後に残るのは簡単な基礎と、散乱する墨屑ばかりである。世は無常、とは仏教徒達の常套句であるが、正に今、マミゾウの脳裏に過るのはその言葉だった。
ナズーリンの人里における拠点・星鼠亭は、その主人である寅丸星によって焼き払われた。寅丸星はナズーリンを命蓮寺から完全に切り捨てたのだ。聖白蓮はそれを止めもしなかった。結果、行く場を失った小鼠は、命蓮寺の商売敵である神霊廟へと流れ着いたらしい。
切り捨てた甲斐あってか、命蓮寺が表立って批判を浴びるような事は無い。今現在、人里にて批判の矢面に立たされているのは、ナズーリンを保護した神霊廟である。だが他人の批判など、皆の胸に食い込んだ罪の楔に比べれば優しいものだろう。仲間を己の利のみのために切り捨てる、それは仏道に在る者たちが求めるものではあるまい。たとえ仏教の教義が、一切の執着を捨てよと教え説くものであっても。
マミゾウは足元の木片を拾い上げてみた。ほとんど炭化しているが、一部に残った文字の跡から分かる。これは星鼠亭の看板だ。思い出されるのは、この看板を作った時の一輪達の姿である。一輪は何故か妙に張り切って大きな筆を調達し、雲山に書かせていた。あの時のナズーリンは少し迷惑そうにしながらも、嬉しそうにはにかんでいた。
その記憶も、今や一握の灰。
「親分さん……」
「小傘か」
炭屑を放り捨てマミゾウが振り返ると、ロッドを抱えた多々良小傘が立ち尽くしていた。
「どうしたんじゃ、その鉄杖は」
「ナズーリンのです。寺子屋からわちきが回収して、もう一度鍛え直したんだけれど……」
どうやら、小傘は知っているらしい。ナズーリンが石を投げられ里から追放された事を。
「親分さん、ナズーリンが何処にいるか、知りませんか?」
「奴なら神霊廟じゃろう」
「そこには行ったんだけれど……」
小傘は浮かない顔をしている。ひょっとしたらナズーリンに避けられているのかもしれない。自分と関わると悪評が立つ……なんて、あの小鼠の考えそうな事である。だがそれは仕方のない事かもしれない。今、里は異常な状態に陥っているからだ。
「それなら、儂が代わりに探しておいてやろう。どれ、鉄杖を預かるぞい」
「ありがとう、親分さん。でもこれは、自分で渡しますから」
ロッドを抱きしめて、小傘はペコリと頭を下げた。その仕草は力無いが、その声には明確な意思が混じっている。
強いな、とマミゾウは思った。大して力を持たぬ付喪神の分際で生意気な、とも。もちろん、それは嫉妬だと理解していた。自分達には、それが出来なかったから。
「わちき、もう少し探してみます。ナズーリンを見掛けたら教えて下さいね」
ロッドを抱えて、小傘はふらふらと歩いて行ってしまった。その足取りを見やると、どうも彼女はあまり調子が良くないようだ。小傘もあの土砂崩れの事件でショックを受けているのだろうし、加えて、彼女は人に近しい付喪神である。人間達の間に蔓延る強い不安と不満に影響を受けているのかもしれなかった。
心配になってしまったマミゾウは、小傘の背に声を掛けようと手を伸ばしかけたが、その耳朶を悪言が打った。
「ハッ、いかにも邪教の信奉者が言いそうな事じゃな!」
マミゾウは溜息を吐いて、伸ばしかけた手を引っ込めてしまった。
目抜き通りの方から高らかに響いて来るのは、このところ聞き慣れたあの女、物部布都の声である。
またか。うんざりしつつも、マミゾウは喧騒の方へと向かった。
目抜き通りに集う野次馬たちの中心に見える。小さな胸を目一杯張ってふんぞり返る物部布都と、もう一人の論客の影。すらりと背の高いそのシルエットは、命蓮寺の本尊である寅丸星だ。
布都は時代がかった大仰な仕草で星を指差し、口を尖らせ弾劾している。
「仲間の妖鼠を切り捨てておいて、よくもそんな台詞が吐けるものじゃ」
「切り捨てるとは人聞きの悪い事をおっしゃる。彼女、ナズーリンは罪を犯し、そして貴女方の元へと走った。ただそれだけでしょう」
「我々は寄る辺なき者に庇を貸してやっておるだけじゃ。それは人として当然の行いじゃろう」
「咎人を導くこともせずに野放しにする。それは正道に悖りましょう。貴女方が保護をしたのなら、貴女方が責任を持って彼女を導くべきです」
「フッ、ついに認めたか? 自分たちの教義の薄っぺらさを、自分たちでは小鼠一匹導く事は出来ぬと!」
「貴女は理を理解せぬ人だ」
「何が理じゃ、実践が伴わねばそんなものは無意味。貴様の言葉は空虚じゃ。まるきり意味を持たぬ」
「その非難、まるきりそちらへお返しいたしましょう」
静かな声に怒気を孕ませ、星は無表情に言う。普段は温和を絵に描いたような女なのだが、意外と激情に狩られやすいタイプなのかもしれない。
周囲の野次馬達の反応は様々で、寅丸星の仲間を切り捨てる態度を批判するものもいれば、死体探偵を保護する物部布都に石を投げる輩もいる……布都はものともせず、逆に石を投げ返しているが。異なる意見の衝突は騒めきと動揺になって、人間の里を揺らしていた。
