第一夜
一日
阿求は室にいた召使えたちを一喝して追い払った。人の気配が幾つか減ったので、代わりに阿求の望みで開け放たれていた戸の側から、風が入り込んで、彼等のいた位置を冷たく埋めた。
阿求が張り上げた声は重みがあった。響きが内包する暖かさに命を感じた。故に死を遠く錯覚させてならなかった。
頬は真っ白であるけれども、日の焼けがないだけだ。確かに血は通っている。枕の上で頬に敷かれた、菫に似ている髪の糸は、川の流れの如く蛇行して、死の近場には相応しくない、高貴な色をしている。天来の彩紋だ。何時でも美しい。
目の奥に淀みはない。瞳の輝きが、葦の強さに似ていた。到底、死ぬ様には見えない。
「あんた本当に死ぬの」
「ええ、もう死ぬわ」
くすくすと笑われた。信じられないけれども、自身が認めるなら正しいのだろうな。と浮ついた認識が先行して、変にぼやりとした気分になった。然し冷たい風が一つ身に滲みると、体が凍えた後、急にはっとした悲しみが襲って来て、涙が私の頬を伝った。
「小鈴」
阿求が眉を哀れそうに顰めて、私の顔に手を動かした。指先は涙に濡れなかった。彼女の指が触れる前に、私の顔は布団の上、起き上がっていた彼女の膝がある処に、押し付けてしまっていたのだった。
「小鈴」
「嫌よ、あんた二十か其処らでしょう。三十は生きるって言ったじゃないの、若いじゃないの、之から楽しいことが沢山ある筈じゃないの」
「小鈴」
「そんなのあんまりじゃないの、あんたが哀れじゃないの」
「聞きなさい、小鈴」
阿求は子供をあやす風な声色で、優しく言った。私は顔を布団から上げた。彼女はにこりとして、私の右手に左手を絡ませた。熱を感じた。暖かい。
「あんたの気持ちは嬉しい。でもどうにもならないの」
百季、彼岸の国で働き続けるらしい。少し前に教えてくれた。阿求は苦に思っていない様子だったけれども、此方は違う。十代目の傍に私はいないだろう。
知る由のない先が恐ろしい。
阿求の他は前の世を知れない。
人のこころは摩耗して、次の世の身は、別の本に移る様に、前の全てと無縁になる。新たに挟まれた栞には、前の本の内容を知る術は書いていない。もう以前の字を知ることはない。
「あんたを忘れるのは嫌だけど」
然し阿求でさえ、全てを覚えていないのだ。彼岸の法では、縁起に因らない思い出は“いらないこと”なのだと。
「之も運命、受け入れて」
阿求の頭の花が振れる。少しばかりの風の為だ。何時か彼女は教えてくれた。山茶花に似た白い花に、同じ言葉を吹き込んだ、と。
私は花をじいと見た。暫く何も言わない私に、阿求は不思議そうだ。
山茶花に似た花が振れた。私も少し身を揺らした。共鳴した様な気がした。花のこころに。
「百年、待っているから」
阿求は目を大きく開いた。
「百年、あんたの墓の傍で待っている。約束する、一歩だって動かない。だから……あんた、屹度、私に逢いに来て」
阿求は何も言わなくなった。少し経って、くすと笑い声がした。と同じに、つうと二つ透明な線が見えた。
「無理よ、あんただって死んじゃうもの」
「何とかする」
「巫女が許さないわ」
「何故」
「あんた知らないでしょ。人里の人間が化生するのは罪なのよ」
「じゃ、それも何とかする」
「あんたが私とまた出会えても、私は屹度、あんたを覚えちゃいないわ」
阿求は私にしなだれ掛かった。私は自覚なしに、もう身を起こしていた。
阿求の指は、絡ませた頃より冷たくなっている。ずうと、ずうっと冷たい。
「じゃ、覚えといてよ」
ふっと馬鹿にした声がした。
「あんた無茶苦茶よ」
「私が無茶するんだから、あんたも無茶するのは当然でしょう」
「あんたは、本当に……」
不意に阿求の体が重くなった。変に思って顔を見た。もう死んでいた。返事を聞けなかった。
暫く阿求を抱えてじいとしていた。寝かせる前に接吻した。冷たかった。
稗田家の庭に出た。石長姫の石ころを思い切りがつんと殴ると、痛くって涙がぽろぽろした。良い夢から醒めてしまった気分になった。
