欄干に腰掛けていた。眼下には河。音もなく流れる水面に、細い糸を垂らして。
乾木を荒く削って作った歪な浮きは、淀みと流れの合間にたゆたう。鈍色の天井付近を漂う鬼火明かりと夜目を頼りに、浮かんだ木片に目を凝らした。すでに二刻、あたりはない。針につけた川虫も、もうふやけて事切れているか。
「今日は外れかしらね」
負け惜しみを吐いて、眼下を睨んだ。脇に置いた魚籠代りの桶で、混じり気のない澄んだ川水が寂しそうにきらめいた。興も醒めかけている。今日はもうやめようか。そう考えるたび思い直して、竿を握り直す。せめて一匹、夕餉分は。変な意地と食い意地が張って、竿に力が込もった。妖力が伝わって、僅かな水の抵抗を引きながら、細い糸がシュルシュルと縮んでいく。水滴がテグスを滴り落ちて、地底の燐光にきらめいた。落ちた水が、波紋をいくつも作って、動きの少ない水面を揺らす。土蜘蛛謹製、妖糸の釣り竿。プラプラと揺れるウキを手繰り寄せて、針を確認すれば、哀れ地底川虫はすでに亡く。ひとかけらの甲殻を残して消えていた。当たりはなかったから、するりと逃げられたか。ちくしょう。
「は、餌が不在じゃかからないわけだ」
「やられたねぇ。渋るからいかんのよ」
隣の土蜘蛛がケタケタと笑う。こちらは欄干にもたれかかるようにして、竿を傾けている。余裕ぶってはいるが彼女もボウズだ。並んだ桶は水を除いて空っぽ。並んだ二人のやる気タンクも、そろそろエンプティ。一人ならきっともうめげている。
「虫を採るのも楽じゃないのよ。あんたと違って」
「心外だなぁ。網を張るのも糸を垂らすのも、待ちの精神が重要さ」
「ご高説垂れる割に、当たりを掴めないみたいだけど」
「日が悪かったかね」
肩をすくめてみせるヤマメを横目に、欄干を降りた。
桶の横においた小箱。始めたときは溢れるくらいにいた川虫も寂しくなった。最後の一匹をつまんで、釣り針に引っ掛ける。キュウ、と、鳴き声のようなものを発して川虫がもがく。今度こそ簡単に取れないように、しっかり返しの手応えを確認して貫く。彼女の隣に並び立って再び竿を振った。糸の緊張を緩めて、銀糸を静寂に放った。ぽちゃんと控えめな音を響かせて、餌は本人の意志と関係なく、私の餌を誘うために水下に沈む。糸がゆるり、ピンと張る。水の重みを吸ったテグスに呼応して、荒削りの浮きもすぐに立ち上がった。糸に引っ張られるようにして喉奥からこみ上げたため息が、やけに岩壁に響いた。
「ビギナーズラックってやつかねぇ」
響くため息に応えるように、ヤマメが鈍色の天井を仰いだ。顔はうんざり色。暗い洞窟の明るい網も、形無しだ。私はそれを認めたくなくて目の前のウキに集中する。期待に添えなくて頭が下がる。期待にそってくれなくて腹が立つ。一度は釣れた。なら二度目もあるはずだろうに。
------------------
そもそも。
一振りの竹竿がそもそもの発端。川岸のあばら家(我が家だ)の物置を掃除していたときのこと。積り積もったホコリを五十年分ドッサリと被って辟易としていた私の目に入った薄汚い布包。細く、私の身長くらいの丈で、仔細不明の木箱や、古本の山、雑多に置かれた穴空きの生活用具品に紛れていた。気になって布を取りはらうと、中から現れたのは古ぼけた竹竿だった。橋守の前任者のものだろうか。竹づくりを手にとって見ると見た目以上に軽く、妙に手に馴染んだ。もとから自分のものだったみたいに、手に吸い付く。古いが、糸も針も健在。一振り、二振り、空を切る感触を確かめて、頬をほころばせた。一日立ちっぱなしの退屈な仕事の間隙を縫う余興を探していた私は、気がつけば河原の手頃な石をひっくり返しては、餌に良さそうな虫を集め始めていた。
