さわやかな風に身体を撫でられ、彼は覚醒した。
彼は直前まで己の部屋で寝ていたはず。だというのに、この風はどういうことか。ぼやける視界に瞼を擦りながら上体を起こし、彼は辺りを見回した。
そして彼は、自分が森の中、開けた場所に横たわっているという事実を知った。
夢であろうか。それにしては尻に敷いた草の質感がリアルだ。地面から立ち上る土の匂い。そして徐々にはっきりする意識。彼は己に問うた。――未だに寝てはおらぬか、と。
頬を抓り、平手打ちし、鼻フックしてようやく確信を得る。夢ではない。痛みは感じるし、涙も出そうになる。だが夢ではないという事実は彼を更に混乱させた。
夢ではないなら尚更何故、自分はこのような場所に居るのか。彼は立ち上がり、もう一度辺りを見回した。すっかり木々に囲まれたこの場所は、人の気配を感じさせなかった。ふと彼は心細さを感じた。自分はここに歓迎されていないのではないだろうか、そんなことを感じた。
のっしのっしと歩き出し、森の中に分け入っていく。とにかくここではない何処かへ、人の居る場所へ行きたくなった。誰かに会えば、この状況の説明もしてもらえるかもしれない。稽古部屋の兄弟子達がひょっこり出てきてくれるかもしれない。そして、これが性質の悪い悪戯だったと、笑いながら謝るかもしれない――。彼は希望的観測を胸に、枝を押しのけ、茂みを掻き分け、また一段と開けた場所へ出た。先程とは比べ物にならぬほどの広大な空き地である。
そこには寂れた神社があった。陽光を受ける瓦屋根が鈍く照り返し、石畳の向こうには今にも崩れそうな鳥居がそびえている。掠れた文字は読みにくく、わざわざ鳥居の下まで行き、脳内で欠けた箇所を補完してようやく読めるほどであった……『博麗神社』。
はて聞いたこともない神社である。ここは一体全体どこなのか、誰がここに連れてきたのか、それともこれはただの夢か? 彼の中での意識が曖昧になったその時。
「あら」
声が、した。彼は顔をそちらへ向け、『彼女』を見た。独特なデザインの紅白巫女服に身を包んだ、彼女を。
彼は人が居たことに安堵し、声を掛けようとした。だが彼女の小声の独り言がそれを遮った。
「……はぁ、アイツ本当に連れてきたのね……」
アイツ? とは誰だ。それを問おうとした彼は、更に現れた人物に言葉を封殺された。紅白と対照的な白黒の服を纏った少女が、空から箒に乗って(この時点で彼は自分に何発か張り手した)勢いよく降りてきたのだ。
「よー霊夢ゥ、遊びに来たぜ……って誰だコイツ」
まるで魔女のようないでたちの少女……ご丁寧にとんがり帽子まで被っている……は、紅白の巫女の隣から、あからさまな敵意をもってこちらを睨んでいる。一方の彼は、これはもう夢に違いないという確信を持ち、ある意味での諦めをもって現状を受け入れ始めていた。
紅白の彼女はそんな白黒衣装を制止し、溜め息を吐いた。
「やめなさい、魔理沙。コイツは必要だから呼ばれたのよ、『力士』としてね」
「リキシィ? なんだそれ……よく分からんが危険なら」
「だからやめなさいって言ってるでしょ、分からず屋。相撲よ、聞いたことくらいあるでしょ」
「相撲? リキシ……力士か! 読んだことあるぞ、図書館で……ハハァ、道理でえらく立派な体型のわけだ」
彼女達の中で納得が深まるのを蚊帳の外で眺めながら、彼はその会話の中、相撲という単語を何度も何度もリフレインしていた。
相撲。少し前の彼ならその言葉を聞くだけで目を輝かせ、食いついていただろう。だが今の彼にとってその単語は、色彩を欠いた、過去の遺物に過ぎなかった。
「ねえアンタ」
