"を持っているのを紫は知っているのだ。
「好きな子を思う存分可愛がるというのは、それはそれは楽しいものよ紫」
「自分だって、直接告白はまだのくせして……」
「それでも紫よりは進んでるわ」
幽々子は本能のままに妖夢を愛で、妖夢も妖夢でそれを受け入れている、ようは両思いでお互いそれに気が付いているわけだ。
しかし幽々子もやはりというか紫と同じく臆病な面が強く、実際に妖夢に胸の内を明かしたことはない。
妖夢が何も言わないのをいいことにズルズルと今の関係を続ける幽々子だが、そんな自分のことは棚上げして先輩風を吹かしている。
「ふふふ、妖夢が可愛すぎるからいけないのよ。ああ、ありがとう妖忌、あなたが私の警護役になってくれたお陰であんなに可憐な少女に恵まれたわ」
「それで魂魄の血筋が絶えそうなんだから魂魄妖忌が知ったら泣くわね」
「ごめんなさい妖忌、でも邪魔する気なら泣いてるところに能力でガン攻めで死なせたあと操らせてもらうわ」
「1000年近く護ってもらってて恩を仇で返しすぎる……」
妖忌に関することは紫のメモリーに殆ど残っていないが、確か彼が幽々子の元に護衛についたのが幽々子が死んだ直後からだったはずだ。
わずかに残った記憶からは跡継ぎが生まれた時の妖忌の笑顔や、その倅が結婚した時の泣き顔などが思い出せたが、赤ん坊の妖夢に狂喜乱舞していた彼が曾孫に会えないと知るとどれだけ落胆するのだろうか。
過去の紫が厳格そうに見えて激情型とプロファイルした老人が、長い髭を水筆のように涙で滴らせているところを想像して、気の毒な気持ちになった。
「でもそういう紫だって天子のこと考えてニヤニヤしたりしないの? 私が妖夢に感じてるみたいに思う存分撫でくりまわしたりしたいとか、ぎゅうっと抱きしめてぐっすり眠りたいとか、えっちな水着きさせて可愛がったりしたいとか」
「それは……ちょっと待って最後の何」
「いいからほら」
そう言われても、今の紫は去年のメモリーを消去して冬眠から目覚めたばかりでそんな暇なことを考えてる時間はなかったのだが。
とはいえ試しにお茶でも飲みながら少しだけ思いを巡らせてみる。
前提として誰の邪魔も入らない家の中とする、藍と橙はもちろん天子のお供である衣玖も家にはいない。
その空間に天子が自分と二人きりいたらまずどういう反応をするだろう、恐らくは大変上機嫌な気がする、メモリーにはないが魂がそう囁いている。
とりあえず撫でてみよう、先日の反応からそれくらいのスキンシップはそこまで拒絶しないはずだ。
帽子の下に手を差し込んで動かすと脳内の天子は最初に子供扱いは嫌だと振りほどこうとしたが、次第に機嫌が良さそうに身体をくねらせ始めた。
天子がリラックスして意識に隙間ができた瞬間、すかさず抱きしめて寝転がる。驚いた天子が「わわっ!」と可愛い声を上げたが抗いはしていないようだ。
そのまま天子の背中を安心させるようにポンポンと優しく叩き更に撫でる、段々と天子も気を許してきて緩んだ顔で自分の胸を枕代わりに頬をうずめてきた。
完全に身を任せてきたところで両腕でギュッと抱きしめて、自身の首元に見える天子の頭頂部に鼻先を押し付けて深呼吸、淡い桃のような健康的で麗しい少女の味わいが鼻孔から喉元に通って味覚のように感じる。
更にその状態の天子の服装を外界でいうビキニ姿に変えてみた――――
「ブフォァアッ!?」
爆音を立て始めた心臓に押されて、肺が喉元まで入ってきたお茶をスプラッシュさせた。
庭の砂利をまだらに濡らして、紫はむせこむ。
危なかった――!
今まさに禁断の扉が開けかけたような気がした。
なぜ目が覚めてからすぐで情報も少ないのに、こうまで明確に場面を想像できてしまったのか。
思い出はなくとも、心がそこまで天子に惹かれているということなのだろうか。
「考えてしまったようね紫……! 裸の女の子は良いわよ、抱きしめると柔らかいのよ……!!」
「だ、黙りなさい! こんなの冬眠した時には忘れてやるんだから!」
「あら、次の冬までまだ半年以上あるわよ? それまでどれだけ耐えられるのか見ものだわ」
悪魔かこの女はと、紫としては珍しく胸中で幽々子に対して毒づいた。
妲己どころではない、大妖怪をも堕落させかねない魔性だ。
「いっそ拉致って思うがままに愛でてしまってもいいのよ紫。一度既成事実を作ってしまえば有利、後は流れで何だかんだでどうとでもなるわ。あえて天子の心を貶めて手玉に取ってしまうのよ……!」
「あーあー聞こえなーい! 駄目よ、私と天子の関係はもっとこう、気を許し合っててもたまに喧嘩し合えるような健全な!」
「……って、あら、天子も来たようね」
「え!?」
幽々子に言われ正門の方に目を向けると、確かに印象的な蒼髪が上がってくるのが見えた。
紫は急いでスキマから手鏡を取り出すと、吹き出したお茶をハンカチで拭って表情をキリッと整える。
この親友のコロコロ変わる表情を、幽々子は楽しげに笑いながら眺めていた。
「よし――こんにちは天子、今日は来てくれて……?」
だが萃香と橙を引き連れて現れた天子は、帽子を外していつもと違った装いだった。
「にゃーん!」
にゃーん?
言語ですら無い言葉に意味を理解できず、困惑のあまり紫の脳内に青い画面が映る。
ブルースクリーン状態の脳みそに映し出されたのは、明らかに作り物のネコ耳カチューシャを付けて、手首を曲げた猫っぽいポーズをとる謎天子だった。
「なにこれ……」
というかこれは天子と呼んでも良いのだろうか。
確かに天子は猫よりも可愛い、というよりそこらの野良猫の万倍は可愛いが、こう媚び媚びとした笑顔で安っぽい愛想を振りまくようなキャラじゃないはずだ、多分、きっと、いや間違いなく。
紫の脳に書き写されたメモリーにある天子との数少ない思い出は、ドヤ顔で偉ぶってたところに横から台無しにされたときの呆気にとられた顔や、いじられた時の怒り顔や、有利に立とうとあれこれ策略を巡らせてもあえなく看破されてぐぬぬと悔しがる顔など偏りがあって天子の性格を推し量るには足りないが、目の前の謎天子とはかなり違うことはわかる。というかなんでこんなメモリーを残してあるんだろう、そんなにこの思い出が大事だったのか去年の自分。
「にゃんにゃん、天子にゃんだにゃん。ゆかりんおはようにゃん」
「ゆかりん!?」
「プククッ」
可愛らしい媚びへつらった愛称に紫はカルチャーショックを受けた未開人のごとく唖然と口を開く。
自分が覚えてないだけでもしや本当はこんなキャラなのかと思い始めたが、袖の下で自分の肌が粟田っているのに気がついて、よし絶対に違うなと安心した。魂レベルで違和感を叫んでいる。
隣の幽々子はどちらかと言えば衝撃を受けた紫の方が面白くて、袖でつり上がった口元を隠していた。
呆然とした紫が妙にくねくねしてる天子から、桃の帽子を持たされていた橙に目を向けるが気不味そうな顔をして目を逸らした。萃香もへらへら笑いながら何も言ってくれない。
「どうしたの天子、怪しい薬に手を出したの? それともキノコ? 落ちてあるものを食べちゃ駄目だってあれほど言った……? 多分言ったじゃない」
「ごろにゃーん、喉撫でてにゃゆかりん」
「お願い、話を聞いて」
謎天子は首を逸らして喉を見せてくるが、紫はどう対応すべきかわからず手を出せない。
何もしてこないのを見て謎天子は残念そうに表情を曇らせたが、またすぐ媚びた笑顔を浮かべて縁側に上がりこんで寝転がった。
人に慣れた猫が弱点である腹を飼い主に見せてあげるように、天子は紫の方へ頭を向けたまま仰向けになって、逆さまの上目遣いで紫の様子をうかがってきた。
「ごろごろにゃんにゃん、今日はとってもいい天気にゃん。一緒に日向ぼっこしようにゃ?」
「キモッ……」
とうとう耐えきれず思ったままが言葉に出た。
割りとマジで引き始めていた紫に、天子は真顔に戻るとすくっと直立し、ネコ耳カチューシャを幽々子に押し付けて白玉楼の奥へと勝手に入り込んでいった。
「会議、二人とも集合」
「らじゃー」
「お、お邪魔しまーす……」
いつも通り酔ってニヤついた萃香と無理やり笑顔を繕った橙が、縁側から上がって廊下に引っ込んでいった。
紫とネコ耳を装着した幽々子は止める言葉を持たずそっと見送る。
「何だったのかしらあれ」
「紫ったら意外と辛辣な対応だったわね」
「いやだってキモいし……もっと天子はうきうき全開でも私は期待してませんよ的なツンツンした態度を取りつつ構ってちゃんオーラを出しまくって、構わなかったらむくれ面になって駄々こねだすような面倒くさい女の子なのよ多分」
「紫が一番面倒くさいわよ。ところで似合う? 似合う?」
「似合うから落ち着きなさい」
ネコ耳を付けた幽々子の喉を指先でくすぐってあげると、亡霊は満足そうに喉を鳴らす真似をしたが、ゴロゴロ言ってるだけでちっとも似てなかった。
「それにしても天子はそう出たのね」
「幽々子は今のでわかったの?」
「えぇ、でもスキマで盗み聞きとかしちゃ駄目よ、これはゲームなんだからネタバレは無粋だもの」
そう言われては紫も大きく打って出る訳にはいかず、スキマをイカサマとして封じられた。
あまり釈然としなかったが、それでも天子とのゲームとなれば、これを制して彼女に打ち勝ってやろうという思いがなぜだかメラメラと燃えてくるではないか。
闘志を滾らせていると、お盆を持った妖夢が廊下をチラチラと見やりながらお盆にお茶のおかわりを乗せてやってきた。
「幽々子様、あの人達廊下で座り込んで密談してるんですが、どうしたんですか――って、何そのネコ耳」
「あら妖夢いいところに、こっち来て」
ネコミミ幽々子に手招きされ、妖夢は訝しがりながらもお盆を置いて、主に目線を合わせるよう座した。
すると幽々子は被っていたネコ耳を外して、妖夢に頭のリボンの上から被せた。
「はいバトンタッチ」
「みょん!?」
「あと御願いねー」
それだけ言った幽々子は、服をひらひらと蝶のようにはためかせて廊下に出ていってしまった。
残された妖夢がわけがわからないという顔で紫と目を合わせる。
「えーと……」
「……とりあえずお茶飲む?」
「あ、はい」
妖夢が自分で淹れたお茶を勧められる裏側で、廊下の隅で顔を突き合わせた天子は吠えていた。
「思いっきり引かれたんだけど!?」
「ごめん、あんなに本気で攻めるとは思わなかった」
最初に猫ちゃんキャラで紫様を落とそうと言い出した橙が、青い顔をして言葉を返す。
傍目から見ていても天子のあの豹変は気持ち悪かった。
「キャラ崩し過ぎだよ、遠慮ってもん知らないのかい」
「ふん、当然よ、いついかなるときも全力全壊でぶち当たって楽しむのがモットーよ」
「ぶつかろうとして身をかわされてちゃ世話ないよね」
何故か急にドヤ顔しだした天子が、萃香のきついツッコミに苦虫を噛み潰したような表情に変わる。
「猫の可愛さならいい線いくと思ったんだけどね。次はどうする?」
「ううむ、紫を倒す策ならともかく、落とすとなると考えたことなかったしなあ」
「仲良くなったと思ったのに、まだそんなの考えてるの」
「大丈夫ですよ、天子は紫様にかまって欲しいだけですから。コミュニケーションツールってやつです、衣玖さんも言ってました」
「そんなんじゃないし、仲良くなったのは良いけどそれはそれとして私は紫のライバルとしてね」
「――お困りかしらー?」
「ひゃあ!?」
「うおわっ!?」
後ろから気配を消して近づいていた幽々子が耳元に囁いてきて、天子と萃香が飛び跳ねた。
「ゆ、幽々子か、いつのまに」
「さっきから近くにいましたよ?」
「先に言いなさいよあんたも!」
平然としていた橙だけだった、意外と危機察知能力は高いらしい。
幽々子は三人の輪に加わって腰を落とすと、やんわりとして底の見えない笑みで作戦に首を突っ込んできた。
「あなたたちの魂胆が見えたわ。奥手な紫が奥手過ぎて天子から離れる前に、紫を天子に依存させてしまおうと橙が言い出したのね、手を貸すわ」
「すごい、ほぼ当たってるわ! けど依存させる気まではないから手加減してよ」
「よっし、天子これは強力な助っ人だよ。こいつは根っからの紫ジャンキー、男と女の関係なら捻れてストーカーになること間違い無しの紫大好き亡霊だ!」
「あら、そんなに褒められると嬉しいわ」
「これを賞賛と捉える辺りがルナティックにクレイジーよね。っていうかこいつ頼って大丈夫なの? 美人局みたいに後から因縁つけてきたりしない?」
「安心して、ちょっと死なせてうちで働いてもらうだけだから」
「余計安心できんわ」
「大丈夫さ、こいつの紫が悲しい目にあうのは嫌だって気持ちは確かだからね。天子との仲を保たせるためならなんでもするさ」
「紫を裏切ったら死んでもらうけどね」
「ならいいや」
「いいんだ……」
平然と流した天子が、本気か冗談か橙にはわからず呆然と声が漏れた。
とにかく幽々子を交えて作戦会議が始まった。
「というわけで幽々子先生、さっきの恥をひっくり返す一発逆転の策を」
「紫はけっこう甘えたがりなのよ。だから包容力で行くのが一番だと思うけど……」
八雲紫研究の第一人者である幽々子のレクチャーが始まり、包容力の一言で幽々子と萃香と橙の三人が天子を見つめた。
平坦な胸、いつも勝ち気で周りを振り回して、ワガママ娘の構ってちゃん、そんな天子に求められる包容力とは。
「……さてでは別の方法を考えましょうか」
「私にだって包容力くらいあるわよ!!」
一方そのころ、紫は妖夢と雑談としていたのだが、こちらも段々と人生相談のような雰囲気になり始めていた。
「幽々子様が私を好きだって言ってくれることは嬉しいんですけどね、やっぱり紫様ばっかり見てる感じがして、私じゃあの方の力になれないのかなって不安で……」
「そんなことないわよ、あなたは十分に幽々子を助けているわ。どちらかと言えば幽々子のほうが問題よ、いつか彼女も私よりも妖夢を気にかけるようになるから、今は諦めずに」
半霊をどんよりと湿らせる妖夢を紫が元気づけていると、奥から目を輝かせる天子が意気揚々と現れた。
「ゆっかりー! 耳かきしてあげるわ!」
耳かき棒をブンブンとぶん回す天子を見て、紫はとても写真などでは残せないような猛烈に嫌そうに歪めた表情で、天子を軽蔑にも似た視線を送った。
「鼓膜ブレイクされたくないからイヤ」
「ぬっぐ、何よ私だってそれくらいの包容力はあるし! 大人しく私に甘えてきなさいよ!」
「だったらその耳かきスイングやめなさい、ぶっ刺す練習にしか見えないから! 大体ぬあにが包容力よ、去年私がご飯作るーって言ってお昼に物体X出してきたメモリーは教訓として忘れず残してあるわよ。女を謳うなら黒焦げ魚の桃添えなんて意味分からないの出さないことね!」
「あんただって、こんなの食べるくらいなら私が作り直すとか言って、紫色のマッズイ卵焼き量産したじゃないの! 舌が物理的に溶けるかと思ったわよ!」
「記憶にございませーん」
「あっ、こいつぅー!」
口喧嘩から取っ組み合いが始まるのを、天子をけしかけた三人が廊下から眺めていた。
「あいつらっていつもこんななの?」
「仲いい時はほんわかしてるんですけどねー。落差が激しくて」
「うふふ、紫ったら楽しそうでいいわー」
傍観者を気取る三人とは違い、目の前で喧嘩された妖夢は気が気でない様子だ。
なんせこの二人、無駄に力だけはある。ドッタンバッタンと暴れる度に畳がえぐれて破けたイグサが宙を舞う。
重たい松の木の机が足蹴にされてひっくり返るのを見て、決死の覚悟で割って入った。
「うちの屋敷で喧嘩するの止めて!」
「退きなさい妖夢! こいつのリクエスト通り穴という穴に耳かきぶっ刺してやる!」
「粋がった小娘が、お尻から傘ぶっ刺して帽子の桃ガタガタ言わせてあげようかしら!?」
「ゆ、紫様も落ち着いてください! 誰か助けてー!!」
「しょうがないから助けに行ってあげなさい萃香」
「えー、面倒じゃん。橙が行きなよ身内の恥じゃん」
「私じゃ無理ですよ、萃香さんが一番パワーあるじゃないですか」
暴走する二人だったが、妖夢によってなんとか天子は廊下へと連行され、 紫の近くには入れ替わりで萃香が残った。
「次の策を考えるわよ、あのスキマ野郎を物理的にも落とす!」
「さっきから何をやってるんですかこれ? 紫様の抹殺計画?」
「そんなところよ!」
「いや違うから。妖夢、これはあのね」
橙は紫が自身の境遇から天子と距離を取りそうなので、その前にもっと仲良くなってもらおうという旨をかいつまんで説明した。
幽々子の警護役として紫の記憶についても知っていた妖夢は、話を聞いておおよその事情を理解した。
「妖夢はなにか思いつかない?」
「うーん、そう言われても。幽々子様なら単純だから言われた通りにすれば簡単に喜んでくれるけど……」
「……そう言えば妖夢のアレがあったわね」
軽率な発言を受けて、幽々子が意味深に呟く。
妖夢はしまったと青い顔をして幽々子に振り向いた。
「アレを着けて挑めば紫と言えども……」
「アレって、もしかして幽々子様!?」
「えっ、面白そう、なになに?」
「なんでもないです!」
問い詰めてくる天子に、妖夢は断固として答えるのを拒否する。
だが幽々子は静かに妖夢の後ろに回ると、彼女を羽交い締めにしてしまった。
「天子、妖夢のアレはそこの角を曲がってすぐに部屋、箪笥の一番上の左奥にあるわよ!」
「よっしゃ、行くわよ橙隊員!」
「イエッサー! 天子軍曹!」
「やあー! やめてそれ私の黒歴史ー!!!」
泣き叫ぶ妖夢を置いてけぼりにして、天子と橙は教えられた部屋に転がり込んだ。
どうやら妖夢の私室らしく、かわいいぬいぐるみや替えのリボンを上に飾った箪笥を開き中を漁る。
パンツやブラジャーを無視して、その奥にあった布切れをつまみ上げた。
「あ、アレってまさかこれ……?」
「うっわぁー……人間辞めてるねこれ……」
目に入った代物に、天子と橙は絶句した。
さっきのネコミミなど比ではない劇物だ、こんなもの身に付けさせたであろう幽々子にドン引きし、お願いを聞かせられたであろう妖夢に同情した。
どうしようか悩む天子であったが、やがて重々しく口を開いた。
「……着るわ、これを」
「えぇ、マジで!?」
「……正直なところ、あのひねくれた紫を落とすなんて並大抵のことじゃ無理だろうし、こういう賭けに出ないといけないとは思ってたのよ」
「いやでもこれは……いいの?」
「何でもしてやるって決心ならずっと前にしてた、あの日あいつに頭を下げた日からすべての屈辱を甘じて受ける覚悟よ」
「わかった……そういうことなら止めないよ。頑張ってきてね天子!」
「でも面白いからって覗いたらコンマ1秒でたたっ斬るからね」
「ダメ?」
「ダメ!!」
屋敷の奥で決意を示している少女のことはつゆ知らず、紫と萃香は置き直された机を挟んで座布団に座っていた。
対峙した紫が、睨むような視線を酔った萃香に投げかける。
「萃香、みんなして何を企んでるの?」
「みんなお前が好きなのさ、愛されてるねー」
「話をそらさないで」
萃香は茶化した言葉をピシャリと遮られ、笑みを消して細めた眼で紫を見た。
「天子に自分の秘密を話してないらしいじゃん?」
「……ああ、そのこと。でも経緯を考えれば当然よ、秘密は漏らすべきでないから秘密だし、比那名居天子が敵対する可能性のある要注意人物には変わりない。天人が今まで私を狙ってきたこと知ってるでしょう?」
「そうだねぇ、元々天界も紫を倒すために作られたんだし、幽々子に会う前から何度も追い詰められてたんだっけ?」
「状況から考えればそうでしょうね。当時の私が世を憎んで荒れてた原因が、何度も退治されていたからと考えれば納得行く。恨みも貯まって当然だわ」
「でもそれと天子に教えないことは関係ないでしょ、いい加減下手な嘘はやめたら?」
声を低くした萃香に鋭く切り込まれ、紫が怯んだ。
「今のあんたは、ただ天子に失望されたくないだけだろ、嫌われたくないだけだろ。こんなことを黙ってたなんて酷いって怒られたくないから、殻に閉じこもって逃げようとしてるだけじゃないか」
「……あなたに何がわかるというの、記憶を失う辛さが」
「ああわからないね。私は藍や幽々子ほどお前のこと知らないからね」
そこまで言って萃香は威圧感を弱めた。
組んでいた脚を崩し、膝の上に腕を置きながらふにゃりと目元を緩める。
「言ってみなよ、それでどうともなるわけじゃないけど、だからこそ気楽にさ」
無責任な軽薄さがあったが、それでも萃香なりの親愛だった。
紫はしばらく逡巡して視線を漂わせると、恐る恐ると言った様子で言葉を紡ぐ。
「……記憶を失うのは悲しいわ、今この瞬間の思い出も来年には切り捨てているんだと思うと胸が潰れそう。でも一番悲しいのは、それが理由で大切な誰かが悲しんでしまうこと」
紫が痛む胸を押さえて悲鳴のような声を絞り出す。
伝わってくる悲痛に、鬼の萃香も苦い顔をした。
「ある程度相手の性格について情報があれば、記憶がないことを悟られずに会話するなんて簡単よ。ほとんど初めて会う相手でも見知った仲みたいに話し合える。でもそれは表面上の話で、少し突かれれば記憶の欠落が伝わってしまう、最近、藍に白味噌が苦手だって言ったの、でも去年の私はむしろ好きだったらしいわ。そして思い出を共有できないと、みんな落胆するの」
「なんだい、そんなことで」
「そんなことでも、確かにある悲しみよ」
紫はその時の後ろめたさを思い出し、萃香を睨みつけた。
本気の苦悩を感じ取って、萃香も軽々しく否定することは出来ず苦々しく俯いた。
「むう……そんなことって言ったのは悪かったね」
「いいえ、気にしないわ。これが藍のように初めから覚悟してくれた仲間であればまだいいの、でも天子は何も知らないのよ。何も知らないまま、私に近寄ってきて、私との過去に真正面から向き合った。それなのにその過去のほとんどを私が失ってるなんて天子が知ってしまったらどうなるかわからない。彼女が涙を流してまで頭を下げてくれた意味を、彼女自身が見失ってしまうのが、私は恐ろしいわ」
天子が泣いたというのは、萃香にとっても初耳だった。
謝ったとは聞いていたが、傲慢さを持ったあの天子がそこまで真摯さをを紫に示していたとは。
それだけの誠意の前で隠し事をしていては、臆するのも仕方ないかもしれない。
とは言えこのままで良いわけでもなく、なんとか切り崩すのにいい方法はないかと、柄にもなくお節介なことを考えていると、廊下から幽々子が手招きしているのに気が付いた。
「おっ、次が来たか」
「また馬鹿なことやる気なの?」
うんざりとした表情の紫を置いて、萃香が幽々子のほうへ近寄って行く。
そして廊下の奥を覗くなり、眼を丸くして頬を膨らますと、大口を開けてゲラゲラと笑いだした。
「ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!! ちょま、なにその格好ー!!!? はははははははは!!!」
「要石!」
「ブヘァッ!!」
笑いすぎて霧になって避ける余裕もなく、振り下ろされた要石が萃香の頭にめり込んでノックアウトさせた。
気絶した萃香の角を伸ばされた腕がむんずと掴んで、紫の視界からぐったりした小柄な身体が連れ去られる。
今度はまたどんな酔狂なことをしだすのかと、紫が半ば期待して座していると、奥から現れた天子の姿にびっくりして目を剥いた。
「な、なななななあ!?」
そこにいたのは、いつもの服装を脱ぎ捨てて水着に着替えた天子。
だがその水着というのが、こう、オブラートに包んで言って際どすぎた。
小さな白い生地が、ちょっと力を入れれば千切れてしまいそうな細い紐で結ばれて大事なところを隠しているが、大事なところ以外は全然隠せていない。
さらけ出した肌が健康的に輝くその衣装は、外界で言うところのマイクロビキニであった。
「ど……どう?」
「どうじゃないわよ、なんて格好してるの!?」
「こ、これ着れば紫が喜ぶって幽々子が言ってたのよ!!」
身悶えしそうな羞恥で耳まで赤く染めた天子は、恥ずかしながらもその身を隠すことなく裸体にも近い姿を見せつけた。
いっそ裸のほうがまだマシな天子の背後で、襖の裏に隠れた妖夢が顔に両手を当てて深く落ち込んでいた。
「いやああああ、二度と着ないよう封印してたのに、まさか他人に見せつけられるなんて……」
「うわあ、ホントで妖夢があれを着たんだ。かわいそう……」
「顔真っ赤でアレを着た妖夢は空前絶後の可愛さだったわー」
「幽々子様ってたいがい鬼畜ですよねっ」
天子のあられもない姿を目の当たりにした紫は、視界に叩きつけられる情報のあまりの破壊力に、天子に負けないくらいの赤面っぷりを見せていた。
――なんでよりにもよって、さっき想像したのと同じような恰好なの!!
幽々子に付き合わされた時に考えた天子の姿、それが本物の光景となっていることに酷く動揺し、心拍数が高まった。
普段は見えない鎖骨、脇、へそ、ふともも、白く輝くそれが紫を誘惑する。嗚呼、あの体を抱きしめたらどんなに温かく柔らかいのだろうか! と。
これは危険だ、身の危険だ。もはやゲームだなんだと付き合ってる場合じゃない、何故か天子の左肩に傷跡があることを気にしてる余裕もなかった。
三十六計逃げるに如かず、スキマにより一時撤退からの精神集中の昼寝を決め込もうとした紫であったが、立ち上がろうとした腰に力が入らない。
「あ、あら……? 腰が抜け……」
「あ、逃げるなこら!」
天子は紫の逃走を察し、その前に捕まえようとダイブしてきた。
驚きのあまり身体が動けなくなっていた紫は押し倒され、勢い余った覆いかぶさった天子の腹部が、柔らかなお腹が鼻先に押し付けられた。
「ひあああああ、てん、し、そんな! 女としてはしゅ、はしたな柔らか!?」
「んひゃ! 紫、くすぐったいってば!」
「しょんなこと言われてもよ!?」
暴走のあまり噛みまくりの紫は、荒い鼻息を天子の肌に吹きかける。
唇にまで触れてきた天子の素肌が、理性を破壊しつくさんと脳内を蹂躙した。
畳に手を突いて身を起こした天子は、激しい反応を示す紫の様子を腰元にまたがって見下ろしてきて、気を良くしたように赤い顔でニンマリと笑う。
「お、おおー? その反応、もしかして紫って、本当に女の子が好き……?」
「いやそんなことは、天子の身体が優しすぎるのであってして!!」
もはや大妖怪の威厳も何もない狂乱ぶりだった。
天子は自分の肩を抱いて傷跡を指でなぞると、その手で紫のお腹に当てた。
「その、私だって恥ずかしいけどね」
服越しに感触を確かめるように押し当てられた手の平が、紫の肉を心地よく圧迫し熱に酔わせる。
白い肌が眩しく鼓膜を焼き、紫から段々と現実味が失われてきて、前後不覚になった頭に、目の前の華奢な体を抱きしめたりなんかしちゃったりしてしまいたい煩悩が渦巻いて、言いたいことが飽和した口が開いたり閉じたりを繰り返す。
そうこうしていると天子が手の平から指先で身体の輪郭を丁寧になぞりだし、指が喉元へ上がってきた。
へそから鳩尾を通り過ぎふくよかな胸のあいだを抜けて顎の先にまで、その蠱惑的な蛇が身体を這うのを、紫は全身を震わせながら感じ取っていた。
「紫なら、ちょっとぐらい触れてくれたって――」
「――真っ昼間から何をしてるんだお前は」
押し倒されたりしたりしたままの二人が縁側から外を見ると、昼間から痴態を見せられて渋い顔で苦言を漏らす藍がいた。
「きゃああああああああああああ!!!」
「へぶしっ!?」
我に返った天子により、紫の顔面は強烈なコークスクリューパンチでえぐられ、衝撃で後頭部から落ちて畳を叩き割った。
畳に紫の頭部を埋め込んだ天子は、涙目で走り廊下へと消えていった。
首だけ見なくなった主に際どい水着の天子、わけがわからない状況に藍が疑問を浮かばせていると慌てた様子の橙がやってきた。
「ら、藍様こっち来て!」
「どうしたんだ橙、これは何の騒ぎなんだ?」
「いいから、一度奥に!!」
急かされて仕方なく藍は奥へ進んだ。主はまあ、頑丈だし大丈夫だろう。それに紫と天子のじゃれ合いなら、あの程度はいつものことだ――水着プレイは珍しいが。
藍を廊下へ押し込んだ橙は、すぐさま襖を締めて振り返る。
「橙……どういうことかしらぁ……?」
「あ、あはは……」
突き刺さった頭を抜いた紫に睨まれて、橙は苦い笑い顔に恐怖の涙を浮かべた。
◇ ◆ ◇
「なんか妙なテンションになってた、死にたい」
「ま、まあまあ、落ち着いてくださいよ。気持ちはわかりますから」
いつもの服装に戻った天子は、廊下の片隅で膝を抱えて暗い雰囲気を漂わせていた。
妖夢に慰められる光景の背後で、寝かされていた萃香が薄目を開け、自分が気絶していたことに気づくと飛び起きる。
「――ハッ!? なんか面白いところを見逃した気がする!」
「あらおはよう萃香」
「あっ、おはようさん幽々子。どうなった?」
幽々子が首を横に振ったのを見て、萃香は「ありゃりゃ」と残念そうにとりあえず瓢箪の酒をあおった。
決して広くはない廊下でたむろう集団の端っこで、訝しげな顔の藍が声を上げた。
「……で、これは結局何の遊びなんですか?」
「紫が逃げられないように、仲良くさせてしまいましょうって話よ」
疑問には幽々子が間髪をいれず答えてきて、藍は納得する。
自分が半端にするよりかは教えるか距離を取るべきと進言した時の橙の様子を思い出せば、今回のことの発案者はおそらく彼女だろうと察した。
理解を得た藍に、萃香が酒の臭いを吹きかける。
「藍からは何か無いかい?」
「幽々子様にわからないのだから私にもわからないよ。第一わかったとしても口出しはしないね、私が動いては紫様の行動を強制しかねない。あの方はアンバランスだ」
立場的には藍が紫に従っている体だが、実際には紫は多くの面で藍に頼り切りだし、紫が優れた知能、優れた力を持っていても、持っている思い出の少なさから芯があまり強くない。
藍が苦言を呈せば紫は自分の意思と考えを見失ってしまいかねない。
致命的な失敗をしないように道を示すことはあっても、基本的には紫の自主性を尊ぶつもりであった。
「お前はそういうスタンスだしな。ううむ、これはアレだね。いよいよ私の秘蔵の殺し文句を使うしか無いかな」
「なにかあるの!?」
天子はさっきまで落ち込みようはどこへやら、妖夢をふっ飛ばして頼もしそうな台詞の萃香に縋り付いた。
頭を打って悶絶する妖夢とそれを抱きしめる幽々子を無視して突っ走る健気な天子に、萃香は「ああ」と相槌を打つと耳に顔を寄せとっておきの言葉を伝える。
しかしそれを聞いた天子は、怒りにも似た表情で飛び退くと小憎らしい小鬼に怒鳴りつけた。
「あんた本気でそんなこと言わせる気!?」
「本気も本気さ、押して逃げるなら引いて釣り上げるのさ」
「思いっきり嘘つきになるんだけど鬼的にどうなのよそれ」
「ふっふっふ、嘘は嘘でもお前と紫を幸せにするきれいな嘘さ」
「むしろドス黒いでしょ……」
天子は目元に手を当てて廊下に座り込み、深く考え込むと、悩んだ末に手の下から鋭い眼光を覗かせて顔を上げた。
それを見て萃香は、輝かんばかりの意志を感じて、安心に微笑む。
「これを言って離れるような仲じゃないさ。あいつを信じなよ」
「あんな言葉使ってあなたを信じてますなんて、虫が良すぎない?」
「かもね」
「……でも、進むためには恨まれる覚悟で試すべきかもね」
天子は一人納得して立ち上がった。
迷いながらも足を進める天子の背中に、萃香は何かを見出して満足気に見送った。
「紫に必要なのは、ああいう意志なんだろうね」
「萃香、何をけしかけたの?」
「黙ってみてなよ、結果はすぐ出るさ」
いつになく真剣な天子に幽々子は嫌な予感が走ったが、問い詰めても萃香はのらりくらりとした態度だ。
締め切られた襖の向こうからは、紫と橙の喚き声が聞こえてくる。
「橙ー? 何を企んでるのか正直に言いなさいー!」
「ひー! 許してください紫様、悪いことじゃないんですって!」
「天子にあんなことさせといて何言ってるの!」
「アレやらせたの幽々子様ですよー!」
騒がしい声に取っ手に手をかけた天子の手が震えて止まる。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて、天子は改めて襖を開け放った。
橙のほっぺたを両側から引っ張って折檻していた紫が、音を立てて開かれた襖に驚いて振り返り、二人の目が合う。
「こ、今度は普通の格好なのね。何をする気なの?」
現れた本命に紫は柔らかいほっぺから指を離し、解放された橙が藍のいる方へ逃げていく。
紫は先程の光景を思い出して顔を赤らめながらも、警戒を強めた様子だ。
だが関係ない、まっすぐぶつかるだけだと天子は前に出て、座っている紫を見下ろした。
「――――――」
「……? どうしたの、変なものでも食べた?」
硬い表情で何も言わない天子に、紫がわずかに心配し始める。
天子は意を決して、唾を飛ばして大声を張り上げた。
「だ――大っ嫌い! 紫なんて大っ嫌い!!」
「――――」
大きく目を見開いて瞳孔を揺らした紫は、時が止まったかのように、息すら忘れて固まってしまった。
辺りに響いた拒絶と否定に、藍と事情を聞いた橙が萃香に軽蔑した視線を投げた。
「うわぁ、これは引きます……」
「外道ぉ……」
「うはは、まるでゴミ以下の肥溜めを見るような眼だぁ」
「これはもう、切り捨てるべきでは」
「……殺しましょうか」
「ちょっと、二人とも殺気がシャレにならないからタンマ」
殺伐とした空気になりかけ殺意が湧き上がる廊下側とは違い、部屋の中は静かに、そして暗く沈んでいた。
実際に言いのけた天子は罪悪感に苛まされ、深く気落ちした表情だ。
咄嗟に謝ろうとした口が、言葉を出せずにパクパクと開閉する。
対する紫は天子がこんな言葉を言うはずないと動揺していたが、段々と冷静になる頭で誰の差し金か気付くと廊下を睨みつけた。
殺気立つ幽々子と妖夢に冷や汗をかく萃香を見て、立ち上がって早足で近づく。
「ゆか――」
険しい表情ですれ違う紫に、天子は声をかけようとしたが、結局それ以上は何も言えなかった。
「萃香、面ぁ貸しなさい」
「やぁ、紫っ、角引っ張るのは勘弁!!」
長い角を圧し折らんばかりの力で握り込んだ紫が、廊下を抜けて事を仕立てた鬼を引きずっていく。
心配そうな顔をする天子たちを置き去りにして、紫は白玉楼で一番奥まで萃香を連れて行くと壁に叩きつけた。
「どういうこと萃香!? あんなこと天子に言わせて!」
「そりゃあ紫と天子のためさ、ガツンとくる嫌な嘘だっただろ?」
珍しく真剣な怒りを露わにする紫に、なんでもないように萃香は述べる。
むしろその口調は、上手くやってやったと得意げに誇るかのようだ。
「さっきの言葉でわかったはずさ、もう天子との縁は深くなりすぎた」
「……そういうことね」
先程からの天子の奇行の理由もこれで掴めた。
最初に天子と一緒に白玉楼に来た橙が、家族が天子と離れないようにと気を使ったのだろう。
「怖いからって今更ナシにしようなんて無駄さ、無駄。あんた自身が耐えられないよ」
「それは……」
「それとも全部記憶を消しちゃってでも逃げるかい? それこそおすすめしないねぇ、天子だけじゃなく今まで藍たちが頑張ってくれたのが全部台無しになっちゃうし、何よりも天子が可哀想だよ」
放たれる言葉の数々に、紫がたじろぐ。
上から目線で語られたことを否定出来ないほど、天子から『大嫌い』と言われたショックは大きかった。
嘘だというのはわかる、だがそれで終わらせれないほど辛く、胸が苦しい。
「鬼の生き方からはぐれた今でも嘘は嫌いだけどね、一番嫌いなのは自分の気持ちに嘘つくやつさ。その点、天子はいいねえ、例え矛盾する気持ちがあったって最後には本当の望みに正直なやつだ、そのためならあんな下らない嘘だって本気でつく! あんたとは正反対だよ」
「つまり本当に私のことを大嫌いなのは萃香ってことね」
「その通りさ。お前の臆病なところが昔から嫌いだよ」
憎々しげに睨む紫に萃香は簡単に吐き捨てると、紫の脇を通り抜ける。
「でも、まっ、臆病だから肝心なところで大事なモノを捨てきれない癖は嫌いじゃないかな」
だが最後に見せた笑顔は、暴威を振るう妖怪でありながら獲得した、萃香なりの善性だった。
何だかんだ言って助けようとしてくれている友人からの想いに、紫は眉間の力を解いて受け取った。
「萃香…………どこへ行こうというの?」
「グヘッ」
だがそれはそれとしてムカつくのである。
逃げようとする萃香の襟首を後ろから捕まえて引き戻し、スキマから取り出した縄で萃香をグルグル巻きにして、更に厳重に結界を重ねた。。
「あなたが私と天子の今後を案じてくれたのはわかるわ、えぇわかりますとも。私もあなたがお酒の飲みすぎて体を壊さないか心配だったの、お礼をしてあげましょう」
「いやそれいらない心配だからああああ!」
完全に簀巻状態にされてお酒に手をのばすこともできなくなった萃香を引きずって、紫は天子たちのところへ戻る。
居間に入る前に、廊下で待っていた幽々子が、弱々しい声をかけてきた。
「紫、大丈夫? 落ち込んでない?」
「大丈夫よ幽々子。別に天子が本気で言ったんじゃないってわかってるから」
心配のあまり幽々子のほうが落ち込んでしまっているのを、紫はやんわりと元気づける。
居間に入ると、より深刻そうな顔をした天子がいた。
「紫、さっきはその――」
「いいわ、気にしてないもの」
紫が先手を打つ天子の言葉を遮った。
謝罪を封殺された天子が力なく視線を下げるのを見て、紫も胸が痛い。
暗い雰囲気だ、これを振り払おうと紫はできるだけいつも通りを装って、声を上げた。
「さあ、宴を始めましょう」
◇ ◆ ◇
「スキマ妖怪は、元々この世界の存在ではない」
暗い雷雲の中、重く世界を揺るがす厳かな声に、衣玖は震撼しながら聞き入っていた。
「現世とあらゆる異界、そして月を含めたこの世界はそのすべてを結界に覆われている、これがあるから世界は他の世界と交じることなく、独立した一つとして形を保っていられる」
衣玖が対面しているのは、雲の中に投影された龍神の虚像であった。
月に住まいし天帝、すなわち龍神の声を聴くことが竜宮の使いの使命の一つであり、龍神から授かった羽衣を通すことで対話することが出来る。
羽衣から発せられた光が龍神の大きな頭部を映し、稲妻のように響く声が衣玖に叩きつけられる。
「だがこの世界と異世界とを分かつ境界の隙間には、世界が生まれる前の理すらない混沌たる原初の闇が広がっている。スキマ妖怪は元々、そこに住まうまつろわぬ影たちの一つ。境界より這い出てきた彼奴は、我らとは根本からして異なる、恐ろしい存在なのだ」
龍神が恐ろしいなどと形容する存在を、衣玖は他に知らない。
幻想郷における最高位の神であり、事実その神はそれ以外の神を遥かに凌駕する権能を有する、この世界における理とも言っていい偉大な存在だ。
「アレは下手をすれば存在するだけで世界の境界を揺らがせ、すべてを滅ぼすきっかけになりうる。故に遥か過去から幾星霜、彼奴を完全に滅する方法が探られてきた。天界とは元々はスキマ妖怪の滅殺を研究する有志が集ったのが始まりであり、比那名居家と緋想の剣も試された方法の一つだ。境界の隙間にも気質が存在することが判明し、気質を用いて本質を突けば境界に生まれた存在をも消滅させられるのではないかと考えたようだな」
天子からも聞かされた話の一部に、天子と紫が巡り合った因果に一瞬衣玖は心を飛ばした。
しかし思考をも圧倒する存在感を前にして、すぐにまた龍神の声で正気に戻される。
「だが結局は彼奴を滅することは誰も成し得なかった。一時的にこの世界から消し飛ばすことは容易いが、彼奴の本質を完全に滅ぼすことは出来ず、一時的にこの世界の依り代を壊し境界の隙間に追いやるだけで、すぐにまたこちら側に顕現する。月の都は境界が崩れたときにも自分たちだけは助かるようにと、早々に諦めたものたちが築いた安全地帯、孤立した新世界だ」
月の都の異常な科学力の理由もまた、紫が原因であった。
何もかもが紫を脅威として動いていた事実を知らせれ、衣玖は認識が追いつかない。
「……八雲紫と我は、幻想郷が作られる時にある契約を交わしている。それは表向きには人間と妖怪の諍いを収めるためのものだが、実際には違う。もし八雲紫が境界を乱すようなことがあれば、我が幻想郷ごと全てを雷槌で噛み砕いて境界を正す、かわりにそれまでは彼奴を見逃そうというもの。我にできることはそれくらいなのだ」
それはつまり、龍神にも八雲紫を完全には殺せないということだ。
本当に恐ろしい話だ、あらゆる神の頂点に立つ龍神ですら殺せないなど。
それでもいつ爆発するかわからない爆弾を幻想郷という籠の中で見張れるのだから、世界にとってこの契約は有り難いものなのだ。
「永江衣玖よ、お前が八雲紫と関係を持てたというのなら丁度いい。やつを監視し、必要とあれば我に伝えよ。その時には、この幻想郷を引き換えにして全てを収めようぞ」
「……その任、承知しました」
幻想郷の最後の最期に与えられた使命に、衣玖は神妙に頷いた。
これで龍神の話は終わりだろうと衣玖は判断し、わずかに緊張を緩ませる。
事実、龍神が己の立場から伝えるべきことは衣玖に伝え終わっていた。
「だが、もしもスキマ妖怪がこの世界と共存できる余地があるのならば」
だからこの言葉は神としてではない、個としての憐れみだ。
「あの哀れな少女に、束の間の安息くらいは訪れていいだろうがな」
その声に、今までのような肩にのしかかる重みはなかった。
今までと違い、威厳ではない別のものがこもった言葉。
龍神が最後に聞かせた少しの慈悲に、衣玖は肩肘張った竜宮の使いとしてではなく、天子の従者である永江衣玖として聞き届けていた。
◇ ◆ ◇
酒が飲みたい過ぎて苦悩のあまり気絶した萃香を除き、宴会は盛り上がっているようであった。
しかし一見すると楽しそうな場に見えて、紫と天子の口数がいつもより少ないことに周りはすぐ気付いた。
やはりあの問題発言が尾を引いているのは間違いなかった。
「――それじゃあ、予定通りに」
「はい、お願いします。萃香はどうします?」
「ほっときなさい、寝てるし、いい薬だわ」
夜も更けてきたころ、幽々子と藍がひっそりと囁き合う。
顔を火照らせた幽々子は、橙と妖夢が紫に可愛がられているところへ割って入って、可愛い従者にしなだれかかった。
「ようむぅ~、酔っちゃったわ寝かしつけて~」
「わわー、ゆゆこさまー! だいじょうぶですかー!!?」
お前もうちょっとどうにかできないのかと、藍と橙が思う程度の棒読みで妖夢が叫ぶ。
不自然過ぎる悲鳴に紫と天子が首を傾げるが、妖夢は無視して幽々子をお姫様抱っこで持ち上げる。
「それでは紫様! 私は幽々子様を構わないといけませんのでこれで寝させていただきます」
「え、ええ……」
まくし立てた妖夢はさっさと寝室へと引っ込んでしまった。
苦笑いで眺めていた藍と橙も、顔を見合わすと頷いて立ち上がった。
「紫様、私達もそろそろお休みさせていただきます」
「おやすみなさい紫様! 天子もおやすみ!」
それだけ言って式神の二人もそそくさと宴会場を後にする。
残ったのは紫と天子、それと苦悶の表情でヨダレを垂らして気絶しっぱなしの萃香のみ。
起きている二人は、お互いに視線を交わすと苦笑を漏らした。
「気を使われちゃったわね」
「みたいね」
宴会のあいだはお互いに避け合っていた二人だが、観念して向かい合った。
空っぽになった盃を手に、身じろぎもせず見つめ合う。
しばし静寂の中で覚悟を経て、天子が先に口を開いた。
「……さっきはごめんね、あんなこと言って」
「良いのよ、私も悪いところがあるし」
「わ、わかってると思うけど、嘘だからねあれ!」
慌てて紡がれた言葉に胸を叩かれて、紫は張っていた肩から力が抜けるのを感じた。
「……はいはい、わかってるから安心しなさい」
言葉とは裏腹に、紫が一番安心していた。
嘘だろう、とはわかっていた。萃香の裏付けも取れていた。
だがそれでも『大嫌い』というワードは、天子に否定してもらえるまで紫に重く圧しかかっていた。
言葉の一つでこうも気持ちが浮き沈みするなんて、どれだけ自分の心が天子に重きをおいているのか実感する。
妖怪などとは対極の存在に心を寄せるなんて愚かなことをしたなと思う反面、天子のような人を好きになれた自分が嬉しかった、誇らしいとすら思った。
「でもにゃんとかどうかと思うけどね」
「な、なによ! 水着着た時なんて紫も喜んでたじゃないの!」
「喜んでないわよ!?」
「嘘つきー、女好きの変態ー!」
「あんな格好するあなたのほうが変態でしょ!」
そして今更ながら、天子が自分と離れないためにあんなことをしてくれたことに気が付いて動揺が走った。
ネコ耳つけたり変態的な水着を着たり、そうまで身を犠牲にしてまで離れたくないと思ってくれているのだ。耳かき殺人未遂のことは忘れる。
とりあえずさっきの水着姿は記憶投影術式で写真化して保存しておこう。
「――ああ、紫と一緒にいるのってやっぱり楽しいな」
言い争っていた天子だが、話の切れ目で不意に想いを浮かべた。
唐突に表情を変えて静かな笑顔になる天子に、紫はきょとんとして黙り込む。
「うん、紫に謝ることが出来て本当に良かった」
「……天子?」
「こんなところで逃げられたら頭下げた甲斐がないし、あんたみたいな面白いやつ逃さないんだからね」
「ふふ、あなたっていつもそう勝ち気ね」
浮いた空気を生意気な口調で誤魔化して、天子がにっこりと微笑む。
彼女の顔が赤いのは、お酒のせいだけだろうか。
「大丈夫よ、どんなことがあってもあなたから離れたりなんてしないから」
目の前の少女の声が優しくて、つい紫も口を滑らせてしまった。
「な、なんて……」
「……紫、顔赤い」
「お酒のせいよ、言わないで」
自分だけ指摘されて、紫は悔しそうに顔を背けた。
何故自分ばかりこんなにもヤキモキさせられなければならないのかと、八つ当たり気味な感情を抑えつける。
気難しい顔をする紫を前に、天子は「とう!」と掛け声を上げて紫の膝元に頭を乗せた
「きゃっ!?」
「いえーい、特等席!」
「ちょっともう、いきなりどうしたのよ」
紫はそう言いながらも、じゃれつく天子を追い払いはしなかった。
優しい紫の太ももに、天子は服の上から頭をうずめて呟く。
「紫は温かいね……私とは大違い」
わずかに陰りを感じる声に、紫はどこか心配になった。
天子らしくない、何かが込められた悲しい声で、反射的に反論する。
「そんなことない、あなたも十分温かいわ」
「そうかな……そうだと良いな……」
言い聞かされた天子は願いを浮かべて、酔いで重くなったまぶたを閉じて力を抜いた。
ほどなくして紫の膝下から安らかな寝息が立ち始めた。
紫は盃を置いて、寝転がった天子を見下ろしている。
安らかな寝顔は遊び疲れた子供のようで、今日という日に満足できた幸せな人の表情だ。
おもむろにその頬を指で突いてみたりしてみるが、その程度ではまったく反応しないほど熟睡している。
しばらくほっぺの柔らかさを楽しんでいると、紫の中でどんな夢を見ているのだろうと興味が湧き始めた。
実は紫は他人の夢というものに関心が深い、というのも紫自身が夢を見れないのだ。
ある妖怪曰く、夢はこの世界に生まれた存在のためのものであるとのことらしく、世界の外側から現出した紫は仲間外れだ。
しかし紫の能力を使えば、他者の夢の中に潜り込むことができる。
いつも幻想郷で遊び回ってる彼女の夢はきっと面白いものに違いない。天子が楽しんでいるものを、紫も一緒に楽しむことができるのだ。
同じ風景も見る人が違えばその写り方は変わる、天子の瞳に映る世界がどんなものなのか知りたくなった。
無意識下の確信の表れである他人の夢に潜り込むなど、本来は手を出してはいけない心の侵略のはずなのだが、一度魔が差してしまえば、欲望は際限なく膨らんでいく。
天子の閉じた瞳の上に手を重ね、境界を操る。
「ごめんなさいね」と言いかけて、謝れることではないと思い口をつぐむが、その手を戻しはしなかった。
紫の意識と眠れる天子の無意識が溶け合い一つに混ざる。
目を閉じて天子から押し寄せてくるに風景に心預けた。
――――
――――――――
――――――――――――――――
心地よい暗闇に身を任せた紫が心の瞳を開けた時、最初に見えたのは薄暗い夢の空間を支える網目状のテクスチャフレームと、宙にいくつも浮かんでいるシャボン玉に似た何か。
ここは異界に広がる夢の世界、すべての夢は互いに繋がっていて、少し能力のあるものならば自由に行き来できる。
紫はここから天子の夢に入り込もうとするところだったが、声を掛けられ身動ぎした。
「おや、またあなたですか」
紫が振り向いた先にいたのは、ドレミー・スイートという夢の妖怪、夢の監視者。手に持ったピンク色の粘土のようなものをこね回しながら、知った顔で眠たげな視線を送ってきている。
紫としても彼女のおおよその情報は知っていた、昔の紫も同じように他人の夢に入り込もうとしドレミーとは会って彼女の情報をプロファイルしている。もっとも紫本人に実際に会った時の記憶は覚えていないが。
「あら監視者さん、私が来るのがわかってたのかしら?」
「いえ、仕事でちょうどこの辺りの夢に来ていましたから」
「仕事ねえ、誰が頼んだのかしら」
「みんながですよ。多くの無意識が監視者を望んだから私が生まれたのです」
わざわざ見張られて自由を無くしたいとは難儀なことだ思う紫の前で、ドレミーが監視者らしいご忠言を始めた。
「それはそうと感心しませんね。他人の夢に土足で上がるのは」
案の定の発言だった、彼女の立場を考えれば当然だろう。
とは言えそれで引き下がるほど紫も大人しくはない、無理を力で押し通すのが愚者の特権だ。
「あら、ならここで一戦交える?」
「遠慮しておきましょう、私では負けるのが目に見えています」
「スペルカードルールでもいいのよ」
「いいえ、どちらにせよ今のあなたは強引で止められそうにありません」
ドレミーの言葉を受け、そんなに自分が急いだ風に見えていたのかと紫は我に返って顔を紅潮させた。
「卑屈なあなたがそんな不遜な行動を強行しようとは珍しい、よほど大切な方ですか」
「た、大切なんかじゃ。ああいえ、それなりに親しいけどそういうのじゃ」
紫があからさまに感情を露呈する、ドレミーは物珍しげに見つめる。
たまに夢の中に侵入してくる紫とはそれなりに長い付き合いになるが、彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。
異物と呼ばれ排他される存在が、まるでウブな生娘なよう。
しかしならばこそ、なおのことその人の夢に入り込むべきではないと思うが、すでに一度忠告したのだから二度目は言わなかった、精々後悔すればいいだろう。
「これは自分の身を護るための情報収集ですから、天子のことだからいつ私の寝首をかこうとしているかわかりませんし、ええそうですともやましい理由しかありませんわ」
「はあそうですか、ではご自由にどうぞ」
投げやりな態度のドレミーに送り出されて、いよいよ紫は天子の夢へ向かおうとした。
周囲に浮かぶシャボン玉のような物は夢魂と呼ばれる物で、これら一つ一つが眠っている者が見ている夢なのだ。
夢魂の表面にはその人が見ている夢の内容が断片的に映し出されており、紫はその一つ覗いてみると、蒼い髪の少女が歩いている映像が見えた。
ビンゴだ、早速天子の夢を見つけられた、後はこの夢を壊してしまわないように優しく境界の中に入り込むだけだ。
紫は夢魂に手をかざし能力を発揮する、自らの意識と夢魂の内側との境界を限りなく薄めて近づけると、眠りに落ちるような目眩が襲い視界が落ちた。
――――自分の輪郭がぶれるような感覚の後、目を開けると紫はどこぞの里の中にいた。
幻想郷ではない、周囲の建物の作りからしてもっと昔の場所が夢の舞台だ。当時の記憶はとうに闇に失われているが、千年以上昔の建物がこういった形状だと伝え聞いている。
どうやら上手く夢の中に入れたらしく、すでにドレミーの姿は周囲から消え去っていた、その代わりに現れたのは見知った後ろ姿。
時刻は黄昏時、夕闇に人影が少なくなってきている里の通りの真ん中に天子がいた。
今よりも小さな背丈で、同じ蒼髪の女性と手を繋いで道を歩いている。
「お母様、今日は川で魚をいっぱい釣ってきたわ!」
隣を行く女性を見上げて、天子は無垢な笑顔を浮かべて誇らしげに反対の手に持った魚籠を持ち上げていた。
――――かわいいいいいいい!!!
