『むかしむかし、と言うほど昔でもないある日。お城にいた少女は「ある真実」を知ってしまいました。それは、少女が母親だと思っていた女性が本当の母ではない、ということでした――』
2311年10月7日 夕方
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ペキッと足元で乾いた枝が折れる。靴も履いていない生足。落ち葉に混ざって尖った木の刺さるズキッとした痛み。苦痛と恐怖に歪められた顔――それでも少女は歩みを止めない。東洋離れした白人の少女、齢は七、八か。
彼女は小さな足を懸命に動かして何かから逃げる。不気味に照らす夕日、嘲笑うかのような小梢。互いに震えてザワザワッと不快な音を掻き立てては、その度に少女の不安は一層駆られていった。
「(逃げなくちゃ。早く、帰らなくちゃ。みんなの所に)……Was!」
地面に盛り上がった根っこに足を取られる。ドウッと柔らかい腐葉土に沈みこむ少女の体。森の胞子だらけのネグリジェは泥まみれ。その下にある粉雪のような白い肌も土に染まっている。金糸でできたビロードのようなブロンズの髪は泥と落ち葉が絡まっていて見る影もない。幼い少女にこのような難所――魔法の森を越えさせることなど、どだい無理な話であった。
身体を包みこむ泥臭いベッド。幼い体はその感触に意識を飲まれ、眠気が黒檀のように深い瞳を瞼の内に隠そうとしていく。
「(……っ!)」
しかし、少女は眠りに落ちる寸前、木々の隙間から一軒の家を垣間見た。彼女の瞳に一抹の縋る色が走る。家だ。一軒の家が建っている。
少女は体に力を籠める。泥で塗りたくられた顔。その唇が噛みしめられ、そこに薄っすらと朱の雫が滲む。足がガクガク震える。だが、少女は立った。彼女はいつ倒れてもおかしくない体で立ち上がると、なけなしの力を振り絞って一歩、また一歩と生まれたての仔鹿の様に家へと近づいていった。
霧雨の降る、深い森の中にポツリと建った人気のない家へ。ヒトの温もりを求めて。
やっとの思いで辿り着いた小さな家。石の段差に足を取られ、倒れ込む少女の小さな手が玄関に触れる。カチャリ。鍵の外れたドアをそっと開ける。脱ぐ靴など元から無い。少女は裸足で上がり込み、部屋に通じる扉を開く。そこには、綺麗に整頓されたリビングが。どうも見知った『彼ら』の家では無いような気がする。しかし、こんな森の奥に住んでいるのは彼ら以外にはいないはずだ。
人の気配はない。少女は歩みを進めてリビングから通じる一つのドアを開く。すると、その小さな口から安堵の息が零れた。
その部屋には普通の人間では収まらないであろう、小さなベッドがいくつも並べられていた。普通の感覚からしたらおかしな光景だ。だが、何故か少女はほっと息を吐いていた。むしろ、その異常性に安心したかのように。部屋の中には、一つだけ大きなベッドがある。少女の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。彼女は巣を見つけた雛鳥にようにに純白のシーツへと沈み込んだ。
スン、石鹸のいいにおいがする。だれかのいいにおいがする。とても安心できる、やわらかなにおい。ふっくらとしたベッド。少女は着替えもしないまま、泥だらけの体を包み込むやさしい温もりに落ちていった――
第0話「童話からの逃亡者」
同日 夕暮れ前
それからどれくらい経っただろうか。玄関のベルが軽やかな音色を立てる。鍵の回される音、そして音を立てて開かれる扉。
「ただいまー」
よっ、と掛け声と共に重い荷物が次々に玄関へ置かれていく。一人暮らしの魔女。一人でいるとついつい独り言が多くなってしまうのは彼女もそうだった。
「とりあえずこれくらい買い込んでおけば当分は大丈夫かしらね。しかしまぁ、里も危なっかしくなったわね。ちょっと行かない間に辻斬騒ぎが起きていたなんて……そうそう、上海たちもお疲れさま」
「シャンハーイ」
その声は家の主である人形遣い、アリス・マーガトロイドのものだった。彼女は数体の人形を引き連れて里へ買い出しに行っていたのだ。人形たちも荷物を運んできて心なしか疲れているように見える。
「さ、あともう一息頑張ってちょうだい。リビングまで運ぶわよ」
そう言って指をクイッと動かすアリス。それに反応して人形たちは再びそれぞれの背丈に合った荷物を抱えだす。その様子を見たアリスも食材の詰まった紙袋を胸に人形を操演する。随分と器用なものだが、この程度彼女からしたらお茶の子さいさいである。
「……あら?」
ふと、彼女は異変に気付いた。玄関から点々と続く小さな足跡、開かれたリビング、そして足跡の辿り着く先――寝室のドアが半開きになっている。几帳面な彼女は外出時には必ず戸締りを済ませているはずだ。いや、意外とうっかりした一面もあるのでそうでもないのだが、アリスは自身をそう考えていた。
不審に思ったアリスは人形たちを先に行かせて荷物をそっと下ろす。そして蓬莱人形だけを伴い、ギィ、と小さな音を立てながら扉を開けて中の様子を覗き込んだ。
「……んん?」
一見、普段と変わらない様相を見せる寝室。だが、明らかな違和感があった。ベッドの上に投げ出された小さな肢体――いったい誰だ。部屋へと入って闖入者を見下ろす。そこには、お人形さんのような少女は安らかな顔ですやり、すやりと寝息を立てていた。そんな彼女を目の当たりにして困惑していたのは他ならぬアリスだった。
「お、女の子? でも、どこの子かしら。里でも見たこともないし、それに」
アリスはそこで言葉を切る。――なんてひどい恰好、と皆までは言わなかった。いくつもの擦り傷や切り傷が白い肌を無残にも走る。首には何かで強く縊られたような痣が痛ましく刻まれている。
加えて、この辺りで透き通るような金の髪も珍しい。いや、妖怪ならまだしも人間で金髪と言うのは、閉鎖されたこの幻想郷では稀有な存在であった。
「とは言え、このまま放って置くわけにはいかないか……ねぇ、あなた。起きて頂戴。ほら」
「んぅ、んん。むにゅ」
触れれば折れそうな肩をそっと揺すっては起こそうとするアリス。少女の瞼はそれに答えるように、だがもっと寝たげに震える。ぐずる幼子のように起きる気配はない。そのままアリスが何度か揺すっては頬をペチペチと叩いていると、ようやく少女の瞳が重たい瞼の中から顔をのぞかせた。パチパチと瞬かれる眼。彼女からすれば、目の前には知らない女性が――
「―― !?」
始めはきょとんとしていた少女の目が恐怖に見開かれる。声にならない悲鳴。慌てて飛び起き、ベッドの上を這いずるのようにしてアリスから距離を取る。その表情には、怯えの色が見て取れるほど滲みだされていた。
「ちょ、ちょっと。どうしたのよ」
が、少女の反応に誰よりも困っていたのはこの家の持ち主、アリスだ。いきなりこんな態度を取られるいわれもない。
とは言え、こんな深い森の奥を歩いてきたことは見ただけで分かる。怯えるのも無理はない。アリスはそんな少女へ手を伸ばすが
「Fass mich nicht an !」
その手は少女によって勢いよく払いのけられた。何が何だかさっぱりだ。アリスの困惑はより深まる。苛立ちさえ感じる。第一、何と言った?
「な、何のよ、もう。……はぁ、言葉が通じないんじゃ埒が明かないわ。蓬莱、ちょっとこの子お願い」
目を瞑り、ぶるぶると震える少女。いくら何でもこのままコミュニケーションが取れないのでは手に余る。その場に蓬莱人形を残したアリスは部屋を後にする。アリスの命令を受けた蓬莱人形は怯える少女に向き直った。
「(……こびとさん?)」
すると、蓬莱人形の姿を目にした少女の瞳から微かに恐怖が落ちた。そろり、そろり。恐る恐るその小さな手が蓬莱人形へと伸ばされていき――
『嘘……うそ、ウソ! 少女は泣き叫びました。でも、いくら口にしたところで、心に上書きしようとしたところで、何も変わりませんでした。ただ、目の前で気まずそうに顔を伏せる姉を除いて――』
「おまたせー……って、蓬莱?」
「ホ、ホラーイ?」
急いで部屋に戻ってきたアリスは拍子抜けしたような顔をしていた。先ほどまであれほど拒絶反応を示していた少女がシーツではなく蓬莱人形を胸に抱いて何かを話しかけている。尤も、蓬莱人形の方は多分に困惑している様子だが。
「……(そう言えば昔、私もパンデモニウムでこんな風に人形遊びをしたてっけ)」
記憶がフラッシュバックする。先ほどは「何だ、このおかしな子は」と思っていたが、妙な親近感を覚えていた。アリスは黙ってベッドのそばまで近づいて膝を曲げる。少女と同じ目線になるように。
「ッ!」
アリスが戻ってきたことに気付いた少女。自分の世界から再び身を固くしてしまう。凝り固まった警戒心、怯え――そこに、彼女にとって聞きなれた、そして流暢な言葉が流れ込んできた。
「あーあー、私はアリス。アリス・マーガトロイドよ。私の言ってること、分かるかしら?」
驚いたように目をぱちくりと開いてこくりと頷く少女。どうやら成功したらしい。アリスはほっとしたように笑みを浮かべる。
「そう、よかった(まさかパチュリーと作った翻訳丹がこんな形で役立つなんてね)」
アリスはそれを専ら紅魔館で借りた他言語で書かれた魔法書を読み解く際に多用していた。尤も、この幻想郷で会話のために使うとは、夢にも思っていなかったが。
「じゃあ、まずは――あなたの名前、教えてもらえるかしら?」
一つずつ、ゆっくりと質問をしていく。せっかく落ち着いたのだ。怖がらせてはいけない。
「リーネ……リーネ・シュネーベル、です」
おずおずと言葉を返す少女。アリスも一層笑みを深める。
「そう、きれいなお名前ね」
「あ、ありがとう。……あの、ここはどこ? こびとさんたちのおうちじゃないの?」
「(小人? 昔神社にいたアレじゃないわよね)えーと、ごめんなさい。この辺りに小人さんはいないわ。ここは私の家なの」
「そう、なんだ」
シュンとうなだれる少女。アリスはベッドへと腰を移して少女の泥が絡む頭を撫でてやる。少しだけ近づいた距離。少女もピクリと身を動かしはしたが、そこにはもう拒絶の壁はない。
「そうね……積もる話はあると思うけど、女の子が汚れたままじゃだめよね。お風呂沸かしたげる。まずは一緒に汗を流してさっぱりしましょ。ね?」
アリスの言葉にコクリと頷く少女。その紅葉のように小さな手を取ってアリスは彼女を立ち上がらせた。
『おかしいとは思っていたのです。少女は姉たちに比べるとあまりにひ弱で、大した魔力さえ持ち合わせていませんでした。それもそのはずです。なにせ、少女は魔界に紛れ込んだ「人間の子ども」だったのですから』
「えーと、これじゃない……これでもない。うーん、どこやったのかしら」
ぽい、ぽいとタンスから服が引っ張られては放り出され、また引っ張り出されては――その繰り返しが小さな山を作っていく。それを人形たちは困ったように折りたたんでいく。その中心にいたのはアリスだった。
「これもちがう、これも……あった!」
やっと探し当てた一組の服。それを取り出したアリスは振り返る。そこには、彼女のぶかぶかなピンク色をしたパジャマの上だけを直に着込んでいる風呂上がりのリーネがいた。水を弾く金糸より透き通った髪が肩まで垂れている、整った目鼻かたち、黒檀のような深い瞳に雪のように白い肌――体中の汚れはすっかり洗い流され、可愛らしい少女に大変わりしていた。
アリスは鼻歌交じりに服を当てて楽しんでいる。少女は、はにかむように小さな笑みを浮かべてそんなアリスを見ていた。
「うん、サイズもぴったり。ごめんなさいね、あなたに合う服は今これしか持ってないのよ。今度里に行ったとき新しい生地を買ってきてあげるから今はこれで我慢してちょうだい」
「あ、ありがとう」
言葉を交わしながらアリスは手にした服をリーネへと着せていく。てきぱきとパジャマを脱がし、着せ替え人形でもいじるような手慣れた手つき。生まれたままの姿からアリス色へ――白いブラウス、水色のスカートと腰に結ばれた大きなリボン、そして仕上げに風呂からあがって見違えるような輝きを放つブロンズの髪へ青いリボンの付いたカチューシャを一つ付ける。
「うん、これでよしっと」
そこにいたのは、服装だけならまさに魔界にいたころのアリスそっくり少女の姿だった。違いを挙げるとすれば、碧眼のアリスと違って深くどこまでも澄んだ漆黒の瞳、くせっけのない肩までのストレートと切り揃えられた前髪、そして洗っても落ちることのない――首回りにくっきりと残る赤黒い痣だけだった。
「ん~、グット! やっぱり女の子はかわいく着飾らなくっちゃ。さ、そろそろお昼も出来上がる頃だし、一緒に食べましょう。あなたもおなかペコペコでしょう?」
お昼、と聞いて少女の腹の虫が控えめに鳴る。少し頬を赤らめるリーネにアリスはいたずらっぽく微笑んでいた。
「えっと……アリスさん、いつの間につくってくれたの?」
「この子たちに作ってもらったのよ」
一緒に風呂に入っていたはずのアリスに疑問を投げかけるリーネ。そんな彼女をリビングに連れ出しながら、アリスは悪戯気な笑みを浮かべて答えていた。片手で彼女の手を引きながら空いた手でリビングのドアを開け放つ。
「うわぁ……!」
そのドアの向こう、彼女たちの目の前にはカタコトと配膳をしてせわしなく人形たちが動く光景が広がっていた。そのまるで童話の中から出てきたような光景に少女の顔がぱぁっと輝く。
「お人形さんが……アリスさん、すごい!」
「ふふ、ありがとう。私みたいな魔法使いさんにはこんなこと朝飯前なの」
「まほう、つかい……?」
その言葉に引っ掛かりを覚えたのか、リーネの顔に暗い影が差す。だが、得意げに話すアリスはその変化に気付く由もなかった。
「そうよ。便利で楽しそうでしょ? さ、席について」
「う、うん……」
二人がテーブルにつく頃には料理の皿が小ぢんまりとしたテーブルに所狭しと並べられていた。
焼きたてのふっくらとしたパン、里で取れたての牛乳から作り上げた濃厚なマーガリン、パリッパリにこんがりと焼かれたベーコンに今にも溶けてしまいそうなスクランブルエッグ、甘い濃厚な匂いの漂うコーンポタージュにシャキシャキの野菜サラダと魔界秘伝のドレッシング――
その鼻腔をくすぐるような香りがまた少女の顔を明るくさせる。
「いただきまーす!」
「はい、召し上がれ」
森の魔法使いと迷子の少女は食器を手に取る。
どれだけの間ろくに食べていなかったのだろう。目の前の料理に幸せそうな笑顔で「おいしい、おいしい!」と舌鼓を打つリーネ。自分の分に手を付けるアリスも時折、彼女の口元を拭いてやる。昔、自身が母や姉たちにしてもらったように。
『そう、少女は魔界人ではありませんでした。大好きな母とも、優しく接してくれる姉たちとも血の繋がりが無かったのです。末の娘として毎日可愛がられてきた少女でしたが、それをよく思わない双子がいました』
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様」
指をくい、くいと動かして人形たちに皿を片付けさせていくアリス。食事を終え、二人して一息ついたところだった。その後もアリスはソファに並んで腰かけ、彼女の気を紛らわせようと雑談をしていく。少しずつ増えていく笑い。そのやり取りの中にはこんなものもあった。
「あの、その……アリスさんは、まじょなんだよね?」