河を橋上から眺めて幾星霜、この薄暗い地底河にも確かに魚の気配はあった。直接魚影を見たわけじゃないけれど、時折撥ね立つ水しぶきと、時折水面に尾を引く波紋に、エラ越しの呼吸を予感した。
「そこにいるなら、釣れるはずよね」
放った宣戦布告は水膜を反響して、地底空間に飽和した。
「うお、今日はまた豪勢だね!」
「たくさん釣れたからおすそ分けよ」
ご近所さんのヤマメが桶いっぱいの地底魚に目を見張った。多めに取った川虫の小箱が空になった。数にして二十は軽く超える。身のつき方もしっかりしていて、どれも大振りだ。結果として、大漁であった。一投目から食い気味に食いつき、入れ食いだ。針に餌を付けて放るそばから、何かに憑かれたように魚が寄ってきた。もしや私は天賦の才があるのではと、思わず喉を鳴らしたほどだ。巻取りがないので、最初は釣れた魚を手元に引き寄せるのに難儀したが、一度納戸に戻るとこれまた古びた伸縮式のタモがあったので、困らなかった。
「いやー、それにしてもよくこんな古竿でこんなに釣れたもんだ。パルスィ、今度ちゃんとした竿用意するからさ、私も誘っておくれよ」
「竿?あなたも釣りなんかするの?」
「いんや、昔やったきりだけどね。ヤマメさんの手先を舐めるんじゃないよ。材料さえあればどんな道具だってちょいちょいっと作ってみせるさ」
そう嘯いてみせたヤマメは、ピチピチと元気な桶を頭に乗っけて、上機嫌だ。おすそ分けしがいのあるやつ。妬ましい。結局、一週間後にもう一度会う約束をした。少しばかり軽くなった桶を脇に抱え直そうとして、少しふらついた。さすがに二時間釣り続けは応えたか、力が抜ける。しかし、手元には疲れも気にならぬごちそうがある。夕餉の献立を考えながら、私はあばら家に飛んだ。
迎えた当日。宣言通りヤマメは、上等の釣り竿を二振りこさえてきた。振りやすく、御しやすい。妖力を通すと糸が縮むという謎めいた機構まで組み込んでいる。そこまで行くと河童の範疇なのではと思ったが、なるほどどうやら、糸にはヤマメ自身の妖糸を使っているらしかった。流石というかなんというか。私の方はと言うと、先日よりも少々張り切って取りすぎた川虫の小箱と、魚籠代わりの桶、なんとなく念の為に持ってきたタモと古竿を携えていた。どうやら用済みらしいので、欄干に立てかけた。
「よーし、釣るぞー!」
「随分張り切ってるわね」
分けた魚がさぞ美味しかったか、それともおろしたての道具の使い心地に胸を躍らせているのか、ヤマメは気迫に満ちていた。かくいう私も、手を伝う振動の快感がまた味わえるかと思うと、思わず頬がほころぶ。大根おろしをまとった白身をまた味わえるかと思うと、思わず頬がほころぶ。橋に並びたち、示し合わせたかのように、第一投を水面に放った。
異変に気づくのに、一刻を要したか。水面下も、水面上も死んだように静かだった。最初は口数多く、やれ焼き魚がうまかった、煮魚も肴に良いと、のんきに今夜の献立を出汁に会話を繋いでいた私達も、一向に沈まない浮きに気分が沈んで、次第に無口になっていった。先週とは打って変わって、あまりにも静か。
「取り尽くしちゃったんじゃないの、パルスィが先週」
死んだ魚みたいな目で水面を見つめながら、魚みたいな名前の女が呟いた。
