生まれたとき、私はまだ言葉を持たなくて――。
かつて、モノの形をしていた私には、景色を見る目もなく、自然の音を聞く耳もなく、唯一感ぜられたのは、広げた頭を断続的に叩く水滴の冷たさと、私をしかと握るてのひらから伝わるほのかな温かさだけだった。
冷たい、とか、温かい、とか、はっきりした言葉での認識があったわけではない。ぼんやりとした意識でしかなかったものに、こうして振り返りながら後付けで言葉を与えているだけだ。その意識というやつも当初はずいぶんとぼやぼやしていて、今もふわふわと思い出せるこれがほんとうに今の私と地続きにあったものなのかと、ちょっと疑ってしまいたくなる。
ただ、思い出す感覚の中にひとつだけ確かなものがあった。
満たされている、という感覚。
道具の本分。必要とされ、実際に用いられる、役に立っている、そういう実感がもたらす満腹感。どれだけ私が雨に打たれようとも、その下に立つ人間から伝わってくる体温で、私のお腹はいっぱいになる。
今と違い、ただ道具でしかなかった私にとっての、唯一の存在証明。
そして、それを与えてくれる人間に対しての……なんだろう、親愛? 感謝? なんと言い表すのが正しいのかちょっと分からないけど、とにかくそんな感じの、やっぱり温かい気持ち。
この姿を得る前のいつかまで、私の中にしっかりとあったものだ。
だから、ときおりふと思う。
モノとして在った私が言葉を持っていたら……その思いを伝える術を有していたなら。
私は、伝えていただろうか。
思いを、届けようとしただろうか。
……なーんて、柄にもないこと考えてみたりしつつ、雨の気配なんてつゆとも感じさせない昼間の空を行く当てもなくふわふわと漂っている。カラリとした空気のたいへん過ごしやすい陽気だ。
「柄にもないもなにも、わちき元から柄なしだった!」
唐突に思いついた冗談を披露してみるが聴衆の一人もいないのでとてもむなしかった。
……詮無いことだからどうでもいいといえばどうでもいいんだけど、私も悩み多き乙女であるからして、こうして時々、のすたるじーに浸ってみたりなんかする。その内容はともかく、困りものなのは、思考が連鎖してあまりよろしくない現状に結びついてしまったりすることで、つまり。
「おなか減った……」
ぐるると幻聴の聞こえてきそうな空き具合のおなかをさすりながらつぶやいた。
驚かし足りぬ。
自由に動かせる手足を得たのだからと、道具の新たな役割を追求して鉄を打ったり子守りなどしてみたりもするけれど、私の本分は忘れ傘の付喪神、怨みのからかさお化けなのだった。私という存在が"そう"なんだから、これはもうどうしようもないことだ。
そして私のごはん……私のおなかを真の意味で満たしてくれるのは、ただ驚きの感情のみという、これもどうしようもないこと。驚かせなければ私にあらず。驚かせる、ゆえに我あり。
というとなんだかちょっと面倒な制約のように聞こえそうだとも思うが、実際ちゃんと驚かすのに成功するとそれに見合った分だけ力となって還ってくる感覚はあるし、なにより私自身、驚かせられるものなら驚かしたいという欲求はうずうずとしていつでも抱えているから、そのこと自体は別にいいのだ。
問題は。
「どうしたらみんなもっと驚いてくれるのかな……」
驚いてくれない。
それはもう切実に、誰も驚いてくれない。
傘がひとりでに動くのだ。それだけで奇妙奇天烈摩訶不思議のはずだ。しかし幻想郷の人間たちはその程度のものは見飽きたといわんばかり、どころか傘が勝手に動くことの何が不思議なの? と心底から思っている気さえする。
そりゃまあ首が取れたりとか歌を聞かせて鳥目にしたりとか派手なことはできないけど、これでも私なりに努力はしているのだ。古典にならってこんにゃくをぶつけてみたり、物陰に待ち構えて飛び出してみたり……しかし悲しいかな、それに見合った成果が得られているとは言いにくい現状だ(「努力の方向性を間違えているのでは?」というツッコミは無しで)。
続けてしみじみと思い出に浸る。ああ、お寺のお墓にいたころは良かったなぁ。お墓参りに来る人間はとても気持ちよく驚いてくれたものだった。地の利(?)を得た私の大活躍たるや! でもそれも頭にお札を貼った変なやつが現れるまでで、たまたま見かけた人間にそいつの退治をお願いしたらなぜか私まで巻き添えをくらい、それからは墓参りに訪れる人間の反応もあんまり芳しくなくなっちゃって……実に短い天下であった。ほろり。
「くよくよしてる場合じゃないわ、これからのことを考えないと」
ひとつこぶしをぎゅっと握る。過去を振り返るのはよそう。私は一つ目、この眼は未来しか見据えないのだ! あ、なんかこれかっこいいかも。でもそれを言うなら傘の私のと合わせて『私』には三つ目があるのだから、もっと広い視野を持てることにならないかしら? 三つか。なんだろ。過去、現在、未来? うーん、きゃらじゃない。
「私の生きざま的にはもっとこう、当たって砕けるような……」
「あら、砕いてほしいんですか?」
「うっひゃい!」
いきなり降りかかった言葉に思わず飛び上がる。いや空中なんだけど。
振り返ってみれば、後方上空、私の後ろにつくように早苗が飛んでいた。いつの間にこんなに近づいていたのだ。びっくりさせないでほしい。白と青の巫女服姿がいまは日に映えてちょっとまぶしかった。
大幣で口元を隠すようにしてくすくすと笑う。
「ほんと愉快よねぇあなたって。ここまで期待通りの反応をもらえるなんて、驚かしがいもあるってものだわ」
