里の大路を往く風に、微かな騒めきが混じっている。
表を行く人の影は見当たらぬと云うのに、人々の言葉だけが活発に飛び交っている。
朝の光は清々しいのに、この不穏な空気はなんだ。
がらんとした目抜通りの中心を我が物顏で闊歩する、普段は味わえぬそんな贅沢を満喫しながらも、マミゾウは至極不機嫌だった。
くさくさした空気が嫌いだ。空はからりと晴れていた方がいい。人々はいつでも気ままに能天気であって欲しいと思う。そうでなければ我々が存在する意味が無いではないか。妖怪は人間の暗部を請け負う為に生まれたのだから。そう。人間が人を喰わぬよう、妖怪は人を喰らうのだから。
今、人間の里に渦巻くこの漠然とした不安と憎悪。
人よりも遥かに永く生きてきたマミゾウにとって、それはある意味、馴染み深いものである。過去に何度も経験をした。人々の間にこの風が吹き荒ぶ時、必ず何か良からぬ事が起こって来た。外界と隔絶された幻想郷と言えど、これから起こる事はおそらく変わらないだろう。
そう。
そろそろ奴等が出現する頃合いである。
考えを巡らせながら歩いていた丁度その時。件のそれが姿を見せた。
「お、おいみんな、聞いたか。この前の土砂崩れの事件、どうやら何か裏があるらしいぞ」
空き地に出来た人だかりに目をやると、みかん箱の上に立つ男が聴衆に向かい何やら熱心に語り掛けていた。
「噂で聞いたんだが、この前の土砂崩れは、どうやら誰かがわざと引き起こしたらしいんだ」
血色の良くない男が不安げな表情でまくし立てると、群衆にどよめきが広がった。
土砂崩れの事故。それは先日のプリズムリバー三姉妹の演奏会で起こった、悲惨な事故である。死者数は人妖合わせて約六百と推定されている。外の世界でも、これほどの規模の死者が出る事故は珍しい。まして人の少ない幻想郷では。人里の人間が受けた衝撃たるや、簡単には推し量れないものがある。
ただでさえ、原因不明の神隠しが頻発しているこの時期。
人里の人間がその方向に向かうのは、もはや歴史の必然と言っても過言ではない。
即ち、不安から逃れるために、人間達は生贄探しを始めるのだ。
それを主導するのは奴等……つまり、人々を愚行に駆り立てる扇動者である。何時の時代も、何処の国でも、それは変わらないのだ。
「人間に土砂崩れなど起こせるはずもない。事故を引き起こしたのは、妖怪に違いないぞ!」
不安げな男がそう叫ぶと、群衆の間に言葉が走った。
やっぱり。
そうじゃないかと思ってた。
ちくしょう、妖怪どもめ……。
あの人を返して!
飛び交う言葉が徐々に怒号に変わってゆく。
何を馬鹿なとマミゾウは思う。土砂崩れの事件では、人間だけでなく妖怪にも大きな被害が出ているのだ。しかもあの天狗と河童に、である。妖怪の山を牛耳る一大勢力の二つを同時に害するなど、有象無象共には考えつきもしまい。妖怪の仕業と断じるのは早計なのである。
だが、この馬鹿がまかり通るのが、今の状況だ。
人々はやがて怒号をそろえ、妖怪の排斥を訴え始めた。
マミゾウは笠を目深に被りなおすと、静かにその場から離れた。人間の熱気と狂気を恐れたわけではない。それを嫌ったのだ。狂騒に駆られた醜悪な姿は見るに堪えない。あれでは人間とは呼べない、まるで有象無象の妖怪に成り下がっているから。
しかし、喧噪から離れた理由はそれだけではない。
小道の途中で立ち止まり、マミゾウは煙管を咥えた。
フッと煙を吐き出すと、素早く脇の垣根を飛び越え、その内側に身を投じる。
音もなく着地したマミゾウは、鋭い目つきで油断無く敷地内を見回したが、人の気配は無い。
庭を横切り、マミゾウは目の前の屋敷に近づいた。
正面、おそらく屋敷の主の書斎。
開きっぱなしの障子戸から、吊られて揺れる袴と白足袋が見える。
危惧した通りだった。
「遅かった、か……」
吐き出した紫煙が空に昇った。
演奏会の出資者を調査してくれ。それがナズーリンから依頼された仕事である。彼女は今、事故現場の調査に掛かりっきりになってしまっている。何せ、被害者数が多い。人里の調査はマミゾウがしていたのだ。
どうやらナズーリンは、演奏会の出資者があの事故の責任を問われ、里の人間達に迫害されることを恐れたようだ。
その危惧通り、出資者の中年男性は首吊り死体になってしまっていた。屋敷内には他にも人間の姿が見える……床に転がったまま動かないが。家族も皆、死んでいるのだろう。
マミゾウの眼前で、吊られた男が左右に揺れる。
ぎしり、ぎしり。癇に障る音を立てながら。
普通に考えれば、出資者の男は自殺だろう。事故を起こした責任を感じて、家族を道連れに無理心中を図ったというところか。
だが、この話は不自然である。
出資者の金の流れを追ったところ、そもそもこの男に演奏会の出資を行うような金銭的余裕は無かったのである。それはこの屋敷を見ても分かる。そう大きくはない。中流ではあったようだが、長者と呼ぶには足りぬ。事実、この男は演奏会の出資のために方々に借金をしていた。回収出来なかったら首を括るしかないような額である。
しかも、今回の演奏会はこの男の単独出資だったと言う。
ルナサ・プリズムリバーに確認したところ、普段の演奏会では複数の出資者を募るのだと言っていた。当然である。巨大な金が動くのだ。金の回収に失敗した時のリスクは、一個人には大きすぎる。だから複数の人間で分割出資を行い、リスクを下げるのだ。金を扱う者として当然の考え方である。
だが、今回は違った。出資者はたった一人、眼前にぶら下がる男のみ。しかも他の出資を断ったとも言う。わざわざリスクを大きくするような事をして、まるで死に急いでいたかのようである。
何故、この男はそんな真似をしたのか。
胸の内に確信が湧き上がる。
この男はある目的を持って演奏会の出資を行い、その上で口封じをされたのだ。
賢者達。
ナズーリンの口にしていたその言葉が、マミゾウの頭の中にちらつく。
どうやら奴らは、手段を選ばないらしい。
マミゾウの胸に湧き上がった確信は、煮えたぎるようにその胸を熱くする。
この懐かしい感覚。マミゾウは昔々、佐渡の侠客だった頃を思い出していた。そう、これは義憤だ。己が欲望の為に策謀を巡らせ民を虐げるなど、正に悪逆非道の極み。
「許せんな……」
命蓮寺に居候している手前、ナズーリン達を手伝っていただけなのだが、それだけではない理由がマミゾウにも出来始めている。
煙管を噛む口に力が篭もった。
こいつらは、気に入らない。
妖怪の動く理由は、ただそれだけで十分だった。
「死人に口無し、か」煙管の火を消し、マミゾウはつぶやいた。「じゃがそれは、外の世界での話じゃて。この幻想郷では、必ずしもそうではない。お主もそう思わんか?」
振り返ったマミゾウの瞳には、猫車を押す赤髪おさげの少女の姿が映る。
地底の地獄猫、火焔猫燐。マミゾウの協力者である。
彼女なら、彼岸へ旅立つ前の魂と会話をすることが出来る。
「今日の分はこれで終わりだ、一輪」
「まったく……」
一輪は愚痴でも言おうとしたのだろうが、寸前でその口をつぐんだ。不謹慎だと思って自制したのだろう。だがそれは、過剰な自制だと思う。
