お姉さまが霧を出して幻想郷のみんなを困らせたことがある。私はやって来た魔理沙と霊夢にこてんぱんにやられてしまって、一人で地下にこもって泣いていた。半ばとばっちりだと思う。擦り切れた傷が疼き、心もしなしなとしおれて、とにかく心細かった。
こんこん。
そんなとき、部屋のドアが控えめにノックされた。私はびっくりしてベットの下に隠れた。またやっつけられてしまうのではないかと思ったからだ。しばらくすると、きぃ、と音を立てて扉が開いた。私は恐怖で涙も止まっていた。
「フランドールお嬢様、いらっしゃいますか?」
聞いたことはないけれど、穏やかで優しい声だった。お嬢様と呼ぶからには、ここの使いのものなのだろうか。恐る恐る寝台から顔を覗かせてみると、そこには青い瞳を持った少女が佇んでいた。
「そんなところにいらっしゃったんですね、フランドールお嬢様」
にこりと笑いかけられる。あたたかい微笑みだった。なぜだか急に顔が熱くなってしまう。
「だ、だれ……?」
「自己紹介が遅れましたね、申し訳ありません。わたくし、レミリアお嬢様の新しいメイドの十六夜咲夜と申します」
「いざよいさくや?」
聞き覚えのある名前だった。そう、お姉さまがいつか連れて帰って来た人間の女の子だ。一回だけ遠くから見たことがあるけれど、その時の彼女はもっと幼い顔立ちをしていた。背もこんなに高くはなかった。今では私より頭ふたつは上のように感じる。しかしあれから月日はそれほど経っていない。
「あの時の」
人間は恐ろしく成長が早いとパチェがぼやいていたことがある。それはこの子のことだったのだろうか。
「あ、なんて呼べばいいかな」
いきなり呼び捨てにするのも嫌だったし、さんを付けるのもなんだか変な気がしたのだ。
「それでは、咲夜、と」
「うん、さくや、咲夜、咲夜だね、覚えたよ」
名前を呼ばれた咲夜は嬉しそうにほおを緩めると、手にしていた小箱を開けた。
「傷の手当てをしましょうね」
その前に、と咲夜が私に笑いかけた。すると次の瞬間、瞬きもしていないのに、咲夜の白い手に可愛らしい花束が現れていた。
「え、えっ、なあに今の!?」
「種無し手品です♪」
にこにこしながら私にその花束を手渡してくれる咲夜。桃色の花が小さく咲いている。
「ありがとう。うれしいよ」
その後、咲夜は私の傷だらけの体に軟膏をぺたぺた塗って包帯を巻いてくれた。少しばかり痛かったけれど、咲夜といると不思議と穏やかな気持ちになってあまり気にならないようになった。
「咲夜はお姉さまの従者なのに、どうして私のところに来てくれたの?」
それは自己紹介を受けた時から気になっていたことだった。咲夜は私のことを知らないものだと思っていた。一度だって面と向かって話したことはないし、館の中で遭遇したこともなかったからだ。
「レミリアお嬢様にフランドールお嬢様のことを教えていただいたのです。それから、一人きりで地下にこもっている妹がいるから、ついていてほしいと」
「お姉さまが、そんなことを言うなんて」
意外だった。お姉さまは私のことなんて、どうでもいいのだと思っていた。いつだってお姉さまは私のことなど気にもしていないような素振りを見せるのだから、そう思っても仕方がないように思う。
「レミリアお嬢様は身内をたいそう可愛がられます。私も、レミリアお嬢様に拾っていただいて、それを身に余るほど感じております」
「うーん……」
お姉さまは不器用なのかもしれない。私のいないところで私の心配をしている。けれどそんなお姉さまが私は好きだった。
「フランドールお嬢様」
「うん?」
「怪我が治ったら、外に出てみませんか?」
静かな瞳咲夜に見つめられる。久しく地下室からは出ていない。
「咲夜」
「はい」
私はまた人を拒む。魔理沙や霊夢が来る前のように、一人でこの部屋にいよう。きっとそれが一番正しいのだと、暗示をかけるように私は頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。
「咲夜の気遣いは嬉しいよ。咲夜が来てくれてすごく楽しいし。お姉さまが私を心配してくれていることも分かった。でも」
そこから先がうまく言葉にできない。言ってしまったら、もう咲夜は来てくれないのだろうか。私はまた一人に戻るのだろうか。
「フランドールお嬢様、誰もせかしたりしません。フランドールお嬢様が、いつか笑ってレミリアお嬢様やパチュリー様、霊夢や魔理沙と遊べる日が来たらそれはとても喜ばしいことです。……大丈夫ですよ」
咲夜は何に対して大丈夫だと言ったのかはわからなかった。けれどすごく安心したのは確かだった。
でも、私の力はあまりにも危うい。ひと時でも私に笑顔を向けてくれた咲夜を、私は傷つけかねない。それなのに。
「うん……」
私は頷いてしまった。
これが咲夜との出会い、長い恋の始まりだった。
それから咲夜は毎日私の部屋を訪れてくれるようになった。お姉さまのお世話はいいのかな、と思ったけれど咲夜を独り占めできるのは嬉しかった。
「今日は図書館棟までお散歩してみませんか?」
まるで本当に私の従者のように、咲夜は甲斐甲斐しく働いてくれる。主の命令だからと言ってここまで忠実な動きができるのだろうか。これではまるで私のもののようだ。
「うん……」
お姉さまは何を考えているのだろう。私に咲夜を与えて何をしたいのだろうか。
「ティータイムにはフランドールお嬢様のお好きなミルクティーを淹れますね。今日はパイを焼いたんです、一緒に召し上がってくださいね。レミリアお嬢様もいらっしゃると思いますよ」
お姉さまやパチェとのお茶会なんて、いつぶりだろう。ふと遠い時間に思いを馳せる。あれは確か満月の日で、私はあの時。
「フランドールお嬢様」
ぐい、と現実に引き戻される。
「大丈夫ですか、フランドールお嬢様」
その響きにどこか違和感を覚えた。そうだ、どこか他人行儀なのだ。
「フランでいいよ。フランドールじゃ、長いでしょ」
それは親しいものの間だけで呼ばれる私の愛称。咲夜になら呼んでもらいたい。
「では、フランお嬢様と」
咲夜は目を細めて微笑む。こんな穏やかな時間が、いつまでも続けばいいと思った。
「フラン、ソーサーは持たないんだよ」
「はい、お姉さま」
私がそれに従うとお姉さまは目じりを下げた。嬉しそうなお姉さまを横目に私は昨夜の手元を眺めていた。さくりさくりとアップルパイをナイフで切り分けているのだった。白い指先に銀のナイフは目に映えて、美しく感じられた。
「どうやらレミィよりお菓子のほうが気になっているみたいね」
パチェが笑う。
「ふふ、違うよ。フランは咲夜を見ていたんだ。違うかな?」
お姉さまにはなんでもお見通しのようだった。私は頬が熱くなるのを感じて俯いた。
「あら、咲夜はお手つきでしょ。飼い猫には手綱をつけておかなくちゃ」
いたずらっぽくパチェが言った。
「いいんだよ。咲夜は放し飼いにしても、主人を間違えない賢い子だからね」
咲夜が咳ばらいをひとつする。
「お嬢様方、お待たせいたしました。お茶にいたしましょう」
ぼーっとしていると咲夜がカップに紅茶を注いでくれた。飴色の水面はゆらゆらと揺らめいて、白い湯気を立てている。
「ありがとう、咲夜」
三人そろって感謝の言葉を伝えた。
楽しい時間は過ぎてゆく。ティータイムは終わり、咲夜がトレイにカップやソーサーを載せていると、お姉さまが目配せをした。
「フランお嬢様、お外までお散歩してみますか?」
「う、うん!」
椅子からとてっと降りて咲夜と手をつなぎ歩いているとお姉さまとパチェのひそひそ声が聞こえた。次の満月にはきっと、と。吸血鬼は耳がいい。お姉さまは分かっていて囁いたのだろうか。そうだとして、何の目的があるのだろう。
満月、妙にその響きが気になった。
「咲夜、あの三つの斜めの星は服のボタン。肩の二つ星、それでオリオン座だよ」
咲夜と図書館を出て早数時間、私たちは陽の落ちた庭にござを引いて瞬き始めた星空を見上げていた。
「フランお嬢様は博識ですね」
ふふふ、と咲夜が微笑んだので照れくさくなってしまう。
次第に月も上って来た。上弦の月だ。あと十日もすれば満ちるだろう。咲夜と迎える初めての満月だ。
「フランお嬢様?」
「あ、あぁうん」
咲夜の声で平静に帰る。
「夏の大三角です」
咲夜が星座盤を天にかざして楽しそうに星を見つめる。
「天の川もきれいだね」
目を細めてみたことのない空のはるか向こうに心を馳せる。
「もうすぐ七夕ですね」
「そうだね」
私はどこか気持ちが遠くにあり生返事をした。
「フランお嬢様は、何かお願い事はございますか?」
願い事。
「そうだなあ」
私が願うのは。
「みんなが幸せになったらいいなって、思う」
咲夜は穏やかな表情で私を瞳に映した。
「フランお嬢様はお優しいですね」
咲夜にそう言われるのは、まんざらでもなかった。私は自分のことをやさしいなんて思わないけれど、咲夜の言葉にはそう思い込ませるような力があった。
「その幸せの中に、どうかご自分も」
咲夜はいつだって優しい。
「あっ」
小さく漏れた咲夜の声。
「わ、すごい……」
私もすぐに気が付く。羽がきらりと星の光を浴びて輝いているのだ。
