5日ぶりに訪れた人間の里は、どこか塩っぽい匂いに満ちていた。
眉を潜めつつ軒先を眺め歩いていた茨木華扇は、里の中心の人だかりを見てさらに表情を歪めた。
「何これ?」
一週間ほど前に祭りが終わったと言うのに、街路には屋台が並び提灯まで家々の隅に飾られていた。屋台からは何やら香ばしい匂いが漂い、思わず華扇のお腹が唸る。そろそろ正午を迎え、いい具合に空いてきたお腹には、屋台からの香りは抗えないものがあった。
「おう、華扇じゃあないか」
右手に建てれた屋台より呼び止める声が聞こえ、振り返るとそこには割烹着を来た魔理沙がいた。
「魚鍋」と大きな字で書かれたその屋台からは、白い湯気とともに味噌の匂いが流れてきた。
「何やっているのよ魔理沙」
「見ての通りだ。鍋を作っているのさ。食ってみないか?」
ちょうど何か食べたかったので、華扇は頷き懐より小銭を魔理沙に渡した。お椀と割り箸を受け取ると、すぐに汁へと口をつける。
「……美味しいじゃない」
「だろ?」
濃い味噌の風味に煮込んだ魚がよく馴染んでいる。その合間に漂う人参や玉ねぎを噛み締める度に、染み込んだ磯の香りが鼻孔をくすぐる。思わず夢中になって味噌汁を口に入れ一息つく。
「ごちそうさま」
「ありがとな。ゴミはこっちで預かるぜ」
食べ終わった食器をわたして華扇は辺りを見回す。周囲には屋台が並び、そのどれもに人が並んでいる。いずれの屋台も食べ物屋で、曰く「焼き魚」「煮魚」「煮干し」「魚鍋」など、妙に魚料理が多い。
「ところで魔理沙、これは一体なんの祭りなの?」
「あれ、お前知らないのか? 三日前に魚が大量に取れただろ?」
「知らないわ。その頃は家にこもっていたから」
「ふうん。まあとにかくだ。なんか見慣れない魚が大量に川に現れたんだ」
「見慣れない?」
「ほらこれとか見てみろよ。川魚ってかんじじゃないだろ。こんな形の魚、私は見たこと無いぜ?」
魔理沙は床下の木箱より一匹の魚を取り上げた。細長く背には青みがかかったその魚は、華扇も川で見た覚えは無い。
「これだけじゃないぜ? 他にも色々な魚、それも見覚えのない物がたくさん川で釣れたんだ」
魔理沙が持つ魚を華扇はじっと見つめる。まだ生きているのか、弱々しくであるが頭を振っている。
何となく華扇は訝しく思った。未知の魚が大量に取れる。これはひょっとすると何かの異変ではないだろうか。
「……これ食べても大丈夫なの?」
華扇の脳裏には嫌な想像がよぎった。もしこれが異変なのだとしたら、取れた魚には呪いや魔力と言った胡散臭い力がかけられている恐れがある。碌なことにはなりそうにない。
しかし魔理沙は魚を木箱に戻すと、笑いながら答えた。
「いやいや、大丈夫だって。みんな食べているけれどなんともないって」
「でもねえ……」
「疑りぶかいなあ。なんなら霊夢にでも聞いてみればいいじゃないか?」
ぶっきらぼうに放たれた魔理沙の言葉に華扇は顔をあげる。確かにこれが異変であったなら霊夢が動いているはずだ。
「魔理沙の言うとおりね。一度神社に行ってみるわ」
「あー、霊夢なら神社にいないぞ」
「へ?」
魔理沙は何も言わず後ろを指差した。その向こうへと振り返ると、神社にいるはずの博麗の巫女の姿があった。もっとも今の彼女は巫女装束ではなくハッピを着ており、屋台の店主として立っていた。
「……彼女、何しているの」
「そりゃあ見ての通りだろ」
魔理沙に背を向け華扇は霊夢の屋台へと歩み寄る。焼き魚と赤字で書かれた彼女の屋台からは、その名の通り魚の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「あら華扇じゃない」