「愚痴の一つくらいこぼしたところで、浄土は遠のかんよ」
「でもね、ナズーリン。なんだか死んだ人に申し訳ないじゃない」
「死なば皆仏。仏はその程度では腹を立てんよ。それより、いつもの明るい君に戻らなければ仏達も心配して、浄土に旅立てなくなってしまうぞ」
「そう……ね」
一輪はその頭巾を取って、額の汗を拭った。湿り気を帯びた髪がざんばらに風に舞う。
昼下がりの命蓮寺の中庭は、運ばれてきた遺体によって満杯になっていた。先日の演奏会で起きた事件の被害者達である。運ばれてきた被害者は、無事身元の照会が終わり、遺族の立会の元、火葬される者達だ。
幻想郷では命蓮寺が出現するまで寺院が存在せず、仏式の葬儀を望む者は少ないだろうと踏んでいたのだが、それは誤算だったようだ。幻想郷でも火葬を望むものは多く、それ故、大部分の遺体の葬式を命蓮寺で挙げることになった。命蓮寺以外にこれほど多くの遺体を処理できる組織が存在しないというのも大きかった。
葬式を挙げるのは構わないのだが、一つ問題がある。膨大な死者数に、弔う側の人間が疲労を覚えているのだ。愚痴の一つでもこぼしたくなるほどに。何せ、弔う側の人間よりも死者数のほうがはるかに多いのである。
加えて、妖怪の山にはいまだ捜索されるのを待つ遺体も眠っている。そちらの捜索も続行しなければならない。命蓮寺の面々は過労でやつれ始めていた。
「なら言っちゃうけど……これだけ多いと、流石に辟易するわよね」
ため息混じりに一輪が漏らす。その後ろでは、見越し入道の雲山も憂鬱そうな顔をしていた。
「最近、お葬式ばっかりだしね。人魚が喪主のお葬式に、自警団の人のお葬式、あの身寄りのない子のお葬式もさ。この前は檀家のお葬式もあったし。……ああ、あれはそうか、つい先日だったわね。時間の感覚が狂ってきちゃったわ。しかし、折角あんたが供養塚を立ててあげたのに、その途端にってのもね……」
先日の一本杉での事件である。あの後、依頼人の檀家の老婆はすぐに病死してしまった。関わった私やファンクラブ会員のぬえが演奏会に出席出来なかったのは、丁度その葬式があったからだ。
もしも、ぬえほどの力を持った大妖怪があの場所に居てくらていたら。詮無い事と分かっていても、ついそう考えてしまう。
一輪も暗い顔である。
「正直、気が滅入ってきたわ」
「だろうな。人を弔うのにも力が要る。あのご主人様ですら、よく愚痴をこぼしていたくらいだよ」
「そう、か。あんた達、外ではずっとそんな事してたんですもんね。本当、大変だったわね……」
「だが、今日からはもう少し楽になるだろう。聖徳王から申し出があってな。神霊廟の道士が葬儀を手伝ってくれることになった」
「え、神霊廟の? 商売敵じゃないの」
「そう言っている場合でもないだろう。今は非常事態だ。力を合わせて事に当たらねばな」
それでも、一輪はちょっと嫌そうな顔をしていた。
神霊廟といえば、あの豊聡耳神子のせいで快楽主義者の集団というイメージが強い。一輪の気持ちは分からんでもなかった。
「私は調査があってここに居られないが……くれぐれも道士連中と喧嘩するんじゃないぞ」
「そんな元気も無いわよ」
虚ろな目で息を吐くその様子に、私はなんとなく不安を覚えてしまう。
「……一輪、無理はするなよ。適度に休むのも僧の務めだ」
ふと、一輪はじっと私の方を見つめた。普段は柔和なその顔を憂いで一杯にしている。
「なんだよ、何かあるのかい?」
その視線に、私は少し狼狽えてしまった。
「あんたの方こそ、無理してるんじゃないの?」
私は慌ててそっぽを向いてごまかした。
命蓮寺のおっちょこちょい代表として名高い一輪だが、その実、よく気がついて気が回る女なのだ。
「私は大丈夫さ」
「嘘おっしゃい。あんた、しばらく前から働き詰めじゃないのさ。死体探偵。あんたが何の為にそんな事してるんだか知らないけれど……身体を壊したら元も子もないわよ」
「肝に銘じておくよ」
「あんたから見たら頼りないかもしれないけど。私も村紗も、響子にぬえにこころだって。声を掛けてくれれば、みんな喜んであんたの力になるわよ。もっと頼ってくれたっていいから」
そんな君達だから、余計な疑心を与えたくないんだ。
そう口にする事も出来ずに、私は口をつぐむしかない。
「……分かっている」
追求する一輪の視線を背中でかわして、私は命蓮寺を出た。
妖怪の山へ向かう。
天狗達の縄張りまで来ると、律儀な白狼天狗達が道を通せんぼして来た。彼女達は私を見やると、またか、とうんざりした顔になった。
「姫海棠はたてに会いたい」
『花果子念報』を突き付けてお決まりの台詞を言うと、白狼天狗達の目が死んだ。
ここ最近、同じやり取りを繰り返している。姫海棠はたては私に興味が無いようで、いくら書状を送り付けても返答が無い。こうして会いに来ても、いつも門前払いされてしまっていた。
賢者達の動きを秘密裏に報道する姫海棠はたて。彼女は確実に何らかの手掛かりを握っている。私は何としても彼女に接触したかった。
そんな私を、はたてはいつも同じ事を言って追い払った。
「射命丸文としか会うつもりは無い」
そう言うのである。はたては引きこもり気味だという噂だが、友人にしか会わないと言うのはちょっと度が過ぎている気がする。
射命丸文を引っ張り出せばはたてに接触出来るのかもしれないが、射命丸は賢者達の一員である可能性が高い。二の足を踏んでしまっているのが現状だ。
可哀想な白狼天狗達は、結果が分かりきっていても一応は取り次がなければならない。死んだ目をしながら天狗の里の奥へ駆けて行く様を見て、ちょっとだけ申し訳なく思う。
やがて戻って来た白狼天狗の一人は、姫海棠はたては留守だと言った。
また取材に出かけたのかと思ったが、どうやら、ここ数日程、家を空けているらしい。何処かに旅行でも行っているのだろうか。
白狼天狗相手にごねても埒が明かないので、私は諦めて事故現場の捜索に戻る事にした。
ルナサ達はあの崖の上に来ていた。
そこに簡素ながら墓を造った。あのトランペットの少年の墓である。大きな岩の下にポツリと石を立てただけ、墓碑銘も何もない墓だが、自らの命を掛けて人々を救った英雄の墓とあって、献花も多い。里の人間が記念碑を建てるという話も出ていた、ルナサ自身はあまり気が進まないのだが。
リリカとメルランとルナサ。三人で白い花を供え、手を合わせた。こうしていると、あの少年は本当に死んだのだとルナサは実感する。おそらくリリカもメルランも、同じ想いだろう。
少年の死と向き合い、その想いを継いだ事で、リリカは強くなった。大事な人の死から目を逸らし続けていたリリカはもういない。いつの日かきっと思い出してくれるだろう、大切なあの人の事も。
メルランはあれから持ち前の明るさを取り戻した。以前には欠けていた落ち着きも得て、今は安定感がある。
自分達姉妹はそれぞれに精神的な脆さを抱えている。そうルナサは感じていたのだが、あの事件以来、リリカとメルランはその壁を乗り越えたようにも思えた。
しかし、ルナサは。