「私の羽は魔力を溜め込むものだって昔パチェが言っていたけど、そういうことなのかな」
羽の枝をくりっとしならせしげと見つめる。赤、青、黄色、緑、色とりどりの透明度の高い石が、からんころんと揺れていた。
「フランお嬢様」
咲夜が夜空を指さす。
「流れ星です」
天を見上げると、そこには眩いばかりの流星が曲線を描いていた。
「お願い事すれば?」
「そうですね……では」
その後咲夜は小さくつぶやいた。
「フランお嬢様に、幸あらんことを」
私は星に照らされた咲夜の横顔を美しいと思った。
「ありがとう。私は美鈴のところに寄るから、先に戻っていて」
「はい、かしこまりました。夕食までにはお戻りくださいね」
「うん、それじゃあ」
「めーいりん!」
配給のパンをもぐもぐしている美鈴を見つけて私は名前を呼んだ。美鈴は強くて優しい私の友達だ。
「お久しぶりです、フランお嬢様。夜遊びですか?」
にこりと笑う美鈴。
「美鈴に会いに来たの」
「それは光栄です」
美鈴は食事をトレイにおいて私に向き直った。
「咲夜さんとお知り合いになったと聞きました。彼女はどうですか?」
理知的な瞳が私を見つめる。そのまなざしは優しかった。
「いい子だよ。優しいし、きれいだし、賢い。さすがお姉さまの従者だね」
「フランお嬢様、これは、独り言ですけれど」
美鈴が真剣な表情で言うと、あたりが静かになった。生ぬるい風だけが頬を撫でる。
「うん」
美鈴はゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「前を向いて、彼女のことを見てあげてください。私はいつだってフランお嬢様の幸せを願っています」
美鈴は私の不安もすべて包み込むように優しかった。
「ありがとう」
私は美鈴に手を振って門を離れることにした。
「フラン、今日からこの薬を必ず飲みなさい」
食事を終えたとき、お姉さまに錠剤をふた粒渡された。
「なあに?」
「ボケ防止よ」
「レミィ、ボケとは違うわ」
パチェがレモンティーを飲みながら静かに訂正をした。
「お姉さまたちがそういうなら」
「フランは自主性をもう少し育てるべきかもしれない」
お姉さまが握った手を顎に当てて考えるポーズをする。
「奇遇ね、私もそう思ったところよ」
「人の妹に向かってどういうこと」
「私の妹のようなものでもあるわ」
お姉さまとパチェがじゃれつき始めたので私は席を立った。
「ごちそうさまでした、咲夜」
「はい、お粗末様でした。もうお休みになられますか?」
「うん、そうしようかな」
咲夜は私が眠るとき、肩にお布団を詰めに来てくれる。私はそれがうれしくて毎晩が楽しみだった。
「ではお嬢様方、少々留守にいたしますね」
ろうそくの明かりだけが照らす廊下を、咲夜党二人並んで歩く。程なくして部屋についた。
「おやすみ、咲夜」
「おやすみなさいませ、フランお嬢様」
ベットに上り布団をかぶる。そうすると咲夜はタオルケットを首回りと肩にかけてくれた。それでは、と咲夜が燭台の灯を消してドアの向こうへ消えていった。私はこんな日々が楽しくて、永遠に続けばいいのに、と思った。
けれど、そんな私の気持ちとは反対に、物事は悪いほうばかりへと進んでゆく。
満月が近づいてくる。体がおかしいことは嫌でもわかった。咲夜と出会ってから私は地上の部屋で眠るようにしていたけれど、そうもいかなかった。私の周りにあるものが次々と壊れていくのだ。急いで今まで暮らしていた地下室にこもった。ベッドの天蓋がみしみしと音を立てる。小物入れが宙に舞ってかたかたと音を立て、くしゃりと粉になってしまう。私は怖くてたまらなかった。いったい何だというのだろう。
「フランお嬢様!」
扉を開け放ったのは咲夜だった。いやだ、こんな姿を見られたくない。髪はぼさぼさで、服だって所々ほつれている。何よりいやなのは咲夜を傷つけてしまうかもしれないということ。
「来ないで!」
制止もむなしかった。咲夜は私に駆け寄って、その体で私を抱きしめた。涙が出そうになる。咲夜はどうしてこんなにやさしいのだろう。あたたかい人間のぬくもりは私の壊れそうな心に染みていく。
ぴき。
何かが割れるような音が聞こえた。音のもとを探ると、咲夜の胸元のリボンについている丸い石にひびが入っていた。
「や、やだ、さくや、お願い、離れて!」
このままでは咲夜を壊してしまう。そんなことは何が何でもいやだ。そう思った私は咄嗟に咲夜を突き飛ばした。
「フラン!」
開けっ放しだった扉から声が聞こえた。お姉さまだ。
「おねえさまぁ、たすけて……」
涙がぼろぼろと流れ出てきた。咲夜を、傷つけてしまった。こんな状態になること、今までなかったのに。
「大丈夫よ、大丈夫、落ち着いて。私は壊れない」
記憶の底に何かが落ちている。
「お姉さま、私」
頭の中に残るかすかな映像。
「今日は満月よ」
お姉さまは私の手を握りながら続けた。
「本当は……毎月こうなっているのよ。あなたは満月が来るたびにその日の記憶だけを消している」
「咲夜をあなたにあてがったのは、自分のことを大切にしてほしかったからだよ」
そのあとお姉さまは私にいつもの薬を渡してから、倒れている咲夜を抱えて部屋を後にした。
自分のことを大切に。寝ても覚めてもその言葉が頭にこびりついて離れなかったr。
「ッ!」
思い切り壁に拳を打ち付けると、鈍い音とともに血が滴った。自分のことなんて、大切にできない。咲夜を傷つけた私が、自分のことを許せるわけがない。もう一度壁を殴る。白い部屋がだんだんと朱色に染まっていった。
「フランお嬢様」
廊下から一番聞きたくない声が聞こえてきた。
「入ってもよろしいですか?」
咲夜は私のことなんてもう嫌いなのではないか、これは嫌がらせなのではないか、当てつけなのではないか、扉の向こうで咲夜は笑っているのではないか。
「もういやだ……」
そんなことを考える自分に嫌気がさす。咲夜はそんな人間ではない。それはよく分かっているはずだ。私は自分を傷つけるためにわざと咲夜を悪く言っているのだ。なんて、ひどい。
私は手のひらを握り、自分の中の目を探し、
それを潰した。
目を開けると見慣れない天井があった。体には力が入らず目だけを動かすと、ここは病室であるようだった。白い部屋で、消毒液のにおいが鼻をかすめる。
「目が覚めたのね。ここはどこだかわかる?」
白衣を着た女性がドアを開けて入ってくる。
「わからない」
「私は八意永琳、医者よ。ここは永遠亭。あなたは自殺未遂でここに運び込まれたのよ。自分の心臓を壊そうとしたの、まあ……ほとんど吸血鬼は死ぬことなんてないのだけれど」
ぼんやりとしていた記憶がはっきりとしていく。そうだ、私は咲夜を傷つけた自分が嫌で仕方がなくて、それで目を探して。
「フランお嬢様!」
戸の向こうから現れたのは美鈴だった。
「一か月眠りっぱなしだったんですよ。よかったです、目を覚ましてくださって」
にっこりと美鈴は微笑む。
「まだいろんな値が正常値を下回っているから引き続き治療が必要ね」
永琳が紙の束を見て静かに言う。
「あの、咲夜は……」
無意識のうちに出ていた言葉だった。口にした瞬間、あの自分への嫌悪感が蘇りもどしそうになる。
「フランお嬢様は本当に咲夜さんがお好きなんですね」
美鈴が目を細める。
「咲夜さん、目を覚まされましたよ」
美鈴の振り向いた先には咲夜がいた。
「フランお嬢様っ!」
咲夜はあの夜のように私に駆け寄ってきた。目じりに涙をいっぱいためて、よかった、よかったと嗚咽を漏らしている。なぜ咲夜は泣いているのだろう、「お姉さまの命令はこんなところにまで及ぶものなのだろうか。そう考えると無性に悲しくなってきた。
「帰って」
美鈴が辛そうな顔をした。咲夜は何を言われているのかわからないようだ。
「……分かりました。咲夜さん、行きますよ」
戸に手をかけた美鈴がちらりとこちらを見つめながらつぶやいた。
「大丈夫ですよ」
それは咲夜に向けたものなのか、私に向けたものなのかはわからなかったけれど、その優しい声音に少し気分が穏やかになった。
「あとで採血をさせてね」
そう言い残し永琳も部屋を出て行った。
私は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。大事だと、思えば思うほど咲夜につらく当たってしまう。
「ぁ……」
私は美鈴の、いつかの独り言を思い出した。前を向いて、咲夜をみてあげてほしいと、そんなことを言っていたような気がする。美鈴はこうなることが分かっていたのだろうか。
次々と頭にいろんな人々の声が入り込んでくる。自分のことを大切にしてほしかったからだよ。私はいつだってフランお嬢様の幸せを願っています。私の妹のようなものでもあるわ。フランお嬢様に、幸あらんことを。
お姉さまに美鈴、パチェに咲夜の声。暗闇に閉ざされた私を掬い上げてくれるかのようにそれらは私を包み込んでくれた。私の意識はゆっくりと眠りに落ちてゆく……。
しゃりしゃり、しゃり。
「おはようございます、フランお嬢様」
目が覚めると、咲夜が椅子に座ってりんごを剥いていた。
「フランお嬢様が謝られることはありません。こうしてまたお話ができるだけで、私は幸せなのです」
