ようやく春の兆しが見え、山頂にも暖かな風が吹き始めていた。桜の木はもう少し待て、と言わんばかりに蕾を大きく膨らませている。この花がいっぺんに開くと、この幻想郷は狂ったように宴会をはじめるのだ。人妖幽魔を問わず杯を交わし、語らい、時を忘れる。
「——というわけで小傘ちゃん、宴会の予行演習がしたいんです!」
守矢の風祝にして現人神たる私にも弱点があった。そう、アルコールである。
花見シーズンを目前に控えた今、私の心配事はただ一つである。ここ、守矢神社裏の縁側から見える桜の木も、もはや開花まで秒読みといったところだ。いま、時刻は正午を回っているので、陽射しもますます暖かい。
「うーん、お酒飲めないのは体質だから、無理して飲むことないと思うよ?」
縁側に腰掛けて裸足を揺らす小傘ちゃん。見た目は齢十余の彼女だが、こう見えてお酒を好む。腐っても妖怪……おっといけない。幻想郷には決して珍しいものではない。
もちろん楽しい宴会に反対はしないけれど、素面のまま酔っ払いに囲まれる決まりの悪さたるや。水の水割りロックを右手に、奇跡の力を左手に、妙にテンションの外れた方々と、誤魔化しながら談笑しなければならない。
「そ、それはそうですけど……やっぱり多少の慣れは大事だと思うんです」
妖怪はともかく、私の周囲の人間たちも概ね酒飲みである。これはどうやら幻想郷全体に言えることらしい。幻想郷においてコミュニケーションとは則ち飲みニュケーションであり、一に弾幕、二に宴会、三四がなくて五に弾幕なのだ——ということを、私は数年の幻想郷生活で学んだ。
「まあ、早苗ちゃんだけいつもお水飲んでるよね。確かにそれは少し寂しいかも」
何事も慣れとはよく神奈子様に言って聞かされていたのだから、お酒も少しずつ飲めばきっと慣れるはず。
「そうです、だから小傘ちゃん、付き合ってください!」
「え、えぇ?! ま、待って、そういうのはもう少し、その……今すぐじゃなくても」
突然動揺し始める小傘ちゃん。でも私が待ったところで、桜の木は待ってはくれないのだ。
「いえ、今じゃないと駄目です! それに、こんな事を頼めるのは小傘ちゃんだけなんですから」
「早苗ちゃん……」
すでに酔いが回ったような真っ赤な顔で、小傘ちゃんがこちらを見つめる。これはOKのサインだろうと私は踏んだ。
「じゃあ、今晩に夜雀の屋台でもどうですか?」
小傘ちゃんの頬がまた少し赤くなって、下の方に目線を落とす。澄んだ瞳が何かに呼応するように揺れる。
「そ、それってその、でーとってやつ、かな?」
「え? そうですね、小傘ちゃんとデートです!」
小傘ちゃんとふたりデート。女の子友達なんだから、これくらい言っちゃってもいいか、と思ったけれど、
「さ、っ早苗ちゃんと、でーと……!?」
「こ、小傘ちゃん、本気にしないでください……こっちが恥ずかしいですよ」
小傘ちゃんはすごく素直な子なので、言葉の通りに受け取ってしまったらしい。妖怪の女の子と女子高生とは、コミュニケーションの形態が少し違うみたいだ。
「早苗ちゃんのそういうの、どこまで信じていいかわかんないよ」
ぷぅ、と頬を膨らませる小傘ちゃん。その表情は子供っぽく見えるけれど、膨らんだ頬はなめらかで白く澄んでいて、どこかに艶やかさのようなものも感じる。
「半分くらいは冗談ですよ。小傘ちゃんみたいな子とデートするのも、やぶさかではありませんが」
「……じゃあ、残りの半分は?」
「さあ、何でしょう」
「も、もう、早苗ちゃんのいじわる!」
唐傘を引っ掴んで、慌てて飛び去ろうとする小傘。私は慌てて叫ぶ。
「あっ、小傘ちゃん! ……白、じゃなくて、あっ、行っちゃった」
振り向いた拍子にふわりと浮いた、小傘ちゃんのスカートの中に気を取られているうちに呼び止め損ねてしまった。
「他の人に頼もうか……でも、うーん」
他にアテがないわけじゃない。そうじゃない。小傘ちゃんだから練習に付き合ってと誘った。小傘ちゃんがよかったのだと、自分ではわかっているけれど、その妙な恥ずかしさに耐えられなくて、選び取る気のさらさらない、他の選択肢を徒らに列挙してみる。
「小傘ちゃん……貴女の気持ちはちゃんと伝わってますよ。伝えようとしているわけではないのでしょうが、いくら鈍いと言われ続けた私でも……分かってしまうくらい」
あの子はとても表情が豊かで、考えていることがすぐ顔に出る。私はずっと、人の気持ちを察することが何より苦手だったけれど、あんな小傘ちゃんだからこそ、私はうまく付き合っていけそうな気がする。
「——もう少し、待ってください。私のこの気持ちが、本当に正しくて真っ直ぐな、本当の気持ちなのか……確かめる時間をください」
身体が冷えてきたのなら中に入ってしまえばいいのだが、春の風が連れてくる暖かさは私にここを立ち去る口実をくれなかった。誰もが待ちわびているその蕾、その花が、私の目には少しだけ憂鬱に見えてしまった。
*〜*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
しばらくは小傘ちゃんが去った縁側で何をするでもなくぼんやりとしていたが、そこにとどまる理由ももうなくなってしまった。私は参道に出ていって、ひとまず掃除をし始めた。
芽吹きの季節の参道は、特別掃除が必要な枯葉もない。桜もまだ咲いていないので、花弁が散らかっているわけでもない。とりあえず参道で箒を持っているのが巫女、というアバウトな概念、おそらく霊夢さんに植え付けられたのであろう巫女像を自分に投影して、どうにもすっきりしない気持ちをひとまず足元に置いておく。
その時、勢いよく風を切る音がしたかと思うと、箒越しに見た鳥居の下に、箒の持ち主がもう一人。
「珍しい参拝客ですね」
今時のおとぎ話でも遠慮するような、ステレオタイプな三角帽子。魔女というには乙女趣味すぎる所々のフリル、魔法少女というには似つかわしくないモノクローム。魔法使いとはよく言ったものだ。
「お、早苗じゃないか、今日は随分巫女巫女しい気がするぜ。まあ生憎、参拝の用事はないんだが」
「巫女巫女しいってなんですか……それに、珍しく見えたと思ったら。冷やかしに来ただけですか?」
箒に乗って空を飛ぶのは魔法使いの典型的なイメージなんだろうし、境内でとりあえず箒を持っているだけの私とさほど違いはないような気もする。むしろ同類でもある。
「まあまあ、ここはまだマシなもんさ。霊夢のとこなんか、珍しい参拝客どころか参拝客そのものが珍しいぜ」
「こっちは地道に信仰を集めてるんですから、あっちと比べるのは筋違いですよ」
霊夢さんは人間の参拝客すら少ないものの、色々なところに顔がきくので貰い物には困らないらしい。ただそれが概ね妖怪なので、妖怪神社などと時々揶揄されるのを聞く。
「ふーん、でも、ずっと霊夢の背中追っかけてたじゃないか。最近神社に来ないと思ったら、霊夢のことは諦めたのか?」
「霊夢さんは……って、魔理沙さんどこまで知ってるんです?」