そんなわけあるものか。たかだか二十数匹、それで滅ぶ生態系なら、私が手をくださずとも滅んでいたはず。もしやと思って餌の種類も何度か変えてみた。石の裏にいたカワゲラ、鬼火の周りを飛んでいた羽虫、干し肉のかけら、欄干下に巣食っていた蜘蛛(これは鬼の形相をしたヤマメに止められた)、どれも外れだ。そもそも当たりがないのに餌だけなくなっているのも不自然だった。
「針の大きさとかかしら」
魚の口によっては、針が適切な大きさでないと餌だけうまく取られるのだと聞いた事があった。が、それもヤマメの口から否定される。変えちゃいけないと思って。と、正確に同じ大きさにしたという。
「だとするといよいよ八方塞がりね、餌ももうないわよ」
「悔しいなあ、パルスィよりも大物釣ろうと思ってたのに」
これじゃ勝負にもなりやしないとうめいた。勝負はこの際どうでもいいから、私はおかずが欲しかった。四半日粘ってこれでは、あまりに割が合わない。脇を見るとヤマメが竿を片付け始めていた。諦めるつもりだろうか。
「んーん、このままじゃ道具屋として示しがつかないからね」
ちょいと休憩、といって足を投げ出し橋桁に座り込んだ。いくら人が通らないと言っても、流石に不衛生ではないか。勢い良く転がったせいか、振動が響く。カタンと、竿が倒れた。ヤマメがしまった竿ではなく、欄干に立てかけた古竿だ。欄干の隙間を縫うように器用に竿が橋の外に伸びて、拍子で外れたのか糸が垂れかかる。おっと、とヤマメが反応して竿を取り掴んだときには、針はすでに水に浸かっていた。不自然にも思える一連の流れに私はあっけにとられる。見ようによっては、釣り竿が自分から糸を垂らして針を放おったように見えたものだから。しかし、ぽかんとした面持ちを寸秒も待たず、途端に
「わわ!!引いてる!?」
ヤマメの手にした竿が激しくしなり始めた。続く糸の先には、今までどこにいたのか、大きな魚影がバシャバシャと飛沫を上げてはねている。今日初、唯一の当たりがなんというタイミングで。ヤマメは這いつくばるような姿勢で竿を構えているためか踏ん張りが効いていない。その上欄干の隙間から竿が顔を出しているから、支柱に遮られて立ち上がることもままならない。慌てて自分の竿を放り出し、すぐさまフォローに入った。
「ヤマメ、私持ってるから順繰りに上に」
「うん!」
横からグリップをひっつかみ、欄干の隙間を縫うようにヤマメと交互に竿をパスしていく。繰り返すこと三回。なんとかバラさずにふたりとも立ち上がるが、それにしても。
「すっごい大物だ!この前の二倍はあるね!」
「いたずらに餌を巻いた分よってきたのかしら」
竿越しに伝わる振動は、先週何度も経験したものよりも遥かに大きく、竿ごと水下に引きずり込まんと激しくしなる。なんとか橋の袂までは引き寄せているが、魚はまだ元気らしく、グリングリンと身を捩らせて抵抗している。ミシミシと竿が嫌な音を立て始めた。五十年前の代物だ、無理もない。多分もとよりこんな大物を相手取るように作られてはいないのだろう。ヤマメが作ってくれた竿ならあるいはと思ったが、当たる竿を選ぶことなどできるはずもなく。ふと持って来ていたタモが後ろにおいてあることを思い出した。あれを使えば。
「ヤマメ!網!」
「!! まかせなさい!!」
私の背中越しに腕を回して竿を掴んでいたヤマメが離れる。あとはタイミングを見計らって魚を一瞬釣り上げ、タモに入れることさえできれば。今日の晩御飯は保証される! 塩焼きの大物を想起して、思わず涎が垂れた。勝利の予感と夕餉の香りを鼻に酔いしれる。今日はご飯をたくさん炊いて、ヤマメと祝勝会だ。ありがとう魚、この細糸一本越しのお前との勝負、楽しかった! 実に有意義な四半日、お前の姿焼きをもって祝そう!
