紅魔館の夜はフランドールの世界だ。
館全体に夜の気配が満ちると、フランドールはそっと目を覚ます。服を着替え、帽子をかぶり、七色に光る羽を揺らしながら部屋の外へ出る。
姉のレミリアは吸血鬼でありながら日中に行動し、月に火が灯り始めると眠りにつく。
レミリアを中心に廻る紅魔館は、彼女の就寝とともに静まり返る。メイド妖精たちのはしゃぎ声もメイド長の優雅な足音もふっつりと途切れ、頼りないランプの明かりだけが所在なげに揺れ動く。
昼間の喧騒は地下深くで眠るフランドールにも届くことがある。唐突に何かが爆発する音が響き渡り、メイド妖精の悲鳴や笑い声が波のように押し寄せては引いていく。毎日何かしらの事件が起こり、勝手に解決される。または未解決のままほったらかしにされるか。
紅魔館という場所を、騒がしくて楽しげな、とイメージする者も多いだろう。でも、それは紅魔館が持つ一面にすぎないことをフランドールは知っている。
フランドールがイメージする紅魔館は静かで穏やかで、孤高だった。実際、いま廊下には誰一人の姿もなく、響くのは自分の足音だけ。壁にかけられた時計の針の音だって聞こえる。
毎日そうやってころころ別の顔を入れ替えるこの場所は、まるでオセロゲームでもしているみたいで面白い。でもそういう風に考えているのはきっと自分だけなのだろうと彼女は思っている。自分だけの秘密だ。別に隠しているわけではないけれど。
フランドールが廊下を歩いていると、いくつもあるドアの一つがゆったりと動いているのを見つけた。閉じかけてはまた開く。まるでおいでおいでをしているかのように。誰かいるのだろうかと思って近づいたが、風に揺すられているだけだった。立て付けが悪くなっているのかもしれない。
なんとなく隙間から部屋の中に体を滑り込ませる。閉め忘れたのか両開きの窓が開放されていた。薄白く輝くカーテンがはためき、その向こうに夜空がある。
窓から頭を出せば、月明かりに照らされた庭が一望できる。きれいに整えられた花壇は薄闇のフィルターによって華やかな大人しさを纏っていた。
その花壇から少し離れた場所に、動き回る人影がある。夜になるとその人物はこうして鍛錬を始める。虚空に向かって拳を突き出し、蹴りで空気を切り裂く。
フランドールはその姿を見るのが好きだった。声をかけたり、近づいたりすることはない。ただ遠くから黙って見守っているだけなのだが、それだけで充分だった。ときには動きを真似したりする。おかげですっかり突きや蹴りはうまくなった。格闘なら姉にだって負けないとフランドールは自負しているが、試したことはない。
こんな夜更けに鍛錬なんてすれば当然疲労がたまる。だから勤務中に昼寝をして怒られることになるのにと思わなくもないが、本人に言ったことはない。
程々に眺めていたら小腹が空いた。未だに動く影に別れを告げて、キッチンへと向かうことにする。
大きな館だけにキッチンも比例して大きい。そして冷蔵庫(紅魔館には冷蔵庫がある!)も大きい。さらにこの冷蔵庫には不思議なことにフランドールが望むものがいつも入っている。チョコレートだったりパンケーキだったり、日によって入っているものは変わるのだけど、フランドールが欲しいと感じているものを外したことはない。どういう原理かわからないので魔法の冷蔵庫なのだと勝手に解釈している。
中を確認すると今夜は巨大なパフェだった。内心でガッツポーズをして、骨董品を扱うような手つきで慎重に中から取り出し、テーブルの上に置く。引き出しからスプーンを適当に掴み上げ、近くにあった椅子を引っ張ってきて飛び乗るように座る。
今夜の獲物は大物だ。心してやらねばならない。
呼吸を整え、鋭い目つきで睨みつけ、意を決して目の前に鎮座する山のような甘みの怪物に挑みかかる。ほっぺたがベタベタになったって気にしない。アイスの山を切り崩し、クリームのマントルを掘り起こし、さらにその下に待ち構えるフレークの岩盤をバリバリ音を立てて貪り食う。
フランドールの手にかかれば巨大なパフェも、ものの数分で跡形もなく消え去る。空になったガラスの入れ物にスプーンを放り込む。チリンという音が試合の終了を告げた。
満足した彼女は容器をそのままほったらかし、図書館へと足を向ける。
夜の闇はあらゆるものをその内側へと包み込んでしまうが、孤独までは包み込んでくれない。むしろより強い影としてはっきりと浮き彫りにする。
フランドールは決して孤独が嫌いなわけではない。むしろ何に縛られることもない自由を謳歌している。それでも退屈なものは退屈で、一人ではどうしても時間を持て余す。
そんなときに書物の海はまさに最高の場所だ。だから彼女はほぼ毎日にように図書館に通っている。