「あら、じゃないでしょ。一体あなた何しているのよ?」
「何もクソも、このとおり魚を売っているのよ」
「異変が起こっているのよ。そんなことしている暇あるの?」
「異変といっても、何か困ったことでも起きたわけ?」
「それは……」
周りを見回す華扇の目には、道を行き交う人々の笑顔が映った。屋台は里の軒先を囲むように並び、火鉢からの煙や屋台からの湯気で辺りは薄霧が立ち込めたかのように白じんでいる。里の人々は焼き魚の刺さった串や、すまし汁の入ったお椀を片手に、声をあげ練り歩いていた。
「ね?」
微笑む霊夢に華扇は何も言うことができなかった。
「むしろみんな喜んでいるし、私だって楽しまなければ損でしょ。というわけでいかが?」
差し出された焼き魚からは、ほのかに湯気が出ており、まぶした塩の香りが華扇の鼻に届く。華扇はつばを飲み込んだ。
「じゃ、じゃあ一本だけ」
「はい、まいどー」
小銭を払うと、細長い魚の刺さった串を渡された。黄色いその魚をかじると、蛋白な魚の味とは別に何か小さな粒が、華扇の口の中で割れた。美味しさに舌をうちつつ、怪訝に思って華扇は魚へと目を向ける。白い身の横で、肌色をした無数の粒が腹に当たるところに並んでいる。
屋台の台座より霊夢が身を乗り出す。
「なんだか明太子みたいでしょ?」
「確かにそんな食感ね。これなんて魚?」
「知らないわよ。私だって今朝、川で釣るまで見たことなかったわ」
「……そんな怪しげなもの売っているの?」
「美味しいから良いでしょ。毒もなさそうだし」
華扇は魚をじっと見つめる。そしてもう一度口に入れる。
美味しい、と思いつつも、なんとなく釈然としない気持ちになる。一体この魚は何で、どこから来たのだろうか?
霊夢と別れて道なりにあるきつつ、焼き魚を頬張る。里の中心に近づくと、人だかりも次第に増えてくる。時折見慣れた妖怪ともすれ違うが、誰もこの祭りを満喫しているようである。
――気にしすぎているのかしら?
そんなことを思いつつ華扇は立ち止まった。誰かが自分の名前を読んだ気がした。
「おおい。こっちだ、こっち」
「……げ、萃香じゃないの」
着流しを着た伊吹萃香が屋台の向こうに立っていた。屋台一杯に大きなまな板が用意されており、その上には青みのかかった一匹の魚が寝ている。
「別にそんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃないか」
笑いながら言う萃香を尻目に華扇は辺りを伺う。彼女にとって幸いなことに、誰も華扇のことを見ていなかった。安心したかのように一息つくと、華扇は萃香へと向き直った。
「で、萃香は何をこんなところで何をしているの?」
「見ての通り刺し身さ」
萃香は右手に持った大ぶりの出刃包丁を華扇に見せつけた。
「驚いた。魚、さばけるんだ」
「知らなかったか? 私は器用なんだぜ」
言うが早いか、包丁を魚の体へと差し込み、あっという間に身を切り出した。赤く肉厚な刺し身が、まな板の上で切り出されていく。
「ほれ。食べてみな」
萃香の差し出した紙皿の上には、油がのっているからか表面がてかりつつも重厚な刺し身が並んでいた。脇には濃ゆく黒い醤油がかかっている。萃香から箸と皿が手渡され、華扇は一切れをとると恐る恐る口へ近づける。
「……美味しい」
歯ごたえのある肉質を噛めば噛むほど、ほんのりと塩味が口の中へと広がる。ただ醤油をかけただけだというのに、箸が止まらない。
気がつけば皿の上から刺し身が消えていた。萃香は微笑みながら華扇の様子を見ていた。
「結構いけるだろ?」