「うおー!!キャプチャーウェブ!!」
ヤマメの手から文字通り放たれた極太の糸が、水面に到達する前に拡散して。半分水から顔を出した魚をその粘着質で包み込んだ。ぬめる鱗など問題ともせずに、哀れ魚はそのフィールドから地底の空気に身をさらけ出される。細糸の勝負はすげ替えられ、極太の反則網を放った主は、暗い洞窟の明るい網の二つ名が霞むほど、まばゆい笑顔で笑ってみせた。
「パルスィ!やったね!」
違う、そうじゃない。
-----------------------
姿焼きにするには少し大き過ぎたので、切り身にして塩焼きに。あらに残った身は、ほぐしてご飯と炊き込んだ。囲炉裏を向かい合った祝勝会は、反省会と謎解きのごった煮になった。
「呪いの釣り竿、ねえ」
「呪いと言う割にはデメリットが少なすぎる気もするけど」
囲炉裏横においた、古竿と紙切れ。釣り上げた興奮もつかの間(あれを釣り上げたといえるかはさておき)、私とヤマメはすぐさま、違和感に気づいた。当たりのインパクトに意識を持っていかれたものの、あの針には餌すらついていなかった。その上水につけた途端に食いついたのも、あまりにも不自然だ。示し合わせて再び、針だけを川面に垂らすと、やはり。いくらか小ぶりだが、それでも身の締まったいい魚がすぐさま食いつく。数度試して、その数度分の魚が、橋桁に並ぶことになった。いよいよ怪しみ、再び納戸を捜索すると、埃が堆積した床に一枚の紙切れ。ちょうど釣り竿の包があった当たりだ。丸まりあとがついているのを見る当たり、ひょっとすると包に一緒にくるまれていたのだろう、気づかず取り払ってしまったらしい。
『餌無しで入れ食い!呪いの釣り竿!あなたの妖力を餌に、魚をおびき寄せます!これであなたも釣りマスター!※釣れすぎで釣りがつまらなくなるので、用法用量は正しくお使いください』
情緒のかけらもない宣伝文句に、ため息も出ない。結局初日の入れ食いは、ビギナーズラックですらなかったのだ。
「反則臭いなぁ。つまり私たちは一匹も自力で釣れていないわけだ」
どの口が言うのか。埒外の力によって針を飲まされ、更に埒外の力によって地上に引きずり出された眼の前の切り身には同情を禁じ得ない。
「そういうことになるわね、妬ましいことに」
ほぐした身を混ぜ込んで炊いたご飯を掻き込んで、私もぶーたれた。無論美味しいのだけど、これは自らの手で掴み取った勝利の味ではないのだ。餌を当たりもなく取られていた、おそらくこの大口の主も原因だが、きっと我々の釣り人としてのレベルが低いから、というのが目下の結論であった。悔しいが、反則技を使わなければ相手取れないほどにこの地底川の魚は熟達していたことになる。それもおそらく、前任の橋守りのせいだろう。わざわざ布に包んで納戸に放り込んであったことを見るに、前任者は釣れすぎる竿に辟易して、手放したのではないだろうか。そして普通の釣り竿で地底の魚を相手にしているうちに、魚の方も警戒心が高まったのだと。
「となると、私たちは相手にもされてなかったわけだね」
小骨を口から引っ張り出して食むヤマメは、どこか不満げだ。しかしここで引き下がる私ではない。妬ましい程に強い相手、不足なしだ。悔しいことに、初日に掴まされた偽りの勝利の感動は、すっかり私を釣りの魅力に浸からせていた。もしかするとこれは釣具屋の陰謀なのではないか。目先の快感と満腹に釣られた釣り人たちを、今度は本物の釣りというものの魅力に浸らせ、釣具屋へと走らせる。だとしたらその目論見は外れね、釣具屋さん。私には優秀な道具屋兼タモ係がいるの。今度こそ、願わくば、妬まくば、自分の力で。
「ヤマメ、あなたはこれで満足?」
櫃と皿を空にした頃、私はタモ係に聞いた。無論、腹のことではない。