これも、お姉さまの命令なのだろうか。フランのそばにいてくれと言われたから、咲夜はここにいるのだろうか。そうは思えないのだ。咲夜はこんなにも穏やかな顔をしている。白い肌に銀色の髪が映えている。頬周りは少し紅く染まっていて可愛らしい。まるで、天使のようだ。
「私、咲夜が好きだよ」
ぽろりと言葉が落ちていった。
「だから咲夜には、自分の意思でそばにいてほしかったんだ。お姉さまの命令じゃなくても。でも、今更こんなことを言っても、しかたないよね」
咲夜を伺い見ると、私は驚きで息が詰まった。咲夜は泣いていたのだ。それも、幸せそうに。
「私は……私の意思で、フランお嬢様をお慕いしております」
その言葉を聞いた途端、頭が真っ白になってしまった。それはあまりにも信じられない、夢のようなものだったから。
「フランお嬢様のことが、好きです」
もう実るはずがないと思っていた恋が報われた。その事実が私の体を軽くする。失われていた元気が体にみなぎり、私は居ても立っても居られずに咲夜に飛びついた。羽をいつものようにぱたぱたとさせて、しゃらりと宝石を鳴らして、咲夜を強く抱きしめる。
「咲夜! 私たち、私たち両想いだったんだ!」
「ちょっと、なんの騒ぎ?」
慌ててやって来た永琳は咲夜とじゃれついている私を見て、もう大丈夫そうね、と困ったように笑った。
「今日の採血の結果次第だけれど、よければ週末には退院できるわ」
「分かりました。フランお嬢様、私はレミリアお嬢様に今のことをお知らせしてきますね」
「あ、ぅ。そっか、お姉さまもいるんだった……」
「レミリアお嬢様は、とても心配しておられたのですよ」
その割に目が覚めてから、お姉さまにはまだ一度も会っていない。
「ではまた明日もうかがいますね。りんごを剥いておきましたので、よろしければ召し上がってください」
咲夜はにこりと微笑んで帰っていった。ベッドの横に置いてある机のお皿の上には、兎の形をした愛らしいりんごたちが並んでいた。
「お姉さま、怒ってる……?」
あれから数日、体の調子が良くなった私は紅魔館に帰ってきた。するとお姉さまが門で待ち構えていたのだ。美鈴は苦笑するばかりで何も教えてはくれない。お姉さまは目を瞑って腕組みをし、ゆっくり息を吸うと瞼を開き穏やかにほほ笑んだ。
「おかえりなさい、フラン」
それは色々な感情を押し殺して出た言葉のような気がした。怒り、悲しみ、喜び、寂しさ、本当に一つでは表せないような言葉の重さだ。
「私はあなたに自分のことを守る力と、大切な人を守る強さを手に入れてほしかった。だから、こんなことになるんじゃないかって、予想はしていたの」
大切な人、守る人が出来たら人は強くなる。私は咲夜のことが好きだ。これもお姉さまの目論見通りなのだろうか。それはなんだか悔しかった。好きな人を『与えられる』なんて、きっと間違っている。それでも私は咲夜のことを好きになってしまった。それなら『あげる』なんて言われる前に、咲夜を。
「お姉さま! 咲夜を私に下さいっ!」
言ってしまった。お姉さまは一瞬呆気にとられていたが、すぐに口角を釣り上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。咲夜は顔を赤らめている。美鈴は別の意味で頬を朱に染めていた。
「言うようになったわね」
「私、咲夜が好き。咲夜も私のこと好きって言ってくれたよ?」
「ふぅん。咲夜、お前の主人は誰だ?」
「レミリアお嬢様です」
「そう、咲夜は私の従者。でも、娘みたいなものね。でもフラン、あなたが咲夜と結婚するって言うなら私は祝福するよ」
「じ、じゃあ咲夜のこと……!」
「でも誓って、必ず幸せにするって」
「うんっ、する! 咲夜のこと、幻想郷一幸せにするっ!」
嬉しさで涙が込み上げてくる。美鈴がぱちぱちぱちと手をたたいた。幸せそうに、いつまでも、いつまでもたたいていた。
その夜、お姉さまの部屋に招かれた。お姉さまはもうすでに酔っているようで、目がとろんとしていた。
「座りなさいよ」
「う、うん」
お姉さまは赤ワインの瓶を傾けて、空っぽのグラスに注いだ。
「あっ、え、私も飲むの?」
「まぁ、付き合い程度に飲みなさい」
お姉さまにそう言われては断れない。私はグラスを受け取りちびりと舌でなめるように飲んだ。
「咲夜はね、命を懸けて私のものになったの」
遠い日を懐かしむようにお姉さまは呟いた。
「あれは月の美しい夜だった。咲夜は小さな体にありったけの殺気を纏わせて、私に挑んできたんだ。まるで野生の動物のように周りのすべてを威嚇して、それは刺刺しかったよ」
「うん……」
私の知らない咲夜の話。
「私と咲夜は戦ったんだ。咲夜は時を止める能力を持っていてね、なかなか手こずらせてくれたよ」
初めて知る咲夜の能力。いつか見せてくれた種無し手品はその力を使ったのかもしれない。
「それでも叩きのめしたんだ。人間の子供に負けるようでは吸血鬼なんてやってられないからね。そのまま立ち去ろうとしたら、咲夜が私の服の袖を掴んだんだ。振り向いたら、咲夜が『私をあなたのものにして』って言うんだよ。命懸けで戦って、命懸けで私に人生を預けたんだ。そんな咲夜を放っておけるか?」
私の知らないお姉さまの話。
「だから、咲夜を幸せにするって言うのなら、それは命懸けじゃなきゃいけない」
お姉さまの目つきが真剣なものになる。
「私の咲夜、命を懸けて手に入れる覚悟はできているか」
生唾を飲み込んだ。お姉さまがこれほど咲夜を大事に、そして愛していたかなんて、知らなかった。
「私は咲夜を守り、幸せにする。お姉さまよりも、幸せにする!!」
「よく言った! それでこそ私の妹だ。咲夜はとっくにフランのものだよ。そうだろう? 咲夜」
お姉さまの視線を追うと、キィと音を立てて扉が開いた。
「さ、咲夜、いまの、聞いてた……?」
「はい、しっかりと」
「あぅ」
咲夜のことは大好きだけれど、こんなに気障な台詞を聞かれてしまうとやっぱり恥ずかしい。
「嬉しかったです。私のことをレミリアお嬢様以上に幸せにしてくださるなんて仰られたのは、フランお嬢様が初めてですよ」
「ほ、ほんとにっ、ほんとに幸せにするから!!」
「はい、ありがとうございます」
咲夜は嬉しさをかみしめるように笑う。
その後は三人でお酒を飲み、夜はしんしんと更けていった。
「んーと、えいっと」
次の日から、私は力のコントロールをする練習を始めた。
「精が出ますね」
隣には咲夜がいる。
「咲夜と結婚するためだもん、がんばるよっ」
お姉さまから出された咲夜と結婚できる条件。それは力の制御ができるようになること。
私は毎日鍛錬に励んだ。流れ星を砕いて花火を作ることもできるようになった。満月でも力を抑えることもできるようになった。そして。
「できたぁっ!!!!!」
次の満月を迎えたとき、私の体には穏やかな気が満ちていた。力が暴走する素振りも見られない。
「これで、これで咲夜と結婚できるんだ!」
「ええ、焦がれていた日がついにやってきたのですね」
私たちは地下室を出て、お姉さまの部屋に向かった。
「あれ、いないなあ」
いつもはここで小説なんかを呼んでいる時間なのに。
「図書館棟でしょうか」
咲夜は最近お姉さまの世話をしていないので、ご主人様の位置を把握していない。
「行こうか」
咲夜の手を取ってぱたぱたと飛び上がる。
「ええ」
咲夜はいつもにこにこしている。それはとっても嬉しいことだ。
「おねーさまー」
「レミリアお嬢様ー」
図書館への階段を下りていくと、パチェと美鈴、小悪魔とお姉さまがなにやら集まってひそひそと話をしていた。私たちに気が付くと、みんな目に見えて動揺していて、私たちはおかしくて顔を見合わせて笑ってしまった。でも、今からいうことは大事なことだから、と深呼吸をして真面目な顔をした。
「お姉さま、私、力の制御ができるようになりました。さ、さくやと、その……結婚します!」
「あ、あぁ、分かったよ。おめでとう。実は今、二人の結婚式の計画を立てていたんだ」
「えっ、ほんとっ」
机の上を見ると、館の装飾案や振る舞う料理の詳細が書かれていた。
「わーっ、みんなどうもありがとう!」
「招待状はもう準備できているからね。フラン、ドレスとタキシードならどちらがいい? 人形遣いに作ってもらうことにしたんだ」
「えっ、とね、やっぱりウェディングドレスは女の子の夢というか……」
「ほら、言ったじゃないレミィ。妹様だって女の子なんだから、晴れ舞台にタキシードなんて可哀そうでしょう」
「うーん、かっこいいと思ったのだけど」
お姉さまがこんなに私たちのことをお祝いしようとしてくれていたなんて……。
「咲夜にはウェディングドレスを着せるよ。これは咲夜を拾った時から決めていたんだ」
「子煩悩ですねえ、レミリアお嬢様は」
美鈴はふふふと笑う。
「仕方ないじゃないか、こんなに可愛いんだから」
たぶん美鈴はお姉さまに長いこと仕えていて、なおかつ小さな頃から咲夜を見てきたから、こんな日が訪れて本当にうれしいのだと思う。
「ありがとうございます、レミリアお嬢様」
「咲夜も親離れの時が来たね。少し寂しいけれど、それより喜びのほうが大きい」