なにせ魔理沙さんは霊夢さんの一番の親友、それを知っていても不思議ではない。そう、私は確かに霊夢さんのことが好きだった。
「そうだな、早苗が霊夢に振られたとこまでしか知らないぜ」
恋心というのは扱えるようなものではなく、人はあくまでそれに振り回される立場でしかない。それゆえに愛の告白というものは、どうしても避けられない場合がある。
「……それで全部ですよ、それ以上はありません」
それは願いを叶えるために。そして時には、叶わぬ願いを断ち切るために。
「そうか。気まずいのも判るが、霊夢は気にしていないだろうから、そのうち顔を出したほうがいいぜ。時間が空くとやりづらくなるからな……これは経験者が言うんだから、間違いない」
「経験者……魔理沙さん、霊夢さんに振られたことが?」
魔理沙さんと霊夢さんは私が幻想郷に来る前からの親友だということは知っていたけれど、親友であってそれ以上のことは想像もしていなかった。二人は理想の友達関係。私にとって、霊夢さんのことを差し置いたとしても、羨ましいくらいの友情。
「博麗の巫女として、恋愛は駄目だとか云々と言われて……まあその話はもういいんだ。霊夢はいつでも早苗を友人として迎えてくれるだろうから、気持ちの整理がついたら会いに行けよ。私が仲介してやってもいいぜ」
きっと霊夢さんはその立場から、あえて自分へのアプローチをすべて断っているのだろう。彼女のことだから、誰に対しても平等に、同じように接してきたに違いない。魔理沙さんにも、そして、私にも。
「そうですね、その時はお願いしましょうか」
魔理沙さんの話も少し気になるけれど、深く追求することは止めた。もう昔のこととして語っているように見えるけれど、そうやって割り切るのに十分な時間が過ぎていると私には断言できないからだ。
しばらくは他愛のない世間話や、魔理沙さんの新作弾幕の話を聞くなどして時間が過ぎた。少し前まではそれなりに日が暮れ始める時間。日の長さに再び春を感じさせられる。
「恥ずかしい話ではあるが……早苗と共通の話題ができたから良しとするか。んじゃ、私はこれで——っと、そうだ」
魔理沙さんは跨りかけた箒から降りると、振り返って拝殿へと歩いた。
「なあ早苗、神社の参道って真ん中を避けて歩くんだったか?」
先ほどはど真ん中を突っ切ってきたような気もするが、それについて言及はしないことにした。そもそも博麗神社でも、魔理沙さんがそんなことを気にしてるところを見たことがない。
「真ん中は神様の通り道なので礼儀としてはそうですが、今神奈子様は家事なさっているでしょうから、大丈夫だと思いますよ」
「それは判りやすくていいぜ。って、早苗は手伝わなくていいのか?」
料理に関しては神奈子様の手際が良すぎて手伝う余地がなく、部屋中に浄化結界を張り巡らせたために掃除がほとんど必要ない。結局こうして判りやすい巫女業で時間を潰しているのだ。
「まあいいか。一応神様っぽいやつに話聞いてもらったし拝殿に一礼くらいはしてやるぜ。ほいっと」
「私は一応現人神です。それに出来れば二礼、加えて二拍ともう一礼くらいお願いしたいですね」
ちゃりん、と小気味のいい音が響く。なんだかんだ言いつつ、魔理沙さんはしっかりお参りをしてくれた。きっと彼女はああ見えて、礼儀は弁えている。霊夢さんに対しては特別無遠慮なのだろう。それと、退治対象の妖怪にも。
「それじゃ、私はこれで失礼するぜ。時間を取って悪かったな。……おぉ?」
今度こそ帰ろうとした魔理沙さんの目の前、山頂から見える傾きかけた太陽。そんな普通の景色が不気味に歪んで、やがて人の形が現れる——
「——早苗、小傘ちゃんが来たよー」
「って、諏訪子様ですか……変な演出しなくていいです」
普通に知らせに来てくれればいいのに、毎度少しずつ違った登場シーンを考えてくる諏訪子様。それはお茶目で可愛らしいのだけれど。
「なんだただの神か、びっくりしたぜ。スキマの妖怪だったらどうしようかと」
「ただとはなんだ、ただとは! こう見えても神格高い方なんだからね」
高い方、と言うにはあまりに高すぎるくらいの神様だが、見た目と物言いのせいで風格がない。帽子がひとりでにぴょこぴょこ跳ねているのは異変というべきか。
「神様だろうが妖怪だろうが、異変を起こしたらただの敵キャラだからな。邪魔が入ったが、私は失礼するぜ!」
まだ少しいじけている諏訪子様をよそに、魔理沙さんは颯爽と箒にまたがって飛んで行ってしまった。邪魔呼ばわりの諏訪子様は傷心のご様子だったが、なにか思い出したようにこちらに振り返った。
「そうだ、小傘ちゃんが社務所の裏で待ってるから、早く行ってあげなよ」
「それ、どうしてわざわざ諏訪子様が伝えに来たんです? すぐそこですし、本人が来れば……」
奥には住居スペースを設けているが、参道に面した所はお守りなどを販売する窓口になっているので、社務所は参道から見えやすいところにある。むしろここからバッチリ見えている。その裏からここまで十メートルもない道のりのために伝言を引き受けるほど、諏訪子様は安い神様ではない。
「困っている人を助けるのも神様じゃないか。それに珍しい人間がいたもんだから、脅かしついでにね」
「小傘ちゃんを助けるというなら、その演出のレクチャーの方がよろしいかと。……それでは、失礼します」
とはいっても目的地はすぐそこなので、別れの挨拶をするほどの距離でもなかった。守矢神社社務所と書かれた看板の傾きを少し直してから、裏手へ回る。すでに日陰はすこし暗くなっていた。
*〜*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
社務所裏手の角まであとおよそ十歩、私は少しだけ歩みを緩める。
なにせ向こうは『驚かせる妖怪』、わざわざ諏訪子様に伝言を頼んでまで私の方から出向かせたのなら、なにか仕掛けているに違いない。
正直なところ、毎度大して怖くもないのだが、こちらが驚かないとなればまともな会話をしてくれるまで倍の時間がかかる。要するにいじけてしまうので、どうにかリアクションを取るべく身構えているのだ。
「……小傘ちゃん、お待たせしました——」
こういう時は名前を呼ぶと、大抵ぴょこっと傘が物陰から飛び出るのでわかりやすい。だが今回は不発のようだった。
あと五歩、四歩、三歩。
二歩。
一歩。
「小傘ちゃっ——」
目に飛び込んできたのは紫色の傘、しかしそれはその役割を放棄するかのごとく閉じられていて、それを持つのは青髪の少女、ウェーブのかかったその透き通るような髪を、綺麗に二つに結んで、
「——それって、私の……」
それを束ねるのは、かえるのヘアゴム。
最近は使っていなかったので所在が分からなくなっていたのに、今どうして小傘ちゃんの髪をまとめているのか。
こちらに気がついた小傘ちゃんが、その瞳だけでこちらを覗く。遠慮がちな視線と、ほんのりと紅色の頬。私は初めて、小傘ちゃんに驚かされてしまった。