「いいや、ここでやめちゃ道具屋の名がすたる。意地でも手製の道具で大漁目指してやるさね」
「その心意気、妬ましくないわね、なぜなら私にも同じだけの意地がある。リベンジよ!」
「おうさ!!」
かくして、私、水橋パルスィと黒谷ヤマメの釣り求道は始まったのである。
「言っておくけど、キャプチャーウェブは反則だからね?」
「そんな!!?」
始まったのである。
乾木を荒く削って作った歪な浮きは、淀みと流れの合間にたゆたう。鈍色の天井付近を漂う鬼火明かりと夜目を頼りに、浮かんだ木片に目を凝らした。すでに二刻、あたりはない。針につけた川虫も、もうふやけて事切れているか。
「今日は外れかしらね」
負け惜しみを吐いて、眼下を睨んだ。脇に置いた魚籠代りの桶で、混じり気のない澄んだ川水が寂しそうにきらめいた。興も醒めかけている。今日はもうやめようか。そう考えるたび思い直して、竿を握り直す。せめて一匹、夕餉分は。変な意地と食い意地が張って、竿に力が込もった。妖力が伝わって、僅かな水の抵抗を引きながら、細い糸がシュルシュルと縮んでいく。水滴がテグスを滴り落ちて、地底の燐光にきらめいた。落ちた水が、波紋をいくつも作って、動きの少ない水面を揺らす。土蜘蛛謹製、妖糸の釣り竿。プラプラと揺れるウキを手繰り寄せて、針を確認すれば、哀れ地底川虫はすでに亡く。ひとかけらの甲殻を残して消えていた。当たりはなかったから、するりと逃げられたか。ちくしょう。
「は、餌が不在じゃかからないわけだ」
「やられたねぇ。渋るからいかんのよ」
隣の土蜘蛛がケタケタと笑う。こちらは欄干にもたれかかるようにして、竿を傾けている。余裕ぶってはいるが彼女もボウズだ。並んだ桶は水を除いて空っぽ。並んだ二人のやる気タンクも、そろそろエンプティ。一人ならきっともうめげている。
「虫を採るのも楽じゃないのよ。あんたと違って」
「心外だなぁ。網を張るのも糸を垂らすのも、待ちの精神が重要さ」
「ご高説垂れる割に、当たりを掴めないみたいだけど」
「日が悪かったかね」
肩をすくめてみせるヤマメを横目に、欄干を降りた。
桶の横においた小箱。始めたときは溢れるくらいにいた川虫も寂しくなった。最後の一匹をつまんで、釣り針に引っ掛ける。キュウ、と、鳴き声のようなものを発して川虫がもがく。今度こそ簡単に取れないように、しっかり返しの手応えを確認して貫く。彼女の隣に並び立って再び竿を振った。糸の緊張を緩めて、銀糸を静寂に放った。ぽちゃんと控えめな音を響かせて、餌は本人の意志と関係なく、私の餌を誘うために水下に沈む。糸がゆるり、ピンと張る。水の重みを吸ったテグスに呼応して、荒削りの浮きもすぐに立ち上がった。糸に引っ張られるようにして喉奥からこみ上げたため息が、やけに岩壁に響いた。
「ビギナーズラックってやつかねぇ」
響くため息に応えるように、ヤマメが鈍色の天井を仰いだ。顔はうんざり色。暗い洞窟の明るい網も、形無しだ。私はそれを認めたくなくて目の前のウキに集中する。期待に添えなくて頭が下がる。期待にそってくれなくて腹が立つ。一度は釣れた。なら二度目もあるはずだろうに。
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そもそも。
