桶船と心温/it's OK, just feel my Pulse.
珠汗の伝い落ちる額に気づいて目を覚ました。
目下うだるような七月の夏は、地底空間をも侵食中。地上の光とは縁を切って久しいのに、立ち上る陽炎とゆがむ風景に、日の輝きを感じて忌々しい。土の上では太陽がとっくに地平の向こう側に姿を潜ませたこの丑三つ時にも、蒸した空気に火の尾が見えた。
このところ毎夜、うだる熱気に蒸されて目を覚ます。一度眠りの洞から追いやられると、睡魔はしばらく寄ってこないのが常だった。おかげで連日寝不足が続いた。橋守の最中、欠伸を欠かすことがない。今日も予想できる昼間の眠気にうんざりしてため息をつく。絞りだされる息にすら熱気が伴って、息苦しい。布団と汗と、諦念を払って立ち上がると、午睡の後のようなけだるさに、体がふらついた。
水がほしい。
粘つく喉と舌を切り替えたい。あわよくば水浴みをして、汗ばんだ体に水の清めを。狭い寝床を抜け出した私の体は、はだけた寝間着も気にせずに、川に向かっていた。
温い地上の風が、長い縦穴を吹き抜けてくる。川面に砕けて、風はようやく涼しさを得る。うなる縦穴のほかに息づくものは少ない。
川辺に土はなくて、ごつごつとした大岩。小石と、礫。夏草や水草の姿は見えず。湿気た苔と、笠を広げる茸が点在している。若々しい生命は感じない。旧都からも切り離されたこの空間は、生と動に乏しい。光の届かない地底の夜に、静かに流れる川のように。ゆっくりと停滞している。
砂利の川辺に跪いて、頭ごと川に突っ込んだ。脇目気にせず。どうせ誰も見てやしない。死と静を想起させる清らを破壊するように、淀みも波紋もなかった水面を乱す。温められた地底の空気と、止まったように流れる川水の温度差は大きくて、身震いが背筋を一走りした。怪談話と同じだ。心臓に悪いものは、まとわりつく暑気を払うのにちょうどいい。ひとしきり水面下ではじける泡と水を味わって、反るように水から顔を上げた。
見上げた天井には、薄く明滅する鬼火が漂う。瘴気を吸ってその命を燃やす燐光が、夜の地底にかすかな明かりをもたらす。睫毛に張り付いた雫越しに見る光は、靄がかかったようにぼやけた。
冷水を吸った、傷んでくすんだ金髪を風にさらし、熱気に詰まる胸もようやく一心地ついた。
流れる川の水は清涼だった。天蓋に塞がれた地底で、穢れの一つでもたまっていてよさそうなのに。澄んだ水に住んでいるのは、可視光の届かない暗闇に目がつぶれた地底魚くらい。時折しぶきを立てて、旧地獄の水面下にも微かな生命があるのだと知らせる。それすらも、無音の闇と静寂が、覆い隠した。
ぱしゃりと、音。
川面を見た。たった今かきまわした水面は、起き抜けの寝床のように乱れている。濡れ髪から滴るしずくが、鼓動するように水を叩き続けている。川辺にいる私を中心に、放射状に延びる波紋が、一定の律動でその円を広げる。広がり、波打ち、薄れる波の鼓動の一点。川面の真ん中で、向こう岸に届くことなく、木壁に阻まれていた。桶から覗く黒と、私の緑が交わる。
「おはよう、パルさん」
「何してるの、あなた」
二抱えもある桶に、小さな体をすっぽりと潜めた、深緑の髪の女の子。恥ずかしいところを見られたようにはにかんで、川の中ほどを、桶ごと揺蕩っていた。
「ちょっとまってて、そっちいくから」
バシャバシャと手を櫂にして、キスメが岸辺に寄ってくる。珠飾りで結んだおさげをぴょこぴょこと弾ませながら。小さい手で桶船をこぐその姿は、妬ましくも愛らしい。ゆらゆらと揺れながらこちらに近寄る桶が、歪な尾を水面に引いた。こんな夜半にどうして川渡などしているのだろうか。
「のーりょーしてたんだよ」
タガの締まった船を岸辺につけて、キスメはよいしょと桶を出た。彼女がまとう白襦袢は、薄く湿り気を帯びているように見えた。
「夕涼みってことかしら」
「そんなところ。地上の人って、船でお酒飲んで涼むっていうじゃない」
真似してみたの、そういってキスメは桶から銚子を一本取り出す。薄明りの下では気づかなかったが、普段の白雪のようなその頬が、りんごに染まっている。酒に焼けたか、目も充血していた。外見は子供に見えて、こんな夜中に一本やってる当たり、この子も地底の妖怪だ。
「それでお酒をお供に桶で遊覧ってわけ? 優雅ね、妬ましいわ」
「いいものだよ。流れは遅いからゆったりできるし。今日もちょっと上流のほうから流れてきたんだけどね」
「始発がどこかはともかく、乗り心地はいいの? 正直、座りが悪そうだけど」
「あー、パルさんの悪い癖だ! いいものを見るとすぐに妬むか貶めようとする! 疑り深いのはよくない! なんなら乗せてあげよーか!」
思ったことを言ったまでだったのだけど、どうもそれが悪かったらしい。酒気も相まって興奮しているキスメを刺激したようだ。背丈が胸より下の見た目童女に、据わった眼でまくしたてられても、鈴みたいな声でがなられても、ちっとも怖くない。詰め寄るだけでは足りないらしく、ついには自分の桶がいかに素晴らしいかまで、語り始めた。きゃんきゃんとかわいい声に、岩壁が微かに震えた。
いわく、
「今日の桶は特別製なんだよ! 大きさも普段より大き目だし底幅も広くとってるから私のサイズなら寝転がることだってできるし!」