「うん? そうよ」
「わたし、まじょが怖いの」
「……どうして?」
突然の言葉。アリスは努めて平静に聞き返す。
「だって、わたしは何もしてないのに、母様によろこで欲しかっただけなのに、なんかいも、なんかいも――こわいの」
「……」
話している間にも震えるその小さな体。アリスはそっと抱き寄せる。その背中に手を回し、瘧を抑えるようにやさしく撫でながら。
「だからわたし、分からなくて。どうしてアリスさんもまじょなのに、わたしによくしてくれるの?」
アリスは自分の体からリーネを離し、その目を真っ正面から見つめる。そして、言い聞かせるように、柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「いい?リーネ。あなたたち人間にも良い人と悪い人がいるでしょう?」
「……うん」
まるで寺子屋の生徒にでも教え諭すように、ゆっくりとリーネへと、一つずつ言葉を紡いでいく。
「それと同じよ、リーネ。魔女にも良い魔女と悪い魔女がいるわ。もちろん、私は『良い魔女』よ」
少女を安心させるために『良い』を強調してやる。自分で言うのもこそばゆかったが、良い魔女であるとは密かに自覚していた。多分、周囲からもそう思われているはずだ。
「そうなの? ……ううん、アリスさんはとてもやさしい人。だから、わたし信じる」
「いい子ね、ありがとう。それにね、ここ『幻想郷』には私の他にも良い魔女がちゃんといるのよ。人間だけどキノコばかり取っては借りた物をロクに返さない泥棒もいたし、年がら年中図書館に閉じこもって読書する不健康なもやし娘もいるわ」
「え、えっと、それって……いい人たち、なの?」
「へ? ま、まぁ、そうね(言われてみれば確かに……)」
「……」
「で、でも根はいい人たちよ。なんたって、私の大切なお友達だもの」
脳裏に二人の顔を思い浮かべながら取り繕うアリス。友達と言ってもいいだろう、多分。それだけの付き合いはしてきたはずだ。
「おともだち?」
「そ、そうよ。お友達」
「……いいなぁ。わたし、ずっとお城にいたからおともだちがいないの。それにお城から追い出された後、森で小人さん達に助けてもらったけれど、あの人たちはおともだちじゃなかったもの」
どこから来たのか一向に分からないこの少女。だが、アリスの気に止まる一言が出てきた。
「お城って、あなた……」
「……?」
「いえ、何でもないわ。それより――あら?」
アリスはそこで言葉を切った。どうやら、いい思い出ではなさそうだ。それに、少女の目がいつのまにかとろんとしていた。
「うんとね、ごはん食べたら、なんだか眠くなっちゃった……ふぁあぁぁ」
大きなあくびを一つ。白いつぼみと赤いポケットが広げられる。アリスはそんな彼女の口元に手を当てて、自らの膝をポンと叩いた。
「眠くなっちゃったのね。じゃ、ここで寝てもいいわよ」
「うん。ありがと、アリスさ――」
ポスンと頭をアリスの膝に落とす。小さな重み。すぐに静かな寝息が立つ。アリスは彼女の頭を撫でながら先ほどまでの話を思い返していた。
「(魔法使い、お城、それと『おともだち』……か)」
幼少期のパンデモニウムで過ごした日々。魔界神である母と近しい姉たちとだけ過ごした毎日。それはとても満たされたものであったが、それは母子、そして姉妹の温もりであった。決して友人のそれではない。時折城下町へと遊びに繰り出してはいた。が、魔界神随一の寵児であったアリスにもまた、心から対等に接してくれる友人はできなかった。それでも大好きだった母、そして姉たちから注がれる愛情が嬉しくもあり、そして重圧にも感じられていた。そう、あの日までは。
霊夢と魔理沙――あの二人に完膚なきまでに叩き伏せられた日。それを境に、アリスの世界は大きく変わった。
二人に負けたのがどうしても悔しくて、悔しくて、悔しくて。一冊の魔導書を片手にパンデモニウムから抜け出したあの夜。家出同然で幻想郷へとやってくるも再び伸せられてしまった。が、逆にその日からアリスはこの幻想郷に魅せられ、ここ魔法の森へと住むようになったのだ。
それからの日々は語るまでもない。春の異変での再会、二人で蓬莱人に挑んだ永夜の一刻、そして、そして――
「だいじょうぶ、大丈夫だからね(この子もきっとそんな出会いができるはずよ。だって、ここは……そういう場所だから)」
気付かぬうちにアリスは語りかけていた。少女を優しくさすりながら。安心させるように。アリスは自分の指に髪を絡ませながらリーネの寝顔を見て微笑んでいた。私に妹がいたらこんな感じだったんだろうな、と。
「ん、んうぅ」
リーネの体が苦しそうに捩られる。まつ毛が震えている。何かうなされている?嫌な夢でも見ているのだろうか。
「ごめんなさい、母様。もうわたし、わるいことしません。母様にきらわれないようにします。だから、だから――」
「リーネ……?」
少女は泣いていた。悲痛な声を漏らし、嗚咽混ざりに彼女はうなされていた。涙がまつ毛から零れて止まない。そして、彼女の寝言も止まらなかった。
「だから、もう……コ ロ サ ナ イ デ」
『マイとユキ。二人の姉は少女が来る日まで上の姉たちから愛情を全て注がれていました。しかし、少女が来てからはそうはいきません。時には「あたらしい妹」のことが疎ましく、そして憎らしくもありました。そんなある日――』
2311年10月23日 昼下がり
「――ふーん。それで、あの子を引き取ったって訳かしら?」
ベランダの花壇に視線をやりながら向かいのアリスにそう話しかけるのはパチュリー・ノーレッジ。カチャ、と音を立てて紅茶に口をつける。
彼女の視線の先には、アリス宅の花壇で花々を愛でるリーネの姿があった。その傍には蓬莱人形が彼女を護るかのように浮遊している。今日は天気も良く、鬱屈と樹々の茂る魔法の森にも光が十二分に差し込んでいるので心なしか暖かい。
初日のぎこちなさもどこへやら、この家に馴染んだ様子のリーネ。彼女がアリスの家に迷い込んで早くも二週間以上の時が流れていた。今ではすっかりアリスに懐いている。
そしてパチュリーは、と言うと。彼女は小耳に挟んだアリス宅に迷い込んだ小娘とやらを一目見ようと図書館から出てきたのだった。
「引き取った、ってよりは『預かっている』って感じかしら」
アリスもまた庭のリーネへと視線をやりながらそう返す。
「同じじゃない。それで、あの子……えーと、リーネだったかしら。彼女はどこから来たの?」
「外の世界から来たか、はたまた外の世界で忘れられた幻想なのか」
曖昧なアリスの答えにパチュリーは呆れたように溜息をもらす。
「そりゃそうよ。幻想郷に迷い込んでいるってことは、その二つくらいしか可能性がないじゃない。外から来たのならさっさと神社にでも行って御払いでもしてもらったら?」
「御払いは違うんじゃない?」
「どっちでもいいわよ。……あぁ、でも今の巫女にそんな力はないか。私以上に病弱だそうね、彼女」
「……えぇ、まぁそうね」
パチュリーの言う通りだった。博麗霊夢の代から三百年近く経ったいま。博麗の巫女は何度となく代替わりを経て、そして弱体化していった。今の博麗の巫女も博麗大結界を維持するので手一杯。逆に妖怪側が異変を自重するよう協定を締結するなど変な状況に陥っていた。
パチュリーは続ける。皮肉と悲哀の入り混じった笑みを浮かべて。
「あの狐も大変よね。いつの間にか主は雲隠れ、今となっては妖怪の賢者筆頭として人間とのパワーバランスに神経をすり減らす毎日。そんでもって巫女になる資質のある人材も枯渇しているんだもの。流石に同情するわ」
そう、何も当代の博麗の巫女が無能なのではない。逆に博麗の巫女に成り得る最良の人物ですらあった。だが、長い長い時と共にこの地は水面下で着実に崩壊の危機を迎えていた。博麗大結界の限界、即ち幻想郷の消滅という――
やれやれ、といった口調のパチュリー。何か諦めているようにも見える。対するアリスは何かを考え込むようしていたが、ややあって口を開いた。
「でも、案外そうでもないかも。あの子、珠夢(しゅむ)なら……」
「誰よ、それ」
聞き覚えのない名前だ。その呟かれた言葉にパチュリーは眉根をひそめる。
「次期博麗の巫女、といったところかしら。まだ十歳で今は守矢神社で修行しているんだけど、結構有望株よ。少なくとも今の巫女よりはものを持っているはずだわ」
「ふーん、だといいんだけど……っと、話が逸れたわね」
話を振った割には興味なさそうな口調のパチュリー。彼女もまた、現在の「博麗の巫女」に興味を持てない一人なのだろう。
「もしリーネが外から来たのなら、その珠夢って娘が巫女になるまではお預けかしら?」
その問いかけにアリスはかぶりを振る。
「いえ、その必要はないわ。実はもう分かってるのよ。あの子の正体は」
「そうなの? なら勿体ぶらずに教えなさいよ」
むっとした表情になるパチュリー。分かってるならさっきの時点で答えろ、と言いたげだ。アリスはそんな彼女に苦笑いを浮かべている。
「多分、なんだけどね。……あの子は『白雪姫』。つまり、ここに来るべくして来た存在なのよ」
「っ! 何ですって?」
ようやくパチュリーの視線がアリスへと引き戻される。一方でアリスはどこを見ているのか分からない視線を宙に向けている。ただ、言葉だけを流しながら。
「母の祈りによって天から与えられたかのような容貌、そして当の母親からの嫉妬から来る虐待。果ては生まれの城を追い出され、森で死ぬ所を狩人の情けで辛うじて生き延びたそうよ。みんな話してくれたわ。そしてやっとの思いで辿り着いた小人の家。リーネが私の家と勘違いしていたのはきっとそのせいね。でも、あの子が生きているのを知った母親は三度もあの子を殺したみたい。一度目は絞殺、二度目は毒の櫛、そして三度目は――」
「毒林檎、ね。確かにまんま『白雪姫』だわ」
合点がいった、とばかりにパチュリーは首を縦に振る。が、アリスは横に振っていた。彼女の方が納得がいかない、とでも言いたげに。
「待って。まだ続きがあるの。三度目にしてとうとう蘇ることの出来なくなったあの子は、某国の王子に引き取られ、ふとしたきっかけで蘇生したそうよ。そこで何があったかは話してくれないんだけど、きっと怖い思いをしたのね。命からがら城から逃げ出したらしいわ」
「間違いないわ。あの子は『白雪姫』。本に名前はなかったけど、本名はリーネ・シュネーベルだったってわけね」
「そうなるんでしょうね」
「そうなら外へ帰す必要はないわ。このまま幻想郷で生きるのが、あの子のためだもの」
得心のいった表情のパチュリーとは逆に、語り手であるアリスの表情はまだ曇っていた。
「それはそうなんだけど、ちょっと引っかかるのよ」
「何が?」
「私が魔界にいたとき、母から『白雪姫』は何度も読んでもらったから話の筋は覚えているわ。でも、私の知っているそれとは話が大分違うのよ。ほら、第一リーネはあんなに幼いのよ? 挿絵の白雪姫はもっと大人びていたはずだわ。それに、虐待の主が実の母親で狂ったように三回も自分の娘を殺すだなんて――」
「残念だけど、あの子の話が真実よ」
アリスの言葉をパチュリーが遮る。余りにも悲惨な少女の過去。それが現実だと突き付けられ、アリスの顔が固まった。パチュリーは続ける。
「アリス、あなたが知っているのは改訂された後のお話し。子ども向けに手直しされたものよ」
「えっと、どういうこと?」
「内容が子供向けじゃないからすぐに内容が変更されたのよ。尤も、本当の話を知っていたとしてもあなたのお母様がその話をしたとは思えないけどね。本当の『白雪姫』、つまり真のグリム童話はあなたの話した通りの筋書きなのよ」
「それじゃあ……」
「そう。実の母に恨まれ、何度となく殺されて。挙句の果てには、ロリコン王子に引き取られた七歳の哀れな少女――それがあの子よ」
「ひどい。そんなの、母親なんかじゃないわ。許せない……!」
伏せられた顔、組まれた両の手。体を震わし、悲痛な声に静かな怒りが込められた言葉。家族に恵まれてきたアリスだからこそ受ける衝撃も大きかった。
逆に、レミリアに拾われるまで一人で暮らしてきたパチュリーにはアリスのそれが理解できなかった。彼女は目を伏せるアリスを表情も変えずに注視していた。が、ややあって溜息と共に彼女へ言い聞かせるように口を開いた。
「アリス、あなたがあの子にどんな同情をかけようと勝手よ。でもね、同情したところであの子の過去は変わらないわ。大切なのはいま。あの子にあなたが出来ることを考えてやった方がいいんじゃないかしら?」
「私に、できること……」
「アリスさーん!」
唐突にガチャリ、と玄関の扉が開かれる。そのまま小走りで部屋に入ってきたのは頬も土で汚したリーネだった。アリスに作ってもらったのか、ピンクの生地に花柄のスカートとブラウスを着こんでいる。そして、あの日貰った青いリボンが頭の上で揺らいでいた。背中に何か隠し持っているのだろうか、両手を背に回している。その顔はアリスを見てニタニタしていた。
「リーネ? お外はもういいの?」
「うん。それでね、あのね……」
そう問いかけても、もじもじと、そして顔には隠し切れない笑いがこぼれている。これは何か企んでいそうだ。そう思う間もなく――
「はい、アリスさん。これあげる!」
にこっと笑って彼女は両手をアリスへと差し出してきた。そこには小さな花冠がひしと握りしめられていた。同じくらい小さな手。土が爪の間に入り込んでいるが、それがまた無邪気さを感じさせる。
「え、と……これは?」
「うんとね、お庭のおはなでつくったの。その……アリスさんに、似合いそうだったから」
過去を感じさせない、否、過去の闇を自身で包み込んで見えなくさせようとする健気さ。子どもと言うものは大人よりも強い力を持っているのかもしれない。
だが、そんな理屈抜きにアリスは彼女のプレゼントが嬉しかった。アリスは自分の手を伸ばすと、リーネの小さな手の上から包み込むようにして握りしめ、そして心から自然に溢れる言葉をカタチにした。
「ありがとう、リーネ。大事にするわ」
「うん!」
アリスから貰った感謝の言葉に満面の笑みを浮かべるリーネ。そんな二人の様子を横目にパチュリーの顔も心なしか緩んでいるように見えた。
「さ、外から帰ったら手を洗いなさい。そしたらお姉ちゃんたちとお茶でもしましょう」
「はーい」
「爪の中もしっかり洗いなさいよー」
「わかってるー……」
洗面所へと走るリーネの声が小さくなりながら薄れていく。その後を追う蓬莱人形。パチュリーはその小さな背が消えるとアリスに含みのある視線を向け、小声でささやいた。
「似合っているじゃない。アリス『ママ』?」
「もう、よしてよね」
彼女のからかいに少し頬を赤らめるアリス。これは面白そうだ、もっとイジってやろうか。パチュリーの顔に黒い笑みが浮かぶ。だがその直後、彼女の顔に緊張が走った。
「……っ!」
「パチュリー?どうしたの?」
当然、その変化にアリスは顔を覗き込んでくる。パチュリーの顔は強張ったままだ。いや、目を瞑り、何かを探るのに精神を集中させているようにも見える。
「アリス、あの子を狙ってる連中が……すぐそばまで来ているわ」
「何ですって……?」
言っている意味が分からない。リーネを狙う者? 彼女は幻想郷に来たばかりだ。その存在も一部の知己の間にしか広まっていないはずだ。当然、彼女らが危害を加えるはずもない。となると?