呼ばれた声に反応し、顔を上げる。紅白の巫女は片目を瞑り、品定めするかのようにこちらを見つめていた。ぶしつけなその視線に怯み、何も言えないでいると、彼女はそのまま言葉を続ける。
「……夢だと思ってるでしょう。実際これは夢みたいなモンよ、すぐに覚める夢。だからちょっとした頼まれごとに付き合ってくれない? すぐ終わるから」
夢、らしい。彼女はあまりにも淡々としていた。それが余計に現実離れした印象を与えた。そして彼も、これが夢だと思うことにした。夢の中でくらい、夢に任せるとしよう。彼は了承の意を伝えた。
◆
「……ふぅーん、力士ってのは大変なんだな……」
人里の団子屋にて。みたらし団子をもっちゃもっちゃと咀嚼しながら、白黒の少女『魔理沙』が呟く。その横、紅白の巫女服『霊夢』は通りの方を見つめながら茶を啜っている。
空は既に夕暮れに染まり、山並みに消えようとする太陽が橙の光を投げ掛ける。紅葉に染まる山と夕焼けの光景は、どこか懐かしく、切ない雰囲気を感じさせた。
「でもさぁ」
魔理沙の声に、視線をそちらに戻す。彼女は団子を茶で流し込むと、一息つき、そしてこちらを見つめてその言葉を発した。
「なんでお前、相撲の話する時そんな浮かない顔なんだ?」
……顔に出ていたらしい。曖昧な笑みで誤魔化そうとし、喉から引き攣った息が漏れた。このまま全て、あの真っ直ぐな瞳に見透かされるのが怖かった。
――相撲。幼い頃にテレビで見た大相撲。まるで熱に浮かされるように、ずっと見ていた。相撲に取り憑かれていた。相撲取りになりたいと願った。相撲が自分の夢になっていた。
そして相撲界に入った。厳しい身体づくり、稽古の連続だったが、それでも夢の為に頑張って来た。あの時テレビで見たあの相撲に、少しでも近付きたかった。少しずつ、だが着実に、番付も上がって来ていた。
だが運命は残酷だった。ある時、稽古の途中に、少し受け身を取り損ねた。常人にとっては大した怪我ではなかろうが、数か月の療養を余儀なくされた。
数か月。それまで築いてきた自分の技が訛り、腐るには十分すぎる期間だった。周りの人間はどんどん上へ登って行った。自分は格付をどんどん落とし、気付いた時には界隈の底辺。最初は荒れていたが、次第に荒れることすら出来なくなっていた。自分が腐っていると気付くのに時間は掛からなかった。
もう少ししたら相撲を辞めるつもりだった。いつまでも夢の残骸の中、佇んでいたくはなかった。だが、今見ているこの、この夢は。己の意志とは反していた。
「あ、来たわね」
「博麗の、久しぶりねぇ」
通りの向こうから、ひらひらと手を振って歩いてくる女性。奇妙な帽子……葡萄? がなった帽子をかぶっている。いかにも夢らしいバカげた恰好だ。そしてもう一人、リュックを背負った青髪の少女……。
一瞬その女性達から妙な雰囲気を感じ取ったが、所詮夢だ。気にすることも無かろう。
妙な帽子の女性がこちらを見、会釈してくる。立ち上がり、会釈を返すと、彼女はにこやかに笑って手を差し出してきた。
「私は秋 穣子。貴方が今回の祭りに参加してくれる力士さんかしら?」
握手に応じながら頷く。そう、今回この夢の中で、どうやら自分は祭りに呼ばれたらしい。
「ありがとねー、ほんとに。人里の方でも一応力士は育ててたみたいなんだけどさ、ちょっと怪我して出場できないみたいでねー」
からから笑う穣子は握手を終え、隣の霊夢を見る。霊夢は見つめ返し、何やらよく分からないジェスチャーを飛ばす。穣子はそれを見、頷いてこちらに視線を戻した。
「今回の『収穫祭』、存分に盛り上げていってね。期待してるよ、力士さん」