思わず叫びそうになる口を紫は咄嗟に押さえた。ここで不審な行動をすれば夢の内容が変わり、純粋な天子の夢を楽しめなくなってしまうかもしれない。
いやしかし、純真さを持った幼い天子はとてつもなく可愛かった。背丈は今より少し小さいくらいで一見するとあまり変化はないが、挙動の一つ一つが純朴で愛らしさにあふれている。
無論、現在の天子が可愛くないわけではないのだがあっちは力強いたくましさがある、それに対し庇護欲を誘われる無邪気な笑顔の新鮮さにクラっときた、いわゆるギャップ萌えである。
身悶えしながら、この天子に飛びついて弄くり回したい衝動を必死に我慢する。
「ふふ、すごいわ地子。今日はこの魚を焼いて食べましょ」
「今日は私にも捌き方教えてね」
「もちろんよ、地子は頑張りやさんね」
天子が過去に地子という幼名で呼ばれていたのは紫も聞いている、恐らくこの夢は天子の人間時代の記憶が元になっているのだろう。
子供時代を写した夢の天子のなんたる純粋無垢でかわいらしいことか。
背丈も小さいし、手足やほっぺたは今より丸っこくてぷにぷにと柔らかそうで、全身から愛嬌が漂っている。
極み付けはこの屈託のない笑顔だ。今の天子もいい意味で子供っぽさを保持しているが、これは子供っぽいというより純粋な幼さだ。
もちろん今の天子も十分可愛い、だがこの純粋な可愛さはそれとはまた違う、新鮮な衝撃だった。
尊い、実に尊い。これは現実に戻ったら写真化だ。
「地子はなんでも上手だから、お母さんもすぐ追い抜かれちゃうかもね」
「そうかな? 私上手くやれてる?」
「ええ、えらいえらい」
「えへへ……」
天子の隣を行く女性は話を聞く限り天子の母親らしい。顔立ちは天子と似ており髪の毛や瞳の色も同じだ。胸は――そっくりだ。
彼女に褒められると、天子は嬉しさに笑みをこぼしながらも、照れくさそうに鼻をこする。
現代の天子なら間違いなく胸を張って「当然よ!」などと言って威張り散らすだろうに、それはそれで天子らしくて好きなのだが、こっちの幼い天子も破壊力抜群だ。
まさかえっちな水着レベルの動揺を味わうことになるとは思わなかった、淫猥さとは別の興奮に押さえきれなくなってくる。
「私はお母様とお父様の娘だもん、ちゃんとしなきゃよね」
「あら、無理しなくていいのよ? 地子が幸せになることが一番大切なんだから」
「駄目よ、私のせいで二人に恥をかかせたりしたくないもん!」
なんて純朴な頑張りだろう、こんな言葉をかけてもらえる両親が羨ましくてはち切れそうだ。
というかもう我慢ができない、こんな天子愛でざるを得ない。むしろ何もしないのは世界への冒涜である。
はあはあと危ない息遣いで口をもとをだらしなくした紫が、震える手をわきわきさせて背後から天子に近寄った。
「それに、お母様とお父様がいれば、どこでだって幸せだもん!」
そう言い放った天子の隣で、血まみれの手が母の胸から突き出てきた。
「――えっ?」
傷口から飛び散る血がスローモーションのように脳へ焼き付く。
その言葉が出たのが幼い天子だったか、それとも自分自身だったのか紫にはわからなかった。
ただ自分の右腕が、天子の母を貫いていることを理解するだけで頭がいっぱいだった。
「な、なんなのこれは――」
慌てて腕を引き抜くが塗れた血はすでに拭いようがなく、紫の目の前で母親は糸が切れた人形のように崩れ落ちて横たわる。
血溜まりを広げる母親を見て、天子が呆然とした表情でぺたりと座り込んで、もう動かない肩を揺らして呼びかけた。
「お母様……? ねえ、お母様……?」
何故今自分は天子の母親を貫いてしまったのだと脳裏に自問が響く。まさか嫉妬にかられて彼女を殺したいとでも思ってしまったのか?
「違う……これは、最初からそういう内容だったんだわ」
今のは紫の意思ではない。いつのまにか夢の中の展開に巻き込まれ、登場人物の役割をなぞっていた。
これは天子の見ていた悪夢――そう理解した時、母親を喪った娘が、こちらを見て絶望の表情を浮かべた。
「いやああああああああああああああ!!!」
――――――――――――――――
――――――――
――――
紫がうつつに意識を引き戻した時、引いた手のひらの下から、同じように目覚めた天子と目が合った。
まるで夢の続きのように感じて、紫は思わず身を竦めた。
その反応を見た天子は、表情を苦痛に歪めてバネのように起き上がると、即座に紫へ振り返って思いっきり頬を引っ叩いた。
乾いた音が夜に響いて、紫は頬が火傷でもしたみたいに熱く感じた。
「――見たわね、あんたっ」
心の中に土足で上がり込んだことは、天子にバレてしまっていた。
自らの傷に触れられてしまった天子の顔は苦渋に満ち、涙が浮かんでいる。
天子が涙を見せるのは、桃を差し出して謝ったあの日以来だ。
悪気はなかったとは言え、見てはいけない物を見てしまい、紫は痛む頬を押さえて力なく頭を下げるしかなかった。
「ごめんな……さい」
「……バカ!」
それだけ言い放って、天子は紫に背を向けて黙り込んでしまった。
天子の痛々しい態度を見て、ようやく紫に後悔の念が浮かび始めた。ドレミーの言う通り、踏み入るべきではなかった。
目の前の丸まった背に紫は手を伸ばしかけ、すぐに下ろす。
「本当に、ごめんなさい」
詫びたいのにそれ以上の言葉が見つからない。
天子のためにどうするべきだろうか。そっとしておくべきか、無理にでも言葉をかけるべきか。
しかしどれを選んでもどうにもならない気がする、夢に触れてしまった時点で何もかも悪くなるしかなかった。
紫が気を回して頭を悩ませていると、唐突に天子が顔を上げた。
「お母様が、妖怪に殺されたの」
それは正しく夢の内容で紫は心臓をドキリと鳴らす。
「人間だったころ、私の目の前で殺された。その妖怪はその場で退治されたけど、そんなんじゃ何の慰めにもならなかった」
天子はポツポツと語り始めた。
掠れた声が紫の心に突き刺さる、最初は力がなかった声には段々と熱が篭もっていき、やがて堰を切ったように苦しい想いが溢れ出す。
「お父様も前は小うるさいけど優しかったのに、狂って死にかけて、それを助けようとしたら私が殴られた。それでもこれ以上家族が死ぬよりはいいって思って耐えたけど、痛かった」
とうとう溜まっていた涙が天子の頬を伝った。
大粒の涙は次から次に湧き上がり、天子はクシャクシャに顔を歪めてしゃがれた声で泣き喚いた。
「ずっと……ずっと苦しかったのよ! 辛かったのよ! 本当なら、家族一緒にずっと天界で暮らせたはずだったのに。何で私がこんな目にあわなきゃいけないんだって、嫌で嫌で、苦しくて仕方なくって……!!」
泣きじゃくる背中に、紫はいても立ってもいられなくなった。
人の悲痛な過去を掘り起こした身でおこがましくても、彼女のために何かしたいと思った。
熱い気持ちに突き動かされて天子を背中から強く抱きしめる。
「大丈夫……もう、大丈夫……」
「ゆかり……」
喪われてしまった天子の母親の代わりに何ができるだろうか、何をしてやれるだろうか。
誰かの代わりになろうなど無理な話だろう、でもそれで諦めては誰も救われない。
無駄なことを考えてはダメだと、衝動的に思ったままの気持ちを口から出した。
「ここはもう、あなたを苦しめるものは何もない。だから大丈夫よ」
気休めでなく、本気で心からその言葉が出た。
自分でも驚くくらい言葉が強まるのを感じる、今この瞬間は自らの全てが天子のためにあると思った。
紫にきつく抱き締められる天子は、涙で潤んだ瞳で呆然と見上げてくる。
「またあなたが奪われそうになったら、私がそれを護るから」
笑ってしまいそうなくらい白々しい綺麗事。
例え紫が本気で思い込んでいようと、そんなこと言われたって何の信用もできないのに、天子は胸の奥に火を入れられたように熱くなるのを感じた。
母を喪った悲しみを、その後の苦痛を、全てを知ってもらえたわけでもない、これで全てが救われるわけでもない。
それでも、紫の言葉に詰まった熱量が、天子の心を激しく叩いた。今までの苦痛にまみれた記憶が頭を過り、それらを紫の温かさが塗りつぶしていく。
急速に巡る感情に思考が追いつかない中、縺れた頭でただ自分は嬉しいのだと直感した。
「う……あぁぁ……うわああああああああああああああああああ!!!」
湧き上がるのは実に数百年分の慟哭だった。
紫の胸に頭を押し付け、涙で汚しながら声が枯れるまで泣き叫んだ。
ずっとずっと天子の泣き声が続くのを、紫はすべて受け止める。
抱きしめる紫は、これだけ辛いことがあって、今日を笑って生きられるとは、なんて強い人なんだろうと思った。
そんな強さを持った彼女が今は自分に抱かれている、その事実だけで紫は不謹慎ながらも幸福を感じ取っていた。
胸に抱いた熱が、紫の気持ちが増大していく。
天子の力になりたい、報われなかった少女を幸せにしてあげたい。
ずっと天子のそばにいたい――――
これはもう、ダメだ。私はもう、我慢できない。
臆病なんて通じないほど、好意が強くなりすぎて。
「――天子、私はあなたに隠し事をしているの」
天子ともっと近付きたい、そう思ってしまってしまいました。
◇ ◆ ◇
「記憶を無くしてる……それに冬眠が、バックアップの整理……?」
打ち明けられた秘密に天子が呆然と繰り返すと、その通りだと紫は神妙に頷いた。
「天子は、スキマ妖怪という存在についてどれだけ知っているかしら」
「……これでも天人だからね、概要は知ってる」
天子の眼光がわずかに鋭くなる、いつもの自分勝手なワガママ娘とは違う空気が彼女を包む。
成り上がりと呼ばれる放蕩な不良天人なれど、彼女とて天人になるにふさわしいだけの血を引き継いだ由緒ある血統なのだ。
「世界の境界を乱す異物、元々は私たち比那名居家だってあんたを完全滅殺するために用意された血族だしね」
穏やかではない言葉が流れ、天子が平然と敵対者の事実を述べるのを、紫もまた動じることなく受け取っていた。
だから天子も気にせず言葉を続ける、この程度のことは直接語るまでもなく互いに了承していたことだと。
「本来なら気質は大地に溜まり、飽和すると空に昇って緋色の雲を形成して、地中の気質を共鳴することでエネルギーを発揮して地震を起こす。その気質を要石に溜めて、緋想の剣で弱点に合わせて気質を変換、あんたにぶつけるってのが比那名居家が試した手段。まあ失敗したらしいけどね、あんたに合った気質の変換方法が見つからず、こっち側での身体を消し飛ばせても本質までは消滅させられなかったって聞いてる」
「らしいわね、私自身も覚えてないけれど」
覚えていないらしく他人事のような答えを返されたが、お互いの認識は一致しているということで、ここまでは天子も特にどうこう言うことはない。
だが一つだけ天子は尋ねなければならないことがあった。
「……私を許してくれたときの紫は、私のことを覚えてたの?」
それを聞いた時、紫は眉を歪めて視線を落とした。
この反応だけで天子はその意味を悟ったが、結論を急がず紫の言葉を待った。
「冬眠から眼が覚めたら、すぐに整理したメモリーで私の記憶と大結界のバックアップを書き換える。冬眠が開けた時、あなたに関して覚えていたことは前年の1割にも満たない。あなたに関して覚えているのはプロフィールを除き、謝罪のチャンスを与えたことと、嫌悪感くらい」
途中までむっつりとした表情で聞いていた天子だが、最後の言葉を聞いて意表を突かれたように目を丸くした。
「私が嫌いなんてこと、いちいち残してたの?」
「いいえ、感情については記憶を失っても残るのよ。記憶を失っても藍や幽々子たちのことは好きだし、あの時の私は変わらずあなたを嫌っていた」
紫は言うべきことを言い、伝えるべきことを伝えたと見ると、正座のまま畳に手をつき、誠心誠意で頭を下げた。
不安で声が震えて言葉がバラバラになってしまいそうなのを、気力を振り絞って繋ぎ止める。
「……黙っていてごめんなさい。勇気を出して歩み寄ってくれたあなたを裏切るような真似をしてしまった」
重い静寂が部屋を包む、紫は腹の底が冷えるのを感じながら、黙って判決を待ち続けた。
対する天子は何を考えていたのか、気持ちを押し殺した表情でしばらく紫の頭を見下ろしてぽつりと呟いた。
「……一つ、お願いをしていい?」
「……わかったわ、できることなら何でもしましょう」
恐る恐る差し出された言葉に、紫がゆっくりと顔を上げる。
囚人が罪を償うために身を差し出すような覚悟で待つ紫であったが、天子から言われたのは予想外の内容だった。
「そのバックアップを書き込むところを見てみたい」
「えぇ!?」
お願いの内容を聞かされた紫はうろたえて、引き起こした身体が倒れそうになるのを畳に手を突いて支えた。
もちろん紫はどんなに酷い償いでも――周りを巻き込まずに紫一人で片付けられるという条件付きではあるが――できるだけ聞き入れるつもりではあった。
しかしだ、境界の隙間から帰ってきた時の紫は記憶を失い意思が最も脆弱な瞬間ではあるし、それに何よりも、これはあんまりにも恥ずかしすぎる。
「なんでもするって言ったじゃない」
「いいい、言ったけども!? 人様に見せられるようなものじゃないし、裸で発狂して涙と鼻水でボロボロなのよ!?」
あちら側に渡った時点で何故か衣服は消滅してしまうし、記憶の書き込みの負荷でそんな醜態を晒すというのは、仮にも女の体を成している者として沽券に関わる。
それをよりにもよって天子に見せることになるなんて、そんなことをされるなら一思いに首をはねられたほうがマシだ、その場合は境界の隙間に強制送還されてまたこちらに戻ってきて、藍に記憶の補填をしてもらうだけなのだが。
ある意味で妖精以上に死の概念が軽い、というよりもほぼ存在しない紫だからこそ償いになるのならどんな悲痛さも覚悟していたが、こればかりは想定外だ。
「でも藍や幽々子は見たことあるんじゃないの?」
「そうだけど、それは協力して貰う必要があるからってだけで……そもそもどうしてそんなところを見たいの?」
「だって、それが紫の一番大事な部分なら、私はそれが見たい」
まっすぐな目で見つめられて、紫は言葉に詰まった。
緋い瞳から感じるのは、紫が恐れていた軽蔑や敵意ではない。
もっと純粋な何かに惹かれ、緊張に声を震わせながらも紫は口を開いた。
「辛いことお願いしてるのわかってる? どんなセクハラよりも酷いこと言っているわよ」
「うん、でもお願い」
繰り返し唱える天子の瞳は、緋く透き通っていた。
これが弱みを握ろうなどという邪念から来るお願いならば紫も断ったが、この真摯さは拒絶できない。
「……わかったわよ。ただし藍も一緒にいて貰うわ、手順は簡単だけど万が一にも失敗したら洒落にならないもの。ここじゃ迷惑だから、私の家で行うわ。藍を起こしてくるから先に行って待ってて」
結局、紫が先に折れ、天子もこの条件で頷いた。
紫は自宅へと通じるスキマを開くとそこから天子を屋敷に送ってから、白玉楼の客間で寝ている藍の元へ向かおうと立ち上がった。
「良かったじゃん、言えて」
足元から響いた声に紫が視線を落とすと、簀巻にされた萃香のばっちり開いた目と目が合った。
その意味するところを数秒ほど思考したのち、紫は全身が羞恥に燃え盛るのを感じながら飛び退いた。
「い、いつから起きてたの!?」
「あなたを護るわー、辺りから。感動的だったねー、涙ちょちょぎれちゃうよ」
「うううううあああああああ!!?」
下品な笑いを浮かべる萃香に、紫は悶え苦しんで転がりまわる。
思い返してみれば一世一代の告白めいたあの台詞を他人に聞かれただなんて、それだけで恥ずかしさのあまり記憶までぶっ飛んでしまいそうだ。
だが自分の言葉しか聞かれてないのは不幸中の幸いというものだ、自分のせいで天子の過去まで知られていたら、後ろめたさに酷く後悔したことだろう。
思い直した紫は、必死に心と体を立ち上がらせた。
「天子に大嫌いって言わせたのは間違いなかったね、ということで今回最大の貢献者の私の縄をほどいてくれてもいいんだよ」
「そもそも! あなたが余計に話をこじらせたから! こんなややこしいことに!」
「いたっ! 痛い! 途中からお前らが勝手にやったんだろ、恥ずかしいからって八つ当たり止めてって!」
抵抗できない萃香を蹴り飛ばした紫はそれで少し落ち着いたらしく、縄の結び目に局所的な結界を展開して切断した。
簀巻状態から脱却した萃香は縄をほどいて上半身を起き上がらせると、襖に手をかけるゆかりの硬い背中を見上げる。
「もう逃げるなよ」
「……天子を護る限りは、逃げないわよ」
それだけ告げて紫は立ち去った。
どうやら腹を括ったようだが、それはあくまで天子を庇護対象とした場合の話だ。
もしもこの先、天子が紫と並んだらどうなるのか。
「まだまだ心配だね、しっかり捕まえてなよ天子」
小さなボヤキは夜に消え、届くことなく紫は廊下を渡る。
客間にたどり着いた紫は、浴衣に着替えて並んで寝ていた式神二人のうち藍だけをゆすり起こした。
せっかく目に入れても痛くない式神と幸せに添い寝していたのに邪魔をされ、藍は不機嫌そうにしながらも事情を聞いて納得したようだった。
「それで、寝ているところを叩き起こされたわけですか」
「ごめんなさいね」
「いえ良いですよ、それなら確かに付き添いが必要でしょう」
藍は横で寝ていた橙を起こさないように気を付けながら軽く髪を撫でると、布団から抜け出して浴衣から着替える。
安らかな眠りに水を差されたのは迷惑だったが、主が一歩先に進めたことは素直に嬉しい。
「よく天子に言えましたね」
「……怒ったりするかしら?」
少し不安げに紫が見つめてくるのを、藍は服に袖を通しながら苦笑した。
「何がですか?」
「私の秘密を見せること、大っぴらにしていいものではないのに。藍だって、天子に話すことを勧めはしなかったじゃない」
「それは秘密にしたほうがいいと言ったわけではありませんよ、それに紫様が自分の意志で選んだことですからね」
藍はあくまで紫の自由意志に任せたかっただけだ、それがいい選択とは思えないが、周りが紫の意思を塗りつぶすことだけは避けたかった。
「紫様が出会い、自分から彼女と近付きたいと思った、私はそれに意味があることを信じますよ」
「……いつもありがとう」
「どういたしまして」
二人は橙を残してスキマからそっと部屋を抜け出して、自分たちの屋敷へと戻る。
そこには天子が膝を揃えて座り、桃を持って謝ったあの日のように紫を待っていた。
出会い頭に緋色の瞳に見つめられて、紫は一瞬立ち止まり、すぐにまた足を進める。
「おまたせ、それじゃあ始めましょう」
藍が一度部屋から出て、新しい導師服を持ってすぐに戻ってきた。
後は心の準備だけ、そう告げた紫に天子が尋ねる。
「すぐにやれることなの?」
「常に私は境界の隙間へ引き戻されようとしている、能力での抵抗を解けばすぐに向こう側よ」
「どれくらいでこっちに戻ってくる?」
「およそ30分と言ったったところだ」
この質問には紫の代わりに藍が答えた。
「正確には平均31分23秒、その時々でプラスマイナス2分18秒の誤差がある。その間、天子には待ってもらうことになる」
これらのことは記憶を失う紫本人よりも、ずっと傍で見続けていた藍のほうが詳しかった。
これでもう紫が元いた場所に一時戻るだけ、なのだが天子の前でいつも通り藍に膝枕をしてもらうのはとまどわれた。
「ちなみに、紫様が向こうへ行く時にはいつも私が膝枕と目隠しをしてあげているぞ」
「藍、余計なこと言わなくていいからっ」
手伝ってもらわずにさっさと済ませようかと考えていた紫であったが、頼もしい式神に先手を打たれて声を荒げる。
教えてもらった情報に天子は唇をへの字に曲げると、うろたえる紫に食って掛かった。
「じゃあ私もそれやる!」
「いや、それはなんとなく不安だからやってもらってるわけで絶対必要なわけじゃ」
「やるったらやらせなさい!」
「……はい」
勝てそうにないと判断した紫は、しぶしぶ天子の命令を受け入れた。
「じゃあ、お願いね」
紫はおどおどしながらも寝転がり、後頭部を天子の太ももに落とす。
藍とは違う、肉体だけは年端もいかない少女の柔らかさにドキリとして、鳴り響く心臓を押さえた。
落ち着かない紫の目元に天子が手の平を落としてきて、心地よい闇が視界を包み込む。
「これでいい? 他にも何かやってほしいことはある?」
「……手も握ってくれるかしら」
「うん」
暗闇の中で紫の手が握られる。
小さいがとても温かい手は、まるで光が影を照らし出すように、紫に自分自身の存在を教えてくれるかのようだ。
「藍と比べてどう?」
「ど、どうしてそんなこと聞くのかしら」
「いいから、早く答えてよ」
「……藍のほうが落ち着くわね」
「ふぅーん……」
感想を尋ねられ、つい性根に染み込んだ捻くれた答え方をしてしまう。
天子の声が低く落ち込むのを聞いて、紫はすぐさま次の言葉を口にした。
「でも、気持ちいいわ」
これで上手く応えられただろうかと不安な紫の手を、天子が力を込めて、しかし優しく握ってくれた。
紫がそれに反応して握り返すと、天子は一度力を抜き間を置いてからまた握る。
想いに応えてくれる存在に、紫の気持ちは段々と穏やかなものに移っていく。
「おやすみなさい、天子」
「おやすみ、紫」
それを最期の禊とし、能力の堰を解いて後ろ髪を引っ張られる感覚に身を委ねた。
しんと静まった部屋で、紫の目元を押さえる天子が焦れったそうに手の力を緩めようとしたその時、
うぞうぞと闇が蠢き、紫の背中から這いずり上ってきた。
「――――――!!」
思わず天子の口から悲鳴が上がりそうになった、この奇怪な光景を見慣れた藍すら苦渋の表情だ。
紫の身体を取り囲む、明らかにこの世界のものではない、世の理から外れたまつろわぬ影の手。
天子とて事前に説明を聞き心の準備を済ませておいたはずだったが、膝下を這う闇から感じる想像以上の気持ち悪さに吐き気を催す。
質量がないのか蠢く闇の手が肌に触れても感覚はない、しかし皮を一枚隔てた先にありえないものが存在するのを魂が感じ取って悲鳴を上げていた。
単純なる恐怖とも、形すら持てないものへの悲哀とも違う、自分たちの居場所へ踏み入ろうとする不思慮な者たちへの嫌悪感。
身体中の肉が緊張して震えすら来ない、天子はひとたび気を抜けば衝動的に緋想の剣を抜いて紫の胸元に突き刺しそうだった。
硬直する天子の前で広がった闇に、紫の身体がズブズブと沈んでいく。
やがて紫は天子の手から離れ、完全に闇の中に沈み込んで姿を消し、また紫を飲み込んだ影も何処かへ消え去った
「本当に消えた……」
話を疑ってはいなかったが、実際にこの異様な消失を目にして天子は呆然としていた。
正座をしていた足を崩し、片膝を立てた体勢で殺気立った気持ちを静める。
紫が戻ってくるまでしばらく掛かる、暇になってしまった天子は藍に声を掛けた。
「このことは他に誰が知ってるの?」
「家族である橙はもちろんとして、幽々子様と妖夢、それに萃香だ。また龍神にも、今の幻想郷を形作るにあたって事情を説明している」
「私らだけ仲間はずれか」
除け者にされた事実に天子が苛立たしい声を上げる。
胸中穏やかそうでない息遣いに、藍は口を開くべきか迷い、数秒の間の後に言葉を紡いだ。
「……天子、紫様の感じる世界はすべてが脆い。手に入れた端から崩れるのを縫い止めて繋ぎ止めるのに必死で、失くすことの怖さは人一倍知っているがゆえにとても臆病だ」
藍が主を弁明するかのように語るのを、天子は横目で睨みつけた。
腐っても天上に住む超人から発せられる威圧感は長年生きてきただけあって重く、九尾たる藍としても自らが押しつぶされるようなイメージと共に緊張が走る。
藍は負けじと唾を飲み込んで、先程の紫と同じように正座のまま畳に手を突いた。
「どうか、あの方を見捨てないで……」
藍が頭を下げようとしたその時、親指大の要石が飛来して額に叩き付けられた。
結構な衝撃に俯いた頭をのけぞらせ「いだあっ!」と悲鳴を上げるのを、天子は要石を発射した人差し指を立てたまま見据えていた。
「あんたがどれだけ紫を哀れみようが勝手だけど、主従揃って軽々しく頭を下げるんじゃないわよ、そんな鬱陶しいもの面白くない」
辛辣な言葉に藍が苦渋を飲まされた表情で顔をあげると、目に映ったのは予想していたものとは違っていた。
台詞とは裏腹に柔らかく目元をたゆませ、相手のことをあるがままに受け入れるおおらかな息遣い。
藍は目の前の少女に、こんな顔もできるのかと密かに驚いた。
「私は、そんなものを見るためにあいつの友達になったんじゃないわよ」
天子はさっきまで握っていた手を見下ろし、記憶を確かめるように手の平を閉じたり開いたりさせた。
邪気を感じない態度に、藍も毒気を抜かれて姿勢を正す。
「すまない、出過ぎた真似をした」
それから紫が戻ってくるまでのあいだ、二人は一言も喋らずに待ち続けた。
静かな家に外から春先の虫が鳴き声を届けてくれる中で、胸に想いを抱いて考えに耽る。
藍は、やはり主が天子に惹かれたのは意味があったのだと。
そして天子は――
「――帰ってこられたぞ」
天子が己の思考に結論を出す前に、目に見えぬ何かが渦巻く異様な気配に意識を引き戻された。
部屋の中央で空間が歪んで薄まっていくのを、空間操作能力の才がない天子にもはっきり感じ取れた。
歪んだ中空が黒ずんで向こう側が見えないほどに煤けていく、無思慮な意思に拗じられた空間の中心で、見えざる力の手が繊細な手つきで境界を崩さないまま開いていく。
やがて目を見張る天子の前で空間から白い手が突き出したかと思うと、一気に女体が黒く薄まった空間から吐き出された。
現れた女は重力に惹かれ、力なく畳の上に叩きつけられるとともに、空間の異常も収束していく。
「う……あ…………?」
境界が元通りに修復されていく下で、女は生気のない声を漏らし、身体をゆっくりと起き上がらせると霞んだ視線で畳に突いた指先をなぞっている。
まるで何も知らぬ赤子のようにだらしない姿に、天子は何も言えなくなった。
裸のまま自分のことを一つ一つ探るかのように、緩慢な動きで視線を動かす姿はあまりに異様だ。
呆然とするしかない天子に藍が声を掛けてきた。
「天子よ、名前を呼んであげるんだ」
「な、名前?」
「ああ、それが必要だ」
妖しい女性を見て固唾を飲み込むと、天子は意を決してその名を口にした。
「紫……」
「ゆ……かり……?」
ようやく天子の存在に気づいたらしい女が、顔を上げて目を合わせてくる。
「そ、そうよ、あんたの名前は八雲紫――」
「――があっ!?」
名を呼んで瞬間、女は白目を剥いて頭を押さえると、苦痛に歪めた顔を畳にこすりつけて身体を痙攣させた。
顎が外れんばかりに開かれた口から、この世のものとは思えない苦痛が木霊する。
「ぐ、がぎゃ…………ぁぁぁぁあああああああ――――――!!!」
「紫!?」
鼓膜を揺るがす悲鳴に天子が思わず駆け寄ろうとしたところを、藍が素早く近寄ると腕を掴んで引き止めた。
「焦らず見ておいてくれ、いつものことだ」
「いつも!? こんなのが!?」
あまりの苦しみように、天子のほうが気が気でならなかった。
藍に食いかかっていた天子が再び女に振り向くと、倒れ込んだ女は頭を抑えたまま全身の筋肉を硬直させて苦痛に悶えている。
涙と鼻水と涎を垂らし、悲鳴をたっぷり苦しみ続けた。
見ている天子は、もしかしてずっとこのままなんじゃないかと不安になり、動揺が激しくなって来た時、不意を打ったようにピタリと悲鳴が止まる。
天子に見守られている中で、女は震える手で身体を起き上がらせると、手の甲で顔中の体液を拭う。
苦痛も去って辛うじてまともになった顔をした女は、確かな光を宿した眼で、天子の友人である"八雲紫"らしさを感じさせながら、恥ずかしそうに目を逸らした。
「その……お、おはよう、天子」
「……おはよう」
少しの気まずさを感じながら天子も紫に挨拶を返した。
正気に戻った紫はいそいそと道士服に着替え、スキマから取り出した手ぬぐいで顔の汚れをしっかりと取って、改めて天子と向き直った。
恥ずかしそうに顔を上気させる紫に、天子が恐る恐る尋ねる。
「えっと……紫でいいのよね? ちゃんと私のこと覚えてる」
「覚えてるわよ構ってちゃん」
少しやさぐれた応答が返って来て、やっぱり紫なんだと天子は肩を落とす。
「うぅ、恥ずかしい、あんな姿を天子に見られるなんて……」
「あぁうん、あれはそうね……」
天子も実際に見て紫が嫌がる理由がよくわかった、確かにあんな姿はおいそれと他人に見せたいものではないだろう。
「それでその、結局どうなの、かしら」
「どうって……?」
「て、天子はやっぱり怒ってる!?」
紫は声を張り上げて、握りしめた手を胸に強く当てて不安を吐き出す。
「私は、ずっと天子を騙していたけど、嫌いなんかじゃないの。あなたのことは、大切な友達だって想ってるから、出来るならこれからも一緒に居て……欲しくて……!」
「良いわよそんなの、全然気にしない」
それは柔らかな温かみのある声だった。
あらゆることをあるがままに受け入れる音色に、紫は手の力を抜いて膝の上に落とした。
そこにいたのは敵意や失望など微塵も存在しない、いつまでも覚えていたいと思うような、明るく前向きで、優しい顔だった。
「本音を言うとちょっぴり寂しいし、ムカつくけどね、でもそんなの些細なことよ。紫は私のことを嫌いながらも許してくれたんでしょ? 記憶がなくたって関係ない、私はそれが嬉しいし、嫌いな相手も許せる紫のことが好き。私は、そんな本質の紫だからこそ、仲良くなりたいって思ったんだから、紫は私を裏切ってなんかないわ」
天子は身を乗り出すと、わずかに震える紫の右手を取ってもう両手で握りしめる。
何もややこしいことを考える必要なんてない、ただありのままの気持ちを声に乗せた。
「ありがとう、教えてくれて。大して覚えてもいない私に、こんなにも真剣に向き合ってくれて。ありがとう、紫」
笑いかけてくれた天子を見て、紫の顔が熱くなり始めた。
今までにも天子と一緒にいてこういうことはあった、だがこれは今までのどれよりもずっと熱く紫の身体を火照らせる。
恥ずかしさとは違う何かに突き動かされる肉体の急激な変化に、紫は狼狽えた声を上げた。
「え、やだ、なにこれ」
不自然に高鳴る鼓動が耳に響き、空いていた左手で頬を抑えると、あまりの熱さに手が火傷するかと思った。
困惑しっぱなしだったが、天子が不思議そうな顔で見つめてくるので、慌てて姿勢を正す。
紫は熱に浮かれそうになりながらも、左手を天子の手に重ね、言うべき言葉を手繰り寄せた。
「――――私も、ありがとう」
こんなに幸せな気持ちになれることは、そうないのだろうなと紫はなんとなく思った。
話が済んだ後は、天子が家に帰ると言い出し、紫と藍は玄関先まで彼女を見送りに行った。
「それじゃあ今日はこれで」
「帰らずとも、いつもみたいに泊まっていけばいいのに」
「色々あったしね、家に帰ってゆっくり整理したいわ」
「そ、そう……?」
確かに今日は色々あった、紫としてはもう少し一緒にいたいが考える時間も必要かもしれない。
名残惜しくはあったがしつこく引き留めようとはせず、去ろうとする清々しい背中を眺める。
ふんわりとした月明かりの下で飛び立とうとした天子が、ふと口を開けて振り返った。
「ねえ紫、その記憶を引き継ぐようになったのって、いつごろからのことなの?」
「え? 幽々子と出会ってからだから、おおよそ1000年前からね」
「それ以前の紫ってどんなのだったの?」
「さあ……記憶が無いからなんとも言えないけど。幽々子と出会った頃の私なら、藍が詳しいわ」
話を振られた藍は、記憶の糸を辿り昔の紫を思い出す。
「一言で言えば荒れていましたね。世界のすべてを呪っているような恨み辛みを抱えていました」
「今の紫とはだいぶ違うわね」
現在の紫は捻くれたところがあるものの、そこまで過度に他を排他したりはしない。
臆病ながらも一方で度量が大きいことを天子はよく知っている、何せ天子自身が紫の怒りに触れておきながらも、結局は受け入れられているのだ。
この変遷のきっかけを知りたくはあったがこれ以上はまたの機会にしようと思う、知るべきことは全て知れた。
「それじゃあ紫、またね、ばいばい」
「またね、さようなら」
ニカッと歯を見せて笑った天子が手を振るのを、紫はぎこちない笑みで手を振り返す。
夜の暗闇に蒼天が消えていくのを見送って、玄関でしばし佇んでいた紫は、肩の荷が下りた気持ちで藍に語りかけた。
「私は記憶を失う度に、ちょっと違う自分になってて、前と違う私を受け入れてもらえるのかって、ずっと不安だったわ」
冬が明ける度に知っていた記憶を失う紫は、それ以前とは完全に同一な意識ではなくなってしまっている。
天子が知る紫は思い出を共有した少し前の自分であり、今の自分とは微妙に違う、その差を紫はずっと気にしていた。
「記憶がなくとも迎えてくれるものなのね」
藍は悲しんだような呆れたような、なんとも言えない表情で口を開く。
「何を今更、気付くのが遅いですよ」
「そ、そう?」
やっとの思いで辿り着いて結論を、呆気なく肯定されて紫は驚きに聞き返す。
「私も、橙も、幽々子様たちも、萃香も、みんな紫様が紫様だから貴女を慕っているんです。記憶の有無なんて関係ないですよ」
「…………ありがとうね、藍」
だが紫の存在を肯定する言葉の裏で、藍は己の不甲斐なさに恥じていた。
どれほど口で記憶などと言っていても、紫が負い目を感じていたことは事実で、それはきっと自分たちの態度から来るものだったのだろう。
紫が記憶を失うことに勝手に悲しんでそれを押し付けていたから、一番辛い本人に無理をさせてしまっていた。
それを天子が解かしてくれたのは、きっと彼女が紫にとって欠けていたものを補う、出会うべき必要な人だったのだろう
心のなかで藍もまた天子に礼を言う。
ありがとう、あなたのお陰で、紫様は一つ救われた。
彼女が持つ恨みをすべて捨て、紫と改めて手を取り合ってくれたことに、今更ながら感謝した。
「でも……この気持ちは……」
「紫様?」
藍の前で、紫は胸を抑えて声を小さくする。
天子が笑いかけてくれたさっきから、鼓動が静まってくれない。
胸が苦しい、というのに不快感がない不思議な感覚。
「何なのかしら、一体……」
天子の笑顔が頭から離れない、彼女の与えてくれた言葉が、繰り返し思い出される。
頬を熱くし、指先まで感情がガソリンのように駆け巡り、気持ちが昂る。
それは記憶にない過去を含め、この世界に出てきて初めて感じる感情だった。
◇ ◆ ◇
教えてもらった秘密を胸に抱いて天界へと帰ってきた天子は、着の身着のままベッドにうつ伏せで倒れ込んで。
一夜明けた今日、天界へと帰ってきた天子は、自室の姿見の前に立っていた。
自分の身体をまるまる映し出す大きな鏡を前にして、天子は胸元のボタンを外し服を脱いで生まれたままの姿へとなった。
鏡に写った少女は健康的な姿勢と輪郭である種の美しさを持ちながら、その肩には一点の曇があった。
映し出された左肩の傷跡を右手でなぞる。
「紫……」
消えぬ傷跡は、天子の味わった苦痛の証左だった。
母を亡くしたことをきっかけに天子は大きな苦しみを背負った。父に殴られたこともそうだし、天子自身も大好きな母を亡くして毎夜、枕を涙で濡らした。
その傷に、天子の心は紫の姿を映し出した。
「お前が私のお母様を殺したんだと言ったら、あいつはどう思うのかしら?」
あの日、父は一緒に戦いに行くと言っていた。
世界の異物を滅殺するため天界があらゆる妖怪の弱点を突くことのできる武器を作っている間、比那名居家は要石に気質を溜めて計画の準備をしていた。
父の代でその武器は完成し、また貯蔵した気質も十分な量に達したと判断され、父は地上に住みながらも例外的に天人となり、計画を実行に移す段になったのだ。
与えられた緋想の剣を振りかざす父は、まだ何もしていないのに誇らしげに胸を張って、自分が比那名居の責務を果たすと意気込んでいた。
父は吉報を待っていろと言いのけたが娘としては心配だった、そんな私の頭を撫でて、父は剣を携えて複数の天人と共に戦いに出かけた。
いつもなら外で遊び回っている私も、愛してくれる母と手を繋いでその日ばかりは家で大人しく待っていた。
「ねえお母様、私達ってこれから天人になるの?」
「あら地子ったら、どこで聞いたのそんなこと」
暇な時間には嫌な予感ばかりが頭を巡ったので、小耳に挟んだ噂を母にぶつけてみた。
幼名で私の名を呼んでくれた母は、少し驚いた様子だった。
「お父様たちが話してた、ねえ本当なの?」
「うん、どうやらそうみたいね。なんでも倒さなくちゃいけない妖怪がいるから、そのために比那名居家は代々力を強めてきたんだって、お父さんの仕事が終わればみんなで天人になれるわ」
比那名居家の試みが成功すればその功績を以って家族全員が天に上がれるという話だったが、失敗に終わっても後から何かしらの理由を付けて天人になれると裏では約束付けられていた。
例え異物が滅殺できずとも、何代にも渡ってこの計画に奉仕したことを天界は認めており、温情をかけてくれる気だった。
今回の討伐の準備で天からの使いが頻繁に我が家を出入りしていたため、どこからかそのことが漏れて私にも伝わっていた。
「私、あんまり乗り気になれないなぁ」
「どうして?」
「だってお空の上って退屈そうだもん。たまに家に来る天人ってみんな頭が固そうな人ばっかりだし」
「そうねぇ、地子には天界の生活は堅苦しいかもね」
幼いころの私は空の上を想像してみた、豪華な社に堅物で強面な大人たちがひしめき合っているのを想像して嫌な顔をしてしまったと思う。
「お母様は、天人になってもいいの?」
「お父様が天に登るというのなら、妻として付いていくわ」
それが母の答えだった、彼女はそういう人だった。
女として出来る限りのことをして父を助ける、そう心に決めていた人だった。
もし私が天人になりたくないと言ったなら先に父だけを天に送って母は地上に残るだろうが、私が大人になるまで待った後に改めて父のいる天へ昇っただろう。
「なら、私も一緒に行く!」
「本当? そう言ってくれると嬉しいわ、でもいいの?」
心を変えた私に母が尋ねてくる。
「うん! だってお父様とお母様が一緒なら、どこでも幸せだもん!」
幼い頃、私が胸にいだいていた幻想。幼心地の有頂天。
愛する家族の中こそが、私が私らしくいられる一番の居場所。
きっと、それは真実だったと思う――
「――――がっ……ああああああああああああああああああああああああ!!!」
唸り声が外から響いてきた。
分厚い壁がビリビリと振動して、あらゆるものを怒り、憎み、そして悲しむ慟哭に、魂が締め付けられた。
「な、なにこれ!?」
「地子、大人しくしなさい!」
続いて何かが吹き飛ばされる破壊音。きっとどこぞの家が被害を受けたのだろう、同時に人の叫び声が聞こえだした、悲鳴も上がっていたと思う。
困惑して母の手を強く私の前で、家の壁が破壊された。
音を立てて粉砕された瓦礫が目の前を横切るのを、私は見ていた。
吹き荒れた風が髪をさらい、呆然とするしかない私の前にやつは現れた。
人を誘惑するような妖しい金色の髪。身を包む雑多な布から伸びる蠱惑的な長い手足。
自分の血と、人の血で身体中を汚し、泥にまみれて生きてなお美しさを感じる姿。
そして、怒りと悲しみと、憎しみと、この世の苦痛の全てを煮込んだような眼を。
『異物』と呼ばれ忌み嫌われる、境界の妖怪がそこにあった。
父が赴いた戦いの中、恐ろしい執念で包囲を抜け出して人里にまで降りてきてしまったのだ。
その妖怪と眼が合った。
「――地子ッ!!」
妖怪はこちらをまっすぐ見定めて、唸り声を上げながら迫ってきた。
感情が塗りたくられて呪いのような悍ましさを持った視線に、私は何もできなかった。
その眼から憎しみが伝わってきて、あまりの苦悶に耳鳴りがして母の声すら遠く聞こえる。
固まる私は突き飛ばされ、上に母が覆いかぶさったと思うと、母の胸から血しぶきとともに獣のような手が生えてきた。
酷く、現実感がなかった
「お母様……?」
何もできなかったと思う、考えることすらできてなかった気がする。
何を想っていたのかも覚えていないのに、そのシーンだけ写真に写したみたいにくっきりと思い出せる。
鋭く伸びた爪を伝う血の赤さと、母の顔から一瞬で魂が奪い去られる瞬間を。
妖怪が腕を引き抜くと、母の身体はあっけなく膝を突いて私の前で崩れ落ちた。
「なん、で……」
問いただす呟きは、私のものじゃなかった。
よりにもよってあの醜悪な妖怪が、言葉すら失った私の前で口を開いた。
「何で、あなたには、愛してくれる人がいるの、何であなたは護ってくれる人がいるの……」
声を震わせていたのは、果たして怒りだったのか悲しみだったのか。
私が見上げる前で妖怪は、奪った側だと言うのに大粒の涙を零し、泥と血に塗れた顔をただただ悲痛に歪ませて叫んだ。
「私には、助けてくれる人など誰もいなくて、ただ陽の下で生きてみたかっただけなのに、どうして追い立てられないといけないのおおおおおおおおおおおおお!!!」
私は絶望感に潰れそうな重い体で、頭の中だけはふわふわしてて、なぜだかその妖怪が可哀想だなと感じたのを覚えている。
泣き叫ぶ妖怪は、血まみれの手を掲げ私に振り落とす。
妖怪の爪が私の魂を引き裂く寸前、壊れた壁から父が現れた。
「おのれ邪悪よ! この世界から往ねぃ!!」
父は勇敢な雄叫びを上げ、妖怪の背後から緋想の剣を突き刺した。
緋色に輝く刀身が妖怪の身体を床に縫い付け、吹き出した気質が内部から怨敵を侵食する。
「ぎぃぃああああああああああ!!!」
火にあぶられた虫のような断末魔を上げ、緋想の剣から噴き上がった気質に身体を灼かれボロボロに崩れていく。