「どうやら、招かれざる者たちまで受け入れてしまったようね、この幻想郷は」
受け入れる――その言葉の意味は明白だ。アリスはようやく飲み込めた。その答えを、口にすることで。
「まさか……あの子の母親が?」
「そうでしょうね。そう考えるのが自然だわ。三度目があったのなら、四度目だって」
単純に娘を引き取りに来たと考える方が困難だ。とは言え、生みの親であることもまた事実。アリスに迫られる選択肢は二つだった。大人しく生みの親にリーネを返すか、それとも妖怪らしく突っぱねるか――
「それでどうするつもり? 大人しく母親に引き渡す?」
「いえ、あの子は私が引き取るわ。自分の子を殺そうとする親なんかに、誰があの子を渡すものですか」
即答だった。アリスが選んだのは後者だった。この二週間、たった二週間だが、アリスは常にあの少女に愛情を注いできた。そして、リーネもそれに応えてくれた。二人の間柄は既に実母とのそれを超えている――その確信が、アリスの決意を促した。
この先、人を一人育て上げるのにどんな困難が待っていようとも。それでも、この子を今ここで引き渡すわけにはいかない、と。
「分かったわ。私はここであの子の面倒を見ておいてあげる。だから、行きなさい」
「パチュリー。ありがとう」
静かに頷き返すアリス。そこに
「アリスさん! ちゃんとおてて洗ってきたよ!」
水を指先から滴らせながらリーネが無邪気に入ってきた。彼女だけが自分の周囲で起きている出来事を知らなかった。アリスは「えらいわね」とそんなリーネの頭を撫でながら心に決めていた。必ずこの笑顔を守り抜くと。二度とここに来た時のような恐怖に震える彼女には戻すまい、と。
『そしてある日、ほんの些細な諍いから一人の姉が勢いで言ってしまったのです。「アリスなんか、私たちのほんとの妹じゃない!」、と――』
「……(じ~)」
アリスが出て行った後。リビングでは一人本をペラ、ペラとめくるパチュリーの姿があった。そして、そんな彼女にせがむような視線を投げ続けるリーネの姿も。
パチュリーはアリス宅の周囲に結界を張り、ちょっとやそっとの衝撃では被害が出ないようにしていた。そして、窓の外には虚構の景色を投影させることでリーネに外のそれをみせまい、と配慮もした。後はアリス次第だ。
一方、リーネはアリスの覚悟を知る由もなく、お茶の時間は後回し、残ったパチュリーにも相手にしてもらえず……と、どこかつまらなそうに脚をぷらぷらとさせていた。子守を買って出たはずのパチュリーもチラ、チラ、と本から目を離して彼女の様子を伺っている。子供のせがむような視線には不思議な力がある。断れば何か大きな過ちを犯してしまったと錯覚するような何かが。
それは時に魔女をも動かす。時間を空けずにパチュリーが音を上げた。わざとらしく大きな溜息を吐きながら本を閉じる。
「……仕方ないわね。何か読んであげるからそこらへんの絵本でも何でも持ってきなさい」
「っ! うんっ」
先に折れたパチュリーにリーネの顔がぱぁっと明るくなる。そして、すぐにとてとてと本棚から一冊の本を取って戻ってきた。
「あのね、この本ね、どうしてもアリスさんは読んでくれないの。だからお姉ちゃんよんで」
差し出されたのはボロボロになった淡い水色の装丁が施された一冊の薄い本だった。拙い手での製本の所為もあってか、綴じ糸も解れてボロボロだ。その題箋には『パンデモニックプラネット』と掠れた文字が見える。
「(アリスが読みたがらない本、ね。面白いじゃない) いいわよ。えーと、なになに……『むかしむかし、と言うほど昔でもないある日。お城にいた少女は「ある真実」を知ってしまいました。それは、少女が母親だと思っていた女性が本当の母ではない、ということでした――」
魔法の森の奥。
ひっそりと建つアリスの家を茂みから覗くように、頭から足の先まですっぽりと覆う黒いフードを被った女がいた。手には先に宝玉を埋め込んだ樫の杖を持っている。隠されたフードの下では爪を噛み、恨みをこめた目で睨めつけながら家の様子を窺っていた。
「やっと見つけた。まだこんなところで生きてたなんて、忌々しい。今度こそ――」
「こんなところで悪かったわね」
「っ!?」
女が振り返ると、そこには、臨戦態勢を取る人形たちを従えたもう一人の魔法使いが立っていた。魔導書を手に、二体の人形を従える彼女が。相手の心を射抜くような視線を向けて。
「いかにも怪しげなその恰好、こっちは物語の通りの魔女ね。あなたが、リーネの母親なんでしょ?」
「なぜその名前を……そうか、さてはお前が」
「ええ、そうよ。あの子は私が預かっているわ」
「……それは御苦労様でした。でも、こうして母親がやってきたのです。私の娘を返してもらいましょうか」
預かっている、その一言で魔女は慇懃無礼に頭を下げた。猫なで声、ぞわっとする。フードの下に浮かぶ真意は窺えない。その言葉も演技臭い。アリスは一切、警戒を緩めなかった。
「返して、どうするのかしら?」
「どうって、私はあの子の母親で――」
思ってもいなかった返事に口ごもる魔女。大方、母と名乗ればすぐに手渡すとでも思っていたのだろう。だが、アリスはそんな彼女にどこか据わった、鋭い視線を投げかけていた。侮蔑と怒りを含んだそれを。相手はそんな彼女の態度に苛立ちを隠せない様子だ。芝居染みた化けの皮が剥がれていく。
「あ……あなたが知ったことではなくてよ?」
「また殺すんでしょう? 今度はどんな残酷な方法を取るのかしら?」
「……」
否定は無し。押し黙る女。魔女ではなく、人の母として少しでも期待を込めていた自分が馬鹿だった。アリスの中で確信が生まれる。この母親は同じ過ちを繰り返しにここへ来たのだ、と。ギリッと噛みしめられた歯が音を立てる。
「やっぱりそうだったのね。そんなことさせない、みすみすあの子を殺させはしないわ。あなたのような母親、誰もお呼びじゃないのよ」
「何を小娘がきいた風な口を……人の家庭に口出しするのは感心できないわねぇ。王妃の名に命ずる、速やかにあの娘を明け渡しなさい」
「残念、ここはあなたの国じゃないわ。それに、そこまでして返してほしいのなら……」
アリスの指がくい、くい、と動く。どこからか現れた七体の人形がその動きに合わせて体勢を整えていく。余裕のある、都会派魔法使いらしい笑みを浮かべて。
「力尽くでやってみなさいよ。七人の小人に代わって、私があの子を守って見せるわ」
『うすうす分かっていたこと。でも、それが言葉にされるととても辛いモノでした。それが自分は好きだと思っていた姉から言われたのだからなおさらです。少女は泣いて泣いて、泣きました。ですが、ながれた涙は真っ白だったキャンパスを濡らして滲ませても、元の色には戻してくれませんでした』
「上海、蓬莱! 行くわよっ」
アリスの音声に反応して二体の人形が駆動する。長い年月を費やして遂に漕ぎ着けた半自律プログラム。内部にある『ココロ』がアリスの命令から自分たちの取るべき行動パターンを検索、最善の動きを計算・実行する。
蓬莱人形は前に出て盾を構え、その後ろから上海人形が球状の弾幕をばら撒く。盾に隠れてどの方向に放たれたか分からない弾は眼前の魔女へと殺到していった。
一方、魔女はその場から微動だにせず、手にした杖をトン、と地面に付き立てた。一瞬にしてブゥン、と音を立てて魔法陣が広がり、その体が青白い半球体のバリヤーが覆われる。
「……やるわね」
障壁に触れた途端、上海の弾幕が爆ぜていく。その内側にいる彼女は無傷だった。アリスは軽く舌を打つ。次の手を頭で練りながら。
「だったら、こうよ!」
アリスの指先が糸でも紡ぐようにススッと流れる。すると仏蘭西が、和蘭が、露西亜、倫敦、京人形たちが手に手にランスや剣を構えて魔女を覆うバリヤー目掛けて突撃を仕掛けた。突き立てられた切っ先、盾と矛の削り合い。金属の先端はバチバチと激しい音を立て、行く手を阻む障壁に食い込んでいく。それを援護するように上海人形と蓬莱人形の弾幕も途切れることなく撃ち込まれていく。あと一息、もう少しでこの壁を壊すことができる――
「あぉ、うっとうしいわね!」
その寸前だった。苛立ち、そして物憂げな手つきで魔女が横薙ぎに手を振るう。すると、障壁はゴムのよう弾性を持って内側から外へと跳ね返った。その弾力に吹き飛ばされる人形たち。仲間への跳弾を避けるために上海と蓬莱も攻撃の手を止める。思っていたよりも守りは固い。その防御結界の精度に舌を巻く一方、アリスは次の手を講じていく。が、その顔には早くも焦りの色がにじみ出ており、余裕の色がなくなっていた、
「少し舐めていたわ……でも、『試練』としては足りないくらいね」
「何ごちゃごちゃ言ってるのかしら? あなたのお人形さんでは私を攻撃できないみたいよ。ほっほっほっ」
先の威勢を失ったアリスに高笑いを上げる魔女。障壁を解除し、今度は自らが攻撃の手を加えるべく一歩を踏み出す。そして、アリスも笑っていた。口端を軽く吊り上げて。引っ掛かった――そんな笑みを。
「なにも、攻撃するだけが脳じゃないわ」
踏み出されたはずの一歩。だが、彼女はその場から動くことはなかった、否、動けなかった。体が何かでピンと張っているかのように動かすことができない。
「な、なによ、これ……!」
「弾幕勝負は頭脳プレー。私を侮って結界を解いたのが間違いだったわね」
自由の封じられた魔女の両脇にある二つの小さな影。先の攻撃を免れていた上海と蓬莱だ。その手から伸ばされた目に見えないほど極細の糸が、魔女の両手両足を絡めとっていた。もがけばもがくほど肌に食い込んでいく魔法の拘束具で。
「くっ、ほどけない……!」
彼女がいくら身を捩ったところでそこから抜け出すことは適わない。たかが人形の二体とは言え、その術者の魔力が高ければこの程度の芸当も容易なものだった。憎しみを込めた目で魔女がアリスを睨みつける。アリスはパキッと足元の枝を折りながら彼女へと近付いていた。相手との間に、絶対的な差を感じながら。
「身動きの取れなくなったあなたに勝ち目はない。これでお終いね。分かったら、あの子を諦めてさっさとここから――」
「く、ふふ、くふふふ」
「何がおかしいのかしら?」
観念するかと思いきや唐突に笑いだす魔女。アリスの眉が顰められる。だが、相手は嗤うだけで何も答えようとはしない。パキッと音がする。アリスは動いていない。
「誰が諦めるものか。あの麗しい娘は、俺の大切なコレクションだ」
知らない男の声。後ろに誰か、いる――アリスの瞳が大きく広がった。
『すべてを知ってしまった少女は部屋に閉じこもりました。一番上のおねえさんが扉を叩きます。何かを話します。でも、それはうまくおなかの中におちてくれませんでした。ごはんなんか食べたくない、誰ともいたくない、話したくもない。一人でいると、さまざまな想いが胸をよぎります。終いにはこんな思いに至りました「わたしがいると誰かが傷ついてしまう。わたしはいらない子なんだ。そうだ、ここを出よう。私は、ここにいちゃいけないんだ」――と』
「――ッ!!?」
振り返ろうとしたその時、アリスの脳天に鈍器が叩きつけられた。パックリと割れた肌。血が額を、鼻の筋を流れて一本の川をつくる。その元凶――どこからか現れた短い銀髪を逆立てる男は、膝を突いてドサッと倒れるアリスをその場に、つかつかと魔女の方へ歩を進める。装飾に富んだ異国風の軍服。彼もまた「異郷」の者なのか。
突然の襲撃者、主の危機。小さな影が動いた。
「シ、シャンハーイ!」
半ば自律人形にしていたのが仇となった。アリスの危機にプログラミングのコアとなっている人格が本能のままに動いてしまったのだ。上海はいてもたってもいられず、何もかも放り出して俯せのアリスの傍へと飛んでいく。
「ホ、ホラーイッ!?」
おかげで魔女を拘束する力の均衡は崩壊してしまった。縛り上げていた糸だけでなく、そこに通わされていた魔力も半減。そして、それを男の剣で断ち切ることは容易なことだった。
「ふんっ」
あっけなく断ち切られた封魔の結界。せめてもの抵抗か、蓬莱の放ったレーザー光線も男の剣の腹に受け止められる。火花を上げて遮られた攻撃、それもすぐに跳ね除けられてしまう。男の舌打ちと共に。
「邪魔だ」
感情もにじませない冷徹な声。蓬莱の胴体へ叩き込まれる柄の先端。そこに埋め込まれた宝石がミシッと嫌な音を立てて人形の腹に食い込まれる。弾き飛ばされた蓬莱は樹に激突して地面に崩れ落ちた。そのエプロンに、アリスの血を滲ませて。
「シャ、シャンハーイ……」
自らの行動からくる失態に呆然となる上海。だがすぐにアリスを揺り起こそうと懸命に呼びかけを続けた。
「う、く……だ、大丈夫よ」
腕を、膝を震わせて立ち上がるアリス。不意打ちによる傷は浅くないが、まだ戦うことはできそうだ。そんなアリスの傍に泥まみれになった蓬莱人形も合流する。二体に続いてほかの人形たちもアリスの指遣いで壁になるかの如く彼女の前に集まる。
「完全に油断していたわ。パチュリーは『連中』って言ってたのに……始めから敵は二人だったのね」
状況は逆転した。己の迂闊さに苦々しく呟くアリスに闖入者はつまらなそうに鼻を鳴らす。親指で拘束から解放された魔女をさしながら。
「そういうことだ。俺はこいつの隣国の王子。折角、森の小人から手に入れたコレクションが逃げ出したから追いかけてきたってわけだ。あの娘の所有権は俺にあるんだ。返してくれ」
男の放った一言。アリスの眉間が深まる。許せない一言。この男はあの子を、リーネを何だと言った?――痛みも忘れるような強い怒りに震える視線を向けて。
「あの子が、コレクション? ……ふざけたこと言ってんじゃないわよ。第一、リーネを狙っているのなら、何でその女の味方をするのよ。そいつはあの子を殺したがって――」
「分かってないな。それでいいんだよ。それで」
アリスの疑問に首を振る王子とやら。アリスはその答えに絶句していた。
「なんですって……?」
「俺が欲しいのはリーネとかいう娘じゃない、その骸だ。逆に生きていられちゃまずいんだよ」
「……っ!」
あんまりな物言いに言葉も返せない。男は自分に酔っているのか、自分語りを続ける。
「俺は生きている女に興味はないんだ。お前、永遠の美とは何だと思う? 俺に言わせれば、それは若い娘の死体さ。その『鮮度』を保つには……分かるだろう? お前の人形と同じように、年も取れず、面倒な意思を持たせなければいいのさ」
ふざけたことを。そんな外道な趣味を自分と同列で語るな――その言葉に、アリスは腹の底から湧き上がってきた言葉を吐き捨てた。
「最低……!」
「何とでも言え。芸術というのはいつの時代も凡人には理解できぬものだからな」
「誰が、あんたなんかにあの子を……うっ」
額から鼻を伝って流れる一筋の川。足元がふらつく。痛みは忘れていても体は正直だ。思っていた以上に出血が多い。脳震盪も起こしている。おぼつかない足取りで気に手を突いて何とか立っているアリス。彼女を嗤いながら魔女も肩をすくめていた。
「ま、私もその性癖はどうかと思うけど。……ただ、あの子が死ねば私は十分。私があの子を殺し」
「俺がその躰を貰い受ける――そのために俺たちは手を組んだのさ」
ふらふらになったアリスへと詰め寄る二人。その前に立ちはだかる上海や蓬莱ら。だが、戦いは意外な形で進捗を迎えようとしていた。伏せられたアリスの顔、陰に隠れて見えないその目。胸元に抱かれた魔導書へと伸ばされていく手。そこに握られた小さな鍵――その口からぽつりと声が零れていた。
「……さない」
そのただならぬ雰囲気に二人はピタリと足を止める。
「何か言ったか?」
「あんたたちの御蔭で、どれだけあの子が傷付いたと思っているのよ……」
「ふん、知ったことか」
また一歩が踏み出される。それと同時に、ガバッとアリスの顔が持ち上げられた、クワッと目が見開かれた。
「私は、あんた達を絶対に許さない! 消炭となって、地獄へ堕ちなさい!!」
カチャリ。永きに渡る封印が今、音を立てて解かれた。左手の上で踊る魔導書。ひとりでにパラパラ捲れていくページ。各ページから色鮮やかな光が浮かび上がり、アリスの周囲を飛び交っていく。火、水、闇、土、風、そして光。六色の美しい色合いと反し、そこに濃縮される魔力は悍ましい。
「解き放て、魔界神の力!…… 究極魔法、グリモワール・オブ・アリス!!!」
力を引き出す呪詛――その呪詛の言葉と共に六属性の魔法の光に加えてアリスの生命の光が一つに混ざり合っていく。そして、アリスの右手に幾何学的魔法陣が現れ、眩い光が解き放たれた。世界を創り、そして破壊する力。限界以上に彼女の力をも引き出す人知を遥かに超えた加護――