それからお姉さまは咲夜の頬に軽くキスをした。私がびっくりしていると、お姉さまは私の頬にも口づけを落とした。
「頬への接吻は、満足を表すんだ。私はもう、満ち足りているよ」
そうしてお姉さまは後は任せたよ、と言って図書館を去ってしまった。
咲夜は夕食を作りに行った。残された四人は。
「お二人の恋のお話、聞かせてくださいお嬢様!」
そう言いだしたのは美鈴だった。
「え、えぇ……?」
「ずばりお二人はどちらから告白なさったんですか?」
美鈴は机に乗り出すようにして、興味津々といった風に尋ねてくる。
「あぅ、私から、かな」
「ひゅーぅ、やりますねえ」
「も、もうっ冷やかさないでよぉ」
そんな話に花を咲かせていると扉を押し開ける音が聞こえた。
「こんばんは」
「こんばんは、アリス」
パチェが嬉しそうに目を細める。
「アリス?」
「さっき言っていた人形遣いよ」
引きこもりはこれだから、とパチェは手を挙げながら首を振る。アリスと呼ばれた少女は静かに近づいてきた。
「あなたがフランドールね」
そうして私の前に立つと、にっこり微笑んだ。
「結婚、おめでとう」
「う、うんっ。ありがとう!」
祝福されることは、嬉しいことだ。アリスはいい人だと思った。
「後でもいいからサイズを測らせてね」
その後はアリスも交えてしばし賑やかに話をした。そうして服のサイズを測り終えたころ、咲夜が夕食の支度が出来たと伝えに来た。
「よかったらアリスも食べてく?」
咲夜が誘う。
「遠慮しておくわ。なんたってここのお嬢様が出した納期は週末だからね。寝る暇も惜しまなくちゃ」
「ご、ごめんね? お姉さまたぶん洋服とかぱーっとすぐ出来ると思ってるんだと思う……」
「あなたが謝ることないのよ。それに、腕の見せ所ってところでしょ」
アリスは朗らかに笑って席を立った。
「それじゃあ、またね」
そして踵を返して図書館から出て行った。
この日から、私と咲夜は一緒の部屋で眠ることにした。ダブルベッドのある部屋を探して、少しお掃除をして、ドアにはネームプレートを付けて、私たちの部屋の出来上がりだ。
「新婚さんみたいですね、私たち」
「みたいじゃないよ、本当に新婚さんなんだから」
「あっ、そうでしたね」
くすりと咲夜が笑う。
「眠りましょうか」
「うん」
帽子を取り、リボンをほどき、ネクタイを緩め、パジャマに着替える。咲夜もメイド服をするりと脱いで、黒いネグリジェに着替えていた。どきっとした。少し私には刺激が強いかもしれない。
「おやすみなさい、フランお嬢様」
「おやすみ、咲夜」
私は咲夜がいつもしてくれたように布団をそっとかけてあげた。
咲夜と眠るのは初めてだった。緊張する。ふわりと広がった咲夜の髪の毛からは心地よい匂いがした。こんなに美しく、優しく、私を愛してくれる人と私は結婚するのだ。なんて幸せなことなのだろう。
絶対に一生をかけても幸せにしたいと思った。
「フランお嬢様」
ふいに咲夜から声がかかった。
「まだ、起きていらっしゃいますか?」
「うん」
「私、幸せです。幸せすぎて、怖いくらいに」
「うん」
「フランお嬢様とレミリアお嬢様のおかげです」
「これからは、もっと、もっと幸せだよ。私がお姉さま以上に咲夜を幸せにするから」
その後も私たちは夢のように甘い時間を過ごし、いつのまにか眠っていた。
次の日、私は咲夜に秘密で地下室にこもっていた。綺麗な青琥珀を加工するのだ。何ができるかは、結婚式のときのお楽しみ。
そして、とうとう結婚式の日がやってきたのであった。
「あぅ、き、緊張するなあ……」
アリスに作ってもらったウェディングドレスを着て、私は控え室でもじもじしていた。
「フランお嬢様~」
入って来たのは美鈴だった。
「よくお似合いです。そろそろ時間ですよ」
「う、うんっ!」
廊下に出るとたくさんの来賓が来ていた。
「よう妹、少しは強くなったか?」
魔理沙はまだ少し怖い。
「料理につられて来てみたけど、結婚式だったのね」
「ははは……」
霊夢は相変わらずだ。
「おめでとう」
振り替えると、大勢の人がいた。
「お姉さまって、意外と人望あるのかな」
そう呟く。私は美鈴にエスコートされながらパーティーホールへ向かった。
扉を開けると、一斉にぱん! という音が聞こえた。
「披露宴みたいになってますねえ」
美鈴は苦笑しながら私を主賓席まで連れて行ってくれた。
咲夜はすでにお姉さまにエスコートされ、席についていた。私も椅子を引き腰を下ろす。隣りの咲夜をちらりと見つめる。咲夜のウェディングドレス姿を見るのは初めてだ。白いレースが咲夜の純白可憐なイメージにぴったりだ!
「えぇっと、このたびは妹フランドールの結婚式にお集まりいただき誠にありがとうございます。とうとう、と言いますか、ここまで来るのは大変長い道のりで」
「早く始めろー!」
野次が飛ぶ。たぶん魔理沙だ。
「ええい静まれい! ……こほん、ではフランドール・スカーレットと十六夜咲夜の結婚を祝って」
「かんぱーーい!!!」
ホールいっぱいにみんなの声が響いた。
「咲夜、ドレスすごく似合ってる。あとね」
私は小さく呟いて、ずっと握りしめていたそれを咲夜に見せた。
「これ、ちょっと不格好だけど……」
咲夜の手を取って、左手の薬指にはめる。
「わ、私に……?」
「ほかの誰でもない、咲夜にだよ。えへへ、私とおそろいなんだ」
そう言って自分の左手を見せる。
「この間地下室にこもっていたのはもしかして」
「うん、これを作っていたの」
咲夜は瞳をうるうるさせながら喜んでくれた。
「幸せそうね」
そんな私たちの前に現れたのは、目の下にクマを作ったアリスだった。お化粧をしているものの隠しきれていない。
「アリス、こんな素敵なドレスを仕上げてくれて本当にありがとう! 今日はいっぱい楽しんでいってね」
「ええ、そうさせてもらうわ。二人とも、お幸せにね」
アリスはそういうと、人ごみの中に消えていった。
わいわいと宴は続く。
「はーい、今からビンゴ大会はじめるよー!」
楽しいことが大好きなお姉さまが主賓席の横に立つ。
「お姉さま、いつのまにこんな準備してたんだろう……」
「特賞はうちの酒蔵から持ってきたよくわからないお酒たち!」
お姉さまのその言葉に会場がどよめく。
「この家のお酒ってそれは美味しいのよねえ」
「この間なんて北雪が転がってたぜ?」
「なんでこんなお子様の家に……」
思い思いに色々なことを話し出すお客さんたち。
「さて、用紙は行き渡った? はじめるぞ」
そこで、はい、とお姉さまに丸い穴が開いた箱を渡される。
「うん?」
「主役が引くものでしょう? こういうのは」
「あっはい」
穴に手を入れてごそごそと中身を漁る。
「ん」
一つの玉を掴み取った。
「えと、いちばんです」
そう読み上げると歓声と嘆声が上がる。そんなことを数分続けたころだろうあ。一人目のビンゴが出た。
「あ、えっ、私?」
それはアリスだった。
「好きなものを選びなさい」
お姉さまがテーブルにある景品のところまでアリスを招く。
「じゃあこの、河童のなんでも修理券をもらおうかしら」
「おめでとう!」
アリスはありがとう、と一礼をした。パーティーはまだまだ続く。
結局あの高そうなお酒たちは全員分あったようで、一人一瓶もらっていた。
余興が次々に行われていく。魔理沙のコント、咲夜の手品、お姉さまの腕相撲大会、それらはみんな楽しくて、私たちは終始笑顔だった。
「それでは、式の最後にブーケトスを行いたいと思います」
美鈴のその一言に会場が沸き立つ。
「はい、咲夜さん」
美鈴が咲夜に花束を差し出す。私の花嫁さんからブーケをもらう幸運な人はいったい誰だろう。
「後ろを向かずに投げてくださいね」
「ええ」
そして花束が宙に舞う。
「ふふ」
それを受け取ったのは、翡翠色の髪の毛をした女性だった。
「やったね、幽香さん!」
触角の生えた少女がその人の周りでぴょんぴょこ跳ねている。
「まさかうちの花がそのまま私に帰ってくるなんてね。ふふ、ありがとう」
その人もまたアリスと同じようにお淑やかに、小さく挨拶をした。
「これにてフランドール・スカーレットと十六夜咲夜の結婚披露宴を終わります。飲みたい方は朝まで飲んいってくださいね」
すでに酔いつぶれたお姉さまの代わりに美鈴が司会をしていた。もう結婚式ではなく結婚披露宴になっている。
「咲夜、ちょっと抜け出そうか」
そう咲夜を誘って、ドレスのまま廊下に出た。開いた窓から吹き込む生ぬるい風が首元をかすめていく。
「楽しかったね」
「ええ」
「ずっとこんな時間が続けばいいね」
口に出してから思い出す。咲夜に永遠はない。
「ええ……」
「続くよ、いつまでも」
「……はい」
「あのさ、咲夜。咲夜は人間だから、私より早く死んじゃうことを気にしているのかもしれないけどさ、その時まで幸せでいられたら、いいんじゃないのかな」
夏の虫たちの鳴き声が聞こえる。
「一生をかけて私を幸せにしてくださったフランお嬢さまは、私が死んだあと、どうされますか?」
咲夜は自分が死んだあと、私が空っぽにならないかと聞いているのだ。
「大丈夫だよ。咲夜はまた帰ってくるでしょ。何度も何度も転生して、また私と出会う。何度生まれ変わっても、私はきっと咲夜に恋をするよ」