私は悲鳴を聞きながら、倒れ伏した母の身体を揺さぶった。
「ねえお母様、私とお父様と一緒に、お空に上がるんでしょ? こんなところで寝てたら駄目じゃない。ねえ……お母様……」
添えた手からは何の力も感じられず、まるで泥の塊を押しているようで、それを見た父が遅すぎたことを知って息を呑んでいた。
すでに生き物として決定的に壊された母から、私は目を逸らして消え行く異物を見た。
異物もこちらの世界で活動する依代を壊されてすでに意識はなく、がらんどうの瞳と眼が合う。
そこに残っていたものが、奪い去ったことの歓喜と悦楽であればまだ私も救われたかもしれない。
けれど人の家族を殺しておきながら、そこにあったのは底なしの恨みと悲しみだけで、この妖怪に満たされたものは何もなく。
そのことから、愛する母が無意味に殺された事実を知った。
「いやああああああああああああ!!!」
絶望の悲鳴が響く中で、憎悪の萌芽を感じた。
治ったはずの傷跡が痛む気がして、天子は肩を抱いて顔をしかめる。
母は殺された、紫に殺された。死後に転生もできないほど魂まで細切れにされ、この世から消滅した。
落成式で出てきた八雲紫は印象が違いすぎて、かつて目の前で退治された妖怪だとはすぐには気付かなかったが、実際に戦ってみれば当然わかった。
天界はスキマ妖怪を滅しようと研究を続けてきたが、緋想の剣でも異物を殺しきれず、あの日の妖怪は幸せそうに笑って生きている。
当然憎いと思った。それまでは封じていた憎悪が、堰を切って溢れ出た。
だが天子は、憎むだけの人生なんて嫌だった。
自らを縛る憎悪から早く解放されたいと思った、だからこそあえて紫に近付いた。
紫が許してくれるのなら、自分も紫を許せるのでないかと希望に縋り、母の仇に頭を下げるという屈辱に甘んじた。
そして紫は天子を見事に許して見せた。記憶の大部分を失っているからというのもあるだろう、だが最初に許してもいいと言ったのは紛れもなく憤怒に塗れたはずの過去の紫であり、例え記憶がそのままでも紫は天子を許し、今のように親愛を注いでくれたことだろう。
だと言うのに、天子は未だ紫を許せずにいる。
「卑しいわね」
秘密を教えてくれた紫に、自分が向けた言葉はすべて本物の好意だ。
その一方で、もし紫が自分の母を殺したことを知ったら、ショックを受けてくれるのではないかと、かつての自分と同じように苦しんでくれるのではないかと期待している。
紫には感謝はある、好意もある、だがそれとは別に罰が下って欲しい、自分の万倍の苦痛を彼女に感じて欲しい。
紫はあんなにも優しいのに、自分はこんなにも醜い。
天子には鏡に写ったヒトガタが、悪意の詰まった糞袋にしか思えなかった。
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけると幸いです。
「ご、ごめん、なざ……ごめんなさいっ!」
そう言って、彼女は可愛い顔をこれ以上ないくらい歪めて、大粒の涙を流しながら桃を手渡してきた。
異変から半年以上、あまりに遅すぎる言葉。
食いしばった歯の隙間から喉を鳴らして、差し出された桃は緊張で強張った指が食い込んで少し型が付いてしまっていたが、それでも彼女は私に歩み寄ってきた。
ずっと悩んできたのだろう、ずっと苦しんできたのだろう、その上で死ぬほどの屈辱を越えてひねり出された言葉だったのだろう。
私はその桃を手に取り、許しを手渡した。
だけど施しを受け取ったのは私の方だったとわかるのはずっと後のことだ。
この日の選択はこれ以上ないくらい傲慢で、恥知らずなものだったが、それでもその手を取れたことは私を晴れ晴れしい気持ちにさせてくれる。
天子、あなたがいてくれるなら、闇夜も無限に色付くわ。
非想九重縁結び
季節は秋、そろそろ寒さも強くなり始めて、秋神様の足蹴りにより綺麗な紅葉も地面に重なり始めた頃。
この妖怪の山も間近に迫った冬を感じずにはいられないが、本日は比較的温かく、日差しに感じる熱と涼やかな風の両方に心を通わせられる穏やかな日であった。
つい、一時間ほど前までは。
「第三防衛ライン突破されました!」
「白狼天狗隊第二陣全滅! 負傷者を収容します!」
「敵二名なおも進行中です!」
「見りゃわかるよ、今日こそ止めるぞ、じゃなきゃ天狗の名折れだ!」
「あぁっ! 河童の機動兵器がやられたぞ!!」
「クソ、あいつら役に立たねえな!」
山の上を浮遊していたUFOに翼を付けたような、一部から便器と呼ばれてたりするそれが、突如立ち上った緋色の閃光に叩き割られて山の斜面に墜落し、ド派手な爆炎を上げた。
もうもうと立ち込める黒煙を背に、手に剣を持って浮かぶ少女が、笑みを深めながら緋色の刃をかざす。
この空色の髪の少女こそ、この良き日の平穏をぶち破った張本人。
「ふははははは!! 喜びなさいよ地べたを這いずる妖怪ども、今日はこの山に遊びに来てやったわよ!!」
「遊びっていうかカチコミですよねこれ」
「その通り! さあさあ戦争よ、素敵な戦争にしましょうよ! あっはははははははは!!!」
狂ったように笑い声を上げる比那名居天子が、着いてきた衣玖に開き直った言葉を返して前に出る。
迎撃に来た天狗の弾幕の中を踊り狂って、楽しそうに剣を振るった。
「こぉらあ! またか天人いい加減にしろぉ!!」
横合いから怒声が飛んできて、そちらに天子が顔を向けると幅の厚い片刃の大剣が迫ってきた。
並の人間ならば呆気なく吹き飛ばされる大質量の斬撃を、冷静に緋想の剣で受け止める。
震えながら食い止められる剣の向こうから、殺気だった鋭い視線が天子を射抜いた。
「おっと、あの鴉のお気に入りの……もみちゃん!」
「椛だ! あとアレのお気に入りなんて寒気がするから言うな!」
切りかかってきた白狼天狗の犬走椛は、力づくで天子をたたっ斬ろうとするが、いくら力を込めても緋想の剣は微動だにしない。天人の馬鹿げた膂力に舌打ちし、紅葉マークの描かれた盾で殴り掛かった。
天子は背をのけぞらせて盾での一撃を紙一重でかわすと、要石を打ち込んで牽制しつつ後ろに下がった。
椛は一度要石を受け止めてから追撃に入ろうとするが、その出だしに電撃が飛んできて抑え込まれてしまった。
「くっ、また邪魔をするのか魚め!」
「いやあ、なんというか私も成り行きで」
「だったらもうちょっと手を抜け!」
「いやいや、できる竜宮の使いとしては、そんなこと出来かねますね」
素晴らしく息の合った援護を見せた衣玖が、天子の後ろに並んで羽衣を揺らした。
気を良くした天子が、剣先を山の頂上へと向ける。
「よっしゃー、この調子でガンガン行くわよ衣玖!」
「ははは、それ行くと衣玖とで掛けてるんですか? 面白すぎて失笑モノですね」
「違うわよ!? いいから黙って援護してなさいよ!」
先週は紅い館、先々週は永遠亭と、こうやって幻想郷の要所を無秩序に攻め込むのが、天子の趣味だった
この妖怪の山においてもやってきたのは一ヶ月ぶり三度目だ。あまりに無謀な突撃に初回はやられてしまったのだが、それでへこたれるどころか逆に闘志を燃やし、衣玖とのコンビネーションに磨きをかけて襲撃を繰り返してきた。
進撃を続ける天界コンビに、目にも留まらぬスピードで割って入ってくる黒い風があった。
「はい、そこの侵入者さんインタビューお願いします!」
右にカメラ、左に団扇を構えた奇妙な二刀流の射命丸あやが、突撃インタビューを試みてきた。
カメラのシャッターを切りながらも、一応は侵入者撃退の体を取ろうとしているのか、団扇を振るって身を切る風を飛ばしてくる。
撮影のフラッシュの直後に飛んできたカマイタチを天子は要石でガードし、その後ろから衣玖が電撃を放って牽制するが、その程度では鴉天狗は捉えられず天子の周囲を旋回する。
普通なら鬱陶しくなりそうなものだが、天子はむしろ注目をあびることに満足してカメラの前でドヤ顔を決めていた。
「今回、三度目の妖怪の山への襲撃ということですが、今回の目的は!?」
「正確には守矢神社への挑戦よ、妖怪の山はついでに遊んでるだけ」
「ほほう、天子さんと守矢神社とは親交が厚く、よく早苗さんに招待されてテレビアニメやら何やらを楽しんでいると聞きましたが」
「だってあいつゲームで私いじめてくるもん。エウティタで私のダブル○ータを○ータでボコボコにしやがった恨みは晴らす、その後ゲームでもリベンジを晴らす」
「なるほど、傲慢な天人が外界の技術欲しさに凶悪な牙を剥いたと」
「そんなこと誰も言ってないけどまあいいわよ」
さらっと脚色するマスコミにも天子は寛容に頷く。
取材もそこそこに切り上げて天子たちが先を急ごうとしたところで、再び椛が突っ込んできて大剣を振るった。
「この、待て下郎!」
「遅い! 剣も将棋ももうちょっと修行しなさい!」
飛びかかってきた椛の剣に対し、天子は緋想の剣を打ち合わせて弾くと上方に飛び上がり、衣玖がその動きに合わせて電撃を椛に浴びせかけた。
盾を媒介に障壁を貼って電撃を防ぐ椛だが、上から背中に回り込んだ天子が、その背中に蹴りを入れた。
文字通り一蹴された椛が地面に落ちそうになるところを、文が風のように間に入ってきて優しく受け止める。
「退きますよ椛、もう十分です」
「あ、文様……!?」
射命丸文の胸に抱き締められた椛は嬉しそうに顔をほころばせると、ハッとなってすぐに離れて、顔を振り回して表情を正す。
「い、今更何しに来たんですかこの駄目鴉!!」
「うっ、上司に向かって酷い言いようですね。そんなに嫌わなくて良いじゃないですかもう」
悪く思っていない部下に怒鳴られて、ショックを受けた文が苦い表情を作る。
「と言うか、撤退ってどうしてですか」
「今回の奴らの目的は上の神社のようです。妖怪の山はあくまで通り道でこれ以上の被害は出ないでしょうし、後は神々におまかせしましょう。上の命令ですよ、大人しく従ってください」
「くぅ、悔しい。また止めれなかった……」
襲撃者の今回の目標は他の天狗たちにも伝達され、今回は天子の進行を止めれなかった時点で負けを認めて大人しくすることにした。
先を行っていた天子たちも、あからさまに攻撃の波が引いていくのを感じ取る。
「どうやら退いてくたようですね」
「ええ、でも本番はここからよ」
「その通りです!!」
謎の声が響き渡り、天子たちは驚いて顔を上に向けた。
晴天だった空は突如として陰りだし、雨が降り出し雷が落ちる。
そんな中、雷雲の間を縫って奇跡のように差した日差しが、天子たちの前に立ちふさがった何者かの姿を照らし出す。
それは身体を斜めに向けたまま左手で顔を覆って、右手に持ったお祓い棒を天にかかげる謎のポーズを取っていた。
「とうとうここまで来てしまいましたか悪しきものたちよ。しかしあなた達の傍若無人もそこまでです!」
「こ、この声は、一体誰なの!!?」
「丸分かりですね」
わざわざ驚いた声を上げてくれる天子に、新たな敵――東風谷早苗がはニヤリと笑って顔を見せた。
「天子さん、ここで会ったが百年目!! 私達の関係に決着を付けましょう!」
「出たわね守谷の風祝、私たちは戦い合う運命、しかしその命も今日までと知りなさい!」
「うわぁー、ノリノリだこの人ら」
威勢よくそれっぽい言葉を並び立てる、両者を衣玖は生暖かい目で見つめていた。
ここに来る途中で天子は恨み節を吐いていたが、つまるところこうやって盛り上がるためだけに妖怪の山を引っ掻き回したのである。
こうまで自分たちの世界に入り込めるのは衣玖には少し羨ましくもあった、真似はしたくないが。
「それじゃあ行きますよ天子さん! とお!」
「いざ尋常に勝負!! おまけのほうは頼むわよ衣玖!」
「えっ? おまけって……」
役目の終わった雷雲もいつのまにか消え失せていて、澄み渡った山の空で邪魔者のいない二人は思う存分に激突しあった。
取り残された衣玖は天子の言葉に首を傾げていたが、どこからか強大なプレッシャーを感知して背中を泡立たせる。
「人様の神社に攻め込んできておいて、オマケ扱いとは大した度胸だねえ」
「ケロケロケロ、さぞや実力者なんだろうねぇ。期待しちゃうよ」
神々しい威圧感の注連縄と御柱を身に着けて腕を組む女性と、それに負けない神性を見せつけてくる少女が蛙のように腰を落として長い舌を伸ばす。
圧倒的強者の貫禄を漂わせる守谷の二柱、八坂神奈子と洩矢諏訪子が衣玖を舐るような目で見つめてきていた。
「こっちが大ボスじゃないですかあー!!!」
哀れな声が山彦になって反響するのを背中に、天子は無数の要石を創りだしそこに緋想の剣を使って気質を込めた。
「さあ行くわよ早苗! あんたが持ち込んできたアニメを元に作り上げた、これぞカナメファンネル!」
緋い霧をまとった要石が自由に動き回りながら早苗へと向かう。
発射される気質の光線と突撃してくる要石の群れを避けて、早苗が最高に目を輝かせていた。
「おぉおおおおお!! これぞまさしくファンネル! いずれ私が超巨大人型秘密兵器ロボを作った際には、サブパイロットは天子さんで決まりですね!」
「何よそれ面白そうね。でも乗るなら私がメインパイロットに決まってるでしょ! あんたを倒してその秘密兵器は私が奪うわ!」
「むむむ、反乱ですか。良いでしょう、仲間割れして戦い合うというのも割と定番です、受けて立ちます!」
威勢よくお祓い棒を振り回す早苗に、天子がもう一度要石を作り出そうと力を込める。
しかし天子は突然、何かに気付いて剣先を下げると、あらぬ方向に顔を向けて今までになく真剣な面持ちになった。
「……来たか」
目を鋭くする天子に、呆気にとられた早苗が攻撃もせずに尋ねてみる。
「どうしたんですか? 今度は空を見上げて意味深ワードを呟くごっこですか?」
「用事ができた。じゃあね早苗!」
「あっ、ちょっと天子さん!?」
疑問に思う早苗を置いてきぼりにして、天子が全速でその場から離脱し始めた。
来た道を辿り、途中にいた神様コンビともすれ違う。
逆走してきた天子に驚いて神奈子と諏訪子の弾幕が一時止み、死にもの狂いで弾幕を凌いでいた衣玖は肩で息をしながら、助けを乞おうと天子に手を伸ばした。
「そ、総領娘様、助けてっ……」
「衣玖! 殿は頼んだわ!」
「はいっ!?」
たった一言だけを残し大切な人が遠ざかっていってしまう。
小さくなる蒼い髪に膨大な喪失感を感じる衣玖が振り向けば、そこには神様コンビならぬ神様トリオがあった。
「天子さん行っちゃいました……仕方ないので妖怪退治で憂さ晴らししときましょう」
「可哀想だけどこっちにもメンツがあるからね、まあやられてくれな」
「弱い者いじめとか楽しいしねー、ケロ」
直後に自分の身に降りかかる不幸を理解し、ただ一言「オワタ」と呟いた。
◇ ◆ ◇
妖怪の山から遠く離れた人気のない丘の上。
冬が近くなり流れ込んでくる風は心地よく、広々とした草の絨毯と開けた空により心が落ち着けるその場所に、普段はめったに出てこない妖怪ががいた。
差した日傘をクルクルと回し、背後に控えていた式神に声をかける。
「ふう、今日の分の仕事はこれで終了ね」
「はい、お疲れ様です紫様」
「ふふふ、藍もご苦労様」
幻想郷の実質的創造者にして管理者、八雲紫である。
博麗大結界の調整や幻想入りする物品の選別など、自分の架した今日のノルマを終え、疲れた心をリフレッシュしにスキマを介してここに出てきていた。
「流石は紫様です、私では時間の掛かる作業でしたが十分の一の時間で済ませてしまいました」
「お世辞は良いわ、今はこの瞬間を楽しみましょう」
紫が目を向けた先にあるのは広い草原、その向こうには人里の人間たちが耕した畑が並んでおり、彼方には鬱蒼と生い茂った妖怪の山を始め雄大な山々が立ち並んでいる。
原初の願いを揺さぶる生命の息吹が網膜に飛び込んでくる。
特に何かをしようというわけでもないが、この幻想郷の姿を眺めているだけで疲れが拭い去られていくようだ。
「見なさい藍、なんて素晴らしい風景……」
その風景は、突如上空から飛来して土砂を巻き上げた岩石に砕かれた。
雑草ごと舞い上がった土塊が雨のようにパラパラと落ちてきて空を汚す。
傘で土の雨を防いでいても、どうしようもない不快さが紫を突き抜けた。
「こぉ……の……本当に、空気の読めない……!!」
「ゆ、紫様、お気を確かに」
土まみれになった藍が自分よりも優先してたしなめてくるが、主人に青筋が立つのを止められない。
更にダメ押しとばかりに挑発的な声が平穏を侵略する。
「私が気質探知の網を張っていたとは知らずにノコノコとやってきたわね、八雲紫! 今日という今日こそは、あんたの息の根を止め――」
やはりというか、当然というか、降って湧いてきた要石の上で仁王立ちになっていた天子に、影が覆いかぶさった。
スキマから上方に現れた紫が、いつもの優雅さを捨てた凶暴な爪をあらん限りの力で振り下ろした。
「死になさい」
「ちょおー!?」
慌てて天子が石の上から飛び退いて奇襲を避けるが、足場になっていた要石は哀れ天子の身代わりとなり暴力的に引き裂かれ六分割となる。
紫は要石の残骸を蹴飛ばして粉々に粉砕すると、逃げた天子を追いかけて閉じた傘で薙ぎ払おうとした。
冷静さを欠いた愚直なまでパワーは齢数百年の大木であろうとへし折ってしまうほどであったが、天子は緋想の剣を構えると当然のようにこれを受け止める。
凄まじい衝撃が天子の身体を駆け抜けたが、むしろ余計の勇ましく眼光を強め大妖怪と睨み合った。
「年寄りの癖に元気なやつね。最初のころはリベンジに来てもやる気なかったくせに」
「おだまり。いつもいつも良い気分に浸っていたら邪魔をしに来て、寛容な私も限界というものよ」
紫は軽く殺気を叩きつけてやると、天子が苦しそうな顔をして緊張し、無駄な力が入るのが得物越しに伝わってきた。
その隙を突く形で押し飛ばしてやると、天子は一度距離を取り改めて意識を戦闘に集中させていく。
「まあいい、あんたのやる気があろうとなかろうとやることは同じ」
紫のプレッシャーに負けて散漫だった天子の気が密度を増し、ドロドロの液体のようにうごめいて周囲にのしかかった。
気は瞬く間に膨れ上がり紫の殺気と拮抗する、相対した紫には世界が立ち所に緋色の煉獄へ変貌したような印象をも受ける。
ある意味、これが紫が一番気に入らないところだった。他の誰でもない、八雲紫に向けられる――膨大な敵意。
「恨みはらさでおくべきか」
浅ましいことだ――そう思った紫に緋色の気質が叩きつけられた。
障壁で防ぎ反撃に転じるが、紫の心はざわめいたまま戻らない。
怒りは怒りを呼び起こす、刺し貫こうとしてくる天子の意識が紫を苛立たせてくる。
逆恨みでここまで敵意を向けてくることが、紫には腹立たしいことこの上なかった。
「私に企みを邪魔されたのは自業自得でしょうに。水に流すチャンスも与えたというのに、愚かな猿ね」
「……ふん、そんな言葉がどうしたっていうのよ。私に頭を下げさせたければ、あんたの本質を私に見せつけてみなさいよ」
弾幕ごっこと言うにはいささか荒すぎる戦いが始まる。
空に無数の光弾が広がるのを、藍は遠目に眺めていた。
「まったく、あいつはよくもまあ飽きずに突っかかれるな。とは言え紫様に悪いが、私にはありがたい」
「――藍様ー!」
自分を呼ぶ声に藍が振り向くと、そこには自由気ままな化け猫が一人、両手をぶんぶん振りながらしなやかな尻尾を踊らせて、藍のもとへと飛び込んできた。
砲弾のようにやってきた式神の橙を、藍は力を入れた腹筋で受け止めた。妖怪といえちょっと腰に来るが、可愛い家族と触れ合うほうが大事だ。
「橙! どうしたんだいこんなところに?」
「紫様の気配を感じたから来てみたんです。またやってるんですね」
橙が見上げた先では、天子が開発した新スペルを紫が安々と攻略し、飛び込んできた要石と気弾を避けて天子に傘での一撃を加えるところだった。
いきり立った天子が切り返そうとするが、今度は紫の側が距離を取り、遠距離から弾幕を張って相手を手玉に取っていた。
「むぅー、私あいつ嫌いです。紫様の機嫌が悪くなるし」
「ははは、確かに怒った紫様は怖いものな」
「紫様もまともに戦わないで逃げればいいのに」
「……あの方は見捨てられない性分だからな。天子も天界住まいとは言え、幻想郷の住人には違いない」
そう言いながら藍の表情はとても柔らかであった。主のその性格を、彼女は美点と心得ている。
その皺寄せが自分のところに来てしまうのだが、それでも藍は主のそんなところを愛しいと思う。
「ところで橙、来てくれたなら丁度いい。この符を周囲に設置したいんだがお願いできるか?」
「いいですけど、何をするんですか?」
藍は袖の下から十二枚の符を取り出し、その半分を橙に手渡した。
動物の絵と達筆な文字が書かれた符を見て、橙が意図がわからず首を傾げる。
「天子を取り囲むようにデータ収集用の結界を張りたいんだ。地面に置いていってくれればいい」
「調べ物ですか? 天子を?」
「天子ではなく彼女の持つ緋想の剣だな。符は十二支順だから間違えるなよ、方角はわかるな?」
「はい!」
藍からの頼みごとに、橙は嬉しそうな声を上げてその健脚で地面を蹴って跳び出して行った。
尊敬する藍からこうやって頼られること自体が、橙には誇らしいのだ。
指示通りに遠のいていく橙に、藍は大きな声で呼びかけた。
「それと橙、今夜はうちで食べるか!?」
「今日は猫達と一緒にいまーす!」
「そろそろ寒くなってきたから気をつけろよー!」
「はーい!」
可愛い式神の残念なところが、自由気ままであまり家に寄り付いてくれないことだった。
寂しいが、あくまで橙の気持ちを重んじて好きにさせていた。
紫たちの中で家族のことを一番に想っているのが藍なのだ。
でも今度家に帰ってきたら嫌がるくらいに引っ付いてやろうと自分を慰めて、いそいそと結界の準備に乗り出した。
戦いは最初から紫が優勢だった。
こと戦闘において天子と紫の間には開きがあるうえ、天子は紫のこととなると怒りにとらわれて動きが直情的で読みやすい、この条件の上で紫が本気で戦えば勝敗は決まっていたようなものだった。
それでも天子が戦い続けたのは、勝つことだけが目的ではなかったからだ。
「気符、天啓気象の剣!」
すでに長時間戦い続けて周辺からは気質がなくなりつつあるのを、天子が洗いざらいかき集める。
集束した気質が緋想の剣から刃が伸び出るように飛び出てきた。この最後の攻勢を、紫は距離を取って緩やかな軌道で避けた。
逃げる対戦相手に天子は攻撃を続ける。紫と戦う時の天子はいつもこれだ、他の誰かを相手にする場合は色んな攻撃で撹乱してくるのに、紫相手には妙なほど真正面からぶち当たってくる。
やがてたっぷり一分間避け続け、とうとう気質が底をついた。
悔しそうな顔で睨む天子の手の中で、先程までは輝き誇っていた緋想の剣が今は気質で構成された刀身をも維持できず、刃は掻き消えて柄だけが残るのみだった。
「さて、手品のタネもなくなったし、そろそろお開きにしてはどうかしら? それとも自慢の石ころでまだ続ける?」
「――ふん、私を舐めるんじゃないわよ」
挑発を繰り返す紫を、天子は鼻を鳴らして一蹴した。
天子が緋色の瞳を見開いて気合を漲らせる、彼女の小さな躰を目に見えぬ何かが血潮のように駆け巡るのを紫は離れながらに感じた。
直後には炎が灯るような音が空気を叩いて、天子の手元から緋い光の柱が立ち上った。
天子は自分の感情により、気質を自ら作り出したのだ。
「まだ、私の心はまだ叫んでる。ならいつだって、極光はこの手の中に」
万物に宿る気質とは、元々はあらゆる生命が零した想念の残滓である。当然それには人も含まれているのだから、自力で気質を作り出すことは可能である。
だがそれは微量な気質ならの話だ、戦闘に置いて決定打になるほど大量の気質を即座に生み出すのは常人なら不可能だ。
それを天子は、普通なら一年を通じてようやく生み出すはずの気質を、今この場で生成した。
なんという想いの強さだ、例えその発端が何であれ、一個人が精神力のみでそこまでのエネルギーを生み出すことに紫は感嘆を禁じ得ない。
「……その我の強さ、いっそ羨ましいわね」
その激情は例え恨みがあったからと言って作り出せるものでもない、この感情の強さは天性のものと言っていいだろう。
紫は天子の才能を目にして、これをもっと健全な方向に向かわせれたらと一瞬思うがそんな思考など詮無い事、世の中ままならぬ、自らの感情をコントロールできる存在など一握りだ。
とは言え、真正面からこうやって来るだけ上等だ。それならば紫とてやれることはある。
「来なさいな、打ちのめしてあげるわ」
憎しみを抑えられない少女へせめてもの慈悲で、紫は真正面から天子とぶつかろうとした。
両手を広げる紫に、母なる大地のような度量を感じながら、天子は正真正銘最後の攻撃に出た。
天子が雄叫びを上げると彼女の想いが解放され、緋い閃光が辺りを焼く。遠目に見ていた藍と橙が目を細めた。
緋い染まる世界の中で、天子は必死の紫の姿を追っていた。目で、耳で、そして剣で、紫の全てを読み取ろうと心を澄ませた。
怒りを振るって争いながら、緋想の剣を通じて紫の気持ちを探っていた。気質を操作する関係上、そういうのは得意だった。
気質から伝わってくる紫の気持ち、そこには当然ながら幼稚な天子への怒りもある、だがそれが全てではない。
どこか天子を気遣っている。恨めしい相手に戦いでしかぶつかれない天子に、一片の慈悲を持って戦っている。
怒りを示しながらも押し付けすぎず、天子が戦いを止めればすぐにでも話し合う余地を残している。
そのことが天子には悔しかった。
「弾幕結界!」
自らを取り囲む弾幕を前に、天子が感じたのは恐れでも怒りでもない。
「――やっぱり、あんたは憎い相手にも手を伸ばせるのね、紫」
眉をひん曲げて切なそうに、悲鳴のような呟きを零した。
◇ ◆ ◇
八雲家が住まう屋敷は、幻想郷の東端にある博麗神社からもっとも離れたところにある。
つまりは幻想郷の西端、現実と幻想を隔てる博麗大結界の境界線すぐ近くに位置に建てられていた。
友人の萃香に建ててもらった屋敷はかなり大きく、三人で住むにしても広く感じるが、紫が周囲に張った結界により橙を含む八雲家か幽々子と妖夢しか入ってこれないため、落ち着いて休める場所だ。
「まったく、天子の相手は疲れるわね」
「左様ですか」
家に帰ってきた紫は、戦闘で乱れた髪を藍に梳いてもらいながら愚痴をこぼす。
先の弾幕ごっこは、やはり紫の勝利で終わった。
櫛が滑らかな髪を整えるごとに何とも言えない心地よさを感じるが、心は中々晴れてくれない。
「いつも余裕そうに見えますが」
「もちろんあんな怒りに振り回される未熟者に負けるつもりはないわ、とは言え相性が少しね」
紫が脳裏に思い起こすのは、天子の発現させる空の輝き。
「本質として、私と彼女ではお互いに相性最悪よ。まったく忌々しいわ、極光だなんて馬鹿げた気質、あんなのがいてもいいだなんて」
まるで陽の塊のような性質だ。仮にも妖怪である紫とは真逆で、ルールの外でまともに戦えばお互いに致命傷を負うだろう。
それになんといってもあの敵意だ。
紫のような誰からも恐れられる大妖怪が思うべきことではないかもしれないが、本気の敵意というのは感じるのも辛い。
「はあ……」
ルールを無視してこの首を切り捨てに掛かりそうな天子の眼光を思い出し、怖気立って溜息をついた。
一応話し合う余地は残しておいているつもりだが、あれでは望み薄だろう。
しかしいつまでも落ち込んでいても仕方ない。気を取り直した紫は、髪が整うなり振り返って告げた。
「さあ藍、随分疲れたし"眠るわ"――用意を」
「……御意」
その言葉には重要な意味があった。
主のために藍は奥の部屋から新しいお召し物を持ってきた、前もって用意していた新品のドレス。
ドレスを持った藍が主の部屋に踏み入る。一家の長だけあって20畳はある大きな部屋だ。
そこで紫は姿勢を正して座したまま目をつむり、自らの思念をどこかに繋げある情報を伝えていた。
「紫様の準備は完了しましたか?」
「ええ、バックアップは書き込んだ。始めましょうか」
これから眠ると宣言した紫であったが、その部屋には寝具は敷かれてはいなかった
布団どころか枕すらない場所で、紫はいつものドレスを着ていて寝ようとしているとはとても見えない。
そこに藍が畳の上で正座すると、自分の膝を手の平で軽く叩いて主人を招き寄せた。
「どうぞ、紫様」
「ありがとう」
紫は誘われるままに横になると、藍の膝枕に頭を寝かせてうだるげな瞳を閉じる。
そして紫は闇の中を手で探るように右手を上げて、藍にその手を握ってもらった。
手を繋ぐと安心して力を抜いた紫の目元を、藍は空いた手で覆い隠して瞼越しに届くはずの光さえ闇に閉じ込めた。
「ねえ藍」
「はい、紫様」
「……また呼んでくれる?」
「ええ、いつまでもそばにいてお呼びしますとも」
「…………ありがとう、おやすみなさい」
変化が起こったのはすぐだった。
紫の背と畳の隙間から影が、黒くおびただしい何かが這いずり回る百足のように伸びてきた。
手のような形をした黒い謎の物体、いや物体かどうかもわからないそれは、横たわった紫の身体にまとわりつく。
紫が境界を操って引き出す力と同質であるが、どこか異質な意思の籠もった吐き気のする影が広がる。
無数の手形に鷲掴みにされた紫が段々と黒い塊に包まれていく。その光景を、藍は鳥肌を立てながらじっと見守っていた。
やがて黒い影に完全に隠された紫の身体が、溶けるかのようにこの世界から消えていくのを肌で感じた。
「おやすみなさい、紫様」
あちら側から消えた私の目に映ったのは、一面の闇。胸に届くのは妬む声、羨む声、憎悪する声。
現世でもなく異界でもない、根本的な理から違えて概念すら消失してしまう無限の漆黒。
風景と呼ぶには形を持たないそれは、どうにも懐かしくて、どこか哀愁を感じる。
闇の中で、無数の手が私に伸ばされる。
この先はどうなるのか、おおよそのことはわかっているが実際のところは覚えていない。
だが案ずることはない、今までだって私は戻ってこれたしこれからもそうだ。
手と声が私の存在を取り囲み、私の存在を闇に沈める。私の四肢を、胴体を、首を、手が握り締め押さえつけてくる。
意識が黒く塗りつぶされるのを、私は甘んじて受け入れた。
――――ああ、私が消えていく。意識が途切れる刹那、そう感じた。
気がつけば、彼女はそこにいた。
畳の上に手を突いてへたり込んで、何も知らぬ目で畳の網目を覗き込んでいた。
まったく何も考えずにいると身体に妙な震えが走り、どうしたんだろうと疑問に思って、初めて自分が裸だから寒がっているんだと気付いた。
覚束ない頭で五感からの情報を読み取っていく。肌に食い込む畳、イグサの香り、遠く聞こえる虫の声。流れる空気は冷たくて、裸の身体には障る。
段々と回転していく頭で『はて私は誰だろう?』と疑問に思い始めた時、頭上から声をかけられた。
「おはようございます、紫」
彼女の顔が持ち上げられ、自分を見下ろしていた女と目が合った。
狐の耳と九つの尾を持つ美しい女に、なぜだか大きな安心を感じる。
この女はいつから自分を見ていたのだろう。最初からだろうか。この女が妖怪であることはわかる。
妖怪。知っている、この世界の中の陰。
おはようという言葉の意味も知っている、挨拶。
「ゆか……り……?」
最後に唱えられた言葉の意味だけが理解できず、彼女は首を傾げた。
「貴女の名前ですよ、紫」
「ゆかり……ゆかり?」
「そうです、貴方の、名前は、八雲紫」
名を与えられた直後、とんでもない密度の情報が彼女の頭を貫き、耳鳴りが自分の悲鳴をも塗りつぶした。
「――――――!!!」
聞こえないが、きっと自分は叫んでいたのだろう。
――八雲紫、さっき戦ったばかり、スキマ妖怪、八雲藍、昨日の晩御飯は秋刀魚、橙、尻尾が綺麗、幽々子、温かい、魂魄妖夢、剣士、萃香、酒の酔いの感じ、博麗大結界、バックアップ、カウンター、博麗、龍神、契約――
無秩序で膨大な情報がどこからか送られてきて自分の脳に焼き付いた。
次から次へと思い出されては過ぎ去っていくメモリー。
――圧縮された過去、モノクロの思い出、膝枕。世界の隙間、初めて名を持った日、記憶の再生と破滅、維持装置、幻想郷、忘れた日々――
再生される記憶に、頭を抑えて畳の上で背中を丸めて身体を痙攣させて、呼吸もできない有様だった。
あまりの情報量に負荷に耐えられず脳髄は熱され、彼女は畳の上で瞳孔の開いた目を飛び出さんばかりに丸くして、顎が外れそうなほど開いた口からは涎がしたたり落ちた。
――――そして私の名前は、八雲紫である。
最後の一滴が記憶に染み入り、ようやく自分は呼吸を取り戻した。
荒い息を時間を掛けて落ち着かせると、手の甲で涎を拭うと、淀んだ肢体に力を込め頭を振りあげて立ち上がる。
「ただいま、藍」
「おかえりなさいませ、紫様」
そして私は再び紫と成った。
藍は用意していた服を紫に差し出した。
裸のままだった紫はそれを受け取ると、下着を履き、ブラジャーで胸を締め、深い色のドレスに袖を通して帽子をかぶった。
「お腹が空いたわ。ご飯の用意をお願い」
「かしこまりました、デザートはいかがなさいますか」
「私が用意した外界のケーキがあったはずだから、お茶だけ頼むわ」
「はい、紅茶ですね」
何事もなかったように日常に戻っていくよう見えるが正確には違う、八雲紫にとってこれもまた日常の内であり、必要なプロセスなのだ。
スキマ妖怪、大妖怪、妖怪の賢者、そんなふうに呼ばれている紫だが実態は危ういバランスの上に成り立っている存在だ、この世界に完全に適応できていないのか、何か紫の知り得ない要因があるのか、常に『世界の隙間』に引きずり戻されようとしている。
普段は自らの境界を操る能力でこの世界にしがみついているのだが、それでも定期的に元々の居場所である『境界の隙間』に戻らなければならなかった。
いつも紫が使っているスキマは現世と異界との境界線を利用しているに過ぎないが、境界の隙間はもっと次元的に奥の領域だ。
それは妖怪や神でさえ立ち入ってはならない禁忌の領域、世界を成り立たせる境界線上の隙間にある無秩序な世界。
紫の正体は正確に言うと妖怪ですらなく、そこからこの世界に滲み出てきた『異物』だった。
「記憶の方に問題はありませんか?」
ご飯を食べた後、甘いふわふわケーキを別腹に押し込んでいると、机の向こう側に座った藍が尋ねてきた。
「問題なしよ。昨日の夕飯から、春先に食べた朝食の味までよく覚えているわ」
誇るように紫は言いのける。実際、自分が組んだ記憶の再生術式が上手く機能していることは、彼女のちょっとした自慢だった。
境界に戻るプロセスにおいて、避けようのない問題が一つある。原因は不明だが、そのたびに紫は過去の記憶をすべて失ってしまうのだ。
それを回避するのが記憶の再生術式である、あらかじめ自分の記憶のバックアップを別に取っておき、こちらで目覚めたあとで名前を与えられることをトリガーとして、改めて脳に書き込み再生する。
現在においては、そのバックアップの保管場所が、この幻想郷を包む博麗大結界そのものである。
「それは良かったです。もうすぐ冬眠も近いですから、万全でいなければなりませんからね」
その結界の調整役を一任されてる藍としては、記憶の再生が上手く行っているかどうかは非常に不安になるところだ。もしかしたら自分のミスが原因で主人の記憶に欠落が起き、最悪、廃人になってしまうかもしれない。もっともその時はその時で、緊急用の記憶を保存した妖魔本からバックアップを書き込めば済むのだが。
変わりない様子の紫に藍は安心して肩の力を抜いた。
「冬眠の用意はできてる?」
「万事滞りなく」
「いつでもできるようにしておいて頂戴。そろそろメモリーの整理が必要だわ」
「御意」
紫が食べ終わったフォークを置くと、藍は立ち上がり食器をお盆に乗せて背を向けた。
「――藍、どうしてあなたは私を助けてくれるの?」
廊下に消えようとした背中に、どうしてここまで親身になって自分のためにしてくれるのだろうかと、衝動的に尋ねてしまった。
記憶のバックアップも無制限に保存できるわけではない、限られた容量の中で必要な情報だけを残すようにした結果、紫は過去の記憶の殆どを忘却したままだ。
幻想郷の博麗大結界を記録媒体としてからはだいぶ容量が増えたが、それで消去した記憶が戻ってくるわけではない。
藍との出会いは覚えているものの、メモリーに残った記憶と今の状況が地続きに感じられないほど二人の関係は酷い始まりなのだ。
要約すれば、「バックアップの一時保存役に適当な妖怪が欲しかったのでスキマで拉致して脅して強引に試行させた」と言うものだ。
当時の藍は本当に嫌々だったはずだ、裏切れないように二重三重の術式で行動を束縛し無理矢理従えていた。
よくそんなことをした自分に今日までついてきてくれたなと思うし、時折これからも藍は自分のそばに居てくれるのだろうかと無性に不安になる。
約千年前に出会ったばかりに付与した行動束縛術式は今はすべてを解いているため、裏切るか否かについては藍の気持ちに期待するしか無いのだ。
投げかけられたか細い声に、藍は苦笑を漏らしながらゆったりと振り向いた。
「その質問は去年もしてきましたよ」
「あ、あらそうなの?」
「ええ、覚えてはいないでしょうが」
恥ずかしげに熱くなる頬を押さえる紫を見て、ほんの僅かに藍の表情に影が差す。
やはり自分の思い出を忘れさられるというのは藍としても悲しい。
本人が一番辛いのだからと自らを叱咤すると、紫が覚えていない思い出を、自分が彼女についていこうとしたきっかけを想起させた。
「あなたが私の家族だからです。それ以上の理由は必要ありませんよ」
温和な声と表情で答えられ、紫は不安を打ち消され押し黙るしかなかった。
「大事なものは温かなご飯、温かなお風呂、温かな布団、そして温かな家庭。紫様はこの家を支える柱の中心です、私ごときで支えられるならいくらでも支えますとも」
そう言って藍は再び部屋を後にする。
尻尾の目立つ後ろ姿を、紫は揺れる瞳で見つめていた。
「ありがとうね藍」
窓から丸い月に目をやって呟く。
心を許せる家族に唱えた感謝の言葉は、秋の夜に生きる虫の音に紛れて部屋の外までは届かなかったが、きっと気持ちは伝わっていた。
◇ ◆ ◇
紫に負けて大地に伏した天子は、何をするでもなく仰向けで寝転がったまま空を眺めていた。
赤い空が徐々に藍色に移っていき、星々が自分たちの存在を主張し始める。
黄金の月には雲が掛かりその灯りをぼやけさせて、しばらくすると雲が流れて目が眩むような満月の光が天子を、この幻想郷を照らしだした。
夜空なんてずっと天界から眺めてきたけれど、雲の上で見る月はずっと何にも遮られず光り続けている。
それよりかはこうやって変化のある地上の月のほうが美しく思えた。
「……綺麗な空」
傷付いて泥にまみれた体の痛みを、月の光に癒してもらっていると、覗き込んできた人影が明かりを遮った。
「あっ、衣玖、久しびびびびびびびびびびびびびび!!!」
ボロボロの羽衣をまとって現れた衣玖が、天子の両頬を手で挟み込むと全開の電撃を流し込んだ。
「何すんのよ!」
「こっちの台詞ですよ不良娘様。こっちはボロボロにされてなんとか逃げてきたんですからね」
天子は立ち上がって口から煙を吐きながら怒鳴りつけるが、衣玖からは一切引かずに睨み返される。
衣玖の怒りはもっともであることは天子にもわかっているし、拗ねた様子を見せながらもそれ以上は食って掛かりはしない。
「はいはい、悪かったわよ。守矢神社には明日お詫びに行かなきゃ」
「妖怪の山にもですよ」
「わかってるって」
会話をしながらも遠くを見ていてどこか心を置き忘れた天子に、衣玖は溜息をつく。
「その様子では、またいつものゆかりんコンプレックスですか」
「変な名前つけるな。まあそうなんだけど」
強く否定出来ないのが辛い。
言い返せない苛立ちに天子が唸っていると、今度はハンカチを持った手が伸びてきて頬の泥を拭った。
「またこんなに傷付いて、かわいそうに」
「痛みなんてどうでもいいわよ」
「それこそがかわいそうだと言うんです。御自愛くださいよ」
衣玖の言葉にはもう置いて行かれた怒りなどなく思いやりがあった。
しかし頑として受け取らない天子に、衣玖は悲しげに目を伏せて。
「いい加減、紫さんに謝ってしまってはどうですか?」
「…………」
衣玖からの訴えに、天子は口をつぐんだまま聞いている。
天子は紫からある言葉を伝えられている。
投我以桃、報之以李――要は謝れば許そうと、話し合うきっかけを与えられているのだ。
「チャンスは与えてもらっているじゃないですか。本当は総領娘様自身も謝りたがっているんじゃないですか? それなのに意地になって突っ張って……あなたはいつも楽しそうに過ごしているのに、紫さんのことになるとすごく辛そうに走り出して、そんなことを繰り返すより一度頭を下げて話し合ったほうが楽に」
「まだ早い」
じっと聞いていた天子だが、言葉の締めを待たず口を挟んだ。
驚いた衣玖に背を向けて、天子は硬く腕を組むと続ける。
「謝るにはまだ早い。私は知らなきゃいけないのよ」
「知るって、何をですか?」
強張った背中に衣玖は問いかけた。
普段の天子はわがままであるが、驚くほど思考は柔軟で人の話を聞き入れる。
だがこの姿は今ままで見た中で一番硬く、決して他人に入り込ませない壁があった。
「本当に許せるのか、許されても良いのか、許しの先に何があるのか。それを知らなきゃいけない、確かめなきゃいけない。そうじゃなきゃ、私の勇気は踏み出すに弱すぎる」
天子が自分を卑下するような言葉を、衣玖は初めて聞いた。
こんなにも、天子の紫に対する確執とは深いものだったのだろうか。ただ異変の締めを台無しにされた恨みだけかと思ったが違うのか? 衣玖の知らないところでなにかがあったのか?