桶は一つきりではないのか、特別製も何もあるのか、突っ込みどころはいろいろあるけれど。しかし、言われてみれば、今日キスメが乗っていた桶は確かに、普段のものよりも二回りほど大きいように見える。
いわく、
「つるべ落としっていうのはね、用途によってたくさん桶を持ってるものなんだよ。私くらいのつるべ落としになると家に用途別で十種類はあるもんね!」
眉唾だ。釣瓶落としなんて種族なのだから、てっきりカタツムリみたいに殻ごと生まれてくるものだと思っていた。それを伝えると、誰がナメクジだ、と怒られそうな気がしたので口を噤む。桶をさかさまに背負って地面をはいずるキスメツムリを想像してほくそ笑んでいたら、よくない気配を察したのか、キスメはまたぷりぷりと怒っていた。顔を真っ赤にしているのは酒のせいだけではないだろう。
元来おとなしく引っ込み思案な子が、最近は旧都や土蜘蛛の友人の性格に当てられて、明るく、感情的になってきている。いい傾向だな、と思う。ただでさえ暗い地底で、性格まで暗くなってしまっては、私のようにはぐれ者になってしまうから。ピーピー喚いて詰め寄る彼女をぼやっと見ながら、そんなことを思った。
「それで、パルさんはこんな時間に何してるの。夜更かしはお肌に毒だよ」
ひとしきり喚いて落ち着いた桶好き少女は、ケロッとした表情。濡れた砂利を気にもせず、河原に尻もちをついた。私もそれに倣う。まばらに冷たい小石が寝巻越しに刺さって、不快だ。
「あなたと同じよ。納涼」
「パルさんも? ほんとやだよね、熱帯夜。もー」
続く暑い夜に毎夜うなされて起きること。寝不足の昼間。汗ばむ。最近どう過ごしているか。先週の酒盛りの話。一時の清涼を忘れて。旧都で起こった喧嘩。ちゃんとご飯は食べているか。暑気がまた蘇る。唸る風に紛れて、二人でそんなことを話した。この娘と話していると、眩しさに、妬ましいと思うことすら忘れそうになる。つややかな肌も、快活な表情も、すべてが微笑ましい。そう思って、
「こんなに暑くて眠れないのに、一人で船まで出して元気なのね。贅沢。妬ましいわ」
つい憎まれ口を吐いてしまう。大人げないとは思うけど、こういう性だ。彼女もそろそろ私のこの態度にはなれたころだと思うし、買い言葉を叩くようになってくれれば。それはそれで妬み相手が増えるというもの。しかし、
「……」
「……キスメ?」
影を落としたように黙り込むキスメに、焦る。言葉は選んだつもりだった。言われて不快になるツボはついてない。長い嫉妬人生で、そういうものは心得ているつもりだったが、外してしまったのだろうか。
心配になって顔を覗き込む。とたんに、
「パルさん!!」
「うわっ」
思い切りよく顔を上げたキスメが、眼前に迫ってきた。唾が飛んでくる。
「パルさんは妬んでばっかりいないで、たまには自分からいいものを追求しなきゃ!」
まだ酔いが冷めきっていないらしい。顔がりんごみたいに濃く色づいて、目は据わっている。勇儀の扱いには手慣れたものだけど、この子の場合はどうも勝手が違う。はたいて黙らせることもできなければ、無理やり口をふさぐのも躊躇われる。
「パルさん!! 私がいいもの見せてあげるからおいで!!! こっち!!」
やにわに私の裾をつかんで、ずるずると引きずり始めた。この小さな体のどこに蓄えているのか、力がやたら強い。酒のせいか、桶ではないけどタガが外れている。ちっさい酔っ払いに、調子を乱されっぱなしだ。
「さあ、お客様一名、キスメ船へごあんなーい!」
「ちょ、やめ、わかった!わかったから引っ張らないで、ちょ、服、服が脱げる!!」
追記、服も乱れた。
――――――――~~~~~\____/~~~~~――――――――――
乗り込んだ拍子にぐらついたので、ひっくり返るんじゃないかと冷や汗かいたが、そこはキスメも扱いが慣れているらしく。うまく揺れを逃がして、桶の形をした遊覧船は無事、転覆することなく岸辺から出航した。舵を切るキスメ船長はどこか満足気。乗り込む際にやたら気力を消費した私は、船酔いでもないのにすでにグロッキーだった。
舵を切るとはいっても、桶船に舵はなく。基本、流れ任せ風任せらしい船長は、岸を蹴って離れてからは、水を触る素振りも見せなかった。
桶船には、私とキスメ、ぴったり二人分の空間。外側から見たときにはわからなかったが、中は思ったより深く、広い。そして何より。
「……涼しい」
桶の中は、先ほどまでの蒸した空気が夢でないかと思えるほど、涼しかった。嘘のように、汗が引いて行く。空気そのものが違うといっていい。川の水に長く冷やされてか、それとも桶自体に仕組みが施されているかはわからなかった。ともすれば寒気すら感じる温度差に、身をよじった。
「でしょ?」
秘密の宝物を友達に見せたときみたいに、キスメが笑う。あどけない、純真さ。私にはできない、屈託のない笑みを受けて、妬ましくも、頬はほころんだ。
「いつもこうしてるの?」
「うーん、最近はずっとこうかな。今日みたいに蒸し暑い日は特にね」
「へぇ」
わかる気がする。これだけ快適ならば、ずっといていいと思える。ただ、少し、膝小僧を抱えて向かい合わせでは、狭苦しいかなと、わがままを思った。
「少し狭いけど、確かに快適。さっきはケチつけてごめんなさいね」
「ちょっと文句残すあたりがパルさんっぽいよねー」