そして嬉しそうに笑い、霊夢と連れ立って団子屋の中へと入って行った。残された青髪の少女は、興味深々にこちらを見上げ、しきりに何か唸っている。
引き気味なこちらの態度に気付いたのか、その少女はコホンと咳払いし、胸に手を当てて自己紹介を開始した。
「わ、私は河城にとり。今回の収穫祭で貴方と相撲を取る『河童』だよ、よろしくっ!」
河童。また荒唐無稽なことを言っている。まあ夢ならば仕方あるまいが、自分の見る夢はこのように混沌としていただろうか。にとりは暫くこちらを見つめていたが、やがて目を輝かせ、ほうっと溜め息を吐いた。
「力士、初めて見たよ。知ってる? 昔から力士とか相撲ってのはさ、神事には欠かせない存在で、神聖なものとして扱われてきたんだ。だから感動だよ私、『外の世界』でもまだ続いてたんだね……」
外の世界とは何だろうか。しかしそれを深く考えるよりも、自分がここで歓迎されているという事実に、心が不思議な感触を覚えた。これは自分の見ている夢。相撲に絶望したと思っていた自分の中にも、まだこんな心が残っていたのだろうか。にとりの笑顔は晴れやかで、眩しいものだった。
と、団子を食べ終えたらしい魔理沙がすっくと立ちあがり、こちらを見てにやっと笑った。
「……相撲って、生で見るの生まれて初めてなんだ。頑張ってくれよな、面白そうだぜ」
あまりにも純粋な笑み達に、何も言えなくなり、遠い山々に視線を移す。陽が沈み、空が黒く染まろうとしていた。
◆
パチパチと篝火が燃え、夜闇に火の粉が飛んでゆく。幕の内側から見える世界はぼんやりとしており、躍る炎がぼんやりと映る。空は暗く、星が輝き始めている。
己の名が、外から呼ばれた。深呼吸を一つおき、幕を潜り、外へ出た。土俵の周りに集まっていた沢山の人がこちらを見た。
注連縄で区切られた道を歩き、土俵の上へと行き着く。紅白の巫女が、大幣を手に持ち、こちらを見つめている。ほぼ同じタイミングで、反対方向から歩いてきたにとりが土俵入りした。彼女は青いレオタードのような服に着替えていた。
にとりと向かい合い、そのままじっと見合う。静かな空間。一呼吸置き、霊夢が祝詞を読み上げ始める。小鼓を担いだ男たちが土俵の周りを回り出し、霊夢の祝詞に合わせて小鼓を打つ。三周もしただろうか。霊夢の声が止んだ。
役目を終えた霊夢は背後の行司と代わり、土俵の外の座布団へ座りに行く。行司はにとりとこちらを交互に見つめ、頷いた。
頷き返し、にとりを見る。にとりも頷き、腰を落として手水を切った。こちらもそれに倣い、同じようにする。これにて互いに武器を持っていないことが確認され、正々堂々、素手で勝負することとなる。
仕切りの動作に入りながら、この夢についてぼんやりと考えた。この夢はどうやら自分にとって諦めきれぬ『相撲』が滲み出した、その形らしい。今、大勢の観衆の中で相撲を取るこの状況は、怪我をする前の自分の取り組みを彷彿とさせる。
この夢の中では、相撲が盛り上がれば盛り上がるほど良いと、そういうことだそうだ。これなど正に、幼い頃自分がテレビで見ていた、あの大相撲そのままではないか。
仕切りも最終動作。にとりと自分は仕切り線に拳をついて準備する。行司も腰を屈め、用意する。静寂。己の夢だと分かっていても尚、この静けさの中では緊張した。筋肉がぴくりと動いた。
次の瞬間、にとり目掛けて突進した。ほぼ同時に、にとりもこちらに突進していた。ぶつかった。
瞬間、思わず目を見開いた。にとりというこの少女の、小さな身体からは想像できないほどの、膂力。二倍、いや下手をすると三倍も体格差があろうというのに、この力は!