「……ごめんね、勝手に使っちゃって。い、嫌なら外す、ちゃんと洗って返すから」
「いえ、大丈夫です。……小傘ちゃん、すごく似合ってますよ」
「ぇ、うぁ、……ありがとう」
普段とは違う髪型を見られるのは確かに少し気恥ずかしいけれど、どうしてそんなに物陰に隠れるほど恥ずかしがっているんだろう。その答えはすぐ分かった。
「小傘ちゃん、その……お揃い、ですね?」
そう、かえるの髪飾りは私のトレードマーク。今まさに私の頭にも付いているそれと同じデザインのものを、小傘ちゃんも使っているのだ。
そのことを考えると、何故か私まで恥ずかしくなる。小傘ちゃんとお揃いのアクセサリー。
「……うん、早苗ちゃん、も……顔、赤いね」
限界だった。髪型を変えた小傘ちゃん、お揃いのかえる、少しぎこちない微笑み、そしてなによりこの雰囲気に慣れない。耐えられない。だから私は、
「そ、そんなことないですよ! それより小傘ちゃん、そのヘアゴムどこで見つけたんですか?」
驚きと、変な心の揺らぎのせいで忘れかけていた疑問を呼び起こす。なぜならそのヘアゴムは私のもので、小傘ちゃんの手に渡るはずはなく、そもそも私自身もなくしてしまっていたのだ。それを手に入れるのは神の御業に近い。
「神の……あっ、諏訪子様っ!」
とっさに振り返る。特徴的な帽子が木陰にさっと消えるのを、私は見逃さなかった。
「やっぱり諏訪子様の仕業でしたか……おかしいと思ったんです」
「ごめんね早苗ちゃん、これ、諏訪子さんに貸してもらったんだ。私、早苗ちゃんにこの髪型見てもらいたくて、魔理沙さんがいなくなるのを待ってたんだけど……その時に諏訪子さんに見つかっちゃって、どうせ結ぶならこれがいいよって」
「色々手を出したくなるお方ですからね……まあいいです。それより小傘ちゃん、約束覚えていてくれたんですね!」
「う、うん、もう暗くなってきたし、ちょうどいいかなって。早苗ちゃん、そろそろ行く?」
気づけば空は綺麗な赤に染まっている。私の、小傘ちゃんの赤くなった頬を、うまくごまかしてくれそうな色だった。
「ええ、行きましょうか、小傘ちゃん」
「じゃあ、……これ、返すね? このまま、お揃いだと……恥ずかしいから……外すよ?」
小傘ちゃんは髪に指を通して、その束をほどこうとする。でも、すぐには外そうとしない。ただ髪を束ねているだけのもの、すぐにでも外せるはずなのだ。うつむいた小傘ちゃんの前髪の奥にある瞳が、ふとこちらを覗いた。
「だめです。そのままがいいです」
「え……でも」
「わがままを言ってごめんなさい。でも小傘ちゃん、すごく、……可愛いですよ。それに恥ずかしいのは……小傘ちゃんだけじゃないんですから」
自分が何を言っているのかよくわからなかった。とにかく目の前にはしきりに瞬きをする小傘ちゃんがいて、私は顔がすごく熱くなった。
「そこまで言うなら……ちょっとだけ、だよ?」
小傘ちゃんは髪に通した指をするりと抜いて、そっぽを向いてしまった。その時陰になった小傘ちゃんの頬は、夕日に負けないくらい真っ赤になっていた。
*〜*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
夜雀の屋台は山の麓で営業していた。まだ日も沈みきっておらず少しだけ明るいためか、外から見るにまだ客は入っていないようだ。
小さい頃の話、仲良しの友達から貰ったお揃いのシュシュをつけて出かけたことがある。それは大好きなお友達との仲良しのしるし。見慣れた道も、建物も、なぜかすごく楽しいものに見えたのを覚えている。
「空いてるうちに入っちゃいましょうか」
小傘ちゃんは大切なお友達だし、小傘ちゃんもきっとそう思ってくれている、と思う。だとしたら、この違いは。嬉しくないわけじゃない。むしろもっと嬉しい、嬉しいのにそれ以上の何か、制御できない感情。仲良しのしるし、それだけじゃ満足できない気持ち。その正体がわからないほど私は未熟ではないけれど、これをどうにかする技量を、私は持ち合わせていなかった。
「う、うん。行こっか」
八目鰻、と書かれたのれんを手で払うように捲る。鰻の焼ける香ばしい匂いと、脂のはじける心地よい音。店の主は夜雀の妖怪、その大きな羽を焦がさないように後ろに畳んで、串に刺した鰻を手際よく焼いていく。
「あ、小傘ちゃんいらっしゃい。今日は……あっ」
「うん、早苗ちゃんと一緒なんだ」
どうやら小傘ちゃんはこの屋台に何度か来ているような、そんな口ぶりだった。妖怪が経営しているが、人間の間でも話題になっていた屋台だ。人里の飲み屋はどうしても人目が多いし、布教活動の関係で私も顔が知れているため、小規模な屋台が最適だったのだ。
「私はあまり飲めないものですから、来たことはなかったのですが……ここの噂はよくお聞きしていましたので」
「それはありがたいですね、おかげさまで話題にしていただいて」
カウンター前には長椅子があった。先に座っていた小傘ちゃんの隣に座ることが、思いの外難しいことに気づく。
座面は繋がっているので、適切な距離がわからない。私はとりあえず小傘ちゃんの右隣、拳四つ分ほど離れた所に座った。
「早苗ちゃん、ミスティアちゃんの八目鰻すごくおいしいんだよ。ちょっと大きいから、二人で食べない?」
私としても、食欲をかき立てられる香ばしい匂いを前にこれを食べない手はない。ただ、どうしてもここでお酒より、白いご飯が欲しくなってしまいそうなのが問題だ。
「いいですね、それじゃ一つもらえますか?」
「はいよー」
彼女は先ほど、客のいない時も鰻を焼いていたような気がするが、あれは一種の客寄せなのだろうか。すでに焼きあがっている鰻を余所目に、素早く別のを焼き始めた。
「はいっ、小傘ちゃんたちには特別、焼きたてどうぞ!」
「わーっ、ありがとう! 早苗ちゃん、あったかいうちに食べよ!」
なるほど、特別、と言われると思わずいい気になってしまう。客相手に上手く心をつかむ商売人の話術は、信仰の獲得という使命を負う私としても学ぶところがありそうだ。
熱々の鰻を二つに割って、ひとつを箸でつまみあげる。こんがりと焼けた表面は、ぱりっとした食感が耳にも気持ちいい。齧ると中はとても柔らかく、その味わいがじんわりと舌に染み込む。ああ、どうしようご飯が欲しい。
「ふふ、美味しそうに食べてもらうとこっちも嬉しいな……そういえば小傘ちゃん、今日は飲まないのかな? いつもは先に飲み始めるのに」
「そうだね、じゃあ二人分お願い」
お酒を飲む小傘ちゃんを見るのは初めてなので、少し楽しみだ。お酒を飲むと、神奈子様は諏訪子様にすごく甘えるようになる。諏訪子様のほうはあまり変わる様子はない。小傘ちゃんはどうなるのだろう。
「あれ、早苗さんも飲むの? 小傘ちゃん、前に早苗さんは飲めないって言ってたけど」
「ええ、実は私、お酒に慣れるために小傘ちゃんにお願いして、一緒に来てもらったんです」