「むー。驚かすのは私の本業よ!」
「驚かさなければならない側が驚かされる。そのあたりの滑稽さも含めて愉快なんですよ」
そう言ってまた笑った。完全になめられている。妖怪の尊厳はどこに。ぐぬ。
「……にらんだってなにも出ませんよ?」
「うー、うー」
「うなっても無駄です。……どっかで聞きましたねその鳴き声」
「鳴かないよ! もう、相変わらずいじわるな人間ね」
「いえいえ、ただの現人神です」
この調子だ。のれんに腕押しぬかに釘、早苗と言い合っても勝てっこない。驚かそうとするとやり返してくる人間筆頭第一位だし、ならばと弾幕ごっこをしようにも、今日の調子ではやり込められるのが目に見えている。いち妖怪である身として少し情けない気もするが、こちらからは関わろうとしないのが賢明だろう。
ため息。
私は体の向きを変え、再びのろのろと飛び始めた。
「あらあら、今日はまたずいぶんと投げやりですね」
すいーっと飛んできた早苗が隣に並んだ。ついて来るつもりらしい。
「どこに向かってるんです? もしかして博麗神社かしら。でも事八日にはまだ早いし……あ、だめです小傘さん、早まってはいけません! そんなに退治されたいなら私に任せてください!」
「早まらないよ! むしろ早まってるのは早苗だよ! 私そんな退治されたがりの妖怪じゃないよ!」
「博麗神社でないとしたら、どちらへ?」
「ううん、どこだろう……ねぇ、私はどこへ向かえばいいのかしら?」
「あら、思春期ですね」
「なにそれ」
「少年と大人の境界です」
なにそれ。
早苗は何も持っていない方の手を口元にあてる。
「察するに、妖怪的な意味で空腹な感じでしょうか」
「うぐっ。……まあ、うん、そんなところ」
巫女という人種はどうしてこう嫌なところで勘が鋭いのだろう。
「あの驚かし方じゃあねえ。驚かす以外の食事はないんですか?」
「ないよ。私うらめしやの忘れ傘だもん」
「はいはい表は蕎麦屋。でも忘れ傘って、忘れ物の傘がそのまま捨てられてボロボロになって、そこに魂が宿って生まれる付喪神ですよね? だったら驚かす以外にもお腹を満たす方法はある気がするんですけど」
「他の方法って?」
「そりゃ、誰かに使ってもらうんですよ」
早苗はそう言って両手で握った大幣を掲げた。……いや、傘を持つ仕草か。
「付喪神って要するに、まだ使えるのに何かしらの事情で使われなくなった道具が"なる"ものなんでしょう? だったら誰かに使ってもらうことで成仏できるんじゃないんですか」
「とりあえず成仏はしないけども。使ってもらうったって……私だってこれでもいろいろ試してるんだよ? 道具の新しい生き方。早苗は知らないかもしれないけど」
「知ってますよ、鍛冶とかベビーシッターとかでしょ? 文さんの新聞にも載ってましたね。でも、鍛冶の腕は確かなんでしょうけど、結局のところ使われるのは小傘さん自身じゃなくて小傘さんが作った道具の方ですよね。ベビーシッターはぶっちゃけ評判悪いみたいですし、さして効果もないのでは?」
「ううぅ……じゃあどうすればいいっていうの!」
「そんなの決まってるじゃないですか。『傘』として使われればいいんですよ」
なに当たり前のことをと言わんばかりの表情で、早苗は掲げたままの大幣を傾げてみせる。
「傘として、って……」
それはとても素直な考えではあるけど、人の姿を得た私は傘としての造形と機能を捨てている。そんなの一目見ればわかることだろうに。いや、たしかに『私』の半分は傘だけども、さすがに半身を貸すわけにはいかないし……
「あ、でもそっか、そんな古臭い色の傘なんて使ってくれる人いないわね」
とか考えていたら古傷に右すとれーとを打ち込まれた。ぴちゅん。
「あれ、どうしたんですか小傘さん。おーい」
飛ぶのをやめて地面に降りていくと、早苗が上から声をかけてきた。無視して着地。博麗神社と人里の中間あたりに位置する道だ。ふらふらと飛んでいたけど、無意識に人里の方に気が向いていたのかもしれない。
後ろで、トン、と足が地を踏む音。
「どうしたんですいきなり降りてきて。何か珍しいものでも見つけました? でも特に気になるようなものは――」
「うああああぁぁぁーーーもうっ!」
わなわな震える体の衝動を放つように山彦よろしく叫んで、ふんすと振り返る。きょとんとした様子の早苗。それを目にしたらまたも体の内側からなにかがふつふつと湧き上がってきた。
頭の中で言葉が形を結ぶより先に口が動く。
「なんなのなんなの! 私だって好きで捨てられたわけじゃないよ! ちゃんと使われてたころだってあったんだよ! 使われると嬉しいよ! 嬉しかったよ! 道具だもん! そうじゃん! そうなるじゃん! 使ってくれないならなんで作ったの! いきなり置いてかれて、私だって寂しかったよ! 悲しかったよ! でもなにも出来なかったの! ただの道具じゃ人を選べないんだから! でもさ、いまは、違うじゃん。私動けるもん。ちゃんと生きてるもん! だったら、もっと、なにか……なにかやらなきゃって……」
「えーっと、小傘さん? 何をそんなに思い詰めているのか存じませんが」
「存じてよ! 元凶だよ! 早苗がいろいろ言うから私だってこんな、なんかもう、わけわかんなくなっちゃってるんじゃんか! わかんないよ私だって! もう、責任とって早苗が私を使ってよ!」
うつむき目をつむるほど、叩きつけるように言い切った。
しばらく無言だけが流れて、それからぱちりと目を開ける。
私いまなんて言った?
