八意永琳は後悔していた。賢い彼女、いつだって賢明な選択ができる、正しい判断を行える。その行動はいつだって、良い結果のみをもたらすものであった。だからこそ、賢明な者というのは一つの過ちをだらだらと引きずるのである。平凡な者は彼女に言う、「あなたの賢さが羨ましい」と。だが、少なくとも今の八意からすると、間違いを犯してもそれを教訓にするだけのしたたかさのある平凡な者が、逆に羨ましかった。
一人で往診の支度をし、一人で竹林を抜ける。なるべく誰にも会わないように。幸せをもたらしてくれるというあの兎の力、今日は少しあやかりたい気もするが、だが同時に兎を目にするのが嫌でもあった。だから、竹林の中、近くの藪の後ろから白くて長い兎の耳が覗いているのを見て、つい驚いてしまった。柄にもない。
「ええっ!?え、なんで驚くのっ!?いや嬉しいけどさっ!?」
今度は安堵した。この声、あの幸せ兎でないことは少し残念だったけど、同時に自分の愛弟子の声でなかったことは、今の八意にとっては、安心の種だったのである。
「…なんだ、あなたでしたか。」
多々良小傘。能力は「人を驚かせる」だったと記憶しているが、八意は彼女の能力が十分に発揮されていることをこれまで見たことがなかった。いつも驚かせることに必死になっている割に、誰にも驚かれない、それが彼女だと思っていた。
それなのに、まさか自分が驚かされてしまうなんて。ただ、八意が驚いたことは小傘自身にとっても意外なことだったらしく、驚かせたはずの本人まで驚いたような表情をしている。八意はやっと、苦いものではあるが笑みを漏らした。
「…兎だと思ったら実はわたしだったっていうの、そんなに良かった?わたし、あんま自信ないままやったんだけど。」
本当に自信なさげに言う彼女が、可愛らしくて、今度こそ八意は苦くない笑みを浮かべた。それでも、まだ心の中にある後悔が、完全に笑うことを許してくれない。
「普段なら驚きはしなかったでしょうけど…。」
妙に声に含まれてしまった。普段は多少心が揺らいでいても、その気になれば表情を隠すことなど容易いのに。やはりこれも、慣れない「後悔」のせいであろうか。
あまりにもあからさまな八意の声に、普段はあまり物事を深く考えなさそうな小傘も、さすがに気づいたのだろう、どうしたの、と無邪気に小首を傾げた。
まあ、このくらいの下っ端妖怪になら、話したって構わないかもしれない。小傘と彼女の間には、さほど接点もないように思われるし、だからこの話が当の本人に伝わることもないだろう。
「…あまり詳しいことは言いたくないんですけどね。一言で言うと、当たってしまったというか…少し厳しくしすぎたんです、鈴仙に。」
少し厳しく、ね…自分の言葉の選び方に、自分で嫌な気持ちになる。あれのどこが「少し」だったのか。違う。彼女の愛弟子は、「少し」厳しい程度の言葉であんな…あんな傷付いたような表情をする、柔な心の持ち主ではない。
「へぇ…いつもは良い師匠の『八意さま』が、ね…。ま、ここ最近どこの医者も忙しくて疲れてるみたいだし、その様子だと、あなたも?」
どきり。この妖怪、思ったよりはものが分かるようである。そう、その通りなのである。季節柄、どうしてもこの時期はゆっくり休めない。疲れがたまっているのなら、休めば良い。それは分かっているのだが、わざわざ危ない夜の竹林を抜けて、「先生、うちの子が急に高い熱を」なんて言われたら、休ませてくれとは中々言えない。医者としての使命感、人間を見守るべき存在であること、そして八意の個人的な放っておけないという感情。動機は、いくらでもあるし、それは正しいものでもある。休まないという選択だって、全く間違ったものではなかった。ただ、全く正しいものでもなかった、それだけなのである。
「…まあ。医者の職業病みたいなものですよ。人間の医者で同じ悩みを持つ者だってたくさんいるみたいです。ただ、彼らと私では、効くものが違いますからね。」
八意の元に来る患者の中には、人間の医者も多い。忙しいから疲れて八意の患者になる。「医者の不養生」というよりは、「医者の不可養生」。そんな医者たちに対して、八意はいつも「一晩寝れば元気になる薬」とか、「よく休める薬」とか、更に重症な患者には、「身体には良いのだけれど、一時的に寝込まざるを得なくなるような症状を出す薬」なんかを処方する。のだが。
「面倒だねぇ、効かない身体ってのは。」
「でも、一部の人間は効き目が良すぎて、頼りっぱなしになってしまうみたいですから。それがないのは、救いですわ。」
「八意さまみたいな心の持ち主なら、たとえ効いたとしてもそういうことにはならないと思うけど。」
けろっとした顔をする小傘の顔と裏腹に、八意の心中は複雑だった。もし自分が薬の効く身体であったら?少し疲れた時に、元気になれる薬が手元にあったら?それでストレスが和らぐのだったら?いらいらすることがなくなるのだったら?