友達同士でお酒を飲むのはそんなにおかしなことではないはず、そう思い切って誘ってよかった。
「んー、そうね……うちのはちょっと強いけど、大丈夫かな? あまり無理はしないようにね。はい」
竹を切り出して作られた杯。飲み口は斜めに切られていてとても風流だ。すっきりと澄んだ液体と、青竹とが互いにみずみずしく彩り、また彩られる。
「早苗ちゃん、ほら持って、かんぱいっ!」
「か、乾杯!」
竹の杯を傾けて、くいっと小さく喉を鳴らす小傘ちゃん。しばらくは目を閉じたまま、その味わいに浸っているようだった。
「んーっ、やっぱりこれだよねぇ。早苗ちゃんも、少し飲んでみよ?」
私は杯を持ったままそれを眺めていたが、すぐに私も飲むよう促された。おそるおそる口をつけて、ゆっくりと傾ける。つつ、と流れてくるお酒が唇を濡らして、その独特の香りを鼻に届ける。
「ん、んっ」
そのわずかな量の液体に舌でそっと触れる。鼻に抜ける香りはますます強くなる。それを舌の先から口の中へ、少しずつ流し込んでいく。
しばらく飲み込まずに味わってみる。舌の上で転がすように、ゆっくりと、ゆっくりとその味わいに浸る。
「……どう、早苗ちゃん?」
最後にもう一度転がして、喉奥へと押し込んだ。それが喉をすうっと通った後は、どこかがじんわり熱くなる。
「ん、美味しいです」
「ありがとうございます。頑張って作った甲斐がありますね」
これは店主さんが自ら醸したお酒らしい。雀酒といって、古い言い伝えにある製法をそのまま使っているのだとか。これは霊夢さんから聞いた話。その時、巫女ならお酒に詳しくないと、と忠告されたけれど、自分の飲めないものに詳しくなることほど空虚なものもない。
「一応お水も出して置きますから、無理して全部飲まなくてもいいですよ。小傘ちゃんに押し付けたら飲んでくれますから」
「ありがとうございます。小傘ちゃん、私がもし残しても大丈夫そうですか?」
自分の飲める量を把握しておいたほうがいい、と神奈子様に言われたことがある。けれど、小傘ちゃんはどれくらい飲めるのだろう。少なくとも大酒飲みには見えない。
「さ、早苗ちゃんの、飲みかけ……いや、大丈夫、たぶん」
「ふふ、小傘ちゃんにとってはもっと強いお酒になっちゃうね」
「っ、ミスティアちゃんそういうこと言っちゃだめ!」
小傘ちゃんの顔が少し赤くなってきた気がする。お酒が回ってきたのだろう。ところで私はどうなっているのか、今は手鏡がないので分からない。小傘ちゃんに尋ねてみる。
「早苗ちゃんも少し顔赤いけど、全くだめってわけじゃなさそうだね」
「ありがとうございます。私も小傘ちゃんと、気兼ねなく飲めるようになりたいです」
宴会ももちろんそうだけれど、私がお酒を飲めないよりは、飲めた方が小傘ちゃんにとっても気が楽だと思う。そういう意味でも、私はやっぱり克服したい。
これから小傘ちゃんともっと、親密な仲になるのだとしたら、こういう付き合いも必要になるかもしれない。
「早苗さん、何か悩んでます? 私、こういう仕事やってるので、お悩みを聞くのは得意ですよ。小傘ちゃんの相談に乗ったこともありますし……例えばほら、その髪型——」
「あ、わーっ! わーっ! ミスティアちゃんっ!」
小傘ちゃんが騒ぎ出したので後半はよく聞こえなかった。ここは鰻やお酒だけでなく、人に言えない悩みを打ち明ける場としても愛されているらしい。守矢神社としても、信者の悩みを聞く慈善事業を始めてもいいかもしれない。
「ごめんなさいね、小傘ちゃん」
騒ぎ立てる小傘ちゃんを軽くなだめてから、店主さんがこちらに振り向いた。それは優しい表情だった。妖怪としての能力か、はたまたその滲み出る人柄によるものか、私は不思議と穏やかな気分になる。
「早苗さん、お酒は飲むものじゃありませんよ。楽しむものです。貴女がお酒を飲めなかったとしても、小傘ちゃんは貴女の隣でお酒を楽しむことを、喜んでくれるんじゃないでしょうか」
私がお酒を飲めなくても、小傘ちゃんはそれでもいいと思ってくれる、としたら。それならわざわざ苦手なお酒を無理して飲む必要もない。そう思う。思ってしまう。
春に行われる宴会のためにお酒に慣れたい。私は確かにそう思っていたし、そのつもりで小傘ちゃんを誘ったけれど、本当は違ったのかもしれない。
「……小傘ちゃん、私はお酒が苦手です。それでも、私と……私の隣で、飲んでいて、楽しいですか?」
お酒の付き合い、というしきたりに倣うことを、私は望んでいたわけじゃなかった。私は小傘ちゃんと、もっと仲良くなりたい、ただそれだけだった。
「……お酒が苦手でも、飲めなくても早苗ちゃんは早苗ちゃんだよ。その早苗ちゃんと一緒にいれるなら、私は楽しいよ」
——ああ、そうか、そうだったんだ。
私はこの地に馴染むために、外の世界から持ち込んだ常識を振り払ったつもりでいた。それなのに、今度はいつの間にか、この地の常識に縛られてしまっていたようだ。
私はもう一度杯を傾ける。その角度は数刻前とさほど変わっていない。少しずつ飲んでいたからだ。
「小傘ちゃんがそう言うなら、私も無理するのはやめにします。今日は付き合ってくれて、ありがとうございました」
いつの間にか作り上げていた建前。そんなものはもうどうでもよかった。このまま、ありのままの私で、小傘ちゃんと向き合うことに決めた。
「ううん、私も楽しかったよ。それに、お酒入ってないと言えないことも、少し言えたし」
小傘ちゃんは楽しい時、悲しい時、そう言う感情がすぐ顔に出るけれど、実際に口に出して言うことは少ない。人を驚かす妖怪のくせに、妙に恥ずかしがり屋なのだ。それでも私に、私といて楽しいと言ってくれたのは、お酒の力もあったのかもしれない。
「少し、ってことは、まだあるんですか? この際だから、言っちゃってもいいですよ」
このような機会が、次にいつあるかわからない。小傘ちゃんのことを恥ずかしがり屋だと言っておきながら、私も口実がなければ誘い文句すら言い出せないのだ。小傘ちゃんなら、きっと誘いを断られることはないはず。そう分かっているのに。
「うん、あるよ。まだ早苗ちゃんに言ってないこと。でも、これは……できれば、お酒飲んでない時に言いたいから。時間、かかるかもしれないけど」
そう言って、少し俯く小傘ちゃん。私も言葉が見つからなくて、しばし視線を下に落とす。
長椅子の上、小傘ちゃんとの距離はいつの間にか、少し縮まっていた。およそ拳三つ分離れた彼女に、私も少しだけ近づいてみる。腰を上げて、左にずれる。二人の肩がこつん、と当たる。
「——私、待ってますよ。……それに、私も、気持ちの整理をする時間が欲しいです」
小傘ちゃんの言いたいこと、小傘ちゃんが私に抱く思いを、私が受け取るのが果たして正しいことなのか。私の思いは、どのような形で小傘ちゃんに向き合っているのか。
全ての答えが出るまでには、しばらく時間がかかるだろう。もしくは、答えが出ないかもしれない。正しい答えなど、ないかもしれない。