しだいに熱も冷め、冷静になった頭で思い返す。溜まっていたものをいろいろと吐き出したような気がするが、そこはどうでもよくて、最後。その、責任とってとか、なんとか……。
…………。
おそるおそる顔を上げると、早苗は大きく開いた目をぱちくりとさせていた。そこに、こらえきれなくなったのであろう笑みがじわじわと広がっていく様が、それはもうはっきりと見て取れた。
あ、これだめなやつだ。
「きゅ、急用を思い出したわ! 私はここいらで……」
「そこまで言われてはしょうがないですね!」
逃がさんとばかりに早苗はこちらの手をがっしと握ってきた。
「よき退治相手である小傘さんの存在がかかっているのです、不肖この東風谷早苗、喜んで協力いたしましょう! 神の奇跡と人の叡智で必ずや小傘さんの救貧を果たしてみせようではありませんか!」
うわぁ楽しそう。
満面の笑みをたたえて早苗がぐいと迫り、対照的に自分の顔が引きつっていくのを感じる。
経験でわかる、こうなったら早苗はこちらの言うことなど聞いてくれない。
どうしてこうなったという後悔と、せめて痛くないといいなぁという切実な思いをただただ募らせるばかりだ。
端的に状況だけ述べると、私はいま、早苗に抱きすくめられている。
背後から傘の私ごと抱えこむような格好だ。しめつける力はそんなに強くないけれど、なんというか、その、近い。熱を持ったやわい感触が衣服越しにあちこちから伝わってくる。
どうしてこうなった再び。
「どうですか、お腹ふくれてきました?」
息も感じられるほど近くで発せられた早苗の声に思わずびくんと体が反応した。
「なっ、なにがどうしたらこれでお腹がふくれるっていうの!」
ああ、声がうわずっている。
「えー、こうやって小傘さんを傘に見立ててですね、抱えることで『使っている』扱いにならないかなと」
対して早苗はこんな状況など昼下がりの散歩となにも違わないとでもいうかのようにいつもと変わらぬ調子。うらめしい。
「いや、これは『傘を使っている』とはならないんじゃないかしら……」
「そうです? それじゃあ、えいっ」
「ひゃっ」
腕にぎゅっと力が込められたかと思うと、抱えられるように持ち上げられた。
「どうです、見た目がより『傘を差している』っぽくなりましたよ」
「そういうのじゃないから! 見た目とかの問題じゃないから! と、とりあえずおろして!」
地面を離れた足がぶらぶらと揺れる。自分の力で空を飛ぶのとは違って、下に引っ張られながら誰かに支えられて宙に浮くというのは、たいへん落ち着かないことだった。
「むぅ、これもだめですか」
少し不満そうに言いながら早苗は私をおろしてくれた。ほっと息をつく。
「にしても小傘さんって思ってたより華奢ですね。簡単に持てましたし。ちゃんとご飯食べてます? あ、食べてないんでしたね、これは失礼しました」
「……うん、そうだね」
私は心を食べる妖怪だから人間や動物と違って食事と肉体との間に密な関係はないのだけど、ツッコミをいれる気力もないのでスルーした。
「しかし、早くも手詰まりですかねぇ」
腕を組んで思案気に早苗が言う。私まだ抱きしめられて持ち上げられただけなんですけど。
「傘の使い道といえば『差す』ことですが、それっぽい体勢をとってみても効果はありませんでした。他の使い道となると……魔人剣……牙突……小傘さんで?」
横目でこちらをうかがってくる。
……あ、これほっといたらまたなにやらロクでもない目に遭わされるやつだ!