十日
阿礼乙女は矢張り特別なのだろう。代々、続いて来た墓は、里人たちとは離れていた。
阿求が埋められてから直ぐ、墓の前で胡座を組んだ。一歩も動かない。一方的には、約束をしたから。
一昨日、霊夢さんが来た。私を説得していた。朝から昼に掛けてだった、と覚えている。何時の間にかいなくなっていたから、詳しく知れない。心底、本当に申し訳ないと思っている。
私を連れ戻そうとする父を母は止めた。私を一度ぎゅうと抱き締めて、父に諦める様に言った。同じ女だから、女には何が大切か、分かってくれたのだろう。
昨日、魔理沙さんが来た。彼女は私を説得しなかった。どかりと私の横に座った。暫くして私は聞いた。
「何故、霊夢さんの様に私を説得しないんですか」
「恋の魔法を使うからな」
したり顔をされた。ああ、どうも聞かれるのを待っていたらしい。ばんばん私の背中を叩くと、何処かに飛んで行った。
十三日
浮ついた感じがした。私は何をしていたのだろう。と考えた直後に、後ろに何かあることに気が付いた。
「ああ、私は之に入っていたんだな」
腹に刃物が刺さっているので痛々しくって見ていられなかった。
辺りに誰もいない。でも、月が一周する前に、一度くらいは稗田家の者が掃除に来るだろう。屹度、誰かが拾ってくれるだろう。
私が持っていた幾つかの物を拾い上げた。霊も物を持てると知った。多くは大切な物ではない。阿求から離れる前に摘んだ山茶花に似た花と、一冊の本を手に持った。之は彼女が大層、気に入っていた本だ。私も好きな作家の本であった。でも、阿求はどうして之が一番だったのだろう。思い出せない。然し何時か聞いた筈だ。
山茶花に似た花を墓の前に置いた。生きた花ではない。生きた花ではないが、私に力を齎す気がした。
似た花に、阿求は山茶花と同じ言葉を依せていた。先を思う様に。
「直向きに、困難に打ち克つこと。阿求、私は幾らでも待とう」
阿求が好んでいた本を、私は終わり迄、読んだことがない。真中の辺りが冗長で、面倒ったらなかった。でも読もう。彼女が之を好んでいた理由を、思い出すかも知れない。故に之を持って来たのだ。
時間は幾らもある。幾らでも読もう。
ぺらりと鳴らした。
十五日
―――は拾い読みにぽつぽつ読み下した。ブック、オフ、ジョークス。イングリッシ、ウィット、エンド、ヒュモア。……―――
昨日で遂に読み終えてしまって、もう二度目に入っていた。二百四十二ペエジの今、また中弛い頃だ。
「退きなさい、魔理沙」
「無理だな、残念だけど」
「小鈴ちゃんはもう、怨霊になってる。だから、退治しなきゃいけないの」
然し、之の津田と言う男は、本当に最低な奴だ。傲慢で、お延に嘘ばっかりで、前の女に目移りさえしている。なりたくない類の人間だ。
「怨霊?変な話だ。此奴が一体、何を恨むって言うんだ」
「全てよ。大切な人を奪った、幻想郷の法の全てが憎いのよ。その思いが、小鈴ちゃんを此岸に縛る糧になっている」
「此奴が此方に縛られるんなら、結構なことじゃないか、ええ?お陰で此奴は百年、待つことが出来るんだろ」
「どうして小鈴ちゃんを庇うの」
誰か後ろで小煩いと思ったら、霊夢さんと魔理沙さんが言い争っていた。彼是と何か話している。気にしない様に努めた。
「恋の魔法を使うからな」
と前に聞いた言葉と一緒に、魔理沙さんの小馬鹿にした声が聞こえた。
しんとした一刹那!尋常ならざる力を感じた。妖怪たちが巫女を恐れる理由が分かった。ない息が止まった気がした。石の様に動けない。
「分からず屋!」
「分からず屋はお前だ。来いよ、人の恋路の邪魔をする、堅い頭を叩き直してやる」
音が炸裂した。ごうごうと風を斬る二人を感じた。花火の如き閃光が、後ろできらと瞬いた。夕暮れの空が、ちかちかする。
恐ろしくって蹲った。目の前の花を手繰り込んで、そっと口付けた。こころが落ち着いた。大丈夫、大丈夫。