「……嬉しいです」
「咲夜が死ぬって知ったら、足掻くかもしれないけれど、死んでしまった後はしょうがないんだなあって納得するよ。お姉さまだったら、閻魔様のところまで行って談判しそうだけど、私はそれが自然なことだって思ってる」
咲夜とのこの毎日はいつか終わりがくる。けれど、咲夜が逝ってしまった後も私たちの幸せは続くのだ。だって、今この瞬間を思い切り生きていれば、二人が離れ離れになっても幸せな日を思い返して、前を向いていけるから。
「ねえ咲夜」
愛してるよ。
「お熱いですね! 一枚写真を撮らせてください!」
そこへ新聞屋さんがやってきて。
「ちょっと文、デリカシーないわよ」
そこへパチェとお姉さま、美鈴に小悪魔がやってきて。
「いいよ。ね、咲夜、記念に撮ってもらおうよ!」
「はいっ」
そこへ酔っ払いのお客さんたちが大勢やって来て。
「じゃあ撮りますよー、いちにの、さんっ」
大好きな人と、大切な人たちと、私たちを祝福しに来てくれた人たちの、思い出がいっぱい詰まった写真が出来上がった。
「はい、あと二枚です。この写真は記事にさせていただきますね! はい、これはフランドールさん、あなたへ」
そう言って新聞屋さんはまだ色の薄い写真を手渡してくれた。徐々に暗色が際立ってくる。
「ありがとう!」
その写真にはみんなが素敵な笑顔で写っていた。大切にしよう、そう思いながら私は頬を緩めた。
今もその日のことは色褪せることなく私の心にしまわれている。写真を指で軽くなぞり、咲夜、と心の中で呼びかける。どこからか、返事が聞こえるような気がした。
こんこん。
そんなとき、部屋のドアが控えめにノックされた。私はびっくりしてベットの下に隠れた。またやっつけられてしまうのではないかと思ったからだ。しばらくすると、きぃ、と音を立てて扉が開いた。私は恐怖で涙も止まっていた。
「フランドールお嬢様、いらっしゃいますか?」
聞いたことはないけれど、穏やかで優しい声だった。お嬢様と呼ぶからには、ここの使いのものなのだろうか。恐る恐る寝台から顔を覗かせてみると、そこには青い瞳を持った少女が佇んでいた。
「そんなところにいらっしゃったんですね、フランドールお嬢様」
にこりと笑いかけられる。あたたかい微笑みだった。なぜだか急に顔が熱くなってしまう。
「だ、だれ……?」
「自己紹介が遅れましたね、申し訳ありません。わたくし、レミリアお嬢様の新しいメイドの十六夜咲夜と申します」
「いざよいさくや?」
聞き覚えのある名前だった。そう、お姉さまがいつか連れて帰って来た人間の女の子だ。一回だけ遠くから見たことがあるけれど、その時の彼女はもっと幼い顔立ちをしていた。背もこんなに高くはなかった。今では私より頭ふたつは上のように感じる。しかしあれから月日はそれほど経っていない。
「あの時の」
人間は恐ろしく成長が早いとパチェがぼやいていたことがある。それはこの子のことだったのだろうか。
「あ、なんて呼べばいいかな」
いきなり呼び捨てにするのも嫌だったし、さんを付けるのもなんだか変な気がしたのだ。
「それでは、咲夜、と」
「うん、さくや、咲夜、咲夜だね、覚えたよ」
名前を呼ばれた咲夜は嬉しそうにほおを緩めると、手にしていた小箱を開けた。
「傷の手当てをしましょうね」
その前に、と咲夜が私に笑いかけた。すると次の瞬間、瞬きもしていないのに、咲夜の白い手に可愛らしい花束が現れていた。
「え、えっ、なあに今の!?」
「種無し手品です♪」
にこにこしながら私にその花束を手渡してくれる咲夜。桃色の花が小さく咲いている。
「ありがとう。うれしいよ」
その後、咲夜は私の傷だらけの体に軟膏をぺたぺた塗って包帯を巻いてくれた。少しばかり痛かったけれど、咲夜といると不思議と穏やかな気持ちになってあまり気にならないようになった。
「咲夜はお姉さまの従者なのに、どうして私のところに来てくれたの?」
それは自己紹介を受けた時から気になっていたことだった。咲夜は私のことを知らないものだと思っていた。一度だって面と向かって話したことはないし、館の中で遭遇したこともなかったからだ。
「レミリアお嬢様にフランドールお嬢様のことを教えていただいたのです。それから、一人きりで地下にこもっている妹がいるから、ついていてほしいと」
「お姉さまが、そんなことを言うなんて」
意外だった。お姉さまは私のことなんて、どうでもいいのだと思っていた。いつだってお姉さまは私のことなど気にもしていないような素振りを見せるのだから、そう思っても仕方がないように思う。
「レミリアお嬢様は身内をたいそう可愛がられます。私も、レミリアお嬢様に拾っていただいて、それを身に余るほど感じております」
「うーん……」
お姉さまは不器用なのかもしれない。私のいないところで私の心配をしている。けれどそんなお姉さまが私は好きだった。
「フランドールお嬢様」
「うん?」
「怪我が治ったら、外に出てみませんか?」
静かな瞳咲夜に見つめられる。久しく地下室からは出ていない。
「咲夜」
「はい」
私はまた人を拒む。魔理沙や霊夢が来る前のように、一人でこの部屋にいよう。きっとそれが一番正しいのだと、暗示をかけるように私は頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。
「咲夜の気遣いは嬉しいよ。咲夜が来てくれてすごく楽しいし。お姉さまが私を心配してくれていることも分かった。でも」
そこから先がうまく言葉にできない。言ってしまったら、もう咲夜は来てくれないのだろうか。私はまた一人に戻るのだろうか。
「フランドールお嬢様、誰もせかしたりしません。フランドールお嬢様が、いつか笑ってレミリアお嬢様やパチュリー様、霊夢や魔理沙と遊べる日が来たらそれはとても喜ばしいことです。……大丈夫ですよ」
咲夜は何に対して大丈夫だと言ったのかはわからなかった。けれどすごく安心したのは確かだった。
でも、私の力はあまりにも危うい。ひと時でも私に笑顔を向けてくれた咲夜を、私は傷つけかねない。それなのに。
「うん……」
私は頷いてしまった。
これが咲夜との出会い、長い恋の始まりだった。
それから咲夜は毎日私の部屋を訪れてくれるようになった。お姉さまのお世話はいいのかな、と思ったけれど咲夜を独り占めできるのは嬉しかった。
「今日は図書館棟までお散歩してみませんか?」
まるで本当に私の従者のように、咲夜は甲斐甲斐しく働いてくれる。主の命令だからと言ってここまで忠実な動きができるのだろうか。これではまるで私のもののようだ。
「うん……」
お姉さまは何を考えているのだろう。私に咲夜を与えて何をしたいのだろうか。
「ティータイムにはフランドールお嬢様のお好きなミルクティーを淹れますね。今日はパイを焼いたんです、一緒に召し上がってくださいね。レミリアお嬢様もいらっしゃると思いますよ」
お姉さまやパチェとのお茶会なんて、いつぶりだろう。ふと遠い時間に思いを馳せる。あれは確か満月の日で、私はあの時。
「フランドールお嬢様」
ぐい、と現実に引き戻される。
「大丈夫ですか、フランドールお嬢様」
その響きにどこか違和感を覚えた。そうだ、どこか他人行儀なのだ。
「フランでいいよ。フランドールじゃ、長いでしょ」
それは親しいものの間だけで呼ばれる私の愛称。咲夜になら呼んでもらいたい。
「では、フランお嬢様と」
咲夜は目を細めて微笑む。こんな穏やかな時間が、いつまでも続けばいいと思った。
「フラン、ソーサーは持たないんだよ」
「はい、お姉さま」
私がそれに従うとお姉さまは目じりを下げた。嬉しそうなお姉さまを横目に私は昨夜の手元を眺めていた。さくりさくりとアップルパイをナイフで切り分けているのだった。白い指先に銀のナイフは目に映えて、美しく感じられた。
「どうやらレミィよりお菓子のほうが気になっているみたいね」
パチェが笑う。
「ふふ、違うよ。フランは咲夜を見ていたんだ。違うかな?」
お姉さまにはなんでもお見通しのようだった。私は頬が熱くなるのを感じて俯いた。
「あら、咲夜はお手つきでしょ。飼い猫には手綱をつけておかなくちゃ」
いたずらっぽくパチェが言った。
「いいんだよ。咲夜は放し飼いにしても、主人を間違えない賢い子だからね」
咲夜が咳ばらいをひとつする。
「お嬢様方、お待たせいたしました。お茶にいたしましょう」
ぼーっとしていると咲夜がカップに紅茶を注いでくれた。飴色の水面はゆらゆらと揺らめいて、白い湯気を立てている。
「ありがとう、咲夜」
三人そろって感謝の言葉を伝えた。
楽しい時間は過ぎてゆく。ティータイムは終わり、咲夜がトレイにカップやソーサーを載せていると、お姉さまが目配せをした。
「フランお嬢様、お外までお散歩してみますか?」
「う、うん!」
椅子からとてっと降りて咲夜と手をつなぎ歩いているとお姉さまとパチェのひそひそ声が聞こえた。次の満月にはきっと、と。吸血鬼は耳がいい。お姉さまは分かっていて囁いたのだろうか。そうだとして、何の目的があるのだろう。
満月、妙にその響きが気になった。