考えてみれば、この桶は彼女の拠り所そのもの。先の悪態は、私で言うなら、橋の悪口を言われるようなもの。素直に恥じて、謝罪をしたつもりだったけど、意図せず含んだ不満はしっかり拾われてしまう。意識にもしていなかったから、そういう性分なのだなと自分で思う。長く生きてきたから、そうそう治るものでもないが。
キスメは困ったように笑う。さっきのように、怒ったりはしなかった。首の傾げにつられて、緑のおさげが揺れた。若草の、幼い匂いが香った。
ごめんなさい。今度こそ純粋に謝ると、キスメはまたはにかむ。はにかんで、思いついたような顔。
「パルさん、寝転んでみて」
「寝転ぶって、ここで?」
突拍子も無い提案に戸惑う。確かに桶底は思っていたよりも広い。しかし、広いにしても限度があった。私が足を延ばして寝転ぶには少し尺が足りない。足の置き所を探して右往左往していると、キスメが私の両脚を抱えた。
「こーするのっ」
「ひゃっ」
力任せに靴底を桶から引っぺがされて、でんぐり返った。ゴンという音とともに、後頭部に鈍痛。眼前に散る星。ボーンと、木の鐘みたいな響きが木底と水中とを伝って、跳ね返ってきた。脳が揺れる。
「あんたねぇ……?」
急に何するのよ。悪態は、続く衝撃にかき消された。一拍、二拍おいて、ようやく感じる。
胸の重み。若草の香り。鎖骨にさらりと、深緑がかかった。私の足は天に延び、ちょうど桶の淵に踵がかかる格好。ゆったりとしたくるぶしまでの寝巻が、太ももまではだけている。いつもなら羞恥にゆがむべき顔も、今はそれすら気にならない。ただ、眼前に広がる緑の髪と、ささやかな重みを、ただ受け止めていた。
「キスメ……?」
「えへへ、これなら狭くないでしょ」
キスメが、私にのしかかっていた。というよりは、しがみついていた、のほうが正しい気がする。桶の底面積を目いっぱい使って、私にしなだれる形で。呼吸と鼓動が重なる。黒と緑の瞳がかち合う。川越しでない、今度はもっと近い距離で。
いまいち理解が追い付かなくて、二重がはっきりしていて可愛らしいなとか、少しそばかすがあるなとか、白雪の頬がさっきよりも濃く色づいているなとか、どうでもいいことに意識がいった。私が何も言わないでいると、キスメはまたはにかんで、小さな形のいい鼻を私の胸に埋めた。
「ほんとはね、ちょっとさみしかったんだ」
ぽつりと、つぶやく。
「蒸し暑くて真夜中に目が覚めて。なんていうのかな。世界から切り離されたみたいな。お昼間はいっつもヤマメちゃんや、パルさんや、みんなと遊ぶし、一緒にいなくても、どこかから誰かが笑ってくる声が聞こえたり。誰かがいるんだって、わかるんだけど」
しがみつく手が、寝巻にしわを寄せる。湿った布が、しっとりと擦れる。
「自分以外、何の音も聞こえなくてさ。誰かの家に行くわけにもいかないし。一度起きちゃったらもう眠れないし。だから、お散歩しようって」
私は聞きながら、夜空を見ていた。空といっても、岩の天井だけど。丸い桶の輪郭に切り取られた天蓋は真っ暗で、そこに明滅する鬼火が星のように煌めいていたから。キスメは続ける。
「ひとりでぷらぷら歩いて、川まで来たの。耳を澄ましたらほんとうに静かにだけど、川が流れる音が聞こえてね。私以外にも動いてるものがあるんだって、ちょっと安心したんだ」
夜という枠に切り取られた無音の世界で、キスメはこの川に生と動を聞いていた。木底に耳が近くて、その下を微かに流れる川が、鼓膜を揺らした。
「川に入ってみたら、もっと大きく聞こえるかなと思ってね。飛び込んでみたの。そしたら冷たくてびっくり。風邪ひいちゃうかと思った」
笑うキスメの体温は暖かかった。桶に感じた寒気が中和されて、ちょうどよかった。
「今度は桶に乗ってみればいいなと思ったの。ちょうどヤマメちゃんが大きな桶を作ってくれたところだったから。試しについでに」
ヤマメの名が出たあたりで、胸越しに感じる吐息が熱くなった。誇らしげに。あの土蜘蛛はキスメの、一番の友人だ。子供らしい、浅く儚い息遣いが胸元にしみこむ。
「そうしたらまたまたびっくり! 川に浮かべた桶の中はとっても涼しい!」
一度、キスメが顔を上げた。新しい遊び場を見つけた童みたいに目をキラキラさせて。せがむ瞳が同意を求めていたので、静かに、うん、と頷いてやった。うれしそうに目を細めて、また私の胸に顔を埋める。わずかに揺れた桶の側面を、水音が叩いた。ちゃぽんと、小気味よく泡玉が弾けた。
「それだけじゃないんだ。桶の中にいるとね、いろんな音が大きくなって帰ってくるの。ううん、音だけじゃない。桶に寝転がってみたら、知らなかったことがたくさん見えるんだ」
それはきっと、今の私みたいに。
吹き抜ける風をその目で見たと言う。 鍾乳石に伝う雫をその耳に聞いたと言う。 魚の吐息を泡に感じたと言う。
波が桶を叩き、波紋が連なり、川の清らに生を見出して。
そして。
「ひとりだなぁって、思ったんだ」
この子は静寂に、自分の呼吸と鼓動を聞いた。この桶の中で、一つきりの小さな生を覚えた。そして、寂しさに一人泣いていた。充血も、火照った顔も、それはきっと。
「……それでお酒?」
「だってさびしかったんだもーん……」
一人の寂しさを肴に一人酒なんて。旧都の鬼でも、もう少し良いツマミを見つけるだろう。ぐずつくキスメの髪をなでてやる。若草に紛れて、湿気と汗のにおいがした。
「でもね、だからね、今日はうれしかったんだ。パルスィに会えて」
「道連れができたって?」