いくつかの疑問が過ぎるが、その小さな背にそれらを尋ねても突き返されるだけのように思えて口を開けなかった。
「……とは言え、そろそろ結論を出す頃と思うわ。ねえ衣玖、あんたはこの幻想郷をどう思う?」
「どうって……」
振り返った天子に聞かれて、衣玖は意図を掴みかねて悩む。
恐らくは幻想郷の体制だとかパワーバランスだとかについて聞いているわけではないだろう、天子はそういったところに頓着しているわけではない。
「そうですね、私は良いところだと思いますよ」
「そうね、こんな不安定な場所なのに、何だかんだみんな笑顔で回ってる」
衣玖の答えに満足そうに頷いた天子は、首だけで振り返ってようやくいつもどおりの笑顔を見せてくれた。
歯を見せてはにかんだ天子は、今度は柔らかな背中を衣玖に向け、両腕を広げて体全体で夜の風を感じ、月明かりを浴びた。
「今日行った妖怪の山、途中で見えた川で釣りをしたらきっと気持ちよさそう」
「あんな真似して、脳天気に歓迎されるとは思えませんが」
「いつかチャンスは有るわよ。椛とも仲良くしてれば、そのうち招待されるかもよ?」
来るかもわからないいつかをそれでも夢見て、天子は笑う。
「ここは景色は綺麗だし、ご飯は美味しいし、住んでる奴らは面白いやつばかり。私は幻想郷を目一杯楽しんでみた。遊んで食べて戦って、思う存分生きてみた。この場所をあの紫が作ったというのなら、もしかしたら――」
衣玖には天子の言葉の意味が明確にはわからない。
だが決定的な選択の時が間近に迫っていることだけは理解できた。
◇ ◆ ◇
共にボロ負けした天子と衣玖は天界にまで戻ってくると、手を振って別れた。
「それじゃあさよなら、また明日ね」
「ええさよなら、明日は妖怪の山と守矢神社にお詫びですね」
「時間があったら人里にも行ってみましょ、まあ多分、天狗や神々と朝まで呑んだくれることになるだろうけど」
家に帰っていく天子が桃の木々のあいだに隠れていくのを見届けて、さて自分も帰るとしようと衣玖は思う。
帰ると言っても、雲の中を漂って明日になるのを待つだけであるが。一人の時間を与えられたところで、基本的にやることがない。
「――少し、お話してもいいかな?」
去ろうとした衣玖の背中に、温和だが厳かさのある男の声が届いた。
この声には聞き覚えがあった。少し驚いて衣玖が振り向くと、そこには髭を生やした肩幅の良い中年の男が桃の木の影から姿を表した。
「総領様……?」
天子の父上にして比那名居家の現総領であった。
天人らしい超然した佇まいの彼とは、天子が起こした異変の折に直接会ったきりだ。
そんな総領が現れた理由は何か、上の者が出てくる理由にあまりいいものが思い浮かばず衣玖の雰囲気が固くなるのを、総領は手を挙げて制止した。
「そう身構えなくて良い。ただの娘の友人と世間話に来ただけだ、気軽にしてくれ」
「……そうですか、ならそうさせてもらいます」
とりあえず悪い理由ではないと言われ、衣玖も肩の力を抜いて応える。
それを見て総領は気を良くしたように頷き、手に瓢箪と盃を持って歩み寄ってきた。
「うむ、それで結構。お前のように話のわかる聡明な女性が、天子のそばにいて私も嬉しいよ。酒も持ってきてある、これでも飲みながら話をしようじゃないか」
「……口説きに来たんですか?」
「ちがっ……私は母さん一筋だ!」
一転して強い口調で言い張る総領を見て、ああやっぱり天子の父親だなあと衣玖は納得を得る。
いきり立った総領だが、気を落ち着かせると先にあぐらをかいで地面に座り込んだのを見て、衣玖も向かい合って正座で腰を落ち着けた。
渡してもらった盃に総領は自ら酒を注いでくれ、その芳醇な匂いに飲む前からして酔いしれた。
「天子は地上では上手くやっているかね?」
「上手くかと言われると微妙なところです、遊んでばかりで平気で恨みを買うこともやりますから。でも毎日楽しそうですよ」
「そうか、なら良かった」
伝えられた様子は親として完璧な理想ではなかったろうに、父は心底嬉しそうに口端を釣り上げて静かに笑い酒をあおる。
あまり言葉を交わしたことのない相手であったが、お堅いイメージのあった男がこういう風にも笑えるなのかと衣玖は驚く。
衣玖が思っていたよりも、娘想いの父であるらしい。
だからこそこうやって酒を持ってきて話を聞きに来たのだろうが、それならばと衣玖は一口の酒を飲んでから改めて口を開く。
「しかし私に聞くよりも、総領娘様に聞かれてはいかがですか? そのほうが何かとよろしいかと」
「私にその資格はないさ。私が天子にしてやれることといえば、あの娘がやることを全て許して自由にさせておく程度」
その答えに衣玖は眉を曲げ、それは寂しすぎるのではないかと思った。
この父だけの話ではない、許すと言う言葉だけで放って置かれるあの構ってちゃんな天子も含めてだ。
天子からこの総領の話を今まで聞かされたことがなかったが、なるほど思ったより大きな溝があるらしい。
しかし衣玖はこれに黙っていた。天子のために何か言いたい気持ちはあったが、知り合ったばかりの自分が何を言ったところで動かすことなど出来はしまい。
無力な言葉を紡いで途方に暮れようと思えるほど、衣玖は前向きな性格ではなかった。
「天子が地上で幸せそうにやれてるなら何よりだ。衣玖殿にも礼を言う、娘のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「いえ、私も総領娘様には楽しませて貰っていますから」
本人には言わないが、衣玖には天子の姿がどこまでも眩しく、もっと眺めていたいと思えたのだ。
龍神の声を聞き、地震の到来を伝える以外は雲の中を漂うだけだった衣玖に、炎のように燃える意思でのびのびと生きる天子はあっと言う間に憧れになった。
とは言え、それは異変以後の話。
「――それに、彼女の成長を見るのは何よりも面白いです」
衣玖は異変の以前から比那名居天子を少しは知っていた、と言っても比那名居家にはこんなお転婆娘がいると遠くから眺める程度であったが、昔は天子のことを他の天人と同じくつまらない人物と見ていた。
特に生きる目的もなく、かと言ってそれを探すこともできず、ただ無駄に生きながらえて、自暴自棄なじゃじゃ馬。寄る辺なくそれでも生きる姿は健気だがそれ以上でない。それが天子に対する評価だった。
それが異変から変わった。表面的には以前と同じに見えるかもしれないが、核心的部分が確かに変わっているのだ。
現在の天子は決して自暴自棄ではない。あれでどこかに襲撃したあとも桃を持って見舞いに行って頭を下げたりして、幻想郷のお祭りムードに沿ってそれなりに受け入れられるよう努めているし、お陰で致命的な嫌悪はされていない。
今日も争った白狼天狗とも、ちょくちょく会いに行って普段は将棋で勝負してたりするのだから驚きだ。
「あの歳でまだ成長できるのか、優秀な娘だとは思ってたが驚きだ。衣玖殿にはいくら感謝しても足りないな」
「いえ、総領娘様の成長に私など関係ありませんよ」
この成長のきっかけがあるならば、きっと天子がもっとも反発するあの妖怪なのだろう。
天子が紫にいかなる感情を抱いているのかは測り知れないが、それこそが天子の成長の原動力だ。
だからこそ天子が紫と手を取り合う未来を期待しているのだが、さてそこがどうなるかわからない、しかし期待しておこう。
「……もしそのことでお礼を言いたいのなら、それを受け取るに相応しい方がいます。いつか総領娘様が彼女を連れてきたときにじっくりお礼を仰ればいいです」
「ほう、それはその者と会える日が楽しみだ。もっともそんな日が来るかわからないが」
「来ますよ、きっと」
悲観的な父君に、あくまで衣玖は希望を口にした。
衣玖が知る天子も、根はどこまでも前向きだから。
「しかし天子の成長を助けたというその者が気になるな。下界で知り合ったのか?」
「はい、地上の妖怪です。正直なところ、総領娘様との仲はよろしくありませんが」
「ほう、面白いことを言うな。天子を助けたと言うのに、仲が悪いとは」
「総領娘様の壁と言ってもいいですからね、力量としても因縁としても」
「なるほど、試練が形を持って現れたか、良き縁を持ったな。して、なんという名だ?」
「はい、八雲紫と言って、妖怪の賢者とも呼ばれ――」
総領の手からこぼれ落ちた盃がカランと音を立てて続く言葉を遮った。
驚く衣玖の前で、総領は台無しになった酒になど気にもとめず、目を見開いて小刻みに震えている。
「八雲、紫……そ、それは境界を操る妖怪のことか?」
「は、はい、その方ですが」
様子がおかしい総領を前に、恐る恐る衣玖が口にすると、比那名居家の総領はこめかみを痙攣させて勢い良く立ち上がって怒声を吐き捨てた。
「んな――あ、あの妖怪が、あの異物が! 今更天子の前に出てきただと!?」
真っ赤な顔で唾を散らして我武者羅に怒りを撒き散らす姿に、衣玖は驚いて竦み上がった。
しかし怖がってばかりもいられない、総領から語られる言葉は天子を慕っていれば到底看過できないものだった。
「己、異物め、天子の害を成そうというのなら、今度こそ私が討ち取ってくれる!」
「そ、そんな滅多なことは止してください。総領娘様も、近々紫さんに謝ろうとしてるんですよ、ここで貴方が出てきたら台無しじゃないですか!」
衣玖の説得に総領は押し黙ったが、憤怒の表情のままだ。
身を震わす総領は音を立てて腰を下ろすと、自らの目元を手で覆い隠した。
「ふ、ぐ――天子が、彼奴に、頭を下げようと?」
「はい、総領娘様はずっと謝りたがってる様子でしたから」
謝りたいのに素直になれないからこそ、紫と衝突していたのだろう。
本当にただ嫌いなら無視すればいい、ただ憎いだけなら狡猾に仇なすこともできたはずだ、そうはせずに真正面からぶつかったのはある意味で天子の努力と言える。
総領も父としてその気持ちを否定し切ることは出来ないのか、苦しそうな息を漏らしながらも怒りを押し込めようと必死になっている。
「……すまんが、今日はもう帰るぞ」
短く言って総領は立ち上がり、瓢箪も盃も手に取らずに背を向けた。
話が拗れそうで気が気でなかった衣玖だが、とりあえずは穏便に済みそうで内心ホッとして胸に手を当てる。
「だが覚えておけよ竜宮の使い、あれはこの世の異物、我々人間の側に立つ者どころか、お前たち妖怪とすら相容れない間違った存在なのだからな。あんなのと関わって、天子が幸せになれるはずもない」
それだけ言い捨てて総領は帰ってしまった。
衣玖の頭に紫の存在そのものが間違いだと言い切った総領の言葉が残響する。
瓢箪に残った酒も飲む気がせず、呆然としているしかなかった。
◇ ◆ ◇
紫が記憶の再構成を行ってから数日が立ち、もうそろそろ冬眠の時期ということで、友人を集めて白玉楼で宴会を開こうという話になった。
大切な冬眠の前に紫は無性に不安になるし、友人達もしばらくは紫と話せないということで、お互いを元気づけるためにこの時期には毎年やっていることだ。
約束の時間は夕刻であったが、幽々子とのんびり話でもしようと思っていた紫は、昼過ぎにはスキマを通って白玉楼に現れた。
縁側で座っていた幽々子のすぐそばに歩き出て来て、饅頭をお茶請けに湯飲みを手に取っていた親友に手を上げて声をかける。
「はい、こんにちは幽々子」
「あらこんにちは紫。ちょうどいいところに来たわね」
「いいところ?」
幽々子の言葉が気になった紫の耳に、庭から硬い物が激しく打ち合わされる音が響いた。
音のなる方に顔を向けてみると、庭師兼警護役兼剣術指南役という曖昧な立場の妖夢と剣を打ち合う空色の髪が見えて瞳が震えた。
「そおらぁ!!」
掛け声とともに、天子が剣を振り抜いた。
右手に持った木刀で豪快に剣を振り切る。型も何もない無茶苦茶な剣筋で、あえなく妖夢の構える木刀に受け流される。
思いがけない光景に、一瞬紫は驚き、その身を躍らせるに見惚れた。
あまり通じない剣を天子は構わずに振るっている、彼女は勝つために戦っているのではないのだ。
「あの娘、あなたが呼んだの?」
「いいえ。天子はよく妖夢相手に剣術ごっこしに遊びに来るのよ。あと庭の手入れを勝手にやったりしてるわね、あの木とか天子作よ」
「……彼女ってけっこう遊んでるのね」
幽々子が指を指した先を見てみれば、鳥の群れの形に剪定された松の木があった。無駄に趣味が凝っている。
紫以外のことでは、こういった遊びが大好きらしい。
紫が視線を戻すと、妖夢の突きを回避した天子が、大げさに身体を回転させて切り返していた。
今の瞬間にこちらの姿が視界に入っていたはずだが、今は勝負に夢中で気が付いていないようだ。
妖夢の木刀に対して時に跳び、時に掻い潜り、その瞬間の心に従って縦横無尽に身体を動かすその姿は、毛の一本一本までが瑞々しさに溢れている。
そして純粋な想いの乗った剣は、幼い童が振るう紙の剣から童心を残したまま成長したかのようだ。
我が剣を見よ、我が姿を見よと、対戦相手に、世界に、自分自身に見せつけて誇るように遊び狂う。
自分と戦っている時には決して見せないような清々しい笑顔。
まるで無駄ばかりなのにどこか洗練されているその剣に、紫は心を奪われる。
――あんなに夢中になれるなら、私なんて放っておけばいいのに。
紫が思う前で勝負は佳境に移った。
天子は卓越した身体能力と無軌道過ぎる動きで誤魔化しているが、それでも遊びの剣では隙が多すぎる。弾幕ごっこならいざしらず、単純な剣の腕前では妖夢のほうが上手であった。
妖夢はその中でも、天人の身体能力ですら消せない致命的な隙を狙って木刀を滑り込ませた。
脇腹を狙って突き出された木刀を天子はギリギリで避けるが、直後に木刀の切り上げが襲う。
天子は笑った口元をわずかに引き攣らせて大きく後ろに飛んだ。なんとか避けれたが、鋭い太刀筋に髪の毛の先が切り取られてしまった
妖夢は宙に舞う蒼い毛を剣先で弾くと、次の瞬間には天子の目の前に詰め寄っていた。
縮地と呼ばれる独特の移動法だ。また上達したのだろう、傍から見ている紫でさえも一瞬見失いかけた。
あまりの速さに天子は目を丸くしたが、彼女は意識よりも早く反撃に転じていた。
ひたすら勝負を堪能したいという渇望が右足を踏み込ませ、天子は導かれるように握り込んだ木刀を前に出した。
まばたきするほどの僅かな間に互いの木刀が振るわれ、中央で衝突しあい、妖夢の繰り出した面をギリギリのところで防ぐ。
だが妖夢はこれまでに幾度か天子と剣を交えているのだ、この程度の抵抗は予想の範疇。
器用に手首を返して相手と交差した木刀を下に回り込ませると、地面を踏み締めてかち上げた。
守りがこじ開けられ天子の胴体ががら空きになるが、これでもまだ直接切りに行くには甘い、ここ一番での天子のしぶとさはずば抜けている。
まず天子の剣を握る右手を切りつける。
強烈な衝撃が天子の手を痺れさせ、思わず木刀を取りこぼしそうになるのを気合で保った。
だが天子が痛みに気を回していた間に、妖夢の次の太刀が天子の胴を叩いていた。
達人の剣が身体にめり込み、頑強な肉体を持つ天子も顔を苦痛に歪ませる。
更にダメ押しとばかりに顎先を木刀が打ち上げて勝敗が決した。
妖夢も容赦ないなぁと紫は思うが、相手が天子では仕方がないだろうなともわかる。
普通の手合とは気迫が違うのだ、あれが相手はどうしても手元に力が入ってしまう。
しかし天子もさして気にしていないようで、顎を打たれた衝撃で尻もちを付きながらも、お腹を震わせて笑い声を上げた。
「あはははは! まーた負けちゃった、やっぱり妖夢は強いわね」
「本気でやってない相手に言われてもあんまり嬉しくないですけどね」
構えを解いた妖夢が愚痴るように言う。
明らかに今の天子の剣は戦いに特化したものではない。
「天子に手こずっているようではまだまだです」
「うわ、すごいバカにされたムカつく」
「だったら本気で戦ってくださいよ」
「本気よ! 本気で楽しんで戦ってるわよ!」
「そっちの本気じゃなくて、勝つ気の本気で……あーもう」
こちらの理屈が通じないことに妖夢はじれったくなり、天子を手を取って引っ張り起こすと話を終わらせた。
要石や気弾を使わない純粋な剣技だけで、遊んでいる天子にこうまで手こずるのは妖夢にとって不満が残るようだ。
「はあ……こんなのじゃ魂魄の剣を極められるのはいつになるやら」
「あぁ、剣の極みね。雨を斬るには三十年、空気を斬るには五十年、時を斬るには二百年」
「――いえ、そんなものじゃありません」
瞬間、妖夢の気が鋭く張り詰めて天子の意識を刺した。
常人なら目眩くらいは起こせる強大な意志を漏れ出させ、妖夢は木刀を地面に置くと二刀の真剣を引き抜き構えた。
「時を斬るのも全ては過程に過ぎません。我ら魂魄家が目指したものはもっと先にある」
妖夢の視線が妖怪が鍛えたという長刀の楼観剣と、魂魄家の家宝でもある人の迷いを断つ白楼剣の刃先をなぞる。
果たして眼光を鮮烈に輝かせる妖夢の見ている先がどこにあるのか天子には知れなかった。
時を切る絶技を過程と言って捨てた妖夢のそれは自惚れなのか、あるいは天界の天仙をも超えた先に手を伸ばそうとしているのか。
「ただ斬って断つ、それ以上のことを成すことこそが魂魄家の使命――」
妖夢の見せた剣客としての片鱗は、天界で数多の達人を見てきた天子ですらわずかながら圧倒されてしまった。
悔しさ半分期待半分で、自分の怯えを笑い捨てる。
「見てみたいもんね、あんたの言う魂魄の秘剣」
「見せるもんじゃありませんよ。そもそも私じゃ到達できるのかすらですし」
漲らせた覇気を解き、いつもの穏やかさを取り戻した妖夢が謙虚に言って剣を鞘に収める。
控えめな言葉を選ぶ剣士に天子は「私に勝ったんだからそこまで行ってもらわないと困るわ」と無責任な期待を押しつけた。
「それにしても戦って喉乾いちゃったし、お茶でも――ゲェッ、紫!?」
「顔を見るなりゲロでも吐きそうな声を出すなんて下品な娘ね」
ようやく紫に気づいたらしい天子が悲鳴を響かせた。
「紫様、もう来てらっしゃったんですか。すみません、気が付かなくて」
「いいのよ。面白い勝負だったわ」
「ちょっと妖夢! こいつが来るなら来るって言いなさいよ!」
よっぽど紫のことを気に入らないらしく、無関係な妖夢にまで当たり散らす。
戦闘中よりも殺気立つ天子に、幽々子は和やかな笑みで話しかけた。
「ちょうどいいわ、今日は紫の冬眠前に最後の宴会をやる予定なの、天子も混ざったら?」
「ちょっと幽々子?」
「いいからいいから」
止めようとした紫だが、笑顔の幽々子に軽やかに流される。
「……冬眠って、寝るのあんた?」
「ええ、そうよ。だからと言って私の眠っている間に下手な考えは起こさないようにね。緊急事態となれば途中で切り上げるくらいはするわ」
「……天界であんたについて聞いた噂じゃ、そんな話なかったけどね。まあいいわ」
冬眠中も問題があれば起こすようにと藍に言い聞かせてある。
疑問だけ解いた天子は案の定、鼻息を荒くして腕を組み威圧的な態度を見せつけた。
「ふんだ、だーれがそんなやつと一緒に。とは言え宴の邪魔をするほど無粋でもないから今日のところは帰ってやるわ」
「はいはい、だと思ったわ不良天人さん。お好きにどうぞ」
紫も大概天子の性格をわかっており、手の甲を見せて追い払う仕草をする。
天子もそれ以上言葉を交わそうともせず、一同に背を向けて白玉楼の門を開けると去っていった。
「……それにしても冬眠か、なるほど」
門を閉め忘れるほど考え込みながら言い残した言葉が紫の不安を煽ったが、藍が対応してくれることを考えれば大丈夫なはずだ。多分。
「あらら、帰っちゃったかい。残念だねい」
紫が胸中の不安を振り払っていると、突然虚空から聞こえた声が木霊した。
どこからか霧が湧き出て縁側に座っていた紫と幽々子の周りに渦巻き、霧が収束し一つの形を取って姿を現す。
可愛らしい幼い女の身体と、それに不釣り合いな鎖と分銅、瓢箪、そして頭に生えた異様な二本の角。
「あら萃香、いらっしゃい。あなたももう来てたのね」
「やっほー。お邪魔してるよ幽々子、妖夢」
「萃香さんが来たならお茶よりお酒ですね……って、もう出来上がってるじゃないですか」
宴会前だというのに早速酒臭い息を漂わせる子供のような鬼は、鬼の四天王とも呼ばれる紫の友人の伊吹萃香だ。
「萃香まであの小娘を歓迎したいの?」
「ああそうさ。お前と違って私はあいつを気に入ってるからねえ」
「紫も天子も話し合えば仲良くなれるんじゃないかとおもうのよ。馬が合うと思うわ」
「そーそー、私も同意見だね」
「あなた達がどう思おうと向こうが敵意を示す限り意味が無いわね。一応、歩み寄ってこれるよう配慮はしたつもりだったけど」
『投我以桃、報之以李』と伝え、とりあえずチャンスを与えたのは確かだ。
そのチャンスを本人が不意にしているがしょうがないだろう、大抵の者はそういうものだ。
「まあ別にいいでしょう。私がいなくとも彼女は元気にやって行けてるもの」
どうせ紫の存在など天子にとっては本来取るに足らないことだろう、恨みも時間とともに風化して、いつか幻想郷に馴染んだ住人になる。
「やっぱり紫は優しいわね、自分の気持ちよりも天子の為を考えてる」
「別にそんな、私は幻想郷のことを考えてるだけよ」
照れ臭そうに紫は誤魔化すが、天子にも慈悲を持っているのは明らかであった。
「でもだからこそ天子と仲良くしてほしいわね。紫の優しさは自分に後ろ向きだから、あの娘のような明るさが必要だと思うの」
「……ああ、幽々子が言うのはそういうこと」
しかたないことだが、紫の周りにいるのは妖怪であったり亡霊であったりと陰の気配の強い者ばかり。
天子のような陽の気質を持った者が友達になってくれれば、紫にとっていい刺激になると幽々子は思っているのだ。
幽々子は何かと紫に気を回してくれるが、少しばかりお節介というものである。
「生前の私じゃ、果たせなかったことだしね」
思い出せない人間時代に手を伸ばそうとし、幽々子は自虐気味に言葉を零した。
それにつられて紫も悲しい顔をする。生前の幽々子との記憶は、紫の根幹を成すかけがえない思い出として今も残している、その出来事を思い出すと結末に胸が詰まる。
妖夢もまた主人が見せた陰りに何か思うところがあるのか、切なそうに表情を暗くさせていた。
辛気臭い空気になったところで、酒臭い息を吐いた萃香が、紫と幽々子の首に腕を回して身を引き寄せた。
「まあまあ、来年のことを言うと鬼が笑うよ。それより飲もう! 紫の一年を祝って騒ごうじゃないか」
「そうね、そうしましょう……いや、その前にまた新しい客よ」
紫が白玉楼の開きっぱなしの門へと目を向けると、虚空に僅かな空間の歪みを捉えた。
そして文字通り瞬間的に、門の前に二人の人影が現れる。
大鎌を担いだ赤髪の女性と、硬い雰囲気の小柄な緑髪の女性を見て、紫はわずかに顔をしかめる。萃香などは「げっ」と言うと霧になって逃げ隠れてしまった。
「こんにちは幽々子さん、今日は冥界の管理について話に来ましたが……間が悪かったようですね」
幻想郷の死後の裁判を担当する閻魔の一人、四季映姫・ヤマザナドゥとその部下の小野塚小町だ。
これからお楽しみというところでいきなりの訪問に、さしもの幽々子も不機嫌そうに眉を寄せた。
「アポイントメントは取っておいてくださらない?」
「すみません、休みの日の散歩ついでにと来てみましたがぶしつけでした。日を改めて来させてもらいますが、冥界へ送る魂の量の予定表だけでも受け取って下さい」
映姫が取り出した巻物を、妖夢が代わりに前に出て受け取った。
後は大人しく帰って欲しいと誰もが思っていたところだが、映姫は帰路に付く前に紫へと冷たい視線を浴びせかけた。
「お久しぶりですね八雲紫。あなたとは顔を合わせる機会は希少だ」
「ええ、いつも私が逃げ回っておりますもの」
なにせこの閻魔は、この世界の理が形を持って歩き出したような堅物だ。
存在の根本から世界に反する紫にとっては目の上のたんこぶだ。
「閻魔のあなたがわざわざ小間使い?」
「地獄は人事再編で人手不足ですから、やれる者がやれることをやるしかないのです」
「まあ、あなたの部下がクビにならない辺り、人手不足は本当のようね」
皮肉を言った紫はサボり魔の死神に見やる。
粘着く視線に絡みつかれた小町は快活な笑い声を上げた。
「あはは、映姫様は厳しいからね、私くらいのエリートじゃないとついて行けないのさ」
「……小町、余計なことは言わなくていいですよ」
「アイアイサー」
要約すれば厳しすぎて部下に逃げられるということなのだろう、映姫も自覚はあるのか様子で苦そうな顔を俯かせた。
恥じ入る閻魔は咳払いをして話を戻す。
「毎回言っていますが、あなたはあるべき場所に戻るべきだ」
やっぱり来たなと、紫は苦い顔をする。
元より説教が趣味な映姫からしてみれば、紫は格好の得物なのだ。
「あなたの存在は居て良いものではない、無理な形でこの世に顕現することは、世界の均衡を乱すばかり」
「そう言われても気が付いたらこっちにいるんですもの。無意識なんだからどうにもできませんわ」
「あなたなら無意識下の心理にも手を伸ばせるでしょうに、それすらしないのは怠惰です」
実際映姫が言うような努力はしていないのだから耳が痛い。
困った顔をする紫に、映姫はなおも説教を続けた。
「命あるものは産声を上げた時から……いや、母の胎内で魂を宿し、可能性を生み出した時点で罪を背負うもの。あらゆる存在は自らの罪を抱えて償うために生きているが、その中でもあなたの罪は特大だ。境界を超えてこちら側に来るなど世界の理に反する、その先には多くの悲しみが待っていますよ」
その内容に、幽々子がわずかに苛立たしい空気を醸し出すのがわかる。お陰でそばにいる妖夢がオロオロし始めた。
しかし映姫の言葉に対し、紫は一切の否定を持てなかった。
悔しいが何もかも言うとおりだと思う、自分はいつ誰かの悲しみを生まないとも限らない歪な存在だ。
この世界に元々いる者から見れば、自分のような異物は排除されてしかるべきだろう、だがだからと言って黙ってそれに従うほど弱くもなかった。
「私はすでにこちらの世界で多くの繋がりを得ました。みんなを悲しませないためにも、ここで生きていきたいのですよ」
自分には愛する家族がいて、慕ってくれる友人もいる、自分がいなくなることは彼女たちを悲しませることだと紫はわかっているつもりだった。
その宣言に幽々子は嬉しそうに表情を緩め、映姫もまたとりたてて反論する気もないのかそれで話を切り上げた。
「用件も済みましたし、そろそろ御暇させていただきます」
「あら、そろそろお茶漬けでも勧めようかと思いましたのに」
「止めたほうが良いよ。この人、平気な顔でおかわりまで食ってくから」
「どういう意味ですかそれは」
幽々子の皮肉に部下まで悪乗りされ、嫌われ者だと自覚している映姫はそこまで恥知らずではないと小町を睨みつける。
しかしこの堅物の部下を続けているだけあって肝が据わっているようで、その程度の威圧など物ともせず死神はヘラヘラ笑っている。
仕方なく溜息を吐いた映姫は、最後に少しだけ紫に言い残した。
「罪を背負いながらもこちらで生きるというのならば、それを償えるよう前向きに生きることです」
そして映姫は小町を連れて帰っていく。
門前まで歩いたところで、小町の能力によって瞬間的に超距離を移動して、紫たちの前から忽然と姿を消した。
説教魔人がいなくなったとみて、姿を消していた萃香も分散した霧から再び萃まって姿を表した。
「相変わらず固いやつだね」
「一応励ましてるつもりなんでしょう」
「あれで?」
嫌な相手であることこの上なかったが、あの閻魔の性根が善性であることは紫は承知していた。
閻魔であること以外に自己表現することができない、壊滅的に不器用な性格というだけなのだ。
だから紫も嫌ってはいるが憎んだりなどはしていない。耳が痛かとろうと、本人のためにも軽く流してやることが一番だ。
「さてそれじゃあ改めて宴を始めましょうか」
紫が手を叩き音を鳴らして空気を入れ替える。
嫌なことを忘れて幽々子と萃香も笑みを深め、妖夢は粛々と宴会の準備を始めた。
「妖夢ー! 準備をお願いね。あっ、でも先にお茶のおかわりを」
「はいはい、わかりましたよ。ちょっと待っててください、この日のための良い茶葉があるんです」
「もうすぐ藍と橙も来るから遠慮なく準備に使ってあげてね」
白玉楼に笑い声がこだまする。これならこれからのことを考えて陰鬱な気持ちになっていた紫も気が紛れるというものだ。
この宴会が終わればすぐにでも冬眠に入る。冬眠と言ってもただ寝ているだけではない。
冬の間、自衛用の結界に包まれながら、自らの夢の中でこの一年の記憶の整理をしてバックアップの容量を減らす。
その作業こそが八雲紫にとっての冬眠なのだ。
◇ ◆ ◇
「これは削除――こっちも削除――」
冬の時期、冬眠しているはずの紫の意識は誰もいない夜の屋敷にあった。
庭ではまだ咲かないはずの桜の花びらが、開け放たれた縁側から舞い込んでくる。
今の紫は冬眠の真っ最中。紫は腕置きに体重を預けただらしない姿勢で机のお茶を時折口に運びながら、目の前に浮かんだ画面から削除候補のメモリーを順番に閲覧していた。
ここは夢を模倣した内面意識の精神空間だ、夢の性質を理解している紫は作業をするのに最適な環境を作ることができる。つまりは散っても花びらの減らない桜の木に、自分の家のレプリカ、いくらお茶を注いでも中身がなくならない急須。
これらの他にも欲しい道具や甘味を即座に作り出すことができる。味覚も含めて完全に再現できるため、住み心地だけは現実より良いだろう。ただ一緒にいてくれる家族と友人は虚しくて作る気にならないが。
ここで紫はここ一年の記憶の内、不必要と判断したメモリーを次々と削除していった。
外界のパソコン画面を模したインターフェイスに浮かび上がるのは、他愛ない日常の思い出。
作ってくれた料理に美味しいと伝えると嬉しそうに笑ってくれた藍、自分の手で作った木の人形を楽しそうに見せてくれる橙。自己を保つには必要のないそれを次々に切り捨てる。
「これも削除ね」
幽々子に驚かされた妖夢の叫びが、削除の一言だけで消去される。冬が開ければもう二度と思い出されない。
博麗大結界を記録媒体として利用したメモリーのバックアップだが、実際のところ何から何まで保存できるほど容量は大きくない。
一分一秒ごとに世界を感じ取る記憶は膨大であるし、昔から継承し続けている重要なメモリーにも容量を割かなければならない。
特に重要なメモリーに関しては妖魔本という形で別途に保存してあるが、それらからいちいち記憶を読み込んでいてはいざという時に咄嗟に対応できないし、なによりそれでは非常に疲れる。メモリーを脳に書き込むのだって相当な負担なのだ。
紫自身の精神と体力の消耗は、こちら側での活動期間を大幅に縮めてすぐに境界の隙間に引き戻されることに繋がる、記憶容量を増やそうとしてそれでは本末転倒だ。
結果として幻想郷のおこりや身の回りの環境や生い立ちなどは常に思い出せるよう大結界のバックアップ内に含められており、追加で保存できるメモリーはせいぜいが一年分程度。
些細な思い出とて大切ではあるが、生存のためには重要ではないのだ。
「この記憶は重要ね、圧縮して残しておかないと。とりあえずモノクロ化して画質を落として……っと」
画面が変わり、異変に関する記憶に移ると操作を変更する。
まず道具を作り出した。意識に応じて空間が泡立つとその下からパソコンのマウスが現れ、それを動かして手元のみの操作で記憶を変化させる。
映像となった思い出から一つの場面を切り取って画像のみに変え、そこから更に容量を減らすよう画質を落とす。
写り込んだ画面では、あの比那名居天子がギザギザの目立つ絵となって表示されていた。そこから更に印象的な空色の髪の毛を残して他は白黒に変化させ容量を極限まで減らす。
異変の首謀者たる彼女は今や幻想郷の重要人物だ、その姿形のメモリーは残す必要がある。
「今年の後半はこいつにだいぶ苦しめられたわね」
神経質そうに机を指で叩いて、湯気が立つお茶を啜る。
作業に適した環境と道具により滞りはないとは言え、延々と続く記憶の整理はどうしても苛立ってくる。
何より一人というのが辛い。冬が過ぎるくらいまでのあいだ、家族の顔を思い出の中でしか見れないのはやはり寂しい。それにその思い出も消していかないといけないのだ。
そんな中で見せられたのがこの憎らしい顔である、機嫌が悪くなりもする。
何故か夢の中にいる間は境界の隙間に引き込まれないのは安心できる点だが、それで独りの寂しさが慰められるわけではない。
「異変の概要は文章ログにして残せば十分ね。緋想の剣と比那名居家の能力で……」
今度は墨の乗った筆と紙を作り出すと、文字を書き連ね天子が起こした異変の記述を並べていく。
こうして文字だけの形態にするのが、最も記憶の容量を減らせるのだ。
異変のことについて記したら、今度は比那名居天子の情報をまとめていく。
成り上がりの天人、比那名居家の末裔、要石と気質を駆使して戦う、愛剣は緋想の剣、性格は傲慢だが根は前向きで諦めが悪い。
書き終わった紙は机の上を滑り、部屋の脇に置かれていた分厚い本の頁の隙間に吸い込まれた。
これは現実世界に博麗大結界ともリンクされており、ログ化されたメモリーが保存された。
「はい、それじゃ残りは削除と」
そうして落成式で乱入された天子の驚いた表情を削除したところで、メモリーの整理は再び日常の記憶に入り、また思い出を消していく。
いくつか文字で出来事を残しながら、途中で気になる記憶に突き当たり紫は手を止めた。
「これはどうしようかしら」
浮かんだ画面に手を伸ばし、ボタンを押すように画面を指で叩く。
すると残った思い出が画面上で動画として再生され、その時の音声が再現された。
『投我以桃、報之以李。私に桃を持ってくれば、李を持って許しましょう』
画面の中で、弾幕ごっこに敗北した比那名居天子が地に伏せるのが映りながら、自分の声が唱えられた。
天子と幾度かの対決のあとに伝えた言葉だ。
紫は天子を嫌いながらも、怒りでしか走ってこれない彼女にわずかながら同情していた。
だからそれ以外の道を歩くきっかけくらいは作ってあげようと、この言葉を投げかけたのだ。
しかしその後の天子の反応は芳しいものではなかった。
「……もう消してしまってもしいかしら」
あれからも天子は敵対を続け、この言葉が今更意味を持ってくれるとは思えない。
それに気にかけた相手が応えてくれない虚しさから、いっそ忘れてしまえば楽になるだろうとも思った。
誘惑にかられて削除と口にしようとする。。
しかしだ、記憶を失う苦労と悲しさを知っているのに、自ら望んで記憶を捨てるというのは、今まで自分の人生に反することではないか。
冬眠前に藍に尋ねてしまった疑問を思い出す。
何故自分に従ってくれるのかと聞いたあの一瞬に、藍が悲しんでいたのを紫は感じた、去年の記憶が残っていれば不安になって尋ねることもなかっただろうに、記憶が無いゆえに不安と疑念を抱き無遠慮に悲しみをばらまいた。
記憶を失う宿命から仕方なくそうしてしまうのはまだ良い、だが自分からそれを選んでしまうのはどうなのだろう。
思い出から逃げようとする紫だったが、意地が記憶を削除しようとする手の動きを止めた。
「……もう一年くらいは残しておきましょうか」
どうせワンシーンだけの短い記憶だ、残しておいてもそこまで容量は取らない。
画質や音声の劣化などの容量削減処理だけして、後は手付かずのまま次の思い出に作業を移した。
◇ ◆ ◇
冬になり紫が長い眠りについている間、橙は頻繁に家に帰るようになっていた。
寒さが増してきてマヨヒガのボロ屋敷では辛いというのもあるが、藍を一人にさせっぱなしというのは流石に橙としても心地が悪いのだ。
彼女が炬燵の中で丸くなっていると、念話で藍から簡単な命令が届いてきた。
「自分のもとに来てくれ」という内容だ。紫と藍くらいの妖怪になれば念話だけですべての会話を済ませられるのだが、橙はまだ未熟なために事前に用意された文章しか受信できない。
どうせまた用事を頼まれるんだろうなと思いながら橙は炬燵から抜け出すと、冷たい廊下を走って藍の部屋へと駆け込んだ。
「藍様ー、お呼びですかー?」
「ああ橙、来てくれてありがとう、でもちょっと待っておくれ」
机に向かって一心不乱にペンを動かしていた藍は、自分で自室に呼んだはずの橙に顔も向けずに答えた。
顔には集中して作業する時に用意した伊達眼鏡が掛けられており、ガラス板から見える謎の数式と格闘している。
これがプライベートでの藍の姿だった。いつも熱心に何かを研究していて、夢中になると他のことが疎かになってしまう。
紫が起きている間は手綱を取られているが、冬眠中はこうやって計算にのめり込んでばかりだ。
「すまない、ここだけやったら行くよ。今良いところなんだ」
「もう藍様ったらすぐ夢中になっちゃうんだから、早めにお願いしますね!」
「ははは、すまんね」
橙がちょっとだけ偉そうぶるのに藍は言い返せず苦笑を漏らす。
暇ができてしまった橙は、藍を待つあいだ部屋の中を見物してみることにした。
プラスチックと言うらしい素材で出来たパソコンとか言うモノや、名前も全くわからぬ実験器具の数々。
よく新しい機材を紫に頼んでいるらしく、今年も冬までに名前もわからぬ妙な物が増えた。藍が綺麗好き故に使わなくなったものは物置にしまって整頓されているが、それでも部屋の半分以上は物言わぬ機械たちが占領してしまっている。
その中で橙がとりわけ興味を惹かれたものがあった。つい先日そこに新しく置かれた物で、藍の手作りらしくこの部屋にある物としては珍しく木製だ。
四角い柱のようなそれは中がくり抜かれており、一面にだけガラスが取り付けられ中が見れるようになっていた。
この前見たときには中に何もなかったはずだが、今は内側から緋色の灯りが放たれていた。
「綺麗……」
炎のようにも思えるが、それとはまた違う優しい灯りだ。
これと似ているものはなんだろうと考えて、そういえば天子の使う緋想の剣と似ているなと思い当たった。
「気になるかい?」
いつのまにか書き物を終えた藍が後ろに立っていた。
緋色の光は藍の顔をほのかに照らしており、伊達眼鏡のガラス板に光が反射して目元を隠してしまっていた。
「藍様、これはなんですか?」
「時空間に対して垂直に気質を打ち込む装置さ。気質を境界の内部に潜り込ませ、反応を見ているんだ」
「境界……」
藍の言っていることは、つまりは紫が闇の底に眠る時の、あの暗い場所を探っているということだと橙にはわかった。
「――藍様、境界の向こう側は怖いですよ」
おぞましさに尻尾を逆立たせ、目を見開いた橙が低い声で言い放った。
「……そうか、お前は向こう側を覗いたことがあるんだったな。不用意で悪かった、だがこれは紫様に安全面で審査してもらってからやっている。大丈夫さ」
藍が手を伸ばし、橙の身体のこわばりを溶かすよう頭を撫でた。