「そうね。でも一体なんの魚?」
「マグロだ」
「まぐろ……?」
首をひねる華扇を、萃香は呆れたように見つめた。
「おいおい、忘れたのか? まあ無理もないか。最後に食べたのは私だってかなり前だからな」
「えっと……」
華扇は頭を抱えて記憶を辿る。マグロ、という魚は確かにどこかできいたことがある。でも随分前、それこそ百年以上も昔のことだった。少なくともこのマグロという魚は幻想郷の川や湖では見たことがない。
「もしかして海の魚?」
「そうさ。いやあ、懐かししねえ」
さばかれた魚を愛おしげに見つめる萃香を横目に、華扇は先ほど通り過ぎた道を振り返る。どうりで屋台に並ぶ魚に見覚えがないはずだ。幻想郷には海はない。だから海が由来の魚は見た覚えが殆ど無い。きっと魔理沙や霊夢がだした魚も海の魚なのだろう。しかし何故幻想郷に突然、海の魚が現れたのだろうか。
「ま、難しい顔するくらいなら楽しみなって」
あっけらかんと言う萃香が言う。彼女の微笑みを見ていると、華扇も悩むのがバカバカしく思えてきた。
一通り食べ終えると、食器を萃香に渡した。そして離れようと背を向けたとき、華扇の手を背後より萃香が掴んだ。彼女は華扇の耳元に口を近づける。
「紅魔館の連中には近づくなよ?」
「……へ? なんで?」
「……行けば分かるけど、あまり近づかないほうがいいぞ」
苦笑いを浮かべる萃香を怪訝に思いつつも、彼女と別れた華扇は道の先へと進んでいった。里の中心を過ぎて博麗神社の方へと向かうと、次第に人間より妖怪の屋台が多くなる。そして人通りは少なくなり、明らかに妖怪の数が増えてくる。
――大丈夫か博麗神社?
華扇は頭を抱えつつ、前へと進む。すると前方から妙に甘ったるい香りが流れてきた。気になった華扇は匂いの方向に目を向け、そして嫌な予感が胸によぎった。その屋台には紅魔屋と大きな字で描かれていた。
見なかったことにして帰ろうとも思ったが、どうにも匂いが気になり華扇は前へと歩む。
紅魔屋の屋台には十六夜咲夜が立っており、その後ろにはパイプ椅子にふんぞり返ったレミリア・スカーレットの姿があった。
そして屋台の台座に広がるものを見て、華扇は固まった。
「何なの、これ?」
黄金色のパイのようなものから魚の頭が飛び出していた。それも一匹二匹ではなく、十匹近くも。よく見れば頭だけではなく、尻尾も焼いた生地より生えていた。
華扇の問に咲夜は微笑んで答えた。
「イワシパイです」
「イワシ……」
「どうせならインパクトのあるものが良い、とお嬢様がおっしゃるのでご用意いたしました」
確かに衝撃的ではある『いわしパイ』の見た目に、華扇は頭を抱えた。そんな彼女の様子をどう思ったのか、レミリア・スカーレットは腕を組んで笑みを浮かべた。
「ふふん。見て驚くが良いわ」
「……食べても大丈夫?」
見ているだけで胃がむかついてきたパイらしき代物に、華扇は顔をしかめた。レミリアは憮然として口を開く。
「失礼ね。食べてまずいものなんて出さないわ」
「……そう。でも悪いけど私は遠慮するわ」
「ふん。案外臆病なのね」
レミリアの悪態に言い返してやろうかと華扇は思ったが、背を向けたまま立ち去る。暫く歩いて振り返り、レミリアたちが人混みの向こうに消えたことを確認して、華扇はため息を吐いた。
「まったくあの鈍感。鬼がイワシを食べれるわけないじゃない」
人々は古来より、柊の枝にイワシの頭を刺すことで鬼への魔除けとしていた。こと節分になれば柊鰯は家々の戸口に飾られた。そんなものを華扇が口にできるはずもなかった。
そこまで考えて華扇は眉をしかめた。
――でも彼女も鬼じゃなかったかしら?