―――不意に静かになった。顔を上げると、もう夜だった―――後ろを見ると、地面に叩き落とされてぜえぜえと息を吐く霊夢さんと、箒で体を支えている魔理沙さんが目に入った。
二年と六十五日
然し、私と津田で何が違うだろう。彼が清子を暫く忘れて、お延に目移りした様に、私のこころが百年、無事であるか、果して分からない。之が未完である様に、私の先も、何時でも分からないことであるから。未来と呼ばれる意地の悪い存在は、望みに反抗する悪癖があるから。
「久しぶりだな、未だいて良かったよ」
既に二百は終えた気がする。読まない日もあった。
「見ろ、お前を守ってやった傷だ。之はその傷だ。全く私はあの日、必死だったのに、お前は礼の一つも言わないんだから酷い奴だ」
何度か分からずとも、また読み終えた。ふうとない溜め息を一つした。
上を見ると、今日は青空らしい。今は秋だった筈だ。紅葉がちらちら見えるから。
暑くも寒くもない。春夏秋冬、一貫して、熱も冷たさも分からなかった。
もう本は襤褸だ。未だ阿求が好んでいた訳が知れない。読めなくなる前に、知れる様に願っている。
「まあ、でも良いよ。私が勝手にやったんだからな」
思い出す迄、幾らでも読もう。
ぺらりと鳴らした。
――― 一 医者は探りを入れた後で、手術台の上から―――
「お前がどうなるか気になるけどな、私はもう駄目だ。人間の魔女は長生き出来ないからな……小鈴、未だ誰かの声が聞こえるか?私の声は聞こえるか?」
誰かが私の頭をがしがし撫でた。
懐かしい香りがした。変な薬品の匂いだった。何時か友人に、同じ香りを纏う黒い服を着た人が、いた様な、いなかった様な。
「まあ、私の声は別に聞こえなくっても良いよ。でも、大切なことだけは忘れるなよ」
二十六年と八十日
星々の粒が広がっている。今夜は下弦だった。
後ろに老いた女があって、私を抱いていた。女のことを知っている。
私は親不孝の、最低な奴だ。然し、私は後悔していない。でも、涙が流れるのは何故だろう。光の糸が、一つの流れ星に同調して地に滴って、霧になって消えてしまった。霊の涙は、生きていないので、霧散すると今日に知った。
三十四年と五十二日
本はペエジの抜けが増えて、之じゃあ借りる人もいないなアとぼんやり考えた。
本を花の横に置いて、後ろに倒れ込んだ。対して花は風化の跡がない。私の僅かな霊的なる力が、花を守っているのだった。本に力を使う余地はなかった。花を留めるだけで一杯々々だったのだ。本の内容は覚えている。暗唱することにした。前に読んでいたのは、四百六十三ペエジだった筈だ。
「ええ、と…「ええ。だから色々、考えたんです」「考えて解ったの」「解らないんです。考えれば考える程、解らなくなるだけなんです」「それだから考えるのはもう已めちまったの」「いいえ矢張り已められないんです」「じゃ今でもまだ考えてるのね」……」
少し間を空けて、続きを言った。
「…「そうです」……」
四十年と七日
山の向こうに消えて行く、赤い円を幾つ見たか分からない。
五十年と三十二日
本の内容は覚えている。然し、何か大切なことを忘れていないだろうか?誰かに忠告された気がするけれども、誰かも思い出せなかった。
六十年と九十九日
季節が、瞬きする間に変わって行く。
同じく 六十年と九十九日
変わらないこともある。落下する様な速度で私の視界から消える太陽が急に止まったと思うと中々、動いてくれなかったりする。と、一つ目を閉じて開けると、もう消えている。
「―――「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」「藤井の叔父が是非、行けとでも云うのかい」「なにそうでもない」「じゃ止したら可いじゃないか」 津田の言葉は誰にでも解り切った理屈なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然、津田の方を向いた」
何年が過ぎたろう。会いたい。でも誰に?