押される! 暴走機関車のような勢いで、にとりが圧倒してくる。土俵際でなんとかこらえ、もう一度全身に力を込め直そうとする。だが直後、廻しを下から掴まれ、土俵の外へと投げられていた。
ぎこちない受け身を取り、地面に手をついてにとりを見上げる。にとりは爽やかな笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。いつの間にか、辺りは歓声に包まれていた。
まだ終わっていない。事前に伝えられていた通り、これは『三本勝負』。もう一度チャンスはある。
だが、身体は拒否していた。全盛期の半分ほども力が籠らない。腐っていた期間がいかに自分を堕落せしめたか、もう一度夢の中で確認することになろうとは。ズキリと、痛むはずのない古傷が疼いた。
思考を切り捨て、もう一度仕切りの動作に入る。にとりも腰を屈め、仕切り線に拳をつける。深呼吸し、一拍遅れてこちらも仕切り線に拳をつけた。直後、再びぶつかった。
今度は慢心はない。自分と同じ、否、それ以上の大男と取り組むつもりで踏ん張った。にとりの身体が強張った。こちらも全身の筋肉に喝を入れ、すくいあげるように前進を続ける。
身体の中、炎が燃えているのを感じた。もっと行ける。行けるのだ。にとりの足が土俵を擦り、どんどんと後退させられてゆく。歓声が遠く聞こえる。「残った残った」という行司の声も遠くなる。
土俵際。にとりは踏ん張ろうとした。だがさせなかった。そのまま押し切り、土俵の外へと押し出した。彼女の足が、土俵外、蛇の目についた。
歓声が爆発した。行司の軍配がこちらに上がるのを見た。にとりを離し、その顔を見た。驚いたような笑み。そこから全く焦りは見えない。
外を見た。霊夢は目を閉じ、茶を飲んでいた。その隣、穣子は楽しそうな様子でこちらを見ている。魔理沙もこちらを見、声援を送っている。その声は大勢に掻き消されて聞こえないが、嬉しかった。
もう一戦。これで決着が着く。
仕切りの動作、そして仕切り線へ拳を。にとりも顔から笑みを消し、仕切りの動作、そして腰を落とし、こちらを見据えた。一瞬だけ、静かな空間に戻っていた。はっけようい。行司の声。にとりの拳が……仕切り線に……つく。
瞬間、土俵が震えるほどの瞬発力で、二人の身体がぶつかった。そして、またも驚愕した。
にとりの膂力が、さきほどの二戦とは比べ物にならない。一瞬だけ踏ん張れたが、直後、彼女の突進はこちらの巨体を巻き込み、後退させ始めた。
土俵に足をつけ、持ち直そうとする。だが無駄である。万全の姿勢であるにも関わらず、彼女の膂力がなお上回り、ずりずりと押してくるのだ。
そして、理解した。この相撲は収穫祭の一端であり、盛り上がれば盛り上がるほど良い。もしにとりが、盛り上げに徹するため、先程までの二戦を、手を抜いて戦っていたとしたら? そして最後の一戦に、全力を出しに来たとしたら?
土俵際はもうすぐ後ろだった。全力で抗いながらも、無力感にさいなまれた。このまま負けるのだろうか。ここまで来て、ようやく自分の脳内で納得がいった。これは確かに自分の夢だ。かつての自分は苦しいことや辛いことに耐え、少しずつ大相撲へと近付いて行った。だが怪我をしてしまい、自分の夢から転げ落ちた。今、自分は夢の中、土俵から落ちようとしている。
自嘲気味の笑みが唇に浮かんだ。土俵際に足がついた。もう、遅いのだろう。だがいいじゃないか。夢の中、この相撲は盛り上がった。収穫祭としては上々の出来だろう。このまま負けて、誰が自分を責めることができよう? 行司が軍配を握り締めていた。
にとりが廻しを取り、投げの姿勢に入った。驚異的な膂力で持ち上げられ、片足が浮いた。目を瞑った。割れるような歓声が蘇り、そして、
「負けんなあああああああああああ!!!」
その、声が、聞こえた。目を見開いた。その声のした方を見た。彼女は、白黒の少女は、帽子を抑え、もう一度、叫んだ。
「諦めんな、まだ勝てる!!」