休みを取らなかったことを激しく後悔し、心の揺らいでいる今の自分だったら、もしかしたら、頼ってしまうかもしれない。だが、あくまで「もし」の話だ。現実にいるのは薬の効かない身体の八意自身、それだけなのだから。
「…こりゃ一雨来そうだね。曇ってる。」
急な話題変更、八意はまた一瞬驚いた。が、もしかしたらこれは、彼女なりの気の遣い方だったのかもしれない。
気を遣わせるくらい、自分は暗い顔をしていたのだろうか。
「いやですね、今日は雲一つない、綺麗な…」
綺麗な快晴なのだ。それなのに、青いはずの空を見上げた八意の思ったことは、「快晴の空というのは、こんなに褪せた色をしているものだったかしら」であった。心の目というのは、思った以上に本当のものを見せてくれないものらしい。
「曇ったらね、降らせばいいんだよ、雨。」
「私は、曇りだろうと雨の日だろうと、しっかりしてなきゃいけませんから。医者としても、師匠としても、ね。というわけで、悪いけどこのあたりで失礼させてくださいね。これから往診に行くところだったんです。」
気持ちをさっと切り替えて、鈴仙曰く「お医者モード」の表情を作る。そう、この妖怪と話している間にも、私を待っている患者さん方は、苦しんでいるのだから。彼らを苦しみから救うためにも、私は悩んだりしている場合ではないのだから。
八意は、小傘に背を向けてすたすたと歩きだした。その去りゆく背中に、小傘がもう一つだけ、声を掛けた。
「傘、持っていかなくても大丈夫?」
さっきも言ったのに、八意は再度空を確かめてから、一度だけ振り返った。
「大丈夫ですよ、雲なんてないじゃないですか。」
「先生、ありがとうございました。」
いつもならば幸せを感じる言葉なのに、今日のそれには、言ってくれた患者の家の者には悪いが、あまり幸せを感じなかった。「良かったですね、永琳さま」、いつもなら隣から聞こえてくるその声が、今日は、いなかった。
相変わらず私の心は曇天みたいね、そう思い八意が民家を後にすると、まるでタイミングを見計らったかのように、不思議なくらい急に、大雨が降り始めた。まさか、あの妖怪の言った通り、本当に雨になるなんて。想像もしていなかったものだから、当然傘なんて手元にない。軽い雨ながら濡れながら帰るというのも悪くはないのだが、今の雨はそんな悠長なことを言っていられる程度の雨ではない。こんなどしゃ降りの中を傘も差さずに歩けば、それこそ風邪をひいてしまう。
もちろん彼女は人間のように雨に降られてすぐ風邪をひくような脆い身体はしていないが、今の八意の心は、「風邪をひきそう」なくらい弱っていた。
仕方ない。八意は今出たばかりの民家の軒先の下に身を寄せた。そうしていると、そう時間の経たぬうちに、山吹色の傘が見えた。永遠亭で「月みたいでしょう?」という理由から好んで使われる、あれと同じ色。
「永琳さま!?良かった、すれ違いにならなくて…」
今度こそ八意は、真の意味で驚いた。焦り、後悔、罪悪感、それから、雨。あまりの意外なことに、何も言うことが出来なかった。が、そんな八意の心中とは裏腹に、鈴仙の顔は何とも晴れやかなものであった。まるで先程の八意の仕打ちなど、初めからなかったかのように。それがかえって、八意には辛く、そして恐ろしかった。
「急に雨が降るんだもの、永琳さま、きっと傘なくて困っていると思って。」
それなのに鈴仙の顔ときたら、降りしきる雨とは対照的に、なんとも晴れ晴れとしていた。少なくとも八意には、そのように見えた。だが、あんな顔をしておいて、八意の仕打ちを何とも思わなかったはずがないのだ。