優しく言い聞かされ少し落ち着いた橙だが、まだ緊張は取れていないようで不安を口にする。
「もし、これが原因で境界が乱れたらどうなりますか」
「下手をすればこれがきっかけで幻想郷の一つくらいは潰れるかもな」
「やっぱり……」
橙はもう一度緋色の輝きを見つめる。じっと緋色の灯りを眺めていると次第に不安が薄れてきた。
こんなに優しい輝きがそんな恐ろしい結果を引き起こすとは思えなかったのだ。
主の主が許可を出した以上は大丈夫なのだろう、汗ばんだ自分の手を開いて頭から感じる藍の手の心地よさに身を任せた。
「気質とは想いの力だ。想う力に時間も場所も関係ない、あらゆる境界を超えてそこに届く」
「なんだかロマンチックですねそれって」
「それに境界の内部にも気質は存在しているらしいからな、紫様がそうであるように向こう側にも心を持った何らかの存在がいるのだから当然だが。故に気質の性質を変換して向こうの世界に馴染みやすい形式にすれば、より境界に対して浸透しやすく」
「台無しです藍様……」
夢想に胸を躍らせ始めたところで、理論的な話に水をさされて橙は苦い顔をする。
「ところでこれ、天子の剣と似てますね」
「ああ、これは緋想の剣を参考に作ったものだからな。何度も紫様に突っかかってたからデータは取り放題だった」
「何であの剣なんですか?」
「気質の操作という点において、この世にあれ以上の宝具はないよ。あれこそは、紫様を滅するために、永い時間を掛けて天界が作り出した技術の結晶だ。まあ無意味だったんだが」
藍から侮蔑を含めて語られた言葉に橙は驚いて振り向いた。
その表紙に乗せていた手を弾かれた藍は、袖の下で両手を組ませて凛然と佇んでいる。
「滅する? 紫様を?」
「覚えておけ橙。どれだけあの方が誰かを愛そうと、紫様の存在がこの世界にとって危険な異物なのは事実なのだ。当然敵も多い、この幻想郷にも紫様に対抗しようとした者たちの末裔がいくつかいる」
橙にはその言葉はショックだった。紫に敵がいるということではない、他でもない藍の口からハッキリと『異物』と語られたことがだ。
紫が妖怪から見ても危険な存在だと、ありのままの厳しい現実を認めるには、まだ橙は幼すぎた。
困惑したまま続けざまに尋ねる。
「ねえ藍様、もしその人達が紫様を倒そうとしたら、どうしますか?」
「当然、紫様のために戦うまでさ。家族だからな」
藍はそんな幼稚な動揺を鮮やかに払ってみせた。
堂々と当然のように言われた言葉が心に染みて、橙の顔にようやく笑顔が浮かぶ。
大丈夫だ、藍様には紫様がいて、紫様には藍様がいる。そのことは橙にこれ以上ない安心感を与えた。
そして今はただのおまけにすぎない自分だが、その一員であることがとても喜ばしい。
「さあ、随分話し込んでしまったな。それでは研究の続きを……」
「の前に! 藍様の用事はなんですか?」
「おっとそうだったそうだった」
隙あらば机に向かおうとする尻尾を捕まえて、橙はもう一度面向かった。
「お使いに言ってきてくれるかな。これがメモな」
「もー、藍様ったら。最近私に押し付けてばっかりじゃないですか、結界の調整以外ずっと引き篭もってます。せっかく私も帰ってきたのにー」
「うっ……ご、ごめんよ。わかった、明日は一緒にどこか出かけよう! だから今日だけは頼むよ」
「わかりました、明日は絶対ですよ!」
膨れっ面をする橙だが、約束を取り付けられただけで上出来だと内心喜んでいた。
メモを受け取って軽い足取りで部屋を出て行く。
「それじゃあ藍様行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
元気のいい式神に手を降って見送った後、藍は一人になった部屋で、そっと眼鏡を外した。
「さて、ここのところ我が家の周りを嗅ぎ回っているやつがいるな。屋敷の結界に阻まれて来れないようだが……」
机の上にそっと置こうとしたが、つい力んだ手がレンズを囲むフレームを歪め、爪先が机に食い込んだ。
「研究を続けたいところだが、私達家族に害する鼠は誰だろうと排除する」
殺気立った眼を見開いて、藍がまだ見ぬ外敵に威嚇するかのごとく喉を鳴らした。
だがそれもこの部屋の中までだ、藍は自らの殺気を押し殺して気配を絶ると、先に出た橙の後に続いていった。
◇ ◆ ◇
橙は空を飛ぶのは寒いからと、雪の上を走って人里に向かっていた。
元々は猫から変化した妖怪であるし、二足歩行でも空より地上を走るほうが性に合う。
シャクシャクとテンポよく雪を踏み締めながら、かじかむ手を口元に寄せ息を当てた。
「うぅ~、寒い! 早く済ませて炬燵で温まろっと!」
お使いでは余ったお金のいくらかを自由に使っていいという取り決めがある、おまんじゅうでも買って炬燵でほっこりしながらおやつにしようと考えていた。
その時にはついでに明日の計画でも練ろうと思いながら木々の間を縫って行く――
「そこな化け猫。ちょっと待ちなさい」
どこからか聞こえてきた高圧的な声に橙は思わず立ち止まった。
驚いて周りを見渡した直後に、上空から巨大な岩石が降ってきて橙の目の前に轟音を立てて突き刺さった。
「うわぶっ!?」
跳ね除けられた雪を顔にかぶってしまい、冷たさに悲鳴を上げてしまう。
顔についた雪をはたき落として前を向くと、特徴的な注連縄のついた岩石と、その上に座った少女が瞳に映った。
「ひ、比那名居天子……」
上から見下ろしてくる人物に、橙は声を震わせた。
いつもいつも一家の長に敵意を向けてくるあの脅威が、今は自分の前にいるのだ。
無味乾燥な顔をした天子が、緋色の瞳でこちらを覗き込んでいる。
紫が相手では一蹴される天子だが、それでも橙から見れば相当な実力者には違いない。
黙ってこちらを見ているだけで威圧感がのしかかり、橙はたじろいで後ずさりした。
「八雲橙……じゃないんだっけ? ただの橙? どっちでもいいわ、あいつの家族には違いない」
「な、なんのよう!?」
警戒して声を荒立たせる橙に、天子は大した動揺もなく平然と口を開く。
「あんたに聞きたいことが――いや、もう一人来たか」
言葉を終えた直後、天子の背後の林から金色の閃光が疾走った。
凶悪な爪を立てて突っ込んできた脅威に、天子は振り向きもせず要石を作り出し、背中越しに受け止めさせた。
現れた何者かは不意打ちにもかかわらず防御され、舌打ちを鳴らして橙を庇うように場に割って入った。
「八雲藍か、丁度いいわ。どっちかって言えばあんたと話したかった」
予想通りと言うように天子はニヤついて、要石から飛び降りた。
橙を遮って立つのは白面金毛九尾の狐の勇猛な姿。
「藍様!」
「比那名居天子、私の可愛い式に手を出す気か」
藍は屋敷の周囲を探っているのが天子だということは予想していたが、橙を囮としただけでこうまで直接的な手段を取ってくるとは思わなかった。
ただ主に突っかかってくるだけなら構わないが、か弱い式神を狙おうというのなら藍とて容赦はしない。
敵意を剥き出しにして構えた手刀に妖気を集中させた。
「紫様に勝てないから、今度は橙を狙おうというわけか? 見下げたものだな」
まとった妖気が爪先から伸び、金色に輝く刀剣のような形を取る。
いざとなればスペルカードルールすら無視して殺しにかかって来る気だろう。
天子は冷静に説いた。
「違う。私は、話を聞きたいだけよ」
「ふん、信用できんな。敵意がないというのなら、その証を見せてみろ」
藍はできるものならやってみろと、挑発のつもりでそう言いのけた。
だが鼻を鳴らして仁王だつ九尾に、天子は何食わぬ顔で、懐から緋想の剣を取り出す。
気質の刀身が解かれて柄だけのそれを、天子は無造作に投げつけて藍に寄こした。
「これで、信じて貰える?」
思わぬ行動に、反射的に剣を受け取った藍はしばし硬直してしまった。
状況を受け止めきれず、疑惑の目で天子を睨みつけるしかなかったが、天子も一切動じず見つめ返してくる。
本当に敵意が一欠片も見えない。
その態度に藍が動揺していると、天子は更に自ら跪き、開いた手を上に両手を前に差し出した。
「それでも信じてもらえないなら、四肢を縛ってくれて結構」
――なんなのだこの覚悟は。
なりふり構わず武力と安全を差し出すというのは、壮絶な決意がなければ出来ないことだ。
藍だって天子のことは嫌いだ、彼女のせいで紫がいつも難儀しているのだから当然だ。
そんな相手に身を差し出せば嬲りものにされる可能性すらあるのに、それをわかって天子はこれをやっている。
「……いや、いい。無闇に疑った非礼を詫びよう。だが答えてやれるかはわからんぞ」
とは言え、あくまで藍は理性的に行動した。ここで感情的に天子を苦しませては、結果的に主の格が落ちるし、天子が持つ紫への恨みを加速させかねない。
妖気の刃を解き戦闘形態を解除する藍だが、あくまで橙をかばい警戒を怠らない。
「私が聞きたいことは一つよ」
天子はその程度のことは構わないと無視し、立ち上がると想いを口にした。
「どうして八雲紫は幻想郷を作ったのか」
主の核心に迫る質問に、藍たちには最大級の緊張が走った。
悲鳴が漏れそうになる橙を、藍が身振りで静止させる。
動揺が声に現れるのを必死に抑えながら、藍は慎重に言葉を選んだ。
「……それは妖怪が滅ぶのを防ぐためだ。消え行く妖怪を集め、生きられるように」
「それは名分でしょ、紫の目的はもっと別にあるはず」
藍は、もしや主の記憶に関する事柄を勘付いているのではと考えた。
だとしたら面白くない。この危険人物が、紫の弱点を知ってそれを悪用しないはずがない
いっそのこと、あらゆるリスクを看過してでも始末するべきかもしれない。
背後にやった手に、再び妖気を集めようとした。
「でもそれもきっと、本当の理由じゃない」
だが続けざまに語られた言葉に藍の妖気は霧散した。
その天子の評定は今まで見たことがないほど優しげで、紫の話をしているというのに彼女に対する敵意がない。
藍の背後で守られる橙も、その声を聴くだけで不思議と気持ちが静まり震えが止まっていた。
まるでこの幻想郷を作った紫を尊敬するかのように、澄んだ声で謳い上げた。
「私が思うにこの幻想郷は無駄な要素が多すぎる。まったくもって効率的じゃなくて、何か目的があるなら今の幻想郷の形態じゃなくてよかった気がするのよ。それなのに紫は非効率なこの方法を選んだ。目的なんてどうでもいい、その理由を私は知りたい」
今までの天子とは何かが決定的に違う雰囲気だ、今の彼女は敵意を無くして歩み寄ろうとしている。
藍はとうとう闘志を静め、肩の力を抜いた。
今の彼女にならそこまでの警戒はいらないと感じたのだ。
そうは思っても当然ながら紫の弱点をありのまま伝えるつもりはない。あくまで断片的に、しかしずっと傍にいた家族として確かな考えを藍は口にした。
「それは、紫様が誰かのために悲しめる方だからだ」
それが藍のありのままの感想だった。
事情を知らぬものから聞けば意味の分からない言葉だろうに、それを聞いた天子は瞳を閉じて神妙な顔をして頷いた。
「……そう」
何か得心した天子は、面を上げると藍に歩み寄ってきた。
つい驚いて身構える藍に、無造作に手の平を伸ばす。
「もう良いわ、剣を返して」
「あ、あぁ……」
藍は言われた通りに、緋想の剣を天子に渡した。
帰ろうとする天子だが、九つの尻尾の後ろから橙が覗き込んできていることに気が付いた。
「ああそうだ、一応あんたにも聞いてみなきゃね。橙はどうしてだと思うの?」
情報は多いほど良いと、ついでに橙にも同じ内容を尋ねてみる。
さっきの様子じゃあまりいい答えは返って来ないかと思っていた天子だったが、予想に反して橙は至極冷静に話し始めた。
「紫様は……いっぱい怖いことを知ってる方だと思うんです。だから優しいんです。普通の人にも妖怪にも見えないアレを見て、それでも優しくできる紫様を私は尊敬してます」
一瞬、橙の眼に恐ろしいものが映ったような気がして、天子はゾッとして肝が冷えた。
橙自身が恐ろしいのではない、彼女と紫が見たという何かがそれほどまで恐ろしいのだ。
その正体が何なのか、強烈に心を惹かれたが、それについて教えてもらえるとは思えなかった。
恐怖は口を固くする。無理矢理言葉でこじ開けようとすれば、頑なになるだけだろう。
ここまで聞けただけで十分な成果だと結論づけ、天子は振り返って大地に突き刺さった要石の傍で佇んだ。
「用は済んだ、礼を言うわ。私はしばらくここにいたいからどこへでも行きなさいな」
「そうか。では私達も忙しいので失礼するよ。行こう橙」
「は、はい、藍様」
藍は礼を言う態度ではないなと思ったが、そこにとやかく言ったところで良いことがあるわけでもないので、それ以上は言わずに橙を連れて人里の方へ去っていった。
「ところで藍様、いやにタイミングぴったりだったけどどうしてですか?」
「いやー、それはそのだな」
「もしかして私、何も知らされずに餌役やらされてました?」
「いやな、そういうわけじゃなくてだな」
「私、今日は色んなお店に回りたいなー」
「……す、すまなかった。今日はこれから付き合うから」
「明日もですよ! 約束、忘れてませんからね!」
和気藹々とした声が天使の耳に届いたが、それも徐々に遠ざかっていく。
残された天の少女は、要石を向かい合って突っ立ったまま押し黙っていた。
冷たい空気が木々の間を流れて天子の頬を撫でる。静かに吐いた息が白く煙るのを見開かれていた眼でしっかりと見ていた。
雲がゆっくりと流れる下で一刻は過ぎた頃、拳を握り、震わせた。
「――――うわあああああああああああああああああああ!!!」
突如として叫び声を上げた天子が、要石に鉄拳を叩きつけた。
渾身の力を叩き込まれ、堅牢なはずの要石が粉々に砕き散らされる。
ガラガラと音を立て、粉塵が巻き上がる前で天子は怒鳴り散らした。
「できるって言うのかあんたは!? 許せるって言うのか!? よりにもよってあんたみたいなやつが、この世界の異物なんて忌み嫌われるあんたが! 怒りも憎しみも捨てられるっていうのか!!」
狂乱して口走った無念が誰もいない雪景色に吸い込まれる。
石の残骸の前でそれでも足りず、膝を突いて雪に両の拳を叩く。
地面を向いてうずくまったままこれでもかと口を開けた叫んだ。
「いいわよ許してみなさいよ! 私に見せつけてみなさいよ! もし許せるなら、許せたならその時は!!」
いつかの未来を想像し、顔を上げた天子の頬は、大粒の涙で濡れていた。
「――私も、救われる」
長い時を生きた超人の言葉でなく、幼い少女の嘆きは誰にも聞こえることはなかった。
◇ ◆ ◇
冬が明け桜が咲き誇る心地よい春に、ようやく紫が目を覚ました。
途中で地底で異変が起きたことで叩き起こされたりしてしまったが、今回もメモリーの整理は無事に完了した。
ずっと寝ていて血の巡らない身体を重たいと感じながらも起き上がらせて、窓の外を覗いてみればそこには夢でない本物の桜が咲いている。
紫の起床とともに冬眠用の結界が解除されたのを有能な式神がすぐさま察知して、窓から外の風景を眺めていた紫の背後に現れた。
「おはようございます紫様」
「おふぁよぉ、らん……ふわあ」
眠い目をこする紫に藍が「これをどうぞ」と蒸した手ぬぐいを渡してくれた。
藍は急いでお風呂を沸かし、紫が湯浴びをしているあいだに、長期間なにも食べずにいた寝ていた主のために多めの朝食を作った。
お風呂から上がった紫がざっと四人分はある朝ごはんを食べ終え、湯飲みを手に一服していると、藍が一枚の封筒を取り出した。
「紫様、起きてすぐにで悪いですが、手紙を預かっていますよ」
「手紙? 私に?」
藍から手渡されたそれを手に取ると、封筒には歪んだ文字で「果たし状」と書かれていた。
「……なにこれ」
「とにかく読んでみてください」
すでに嫌な予感がしてならないが、藍に促され仕方なく中を見ると、震えた字が並んでいた。
拝啓、八雲紫様。
決着を付けたいと思います。
夕方、霧の湖に来てください。
――――比那名居天子より。
「うへぇ」
面倒臭さが露骨に口に出た。
穏やかな食後の余韻がぶち壊されて、紫は顔をしかめて手紙を放ると、紙は机の上を滑るように遠くへ離れた。
「行きませんか?」
「行かないわよ、寝起きで機嫌が悪いのに付き合ってられないわ」
すでに記憶の大幅な削除が完了し、天子に関する思い出のほとんどは消去されていたが、記憶を失ってもその人物に対する感情は残るのだ。
だから何度記憶を失っても紫は家族の藍に安心を感じるし、度々人の機嫌を邪魔立てしてきたらしい愚か者には嫌悪感を覚える。
「そもそも私は天人が嫌いなの、知ってるでしょう?」
「ええ、そうですね」
「いつもいつも寄ってたかって私の事いじめてきて。まあほとんど覚えてないんだけど」
去年の行動ログによればさんざん勝負を挑んできたらしい天子に対してもそうだが、元々紫は天人全体に対して恨みを抱いている。
そもそも何故いつも向こうから挑まれるのに、好き好んでこちらから戦いに出向かなければならないのか。
それにこの手紙のみみずがのたくったかのような文字はなんだろう。
怒りを思い出して手を震わせたりしたのだろうか、まさかこの字があの天人の腕前とかなら笑えそうだが、下手すぎるし逆に絶句するかもしれない。
「大体これには日付も時刻も書いてないじゃない」
「必要ないのでしょう、天子はいつも待っていますから」
馬鹿らしいと一蹴しようとした紫だが、藍の言葉を聞いて思いとどまった。
「待ってるって、どういうこと?」
「手紙は私も拝見しました。天子はこれを私に渡した日から、毎日夕暮れ時には湖でじっとあなたを待っています。かれこれ二ヶ月ほどになりますかね」
明かされた事実にはさしもの紫も驚いた、あの止まったら心が死んでしまいそうな娘が二ヶ月も同じ場所に来ているなんて。
単なる執着、というには真面目過ぎる気がする。
紫が知っている天子とは何かが違うような。
「いつ紫様が起きても良いように、いつ気が変わって良いように、三時間は丘の上で待ち続けています。きっと今後も、紫様が現れるまで続けるでしょう」
そこまでされては紫も無下には扱えなかった。
部屋の壁に掛けられた時計を仰ぎ見る。現時刻は午後四時、話が本当ならそろそろ待っている頃だろう。
机の端の手紙に浮かぶ汚い字を眺める紫は、思い悩みながらお茶を飲み干すと、諦めてため息を吐いて立ち上がる。
「出るわよ藍。一応あなたも着いてきなさい」
「御意」
天子も一応は幻想郷の一員であるしと思い、わがままに付き合う慈悲を持って紫は霧の湖へとスキマを開く。
この選択には『決着を付ける』という言葉がわずかに引っ掛かったのもあった。
天子が何か自分を倒す策を思いついたのか、それとも秘密兵器でも用意しているのか。
そんなところに向かおうなんて、自分のことながら馬鹿らしいなと思った。
「らしくもない気遣いかしらね」
「らしいと思いますよ」
「……おだまりっ」
「いだっ」
呟きに返されて、つい紫は藍の額を指で弾いた。
◇ ◆ ◇
夕暮れ時、昼と夜が曖昧になる不思議な時間。
西の空が世界を紅く照らす中、肩から鞄を提げた天子は要石に腰掛けて、手元の竿から湖に垂らした糸をじっと見つめていた。
黙って待ち続ける彼女の隣には、衣玖がお供としてふよふよ浮かんでいる。
当然ながら魚がかかるのを待っているわけではない、そもそも釣り針には餌もついていないし、針も真っ直ぐで魚がかかるような作りでもなかった。
しかして太公望の真似事というわけでもない。
紫を待つあいだ暇を潰したいが、あまり他のことに夢中になって心を乱すようなことをしたくないと考え、釣れない釣りという非生産的な遊びを続けていた。
つまらないのに特に不満を表すでもなく、天子はただ心を押し殺したような無表情だ。
「……あんたもさ、こんなつまらないことによく付き合うわね」
ふと天子が視線を変えないままに話しかけた。
少々無礼な物言いに、衣玖は温和な笑みを浮かべて返す。
「そうつまらなくはないですよ。何をするでもなく雲の中を漂っていた時よりも、あなたを見守るほうが楽しいです」
「……ありがと、衣玖」
ぶっきらぼうにだがお礼を言ってくれた天子に、衣玖は嬉しくも照れ臭そうに苦笑した。
いつもならこのまま大した会話もないまま日が暮れるまで待ち続けるのだが、二ヶ月を超えてとうとう変化が起きた。
二人の背後で空間が乱れる、境界が操られここではないどこかと繋がる。
そこから現れた者の気配を感じ取り、天子は緊張した面持ちで顔を上げた。
「総領娘様」
「……うん」
硬い声色で頷いた天子は、鞄を確認するように手で押さえて要石から降りると振り返った。
そこにいたのはあまりに強いおぞましい陰の気。この幻想郷の実質的な頭である八雲紫が、式神を連れて異空間から這い出てくる。
天子が望んだ待ち人がついに姿を現したのだ。
「ごきげんよう……さて、改まってなんのようかしら不良天人さん?」
一応は来たものの、紫の態度はいつもより辛辣である。なんせ長いメモリーの整理が終わったばかりでまだ神経質なのだ。
強い物言いに天子は一瞬怖じ気づくが、奥歯を噛み締めて紫の前に踏み出した。
近くまで寄ってきた天子は、身長の高い紫を見上げたまま、硬い表情でスカートの裾を握りしめている。
「……?」
戦闘になるのかと思いきや、何もしてこない天子に紫は疑問を浮かべる。
それなのに天子を取り巻く空気だけはいやに鋭く尖っていく。
動かない状況に面向かった二人の間で緊張感だけが高まっていき、とうとう天子が後ろ腰に手を回して鞄に挿し込んだ。
とうとう仕掛けてくるかと覚悟を決める紫に、天子からあるものが差し出された。
「……えっ?」
天子の手に握られていたのは、一つの桃だった。
まるで敵意の感じられない行動に紫が呆気にとられていると、天子は顔全体をこれ以上ないくらいに歪めて、閉じた目の端から大粒の涙を流して濁った声を上げた。
「ご、ごめん、なざ……ごめんなさいっ!」
予想だにしなかった言葉に、紫はただただ目を丸くして固まるしかなかった。
意味がすぐには飲み込めず、天子の背後で浮かんでいる竜宮の使いに目をやると、童を見守るようなにこやかな笑みで返されて、ようやく事態を飲み込む。
確かに「投我以桃、報之以李」と言ったのは紫自身だ、だがもはや天子から本当に謝ってもらえると期待はしていなかったはずだ。
それがこうして天子は自分から頭を下げている。
頭で理解しても未だに信じがたく、付き添っていた藍を振り返ってみれば、何かを促すように頷かれた。冬眠中に何があったか知らないが、どうやら彼女には予想通りだったらしい。
紫はほんの少しだけどうするか悩んだ。今までさんざん喧嘩を売られてきて、桃の一つで許すのは虫がよすぎるんじゃないかと意地の悪い考えが浮かぶ。
だが最初に許してもいいと言ったのは自分であるし、それになによりも、この少女の精一杯の気持ちを受け取ってあげたいと思った。
泣くほどの気持ちを、誰にも受け取ってもらえないのは悲しすぎる。
「……そんなに強く握っては桃が可哀想よ」
左手を伸ばした紫は、指が食い込んだ桃でなく、まず天子の帽子を左手で持ち上げた。
下からあらわになった頭を右手で優しく撫で、泣いて怖がる天子を落ち着ける。
眉間の皺を解いて瞼を開けた天子は、少し困惑したように自分に触れる紫の腕を見上げた。
肌を通してお互いの温かさが伝わり合う。手の平から感じる動きに、天子の身体が驚くほどに強張っているのがわかって、あまりの緊張ぶりに紫は不憫に思う。
頭においていた右手を下ろし指先で天子の涙を拭ってあげると、歪んでしまった桃を手に取ってほほ笑みを浮かべてみせた。
「あなたの気持ちは受け取ったわ、宜しければ私のもお願い」
紫は桃の代わりに、天子の帽子を差し出した。
「これからは仲良くしてね?」
それを聞いた天子は、泣き顔をさらにクシャクシャにして、涙で一杯の目元を腕で隠しながら帽子を受け取った。
「………………うん」
その記憶は、紫の大切なメモリーの一つとして丁寧にしまわれた。
天子と出会ってから冬が来るまでの記憶はそのほとんどを喪ってしまったが、この時に感じた想いは色褪せることなく残ることとなる。
永遠に――――
◇ ◆ ◇
桃の一件の後、紫は比那名居天子のことをある程度は友好的な相手だと認識し、また気にかけてあげるべき住人の一人だと思うようになった。
時たまスキマから天子の様子を覗き見て、暇そうならコンタクトを取ってみた。管理者として天子の能力は危険であったから取り入れそうならそうすべきという判断もあったし、あの涙を流しながらでも謝ろうとした気持ちに報いたかった。
誰であれ謝って自らの非を認めるのは否なものだ、天子のようにプライドが高いものであれば特に強い苦痛を感じるだろう。
それでも頭を下げた天子を、紫は認めていた。
「あっ、紫……」
現れた紫に天子は戸惑いを漏らす。
いたたまれなさそうに視線を逸らし、もう一度紫を見て、また逸らす。
「えっと……こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。何をしていたの?」
「何って、暇してただけよ。あんただっていつもの盗み見でそのくらいわかってんでしょ……って、ごめん」
また以前のような威圧的な言葉を取ろうとして、咄嗟に天子が頭を下げる。
「謝らなくても良いわ。私も暇だし、少し話していってもいいかしら」
「……別に、良いけど。私なんかでいいの?」
「もちろんよ」
最初はそんな風に恐る恐る触れ合うようなコミュニケーションだった。
出会うなり戦いということはなくなり、興が乗れば弾幕ごっこを楽しむことがあったが、それ以外にも囲碁や将棋などのボードゲームやお酒の飲み比べなど、その時の気分で幅広い遊びを選んだ。
態度を軟化させた天子との交友は、紫にとってそう嫌なものではなかった。
お互いのことを話しながら一緒に釣りをしたりもした。釣り針はちゃんと曲がっているものを使い、釣れたものを二人で串焼きにして一緒に食べた。
「天人なのに魚なんて食べていいのかしら?」
「別に悟りの境地なんて目指してないし。この大地に根付いた命をしっかり食べて、そのぶんこの地上で遊んで色んなやつとか関わって、私の想いを遺すのよ」
「……そう、意外としっかりした考えじゃない」
「う、うるさい、そんなんじゃないわよ」
幼さを保ちながら、一方で自分なりの哲学を持っている、そんな天子の性質に触れるのは面白かった。
そうして紫は時間を掛けて天子と交友を温めた。
途中冬眠を挟み記憶の大幅な削除があっても、天子に対しての好意は少しずつ積み上げられて行った。
そうして思い出を積み重ねて、桃を受け取ったあの日から数年の月日が経った。
「……白味噌なのね」
ある春先の朝食の席で、紫が手に持ったお椀に注がれた味噌汁を残念そうに言う。
暗い声に向かい側で並んで座っていた藍と橙が、一家の長の顔を覗き込んできた。
「お嫌いでしたか?」
「嫌いとまでは言わないけど、あまり好きじゃないわね。たまにはいいけど、あまり何度も食べたくはないわ」
「あれ? 去年までの紫様は白味噌大好きでしたよー?」
「そうだったかしら?」
記憶を探ろうにも、そんな瑣末なことにバックアップの容量を割いておらず、好き嫌いなど冬眠明けに喪失してしまっている。
思い出せないことを考えても仕方ない、重要なのは現在の紫がどう感じているかだ。
「では今年は白味噌以外を試してみますね」
「ありがとうね」
「いえいえ、それより冷めないうちにいただきましょう」
藍の言葉にまず紫が頷いて、両手を合わせていただきますと口にした。
そして藍と橙と、もう一人、合わせて三人がそれに続いた。
「それにしてもありがとうございます、天子様の分だけでなく、私までご馳走になってしまって」
「いやいやいいさ、気にすることはない」
「ええそうよ。招いた以上は天子だけでなくあなたも客人、存分にもてなされてくださいな」
控えめな主張をしてきた衣玖は紫の隣から少し離れた位置に正座したまま「それではありがたく」と礼を返し、香りの立つ焼き魚に舌鼓を打つ。
永江衣玖、去年以前の記憶はほとんど消去したので彼女との思い出は皆無だが、性格などのプロファイルについては圧縮されたデータに保存している。
紫は客人が満足しているのを確認すると、視線をずらして紫と衣玖のあいだにある五人目の席を見た。
「その天子はまだ寝てるようね」
「昨日は随分と酔っていましたからね、でもそろそろ……おっと、来ましたよ」
廊下からドタドタと思い足音がなり、四人が朝食を食べていた居間の襖が引かれた。
そこにいた天子は、げっそりとした表情で乱れた髪を垂らし、倒れ込むように部屋に入ってくる。
「うぅぅ、いく水ぅ……」
「はいはい、どうぞ」
これを見越して事前に用意していたコップを衣玖は天子に手渡す。
天子は震える手でなんとかコップを掴んで、注がれていた水を喉の奥に流し込んだ。
水の冷たさに蔓延する二日酔いの毒気をわずかに拭い、早速天子はご飯を食べている紫に突っかかる。
「このインチキババア! 昨日終わりかけで気づいたけど、飲み勝負であんた水飲んでたでしょ!?」
「あーら、なんのことかしら?」
向かい側にいる橙は天子の二日酔いとは思えない声量にしかめっ面で睨めつけてきたが、耳元で怒鳴られても紫は平然と箸を進めていた。
「それを言うならあなたが持ってきたお酒だって、妖怪特攻の毒酒じゃない」
「ぐぬっ、なんでバレてるのよ」
「あんなの蓋開けた瞬間に臭いでわかるわよ」
「妖怪には脳に痺れるくらい良い匂いでしたからねぇ。あれを天子様が持ってくればそりゃあ警戒されますよ」
指摘されて天子が重い頭を俯かせるのを見て、紫の脳裏には慰めるか更に弄るかの選択肢が浮かび、迷わず追撃を選んだ。
「昨日は大変だったのよ。天子ったら顔真っ赤にして私に抱きついてきて、ゆかりといっしょにねるんだー! って離れなくて」
「ええっ!? う、嘘よ、そんなことしてないわよ!」
「してましたわ、ねえ衣玖さん?」
「ええ、引き剥がすのに苦労しましたね紫さん」
わざとらしく小芝居する友人と部下の前で、天子は耳まで真っ赤になって絶句し、帽子を下げて顔を隠そうとする。
「ぐぐぐ、比那名居天子一生の不覚だわ。紫に弱みを握られるなんて……」
「安心なさい天子、あなたの弱みなんて写真付きで何十個も妖魔本にファイルしてるから、今更一つ増えた程度じゃ変わりないわ」
「焼き捨てろそんなもん! うぅ、頭痛い……」
恥ずかしがりながら吐き捨てる天子を見て、紫は満足げに笑い声を上げた。
なんだかんだで、天子からもけっこうな親愛を示してくれるのだ。だからこそ普段の小競り合いも楽しく突っつきあえる。
「そういえば衣玖。あなたは天子様って呼んでるけど、前からその呼び方だったかしら?」
「いえ、今年になってからですよ。何故か元から従者と間違われることが多かったのですし、正式に比那名居家に仕えることになりました。この前、従者の会なんてのにもお呼ばれされて、料理の仕方とか教えてもらいましたよ。妖夢さんが作ってくれたおはぎが美味しかったです」
「なにそれ私知らない、面白そうずるい……」
以外な衣玖の人脈に天子が死にそうな声で妬ましさを口にする。
「ふふふ、従者の会、略して従者会は主禁制だからな。残念だが天子は来られないぞ」
「藍様、一文字しか略せてませんそれ」
普段のしっかりした姿とは違ってボケたことを言う藍に、これが自分の仕事だと言わんばかりに橙が突っ込む。
いつもの天子ならこれにもまだ突っかかるところなのだが、調子が悪くて項垂れるしかないようだ。
寝起きの二日酔いと相まって苦しむ天子を見て、紫はしょうがないな苦笑した。
「ほら、いつまでも情けない顔してないの」
こうなる気がしていたので、事前に用意していた濡れタオルをスキマから取り出して、天子の顔に近づけた。
驚いて顔を上げた天子から目やにを拭う。
「朝なんだからシャキっとしなさいな」
「わ、わかってるわよもう。自分で拭けるわ、貸しなさいよ」
世話をされることに恥ずかしがった天子が、紫からタオルを奪ってむくんだ顔に押し当てる。
「ならけっこう。せっかくの藍が作ってくれたご飯よ。ちゃんと身だしなみを整えて、落ち着いて味わいなさい」
「白味噌に文句をつけられる程度の料理ですがね」
「うるさいわ。以外に根に持つわねあなた」
「紫様の式神ですので」
「どういう意味なのかしらそれ」
紫が小言の減らない家族に黙っていろと睨みつけていると、天子はタオルを鼻先にまで下げて上目遣いで見つめてきた。
「……ありがと、紫」
「……どういたしまして」
二人はお互いに相手のことを騙くらかして、隙あらば優位に立とうと争って。
それでもこうやって気を許し、穏やかなときを過ごすことのできる良き友人となっていた。
朝食も終わり、客人は「二日酔いをさっぱりさせたいから銭湯に行ってくる」と言いだした。天子らしい忙しなさだ。
「ありがとうございました。ほら、天子様も」
「わかってるわよ。ありがとね藍、朝ごはん美味しかったわ……それから紫! 次会った時は覚悟なさいよ!」
「はあー……どうしてこう素直じゃないですか」
不遜な態度にため息をつく衣玖だったが、天子の態度は謝る以前のものと違って棘がなく、この不遜さも気の知れあった仲だからこそ見せる態度だ。
それをわかっているからこそ、紫も腹を立てたりせず指を突きつけてくる天子にやんわりとした笑みで手を振る。
「そっちこそ次の負け惜しみを考えておきなさい。それともうすぐ白玉楼で宴会があるけど来る?」
「行く! それじゃ!」
「それでは失礼します」
「またね、ふたりとも」
出て行く二人を見送ったあとで、紫は居間に戻りお茶をすすり改めて余韻に浸っていた。
目を閉じて、天子との時間を思い出す。
冬が開けてから最初の邂逅、記憶の殆どをロストしてから初めて会った天子との一日半。
「ああ、楽しかったわね」
天子と直接触れ合った過去の記憶は僅かな思い出だけしかなかったが、冬眠より目覚めてから彼女のことを思い浮かべて、猛烈に会いたいという欲求に駆られたのだ。
記憶にはない、しかし確かに残った天子への想い、好意。それに押されて、昨日は天子のもとに駆け寄ってしまった。
ほんの少しだけ残った思い出と文章ログ化された情報だけでどこまで付き合えるか不安だったが、ちゃんと友達として一緒に過ごすことが出来て良かった。
「それにしても天子とここまで仲が良くなるとは思いませんでしたね。最初は敵意ばかりで話にならなさそうでしたが」
「そうだったらしいわね。今の天子だけ見てると考えられないけど」
「おや、あまり覚えてませんか」
「えぇ、その時期の記憶は全部消しちゃったわ」
天子と険悪な仲だったころの記憶の大半は、桃を手に謝ってもらえた直前の冬眠時に削除してしまっていた。
すでに紫にとって当時の思い出は霞の向こうに消えてしまったどころか、手の伸ばしようのない暗黒の奈落に零し落としたようなものだ。
話を聞くにろくでもないだろうに当時の天子はどんな人だったのかと気になり、自ら選んで削除したことを今更ながらもどかしく感じてしまう。
「その時はどんな風だった?」
「天子の方からなんども戦いを挑まれての連続でしたね」
「それだったら多分だけど今も同じだわ。昨日もね、会うなり勝負しろーって言ってきて、どうもライバル視されてるみたいで頻繁に挑んできてるらしいわ」
「今とはまとっている空気がだいぶ違いますよ。その頃の天子は紫様への敵意に溢れていて、紫様も会うたびにイライラしてました」
「へぇー、妙な話ね」
今の天子とあまりにも釣り合わない内容に、少しばかり違和感を覚えた。
落成式を台無しにしたことのログは残っているので、そのことで天子が恨みを持っていたのはわかる。
だがそれだけのことで敵意を振りまくほど、天子の器量が浅いとは思えないのだ。
謝ってくれた時のメモリーを思い出して、紫が出した結論がそれだった。
「でも幽々子様はこうなることを予見していたようでしたがね」
「うふふ、幽々子だもの」
「まったく、こっちはずっと一緒に住んでるのに敵いませんよ」
おそらくは、世界で一番紫のことをわかっているのが幽々子だろう。
彼女は亡霊となって以来ずっと紫のことを見ているが、その熱心さは家族と友人の垣根もやすやすと超えている。
「ただ、今の彼女との関係も少しねえ……」
「何か問題でも?」
「私は、天子のことを許したとなっているわけだけど、その時の私は天子のことをほとんど覚えていなかったわけじゃない? それなのに許されたと思って安心してる天子を見ると、罪悪感がね」
天子には自分が記憶を定期的に喪うことは説明していない。自分の最重要の秘密であり、そう簡単に教えて良いことではない。
この秘密を知っているのは家族である藍と橙の他には、幽々子と魂魄家、それと萃香だけだ。
立場を考えればこれ以上秘密を漏らす訳にはいかない、天子とはこのことを打ち明けずに付き合っていくべきだ。
しかしこれからもずっと天子を騙して行かなければならないと思うと、自分のほうが辛くなってしまう。
「言っちゃえば良いんじゃないですか?」
紫が声の方を見ると、机を挟んだ向かい側で寝転んでいた橙が黒い猫耳を揺らして起き上がっていた。
「だって元々知ってる幽々子様たちならともかく、萃香さんにだって教えてるじゃないですか」
「萃香は……一度彼女を怒らせちゃったことがあって、そのお詫びで一つ秘密を教えることになったからよ」
「でもその萃香さんより仲良くなってるしぃー」
「……そ、そんなに仲良さそう?」
「はい」
断言されて何故か頬が熱くなった。
「だって去年も萃香さんがうちに来たのなんて数回だけだったのに、天子たちは一ヶ月に一回くらいは泊りがけで飲んでるし。天子が衣玖さんも一緒じゃないとヤダって言ったら一緒に連れてきちゃうし、天子のわがままなら何だかんだ言って聞いちゃってるじゃないですか」
「そ、そうだったかしらー。おほほ」
照れくさくなってきて、咄嗟にスキマから扇子を取り出して口元を隠す。
昨日会った時はつい自然と家に招いてしまったが、前からそうだったとは。
とりあえず今後は天子を招待するのは控えようと決意する。
「藍様もそう思いませんか? もう天子にも教えちゃえばいいのにって」
「……私からは何も言いませんよ。ただ紫様の思うようにすれば宜しいかと」
藍はしげしげと頭を垂れそう言い切るのを見て、橙はむうと口をすぼめた。
藍自身も何か言いたいことがあるだろうに、あえてそれを封印して、紫に従うことを徹している。
「ただ言わせてもらうならば、今の中途半端な関係を続けていればどこかで歪が生じるでしょう。正直に話すか、潔く関係を断つか、どちらか選ぶべきだとだけは申し上げます」
「それは……そうかもね」
このまま交友関係を持ったまま騙し続けるというのは難しいだろう、負い目からどうしても態度がよそよそしくなり、そうすれば勘付かれる可能性があり、可能性があれば長い時間を共に過ごすうちにいつか必ず起こり得る。
