ある春の夜の眠りから覚めると、神社が凍り付いていた。どの戸に触れてみても開かないので仕方なく、隙間を使って外に出た。そこではじめて、この唐突な事態を私は認識した。
神社は一面薄い氷に覆われていて、いくら叩いてみても罅一つ入らない。物理的な手段が通じないならば、何らかの封印の一種かとも考えたが、私に解くことができないのでおそらく違っている。
だから、ここはひとまず諦めて、辺りを観察することにした。すると、氷は神社のみならず周囲の景色全体へ絶え間なく続いていることに気が付いた。
思ったより厄介なことになりそうだと舌打ちして飛び出す。空は夜明け前で、眼下の様子を見渡すにはいささか都合が悪かったが、それでも異変が起きていることは理解できた。人里も森も山も湖も、すべて一面凍り付いていて、外にはいっさい人妖の姿がなかった。
ゆえに私は結論した。幻想郷は凍り付いてしまったのだ、と。
それでも、希望を失うにはまだ早い。空から時刻を鑑みるに、誰にも出くわさないというのは十分ありうる事態だろう。だが、そうした気休めも長くは持たなかった。変化の無いことがこれほどまでに耐えがたいものだと私は知らなかった。
私はただ、眼下の景色に何らかの変化が生じることを期待した。それは人影でも、氷の瑕疵でも、何でも良かった。とにかく、動いていないと私まで凍り付いてしまいそうな気がして、ひたすら空を飛んだ。
しかし、ほとんど郷を一巡りしてみても地上は一様に氷が覆うのみで、空には太陽も月も見えない。もしかしたら時間すら凍り付いているのかもしれない。私は、あの月の都のことを思い出した。永遠に止まりつづける凍り付いた街なんて、死んでいるのと変わらないな。そんなことを考えながら飛んでいる内に、私は違和感を覚えた。肌寒い氷の景色の中に温度を見つけたのだ。錯覚だと思ったが、今は縋るしかなかった。
そうして平熱のわずかな残滓を手繰るようにして慎重に飛んでいくと、ふと懐かしい気分に陥った。私は冥界の門前に導かれていた。偶然と状況とが結び付いて、私の中に一つの推測が現れた。ついに私は桜の下で、西行寺幽々子を見つけた。
「あら、おはよう」と彼女は普段通りの声で言った。
「とぼけないで」
「こんな時間から剣呑ねえ」
「こんな時間だから」
そう、こんな静止した時間はおかしい。だから私は彼女を疑う。かつて幻想郷から春を奪った亡霊を。夜を止めることのできる彼女たちを。
そのような疑いに対して、幽々子は簡潔に答える。
「同じことを繰り返すなんて退屈よ」
「亡霊のくせに」
「繰り返してあげましょうか?」
「あんたが犯人なら、やるしかないけど……」
そこで私は言いよどむ。会話から察するに、自分の推理が正しいとはとうてい思えなかった。ただ、彼女しか見つけられなかったから彼女を疑っているだけだ。もちろん、普段の異変ならそれでも良かったのだが、今回は違和感ばかりが心を占める。なによりこの状況に際しても、勘がいっさい働かないのだ。私は見当外れのことをしているのではないかと思った。
「今回はやめておくわ。正直、まだ何も分からないし」
幽々子は頷くと、「それが良いわ」と見透かしたように笑う。
「それに、私が何か企んでいたら、紫が気付くんじゃないかしら」
「気付いてないからこうなっているんでしょう。どうせ冬眠でもしているんだわ、あいつは」
「あら、妬けるわね」
「あー?」
「でも、残念。紫は私の親友だから」
私にはもう、この亡霊の回りくどい言葉に付き合う気は無かった。彼女の示す方へただ視線を移す。八雲紫がそこにいた。
「春眠暁を覚えず。夜明け前に目覚めてしまいましたわ」
そう言って、わざとらしい欠伸を一つすると、紫は私たちを手招く。今も暁じゃないのかと思ったが、あいつ相手に境界の話をするほど不毛なことは無い。
私たちは屋敷の縁側に腰を下ろした。ここからは庭の桜がよく見える。どれも盛りを少し過ぎているか、あるいはそれを迎える以前のようで、満開のものは一つも無かった。
「なんであんたがここにいるのよ」
「いなかったら文句を言うくせに」
「それもそうだわ。ねえ紫、さっきこの子ったら……」