「メルラン、リリカ。先に戻っていてくれるかしら。私は少し、作業現場に顔を出して行くわ」
ルナサがそう言うと、リリカは自分も行くと言いだしたが、メルランが引っ張って連れ帰ってくれた。
メルランはルナサの闇に気付いているのだ。
ルナサは、この事件をこのまま終わらせるつもりはなかった。
自分でも分かっている。過去に囚われた所で、未来には繋がらない。だが、どうしても憎しみを捨て去る事が出来ない。
この事故を引き起こしたのは、一体誰だ。
「事実だけ言わせてもらうよ」
黒谷ヤマメが眉根を寄せた厳しい顔をして言う。
「土砂崩れの発生地は、一本杉の辺りだと皆知っていると思う。その土壌を詳しく調べたところ……発破の跡が見つかった」
騒めきが小さな小屋を満たす。
無縁塚近く、ナズーリンの掘っ立て小屋にて行われた会議は、早くも紛糾の兆しを見せていた。
「発破だと……? なら、この事故は……!」
上白沢慧音が怒りに言葉を詰まらせた。
詰めかけた関係者一同も、驚きを隠せない様子である。
「残念ながら、人為的に起こされたと結論せざるを得ないでしょう」
射命丸文が自慢の文化帖に何事が速記しながら言う。その顔色は暗く、いつものにやけた表情も鳴りを潜めている。
「それが白狼天狗の記録した、局地的かつ極小規模の地震の正体という訳です」
「見つかった爆薬の残骸を解析したところ、高度な時限装置が使われていた事が分かった」
帽子を目深に被った河城にとりが、部屋の隅から声を上げた。
「知能の低い有象無象共には不可能な犯行だろう。ただし、相応の知能と知識があれば、誰にでも発破装置の製作は可能だ。妖怪でも……もちろん人間でもね」
「妖怪が爆薬なんて使う必要はありません。弾幕を使えば事足りる。この犯行は人間の仕業だと見るのが適切でしょう」
射命丸の意見は尤もであるが、慧音はそれでも喰ってかかった。
「人間の犯行だと決めつけるのは早計じゃないのか。弾幕の力が弱い妖怪が爆弾を使ったのかもしれない」
「そうですよ」
東風谷早苗も口を揃えた。
「大体、時限装置で爆破だなんて、やり口が近代的じゃないですか。この幻想郷でそんな技術を持っている存在は限られますよ」
その視線は明確ににとりと射命丸へ注がれている。確かに、この幻想郷で技術力と言えば、まず挙がるのが河童と天狗である。
「自分の庭を爆破するほど天狗は酔狂じゃありませんよ」
「川を汚すような真似を河童がするかい」
当然、二者は否定した。尤もな意見だった。
「それに技術力といえば、外から来たあんた達も十二分に怪しいだろう? 守矢の跳ねっ返り娘さん。あんたがやった可能性だってある」
指で拳銃の形を作って早苗を射るにとり。その様は、普段の人懐っこい彼女の姿からは掛け離れている。
「そんなこと……!」
「自分で事故を起こしてそれを収拾することで、名を上げようとしたんじゃないのかい」
「なんですって!」
いきり立つ早苗を、ナズーリンが制した。
「早苗、落ち着いてくれ。にとりもやめるんだ」
「先に仕掛けて来たのはそちらさんだろうに」
にとりは悪びれた様子も無く、帽子の下に視線を隠した。
「私の考えを言おう」ナズーリンは静かに続けた。「私は、今回の事故を里の人間が起こしたのだと考えている」
「そんな……。里の人達にそんな技術、あるわけないですよ」
「山師の技術ってのは、あんたが考えてるよりずっと高度だよ。私が保証してあげる。少なくとも、私と同じ技術を持っていれば発破は十分に可能さ」
そうヤマメに駄目押しされても、早苗は口を尖らせていた。
「そして残念ながら」地図を広げ、ナズーリンが言う。「もう一つ根拠がある。ヤマメ」
「今回の土砂崩れが辿ったルートをおさらいしよう」
ヤマメが地図を指示棒で辿る。その動きに、一同の視線が集まる。
「一本杉の崖から崩れた大量の土砂が、山を下って演奏会会場を直撃した」
杉のマークが描かれた地点からスルスルとめぐる指示棒の先は、×印の付いた演奏会会場に到達する。
「その先。勢いの止まらない土砂は、もう一つ崖を超えて、街道を叩き潰し、川に注ぎ込んだ」
崖を乗り越え、街道を横切り、指示棒は川の辺りで止まる。
あっ、と声を上げたのは、藤原妹紅だ。
「ま、まさか……!」
「気付いたようだな」ナズーリンが頷きながら言う。「この崖。慧音、君は知っているはずだな。先日起こった誘拐事件の折、身代金の受け渡しに指定された場所だ。あの時は様々な茶々が入って、身代金の受け渡し自体が有耶無耶になったが、あの場所が選ばれた不自然さは君も感じていた事と思う。あの時の脅迫状は誰かが作った偽物だった。脅迫状を届けた男は、自警団を名乗った人間の男だと言う」
慧音は顔を青くし、口許に手をやって震えた。
「じゃ、じゃあこの土砂崩れは、もしかして……」
「元々、君を狙ったものを転用した。私はそう考えている」
打ちのめされた慧音が表情を硬くし、隣の妹紅はその肩をそっと抱いていた。
「ルナサ。君の話では、演奏会の場所を決めたのは、人間の里の出資者だったな」
「……ええ」
ナズーリンの問いに、ルナサは静かに頷いた。
「その出資者と前から取引はあったのか」
「今回が初めてだったわ」
「なら、決まりだわ」
博麗霊夢が声を上げた。その声に皆、凍りついた。身を切るような鋭さが、その言葉にあった。
「その出資者が下手人だわ。引っ立てましょう。人間の身で異変を起こそうとするなど、言語道断。一刻も早く断罪すべきよ」
そう言って立ち上がった霊夢だったが、
「事はそう簡単じゃないぞ。話を最後まで聞かんか」
二ッ岩マミゾウに押し留められて、臍を噛んだ。
「ワシが調べに行った所、出資者は既に死んでいた。事故の責任を感じて無理心中をしたように見せ掛けておったが、あれは他殺じゃった」
「何故、分かるのよ」
「死人の口を割ったんじゃ。のう、火車妖怪よ」
火焔猫燐は静かに燃える瞳をして言う。
「ああ。あたいが確認したところ、出資者の男は里の人間に殺されたと言っていたよ。裏切られた、ともね」
「誰に殺されたのよ」
「……男は事件について何も知らなかったみたいだよ。騙されていた可能性もあるが、男はこう言っていた。里の自警団の男に唆され、そして裏切られて殺されたのだと」
その場にいる誰もが、糸が繋がるのを感じた。
自警団を名乗る男。
その男が上白沢慧音の暗殺を企て、さらには人妖に甚大な被害をもたらしたあの土砂崩れを引き起こしたのである、と。
「……十分だわ」
それだけ言うと、霊夢は掘っ立て小屋を飛び出して行った。
「ま、待って下さいよ、霊夢さん!」
早苗が慌てて後を追って行った。早苗はリリカを襲う霊夢を止めてくれたと言う。霊夢の過激な行動は、早苗に任せておけば何とかなるだろう。
「この事実は報道させていただきますよ」
射命丸は文化帖を閉じて立ち上がった。
その射命丸をナズーリンが手で制した。
「待ってくれ。敵に手の内を晒したくない。自警団の男の存在は伏せて欲しい」
「しかし」
「犯人を逃がす訳にはいかん。報道規制が必要だ」
「そのような法、この幻想郷には存在しません」