「いや、やっぱり傘を使うなら雨の日じゃないと意味ないんじゃないかな! ほら、私って雨傘だし! 日傘じゃないし!」
とっさに口をついた言い訳だったが、おや、これはなかなか悪くないんじゃない? 雨傘の役目が雨よけというのは自明の理であり、今日は雲ひとつない快晴、つまり『私=雨傘を使う』のに適した日ではない。そもそも私が傘として使われることで私のお腹がふくれるという仮説自体がまゆつばもいいところなんだけど、それはさておき、これならば早苗も諦めてくれるのでないだろうか。まさか雨を降らせるわけにもいかないし――
「なるほど、道理ですね。それじゃあ雨を降らせましょうか」
息をするように早苗は言った。それはもう平然と。
「……なんだって?」
「え、雨の方がいいんでしょ? いま自分で言ったじゃないですか」
「いや、雨を降らせろなんて言ってないよ? というか、え、できるの? 雨」
「そうですねぇ。諏訪子様に頼めば一発でしょうが、私とて風祝の末裔、しかるべき準備をすれば儀式を執り行うのに不都合はありませんね」
「うぇ」
蛙みたいな声が漏れた。なんなのこの人間。なんでそんな高性能なの。
「で、でもでも、自分で雨を降らせてまで傘を使うのもちょっと違うっていうか! そういう、えっと、まっちぽんぷ? そういうのは、えっと、そう、奥ゆかしさに欠けるわ! 道具というのはもっと自然に、しかるべきときに、その便利さを意識されないまま、日常になじむように使われないといけないのよ!」
びしぃっと指を突きつける。舌先三寸のごまかしのつもりがいつの間にやら熱弁になってしまった。
「ううむ、なかなか面倒くさいですが道理ですね」
納得したように頷く早苗。もしかしてノリと勢いさえあれば早苗って簡単に説得できるんじゃないかしら。
「となるとしかし、この状況では小傘さんを『傘として』使うというのは難しいでしょうか?」
「もう、無理してまで使ってくれなくていいんだよ? こんなに構ってくれずとも……早苗だって暇じゃないでしょ?」
「暇です」
「そんなすぐに言い切られても……」
「暇ですからこれはただの暇つぶしですし、小傘さんも私が退屈しないように積極的に付き合ってください」
「ただの横暴だった!」
っていうか暇つぶしだったんだ。それが本当ならちょっと……いや、なんで残念がってるの私。
「神様は道具じゃありませんからね。気まぐれに超自然的に、極めて意識されながら、信仰するものを救うのです。しかるべきとき、という点は一緒ですが」
「……私、別に早苗のこと信仰とかしてないけど」
「そうですか? でも、私は小傘さんからも力をもらっていますよ」
ふてくされた気持ちも込めて意地悪く言ってみるが、返ってきたのは柔和な笑顔だった。
「なにも信じ祈りすがることだけが信仰の形ではないのです。神が居て、共に在る。存在を認めてもらうだけで得られる糧があるのです。ですからこうして小傘さんと遊ぶのも営業の一環と言えなくもないですね」
ひどい、わちきとのことは遊びだったのね! ……反射的にそんなセリフが浮かんだけど口には出さない。さておき。
「でも、なんだかんだ言っても早苗は人間でしょ? 信仰とかなくても存在できるはずじゃない」
「そこはまあ、私は守矢の巫女みたいなものですから、神奈子様と諏訪子様のために守矢としての信仰を得るという役目を負っているのです。……というのが半分」
「半分? もう半分は?」
「人間は一人でも生きていけますけど、独りじゃ生きていけないんですよ」
ひとり、ひとり。同じだ。どういう意味かはよく分からないけど、堂々と言った早苗がとても満足そうにしているので、水を差すような質問をするのははばかられた。
ひとり。ひとりだと寂しいとか、そういう話だろうか。それなら分かる。棄てられた私が日に日に募らせていったあの感情。あれを抱いたままでは、とてもではないけど、生きていかれないだろうなと思う。身体を運ぶ手足を持っているのならすぐにでも誰かを探しに行きたくなるだろうし、言葉を発せるなら誰と構わず声をかけるだろう。
けど、早苗にもそんな気持ちがあるというのはどうにも想像つかなかった。この生きる傍若無人みたいな人間に。それとも私からそう見えるだけで、早苗は早苗なりに、見た目通りの少女らしい悩みを抱えていたりするのだろうか。
そっと手が伸びる。目の前の早苗の手をつかんでから、まったく無意識に動いていた自分に気付いた。けれど、握る手を離す気にはならなかった。
手のひらから伝わってくる温かさはいつかと同じもの。先ほど抱きつかれた時にも感じた、人間の感触だ。
私は人の姿を得ているのだから、つないだこの手の先にも、同じ温かさが返っているはずだった。
「小傘さん? どうかしましたか」
「……お、おどろけー?」
「……新手のギャグでしょうか」
首をかしげる早苗。何をやっているんだ私は。頬がかぁっとなるのを感じて、慌てて手を振りほどいた。
「なんでもないっ!」
顔をそむけるようにぐるりと振り向いて、そのままずかずか歩いていく。どうせすぐに追いつかれるだろうけど、じっとしていることもできなかった。
「あ、待ってくださいよー」
待たない。どこへ向かうでもなくただただ道なりに歩いていると、降り注ぐ太陽が頭上の傘を越えて、手のひらと体に残る熱をじんわりと上書きしていくようだった。
だから早苗は苦手なんだ。自分がどうしたいのか、自分でも分からなくなってしまうから。早苗に使われることを避けたいと思ったのは本当だけど、それがどういう理由によるものなのかは、考えてみてもちゃんとした言葉にならなかった。嫌、というわけではない。それはなんとなく分かる。それならものは試しだ、一度使われてみればいいじゃないか、減るもんじゃないし。そういう声も私の中にはあって、別にそれでもいいと思うのに、どうしてか踏ん切りがつかない。