「西洋妖怪は複雑怪奇ね」
華扇はもう一度ため息を吐いた。
海の魚はそれから一月ほど見かけられたが、次第に捕れる量が少なくなっていった。雪が降る頃には目を皿にして探しても川や湖で見かけることはなくなった。
里の者や妖怪に何ら危害を与えることなく終わったこの異変は、いつの間にか話の中に出ることもなくなり、気がつけば忘れられていった。
年の瀬が迫ったころ、雪の積もった川べりを歩いていた華扇は、水面に一匹の魚が泳いでいるのを見た。見慣れない魚だったのでよく見てみようと近づいたが、小さい魚だったので気がつくと見失っていた。何度も川を覗き込み、ようやく諦めて立ち上がった華扇は、ふと今の魚も海のものではないかと思った。
結局のところ海の魚が現れた理由は分からなかった。外の世界から何かの拍子で流れ着いた、と言われているがそれも確証のある話ではない。
波をたて流れる川の水を見ながら、華扇は考える。
――外の世界では海の魚は消えたのかもしれない。
幻想郷には忘れられたものが流れ着く。里の街角で見かけた魚も、外の世界で存在が失われたものだったのかもしれない。
華扇は首を振って苦笑する。
もしそうなら僅かの期間で川から消える訳がない。外の海は広いと聞く。海の魚が真水が合わず、すぐに弱って死ぬとしても、外の世界より次から次へと送り込まれれば一月程度で消えるとは思えない。おおかた河童が隠れて養殖していたものが、誤って川に流れた程度のことだと華扇は思っていた。
しかしそれでも『外の世界で存在が失われた』という考えを、華扇はどうしても否定することができなかった。汚染、乱獲、存在を消す手段などいくらでも考えられる。外の人間ならそれくらいやりかねない。
「あ」
ぐぅ、とお腹が大きな音をたてた。まだ昼食を食べておらず、いい加減お腹がすいてきた。また華扇は苦笑を浮かべ、里の方へと足を向ける。
白い息を吐き、空を見上げる。異変の真相は華扇には分からない。あの魚達は忘れられたかもしれない。そうでないのかもしれない。でも、少なくとも華扇は忘れたくないと思った。
「魚、美味しかったなあ」
秋の街角で食べた焼き魚を思い出しつつ、華扇は里へと向かっていった。
眉を潜めつつ軒先を眺め歩いていた茨木華扇は、里の中心の人だかりを見てさらに表情を歪めた。
「何これ?」
一週間ほど前に祭りが終わったと言うのに、街路には屋台が並び提灯まで家々の隅に飾られていた。屋台からは何やら香ばしい匂いが漂い、思わず華扇のお腹が唸る。そろそろ正午を迎え、いい具合に空いてきたお腹には、屋台からの香りは抗えないものがあった。
「おう、華扇じゃあないか」
右手に建てれた屋台より呼び止める声が聞こえ、振り返るとそこには割烹着を来た魔理沙がいた。
「魚鍋」と大きな字で書かれたその屋台からは、白い湯気とともに味噌の匂いが流れてきた。
「何やっているのよ魔理沙」
「見ての通りだ。鍋を作っているのさ。食ってみないか?」
ちょうど何か食べたかったので、華扇は頷き懐より小銭を魔理沙に渡した。お椀と割り箸を受け取ると、すぐに汁へと口をつける。
「……美味しいじゃない」
「だろ?」
濃い味噌の風味に煮込んだ魚がよく馴染んでいる。その合間に漂う人参や玉ねぎを噛み締める度に、染み込んだ磯の香りが鼻孔をくすぐる。思わず夢中になって味噌汁を口に入れ一息つく。
「ごちそうさま」
「ありがとな。ゴミはこっちで預かるぜ」
食べ終わった食器をわたして華扇は辺りを見回す。周囲には屋台が並び、そのどれもに人が並んでいる。いずれの屋台も食べ物屋で、曰く「焼き魚」「煮魚」「煮干し」「魚鍋」など、妙に魚料理が多い。
「ところで魔理沙、これは一体なんの祭りなの?」
「あれ、お前知らないのか? 三日前に魚が大量に取れただろ?」
「知らないわ。その頃は家にこもっていたから」
「ふうん。まあとにかくだ。なんか見慣れない魚が大量に川に現れたんだ」