「もう、違うよ。……誰かと一緒に分けっこしたかったから」
ゴロンと胸の上で身をよじって、私と同じ空を見上げる。鬼火は変わらず、浅く緩く、明滅を繰り返していた。まるでキスメの呼吸のように。緑白色の、どこか冷たい光を放ちながら。天井の鍾乳石から、ぽつりと一粒、雫が落ちて、キスメの頬を濡らした。
つまるところ。
この娘は、眠れぬ熱帯夜の一角に見つけた、自分の知らない世界を共有したかったのだと。寂しさを分け合える、仲間がほしかったのだと。きっと相手は誰でもよかったのだろう。私は偶然その一人に選ばれたにすぎない。それでも選ばれるかもしれなかった、他の候補のヤマメや勇儀に嫉妬した。それでも自分が選ばれたことが、うれしかった。それが偶然でも、この子が寂しいと涙をこぼした時間を共有できた。
「あなたね」
キスメの頬を両手で挟んで、こちらを向かせる。三度、瞳があった。腫れぼったい瞼に隠れて、黒真珠が揺れた。人形みたいな輪郭を包む手が熱かった。今なら分かるけれど、白雪の紅揚は、残る酒気だけのせいじゃないんだ。
「赤ん坊じゃないんだから、一人寝が寂しいなんて言わないの」
語気は強めつつも、声音は赤ん坊をあやすように。
「寂しいって思ったら、だれでもいいから、頼りなさいな」
私を、なんて言わない。言えない。この子の世界を、独り占めしたくない。
「地底は暖かいところよ。それこそ、暑苦しいくらいにね。みんな一癖も二癖もあって、うっとうしいことこの上ないけど」
みんなには、含みを持たせて。願わくば、自分も含めて。
「それでも、あんたみたいな子が寂しがってるのをほっとける連中じゃないんだから」
この子は幸運だ。いつでも世話を焼いてくれる面倒見のいい土蜘蛛や、地底社会を取り仕切る鬼の知り合いがいる。
「ヤマメに泣きつけば、おろおろしながら心配してくれるわ。勇儀はきっと、笑い飛ばしてくれるでしょうね」
さとりとは付き合いが薄いかもしれないけど、彼女に縋れば、きっと悩みを見透かして助言してくれるだろう。彼女が小さくて愛らしいものに目がないことを、付き合い上知っている。地底中のどこを掬いとっても、みんな過保護なほどに、キスメを元気づけるはずだ。
そこまで言って、笑ってやった。できるだけ屈託なく、笑ってやった。泣きたくなる夜なんて、不意に誰にでもやってくるものだから。その時は誰かに頼ればいいんだと、安心させるように。潤んだ瞳で、キスメはこちらを見ていた。珠になった涙は、眦からこぼれんばかりだった。あんまり恥ずかしいことを言ったものだから、今度は私の顔が熱かった。鼻がつんとしてきた。
「パルスィは」
「え?」
キスメがそっと、私の手に手を重ねて。温もりを感じるように、瞼を薄く閉じて。
「パルスィなら、どうしてくれる?」
今日何度目かに、はにかんだ。熱く転がった水珠が、親指を濡らした。
「……そうね」
短い夜の、船旅の間に気づいたことだが。
「私だったら……」
どうやらほかの連中のことを、とやかく言えないようで。
「……こうしてあげる」
私も大概、この子に甘いらしかった。
「わっ」
キスメの顔を胸に押し付けるように、抱きすくめてやる。少し強いくらいに力を込めて。キスメはしばらく、もごもごと抵抗していたが、やがて観念したのか、身体から力が抜けた。赤子を、我が子をあやすように、背中をさする。その度にキスメが、気持ちよさそうに身じろぎした。
「パルさんって、お母さんみたいだね」
「……やめるわよ」
「ごめんって。続けて。とっても、安心する」
口では否定しつつも、この娘に向いた自分の感情は、おそらくそれなのだろう。熱帯夜に蒸された共感よりも、夜に切り離された寂しさへの同情よりも。それはきっと、母性。かつて、ややこを水に流した身には、あまりに似つかわしくない言葉。我が子を抱くのはこんな気持ちなのだろうか。
「パルスィ」
「んー?」
「パルスィって、あったかいんだね」
「あなたもね」
暑気に蒸されて、川風に冷やされた身体に、お互いの温度が心地よかった。
忘れていた眠気が、瞼を引き始める。
「パルスィ」
「ん、なぁに?」
「パルスィの心臓が聞こえる」
「そうね。生きてるもの、ちゃんと」
「うん……」
声がまどろみに落ち始める。キスメも、私も、抱き合ったままに。夜の帳を下ろすには、少し遅い時間だった。
「ねぇ、パルスィ」
「うん、なぁに」
「このまま寝ていい……? パルスィの胸の音、聞きながら」
「……バカね、いちいち聞かなくてもいいのよ」
「ごめんなさい……」
「……いいの。今はただ」
「……」
言葉を聞くより早く、キスメは寝息を立て始めている。
当てられた耳に、届く鼓動。軽く触れた胸から、伝わる鼓動。お互いの体を通して反響して、心拍と体温が重なる。
「……いいのよ。今はただ、私の鼓動を感じて、眠りなさい」
抱きすくめる力を弱めて、後頭を木底につけた。ポチャリと聞こえた誘い水を最後に、私の意識も、まどろみに溶け始める。
生の拍動を子守歌に。静の眠りの淵に沈む。
桶船は流れに任せて、私たちの体を運んでいく。
載せた心音と身温は、二つ分。
今夜は久しぶりに、よく眠れそうだった。
珠汗の伝い落ちる額に気づいて目を覚ました。
目下うだるような七月の夏は、地底空間をも侵食中。地上の光とは縁を切って久しいのに、立ち上る陽炎とゆがむ風景に、日の輝きを感じて忌々しい。土の上では太陽がとっくに地平の向こう側に姿を潜ませたこの丑三つ時にも、蒸した空気に火の尾が見えた。