「咲夜、あの三つの斜めの星は服のボタン。肩の二つ星、それでオリオン座だよ」
咲夜と図書館を出て早数時間、私たちは陽の落ちた庭にござを引いて瞬き始めた星空を見上げていた。
「フランお嬢様は博識ですね」
ふふふ、と咲夜が微笑んだので照れくさくなってしまう。
次第に月も上って来た。上弦の月だ。あと十日もすれば満ちるだろう。咲夜と迎える初めての満月だ。
「フランお嬢様?」
「あ、あぁうん」
咲夜の声で平静に帰る。
「夏の大三角です」
咲夜が星座盤を天にかざして楽しそうに星を見つめる。
「天の川もきれいだね」
目を細めてみたことのない空のはるか向こうに心を馳せる。
「もうすぐ七夕ですね」
「そうだね」
私はどこか気持ちが遠くにあり生返事をした。
「フランお嬢様は、何かお願い事はございますか?」
願い事。
「そうだなあ」
私が願うのは。
「みんなが幸せになったらいいなって、思う」
咲夜は穏やかな表情で私を瞳に映した。
「フランお嬢様はお優しいですね」
咲夜にそう言われるのは、まんざらでもなかった。私は自分のことをやさしいなんて思わないけれど、咲夜の言葉にはそう思い込ませるような力があった。
「その幸せの中に、どうかご自分も」
咲夜はいつだって優しい。
「あっ」
小さく漏れた咲夜の声。
「わ、すごい……」
私もすぐに気が付く。羽がきらりと星の光を浴びて輝いているのだ。
「私の羽は魔力を溜め込むものだって昔パチェが言っていたけど、そういうことなのかな」
羽の枝をくりっとしならせしげと見つめる。赤、青、黄色、緑、色とりどりの透明度の高い石が、からんころんと揺れていた。
「フランお嬢様」
咲夜が夜空を指さす。
「流れ星です」
天を見上げると、そこには眩いばかりの流星が曲線を描いていた。
「お願い事すれば?」
「そうですね……では」
その後咲夜は小さくつぶやいた。
「フランお嬢様に、幸あらんことを」
私は星に照らされた咲夜の横顔を美しいと思った。
「ありがとう。私は美鈴のところに寄るから、先に戻っていて」
「はい、かしこまりました。夕食までにはお戻りくださいね」
「うん、それじゃあ」
「めーいりん!」
配給のパンをもぐもぐしている美鈴を見つけて私は名前を呼んだ。美鈴は強くて優しい私の友達だ。
「お久しぶりです、フランお嬢様。夜遊びですか?」
にこりと笑う美鈴。
「美鈴に会いに来たの」
「それは光栄です」
美鈴は食事をトレイにおいて私に向き直った。
「咲夜さんとお知り合いになったと聞きました。彼女はどうですか?」
理知的な瞳が私を見つめる。そのまなざしは優しかった。
「いい子だよ。優しいし、きれいだし、賢い。さすがお姉さまの従者だね」
「フランお嬢様、これは、独り言ですけれど」
美鈴が真剣な表情で言うと、あたりが静かになった。生ぬるい風だけが頬を撫でる。
「うん」
美鈴はゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「前を向いて、彼女のことを見てあげてください。私はいつだってフランお嬢様の幸せを願っています」
美鈴は私の不安もすべて包み込むように優しかった。
「ありがとう」
私は美鈴に手を振って門を離れることにした。
「フラン、今日からこの薬を必ず飲みなさい」
食事を終えたとき、お姉さまに錠剤をふた粒渡された。
「なあに?」
「ボケ防止よ」
「レミィ、ボケとは違うわ」
パチェがレモンティーを飲みながら静かに訂正をした。
「お姉さまたちがそういうなら」
「フランは自主性をもう少し育てるべきかもしれない」
お姉さまが握った手を顎に当てて考えるポーズをする。
「奇遇ね、私もそう思ったところよ」
「人の妹に向かってどういうこと」
「私の妹のようなものでもあるわ」
お姉さまとパチェがじゃれつき始めたので私は席を立った。
「ごちそうさまでした、咲夜」
「はい、お粗末様でした。もうお休みになられますか?」
「うん、そうしようかな」
咲夜は私が眠るとき、肩にお布団を詰めに来てくれる。私はそれがうれしくて毎晩が楽しみだった。
「ではお嬢様方、少々留守にいたしますね」
ろうそくの明かりだけが照らす廊下を、咲夜党二人並んで歩く。程なくして部屋についた。
「おやすみ、咲夜」
「おやすみなさいませ、フランお嬢様」
ベットに上り布団をかぶる。そうすると咲夜はタオルケットを首回りと肩にかけてくれた。それでは、と咲夜が燭台の灯を消してドアの向こうへ消えていった。私はこんな日々が楽しくて、永遠に続けばいいのに、と思った。
けれど、そんな私の気持ちとは反対に、物事は悪いほうばかりへと進んでゆく。
満月が近づいてくる。体がおかしいことは嫌でもわかった。咲夜と出会ってから私は地上の部屋で眠るようにしていたけれど、そうもいかなかった。私の周りにあるものが次々と壊れていくのだ。急いで今まで暮らしていた地下室にこもった。ベッドの天蓋がみしみしと音を立てる。小物入れが宙に舞ってかたかたと音を立て、くしゃりと粉になってしまう。私は怖くてたまらなかった。いったい何だというのだろう。
「フランお嬢様!」
扉を開け放ったのは咲夜だった。いやだ、こんな姿を見られたくない。髪はぼさぼさで、服だって所々ほつれている。何よりいやなのは咲夜を傷つけてしまうかもしれないということ。
「来ないで!」
制止もむなしかった。咲夜は私に駆け寄って、その体で私を抱きしめた。涙が出そうになる。咲夜はどうしてこんなにやさしいのだろう。あたたかい人間のぬくもりは私の壊れそうな心に染みていく。
ぴき。
何かが割れるような音が聞こえた。音のもとを探ると、咲夜の胸元のリボンについている丸い石にひびが入っていた。
「や、やだ、さくや、お願い、離れて!」
このままでは咲夜を壊してしまう。そんなことは何が何でもいやだ。そう思った私は咄嗟に咲夜を突き飛ばした。
「フラン!」
開けっ放しだった扉から声が聞こえた。お姉さまだ。
「おねえさまぁ、たすけて……」
涙がぼろぼろと流れ出てきた。咲夜を、傷つけてしまった。こんな状態になること、今までなかったのに。
「大丈夫よ、大丈夫、落ち着いて。私は壊れない」
記憶の底に何かが落ちている。
「お姉さま、私」
頭の中に残るかすかな映像。
「今日は満月よ」
お姉さまは私の手を握りながら続けた。
「本当は……毎月こうなっているのよ。あなたは満月が来るたびにその日の記憶だけを消している」
「咲夜をあなたにあてがったのは、自分のことを大切にしてほしかったからだよ」
そのあとお姉さまは私にいつもの薬を渡してから、倒れている咲夜を抱えて部屋を後にした。
自分のことを大切に。寝ても覚めてもその言葉が頭にこびりついて離れなかったr。
「ッ!」
思い切り壁に拳を打ち付けると、鈍い音とともに血が滴った。自分のことなんて、大切にできない。咲夜を傷つけた私が、自分のことを許せるわけがない。もう一度壁を殴る。白い部屋がだんだんと朱色に染まっていった。
「フランお嬢様」
廊下から一番聞きたくない声が聞こえてきた。
「入ってもよろしいですか?」
咲夜は私のことなんてもう嫌いなのではないか、これは嫌がらせなのではないか、当てつけなのではないか、扉の向こうで咲夜は笑っているのではないか。
「もういやだ……」
そんなことを考える自分に嫌気がさす。咲夜はそんな人間ではない。それはよく分かっているはずだ。私は自分を傷つけるためにわざと咲夜を悪く言っているのだ。なんて、ひどい。
私は手のひらを握り、自分の中の目を探し、
それを潰した。
目を開けると見慣れない天井があった。体には力が入らず目だけを動かすと、ここは病室であるようだった。白い部屋で、消毒液のにおいが鼻をかすめる。
「目が覚めたのね。ここはどこだかわかる?」
白衣を着た女性がドアを開けて入ってくる。
「わからない」
「私は八意永琳、医者よ。ここは永遠亭。あなたは自殺未遂でここに運び込まれたのよ。自分の心臓を壊そうとしたの、まあ……ほとんど吸血鬼は死ぬことなんてないのだけれど」
ぼんやりとしていた記憶がはっきりとしていく。そうだ、私は咲夜を傷つけた自分が嫌で仕方がなくて、それで目を探して。
「フランお嬢様!」
戸の向こうから現れたのは美鈴だった。
「一か月眠りっぱなしだったんですよ。よかったです、目を覚ましてくださって」
にっこりと美鈴は微笑む。
「まだいろんな値が正常値を下回っているから引き続き治療が必要ね」
永琳が紙の束を見て静かに言う。
「あの、咲夜は……」
無意識のうちに出ていた言葉だった。口にした瞬間、あの自分への嫌悪感が蘇りもどしそうになる。
「フランお嬢様は本当に咲夜さんがお好きなんですね」
美鈴が目を細める。
「咲夜さん、目を覚まされましたよ」
美鈴の振り向いた先には咲夜がいた。
「フランお嬢様っ!」
咲夜はあの夜のように私に駆け寄ってきた。目じりに涙をいっぱいためて、よかった、よかったと嗚咽を漏らしている。なぜ咲夜は泣いているのだろう、「お姉さまの命令はこんなところにまで及ぶものなのだろうか。そう考えると無性に悲しくなってきた。
「帰って」
美鈴が辛そうな顔をした。咲夜は何を言われているのかわからないようだ。
「……分かりました。咲夜さん、行きますよ」