「法の有る無しではない、これは倫理の問題だろう」
「知り得る全てを報道するのもまた報道の倫理でしょう」
ルナサは手にしていたうさぎ型の貯金箱を床に叩きつけた。
陶器の割れる鋭い音が議論を裂いて、その時を止めた。中から零れ落ちた金貨達の転がる音だけが、言葉を奪われた室内を駆け巡った。
ことり。
転がる金貨がルナサの足に当たって、倒れた。
「……私は。金に糸目を付けるつもりもなければ、手段を選ぶつもりもありません」
静かに、ゆっくりとその決意を口にした。自分の感情が昂ぶっている事、ルナサは自覚していた。声に魔力が乗ってしまったかも知れない。集まった人妖達が息を呑んでいる。
いち早く冷静さを取り戻し口を開いたのは、やはりナズーリンだった。
「……これ以上被害を増やすつもりか、射命丸」
殺し文句である。そう言われては、射命丸は引かざるを得ない。この場の人妖全てを敵に回す事になりかねないからだ。射命丸は渋々と言った顔で頷いた。
「仕方ありませんね。どうやら、それが最善のようです。しかし、これは貸しですよ、ナズーリン」
射命丸が窓から飛び出して行くのを合図に、会議は解散となった。
あの事故は、里の人間によって引き起こされた。
この会議で出た結論に、それぞれ当惑しながら。
ルナサはしゃがみ込んで、砕いた貯金箱の欠片を拾い集めた。金貨は全てナズーリンに託そう、そう考えながら。あまり他人を信用しないルナサであるが、あの小鼠は信頼に値すると思い始めていた。少なくとも、目的が一致している今、この時は。
ふと、指に鋭い痛みが走る。欠片の切っ先で指先を傷つけてしまったのだろう、赤い血が流れ出していた。
土砂に巻き込まれて死んだ人々の痛みは、こんなものの比ではない。
腕が震える。
どうして、彼らは死ななければならなかったのか。
どうして、あの子は死ななければならなかったのか。
どうして。
どうして……。
「ルナサ……」
顔を上げると、ナズーリンが立っていた。その後ろには、火車妖怪の火焔猫燐の姿もある。
「君に伝えなければならないことがある」
そう言う彼女は、心なしか青い顔をしているようにも思えた。
「君に依頼されていたあの少年の身元だが……どうやっても分からなかった」
「あの子の……?」
ルナサもリリカもメルランですらも、あの子の名前も、何処に住んでいるのかも、全く知らなかった。だからあの子の墓に名前を入れることすら出来ていない。
「鼠も使ったが、駄目だった。口寄せも試したが……」
燃える瞳の火焔猫燐が、首を振る。
「遅かったらしくてね。もう、トランペットの子は彼岸に行っちまったらしい」
「手掛かりは無いのかしら」
「今のところ、見つかっていない」
「嘘を言うんじゃないよ、ナズーリン」
燐がナズーリンに喰ってかかり、その胸ぐらを掴んだ。ナズーリンの服の間からペンデュラムが零れて揺れた。ほのかに赤い色を中心部に湛えるペンデュラムである。
「あんたが力を使って分からなかったんだ。もう答えは一つしか無いだろう。トランペットの子は、あの子と同じだ。名前を与えられない子ども達だったんだ。奴らにいいように使われていたんだよ、あの賢者達に!」
燐は激高し、耳と尻尾を逆立て震えている。
「声が高い」
ナズーリンは口に指をやって、その言葉を抑えた。
「ルナサ。それに燐も。君達も今日の会議で色々と思う所があるだろうが、くれぐれも早まった真似はしないようにしてくれ。今、私達は敵の創った流れの中にいる。思慮に欠ける行動は奴らの思う壺だ」
「……あたいの怒りも、奴らの手の平の上ってことかい」
ナズーリンは頷く。
「発破の跡は隠蔽された様子もなかった。人間の仕業だとアピールするために痕跡を残していたのだろう。奴らの目的は、おそらく人間と妖怪の間の憎悪を煽る事だ。今は自制してくれ」
「あたいは絶対、奴らを許さない」燐はナズーリンを突き放し、背を向けた。「人間も妖怪も関係ない。こんな事をしでかすような奴は鬼畜生以下さ、必ず駆逐してやる……!」
そう言い放って、燐は去って行ってしまった。
ナズーリンは深い溜め息を吐いている。
「貴女はどうするの」
「ああ……調査は続けるが、私は一旦、外の世界に出ようと思っている」
「外へ?」
「事件の調査も必要だが、遺体の身元確認も難航しているのが現状だ。遺留品を外の技術で分析しようと思う。血液鑑定などは外でしか出来ないからな」
「そう……」
ルナサは、貯金箱の欠片をナズーリンに差し出した。
その欠片には、自らの血が付着していた。
ナズーリンは首を傾げた。
「……なんだい、これは?」
「これも持って行くといいわ。一つ……予感がするの。とても、嫌な予感……」
ルナサの視線は、ナズーリンのペンデュラムに釘付けになっていた。
新参の小鼠が事情に詳しい理由、ようやく得心が行った気がする。
ナズーリンは、八雲紫の使者だったのだ。
煙管を吸う気にもなれなかった。
苛ついた気分を沈めようと、マミゾウは茶屋の長椅子に座り、青空の下、茶を啜っていた。
あの土砂崩れは人間に引き起こされた。それはマミゾウにとっても衝撃的であった。
外の世界はテロリズムの頻発で揺れていたが、まさか幻想郷も同じだとは。
この幻想郷。どうやら、桃源郷とは程遠いらしい。
「やはり人間というのは、何時の時代も何処の国でも、変わらんもんじゃな……」
気分を変えようと、長椅子に積み上げられた新聞を手に取った。
『文々。新聞』には今日の会議の結果が書かれている。流石射命丸、記事にするのが早い。言葉通り、自警団を名乗る男に関しては記事にされていなかった。大妖怪というのは自らの言葉を翻したりしないものである。
「おい、聞いたか。この前の土砂崩れ、どうやら誰かがわざと引き起こしたらしいぞ! 一本杉を誰かが爆破して土砂崩れを引き起こしたらしいんだ!」
声がしたほうを見やると、新聞を手にした血色の悪い男が、通りの向こうの観衆を前に不安げな表情でまくし立てていた。
またやっとる。マミゾウはうんざりしてしまった。見ていても苛つくだけなので、マミゾウは再び新聞を漁った。手にした新聞は『花果子念報』。マミゾウは普段読まない新聞である。流し読みでもしようと、さっと目を走らせた。
だが、不安げな男が続けて放った言葉の矢が耳に突き刺さり、マミゾウは凍りついた。
「この新聞によれば、事件前後、あの死体探偵が一本杉付近をうろついていたらしい」
息を飲むマミゾウの目に映るのは、『花果子念報』の一面に載った死体探偵……即ち、ナズーリンの姿だった。一本杉とその下の供養塚を背景に、濁った瞳をカメラの方に向けている。マミゾウには見覚えがあった。この写真は先日、一本杉の供養塚を伝える『文々。新聞』に載ったものと同じだ。記事の遅い『花果子念報』が今になってようやく記事にしたのだろうが、タイミングが最悪すぎた。発破の件が報じられた今、こんな写真が出回っては……。
「奴が事故を引き起こしたんだ! 死体探偵は死体が無ければ儲からない、事故を起こして死体を増やそうとしたに違いないぞ!」
馬鹿な。
何故、そうなる。
戦慄するマミゾウを尻目に、群衆は次第に熱を帯びていった。