星と布都の二人はここのところ毎日のように不毛な言い争いを繰り広げている。その無意味な戦いに浪費される時間と労力を思って、マミゾウは頭痛を覚えた。今はもっと他にやるべき事があるはずなのに、と。星の傍らに侍る一輪も嫌悪を露わに顔をしかめている。顔を合わせば罵詈雑言の嵐とは、仏道の風上にもおけぬ。一輪の瞳はそう語っていた。
ナズーリンを切り捨てたことで、命蓮寺内には明らかに不和が広がっている。特に単純一途な一輪などは、表立って星を批判することも多い。村紗はなんだかこそこそと動き回っているようだし、ぬえも不協和音を嫌って人里に降りていることが多い。良くない兆候である。
布都と星の論争はいまだ止む気配を見せないが、マミゾウは心の耳を塞いで聞かないようにした。悪言は棘として刺さり、心がささくれ立つだけだからだ。そのまま人だかりを素通りして歩いた。
里のあちこちでは扇動者達がそれぞれに演説を行っている。死体探偵の新たな悪行をまことしやかに喧伝する者や、妖怪の排斥を主張する者、下らない終末論を語る者、神社への参拝を訴える者までいる……それは山の上の巫女の勧誘活動だが。とにかく、ニ、三十間も歩けば扇動者とその野次馬達にぶち当たるような始末であり、里の生産活動は著しく阻害されていた。
この光景、マミゾウは既視感を覚えていた。これは夏頃、あの心綺楼異変で人々に厭世観が蔓延したときと同じである。あれよりも数段深刻で、数段邪悪だが。
しかも、扇動者達は鼠算式に増えている。どうやら扇動を受けた人間が別の人間の扇動に回ってるようだ。噂話が広まる原理と同じだろう。幾人かの扇動者の後を部下に尾行させてはみたものの、いずれも何の変哲も無い一般人であった。最早、最初に扇動を始めた人間を探すことは極めて困難となってしまっている。恐らくそいつがこの事件の真犯人のはずなのだが。奴めに繋がる蜘蛛の糸は一体何処に垂れ下がっているのか……さしものマミゾウも五里霧中である。
扇動者を追う線が消えかけている今、マミゾウは別の角度から糸を手繰ろうと考えていた。マミゾウにはかねてより引っかかっていた事があるのだ。
あの土砂崩れの事件の日。プリズムリバー三姉妹に加え鳥獣伎楽と九十九姉妹達を加えたあの大規模な演奏会に、出演者である響子を除く命蓮寺の人員が一人も出席していなかった事実である。せめて自分やぬえがあの事件の現場にいれば、もう少し被害を減らせたはずなのに、図ったように命蓮寺勢は欠席した。
欠席せざるを得なかったのだ。
檀家の老婆が急死した為である。
その葬式のために、命蓮寺一同は演奏会に出席することが出来なかった。だがこれは、考えてみるといかにも怪しい。タイミングが完璧すぎるのだ。まるでマミゾウ達を演奏会に出席させないために老婆が死んだかのようである。そして、マミゾウは知っている。奴等……賢者達ならそれをやりかねない事を。現に、演奏会に出資した男は口封じのために殺されていた。
さらにもう一つ。檀家の老婆は一本杉の事件にて、死体探偵に仕事を依頼していたのだ。
その時に射命丸が撮った写真は、巡り巡って、あの事件の犯人が死体探偵であるとする強力な証拠となっている。あの場所に死体探偵がいた、ただそれだけの写真であるはずなのに。一本杉付近が土砂崩れの発生現場である事実と、写真の撮られたタイミングがいけなかった。
だがそれも、ナズーリンを貶めるための計略だったとしたら、筋が通る。
檀家の老婆は賢者達の一員だったのだ。
――何と言っても、敵は人間なんだからな。
ナズーリンの言葉がマミゾウの脳裏をちらつく。
そう。
ナズーリン達三人が予想していたように、既に命蓮寺内部にも奴等の毒が染み込んでいるのだ。
「その家には、もう誰も住んでいませんよ」
町外れにある件の老婆の家の門をくぐろうとしたところで、マミゾウは少女に呼び止められた。
近所に住む子だろうか。総髪に結った黒く長い髪に安物の着物を纏った、何処にでもいそうな少女である。
「ここに独りで住んでいたおばあちゃんが、先日、亡くなってしまって」
「なんと……それは残念じゃな。あの人には昔、世話になったんじゃが……」
言うまでも無いが、嘘である。
煙管を嚙んで悲しむ振りをしながら、マミゾウは何気なく少女に尋ねた。
「家業は誰も継がなかったのかえ?」
「息子さん夫婦は随分前に病気で亡くなってしまったらしくて、しかもお孫さんも先日、度胸試しの事故で……」多少口ごもりながら少女が言う。「腕のいい墨屋さんが一軒失くなっちゃう、これから松煙墨の調達はどうしようかって、稗田家の方が嘆いていましたよ」
老婆の家業は墨屋だったらしい。稗田家と繋がりのある職人と言えば、幻想郷では随一である。
「ふむ……悲しいことじゃな。せめてお別れだけでも言わせてもらおうかの」