まったく、人間の体というのは不便極まりないものだ。なまじたくさんのことができるせいで、いくらでも代わりの行動がとれてしまう。言葉は思いを伝えられるせいで、伝えられなくなってしまう。
ただの道具だった頃の私は、きっともっと純粋だった。あの頃に戻りたいとは思わないけど、こんなもやもやした気持ちを抱えなくていいのは羨ましいなぁと、それだけは素直に感じる。
ふと見上げた空は、やっぱり能天気な晴れ模様で。
……いっそ、雨が降ってくれればいいのに。
火照る頬も、体も、ぜんぶ冷ましちゃって。
私からすべての言い訳を奪ってくれればいいのに。
かつて、モノの形をしていた私には、景色を見る目もなく、自然の音を聞く耳もなく、唯一感ぜられたのは、広げた頭を断続的に叩く水滴の冷たさと、私をしかと握るてのひらから伝わるほのかな温かさだけだった。
冷たい、とか、温かい、とか、はっきりした言葉での認識があったわけではない。ぼんやりとした意識でしかなかったものに、こうして振り返りながら後付けで言葉を与えているだけだ。その意識というやつも当初はずいぶんとぼやぼやしていて、今もふわふわと思い出せるこれがほんとうに今の私と地続きにあったものなのかと、ちょっと疑ってしまいたくなる。
ただ、思い出す感覚の中にひとつだけ確かなものがあった。
満たされている、という感覚。
道具の本分。必要とされ、実際に用いられる、役に立っている、そういう実感がもたらす満腹感。どれだけ私が雨に打たれようとも、その下に立つ人間から伝わってくる体温で、私のお腹はいっぱいになる。
今と違い、ただ道具でしかなかった私にとっての、唯一の存在証明。
そして、それを与えてくれる人間に対しての……なんだろう、親愛? 感謝? なんと言い表すのが正しいのかちょっと分からないけど、とにかくそんな感じの、やっぱり温かい気持ち。
この姿を得る前のいつかまで、私の中にしっかりとあったものだ。
だから、ときおりふと思う。
モノとして在った私が言葉を持っていたら……その思いを伝える術を有していたなら。
私は、伝えていただろうか。
思いを、届けようとしただろうか。
……なーんて、柄にもないこと考えてみたりしつつ、雨の気配なんてつゆとも感じさせない昼間の空を行く当てもなくふわふわと漂っている。カラリとした空気のたいへん過ごしやすい陽気だ。
「柄にもないもなにも、わちき元から柄なしだった!」
唐突に思いついた冗談を披露してみるが聴衆の一人もいないのでとてもむなしかった。
……詮無いことだからどうでもいいといえばどうでもいいんだけど、私も悩み多き乙女であるからして、こうして時々、のすたるじーに浸ってみたりなんかする。その内容はともかく、困りものなのは、思考が連鎖してあまりよろしくない現状に結びついてしまったりすることで、つまり。
「おなか減った……」
ぐるると幻聴の聞こえてきそうな空き具合のおなかをさすりながらつぶやいた。
驚かし足りぬ。
自由に動かせる手足を得たのだからと、道具の新たな役割を追求して鉄を打ったり子守りなどしてみたりもするけれど、私の本分は忘れ傘の付喪神、怨みのからかさお化けなのだった。私という存在が"そう"なんだから、これはもうどうしようもないことだ。
そして私のごはん……私のおなかを真の意味で満たしてくれるのは、ただ驚きの感情のみという、これもどうしようもないこと。驚かせなければ私にあらず。驚かせる、ゆえに我あり。
というとなんだかちょっと面倒な制約のように聞こえそうだとも思うが、実際ちゃんと驚かすのに成功するとそれに見合った分だけ力となって還ってくる感覚はあるし、なにより私自身、驚かせられるものなら驚かしたいという欲求はうずうずとしていつでも抱えているから、そのこと自体は別にいいのだ。
問題は。
「どうしたらみんなもっと驚いてくれるのかな……」
驚いてくれない。
それはもう切実に、誰も驚いてくれない。
傘がひとりでに動くのだ。それだけで奇妙奇天烈摩訶不思議のはずだ。しかし幻想郷の人間たちはその程度のものは見飽きたといわんばかり、どころか傘が勝手に動くことの何が不思議なの? と心底から思っている気さえする。
そりゃまあ首が取れたりとか歌を聞かせて鳥目にしたりとか派手なことはできないけど、これでも私なりに努力はしているのだ。古典にならってこんにゃくをぶつけてみたり、物陰に待ち構えて飛び出してみたり……しかし悲しいかな、それに見合った成果が得られているとは言いにくい現状だ(「努力の方向性を間違えているのでは?」というツッコミは無しで)。
続けてしみじみと思い出に浸る。ああ、お寺のお墓にいたころは良かったなぁ。お墓参りに来る人間はとても気持ちよく驚いてくれたものだった。地の利(?)を得た私の大活躍たるや! でもそれも頭にお札を貼った変なやつが現れるまでで、たまたま見かけた人間にそいつの退治をお願いしたらなぜか私まで巻き添えをくらい、それからは墓参りに訪れる人間の反応もあんまり芳しくなくなっちゃって……実に短い天下であった。ほろり。
「くよくよしてる場合じゃないわ、これからのことを考えないと」
ひとつこぶしをぎゅっと握る。過去を振り返るのはよそう。私は一つ目、この眼は未来しか見据えないのだ! あ、なんかこれかっこいいかも。でもそれを言うなら傘の私のと合わせて『私』には三つ目があるのだから、もっと広い視野を持てることにならないかしら? 三つか。なんだろ。過去、現在、未来? うーん、きゃらじゃない。
「私の生きざま的にはもっとこう、当たって砕けるような……」
「あら、砕いてほしいんですか?」
「うっひゃい!」
いきなり降りかかった言葉に思わず飛び上がる。いや空中なんだけど。