まだ勝てる。一瞬が引き伸ばされた。まだ勝てる。まだ、自分は、勝てる。浮いた片足。廻しを掴み、投げを完成させようとするにとり。だがまだ軍配は上がっていない。行司が見えた。
「発気揚々!!」
「おおおおおおおおお!!」
叫んだ。
浮いた片足に強引な力を込め、思い切り土俵に叩き付けた。
強烈な四股に、にとりが目を見開いた。土俵が、揺れた。霊夢が片目を開いた。穣子が思わず膝立ちになった。魔理沙がにやりと笑った。
にとりが笑うのが見えた。彼女の懐へ全力で突っ込んだ。そして……。
◆
目が覚めると、彼は己の部屋、布団の上に寝転がっていた。
ぼう、としたまま、彼は起き上がった。時計は既に朝の稽古の時間を告げている。稽古場からは既に兄弟子達の稽古の音が聞こえてくる。
夢を見ていた、らしい。彼は己の掌を見た。そして立ち上がり、廊下へ出た。そこに夢の中のような森は広がっておらず、飾り気のない電灯が天井にならぶ空間であった。
だが、確かにそれはあった。彼は拳を握り、前を向いた。
そして稽古場へ向かって行った。
彼は直前まで己の部屋で寝ていたはず。だというのに、この風はどういうことか。ぼやける視界に瞼を擦りながら上体を起こし、彼は辺りを見回した。
そして彼は、自分が森の中、開けた場所に横たわっているという事実を知った。
夢であろうか。それにしては尻に敷いた草の質感がリアルだ。地面から立ち上る土の匂い。そして徐々にはっきりする意識。彼は己に問うた。――未だに寝てはおらぬか、と。
頬を抓り、平手打ちし、鼻フックしてようやく確信を得る。夢ではない。痛みは感じるし、涙も出そうになる。だが夢ではないという事実は彼を更に混乱させた。
夢ではないなら尚更何故、自分はこのような場所に居るのか。彼は立ち上がり、もう一度辺りを見回した。すっかり木々に囲まれたこの場所は、人の気配を感じさせなかった。ふと彼は心細さを感じた。自分はここに歓迎されていないのではないだろうか、そんなことを感じた。
のっしのっしと歩き出し、森の中に分け入っていく。とにかくここではない何処かへ、人の居る場所へ行きたくなった。誰かに会えば、この状況の説明もしてもらえるかもしれない。稽古部屋の兄弟子達がひょっこり出てきてくれるかもしれない。そして、これが性質の悪い悪戯だったと、笑いながら謝るかもしれない――。彼は希望的観測を胸に、枝を押しのけ、茂みを掻き分け、また一段と開けた場所へ出た。先程とは比べ物にならぬほどの広大な空き地である。
そこには寂れた神社があった。陽光を受ける瓦屋根が鈍く照り返し、石畳の向こうには今にも崩れそうな鳥居がそびえている。掠れた文字は読みにくく、わざわざ鳥居の下まで行き、脳内で欠けた箇所を補完してようやく読めるほどであった……『博麗神社』。
はて聞いたこともない神社である。ここは一体全体どこなのか、誰がここに連れてきたのか、それともこれはただの夢か? 彼の中での意識が曖昧になったその時。
「あら」
声が、した。彼は顔をそちらへ向け、『彼女』を見た。独特なデザインの紅白巫女服に身を包んだ、彼女を。
彼は人が居たことに安堵し、声を掛けようとした。だが彼女の小声の独り言がそれを遮った。
「……はぁ、アイツ本当に連れてきたのね……」
アイツ? とは誰だ。それを問おうとした彼は、更に現れた人物に言葉を封殺された。紅白と対照的な白黒の服を纏った少女が、空から箒に乗って(この時点で彼は自分に何発か張り手した)勢いよく降りてきたのだ。
「よー霊夢ゥ、遊びに来たぜ……って誰だコイツ」
まるで魔女のようないでたちの少女……ご丁寧にとんがり帽子まで被っている……は、紅白の巫女の隣から、あからさまな敵意をもってこちらを睨んでいる。一方の彼は、これはもう夢に違いないという確信を持ち、ある意味での諦めをもって現状を受け入れ始めていた。
紅白の彼女はそんな白黒衣装を制止し、溜め息を吐いた。