「―――「津田君、僕は淋しいよ」…」
七十年と五日
月が一周する間に一回くらい、誰かが目の前の墓を掃除に来る。もう彼等は私に慣れてしまっている。人も変わっている気がする。彼等の中の老いた者は、懐かしい名を偶に口にする。大切な人の名前だった気がする。どんな人だったろう。
八十年と二十三日
不意に目の前の花が気になった。何時も目の前にあったけれども、気にもしていなかった。然し今日は何故か触れる気になった。花を持った。暖かい気がした。両の手で花を顔の近くに寄せると、生きていない花から懐かしい香りがして、頭に雷光が走った。
私は沢山の砂の粒の中から、一分の星の破片、大切な記憶を拾い上げた。
迚も前のこと
「それ面白いかなあ」
「面白いわよ」
春のことだった。阿求は私が好きでない本を面白いと言った。
「でもさ、同じ作家でも他の本は借りられて行くのに、それ余り人気がないんだもの」
恐く五百ペエジ以上はある、阿求が好む本は、里人に好まれなかった。誰も借りないので、彼女の為に存在している気さえした。
「あんた、最後を知ってるの」
「ううん」
「じゃ、言ってしまうけどね。之は未完なのよ」
「未完?」
「ええ」
「じゃあ余計に分からないわ。あんたが、それが好きな理由は」
「小鈴、私は何でも覚えられるの」
「知ってる」
「だから、どんな本だって、本当は一度だけ読めば、何時だって思い出すことが出来るのよ。でも未完の本は違うでしょう、終わりは分からないでしょう。だから日を跨いで字と一緒にしっかり読むと、前とは違った終わりを考えられるの」
「どう言うことよ」
「だからね、前は悲しい結末を想像したけど、今度は良い結末を考えたりとか。また読むと、更に難儀な結末を考えたりとか……だから、そう、彼の本なら“明暗”が一番なのよ、私には」
「ふうん、変な楽しみ方ね」
「読む?」
「今度ね」
「それって絶対、読まない返事よね」
「どうかなあ」
百ペエジ辺り迄は知っているから、本の内容は何となく分かる。明暗には、人の情愛が纏わり付いている。
奇妙な感じがする。終わりの知れない愛を、果して読み取ろうとする意味はあるのだろうか。
九十九年と三百六十四日
女の名は阿求。私は彼女を待っている。彼女の墓の前で。
阿求を待つ私は、彼女の好いた本と同じく、明るさと暗さが交差する、先の知れない世を待っている。
後、何年だろう、何日だろう。迚も待った気がする。
後ろから光が差した。もう次の日が来たらしい。
数年して、それから
私は小さな子供と向き合っていた。私は彼女を知っている。彼女も私を知っているだろう。
「久しぶり、で良いかしら」
くすと笑う子供の表情に、大切な人の姿が見えた。
「覚えてたんだ、私のこと」
「覚えてなかったわ。でも思い出したの」
「全て忘れるんじゃなかったの。あの縁起に縁のないことは」
「ええ、でも、少し前のこと、未だ歩けなかった頃のことよ。変わった夢を見たの、幸せな夢だった。大切な人の夢だった。その人は私を百年、待つと言った」
彼奴と同じ手が頬に触れる。
「そう、こんな夢を見た」
第一夜 終わり
一日
阿求は室にいた召使えたちを一喝して追い払った。人の気配が幾つか減ったので、代わりに阿求の望みで開け放たれていた戸の側から、風が入り込んで、彼等のいた位置を冷たく埋めた。
阿求が張り上げた声は重みがあった。響きが内包する暖かさに命を感じた。故に死を遠く錯覚させてならなかった。
頬は真っ白であるけれども、日の焼けがないだけだ。確かに血は通っている。枕の上で頬に敷かれた、菫に似ている髪の糸は、川の流れの如く蛇行して、死の近場には相応しくない、高貴な色をしている。天来の彩紋だ。何時でも美しい。