対する八意は、相変わらず曇ったような笑みを返すことしかできなかった。ありがとうすら、言えなかった。
結局二人の間に漂う気まずい空気を読み取った鈴仙が、さあ、帰りましょうと促し、二人は会話のないまま、永遠亭への帰路をとぼとぼと辿った。恐ろしいほど静かな時間であった。耳に入るのは、傘に大粒の雨があたる音、地面に雨の体当たりする音、それだけだった。
今までだって、この二人が静かな時間を過ごすことはあった。師弟であり、一緒にいる時間が多いとはいえ、その間中ずっと喋っているわけではない。だが、こんなに居心地の悪い静寂は、初めてだった。
「…私ね、永琳さまに叱ってもらえるの、嬉しいんですよ。」
突然、独り言のように鈴仙が言った。思いもかけぬその言葉に…いや、それ以前に、鈴仙が語りかけてきたことに、再度八意は驚かされた。
「だって、永琳さま、私のこと大事に思ってくれるから叱ってくれるんでしょ?永琳さまの厳しさは愛の証。だから、そういう意味で。」
ああ、この子は。こんなにも純粋なのだ。それなのに自分ときたら?勝手にいらいらして、本当に些細なことで怒って、彼女を傷つけて。
悪い師匠だ、そう八意は心の中で呟いた。そして、そう思ったからこそ、やはり何も言えなかった。
ごめんなさいね…。
そう口にしかけて、しかしその言葉が引っ込んだその時。これまた不自然なほどに、つい今まで土砂降りだった雨が、ぴたりとやんだ。
あ。八意と鈴仙は二人してぽかんと顔を見合わせた。くすり、先に微笑んだのは鈴仙の方で、それにつられるように、やっと八意も微笑んだ。
「…ごめんなさいね。」
やっと、言うことができた。というよりは、ぽろりと口から言葉が零れたようなものだった。
鈴仙はといえば、今度は彼女が驚く番だった。何を、と言うよりは、まさか謝られるとは思っていなかったのだろう。
「だからって、あれは流石に言いすぎたわ。あなたのこと、傷つけてしまったでしょう?」
ああ、怒ってくれ。私を罵ってくれ。傷付いたと、悪い師だと。
だが八意の願いと逆に、鈴仙の口から出たのは、何とも優しい言葉だった。
「…ちょっとだけ。でも、永琳さまのその顔見てたら、傷ついたのはお互い様だったのかな、って思うんです。」
再び言葉が出なくなった。ああ、やはり私は鈴仙を傷つけていたのだ。それなのにこの子は、お互い様だったなどと言って、私のことを気遣ってくれているのだ。それなのに私は、謝罪の言葉すら、中々言い出せなかった。
再び八意の口が石へと化そうとした時。
「お二人さん!どいてください!ちょいと失礼しますよ!」
八意の纏う重苦しい空気とは真逆の、能天気そうな、明るく元気な声。主は寅丸星、命蓮寺の毘沙門天役である。
「…あの、一体どうしたんですか、そんなに慌てて?」
相変わらず中々言葉を紡げない師匠に代わり、鈴仙が落ち着いた様子で…いや、落ち着かせるような様子で尋ねた。
「だって、お二人とも、見て下さいよ、あれ!」
寅丸は少し澄ましたような顔をしながら、彼方の空を指差した。
二人がそちらの方へ目をやると、混じり気のない青色のキャンバスに、見事な虹がかかっていた。不自然というほどではないが、珍しいくらいに鮮やかで大きな虹。外の世界よりは美しいものが多い幻想郷でも、そうそうお目にかかれるものではない。よくよく見れば、指差す寅丸の顔も、それに感動しているのか、強く赤みが差している。
そう言われれば。先程まで聞こえていた雨音の代わりに、小鳥たちが歌いながら空を飛び始めている。しっとりと濡れた木々も、虹に感動しているのだろうか、その青々とした葉から、ぽろぽろ涙を零している。そして、もう一つ、八意の気付かぬ間に、もう一つ感涙を零すものがあった。