静まり返った夕刻の屋台。鰻の焼ける音も、巣に帰る烏の鳴き声も聞こえない。私と、小傘ちゃんにだけ聞こえない。
「——というわけで小傘ちゃん、宴会の予行演習がしたいんです!」
守矢の風祝にして現人神たる私にも弱点があった。そう、アルコールである。
花見シーズンを目前に控えた今、私の心配事はただ一つである。ここ、守矢神社裏の縁側から見える桜の木も、もはや開花まで秒読みといったところだ。いま、時刻は正午を回っているので、陽射しもますます暖かい。
「うーん、お酒飲めないのは体質だから、無理して飲むことないと思うよ?」
縁側に腰掛けて裸足を揺らす小傘ちゃん。見た目は齢十余の彼女だが、こう見えてお酒を好む。腐っても妖怪……おっといけない。幻想郷には決して珍しいものではない。
もちろん楽しい宴会に反対はしないけれど、素面のまま酔っ払いに囲まれる決まりの悪さたるや。水の水割りロックを右手に、奇跡の力を左手に、妙にテンションの外れた方々と、誤魔化しながら談笑しなければならない。
「そ、それはそうですけど……やっぱり多少の慣れは大事だと思うんです」
妖怪はともかく、私の周囲の人間たちも概ね酒飲みである。これはどうやら幻想郷全体に言えることらしい。幻想郷においてコミュニケーションとは則ち飲みニュケーションであり、一に弾幕、二に宴会、三四がなくて五に弾幕なのだ——ということを、私は数年の幻想郷生活で学んだ。
「まあ、早苗ちゃんだけいつもお水飲んでるよね。確かにそれは少し寂しいかも」
何事も慣れとはよく神奈子様に言って聞かされていたのだから、お酒も少しずつ飲めばきっと慣れるはず。
「そうです、だから小傘ちゃん、付き合ってください!」
「え、えぇ?! ま、待って、そういうのはもう少し、その……今すぐじゃなくても」
突然動揺し始める小傘ちゃん。でも私が待ったところで、桜の木は待ってはくれないのだ。
「いえ、今じゃないと駄目です! それに、こんな事を頼めるのは小傘ちゃんだけなんですから」
「早苗ちゃん……」
すでに酔いが回ったような真っ赤な顔で、小傘ちゃんがこちらを見つめる。これはOKのサインだろうと私は踏んだ。
「じゃあ、今晩に夜雀の屋台でもどうですか?」
小傘ちゃんの頬がまた少し赤くなって、下の方に目線を落とす。澄んだ瞳が何かに呼応するように揺れる。
「そ、それってその、でーとってやつ、かな?」
「え? そうですね、小傘ちゃんとデートです!」
小傘ちゃんとふたりデート。女の子友達なんだから、これくらい言っちゃってもいいか、と思ったけれど、
「さ、っ早苗ちゃんと、でーと……!?」
「こ、小傘ちゃん、本気にしないでください……こっちが恥ずかしいですよ」
小傘ちゃんはすごく素直な子なので、言葉の通りに受け取ってしまったらしい。妖怪の女の子と女子高生とは、コミュニケーションの形態が少し違うみたいだ。
「早苗ちゃんのそういうの、どこまで信じていいかわかんないよ」
ぷぅ、と頬を膨らませる小傘ちゃん。その表情は子供っぽく見えるけれど、膨らんだ頬はなめらかで白く澄んでいて、どこかに艶やかさのようなものも感じる。
「半分くらいは冗談ですよ。小傘ちゃんみたいな子とデートするのも、やぶさかではありませんが」
「……じゃあ、残りの半分は?」
「さあ、何でしょう」
「も、もう、早苗ちゃんのいじわる!」
唐傘を引っ掴んで、慌てて飛び去ろうとする小傘。私は慌てて叫ぶ。
「あっ、小傘ちゃん! ……白、じゃなくて、あっ、行っちゃった」
振り向いた拍子にふわりと浮いた、小傘ちゃんのスカートの中に気を取られているうちに呼び止め損ねてしまった。
「他の人に頼もうか……でも、うーん」
他にアテがないわけじゃない。そうじゃない。小傘ちゃんだから練習に付き合ってと誘った。小傘ちゃんがよかったのだと、自分ではわかっているけれど、その妙な恥ずかしさに耐えられなくて、選び取る気のさらさらない、他の選択肢を徒らに列挙してみる。
「小傘ちゃん……貴女の気持ちはちゃんと伝わってますよ。伝えようとしているわけではないのでしょうが、いくら鈍いと言われ続けた私でも……分かってしまうくらい」
あの子はとても表情が豊かで、考えていることがすぐ顔に出る。私はずっと、人の気持ちを察することが何より苦手だったけれど、あんな小傘ちゃんだからこそ、私はうまく付き合っていけそうな気がする。
「——もう少し、待ってください。私のこの気持ちが、本当に正しくて真っ直ぐな、本当の気持ちなのか……確かめる時間をください」
身体が冷えてきたのなら中に入ってしまえばいいのだが、春の風が連れてくる暖かさは私にここを立ち去る口実をくれなかった。誰もが待ちわびているその蕾、その花が、私の目には少しだけ憂鬱に見えてしまった。
*〜*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
しばらくは小傘ちゃんが去った縁側で何をするでもなくぼんやりとしていたが、そこにとどまる理由ももうなくなってしまった。私は参道に出ていって、ひとまず掃除をし始めた。
芽吹きの季節の参道は、特別掃除が必要な枯葉もない。桜もまだ咲いていないので、花弁が散らかっているわけでもない。とりあえず参道で箒を持っているのが巫女、というアバウトな概念、おそらく霊夢さんに植え付けられたのであろう巫女像を自分に投影して、どうにもすっきりしない気持ちをひとまず足元に置いておく。
その時、勢いよく風を切る音がしたかと思うと、箒越しに見た鳥居の下に、箒の持ち主がもう一人。
「珍しい参拝客ですね」
今時のおとぎ話でも遠慮するような、ステレオタイプな三角帽子。魔女というには乙女趣味すぎる所々のフリル、魔法少女というには似つかわしくないモノクローム。魔法使いとはよく言ったものだ。
「お、早苗じゃないか、今日は随分巫女巫女しい気がするぜ。まあ生憎、参拝の用事はないんだが」
「巫女巫女しいってなんですか……それに、珍しく見えたと思ったら。冷やかしに来ただけですか?」
箒に乗って空を飛ぶのは魔法使いの典型的なイメージなんだろうし、境内でとりあえず箒を持っているだけの私とさほど違いはないような気もする。むしろ同類でもある。
「まあまあ、ここはまだマシなもんさ。霊夢のとこなんか、珍しい参拝客どころか参拝客そのものが珍しいぜ」
「こっちは地道に信仰を集めてるんですから、あっちと比べるのは筋違いですよ」
霊夢さんは人間の参拝客すら少ないものの、色々なところに顔がきくので貰い物には困らないらしい。ただそれが概ね妖怪なので、妖怪神社などと時々揶揄されるのを聞く。
「ふーん、でも、ずっと霊夢の背中追っかけてたじゃないか。最近神社に来ないと思ったら、霊夢のことは諦めたのか?」
「霊夢さんは……って、魔理沙さんどこまで知ってるんです?」
なにせ魔理沙さんは霊夢さんの一番の親友、それを知っていても不思議ではない。そう、私は確かに霊夢さんのことが好きだった。