目の奥に淀みはない。瞳の輝きが、葦の強さに似ていた。到底、死ぬ様には見えない。
「あんた本当に死ぬの」
「ええ、もう死ぬわ」
くすくすと笑われた。信じられないけれども、自身が認めるなら正しいのだろうな。と浮ついた認識が先行して、変にぼやりとした気分になった。然し冷たい風が一つ身に滲みると、体が凍えた後、急にはっとした悲しみが襲って来て、涙が私の頬を伝った。
「小鈴」
阿求が眉を哀れそうに顰めて、私の顔に手を動かした。指先は涙に濡れなかった。彼女の指が触れる前に、私の顔は布団の上、起き上がっていた彼女の膝がある処に、押し付けてしまっていたのだった。
「小鈴」
「嫌よ、あんた二十か其処らでしょう。三十は生きるって言ったじゃないの、若いじゃないの、之から楽しいことが沢山ある筈じゃないの」
「小鈴」
「そんなのあんまりじゃないの、あんたが哀れじゃないの」
「聞きなさい、小鈴」
阿求は子供をあやす風な声色で、優しく言った。私は顔を布団から上げた。彼女はにこりとして、私の右手に左手を絡ませた。熱を感じた。暖かい。
「あんたの気持ちは嬉しい。でもどうにもならないの」
百季、彼岸の国で働き続けるらしい。少し前に教えてくれた。阿求は苦に思っていない様子だったけれども、此方は違う。十代目の傍に私はいないだろう。
知る由のない先が恐ろしい。
阿求の他は前の世を知れない。
人のこころは摩耗して、次の世の身は、別の本に移る様に、前の全てと無縁になる。新たに挟まれた栞には、前の本の内容を知る術は書いていない。もう以前の字を知ることはない。
「あんたを忘れるのは嫌だけど」
然し阿求でさえ、全てを覚えていないのだ。彼岸の法では、縁起に因らない思い出は“いらないこと”なのだと。
「之も運命、受け入れて」
阿求の頭の花が振れる。少しばかりの風の為だ。何時か彼女は教えてくれた。山茶花に似た白い花に、同じ言葉を吹き込んだ、と。
私は花をじいと見た。暫く何も言わない私に、阿求は不思議そうだ。
山茶花に似た花が振れた。私も少し身を揺らした。共鳴した様な気がした。花のこころに。
「百年、待っているから」
阿求は目を大きく開いた。
「百年、あんたの墓の傍で待っている。約束する、一歩だって動かない。だから……あんた、屹度、私に逢いに来て」
阿求は何も言わなくなった。少し経って、くすと笑い声がした。と同じに、つうと二つ透明な線が見えた。
「無理よ、あんただって死んじゃうもの」
「何とかする」
「巫女が許さないわ」
「何故」
「あんた知らないでしょ。人里の人間が化生するのは罪なのよ」
「じゃ、それも何とかする」
「あんたが私とまた出会えても、私は屹度、あんたを覚えちゃいないわ」
阿求は私にしなだれ掛かった。私は自覚なしに、もう身を起こしていた。
阿求の指は、絡ませた頃より冷たくなっている。ずうと、ずうっと冷たい。
「じゃ、覚えといてよ」
ふっと馬鹿にした声がした。
「あんた無茶苦茶よ」
「私が無茶するんだから、あんたも無茶するのは当然でしょう」
「あんたは、本当に……」
不意に阿求の体が重くなった。変に思って顔を見た。もう死んでいた。返事を聞けなかった。
暫く阿求を抱えてじいとしていた。寝かせる前に接吻した。冷たかった。
稗田家の庭に出た。石長姫の石ころを思い切りがつんと殴ると、痛くって涙がぽろぽろした。良い夢から醒めてしまった気分になった。
十日
阿礼乙女は矢張り特別なのだろう。代々、続いて来た墓は、里人たちとは離れていた。
阿求が埋められてから直ぐ、墓の前で胡座を組んだ。一歩も動かない。一方的には、約束をしたから。
一昨日、霊夢さんが来た。私を説得していた。朝から昼に掛けてだった、と覚えている。何時の間にかいなくなっていたから、詳しく知れない。心底、本当に申し訳ないと思っている。