片手では制御が利かない。両腕で魔法陣を支えるもそれでも手に余る熱量。虹の輝きを持つそれは、魔女の張った結界を薄皮でも剥ぐかのようにあっさりと地面ごと抉り、紙切れのように王子を吹き飛ばした。
『翌朝、少女を待っていたのは、いたい、とてもいたいビンタでした。つー、枯れたはずの涙が頬を伝います。あの人も泣いていました、ボロボロと。「アリスちゃんが誰の子だなんて関係ない。あなたは私の娘。だから、だから……そんなこと言わないで」と――』
「いけないっ」
その衝撃の余波はアリス宅にも降りかかっていた。読み聞かせをしている場合ではない。テーブルに放り出される本。普段の彼女からは予想もできない勢いで立ち上がったパチュリーの右腕にポウッと紫の光が灯る。アリスの制御を離れた膨大な魔力の渦は射線上に無いこの家までも呑み込もうとしている。それにいち早く気付いたパチュリーは特殊結界に力を込めていた。流石に大賢者の張った結界はそうそう破られはしないがそれでも、ビリビリと空気が震えていのが分かる。
「くっ!(なんて力……本当にアリスなの?)」
「きゃっ」
その揺れに怯えるリーネをとっさに空いた左腕で抱き寄せる。
同じ魔法使いとして驚愕を通り越して呆然とするパチュリー、魔法を感知できない人間からすればまさに地震のようなものである。それだけに、どれだけのエネルギーが放出されていたか――察するに余る。しばらくして、ようやくその揺れは止んだ。リーネもつっけんどんにパチュリーから体を離され、再びソファーにお尻を下ろす。
再び部屋に訪れた静寂。しかし、リーネの口がもごもごと動いている。彼女は、本人の意識しないまま何かに取り憑かれたかのように呟いていた。
「……んで」
「え?」
やっと聞き取れるか、程度の大きさ。パチュリーが彼女に目を遣ると、さっきの怯えた様子もどこへやら。リーネは虚空を見るような、ここに魂は無い――そんな目をパチュリー向けていた。彼女はとにかく先が知りたかった。この『少女』の物語、その結末を。
「お願い。つづきを、よんで」
「……」
それに対するパチュリーの答えは無言。彼女は再び本を手に取り、ページを捲った。
『悲痛な、ほんとうにつらそうな母の声。それを聞いて、少女は声を上げて泣きました。大好きな、ママの胸で。。ですが、ポロポロと止まない涙。でも、昨晩の悲しみによるもの、そして頬に残る熱からくるものとは違いました。それは――』
「はぁ、はぁ……」
膝に手を当て、肩を上下させるアリス。息切れがひどい。久しぶりに感情を爆発させたことで加減が利かなかった。暴走した自身の力が招いた結果。眼前の惨状が、それを如実に物語っていた。
アリスを中心に円を描くように派手に抉られた大地、黒焦げになって歪む森の木だったもの、周囲をチロチロと舐める蛇のように這う炎――それを引き起こしたのは他でもない、アリスだった。
「これを、わたしが……?」
激昂して魔導書に手を伸ばしたところまでは覚えている。
その本の名は『Grimoire of Alice』――母親である神綺の力が封じ込められた魔界の至宝。その使用者は、最低限の魔力を消費するだけで魔界神の力の一端を発動できるという禁書レベルの代物だ。そして、そこから引き出せる力は所有者――アリスの秘める真の魔力に比例する。だからこその結果であった。
「……た、大した小娘だ」
視界の大部分が焼け野原。その一角で岩にしがみ付くようにして一つの影がゆらりと起き上がった。某国の王子である。悪運が強いのか、ボロボロになった軍服の襟を正しながら一歩ずつゆっくりと近寄ってくる。焦げて黒ずんだ髪は乱れ、左目は閉じられ、更には足がびっこを引いていた。
「あなた、まだ……」
呆然としている場合ではない。キッと睨みつけたアリスは警戒するように人形たちを前面に展開する。魔力の消耗は軽微だ。激昂しての息切れも既に収まっている。このまま止めを
「初めはあの小娘の身体のみ欲しかったが、気が変わった。お前の怒りに凛と震えるその姿――実に美しい」
その思いを遮るような突然の丁寧な態度、そして物言いになる王子。――何かがおかしい。アリスは神経を更に前面に向けた。
「……何が言いたいのよ」
「お前も私のコレクションに入ることを認めよう。そして、あの娘と二人並べて飾り立てよう。……あぁ、想像しただけで胸が高鳴る。なんて美しい、この世に二つとない至高の芸術品だ!!」
両手を天に上げ、歓喜に打ち震える狂人。返ってきたのは余計にアリスの神経を逆撫でるものだった。蛞蝓でも這いずりまわるような感覚が全身にブワッと広がる。保っていた冷静さが再び怒りに塗りたくられていく。吐き出された言葉の様に。
「反吐が出るくらい気持ち悪い男ね。そんなボロボロになってもまだ私を殺せるとでも?」
「あぁ、気の強い所もまたいい。……そうだ。そんな『貴女』に免じて一つ、忠告をあげよう」
挑発するように人差し指を立てる王子。エスカレートする口ぶり。アリスの怒りのボルテージはマックスに達していた。そして、それに冷や水を浴びせたのは――他ならぬ彼だった。
「君は冷静なように見えて、どうも気が昂ると周囲が見えなくなるらしいな」
背後に何か気配を感じる。向けられる殺意。そう、相手は王子だけではなかったはず
「しまっ――」
皆まで言い切らない内にアリスの腕に何かが掠った。反射的に体を逸らしたものの薄っすらと血が滲んでいる。プクッと浮かび上がる朱の滴。怒りに任せてすっかり戦力と警戒心を偏らせ過ぎた。そのお陰で視界外からの一撃に対する反応に後れを取ってしまった。そう、この王子が現れた時の様に。全く同じ過ちを。
アリスに一矢報いたのは、焼け爛れたフードの下から醜い顔をのぞかせた魔女――かつては国一番の美しさを誇っていた元王妃だった。今は落ちくぼんだ眼に、皺だらけの顔から突き出された高い鼻を覗かせる醜い女。その手には小奇麗な装飾の施された櫛が握りしめられている。
彼女は、紙一重の差で避けたアリスではなく王子に向かって不満をぶちまけていた。
「全く、この御喋りめ! あと少しで確実に仕留めていたものを」
「いやはや、これは失礼。だが、俺の大切なコレクションには傷をつけられては困るのだよ」
「ふん、まあいい。小娘もこれでじきに動けなくなるわ。ふぇっふぇっ」
アリスへと向き直る魔女と王子。あれ、言葉が半分も頭に入ってこない。体もだるい。何かが、おかしい――このままではまずい。アリスは更に二人から距離を取ろうとする。だが、足が動かない。それどころか、たちまちガクリと膝をついてしまった。指先も震え、制御を失った人形たちがボトボトと地に落ちていく。その様子を見て二人はせせら嗤っていた。これは一体――
「どうだい? あの子を一度死に至らしめた毒仕込みの櫛は。ん?」
「ま、さ……か」
「ふふ、惨めだねぇ」
「シャンハーイ!」「ホラーイ!」
身動きの取れなくなったの指揮を離れ、二体の人形が襲い掛かる。
「おっと、危ない危ない」
上海の放つ大玉弾幕、蓬莱の放ったレーザーに飛びのく魔女と王子。そしてアリスとの間に盾として、矛として入り込んだ。大切なアリスを傷つけた、二人の人間に敵意を込めて。
幸いにも、腕に掠らせた程度だったお陰で即死は免れたが、毒が全身に回ればいかにアリスでもハンデどころの話ではなくなる。毒への耐性がある魔法使いの体とは言え、劇薬ともなれば時間の問題だ。
「はぁ……はぁ(……万事休す、ね)」
「――互いに頬を腫れ上がらせた三人は仲直りをしました。二人の姉は仲直りの印として、魔力の弱い少女の為に二つの人形をくれました』」
「……」
リーネは一つの物語を聞き入っていた。その心はもうここにはない。そんな彼女を視界の隅に入れながらパチュリーもただただ忠実に文字の列を追っていく。
「『それからしばらくして、少女は再びパンデモニウムを出ることを決意しました。魔界に攻めてきた外の巫女や魔法使いたちに仕返しがしたかったのです。母に知られたら必ず止められてしまうでしょう。なので白を抜け出した少女はマイとユキ、一番仲の良かった二人の姉にだけ別れを告げてやってきたのです。ここ、幻想郷へと――さて、これからどのような出会いが少女を待ち受けているのでしょうか。それはまた、別のお話』…………おしまい」
パタンと本が閉じられる。ついせがまれるまま、自分の興味の赴くままに読了してしまった。図らずしも、本人には無断で『少女』の過去を知ってしまったのだ。その言葉にできない気まずさを紛らわそうと、パチュリーは顔を窓に向ける。偽りの空へと。話が終わっても感想さえ漏らさず、ほぅっと本の世界に入り込んでいたリーネもまた彼女に倣う。
外は相変わらずの青空、そして鬱蒼と生い茂る森の木々が広がっている。尤も、それは結界の中から見ただけの虚構に過ぎないが。
ここから外で起きていることを見ることは適わない。だが、すぐ目と鼻の先では、焼け野原でアリスが身を削って戦っているはずだった――この小さな少女のために。
「(これはアリスの戦い。そこに私がしゃしゃり出るのも筋違い。ここは子守の続きをするしかないわね)ほら、他に読んで欲しいのがあったら適当に持ってきなさい……リーネ?」
先ほどまで読んでいた薄い本をテーブルの端に寄せ、他の本を促すパチュリー。しかし、相手からの反応は無い。彼女の視線は、やさしい嘘で塗りたくられた外へと向けられたままだった。
「……」
そう、リーネはただ外を見ていた。何の変哲もない、窓から見えるいつも通りの景色。それを、じっと見つめていた。
「ッ! ……あなた、もしかして」
「……」
「見えてる、の?」
「…………」
返事は無かった。だがそれは一つの答えを示していた。リーネの黒真珠のような瞳――そこには、二人の男女に囲まれて地面に這いつくばるアリスの姿が映っていたのだから。
「うっ、く……」
ゴロゴロとアリスの身体が地を転がっていく。あれから恨みつらなる彼女に魔女は容赦がなかった。体の自由が奪われていくアリスを足蹴にしては嬲りものにしていたのだ。ようやく飽きたのか、彼女は肩で息をしながら興奮の余韻に浸っている。一方で、男は岩の上に座り込んでそれを退屈そうに肘をついて眺めていた。
「なぁ、もういいだろ? その辺にしておけよ。俺のコレクションなんだから」
「うるさいわねぇ! まずは私があの子を殺してからよ! あんたはその後で好きになさい!!」
アリスに背を向け、言い争いをしている二人。所詮、利害の一致ではこの程度の繋がりなのだろう。二人は互いにぎゃんぎゃんと言葉で攻撃しあう。その背後で起きている異変になど、気付くこともないまま。
「あー、へいへい。生きてるオンナてやつは怖いねえ。面倒くせぇ。さっさと殺っちまうぞ……って、あ? お、おい」
「そんな……っ」
二人はようやく気付いた。その視線は地面へと向けられている。すっかり毒が回って自分の意志では身動きの取れなくなったはずのアリスを。
だが、その動かないはずの指先。それはぐっと土をにぎりしめていた。背中も微かに震えている。自分の体を起き上がらせようと、力を込めて。
「そうよ、私は決めたのよ……」
毒は全身に回っている。体は動かないはずだ。それでもなお立ち上がろうとするアリス。二人は目の前の出来事が信じられない。何が彼女をそうまで駆り立てるのか、何が彼女の精神と気力をここまで奮い立たせているのか――それは、二人が死ぬまで考えても理解することのできないものだった。
「こ、こいつ。まだ」
「あの子の笑顔を守るって、幸せにするって……大切なのは、いま。私は今、あの子のために、できることをするだけよ……!」
脚をがくがく震わしながら立ち上がったアリス。ふらつく肉体、全身から溢れ迸る魔力。それは風となって二人の身体に吹きかかり、何かに弾かれたかのように仰け反らせた。
「なにっ……!」
アリスは自分の手をギュッ、ギュッと握りしめ、一つ頷く。そして、自分のそばを飛ぶ「二人」を呼び掛けた。
「まだいける。……ユキ!」
「シャンハーイ!」
「マイ!」
「ホウラーイ!」
真名を呼ばれた人形たちから比べものにならない力が溢れる。アリスの指先から魔力の糸がその小さな指先へと移っていく。途端に、地に伏していた人形たちの目に「生気」が宿った。
「あなた達の力、借りるわよ。人形たちを指揮して、あの男をぶちのめしなさい!」
「シャンハーイ!」「ホラーイ!」
上海蓬莱の指揮の下に集結、陣形を整えた七体の人形。その向き合う先にいるのは――王子だ。
「人形だとぉ? 俺をコケにするんじゃねえ!」
王子は剣を抜く。人形たちは巧みにその斬撃を縫って躱していく。ある者はその小さな武器を交錯させ、またある者はその隙に魔力の糸を絡ませていく。
「ぐっ、こいつら……! ちょこまかと……くっそぉ!!」
男は四方八方へと剣を振り回す。しかし、それが一度でもあたることは無い。一本では駄目でもそれが幾重にも合わされば話は別だ。たちまち小さな人形たちは大の大人一人を完全に拘束していった。
一方、人形たちが奮闘している間。アリスはボロボロの体を押して魔女と対峙していた。
「さぁ、あなたの相手は私よ」
「どうしてよ。毒が回ってお前はもう動けないはずなのに……私の毒は完璧なはずなのに! なぜ、なぜあの子といい、お前といい……どいつもこいつも私のために死んでくれないのよぉ!!」
涙をこぼし、天を仰ぐ。森に木霊するその叫び。発狂したように髪を掻き毟っては振り回す彼女に、アリスは憐れむような眼差しを投げかけていた。
「……守るべきものがあるから、かしらね」
「そんな戯言を!!」
「あなたには分からないの? 母親のくせに。誰よりも守らなくちゃいけないものがあるはずなのに……あなたにリーネを引き取る資格なんてない。私はあの子の保護者として、『娘』に仇為す存在を許すわけにいかないのよ」
アリスは震える脚を一歩ずつ、一歩ずつ魔女へ近づいていく。魔女は満身創痍のアリスが近付くたびにじりじりと下がっていく。まるで、なにかを恐れるように。少しでも触れれば倒れてしまいそうな人形遣いを前にしても、だ。
「とどめをさす前にもう一度だけ聞いておくわ。二度とあの子に近寄らない、そう誓うのなら実の母親ということに免じてこのまま見逃してあげる」
最後通牒を叩きつけられた格好だ。しかし、魔女の視線はアリスを貫いて、いやその背後へと向けられていた。口元に歪んだ笑みが浮かび上がる。
「く、くふふ……」
「何がおかしいのかしら」
「いつまでも学習しない小娘が。人形遣いのくせして七体の人形全てを手放すからよ。後ろを見なさい!」
首を取った、とでも言わんばかりにアリスの背後を指さす魔女。だが、アリスは振り向かない。鋭く尖った切っ先を向けた剣がアリスの背を貫かんと迫る。人形たちに雁字搦めにされた男が最後のあがきに得物を投擲したものだ。
それでもアリスは魔女から目を離さない。憐れみと嘲笑と、そして清々しさとを混ぜた笑みを浮かべて。そして口にする。実の母親に対する、勝利の宣告を。
「残念。私の人形は、七体だけじゃないのよ?」
皆まで言い終わらぬうちにアリスの腰につけたポーチから紅白と白黒の影が飛び出した。『彼女ら』はアリスの前後に散る。手に手に一枚の小さな札を持って。信じられないものを見るように二人の目が見開かれる。が、アリスはその手を止めなかった。
「さぁ、覚悟はいいわね。幻想の瞬きに呑まれなさい――」
―― 夢 想 封 印
――マスタースパーク
眩い光は剣を瞬時に溶かしてそのまま王子を貫き、そして虹色の弾幕が醜い魔女の体と歪んだ心を撃ち抜いた。
どさりと倒れ込む二つの影。それに背を向けてアリスは帰っていった。自分の『娘』の待つ家へと――。
『数々の出会いを経て少女は大人となりました。そして新しい生命を、愛しい娘を授かることができました。ここからアリスの新たな人生が始まります。初めての子育ては上手くいくでしょうか? 不安もありますが、それ以上に楽しみです――二巻に続く(追記)』
その夜、森の中を歩く二人の姿があった。まともに歩くこともままならず、焼け爛れた木に手を伝わせながら。
「く、くそ。あの魔法使いめ。危うく死ぬところだった」
そう、あの二人は生き延びていた。魔女も恨みに目を怒らして呪詛の言葉をブツブツと呟いている。
「私はまだ諦めないわ。あの娘が生きている限り私は、私は世界一の美しさを――ぐぇ」
「あ?おい、どうした?」
突然カエルの潰れたような声を出してどさりと倒れ込む魔女。突然の異変に男が目を凝らす。薄暗い、月明かりを頼りに。そして、彼は見た。
「だ、誰だ?……おまえ」
「…………」
ものすごい殺意が浴びせられる。歯の根が合わさらない、気を抜かなくても膝が折れそうだ。怖い、こわい、コワイ――こいつは、ダレダ?