「あれの根元近くにね、宝を置きに行くのも、私の仕事の一つなんです。雨が降ったら即スタンバイ、これ、毘沙門天様の常識らしいですよ。」
そう言う寅丸の金色の髪や衣服も、よくよく見ればうっすらと涙を浮かべているのであった。雨が降ったらスタンバイ、とは、すなわち雨が降ったら傘も差さずにとりあえず虹の掛かりそうなところへ走れ、そういう意味なのだろうか。
「どうです、お二人も一緒に行きません?飛べばすぐですよ。あ、でも宝はあげませんからね?」
「…ありがとう。でも、私たちはゆっくり歩いて目指すことにしますよ。」
寅丸の邪気のない笑顔のおかげだからだろうか、今度こそ八意は自然に言葉を紡ぐことができた。
「その方が、虹をゆっくり見れるから。ね、鈴仙。」
先程まで話しかけるのが恐かったのに、なぜだかこんなに自然に話しかけることができた。これだ。これが、普段の私と、鈴仙だ。謝ることができたからだろうか、いや、だが謝った後にも、あのもやもやはまだ残っていたはずだ。それならなぜ、今の自分はこんなに晴れ晴れとした気持ちで、鈴仙に話しかけることができたのだろう。
「はい、永琳さま!」
答える鈴仙の顔も、先程までより、更に明るくなっていた。その頬はやはり寅丸のように赤いが、恐らく虹だけが理由ではないだろう。
そして、八意本人も気付いてはいなかったのだが、彼女の顔もまた、同様に赤みがかっていた。
「そうですかぁ…ま、確かに近寄ったら虹って見えなくなっちゃいますしね。ま、どっちにしたって私は行かなきゃいけないんだけど。」
それじゃあ。そう言って寅丸は、文字通り虹の出ている方角へと飛んで行った。
後にまた、二人だけが残された。ただし、今度の二人はもう、決して気まずいものではなかった。
「…それにしても、今日の天気、すごく変でしたよね。」
今なら分かる。先程までの鈴仙は、やはり気を遣っていたのだ。今の声こそ、本当の鈴仙の声、自然に師匠に話しかける時の、彼女の声だ。
「そうね。八雲の式がとうとう結婚することにでもなったのかしら。」
八意の方も、冗談で返すだけの余裕が出てきた。いつもの調子、だ。
「相手は…さしずめその式、ってところでしょうか?」
「…あの親馬鹿なら、本当にやりかねないわね。」
自然な笑みと自然な笑み。
雨を降らさずとも、青い空を灰色に見えさせる雲は、気付かぬうちにどこかへ行ってしまっていた。後に残ったのは、本当に青い色に見える空と、そしてどこかとどこか、二つの間に架かる、鮮やかな橋だけだった。
仲睦まじく微笑みながら、竹林へ、その奥へと向かう二人。その後ろ姿は、傍から…いや、近所の民家の屋根の上から遠目に見ても、とても幸せそうだった。
そして、幸せそうな二人を見ながら、縁の色の彼女もまた、鼻歌交じりに幸せそうに微笑むのだった。
一人で往診の支度をし、一人で竹林を抜ける。なるべく誰にも会わないように。幸せをもたらしてくれるというあの兎の力、今日は少しあやかりたい気もするが、だが同時に兎を目にするのが嫌でもあった。だから、竹林の中、近くの藪の後ろから白くて長い兎の耳が覗いているのを見て、つい驚いてしまった。柄にもない。
「ええっ!?え、なんで驚くのっ!?いや嬉しいけどさっ!?」
今度は安堵した。この声、あの幸せ兎でないことは少し残念だったけど、同時に自分の愛弟子の声でなかったことは、今の八意にとっては、安心の種だったのである。
「…なんだ、あなたでしたか。」
多々良小傘。能力は「人を驚かせる」だったと記憶しているが、八意は彼女の能力が十分に発揮されていることをこれまで見たことがなかった。いつも驚かせることに必死になっている割に、誰にも驚かれない、それが彼女だと思っていた。