振り返ってみれば、後方上空、私の後ろにつくように早苗が飛んでいた。いつの間にこんなに近づいていたのだ。びっくりさせないでほしい。白と青の巫女服姿がいまは日に映えてちょっとまぶしかった。
大幣で口元を隠すようにしてくすくすと笑う。
「ほんと愉快よねぇあなたって。ここまで期待通りの反応をもらえるなんて、驚かしがいもあるってものだわ」
「むー。驚かすのは私の本業よ!」
「驚かさなければならない側が驚かされる。そのあたりの滑稽さも含めて愉快なんですよ」
そう言ってまた笑った。完全になめられている。妖怪の尊厳はどこに。ぐぬ。
「……にらんだってなにも出ませんよ?」
「うー、うー」
「うなっても無駄です。……どっかで聞きましたねその鳴き声」
「鳴かないよ! もう、相変わらずいじわるな人間ね」
「いえいえ、ただの現人神です」
この調子だ。のれんに腕押しぬかに釘、早苗と言い合っても勝てっこない。驚かそうとするとやり返してくる人間筆頭第一位だし、ならばと弾幕ごっこをしようにも、今日の調子ではやり込められるのが目に見えている。いち妖怪である身として少し情けない気もするが、こちらからは関わろうとしないのが賢明だろう。
ため息。
私は体の向きを変え、再びのろのろと飛び始めた。
「あらあら、今日はまたずいぶんと投げやりですね」
すいーっと飛んできた早苗が隣に並んだ。ついて来るつもりらしい。
「どこに向かってるんです? もしかして博麗神社かしら。でも事八日にはまだ早いし……あ、だめです小傘さん、早まってはいけません! そんなに退治されたいなら私に任せてください!」
「早まらないよ! むしろ早まってるのは早苗だよ! 私そんな退治されたがりの妖怪じゃないよ!」
「博麗神社でないとしたら、どちらへ?」
「ううん、どこだろう……ねぇ、私はどこへ向かえばいいのかしら?」
「あら、思春期ですね」
「なにそれ」
「少年と大人の境界です」
なにそれ。
早苗は何も持っていない方の手を口元にあてる。
「察するに、妖怪的な意味で空腹な感じでしょうか」
「うぐっ。……まあ、うん、そんなところ」
巫女という人種はどうしてこう嫌なところで勘が鋭いのだろう。
「あの驚かし方じゃあねえ。驚かす以外の食事はないんですか?」
「ないよ。私うらめしやの忘れ傘だもん」
「はいはい表は蕎麦屋。でも忘れ傘って、忘れ物の傘がそのまま捨てられてボロボロになって、そこに魂が宿って生まれる付喪神ですよね? だったら驚かす以外にもお腹を満たす方法はある気がするんですけど」
「他の方法って?」
「そりゃ、誰かに使ってもらうんですよ」
早苗はそう言って両手で握った大幣を掲げた。……いや、傘を持つ仕草か。
「付喪神って要するに、まだ使えるのに何かしらの事情で使われなくなった道具が"なる"ものなんでしょう? だったら誰かに使ってもらうことで成仏できるんじゃないんですか」
「とりあえず成仏はしないけども。使ってもらうったって……私だってこれでもいろいろ試してるんだよ? 道具の新しい生き方。早苗は知らないかもしれないけど」
「知ってますよ、鍛冶とかベビーシッターとかでしょ? 文さんの新聞にも載ってましたね。でも、鍛冶の腕は確かなんでしょうけど、結局のところ使われるのは小傘さん自身じゃなくて小傘さんが作った道具の方ですよね。ベビーシッターはぶっちゃけ評判悪いみたいですし、さして効果もないのでは?」
「ううぅ……じゃあどうすればいいっていうの!」
「そんなの決まってるじゃないですか。『傘』として使われればいいんですよ」
なに当たり前のことをと言わんばかりの表情で、早苗は掲げたままの大幣を傾げてみせる。
「傘として、って……」
それはとても素直な考えではあるけど、人の姿を得た私は傘としての造形と機能を捨てている。そんなの一目見ればわかることだろうに。いや、たしかに『私』の半分は傘だけども、さすがに半身を貸すわけにはいかないし……
「あ、でもそっか、そんな古臭い色の傘なんて使ってくれる人いないわね」
とか考えていたら古傷に右すとれーとを打ち込まれた。ぴちゅん。
「あれ、どうしたんですか小傘さん。おーい」
飛ぶのをやめて地面に降りていくと、早苗が上から声をかけてきた。無視して着地。博麗神社と人里の中間あたりに位置する道だ。ふらふらと飛んでいたけど、無意識に人里の方に気が向いていたのかもしれない。
後ろで、トン、と足が地を踏む音。
「どうしたんですいきなり降りてきて。何か珍しいものでも見つけました? でも特に気になるようなものは――」
「うああああぁぁぁーーーもうっ!」
わなわな震える体の衝動を放つように山彦よろしく叫んで、ふんすと振り返る。きょとんとした様子の早苗。それを目にしたらまたも体の内側からなにかがふつふつと湧き上がってきた。
頭の中で言葉が形を結ぶより先に口が動く。
「なんなのなんなの! 私だって好きで捨てられたわけじゃないよ! ちゃんと使われてたころだってあったんだよ! 使われると嬉しいよ! 嬉しかったよ! 道具だもん! そうじゃん! そうなるじゃん! 使ってくれないならなんで作ったの! いきなり置いてかれて、私だって寂しかったよ! 悲しかったよ! でもなにも出来なかったの! ただの道具じゃ人を選べないんだから! でもさ、いまは、違うじゃん。私動けるもん。ちゃんと生きてるもん! だったら、もっと、なにか……なにかやらなきゃって……」
「えーっと、小傘さん? 何をそんなに思い詰めているのか存じませんが」
「存じてよ! 元凶だよ! 早苗がいろいろ言うから私だってこんな、なんかもう、わけわかんなくなっちゃってるんじゃんか! わかんないよ私だって! もう、責任とって早苗が私を使ってよ!」
うつむき目をつむるほど、叩きつけるように言い切った。
しばらく無言だけが流れて、それからぱちりと目を開ける。
私いまなんて言った?