突如目の前に現れた影が何かを振り上げた。天を突くように満月を両断する鈍色の一筋、否、煌く魔剣――その切っ先が、男へと下ろされようとしている。
「っ! や、やめろ! やめて。ひっ――ぎゃあぁぁぁぁ……!!」
男の命乞いも空しく、その一閃は王子の身体を華麗に斬り裂いていた。どさり、人だったものが崩れ落ちる。生気を失った、重い肉の塊が。
夜の闇を裂いて現れたその人物の興味は彼にはない。後ろで一つにまとめた髪、鮮血の跳ね返りもない白く、丈の長い上着――チャキッと刃を上に向け、その腹を指でツツとなぞる。未だ鮮血の滴る、その玉鋼を。
「……これが、妖刀の力か」
その言葉に応えるかのようにボウッと怪しく光る闇の刃。持ち主も嗤いかける、濃いサングラスの奥に狂気の色を宿して。刀もまた、『彼女』に何かを伝えたいのか一際輝きを増す。
「打ち直して尚この切れ味。……あぁ、いいさ。好きなだけ血を吸え。この力を使いこなせれば、あいつを超えることだって。く、くくっ、く……はぁーはっはっ、はーっ――」
愉快そうに顔を押さえ、足をダン、ダンと踏み鳴らす。その怪人物は二人の骸を見ることもなく高笑いを上げていた。何処までも続く夜の闇の中に溶けていきながら――。
2312年4月13日
「~♪、~~~♪」
鼻歌のリズムに合わせてクツクツ、と鍋の中で煮込まれるスープ。オニオンたっぷりのその芳香は、二階ですやりすやりと春眠に浸る少女を起こすには十分だった。
しばらくしてトン、トンとゆっくり音を立てながら一人の少女が階段を降りてきた。白いパジャマ姿の彼女の傍には宙で寝癖を整えようと忙しなく動き回る蓬莱人形が付き従っている。
「Guten m――おはヨうゴザいます、ママ」
片言の日本語で話しかける彼女こそアリスの一人娘、リーネ・マーガトロイドのものだった。
「はい、おはよう。今朝は自分で起きられたのね。もうすぐ朝ごはんができるわよ」
エプロン姿のアリスは背を向けたままそう語り掛ける。
「はふ……ふわぁ~」
眠いのか、噛みころせない大きなあくびを一つ。二つの黒い珠もどこかしょぼしょぼしている。目をこすりながらガタッと椅子を引いて座ろうとするリーネ。その音を聞きつけてアリスはお玉を片手に振り返った。
「こら、リーネ。起きたらまずは顔を洗って歯磨きをしなさい、って毎日言ってるでしょう? ほら早く行った、行った。その間にご飯並べといてあげるから」
「は~い、ごメンなさーい」
まだ寝ぼけているのか、蓬莱に頭を小突かれながらおぼつかない足取りで洗面所へと向かうリーネ。その姿を見てアリスは上海と顔を見合わせてやれやれと言いたげに肩を竦めていた。
「全くもう。……子ども一人育てるのって、ほんと手がかかるわね。ふふ」
そんな愚痴めいたことを漏らしながらも、アリスの顔には笑みが広がっていた。そう、遠くにいる母がアリスに浮かべていたような、暖かな笑みを。
To be Next Phantasm……
2311年10月7日 夕方
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ペキッと足元で乾いた枝が折れる。靴も履いていない生足。落ち葉に混ざって尖った木の刺さるズキッとした痛み。苦痛と恐怖に歪められた顔――それでも少女は歩みを止めない。東洋離れした白人の少女、齢は七、八か。
彼女は小さな足を懸命に動かして何かから逃げる。不気味に照らす夕日、嘲笑うかのような小梢。互いに震えてザワザワッと不快な音を掻き立てては、その度に少女の不安は一層駆られていった。
「(逃げなくちゃ。早く、帰らなくちゃ。みんなの所に)……Was!」
地面に盛り上がった根っこに足を取られる。ドウッと柔らかい腐葉土に沈みこむ少女の体。森の胞子だらけのネグリジェは泥まみれ。その下にある粉雪のような白い肌も土に染まっている。金糸でできたビロードのようなブロンズの髪は泥と落ち葉が絡まっていて見る影もない。幼い少女にこのような難所――魔法の森を越えさせることなど、どだい無理な話であった。
身体を包みこむ泥臭いベッド。幼い体はその感触に意識を飲まれ、眠気が黒檀のように深い瞳を瞼の内に隠そうとしていく。
「(……っ!)」
しかし、少女は眠りに落ちる寸前、木々の隙間から一軒の家を垣間見た。彼女の瞳に一抹の縋る色が走る。家だ。一軒の家が建っている。
少女は体に力を籠める。泥で塗りたくられた顔。その唇が噛みしめられ、そこに薄っすらと朱の雫が滲む。足がガクガク震える。だが、少女は立った。彼女はいつ倒れてもおかしくない体で立ち上がると、なけなしの力を振り絞って一歩、また一歩と生まれたての仔鹿の様に家へと近づいていった。
霧雨の降る、深い森の中にポツリと建った人気のない家へ。ヒトの温もりを求めて。
やっとの思いで辿り着いた小さな家。石の段差に足を取られ、倒れ込む少女の小さな手が玄関に触れる。カチャリ。鍵の外れたドアをそっと開ける。脱ぐ靴など元から無い。少女は裸足で上がり込み、部屋に通じる扉を開く。そこには、綺麗に整頓されたリビングが。どうも見知った『彼ら』の家では無いような気がする。しかし、こんな森の奥に住んでいるのは彼ら以外にはいないはずだ。
人の気配はない。少女は歩みを進めてリビングから通じる一つのドアを開く。すると、その小さな口から安堵の息が零れた。
その部屋には普通の人間では収まらないであろう、小さなベッドがいくつも並べられていた。普通の感覚からしたらおかしな光景だ。だが、何故か少女はほっと息を吐いていた。むしろ、その異常性に安心したかのように。部屋の中には、一つだけ大きなベッドがある。少女の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。彼女は巣を見つけた雛鳥にようにに純白のシーツへと沈み込んだ。
スン、石鹸のいいにおいがする。だれかのいいにおいがする。とても安心できる、やわらかなにおい。ふっくらとしたベッド。少女は着替えもしないまま、泥だらけの体を包み込むやさしい温もりに落ちていった――
第0話「童話からの逃亡者」
同日 夕暮れ前
それからどれくらい経っただろうか。玄関のベルが軽やかな音色を立てる。鍵の回される音、そして音を立てて開かれる扉。
「ただいまー」
よっ、と掛け声と共に重い荷物が次々に玄関へ置かれていく。一人暮らしの魔女。一人でいるとついつい独り言が多くなってしまうのは彼女もそうだった。
「とりあえずこれくらい買い込んでおけば当分は大丈夫かしらね。しかしまぁ、里も危なっかしくなったわね。ちょっと行かない間に辻斬騒ぎが起きていたなんて……そうそう、上海たちもお疲れさま」
「シャンハーイ」
その声は家の主である人形遣い、アリス・マーガトロイドのものだった。彼女は数体の人形を引き連れて里へ買い出しに行っていたのだ。人形たちも荷物を運んできて心なしか疲れているように見える。
「さ、あともう一息頑張ってちょうだい。リビングまで運ぶわよ」
そう言って指をクイッと動かすアリス。それに反応して人形たちは再びそれぞれの背丈に合った荷物を抱えだす。その様子を見たアリスも食材の詰まった紙袋を胸に人形を操演する。随分と器用なものだが、この程度彼女からしたらお茶の子さいさいである。
「……あら?」
ふと、彼女は異変に気付いた。玄関から点々と続く小さな足跡、開かれたリビング、そして足跡の辿り着く先――寝室のドアが半開きになっている。几帳面な彼女は外出時には必ず戸締りを済ませているはずだ。いや、意外とうっかりした一面もあるのでそうでもないのだが、アリスは自身をそう考えていた。
不審に思ったアリスは人形たちを先に行かせて荷物をそっと下ろす。そして蓬莱人形だけを伴い、ギィ、と小さな音を立てながら扉を開けて中の様子を覗き込んだ。
「……んん?」
一見、普段と変わらない様相を見せる寝室。だが、明らかな違和感があった。ベッドの上に投げ出された小さな肢体――いったい誰だ。部屋へと入って闖入者を見下ろす。そこには、お人形さんのような少女は安らかな顔ですやり、すやりと寝息を立てていた。そんな彼女を目の当たりにして困惑していたのは他ならぬアリスだった。
「お、女の子? でも、どこの子かしら。里でも見たこともないし、それに」
アリスはそこで言葉を切る。――なんてひどい恰好、と皆までは言わなかった。いくつもの擦り傷や切り傷が白い肌を無残にも走る。首には何かで強く縊られたような痣が痛ましく刻まれている。
加えて、この辺りで透き通るような金の髪も珍しい。いや、妖怪ならまだしも人間で金髪と言うのは、閉鎖されたこの幻想郷では稀有な存在であった。
「とは言え、このまま放って置くわけにはいかないか……ねぇ、あなた。起きて頂戴。ほら」
「んぅ、んん。むにゅ」
触れれば折れそうな肩をそっと揺すっては起こそうとするアリス。少女の瞼はそれに答えるように、だがもっと寝たげに震える。ぐずる幼子のように起きる気配はない。そのままアリスが何度か揺すっては頬をペチペチと叩いていると、ようやく少女の瞳が重たい瞼の中から顔をのぞかせた。パチパチと瞬かれる眼。彼女からすれば、目の前には知らない女性が――
「―― !?」
始めはきょとんとしていた少女の目が恐怖に見開かれる。声にならない悲鳴。慌てて飛び起き、ベッドの上を這いずるのようにしてアリスから距離を取る。その表情には、怯えの色が見て取れるほど滲みだされていた。
「ちょ、ちょっと。どうしたのよ」
が、少女の反応に誰よりも困っていたのはこの家の持ち主、アリスだ。いきなりこんな態度を取られるいわれもない。
とは言え、こんな深い森の奥を歩いてきたことは見ただけで分かる。怯えるのも無理はない。アリスはそんな少女へ手を伸ばすが
「Fass mich nicht an !」
その手は少女によって勢いよく払いのけられた。何が何だかさっぱりだ。アリスの困惑はより深まる。苛立ちさえ感じる。第一、何と言った?
「な、何のよ、もう。……はぁ、言葉が通じないんじゃ埒が明かないわ。蓬莱、ちょっとこの子お願い」
目を瞑り、ぶるぶると震える少女。いくら何でもこのままコミュニケーションが取れないのでは手に余る。その場に蓬莱人形を残したアリスは部屋を後にする。アリスの命令を受けた蓬莱人形は怯える少女に向き直った。
「(……こびとさん?)」
すると、蓬莱人形の姿を目にした少女の瞳から微かに恐怖が落ちた。そろり、そろり。恐る恐るその小さな手が蓬莱人形へと伸ばされていき――
『嘘……うそ、ウソ! 少女は泣き叫びました。でも、いくら口にしたところで、心に上書きしようとしたところで、何も変わりませんでした。ただ、目の前で気まずそうに顔を伏せる姉を除いて――』
「おまたせー……って、蓬莱?」
「ホ、ホラーイ?」
急いで部屋に戻ってきたアリスは拍子抜けしたような顔をしていた。先ほどまであれほど拒絶反応を示していた少女がシーツではなく蓬莱人形を胸に抱いて何かを話しかけている。尤も、蓬莱人形の方は多分に困惑している様子だが。
「……(そう言えば昔、私もパンデモニウムでこんな風に人形遊びをしたてっけ)」
記憶がフラッシュバックする。先ほどは「何だ、このおかしな子は」と思っていたが、妙な親近感を覚えていた。アリスは黙ってベッドのそばまで近づいて膝を曲げる。少女と同じ目線になるように。
「ッ!」
アリスが戻ってきたことに気付いた少女。自分の世界から再び身を固くしてしまう。凝り固まった警戒心、怯え――そこに、彼女にとって聞きなれた、そして流暢な言葉が流れ込んできた。
「あーあー、私はアリス。アリス・マーガトロイドよ。私の言ってること、分かるかしら?」
驚いたように目をぱちくりと開いてこくりと頷く少女。どうやら成功したらしい。アリスはほっとしたように笑みを浮かべる。
「そう、よかった(まさかパチュリーと作った翻訳丹がこんな形で役立つなんてね)」
アリスはそれを専ら紅魔館で借りた他言語で書かれた魔法書を読み解く際に多用していた。尤も、この幻想郷で会話のために使うとは、夢にも思っていなかったが。
「じゃあ、まずは――あなたの名前、教えてもらえるかしら?」
一つずつ、ゆっくりと質問をしていく。せっかく落ち着いたのだ。怖がらせてはいけない。
「リーネ……リーネ・シュネーベル、です」
おずおずと言葉を返す少女。アリスも一層笑みを深める。
「そう、きれいなお名前ね」
「あ、ありがとう。……あの、ここはどこ? こびとさんたちのおうちじゃないの?」
「(小人? 昔神社にいたアレじゃないわよね)えーと、ごめんなさい。この辺りに小人さんはいないわ。ここは私の家なの」
「そう、なんだ」
シュンとうなだれる少女。アリスはベッドへと腰を移して少女の泥が絡む頭を撫でてやる。少しだけ近づいた距離。少女もピクリと身を動かしはしたが、そこにはもう拒絶の壁はない。
「そうね……積もる話はあると思うけど、女の子が汚れたままじゃだめよね。お風呂沸かしたげる。まずは一緒に汗を流してさっぱりしましょ。ね?」
アリスの言葉にコクリと頷く少女。その紅葉のように小さな手を取ってアリスは彼女を立ち上がらせた。
『おかしいとは思っていたのです。少女は姉たちに比べるとあまりにひ弱で、大した魔力さえ持ち合わせていませんでした。それもそのはずです。なにせ、少女は魔界に紛れ込んだ「人間の子ども」だったのですから』
「えーと、これじゃない……これでもない。うーん、どこやったのかしら」
ぽい、ぽいとタンスから服が引っ張られては放り出され、また引っ張り出されては――その繰り返しが小さな山を作っていく。それを人形たちは困ったように折りたたんでいく。その中心にいたのはアリスだった。
「これもちがう、これも……あった!」
やっと探し当てた一組の服。それを取り出したアリスは振り返る。そこには、彼女のぶかぶかなピンク色をしたパジャマの上だけを直に着込んでいる風呂上がりのリーネがいた。水を弾く金糸より透き通った髪が肩まで垂れている、整った目鼻かたち、黒檀のような深い瞳に雪のように白い肌――体中の汚れはすっかり洗い流され、可愛らしい少女に大変わりしていた。
アリスは鼻歌交じりに服を当てて楽しんでいる。少女は、はにかむように小さな笑みを浮かべてそんなアリスを見ていた。
「うん、サイズもぴったり。ごめんなさいね、あなたに合う服は今これしか持ってないのよ。今度里に行ったとき新しい生地を買ってきてあげるから今はこれで我慢してちょうだい」
「あ、ありがとう」
言葉を交わしながらアリスは手にした服をリーネへと着せていく。てきぱきとパジャマを脱がし、着せ替え人形でもいじるような手慣れた手つき。生まれたままの姿からアリス色へ――白いブラウス、水色のスカートと腰に結ばれた大きなリボン、そして仕上げに風呂からあがって見違えるような輝きを放つブロンズの髪へ青いリボンの付いたカチューシャを一つ付ける。
「うん、これでよしっと」
そこにいたのは、服装だけならまさに魔界にいたころのアリスそっくり少女の姿だった。違いを挙げるとすれば、碧眼のアリスと違って深くどこまでも澄んだ漆黒の瞳、くせっけのない肩までのストレートと切り揃えられた前髪、そして洗っても落ちることのない――首回りにくっきりと残る赤黒い痣だけだった。
「ん~、グット! やっぱり女の子はかわいく着飾らなくっちゃ。さ、そろそろお昼も出来上がる頃だし、一緒に食べましょう。あなたもおなかペコペコでしょう?」
お昼、と聞いて少女の腹の虫が控えめに鳴る。少し頬を赤らめるリーネにアリスはいたずらっぽく微笑んでいた。
「えっと……アリスさん、いつの間につくってくれたの?」
「この子たちに作ってもらったのよ」
一緒に風呂に入っていたはずのアリスに疑問を投げかけるリーネ。そんな彼女をリビングに連れ出しながら、アリスは悪戯気な笑みを浮かべて答えていた。片手で彼女の手を引きながら空いた手でリビングのドアを開け放つ。
「うわぁ……!」
そのドアの向こう、彼女たちの目の前にはカタコトと配膳をしてせわしなく人形たちが動く光景が広がっていた。そのまるで童話の中から出てきたような光景に少女の顔がぱぁっと輝く。
「お人形さんが……アリスさん、すごい!」
「ふふ、ありがとう。私みたいな魔法使いさんにはこんなこと朝飯前なの」
「まほう、つかい……?」
その言葉に引っ掛かりを覚えたのか、リーネの顔に暗い影が差す。だが、得意げに話すアリスはその変化に気付く由もなかった。
「そうよ。便利で楽しそうでしょ? さ、席について」
「う、うん……」
二人がテーブルにつく頃には料理の皿が小ぢんまりとしたテーブルに所狭しと並べられていた。