それなのに、まさか自分が驚かされてしまうなんて。ただ、八意が驚いたことは小傘自身にとっても意外なことだったらしく、驚かせたはずの本人まで驚いたような表情をしている。八意はやっと、苦いものではあるが笑みを漏らした。
「…兎だと思ったら実はわたしだったっていうの、そんなに良かった?わたし、あんま自信ないままやったんだけど。」
本当に自信なさげに言う彼女が、可愛らしくて、今度こそ八意は苦くない笑みを浮かべた。それでも、まだ心の中にある後悔が、完全に笑うことを許してくれない。
「普段なら驚きはしなかったでしょうけど…。」
妙に声に含まれてしまった。普段は多少心が揺らいでいても、その気になれば表情を隠すことなど容易いのに。やはりこれも、慣れない「後悔」のせいであろうか。
あまりにもあからさまな八意の声に、普段はあまり物事を深く考えなさそうな小傘も、さすがに気づいたのだろう、どうしたの、と無邪気に小首を傾げた。
まあ、このくらいの下っ端妖怪になら、話したって構わないかもしれない。小傘と彼女の間には、さほど接点もないように思われるし、だからこの話が当の本人に伝わることもないだろう。
「…あまり詳しいことは言いたくないんですけどね。一言で言うと、当たってしまったというか…少し厳しくしすぎたんです、鈴仙に。」
少し厳しく、ね…自分の言葉の選び方に、自分で嫌な気持ちになる。あれのどこが「少し」だったのか。違う。彼女の愛弟子は、「少し」厳しい程度の言葉であんな…あんな傷付いたような表情をする、柔な心の持ち主ではない。
「へぇ…いつもは良い師匠の『八意さま』が、ね…。ま、ここ最近どこの医者も忙しくて疲れてるみたいだし、その様子だと、あなたも?」
どきり。この妖怪、思ったよりはものが分かるようである。そう、その通りなのである。季節柄、どうしてもこの時期はゆっくり休めない。疲れがたまっているのなら、休めば良い。それは分かっているのだが、わざわざ危ない夜の竹林を抜けて、「先生、うちの子が急に高い熱を」なんて言われたら、休ませてくれとは中々言えない。医者としての使命感、人間を見守るべき存在であること、そして八意の個人的な放っておけないという感情。動機は、いくらでもあるし、それは正しいものでもある。休まないという選択だって、全く間違ったものではなかった。ただ、全く正しいものでもなかった、それだけなのである。
「…まあ。医者の職業病みたいなものですよ。人間の医者で同じ悩みを持つ者だってたくさんいるみたいです。ただ、彼らと私では、効くものが違いますからね。」
八意の元に来る患者の中には、人間の医者も多い。忙しいから疲れて八意の患者になる。「医者の不養生」というよりは、「医者の不可養生」。そんな医者たちに対して、八意はいつも「一晩寝れば元気になる薬」とか、「よく休める薬」とか、更に重症な患者には、「身体には良いのだけれど、一時的に寝込まざるを得なくなるような症状を出す薬」なんかを処方する。のだが。
「面倒だねぇ、効かない身体ってのは。」
「でも、一部の人間は効き目が良すぎて、頼りっぱなしになってしまうみたいですから。それがないのは、救いですわ。」
「八意さまみたいな心の持ち主なら、たとえ効いたとしてもそういうことにはならないと思うけど。」
けろっとした顔をする小傘の顔と裏腹に、八意の心中は複雑だった。もし自分が薬の効く身体であったら?少し疲れた時に、元気になれる薬が手元にあったら?それでストレスが和らぐのだったら?いらいらすることがなくなるのだったら?