しだいに熱も冷め、冷静になった頭で思い返す。溜まっていたものをいろいろと吐き出したような気がするが、そこはどうでもよくて、最後。その、責任とってとか、なんとか……。
…………。
おそるおそる顔を上げると、早苗は大きく開いた目をぱちくりとさせていた。そこに、こらえきれなくなったのであろう笑みがじわじわと広がっていく様が、それはもうはっきりと見て取れた。
あ、これだめなやつだ。
「きゅ、急用を思い出したわ! 私はここいらで……」
「そこまで言われてはしょうがないですね!」
逃がさんとばかりに早苗はこちらの手をがっしと握ってきた。
「よき退治相手である小傘さんの存在がかかっているのです、不肖この東風谷早苗、喜んで協力いたしましょう! 神の奇跡と人の叡智で必ずや小傘さんの救貧を果たしてみせようではありませんか!」
うわぁ楽しそう。
満面の笑みをたたえて早苗がぐいと迫り、対照的に自分の顔が引きつっていくのを感じる。
経験でわかる、こうなったら早苗はこちらの言うことなど聞いてくれない。
どうしてこうなったという後悔と、せめて痛くないといいなぁという切実な思いをただただ募らせるばかりだ。
端的に状況だけ述べると、私はいま、早苗に抱きすくめられている。
背後から傘の私ごと抱えこむような格好だ。しめつける力はそんなに強くないけれど、なんというか、その、近い。熱を持ったやわい感触が衣服越しにあちこちから伝わってくる。
どうしてこうなった再び。
「どうですか、お腹ふくれてきました?」
息も感じられるほど近くで発せられた早苗の声に思わずびくんと体が反応した。
「なっ、なにがどうしたらこれでお腹がふくれるっていうの!」
ああ、声がうわずっている。
「えー、こうやって小傘さんを傘に見立ててですね、抱えることで『使っている』扱いにならないかなと」
対して早苗はこんな状況など昼下がりの散歩となにも違わないとでもいうかのようにいつもと変わらぬ調子。うらめしい。
「いや、これは『傘を使っている』とはならないんじゃないかしら……」
「そうです? それじゃあ、えいっ」
「ひゃっ」
腕にぎゅっと力が込められたかと思うと、抱えられるように持ち上げられた。
「どうです、見た目がより『傘を差している』っぽくなりましたよ」
「そういうのじゃないから! 見た目とかの問題じゃないから! と、とりあえずおろして!」
地面を離れた足がぶらぶらと揺れる。自分の力で空を飛ぶのとは違って、下に引っ張られながら誰かに支えられて宙に浮くというのは、たいへん落ち着かないことだった。
「むぅ、これもだめですか」
少し不満そうに言いながら早苗は私をおろしてくれた。ほっと息をつく。
「にしても小傘さんって思ってたより華奢ですね。簡単に持てましたし。ちゃんとご飯食べてます? あ、食べてないんでしたね、これは失礼しました」
「……うん、そうだね」
私は心を食べる妖怪だから人間や動物と違って食事と肉体との間に密な関係はないのだけど、ツッコミをいれる気力もないのでスルーした。
「しかし、早くも手詰まりですかねぇ」
腕を組んで思案気に早苗が言う。私まだ抱きしめられて持ち上げられただけなんですけど。
「傘の使い道といえば『差す』ことですが、それっぽい体勢をとってみても効果はありませんでした。他の使い道となると……魔人剣……牙突……小傘さんで?」
横目でこちらをうかがってくる。
……あ、これほっといたらまたなにやらロクでもない目に遭わされるやつだ!