「そうだな、早苗が霊夢に振られたとこまでしか知らないぜ」
恋心というのは扱えるようなものではなく、人はあくまでそれに振り回される立場でしかない。それゆえに愛の告白というものは、どうしても避けられない場合がある。
「……それで全部ですよ、それ以上はありません」
それは願いを叶えるために。そして時には、叶わぬ願いを断ち切るために。
「そうか。気まずいのも判るが、霊夢は気にしていないだろうから、そのうち顔を出したほうがいいぜ。時間が空くとやりづらくなるからな……これは経験者が言うんだから、間違いない」
「経験者……魔理沙さん、霊夢さんに振られたことが?」
魔理沙さんと霊夢さんは私が幻想郷に来る前からの親友だということは知っていたけれど、親友であってそれ以上のことは想像もしていなかった。二人は理想の友達関係。私にとって、霊夢さんのことを差し置いたとしても、羨ましいくらいの友情。
「博麗の巫女として、恋愛は駄目だとか云々と言われて……まあその話はもういいんだ。霊夢はいつでも早苗を友人として迎えてくれるだろうから、気持ちの整理がついたら会いに行けよ。私が仲介してやってもいいぜ」
きっと霊夢さんはその立場から、あえて自分へのアプローチをすべて断っているのだろう。彼女のことだから、誰に対しても平等に、同じように接してきたに違いない。魔理沙さんにも、そして、私にも。
「そうですね、その時はお願いしましょうか」
魔理沙さんの話も少し気になるけれど、深く追求することは止めた。もう昔のこととして語っているように見えるけれど、そうやって割り切るのに十分な時間が過ぎていると私には断言できないからだ。
しばらくは他愛のない世間話や、魔理沙さんの新作弾幕の話を聞くなどして時間が過ぎた。少し前まではそれなりに日が暮れ始める時間。日の長さに再び春を感じさせられる。
「恥ずかしい話ではあるが……早苗と共通の話題ができたから良しとするか。んじゃ、私はこれで——っと、そうだ」
魔理沙さんは跨りかけた箒から降りると、振り返って拝殿へと歩いた。
「なあ早苗、神社の参道って真ん中を避けて歩くんだったか?」
先ほどはど真ん中を突っ切ってきたような気もするが、それについて言及はしないことにした。そもそも博麗神社でも、魔理沙さんがそんなことを気にしてるところを見たことがない。
「真ん中は神様の通り道なので礼儀としてはそうですが、今神奈子様は家事なさっているでしょうから、大丈夫だと思いますよ」
「それは判りやすくていいぜ。って、早苗は手伝わなくていいのか?」
料理に関しては神奈子様の手際が良すぎて手伝う余地がなく、部屋中に浄化結界を張り巡らせたために掃除がほとんど必要ない。結局こうして判りやすい巫女業で時間を潰しているのだ。
「まあいいか。一応神様っぽいやつに話聞いてもらったし拝殿に一礼くらいはしてやるぜ。ほいっと」
「私は一応現人神です。それに出来れば二礼、加えて二拍ともう一礼くらいお願いしたいですね」
ちゃりん、と小気味のいい音が響く。なんだかんだ言いつつ、魔理沙さんはしっかりお参りをしてくれた。きっと彼女はああ見えて、礼儀は弁えている。霊夢さんに対しては特別無遠慮なのだろう。それと、退治対象の妖怪にも。
「それじゃ、私はこれで失礼するぜ。時間を取って悪かったな。……おぉ?」
今度こそ帰ろうとした魔理沙さんの目の前、山頂から見える傾きかけた太陽。そんな普通の景色が不気味に歪んで、やがて人の形が現れる——
「——早苗、小傘ちゃんが来たよー」
「って、諏訪子様ですか……変な演出しなくていいです」
普通に知らせに来てくれればいいのに、毎度少しずつ違った登場シーンを考えてくる諏訪子様。それはお茶目で可愛らしいのだけれど。
「なんだただの神か、びっくりしたぜ。スキマの妖怪だったらどうしようかと」
「ただとはなんだ、ただとは! こう見えても神格高い方なんだからね」
高い方、と言うにはあまりに高すぎるくらいの神様だが、見た目と物言いのせいで風格がない。帽子がひとりでにぴょこぴょこ跳ねているのは異変というべきか。
「神様だろうが妖怪だろうが、異変を起こしたらただの敵キャラだからな。邪魔が入ったが、私は失礼するぜ!」
まだ少しいじけている諏訪子様をよそに、魔理沙さんは颯爽と箒にまたがって飛んで行ってしまった。邪魔呼ばわりの諏訪子様は傷心のご様子だったが、なにか思い出したようにこちらに振り返った。
「そうだ、小傘ちゃんが社務所の裏で待ってるから、早く行ってあげなよ」
「それ、どうしてわざわざ諏訪子様が伝えに来たんです? すぐそこですし、本人が来れば……」
奥には住居スペースを設けているが、参道に面した所はお守りなどを販売する窓口になっているので、社務所は参道から見えやすいところにある。むしろここからバッチリ見えている。その裏からここまで十メートルもない道のりのために伝言を引き受けるほど、諏訪子様は安い神様ではない。
「困っている人を助けるのも神様じゃないか。それに珍しい人間がいたもんだから、脅かしついでにね」
「小傘ちゃんを助けるというなら、その演出のレクチャーの方がよろしいかと。……それでは、失礼します」
とはいっても目的地はすぐそこなので、別れの挨拶をするほどの距離でもなかった。守矢神社社務所と書かれた看板の傾きを少し直してから、裏手へ回る。すでに日陰はすこし暗くなっていた。
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社務所裏手の角まであとおよそ十歩、私は少しだけ歩みを緩める。
なにせ向こうは『驚かせる妖怪』、わざわざ諏訪子様に伝言を頼んでまで私の方から出向かせたのなら、なにか仕掛けているに違いない。
正直なところ、毎度大して怖くもないのだが、こちらが驚かないとなればまともな会話をしてくれるまで倍の時間がかかる。要するにいじけてしまうので、どうにかリアクションを取るべく身構えているのだ。
「……小傘ちゃん、お待たせしました——」
こういう時は名前を呼ぶと、大抵ぴょこっと傘が物陰から飛び出るのでわかりやすい。だが今回は不発のようだった。
あと五歩、四歩、三歩。
二歩。
一歩。
「小傘ちゃっ——」
目に飛び込んできたのは紫色の傘、しかしそれはその役割を放棄するかのごとく閉じられていて、それを持つのは青髪の少女、ウェーブのかかったその透き通るような髪を、綺麗に二つに結んで、
「——それって、私の……」
それを束ねるのは、かえるのヘアゴム。
最近は使っていなかったので所在が分からなくなっていたのに、今どうして小傘ちゃんの髪をまとめているのか。
こちらに気がついた小傘ちゃんが、その瞳だけでこちらを覗く。遠慮がちな視線と、ほんのりと紅色の頬。私は初めて、小傘ちゃんに驚かされてしまった。
「……ごめんね、勝手に使っちゃって。い、嫌なら外す、ちゃんと洗って返すから」