休みを取らなかったことを激しく後悔し、心の揺らいでいる今の自分だったら、もしかしたら、頼ってしまうかもしれない。だが、あくまで「もし」の話だ。現実にいるのは薬の効かない身体の八意自身、それだけなのだから。
「…こりゃ一雨来そうだね。曇ってる。」
急な話題変更、八意はまた一瞬驚いた。が、もしかしたらこれは、彼女なりの気の遣い方だったのかもしれない。
気を遣わせるくらい、自分は暗い顔をしていたのだろうか。
「いやですね、今日は雲一つない、綺麗な…」
綺麗な快晴なのだ。それなのに、青いはずの空を見上げた八意の思ったことは、「快晴の空というのは、こんなに褪せた色をしているものだったかしら」であった。心の目というのは、思った以上に本当のものを見せてくれないものらしい。
「曇ったらね、降らせばいいんだよ、雨。」
「私は、曇りだろうと雨の日だろうと、しっかりしてなきゃいけませんから。医者としても、師匠としても、ね。というわけで、悪いけどこのあたりで失礼させてくださいね。これから往診に行くところだったんです。」
気持ちをさっと切り替えて、鈴仙曰く「お医者モード」の表情を作る。そう、この妖怪と話している間にも、私を待っている患者さん方は、苦しんでいるのだから。彼らを苦しみから救うためにも、私は悩んだりしている場合ではないのだから。
八意は、小傘に背を向けてすたすたと歩きだした。その去りゆく背中に、小傘がもう一つだけ、声を掛けた。
「傘、持っていかなくても大丈夫?」
さっきも言ったのに、八意は再度空を確かめてから、一度だけ振り返った。
「大丈夫ですよ、雲なんてないじゃないですか。」
「先生、ありがとうございました。」
いつもならば幸せを感じる言葉なのに、今日のそれには、言ってくれた患者の家の者には悪いが、あまり幸せを感じなかった。「良かったですね、永琳さま」、いつもなら隣から聞こえてくるその声が、今日は、いなかった。
相変わらず私の心は曇天みたいね、そう思い八意が民家を後にすると、まるでタイミングを見計らったかのように、不思議なくらい急に、大雨が降り始めた。まさか、あの妖怪の言った通り、本当に雨になるなんて。想像もしていなかったものだから、当然傘なんて手元にない。軽い雨ながら濡れながら帰るというのも悪くはないのだが、今の雨はそんな悠長なことを言っていられる程度の雨ではない。こんなどしゃ降りの中を傘も差さずに歩けば、それこそ風邪をひいてしまう。
もちろん彼女は人間のように雨に降られてすぐ風邪をひくような脆い身体はしていないが、今の八意の心は、「風邪をひきそう」なくらい弱っていた。
仕方ない。八意は今出たばかりの民家の軒先の下に身を寄せた。そうしていると、そう時間の経たぬうちに、山吹色の傘が見えた。永遠亭で「月みたいでしょう?」という理由から好んで使われる、あれと同じ色。
「永琳さま!?良かった、すれ違いにならなくて…」
今度こそ八意は、真の意味で驚いた。焦り、後悔、罪悪感、それから、雨。あまりの意外なことに、何も言うことが出来なかった。が、そんな八意の心中とは裏腹に、鈴仙の顔は何とも晴れやかなものであった。まるで先程の八意の仕打ちなど、初めからなかったかのように。それがかえって、八意には辛く、そして恐ろしかった。
「急に雨が降るんだもの、永琳さま、きっと傘なくて困っていると思って。」