「やめなさい、魔理沙。コイツは必要だから呼ばれたのよ、『力士』としてね」
「リキシィ? なんだそれ……よく分からんが危険なら」
「だからやめなさいって言ってるでしょ、分からず屋。相撲よ、聞いたことくらいあるでしょ」
「相撲? リキシ……力士か! 読んだことあるぞ、図書館で……ハハァ、道理でえらく立派な体型のわけだ」
彼女達の中で納得が深まるのを蚊帳の外で眺めながら、彼はその会話の中、相撲という単語を何度も何度もリフレインしていた。
相撲。少し前の彼ならその言葉を聞くだけで目を輝かせ、食いついていただろう。だが今の彼にとってその単語は、色彩を欠いた、過去の遺物に過ぎなかった。
「ねえアンタ」
呼ばれた声に反応し、顔を上げる。紅白の巫女は片目を瞑り、品定めするかのようにこちらを見つめていた。ぶしつけなその視線に怯み、何も言えないでいると、彼女はそのまま言葉を続ける。
「……夢だと思ってるでしょう。実際これは夢みたいなモンよ、すぐに覚める夢。だからちょっとした頼まれごとに付き合ってくれない? すぐ終わるから」
夢、らしい。彼女はあまりにも淡々としていた。それが余計に現実離れした印象を与えた。そして彼も、これが夢だと思うことにした。夢の中でくらい、夢に任せるとしよう。彼は了承の意を伝えた。
◆
「……ふぅーん、力士ってのは大変なんだな……」
人里の団子屋にて。みたらし団子をもっちゃもっちゃと咀嚼しながら、白黒の少女『魔理沙』が呟く。その横、紅白の巫女服『霊夢』は通りの方を見つめながら茶を啜っている。
空は既に夕暮れに染まり、山並みに消えようとする太陽が橙の光を投げ掛ける。紅葉に染まる山と夕焼けの光景は、どこか懐かしく、切ない雰囲気を感じさせた。
「でもさぁ」
魔理沙の声に、視線をそちらに戻す。彼女は団子を茶で流し込むと、一息つき、そしてこちらを見つめてその言葉を発した。
「なんでお前、相撲の話する時そんな浮かない顔なんだ?」
……顔に出ていたらしい。曖昧な笑みで誤魔化そうとし、喉から引き攣った息が漏れた。このまま全て、あの真っ直ぐな瞳に見透かされるのが怖かった。
――相撲。幼い頃にテレビで見た大相撲。まるで熱に浮かされるように、ずっと見ていた。相撲に取り憑かれていた。相撲取りになりたいと願った。相撲が自分の夢になっていた。
そして相撲界に入った。厳しい身体づくり、稽古の連続だったが、それでも夢の為に頑張って来た。あの時テレビで見たあの相撲に、少しでも近付きたかった。少しずつ、だが着実に、番付も上がって来ていた。
だが運命は残酷だった。ある時、稽古の途中に、少し受け身を取り損ねた。常人にとっては大した怪我ではなかろうが、数か月の療養を余儀なくされた。
数か月。それまで築いてきた自分の技が訛り、腐るには十分すぎる期間だった。周りの人間はどんどん上へ登って行った。自分は格付をどんどん落とし、気付いた時には界隈の底辺。最初は荒れていたが、次第に荒れることすら出来なくなっていた。自分が腐っていると気付くのに時間は掛からなかった。
もう少ししたら相撲を辞めるつもりだった。いつまでも夢の残骸の中、佇んでいたくはなかった。だが、今見ているこの、この夢は。己の意志とは反していた。
「あ、来たわね」
「博麗の、久しぶりねぇ」
通りの向こうから、ひらひらと手を振って歩いてくる女性。奇妙な帽子……葡萄? がなった帽子をかぶっている。いかにも夢らしいバカげた恰好だ。そしてもう一人、リュックを背負った青髪の少女……。
一瞬その女性達から妙な雰囲気を感じ取ったが、所詮夢だ。気にすることも無かろう。
妙な帽子の女性がこちらを見、会釈してくる。立ち上がり、会釈を返すと、彼女はにこやかに笑って手を差し出してきた。
「私は秋 穣子。貴方が今回の祭りに参加してくれる力士さんかしら?」
握手に応じながら頷く。そう、今回この夢の中で、どうやら自分は祭りに呼ばれたらしい。
「ありがとねー、ほんとに。人里の方でも一応力士は育ててたみたいなんだけどさ、ちょっと怪我して出場できないみたいでねー」