焼きたてのふっくらとしたパン、里で取れたての牛乳から作り上げた濃厚なマーガリン、パリッパリにこんがりと焼かれたベーコンに今にも溶けてしまいそうなスクランブルエッグ、甘い濃厚な匂いの漂うコーンポタージュにシャキシャキの野菜サラダと魔界秘伝のドレッシング――
その鼻腔をくすぐるような香りがまた少女の顔を明るくさせる。
「いただきまーす!」
「はい、召し上がれ」
森の魔法使いと迷子の少女は食器を手に取る。
どれだけの間ろくに食べていなかったのだろう。目の前の料理に幸せそうな笑顔で「おいしい、おいしい!」と舌鼓を打つリーネ。自分の分に手を付けるアリスも時折、彼女の口元を拭いてやる。昔、自身が母や姉たちにしてもらったように。
『そう、少女は魔界人ではありませんでした。大好きな母とも、優しく接してくれる姉たちとも血の繋がりが無かったのです。末の娘として毎日可愛がられてきた少女でしたが、それをよく思わない双子がいました』
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様」
指をくい、くいと動かして人形たちに皿を片付けさせていくアリス。食事を終え、二人して一息ついたところだった。その後もアリスはソファに並んで腰かけ、彼女の気を紛らわせようと雑談をしていく。少しずつ増えていく笑い。そのやり取りの中にはこんなものもあった。
「あの、その……アリスさんは、まじょなんだよね?」
「うん? そうよ」
「わたし、まじょが怖いの」
「……どうして?」
突然の言葉。アリスは努めて平静に聞き返す。
「だって、わたしは何もしてないのに、母様によろこで欲しかっただけなのに、なんかいも、なんかいも――こわいの」
「……」
話している間にも震えるその小さな体。アリスはそっと抱き寄せる。その背中に手を回し、瘧を抑えるようにやさしく撫でながら。
「だからわたし、分からなくて。どうしてアリスさんもまじょなのに、わたしによくしてくれるの?」
アリスは自分の体からリーネを離し、その目を真っ正面から見つめる。そして、言い聞かせるように、柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「いい?リーネ。あなたたち人間にも良い人と悪い人がいるでしょう?」
「……うん」
まるで寺子屋の生徒にでも教え諭すように、ゆっくりとリーネへと、一つずつ言葉を紡いでいく。
「それと同じよ、リーネ。魔女にも良い魔女と悪い魔女がいるわ。もちろん、私は『良い魔女』よ」
少女を安心させるために『良い』を強調してやる。自分で言うのもこそばゆかったが、良い魔女であるとは密かに自覚していた。多分、周囲からもそう思われているはずだ。
「そうなの? ……ううん、アリスさんはとてもやさしい人。だから、わたし信じる」
「いい子ね、ありがとう。それにね、ここ『幻想郷』には私の他にも良い魔女がちゃんといるのよ。人間だけどキノコばかり取っては借りた物をロクに返さない泥棒もいたし、年がら年中図書館に閉じこもって読書する不健康なもやし娘もいるわ」
「え、えっと、それって……いい人たち、なの?」
「へ? ま、まぁ、そうね(言われてみれば確かに……)」
「……」
「で、でも根はいい人たちよ。なんたって、私の大切なお友達だもの」
脳裏に二人の顔を思い浮かべながら取り繕うアリス。友達と言ってもいいだろう、多分。それだけの付き合いはしてきたはずだ。
「おともだち?」
「そ、そうよ。お友達」
「……いいなぁ。わたし、ずっとお城にいたからおともだちがいないの。それにお城から追い出された後、森で小人さん達に助けてもらったけれど、あの人たちはおともだちじゃなかったもの」
どこから来たのか一向に分からないこの少女。だが、アリスの気に止まる一言が出てきた。
「お城って、あなた……」
「……?」
「いえ、何でもないわ。それより――あら?」
アリスはそこで言葉を切った。どうやら、いい思い出ではなさそうだ。それに、少女の目がいつのまにかとろんとしていた。
「うんとね、ごはん食べたら、なんだか眠くなっちゃった……ふぁあぁぁ」
大きなあくびを一つ。白いつぼみと赤いポケットが広げられる。アリスはそんな彼女の口元に手を当てて、自らの膝をポンと叩いた。
「眠くなっちゃったのね。じゃ、ここで寝てもいいわよ」
「うん。ありがと、アリスさ――」
ポスンと頭をアリスの膝に落とす。小さな重み。すぐに静かな寝息が立つ。アリスは彼女の頭を撫でながら先ほどまでの話を思い返していた。
「(魔法使い、お城、それと『おともだち』……か)」
幼少期のパンデモニウムで過ごした日々。魔界神である母と近しい姉たちとだけ過ごした毎日。それはとても満たされたものであったが、それは母子、そして姉妹の温もりであった。決して友人のそれではない。時折城下町へと遊びに繰り出してはいた。が、魔界神随一の寵児であったアリスにもまた、心から対等に接してくれる友人はできなかった。それでも大好きだった母、そして姉たちから注がれる愛情が嬉しくもあり、そして重圧にも感じられていた。そう、あの日までは。
霊夢と魔理沙――あの二人に完膚なきまでに叩き伏せられた日。それを境に、アリスの世界は大きく変わった。
二人に負けたのがどうしても悔しくて、悔しくて、悔しくて。一冊の魔導書を片手にパンデモニウムから抜け出したあの夜。家出同然で幻想郷へとやってくるも再び伸せられてしまった。が、逆にその日からアリスはこの幻想郷に魅せられ、ここ魔法の森へと住むようになったのだ。
それからの日々は語るまでもない。春の異変での再会、二人で蓬莱人に挑んだ永夜の一刻、そして、そして――
「だいじょうぶ、大丈夫だからね(この子もきっとそんな出会いができるはずよ。だって、ここは……そういう場所だから)」
気付かぬうちにアリスは語りかけていた。少女を優しくさすりながら。安心させるように。アリスは自分の指に髪を絡ませながらリーネの寝顔を見て微笑んでいた。私に妹がいたらこんな感じだったんだろうな、と。
「ん、んうぅ」
リーネの体が苦しそうに捩られる。まつ毛が震えている。何かうなされている?嫌な夢でも見ているのだろうか。
「ごめんなさい、母様。もうわたし、わるいことしません。母様にきらわれないようにします。だから、だから――」
「リーネ……?」
少女は泣いていた。悲痛な声を漏らし、嗚咽混ざりに彼女はうなされていた。涙がまつ毛から零れて止まない。そして、彼女の寝言も止まらなかった。
「だから、もう……コ ロ サ ナ イ デ」
『マイとユキ。二人の姉は少女が来る日まで上の姉たちから愛情を全て注がれていました。しかし、少女が来てからはそうはいきません。時には「あたらしい妹」のことが疎ましく、そして憎らしくもありました。そんなある日――』
2311年10月23日 昼下がり
「――ふーん。それで、あの子を引き取ったって訳かしら?」
ベランダの花壇に視線をやりながら向かいのアリスにそう話しかけるのはパチュリー・ノーレッジ。カチャ、と音を立てて紅茶に口をつける。
彼女の視線の先には、アリス宅の花壇で花々を愛でるリーネの姿があった。その傍には蓬莱人形が彼女を護るかのように浮遊している。今日は天気も良く、鬱屈と樹々の茂る魔法の森にも光が十二分に差し込んでいるので心なしか暖かい。
初日のぎこちなさもどこへやら、この家に馴染んだ様子のリーネ。彼女がアリスの家に迷い込んで早くも二週間以上の時が流れていた。今ではすっかりアリスに懐いている。
そしてパチュリーは、と言うと。彼女は小耳に挟んだアリス宅に迷い込んだ小娘とやらを一目見ようと図書館から出てきたのだった。
「引き取った、ってよりは『預かっている』って感じかしら」
アリスもまた庭のリーネへと視線をやりながらそう返す。
「同じじゃない。それで、あの子……えーと、リーネだったかしら。彼女はどこから来たの?」
「外の世界から来たか、はたまた外の世界で忘れられた幻想なのか」
曖昧なアリスの答えにパチュリーは呆れたように溜息をもらす。
「そりゃそうよ。幻想郷に迷い込んでいるってことは、その二つくらいしか可能性がないじゃない。外から来たのならさっさと神社にでも行って御払いでもしてもらったら?」
「御払いは違うんじゃない?」
「どっちでもいいわよ。……あぁ、でも今の巫女にそんな力はないか。私以上に病弱だそうね、彼女」
「……えぇ、まぁそうね」
パチュリーの言う通りだった。博麗霊夢の代から三百年近く経ったいま。博麗の巫女は何度となく代替わりを経て、そして弱体化していった。今の博麗の巫女も博麗大結界を維持するので手一杯。逆に妖怪側が異変を自重するよう協定を締結するなど変な状況に陥っていた。
パチュリーは続ける。皮肉と悲哀の入り混じった笑みを浮かべて。
「あの狐も大変よね。いつの間にか主は雲隠れ、今となっては妖怪の賢者筆頭として人間とのパワーバランスに神経をすり減らす毎日。そんでもって巫女になる資質のある人材も枯渇しているんだもの。流石に同情するわ」
そう、何も当代の博麗の巫女が無能なのではない。逆に博麗の巫女に成り得る最良の人物ですらあった。だが、長い長い時と共にこの地は水面下で着実に崩壊の危機を迎えていた。博麗大結界の限界、即ち幻想郷の消滅という――
やれやれ、といった口調のパチュリー。何か諦めているようにも見える。対するアリスは何かを考え込むようしていたが、ややあって口を開いた。
「でも、案外そうでもないかも。あの子、珠夢(しゅむ)なら……」
「誰よ、それ」
聞き覚えのない名前だ。その呟かれた言葉にパチュリーは眉根をひそめる。
「次期博麗の巫女、といったところかしら。まだ十歳で今は守矢神社で修行しているんだけど、結構有望株よ。少なくとも今の巫女よりはものを持っているはずだわ」
「ふーん、だといいんだけど……っと、話が逸れたわね」
話を振った割には興味なさそうな口調のパチュリー。彼女もまた、現在の「博麗の巫女」に興味を持てない一人なのだろう。
「もしリーネが外から来たのなら、その珠夢って娘が巫女になるまではお預けかしら?」
その問いかけにアリスはかぶりを振る。
「いえ、その必要はないわ。実はもう分かってるのよ。あの子の正体は」
「そうなの? なら勿体ぶらずに教えなさいよ」
むっとした表情になるパチュリー。分かってるならさっきの時点で答えろ、と言いたげだ。アリスはそんな彼女に苦笑いを浮かべている。
「多分、なんだけどね。……あの子は『白雪姫』。つまり、ここに来るべくして来た存在なのよ」
「っ! 何ですって?」
ようやくパチュリーの視線がアリスへと引き戻される。一方でアリスはどこを見ているのか分からない視線を宙に向けている。ただ、言葉だけを流しながら。
「母の祈りによって天から与えられたかのような容貌、そして当の母親からの嫉妬から来る虐待。果ては生まれの城を追い出され、森で死ぬ所を狩人の情けで辛うじて生き延びたそうよ。みんな話してくれたわ。そしてやっとの思いで辿り着いた小人の家。リーネが私の家と勘違いしていたのはきっとそのせいね。でも、あの子が生きているのを知った母親は三度もあの子を殺したみたい。一度目は絞殺、二度目は毒の櫛、そして三度目は――」
「毒林檎、ね。確かにまんま『白雪姫』だわ」
合点がいった、とばかりにパチュリーは首を縦に振る。が、アリスは横に振っていた。彼女の方が納得がいかない、とでも言いたげに。
「待って。まだ続きがあるの。三度目にしてとうとう蘇ることの出来なくなったあの子は、某国の王子に引き取られ、ふとしたきっかけで蘇生したそうよ。そこで何があったかは話してくれないんだけど、きっと怖い思いをしたのね。命からがら城から逃げ出したらしいわ」
「間違いないわ。あの子は『白雪姫』。本に名前はなかったけど、本名はリーネ・シュネーベルだったってわけね」
「そうなるんでしょうね」
「そうなら外へ帰す必要はないわ。このまま幻想郷で生きるのが、あの子のためだもの」
得心のいった表情のパチュリーとは逆に、語り手であるアリスの表情はまだ曇っていた。
「それはそうなんだけど、ちょっと引っかかるのよ」
「何が?」
「私が魔界にいたとき、母から『白雪姫』は何度も読んでもらったから話の筋は覚えているわ。でも、私の知っているそれとは話が大分違うのよ。ほら、第一リーネはあんなに幼いのよ? 挿絵の白雪姫はもっと大人びていたはずだわ。それに、虐待の主が実の母親で狂ったように三回も自分の娘を殺すだなんて――」
「残念だけど、あの子の話が真実よ」
アリスの言葉をパチュリーが遮る。余りにも悲惨な少女の過去。それが現実だと突き付けられ、アリスの顔が固まった。パチュリーは続ける。
「アリス、あなたが知っているのは改訂された後のお話し。子ども向けに手直しされたものよ」
「えっと、どういうこと?」
「内容が子供向けじゃないからすぐに内容が変更されたのよ。尤も、本当の話を知っていたとしてもあなたのお母様がその話をしたとは思えないけどね。本当の『白雪姫』、つまり真のグリム童話はあなたの話した通りの筋書きなのよ」
「それじゃあ……」
「そう。実の母に恨まれ、何度となく殺されて。挙句の果てには、ロリコン王子に引き取られた七歳の哀れな少女――それがあの子よ」
「ひどい。そんなの、母親なんかじゃないわ。許せない……!」
伏せられた顔、組まれた両の手。体を震わし、悲痛な声に静かな怒りが込められた言葉。家族に恵まれてきたアリスだからこそ受ける衝撃も大きかった。
逆に、レミリアに拾われるまで一人で暮らしてきたパチュリーにはアリスのそれが理解できなかった。彼女は目を伏せるアリスを表情も変えずに注視していた。が、ややあって溜息と共に彼女へ言い聞かせるように口を開いた。
「アリス、あなたがあの子にどんな同情をかけようと勝手よ。でもね、同情したところであの子の過去は変わらないわ。大切なのはいま。あの子にあなたが出来ることを考えてやった方がいいんじゃないかしら?」
「私に、できること……」
「アリスさーん!」
唐突にガチャリ、と玄関の扉が開かれる。そのまま小走りで部屋に入ってきたのは頬も土で汚したリーネだった。アリスに作ってもらったのか、ピンクの生地に花柄のスカートとブラウスを着こんでいる。そして、あの日貰った青いリボンが頭の上で揺らいでいた。背中に何か隠し持っているのだろうか、両手を背に回している。その顔はアリスを見てニタニタしていた。
「リーネ? お外はもういいの?」
「うん。それでね、あのね……」
そう問いかけても、もじもじと、そして顔には隠し切れない笑いがこぼれている。これは何か企んでいそうだ。そう思う間もなく――
「はい、アリスさん。これあげる!」
にこっと笑って彼女は両手をアリスへと差し出してきた。そこには小さな花冠がひしと握りしめられていた。同じくらい小さな手。土が爪の間に入り込んでいるが、それがまた無邪気さを感じさせる。
「え、と……これは?」
「うんとね、お庭のおはなでつくったの。その……アリスさんに、似合いそうだったから」
過去を感じさせない、否、過去の闇を自身で包み込んで見えなくさせようとする健気さ。子どもと言うものは大人よりも強い力を持っているのかもしれない。
だが、そんな理屈抜きにアリスは彼女のプレゼントが嬉しかった。アリスは自分の手を伸ばすと、リーネの小さな手の上から包み込むようにして握りしめ、そして心から自然に溢れる言葉をカタチにした。
「ありがとう、リーネ。大事にするわ」
「うん!」
アリスから貰った感謝の言葉に満面の笑みを浮かべるリーネ。そんな二人の様子を横目にパチュリーの顔も心なしか緩んでいるように見えた。
「さ、外から帰ったら手を洗いなさい。そしたらお姉ちゃんたちとお茶でもしましょう」
「はーい」
「爪の中もしっかり洗いなさいよー」
「わかってるー……」
洗面所へと走るリーネの声が小さくなりながら薄れていく。その後を追う蓬莱人形。パチュリーはその小さな背が消えるとアリスに含みのある視線を向け、小声でささやいた。
「似合っているじゃない。アリス『ママ』?」
「もう、よしてよね」
彼女のからかいに少し頬を赤らめるアリス。これは面白そうだ、もっとイジってやろうか。パチュリーの顔に黒い笑みが浮かぶ。だがその直後、彼女の顔に緊張が走った。
「……っ!」
「パチュリー?どうしたの?」
当然、その変化にアリスは顔を覗き込んでくる。パチュリーの顔は強張ったままだ。いや、目を瞑り、何かを探るのに精神を集中させているようにも見える。
「アリス、あの子を狙ってる連中が……すぐそばまで来ているわ」
「何ですって……?」
言っている意味が分からない。リーネを狙う者? 彼女は幻想郷に来たばかりだ。その存在も一部の知己の間にしか広まっていないはずだ。当然、彼女らが危害を加えるはずもない。となると?