「余計なことは言わなくていいから。今、大事なのはこの異変の話でしょう」
無理やり会話を遮ると、「確かに、教えるのも癪ね」と幽々子は黙った。私は紫の方へ向き直って本題を問うた。わざわざこんな所で待っていて、彼女が何も知らないはずがない。
果たして、彼女はいつもの企んだような笑みを見せると、「良いことを教えてあげる」と口を開いた。
「これは異変ではありません。だから、あなたは何もしなくていいのよ」
私はその言葉を容易には飲み込むことができなかった。思わず紫から視線を逸らす。桜たちは今もなお凍り付いていて花弁一つさえ散らない。これが異変でなくて何だと言うのか。
「零時間の事象は異変になりえない。点の上に立つことができないのと同じことよ」
「なんであんたがそれを決めるの」
「あら、そうしてほしかったのでしょう?」
そう問う紫の表情は奇妙に優しくて、やはり彼女は妖怪なのだと再認する。
「別に、ただ、あんたなら何か知っているんじゃないかと思っただけよ」
彼女に正対しがたく思えて、私は誤魔化すようにそう言った。そして急いで、「こんなの、明らかにおかしいわ」と議論を切り捨てた。
「そうね。だから、時間が経つのを待っているのよ」と紫はあっさり同意する。
「そんな呑気な」
私は呆れた。妖怪と人間とでは、時間についての感覚がまったく異なるのだろう。私は、解決の兆しの見えないこの事態に焦っていた。そして同時に退屈してもいた。つまりは、早く終わればいいのに、と私は思っていた。
「どちらにせよ、これは時間が解決する問題よ」と紫は言う。自ら解決できないのは不満だったが、彼女の言はもっともだと私も納得しつつあった。それでも、素直に受け入れられるか否かは別の話で、「ああ、もう、調子が狂うわ」という感想が口から零れた。
「異変だと思って出てきたのに、じっとしているだけなんて……」
「それなら、動けばいいじゃない」と幽々子はあっさり言った。「ねえ、紫。相手してあげなさいな」
「あんたたちの仕業じゃないって分かったから、いい」
「頭だけが動いているくらいなら、せめて身体を動かした方が楽になると思わない?」
そう言って、紫は距離を置くとこちらへ弾幕を放ってきた。いつも通りの、計算された弾の結界。紫の弾幕を、私は美しいと思う。でも、その理由を私は知らない。紫はあんな性格をしているから、きっとすべて計算ずくで弾幕の意味を作っている。それは私とは真逆だ。弾幕も結界も、意識するよりもしない方がずっと上手くいくし、それが自然な在り方だと私は信じている。
だというのに、どうして互いに似通ったところに着地してしまう瞬間があるのだろうか。弾幕の境目のパターンを見つけながら彼女に近づく。そうして慣れてきたところで、こちらからも仕掛けはじめた。
だが、放った針は紫の目の前で凍り付いた。代わりに、私の背後に張られた結界から同じ針が返ってくる。まったく予想していなかった事態に、私はそのまま被弾してしまった。
「ねえ、今の……」と私は起き上がって呼びかける。
もちろん、スキマを使って弾を吸い込んだり吐き出したりといった芸当は、紫がたまに使う手の一つとしてあった。でも、それにしたって他人の弾をそのまま自分の弾幕に取り込むのは違う。それは、紫の弾幕の持つ計算された意味を致命的に崩してしまうのではないだろうか。
「どういうことなの」と投げかける。
「あなたの負けってこと」
「そうじゃなくて、今の弾幕」
「ええ。だからそういうこと」
曖昧な疑問ばかりを連ねる私に対して、紫はいつものようにかわそうとする。分かっている癖に、と思うのだけれど。そうした無意味な口論を続けていると、幽々子が口を開いた。「霊夢は紫を分かってないってことよ」
じゃああんたは分かっているのか、と反射的に答えようとして振り向いてみると、それより先に単純な質問が零れて、すっかり気勢を削がれてしまった。
「で、あんたは何をしてるの」
「花見酒。さっきまでは弾も観ていたけれど」
いつの間にか幽々子は古びた酒壺を持っていた。中身は決して多くないようだが、三人分の盃を満たすには十分足りた。容器や液体の見た目からは、どのようなお酒か判別できなかったが、元よりそのような点に頓着する性格ではない。少なくとも、いくらか気分が晴れれば十分だろう。それに、今は他に気になることがあった。