一振りの竹竿がそもそもの発端。川岸のあばら家(我が家だ)の物置を掃除していたときのこと。積り積もったホコリを五十年分ドッサリと被って辟易としていた私の目に入った薄汚い布包。細く、私の身長くらいの丈で、仔細不明の木箱や、古本の山、雑多に置かれた穴空きの生活用具品に紛れていた。気になって布を取りはらうと、中から現れたのは古ぼけた竹竿だった。橋守の前任者のものだろうか。竹づくりを手にとって見ると見た目以上に軽く、妙に手に馴染んだ。もとから自分のものだったみたいに、手に吸い付く。古いが、糸も針も健在。一振り、二振り、空を切る感触を確かめて、頬をほころばせた。一日立ちっぱなしの退屈な仕事の間隙を縫う余興を探していた私は、気がつけば河原の手頃な石をひっくり返しては、餌に良さそうな虫を集め始めていた。
河を橋上から眺めて幾星霜、この薄暗い地底河にも確かに魚の気配はあった。直接魚影を見たわけじゃないけれど、時折撥ね立つ水しぶきと、時折水面に尾を引く波紋に、エラ越しの呼吸を予感した。
「そこにいるなら、釣れるはずよね」
放った宣戦布告は水膜を反響して、地底空間に飽和した。
「うお、今日はまた豪勢だね!」
「たくさん釣れたからおすそ分けよ」
ご近所さんのヤマメが桶いっぱいの地底魚に目を見張った。多めに取った川虫の小箱が空になった。数にして二十は軽く超える。身のつき方もしっかりしていて、どれも大振りだ。結果として、大漁であった。一投目から食い気味に食いつき、入れ食いだ。針に餌を付けて放るそばから、何かに憑かれたように魚が寄ってきた。もしや私は天賦の才があるのではと、思わず喉を鳴らしたほどだ。巻取りがないので、最初は釣れた魚を手元に引き寄せるのに難儀したが、一度納戸に戻るとこれまた古びた伸縮式のタモがあったので、困らなかった。
「いやー、それにしてもよくこんな古竿でこんなに釣れたもんだ。パルスィ、今度ちゃんとした竿用意するからさ、私も誘っておくれよ」
「竿?あなたも釣りなんかするの?」
「いんや、昔やったきりだけどね。ヤマメさんの手先を舐めるんじゃないよ。材料さえあればどんな道具だってちょいちょいっと作ってみせるさ」
そう嘯いてみせたヤマメは、ピチピチと元気な桶を頭に乗っけて、上機嫌だ。おすそ分けしがいのあるやつ。妬ましい。結局、一週間後にもう一度会う約束をした。少しばかり軽くなった桶を脇に抱え直そうとして、少しふらついた。さすがに二時間釣り続けは応えたか、力が抜ける。しかし、手元には疲れも気にならぬごちそうがある。夕餉の献立を考えながら、私はあばら家に飛んだ。
迎えた当日。宣言通りヤマメは、上等の釣り竿を二振りこさえてきた。振りやすく、御しやすい。妖力を通すと糸が縮むという謎めいた機構まで組み込んでいる。そこまで行くと河童の範疇なのではと思ったが、なるほどどうやら、糸にはヤマメ自身の妖糸を使っているらしかった。流石というかなんというか。私の方はと言うと、先日よりも少々張り切って取りすぎた川虫の小箱と、魚籠代わりの桶、なんとなく念の為に持ってきたタモと古竿を携えていた。どうやら用済みらしいので、欄干に立てかけた。
「よーし、釣るぞー!」
「随分張り切ってるわね」
分けた魚がさぞ美味しかったか、それともおろしたての道具の使い心地に胸を躍らせているのか、ヤマメは気迫に満ちていた。かくいう私も、手を伝う振動の快感がまた味わえるかと思うと、思わず頬がほころぶ。大根おろしをまとった白身をまた味わえるかと思うと、思わず頬がほころぶ。橋に並びたち、示し合わせたかのように、第一投を水面に放った。
異変に気づくのに、一刻を要したか。水面下も、水面上も死んだように静かだった。最初は口数多く、やれ焼き魚がうまかった、煮魚も肴に良いと、のんきに今夜の献立を出汁に会話を繋いでいた私達も、一向に沈まない浮きに気分が沈んで、次第に無口になっていった。先週とは打って変わって、あまりにも静か。
「取り尽くしちゃったんじゃないの、パルスィが先週」
死んだ魚みたいな目で水面を見つめながら、魚みたいな名前の女が呟いた。