それなのに鈴仙の顔ときたら、降りしきる雨とは対照的に、なんとも晴れ晴れとしていた。少なくとも八意には、そのように見えた。だが、あんな顔をしておいて、八意の仕打ちを何とも思わなかったはずがないのだ。
対する八意は、相変わらず曇ったような笑みを返すことしかできなかった。ありがとうすら、言えなかった。
結局二人の間に漂う気まずい空気を読み取った鈴仙が、さあ、帰りましょうと促し、二人は会話のないまま、永遠亭への帰路をとぼとぼと辿った。恐ろしいほど静かな時間であった。耳に入るのは、傘に大粒の雨があたる音、地面に雨の体当たりする音、それだけだった。
今までだって、この二人が静かな時間を過ごすことはあった。師弟であり、一緒にいる時間が多いとはいえ、その間中ずっと喋っているわけではない。だが、こんなに居心地の悪い静寂は、初めてだった。
「…私ね、永琳さまに叱ってもらえるの、嬉しいんですよ。」
突然、独り言のように鈴仙が言った。思いもかけぬその言葉に…いや、それ以前に、鈴仙が語りかけてきたことに、再度八意は驚かされた。
「だって、永琳さま、私のこと大事に思ってくれるから叱ってくれるんでしょ?永琳さまの厳しさは愛の証。だから、そういう意味で。」
ああ、この子は。こんなにも純粋なのだ。それなのに自分ときたら?勝手にいらいらして、本当に些細なことで怒って、彼女を傷つけて。
悪い師匠だ、そう八意は心の中で呟いた。そして、そう思ったからこそ、やはり何も言えなかった。
ごめんなさいね…。
そう口にしかけて、しかしその言葉が引っ込んだその時。これまた不自然なほどに、つい今まで土砂降りだった雨が、ぴたりとやんだ。
あ。八意と鈴仙は二人してぽかんと顔を見合わせた。くすり、先に微笑んだのは鈴仙の方で、それにつられるように、やっと八意も微笑んだ。
「…ごめんなさいね。」
やっと、言うことができた。というよりは、ぽろりと口から言葉が零れたようなものだった。
鈴仙はといえば、今度は彼女が驚く番だった。何を、と言うよりは、まさか謝られるとは思っていなかったのだろう。
「だからって、あれは流石に言いすぎたわ。あなたのこと、傷つけてしまったでしょう?」
ああ、怒ってくれ。私を罵ってくれ。傷付いたと、悪い師だと。
だが八意の願いと逆に、鈴仙の口から出たのは、何とも優しい言葉だった。
「…ちょっとだけ。でも、永琳さまのその顔見てたら、傷ついたのはお互い様だったのかな、って思うんです。」
再び言葉が出なくなった。ああ、やはり私は鈴仙を傷つけていたのだ。それなのにこの子は、お互い様だったなどと言って、私のことを気遣ってくれているのだ。それなのに私は、謝罪の言葉すら、中々言い出せなかった。
再び八意の口が石へと化そうとした時。
「お二人さん!どいてください!ちょいと失礼しますよ!」
八意の纏う重苦しい空気とは真逆の、能天気そうな、明るく元気な声。主は寅丸星、命蓮寺の毘沙門天役である。
「…あの、一体どうしたんですか、そんなに慌てて?」
相変わらず中々言葉を紡げない師匠に代わり、鈴仙が落ち着いた様子で…いや、落ち着かせるような様子で尋ねた。
「だって、お二人とも、見て下さいよ、あれ!」
寅丸は少し澄ましたような顔をしながら、彼方の空を指差した。
二人がそちらの方へ目をやると、混じり気のない青色のキャンバスに、見事な虹がかかっていた。不自然というほどではないが、珍しいくらいに鮮やかで大きな虹。外の世界よりは美しいものが多い幻想郷でも、そうそうお目にかかれるものではない。よくよく見れば、指差す寅丸の顔も、それに感動しているのか、強く赤みが差している。