私を連れ戻そうとする父を母は止めた。私を一度ぎゅうと抱き締めて、父に諦める様に言った。同じ女だから、女には何が大切か、分かってくれたのだろう。
昨日、魔理沙さんが来た。彼女は私を説得しなかった。どかりと私の横に座った。暫くして私は聞いた。
「何故、霊夢さんの様に私を説得しないんですか」
「恋の魔法を使うからな」
したり顔をされた。ああ、どうも聞かれるのを待っていたらしい。ばんばん私の背中を叩くと、何処かに飛んで行った。
十三日
浮ついた感じがした。私は何をしていたのだろう。と考えた直後に、後ろに何かあることに気が付いた。
「ああ、私は之に入っていたんだな」
腹に刃物が刺さっているので痛々しくって見ていられなかった。
辺りに誰もいない。でも、月が一周する前に、一度くらいは稗田家の者が掃除に来るだろう。屹度、誰かが拾ってくれるだろう。
私が持っていた幾つかの物を拾い上げた。霊も物を持てると知った。多くは大切な物ではない。阿求から離れる前に摘んだ山茶花に似た花と、一冊の本を手に持った。之は彼女が大層、気に入っていた本だ。私も好きな作家の本であった。でも、阿求はどうして之が一番だったのだろう。思い出せない。然し何時か聞いた筈だ。
山茶花に似た花を墓の前に置いた。生きた花ではない。生きた花ではないが、私に力を齎す気がした。
似た花に、阿求は山茶花と同じ言葉を依せていた。先を思う様に。
「直向きに、困難に打ち克つこと。阿求、私は幾らでも待とう」
阿求が好んでいた本を、私は終わり迄、読んだことがない。真中の辺りが冗長で、面倒ったらなかった。でも読もう。彼女が之を好んでいた理由を、思い出すかも知れない。故に之を持って来たのだ。
時間は幾らもある。幾らでも読もう。
ぺらりと鳴らした。
十五日
―――は拾い読みにぽつぽつ読み下した。ブック、オフ、ジョークス。イングリッシ、ウィット、エンド、ヒュモア。……―――
昨日で遂に読み終えてしまって、もう二度目に入っていた。二百四十二ペエジの今、また中弛い頃だ。
「退きなさい、魔理沙」
「無理だな、残念だけど」
「小鈴ちゃんはもう、怨霊になってる。だから、退治しなきゃいけないの」
然し、之の津田と言う男は、本当に最低な奴だ。傲慢で、お延に嘘ばっかりで、前の女に目移りさえしている。なりたくない類の人間だ。
「怨霊?変な話だ。此奴が一体、何を恨むって言うんだ」
「全てよ。大切な人を奪った、幻想郷の法の全てが憎いのよ。その思いが、小鈴ちゃんを此岸に縛る糧になっている」
「此奴が此方に縛られるんなら、結構なことじゃないか、ええ?お陰で此奴は百年、待つことが出来るんだろ」
「どうして小鈴ちゃんを庇うの」
誰か後ろで小煩いと思ったら、霊夢さんと魔理沙さんが言い争っていた。彼是と何か話している。気にしない様に努めた。
「恋の魔法を使うからな」
と前に聞いた言葉と一緒に、魔理沙さんの小馬鹿にした声が聞こえた。
しんとした一刹那!尋常ならざる力を感じた。妖怪たちが巫女を恐れる理由が分かった。ない息が止まった気がした。石の様に動けない。
「分からず屋!」
「分からず屋はお前だ。来いよ、人の恋路の邪魔をする、堅い頭を叩き直してやる」
音が炸裂した。ごうごうと風を斬る二人を感じた。花火の如き閃光が、後ろできらと瞬いた。夕暮れの空が、ちかちかする。
恐ろしくって蹲った。目の前の花を手繰り込んで、そっと口付けた。こころが落ち着いた。大丈夫、大丈夫。
―――不意に静かになった。顔を上げると、もう夜だった―――後ろを見ると、地面に叩き落とされてぜえぜえと息を吐く霊夢さんと、箒で体を支えている魔理沙さんが目に入った。
二年と六十五日