このところ毎夜、うだる熱気に蒸されて目を覚ます。一度眠りの洞から追いやられると、睡魔はしばらく寄ってこないのが常だった。おかげで連日寝不足が続いた。橋守の最中、欠伸を欠かすことがない。今日も予想できる昼間の眠気にうんざりしてため息をつく。絞りだされる息にすら熱気が伴って、息苦しい。布団と汗と、諦念を払って立ち上がると、午睡の後のようなけだるさに、体がふらついた。
水がほしい。
粘つく喉と舌を切り替えたい。あわよくば水浴みをして、汗ばんだ体に水の清めを。狭い寝床を抜け出した私の体は、はだけた寝間着も気にせずに、川に向かっていた。
温い地上の風が、長い縦穴を吹き抜けてくる。川面に砕けて、風はようやく涼しさを得る。うなる縦穴のほかに息づくものは少ない。
川辺に土はなくて、ごつごつとした大岩。小石と、礫。夏草や水草の姿は見えず。湿気た苔と、笠を広げる茸が点在している。若々しい生命は感じない。旧都からも切り離されたこの空間は、生と動に乏しい。光の届かない地底の夜に、静かに流れる川のように。ゆっくりと停滞している。
砂利の川辺に跪いて、頭ごと川に突っ込んだ。脇目気にせず。どうせ誰も見てやしない。死と静を想起させる清らを破壊するように、淀みも波紋もなかった水面を乱す。温められた地底の空気と、止まったように流れる川水の温度差は大きくて、身震いが背筋を一走りした。怪談話と同じだ。心臓に悪いものは、まとわりつく暑気を払うのにちょうどいい。ひとしきり水面下ではじける泡と水を味わって、反るように水から顔を上げた。
見上げた天井には、薄く明滅する鬼火が漂う。瘴気を吸ってその命を燃やす燐光が、夜の地底にかすかな明かりをもたらす。睫毛に張り付いた雫越しに見る光は、靄がかかったようにぼやけた。
冷水を吸った、傷んでくすんだ金髪を風にさらし、熱気に詰まる胸もようやく一心地ついた。
流れる川の水は清涼だった。天蓋に塞がれた地底で、穢れの一つでもたまっていてよさそうなのに。澄んだ水に住んでいるのは、可視光の届かない暗闇に目がつぶれた地底魚くらい。時折しぶきを立てて、旧地獄の水面下にも微かな生命があるのだと知らせる。それすらも、無音の闇と静寂が、覆い隠した。
ぱしゃりと、音。
川面を見た。たった今かきまわした水面は、起き抜けの寝床のように乱れている。濡れ髪から滴るしずくが、鼓動するように水を叩き続けている。川辺にいる私を中心に、放射状に延びる波紋が、一定の律動でその円を広げる。広がり、波打ち、薄れる波の鼓動の一点。川面の真ん中で、向こう岸に届くことなく、木壁に阻まれていた。桶から覗く黒と、私の緑が交わる。
「おはよう、パルさん」
「何してるの、あなた」
二抱えもある桶に、小さな体をすっぽりと潜めた、深緑の髪の女の子。恥ずかしいところを見られたようにはにかんで、川の中ほどを、桶ごと揺蕩っていた。
「ちょっとまってて、そっちいくから」
バシャバシャと手を櫂にして、キスメが岸辺に寄ってくる。珠飾りで結んだおさげをぴょこぴょこと弾ませながら。小さい手で桶船をこぐその姿は、妬ましくも愛らしい。ゆらゆらと揺れながらこちらに近寄る桶が、歪な尾を水面に引いた。こんな夜半にどうして川渡などしているのだろうか。
「のーりょーしてたんだよ」
タガの締まった船を岸辺につけて、キスメはよいしょと桶を出た。彼女がまとう白襦袢は、薄く湿り気を帯びているように見えた。
「夕涼みってことかしら」
「そんなところ。地上の人って、船でお酒飲んで涼むっていうじゃない」
真似してみたの、そういってキスメは桶から銚子を一本取り出す。薄明りの下では気づかなかったが、普段の白雪のようなその頬が、りんごに染まっている。酒に焼けたか、目も充血していた。外見は子供に見えて、こんな夜中に一本やってる当たり、この子も地底の妖怪だ。
「それでお酒をお供に桶で遊覧ってわけ? 優雅ね、妬ましいわ」
「いいものだよ。流れは遅いからゆったりできるし。今日もちょっと上流のほうから流れてきたんだけどね」
「始発がどこかはともかく、乗り心地はいいの? 正直、座りが悪そうだけど」
「あー、パルさんの悪い癖だ! いいものを見るとすぐに妬むか貶めようとする! 疑り深いのはよくない! なんなら乗せてあげよーか!」
思ったことを言ったまでだったのだけど、どうもそれが悪かったらしい。酒気も相まって興奮しているキスメを刺激したようだ。背丈が胸より下の見た目童女に、据わった眼でまくしたてられても、鈴みたいな声でがなられても、ちっとも怖くない。詰め寄るだけでは足りないらしく、ついには自分の桶がいかに素晴らしいかまで、語り始めた。きゃんきゃんとかわいい声に、岩壁が微かに震えた。
いわく、
「今日の桶は特別製なんだよ! 大きさも普段より大き目だし底幅も広くとってるから私のサイズなら寝転がることだってできるし!」
桶は一つきりではないのか、特別製も何もあるのか、突っ込みどころはいろいろあるけれど。しかし、言われてみれば、今日キスメが乗っていた桶は確かに、普段のものよりも二回りほど大きいように見える。
いわく、
「つるべ落としっていうのはね、用途によってたくさん桶を持ってるものなんだよ。私くらいのつるべ落としになると家に用途別で十種類はあるもんね!」