からから笑う穣子は握手を終え、隣の霊夢を見る。霊夢は見つめ返し、何やらよく分からないジェスチャーを飛ばす。穣子はそれを見、頷いてこちらに視線を戻した。
「今回の『収穫祭』、存分に盛り上げていってね。期待してるよ、力士さん」
そして嬉しそうに笑い、霊夢と連れ立って団子屋の中へと入って行った。残された青髪の少女は、興味深々にこちらを見上げ、しきりに何か唸っている。
引き気味なこちらの態度に気付いたのか、その少女はコホンと咳払いし、胸に手を当てて自己紹介を開始した。
「わ、私は河城にとり。今回の収穫祭で貴方と相撲を取る『河童』だよ、よろしくっ!」
河童。また荒唐無稽なことを言っている。まあ夢ならば仕方あるまいが、自分の見る夢はこのように混沌としていただろうか。にとりは暫くこちらを見つめていたが、やがて目を輝かせ、ほうっと溜め息を吐いた。
「力士、初めて見たよ。知ってる? 昔から力士とか相撲ってのはさ、神事には欠かせない存在で、神聖なものとして扱われてきたんだ。だから感動だよ私、『外の世界』でもまだ続いてたんだね……」
外の世界とは何だろうか。しかしそれを深く考えるよりも、自分がここで歓迎されているという事実に、心が不思議な感触を覚えた。これは自分の見ている夢。相撲に絶望したと思っていた自分の中にも、まだこんな心が残っていたのだろうか。にとりの笑顔は晴れやかで、眩しいものだった。
と、団子を食べ終えたらしい魔理沙がすっくと立ちあがり、こちらを見てにやっと笑った。
「……相撲って、生で見るの生まれて初めてなんだ。頑張ってくれよな、面白そうだぜ」
あまりにも純粋な笑み達に、何も言えなくなり、遠い山々に視線を移す。陽が沈み、空が黒く染まろうとしていた。
◆
パチパチと篝火が燃え、夜闇に火の粉が飛んでゆく。幕の内側から見える世界はぼんやりとしており、躍る炎がぼんやりと映る。空は暗く、星が輝き始めている。
己の名が、外から呼ばれた。深呼吸を一つおき、幕を潜り、外へ出た。土俵の周りに集まっていた沢山の人がこちらを見た。
注連縄で区切られた道を歩き、土俵の上へと行き着く。紅白の巫女が、大幣を手に持ち、こちらを見つめている。ほぼ同じタイミングで、反対方向から歩いてきたにとりが土俵入りした。彼女は青いレオタードのような服に着替えていた。
にとりと向かい合い、そのままじっと見合う。静かな空間。一呼吸置き、霊夢が祝詞を読み上げ始める。小鼓を担いだ男たちが土俵の周りを回り出し、霊夢の祝詞に合わせて小鼓を打つ。三周もしただろうか。霊夢の声が止んだ。
役目を終えた霊夢は背後の行司と代わり、土俵の外の座布団へ座りに行く。行司はにとりとこちらを交互に見つめ、頷いた。
頷き返し、にとりを見る。にとりも頷き、腰を落として手水を切った。こちらもそれに倣い、同じようにする。これにて互いに武器を持っていないことが確認され、正々堂々、素手で勝負することとなる。
仕切りの動作に入りながら、この夢についてぼんやりと考えた。この夢はどうやら自分にとって諦めきれぬ『相撲』が滲み出した、その形らしい。今、大勢の観衆の中で相撲を取るこの状況は、怪我をする前の自分の取り組みを彷彿とさせる。
この夢の中では、相撲が盛り上がれば盛り上がるほど良いと、そういうことだそうだ。これなど正に、幼い頃自分がテレビで見ていた、あの大相撲そのままではないか。
仕切りも最終動作。にとりと自分は仕切り線に拳をついて準備する。行司も腰を屈め、用意する。静寂。己の夢だと分かっていても尚、この静けさの中では緊張した。筋肉がぴくりと動いた。
次の瞬間、にとり目掛けて突進した。ほぼ同時に、にとりもこちらに突進していた。ぶつかった。
瞬間、思わず目を見開いた。にとりというこの少女の、小さな身体からは想像できないほどの、膂力。二倍、いや下手をすると三倍も体格差があろうというのに、この力は!