隠し事をしていて、打ち明ける前にバレるというのが最悪のパターンだ。
「藍様ったら言うこときつすぎません?」
「きつくても選択は必要なことだ、紫様の環境に限らず中途半端は何でもダメさ」
「藍の言うとおりかもね……近いうちに決めましょうか」
紫の返答に、橙は嫌な予感が走った。
なにせ家族から見ても、紫は面倒くさい重荷を背負った面倒くさい性格の面倒くさい妖怪なのだ。
こと天子に関しても面倒くさい方向に走ってドツボにハマる気がする。
どう見ても紫と天子は大がつく仲良し、縁を切ろうとしたところで全てが済むはずがない、絶対に話しが拗れて後味の悪いものを残すことだろう。
藍様もそう言ってくれればいいのにと思うが、これ以上は何も言ってくれないだろう。
どうすればいいだろうかと首と尻尾を傾ける橙であったが、突如として閃いて尻尾をピンと天井に立てた。
そうだこれだこれしかない、が自分がそこまででしゃばってしまっていいのだろうか。否さ、いまいち奥手な一家の長のことを考えるとこれくらいは必要である。
ここは八雲家秘の蔵っ子たる自分の出番だと、橙は「くっふっふ」と笑いを漏らしていた。
◇ ◆ ◇
博麗霊夢は巫女である。
巫女の仕事とは、異変が起こったら適当に解決すること、妖怪が人里の人間に手を出してきたらボコボコにすること、あと幻想郷の規律を守ること、そのくらいだ。
つまり巫女の仕事は常に後手であり、基本暇な職業なのだ。他の神社の巫女はどうか知らないが、とにかく霊夢の場合はそうだ。
普通ならお金に困るところだが、巫女の存在は幻想郷にとって必要なので、食べる分に関しては困らないよう常時現物支給されている、つまり普段は働かなくても食っていけるのだ。ビバ巫女。
まあお金がないと嗜好品も買えないのが辛いところだが、幸いたまーに人里から依頼される仕事で溜めたわずかなお小遣いはあるし、知り合いからぶんどった茶葉とお酒もあるので今のところはそこまで貧窮してない。
せめて参拝客でも来たらもうちょっと忙しくなるのだが、いざという時にはここの巫女が一番頼りになるものの、幻想郷の東端という立地からして交通は不便であり、平時に普通の人間はほとんど誰も来ない。
というわけで、今日も霊夢はのんびりと、これが幻想郷の巫女スタイルだと縁側でお茶でも飲んでいた。
しかしながら、だからといって霊夢の日常が常に退屈だけというわけではない。
「やっほー、霊夢来てあげたわよ」
「こんにちは霊夢さん、お邪魔します」
「邪魔するなら帰って」
「だってさ衣玖」
「あんたに言ってんのよあんたに」
しれっと後ろの衣玖に話を逸らす天子を、霊夢がジロリと睨みつけた。
裏表がなく清々しい強さを持った霊夢は、同じく強い力を持った妖怪や神などといった者から好かれやすい。
そのため、こんな風に霊夢のもとには定期的に知り合いが尋ねてくるのだった。
霊夢自身はとくにありがたがることもなくむしろ迷惑に感じているのだが、逆にその素っ気なさが他者を惹きつけるのだ。
「参拝に来たなら素敵なお賽銭箱はあちらよ」
「残念、参拝じゃなくて寄り道でした。旧地獄上の温泉に行こうって思ってね。霊夢も来る?」
「いいわよ朝っぱらから、面倒だし」
「ものぐさね、というか無欲よねあんたって」
そこまで言って天子は背伸びすると、開かれた縁側から神社の奥を覗き見た。
よくわからない行動に、霊夢は何やってるんだこいつはと訝しむ。
「そういえば、今日は魔理沙のやついないの?」
「……なんでいの一番に出る疑問がそれなのよ」
げんなりする霊夢だが、その疑念の理由がわかってしまうところが情けなかった。
「だってここに来るといっつもいるしね。いっそ一緒に暮らしたら?」
「嫌よ、うちの神社がゴミだらけになったら参拝客が減るじゃない」
本人はゴミではないと言っているがどう見てもゴミ山の魔理沙宅を思い浮かべて、霊夢が嫌そうに首を振る。
しかしそれを見ていた衣玖は、元々参拝客などいないのでは? と思ったが口にはしなかった。
「元々参拝客なんていないじゃないのうぎゃあ!?」
不用意な発言をした天子が虚空から現れた陰陽玉を叩きつけられるのを見て、黙っておいてよかったと思った。
直撃を受けた頭を押さえて地面にうずくまる天子に、霊夢はフンと鼻息を鳴らして溜飲を下げた。
「魔理沙はここに限らず幻想郷中ぶらぶらしてるし、機嫌しだいでウチにだって何日も来ないわよ。それにあいつは実験とかで家にこもることも多いし、今回もその辺りなんじゃない」
「いだだ……私ほどじゃないけど自由なやつよね」
その言葉を聞いて、不意に霊夢が空を見た。
「魔理沙は自由なやつよ、この幻想郷で一番」
それは儚くて、世界に満ちることなく快晴の青空に溶け落ちるような声だった。
どこか羨むように空を見つめる霊夢の様子に、立ち上がった天子は呆気に取られる。
後ろの衣玖は、無表情のまま見守っていた。
「霊夢って、そんな顔もできたんだ」
「なによそれ」
「いや、案外人間らしいなって話。そういうのも好きよ、うんうん」
「意味がわからないんだけど」
霊夢が睨みつけてくる前で、天子は勝手に一人納得して頷く。
天子は霊夢のことを人間離れしたやつだと思っていが、垣間見せたものは執着と呼べるものだった。
執着心とは見ようによっては醜いが天子はそれを否定しるつもりはない、未だ幸福に到達しない者においては、それを足掛かりにする他ないのだから。
天子は初めて、心まで空に飛び行く霊夢にちょっとした共感を覚えた。
「それじゃ私は行くわ、面白い話しありがとね」
「帰る前に素敵なお賽銭箱はあちらよ」
「残念、今は手持ちがないの、じゃあね」
そう言って天子は軽く手を振ると、賽銭箱には目もくれず飛びだってしまった。
それに倣い、衣玖もペコリと一例を残して着いていく。
霊夢は礼儀正しい竜宮の使いを見て、結局あいつは最初の一言以外話さなかったな、あれで楽しいんだろうかと思いながらお茶をすする。
暇人が消えて暇になったし、さてやる気はないがとりあえず掃除でもしようかと思って湯呑みを置くと、その隣にいつのまにか座っていた女の姿があって驚いて身体が跳ねた。
「うわっ!?」
「ごきげんよう霊夢」
「いきなり出てくんじゃないわよ!」
スキマから現れたのだろう紫が笑いかけてきたのを、霊夢は怒鳴り声で返した。
しかし案の定、紫は堪えて内容でうふふと気味の悪い笑みを浮かべている。
「あんたまで何のようよ」
「いやあ、さっきの話を見ていたらつい出てきたくなっちゃって」
「覗きとか趣味が悪いわよ」
藍や橙との相談のあと自らの秘密を告白するかどうか決めかねて、とりあえずスキマから天子をストーキングしていた紫は、さっきの霊夢の様子もばっちり見ていた。
そこで古くから博麗の巫女に関わるものとして、一言言わねばならないと出てきたのだ。
「魔理沙だけじゃない、あなたも自由よ霊夢」
伝えられた短い言葉に、霊夢は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして口を閉じた。
しかしすぐに不機嫌そうに口をすぼめると、恨みさえ持って紫を睨みつけた。
「あんたがそれを言うの? 自分は巫女をこき使うくせに」
「えぇ、言うわ」
反抗的な態度の霊夢を前にして、紫は飄々と答える。
霊夢は真意を測りかねて疑い探るように見つめていたが、この胡散臭い妖怪はうふふと笑って縁側から立ち上がると帰り道のスキマを開いた。
「きっと今日の夕方には魔理沙の実験も済んでここに来ると思うわ。晩御飯、用意してあげたら喜ぶわよ」
たったそれだけの忠告を残し、紫は博麗神社から姿を消す。
誰も居なくなった空間を霊夢はむすっとした不機嫌な表情で見ていたが、やがて腰を上げて神社の奥に食料の備蓄を確認しに行った。
博麗霊夢は巫女である。
やりたいこともあまりなく、今日も適度な暇を満喫してる。
◇ ◆ ◇
「やっほー! 貸し切りよ衣玖!」
湯けむりが立つ銭湯で天子が勢い良く跳び上がり、湯船にダイブして大きな水柱を上げた。
それなりに朝早い時間であるため他の客の姿も見えず、天子は存分に声を響かせる。
「天子様、怒られますよ」
「いいのいいの怒らせとけば。それに他のお客もいないし」
「だからってうるさくしていいわけじゃないでしょうに。そんなのだからいつも紫さんと喧嘩してしまうんですよ」
小言を言う衣玖だがこの程度はいつものことで、言っても聞かないことがわかっているのでそれ以上は咎めなかった。
それより自分もお風呂を楽しもうと肩まで湯に浸かり、その心地良さに抱かれた。
「……うん?」
のんびり湯の揺らぎに身を任せて泳ぎ回る天子を眺めていると、天子の左肩に変な模様がついているように見えた。
湯気のせいで見間違っただけかと思って凝視してみるが、気のせいではなく柔らかそうな肌に古い傷跡が付いていた。
「何よ衣玖、そんなに睨んできて」
「いやぁ、その肩についてるのはなんだろうかと思いまして」
「肩? ……ああ、これか」
視線に気づいた天子は泳ぐのを止めて、衣玖の隣に並び腰を落ち着けた。
「どうしたんですかそれ? 天人がそんな怪我をしてるなんて珍しいですけど」
「これ相当古いやつだからねぇ。天界に上がってきてすぐに出来た傷だから、まだ仙桃の効果が出てなかったのよ」
天界に実っている仙桃は食べているだけで肉体を強靭なものにしてくれる、その御蔭で天人はみな頑丈な肉体を持った者ばかりで天子も例外ではない。
ナイフでも傷つかない身体なのだから、傷がついたのが頑健になる前なのは当然か。
「それは運が悪かったですね。事故か何かですか?」
「うーんとね、どうしよっかな……まあ衣玖なら良いか」
傷跡を指でなでた天子は「秘密にしててね」と前置きを述べる。
「実は昔、お父様に虐待されてた時期があってね、その時に付いちゃった」
「――えっ?」
耳に入った情報が信じられず思わず聞き返してしまった。
だが気不味そうに笑って誤魔化す天子に、間違いではないと教えられる。
「あのお父様が虐待とか信じられない?」
「いや、その……まあ、そうですね、はい」
「今のお父様はだいぶ安定してるから、今だけ見ればそりゃそうようね。私のいない影でコソコソ会ってるようだけど、どうせ昔のことはあんまり聞いてないでしょ」
衣玖は裏で総領と会っていたことを指摘されドキリとするが、天子は特に文句を言うつもりもないらしく話を続けた。
「昔も昔、まだ私らが人間だった頃にさ、お母様が死んじゃったのよ」
「……はい、そのことは私も小耳に挟んでいます」
衣玖は定期的に天子の父である比那名居家総領と密談している。
基本的には天子が日々をどう過ごしているかを一方的に話すばかりだが、その中で総領の口から天子の母君がすでに亡くなっているということも聞き及んでいた。
「もうちょっと遅ければお母様も天人になれたんだけどねぇ。しかもその死に方があんまり良いものじゃなくて、それでお父様はかなり病んじゃったのよ。人間だった頃は情緒不安定過ぎて仕事ができないから名居守様に肩代わりしてもらって、天人になってからもしばらくは柱に頭をぶつけたり刃物で自傷したりしちゃってたわ。流石に見てられなかったから止めに入ったんだけど、そしたら代わりに私を殴るのよ。一応殴るだけにはとどめてたんだけど、一回だけ刃物持ったまま殴ってきて切り傷ついちゃったわけ」
続けて語られた内容には絶句するしかなかった。
比那名居家の総領に関しては不器用そうなところがあるものの、根は誠実で、家族仲が上手く行っていないのは不器用ゆえに意思疎通がきちんと取れていないから、衣玖は勝手にそう考えていた。
「……それで耐えたのですか」
「なんといっても、唯一残った家族だからね」
だからといって普通ならそこまで体を張れないものだ。
母親が死んだのなら辛いのは天子も同じだ、それなのに気が触れた父親を助けようなど無理がある。
事実、無視できない悪影響もあったようだ。
「……父君が怖いですか天子様」
飄々とした態度で語っていた天子の顔が強張った。
天子との付き合いが長くなってきた衣玖は、話しながら天子の声が僅かに震えるのを感じ取っていた。
親に暴力を振るわれればそれを恐怖に感じる、当たり前の話だ。
「……うん、少しね」
強がった言葉を選ぶ天子だが、きっと少しと言うには重い枷なのだろう。
もしかしたら総領が影で衣玖と会っていたことについて何も言わなかったのも、父が怖いからなのかも知れない。
わがまま娘のこんなにしおらしい姿を衣玖は初めて見て、自分にできるなら慰めてあげたいと思う。
「よく頑張りましたね」
衣玖は天子に近づくと、慈愛と尊敬を持って頭に手を添えた。
自分より一回りも小さい彼女のどこにそんな力があるのだろうと感動しながら優しく撫でる。
「ちょっと衣玖、そんな子供扱いしないでよ」
「おや、紫さん以外ではお気に召しませんか?」
「な、何でそこで紫が出てくるのよ!」
反抗的な声を上げつつも、天子は手を振り払うことはしなかった。
「どういう母親だったか、聞いてみても良いですか?」
「うん……そうね、良い人だったわよ」
天子は静かに語り始めた。
遠い目に映るのは、遥か昔の情景。
この少女がそう言うからには、きっと贔屓を抜きにしても良き女性だったのだろうと衣玖は思う。
「私と違って優しくて、寛容で、色んな人を愛することができて、愛してもらえる人だった。もちろん私にも。名居家の血筋の一人で、まあ血を絶やさないための計画的な結婚だったけど、本気でお父様のことを愛してたわ」
衣玖は総領が「今でも母さん一筋だ」と言っていたのを思い出した、それだけ他人から愛されるからには他人を愛せる人なのは道理だ。
きっと天子のことも愛していたのだろうが、だからこそそれを喪った影響を考えると胸が痛む。
「遊びや釣り、料理から武術まで何でも教えてくれた。特に私の能力をどう扱えば良いかは、お父様よりもずっと親身になってくれたわ」
「へえ、能力の扱い方ですか」
つまりは師匠のようなものか、素晴らしい親子関係だ。
天子は遠い目をして湯煙のように過去の記憶を思い出す。
「要石には想いを込めなさいって。もし将来、緋想の剣を使うことになった時も、それが一番大切なんだって」
なぜ能力の話で緋想の剣が絡んでくるのか、文脈を読めず首を傾げる衣玖だったが、天子はそれに気付いているのかいないのか、無視してうつむき湯船を覗き込んだ。
水面に映るのは昔と変わらず幼い天子の顔、かつてと違うのはその悲しい表情。
自身の姿に母親を見つけて、死別した日からずっと抱えていた言葉を漏らす。
「良い人だった……死んで良い人なんかじゃなかったのに。時折思うわ、お母様じゃなく、死ぬのが私なら良かったんじゃないかって」
あの日に死んでいたのが自分だったなら、父は家族を傷つけるほど狂わなかっただろうかと、自分も傷つけられ苦しむことはなかっただろうかと、後悔にすら満たない暗い情念が胸を締め付ける。
心臓の内側から疼くような傷みに天子は表情を歪め、それを見られたくないと衣玖から顔を背けた。
「天子様が死ぬべき人だなんて、私はさらさら思いませんよ。きっと天子様が生きていたのなら、それには意味があると思います。天子様が生きるべきだからこそ、あなたは今日まで生きてきたんです」
衣玖は天子の表情を追わず、ただ自分の気持ちと考えを唱えた。
これはその場の気休めではなく、彼女が持つ信仰にも似た信頼だった。
「あなたはお母様に負けないくらい素晴らしい人です」
「……ありがと、衣玖」
正式な従者にそう断じられ、天子はようやく眉間の力を抜いて顔を上げた。
自分が生きていてくれて嬉しいと言ってくれる誰かがいる、それだけで天子には家庭から失われた安心を久しく感じることが出来た。
ふと、思いついたかのように天子がぽつりと呟く。
「……もし紫が私の身の上を聞いたら、どう思うのかしら」
「天子様が生きてきてくれてよかったと、そう思ってくれますよ」
「そう……」
天子は湯船から上半身を乗り出させ、地面の上で組んだ腕に顎を乗せ、また遠くを見やった。
「そうだとしたら……因果だわね。あいつを倒すために生まれた一族が生きててくれてよかったなんて」
「……紫さんを倒すため?」
「そうよ、衣玖は知らないの? 私も、比那名居家も、いいや天界も月の都も何もかも、この世界の異物であるスキマ妖怪を滅するために生まれたのよ」
「は……はい?」
いきなり語られた壮大な話に、衣玖は呆気にとられて曖昧な言葉を返すしかなかった。
衣玖に向き直った天子は、そんな従者を面白そうに笑って、自慢げに言葉を続ける。
「例えば私の使ってる緋想の剣、あれは元から私のような名居家に連なる血族が要石と合わせて運用することを前提で作られた。大地の気質を要石を利用して貯蔵して、それを緋想の剣で行使する。あいつの本質を暴いてそれに合わせた気質に変換し、紫を完全に滅殺しようとしたのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。紫さんも、月の都などが相手では勝負にならないという話でしたが」
「そうね、殺すだけなら十分できる、けどそれ以上ができなかった」
何が何だか分からないと呆然にする衣玖から、天子は目を離して空に浮かぶ雲を眺めた。
「聞きたいなら私よりももっと適任がいる。龍神様に聞いてみなさいよ、あの神様は何億も昔から紫と敵対してきたらしいし」
「紫さん、そんな長生きなんですか」
「そうよババアよあいつ。ただ私が聞いてた話と、今の紫は随分と様子が違うけど。昔は知性を持たず徘徊してたって話なんだけど、まあ私の情報も古いしね」
唐突に明かされた事実に、衣玖の胸に不安が過る。
衣玖から見ても紫とはそれなりの付き合いになる、天子を通して合っているうちに彼女ともちょっとした友人程度の交友関係にはある。
そんな知り合いが想像を超えた存在であると言われ、脳内に思い出された紫の笑顔が歪められていく。
「……紫さんは、何者なんですか」
「異物、それに尽きるわ」
真っ黒な暗闇のような言葉に衣玖は硬い表情を浮かべた。
緊張する従者に、天子は軽く溜息をついてちょっと優しめに声をかけた。
「安心していいわよ。あいつは世界をぶち壊すような邪悪な企みとかはなさそうだし、私だってもう紫とは敵対するつもりはない。異変でかち合ってぶん殴り合うとかなら面白そうだけど」
「発想が野蛮すぎでしょ」
「いいのよあいつも楽しんでるんだから」
気心が知れたとはいえ礼儀がなさすぎると呆れる衣玖だが、お陰で怯えも和らいだ。
お湯に浸かっていた肩から力が抜けるのを見て、天子も良かったと静かに笑う。
そうして気が抜けたのもあって、天子がつい言葉を漏らした。
「ただ、今更あいつが私の前に出てきたことには因果を感じる。できればこの因縁が、良き縁になってくれればいいけど」
「なりますよ」
間を置かずに断言されて、天子は驚いて衣玖の顔を見る。
衣玖はとても優しい表情で天子の視線に応え、どこまでも天子と紫を信じて続きを唱えた。
「ここでの紫さんとの出会いは、間違いなく天子さんにとって良いものです。だから安心して下さい」
「ありがとう、そう言ってくれて」
在りし日の思い出、まだ幸せを信じられた幼き頃の夜。
まだ地子という名だった少女の上で、暗いはずの夜をまばゆい光が覆っていた。
緋く瞬き揺らめく光の幕は、今まで見た何よりも美しいと感じられた。
「わあ、すごーい!」
日本ではほとんど見られることのない極光と言う名の天候。
それは天界から降りてきた天人が、作りかけの緋想の剣を使って地子の気質を見せてくれたものだった。
「こんなに綺麗だなんてお母さんもびっくりだわ。きっと地子は天に愛されてるのね」
「極光って言うんでしょこれ! ねえ、お母様はどんな気質なの!?」
興奮した地子が母親に早口でまくしたてた。
未熟な自分でもこれだけの景色を作り出せたのなら、尊敬する母親ならもっと美しいものを見せてくれると信じたのだ。
「私は雨よ、普通の気質ね」
「えー、嘘でしょ。お母様ったら私のこと騙してるんじゃない?」
「嘘じゃないわよ。地子、あなたは私よりもずっと素晴らしい女の子になれるのだから」
親が世界のすべてだと思っている娘に、母はそれも超えてどこまでも上へ行けると優しく説く。
それでも納得が行かず残念がる娘を見て、母は屈んで目の前の小さな頭に手を置く。
「極光なんて気質を持つ人は他にいない。あなたがその心を持って生まれてきたことには何か意味があるはず」
優しく撫でてくれる母の温かさが、夜の肌寒さから護ってくれるようだった。
幼いころの地子が確かに感じたそれは、遠い未来になってもなお彼女を支える無償の愛。
「あなたはいつかどこかで、誰かを助けられる人なのかもね」
あの日から、極光は未だ天子の手にある。
それが母の残した言葉が、まだ消えずに続いているということなんだろうか。
◇ ◆ ◇
紫が冬眠から目覚めて数日、彼女を中心として宴会が予定された日。
「おっ」
「ちわーす」
中身の詰まった風呂敷を持った天子と、いつもどおり酔っ払った萃香が白玉楼へと続く冥界の階段の前で鉢合わせした。
「萃香も宴会?」
「ああそうさ、天子もやっぱり来たんだね。衣玖は?」
「龍神のほうでお仕事だって言って来れなかったわ」
「ありゃりゃ残念だね」
「それじゃあ……歩いて行く?」
「そだねー、そうしよう」
どうせ会ったのだ、急いで飛んで行くというのは無粋だろう。
会話を楽しみながら階段を上ることとして、二人は肩を並べて石造りの段差に足をかけた。
「天子は何持ってきたんだい?」
「桃」
「またかあ、いい加減飽きたよ」
「あんたが食べ過ぎなのよ。けっこう評判なんだから」
「まあ美味しいけどねー……」
よく天界に来て管を巻いている萃香には、天界の桃はすでに食べ飽きてしまったらしい。
天子としてはちょっと残念な気持ちもあるが、他のやつらが喜べばそれでいいだろうと気を取り直した。
「紫のやつと仲良くやってるみたいだね」
「うん、まあそこそこね」
「そこそこというにはお熱い関係みたいだけどねぇ、よく同じ屋根の下で眠ってるそうじゃないか」
「うっさい、変な言い方するんじゃないわよ」
茶化されて天子は顔を背ける、頬が熱いのは春の陽気のせいだと自分を誤魔化した。
それを見て萃香は満足そうな顔で階段の上を見上げる。
「やっぱ私の予想通り、きっかけさえあれば仲良くなるのはすぐだったね」
「何よそれ、後から適当に法螺吹いてるだけじゃないの」
「鬼は嘘つかないよ、たまにしか」
「たまにはつくんだ」
「私は鬼の中でもはぐれものだからね」
天子は適当なことをいう鬼に呆れながら、謝ってすぐのころの紫を思い出す。
敵意をぶつけてばかりだった自分を紫は嫌いだったろうに、謝罪一つで水に流して優しく接してくれた。
「私を気遣ってちょくちょく顔見せてくれたりしてくれてるし。あいつがあんなに良くしてくれるとは思わなかった」
そして自分が、こんなにも紫に心を寄せられるだなんて予想外だったと、心に思った。
謝ったところで二人の確執がすべて埋まっわけではなかったのに、それを補って余りあるほど紫との日々は楽しかった。
今日これからの宴会も、紫がいてくれると思うと普段より待ちきれない気持ちになる。
「いやいや、紫が天子に惹かれるのは当然さね。まああいつは元々お節介だけど、それ以上にあんたの性質はそういうもんだ」
天子がドキドキする胸を押さえていると唐突に言われ、不思議そうに萃香を見下ろす。
「性質って……気質?」
「それも含めてだ、天子は陽の気がバカに強いからね。強大な妖怪であればあるほど物すっごく惹かれるか、あるいはムカついてドツキ合おうとするかのどっちかさ。陰気な私らには天子は眩しすぎるよ」
「あんたが陰気とは思えないけど」
「そんなことないよ」
天子のことを萃香は首を振って否定する。
「私ら妖怪はみんな陰気さ、根っからの陽の人間と比べたらみんなどこか間違ってる。鬼のあいだじゃ戦って勇者に討たれて死ぬのは誉れなんて言われてるが、人間と違って守るものもないのに死が尊いなんておかしな話さ」
「そうかしら、考え方次第だと思うけど」
「でも、天子は自分のために戦って死にたいなんて思わないだろ?」
そう言われ、天子は少し考えてみる。
紫と険悪だった頃の自分なら、紫を殺すためなら命を捨ててもいいと考えるだろうか?
将来的に子供でも産まれてその子のためにならともかく、ただ自分の我欲のためだけに身を滅ぼせるか。
「……思わないわね」
天子自身、自分に自己破滅的な傾向があることはわかっている。じゃないと騒ぎたいだけで異変を起こしたりはしないだろう。
だがそれでも、決定的な身の破滅だけはする気が起きなかったし、そうする自分も想像できなかった。
「だろう? それがお前故さ」
何故か萃香が得意気に指を向けてくる。
これが特別なこととは天子には思えなかったが、妖怪から見ればそういうものなのだろうと話半分に頷いておいた。
「まあそれがなくても、天子が謝ったの冬眠の直後だったしねえ」
「冬眠の後だったらどうだっていうのよ?」
「そりゃお前……えっ、聞いてないの?」
自分から話を振っておいて、萃香は信じられなさそうに天子を見つめてくる。
その困惑に不穏な何かを感じて天子は鋭い視線で見つめ返した。
「なんだい、天子は知らなかったの。てっきりもう紫から聞いてるかと……」
「何よ気になるじゃない言いなさいよ」
「言えないねえ、私は基本嘘は吐かないけど隠し事はするよ」
「おのれこの人でなしめ」
「そーだよ鬼だよ」
冬眠が何だというのだ、紫自身が異物と言われていることと関係あるのだろうか、それが自分との関係にどう繋がる。
とにかく紫が隠し事をしているということはわかり、わずかな不信が天子の中で芽を出す。
そしてその隠し事を萃香は知っていた自分には知らされていないことに、嫉妬の炎が頭の裏側を熱くしていく。
天子が不機嫌になっていくのを感じ取って萃香はしまったと、気不味そうに頬をかいて自分の不用意さを悔いた。
二人の空気が重くなりかけたその時、はつらつとした声がどこからか響いた。
「――そこな天人、ちょっと待ちなさい」
「……誰よ?」
聞き覚えのある台詞に天子が声のしてきた背後を振り向く。
すると天子の目の前で木の葉がうずまき、その中心から煙を立てて二股の尾が現れた。
「私でーす!」
明るい声で手足を思いっきり伸ばして飛び跳ねる橙が、暗い雰囲気などどこかへ飛ばしてしまった。
毒気を抜かれてしまい、天子と萃香は口元を緩めて以外な人物を迎え入れた。
「どうしたぃ橙嬢ちゃん、一人で私らに絡んでくるのは珍しいね」
「むっふっふ、今日は紫様にも藍様にも秘密でお話があるのです」
「おっ、何だか面白そうじゃないの」
悪巧みは天子も大好きだ、それが頭の良いやつを相手にするならなおのこと面白い。
しかし橙から言われたことに、天子は驚いて腹を立てることとなった。
「でも天子には嫌な話だと思うんだけど、近々紫様が天子から縁切りするかもしれないくて」
「……はあ!? どういうこと!?」
「あっ……なーるほどね、そうかいそうなるのか」
苛立たしげな声を上げる天子とは違い、萃香は納得したかの様子だ。
「萃香は何か知ってるの!?」
「知ってるけど言ーわない。まあ卑屈なあいつらしいことさ」
さてはさっきの隠し事に関係あるなと勘付いたが、追求したところで答えてはくれなさそうだ。
「ちぇーん!」
「私もダメー。言ったら藍様に怒られるもん」
交差させた手でバツマークを作って橙は拒否する。
わけがわからず、天子の中で急速に肥大化した不安が、小さな爆発を引き起こし始めた。
「どういうことなのよ、何なのよあいつ! 本当は私のこと裏で笑ってたりしたわけ!?」
「落ち着きなよ天子。仲良くなったからこそってやつだよ」
ここにいない相手にまくし立てる天子を、萃香はのんびりとした口調で止めに入った。
「紫のやつは陰気で根暗でそのうえ臆病者だからね。距離が近くなりすぎたから困惑して、焦って変なことしちゃいそうってだけさ」
「うー、紫様が言われ放題だけどあんまり反論できません」
「孫からもそういう評価なのあいつ……?」
若干紫が不憫に感じたが、天子もこの意見には納得してしまったので擁護はできなかった。
それよりもとりあえず紫が悪意を持っているわけではないと教えられ、天子は安心して怒りを収め始めたところに、橙が重ねて告げる。
「勘違いしないで欲しいけど、紫様も本当は天子と離れたいって思ってるわけじゃないんだよ? だからさ、そうなる前に手を打っちゃおうと思って」
「つまり、何か策があるということね」
天子に聞かれた橙が得意げな顔で胸を張り、天子と萃香の脇を抜けて階段を軽やかなステップで登る。
二人に振り返った橙は、指を天に立てて宣言した。
「ここに、紫様メロンメロン作戦を開始するよ!」
◇ ◆ ◇
天子たちよりいち早く白玉楼に到着していた紫は、幽々子と一緒に縁側でのんびりとお茶を楽しみながら駄弁っていた。
「今日の宴会、天子も来るそうよ」
「あらそう、今日もまた賑やかになっちゃうわね。うふふ」
紫から伝えられたことに幽々子は嬉しそうに笑う。
これは天子が来ることが嬉しいというよりも、紫の周囲が賑わってくれて嬉しいという笑みだ。
「天子も随分と紫に懐いてくれたわね。やっぱり私の見立てに間違いはなかったわ」
「前から私と天子の仲を取り持とうとしてくれてたらしいわね」
「えぇ、前から優良物件ですよーっておすすめしてたわ。その時は受け入れてもらえなかったけど」
「そんなに気を使ってもらわなくても、幽々子たちがいてくれれば寂しくないし十分よ」
「そんなことないわ。自分じゃ気づけないでしょうけど、紫ったら天子と仲良くなってから笑うことが増えたのよ?」
「……えっ?」
幽々子に指摘されて、なぜだか紫の頬が熱くなった。
天子と仲が良いということを言われただけなのに、この胸の高鳴りはなんだろうか。
不可解さに熱い頬を手で押さえながらつい照れてしまう。
「紫は記憶を失うってだけでも大変だし、いつも負担ばっかり背負ってるから心配だったのよ」
「心配……ね」
気持ちは嬉しいが、心配しているのはむしろ自分なのだがと紫は苦笑する。幽々子はある意味で自分の半身のようなものなのだから
すべての始まりは約1000年、当時の紫は記憶を保管する術を持たず、自らの存在もわからないまま意思なき獣のようにこの世を徘徊していた。
その時の紫は何もかもが憎かった、世のすべてを恨んで妬んで羨んでいた。何故かはわからない、だが紫はそこらの妖怪とは根本から違うあまりに特異な存在であり、一部の術者からは危険視されていたはずだから、この世界から追い立てられる内にそうなったのだろうと予想が付く。
あの日もそうだった、まだ名前すら持たずにいた紫はボロボロの体で逃げていた。
原因は覚えていない、その後の出来事に比べれば些細な事なので削除してしまった。だがスキマ妖怪はたどり着いたのだ、後に西行妖と呼ばれる桜の下で、父と彼を慕う狂信者たちの死に憂いていた儚げな女のところへ。
『傷ついているの……?』
『疲れているの?』
『お腹が空いたなら、うちに来る?』
紫が出会った生前の幽々子は、身辺に溢れた死に嘆き絶望していた。だがその深い悲しみからこそ、傷ついた見知らぬ妖怪さえ優しくしてみせた。
人間だった頃の幽々子は今よりも儚げで、だが芯は強く、誰よりも優しい人だった。
彼女が施してくれた白いご飯は、人間の肉などよりも遥かに大きな力をスキマ妖怪に与えた。
名前がないとわかれば、幽々子は八雲紫という素敵な名前を付けてくれた。
後に文献を確認すればスキマ妖怪の存在は天界が生まれた頃にまで遡れたが、八雲紫の本当の人生はそこから始まったのだ。
記憶を失うことを幽々子に悲しいと言われ、紫は即興で記憶の再生術式を組み上げた。メモリーの一時保管役に大陸から九尾を連れてきて無理矢理協力してもらった。
紫と幽々子、それと無理矢理に新しい名前を与えて従えた藍、三人で過ごした日々はいつまでも続く春の陽気のようにとても楽しく――唯一藍は嫌がっていたが――それらは決して忘れてはいけない栄光の思い出、紫という存在をなす根幹、人生の出発点として、何度記憶を失おうとこれだけは脳に刻み込んでいる。
そしてまた亡霊となり生前の記憶を失った幽々子も、紫に多くのものを与えられた。
記憶を失い自らの意味を見失い、どうすればいいかわからなかった幽々子を紫は保護し、生前の彼女がしてくれたように幽々子に出来る限りの慈愛を与えた。
紫は人間だった幽々子に中身を与えられ、亡霊の幽々子は八雲紫に中身を与えられた。
互いに自らを分け合った二人は、半身と呼んで然るべき存在なのだ。
それ以降、幽々子の警護役を申し出た妖忌を交えて暮らしていたが、どうも幽々子は紫に己の存在理由を依存しがちだ。
近年は妖夢が幽々子のそばで頑張ってくれるお陰で自立する傾向にあるが、まだまだ危ういところが多いというか、紫に執着しすぎているというのが去年の紫がメモリーを削除する間際に出した幽々子評だった。
今年のうちにまた一歩進んでくれたら良いのだがと、紫は親友の未来に希望を願う。
その気持ちを知ってか知らずか、幽々子は紫の世話焼きに夢中だ。
「紫はあんまり友達が多いタイプじゃないし……でも天子の性質なら絶対、紫の人生を明るく彩ってくれるって思ってたわ、いっそ恋人にでもしちゃえば?」
「も、もう幽々子ったら。冗談ばっかり言って」
紫からすれば飛躍した結論に思わずたじろぐ。
「第一に女同士じゃない。私達妖怪は人間ほど生殖本能がたくましくないから気にしないのが多いけど、天子は元人間よ。しかも由緒正しい血筋のお嬢様、その辺りのしがらみは強いでしょう」
「愛の前にそんなの関係ないものよ」
「それはまあ……幽々子が言うならそうなのでしょうけど」
紫は言い返せず同意してしまう。
というのも、幽々子が妖夢に対して"従者を超えた親愛"を持っているのを紫は知っているのだ。
「好きな子を思う存分可愛がるというのは、それはそれは楽しいものよ紫」
「自分だって、直接告白はまだのくせして……」
「それでも紫よりは進んでるわ」
幽々子は本能のままに妖夢を愛で、妖夢も妖夢でそれを受け入れている、ようは両思いでお互いそれに気が付いているわけだ。
しかし幽々子もやはりというか紫と同じく臆病な面が強く、実際に妖夢に胸の内を明かしたことはない。
妖夢が何も言わないのをいいことにズルズルと今の関係を続ける幽々子だが、そんな自分のことは棚上げして先輩風を吹かしている。
「ふふふ、妖夢が可愛すぎるからいけないのよ。ああ、ありがとう妖忌、あなたが私の警護役になってくれたお陰であんなに可憐な少女に恵まれたわ」
「それで魂魄の血筋が絶えそうなんだから魂魄妖忌が知ったら泣くわね」
「ごめんなさい妖忌、でも邪魔する気なら泣いてるところに能力でガン攻めで死なせたあと操らせてもらうわ」
「1000年近く護ってもらってて恩を仇で返しすぎる……」
妖忌に関することは紫のメモリーに殆ど残っていないが、確か彼が幽々子の元に護衛についたのが幽々子が死んだ直後からだったはずだ。
わずかに残った記憶からは跡継ぎが生まれた時の妖忌の笑顔や、その倅が結婚した時の泣き顔などが思い出せたが、赤ん坊の妖夢に狂喜乱舞していた彼が曾孫に会えないと知るとどれだけ落胆するのだろうか。
過去の紫が厳格そうに見えて激情型とプロファイルした老人が、長い髭を水筆のように涙で滴らせているところを想像して、気の毒な気持ちになった。
「でもそういう紫だって天子のこと考えてニヤニヤしたりしないの? 私が妖夢に感じてるみたいに思う存分撫でくりまわしたりしたいとか、ぎゅうっと抱きしめてぐっすり眠りたいとか、えっちな水着きさせて可愛がったりしたいとか」
「それは……ちょっと待って最後の何」
「いいからほら」
そう言われても、今の紫は去年のメモリーを消去して冬眠から目覚めたばかりでそんな暇なことを考えてる時間はなかったのだが。
とはいえ試しにお茶でも飲みながら少しだけ思いを巡らせてみる。
前提として誰の邪魔も入らない家の中とする、藍と橙はもちろん天子のお供である衣玖も家にはいない。
その空間に天子が自分と二人きりいたらまずどういう反応をするだろう、恐らくは大変上機嫌な気がする、メモリーにはないが魂がそう囁いている。
とりあえず撫でてみよう、先日の反応からそれくらいのスキンシップはそこまで拒絶しないはずだ。
帽子の下に手を差し込んで動かすと脳内の天子は最初に子供扱いは嫌だと振りほどこうとしたが、次第に機嫌が良さそうに身体をくねらせ始めた。
天子がリラックスして意識に隙間ができた瞬間、すかさず抱きしめて寝転がる。驚いた天子が「わわっ!」と可愛い声を上げたが抗いはしていないようだ。
そのまま天子の背中を安心させるようにポンポンと優しく叩き更に撫でる、段々と天子も気を許してきて緩んだ顔で自分の胸を枕代わりに頬をうずめてきた。
完全に身を任せてきたところで両腕でギュッと抱きしめて、自身の首元に見える天子の頭頂部に鼻先を押し付けて深呼吸、淡い桃のような健康的で麗しい少女の味わいが鼻孔から喉元に通って味覚のように感じる。
更にその状態の天子の服装を外界でいうビキニ姿に変えてみた――――
「ブフォァアッ!?」
爆音を立て始めた心臓に押されて、肺が喉元まで入ってきたお茶をスプラッシュさせた。
庭の砂利をまだらに濡らして、紫はむせこむ。
危なかった――!
今まさに禁断の扉が開けかけたような気がした。
なぜ目が覚めてからすぐで情報も少ないのに、こうまで明確に場面を想像できてしまったのか。
思い出はなくとも、心がそこまで天子に惹かれているということなのだろうか。
「考えてしまったようね紫……! 裸の女の子は良いわよ、抱きしめると柔らかいのよ……!!」
「だ、黙りなさい! こんなの冬眠した時には忘れてやるんだから!」
「あら、次の冬までまだ半年以上あるわよ? それまでどれだけ耐えられるのか見ものだわ」
悪魔かこの女はと、紫としては珍しく胸中で幽々子に対して毒づいた。
妲己どころではない、大妖怪をも堕落させかねない魔性だ。
「いっそ拉致って思うがままに愛でてしまってもいいのよ紫。一度既成事実を作ってしまえば有利、後は流れで何だかんだでどうとでもなるわ。あえて天子の心を貶めて手玉に取ってしまうのよ……!」
「あーあー聞こえなーい! 駄目よ、私と天子の関係はもっとこう、気を許し合っててもたまに喧嘩し合えるような健全な!」
「……って、あら、天子も来たようね」
「え!?」
幽々子に言われ正門の方に目を向けると、確かに印象的な蒼髪が上がってくるのが見えた。
紫は急いでスキマから手鏡を取り出すと、吹き出したお茶をハンカチで拭って表情をキリッと整える。
この親友のコロコロ変わる表情を、幽々子は楽しげに笑いながら眺めていた。
「よし――こんにちは天子、今日は来てくれて……?」
だが萃香と橙を引き連れて現れた天子は、帽子を外していつもと違った装いだった。
「にゃーん!」
にゃーん?