入り口は重々しい扉で蓋をされている。昼間にはこの場所の主がメイド妖精や泥棒の侵入を拒絶して扉に鍵をかけてしまうこともあるが、夜の間に鍵がかかっていたことは一度としてない。だからフランドールは今日だって誰に知られることもなく簡単に忍び込むことができた。
本棚の間を歩き回って、目についた一冊を適当に引っ張り出し、その場に座り込んで本を開く。フランドールはすぐに意識をその一冊の本に委ねる。ページをめくるにつれ、彼女は深く入り込んでいく。まさに深海にダイブするかのように。未だ見たこともない世界を求めて、言葉の連なりに誘われながら、深く、より深く……。
その時の彼女の意識は完全に外界から遮断されてしまう。きっと誰かが話しかけても、彼女はそのことに気づきはしないだろう。もしかしたら目の前でパレードが始まっても気にも留めないかもしれない。類まれな集中力はフランドールをすっかり無防備にしてしまうが、だからこそ書物を純粋に享受することができる。本に書かれた内容と自分を完全にトレースし、自分自身の物語として構築する。彼女はときに、哲学者や偉大なる魔法使い、はたまた殺人鬼やか弱いお姫様にだってなってしまう。本に書かれた文字はシンデレラの魔法なのだ。
そうして本をパタリと閉じたとき、すっかり時間が経っていた。ふわあとあくびをし、立ち上がって伸びをする。本を元の場所に差し込むと図書館を後にした。
今度は階段を勢いよく駆け上って屋上へ。すっかり錆びついて嫌な音を立てるドアをこじ開け、外の空気に身を晒す。
空はまだ濃紺色に染まっているものの、山の向こう側には朝の気配が立ち込めていて、自分の出番は今か今かと待ち構えている。
フランドールは大きな時計台の下に座り込んだ。その巨大さとは裏腹に繊細に時を刻む機械が、日の出はもうすぐだと知らせてくれる。
日が出ればフランドールは眠りにつく。そしてレミリアが代わりに目を覚ますのだ。
紅魔館はレミリアを中心に動いている。さながら太陽と惑星の関係のように。レミリアは館に存在するものすべてを支配する。自分のテリトリーに入ったものはすべて自分のものにしなければ気が済まないのだ。フランドールはそんな姉とは対象的に何かを支配したりしようとは思わない。この紅魔館の夜だって別に一人で独占しようなどとは考えていない。どちらかと言えば自分は観測者なのだろうと彼女は思う。
太陽とは一定の距離を置くからこそ、普段目にすることのない太陽系全体の別の一面がフランドールには見えるのだ。太陽自身にすら知り得ない別の一面を。
自分だけにしか見えないもの。それは彼女にとって宝石のように輝いて、蜂蜜よりも甘く、何よりも魅力的に思える。観測者だけに許された特権だ。
と、ここまで考えてフランドールはふと思う。
レミリアは紅魔館に存在するすべてを支配しようとする。にも関わらず、フランドールにはそういった働きかけをすることはない。
この館においてフランドールという存在だけが引力から切り離されている。これは一体どういうことだろうかと疑問に思う。
存在しないものと捉えられているのだろうかと考えたが、それはなさそうだ。姉と目を合わす機会こそ少ないものの、ふとした折に彼女の関心が自分に向けられることを感じる。この感覚を他人に説明しても理解はしてもらえないだろうと思う。これはきっと姉妹だからこその何か不思議な繋がりがあるのだと勝手にフランドールは解釈しているが、実際の原理はよくわからない。とにかく、レミリアはフランドールの存在を認めつつも、己の支配下に置こうとはしていないということだ。
空を流れる雲のようにぽっかりと疑問が浮かぶ。背中に巨大な歯車の駆動を感じながら、彼女はうんうんと考える。が、途中で何もかもが面倒になり、ふわあと大きなあくびを一つした。そうして立ち上がると、そそくさと館の中へと戻った。
もうすぐ朝が来る。フランドールの時間は終わる。
最後にある扉の前に立った。紅魔館の中にあるどの扉よりもとびっきり豪華な装飾が施されたそれは、この館の主の部屋であることを示している。
フランドールはその扉に――その扉の向こうで寝息を立てているはずの姉に向かって静かな視線を送ると、その場を立ち去った。
自分の部屋に帰り着き、寝間着に着替えると大きなベッドに飛び込むようにして横になる。
日が昇ればまた騒々しい紅魔館が戻ってくる。その時間は、自分のものではない。また静かで穏やかな紅魔館がやってくるまで、しばらくのお別れ。
フランドールは静かに目を閉じ、程なく安らかな眠りに落ちていった。
館全体に夜の気配が満ちると、フランドールはそっと目を覚ます。服を着替え、帽子をかぶり、七色に光る羽を揺らしながら部屋の外へ出る。