然し、私と津田で何が違うだろう。彼が清子を暫く忘れて、お延に目移りした様に、私のこころが百年、無事であるか、果して分からない。之が未完である様に、私の先も、何時でも分からないことであるから。未来と呼ばれる意地の悪い存在は、望みに反抗する悪癖があるから。
「久しぶりだな、未だいて良かったよ」
既に二百は終えた気がする。読まない日もあった。
「見ろ、お前を守ってやった傷だ。之はその傷だ。全く私はあの日、必死だったのに、お前は礼の一つも言わないんだから酷い奴だ」
何度か分からずとも、また読み終えた。ふうとない溜め息を一つした。
上を見ると、今日は青空らしい。今は秋だった筈だ。紅葉がちらちら見えるから。
暑くも寒くもない。春夏秋冬、一貫して、熱も冷たさも分からなかった。
もう本は襤褸だ。未だ阿求が好んでいた訳が知れない。読めなくなる前に、知れる様に願っている。
「まあ、でも良いよ。私が勝手にやったんだからな」
思い出す迄、幾らでも読もう。
ぺらりと鳴らした。
――― 一 医者は探りを入れた後で、手術台の上から―――
「お前がどうなるか気になるけどな、私はもう駄目だ。人間の魔女は長生き出来ないからな……小鈴、未だ誰かの声が聞こえるか?私の声は聞こえるか?」
誰かが私の頭をがしがし撫でた。
懐かしい香りがした。変な薬品の匂いだった。何時か友人に、同じ香りを纏う黒い服を着た人が、いた様な、いなかった様な。
「まあ、私の声は別に聞こえなくっても良いよ。でも、大切なことだけは忘れるなよ」
二十六年と八十日
星々の粒が広がっている。今夜は下弦だった。
後ろに老いた女があって、私を抱いていた。女のことを知っている。
私は親不孝の、最低な奴だ。然し、私は後悔していない。でも、涙が流れるのは何故だろう。光の糸が、一つの流れ星に同調して地に滴って、霧になって消えてしまった。霊の涙は、生きていないので、霧散すると今日に知った。
三十四年と五十二日
本はペエジの抜けが増えて、之じゃあ借りる人もいないなアとぼんやり考えた。
本を花の横に置いて、後ろに倒れ込んだ。対して花は風化の跡がない。私の僅かな霊的なる力が、花を守っているのだった。本に力を使う余地はなかった。花を留めるだけで一杯々々だったのだ。本の内容は覚えている。暗唱することにした。前に読んでいたのは、四百六十三ペエジだった筈だ。
「ええ、と…「ええ。だから色々、考えたんです」「考えて解ったの」「解らないんです。考えれば考える程、解らなくなるだけなんです」「それだから考えるのはもう已めちまったの」「いいえ矢張り已められないんです」「じゃ今でもまだ考えてるのね」……」
少し間を空けて、続きを言った。
「…「そうです」……」
四十年と七日
山の向こうに消えて行く、赤い円を幾つ見たか分からない。
五十年と三十二日
本の内容は覚えている。然し、何か大切なことを忘れていないだろうか?誰かに忠告された気がするけれども、誰かも思い出せなかった。
六十年と九十九日
季節が、瞬きする間に変わって行く。
同じく 六十年と九十九日
変わらないこともある。落下する様な速度で私の視界から消える太陽が急に止まったと思うと中々、動いてくれなかったりする。と、一つ目を閉じて開けると、もう消えている。
「―――「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」「藤井の叔父が是非、行けとでも云うのかい」「なにそうでもない」「じゃ止したら可いじゃないか」 津田の言葉は誰にでも解り切った理屈なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然、津田の方を向いた」
何年が過ぎたろう。会いたい。でも誰に?