眉唾だ。釣瓶落としなんて種族なのだから、てっきりカタツムリみたいに殻ごと生まれてくるものだと思っていた。それを伝えると、誰がナメクジだ、と怒られそうな気がしたので口を噤む。桶をさかさまに背負って地面をはいずるキスメツムリを想像してほくそ笑んでいたら、よくない気配を察したのか、キスメはまたぷりぷりと怒っていた。顔を真っ赤にしているのは酒のせいだけではないだろう。
元来おとなしく引っ込み思案な子が、最近は旧都や土蜘蛛の友人の性格に当てられて、明るく、感情的になってきている。いい傾向だな、と思う。ただでさえ暗い地底で、性格まで暗くなってしまっては、私のようにはぐれ者になってしまうから。ピーピー喚いて詰め寄る彼女をぼやっと見ながら、そんなことを思った。
「それで、パルさんはこんな時間に何してるの。夜更かしはお肌に毒だよ」
ひとしきり喚いて落ち着いた桶好き少女は、ケロッとした表情。濡れた砂利を気にもせず、河原に尻もちをついた。私もそれに倣う。まばらに冷たい小石が寝巻越しに刺さって、不快だ。
「あなたと同じよ。納涼」
「パルさんも? ほんとやだよね、熱帯夜。もー」
続く暑い夜に毎夜うなされて起きること。寝不足の昼間。汗ばむ。最近どう過ごしているか。先週の酒盛りの話。一時の清涼を忘れて。旧都で起こった喧嘩。ちゃんとご飯は食べているか。暑気がまた蘇る。唸る風に紛れて、二人でそんなことを話した。この娘と話していると、眩しさに、妬ましいと思うことすら忘れそうになる。つややかな肌も、快活な表情も、すべてが微笑ましい。そう思って、
「こんなに暑くて眠れないのに、一人で船まで出して元気なのね。贅沢。妬ましいわ」
つい憎まれ口を吐いてしまう。大人げないとは思うけど、こういう性だ。彼女もそろそろ私のこの態度にはなれたころだと思うし、買い言葉を叩くようになってくれれば。それはそれで妬み相手が増えるというもの。しかし、
「……」
「……キスメ?」
影を落としたように黙り込むキスメに、焦る。言葉は選んだつもりだった。言われて不快になるツボはついてない。長い嫉妬人生で、そういうものは心得ているつもりだったが、外してしまったのだろうか。
心配になって顔を覗き込む。とたんに、
「パルさん!!」
「うわっ」
思い切りよく顔を上げたキスメが、眼前に迫ってきた。唾が飛んでくる。
「パルさんは妬んでばっかりいないで、たまには自分からいいものを追求しなきゃ!」
まだ酔いが冷めきっていないらしい。顔がりんごみたいに濃く色づいて、目は据わっている。勇儀の扱いには手慣れたものだけど、この子の場合はどうも勝手が違う。はたいて黙らせることもできなければ、無理やり口をふさぐのも躊躇われる。
「パルさん!! 私がいいもの見せてあげるからおいで!!! こっち!!」
やにわに私の裾をつかんで、ずるずると引きずり始めた。この小さな体のどこに蓄えているのか、力がやたら強い。酒のせいか、桶ではないけどタガが外れている。ちっさい酔っ払いに、調子を乱されっぱなしだ。
「さあ、お客様一名、キスメ船へごあんなーい!」
「ちょ、やめ、わかった!わかったから引っ張らないで、ちょ、服、服が脱げる!!」
追記、服も乱れた。
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乗り込んだ拍子にぐらついたので、ひっくり返るんじゃないかと冷や汗かいたが、そこはキスメも扱いが慣れているらしく。うまく揺れを逃がして、桶の形をした遊覧船は無事、転覆することなく岸辺から出航した。舵を切るキスメ船長はどこか満足気。乗り込む際にやたら気力を消費した私は、船酔いでもないのにすでにグロッキーだった。
舵を切るとはいっても、桶船に舵はなく。基本、流れ任せ風任せらしい船長は、岸を蹴って離れてからは、水を触る素振りも見せなかった。
桶船には、私とキスメ、ぴったり二人分の空間。外側から見たときにはわからなかったが、中は思ったより深く、広い。そして何より。
「……涼しい」
桶の中は、先ほどまでの蒸した空気が夢でないかと思えるほど、涼しかった。嘘のように、汗が引いて行く。空気そのものが違うといっていい。川の水に長く冷やされてか、それとも桶自体に仕組みが施されているかはわからなかった。ともすれば寒気すら感じる温度差に、身をよじった。
「でしょ?」
秘密の宝物を友達に見せたときみたいに、キスメが笑う。あどけない、純真さ。私にはできない、屈託のない笑みを受けて、妬ましくも、頬はほころんだ。
「いつもこうしてるの?」
「うーん、最近はずっとこうかな。今日みたいに蒸し暑い日は特にね」
「へぇ」
わかる気がする。これだけ快適ならば、ずっといていいと思える。ただ、少し、膝小僧を抱えて向かい合わせでは、狭苦しいかなと、わがままを思った。
「少し狭いけど、確かに快適。さっきはケチつけてごめんなさいね」
「ちょっと文句残すあたりがパルさんっぽいよねー」
考えてみれば、この桶は彼女の拠り所そのもの。先の悪態は、私で言うなら、橋の悪口を言われるようなもの。素直に恥じて、謝罪をしたつもりだったけど、意図せず含んだ不満はしっかり拾われてしまう。意識にもしていなかったから、そういう性分なのだなと自分で思う。長く生きてきたから、そうそう治るものでもないが。