戸に手をかけた美鈴がちらりとこちらを見つめながらつぶやいた。
「大丈夫ですよ」
それは咲夜に向けたものなのか、私に向けたものなのかはわからなかったけれど、その優しい声音に少し気分が穏やかになった。
「あとで採血をさせてね」
そう言い残し永琳も部屋を出て行った。
私は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。大事だと、思えば思うほど咲夜につらく当たってしまう。
「ぁ……」
私は美鈴の、いつかの独り言を思い出した。前を向いて、咲夜をみてあげてほしいと、そんなことを言っていたような気がする。美鈴はこうなることが分かっていたのだろうか。
次々と頭にいろんな人々の声が入り込んでくる。自分のことを大切にしてほしかったからだよ。私はいつだってフランお嬢様の幸せを願っています。私の妹のようなものでもあるわ。フランお嬢様に、幸あらんことを。
お姉さまに美鈴、パチェに咲夜の声。暗闇に閉ざされた私を掬い上げてくれるかのようにそれらは私を包み込んでくれた。私の意識はゆっくりと眠りに落ちてゆく……。
しゃりしゃり、しゃり。
「おはようございます、フランお嬢様」
目が覚めると、咲夜が椅子に座ってりんごを剥いていた。
「フランお嬢様が謝られることはありません。こうしてまたお話ができるだけで、私は幸せなのです」
これも、お姉さまの命令なのだろうか。フランのそばにいてくれと言われたから、咲夜はここにいるのだろうか。そうは思えないのだ。咲夜はこんなにも穏やかな顔をしている。白い肌に銀色の髪が映えている。頬周りは少し紅く染まっていて可愛らしい。まるで、天使のようだ。
「私、咲夜が好きだよ」
ぽろりと言葉が落ちていった。
「だから咲夜には、自分の意思でそばにいてほしかったんだ。お姉さまの命令じゃなくても。でも、今更こんなことを言っても、しかたないよね」
咲夜を伺い見ると、私は驚きで息が詰まった。咲夜は泣いていたのだ。それも、幸せそうに。
「私は……私の意思で、フランお嬢様をお慕いしております」
その言葉を聞いた途端、頭が真っ白になってしまった。それはあまりにも信じられない、夢のようなものだったから。
「フランお嬢様のことが、好きです」
もう実るはずがないと思っていた恋が報われた。その事実が私の体を軽くする。失われていた元気が体にみなぎり、私は居ても立っても居られずに咲夜に飛びついた。羽をいつものようにぱたぱたとさせて、しゃらりと宝石を鳴らして、咲夜を強く抱きしめる。
「咲夜! 私たち、私たち両想いだったんだ!」
「ちょっと、なんの騒ぎ?」
慌ててやって来た永琳は咲夜とじゃれついている私を見て、もう大丈夫そうね、と困ったように笑った。
「今日の採血の結果次第だけれど、よければ週末には退院できるわ」
「分かりました。フランお嬢様、私はレミリアお嬢様に今のことをお知らせしてきますね」
「あ、ぅ。そっか、お姉さまもいるんだった……」
「レミリアお嬢様は、とても心配しておられたのですよ」
その割に目が覚めてから、お姉さまにはまだ一度も会っていない。
「ではまた明日もうかがいますね。りんごを剥いておきましたので、よろしければ召し上がってください」
咲夜はにこりと微笑んで帰っていった。ベッドの横に置いてある机のお皿の上には、兎の形をした愛らしいりんごたちが並んでいた。
「お姉さま、怒ってる……?」
あれから数日、体の調子が良くなった私は紅魔館に帰ってきた。するとお姉さまが門で待ち構えていたのだ。美鈴は苦笑するばかりで何も教えてはくれない。お姉さまは目を瞑って腕組みをし、ゆっくり息を吸うと瞼を開き穏やかにほほ笑んだ。
「おかえりなさい、フラン」
それは色々な感情を押し殺して出た言葉のような気がした。怒り、悲しみ、喜び、寂しさ、本当に一つでは表せないような言葉の重さだ。
「私はあなたに自分のことを守る力と、大切な人を守る強さを手に入れてほしかった。だから、こんなことになるんじゃないかって、予想はしていたの」
大切な人、守る人が出来たら人は強くなる。私は咲夜のことが好きだ。これもお姉さまの目論見通りなのだろうか。それはなんだか悔しかった。好きな人を『与えられる』なんて、きっと間違っている。それでも私は咲夜のことを好きになってしまった。それなら『あげる』なんて言われる前に、咲夜を。
「お姉さま! 咲夜を私に下さいっ!」
言ってしまった。お姉さまは一瞬呆気にとられていたが、すぐに口角を釣り上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。咲夜は顔を赤らめている。美鈴は別の意味で頬を朱に染めていた。
「言うようになったわね」
「私、咲夜が好き。咲夜も私のこと好きって言ってくれたよ?」
「ふぅん。咲夜、お前の主人は誰だ?」
「レミリアお嬢様です」
「そう、咲夜は私の従者。でも、娘みたいなものね。でもフラン、あなたが咲夜と結婚するって言うなら私は祝福するよ」
「じ、じゃあ咲夜のこと……!」
「でも誓って、必ず幸せにするって」
「うんっ、する! 咲夜のこと、幻想郷一幸せにするっ!」
嬉しさで涙が込み上げてくる。美鈴がぱちぱちぱちと手をたたいた。幸せそうに、いつまでも、いつまでもたたいていた。
その夜、お姉さまの部屋に招かれた。お姉さまはもうすでに酔っているようで、目がとろんとしていた。
「座りなさいよ」
「う、うん」
お姉さまは赤ワインの瓶を傾けて、空っぽのグラスに注いだ。
「あっ、え、私も飲むの?」
「まぁ、付き合い程度に飲みなさい」
お姉さまにそう言われては断れない。私はグラスを受け取りちびりと舌でなめるように飲んだ。
「咲夜はね、命を懸けて私のものになったの」
遠い日を懐かしむようにお姉さまは呟いた。
「あれは月の美しい夜だった。咲夜は小さな体にありったけの殺気を纏わせて、私に挑んできたんだ。まるで野生の動物のように周りのすべてを威嚇して、それは刺刺しかったよ」
「うん……」
私の知らない咲夜の話。
「私と咲夜は戦ったんだ。咲夜は時を止める能力を持っていてね、なかなか手こずらせてくれたよ」
初めて知る咲夜の能力。いつか見せてくれた種無し手品はその力を使ったのかもしれない。
「それでも叩きのめしたんだ。人間の子供に負けるようでは吸血鬼なんてやってられないからね。そのまま立ち去ろうとしたら、咲夜が私の服の袖を掴んだんだ。振り向いたら、咲夜が『私をあなたのものにして』って言うんだよ。命懸けで戦って、命懸けで私に人生を預けたんだ。そんな咲夜を放っておけるか?」
私の知らないお姉さまの話。
「だから、咲夜を幸せにするって言うのなら、それは命懸けじゃなきゃいけない」
お姉さまの目つきが真剣なものになる。
「私の咲夜、命を懸けて手に入れる覚悟はできているか」
生唾を飲み込んだ。お姉さまがこれほど咲夜を大事に、そして愛していたかなんて、知らなかった。
「私は咲夜を守り、幸せにする。お姉さまよりも、幸せにする!!」
「よく言った! それでこそ私の妹だ。咲夜はとっくにフランのものだよ。そうだろう? 咲夜」
お姉さまの視線を追うと、キィと音を立てて扉が開いた。
「さ、咲夜、いまの、聞いてた……?」
「はい、しっかりと」
「あぅ」
咲夜のことは大好きだけれど、こんなに気障な台詞を聞かれてしまうとやっぱり恥ずかしい。
「嬉しかったです。私のことをレミリアお嬢様以上に幸せにしてくださるなんて仰られたのは、フランお嬢様が初めてですよ」
「ほ、ほんとにっ、ほんとに幸せにするから!!」
「はい、ありがとうございます」
咲夜は嬉しさをかみしめるように笑う。
その後は三人でお酒を飲み、夜はしんしんと更けていった。
「んーと、えいっと」
次の日から、私は力のコントロールをする練習を始めた。
「精が出ますね」
隣には咲夜がいる。
「咲夜と結婚するためだもん、がんばるよっ」
お姉さまから出された咲夜と結婚できる条件。それは力の制御ができるようになること。
私は毎日鍛錬に励んだ。流れ星を砕いて花火を作ることもできるようになった。満月でも力を抑えることもできるようになった。そして。
「できたぁっ!!!!!」
次の満月を迎えたとき、私の体には穏やかな気が満ちていた。力が暴走する素振りも見られない。
「これで、これで咲夜と結婚できるんだ!」
「ええ、焦がれていた日がついにやってきたのですね」
私たちは地下室を出て、お姉さまの部屋に向かった。
「あれ、いないなあ」
いつもはここで小説なんかを呼んでいる時間なのに。
「図書館棟でしょうか」
咲夜は最近お姉さまの世話をしていないので、ご主人様の位置を把握していない。
「行こうか」
咲夜の手を取ってぱたぱたと飛び上がる。
「ええ」
咲夜はいつもにこにこしている。それはとっても嬉しいことだ。
「おねーさまー」
「レミリアお嬢様ー」
図書館への階段を下りていくと、パチェと美鈴、小悪魔とお姉さまがなにやら集まってひそひそと話をしていた。私たちに気が付くと、みんな目に見えて動揺していて、私たちはおかしくて顔を見合わせて笑ってしまった。でも、今からいうことは大事なことだから、と深呼吸をして真面目な顔をした。