「遺品の整理もされたみたいだし、もう中には何も無いと思いますけれど……。お屋敷も来週には取り壊されるんですって」
「こんな立派な屋敷をか」
屋敷はかなり大きく、門構えも立派である。このような屋敷を取り壊すなど、いかにも勿体無いように思えてしまうのだが。
しかし、遅かったようだ。遺品の整理がされたということは、手掛かりが残されている可能性は低い。別の場所を当たったほうがいいのかもしれない。
「……いや、待て。遺品の整理は誰が行なっているんじゃ? 親戚がいるのか?」
マミゾウの問いに、少女は首を捻った。
「さあ? 私もそこまでは。ただ、そこのお屋敷のおばあちゃん、迷いの竹林にある診療所に通っていたらしいんですよ。一人では危ない道でしょうし、もしかしたら実は他にも息子さんが居て、その方に付き添ってもらっていたのかもしれませんね」
別の息子……だが、近所の人間が知らぬ親戚などいるのだろうか。外の世界ならいざ知らず、ここは狭い幻想郷である。どうも考え難い。資産家の孤独な老婆を狙った詐欺の方がしっくり来る。
マミゾウがそう思案していた時、少女がおもむろに口を開いた。
「ねえ、おばさん」
「お、おば……?」
この輝くような美貌とつるつるたまご肌が見えないなんて目ン玉ついてんのかこのガキ! と怒鳴りたいところをぐっとこらえる、大人なマミゾウである。
マミゾウの一瞬の葛藤を知ってか知らずか、少女は無邪気に微笑みながら言う。
「賭けをしません?」
「ああ? 賭けじゃと?」
「この里の混乱を収拾するのは、一体誰か」
突然の事にマミゾウは混乱したが、少女はニコニコ笑みを浮かべる。
「今、里では色々な噂が飛び交っていて。どの噂が正しいのか、賭けが流行ってるんですよ」
「人死で遊ぶとは、いいご身分じゃな」
「そうでもしてなきゃ冷静ではいられないんですよ、この状況」
確かに、そうかもしれない。
「私は思い切って、天狗に賭けちゃいます。天狗には新聞っていう強力な武器がありますからね」
「なんじゃ、博麗の巫女には賭けんのか」
「だって鉄板過ぎるじゃないですか、それ。私、大穴狙いが好きなんです」
朗らかに笑う。その笑みには迷いも後ろめたさも何もない。
「……何を賭ける?」
初対面の相手に賭けをせがむなんて変な奴だ、そう思いながらも、マミゾウは賭けに乗ってやる事にした。何を隠そう、賭け事に目が無いマミゾウであるからして。
少女は右手でマルを作った。
「一文銭」
「しょぼいな」
「お遊戯ですから。貴女は何に賭けますか?」
マミゾウの答えは、決まっている。
「……貴女も大穴狙いが好きなんですね」
少女はさえずるように笑っていた。
「ああ、その老婆なら知っているよ」
次にマミゾウが向かったのは、寺子屋だった。
先の爆発事件で天井に大きく穴の空いた寺子屋には、多くの人足達が詰め掛け、修理を行なっていた。
屋根上に上がってその指揮をとる上白沢慧音を尻目に、マミゾウは藤原妹紅へと話し掛け、老婆の件を尋ねた。妹紅は迷いの竹林の案内をしているからだ。
妹紅は油断ない目で辺りを伺いながら、マミゾウの問に答えた。
「何度かあの診療所に案内した事がある。最近見ないと思ってたけど、そうか、亡くなってしまったのか……」
気配で分かる。話している間にも、妹紅の注意は彼方此方に飛び続けている。どうやらナズーリンは、慧音に貼りつくように妹紅に指示していたようだ。一度、賢者達に命を狙われた慧音である。親友である妹紅が必死になるのも当然かもしれない。
藤原妹紅は、人間にしては非常に高い戦闘能力を持つと云う。噂では大妖怪にも匹敵するらしい。ナズーリンから聞いた話では、慧音に襲いかかった烏天狗の集団を軽く蹴散らしたとも云う。護衛としてはこれ以上無い存在だろう。
「その時に、男が付き添っておらんかったか?」
「ああ、そう言えばいたな。なんだか虚弱そうな奴で、私はてっきり、ばあさんの方が男の付き添いだと思ってたんだが」
「どんな風貌だったんじゃ?」
「うーむ。あんまり思い出せないな。体調悪そうだな、としか」
「診療所に行くような奴はみんなそうじゃろうて」
「そうなんだよなぁ。婆さんの方は割と印象に残ってるんだが……」
妹紅はしきりに首を捻っているが、この様子では期待出来そうに無い。
「永遠亭の医者なら、何か知ってるんじゃないか」
その妹紅の言に従って、マミゾウは八意永琳の元を訪ねた。
「ああ……あのお婆さんね。もちろん、覚えているわよ」
「流石、噂の天才医師じゃな」
「私は医者じゃなくて薬剤師なのだけれど……」
幾分疲れの見える顔で、八意永琳はそう呟いた。診療所の寒々しい空気の中で見る永琳は、普段宴会で見掛ける涼しげな表情とは打って変って、熱を帯びた瞳をしている。
「亡くなったと聞いた時には驚いたわ」
「驚いた? 診療所に通っていたのじゃろう、持病があったのでは?」