「いえ、大丈夫です。……小傘ちゃん、すごく似合ってますよ」
「ぇ、うぁ、……ありがとう」
普段とは違う髪型を見られるのは確かに少し気恥ずかしいけれど、どうしてそんなに物陰に隠れるほど恥ずかしがっているんだろう。その答えはすぐ分かった。
「小傘ちゃん、その……お揃い、ですね?」
そう、かえるの髪飾りは私のトレードマーク。今まさに私の頭にも付いているそれと同じデザインのものを、小傘ちゃんも使っているのだ。
そのことを考えると、何故か私まで恥ずかしくなる。小傘ちゃんとお揃いのアクセサリー。
「……うん、早苗ちゃん、も……顔、赤いね」
限界だった。髪型を変えた小傘ちゃん、お揃いのかえる、少しぎこちない微笑み、そしてなによりこの雰囲気に慣れない。耐えられない。だから私は、
「そ、そんなことないですよ! それより小傘ちゃん、そのヘアゴムどこで見つけたんですか?」
驚きと、変な心の揺らぎのせいで忘れかけていた疑問を呼び起こす。なぜならそのヘアゴムは私のもので、小傘ちゃんの手に渡るはずはなく、そもそも私自身もなくしてしまっていたのだ。それを手に入れるのは神の御業に近い。
「神の……あっ、諏訪子様っ!」
とっさに振り返る。特徴的な帽子が木陰にさっと消えるのを、私は見逃さなかった。
「やっぱり諏訪子様の仕業でしたか……おかしいと思ったんです」
「ごめんね早苗ちゃん、これ、諏訪子さんに貸してもらったんだ。私、早苗ちゃんにこの髪型見てもらいたくて、魔理沙さんがいなくなるのを待ってたんだけど……その時に諏訪子さんに見つかっちゃって、どうせ結ぶならこれがいいよって」
「色々手を出したくなるお方ですからね……まあいいです。それより小傘ちゃん、約束覚えていてくれたんですね!」
「う、うん、もう暗くなってきたし、ちょうどいいかなって。早苗ちゃん、そろそろ行く?」
気づけば空は綺麗な赤に染まっている。私の、小傘ちゃんの赤くなった頬を、うまくごまかしてくれそうな色だった。
「ええ、行きましょうか、小傘ちゃん」
「じゃあ、……これ、返すね? このまま、お揃いだと……恥ずかしいから……外すよ?」
小傘ちゃんは髪に指を通して、その束をほどこうとする。でも、すぐには外そうとしない。ただ髪を束ねているだけのもの、すぐにでも外せるはずなのだ。うつむいた小傘ちゃんの前髪の奥にある瞳が、ふとこちらを覗いた。
「だめです。そのままがいいです」
「え……でも」
「わがままを言ってごめんなさい。でも小傘ちゃん、すごく、……可愛いですよ。それに恥ずかしいのは……小傘ちゃんだけじゃないんですから」
自分が何を言っているのかよくわからなかった。とにかく目の前にはしきりに瞬きをする小傘ちゃんがいて、私は顔がすごく熱くなった。
「そこまで言うなら……ちょっとだけ、だよ?」
小傘ちゃんは髪に通した指をするりと抜いて、そっぽを向いてしまった。その時陰になった小傘ちゃんの頬は、夕日に負けないくらい真っ赤になっていた。
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夜雀の屋台は山の麓で営業していた。まだ日も沈みきっておらず少しだけ明るいためか、外から見るにまだ客は入っていないようだ。
小さい頃の話、仲良しの友達から貰ったお揃いのシュシュをつけて出かけたことがある。それは大好きなお友達との仲良しのしるし。見慣れた道も、建物も、なぜかすごく楽しいものに見えたのを覚えている。
「空いてるうちに入っちゃいましょうか」
小傘ちゃんは大切なお友達だし、小傘ちゃんもきっとそう思ってくれている、と思う。だとしたら、この違いは。嬉しくないわけじゃない。むしろもっと嬉しい、嬉しいのにそれ以上の何か、制御できない感情。仲良しのしるし、それだけじゃ満足できない気持ち。その正体がわからないほど私は未熟ではないけれど、これをどうにかする技量を、私は持ち合わせていなかった。
「う、うん。行こっか」
八目鰻、と書かれたのれんを手で払うように捲る。鰻の焼ける香ばしい匂いと、脂のはじける心地よい音。店の主は夜雀の妖怪、その大きな羽を焦がさないように後ろに畳んで、串に刺した鰻を手際よく焼いていく。
「あ、小傘ちゃんいらっしゃい。今日は……あっ」
「うん、早苗ちゃんと一緒なんだ」
どうやら小傘ちゃんはこの屋台に何度か来ているような、そんな口ぶりだった。妖怪が経営しているが、人間の間でも話題になっていた屋台だ。人里の飲み屋はどうしても人目が多いし、布教活動の関係で私も顔が知れているため、小規模な屋台が最適だったのだ。
「私はあまり飲めないものですから、来たことはなかったのですが……ここの噂はよくお聞きしていましたので」
「それはありがたいですね、おかげさまで話題にしていただいて」
カウンター前には長椅子があった。先に座っていた小傘ちゃんの隣に座ることが、思いの外難しいことに気づく。
座面は繋がっているので、適切な距離がわからない。私はとりあえず小傘ちゃんの右隣、拳四つ分ほど離れた所に座った。
「早苗ちゃん、ミスティアちゃんの八目鰻すごくおいしいんだよ。ちょっと大きいから、二人で食べない?」
私としても、食欲をかき立てられる香ばしい匂いを前にこれを食べない手はない。ただ、どうしてもここでお酒より、白いご飯が欲しくなってしまいそうなのが問題だ。
「いいですね、それじゃ一つもらえますか?」
「はいよー」
彼女は先ほど、客のいない時も鰻を焼いていたような気がするが、あれは一種の客寄せなのだろうか。すでに焼きあがっている鰻を余所目に、素早く別のを焼き始めた。
「はいっ、小傘ちゃんたちには特別、焼きたてどうぞ!」
「わーっ、ありがとう! 早苗ちゃん、あったかいうちに食べよ!」
なるほど、特別、と言われると思わずいい気になってしまう。客相手に上手く心をつかむ商売人の話術は、信仰の獲得という使命を負う私としても学ぶところがありそうだ。
熱々の鰻を二つに割って、ひとつを箸でつまみあげる。こんがりと焼けた表面は、ぱりっとした食感が耳にも気持ちいい。齧ると中はとても柔らかく、その味わいがじんわりと舌に染み込む。ああ、どうしようご飯が欲しい。
「ふふ、美味しそうに食べてもらうとこっちも嬉しいな……そういえば小傘ちゃん、今日は飲まないのかな? いつもは先に飲み始めるのに」
「そうだね、じゃあ二人分お願い」
お酒を飲む小傘ちゃんを見るのは初めてなので、少し楽しみだ。お酒を飲むと、神奈子様は諏訪子様にすごく甘えるようになる。諏訪子様のほうはあまり変わる様子はない。小傘ちゃんはどうなるのだろう。
「あれ、早苗さんも飲むの? 小傘ちゃん、前に早苗さんは飲めないって言ってたけど」
「ええ、実は私、お酒に慣れるために小傘ちゃんにお願いして、一緒に来てもらったんです」
友達同士でお酒を飲むのはそんなにおかしなことではないはず、そう思い切って誘ってよかった。