表を行く人の影は見当たらぬと云うのに、人々の言葉だけが活発に飛び交っている。
朝の光は清々しいのに、この不穏な空気はなんだ。
がらんとした目抜通りの中心を我が物顏で闊歩する、普段は味わえぬそんな贅沢を満喫しながらも、マミゾウは至極不機嫌だった。
くさくさした空気が嫌いだ。空はからりと晴れていた方がいい。人々はいつでも気ままに能天気であって欲しいと思う。そうでなければ我々が存在する意味が無いではないか。妖怪は人間の暗部を請け負う為に生まれたのだから。そう。人間が人を喰わぬよう、妖怪は人を喰らうのだから。
今、人間の里に渦巻くこの漠然とした不安と憎悪。
人よりも遥かに永く生きてきたマミゾウにとって、それはある意味、馴染み深いものである。過去に何度も経験をした。人々の間にこの風が吹き荒ぶ時、必ず何か良からぬ事が起こって来た。外界と隔絶された幻想郷と言えど、これから起こる事はおそらく変わらないだろう。
そう。
そろそろ奴等が出現する頃合いである。
考えを巡らせながら歩いていた丁度その時。件のそれが姿を見せた。
「お、おいみんな、聞いたか。この前の土砂崩れの事件、どうやら何か裏があるらしいぞ」
空き地に出来た人だかりに目をやると、みかん箱の上に立つ男が聴衆に向かい何やら熱心に語り掛けていた。
「噂で聞いたんだが、この前の土砂崩れは、どうやら誰かがわざと引き起こしたらしいんだ」
血色の良くない男が不安げな表情でまくし立てると、群衆にどよめきが広がった。
土砂崩れの事故。それは先日のプリズムリバー三姉妹の演奏会で起こった、悲惨な事故である。死者数は人妖合わせて約六百と推定されている。外の世界でも、これほどの規模の死者が出る事故は珍しい。まして人の少ない幻想郷では。人里の人間が受けた衝撃たるや、簡単には推し量れないものがある。
ただでさえ、原因不明の神隠しが頻発しているこの時期。
人里の人間がその方向に向かうのは、もはや歴史の必然と言っても過言ではない。
即ち、不安から逃れるために、人間達は生贄探しを始めるのだ。
それを主導するのは奴等……つまり、人々を愚行に駆り立てる扇動者である。何時の時代も、何処の国でも、それは変わらないのだ。
「人間に土砂崩れなど起こせるはずもない。事故を引き起こしたのは、妖怪に違いないぞ!」
不安げな男がそう叫ぶと、群衆の間に言葉が走った。
やっぱり。
そうじゃないかと思ってた。
ちくしょう、妖怪どもめ……。
あの人を返して!
飛び交う言葉が徐々に怒号に変わってゆく。
何を馬鹿なとマミゾウは思う。土砂崩れの事件では、人間だけでなく妖怪にも大きな被害が出ているのだ。しかもあの天狗と河童に、である。妖怪の山を牛耳る一大勢力の二つを同時に害するなど、有象無象共には考えつきもしまい。妖怪の仕業と断じるのは早計なのである。
だが、この馬鹿がまかり通るのが、今の状況だ。
人々はやがて怒号をそろえ、妖怪の排斥を訴え始めた。
マミゾウは笠を目深に被りなおすと、静かにその場から離れた。人間の熱気と狂気を恐れたわけではない。それを嫌ったのだ。狂騒に駆られた醜悪な姿は見るに堪えない。あれでは人間とは呼べない、まるで有象無象の妖怪に成り下がっているから。
しかし、喧噪から離れた理由はそれだけではない。
小道の途中で立ち止まり、マミゾウは煙管を咥えた。
フッと煙を吐き出すと、素早く脇の垣根を飛び越え、その内側に身を投じる。
音もなく着地したマミゾウは、鋭い目つきで油断無く敷地内を見回したが、人の気配は無い。
庭を横切り、マミゾウは目の前の屋敷に近づいた。
正面、おそらく屋敷の主の書斎。
開きっぱなしの障子戸から、吊られて揺れる袴と白足袋が見える。
危惧した通りだった。
「遅かった、か……」
吐き出した紫煙が空に昇った。
演奏会の出資者を調査してくれ。それがナズーリンから依頼された仕事である。彼女は今、事故現場の調査に掛かりっきりになってしまっている。何せ、被害者数が多い。人里の調査はマミゾウがしていたのだ。
どうやらナズーリンは、演奏会の出資者があの事故の責任を問われ、里の人間達に迫害されることを恐れたようだ。
その危惧通り、出資者の中年男性は首吊り死体になってしまっていた。屋敷内には他にも人間の姿が見える……床に転がったまま動かないが。家族も皆、死んでいるのだろう。
マミゾウの眼前で、吊られた男が左右に揺れる。
ぎしり、ぎしり。癇に障る音を立てながら。
普通に考えれば、出資者の男は自殺だろう。事故を起こした責任を感じて、家族を道連れに無理心中を図ったというところか。
だが、この話は不自然である。
出資者の金の流れを追ったところ、そもそもこの男に演奏会の出資を行うような金銭的余裕は無かったのである。それはこの屋敷を見ても分かる。そう大きくはない。中流ではあったようだが、長者と呼ぶには足りぬ。事実、この男は演奏会の出資のために方々に借金をしていた。回収出来なかったら首を括るしかないような額である。
しかも、今回の演奏会はこの男の単独出資だったと言う。
ルナサ・プリズムリバーに確認したところ、普段の演奏会では複数の出資者を募るのだと言っていた。当然である。巨大な金が動くのだ。金の回収に失敗した時のリスクは、一個人には大きすぎる。だから複数の人間で分割出資を行い、リスクを下げるのだ。金を扱う者として当然の考え方である。
だが、今回は違った。出資者はたった一人、眼前にぶら下がる男のみ。しかも他の出資を断ったとも言う。わざわざリスクを大きくするような事をして、まるで死に急いでいたかのようである。
何故、この男はそんな真似をしたのか。
胸の内に確信が湧き上がる。
この男はある目的を持って演奏会の出資を行い、その上で口封じをされたのだ。
賢者達。
ナズーリンの口にしていたその言葉が、マミゾウの頭の中にちらつく。
どうやら奴らは、手段を選ばないらしい。
マミゾウの胸に湧き上がった確信は、煮えたぎるようにその胸を熱くする。
この懐かしい感覚。マミゾウは昔々、佐渡の侠客だった頃を思い出していた。そう、これは義憤だ。己が欲望の為に策謀を巡らせ民を虐げるなど、正に悪逆非道の極み。
「許せんな……」
命蓮寺に居候している手前、ナズーリン達を手伝っていただけなのだが、それだけではない理由がマミゾウにも出来始めている。
煙管を噛む口に力が篭もった。
こいつらは、気に入らない。
妖怪の動く理由は、ただそれだけで十分だった。
「死人に口無し、か」煙管の火を消し、マミゾウはつぶやいた。「じゃがそれは、外の世界での話じゃて。この幻想郷では、必ずしもそうではない。お主もそう思わんか?」
振り返ったマミゾウの瞳には、猫車を押す赤髪おさげの少女の姿が映る。
地底の地獄猫、火焔猫燐。マミゾウの協力者である。
彼女なら、彼岸へ旅立つ前の魂と会話をすることが出来る。
「今日の分はこれで終わりだ、一輪」
「まったく……」
一輪は愚痴でも言おうとしたのだろうが、寸前でその口をつぐんだ。不謹慎だと思って自制したのだろう。だがそれは、過剰な自制だと思う。