「いいえ」永琳は首を振って否定する。「ここへ来ていたのはただの定期健診。年相応の体力の衰えはあれど、あのお婆さんは健康そのものだったわよ。だから私も驚いたの。何か悪い要因が重なってしまったんでしょうね」
「要因、なあ……」
最早マミゾウは、老婆の死を自然死だとは思えない。
殺されたのだ。賢者達に。
「その老婆には付き添いがおったはずじゃが」
「ああ、姫の遊び相手のあの不良娘のこと」
「いや、男じゃ」
「男?」永琳はその整った眉を顰めた。「いいえ、記憶にないわね。彼女は一人で永遠亭に来ていたと思ったけれど」
八意永琳だけでなく、他の兎看護士達に聞いてみても、そもそも老婆を覚えていない者ばかりだった。付き添いの男は顔を見られぬように診療所の外で待機していたのだろうか。あるいは……。
「マミゾウ」
煙管をふかして思案しながら、診療所の中庭をぶらぶらしていた時。病室に繋がる窓の一つから、マミゾウの名を呼ぶ声がした。
近寄ってみると、病室の窓辺に立っていたのは、ボロ布を纏って変装したナズーリンである。どうやら彼女がマミゾウを呼んだらしい。
「こんな所におったのか。おヌシ、何をしておるんじゃ?」
ナズーリンが視線で示す先には、白い包帯でぐるぐる巻きになってベッドに伏す姫海棠はたての姿がある。
「あの時から眠ったままなのか……」
マミゾウは少し意外に思った。確かにあの時、ナズーリンに抱えられていた姫海棠はたては大怪我をしていたようだが、元来、妖怪は頑健である。多少の傷を負ったとしても数日もあれば元通りになってしまうのが常である。それこそが化け物の化け物たる所以でもあるのだが、天下に名だたる鴉天狗が、未だ昏倒したままであるというのは違和感を感じる。
そう言えば、ナズーリンも頭に包帯を巻いたままである。頭からすっぽり被ったボロ布の隙間から、血の滲む包帯が少しはみ出ていた。
「調査をしてくれているのか」
マミゾウがそのことについて疑問を口にするよりも早く、ナズーリンが言葉を発していた。
「ワシとて、奴等のやり方に思うところがあるのでな」
それは人の在り方からも化け物の在り方からも逸脱している。侠たる者、そのような者共をのさばらせておくわけにはいかぬ。マミゾウの矜持である。
「人里の様子はどうだ」
ナズーリンは心なしか遠い目をして。
「より悪い方に向かっておる。扇動者共は相変わらずだし、里人の間では自虐めいた賭け事まで行われている始末じゃ。おまけに宗教家共が諍いを始めている。あの心綺楼異変を数段性質悪くした感じじゃな」
「星に、おそらく物部布都か」
「奴等、顔を合わせばすぐに口論に発展する。まるで子どもの喧嘩じゃよ」
「だろうな。星は融通がきかんからな」
流石、付き合いの長いナズーリンは、寅丸星の奇行としか表現し得ない行いを予想していたようだ。やれやれと溜め息を吐いている。厄介なこの時期にこれまた厄介な火種を増やしてくれる、頑固頭の虎への呆れだろう。それとも、切り捨てられたとは言え元主人である、やはり心配なのだろうか。
「……扇動者共の尾行は?」
「した。結果はお察しの通りじゃがな。貴様も外の世界にいたのなら分かるじゃろう。一度火の手を上げれば後は勝手に燃え上がるものじゃ、憎悪の炎というものはな」
最早、火種の在処を探す事は困難を極めるだろう。
「今は別の視点から調査をしておる。先日、檀家の老婆の葬式があったじゃろう。どうやらあれは他殺だったらしい」
「やはりな。私を土砂崩れの発生現場に誘導するために使い、そして殺されたのだろう」
ナズーリンも予想していたようだ。その顔色を変えるような事は無い。
「今、捜査線上に謎の男が一人上がっている」
「そしてその糸がここで途切れたという訳か」
「……察しの通りじゃ」
マミゾウの顔色と声色を観察して気付いていたのだろう。マミゾウが認める前に、ナズーリンはまたも溜め息を吐いていた。
「なあ、鼠の大将よ。この混迷を抜け出す道、おヌシには見えるかえ?」
「……私は首謀者と思しき者の顔を見ている」
例の、自警団を名乗る男。陰陽玉を盗んだ盗賊の捜索を依頼し、上白沢慧音暗殺未遂事件の際に不穏な動きを見せたという。
だがその男は、里で燃え盛る憎悪の炎の向こう側に隠れ、一向に姿を表さない。
「それだけで本当にそいつを見つけ出せるのか」
マミゾウの問いに、ナズーリンは口をつぐんだ。
探し屋を本業とするナズーリンが未だ奴を見つけられていない。その事実が全てを物語っている。
だが、ナズーリンの口からは諦めの言葉は出なかった。
「私の他にも、六尾狐の眷属が奴を目撃している。それに、手掛かりが全て途絶えた訳ではない。これから重要なのは、奴等の真の目的を探ることだ」
「人間と妖怪の不和を煽るため、ではないのか?」
「それもあるだろう。しかし、奴等が我々を排除しようとしている事も忘れるな」
寅丸星達の話によれば、聖復活の際に奴等、賢者達から妨害を受けたと云う。