そんなわけあるものか。たかだか二十数匹、それで滅ぶ生態系なら、私が手をくださずとも滅んでいたはず。もしやと思って餌の種類も何度か変えてみた。石の裏にいたカワゲラ、鬼火の周りを飛んでいた羽虫、干し肉のかけら、欄干下に巣食っていた蜘蛛(これは鬼の形相をしたヤマメに止められた)、どれも外れだ。そもそも当たりがないのに餌だけなくなっているのも不自然だった。
「針の大きさとかかしら」
魚の口によっては、針が適切な大きさでないと餌だけうまく取られるのだと聞いた事があった。が、それもヤマメの口から否定される。変えちゃいけないと思って。と、正確に同じ大きさにしたという。
「だとするといよいよ八方塞がりね、餌ももうないわよ」
「悔しいなあ、パルスィよりも大物釣ろうと思ってたのに」
これじゃ勝負にもなりやしないとうめいた。勝負はこの際どうでもいいから、私はおかずが欲しかった。四半日粘ってこれでは、あまりに割が合わない。脇を見るとヤマメが竿を片付け始めていた。諦めるつもりだろうか。
「んーん、このままじゃ道具屋として示しがつかないからね」
ちょいと休憩、といって足を投げ出し橋桁に座り込んだ。いくら人が通らないと言っても、流石に不衛生ではないか。勢い良く転がったせいか、振動が響く。カタンと、竿が倒れた。ヤマメがしまった竿ではなく、欄干に立てかけた古竿だ。欄干の隙間を縫うように器用に竿が橋の外に伸びて、拍子で外れたのか糸が垂れかかる。おっと、とヤマメが反応して竿を取り掴んだときには、針はすでに水に浸かっていた。不自然にも思える一連の流れに私はあっけにとられる。見ようによっては、釣り竿が自分から糸を垂らして針を放おったように見えたものだから。しかし、ぽかんとした面持ちを寸秒も待たず、途端に
「わわ!!引いてる!?」
ヤマメの手にした竿が激しくしなり始めた。続く糸の先には、今までどこにいたのか、大きな魚影がバシャバシャと飛沫を上げてはねている。今日初、唯一の当たりがなんというタイミングで。ヤマメは這いつくばるような姿勢で竿を構えているためか踏ん張りが効いていない。その上欄干の隙間から竿が顔を出しているから、支柱に遮られて立ち上がることもままならない。慌てて自分の竿を放り出し、すぐさまフォローに入った。
「ヤマメ、私持ってるから順繰りに上に」
「うん!」
横からグリップをひっつかみ、欄干の隙間を縫うようにヤマメと交互に竿をパスしていく。繰り返すこと三回。なんとかバラさずにふたりとも立ち上がるが、それにしても。
「すっごい大物だ!この前の二倍はあるね!」
「いたずらに餌を巻いた分よってきたのかしら」
竿越しに伝わる振動は、先週何度も経験したものよりも遥かに大きく、竿ごと水下に引きずり込まんと激しくしなる。なんとか橋の袂までは引き寄せているが、魚はまだ元気らしく、グリングリンと身を捩らせて抵抗している。ミシミシと竿が嫌な音を立て始めた。五十年前の代物だ、無理もない。多分もとよりこんな大物を相手取るように作られてはいないのだろう。ヤマメが作ってくれた竿ならあるいはと思ったが、当たる竿を選ぶことなどできるはずもなく。ふと持って来ていたタモが後ろにおいてあることを思い出した。あれを使えば。
「ヤマメ!網!」
「!! まかせなさい!!」
私の背中越しに腕を回して竿を掴んでいたヤマメが離れる。あとはタイミングを見計らって魚を一瞬釣り上げ、タモに入れることさえできれば。今日の晩御飯は保証される! 塩焼きの大物を想起して、思わず涎が垂れた。勝利の予感と夕餉の香りを鼻に酔いしれる。今日はご飯をたくさん炊いて、ヤマメと祝勝会だ。ありがとう魚、この細糸一本越しのお前との勝負、楽しかった! 実に有意義な四半日、お前の姿焼きをもって祝そう!