言語ですら無い言葉に意味を理解できず、困惑のあまり紫の脳内に青い画面が映る。
ブルースクリーン状態の脳みそに映し出されたのは、明らかに作り物のネコ耳カチューシャを付けて、手首を曲げた猫っぽいポーズをとる謎天子だった。
「なにこれ……」
というかこれは天子と呼んでも良いのだろうか。
確かに天子は猫よりも可愛い、というよりそこらの野良猫の万倍は可愛いが、こう媚び媚びとした笑顔で安っぽい愛想を振りまくようなキャラじゃないはずだ、多分、きっと、いや間違いなく。
紫の脳に書き写されたメモリーにある天子との数少ない思い出は、ドヤ顔で偉ぶってたところに横から台無しにされたときの呆気にとられた顔や、いじられた時の怒り顔や、有利に立とうとあれこれ策略を巡らせてもあえなく看破されてぐぬぬと悔しがる顔など偏りがあって天子の性格を推し量るには足りないが、目の前の謎天子とはかなり違うことはわかる。というかなんでこんなメモリーを残してあるんだろう、そんなにこの思い出が大事だったのか去年の自分。
「にゃんにゃん、天子にゃんだにゃん。ゆかりんおはようにゃん」
「ゆかりん!?」
「プククッ」
可愛らしい媚びへつらった愛称に紫はカルチャーショックを受けた未開人のごとく唖然と口を開く。
自分が覚えてないだけでもしや本当はこんなキャラなのかと思い始めたが、袖の下で自分の肌が粟田っているのに気がついて、よし絶対に違うなと安心した。魂レベルで違和感を叫んでいる。
隣の幽々子はどちらかと言えば衝撃を受けた紫の方が面白くて、袖でつり上がった口元を隠していた。
呆然とした紫が妙にくねくねしてる天子から、桃の帽子を持たされていた橙に目を向けるが気不味そうな顔をして目を逸らした。萃香もへらへら笑いながら何も言ってくれない。
「どうしたの天子、怪しい薬に手を出したの? それともキノコ? 落ちてあるものを食べちゃ駄目だってあれほど言った……? 多分言ったじゃない」
「ごろにゃーん、喉撫でてにゃゆかりん」
「お願い、話を聞いて」
謎天子は首を逸らして喉を見せてくるが、紫はどう対応すべきかわからず手を出せない。
何もしてこないのを見て謎天子は残念そうに表情を曇らせたが、またすぐ媚びた笑顔を浮かべて縁側に上がりこんで寝転がった。
人に慣れた猫が弱点である腹を飼い主に見せてあげるように、天子は紫の方へ頭を向けたまま仰向けになって、逆さまの上目遣いで紫の様子をうかがってきた。
「ごろごろにゃんにゃん、今日はとってもいい天気にゃん。一緒に日向ぼっこしようにゃ?」
「キモッ……」
とうとう耐えきれず思ったままが言葉に出た。
割りとマジで引き始めていた紫に、天子は真顔に戻るとすくっと直立し、ネコ耳カチューシャを幽々子に押し付けて白玉楼の奥へと勝手に入り込んでいった。
「会議、二人とも集合」
「らじゃー」
「お、お邪魔しまーす……」
いつも通り酔ってニヤついた萃香と無理やり笑顔を繕った橙が、縁側から上がって廊下に引っ込んでいった。
紫とネコ耳を装着した幽々子は止める言葉を持たずそっと見送る。
「何だったのかしらあれ」
「紫ったら意外と辛辣な対応だったわね」
「いやだってキモいし……もっと天子はうきうき全開でも私は期待してませんよ的なツンツンした態度を取りつつ構ってちゃんオーラを出しまくって、構わなかったらむくれ面になって駄々こねだすような面倒くさい女の子なのよ多分」
「紫が一番面倒くさいわよ。ところで似合う? 似合う?」
「似合うから落ち着きなさい」
ネコ耳を付けた幽々子の喉を指先でくすぐってあげると、亡霊は満足そうに喉を鳴らす真似をしたが、ゴロゴロ言ってるだけでちっとも似てなかった。
「それにしても天子はそう出たのね」
「幽々子は今のでわかったの?」
「えぇ、でもスキマで盗み聞きとかしちゃ駄目よ、これはゲームなんだからネタバレは無粋だもの」
そう言われては紫も大きく打って出る訳にはいかず、スキマをイカサマとして封じられた。
あまり釈然としなかったが、それでも天子とのゲームとなれば、これを制して彼女に打ち勝ってやろうという思いがなぜだかメラメラと燃えてくるではないか。
闘志を滾らせていると、お盆を持った妖夢が廊下をチラチラと見やりながらお盆にお茶のおかわりを乗せてやってきた。
「幽々子様、あの人達廊下で座り込んで密談してるんですが、どうしたんですか――って、何そのネコ耳」
「あら妖夢いいところに、こっち来て」
ネコミミ幽々子に手招きされ、妖夢は訝しがりながらもお盆を置いて、主に目線を合わせるよう座した。
すると幽々子は被っていたネコ耳を外して、妖夢に頭のリボンの上から被せた。
「はいバトンタッチ」
「みょん!?」
「あと御願いねー」
それだけ言った幽々子は、服をひらひらと蝶のようにはためかせて廊下に出ていってしまった。
残された妖夢がわけがわからないという顔で紫と目を合わせる。
「えーと……」
「……とりあえずお茶飲む?」
「あ、はい」
妖夢が自分で淹れたお茶を勧められる裏側で、廊下の隅で顔を突き合わせた天子は吠えていた。
「思いっきり引かれたんだけど!?」
「ごめん、あんなに本気で攻めるとは思わなかった」
最初に猫ちゃんキャラで紫様を落とそうと言い出した橙が、青い顔をして言葉を返す。
傍目から見ていても天子のあの豹変は気持ち悪かった。
「キャラ崩し過ぎだよ、遠慮ってもん知らないのかい」
「ふん、当然よ、いついかなるときも全力全壊でぶち当たって楽しむのがモットーよ」
「ぶつかろうとして身をかわされてちゃ世話ないよね」
何故か急にドヤ顔しだした天子が、萃香のきついツッコミに苦虫を噛み潰したような表情に変わる。
「猫の可愛さならいい線いくと思ったんだけどね。次はどうする?」
「ううむ、紫を倒す策ならともかく、落とすとなると考えたことなかったしなあ」
「仲良くなったと思ったのに、まだそんなの考えてるの」
「大丈夫ですよ、天子は紫様にかまって欲しいだけですから。コミュニケーションツールってやつです、衣玖さんも言ってました」
「そんなんじゃないし、仲良くなったのは良いけどそれはそれとして私は紫のライバルとしてね」
「――お困りかしらー?」
「ひゃあ!?」
「うおわっ!?」
後ろから気配を消して近づいていた幽々子が耳元に囁いてきて、天子と萃香が飛び跳ねた。
「ゆ、幽々子か、いつのまに」
「さっきから近くにいましたよ?」
「先に言いなさいよあんたも!」
平然としていた橙だけだった、意外と危機察知能力は高いらしい。
幽々子は三人の輪に加わって腰を落とすと、やんわりとして底の見えない笑みで作戦に首を突っ込んできた。
「あなたたちの魂胆が見えたわ。奥手な紫が奥手過ぎて天子から離れる前に、紫を天子に依存させてしまおうと橙が言い出したのね、手を貸すわ」
「すごい、ほぼ当たってるわ! けど依存させる気まではないから手加減してよ」
「よっし、天子これは強力な助っ人だよ。こいつは根っからの紫ジャンキー、男と女の関係なら捻れてストーカーになること間違い無しの紫大好き亡霊だ!」
「あら、そんなに褒められると嬉しいわ」
「これを賞賛と捉える辺りがルナティックにクレイジーよね。っていうかこいつ頼って大丈夫なの? 美人局みたいに後から因縁つけてきたりしない?」
「安心して、ちょっと死なせてうちで働いてもらうだけだから」
「余計安心できんわ」
「大丈夫さ、こいつの紫が悲しい目にあうのは嫌だって気持ちは確かだからね。天子との仲を保たせるためならなんでもするさ」
「紫を裏切ったら死んでもらうけどね」
「ならいいや」
「いいんだ……」
平然と流した天子が、本気か冗談か橙にはわからず呆然と声が漏れた。
とにかく幽々子を交えて作戦会議が始まった。
「というわけで幽々子先生、さっきの恥をひっくり返す一発逆転の策を」
「紫はけっこう甘えたがりなのよ。だから包容力で行くのが一番だと思うけど……」
八雲紫研究の第一人者である幽々子のレクチャーが始まり、包容力の一言で幽々子と萃香と橙の三人が天子を見つめた。
平坦な胸、いつも勝ち気で周りを振り回して、ワガママ娘の構ってちゃん、そんな天子に求められる包容力とは。
「……さてでは別の方法を考えましょうか」
「私にだって包容力くらいあるわよ!!」
一方そのころ、紫は妖夢と雑談としていたのだが、こちらも段々と人生相談のような雰囲気になり始めていた。
「幽々子様が私を好きだって言ってくれることは嬉しいんですけどね、やっぱり紫様ばっかり見てる感じがして、私じゃあの方の力になれないのかなって不安で……」
「そんなことないわよ、あなたは十分に幽々子を助けているわ。どちらかと言えば幽々子のほうが問題よ、いつか彼女も私よりも妖夢を気にかけるようになるから、今は諦めずに」
半霊をどんよりと湿らせる妖夢を紫が元気づけていると、奥から目を輝かせる天子が意気揚々と現れた。
「ゆっかりー! 耳かきしてあげるわ!」
耳かき棒をブンブンとぶん回す天子を見て、紫はとても写真などでは残せないような猛烈に嫌そうに歪めた表情で、天子を軽蔑にも似た視線を送った。
「鼓膜ブレイクされたくないからイヤ」
「ぬっぐ、何よ私だってそれくらいの包容力はあるし! 大人しく私に甘えてきなさいよ!」
「だったらその耳かきスイングやめなさい、ぶっ刺す練習にしか見えないから! 大体ぬあにが包容力よ、去年私がご飯作るーって言ってお昼に物体X出してきたメモリーは教訓として忘れず残してあるわよ。女を謳うなら黒焦げ魚の桃添えなんて意味分からないの出さないことね!」
「あんただって、こんなの食べるくらいなら私が作り直すとか言って、紫色のマッズイ卵焼き量産したじゃないの! 舌が物理的に溶けるかと思ったわよ!」
「記憶にございませーん」
「あっ、こいつぅー!」
口喧嘩から取っ組み合いが始まるのを、天子をけしかけた三人が廊下から眺めていた。
「あいつらっていつもこんななの?」
「仲いい時はほんわかしてるんですけどねー。落差が激しくて」
「うふふ、紫ったら楽しそうでいいわー」
傍観者を気取る三人とは違い、目の前で喧嘩された妖夢は気が気でない様子だ。
なんせこの二人、無駄に力だけはある。ドッタンバッタンと暴れる度に畳がえぐれて破けたイグサが宙を舞う。
重たい松の木の机が足蹴にされてひっくり返るのを見て、決死の覚悟で割って入った。
「うちの屋敷で喧嘩するの止めて!」
「退きなさい妖夢! こいつのリクエスト通り穴という穴に耳かきぶっ刺してやる!」
「粋がった小娘が、お尻から傘ぶっ刺して帽子の桃ガタガタ言わせてあげようかしら!?」
「ゆ、紫様も落ち着いてください! 誰か助けてー!!」
「しょうがないから助けに行ってあげなさい萃香」
「えー、面倒じゃん。橙が行きなよ身内の恥じゃん」
「私じゃ無理ですよ、萃香さんが一番パワーあるじゃないですか」
暴走する二人だったが、妖夢によってなんとか天子は廊下へと連行され、 紫の近くには入れ替わりで萃香が残った。
「次の策を考えるわよ、あのスキマ野郎を物理的にも落とす!」
「さっきから何をやってるんですかこれ? 紫様の抹殺計画?」
「そんなところよ!」
「いや違うから。妖夢、これはあのね」
橙は紫が自身の境遇から天子と距離を取りそうなので、その前にもっと仲良くなってもらおうという旨をかいつまんで説明した。
幽々子の警護役として紫の記憶についても知っていた妖夢は、話を聞いておおよその事情を理解した。
「妖夢はなにか思いつかない?」
「うーん、そう言われても。幽々子様なら単純だから言われた通りにすれば簡単に喜んでくれるけど……」
「……そう言えば妖夢のアレがあったわね」
軽率な発言を受けて、幽々子が意味深に呟く。
妖夢はしまったと青い顔をして幽々子に振り向いた。
「アレを着けて挑めば紫と言えども……」
「アレって、もしかして幽々子様!?」
「えっ、面白そう、なになに?」
「なんでもないです!」
問い詰めてくる天子に、妖夢は断固として答えるのを拒否する。
だが幽々子は静かに妖夢の後ろに回ると、彼女を羽交い締めにしてしまった。
「天子、妖夢のアレはそこの角を曲がってすぐに部屋、箪笥の一番上の左奥にあるわよ!」
「よっしゃ、行くわよ橙隊員!」
「イエッサー! 天子軍曹!」
「やあー! やめてそれ私の黒歴史ー!!!」
泣き叫ぶ妖夢を置いてけぼりにして、天子と橙は教えられた部屋に転がり込んだ。
どうやら妖夢の私室らしく、かわいいぬいぐるみや替えのリボンを上に飾った箪笥を開き中を漁る。
パンツやブラジャーを無視して、その奥にあった布切れをつまみ上げた。
「あ、アレってまさかこれ……?」
「うっわぁー……人間辞めてるねこれ……」
目に入った代物に、天子と橙は絶句した。
さっきのネコミミなど比ではない劇物だ、こんなもの身に付けさせたであろう幽々子にドン引きし、お願いを聞かせられたであろう妖夢に同情した。
どうしようか悩む天子であったが、やがて重々しく口を開いた。
「……着るわ、これを」
「えぇ、マジで!?」
「……正直なところ、あのひねくれた紫を落とすなんて並大抵のことじゃ無理だろうし、こういう賭けに出ないといけないとは思ってたのよ」
「いやでもこれは……いいの?」
「何でもしてやるって決心ならずっと前にしてた、あの日あいつに頭を下げた日からすべての屈辱を甘じて受ける覚悟よ」
「わかった……そういうことなら止めないよ。頑張ってきてね天子!」
「でも面白いからって覗いたらコンマ1秒でたたっ斬るからね」
「ダメ?」
「ダメ!!」
屋敷の奥で決意を示している少女のことはつゆ知らず、紫と萃香は置き直された机を挟んで座布団に座っていた。
対峙した紫が、睨むような視線を酔った萃香に投げかける。
「萃香、みんなして何を企んでるの?」
「みんなお前が好きなのさ、愛されてるねー」
「話をそらさないで」
萃香は茶化した言葉をピシャリと遮られ、笑みを消して細めた眼で紫を見た。
「天子に自分の秘密を話してないらしいじゃん?」
「……ああ、そのこと。でも経緯を考えれば当然よ、秘密は漏らすべきでないから秘密だし、比那名居天子が敵対する可能性のある要注意人物には変わりない。天人が今まで私を狙ってきたこと知ってるでしょう?」
「そうだねぇ、元々天界も紫を倒すために作られたんだし、幽々子に会う前から何度も追い詰められてたんだっけ?」
「状況から考えればそうでしょうね。当時の私が世を憎んで荒れてた原因が、何度も退治されていたからと考えれば納得行く。恨みも貯まって当然だわ」
「でもそれと天子に教えないことは関係ないでしょ、いい加減下手な嘘はやめたら?」
声を低くした萃香に鋭く切り込まれ、紫が怯んだ。
「今のあんたは、ただ天子に失望されたくないだけだろ、嫌われたくないだけだろ。こんなことを黙ってたなんて酷いって怒られたくないから、殻に閉じこもって逃げようとしてるだけじゃないか」
「……あなたに何がわかるというの、記憶を失う辛さが」
「ああわからないね。私は藍や幽々子ほどお前のこと知らないからね」
そこまで言って萃香は威圧感を弱めた。
組んでいた脚を崩し、膝の上に腕を置きながらふにゃりと目元を緩める。
「言ってみなよ、それでどうともなるわけじゃないけど、だからこそ気楽にさ」
無責任な軽薄さがあったが、それでも萃香なりの親愛だった。
紫はしばらく逡巡して視線を漂わせると、恐る恐ると言った様子で言葉を紡ぐ。
「……記憶を失うのは悲しいわ、今この瞬間の思い出も来年には切り捨てているんだと思うと胸が潰れそう。でも一番悲しいのは、それが理由で大切な誰かが悲しんでしまうこと」
紫が痛む胸を押さえて悲鳴のような声を絞り出す。
伝わってくる悲痛に、鬼の萃香も苦い顔をした。
「ある程度相手の性格について情報があれば、記憶がないことを悟られずに会話するなんて簡単よ。ほとんど初めて会う相手でも見知った仲みたいに話し合える。でもそれは表面上の話で、少し突かれれば記憶の欠落が伝わってしまう、最近、藍に白味噌が苦手だって言ったの、でも去年の私はむしろ好きだったらしいわ。そして思い出を共有できないと、みんな落胆するの」
「なんだい、そんなことで」
「そんなことでも、確かにある悲しみよ」
紫はその時の後ろめたさを思い出し、萃香を睨みつけた。
本気の苦悩を感じ取って、萃香も軽々しく否定することは出来ず苦々しく俯いた。
「むう……そんなことって言ったのは悪かったね」
「いいえ、気にしないわ。これが藍のように初めから覚悟してくれた仲間であればまだいいの、でも天子は何も知らないのよ。何も知らないまま、私に近寄ってきて、私との過去に真正面から向き合った。それなのにその過去のほとんどを私が失ってるなんて天子が知ってしまったらどうなるかわからない。彼女が涙を流してまで頭を下げてくれた意味を、彼女自身が見失ってしまうのが、私は恐ろしいわ」
天子が泣いたというのは、萃香にとっても初耳だった。
謝ったとは聞いていたが、傲慢さを持ったあの天子がそこまで真摯さをを紫に示していたとは。
それだけの誠意の前で隠し事をしていては、臆するのも仕方ないかもしれない。
とは言えこのままで良いわけでもなく、なんとか切り崩すのにいい方法はないかと、柄にもなくお節介なことを考えていると、廊下から幽々子が手招きしているのに気が付いた。
「おっ、次が来たか」
「また馬鹿なことやる気なの?」
うんざりとした表情の紫を置いて、萃香が幽々子のほうへ近寄って行く。
そして廊下の奥を覗くなり、眼を丸くして頬を膨らますと、大口を開けてゲラゲラと笑いだした。
「ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!! ちょま、なにその格好ー!!!? はははははははは!!!」
「要石!」
「ブヘァッ!!」
笑いすぎて霧になって避ける余裕もなく、振り下ろされた要石が萃香の頭にめり込んでノックアウトさせた。
気絶した萃香の角を伸ばされた腕がむんずと掴んで、紫の視界からぐったりした小柄な身体が連れ去られる。
今度はまたどんな酔狂なことをしだすのかと、紫が半ば期待して座していると、奥から現れた天子の姿にびっくりして目を剥いた。
「な、なななななあ!?」
そこにいたのは、いつもの服装を脱ぎ捨てて水着に着替えた天子。
だがその水着というのが、こう、オブラートに包んで言って際どすぎた。
小さな白い生地が、ちょっと力を入れれば千切れてしまいそうな細い紐で結ばれて大事なところを隠しているが、大事なところ以外は全然隠せていない。
さらけ出した肌が健康的に輝くその衣装は、外界で言うところのマイクロビキニであった。
「ど……どう?」
「どうじゃないわよ、なんて格好してるの!?」
「こ、これ着れば紫が喜ぶって幽々子が言ってたのよ!!」
身悶えしそうな羞恥で耳まで赤く染めた天子は、恥ずかしながらもその身を隠すことなく裸体にも近い姿を見せつけた。
いっそ裸のほうがまだマシな天子の背後で、襖の裏に隠れた妖夢が顔に両手を当てて深く落ち込んでいた。
「いやああああ、二度と着ないよう封印してたのに、まさか他人に見せつけられるなんて……」
「うわあ、ホントで妖夢があれを着たんだ。かわいそう……」
「顔真っ赤でアレを着た妖夢は空前絶後の可愛さだったわー」
「幽々子様ってたいがい鬼畜ですよねっ」
天子のあられもない姿を目の当たりにした紫は、視界に叩きつけられる情報のあまりの破壊力に、天子に負けないくらいの赤面っぷりを見せていた。
――なんでよりにもよって、さっき想像したのと同じような恰好なの!!
幽々子に付き合わされた時に考えた天子の姿、それが本物の光景となっていることに酷く動揺し、心拍数が高まった。
普段は見えない鎖骨、脇、へそ、ふともも、白く輝くそれが紫を誘惑する。嗚呼、あの体を抱きしめたらどんなに温かく柔らかいのだろうか! と。
これは危険だ、身の危険だ。もはやゲームだなんだと付き合ってる場合じゃない、何故か天子の左肩に傷跡があることを気にしてる余裕もなかった。
三十六計逃げるに如かず、スキマにより一時撤退からの精神集中の昼寝を決め込もうとした紫であったが、立ち上がろうとした腰に力が入らない。
「あ、あら……? 腰が抜け……」
「あ、逃げるなこら!」
天子は紫の逃走を察し、その前に捕まえようとダイブしてきた。
驚きのあまり身体が動けなくなっていた紫は押し倒され、勢い余った覆いかぶさった天子の腹部が、柔らかなお腹が鼻先に押し付けられた。
「ひあああああ、てん、し、そんな! 女としてはしゅ、はしたな柔らか!?」
「んひゃ! 紫、くすぐったいってば!」
「しょんなこと言われてもよ!?」
暴走のあまり噛みまくりの紫は、荒い鼻息を天子の肌に吹きかける。
唇にまで触れてきた天子の素肌が、理性を破壊しつくさんと脳内を蹂躙した。
畳に手を突いて身を起こした天子は、激しい反応を示す紫の様子を腰元にまたがって見下ろしてきて、気を良くしたように赤い顔でニンマリと笑う。
「お、おおー? その反応、もしかして紫って、本当に女の子が好き……?」
「いやそんなことは、天子の身体が優しすぎるのであってして!!」
もはや大妖怪の威厳も何もない狂乱ぶりだった。
天子は自分の肩を抱いて傷跡を指でなぞると、その手で紫のお腹に当てた。
「その、私だって恥ずかしいけどね」
服越しに感触を確かめるように押し当てられた手の平が、紫の肉を心地よく圧迫し熱に酔わせる。
白い肌が眩しく鼓膜を焼き、紫から段々と現実味が失われてきて、前後不覚になった頭に、目の前の華奢な体を抱きしめたりなんかしちゃったりしてしまいたい煩悩が渦巻いて、言いたいことが飽和した口が開いたり閉じたりを繰り返す。
そうこうしていると天子が手の平から指先で身体の輪郭を丁寧になぞりだし、指が喉元へ上がってきた。
へそから鳩尾を通り過ぎふくよかな胸のあいだを抜けて顎の先にまで、その蠱惑的な蛇が身体を這うのを、紫は全身を震わせながら感じ取っていた。
「紫なら、ちょっとぐらい触れてくれたって――」
「――真っ昼間から何をしてるんだお前は」
押し倒されたりしたりしたままの二人が縁側から外を見ると、昼間から痴態を見せられて渋い顔で苦言を漏らす藍がいた。
「きゃああああああああああああ!!!」
「へぶしっ!?」
我に返った天子により、紫の顔面は強烈なコークスクリューパンチでえぐられ、衝撃で後頭部から落ちて畳を叩き割った。
畳に紫の頭部を埋め込んだ天子は、涙目で走り廊下へと消えていった。
首だけ見なくなった主に際どい水着の天子、わけがわからない状況に藍が疑問を浮かばせていると慌てた様子の橙がやってきた。
「ら、藍様こっち来て!」
「どうしたんだ橙、これは何の騒ぎなんだ?」
「いいから、一度奥に!!」
急かされて仕方なく藍は奥へ進んだ。主はまあ、頑丈だし大丈夫だろう。それに紫と天子のじゃれ合いなら、あの程度はいつものことだ――水着プレイは珍しいが。
藍を廊下へ押し込んだ橙は、すぐさま襖を締めて振り返る。
「橙……どういうことかしらぁ……?」
「あ、あはは……」
突き刺さった頭を抜いた紫に睨まれて、橙は苦い笑い顔に恐怖の涙を浮かべた。
◇ ◆ ◇
「なんか妙なテンションになってた、死にたい」
「ま、まあまあ、落ち着いてくださいよ。気持ちはわかりますから」
いつもの服装に戻った天子は、廊下の片隅で膝を抱えて暗い雰囲気を漂わせていた。
妖夢に慰められる光景の背後で、寝かされていた萃香が薄目を開け、自分が気絶していたことに気づくと飛び起きる。
「――ハッ!? なんか面白いところを見逃した気がする!」
「あらおはよう萃香」
「あっ、おはようさん幽々子。どうなった?」
幽々子が首を横に振ったのを見て、萃香は「ありゃりゃ」と残念そうにとりあえず瓢箪の酒をあおった。
決して広くはない廊下でたむろう集団の端っこで、訝しげな顔の藍が声を上げた。
「……で、これは結局何の遊びなんですか?」
「紫が逃げられないように、仲良くさせてしまいましょうって話よ」
疑問には幽々子が間髪をいれず答えてきて、藍は納得する。
自分が半端にするよりかは教えるか距離を取るべきと進言した時の橙の様子を思い出せば、今回のことの発案者はおそらく彼女だろうと察した。
理解を得た藍に、萃香が酒の臭いを吹きかける。
「藍からは何か無いかい?」
「幽々子様にわからないのだから私にもわからないよ。第一わかったとしても口出しはしないね、私が動いては紫様の行動を強制しかねない。あの方はアンバランスだ」
立場的には藍が紫に従っている体だが、実際には紫は多くの面で藍に頼り切りだし、紫が優れた知能、優れた力を持っていても、持っている思い出の少なさから芯があまり強くない。
藍が苦言を呈せば紫は自分の意思と考えを見失ってしまいかねない。
致命的な失敗をしないように道を示すことはあっても、基本的には紫の自主性を尊ぶつもりであった。
「お前はそういうスタンスだしな。ううむ、これはアレだね。いよいよ私の秘蔵の殺し文句を使うしか無いかな」
「なにかあるの!?」
天子はさっきまで落ち込みようはどこへやら、妖夢をふっ飛ばして頼もしそうな台詞の萃香に縋り付いた。
頭を打って悶絶する妖夢とそれを抱きしめる幽々子を無視して突っ走る健気な天子に、萃香は「ああ」と相槌を打つと耳に顔を寄せとっておきの言葉を伝える。
しかしそれを聞いた天子は、怒りにも似た表情で飛び退くと小憎らしい小鬼に怒鳴りつけた。
「あんた本気でそんなこと言わせる気!?」
「本気も本気さ、押して逃げるなら引いて釣り上げるのさ」
「思いっきり嘘つきになるんだけど鬼的にどうなのよそれ」
「ふっふっふ、嘘は嘘でもお前と紫を幸せにするきれいな嘘さ」
「むしろドス黒いでしょ……」
天子は目元に手を当てて廊下に座り込み、深く考え込むと、悩んだ末に手の下から鋭い眼光を覗かせて顔を上げた。
それを見て萃香は、輝かんばかりの意志を感じて、安心に微笑む。
「これを言って離れるような仲じゃないさ。あいつを信じなよ」
「あんな言葉使ってあなたを信じてますなんて、虫が良すぎない?」
「かもね」
「……でも、進むためには恨まれる覚悟で試すべきかもね」
天子は一人納得して立ち上がった。
迷いながらも足を進める天子の背中に、萃香は何かを見出して満足気に見送った。
「紫に必要なのは、ああいう意志なんだろうね」
「萃香、何をけしかけたの?」
「黙ってみてなよ、結果はすぐ出るさ」
いつになく真剣な天子に幽々子は嫌な予感が走ったが、問い詰めても萃香はのらりくらりとした態度だ。
締め切られた襖の向こうからは、紫と橙の喚き声が聞こえてくる。
「橙ー? 何を企んでるのか正直に言いなさいー!」
「ひー! 許してください紫様、悪いことじゃないんですって!」
「天子にあんなことさせといて何言ってるの!」
「アレやらせたの幽々子様ですよー!」
騒がしい声に取っ手に手をかけた天子の手が震えて止まる。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて、天子は改めて襖を開け放った。
橙のほっぺたを両側から引っ張って折檻していた紫が、音を立てて開かれた襖に驚いて振り返り、二人の目が合う。
「こ、今度は普通の格好なのね。何をする気なの?」
現れた本命に紫は柔らかいほっぺから指を離し、解放された橙が藍のいる方へ逃げていく。
紫は先程の光景を思い出して顔を赤らめながらも、警戒を強めた様子だ。
だが関係ない、まっすぐぶつかるだけだと天子は前に出て、座っている紫を見下ろした。
「――――――」
「……? どうしたの、変なものでも食べた?」
硬い表情で何も言わない天子に、紫がわずかに心配し始める。
天子は意を決して、唾を飛ばして大声を張り上げた。
「だ――大っ嫌い! 紫なんて大っ嫌い!!」
「――――」
大きく目を見開いて瞳孔を揺らした紫は、時が止まったかのように、息すら忘れて固まってしまった。
辺りに響いた拒絶と否定に、藍と事情を聞いた橙が萃香に軽蔑した視線を投げた。
「うわぁ、これは引きます……」
「外道ぉ……」
「うはは、まるでゴミ以下の肥溜めを見るような眼だぁ」
「これはもう、切り捨てるべきでは」
「……殺しましょうか」
「ちょっと、二人とも殺気がシャレにならないからタンマ」
殺伐とした空気になりかけ殺意が湧き上がる廊下側とは違い、部屋の中は静かに、そして暗く沈んでいた。
実際に言いのけた天子は罪悪感に苛まされ、深く気落ちした表情だ。
咄嗟に謝ろうとした口が、言葉を出せずにパクパクと開閉する。
対する紫は天子がこんな言葉を言うはずないと動揺していたが、段々と冷静になる頭で誰の差し金か気付くと廊下を睨みつけた。
殺気立つ幽々子と妖夢に冷や汗をかく萃香を見て、立ち上がって早足で近づく。
「ゆか――」
険しい表情ですれ違う紫に、天子は声をかけようとしたが、結局それ以上は何も言えなかった。
「萃香、面ぁ貸しなさい」
「やぁ、紫っ、角引っ張るのは勘弁!!」
長い角を圧し折らんばかりの力で握り込んだ紫が、廊下を抜けて事を仕立てた鬼を引きずっていく。
心配そうな顔をする天子たちを置き去りにして、紫は白玉楼で一番奥まで萃香を連れて行くと壁に叩きつけた。
「どういうこと萃香!? あんなこと天子に言わせて!」
「そりゃあ紫と天子のためさ、ガツンとくる嫌な嘘だっただろ?」
珍しく真剣な怒りを露わにする紫に、なんでもないように萃香は述べる。
むしろその口調は、上手くやってやったと得意げに誇るかのようだ。
「さっきの言葉でわかったはずさ、もう天子との縁は深くなりすぎた」
「……そういうことね」
先程からの天子の奇行の理由もこれで掴めた。
最初に天子と一緒に白玉楼に来た橙が、家族が天子と離れないようにと気を使ったのだろう。
「怖いからって今更ナシにしようなんて無駄さ、無駄。あんた自身が耐えられないよ」
「それは……」
「それとも全部記憶を消しちゃってでも逃げるかい? それこそおすすめしないねぇ、天子だけじゃなく今まで藍たちが頑張ってくれたのが全部台無しになっちゃうし、何よりも天子が可哀想だよ」
放たれる言葉の数々に、紫がたじろぐ。
上から目線で語られたことを否定出来ないほど、天子から『大嫌い』と言われたショックは大きかった。
嘘だというのはわかる、だがそれで終わらせれないほど辛く、胸が苦しい。
「鬼の生き方からはぐれた今でも嘘は嫌いだけどね、一番嫌いなのは自分の気持ちに嘘つくやつさ。その点、天子はいいねえ、例え矛盾する気持ちがあったって最後には本当の望みに正直なやつだ、そのためならあんな下らない嘘だって本気でつく! あんたとは正反対だよ」
「つまり本当に私のことを大嫌いなのは萃香ってことね」
「その通りさ。お前の臆病なところが昔から嫌いだよ」
憎々しげに睨む紫に萃香は簡単に吐き捨てると、紫の脇を通り抜ける。
「でも、まっ、臆病だから肝心なところで大事なモノを捨てきれない癖は嫌いじゃないかな」
だが最後に見せた笑顔は、暴威を振るう妖怪でありながら獲得した、萃香なりの善性だった。
何だかんだ言って助けようとしてくれている友人からの想いに、紫は眉間の力を解いて受け取った。
「萃香…………どこへ行こうというの?」
「グヘッ」
だがそれはそれとしてムカつくのである。
逃げようとする萃香の襟首を後ろから捕まえて引き戻し、スキマから取り出した縄で萃香をグルグル巻きにして、更に厳重に結界を重ねた。。
「あなたが私と天子の今後を案じてくれたのはわかるわ、えぇわかりますとも。私もあなたがお酒の飲みすぎて体を壊さないか心配だったの、お礼をしてあげましょう」
「いやそれいらない心配だからああああ!」
完全に簀巻状態にされてお酒に手をのばすこともできなくなった萃香を引きずって、紫は天子たちのところへ戻る。
居間に入る前に、廊下で待っていた幽々子が、弱々しい声をかけてきた。
「紫、大丈夫? 落ち込んでない?」
「大丈夫よ幽々子。別に天子が本気で言ったんじゃないってわかってるから」
心配のあまり幽々子のほうが落ち込んでしまっているのを、紫はやんわりと元気づける。
居間に入ると、より深刻そうな顔をした天子がいた。
「紫、さっきはその――」
「いいわ、気にしてないもの」
紫が先手を打つ天子の言葉を遮った。
謝罪を封殺された天子が力なく視線を下げるのを見て、紫も胸が痛い。
暗い雰囲気だ、これを振り払おうと紫はできるだけいつも通りを装って、声を上げた。
「さあ、宴を始めましょう」
◇ ◆ ◇
「スキマ妖怪は、元々この世界の存在ではない」
暗い雷雲の中、重く世界を揺るがす厳かな声に、衣玖は震撼しながら聞き入っていた。
「現世とあらゆる異界、そして月を含めたこの世界はそのすべてを結界に覆われている、これがあるから世界は他の世界と交じることなく、独立した一つとして形を保っていられる」
衣玖が対面しているのは、雲の中に投影された龍神の虚像であった。
月に住まいし天帝、すなわち龍神の声を聴くことが竜宮の使いの使命の一つであり、龍神から授かった羽衣を通すことで対話することが出来る。
羽衣から発せられた光が龍神の大きな頭部を映し、稲妻のように響く声が衣玖に叩きつけられる。
「だがこの世界と異世界とを分かつ境界の隙間には、世界が生まれる前の理すらない混沌たる原初の闇が広がっている。スキマ妖怪は元々、そこに住まうまつろわぬ影たちの一つ。境界より這い出てきた彼奴は、我らとは根本からして異なる、恐ろしい存在なのだ」
龍神が恐ろしいなどと形容する存在を、衣玖は他に知らない。
幻想郷における最高位の神であり、事実その神はそれ以外の神を遥かに凌駕する権能を有する、この世界における理とも言っていい偉大な存在だ。
「アレは下手をすれば存在するだけで世界の境界を揺らがせ、すべてを滅ぼすきっかけになりうる。故に遥か過去から幾星霜、彼奴を完全に滅する方法が探られてきた。天界とは元々はスキマ妖怪の滅殺を研究する有志が集ったのが始まりであり、比那名居家と緋想の剣も試された方法の一つだ。境界の隙間にも気質が存在することが判明し、気質を用いて本質を突けば境界に生まれた存在をも消滅させられるのではないかと考えたようだな」
天子からも聞かされた話の一部に、天子と紫が巡り合った因果に一瞬衣玖は心を飛ばした。
しかし思考をも圧倒する存在感を前にして、すぐにまた龍神の声で正気に戻される。
「だが結局は彼奴を滅することは誰も成し得なかった。一時的にこの世界から消し飛ばすことは容易いが、彼奴の本質を完全に滅ぼすことは出来ず、一時的にこの世界の依り代を壊し境界の隙間に追いやるだけで、すぐにまたこちら側に顕現する。月の都は境界が崩れたときにも自分たちだけは助かるようにと、早々に諦めたものたちが築いた安全地帯、孤立した新世界だ」
月の都の異常な科学力の理由もまた、紫が原因であった。
何もかもが紫を脅威として動いていた事実を知らせれ、衣玖は認識が追いつかない。
「……八雲紫と我は、幻想郷が作られる時にある契約を交わしている。それは表向きには人間と妖怪の諍いを収めるためのものだが、実際には違う。もし八雲紫が境界を乱すようなことがあれば、我が幻想郷ごと全てを雷槌で噛み砕いて境界を正す、かわりにそれまでは彼奴を見逃そうというもの。我にできることはそれくらいなのだ」
それはつまり、龍神にも八雲紫を完全には殺せないということだ。
本当に恐ろしい話だ、あらゆる神の頂点に立つ龍神ですら殺せないなど。
それでもいつ爆発するかわからない爆弾を幻想郷という籠の中で見張れるのだから、世界にとってこの契約は有り難いものなのだ。
「永江衣玖よ、お前が八雲紫と関係を持てたというのなら丁度いい。やつを監視し、必要とあれば我に伝えよ。その時には、この幻想郷を引き換えにして全てを収めようぞ」
「……その任、承知しました」
幻想郷の最後の最期に与えられた使命に、衣玖は神妙に頷いた。
これで龍神の話は終わりだろうと衣玖は判断し、わずかに緊張を緩ませる。
事実、龍神が己の立場から伝えるべきことは衣玖に伝え終わっていた。
「だが、もしもスキマ妖怪がこの世界と共存できる余地があるのならば」
だからこの言葉は神としてではない、個としての憐れみだ。
「あの哀れな少女に、束の間の安息くらいは訪れていいだろうがな」
その声に、今までのような肩にのしかかる重みはなかった。
今までと違い、威厳ではない別のものがこもった言葉。
龍神が最後に聞かせた少しの慈悲に、衣玖は肩肘張った竜宮の使いとしてではなく、天子の従者である永江衣玖として聞き届けていた。
◇ ◆ ◇
酒が飲みたい過ぎて苦悩のあまり気絶した萃香を除き、宴会は盛り上がっているようであった。
しかし一見すると楽しそうな場に見えて、紫と天子の口数がいつもより少ないことに周りはすぐ気付いた。
やはりあの問題発言が尾を引いているのは間違いなかった。
「――それじゃあ、予定通りに」
「はい、お願いします。萃香はどうします?」
「ほっときなさい、寝てるし、いい薬だわ」
夜も更けてきたころ、幽々子と藍がひっそりと囁き合う。
顔を火照らせた幽々子は、橙と妖夢が紫に可愛がられているところへ割って入って、可愛い従者にしなだれかかった。
「ようむぅ~、酔っちゃったわ寝かしつけて~」
「わわー、ゆゆこさまー! だいじょうぶですかー!!?」
お前もうちょっとどうにかできないのかと、藍と橙が思う程度の棒読みで妖夢が叫ぶ。
不自然過ぎる悲鳴に紫と天子が首を傾げるが、妖夢は無視して幽々子をお姫様抱っこで持ち上げる。
「それでは紫様! 私は幽々子様を構わないといけませんのでこれで寝させていただきます」
「え、ええ……」
まくし立てた妖夢はさっさと寝室へと引っ込んでしまった。
苦笑いで眺めていた藍と橙も、顔を見合わすと頷いて立ち上がった。
「紫様、私達もそろそろお休みさせていただきます」
「おやすみなさい紫様! 天子もおやすみ!」
それだけ言って式神の二人もそそくさと宴会場を後にする。
残ったのは紫と天子、それと苦悶の表情でヨダレを垂らして気絶しっぱなしの萃香のみ。
起きている二人は、お互いに視線を交わすと苦笑を漏らした。
「気を使われちゃったわね」
「みたいね」
宴会のあいだはお互いに避け合っていた二人だが、観念して向かい合った。
空っぽになった盃を手に、身じろぎもせず見つめ合う。
しばし静寂の中で覚悟を経て、天子が先に口を開いた。
「……さっきはごめんね、あんなこと言って」
「良いのよ、私も悪いところがあるし」
「わ、わかってると思うけど、嘘だからねあれ!」
慌てて紡がれた言葉に胸を叩かれて、紫は張っていた肩から力が抜けるのを感じた。
「……はいはい、わかってるから安心しなさい」
言葉とは裏腹に、紫が一番安心していた。
嘘だろう、とはわかっていた。萃香の裏付けも取れていた。
だがそれでも『大嫌い』というワードは、天子に否定してもらえるまで紫に重く圧しかかっていた。
言葉の一つでこうも気持ちが浮き沈みするなんて、どれだけ自分の心が天子に重きをおいているのか実感する。
妖怪などとは対極の存在に心を寄せるなんて愚かなことをしたなと思う反面、天子のような人を好きになれた自分が嬉しかった、誇らしいとすら思った。
「でもにゃんとかどうかと思うけどね」
「な、なによ! 水着着た時なんて紫も喜んでたじゃないの!」
「喜んでないわよ!?」
「嘘つきー、女好きの変態ー!」
「あんな格好するあなたのほうが変態でしょ!」
そして今更ながら、天子が自分と離れないためにあんなことをしてくれたことに気が付いて動揺が走った。
ネコ耳つけたり変態的な水着を着たり、そうまで身を犠牲にしてまで離れたくないと思ってくれているのだ。耳かき殺人未遂のことは忘れる。
とりあえずさっきの水着姿は記憶投影術式で写真化して保存しておこう。
「――ああ、紫と一緒にいるのってやっぱり楽しいな」
言い争っていた天子だが、話の切れ目で不意に想いを浮かべた。
唐突に表情を変えて静かな笑顔になる天子に、紫はきょとんとして黙り込む。
「うん、紫に謝ることが出来て本当に良かった」
「……天子?」
「こんなところで逃げられたら頭下げた甲斐がないし、あんたみたいな面白いやつ逃さないんだからね」
「ふふ、あなたっていつもそう勝ち気ね」
浮いた空気を生意気な口調で誤魔化して、天子がにっこりと微笑む。
彼女の顔が赤いのは、お酒のせいだけだろうか。
「大丈夫よ、どんなことがあってもあなたから離れたりなんてしないから」
目の前の少女の声が優しくて、つい紫も口を滑らせてしまった。
「な、なんて……」
「……紫、顔赤い」
「お酒のせいよ、言わないで」
自分だけ指摘されて、紫は悔しそうに顔を背けた。
何故自分ばかりこんなにもヤキモキさせられなければならないのかと、八つ当たり気味な感情を抑えつける。
気難しい顔をする紫を前に、天子は「とう!」と掛け声を上げて紫の膝元に頭を乗せた
「きゃっ!?」
「いえーい、特等席!」
「ちょっともう、いきなりどうしたのよ」
紫はそう言いながらも、じゃれつく天子を追い払いはしなかった。
優しい紫の太ももに、天子は服の上から頭をうずめて呟く。
「紫は温かいね……私とは大違い」
わずかに陰りを感じる声に、紫はどこか心配になった。
天子らしくない、何かが込められた悲しい声で、反射的に反論する。
「そんなことない、あなたも十分温かいわ」
「そうかな……そうだと良いな……」
言い聞かされた天子は願いを浮かべて、酔いで重くなったまぶたを閉じて力を抜いた。
ほどなくして紫の膝下から安らかな寝息が立ち始めた。
紫は盃を置いて、寝転がった天子を見下ろしている。
安らかな寝顔は遊び疲れた子供のようで、今日という日に満足できた幸せな人の表情だ。
おもむろにその頬を指で突いてみたりしてみるが、その程度ではまったく反応しないほど熟睡している。
しばらくほっぺの柔らかさを楽しんでいると、紫の中でどんな夢を見ているのだろうと興味が湧き始めた。
実は紫は他人の夢というものに関心が深い、というのも紫自身が夢を見れないのだ。
ある妖怪曰く、夢はこの世界に生まれた存在のためのものであるとのことらしく、世界の外側から現出した紫は仲間外れだ。
しかし紫の能力を使えば、他者の夢の中に潜り込むことができる。
いつも幻想郷で遊び回ってる彼女の夢はきっと面白いものに違いない。天子が楽しんでいるものを、紫も一緒に楽しむことができるのだ。
同じ風景も見る人が違えばその写り方は変わる、天子の瞳に映る世界がどんなものなのか知りたくなった。
無意識下の確信の表れである他人の夢に潜り込むなど、本来は手を出してはいけない心の侵略のはずなのだが、一度魔が差してしまえば、欲望は際限なく膨らんでいく。
天子の閉じた瞳の上に手を重ね、境界を操る。
「ごめんなさいね」と言いかけて、謝れることではないと思い口をつぐむが、その手を戻しはしなかった。
紫の意識と眠れる天子の無意識が溶け合い一つに混ざる。
目を閉じて天子から押し寄せてくるに風景に心預けた。
――――
――――――――
――――――――――――――――
心地よい暗闇に身を任せた紫が心の瞳を開けた時、最初に見えたのは薄暗い夢の空間を支える網目状のテクスチャフレームと、宙にいくつも浮かんでいるシャボン玉に似た何か。
ここは異界に広がる夢の世界、すべての夢は互いに繋がっていて、少し能力のあるものならば自由に行き来できる。
紫はここから天子の夢に入り込もうとするところだったが、声を掛けられ身動ぎした。
「おや、またあなたですか」
紫が振り向いた先にいたのは、ドレミー・スイートという夢の妖怪、夢の監視者。手に持ったピンク色の粘土のようなものをこね回しながら、知った顔で眠たげな視線を送ってきている。
紫としても彼女のおおよその情報は知っていた、昔の紫も同じように他人の夢に入り込もうとしドレミーとは会って彼女の情報をプロファイルしている。もっとも紫本人に実際に会った時の記憶は覚えていないが。
「あら監視者さん、私が来るのがわかってたのかしら?」
「いえ、仕事でちょうどこの辺りの夢に来ていましたから」
「仕事ねえ、誰が頼んだのかしら」
「みんながですよ。多くの無意識が監視者を望んだから私が生まれたのです」
わざわざ見張られて自由を無くしたいとは難儀なことだ思う紫の前で、ドレミーが監視者らしいご忠言を始めた。
「それはそうと感心しませんね。他人の夢に土足で上がるのは」
案の定の発言だった、彼女の立場を考えれば当然だろう。
とは言えそれで引き下がるほど紫も大人しくはない、無理を力で押し通すのが愚者の特権だ。
「あら、ならここで一戦交える?」
「遠慮しておきましょう、私では負けるのが目に見えています」
「スペルカードルールでもいいのよ」
「いいえ、どちらにせよ今のあなたは強引で止められそうにありません」
ドレミーの言葉を受け、そんなに自分が急いだ風に見えていたのかと紫は我に返って顔を紅潮させた。
「卑屈なあなたがそんな不遜な行動を強行しようとは珍しい、よほど大切な方ですか」
「た、大切なんかじゃ。ああいえ、それなりに親しいけどそういうのじゃ」
紫があからさまに感情を露呈する、ドレミーは物珍しげに見つめる。
たまに夢の中に侵入してくる紫とはそれなりに長い付き合いになるが、彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。
異物と呼ばれ排他される存在が、まるでウブな生娘なよう。
しかしならばこそ、なおのことその人の夢に入り込むべきではないと思うが、すでに一度忠告したのだから二度目は言わなかった、精々後悔すればいいだろう。
「これは自分の身を護るための情報収集ですから、天子のことだからいつ私の寝首をかこうとしているかわかりませんし、ええそうですともやましい理由しかありませんわ」
「はあそうですか、ではご自由にどうぞ」
投げやりな態度のドレミーに送り出されて、いよいよ紫は天子の夢へ向かおうとした。
周囲に浮かぶシャボン玉のような物は夢魂と呼ばれる物で、これら一つ一つが眠っている者が見ている夢なのだ。
夢魂の表面にはその人が見ている夢の内容が断片的に映し出されており、紫はその一つ覗いてみると、蒼い髪の少女が歩いている映像が見えた。
ビンゴだ、早速天子の夢を見つけられた、後はこの夢を壊してしまわないように優しく境界の中に入り込むだけだ。
紫は夢魂に手をかざし能力を発揮する、自らの意識と夢魂の内側との境界を限りなく薄めて近づけると、眠りに落ちるような目眩が襲い視界が落ちた。
――――自分の輪郭がぶれるような感覚の後、目を開けると紫はどこぞの里の中にいた。
幻想郷ではない、周囲の建物の作りからしてもっと昔の場所が夢の舞台だ。当時の記憶はとうに闇に失われているが、千年以上昔の建物がこういった形状だと伝え聞いている。
どうやら上手く夢の中に入れたらしく、すでにドレミーの姿は周囲から消え去っていた、その代わりに現れたのは見知った後ろ姿。
時刻は黄昏時、夕闇に人影が少なくなってきている里の通りの真ん中に天子がいた。
今よりも小さな背丈で、同じ蒼髪の女性と手を繋いで道を歩いている。
「お母様、今日は川で魚をいっぱい釣ってきたわ!」
隣を行く女性を見上げて、天子は無垢な笑顔を浮かべて誇らしげに反対の手に持った魚籠を持ち上げていた。
――――かわいいいいいいい!!!
思わず叫びそうになる口を紫は咄嗟に押さえた。ここで不審な行動をすれば夢の内容が変わり、純粋な天子の夢を楽しめなくなってしまうかもしれない。
いやしかし、純真さを持った幼い天子はとてつもなく可愛かった。背丈は今より少し小さいくらいで一見するとあまり変化はないが、挙動の一つ一つが純朴で愛らしさにあふれている。
無論、現在の天子が可愛くないわけではないのだがあっちは力強いたくましさがある、それに対し庇護欲を誘われる無邪気な笑顔の新鮮さにクラっときた、いわゆるギャップ萌えである。
身悶えしながら、この天子に飛びついて弄くり回したい衝動を必死に我慢する。
「ふふ、すごいわ地子。今日はこの魚を焼いて食べましょ」
「今日は私にも捌き方教えてね」
「もちろんよ、地子は頑張りやさんね」
天子が過去に地子という幼名で呼ばれていたのは紫も聞いている、恐らくこの夢は天子の人間時代の記憶が元になっているのだろう。
子供時代を写した夢の天子のなんたる純粋無垢でかわいらしいことか。
背丈も小さいし、手足やほっぺたは今より丸っこくてぷにぷにと柔らかそうで、全身から愛嬌が漂っている。
極み付けはこの屈託のない笑顔だ。今の天子もいい意味で子供っぽさを保持しているが、これは子供っぽいというより純粋な幼さだ。
もちろん今の天子も十分可愛い、だがこの純粋な可愛さはそれとはまた違う、新鮮な衝撃だった。
尊い、実に尊い。これは現実に戻ったら写真化だ。
「地子はなんでも上手だから、お母さんもすぐ追い抜かれちゃうかもね」
「そうかな? 私上手くやれてる?」
「ええ、えらいえらい」
「えへへ……」
天子の隣を行く女性は話を聞く限り天子の母親らしい。顔立ちは天子と似ており髪の毛や瞳の色も同じだ。胸は――そっくりだ。
彼女に褒められると、天子は嬉しさに笑みをこぼしながらも、照れくさそうに鼻をこする。
現代の天子なら間違いなく胸を張って「当然よ!」などと言って威張り散らすだろうに、それはそれで天子らしくて好きなのだが、こっちの幼い天子も破壊力抜群だ。
まさかえっちな水着レベルの動揺を味わうことになるとは思わなかった、淫猥さとは別の興奮に押さえきれなくなってくる。
「私はお母様とお父様の娘だもん、ちゃんとしなきゃよね」
「あら、無理しなくていいのよ? 地子が幸せになることが一番大切なんだから」
「駄目よ、私のせいで二人に恥をかかせたりしたくないもん!」
なんて純朴な頑張りだろう、こんな言葉をかけてもらえる両親が羨ましくてはち切れそうだ。
というかもう我慢ができない、こんな天子愛でざるを得ない。むしろ何もしないのは世界への冒涜である。
はあはあと危ない息遣いで口をもとをだらしなくした紫が、震える手をわきわきさせて背後から天子に近寄った。
「それに、お母様とお父様がいれば、どこでだって幸せだもん!」
そう言い放った天子の隣で、血まみれの手が母の胸から突き出てきた。
「――えっ?」
傷口から飛び散る血がスローモーションのように脳へ焼き付く。
その言葉が出たのが幼い天子だったか、それとも自分自身だったのか紫にはわからなかった。
ただ自分の右腕が、天子の母を貫いていることを理解するだけで頭がいっぱいだった。
「な、なんなのこれは――」
慌てて腕を引き抜くが塗れた血はすでに拭いようがなく、紫の目の前で母親は糸が切れた人形のように崩れ落ちて横たわる。
血溜まりを広げる母親を見て、天子が呆然とした表情でぺたりと座り込んで、もう動かない肩を揺らして呼びかけた。
「お母様……? ねえ、お母様……?」
何故今自分は天子の母親を貫いてしまったのだと脳裏に自問が響く。まさか嫉妬にかられて彼女を殺したいとでも思ってしまったのか?