姉のレミリアは吸血鬼でありながら日中に行動し、月に火が灯り始めると眠りにつく。
レミリアを中心に廻る紅魔館は、彼女の就寝とともに静まり返る。メイド妖精たちのはしゃぎ声もメイド長の優雅な足音もふっつりと途切れ、頼りないランプの明かりだけが所在なげに揺れ動く。
昼間の喧騒は地下深くで眠るフランドールにも届くことがある。唐突に何かが爆発する音が響き渡り、メイド妖精の悲鳴や笑い声が波のように押し寄せては引いていく。毎日何かしらの事件が起こり、勝手に解決される。または未解決のままほったらかしにされるか。
紅魔館という場所を、騒がしくて楽しげな、とイメージする者も多いだろう。でも、それは紅魔館が持つ一面にすぎないことをフランドールは知っている。
フランドールがイメージする紅魔館は静かで穏やかで、孤高だった。実際、いま廊下には誰一人の姿もなく、響くのは自分の足音だけ。壁にかけられた時計の針の音だって聞こえる。
毎日そうやってころころ別の顔を入れ替えるこの場所は、まるでオセロゲームでもしているみたいで面白い。でもそういう風に考えているのはきっと自分だけなのだろうと彼女は思っている。自分だけの秘密だ。別に隠しているわけではないけれど。
フランドールが廊下を歩いていると、いくつもあるドアの一つがゆったりと動いているのを見つけた。閉じかけてはまた開く。まるでおいでおいでをしているかのように。誰かいるのだろうかと思って近づいたが、風に揺すられているだけだった。立て付けが悪くなっているのかもしれない。
なんとなく隙間から部屋の中に体を滑り込ませる。閉め忘れたのか両開きの窓が開放されていた。薄白く輝くカーテンがはためき、その向こうに夜空がある。
窓から頭を出せば、月明かりに照らされた庭が一望できる。きれいに整えられた花壇は薄闇のフィルターによって華やかな大人しさを纏っていた。
その花壇から少し離れた場所に、動き回る人影がある。夜になるとその人物はこうして鍛錬を始める。虚空に向かって拳を突き出し、蹴りで空気を切り裂く。
フランドールはその姿を見るのが好きだった。声をかけたり、近づいたりすることはない。ただ遠くから黙って見守っているだけなのだが、それだけで充分だった。ときには動きを真似したりする。おかげですっかり突きや蹴りはうまくなった。格闘なら姉にだって負けないとフランドールは自負しているが、試したことはない。
こんな夜更けに鍛錬なんてすれば当然疲労がたまる。だから勤務中に昼寝をして怒られることになるのにと思わなくもないが、本人に言ったことはない。
程々に眺めていたら小腹が空いた。未だに動く影に別れを告げて、キッチンへと向かうことにする。
大きな館だけにキッチンも比例して大きい。そして冷蔵庫(紅魔館には冷蔵庫がある!)も大きい。さらにこの冷蔵庫には不思議なことにフランドールが望むものがいつも入っている。チョコレートだったりパンケーキだったり、日によって入っているものは変わるのだけど、フランドールが欲しいと感じているものを外したことはない。どういう原理かわからないので魔法の冷蔵庫なのだと勝手に解釈している。
中を確認すると今夜は巨大なパフェだった。内心でガッツポーズをして、骨董品を扱うような手つきで慎重に中から取り出し、テーブルの上に置く。引き出しからスプーンを適当に掴み上げ、近くにあった椅子を引っ張ってきて飛び乗るように座る。
今夜の獲物は大物だ。心してやらねばならない。
呼吸を整え、鋭い目つきで睨みつけ、意を決して目の前に鎮座する山のような甘みの怪物に挑みかかる。ほっぺたがベタベタになったって気にしない。アイスの山を切り崩し、クリームのマントルを掘り起こし、さらにその下に待ち構えるフレークの岩盤をバリバリ音を立てて貪り食う。
フランドールの手にかかれば巨大なパフェも、ものの数分で跡形もなく消え去る。空になったガラスの入れ物にスプーンを放り込む。チリンという音が試合の終了を告げた。
満足した彼女は容器をそのままほったらかし、図書館へと足を向ける。
夜の闇はあらゆるものをその内側へと包み込んでしまうが、孤独までは包み込んでくれない。むしろより強い影としてはっきりと浮き彫りにする。
フランドールは決して孤独が嫌いなわけではない。むしろ何に縛られることもない自由を謳歌している。それでも退屈なものは退屈で、一人ではどうしても時間を持て余す。
そんなときに書物の海はまさに最高の場所だ。だから彼女はほぼ毎日にように図書館に通っている。
入り口は重々しい扉で蓋をされている。昼間にはこの場所の主がメイド妖精や泥棒の侵入を拒絶して扉に鍵をかけてしまうこともあるが、夜の間に鍵がかかっていたことは一度としてない。だからフランドールは今日だって誰に知られることもなく簡単に忍び込むことができた。