押される! 暴走機関車のような勢いで、にとりが圧倒してくる。土俵際でなんとかこらえ、もう一度全身に力を込め直そうとする。だが直後、廻しを下から掴まれ、土俵の外へと投げられていた。
ぎこちない受け身を取り、地面に手をついてにとりを見上げる。にとりは爽やかな笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。いつの間にか、辺りは歓声に包まれていた。
まだ終わっていない。事前に伝えられていた通り、これは『三本勝負』。もう一度チャンスはある。
だが、身体は拒否していた。全盛期の半分ほども力が籠らない。腐っていた期間がいかに自分を堕落せしめたか、もう一度夢の中で確認することになろうとは。ズキリと、痛むはずのない古傷が疼いた。
思考を切り捨て、もう一度仕切りの動作に入る。にとりも腰を屈め、仕切り線に拳をつける。深呼吸し、一拍遅れてこちらも仕切り線に拳をつけた。直後、再びぶつかった。
今度は慢心はない。自分と同じ、否、それ以上の大男と取り組むつもりで踏ん張った。にとりの身体が強張った。こちらも全身の筋肉に喝を入れ、すくいあげるように前進を続ける。
身体の中、炎が燃えているのを感じた。もっと行ける。行けるのだ。にとりの足が土俵を擦り、どんどんと後退させられてゆく。歓声が遠く聞こえる。「残った残った」という行司の声も遠くなる。
土俵際。にとりは踏ん張ろうとした。だがさせなかった。そのまま押し切り、土俵の外へと押し出した。彼女の足が、土俵外、蛇の目についた。
歓声が爆発した。行司の軍配がこちらに上がるのを見た。にとりを離し、その顔を見た。驚いたような笑み。そこから全く焦りは見えない。
外を見た。霊夢は目を閉じ、茶を飲んでいた。その隣、穣子は楽しそうな様子でこちらを見ている。魔理沙もこちらを見、声援を送っている。その声は大勢に掻き消されて聞こえないが、嬉しかった。
もう一戦。これで決着が着く。
仕切りの動作、そして仕切り線へ拳を。にとりも顔から笑みを消し、仕切りの動作、そして腰を落とし、こちらを見据えた。一瞬だけ、静かな空間に戻っていた。はっけようい。行司の声。にとりの拳が……仕切り線に……つく。
瞬間、土俵が震えるほどの瞬発力で、二人の身体がぶつかった。そして、またも驚愕した。
にとりの膂力が、さきほどの二戦とは比べ物にならない。一瞬だけ踏ん張れたが、直後、彼女の突進はこちらの巨体を巻き込み、後退させ始めた。
土俵に足をつけ、持ち直そうとする。だが無駄である。万全の姿勢であるにも関わらず、彼女の膂力がなお上回り、ずりずりと押してくるのだ。
そして、理解した。この相撲は収穫祭の一端であり、盛り上がれば盛り上がるほど良い。もしにとりが、盛り上げに徹するため、先程までの二戦を、手を抜いて戦っていたとしたら? そして最後の一戦に、全力を出しに来たとしたら?
土俵際はもうすぐ後ろだった。全力で抗いながらも、無力感にさいなまれた。このまま負けるのだろうか。ここまで来て、ようやく自分の脳内で納得がいった。これは確かに自分の夢だ。かつての自分は苦しいことや辛いことに耐え、少しずつ大相撲へと近付いて行った。だが怪我をしてしまい、自分の夢から転げ落ちた。今、自分は夢の中、土俵から落ちようとしている。
自嘲気味の笑みが唇に浮かんだ。土俵際に足がついた。もう、遅いのだろう。だがいいじゃないか。夢の中、この相撲は盛り上がった。収穫祭としては上々の出来だろう。このまま負けて、誰が自分を責めることができよう? 行司が軍配を握り締めていた。
にとりが廻しを取り、投げの姿勢に入った。驚異的な膂力で持ち上げられ、片足が浮いた。目を瞑った。割れるような歓声が蘇り、そして、
「負けんなあああああああああああ!!!」
その、声が、聞こえた。目を見開いた。その声のした方を見た。彼女は、白黒の少女は、帽子を抑え、もう一度、叫んだ。
「諦めんな、まだ勝てる!!」
まだ勝てる。一瞬が引き伸ばされた。まだ勝てる。まだ、自分は、勝てる。浮いた片足。廻しを掴み、投げを完成させようとするにとり。だがまだ軍配は上がっていない。行司が見えた。
「発気揚々!!」
「おおおおおおおおお!!」
叫んだ。
浮いた片足に強引な力を込め、思い切り土俵に叩き付けた。
強烈な四股に、にとりが目を見開いた。土俵が、揺れた。霊夢が片目を開いた。穣子が思わず膝立ちになった。魔理沙がにやりと笑った。
にとりが笑うのが見えた。彼女の懐へ全力で突っ込んだ。そして……。
◆
目が覚めると、彼は己の部屋、布団の上に寝転がっていた。
ぼう、としたまま、彼は起き上がった。時計は既に朝の稽古の時間を告げている。稽古場からは既に兄弟子達の稽古の音が聞こえてくる。
夢を見ていた、らしい。彼は己の掌を見た。そして立ち上がり、廊下へ出た。そこに夢の中のような森は広がっておらず、飾り気のない電灯が天井にならぶ空間であった。
だが、確かにそれはあった。彼は拳を握り、前を向いた。
そして稽古場へ向かって行った。
短い中に熱の詰まった熱い話でした
「夢」の中で何かを掴んだ彼が力士として大成することを願わずにはいれられないですね