奴等は仏教に何らかの執着があるという事なのだろうか。
それとも、他に何らかの目的が? その真の目的こそが、奴等に大量虐殺を引き起こさせる動機になったのだろうか。
その線を繋げる糸は、未だマミゾウには見えぬ。
「今、ルナサと射命丸は『花果子念報』の偽造を追っている」
「偽造……そう言えば、あの日以降も『花果子念報』は発刊されておったな」
「里に溢れる扇動者達の中にも、奴等に繋がる者はいるはず。多くの人間を動かせば、それだけ多くの綻びが出るのだから」
「道理じゃな」
「だから、状況はそう悲観的という訳でもない。奴等が主導権を握る現状は、裏を返せば奴等の動きが顕著であるとも言えるだろう。こちらが付け入る隙も確実に増えるはず。目論見が功を奏している今だからこそ、引く事も出来んだろう。奴等は必ず、次もやる。我々はそれを未然に防ぎ、奴等の尻尾を捉えなければならない。両方やるのは困難だが、不可能ではない筈だ」
その瞳に漆黒の焔を灯しながら、ナズーリンは拳を固めた。
「それに、私なら件の『青いレインコートの妖』を追跡することも可能だ。奴を捕らえて必ず口を割らせる」
その只ならぬ様子に、背筋がぞくりとする。
ナズーリンの目の色が変わっていた。それは、およそ仏道に携わる人間がする瞳ではない。人喰いのそれと同じ光を放っている。
「ナズーリン……」マミゾウは嗜めて言った。「あまり思い詰めるなよ。まずおヌシ自身が冷静でいられなければ、誰が冷静で居られるというのじゃ」
半分は気遣いだったが、残りの半分は怒りだった。ここへ来て只の妖鼠に戻られては堪らない。彼女にはまだまだ仕事があるのだから。
ナズーリンは答えなかった。瞳の色は変わることは無い。昏い光を帯びたまま、視線を隠すように顔を背けた。
「ナズーリン」
病室の中に力なく佇む小鼠の姿は、檻の中で焼かれる囚人のようにも見えた。
伸ばした手は窓枠に遮られて届かぬ。化け物の身の上でありながらも、人を超えた力を持ちながらも、我が手の平のなんと小さき事よ。
マミゾウの嘆きなど知らん顔で、天道は赤く燃えている。赫奕たる太陽は地を這いずり回るちっぽけな獣共の事など一顧だにしない。知らん顔で慈悲を与え、知らん顔で焼き尽くす。
だがそんな事。マミゾウだって、とうの昔に気付いている。
「……ナズーリンよ。小傘がおヌシを探しておったぞ」
「ああ、小傘か……。すまないが私の居場所は伏せておいてくれないか」
「なんでも、おヌシの鉄杖を直したとかで、フラフラと里を彷徨っておったわい」
「……待て」
ナズーリンは眉をひそめた。その瞳に光が戻った。
「まさか、私のロッドを持っていたのか?」
「そうじゃ」
「馬鹿な。私との関与を疑われれば、彼女にも累が及ぶぞ。何故止めなかった」
マミゾウは煙管を咥え、ニヤリと意地悪く笑った。
「マミゾウ……!」
抗議の瞳もそこそこに、ナズーリンは稲妻の如く病室を飛び出して行った。
「……その程度。小傘が覚悟しておらんとでも思うのか?」
紫煙とともに吐き出した言葉は、小鼠の背には届くまい。戦っているのは、何も奴だけでは無いのだ。
マミゾウも自らの戦いを続けるべく、煙管の火を消して中庭を後にした。
しかし、これからどうしたものか。
マミゾウはアゴに手をやって考える。
例の老婆の件の手掛かりは、他に無いものか……。
「あっと」
永遠亭の廊下にて、男とすれ違いざまに肩をぶつけてしまった。男は手に持っていた薬袋の束を床に落としてしまい、慌ててそれを拾っていた。
「すまん。ちょっと考え事をしていてな」
マミゾウも拾うのを手伝おうとしゃがみ込むと、男がペコリと頭を下げた。
「これはどうも。すみません。……おや? 貴女は先日の」
「む?」
男の顔を見やると、見覚えのある顔である。抗鬱薬の宣伝をしていた、あの顔色の悪い男だ。
「なんじゃい、またおヌシか」
「はあ。ご縁がありますね」
「おヌシの方からぶつかって来たんじゃないのかえ? 儂を口説こうとして」
からかって言うと、男は頭を掻いて笑った。
「いやいや、美人の前では緊張してしまう性分なので、とてもとても」
「ほ。口達者な奴じゃの」
苦笑しつつも、さきほど娘っ子におばさん呼ばわりされてしまったので、ちょっぴりうれしいマミゾウである。
床に散らばった薬袋を拾い上げると、例の抗鬱薬である。粉末状の薬剤が入った小さな包み紙がいくつか解け、床に散乱していた。マミゾウは近くの棚から箒と塵取を見つけて、散乱した薬剤を処理した。
屑籠に薬剤を捨てる時、男は勿体無いと言ったが、マミゾウは無視して放り込んだ。
「おヌシ。あまりこういう薬の力に頼るのは良くないぞい」
精神疾患に対する治療薬として必要だと頭では分かっていても、この手の薬に対する偏見が根強いマミゾウである。脳神経に作用する薬は、使い方を間違えれば麻薬と変わらない。昔々、佐渡で侠客をやっていた頃にはいろいろと法に触れるようなシノギにも手を出したものだが、麻薬には絶対に手を出さなかった。