「どうして凍ってないの」
「お酒を凍らせるなんて勿体無い」
「いや、そうじゃなくて」
「知ってる? お酒を飲んでいると、凍らないのよ」
そうして幽々子に流されるまま、私は盃を受け取った。そのまま一口飲み込む。この異常事態が気がかりで碌に味わえなかったが、きっと悪くないお酒なのだと思う。
それだというのに、二口目を試してみても、お酒の香りも、味も、それが与えてくれるはずの熱も、すべて私をすり抜けていく。景色にしても、凍り付いた桜なんてまったく綺麗に思えなくて、私は思わず笑っていた。
「花見酒なのに、全然駄目ね」
「まあ、桜は散る様が一番綺麗だと思うわ」と紫も笑う。
「二人とも捻くれているわねえ。お酒も桜も、ただ愉しめばいいのに」
幽々子は言葉の上では同調しなかったが、表情は私や紫と何ら変わりない。私たちは一様に飽いていた――氷が融けるのを待っていた。
変わらない景色を眺めながら、私は何度も盃を傾ける。次第に味が分かってきた気がしたけれども、酔いは一向に訪れなかった。これではあまり意味が無いな、とため息をつく。予想していた通り、お酒はやがて底をついた。私たちは立ち上がった。
「夏になったらまた来るわ、たぶん」
「ええ。盆と正月にはいらっしゃいな」
盆はあんたが来る方じゃないのかと思ったが、言わないことにした。来られても面倒が増えるだけだ。
そうして、私と紫は白玉楼を後にした。
「またね、霊夢」
そう言って、紫はスキマを開く。何か答えようとしてみたものの、いっさい言葉が思いつかず、私はただ固まっていた。そして、紫の姿が半分ほど見えなくなったとき、私は思わず彼女を引き止めていた。
紫は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに理解したような笑顔でこちらへ向き直った。私はようやく声を発することができた。
「本当に、何もしなくていいの?」
「ええ。今はただ休みなさい。じきに氷も融けるでしょう」
私は迷っていた。いや、そもそも取るべき行動の選択肢を見つけられずにいた。
たとえば魔理沙だったら、おそらく何を言われても解決策を探そうとしたと思う。けれども、今の私は何もしていない。何もできない。何も考えられない。
私はいったい、何のために存在しているのだろうか。
「あなたはつねに自由よ、霊夢」
完璧だが、不器用な指先が私を撫でる。ああ、まただ、と思った。自由。紫はいつも、その言葉で私を縛る。由るべき自己なんて、全部あんたが持っているのに。
「ずるい」
もう反論する気も起きなかった。私は端的にそう零す。
「ずるいわ」
力が抜けたのに任せて、私はそのまま紫に寄りかかる。彼女は黙って私を受け止めてくれた。静かな時間だった。氷の世界はただ沈黙していた。
「ねえ、紫」
顔を上げずに、私は呼び掛ける。
「しばらくこのままでもいい?」
「ええ。しばらく、ね」
私は目を閉じる。東の空が、わずかに夜の藍色を退けはじめたのが見えたから。紫の言った通り、きっと間もなく夜は明けるのだろう。いくらか安堵したが、それが曖昧な無力感を拭うことはけっして無かった。
「おやすみなさい、霊夢」
彼女の指がふたたび私の髪に触れる。言葉は既に尽きていたので、私はただ小さく頷いた。
やがて、朝の強い光が辺りを満たした。もはや氷はどこにも無いだろう。紫の傘の落とす影が、今は唯一の例外だった。私は顔を上げようと息を吸い込む。一瞬、心臓の音が聞こえた気がしたが、もうそのことを確かめる術は無い。
「おやすみ、紫」と私は手を振り、神社へ帰った。朝日が眩しくて、一人で飛んで行ったことを少し後悔した。
原因とか、首謀者とか、そういうのを問うのはきっと野暮なんでしょう。
異変の可能性を否定されて、頼りの勘も働かなくて、突き動かすものがなくなった霊夢は、紫の胸の中で少しでも普通の少女に戻ったんでしょうか。由るべき自己なんて、の一節が、やけに印象的でした。
不思議で綺麗なお話でした