本棚の間を歩き回って、目についた一冊を適当に引っ張り出し、その場に座り込んで本を開く。フランドールはすぐに意識をその一冊の本に委ねる。ページをめくるにつれ、彼女は深く入り込んでいく。まさに深海にダイブするかのように。未だ見たこともない世界を求めて、言葉の連なりに誘われながら、深く、より深く……。
その時の彼女の意識は完全に外界から遮断されてしまう。きっと誰かが話しかけても、彼女はそのことに気づきはしないだろう。もしかしたら目の前でパレードが始まっても気にも留めないかもしれない。類まれな集中力はフランドールをすっかり無防備にしてしまうが、だからこそ書物を純粋に享受することができる。本に書かれた内容と自分を完全にトレースし、自分自身の物語として構築する。彼女はときに、哲学者や偉大なる魔法使い、はたまた殺人鬼やか弱いお姫様にだってなってしまう。本に書かれた文字はシンデレラの魔法なのだ。
そうして本をパタリと閉じたとき、すっかり時間が経っていた。ふわあとあくびをし、立ち上がって伸びをする。本を元の場所に差し込むと図書館を後にした。
今度は階段を勢いよく駆け上って屋上へ。すっかり錆びついて嫌な音を立てるドアをこじ開け、外の空気に身を晒す。
空はまだ濃紺色に染まっているものの、山の向こう側には朝の気配が立ち込めていて、自分の出番は今か今かと待ち構えている。
フランドールは大きな時計台の下に座り込んだ。その巨大さとは裏腹に繊細に時を刻む機械が、日の出はもうすぐだと知らせてくれる。
日が出ればフランドールは眠りにつく。そしてレミリアが代わりに目を覚ますのだ。
紅魔館はレミリアを中心に動いている。さながら太陽と惑星の関係のように。レミリアは館に存在するものすべてを支配する。自分のテリトリーに入ったものはすべて自分のものにしなければ気が済まないのだ。フランドールはそんな姉とは対象的に何かを支配したりしようとは思わない。この紅魔館の夜だって別に一人で独占しようなどとは考えていない。どちらかと言えば自分は観測者なのだろうと彼女は思う。
太陽とは一定の距離を置くからこそ、普段目にすることのない太陽系全体の別の一面がフランドールには見えるのだ。太陽自身にすら知り得ない別の一面を。
自分だけにしか見えないもの。それは彼女にとって宝石のように輝いて、蜂蜜よりも甘く、何よりも魅力的に思える。観測者だけに許された特権だ。
と、ここまで考えてフランドールはふと思う。
レミリアは紅魔館に存在するすべてを支配しようとする。にも関わらず、フランドールにはそういった働きかけをすることはない。
この館においてフランドールという存在だけが引力から切り離されている。これは一体どういうことだろうかと疑問に思う。
存在しないものと捉えられているのだろうかと考えたが、それはなさそうだ。姉と目を合わす機会こそ少ないものの、ふとした折に彼女の関心が自分に向けられることを感じる。この感覚を他人に説明しても理解はしてもらえないだろうと思う。これはきっと姉妹だからこその何か不思議な繋がりがあるのだと勝手にフランドールは解釈しているが、実際の原理はよくわからない。とにかく、レミリアはフランドールの存在を認めつつも、己の支配下に置こうとはしていないということだ。
空を流れる雲のようにぽっかりと疑問が浮かぶ。背中に巨大な歯車の駆動を感じながら、彼女はうんうんと考える。が、途中で何もかもが面倒になり、ふわあと大きなあくびを一つした。そうして立ち上がると、そそくさと館の中へと戻った。
もうすぐ朝が来る。フランドールの時間は終わる。
最後にある扉の前に立った。紅魔館の中にあるどの扉よりもとびっきり豪華な装飾が施されたそれは、この館の主の部屋であることを示している。
フランドールはその扉に――その扉の向こうで寝息を立てているはずの姉に向かって静かな視線を送ると、その場を立ち去った。
自分の部屋に帰り着き、寝間着に着替えると大きなベッドに飛び込むようにして横になる。
日が昇ればまた騒々しい紅魔館が戻ってくる。その時間は、自分のものではない。また静かで穏やかな紅魔館がやってくるまで、しばらくのお別れ。
フランドールは静かに目を閉じ、程なく安らかな眠りに落ちていった。
それにしてもその冷蔵庫の羨ましいこと…。
私は優雅な散歩だと思いました
読めてよかったです
美鈴のマネをするフランが可愛らしかったです
フランを通して見る紅魔館の様子が新鮮そのもので引き込まれる作品でした!!
静かでも暖かい情景が良い作品でした