「男なら気合でなんとかせんかい」
「はあ。でも、効果は抜群なんですよ。お陰で夜も眠れるようになったし……」
「その割にすごいクマじゃぞ」
この顔色の悪さでは説得力が全く無い。
「いやあ。最近、新聞に不安になるような事がたくさん書いてあってですね……」
だったら見なけりゃいいだろうにとマミゾウは思うのだが。
「ホラ、これなんて見て下さいよ」男は小脇に抱えた新聞をマミゾウに見せつけてきた。「死体探偵がまた人を殺したって。なんでも、若い男を絶望させて自殺を助長したとかで。ああ……不安だなあ」
「どうせデマじゃろ、デマ」
「でも、写真も撮られてるんですよ、ほら」
射命丸の奴、また余計な事を……とマミゾウは思ったが、男の持っていた新聞は姫海棠はたての『花果子念報』だった。
写真には確かに死体探偵姿のナズーリンが写っていたが、その姿はどこか見覚えがある。つまりこれは偽造だ。というか、そのような分析をするまでもない。この新聞の発行主は未だ昏倒中なのだから。
「あまりこの手の新聞を鵜呑みにせんほうがいいと思うがな。……む?」
新聞を眺めていたマミゾウは、何処と無く違和感を覚えた。
偽造された『花果子念報』の紙面自体は、普段とそう変わらない。古いネタばかりを掻き集めている点もよく真似られている。
しかし、全体の印象が少し異なって見える。
眼鏡を上げて顔を近づけ、よくよく紙面を覗き込んでみると、気付いた。
紙面に印字された文字が、少し青みがかっている。
「これは……」
マミゾウの頭の中で、交差する一本の糸が繋がる。
「……すまん。ちょっとこいつ、借りるぞい」
「え、ちょっと」
呆然とする男から新聞をひったくって、マミゾウは急ぎ里へ舞い戻った。
青みがかった色合いを持つ墨、青墨。
正確には松煙墨と呼ばれる種類の墨である。煤の粒子の大きさによって色に幅を出している墨だ。その幅の具合によっては、強く青みを帯びた色合いを出すことも可能であると言う。
あの少女が言っていた。老婆の家は、松煙墨を生産していると。
里随一の財力を持つ稗田の者が調達に困ると云うことは、この幻想郷で松煙墨を生産している者は他にいないのだろう。つまり、この偽造された『花果子念報』は老婆の家で作られた墨を印刷に用いている可能性が高い。しかもその老婆は、奴等と関わりがあった。
これが、奴等めに繋がる蜘蛛の糸か。
息を弾ませ、里はずれの老婆の屋敷前に舞い戻ると、先程の少女は既に姿を消していた。きっと家に戻ったのだろう。丁度人目も無い。マミゾウは木造の門を蹴破り、正面から堂々と老婆の家に押し入った。
屋敷の外観は未だ小奇麗に保たれていた。遺品が整理されたと言っても、屋敷のガラス材や板材までも剥ぎ取られた訳ではないらしい。しかしそれももうすぐという事なのだろう。
マミゾウは感覚器官を全開にして、辺りを窺った。
屋敷内に人の気配は感じられない。
全身に力を漲らせて警戒しながら、庭を大股で横切り、まっすぐに離れの倉庫へと向かった。青墨を貯蔵しているとしたら、あそこだ。
倉庫には大きな南京錠がかかっていたが、それは強い力でねじ切られていた。
倉庫中にも気配は無い。だが何故か、マミゾウは確信していた。何者かが倉庫内にいる。……そして、そいつは相当な手練である。これほど完璧に気配を消せるのだから。
マミゾウは息を呑み、火を付けたままの煙管を咥えた。
ゆっくりと倉庫の扉を押し開く。
途端、龍脳の強い香りが鼻を突く。倉庫内には出荷前の箱詰めされた青墨が整然と並べられている。ざっと見た限り、一財産はありそうな量である。
その中央。
雑然と置かれた紙束の山の陰に、無骨な造りの木製机がポツリと置いてあるのが見える。机の上には様々な薬品瓶、刷毛やバレンなどの木版画材、顔料などが所狭しと並べられており、さながら小さな工房である。その一角、写真束に紛れて無造作に転がる木版には、見覚えがあった。まさに今、マミゾウが握りしめている『花果子念報』の記事そのものだ。
既に下手人は姿をくらましてしまったようだが、これは決定的な証拠である。此処で。この場所で『花果子念報』が偽造されていたのだ。賢者達によって。
マミゾウは木版を手に取ろうと、手を伸ばした。
瞬間、振り返ったマミゾウは、背後に向かって煙管の煙を吹きかけた。
煙幕を切り裂いて飛来する一閃。強烈な突きを煙管で受け流したマミゾウは、一歩下がって距離を取る。
「おヌシは……!」
紫煙の中から姿を現したのは、場違いなほどに目出度い色合いをした少女。
幻想郷の調停者たる博麗の巫女、博麗霊夢である。
その華奢な肢体は半透明に透けて、窓から差し込む光の帯と溶け合っているようにも見えた。マミゾウも何度か目撃したことがある。これは博麗の奥義の一つ、夢想天生だ。己の存在を別次元に移動させることで、眼前に在りながら実体を失くす恐るべき技。なるほど、マミゾウにも気配が掴めぬはずである。