「うおー!!キャプチャーウェブ!!」
ヤマメの手から文字通り放たれた極太の糸が、水面に到達する前に拡散して。半分水から顔を出した魚をその粘着質で包み込んだ。ぬめる鱗など問題ともせずに、哀れ魚はそのフィールドから地底の空気に身をさらけ出される。細糸の勝負はすげ替えられ、極太の反則網を放った主は、暗い洞窟の明るい網の二つ名が霞むほど、まばゆい笑顔で笑ってみせた。
「パルスィ!やったね!」
違う、そうじゃない。
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姿焼きにするには少し大き過ぎたので、切り身にして塩焼きに。あらに残った身は、ほぐしてご飯と炊き込んだ。囲炉裏を向かい合った祝勝会は、反省会と謎解きのごった煮になった。
「呪いの釣り竿、ねえ」
「呪いと言う割にはデメリットが少なすぎる気もするけど」
囲炉裏横においた、古竿と紙切れ。釣り上げた興奮もつかの間(あれを釣り上げたといえるかはさておき)、私とヤマメはすぐさま、違和感に気づいた。当たりのインパクトに意識を持っていかれたものの、あの針には餌すらついていなかった。その上水につけた途端に食いついたのも、あまりにも不自然だ。示し合わせて再び、針だけを川面に垂らすと、やはり。いくらか小ぶりだが、それでも身の締まったいい魚がすぐさま食いつく。数度試して、その数度分の魚が、橋桁に並ぶことになった。いよいよ怪しみ、再び納戸を捜索すると、埃が堆積した床に一枚の紙切れ。ちょうど釣り竿の包があった当たりだ。丸まりあとがついているのを見る当たり、ひょっとすると包に一緒にくるまれていたのだろう、気づかず取り払ってしまったらしい。
『餌無しで入れ食い!呪いの釣り竿!あなたの妖力を餌に、魚をおびき寄せます!これであなたも釣りマスター!※釣れすぎで釣りがつまらなくなるので、用法用量は正しくお使いください』
情緒のかけらもない宣伝文句に、ため息も出ない。結局初日の入れ食いは、ビギナーズラックですらなかったのだ。
「反則臭いなぁ。つまり私たちは一匹も自力で釣れていないわけだ」
どの口が言うのか。埒外の力によって針を飲まされ、更に埒外の力によって地上に引きずり出された眼の前の切り身には同情を禁じ得ない。
「そういうことになるわね、妬ましいことに」
ほぐした身を混ぜ込んで炊いたご飯を掻き込んで、私もぶーたれた。無論美味しいのだけど、これは自らの手で掴み取った勝利の味ではないのだ。餌を当たりもなく取られていた、おそらくこの大口の主も原因だが、きっと我々の釣り人としてのレベルが低いから、というのが目下の結論であった。悔しいが、反則技を使わなければ相手取れないほどにこの地底川の魚は熟達していたことになる。それもおそらく、前任の橋守りのせいだろう。わざわざ布に包んで納戸に放り込んであったことを見るに、前任者は釣れすぎる竿に辟易して、手放したのではないだろうか。そして普通の釣り竿で地底の魚を相手にしているうちに、魚の方も警戒心が高まったのだと。
「となると、私たちは相手にもされてなかったわけだね」
小骨を口から引っ張り出して食むヤマメは、どこか不満げだ。しかしここで引き下がる私ではない。妬ましい程に強い相手、不足なしだ。悔しいことに、初日に掴まされた偽りの勝利の感動は、すっかり私を釣りの魅力に浸からせていた。もしかするとこれは釣具屋の陰謀なのではないか。目先の快感と満腹に釣られた釣り人たちを、今度は本物の釣りというものの魅力に浸らせ、釣具屋へと走らせる。だとしたらその目論見は外れね、釣具屋さん。私には優秀な道具屋兼タモ係がいるの。今度こそ、願わくば、妬まくば、自分の力で。
「ヤマメ、あなたはこれで満足?」
櫃と皿を空にした頃、私はタモ係に聞いた。無論、腹のことではない。
「いいや、ここでやめちゃ道具屋の名がすたる。意地でも手製の道具で大漁目指してやるさね」
「その心意気、妬ましくないわね、なぜなら私にも同じだけの意地がある。リベンジよ!」
「おうさ!!」
かくして、私、水橋パルスィと黒谷ヤマメの釣り求道は始まったのである。
「言っておくけど、キャプチャーウェブは反則だからね?」
「そんな!!?」
始まったのである。
パルスィとヤマメの言動に生活感があってよかったです
自力で魚を釣ることを諦めない2人が輝いて見えました
センスを感じます。面白い!
言葉の遣い方もセンスに溢れていて素晴らしい。
次の作品も是非読みたいです!
パルスィとヤマメ、二人とも可愛かったです