そう言われれば。先程まで聞こえていた雨音の代わりに、小鳥たちが歌いながら空を飛び始めている。しっとりと濡れた木々も、虹に感動しているのだろうか、その青々とした葉から、ぽろぽろ涙を零している。そして、もう一つ、八意の気付かぬ間に、もう一つ感涙を零すものがあった。
「あれの根元近くにね、宝を置きに行くのも、私の仕事の一つなんです。雨が降ったら即スタンバイ、これ、毘沙門天様の常識らしいですよ。」
そう言う寅丸の金色の髪や衣服も、よくよく見ればうっすらと涙を浮かべているのであった。雨が降ったらスタンバイ、とは、すなわち雨が降ったら傘も差さずにとりあえず虹の掛かりそうなところへ走れ、そういう意味なのだろうか。
「どうです、お二人も一緒に行きません?飛べばすぐですよ。あ、でも宝はあげませんからね?」
「…ありがとう。でも、私たちはゆっくり歩いて目指すことにしますよ。」
寅丸の邪気のない笑顔のおかげだからだろうか、今度こそ八意は自然に言葉を紡ぐことができた。
「その方が、虹をゆっくり見れるから。ね、鈴仙。」
先程まで話しかけるのが恐かったのに、なぜだかこんなに自然に話しかけることができた。これだ。これが、普段の私と、鈴仙だ。謝ることができたからだろうか、いや、だが謝った後にも、あのもやもやはまだ残っていたはずだ。それならなぜ、今の自分はこんなに晴れ晴れとした気持ちで、鈴仙に話しかけることができたのだろう。
「はい、永琳さま!」
答える鈴仙の顔も、先程までより、更に明るくなっていた。その頬はやはり寅丸のように赤いが、恐らく虹だけが理由ではないだろう。
そして、八意本人も気付いてはいなかったのだが、彼女の顔もまた、同様に赤みがかっていた。
「そうですかぁ…ま、確かに近寄ったら虹って見えなくなっちゃいますしね。ま、どっちにしたって私は行かなきゃいけないんだけど。」
それじゃあ。そう言って寅丸は、文字通り虹の出ている方角へと飛んで行った。
後にまた、二人だけが残された。ただし、今度の二人はもう、決して気まずいものではなかった。
「…それにしても、今日の天気、すごく変でしたよね。」
今なら分かる。先程までの鈴仙は、やはり気を遣っていたのだ。今の声こそ、本当の鈴仙の声、自然に師匠に話しかける時の、彼女の声だ。
「そうね。八雲の式がとうとう結婚することにでもなったのかしら。」
八意の方も、冗談で返すだけの余裕が出てきた。いつもの調子、だ。
「相手は…さしずめその式、ってところでしょうか?」
「…あの親馬鹿なら、本当にやりかねないわね。」
自然な笑みと自然な笑み。
雨を降らさずとも、青い空を灰色に見えさせる雲は、気付かぬうちにどこかへ行ってしまっていた。後に残ったのは、本当に青い色に見える空と、そしてどこかとどこか、二つの間に架かる、鮮やかな橋だけだった。
仲睦まじく微笑みながら、竹林へ、その奥へと向かう二人。その後ろ姿は、傍から…いや、近所の民家の屋根の上から遠目に見ても、とても幸せそうだった。
そして、幸せそうな二人を見ながら、縁の色の彼女もまた、鼻歌交じりに幸せそうに微笑むのだった。
あと永琳さまと師匠呼びが混ざってるのが若干気になりました
神視点でも会話文でも
最後の人物は誰なのかの描写がもうちょい欲しかったかも
そういうのもあるのか