「違う……これは、最初からそういう内容だったんだわ」
今のは紫の意思ではない。いつのまにか夢の中の展開に巻き込まれ、登場人物の役割をなぞっていた。
これは天子の見ていた悪夢――そう理解した時、母親を喪った娘が、こちらを見て絶望の表情を浮かべた。
「いやああああああああああああああ!!!」
――――――――――――――――
――――――――
――――
紫がうつつに意識を引き戻した時、引いた手のひらの下から、同じように目覚めた天子と目が合った。
まるで夢の続きのように感じて、紫は思わず身を竦めた。
その反応を見た天子は、表情を苦痛に歪めてバネのように起き上がると、即座に紫へ振り返って思いっきり頬を引っ叩いた。
乾いた音が夜に響いて、紫は頬が火傷でもしたみたいに熱く感じた。
「――見たわね、あんたっ」
心の中に土足で上がり込んだことは、天子にバレてしまっていた。
自らの傷に触れられてしまった天子の顔は苦渋に満ち、涙が浮かんでいる。
天子が涙を見せるのは、桃を差し出して謝ったあの日以来だ。
悪気はなかったとは言え、見てはいけない物を見てしまい、紫は痛む頬を押さえて力なく頭を下げるしかなかった。
「ごめんな……さい」
「……バカ!」
それだけ言い放って、天子は紫に背を向けて黙り込んでしまった。
天子の痛々しい態度を見て、ようやく紫に後悔の念が浮かび始めた。ドレミーの言う通り、踏み入るべきではなかった。
目の前の丸まった背に紫は手を伸ばしかけ、すぐに下ろす。
「本当に、ごめんなさい」
詫びたいのにそれ以上の言葉が見つからない。
天子のためにどうするべきだろうか。そっとしておくべきか、無理にでも言葉をかけるべきか。
しかしどれを選んでもどうにもならない気がする、夢に触れてしまった時点で何もかも悪くなるしかなかった。
紫が気を回して頭を悩ませていると、唐突に天子が顔を上げた。
「お母様が、妖怪に殺されたの」
それは正しく夢の内容で紫は心臓をドキリと鳴らす。
「人間だったころ、私の目の前で殺された。その妖怪はその場で退治されたけど、そんなんじゃ何の慰めにもならなかった」
天子はポツポツと語り始めた。
掠れた声が紫の心に突き刺さる、最初は力がなかった声には段々と熱が篭もっていき、やがて堰を切ったように苦しい想いが溢れ出す。
「お父様も前は小うるさいけど優しかったのに、狂って死にかけて、それを助けようとしたら私が殴られた。それでもこれ以上家族が死ぬよりはいいって思って耐えたけど、痛かった」
とうとう溜まっていた涙が天子の頬を伝った。
大粒の涙は次から次に湧き上がり、天子はクシャクシャに顔を歪めてしゃがれた声で泣き喚いた。
「ずっと……ずっと苦しかったのよ! 辛かったのよ! 本当なら、家族一緒にずっと天界で暮らせたはずだったのに。何で私がこんな目にあわなきゃいけないんだって、嫌で嫌で、苦しくて仕方なくって……!!」
泣きじゃくる背中に、紫はいても立ってもいられなくなった。
人の悲痛な過去を掘り起こした身でおこがましくても、彼女のために何かしたいと思った。
熱い気持ちに突き動かされて天子を背中から強く抱きしめる。
「大丈夫……もう、大丈夫……」
「ゆかり……」
喪われてしまった天子の母親の代わりに何ができるだろうか、何をしてやれるだろうか。
誰かの代わりになろうなど無理な話だろう、でもそれで諦めては誰も救われない。
無駄なことを考えてはダメだと、衝動的に思ったままの気持ちを口から出した。
「ここはもう、あなたを苦しめるものは何もない。だから大丈夫よ」
気休めでなく、本気で心からその言葉が出た。
自分でも驚くくらい言葉が強まるのを感じる、今この瞬間は自らの全てが天子のためにあると思った。
紫にきつく抱き締められる天子は、涙で潤んだ瞳で呆然と見上げてくる。
「またあなたが奪われそうになったら、私がそれを護るから」
笑ってしまいそうなくらい白々しい綺麗事。
例え紫が本気で思い込んでいようと、そんなこと言われたって何の信用もできないのに、天子は胸の奥に火を入れられたように熱くなるのを感じた。
母を喪った悲しみを、その後の苦痛を、全てを知ってもらえたわけでもない、これで全てが救われるわけでもない。
それでも、紫の言葉に詰まった熱量が、天子の心を激しく叩いた。今までの苦痛にまみれた記憶が頭を過り、それらを紫の温かさが塗りつぶしていく。
急速に巡る感情に思考が追いつかない中、縺れた頭でただ自分は嬉しいのだと直感した。
「う……あぁぁ……うわああああああああああああああああああ!!!」
湧き上がるのは実に数百年分の慟哭だった。
紫の胸に頭を押し付け、涙で汚しながら声が枯れるまで泣き叫んだ。
ずっとずっと天子の泣き声が続くのを、紫はすべて受け止める。
抱きしめる紫は、これだけ辛いことがあって、今日を笑って生きられるとは、なんて強い人なんだろうと思った。
そんな強さを持った彼女が今は自分に抱かれている、その事実だけで紫は不謹慎ながらも幸福を感じ取っていた。
胸に抱いた熱が、紫の気持ちが増大していく。
天子の力になりたい、報われなかった少女を幸せにしてあげたい。
ずっと天子のそばにいたい――――
これはもう、ダメだ。私はもう、我慢できない。
臆病なんて通じないほど、好意が強くなりすぎて。
「――天子、私はあなたに隠し事をしているの」
天子ともっと近付きたい、そう思ってしまってしまいました。
◇ ◆ ◇
「記憶を無くしてる……それに冬眠が、バックアップの整理……?」
打ち明けられた秘密に天子が呆然と繰り返すと、その通りだと紫は神妙に頷いた。
「天子は、スキマ妖怪という存在についてどれだけ知っているかしら」
「……これでも天人だからね、概要は知ってる」
天子の眼光がわずかに鋭くなる、いつもの自分勝手なワガママ娘とは違う空気が彼女を包む。
成り上がりと呼ばれる放蕩な不良天人なれど、彼女とて天人になるにふさわしいだけの血を引き継いだ由緒ある血統なのだ。
「世界の境界を乱す異物、元々は私たち比那名居家だってあんたを完全滅殺するために用意された血族だしね」
穏やかではない言葉が流れ、天子が平然と敵対者の事実を述べるのを、紫もまた動じることなく受け取っていた。
だから天子も気にせず言葉を続ける、この程度のことは直接語るまでもなく互いに了承していたことだと。
「本来なら気質は大地に溜まり、飽和すると空に昇って緋色の雲を形成して、地中の気質を共鳴することでエネルギーを発揮して地震を起こす。その気質を要石に溜めて、緋想の剣で弱点に合わせて気質を変換、あんたにぶつけるってのが比那名居家が試した手段。まあ失敗したらしいけどね、あんたに合った気質の変換方法が見つからず、こっち側での身体を消し飛ばせても本質までは消滅させられなかったって聞いてる」
「らしいわね、私自身も覚えてないけれど」
覚えていないらしく他人事のような答えを返されたが、お互いの認識は一致しているということで、ここまでは天子も特にどうこう言うことはない。
だが一つだけ天子は尋ねなければならないことがあった。
「……私を許してくれたときの紫は、私のことを覚えてたの?」
それを聞いた時、紫は眉を歪めて視線を落とした。
この反応だけで天子はその意味を悟ったが、結論を急がず紫の言葉を待った。
「冬眠から眼が覚めたら、すぐに整理したメモリーで私の記憶と大結界のバックアップを書き換える。冬眠が開けた時、あなたに関して覚えていたことは前年の1割にも満たない。あなたに関して覚えているのはプロフィールを除き、謝罪のチャンスを与えたことと、嫌悪感くらい」
途中までむっつりとした表情で聞いていた天子だが、最後の言葉を聞いて意表を突かれたように目を丸くした。
「私が嫌いなんてこと、いちいち残してたの?」
「いいえ、感情については記憶を失っても残るのよ。記憶を失っても藍や幽々子たちのことは好きだし、あの時の私は変わらずあなたを嫌っていた」
紫は言うべきことを言い、伝えるべきことを伝えたと見ると、正座のまま畳に手をつき、誠心誠意で頭を下げた。
不安で声が震えて言葉がバラバラになってしまいそうなのを、気力を振り絞って繋ぎ止める。
「……黙っていてごめんなさい。勇気を出して歩み寄ってくれたあなたを裏切るような真似をしてしまった」
重い静寂が部屋を包む、紫は腹の底が冷えるのを感じながら、黙って判決を待ち続けた。
対する天子は何を考えていたのか、気持ちを押し殺した表情でしばらく紫の頭を見下ろしてぽつりと呟いた。
「……一つ、お願いをしていい?」
「……わかったわ、できることなら何でもしましょう」
恐る恐る差し出された言葉に、紫がゆっくりと顔を上げる。
囚人が罪を償うために身を差し出すような覚悟で待つ紫であったが、天子から言われたのは予想外の内容だった。
「そのバックアップを書き込むところを見てみたい」
「えぇ!?」
お願いの内容を聞かされた紫はうろたえて、引き起こした身体が倒れそうになるのを畳に手を突いて支えた。
もちろん紫はどんなに酷い償いでも――周りを巻き込まずに紫一人で片付けられるという条件付きではあるが――できるだけ聞き入れるつもりではあった。
しかしだ、境界の隙間から帰ってきた時の紫は記憶を失い意思が最も脆弱な瞬間ではあるし、それに何よりも、これはあんまりにも恥ずかしすぎる。
「なんでもするって言ったじゃない」
「いいい、言ったけども!? 人様に見せられるようなものじゃないし、裸で発狂して涙と鼻水でボロボロなのよ!?」
あちら側に渡った時点で何故か衣服は消滅してしまうし、記憶の書き込みの負荷でそんな醜態を晒すというのは、仮にも女の体を成している者として沽券に関わる。
それをよりにもよって天子に見せることになるなんて、そんなことをされるなら一思いに首をはねられたほうがマシだ、その場合は境界の隙間に強制送還されてまたこちらに戻ってきて、藍に記憶の補填をしてもらうだけなのだが。
ある意味で妖精以上に死の概念が軽い、というよりもほぼ存在しない紫だからこそ償いになるのならどんな悲痛さも覚悟していたが、こればかりは想定外だ。
「でも藍や幽々子は見たことあるんじゃないの?」
「そうだけど、それは協力して貰う必要があるからってだけで……そもそもどうしてそんなところを見たいの?」
「だって、それが紫の一番大事な部分なら、私はそれが見たい」
まっすぐな目で見つめられて、紫は言葉に詰まった。
緋い瞳から感じるのは、紫が恐れていた軽蔑や敵意ではない。
もっと純粋な何かに惹かれ、緊張に声を震わせながらも紫は口を開いた。
「辛いことお願いしてるのわかってる? どんなセクハラよりも酷いこと言っているわよ」
「うん、でもお願い」
繰り返し唱える天子の瞳は、緋く透き通っていた。
これが弱みを握ろうなどという邪念から来るお願いならば紫も断ったが、この真摯さは拒絶できない。
「……わかったわよ。ただし藍も一緒にいて貰うわ、手順は簡単だけど万が一にも失敗したら洒落にならないもの。ここじゃ迷惑だから、私の家で行うわ。藍を起こしてくるから先に行って待ってて」
結局、紫が先に折れ、天子もこの条件で頷いた。
紫は自宅へと通じるスキマを開くとそこから天子を屋敷に送ってから、白玉楼の客間で寝ている藍の元へ向かおうと立ち上がった。
「良かったじゃん、言えて」
足元から響いた声に紫が視線を落とすと、簀巻にされた萃香のばっちり開いた目と目が合った。
その意味するところを数秒ほど思考したのち、紫は全身が羞恥に燃え盛るのを感じながら飛び退いた。
「い、いつから起きてたの!?」
「あなたを護るわー、辺りから。感動的だったねー、涙ちょちょぎれちゃうよ」
「うううううあああああああ!!?」
下品な笑いを浮かべる萃香に、紫は悶え苦しんで転がりまわる。
思い返してみれば一世一代の告白めいたあの台詞を他人に聞かれただなんて、それだけで恥ずかしさのあまり記憶までぶっ飛んでしまいそうだ。
だが自分の言葉しか聞かれてないのは不幸中の幸いというものだ、自分のせいで天子の過去まで知られていたら、後ろめたさに酷く後悔したことだろう。
思い直した紫は、必死に心と体を立ち上がらせた。
「天子に大嫌いって言わせたのは間違いなかったね、ということで今回最大の貢献者の私の縄をほどいてくれてもいいんだよ」
「そもそも! あなたが余計に話をこじらせたから! こんなややこしいことに!」
「いたっ! 痛い! 途中からお前らが勝手にやったんだろ、恥ずかしいからって八つ当たり止めてって!」
抵抗できない萃香を蹴り飛ばした紫はそれで少し落ち着いたらしく、縄の結び目に局所的な結界を展開して切断した。
簀巻状態から脱却した萃香は縄をほどいて上半身を起き上がらせると、襖に手をかけるゆかりの硬い背中を見上げる。
「もう逃げるなよ」
「……天子を護る限りは、逃げないわよ」
それだけ告げて紫は立ち去った。
どうやら腹を括ったようだが、それはあくまで天子を庇護対象とした場合の話だ。
もしもこの先、天子が紫と並んだらどうなるのか。
「まだまだ心配だね、しっかり捕まえてなよ天子」
小さなボヤキは夜に消え、届くことなく紫は廊下を渡る。
客間にたどり着いた紫は、浴衣に着替えて並んで寝ていた式神二人のうち藍だけをゆすり起こした。
せっかく目に入れても痛くない式神と幸せに添い寝していたのに邪魔をされ、藍は不機嫌そうにしながらも事情を聞いて納得したようだった。
「それで、寝ているところを叩き起こされたわけですか」
「ごめんなさいね」
「いえ良いですよ、それなら確かに付き添いが必要でしょう」
藍は横で寝ていた橙を起こさないように気を付けながら軽く髪を撫でると、布団から抜け出して浴衣から着替える。
安らかな眠りに水を差されたのは迷惑だったが、主が一歩先に進めたことは素直に嬉しい。
「よく天子に言えましたね」
「……怒ったりするかしら?」
少し不安げに紫が見つめてくるのを、藍は服に袖を通しながら苦笑した。
「何がですか?」
「私の秘密を見せること、大っぴらにしていいものではないのに。藍だって、天子に話すことを勧めはしなかったじゃない」
「それは秘密にしたほうがいいと言ったわけではありませんよ、それに紫様が自分の意志で選んだことですからね」
藍はあくまで紫の自由意志に任せたかっただけだ、それがいい選択とは思えないが、周りが紫の意思を塗りつぶすことだけは避けたかった。
「紫様が出会い、自分から彼女と近付きたいと思った、私はそれに意味があることを信じますよ」
「……いつもありがとう」
「どういたしまして」
二人は橙を残してスキマからそっと部屋を抜け出して、自分たちの屋敷へと戻る。
そこには天子が膝を揃えて座り、桃を持って謝ったあの日のように紫を待っていた。
出会い頭に緋色の瞳に見つめられて、紫は一瞬立ち止まり、すぐにまた足を進める。
「おまたせ、それじゃあ始めましょう」
藍が一度部屋から出て、新しい導師服を持ってすぐに戻ってきた。
後は心の準備だけ、そう告げた紫に天子が尋ねる。
「すぐにやれることなの?」
「常に私は境界の隙間へ引き戻されようとしている、能力での抵抗を解けばすぐに向こう側よ」
「どれくらいでこっちに戻ってくる?」
「およそ30分と言ったったところだ」
この質問には紫の代わりに藍が答えた。
「正確には平均31分23秒、その時々でプラスマイナス2分18秒の誤差がある。その間、天子には待ってもらうことになる」
これらのことは記憶を失う紫本人よりも、ずっと傍で見続けていた藍のほうが詳しかった。
これでもう紫が元いた場所に一時戻るだけ、なのだが天子の前でいつも通り藍に膝枕をしてもらうのはとまどわれた。
「ちなみに、紫様が向こうへ行く時にはいつも私が膝枕と目隠しをしてあげているぞ」
「藍、余計なこと言わなくていいからっ」
手伝ってもらわずにさっさと済ませようかと考えていた紫であったが、頼もしい式神に先手を打たれて声を荒げる。
教えてもらった情報に天子は唇をへの字に曲げると、うろたえる紫に食って掛かった。
「じゃあ私もそれやる!」
「いや、それはなんとなく不安だからやってもらってるわけで絶対必要なわけじゃ」
「やるったらやらせなさい!」
「……はい」
勝てそうにないと判断した紫は、しぶしぶ天子の命令を受け入れた。
「じゃあ、お願いね」
紫はおどおどしながらも寝転がり、後頭部を天子の太ももに落とす。
藍とは違う、肉体だけは年端もいかない少女の柔らかさにドキリとして、鳴り響く心臓を押さえた。
落ち着かない紫の目元に天子が手の平を落としてきて、心地よい闇が視界を包み込む。
「これでいい? 他にも何かやってほしいことはある?」
「……手も握ってくれるかしら」
「うん」
暗闇の中で紫の手が握られる。
小さいがとても温かい手は、まるで光が影を照らし出すように、紫に自分自身の存在を教えてくれるかのようだ。
「藍と比べてどう?」
「ど、どうしてそんなこと聞くのかしら」
「いいから、早く答えてよ」
「……藍のほうが落ち着くわね」
「ふぅーん……」
感想を尋ねられ、つい性根に染み込んだ捻くれた答え方をしてしまう。
天子の声が低く落ち込むのを聞いて、紫はすぐさま次の言葉を口にした。
「でも、気持ちいいわ」
これで上手く応えられただろうかと不安な紫の手を、天子が力を込めて、しかし優しく握ってくれた。
紫がそれに反応して握り返すと、天子は一度力を抜き間を置いてからまた握る。
想いに応えてくれる存在に、紫の気持ちは段々と穏やかなものに移っていく。
「おやすみなさい、天子」
「おやすみ、紫」
それを最期の禊とし、能力の堰を解いて後ろ髪を引っ張られる感覚に身を委ねた。
しんと静まった部屋で、紫の目元を押さえる天子が焦れったそうに手の力を緩めようとしたその時、
うぞうぞと闇が蠢き、紫の背中から這いずり上ってきた。
「――――――!!」
思わず天子の口から悲鳴が上がりそうになった、この奇怪な光景を見慣れた藍すら苦渋の表情だ。
紫の身体を取り囲む、明らかにこの世界のものではない、世の理から外れたまつろわぬ影の手。
天子とて事前に説明を聞き心の準備を済ませておいたはずだったが、膝下を這う闇から感じる想像以上の気持ち悪さに吐き気を催す。
質量がないのか蠢く闇の手が肌に触れても感覚はない、しかし皮を一枚隔てた先にありえないものが存在するのを魂が感じ取って悲鳴を上げていた。
単純なる恐怖とも、形すら持てないものへの悲哀とも違う、自分たちの居場所へ踏み入ろうとする不思慮な者たちへの嫌悪感。
身体中の肉が緊張して震えすら来ない、天子はひとたび気を抜けば衝動的に緋想の剣を抜いて紫の胸元に突き刺しそうだった。
硬直する天子の前で広がった闇に、紫の身体がズブズブと沈んでいく。
やがて紫は天子の手から離れ、完全に闇の中に沈み込んで姿を消し、また紫を飲み込んだ影も何処かへ消え去った
「本当に消えた……」
話を疑ってはいなかったが、実際にこの異様な消失を目にして天子は呆然としていた。
正座をしていた足を崩し、片膝を立てた体勢で殺気立った気持ちを静める。
紫が戻ってくるまでしばらく掛かる、暇になってしまった天子は藍に声を掛けた。
「このことは他に誰が知ってるの?」
「家族である橙はもちろんとして、幽々子様と妖夢、それに萃香だ。また龍神にも、今の幻想郷を形作るにあたって事情を説明している」
「私らだけ仲間はずれか」
除け者にされた事実に天子が苛立たしい声を上げる。
胸中穏やかそうでない息遣いに、藍は口を開くべきか迷い、数秒の間の後に言葉を紡いだ。
「……天子、紫様の感じる世界はすべてが脆い。手に入れた端から崩れるのを縫い止めて繋ぎ止めるのに必死で、失くすことの怖さは人一倍知っているがゆえにとても臆病だ」
藍が主を弁明するかのように語るのを、天子は横目で睨みつけた。
腐っても天上に住む超人から発せられる威圧感は長年生きてきただけあって重く、九尾たる藍としても自らが押しつぶされるようなイメージと共に緊張が走る。
藍は負けじと唾を飲み込んで、先程の紫と同じように正座のまま畳に手を突いた。
「どうか、あの方を見捨てないで……」
藍が頭を下げようとしたその時、親指大の要石が飛来して額に叩き付けられた。
結構な衝撃に俯いた頭をのけぞらせ「いだあっ!」と悲鳴を上げるのを、天子は要石を発射した人差し指を立てたまま見据えていた。
「あんたがどれだけ紫を哀れみようが勝手だけど、主従揃って軽々しく頭を下げるんじゃないわよ、そんな鬱陶しいもの面白くない」
辛辣な言葉に藍が苦渋を飲まされた表情で顔をあげると、目に映ったのは予想していたものとは違っていた。
台詞とは裏腹に柔らかく目元をたゆませ、相手のことをあるがままに受け入れるおおらかな息遣い。
藍は目の前の少女に、こんな顔もできるのかと密かに驚いた。
「私は、そんなものを見るためにあいつの友達になったんじゃないわよ」
天子はさっきまで握っていた手を見下ろし、記憶を確かめるように手の平を閉じたり開いたりさせた。
邪気を感じない態度に、藍も毒気を抜かれて姿勢を正す。
「すまない、出過ぎた真似をした」
それから紫が戻ってくるまでのあいだ、二人は一言も喋らずに待ち続けた。
静かな家に外から春先の虫が鳴き声を届けてくれる中で、胸に想いを抱いて考えに耽る。
藍は、やはり主が天子に惹かれたのは意味があったのだと。
そして天子は――
「――帰ってこられたぞ」
天子が己の思考に結論を出す前に、目に見えぬ何かが渦巻く異様な気配に意識を引き戻された。
部屋の中央で空間が歪んで薄まっていくのを、空間操作能力の才がない天子にもはっきり感じ取れた。
歪んだ中空が黒ずんで向こう側が見えないほどに煤けていく、無思慮な意思に拗じられた空間の中心で、見えざる力の手が繊細な手つきで境界を崩さないまま開いていく。
やがて目を見張る天子の前で空間から白い手が突き出したかと思うと、一気に女体が黒く薄まった空間から吐き出された。
現れた女は重力に惹かれ、力なく畳の上に叩きつけられるとともに、空間の異常も収束していく。
「う……あ…………?」
境界が元通りに修復されていく下で、女は生気のない声を漏らし、身体をゆっくりと起き上がらせると霞んだ視線で畳に突いた指先をなぞっている。
まるで何も知らぬ赤子のようにだらしない姿に、天子は何も言えなくなった。
裸のまま自分のことを一つ一つ探るかのように、緩慢な動きで視線を動かす姿はあまりに異様だ。
呆然とするしかない天子に藍が声を掛けてきた。
「天子よ、名前を呼んであげるんだ」
「な、名前?」
「ああ、それが必要だ」
妖しい女性を見て固唾を飲み込むと、天子は意を決してその名を口にした。
「紫……」
「ゆ……かり……?」
ようやく天子の存在に気づいたらしい女が、顔を上げて目を合わせてくる。
「そ、そうよ、あんたの名前は八雲紫――」
「――があっ!?」
名を呼んで瞬間、女は白目を剥いて頭を押さえると、苦痛に歪めた顔を畳にこすりつけて身体を痙攣させた。
顎が外れんばかりに開かれた口から、この世のものとは思えない苦痛が木霊する。
「ぐ、がぎゃ…………ぁぁぁぁあああああああ――――――!!!」
「紫!?」
鼓膜を揺るがす悲鳴に天子が思わず駆け寄ろうとしたところを、藍が素早く近寄ると腕を掴んで引き止めた。
「焦らず見ておいてくれ、いつものことだ」
「いつも!? こんなのが!?」
あまりの苦しみように、天子のほうが気が気でならなかった。
藍に食いかかっていた天子が再び女に振り向くと、倒れ込んだ女は頭を抑えたまま全身の筋肉を硬直させて苦痛に悶えている。
涙と鼻水と涎を垂らし、悲鳴をたっぷり苦しみ続けた。
見ている天子は、もしかしてずっとこのままなんじゃないかと不安になり、動揺が激しくなって来た時、不意を打ったようにピタリと悲鳴が止まる。
天子に見守られている中で、女は震える手で身体を起き上がらせると、手の甲で顔中の体液を拭う。
苦痛も去って辛うじてまともになった顔をした女は、確かな光を宿した眼で、天子の友人である"八雲紫"らしさを感じさせながら、恥ずかしそうに目を逸らした。
「その……お、おはよう、天子」
「……おはよう」
少しの気まずさを感じながら天子も紫に挨拶を返した。
正気に戻った紫はいそいそと道士服に着替え、スキマから取り出した手ぬぐいで顔の汚れをしっかりと取って、改めて天子と向き直った。
恥ずかしそうに顔を上気させる紫に、天子が恐る恐る尋ねる。
「えっと……紫でいいのよね? ちゃんと私のこと覚えてる」
「覚えてるわよ構ってちゃん」
少しやさぐれた応答が返って来て、やっぱり紫なんだと天子は肩を落とす。
「うぅ、恥ずかしい、あんな姿を天子に見られるなんて……」
「あぁうん、あれはそうね……」
天子も実際に見て紫が嫌がる理由がよくわかった、確かにあんな姿はおいそれと他人に見せたいものではないだろう。
「それでその、結局どうなの、かしら」
「どうって……?」
「て、天子はやっぱり怒ってる!?」
紫は声を張り上げて、握りしめた手を胸に強く当てて不安を吐き出す。
「私は、ずっと天子を騙していたけど、嫌いなんかじゃないの。あなたのことは、大切な友達だって想ってるから、出来るならこれからも一緒に居て……欲しくて……!」
「良いわよそんなの、全然気にしない」
それは柔らかな温かみのある声だった。
あらゆることをあるがままに受け入れる音色に、紫は手の力を抜いて膝の上に落とした。
そこにいたのは敵意や失望など微塵も存在しない、いつまでも覚えていたいと思うような、明るく前向きで、優しい顔だった。
「本音を言うとちょっぴり寂しいし、ムカつくけどね、でもそんなの些細なことよ。紫は私のことを嫌いながらも許してくれたんでしょ? 記憶がなくたって関係ない、私はそれが嬉しいし、嫌いな相手も許せる紫のことが好き。私は、そんな本質の紫だからこそ、仲良くなりたいって思ったんだから、紫は私を裏切ってなんかないわ」
天子は身を乗り出すと、わずかに震える紫の右手を取ってもう両手で握りしめる。
何もややこしいことを考える必要なんてない、ただありのままの気持ちを声に乗せた。
「ありがとう、教えてくれて。大して覚えてもいない私に、こんなにも真剣に向き合ってくれて。ありがとう、紫」
笑いかけてくれた天子を見て、紫の顔が熱くなり始めた。
今までにも天子と一緒にいてこういうことはあった、だがこれは今までのどれよりもずっと熱く紫の身体を火照らせる。
恥ずかしさとは違う何かに突き動かされる肉体の急激な変化に、紫は狼狽えた声を上げた。
「え、やだ、なにこれ」
不自然に高鳴る鼓動が耳に響き、空いていた左手で頬を抑えると、あまりの熱さに手が火傷するかと思った。
困惑しっぱなしだったが、天子が不思議そうな顔で見つめてくるので、慌てて姿勢を正す。
紫は熱に浮かれそうになりながらも、左手を天子の手に重ね、言うべき言葉を手繰り寄せた。
「――――私も、ありがとう」
こんなに幸せな気持ちになれることは、そうないのだろうなと紫はなんとなく思った。
話が済んだ後は、天子が家に帰ると言い出し、紫と藍は玄関先まで彼女を見送りに行った。
「それじゃあ今日はこれで」
「帰らずとも、いつもみたいに泊まっていけばいいのに」
「色々あったしね、家に帰ってゆっくり整理したいわ」
「そ、そう……?」
確かに今日は色々あった、紫としてはもう少し一緒にいたいが考える時間も必要かもしれない。
名残惜しくはあったがしつこく引き留めようとはせず、去ろうとする清々しい背中を眺める。
ふんわりとした月明かりの下で飛び立とうとした天子が、ふと口を開けて振り返った。
「ねえ紫、その記憶を引き継ぐようになったのって、いつごろからのことなの?」
「え? 幽々子と出会ってからだから、おおよそ1000年前からね」
「それ以前の紫ってどんなのだったの?」
「さあ……記憶が無いからなんとも言えないけど。幽々子と出会った頃の私なら、藍が詳しいわ」
話を振られた藍は、記憶の糸を辿り昔の紫を思い出す。
「一言で言えば荒れていましたね。世界のすべてを呪っているような恨み辛みを抱えていました」
「今の紫とはだいぶ違うわね」
現在の紫は捻くれたところがあるものの、そこまで過度に他を排他したりはしない。
臆病ながらも一方で度量が大きいことを天子はよく知っている、何せ天子自身が紫の怒りに触れておきながらも、結局は受け入れられているのだ。
この変遷のきっかけを知りたくはあったがこれ以上はまたの機会にしようと思う、知るべきことは全て知れた。
「それじゃあ紫、またね、ばいばい」
「またね、さようなら」
ニカッと歯を見せて笑った天子が手を振るのを、紫はぎこちない笑みで手を振り返す。
夜の暗闇に蒼天が消えていくのを見送って、玄関でしばし佇んでいた紫は、肩の荷が下りた気持ちで藍に語りかけた。
「私は記憶を失う度に、ちょっと違う自分になってて、前と違う私を受け入れてもらえるのかって、ずっと不安だったわ」
冬が明ける度に知っていた記憶を失う紫は、それ以前とは完全に同一な意識ではなくなってしまっている。
天子が知る紫は思い出を共有した少し前の自分であり、今の自分とは微妙に違う、その差を紫はずっと気にしていた。
「記憶がなくとも迎えてくれるものなのね」
藍は悲しんだような呆れたような、なんとも言えない表情で口を開く。
「何を今更、気付くのが遅いですよ」
「そ、そう?」
やっとの思いで辿り着いて結論を、呆気なく肯定されて紫は驚きに聞き返す。
「私も、橙も、幽々子様たちも、萃香も、みんな紫様が紫様だから貴女を慕っているんです。記憶の有無なんて関係ないですよ」
「…………ありがとうね、藍」
だが紫の存在を肯定する言葉の裏で、藍は己の不甲斐なさに恥じていた。
どれほど口で記憶などと言っていても、紫が負い目を感じていたことは事実で、それはきっと自分たちの態度から来るものだったのだろう。
紫が記憶を失うことに勝手に悲しんでそれを押し付けていたから、一番辛い本人に無理をさせてしまっていた。
それを天子が解かしてくれたのは、きっと彼女が紫にとって欠けていたものを補う、出会うべき必要な人だったのだろう
心のなかで藍もまた天子に礼を言う。
ありがとう、あなたのお陰で、紫様は一つ救われた。
彼女が持つ恨みをすべて捨て、紫と改めて手を取り合ってくれたことに、今更ながら感謝した。
「でも……この気持ちは……」
「紫様?」
藍の前で、紫は胸を抑えて声を小さくする。
天子が笑いかけてくれたさっきから、鼓動が静まってくれない。
胸が苦しい、というのに不快感がない不思議な感覚。
「何なのかしら、一体……」
天子の笑顔が頭から離れない、彼女の与えてくれた言葉が、繰り返し思い出される。
頬を熱くし、指先まで感情がガソリンのように駆け巡り、気持ちが昂る。
それは記憶にない過去を含め、この世界に出てきて初めて感じる感情だった。
◇ ◆ ◇
教えてもらった秘密を胸に抱いて天界へと帰ってきた天子は、着の身着のままベッドにうつ伏せで倒れ込んで。
一夜明けた今日、天界へと帰ってきた天子は、自室の姿見の前に立っていた。
自分の身体をまるまる映し出す大きな鏡を前にして、天子は胸元のボタンを外し服を脱いで生まれたままの姿へとなった。
鏡に写った少女は健康的な姿勢と輪郭である種の美しさを持ちながら、その肩には一点の曇があった。
映し出された左肩の傷跡を右手でなぞる。
「紫……」
消えぬ傷跡は、天子の味わった苦痛の証左だった。
母を亡くしたことをきっかけに天子は大きな苦しみを背負った。父に殴られたこともそうだし、天子自身も大好きな母を亡くして毎夜、枕を涙で濡らした。
その傷に、天子の心は紫の姿を映し出した。
「お前が私のお母様を殺したんだと言ったら、あいつはどう思うのかしら?」
あの日、父は一緒に戦いに行くと言っていた。
世界の異物を滅殺するため天界があらゆる妖怪の弱点を突くことのできる武器を作っている間、比那名居家は要石に気質を溜めて計画の準備をしていた。
父の代でその武器は完成し、また貯蔵した気質も十分な量に達したと判断され、父は地上に住みながらも例外的に天人となり、計画を実行に移す段になったのだ。
与えられた緋想の剣を振りかざす父は、まだ何もしていないのに誇らしげに胸を張って、自分が比那名居の責務を果たすと意気込んでいた。
父は吉報を待っていろと言いのけたが娘としては心配だった、そんな私の頭を撫でて、父は剣を携えて複数の天人と共に戦いに出かけた。
いつもなら外で遊び回っている私も、愛してくれる母と手を繋いでその日ばかりは家で大人しく待っていた。
「ねえお母様、私達ってこれから天人になるの?」
「あら地子ったら、どこで聞いたのそんなこと」
暇な時間には嫌な予感ばかりが頭を巡ったので、小耳に挟んだ噂を母にぶつけてみた。
幼名で私の名を呼んでくれた母は、少し驚いた様子だった。
「お父様たちが話してた、ねえ本当なの?」
「うん、どうやらそうみたいね。なんでも倒さなくちゃいけない妖怪がいるから、そのために比那名居家は代々力を強めてきたんだって、お父さんの仕事が終わればみんなで天人になれるわ」
比那名居家の試みが成功すればその功績を以って家族全員が天に上がれるという話だったが、失敗に終わっても後から何かしらの理由を付けて天人になれると裏では約束付けられていた。
例え異物が滅殺できずとも、何代にも渡ってこの計画に奉仕したことを天界は認めており、温情をかけてくれる気だった。
今回の討伐の準備で天からの使いが頻繁に我が家を出入りしていたため、どこからかそのことが漏れて私にも伝わっていた。
「私、あんまり乗り気になれないなぁ」
「どうして?」
「だってお空の上って退屈そうだもん。たまに家に来る天人ってみんな頭が固そうな人ばっかりだし」
「そうねぇ、地子には天界の生活は堅苦しいかもね」
幼いころの私は空の上を想像してみた、豪華な社に堅物で強面な大人たちがひしめき合っているのを想像して嫌な顔をしてしまったと思う。
「お母様は、天人になってもいいの?」
「お父様が天に登るというのなら、妻として付いていくわ」
それが母の答えだった、彼女はそういう人だった。
女として出来る限りのことをして父を助ける、そう心に決めていた人だった。
もし私が天人になりたくないと言ったなら先に父だけを天に送って母は地上に残るだろうが、私が大人になるまで待った後に改めて父のいる天へ昇っただろう。
「なら、私も一緒に行く!」
「本当? そう言ってくれると嬉しいわ、でもいいの?」
心を変えた私に母が尋ねてくる。
「うん! だってお父様とお母様が一緒なら、どこでも幸せだもん!」
幼い頃、私が胸にいだいていた幻想。幼心地の有頂天。
愛する家族の中こそが、私が私らしくいられる一番の居場所。
きっと、それは真実だったと思う――
「――――がっ……ああああああああああああああああああああああああ!!!」
唸り声が外から響いてきた。
分厚い壁がビリビリと振動して、あらゆるものを怒り、憎み、そして悲しむ慟哭に、魂が締め付けられた。
「な、なにこれ!?」
「地子、大人しくしなさい!」
続いて何かが吹き飛ばされる破壊音。きっとどこぞの家が被害を受けたのだろう、同時に人の叫び声が聞こえだした、悲鳴も上がっていたと思う。
困惑して母の手を強く私の前で、家の壁が破壊された。
音を立てて粉砕された瓦礫が目の前を横切るのを、私は見ていた。
吹き荒れた風が髪をさらい、呆然とするしかない私の前にやつは現れた。
人を誘惑するような妖しい金色の髪。身を包む雑多な布から伸びる蠱惑的な長い手足。
自分の血と、人の血で身体中を汚し、泥にまみれて生きてなお美しさを感じる姿。
そして、怒りと悲しみと、憎しみと、この世の苦痛の全てを煮込んだような眼を。
『異物』と呼ばれ忌み嫌われる、境界の妖怪がそこにあった。
父が赴いた戦いの中、恐ろしい執念で包囲を抜け出して人里にまで降りてきてしまったのだ。
その妖怪と眼が合った。
「――地子ッ!!」
妖怪はこちらをまっすぐ見定めて、唸り声を上げながら迫ってきた。
感情が塗りたくられて呪いのような悍ましさを持った視線に、私は何もできなかった。
その眼から憎しみが伝わってきて、あまりの苦悶に耳鳴りがして母の声すら遠く聞こえる。
固まる私は突き飛ばされ、上に母が覆いかぶさったと思うと、母の胸から血しぶきとともに獣のような手が生えてきた。
酷く、現実感がなかった
「お母様……?」
何もできなかったと思う、考えることすらできてなかった気がする。
何を想っていたのかも覚えていないのに、そのシーンだけ写真に写したみたいにくっきりと思い出せる。
鋭く伸びた爪を伝う血の赤さと、母の顔から一瞬で魂が奪い去られる瞬間を。
妖怪が腕を引き抜くと、母の身体はあっけなく膝を突いて私の前で崩れ落ちた。
「なん、で……」
問いただす呟きは、私のものじゃなかった。
よりにもよってあの醜悪な妖怪が、言葉すら失った私の前で口を開いた。
「何で、あなたには、愛してくれる人がいるの、何であなたは護ってくれる人がいるの……」
声を震わせていたのは、果たして怒りだったのか悲しみだったのか。
私が見上げる前で妖怪は、奪った側だと言うのに大粒の涙を零し、泥と血に塗れた顔をただただ悲痛に歪ませて叫んだ。
「私には、助けてくれる人など誰もいなくて、ただ陽の下で生きてみたかっただけなのに、どうして追い立てられないといけないのおおおおおおおおおおおおお!!!」
私は絶望感に潰れそうな重い体で、頭の中だけはふわふわしてて、なぜだかその妖怪が可哀想だなと感じたのを覚えている。
泣き叫ぶ妖怪は、血まみれの手を掲げ私に振り落とす。
妖怪の爪が私の魂を引き裂く寸前、壊れた壁から父が現れた。
「おのれ邪悪よ! この世界から往ねぃ!!」
父は勇敢な雄叫びを上げ、妖怪の背後から緋想の剣を突き刺した。
緋色に輝く刀身が妖怪の身体を床に縫い付け、吹き出した気質が内部から怨敵を侵食する。
「ぎぃぃああああああああああ!!!」
火にあぶられた虫のような断末魔を上げ、緋想の剣から噴き上がった気質に身体を灼かれボロボロに崩れていく。
私は悲鳴を聞きながら、倒れ伏した母の身体を揺さぶった。
「ねえお母様、私とお父様と一緒に、お空に上がるんでしょ? こんなところで寝てたら駄目じゃない。ねえ……お母様……」
添えた手からは何の力も感じられず、まるで泥の塊を押しているようで、それを見た父が遅すぎたことを知って息を呑んでいた。
すでに生き物として決定的に壊された母から、私は目を逸らして消え行く異物を見た。
異物もこちらの世界で活動する依代を壊されてすでに意識はなく、がらんどうの瞳と眼が合う。
そこに残っていたものが、奪い去ったことの歓喜と悦楽であればまだ私も救われたかもしれない。
けれど人の家族を殺しておきながら、そこにあったのは底なしの恨みと悲しみだけで、この妖怪に満たされたものは何もなく。
そのことから、愛する母が無意味に殺された事実を知った。
「いやああああああああああああ!!!」
絶望の悲鳴が響く中で、憎悪の萌芽を感じた。
治ったはずの傷跡が痛む気がして、天子は肩を抱いて顔をしかめる。
母は殺された、紫に殺された。死後に転生もできないほど魂まで細切れにされ、この世から消滅した。
落成式で出てきた八雲紫は印象が違いすぎて、かつて目の前で退治された妖怪だとはすぐには気付かなかったが、実際に戦ってみれば当然わかった。
天界はスキマ妖怪を滅しようと研究を続けてきたが、緋想の剣でも異物を殺しきれず、あの日の妖怪は幸せそうに笑って生きている。
当然憎いと思った。それまでは封じていた憎悪が、堰を切って溢れ出た。
だが天子は、憎むだけの人生なんて嫌だった。
自らを縛る憎悪から早く解放されたいと思った、だからこそあえて紫に近付いた。
紫が許してくれるのなら、自分も紫を許せるのでないかと希望に縋り、母の仇に頭を下げるという屈辱に甘んじた。
そして紫は天子を見事に許して見せた。記憶の大部分を失っているからというのもあるだろう、だが最初に許してもいいと言ったのは紛れもなく憤怒に塗れたはずの過去の紫であり、例え記憶がそのままでも紫は天子を許し、今のように親愛を注いでくれたことだろう。
だと言うのに、天子は未だ紫を許せずにいる。
「卑しいわね」
秘密を教えてくれた紫に、自分が向けた言葉はすべて本物の好意だ。
その一方で、もし紫が自分の母を殺したことを知ったら、ショックを受けてくれるのではないかと、かつての自分と同じように苦しんでくれるのではないかと期待している。
紫には感謝はある、好意もある、だがそれとは別に罰が下って欲しい、自分の万倍の苦痛を彼女に感じて欲しい。
紫はあんなにも優しいのに、自分はこんなにも醜い。
天子には鏡に写ったヒトガタが、悪意の詰まった糞袋にしか思えなかった。
闇の権化たるゆかりんが優しく在れるように、陽の権化たる天子もまた闇堕ちができる。
ドリルさんのたまにする対比は好みです。
こんな読み方をするのは本当に好きな小説の時だけです。
紫が幽々子に言われて想像した天子とのイチャイチャ可愛すぎました。紫じゃないけどむせ返りそうになります。これほど想像で可愛いと、これがピークで、現実であの可愛さを超えるのは無理じゃないかと不安でしたが、直後にやってきた猫天子。先ほどとは別ベクトルで突き抜けてくれて笑いとニヤニヤが止まりませんでした。
ゆかてん以外の人間関係(人妖関係?)も丁寧に描写されていて、書くのに苦労したって呟いていたのにも納得です。幽々子を自分の半身だと評するところや霊夢の生活像には納得させられましたし、藍の家族愛の深さはグッと身にしみました。自分の気持ちに嘘をつかないための嘘と萃香が言い張るところも好きなシーンの一つです。
「血まみれの手が母の胸から突き出てきた」この一文を読んだ時、直感的に今までの天子の行動の謎が繋がって思わず感嘆のため息が出ました。中編後編でゆっくり回収すると思ってました。こんな綺麗に繋がるなんて。
今までの電動ドリルさんの作品で天子は綺麗な陽の部分ばかり描かれてきたので、今回の引きでこれからこの物語がどうなるのか凄く楽しみになりました。
誤字報告3ヶ所あります。
・紫が初めて眠るシーンで「現世と異界との境界線を理容」の利用の字が間違っています
・冬眠中の記憶のメモリーについて解説しているシーンで「こちら側での活動期間を期間を大幅に」の期間が一つ多いです
・料理不味かったシーンで「あっ、こいつぅー!」」の「が一つ足りません
濃厚なゆかてんだー!
これがそそわや
続きが凄い気になりますよぉ
ゆかてん……今までは自分のなかで練り物みたいな響きだったのに、こんちくしょう沼に引きずり込みやがって!天子可愛すぎだろっ、くそ!
長編だからシリアス多めだと思いきや合間に挟まれるギャグやニヤニヤ展開が堪らなかったです。
>「考えてしまったようね紫……! 裸の女の子は良いわよ、抱きしめると柔らかいのよ……!!」……もうね、ゆゆ様あんたアホかwww妖夢が可哀想でたくさん笑わせてもらいました(可愛いから仕方ないね)
思いのほか早い展開にこの先どうなるのかと不安を抱きつつも、明らかとなったふたりの因縁とその結末をじっくりと楽しみたいですね
誤字脱字がありましたので報告にて終わります↓
・家に帰っていく天子が桃の木々のあいだに隠れていく見届けて、→隠れていくのを?
・だから紫も嫌って入るが憎んだりなどはしていない→嫌ってはいるが?
・紫が手を叩いて音を鳴らて空気を入れ替える。→鳴らして
・まず道具をを作り出した。「を」の衍字
・天子に関する記憶のほとんど消去されていたが、→記憶のほとんどが、またはほとんどを?
・ 執着心とは見ようによっては醜いだが天子はそれを否定しるつもりはない、未だ幸福に到達しない者においては、それを足掛かりにする他ないのだから。
天子は初めて、霊夢にちょっとした共感を覚えて、。→見ようによっては醜いだけだが、または醜いのだが?また、次行の句読点の重複
・この少女そう言うからには、→少女が?
・しかしならばこそ、なおのことその人の夢に入り込むべきではにと思うが→べきではないと思うが?
・「天子は、スキマ妖怪という存在についてそれだけ知っているかしら」→どれだけ知って?
・鋭く伸びた爪を伝う血の赤さと、母の顔から一瞬で魂が奪いされる瞬間を→奪い去られる、または奪い去る?
これはちょっと自信ないのですが↓
・指摘されて天子は重い頭を俯かせるのを見て、紫の頭は慰めるか更に弄るかの選択肢が浮かび、→指摘された天子が?(助詞の繋がりがどちらの心情に寄るか迷った名残でしょうか。違ったらごめんなさい)
とても楽しめました、ありがとうございました
長文は大体読み終えないんですが、義務感なく読むことができました。これからの2人が気になります。
このゆかてんは、次元が違う。