「見慣れない?」
「ほらこれとか見てみろよ。川魚ってかんじじゃないだろ。こんな形の魚、私は見たこと無いぜ?」
魔理沙は床下の木箱より一匹の魚を取り上げた。細長く背には青みがかかったその魚は、華扇も川で見た覚えは無い。
「これだけじゃないぜ? 他にも色々な魚、それも見覚えのない物がたくさん川で釣れたんだ」
魔理沙が持つ魚を華扇はじっと見つめる。まだ生きているのか、弱々しくであるが頭を振っている。
何となく華扇は訝しく思った。未知の魚が大量に取れる。これはひょっとすると何かの異変ではないだろうか。
「……これ食べても大丈夫なの?」
華扇の脳裏には嫌な想像がよぎった。もしこれが異変なのだとしたら、取れた魚には呪いや魔力と言った胡散臭い力がかけられている恐れがある。碌なことにはなりそうにない。
しかし魔理沙は魚を木箱に戻すと、笑いながら答えた。
「いやいや、大丈夫だって。みんな食べているけれどなんともないって」
「でもねえ……」
「疑りぶかいなあ。なんなら霊夢にでも聞いてみればいいじゃないか?」
ぶっきらぼうに放たれた魔理沙の言葉に華扇は顔をあげる。確かにこれが異変であったなら霊夢が動いているはずだ。
「魔理沙の言うとおりね。一度神社に行ってみるわ」
「あー、霊夢なら神社にいないぞ」
「へ?」
魔理沙は何も言わず後ろを指差した。その向こうへと振り返ると、神社にいるはずの博麗の巫女の姿があった。もっとも今の彼女は巫女装束ではなくハッピを着ており、屋台の店主として立っていた。
「……彼女、何しているの」
「そりゃあ見ての通りだろ」
魔理沙に背を向け華扇は霊夢の屋台へと歩み寄る。焼き魚と赤字で書かれた彼女の屋台からは、その名の通り魚の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「あら華扇じゃない」
「あら、じゃないでしょ。一体あなた何しているのよ?」
「何もクソも、このとおり魚を売っているのよ」
「異変が起こっているのよ。そんなことしている暇あるの?」
「異変といっても、何か困ったことでも起きたわけ?」
「それは……」
周りを見回す華扇の目には、道を行き交う人々の笑顔が映った。屋台は里の軒先を囲むように並び、火鉢からの煙や屋台からの湯気で辺りは薄霧が立ち込めたかのように白じんでいる。里の人々は焼き魚の刺さった串や、すまし汁の入ったお椀を片手に、声をあげ練り歩いていた。
「ね?」
微笑む霊夢に華扇は何も言うことができなかった。
「むしろみんな喜んでいるし、私だって楽しまなければ損でしょ。というわけでいかが?」
差し出された焼き魚からは、ほのかに湯気が出ており、まぶした塩の香りが華扇の鼻に届く。華扇はつばを飲み込んだ。
「じゃ、じゃあ一本だけ」
「はい、まいどー」
小銭を払うと、細長い魚の刺さった串を渡された。黄色いその魚をかじると、蛋白な魚の味とは別に何か小さな粒が、華扇の口の中で割れた。美味しさに舌をうちつつ、怪訝に思って華扇は魚へと目を向ける。白い身の横で、肌色をした無数の粒が腹に当たるところに並んでいる。
屋台の台座より霊夢が身を乗り出す。
「なんだか明太子みたいでしょ?」
「確かにそんな食感ね。これなんて魚?」
「知らないわよ。私だって今朝、川で釣るまで見たことなかったわ」
「……そんな怪しげなもの売っているの?」
「美味しいから良いでしょ。毒もなさそうだし」
華扇は魚をじっと見つめる。そしてもう一度口に入れる。
美味しい、と思いつつも、なんとなく釈然としない気持ちになる。一体この魚は何で、どこから来たのだろうか?
霊夢と別れて道なりにあるきつつ、焼き魚を頬張る。里の中心に近づくと、人だかりも次第に増えてくる。時折見慣れた妖怪ともすれ違うが、誰もこの祭りを満喫しているようである。
――気にしすぎているのかしら?