「いや、やっぱり傘を使うなら雨の日じゃないと意味ないんじゃないかな! ほら、私って雨傘だし! 日傘じゃないし!」
とっさに口をついた言い訳だったが、おや、これはなかなか悪くないんじゃない? 雨傘の役目が雨よけというのは自明の理であり、今日は雲ひとつない快晴、つまり『私=雨傘を使う』のに適した日ではない。そもそも私が傘として使われることで私のお腹がふくれるという仮説自体がまゆつばもいいところなんだけど、それはさておき、これならば早苗も諦めてくれるのでないだろうか。まさか雨を降らせるわけにもいかないし――
「なるほど、道理ですね。それじゃあ雨を降らせましょうか」
息をするように早苗は言った。それはもう平然と。
「……なんだって?」
「え、雨の方がいいんでしょ? いま自分で言ったじゃないですか」
「いや、雨を降らせろなんて言ってないよ? というか、え、できるの? 雨」
「そうですねぇ。諏訪子様に頼めば一発でしょうが、私とて風祝の末裔、しかるべき準備をすれば儀式を執り行うのに不都合はありませんね」
「うぇ」
蛙みたいな声が漏れた。なんなのこの人間。なんでそんな高性能なの。
「で、でもでも、自分で雨を降らせてまで傘を使うのもちょっと違うっていうか! そういう、えっと、まっちぽんぷ? そういうのは、えっと、そう、奥ゆかしさに欠けるわ! 道具というのはもっと自然に、しかるべきときに、その便利さを意識されないまま、日常になじむように使われないといけないのよ!」
びしぃっと指を突きつける。舌先三寸のごまかしのつもりがいつの間にやら熱弁になってしまった。
「ううむ、なかなか面倒くさいですが道理ですね」
納得したように頷く早苗。もしかしてノリと勢いさえあれば早苗って簡単に説得できるんじゃないかしら。
「となるとしかし、この状況では小傘さんを『傘として』使うというのは難しいでしょうか?」
「もう、無理してまで使ってくれなくていいんだよ? こんなに構ってくれずとも……早苗だって暇じゃないでしょ?」
「暇です」
「そんなすぐに言い切られても……」
「暇ですからこれはただの暇つぶしですし、小傘さんも私が退屈しないように積極的に付き合ってください」
「ただの横暴だった!」
っていうか暇つぶしだったんだ。それが本当ならちょっと……いや、なんで残念がってるの私。
「神様は道具じゃありませんからね。気まぐれに超自然的に、極めて意識されながら、信仰するものを救うのです。しかるべきとき、という点は一緒ですが」
「……私、別に早苗のこと信仰とかしてないけど」
「そうですか? でも、私は小傘さんからも力をもらっていますよ」
ふてくされた気持ちも込めて意地悪く言ってみるが、返ってきたのは柔和な笑顔だった。
「なにも信じ祈りすがることだけが信仰の形ではないのです。神が居て、共に在る。存在を認めてもらうだけで得られる糧があるのです。ですからこうして小傘さんと遊ぶのも営業の一環と言えなくもないですね」
ひどい、わちきとのことは遊びだったのね! ……反射的にそんなセリフが浮かんだけど口には出さない。さておき。
「でも、なんだかんだ言っても早苗は人間でしょ? 信仰とかなくても存在できるはずじゃない」
「そこはまあ、私は守矢の巫女みたいなものですから、神奈子様と諏訪子様のために守矢としての信仰を得るという役目を負っているのです。……というのが半分」
「半分? もう半分は?」
「人間は一人でも生きていけますけど、独りじゃ生きていけないんですよ」
ひとり、ひとり。同じだ。どういう意味かはよく分からないけど、堂々と言った早苗がとても満足そうにしているので、水を差すような質問をするのははばかられた。
ひとり。ひとりだと寂しいとか、そういう話だろうか。それなら分かる。棄てられた私が日に日に募らせていったあの感情。あれを抱いたままでは、とてもではないけど、生きていかれないだろうなと思う。身体を運ぶ手足を持っているのならすぐにでも誰かを探しに行きたくなるだろうし、言葉を発せるなら誰と構わず声をかけるだろう。
けど、早苗にもそんな気持ちがあるというのはどうにも想像つかなかった。この生きる傍若無人みたいな人間に。それとも私からそう見えるだけで、早苗は早苗なりに、見た目通りの少女らしい悩みを抱えていたりするのだろうか。
そっと手が伸びる。目の前の早苗の手をつかんでから、まったく無意識に動いていた自分に気付いた。けれど、握る手を離す気にはならなかった。
手のひらから伝わってくる温かさはいつかと同じもの。先ほど抱きつかれた時にも感じた、人間の感触だ。
私は人の姿を得ているのだから、つないだこの手の先にも、同じ温かさが返っているはずだった。
「小傘さん? どうかしましたか」
「……お、おどろけー?」
「……新手のギャグでしょうか」
首をかしげる早苗。何をやっているんだ私は。頬がかぁっとなるのを感じて、慌てて手を振りほどいた。
「なんでもないっ!」
顔をそむけるようにぐるりと振り向いて、そのままずかずか歩いていく。どうせすぐに追いつかれるだろうけど、じっとしていることもできなかった。
「あ、待ってくださいよー」
待たない。どこへ向かうでもなくただただ道なりに歩いていると、降り注ぐ太陽が頭上の傘を越えて、手のひらと体に残る熱をじんわりと上書きしていくようだった。
だから早苗は苦手なんだ。自分がどうしたいのか、自分でも分からなくなってしまうから。早苗に使われることを避けたいと思ったのは本当だけど、それがどういう理由によるものなのかは、考えてみてもちゃんとした言葉にならなかった。嫌、というわけではない。それはなんとなく分かる。それならものは試しだ、一度使われてみればいいじゃないか、減るもんじゃないし。そういう声も私の中にはあって、別にそれでもいいと思うのに、どうしてか踏ん切りがつかない。
まったく、人間の体というのは不便極まりないものだ。なまじたくさんのことができるせいで、いくらでも代わりの行動がとれてしまう。言葉は思いを伝えられるせいで、伝えられなくなってしまう。
ただの道具だった頃の私は、きっともっと純粋だった。あの頃に戻りたいとは思わないけど、こんなもやもやした気持ちを抱えなくていいのは羨ましいなぁと、それだけは素直に感じる。
ふと見上げた空は、やっぱり能天気な晴れ模様で。
……いっそ、雨が降ってくれればいいのに。
火照る頬も、体も、ぜんぶ冷ましちゃって。
私からすべての言い訳を奪ってくれればいいのに。
強いて言えば、〆の部分がそれ以前と分けてあれば良かったかも