「どうやら、招かれざる者たちまで受け入れてしまったようね、この幻想郷は」
受け入れる――その言葉の意味は明白だ。アリスはようやく飲み込めた。その答えを、口にすることで。
「まさか……あの子の母親が?」
「そうでしょうね。そう考えるのが自然だわ。三度目があったのなら、四度目だって」
単純に娘を引き取りに来たと考える方が困難だ。とは言え、生みの親であることもまた事実。アリスに迫られる選択肢は二つだった。大人しく生みの親にリーネを返すか、それとも妖怪らしく突っぱねるか――
「それでどうするつもり? 大人しく母親に引き渡す?」
「いえ、あの子は私が引き取るわ。自分の子を殺そうとする親なんかに、誰があの子を渡すものですか」
即答だった。アリスが選んだのは後者だった。この二週間、たった二週間だが、アリスは常にあの少女に愛情を注いできた。そして、リーネもそれに応えてくれた。二人の間柄は既に実母とのそれを超えている――その確信が、アリスの決意を促した。
この先、人を一人育て上げるのにどんな困難が待っていようとも。それでも、この子を今ここで引き渡すわけにはいかない、と。
「分かったわ。私はここであの子の面倒を見ておいてあげる。だから、行きなさい」
「パチュリー。ありがとう」
静かに頷き返すアリス。そこに
「アリスさん! ちゃんとおてて洗ってきたよ!」
水を指先から滴らせながらリーネが無邪気に入ってきた。彼女だけが自分の周囲で起きている出来事を知らなかった。アリスは「えらいわね」とそんなリーネの頭を撫でながら心に決めていた。必ずこの笑顔を守り抜くと。二度とここに来た時のような恐怖に震える彼女には戻すまい、と。
『そしてある日、ほんの些細な諍いから一人の姉が勢いで言ってしまったのです。「アリスなんか、私たちのほんとの妹じゃない!」、と――』
「……(じ~)」
アリスが出て行った後。リビングでは一人本をペラ、ペラとめくるパチュリーの姿があった。そして、そんな彼女にせがむような視線を投げ続けるリーネの姿も。
パチュリーはアリス宅の周囲に結界を張り、ちょっとやそっとの衝撃では被害が出ないようにしていた。そして、窓の外には虚構の景色を投影させることでリーネに外のそれをみせまい、と配慮もした。後はアリス次第だ。
一方、リーネはアリスの覚悟を知る由もなく、お茶の時間は後回し、残ったパチュリーにも相手にしてもらえず……と、どこかつまらなそうに脚をぷらぷらとさせていた。子守を買って出たはずのパチュリーもチラ、チラ、と本から目を離して彼女の様子を伺っている。子供のせがむような視線には不思議な力がある。断れば何か大きな過ちを犯してしまったと錯覚するような何かが。
それは時に魔女をも動かす。時間を空けずにパチュリーが音を上げた。わざとらしく大きな溜息を吐きながら本を閉じる。
「……仕方ないわね。何か読んであげるからそこらへんの絵本でも何でも持ってきなさい」
「っ! うんっ」
先に折れたパチュリーにリーネの顔がぱぁっと明るくなる。そして、すぐにとてとてと本棚から一冊の本を取って戻ってきた。
「あのね、この本ね、どうしてもアリスさんは読んでくれないの。だからお姉ちゃんよんで」
差し出されたのはボロボロになった淡い水色の装丁が施された一冊の薄い本だった。拙い手での製本の所為もあってか、綴じ糸も解れてボロボロだ。その題箋には『パンデモニックプラネット』と掠れた文字が見える。
「(アリスが読みたがらない本、ね。面白いじゃない) いいわよ。えーと、なになに……『むかしむかし、と言うほど昔でもないある日。お城にいた少女は「ある真実」を知ってしまいました。それは、少女が母親だと思っていた女性が本当の母ではない、ということでした――」
魔法の森の奥。
ひっそりと建つアリスの家を茂みから覗くように、頭から足の先まですっぽりと覆う黒いフードを被った女がいた。手には先に宝玉を埋め込んだ樫の杖を持っている。隠されたフードの下では爪を噛み、恨みをこめた目で睨めつけながら家の様子を窺っていた。
「やっと見つけた。まだこんなところで生きてたなんて、忌々しい。今度こそ――」
「こんなところで悪かったわね」
「っ!?」
女が振り返ると、そこには、臨戦態勢を取る人形たちを従えたもう一人の魔法使いが立っていた。魔導書を手に、二体の人形を従える彼女が。相手の心を射抜くような視線を向けて。
「いかにも怪しげなその恰好、こっちは物語の通りの魔女ね。あなたが、リーネの母親なんでしょ?」
「なぜその名前を……そうか、さてはお前が」
「ええ、そうよ。あの子は私が預かっているわ」
「……それは御苦労様でした。でも、こうして母親がやってきたのです。私の娘を返してもらいましょうか」
預かっている、その一言で魔女は慇懃無礼に頭を下げた。猫なで声、ぞわっとする。フードの下に浮かぶ真意は窺えない。その言葉も演技臭い。アリスは一切、警戒を緩めなかった。
「返して、どうするのかしら?」
「どうって、私はあの子の母親で――」
思ってもいなかった返事に口ごもる魔女。大方、母と名乗ればすぐに手渡すとでも思っていたのだろう。だが、アリスはそんな彼女にどこか据わった、鋭い視線を投げかけていた。侮蔑と怒りを含んだそれを。相手はそんな彼女の態度に苛立ちを隠せない様子だ。芝居染みた化けの皮が剥がれていく。
「あ……あなたが知ったことではなくてよ?」
「また殺すんでしょう? 今度はどんな残酷な方法を取るのかしら?」
「……」
否定は無し。押し黙る女。魔女ではなく、人の母として少しでも期待を込めていた自分が馬鹿だった。アリスの中で確信が生まれる。この母親は同じ過ちを繰り返しにここへ来たのだ、と。ギリッと噛みしめられた歯が音を立てる。
「やっぱりそうだったのね。そんなことさせない、みすみすあの子を殺させはしないわ。あなたのような母親、誰もお呼びじゃないのよ」
「何を小娘がきいた風な口を……人の家庭に口出しするのは感心できないわねぇ。王妃の名に命ずる、速やかにあの娘を明け渡しなさい」
「残念、ここはあなたの国じゃないわ。それに、そこまでして返してほしいのなら……」
アリスの指がくい、くい、と動く。どこからか現れた七体の人形がその動きに合わせて体勢を整えていく。余裕のある、都会派魔法使いらしい笑みを浮かべて。
「力尽くでやってみなさいよ。七人の小人に代わって、私があの子を守って見せるわ」
『うすうす分かっていたこと。でも、それが言葉にされるととても辛いモノでした。それが自分は好きだと思っていた姉から言われたのだからなおさらです。少女は泣いて泣いて、泣きました。ですが、ながれた涙は真っ白だったキャンパスを濡らして滲ませても、元の色には戻してくれませんでした』
「上海、蓬莱! 行くわよっ」
アリスの音声に反応して二体の人形が駆動する。長い年月を費やして遂に漕ぎ着けた半自律プログラム。内部にある『ココロ』がアリスの命令から自分たちの取るべき行動パターンを検索、最善の動きを計算・実行する。
蓬莱人形は前に出て盾を構え、その後ろから上海人形が球状の弾幕をばら撒く。盾に隠れてどの方向に放たれたか分からない弾は眼前の魔女へと殺到していった。
一方、魔女はその場から微動だにせず、手にした杖をトン、と地面に付き立てた。一瞬にしてブゥン、と音を立てて魔法陣が広がり、その体が青白い半球体のバリヤーが覆われる。
「……やるわね」
障壁に触れた途端、上海の弾幕が爆ぜていく。その内側にいる彼女は無傷だった。アリスは軽く舌を打つ。次の手を頭で練りながら。
「だったら、こうよ!」
アリスの指先が糸でも紡ぐようにススッと流れる。すると仏蘭西が、和蘭が、露西亜、倫敦、京人形たちが手に手にランスや剣を構えて魔女を覆うバリヤー目掛けて突撃を仕掛けた。突き立てられた切っ先、盾と矛の削り合い。金属の先端はバチバチと激しい音を立て、行く手を阻む障壁に食い込んでいく。それを援護するように上海人形と蓬莱人形の弾幕も途切れることなく撃ち込まれていく。あと一息、もう少しでこの壁を壊すことができる――
「あぉ、うっとうしいわね!」
その寸前だった。苛立ち、そして物憂げな手つきで魔女が横薙ぎに手を振るう。すると、障壁はゴムのよう弾性を持って内側から外へと跳ね返った。その弾力に吹き飛ばされる人形たち。仲間への跳弾を避けるために上海と蓬莱も攻撃の手を止める。思っていたよりも守りは固い。その防御結界の精度に舌を巻く一方、アリスは次の手を講じていく。が、その顔には早くも焦りの色がにじみ出ており、余裕の色がなくなっていた、
「少し舐めていたわ……でも、『試練』としては足りないくらいね」
「何ごちゃごちゃ言ってるのかしら? あなたのお人形さんでは私を攻撃できないみたいよ。ほっほっほっ」
先の威勢を失ったアリスに高笑いを上げる魔女。障壁を解除し、今度は自らが攻撃の手を加えるべく一歩を踏み出す。そして、アリスも笑っていた。口端を軽く吊り上げて。引っ掛かった――そんな笑みを。
「なにも、攻撃するだけが脳じゃないわ」
踏み出されたはずの一歩。だが、彼女はその場から動くことはなかった、否、動けなかった。体が何かでピンと張っているかのように動かすことができない。
「な、なによ、これ……!」
「弾幕勝負は頭脳プレー。私を侮って結界を解いたのが間違いだったわね」
自由の封じられた魔女の両脇にある二つの小さな影。先の攻撃を免れていた上海と蓬莱だ。その手から伸ばされた目に見えないほど極細の糸が、魔女の両手両足を絡めとっていた。もがけばもがくほど肌に食い込んでいく魔法の拘束具で。
「くっ、ほどけない……!」
彼女がいくら身を捩ったところでそこから抜け出すことは適わない。たかが人形の二体とは言え、その術者の魔力が高ければこの程度の芸当も容易なものだった。憎しみを込めた目で魔女がアリスを睨みつける。アリスはパキッと足元の枝を折りながら彼女へと近付いていた。相手との間に、絶対的な差を感じながら。
「身動きの取れなくなったあなたに勝ち目はない。これでお終いね。分かったら、あの子を諦めてさっさとここから――」
「く、ふふ、くふふふ」
「何がおかしいのかしら?」
観念するかと思いきや唐突に笑いだす魔女。アリスの眉が顰められる。だが、相手は嗤うだけで何も答えようとはしない。パキッと音がする。アリスは動いていない。
「誰が諦めるものか。あの麗しい娘は、俺の大切なコレクションだ」
知らない男の声。後ろに誰か、いる――アリスの瞳が大きく広がった。
『すべてを知ってしまった少女は部屋に閉じこもりました。一番上のおねえさんが扉を叩きます。何かを話します。でも、それはうまくおなかの中におちてくれませんでした。ごはんなんか食べたくない、誰ともいたくない、話したくもない。一人でいると、さまざまな想いが胸をよぎります。終いにはこんな思いに至りました「わたしがいると誰かが傷ついてしまう。わたしはいらない子なんだ。そうだ、ここを出よう。私は、ここにいちゃいけないんだ」――と』
「――ッ!!?」
振り返ろうとしたその時、アリスの脳天に鈍器が叩きつけられた。パックリと割れた肌。血が額を、鼻の筋を流れて一本の川をつくる。その元凶――どこからか現れた短い銀髪を逆立てる男は、膝を突いてドサッと倒れるアリスをその場に、つかつかと魔女の方へ歩を進める。装飾に富んだ異国風の軍服。彼もまた「異郷」の者なのか。
突然の襲撃者、主の危機。小さな影が動いた。
「シ、シャンハーイ!」
半ば自律人形にしていたのが仇となった。アリスの危機にプログラミングのコアとなっている人格が本能のままに動いてしまったのだ。上海はいてもたってもいられず、何もかも放り出して俯せのアリスの傍へと飛んでいく。
「ホ、ホラーイッ!?」
おかげで魔女を拘束する力の均衡は崩壊してしまった。縛り上げていた糸だけでなく、そこに通わされていた魔力も半減。そして、それを男の剣で断ち切ることは容易なことだった。
「ふんっ」
あっけなく断ち切られた封魔の結界。せめてもの抵抗か、蓬莱の放ったレーザー光線も男の剣の腹に受け止められる。火花を上げて遮られた攻撃、それもすぐに跳ね除けられてしまう。男の舌打ちと共に。
「邪魔だ」
感情もにじませない冷徹な声。蓬莱の胴体へ叩き込まれる柄の先端。そこに埋め込まれた宝石がミシッと嫌な音を立てて人形の腹に食い込まれる。弾き飛ばされた蓬莱は樹に激突して地面に崩れ落ちた。そのエプロンに、アリスの血を滲ませて。
「シャ、シャンハーイ……」
自らの行動からくる失態に呆然となる上海。だがすぐにアリスを揺り起こそうと懸命に呼びかけを続けた。
「う、く……だ、大丈夫よ」
腕を、膝を震わせて立ち上がるアリス。不意打ちによる傷は浅くないが、まだ戦うことはできそうだ。そんなアリスの傍に泥まみれになった蓬莱人形も合流する。二体に続いてほかの人形たちもアリスの指遣いで壁になるかの如く彼女の前に集まる。
「完全に油断していたわ。パチュリーは『連中』って言ってたのに……始めから敵は二人だったのね」
状況は逆転した。己の迂闊さに苦々しく呟くアリスに闖入者はつまらなそうに鼻を鳴らす。親指で拘束から解放された魔女をさしながら。
「そういうことだ。俺はこいつの隣国の王子。折角、森の小人から手に入れたコレクションが逃げ出したから追いかけてきたってわけだ。あの娘の所有権は俺にあるんだ。返してくれ」
男の放った一言。アリスの眉間が深まる。許せない一言。この男はあの子を、リーネを何だと言った?――痛みも忘れるような強い怒りに震える視線を向けて。
「あの子が、コレクション? ……ふざけたこと言ってんじゃないわよ。第一、リーネを狙っているのなら、何でその女の味方をするのよ。そいつはあの子を殺したがって――」
「分かってないな。それでいいんだよ。それで」
アリスの疑問に首を振る王子とやら。アリスはその答えに絶句していた。
「なんですって……?」
「俺が欲しいのはリーネとかいう娘じゃない、その骸だ。逆に生きていられちゃまずいんだよ」
「……っ!」
あんまりな物言いに言葉も返せない。男は自分に酔っているのか、自分語りを続ける。
「俺は生きている女に興味はないんだ。お前、永遠の美とは何だと思う? 俺に言わせれば、それは若い娘の死体さ。その『鮮度』を保つには……分かるだろう? お前の人形と同じように、年も取れず、面倒な意思を持たせなければいいのさ」
ふざけたことを。そんな外道な趣味を自分と同列で語るな――その言葉に、アリスは腹の底から湧き上がってきた言葉を吐き捨てた。
「最低……!」
「何とでも言え。芸術というのはいつの時代も凡人には理解できぬものだからな」
「誰が、あんたなんかにあの子を……うっ」
額から鼻を伝って流れる一筋の川。足元がふらつく。痛みは忘れていても体は正直だ。思っていた以上に出血が多い。脳震盪も起こしている。おぼつかない足取りで気に手を突いて何とか立っているアリス。彼女を嗤いながら魔女も肩をすくめていた。
「ま、私もその性癖はどうかと思うけど。……ただ、あの子が死ねば私は十分。私があの子を殺し」
「俺がその躰を貰い受ける――そのために俺たちは手を組んだのさ」
ふらふらになったアリスへと詰め寄る二人。その前に立ちはだかる上海や蓬莱ら。だが、戦いは意外な形で進捗を迎えようとしていた。伏せられたアリスの顔、陰に隠れて見えないその目。胸元に抱かれた魔導書へと伸ばされていく手。そこに握られた小さな鍵――その口からぽつりと声が零れていた。
「……さない」
そのただならぬ雰囲気に二人はピタリと足を止める。
「何か言ったか?」
「あんたたちの御蔭で、どれだけあの子が傷付いたと思っているのよ……」
「ふん、知ったことか」
また一歩が踏み出される。それと同時に、ガバッとアリスの顔が持ち上げられた、クワッと目が見開かれた。
「私は、あんた達を絶対に許さない! 消炭となって、地獄へ堕ちなさい!!」
カチャリ。永きに渡る封印が今、音を立てて解かれた。左手の上で踊る魔導書。ひとりでにパラパラ捲れていくページ。各ページから色鮮やかな光が浮かび上がり、アリスの周囲を飛び交っていく。火、水、闇、土、風、そして光。六色の美しい色合いと反し、そこに濃縮される魔力は悍ましい。
「解き放て、魔界神の力!…… 究極魔法、グリモワール・オブ・アリス!!!」
力を引き出す呪詛――その呪詛の言葉と共に六属性の魔法の光に加えてアリスの生命の光が一つに混ざり合っていく。そして、アリスの右手に幾何学的魔法陣が現れ、眩い光が解き放たれた。世界を創り、そして破壊する力。限界以上に彼女の力をも引き出す人知を遥かに超えた加護――
片手では制御が利かない。両腕で魔法陣を支えるもそれでも手に余る熱量。虹の輝きを持つそれは、魔女の張った結界を薄皮でも剥ぐかのようにあっさりと地面ごと抉り、紙切れのように王子を吹き飛ばした。
『翌朝、少女を待っていたのは、いたい、とてもいたいビンタでした。つー、枯れたはずの涙が頬を伝います。あの人も泣いていました、ボロボロと。「アリスちゃんが誰の子だなんて関係ない。あなたは私の娘。だから、だから……そんなこと言わないで」と――』
「いけないっ」
その衝撃の余波はアリス宅にも降りかかっていた。読み聞かせをしている場合ではない。テーブルに放り出される本。普段の彼女からは予想もできない勢いで立ち上がったパチュリーの右腕にポウッと紫の光が灯る。アリスの制御を離れた膨大な魔力の渦は射線上に無いこの家までも呑み込もうとしている。それにいち早く気付いたパチュリーは特殊結界に力を込めていた。流石に大賢者の張った結界はそうそう破られはしないがそれでも、ビリビリと空気が震えていのが分かる。
「くっ!(なんて力……本当にアリスなの?)」
「きゃっ」
その揺れに怯えるリーネをとっさに空いた左腕で抱き寄せる。
同じ魔法使いとして驚愕を通り越して呆然とするパチュリー、魔法を感知できない人間からすればまさに地震のようなものである。それだけに、どれだけのエネルギーが放出されていたか――察するに余る。しばらくして、ようやくその揺れは止んだ。リーネもつっけんどんにパチュリーから体を離され、再びソファーにお尻を下ろす。
再び部屋に訪れた静寂。しかし、リーネの口がもごもごと動いている。彼女は、本人の意識しないまま何かに取り憑かれたかのように呟いていた。