「化け狸。あんたが黒幕か……!」
何を誤解しているのか、博麗霊夢は鋭く尖った槍のような視線でマミゾウを突き刺した。その顔に張り付いた表情は、正に鋼鉄。鬼気迫るその圧力に、知らず、マミゾウの足はさらに一歩引いていた。
妖怪である自分を戦慄させるなど、もはやこの娘は人間と云う枠から外れ始めている。背筋に冷たいものを感じながらも、マミゾウは他人事のように考えていた。
霊夢は右手に握った御幣を大きく振りかぶり、大上段から振り下ろしてきた。その気迫、防げぬ事は明白。マミゾウは堪らず飛び退いた。空振りした御幣が轟音とともに蔵の床を打ち砕き、もうもうと土煙が上がった。
「待て! ここで争っては……!」
大事な証拠品まで破壊されてしまうぞ、その言葉を喉から絞り出す暇もなく、霊夢の御幣が青墨の山を薙ぎ払う。砕かれた墨の破片が殺到し、マミゾウは舌打ちしながらそれを避けた。
「話を聞かんか、霊夢!」
「問答無用!」
気合一閃。元は木の棒のはずなのに、霊夢の御幣は刀剣にも勝る切れ味と破壊力を発揮していた。積み重ねられた墨の山をいとも簡単に切り崩して即席の弾幕を作り上げる。マミゾウは距離を取りつつ、紫煙の煙幕を張って目くらましをし、煙管を使って墨片弾幕を凌いだ。繰り出される斬撃の嵐を前にして、さしものマミゾウも防御に手一杯である。
「小賢しい!」
霊夢の体から不可思議な虹の帯が発せられた。
夢想封印。直撃すれば骨も残らぬと噂の、博麗の巫女の必殺技。お遊びの弾幕ごっこの時とは違う、烈々たる殺気が迸っている。
虹を纏い立つその姿、正に形ある死と呼ぶに相応しい。その威容を前にした妖は、遍く青ざめ死ぬだろう。忘れかけていた死が今、目の前にある。冷や汗が伝う懐かしい感触を額に覚えながらも、マミゾウは笑った。人間に退治される事を願う妖怪の本能か、それとも強敵を目の前にした戦士の本能か。体中を突き抜ける歓喜に、もはや理由は要らぬ。若かりし頃の記憶が蘇り、血が沸き立つ。眼前の敵へと全身全霊の一撃を持って応えるべく、マミゾウは身を低くして構えを取った。
その時、ヴァイオリンの幽玄なる音色が響き渡った。
「む……この音色は」
音に込められた強力な魔法に気付いたマミゾウは、素早く耳をふさいだ。狂騒に駆られながらも老獪さは片時も失わぬ、マミゾウが大妖怪たる所以である。
まだうら若い博麗霊夢は、不意打ちで鳴り響いたその音魔法をモロに喰らってしまったようだ。よろりとよろめくと、片膝を突いた。虹色の光の帯も霧散して消えてしまう。だが御幣は手放さぬ。瞳に湛えた光の色は、未だ激しさを保っている。その佇まいに、マミゾウは感嘆する他無かった。
「落ち着いて。冷静になって」
ヴァイオリンを弾いていたのはもちろん、ルナサ・プリズムリバーだ。いつの間にか倉庫内に入り込んでいた彼女は、徐々に魔法力を弱めながら演奏を続けていた。
「霊夢、貴女は少し浮かれすぎよ。もう少し周りを見て。味方同士で争う必要など無いはずよ。この人はナズーリンの協力者じゃないの」
優しく霊夢に語りかける。少しだけ、霊夢の烈しさが和らいだように見えた。流石、鬱のメロディの使い手だけはある。
ルナサはナズーリンと協力しているようだし、マミゾウと敵対する意思は無いだろう。
「ルナサ、おヌシもここへ行き着いたのか」
「貴女方も、流石だと言っておきましょうか。霊夢さん、それに狸の大将」
ルナサの代わりに答えたのは、射命丸だった。いつの間にか作業台の前に立ち、例の木版を手にしている。
「やれやれ……。新聞の偽造など、愚かな事を考える者がいたものです。そんなに死に急ぎたいのですかね? 長生きは美徳だと私は思うのですがねえ」
おどけて言うその台詞の端々に、隠しきれない怒気がこもっている。マミゾウの想像以上に、偽造行為を怒っているようだ。
「あんた達も『花果子念報』の偽造を追っていたのか」
霊夢が言う。すっかり落ちついたようだが、まだ警戒を緩めていない。里の情報が錯綜しすぎて疑心暗鬼になっているようだ。
「それだけではない。此処で偽造を行っていた連中は、ナズーリンを貶める奸計にも関わっておった」
「私が記事にしたあの老婆ですか……」
氷のように冷たい声で、燃える瞳の射命丸が静かに呟く。
「何れにせよ、決定的な証拠は手に入れました」ヴァイオリンを下ろしてルナサが言う。「これを公表すれば、里の狂乱も少しは収まるでしょう」
「いえ。公表はしません」
射命丸はきっぱりと言い放った。
「何故じゃ」
マミゾウが声を上げると、射命丸は首を振った。
「失礼。正確に言いましょう。今は公表しません」
「今は……?」