「愚痴の一つくらいこぼしたところで、浄土は遠のかんよ」
「でもね、ナズーリン。なんだか死んだ人に申し訳ないじゃない」
「死なば皆仏。仏はその程度では腹を立てんよ。それより、いつもの明るい君に戻らなければ仏達も心配して、浄土に旅立てなくなってしまうぞ」
「そう……ね」
一輪はその頭巾を取って、額の汗を拭った。湿り気を帯びた髪がざんばらに風に舞う。
昼下がりの命蓮寺の中庭は、運ばれてきた遺体によって満杯になっていた。先日の演奏会で起きた事件の被害者達である。運ばれてきた被害者は、無事身元の照会が終わり、遺族の立会の元、火葬される者達だ。
幻想郷では命蓮寺が出現するまで寺院が存在せず、仏式の葬儀を望む者は少ないだろうと踏んでいたのだが、それは誤算だったようだ。幻想郷でも火葬を望むものは多く、それ故、大部分の遺体の葬式を命蓮寺で挙げることになった。命蓮寺以外にこれほど多くの遺体を処理できる組織が存在しないというのも大きかった。
葬式を挙げるのは構わないのだが、一つ問題がある。膨大な死者数に、弔う側の人間が疲労を覚えているのだ。愚痴の一つでもこぼしたくなるほどに。何せ、弔う側の人間よりも死者数のほうがはるかに多いのである。
加えて、妖怪の山にはいまだ捜索されるのを待つ遺体も眠っている。そちらの捜索も続行しなければならない。命蓮寺の面々は過労でやつれ始めていた。
「なら言っちゃうけど……これだけ多いと、流石に辟易するわよね」
ため息混じりに一輪が漏らす。その後ろでは、見越し入道の雲山も憂鬱そうな顔をしていた。
「最近、お葬式ばっかりだしね。人魚が喪主のお葬式に、自警団の人のお葬式、あの身寄りのない子のお葬式もさ。この前は檀家のお葬式もあったし。……ああ、あれはそうか、つい先日だったわね。時間の感覚が狂ってきちゃったわ。しかし、折角あんたが供養塚を立ててあげたのに、その途端にってのもね……」
先日の一本杉での事件である。あの後、依頼人の檀家の老婆はすぐに病死してしまった。関わった私やファンクラブ会員のぬえが演奏会に出席出来なかったのは、丁度その葬式があったからだ。
もしも、ぬえほどの力を持った大妖怪があの場所に居てくらていたら。詮無い事と分かっていても、ついそう考えてしまう。
一輪も暗い顔である。
「正直、気が滅入ってきたわ」
「だろうな。人を弔うのにも力が要る。あのご主人様ですら、よく愚痴をこぼしていたくらいだよ」
「そう、か。あんた達、外ではずっとそんな事してたんですもんね。本当、大変だったわね……」
「だが、今日からはもう少し楽になるだろう。聖徳王から申し出があってな。神霊廟の道士が葬儀を手伝ってくれることになった」
「え、神霊廟の? 商売敵じゃないの」
「そう言っている場合でもないだろう。今は非常事態だ。力を合わせて事に当たらねばな」
それでも、一輪はちょっと嫌そうな顔をしていた。
神霊廟といえば、あの豊聡耳神子のせいで快楽主義者の集団というイメージが強い。一輪の気持ちは分からんでもなかった。
「私は調査があってここに居られないが……くれぐれも道士連中と喧嘩するんじゃないぞ」
「そんな元気も無いわよ」
虚ろな目で息を吐くその様子に、私はなんとなく不安を覚えてしまう。
「……一輪、無理はするなよ。適度に休むのも僧の務めだ」
ふと、一輪はじっと私の方を見つめた。普段は柔和なその顔を憂いで一杯にしている。
「なんだよ、何かあるのかい?」
その視線に、私は少し狼狽えてしまった。
「あんたの方こそ、無理してるんじゃないの?」
私は慌ててそっぽを向いてごまかした。
命蓮寺のおっちょこちょい代表として名高い一輪だが、その実、よく気がついて気が回る女なのだ。
「私は大丈夫さ」
「嘘おっしゃい。あんた、しばらく前から働き詰めじゃないのさ。死体探偵。あんたが何の為にそんな事してるんだか知らないけれど……身体を壊したら元も子もないわよ」
「肝に銘じておくよ」
「あんたから見たら頼りないかもしれないけど。私も村紗も、響子にぬえにこころだって。声を掛けてくれれば、みんな喜んであんたの力になるわよ。もっと頼ってくれたっていいから」
そんな君達だから、余計な疑心を与えたくないんだ。
そう口にする事も出来ずに、私は口をつぐむしかない。
「……分かっている」
追求する一輪の視線を背中でかわして、私は命蓮寺を出た。
妖怪の山へ向かう。
天狗達の縄張りまで来ると、律儀な白狼天狗達が道を通せんぼして来た。彼女達は私を見やると、またか、とうんざりした顔になった。
「姫海棠はたてに会いたい」
『花果子念報』を突き付けてお決まりの台詞を言うと、白狼天狗達の目が死んだ。
ここ最近、同じやり取りを繰り返している。姫海棠はたては私に興味が無いようで、いくら書状を送り付けても返答が無い。こうして会いに来ても、いつも門前払いされてしまっていた。
賢者達の動きを秘密裏に報道する姫海棠はたて。彼女は確実に何らかの手掛かりを握っている。私は何としても彼女に接触したかった。
そんな私を、はたてはいつも同じ事を言って追い払った。
「射命丸文としか会うつもりは無い」
そう言うのである。はたては引きこもり気味だという噂だが、友人にしか会わないと言うのはちょっと度が過ぎている気がする。
射命丸文を引っ張り出せばはたてに接触出来るのかもしれないが、射命丸は賢者達の一員である可能性が高い。二の足を踏んでしまっているのが現状だ。
可哀想な白狼天狗達は、結果が分かりきっていても一応は取り次がなければならない。死んだ目をしながら天狗の里の奥へ駆けて行く様を見て、ちょっとだけ申し訳なく思う。
やがて戻って来た白狼天狗の一人は、姫海棠はたては留守だと言った。
また取材に出かけたのかと思ったが、どうやら、ここ数日程、家を空けているらしい。何処かに旅行でも行っているのだろうか。
白狼天狗相手にごねても埒が明かないので、私は諦めて事故現場の捜索に戻る事にした。
ルナサ達はあの崖の上に来ていた。
そこに簡素ながら墓を造った。あのトランペットの少年の墓である。大きな岩の下にポツリと石を立てただけ、墓碑銘も何もない墓だが、自らの命を掛けて人々を救った英雄の墓とあって、献花も多い。里の人間が記念碑を建てるという話も出ていた、ルナサ自身はあまり気が進まないのだが。
リリカとメルランとルナサ。三人で白い花を供え、手を合わせた。こうしていると、あの少年は本当に死んだのだとルナサは実感する。おそらくリリカもメルランも、同じ想いだろう。
少年の死と向き合い、その想いを継いだ事で、リリカは強くなった。大事な人の死から目を逸らし続けていたリリカはもういない。いつの日かきっと思い出してくれるだろう、大切なあの人の事も。
メルランはあれから持ち前の明るさを取り戻した。以前には欠けていた落ち着きも得て、今は安定感がある。
自分達姉妹はそれぞれに精神的な脆さを抱えている。そうルナサは感じていたのだが、あの事件以来、リリカとメルランはその壁を乗り越えたようにも思えた。
しかし、ルナサは。
「メルラン、リリカ。先に戻っていてくれるかしら。私は少し、作業現場に顔を出して行くわ」