キスメは困ったように笑う。さっきのように、怒ったりはしなかった。首の傾げにつられて、緑のおさげが揺れた。若草の、幼い匂いが香った。
ごめんなさい。今度こそ純粋に謝ると、キスメはまたはにかむ。はにかんで、思いついたような顔。
「パルさん、寝転んでみて」
「寝転ぶって、ここで?」
突拍子も無い提案に戸惑う。確かに桶底は思っていたよりも広い。しかし、広いにしても限度があった。私が足を延ばして寝転ぶには少し尺が足りない。足の置き所を探して右往左往していると、キスメが私の両脚を抱えた。
「こーするのっ」
「ひゃっ」
力任せに靴底を桶から引っぺがされて、でんぐり返った。ゴンという音とともに、後頭部に鈍痛。眼前に散る星。ボーンと、木の鐘みたいな響きが木底と水中とを伝って、跳ね返ってきた。脳が揺れる。
「あんたねぇ……?」
急に何するのよ。悪態は、続く衝撃にかき消された。一拍、二拍おいて、ようやく感じる。
胸の重み。若草の香り。鎖骨にさらりと、深緑がかかった。私の足は天に延び、ちょうど桶の淵に踵がかかる格好。ゆったりとしたくるぶしまでの寝巻が、太ももまではだけている。いつもなら羞恥にゆがむべき顔も、今はそれすら気にならない。ただ、眼前に広がる緑の髪と、ささやかな重みを、ただ受け止めていた。
「キスメ……?」
「えへへ、これなら狭くないでしょ」
キスメが、私にのしかかっていた。というよりは、しがみついていた、のほうが正しい気がする。桶の底面積を目いっぱい使って、私にしなだれる形で。呼吸と鼓動が重なる。黒と緑の瞳がかち合う。川越しでない、今度はもっと近い距離で。
いまいち理解が追い付かなくて、二重がはっきりしていて可愛らしいなとか、少しそばかすがあるなとか、白雪の頬がさっきよりも濃く色づいているなとか、どうでもいいことに意識がいった。私が何も言わないでいると、キスメはまたはにかんで、小さな形のいい鼻を私の胸に埋めた。
「ほんとはね、ちょっとさみしかったんだ」
ぽつりと、つぶやく。
「蒸し暑くて真夜中に目が覚めて。なんていうのかな。世界から切り離されたみたいな。お昼間はいっつもヤマメちゃんや、パルさんや、みんなと遊ぶし、一緒にいなくても、どこかから誰かが笑ってくる声が聞こえたり。誰かがいるんだって、わかるんだけど」
しがみつく手が、寝巻にしわを寄せる。湿った布が、しっとりと擦れる。
「自分以外、何の音も聞こえなくてさ。誰かの家に行くわけにもいかないし。一度起きちゃったらもう眠れないし。だから、お散歩しようって」
私は聞きながら、夜空を見ていた。空といっても、岩の天井だけど。丸い桶の輪郭に切り取られた天蓋は真っ暗で、そこに明滅する鬼火が星のように煌めいていたから。キスメは続ける。
「ひとりでぷらぷら歩いて、川まで来たの。耳を澄ましたらほんとうに静かにだけど、川が流れる音が聞こえてね。私以外にも動いてるものがあるんだって、ちょっと安心したんだ」
夜という枠に切り取られた無音の世界で、キスメはこの川に生と動を聞いていた。木底に耳が近くて、その下を微かに流れる川が、鼓膜を揺らした。
「川に入ってみたら、もっと大きく聞こえるかなと思ってね。飛び込んでみたの。そしたら冷たくてびっくり。風邪ひいちゃうかと思った」
笑うキスメの体温は暖かかった。桶に感じた寒気が中和されて、ちょうどよかった。
「今度は桶に乗ってみればいいなと思ったの。ちょうどヤマメちゃんが大きな桶を作ってくれたところだったから。試しについでに」
ヤマメの名が出たあたりで、胸越しに感じる吐息が熱くなった。誇らしげに。あの土蜘蛛はキスメの、一番の友人だ。子供らしい、浅く儚い息遣いが胸元にしみこむ。
「そうしたらまたまたびっくり! 川に浮かべた桶の中はとっても涼しい!」
一度、キスメが顔を上げた。新しい遊び場を見つけた童みたいに目をキラキラさせて。せがむ瞳が同意を求めていたので、静かに、うん、と頷いてやった。うれしそうに目を細めて、また私の胸に顔を埋める。わずかに揺れた桶の側面を、水音が叩いた。ちゃぽんと、小気味よく泡玉が弾けた。
「それだけじゃないんだ。桶の中にいるとね、いろんな音が大きくなって帰ってくるの。ううん、音だけじゃない。桶に寝転がってみたら、知らなかったことがたくさん見えるんだ」
それはきっと、今の私みたいに。
吹き抜ける風をその目で見たと言う。 鍾乳石に伝う雫をその耳に聞いたと言う。 魚の吐息を泡に感じたと言う。
波が桶を叩き、波紋が連なり、川の清らに生を見出して。
そして。
「ひとりだなぁって、思ったんだ」
この子は静寂に、自分の呼吸と鼓動を聞いた。この桶の中で、一つきりの小さな生を覚えた。そして、寂しさに一人泣いていた。充血も、火照った顔も、それはきっと。
「……それでお酒?」
「だってさびしかったんだもーん……」
一人の寂しさを肴に一人酒なんて。旧都の鬼でも、もう少し良いツマミを見つけるだろう。ぐずつくキスメの髪をなでてやる。若草に紛れて、湿気と汗のにおいがした。
「でもね、だからね、今日はうれしかったんだ。パルスィに会えて」
「道連れができたって?」
「もう、違うよ。……誰かと一緒に分けっこしたかったから」
ゴロンと胸の上で身をよじって、私と同じ空を見上げる。鬼火は変わらず、浅く緩く、明滅を繰り返していた。まるでキスメの呼吸のように。緑白色の、どこか冷たい光を放ちながら。天井の鍾乳石から、ぽつりと一粒、雫が落ちて、キスメの頬を濡らした。