「―――「津田君、僕は淋しいよ」…」
七十年と五日
月が一周する間に一回くらい、誰かが目の前の墓を掃除に来る。もう彼等は私に慣れてしまっている。人も変わっている気がする。彼等の中の老いた者は、懐かしい名を偶に口にする。大切な人の名前だった気がする。どんな人だったろう。
八十年と二十三日
不意に目の前の花が気になった。何時も目の前にあったけれども、気にもしていなかった。然し今日は何故か触れる気になった。花を持った。暖かい気がした。両の手で花を顔の近くに寄せると、生きていない花から懐かしい香りがして、頭に雷光が走った。
私は沢山の砂の粒の中から、一分の星の破片、大切な記憶を拾い上げた。
迚も前のこと
「それ面白いかなあ」
「面白いわよ」
春のことだった。阿求は私が好きでない本を面白いと言った。
「でもさ、同じ作家でも他の本は借りられて行くのに、それ余り人気がないんだもの」
恐く五百ペエジ以上はある、阿求が好む本は、里人に好まれなかった。誰も借りないので、彼女の為に存在している気さえした。
「あんた、最後を知ってるの」
「ううん」
「じゃ、言ってしまうけどね。之は未完なのよ」
「未完?」
「ええ」
「じゃあ余計に分からないわ。あんたが、それが好きな理由は」
「小鈴、私は何でも覚えられるの」
「知ってる」
「だから、どんな本だって、本当は一度だけ読めば、何時だって思い出すことが出来るのよ。でも未完の本は違うでしょう、終わりは分からないでしょう。だから日を跨いで字と一緒にしっかり読むと、前とは違った終わりを考えられるの」
「どう言うことよ」
「だからね、前は悲しい結末を想像したけど、今度は良い結末を考えたりとか。また読むと、更に難儀な結末を考えたりとか……だから、そう、彼の本なら“明暗”が一番なのよ、私には」
「ふうん、変な楽しみ方ね」
「読む?」
「今度ね」
「それって絶対、読まない返事よね」
「どうかなあ」
百ペエジ辺り迄は知っているから、本の内容は何となく分かる。明暗には、人の情愛が纏わり付いている。
奇妙な感じがする。終わりの知れない愛を、果して読み取ろうとする意味はあるのだろうか。
九十九年と三百六十四日
女の名は阿求。私は彼女を待っている。彼女の墓の前で。
阿求を待つ私は、彼女の好いた本と同じく、明るさと暗さが交差する、先の知れない世を待っている。
後、何年だろう、何日だろう。迚も待った気がする。
後ろから光が差した。もう次の日が来たらしい。
数年して、それから
私は小さな子供と向き合っていた。私は彼女を知っている。彼女も私を知っているだろう。
「久しぶり、で良いかしら」
くすと笑う子供の表情に、大切な人の姿が見えた。
「覚えてたんだ、私のこと」
「覚えてなかったわ。でも思い出したの」
「全て忘れるんじゃなかったの。あの縁起に縁のないことは」
「ええ、でも、少し前のこと、未だ歩けなかった頃のことよ。変わった夢を見たの、幸せな夢だった。大切な人の夢だった。その人は私を百年、待つと言った」
彼奴と同じ手が頬に触れる。
「そう、こんな夢を見た」
第一夜 終わり
頑固な小鈴が報われて良かったです
とても面白かったです。
小鈴に幸あれ
百ペエジ
百年後に巡り会う、ある種王道のような終わり方が大変良かったです。
有難う御座いました。
怨霊になって記憶が摩耗しようとも待ち続ける姿が心に響きました。