「情報というものは適切な時節を伴って初めて力を持つのです。今はその時ではありません。燃え上がる炎に多少の水をかけても無意味でしょう。今は待つべきです。炎が弱まる、その一瞬を」射命丸は笑う、ゾッとするような顔で。「早さが売りの私の信念を曲げる形になりますが、このような巫山戯た行為を行う輩です。常道に悖る行為にはこちらも常道を曲げるのが筋というもの。私、この射命丸文が、本当のアジテーションと云うものを奴等に見せてやりましょう。ああ、それにしても一体どれほどの貸しになるのか、想像もつきませんねぇ……」
くすくすくすくす、タガが外れたように笑う射命丸のその姿に、ルナサも霊夢もマミゾウも、呆気に取られてしまった。
結局、『花果子念報』の偽造原板は射命丸文が持ち去ってしまった。射命丸が件の賢者達の一員だった場合、証拠が握りつぶされてしまう可能性もあった。だが、射命丸はうなるほど撮った写真のフィルムの一部をマミゾウに寄越したので、それで手を打つ事にした。里を戦場にするわけには行かなかったからだ。あの時の射命丸は、博麗霊夢以上に激情に駆られているように見えた。
「さっきは済まなかったわね」
博麗神社の縁側にて、ルナサの奏でるヴァイオリンの美しい音色に耳を傾けていると、霊夢がペコリと頭を下げて来た。
「ほ。これは珍しいこともあるもんじゃ」
「自分が迂闊であることは理解しているわ。でも、あのタイミングで現れたら、あんたが犯人だって思っちゃうのも仕方無いでしょう?」
「まあのう」
出された茶を啜りながら、マミゾウは頷いた。
かく言うマミゾウも、すわ博麗の巫女が黒幕か、などと考えてしまったくらいなのだから。
「しかし、これで一歩前進じゃ。ナズーリンの冤罪を晴らし、この事件の黒幕をしょっぴくまで、もう少しじゃな」
「あの小鼠……本当にこの事件の犯人じゃないのかしら」
「ない」
「やけにきっぱり言うじゃないの。妖怪同士ってのはもっと、殺伐とした関係だと思っていたけれど」
マミゾウはあの小さな壺の事件を思い出す。あの時、ナズーリンが見せた熱い涙。
「侠じゃからな、儂は」
それだけで、理由は十分なのだ。
「少し気になる事があります」ルナサが歌うように言う。「あの墨屋の倉庫ですが、なぜあんなにも証拠が残されていたのでしょうか」
「それは私が素早く踏み込んだから……」
「いや、儂も気になっておった。老婆の遺品を整理していたのは稗田家らしい。いつ部外者が入って来るか分からんあの場所で、手間のかかる偽造など行うものじゃろうか」
あるいは稗田の中にも奴等の手先がいるのかもしれないが……。
「では、あの証拠は敵が用意した偽物だと?」
「分からん。が、どちらにせよ、奴等にとって不利な証拠である事は間違いないじゃろう。前進には変わらん」
霊夢は、溜息を吐いた。
「嫌になるわね……。こういうの、好きじゃない。異変はもっと分かりやすいほうがいいわ」
非常に霊夢らしい意見である。マミゾウは苦笑してしまった。
「おや?」
マミゾウは首を捻った。急に境内が騒がしくなったからだ。
神社の正面の方へ回ってみると、たくさんの里人が境内に押しかけ、次々に参拝を行っていた。
今は花見の季節でもないし、増して祭りが行われているわけでもない。何の変哲も無いただの秋の一日である。それがどうして、こんなに人が? 博麗神社と言えば、里では妖怪神社などと揶揄されており、なんらかの催し物が無ければ人が寄り付かないはずなのに。
「この神社、こんなに参拝客いたかしら? えっ、異変?」
ルナサなどはあけすけな感想を言っている。
「なんか最近、よく来るのよ」参拝客が増えているというのに、霊夢は嬉しそうではない。「里は今、何かと不穏でしょ。だから神様に縋ろうって魂胆らしいのよ。まあ、心綺楼異変の時と同じような感じ」
「なんじゃい霊夢、接客せんのか?」
「そんな気分じゃないわ。放っておいていいわよ」
「商魂たくましいおヌシが、珍しいのう」
「乙女心は複雑なのよ」
溜め息を吐きつつ、霊夢は裏手へ戻っていった。博麗の巫女とは言え、若い女である。先程の暴走ぶりと言い、あの土砂崩れの事件から未だ立ち直れていないようだ。
「珍しい事もあるものね」
ルナサは再びヴァイオリンを奏で始めた。即席のソロライブである。すぐに人だかりが出来て、ルナサの姿は見えなくなった。
マミゾウは鳥居にもたれ掛かって、無心に参拝客たちを見つめていた。手水をする者、賽銭を入れる者、境内を走り回る子供を叱りつける者、紅葉した桜を見上げる者、様々である。里の混迷ぶりが嘘のように、博麗神社では穏やかな時間が流れていた。
ふと、マミゾウは思った。
もしかしたら、この光景こそが奴等の求めるものなのではないか、と。
次を楽しみに待ってます。
それと、霊夢が妖怪相手に早とちりで癇癪を起こすというくだりはこれで何回目だろうか。ワンパターン気味に思える。
理知的な登場人物が大半の中で、ただ一人醜態を晒し続ける巫女には、ジャージャービンクス的なものを感じずにはいられない。これいる?
賢者達との対決が待ち遠しいです