つまるところ。
この娘は、眠れぬ熱帯夜の一角に見つけた、自分の知らない世界を共有したかったのだと。寂しさを分け合える、仲間がほしかったのだと。きっと相手は誰でもよかったのだろう。私は偶然その一人に選ばれたにすぎない。それでも選ばれるかもしれなかった、他の候補のヤマメや勇儀に嫉妬した。それでも自分が選ばれたことが、うれしかった。それが偶然でも、この子が寂しいと涙をこぼした時間を共有できた。
「あなたね」
キスメの頬を両手で挟んで、こちらを向かせる。三度、瞳があった。腫れぼったい瞼に隠れて、黒真珠が揺れた。人形みたいな輪郭を包む手が熱かった。今なら分かるけれど、白雪の紅揚は、残る酒気だけのせいじゃないんだ。
「赤ん坊じゃないんだから、一人寝が寂しいなんて言わないの」
語気は強めつつも、声音は赤ん坊をあやすように。
「寂しいって思ったら、だれでもいいから、頼りなさいな」
私を、なんて言わない。言えない。この子の世界を、独り占めしたくない。
「地底は暖かいところよ。それこそ、暑苦しいくらいにね。みんな一癖も二癖もあって、うっとうしいことこの上ないけど」
みんなには、含みを持たせて。願わくば、自分も含めて。
「それでも、あんたみたいな子が寂しがってるのをほっとける連中じゃないんだから」
この子は幸運だ。いつでも世話を焼いてくれる面倒見のいい土蜘蛛や、地底社会を取り仕切る鬼の知り合いがいる。
「ヤマメに泣きつけば、おろおろしながら心配してくれるわ。勇儀はきっと、笑い飛ばしてくれるでしょうね」
さとりとは付き合いが薄いかもしれないけど、彼女に縋れば、きっと悩みを見透かして助言してくれるだろう。彼女が小さくて愛らしいものに目がないことを、付き合い上知っている。地底中のどこを掬いとっても、みんな過保護なほどに、キスメを元気づけるはずだ。
そこまで言って、笑ってやった。できるだけ屈託なく、笑ってやった。泣きたくなる夜なんて、不意に誰にでもやってくるものだから。その時は誰かに頼ればいいんだと、安心させるように。潤んだ瞳で、キスメはこちらを見ていた。珠になった涙は、眦からこぼれんばかりだった。あんまり恥ずかしいことを言ったものだから、今度は私の顔が熱かった。鼻がつんとしてきた。
「パルスィは」
「え?」
キスメがそっと、私の手に手を重ねて。温もりを感じるように、瞼を薄く閉じて。
「パルスィなら、どうしてくれる?」
今日何度目かに、はにかんだ。熱く転がった水珠が、親指を濡らした。
「……そうね」
短い夜の、船旅の間に気づいたことだが。
「私だったら……」
どうやらほかの連中のことを、とやかく言えないようで。
「……こうしてあげる」
私も大概、この子に甘いらしかった。
「わっ」
キスメの顔を胸に押し付けるように、抱きすくめてやる。少し強いくらいに力を込めて。キスメはしばらく、もごもごと抵抗していたが、やがて観念したのか、身体から力が抜けた。赤子を、我が子をあやすように、背中をさする。その度にキスメが、気持ちよさそうに身じろぎした。
「パルさんって、お母さんみたいだね」
「……やめるわよ」
「ごめんって。続けて。とっても、安心する」
口では否定しつつも、この娘に向いた自分の感情は、おそらくそれなのだろう。熱帯夜に蒸された共感よりも、夜に切り離された寂しさへの同情よりも。それはきっと、母性。かつて、ややこを水に流した身には、あまりに似つかわしくない言葉。我が子を抱くのはこんな気持ちなのだろうか。
「パルスィ」
「んー?」
「パルスィって、あったかいんだね」
「あなたもね」
暑気に蒸されて、川風に冷やされた身体に、お互いの温度が心地よかった。
忘れていた眠気が、瞼を引き始める。
「パルスィ」
「ん、なぁに?」
「パルスィの心臓が聞こえる」
「そうね。生きてるもの、ちゃんと」
「うん……」
声がまどろみに落ち始める。キスメも、私も、抱き合ったままに。夜の帳を下ろすには、少し遅い時間だった。
「ねぇ、パルスィ」
「うん、なぁに」
「このまま寝ていい……? パルスィの胸の音、聞きながら」
「……バカね、いちいち聞かなくてもいいのよ」
「ごめんなさい……」
「……いいの。今はただ」
「……」
言葉を聞くより早く、キスメは寝息を立て始めている。
当てられた耳に、届く鼓動。軽く触れた胸から、伝わる鼓動。お互いの体を通して反響して、心拍と体温が重なる。
「……いいのよ。今はただ、私の鼓動を感じて、眠りなさい」
抱きすくめる力を弱めて、後頭を木底につけた。ポチャリと聞こえた誘い水を最後に、私の意識も、まどろみに溶け始める。
生の拍動を子守歌に。静の眠りの淵に沈む。
桶船は流れに任せて、私たちの体を運んでいく。
載せた心音と身温は、二つ分。
今夜は久しぶりに、よく眠れそうだった。
新鮮で良かったです
優しい母親のようなパルスィ、すきです
情景の描写など、快い物に感じました。ご馳走様。
なんというか良い空気が伝わってきて気持ちよく読む事が出来ました。
キスメとパルスィ良き
面白かったです
母力の高いパルスィが良かったです
優しい雰囲気が地底に満ちているようで素晴らしかったです
面白かったです。
冒頭の描写から引き込まれた。
かわいらしいキスメも優しいパルスィも大好きです
最高ですね