ルナサがそう言うと、リリカは自分も行くと言いだしたが、メルランが引っ張って連れ帰ってくれた。
メルランはルナサの闇に気付いているのだ。
ルナサは、この事件をこのまま終わらせるつもりはなかった。
自分でも分かっている。過去に囚われた所で、未来には繋がらない。だが、どうしても憎しみを捨て去る事が出来ない。
この事故を引き起こしたのは、一体誰だ。
「事実だけ言わせてもらうよ」
黒谷ヤマメが眉根を寄せた厳しい顔をして言う。
「土砂崩れの発生地は、一本杉の辺りだと皆知っていると思う。その土壌を詳しく調べたところ……発破の跡が見つかった」
騒めきが小さな小屋を満たす。
無縁塚近く、ナズーリンの掘っ立て小屋にて行われた会議は、早くも紛糾の兆しを見せていた。
「発破だと……? なら、この事故は……!」
上白沢慧音が怒りに言葉を詰まらせた。
詰めかけた関係者一同も、驚きを隠せない様子である。
「残念ながら、人為的に起こされたと結論せざるを得ないでしょう」
射命丸文が自慢の文化帖に何事が速記しながら言う。その顔色は暗く、いつものにやけた表情も鳴りを潜めている。
「それが白狼天狗の記録した、局地的かつ極小規模の地震の正体という訳です」
「見つかった爆薬の残骸を解析したところ、高度な時限装置が使われていた事が分かった」
帽子を目深に被った河城にとりが、部屋の隅から声を上げた。
「知能の低い有象無象共には不可能な犯行だろう。ただし、相応の知能と知識があれば、誰にでも発破装置の製作は可能だ。妖怪でも……もちろん人間でもね」
「妖怪が爆薬なんて使う必要はありません。弾幕を使えば事足りる。この犯行は人間の仕業だと見るのが適切でしょう」
射命丸の意見は尤もであるが、慧音はそれでも喰ってかかった。
「人間の犯行だと決めつけるのは早計じゃないのか。弾幕の力が弱い妖怪が爆弾を使ったのかもしれない」
「そうですよ」
東風谷早苗も口を揃えた。
「大体、時限装置で爆破だなんて、やり口が近代的じゃないですか。この幻想郷でそんな技術を持っている存在は限られますよ」
その視線は明確ににとりと射命丸へ注がれている。確かに、この幻想郷で技術力と言えば、まず挙がるのが河童と天狗である。
「自分の庭を爆破するほど天狗は酔狂じゃありませんよ」
「川を汚すような真似を河童がするかい」
当然、二者は否定した。尤もな意見だった。
「それに技術力といえば、外から来たあんた達も十二分に怪しいだろう? 守矢の跳ねっ返り娘さん。あんたがやった可能性だってある」
指で拳銃の形を作って早苗を射るにとり。その様は、普段の人懐っこい彼女の姿からは掛け離れている。
「そんなこと……!」
「自分で事故を起こしてそれを収拾することで、名を上げようとしたんじゃないのかい」
「なんですって!」
いきり立つ早苗を、ナズーリンが制した。
「早苗、落ち着いてくれ。にとりもやめるんだ」
「先に仕掛けて来たのはそちらさんだろうに」
にとりは悪びれた様子も無く、帽子の下に視線を隠した。
「私の考えを言おう」ナズーリンは静かに続けた。「私は、今回の事故を里の人間が起こしたのだと考えている」
「そんな……。里の人達にそんな技術、あるわけないですよ」
「山師の技術ってのは、あんたが考えてるよりずっと高度だよ。私が保証してあげる。少なくとも、私と同じ技術を持っていれば発破は十分に可能さ」
そうヤマメに駄目押しされても、早苗は口を尖らせていた。
「そして残念ながら」地図を広げ、ナズーリンが言う。「もう一つ根拠がある。ヤマメ」
「今回の土砂崩れが辿ったルートをおさらいしよう」
ヤマメが地図を指示棒で辿る。その動きに、一同の視線が集まる。
「一本杉の崖から崩れた大量の土砂が、山を下って演奏会会場を直撃した」
杉のマークが描かれた地点からスルスルとめぐる指示棒の先は、×印の付いた演奏会会場に到達する。
「その先。勢いの止まらない土砂は、もう一つ崖を超えて、街道を叩き潰し、川に注ぎ込んだ」
崖を乗り越え、街道を横切り、指示棒は川の辺りで止まる。
あっ、と声を上げたのは、藤原妹紅だ。
「ま、まさか……!」
「気付いたようだな」ナズーリンが頷きながら言う。「この崖。慧音、君は知っているはずだな。先日起こった誘拐事件の折、身代金の受け渡しに指定された場所だ。あの時は様々な茶々が入って、身代金の受け渡し自体が有耶無耶になったが、あの場所が選ばれた不自然さは君も感じていた事と思う。あの時の脅迫状は誰かが作った偽物だった。脅迫状を届けた男は、自警団を名乗った人間の男だと言う」
慧音は顔を青くし、口許に手をやって震えた。
「じゃ、じゃあこの土砂崩れは、もしかして……」
「元々、君を狙ったものを転用した。私はそう考えている」
打ちのめされた慧音が表情を硬くし、隣の妹紅はその肩をそっと抱いていた。
「ルナサ。君の話では、演奏会の場所を決めたのは、人間の里の出資者だったな」
「……ええ」
ナズーリンの問いに、ルナサは静かに頷いた。
「その出資者と前から取引はあったのか」
「今回が初めてだったわ」
「なら、決まりだわ」
博麗霊夢が声を上げた。その声に皆、凍りついた。身を切るような鋭さが、その言葉にあった。
「その出資者が下手人だわ。引っ立てましょう。人間の身で異変を起こそうとするなど、言語道断。一刻も早く断罪すべきよ」
そう言って立ち上がった霊夢だったが、
「事はそう簡単じゃないぞ。話を最後まで聞かんか」
二ッ岩マミゾウに押し留められて、臍を噛んだ。
「ワシが調べに行った所、出資者は既に死んでいた。事故の責任を感じて無理心中をしたように見せ掛けておったが、あれは他殺じゃった」
「何故、分かるのよ」
「死人の口を割ったんじゃ。のう、火車妖怪よ」
火焔猫燐は静かに燃える瞳をして言う。
「ああ。あたいが確認したところ、出資者の男は里の人間に殺されたと言っていたよ。裏切られた、ともね」
「誰に殺されたのよ」
「……男は事件について何も知らなかったみたいだよ。騙されていた可能性もあるが、男はこう言っていた。里の自警団の男に唆され、そして裏切られて殺されたのだと」
その場にいる誰もが、糸が繋がるのを感じた。
自警団を名乗る男。
その男が上白沢慧音の暗殺を企て、さらには人妖に甚大な被害をもたらしたあの土砂崩れを引き起こしたのである、と。
「……十分だわ」
それだけ言うと、霊夢は掘っ立て小屋を飛び出して行った。
「ま、待って下さいよ、霊夢さん!」
早苗が慌てて後を追って行った。早苗はリリカを襲う霊夢を止めてくれたと言う。霊夢の過激な行動は、早苗に任せておけば何とかなるだろう。
「この事実は報道させていただきますよ」
射命丸は文化帖を閉じて立ち上がった。
その射命丸をナズーリンが手で制した。
「待ってくれ。敵に手の内を晒したくない。自警団の男の存在は伏せて欲しい」
「しかし」
「犯人を逃がす訳にはいかん。報道規制が必要だ」
「そのような法、この幻想郷には存在しません」
「法の有る無しではない、これは倫理の問題だろう」