そんなことを思いつつ華扇は立ち止まった。誰かが自分の名前を読んだ気がした。
「おおい。こっちだ、こっち」
「……げ、萃香じゃないの」
着流しを着た伊吹萃香が屋台の向こうに立っていた。屋台一杯に大きなまな板が用意されており、その上には青みのかかった一匹の魚が寝ている。
「別にそんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃないか」
笑いながら言う萃香を尻目に華扇は辺りを伺う。彼女にとって幸いなことに、誰も華扇のことを見ていなかった。安心したかのように一息つくと、華扇は萃香へと向き直った。
「で、萃香は何をこんなところで何をしているの?」
「見ての通り刺し身さ」
萃香は右手に持った大ぶりの出刃包丁を華扇に見せつけた。
「驚いた。魚、さばけるんだ」
「知らなかったか? 私は器用なんだぜ」
言うが早いか、包丁を魚の体へと差し込み、あっという間に身を切り出した。赤く肉厚な刺し身が、まな板の上で切り出されていく。
「ほれ。食べてみな」
萃香の差し出した紙皿の上には、油がのっているからか表面がてかりつつも重厚な刺し身が並んでいた。脇には濃ゆく黒い醤油がかかっている。萃香から箸と皿が手渡され、華扇は一切れをとると恐る恐る口へ近づける。
「……美味しい」
歯ごたえのある肉質を噛めば噛むほど、ほんのりと塩味が口の中へと広がる。ただ醤油をかけただけだというのに、箸が止まらない。
気がつけば皿の上から刺し身が消えていた。萃香は微笑みながら華扇の様子を見ていた。
「結構いけるだろ?」
「そうね。でも一体なんの魚?」
「マグロだ」
「まぐろ……?」
首をひねる華扇を、萃香は呆れたように見つめた。
「おいおい、忘れたのか? まあ無理もないか。最後に食べたのは私だってかなり前だからな」
「えっと……」
華扇は頭を抱えて記憶を辿る。マグロ、という魚は確かにどこかできいたことがある。でも随分前、それこそ百年以上も昔のことだった。少なくともこのマグロという魚は幻想郷の川や湖では見たことがない。
「もしかして海の魚?」
「そうさ。いやあ、懐かししねえ」
さばかれた魚を愛おしげに見つめる萃香を横目に、華扇は先ほど通り過ぎた道を振り返る。どうりで屋台に並ぶ魚に見覚えがないはずだ。幻想郷には海はない。だから海が由来の魚は見た覚えが殆ど無い。きっと魔理沙や霊夢がだした魚も海の魚なのだろう。しかし何故幻想郷に突然、海の魚が現れたのだろうか。
「ま、難しい顔するくらいなら楽しみなって」
あっけらかんと言う萃香が言う。彼女の微笑みを見ていると、華扇も悩むのがバカバカしく思えてきた。
一通り食べ終えると、食器を萃香に渡した。そして離れようと背を向けたとき、華扇の手を背後より萃香が掴んだ。彼女は華扇の耳元に口を近づける。
「紅魔館の連中には近づくなよ?」
「……へ? なんで?」
「……行けば分かるけど、あまり近づかないほうがいいぞ」
苦笑いを浮かべる萃香を怪訝に思いつつも、彼女と別れた華扇は道の先へと進んでいった。里の中心を過ぎて博麗神社の方へと向かうと、次第に人間より妖怪の屋台が多くなる。そして人通りは少なくなり、明らかに妖怪の数が増えてくる。
――大丈夫か博麗神社?