「……んで」
「え?」
やっと聞き取れるか、程度の大きさ。パチュリーが彼女に目を遣ると、さっきの怯えた様子もどこへやら。リーネは虚空を見るような、ここに魂は無い――そんな目をパチュリー向けていた。彼女はとにかく先が知りたかった。この『少女』の物語、その結末を。
「お願い。つづきを、よんで」
「……」
それに対するパチュリーの答えは無言。彼女は再び本を手に取り、ページを捲った。
『悲痛な、ほんとうにつらそうな母の声。それを聞いて、少女は声を上げて泣きました。大好きな、ママの胸で。。ですが、ポロポロと止まない涙。でも、昨晩の悲しみによるもの、そして頬に残る熱からくるものとは違いました。それは――』
「はぁ、はぁ……」
膝に手を当て、肩を上下させるアリス。息切れがひどい。久しぶりに感情を爆発させたことで加減が利かなかった。暴走した自身の力が招いた結果。眼前の惨状が、それを如実に物語っていた。
アリスを中心に円を描くように派手に抉られた大地、黒焦げになって歪む森の木だったもの、周囲をチロチロと舐める蛇のように這う炎――それを引き起こしたのは他でもない、アリスだった。
「これを、わたしが……?」
激昂して魔導書に手を伸ばしたところまでは覚えている。
その本の名は『Grimoire of Alice』――母親である神綺の力が封じ込められた魔界の至宝。その使用者は、最低限の魔力を消費するだけで魔界神の力の一端を発動できるという禁書レベルの代物だ。そして、そこから引き出せる力は所有者――アリスの秘める真の魔力に比例する。だからこその結果であった。
「……た、大した小娘だ」
視界の大部分が焼け野原。その一角で岩にしがみ付くようにして一つの影がゆらりと起き上がった。某国の王子である。悪運が強いのか、ボロボロになった軍服の襟を正しながら一歩ずつゆっくりと近寄ってくる。焦げて黒ずんだ髪は乱れ、左目は閉じられ、更には足がびっこを引いていた。
「あなた、まだ……」
呆然としている場合ではない。キッと睨みつけたアリスは警戒するように人形たちを前面に展開する。魔力の消耗は軽微だ。激昂しての息切れも既に収まっている。このまま止めを
「初めはあの小娘の身体のみ欲しかったが、気が変わった。お前の怒りに凛と震えるその姿――実に美しい」
その思いを遮るような突然の丁寧な態度、そして物言いになる王子。――何かがおかしい。アリスは神経を更に前面に向けた。
「……何が言いたいのよ」
「お前も私のコレクションに入ることを認めよう。そして、あの娘と二人並べて飾り立てよう。……あぁ、想像しただけで胸が高鳴る。なんて美しい、この世に二つとない至高の芸術品だ!!」
両手を天に上げ、歓喜に打ち震える狂人。返ってきたのは余計にアリスの神経を逆撫でるものだった。蛞蝓でも這いずりまわるような感覚が全身にブワッと広がる。保っていた冷静さが再び怒りに塗りたくられていく。吐き出された言葉の様に。
「反吐が出るくらい気持ち悪い男ね。そんなボロボロになってもまだ私を殺せるとでも?」
「あぁ、気の強い所もまたいい。……そうだ。そんな『貴女』に免じて一つ、忠告をあげよう」
挑発するように人差し指を立てる王子。エスカレートする口ぶり。アリスの怒りのボルテージはマックスに達していた。そして、それに冷や水を浴びせたのは――他ならぬ彼だった。
「君は冷静なように見えて、どうも気が昂ると周囲が見えなくなるらしいな」
背後に何か気配を感じる。向けられる殺意。そう、相手は王子だけではなかったはず
「しまっ――」
皆まで言い切らない内にアリスの腕に何かが掠った。反射的に体を逸らしたものの薄っすらと血が滲んでいる。プクッと浮かび上がる朱の滴。怒りに任せてすっかり戦力と警戒心を偏らせ過ぎた。そのお陰で視界外からの一撃に対する反応に後れを取ってしまった。そう、この王子が現れた時の様に。全く同じ過ちを。
アリスに一矢報いたのは、焼け爛れたフードの下から醜い顔をのぞかせた魔女――かつては国一番の美しさを誇っていた元王妃だった。今は落ちくぼんだ眼に、皺だらけの顔から突き出された高い鼻を覗かせる醜い女。その手には小奇麗な装飾の施された櫛が握りしめられている。
彼女は、紙一重の差で避けたアリスではなく王子に向かって不満をぶちまけていた。
「全く、この御喋りめ! あと少しで確実に仕留めていたものを」
「いやはや、これは失礼。だが、俺の大切なコレクションには傷をつけられては困るのだよ」
「ふん、まあいい。小娘もこれでじきに動けなくなるわ。ふぇっふぇっ」
アリスへと向き直る魔女と王子。あれ、言葉が半分も頭に入ってこない。体もだるい。何かが、おかしい――このままではまずい。アリスは更に二人から距離を取ろうとする。だが、足が動かない。それどころか、たちまちガクリと膝をついてしまった。指先も震え、制御を失った人形たちがボトボトと地に落ちていく。その様子を見て二人はせせら嗤っていた。これは一体――
「どうだい? あの子を一度死に至らしめた毒仕込みの櫛は。ん?」
「ま、さ……か」
「ふふ、惨めだねぇ」
「シャンハーイ!」「ホラーイ!」
身動きの取れなくなったの指揮を離れ、二体の人形が襲い掛かる。
「おっと、危ない危ない」
上海の放つ大玉弾幕、蓬莱の放ったレーザーに飛びのく魔女と王子。そしてアリスとの間に盾として、矛として入り込んだ。大切なアリスを傷つけた、二人の人間に敵意を込めて。
幸いにも、腕に掠らせた程度だったお陰で即死は免れたが、毒が全身に回ればいかにアリスでもハンデどころの話ではなくなる。毒への耐性がある魔法使いの体とは言え、劇薬ともなれば時間の問題だ。
「はぁ……はぁ(……万事休す、ね)」
「――互いに頬を腫れ上がらせた三人は仲直りをしました。二人の姉は仲直りの印として、魔力の弱い少女の為に二つの人形をくれました』」
「……」
リーネは一つの物語を聞き入っていた。その心はもうここにはない。そんな彼女を視界の隅に入れながらパチュリーもただただ忠実に文字の列を追っていく。
「『それからしばらくして、少女は再びパンデモニウムを出ることを決意しました。魔界に攻めてきた外の巫女や魔法使いたちに仕返しがしたかったのです。母に知られたら必ず止められてしまうでしょう。なので白を抜け出した少女はマイとユキ、一番仲の良かった二人の姉にだけ別れを告げてやってきたのです。ここ、幻想郷へと――さて、これからどのような出会いが少女を待ち受けているのでしょうか。それはまた、別のお話』…………おしまい」
パタンと本が閉じられる。ついせがまれるまま、自分の興味の赴くままに読了してしまった。図らずしも、本人には無断で『少女』の過去を知ってしまったのだ。その言葉にできない気まずさを紛らわそうと、パチュリーは顔を窓に向ける。偽りの空へと。話が終わっても感想さえ漏らさず、ほぅっと本の世界に入り込んでいたリーネもまた彼女に倣う。
外は相変わらずの青空、そして鬱蒼と生い茂る森の木々が広がっている。尤も、それは結界の中から見ただけの虚構に過ぎないが。
ここから外で起きていることを見ることは適わない。だが、すぐ目と鼻の先では、焼け野原でアリスが身を削って戦っているはずだった――この小さな少女のために。
「(これはアリスの戦い。そこに私がしゃしゃり出るのも筋違い。ここは子守の続きをするしかないわね)ほら、他に読んで欲しいのがあったら適当に持ってきなさい……リーネ?」
先ほどまで読んでいた薄い本をテーブルの端に寄せ、他の本を促すパチュリー。しかし、相手からの反応は無い。彼女の視線は、やさしい嘘で塗りたくられた外へと向けられたままだった。
「……」
そう、リーネはただ外を見ていた。何の変哲もない、窓から見えるいつも通りの景色。それを、じっと見つめていた。
「ッ! ……あなた、もしかして」
「……」
「見えてる、の?」
「…………」
返事は無かった。だがそれは一つの答えを示していた。リーネの黒真珠のような瞳――そこには、二人の男女に囲まれて地面に這いつくばるアリスの姿が映っていたのだから。
「うっ、く……」
ゴロゴロとアリスの身体が地を転がっていく。あれから恨みつらなる彼女に魔女は容赦がなかった。体の自由が奪われていくアリスを足蹴にしては嬲りものにしていたのだ。ようやく飽きたのか、彼女は肩で息をしながら興奮の余韻に浸っている。一方で、男は岩の上に座り込んでそれを退屈そうに肘をついて眺めていた。
「なぁ、もういいだろ? その辺にしておけよ。俺のコレクションなんだから」
「うるさいわねぇ! まずは私があの子を殺してからよ! あんたはその後で好きになさい!!」
アリスに背を向け、言い争いをしている二人。所詮、利害の一致ではこの程度の繋がりなのだろう。二人は互いにぎゃんぎゃんと言葉で攻撃しあう。その背後で起きている異変になど、気付くこともないまま。
「あー、へいへい。生きてるオンナてやつは怖いねえ。面倒くせぇ。さっさと殺っちまうぞ……って、あ? お、おい」
「そんな……っ」
二人はようやく気付いた。その視線は地面へと向けられている。すっかり毒が回って自分の意志では身動きの取れなくなったはずのアリスを。
だが、その動かないはずの指先。それはぐっと土をにぎりしめていた。背中も微かに震えている。自分の体を起き上がらせようと、力を込めて。
「そうよ、私は決めたのよ……」
毒は全身に回っている。体は動かないはずだ。それでもなお立ち上がろうとするアリス。二人は目の前の出来事が信じられない。何が彼女をそうまで駆り立てるのか、何が彼女の精神と気力をここまで奮い立たせているのか――それは、二人が死ぬまで考えても理解することのできないものだった。
「こ、こいつ。まだ」
「あの子の笑顔を守るって、幸せにするって……大切なのは、いま。私は今、あの子のために、できることをするだけよ……!」
脚をがくがく震わしながら立ち上がったアリス。ふらつく肉体、全身から溢れ迸る魔力。それは風となって二人の身体に吹きかかり、何かに弾かれたかのように仰け反らせた。
「なにっ……!」
アリスは自分の手をギュッ、ギュッと握りしめ、一つ頷く。そして、自分のそばを飛ぶ「二人」を呼び掛けた。
「まだいける。……ユキ!」
「シャンハーイ!」
「マイ!」
「ホウラーイ!」
真名を呼ばれた人形たちから比べものにならない力が溢れる。アリスの指先から魔力の糸がその小さな指先へと移っていく。途端に、地に伏していた人形たちの目に「生気」が宿った。
「あなた達の力、借りるわよ。人形たちを指揮して、あの男をぶちのめしなさい!」
「シャンハーイ!」「ホラーイ!」
上海蓬莱の指揮の下に集結、陣形を整えた七体の人形。その向き合う先にいるのは――王子だ。
「人形だとぉ? 俺をコケにするんじゃねえ!」
王子は剣を抜く。人形たちは巧みにその斬撃を縫って躱していく。ある者はその小さな武器を交錯させ、またある者はその隙に魔力の糸を絡ませていく。
「ぐっ、こいつら……! ちょこまかと……くっそぉ!!」
男は四方八方へと剣を振り回す。しかし、それが一度でもあたることは無い。一本では駄目でもそれが幾重にも合わされば話は別だ。たちまち小さな人形たちは大の大人一人を完全に拘束していった。
一方、人形たちが奮闘している間。アリスはボロボロの体を押して魔女と対峙していた。
「さぁ、あなたの相手は私よ」
「どうしてよ。毒が回ってお前はもう動けないはずなのに……私の毒は完璧なはずなのに! なぜ、なぜあの子といい、お前といい……どいつもこいつも私のために死んでくれないのよぉ!!」
涙をこぼし、天を仰ぐ。森に木霊するその叫び。発狂したように髪を掻き毟っては振り回す彼女に、アリスは憐れむような眼差しを投げかけていた。
「……守るべきものがあるから、かしらね」
「そんな戯言を!!」
「あなたには分からないの? 母親のくせに。誰よりも守らなくちゃいけないものがあるはずなのに……あなたにリーネを引き取る資格なんてない。私はあの子の保護者として、『娘』に仇為す存在を許すわけにいかないのよ」
アリスは震える脚を一歩ずつ、一歩ずつ魔女へ近づいていく。魔女は満身創痍のアリスが近付くたびにじりじりと下がっていく。まるで、なにかを恐れるように。少しでも触れれば倒れてしまいそうな人形遣いを前にしても、だ。
「とどめをさす前にもう一度だけ聞いておくわ。二度とあの子に近寄らない、そう誓うのなら実の母親ということに免じてこのまま見逃してあげる」
最後通牒を叩きつけられた格好だ。しかし、魔女の視線はアリスを貫いて、いやその背後へと向けられていた。口元に歪んだ笑みが浮かび上がる。
「く、くふふ……」
「何がおかしいのかしら」
「いつまでも学習しない小娘が。人形遣いのくせして七体の人形全てを手放すからよ。後ろを見なさい!」
首を取った、とでも言わんばかりにアリスの背後を指さす魔女。だが、アリスは振り向かない。鋭く尖った切っ先を向けた剣がアリスの背を貫かんと迫る。人形たちに雁字搦めにされた男が最後のあがきに得物を投擲したものだ。
それでもアリスは魔女から目を離さない。憐れみと嘲笑と、そして清々しさとを混ぜた笑みを浮かべて。そして口にする。実の母親に対する、勝利の宣告を。
「残念。私の人形は、七体だけじゃないのよ?」
皆まで言い終わらぬうちにアリスの腰につけたポーチから紅白と白黒の影が飛び出した。『彼女ら』はアリスの前後に散る。手に手に一枚の小さな札を持って。信じられないものを見るように二人の目が見開かれる。が、アリスはその手を止めなかった。
「さぁ、覚悟はいいわね。幻想の瞬きに呑まれなさい――」
―― 夢 想 封 印
――マスタースパーク
眩い光は剣を瞬時に溶かしてそのまま王子を貫き、そして虹色の弾幕が醜い魔女の体と歪んだ心を撃ち抜いた。
どさりと倒れ込む二つの影。それに背を向けてアリスは帰っていった。自分の『娘』の待つ家へと――。
『数々の出会いを経て少女は大人となりました。そして新しい生命を、愛しい娘を授かることができました。ここからアリスの新たな人生が始まります。初めての子育ては上手くいくでしょうか? 不安もありますが、それ以上に楽しみです――二巻に続く(追記)』
その夜、森の中を歩く二人の姿があった。まともに歩くこともままならず、焼け爛れた木に手を伝わせながら。
「く、くそ。あの魔法使いめ。危うく死ぬところだった」
そう、あの二人は生き延びていた。魔女も恨みに目を怒らして呪詛の言葉をブツブツと呟いている。
「私はまだ諦めないわ。あの娘が生きている限り私は、私は世界一の美しさを――ぐぇ」
「あ?おい、どうした?」
突然カエルの潰れたような声を出してどさりと倒れ込む魔女。突然の異変に男が目を凝らす。薄暗い、月明かりを頼りに。そして、彼は見た。
「だ、誰だ?……おまえ」
「…………」
ものすごい殺意が浴びせられる。歯の根が合わさらない、気を抜かなくても膝が折れそうだ。怖い、こわい、コワイ――こいつは、ダレダ?
突如目の前に現れた影が何かを振り上げた。天を突くように満月を両断する鈍色の一筋、否、煌く魔剣――その切っ先が、男へと下ろされようとしている。
「っ! や、やめろ! やめて。ひっ――ぎゃあぁぁぁぁ……!!」
男の命乞いも空しく、その一閃は王子の身体を華麗に斬り裂いていた。どさり、人だったものが崩れ落ちる。生気を失った、重い肉の塊が。
夜の闇を裂いて現れたその人物の興味は彼にはない。後ろで一つにまとめた髪、鮮血の跳ね返りもない白く、丈の長い上着――チャキッと刃を上に向け、その腹を指でツツとなぞる。未だ鮮血の滴る、その玉鋼を。
「……これが、妖刀の力か」
その言葉に応えるかのようにボウッと怪しく光る闇の刃。持ち主も嗤いかける、濃いサングラスの奥に狂気の色を宿して。刀もまた、『彼女』に何かを伝えたいのか一際輝きを増す。
「打ち直して尚この切れ味。……あぁ、いいさ。好きなだけ血を吸え。この力を使いこなせれば、あいつを超えることだって。く、くくっ、く……はぁーはっはっ、はーっ――」
愉快そうに顔を押さえ、足をダン、ダンと踏み鳴らす。その怪人物は二人の骸を見ることもなく高笑いを上げていた。何処までも続く夜の闇の中に溶けていきながら――。
2312年4月13日
「~♪、~~~♪」
鼻歌のリズムに合わせてクツクツ、と鍋の中で煮込まれるスープ。オニオンたっぷりのその芳香は、二階ですやりすやりと春眠に浸る少女を起こすには十分だった。
しばらくしてトン、トンとゆっくり音を立てながら一人の少女が階段を降りてきた。白いパジャマ姿の彼女の傍には宙で寝癖を整えようと忙しなく動き回る蓬莱人形が付き従っている。
「Guten m――おはヨうゴザいます、ママ」
片言の日本語で話しかける彼女こそアリスの一人娘、リーネ・マーガトロイドのものだった。
「はい、おはよう。今朝は自分で起きられたのね。もうすぐ朝ごはんができるわよ」
エプロン姿のアリスは背を向けたままそう語り掛ける。
「はふ……ふわぁ~」
眠いのか、噛みころせない大きなあくびを一つ。二つの黒い珠もどこかしょぼしょぼしている。目をこすりながらガタッと椅子を引いて座ろうとするリーネ。その音を聞きつけてアリスはお玉を片手に振り返った。
「こら、リーネ。起きたらまずは顔を洗って歯磨きをしなさい、って毎日言ってるでしょう? ほら早く行った、行った。その間にご飯並べといてあげるから」
「は~い、ごメンなさーい」
まだ寝ぼけているのか、蓬莱に頭を小突かれながらおぼつかない足取りで洗面所へと向かうリーネ。その姿を見てアリスは上海と顔を見合わせてやれやれと言いたげに肩を竦めていた。
「全くもう。……子ども一人育てるのって、ほんと手がかかるわね。ふふ」
そんな愚痴めいたことを漏らしながらも、アリスの顔には笑みが広がっていた。そう、遠くにいる母がアリスに浮かべていたような、暖かな笑みを。
To be Next Phantasm……
あと作者が自分で「スルー推奨」なんてかくところならいらないんじゃないですかね?
アリスがなんか弱すぎて違和感がありました
無駄なところに尺を使って必要な部分はないがしろ、書き手の脳内の世界を描いてないから読み手は物語に没入もキャラへの感情移入もできない。デビルマソの撮影でも見てるような気分