「知り得る全てを報道するのもまた報道の倫理でしょう」
ルナサは手にしていたうさぎ型の貯金箱を床に叩きつけた。
陶器の割れる鋭い音が議論を裂いて、その時を止めた。中から零れ落ちた金貨達の転がる音だけが、言葉を奪われた室内を駆け巡った。
ことり。
転がる金貨がルナサの足に当たって、倒れた。
「……私は。金に糸目を付けるつもりもなければ、手段を選ぶつもりもありません」
静かに、ゆっくりとその決意を口にした。自分の感情が昂ぶっている事、ルナサは自覚していた。声に魔力が乗ってしまったかも知れない。集まった人妖達が息を呑んでいる。
いち早く冷静さを取り戻し口を開いたのは、やはりナズーリンだった。
「……これ以上被害を増やすつもりか、射命丸」
殺し文句である。そう言われては、射命丸は引かざるを得ない。この場の人妖全てを敵に回す事になりかねないからだ。射命丸は渋々と言った顔で頷いた。
「仕方ありませんね。どうやら、それが最善のようです。しかし、これは貸しですよ、ナズーリン」
射命丸が窓から飛び出して行くのを合図に、会議は解散となった。
あの事故は、里の人間によって引き起こされた。
この会議で出た結論に、それぞれ当惑しながら。
ルナサはしゃがみ込んで、砕いた貯金箱の欠片を拾い集めた。金貨は全てナズーリンに託そう、そう考えながら。あまり他人を信用しないルナサであるが、あの小鼠は信頼に値すると思い始めていた。少なくとも、目的が一致している今、この時は。
ふと、指に鋭い痛みが走る。欠片の切っ先で指先を傷つけてしまったのだろう、赤い血が流れ出していた。
土砂に巻き込まれて死んだ人々の痛みは、こんなものの比ではない。
腕が震える。
どうして、彼らは死ななければならなかったのか。
どうして、あの子は死ななければならなかったのか。
どうして。
どうして……。
「ルナサ……」
顔を上げると、ナズーリンが立っていた。その後ろには、火車妖怪の火焔猫燐の姿もある。
「君に伝えなければならないことがある」
そう言う彼女は、心なしか青い顔をしているようにも思えた。
「君に依頼されていたあの少年の身元だが……どうやっても分からなかった」
「あの子の……?」
ルナサもリリカもメルランですらも、あの子の名前も、何処に住んでいるのかも、全く知らなかった。だからあの子の墓に名前を入れることすら出来ていない。
「鼠も使ったが、駄目だった。口寄せも試したが……」
燃える瞳の火焔猫燐が、首を振る。
「遅かったらしくてね。もう、トランペットの子は彼岸に行っちまったらしい」
「手掛かりは無いのかしら」
「今のところ、見つかっていない」
「嘘を言うんじゃないよ、ナズーリン」
燐がナズーリンに喰ってかかり、その胸ぐらを掴んだ。ナズーリンの服の間からペンデュラムが零れて揺れた。ほのかに赤い色を中心部に湛えるペンデュラムである。
「あんたが力を使って分からなかったんだ。もう答えは一つしか無いだろう。トランペットの子は、あの子と同じだ。名前を与えられない子ども達だったんだ。奴らにいいように使われていたんだよ、あの賢者達に!」
燐は激高し、耳と尻尾を逆立て震えている。
「声が高い」
ナズーリンは口に指をやって、その言葉を抑えた。
「ルナサ。それに燐も。君達も今日の会議で色々と思う所があるだろうが、くれぐれも早まった真似はしないようにしてくれ。今、私達は敵の創った流れの中にいる。思慮に欠ける行動は奴らの思う壺だ」
「……あたいの怒りも、奴らの手の平の上ってことかい」
ナズーリンは頷く。
「発破の跡は隠蔽された様子もなかった。人間の仕業だとアピールするために痕跡を残していたのだろう。奴らの目的は、おそらく人間と妖怪の間の憎悪を煽る事だ。今は自制してくれ」
「あたいは絶対、奴らを許さない」燐はナズーリンを突き放し、背を向けた。「人間も妖怪も関係ない。こんな事をしでかすような奴は鬼畜生以下さ、必ず駆逐してやる……!」
そう言い放って、燐は去って行ってしまった。
ナズーリンは深い溜め息を吐いている。
「貴女はどうするの」
「ああ……調査は続けるが、私は一旦、外の世界に出ようと思っている」
「外へ?」
「事件の調査も必要だが、遺体の身元確認も難航しているのが現状だ。遺留品を外の技術で分析しようと思う。血液鑑定などは外でしか出来ないからな」
「そう……」
ルナサは、貯金箱の欠片をナズーリンに差し出した。
その欠片には、自らの血が付着していた。
ナズーリンは首を傾げた。
「……なんだい、これは?」
「これも持って行くといいわ。一つ……予感がするの。とても、嫌な予感……」
ルナサの視線は、ナズーリンのペンデュラムに釘付けになっていた。
新参の小鼠が事情に詳しい理由、ようやく得心が行った気がする。
ナズーリンは、八雲紫の使者だったのだ。
煙管を吸う気にもなれなかった。
苛ついた気分を沈めようと、マミゾウは茶屋の長椅子に座り、青空の下、茶を啜っていた。
あの土砂崩れは人間に引き起こされた。それはマミゾウにとっても衝撃的であった。
外の世界はテロリズムの頻発で揺れていたが、まさか幻想郷も同じだとは。
この幻想郷。どうやら、桃源郷とは程遠いらしい。
「やはり人間というのは、何時の時代も何処の国でも、変わらんもんじゃな……」
気分を変えようと、長椅子に積み上げられた新聞を手に取った。
『文々。新聞』には今日の会議の結果が書かれている。流石射命丸、記事にするのが早い。言葉通り、自警団を名乗る男に関しては記事にされていなかった。大妖怪というのは自らの言葉を翻したりしないものである。
「おい、聞いたか。この前の土砂崩れ、どうやら誰かがわざと引き起こしたらしいぞ! 一本杉を誰かが爆破して土砂崩れを引き起こしたらしいんだ!」
声がしたほうを見やると、新聞を手にした血色の悪い男が、通りの向こうの観衆を前に不安げな表情でまくし立てていた。
またやっとる。マミゾウはうんざりしてしまった。見ていても苛つくだけなので、マミゾウは再び新聞を漁った。手にした新聞は『花果子念報』。マミゾウは普段読まない新聞である。流し読みでもしようと、さっと目を走らせた。
だが、不安げな男が続けて放った言葉の矢が耳に突き刺さり、マミゾウは凍りついた。
「この新聞によれば、事件前後、あの死体探偵が一本杉付近をうろついていたらしい」
息を飲むマミゾウの目に映るのは、『花果子念報』の一面に載った死体探偵……即ち、ナズーリンの姿だった。一本杉とその下の供養塚を背景に、濁った瞳をカメラの方に向けている。マミゾウには見覚えがあった。この写真は先日、一本杉の供養塚を伝える『文々。新聞』に載ったものと同じだ。記事の遅い『花果子念報』が今になってようやく記事にしたのだろうが、タイミングが最悪すぎた。発破の件が報じられた今、こんな写真が出回っては……。
「奴が事故を引き起こしたんだ! 死体探偵は死体が無ければ儲からない、事故を起こして死体を増やそうとしたに違いないぞ!」
馬鹿な。
何故、そうなる。
戦慄するマミゾウを尻目に、群衆は次第に熱を帯びていった。
続きが楽しみです