華扇は頭を抱えつつ、前へと進む。すると前方から妙に甘ったるい香りが流れてきた。気になった華扇は匂いの方向に目を向け、そして嫌な予感が胸によぎった。その屋台には紅魔屋と大きな字で描かれていた。
見なかったことにして帰ろうとも思ったが、どうにも匂いが気になり華扇は前へと歩む。
紅魔屋の屋台には十六夜咲夜が立っており、その後ろにはパイプ椅子にふんぞり返ったレミリア・スカーレットの姿があった。
そして屋台の台座に広がるものを見て、華扇は固まった。
「何なの、これ?」
黄金色のパイのようなものから魚の頭が飛び出していた。それも一匹二匹ではなく、十匹近くも。よく見れば頭だけではなく、尻尾も焼いた生地より生えていた。
華扇の問に咲夜は微笑んで答えた。
「イワシパイです」
「イワシ……」
「どうせならインパクトのあるものが良い、とお嬢様がおっしゃるのでご用意いたしました」
確かに衝撃的ではある『いわしパイ』の見た目に、華扇は頭を抱えた。そんな彼女の様子をどう思ったのか、レミリア・スカーレットは腕を組んで笑みを浮かべた。
「ふふん。見て驚くが良いわ」
「……食べても大丈夫?」
見ているだけで胃がむかついてきたパイらしき代物に、華扇は顔をしかめた。レミリアは憮然として口を開く。
「失礼ね。食べてまずいものなんて出さないわ」
「……そう。でも悪いけど私は遠慮するわ」
「ふん。案外臆病なのね」
レミリアの悪態に言い返してやろうかと華扇は思ったが、背を向けたまま立ち去る。暫く歩いて振り返り、レミリアたちが人混みの向こうに消えたことを確認して、華扇はため息を吐いた。
「まったくあの鈍感。鬼がイワシを食べれるわけないじゃない」
人々は古来より、柊の枝にイワシの頭を刺すことで鬼への魔除けとしていた。こと節分になれば柊鰯は家々の戸口に飾られた。そんなものを華扇が口にできるはずもなかった。
そこまで考えて華扇は眉をしかめた。
――でも彼女も鬼じゃなかったかしら?
「西洋妖怪は複雑怪奇ね」
華扇はもう一度ため息を吐いた。
海の魚はそれから一月ほど見かけられたが、次第に捕れる量が少なくなっていった。雪が降る頃には目を皿にして探しても川や湖で見かけることはなくなった。
里の者や妖怪に何ら危害を与えることなく終わったこの異変は、いつの間にか話の中に出ることもなくなり、気がつけば忘れられていった。
年の瀬が迫ったころ、雪の積もった川べりを歩いていた華扇は、水面に一匹の魚が泳いでいるのを見た。見慣れない魚だったのでよく見てみようと近づいたが、小さい魚だったので気がつくと見失っていた。何度も川を覗き込み、ようやく諦めて立ち上がった華扇は、ふと今の魚も海のものではないかと思った。
結局のところ海の魚が現れた理由は分からなかった。外の世界から何かの拍子で流れ着いた、と言われているがそれも確証のある話ではない。
波をたて流れる川の水を見ながら、華扇は考える。
――外の世界では海の魚は消えたのかもしれない。
幻想郷には忘れられたものが流れ着く。里の街角で見かけた魚も、外の世界で存在が失われたものだったのかもしれない。
華扇は首を振って苦笑する。
もしそうなら僅かの期間で川から消える訳がない。外の海は広いと聞く。海の魚が真水が合わず、すぐに弱って死ぬとしても、外の世界より次から次へと送り込まれれば一月程度で消えるとは思えない。おおかた河童が隠れて養殖していたものが、誤って川に流れた程度のことだと華扇は思っていた。
しかしそれでも『外の世界で存在が失われた』という考えを、華扇はどうしても否定することができなかった。汚染、乱獲、存在を消す手段などいくらでも考えられる。外の人間ならそれくらいやりかねない。
「あ」
ぐぅ、とお腹が大きな音をたてた。まだ昼食を食べておらず、いい加減お腹がすいてきた。また華扇は苦笑を浮かべ、里の方へと足を向ける。
白い息を吐き、空を見上げる。異変の真相は華扇には分からない。あの魚達は忘れられたかもしれない。そうでないのかもしれない。でも、少なくとも華扇は忘れたくないと思った。
「魚、美味しかったなあ」
秋の街角で食べた焼き魚を思い出しつつ、華扇は里へと向かっていった。
魔理沙も霊夢も萃香も、みんな料理を出すのが様になっていて幻想郷らしいなと思いました。
海の味覚を堪能する華扇も可愛いです。