「んー、そうね……うちのはちょっと強いけど、大丈夫かな? あまり無理はしないようにね。はい」
竹を切り出して作られた杯。飲み口は斜めに切られていてとても風流だ。すっきりと澄んだ液体と、青竹とが互いにみずみずしく彩り、また彩られる。
「早苗ちゃん、ほら持って、かんぱいっ!」
「か、乾杯!」
竹の杯を傾けて、くいっと小さく喉を鳴らす小傘ちゃん。しばらくは目を閉じたまま、その味わいに浸っているようだった。
「んーっ、やっぱりこれだよねぇ。早苗ちゃんも、少し飲んでみよ?」
私は杯を持ったままそれを眺めていたが、すぐに私も飲むよう促された。おそるおそる口をつけて、ゆっくりと傾ける。つつ、と流れてくるお酒が唇を濡らして、その独特の香りを鼻に届ける。
「ん、んっ」
そのわずかな量の液体に舌でそっと触れる。鼻に抜ける香りはますます強くなる。それを舌の先から口の中へ、少しずつ流し込んでいく。
しばらく飲み込まずに味わってみる。舌の上で転がすように、ゆっくりと、ゆっくりとその味わいに浸る。
「……どう、早苗ちゃん?」
最後にもう一度転がして、喉奥へと押し込んだ。それが喉をすうっと通った後は、どこかがじんわり熱くなる。
「ん、美味しいです」
「ありがとうございます。頑張って作った甲斐がありますね」
これは店主さんが自ら醸したお酒らしい。雀酒といって、古い言い伝えにある製法をそのまま使っているのだとか。これは霊夢さんから聞いた話。その時、巫女ならお酒に詳しくないと、と忠告されたけれど、自分の飲めないものに詳しくなることほど空虚なものもない。
「一応お水も出して置きますから、無理して全部飲まなくてもいいですよ。小傘ちゃんに押し付けたら飲んでくれますから」
「ありがとうございます。小傘ちゃん、私がもし残しても大丈夫そうですか?」
自分の飲める量を把握しておいたほうがいい、と神奈子様に言われたことがある。けれど、小傘ちゃんはどれくらい飲めるのだろう。少なくとも大酒飲みには見えない。
「さ、早苗ちゃんの、飲みかけ……いや、大丈夫、たぶん」
「ふふ、小傘ちゃんにとってはもっと強いお酒になっちゃうね」
「っ、ミスティアちゃんそういうこと言っちゃだめ!」
小傘ちゃんの顔が少し赤くなってきた気がする。お酒が回ってきたのだろう。ところで私はどうなっているのか、今は手鏡がないので分からない。小傘ちゃんに尋ねてみる。
「早苗ちゃんも少し顔赤いけど、全くだめってわけじゃなさそうだね」
「ありがとうございます。私も小傘ちゃんと、気兼ねなく飲めるようになりたいです」
宴会ももちろんそうだけれど、私がお酒を飲めないよりは、飲めた方が小傘ちゃんにとっても気が楽だと思う。そういう意味でも、私はやっぱり克服したい。
これから小傘ちゃんともっと、親密な仲になるのだとしたら、こういう付き合いも必要になるかもしれない。
「早苗さん、何か悩んでます? 私、こういう仕事やってるので、お悩みを聞くのは得意ですよ。小傘ちゃんの相談に乗ったこともありますし……例えばほら、その髪型——」
「あ、わーっ! わーっ! ミスティアちゃんっ!」
小傘ちゃんが騒ぎ出したので後半はよく聞こえなかった。ここは鰻やお酒だけでなく、人に言えない悩みを打ち明ける場としても愛されているらしい。守矢神社としても、信者の悩みを聞く慈善事業を始めてもいいかもしれない。
「ごめんなさいね、小傘ちゃん」
騒ぎ立てる小傘ちゃんを軽くなだめてから、店主さんがこちらに振り向いた。それは優しい表情だった。妖怪としての能力か、はたまたその滲み出る人柄によるものか、私は不思議と穏やかな気分になる。
「早苗さん、お酒は飲むものじゃありませんよ。楽しむものです。貴女がお酒を飲めなかったとしても、小傘ちゃんは貴女の隣でお酒を楽しむことを、喜んでくれるんじゃないでしょうか」
私がお酒を飲めなくても、小傘ちゃんはそれでもいいと思ってくれる、としたら。それならわざわざ苦手なお酒を無理して飲む必要もない。そう思う。思ってしまう。
春に行われる宴会のためにお酒に慣れたい。私は確かにそう思っていたし、そのつもりで小傘ちゃんを誘ったけれど、本当は違ったのかもしれない。
「……小傘ちゃん、私はお酒が苦手です。それでも、私と……私の隣で、飲んでいて、楽しいですか?」
お酒の付き合い、というしきたりに倣うことを、私は望んでいたわけじゃなかった。私は小傘ちゃんと、もっと仲良くなりたい、ただそれだけだった。
「……お酒が苦手でも、飲めなくても早苗ちゃんは早苗ちゃんだよ。その早苗ちゃんと一緒にいれるなら、私は楽しいよ」
——ああ、そうか、そうだったんだ。
私はこの地に馴染むために、外の世界から持ち込んだ常識を振り払ったつもりでいた。それなのに、今度はいつの間にか、この地の常識に縛られてしまっていたようだ。
私はもう一度杯を傾ける。その角度は数刻前とさほど変わっていない。少しずつ飲んでいたからだ。
「小傘ちゃんがそう言うなら、私も無理するのはやめにします。今日は付き合ってくれて、ありがとうございました」
いつの間にか作り上げていた建前。そんなものはもうどうでもよかった。このまま、ありのままの私で、小傘ちゃんと向き合うことに決めた。
「ううん、私も楽しかったよ。それに、お酒入ってないと言えないことも、少し言えたし」
小傘ちゃんは楽しい時、悲しい時、そう言う感情がすぐ顔に出るけれど、実際に口に出して言うことは少ない。人を驚かす妖怪のくせに、妙に恥ずかしがり屋なのだ。それでも私に、私といて楽しいと言ってくれたのは、お酒の力もあったのかもしれない。
「少し、ってことは、まだあるんですか? この際だから、言っちゃってもいいですよ」
このような機会が、次にいつあるかわからない。小傘ちゃんのことを恥ずかしがり屋だと言っておきながら、私も口実がなければ誘い文句すら言い出せないのだ。小傘ちゃんなら、きっと誘いを断られることはないはず。そう分かっているのに。
「うん、あるよ。まだ早苗ちゃんに言ってないこと。でも、これは……できれば、お酒飲んでない時に言いたいから。時間、かかるかもしれないけど」
そう言って、少し俯く小傘ちゃん。私も言葉が見つからなくて、しばし視線を下に落とす。
長椅子の上、小傘ちゃんとの距離はいつの間にか、少し縮まっていた。およそ拳三つ分離れた彼女に、私も少しだけ近づいてみる。腰を上げて、左にずれる。二人の肩がこつん、と当たる。
「——私、待ってますよ。……それに、私も、気持ちの整理をする時間が欲しいです」
小傘ちゃんの言いたいこと、小傘ちゃんが私に抱く思いを、私が受け取るのが果たして正しいことなのか。私の思いは、どのような形で小傘ちゃんに向き合っているのか。
全ての答えが出るまでには、しばらく時間がかかるだろう。もしくは、答えが出ないかもしれない。正しい答えなど、ないかもしれない。
静まり返った夕刻の屋台。鰻の焼ける音も、巣に帰る烏の鳴き声も聞こえない。私と、小傘ちゃんにだけ聞こえない。