「お姉さま、私、力の制御ができるようになりました。さ、さくやと、その……結婚します!」
「あ、あぁ、分かったよ。おめでとう。実は今、二人の結婚式の計画を立てていたんだ」
「えっ、ほんとっ」
机の上を見ると、館の装飾案や振る舞う料理の詳細が書かれていた。
「わーっ、みんなどうもありがとう!」
「招待状はもう準備できているからね。フラン、ドレスとタキシードならどちらがいい? 人形遣いに作ってもらうことにしたんだ」
「えっ、とね、やっぱりウェディングドレスは女の子の夢というか……」
「ほら、言ったじゃないレミィ。妹様だって女の子なんだから、晴れ舞台にタキシードなんて可哀そうでしょう」
「うーん、かっこいいと思ったのだけど」
お姉さまがこんなに私たちのことをお祝いしようとしてくれていたなんて……。
「咲夜にはウェディングドレスを着せるよ。これは咲夜を拾った時から決めていたんだ」
「子煩悩ですねえ、レミリアお嬢様は」
美鈴はふふふと笑う。
「仕方ないじゃないか、こんなに可愛いんだから」
たぶん美鈴はお姉さまに長いこと仕えていて、なおかつ小さな頃から咲夜を見てきたから、こんな日が訪れて本当にうれしいのだと思う。
「ありがとうございます、レミリアお嬢様」
「咲夜も親離れの時が来たね。少し寂しいけれど、それより喜びのほうが大きい」
それからお姉さまは咲夜の頬に軽くキスをした。私がびっくりしていると、お姉さまは私の頬にも口づけを落とした。
「頬への接吻は、満足を表すんだ。私はもう、満ち足りているよ」
そうしてお姉さまは後は任せたよ、と言って図書館を去ってしまった。
咲夜は夕食を作りに行った。残された四人は。
「お二人の恋のお話、聞かせてくださいお嬢様!」
そう言いだしたのは美鈴だった。
「え、えぇ……?」
「ずばりお二人はどちらから告白なさったんですか?」
美鈴は机に乗り出すようにして、興味津々といった風に尋ねてくる。
「あぅ、私から、かな」
「ひゅーぅ、やりますねえ」
「も、もうっ冷やかさないでよぉ」
そんな話に花を咲かせていると扉を押し開ける音が聞こえた。
「こんばんは」
「こんばんは、アリス」
パチェが嬉しそうに目を細める。
「アリス?」
「さっき言っていた人形遣いよ」
引きこもりはこれだから、とパチェは手を挙げながら首を振る。アリスと呼ばれた少女は静かに近づいてきた。
「あなたがフランドールね」
そうして私の前に立つと、にっこり微笑んだ。
「結婚、おめでとう」
「う、うんっ。ありがとう!」
祝福されることは、嬉しいことだ。アリスはいい人だと思った。
「後でもいいからサイズを測らせてね」
その後はアリスも交えてしばし賑やかに話をした。そうして服のサイズを測り終えたころ、咲夜が夕食の支度が出来たと伝えに来た。
「よかったらアリスも食べてく?」
咲夜が誘う。
「遠慮しておくわ。なんたってここのお嬢様が出した納期は週末だからね。寝る暇も惜しまなくちゃ」
「ご、ごめんね? お姉さまたぶん洋服とかぱーっとすぐ出来ると思ってるんだと思う……」
「あなたが謝ることないのよ。それに、腕の見せ所ってところでしょ」
アリスは朗らかに笑って席を立った。
「それじゃあ、またね」
そして踵を返して図書館から出て行った。
この日から、私と咲夜は一緒の部屋で眠ることにした。ダブルベッドのある部屋を探して、少しお掃除をして、ドアにはネームプレートを付けて、私たちの部屋の出来上がりだ。
「新婚さんみたいですね、私たち」
「みたいじゃないよ、本当に新婚さんなんだから」
「あっ、そうでしたね」
くすりと咲夜が笑う。
「眠りましょうか」
「うん」
帽子を取り、リボンをほどき、ネクタイを緩め、パジャマに着替える。咲夜もメイド服をするりと脱いで、黒いネグリジェに着替えていた。どきっとした。少し私には刺激が強いかもしれない。
「おやすみなさい、フランお嬢様」
「おやすみ、咲夜」
私は咲夜がいつもしてくれたように布団をそっとかけてあげた。
咲夜と眠るのは初めてだった。緊張する。ふわりと広がった咲夜の髪の毛からは心地よい匂いがした。こんなに美しく、優しく、私を愛してくれる人と私は結婚するのだ。なんて幸せなことなのだろう。
絶対に一生をかけても幸せにしたいと思った。
「フランお嬢様」
ふいに咲夜から声がかかった。
「まだ、起きていらっしゃいますか?」
「うん」
「私、幸せです。幸せすぎて、怖いくらいに」
「うん」
「フランお嬢様とレミリアお嬢様のおかげです」
「これからは、もっと、もっと幸せだよ。私がお姉さま以上に咲夜を幸せにするから」
その後も私たちは夢のように甘い時間を過ごし、いつのまにか眠っていた。
次の日、私は咲夜に秘密で地下室にこもっていた。綺麗な青琥珀を加工するのだ。何ができるかは、結婚式のときのお楽しみ。
そして、とうとう結婚式の日がやってきたのであった。
「あぅ、き、緊張するなあ……」
アリスに作ってもらったウェディングドレスを着て、私は控え室でもじもじしていた。
「フランお嬢様~」
入って来たのは美鈴だった。
「よくお似合いです。そろそろ時間ですよ」
「う、うんっ!」
廊下に出るとたくさんの来賓が来ていた。
「よう妹、少しは強くなったか?」
魔理沙はまだ少し怖い。
「料理につられて来てみたけど、結婚式だったのね」
「ははは……」
霊夢は相変わらずだ。
「おめでとう」
振り替えると、大勢の人がいた。
「お姉さまって、意外と人望あるのかな」
そう呟く。私は美鈴にエスコートされながらパーティーホールへ向かった。
扉を開けると、一斉にぱん! という音が聞こえた。
「披露宴みたいになってますねえ」
美鈴は苦笑しながら私を主賓席まで連れて行ってくれた。
咲夜はすでにお姉さまにエスコートされ、席についていた。私も椅子を引き腰を下ろす。隣りの咲夜をちらりと見つめる。咲夜のウェディングドレス姿を見るのは初めてだ。白いレースが咲夜の純白可憐なイメージにぴったりだ!
「えぇっと、このたびは妹フランドールの結婚式にお集まりいただき誠にありがとうございます。とうとう、と言いますか、ここまで来るのは大変長い道のりで」
「早く始めろー!」
野次が飛ぶ。たぶん魔理沙だ。
「ええい静まれい! ……こほん、ではフランドール・スカーレットと十六夜咲夜の結婚を祝って」
「かんぱーーい!!!」
ホールいっぱいにみんなの声が響いた。
「咲夜、ドレスすごく似合ってる。あとね」
私は小さく呟いて、ずっと握りしめていたそれを咲夜に見せた。
「これ、ちょっと不格好だけど……」
咲夜の手を取って、左手の薬指にはめる。
「わ、私に……?」
「ほかの誰でもない、咲夜にだよ。えへへ、私とおそろいなんだ」
そう言って自分の左手を見せる。
「この間地下室にこもっていたのはもしかして」
「うん、これを作っていたの」
咲夜は瞳をうるうるさせながら喜んでくれた。
「幸せそうね」
そんな私たちの前に現れたのは、目の下にクマを作ったアリスだった。お化粧をしているものの隠しきれていない。
「アリス、こんな素敵なドレスを仕上げてくれて本当にありがとう! 今日はいっぱい楽しんでいってね」
「ええ、そうさせてもらうわ。二人とも、お幸せにね」
アリスはそういうと、人ごみの中に消えていった。
わいわいと宴は続く。
「はーい、今からビンゴ大会はじめるよー!」
楽しいことが大好きなお姉さまが主賓席の横に立つ。
「お姉さま、いつのまにこんな準備してたんだろう……」
「特賞はうちの酒蔵から持ってきたよくわからないお酒たち!」
お姉さまのその言葉に会場がどよめく。
「この家のお酒ってそれは美味しいのよねえ」
「この間なんて北雪が転がってたぜ?」
「なんでこんなお子様の家に……」
思い思いに色々なことを話し出すお客さんたち。
「さて、用紙は行き渡った? はじめるぞ」
そこで、はい、とお姉さまに丸い穴が開いた箱を渡される。
「うん?」
「主役が引くものでしょう? こういうのは」
「あっはい」
穴に手を入れてごそごそと中身を漁る。
「ん」
一つの玉を掴み取った。
「えと、いちばんです」
そう読み上げると歓声と嘆声が上がる。そんなことを数分続けたころだろうあ。一人目のビンゴが出た。
「あ、えっ、私?」
それはアリスだった。
「好きなものを選びなさい」
お姉さまがテーブルにある景品のところまでアリスを招く。
「じゃあこの、河童のなんでも修理券をもらおうかしら」
「おめでとう!」
アリスはありがとう、と一礼をした。パーティーはまだまだ続く。
結局あの高そうなお酒たちは全員分あったようで、一人一瓶もらっていた。
余興が次々に行われていく。魔理沙のコント、咲夜の手品、お姉さまの腕相撲大会、それらはみんな楽しくて、私たちは終始笑顔だった。
「それでは、式の最後にブーケトスを行いたいと思います」
美鈴のその一言に会場が沸き立つ。
「はい、咲夜さん」
美鈴が咲夜に花束を差し出す。私の花嫁さんからブーケをもらう幸運な人はいったい誰だろう。
「後ろを向かずに投げてくださいね」
「ええ」
そして花束が宙に舞う。
「ふふ」
それを受け取ったのは、翡翠色の髪の毛をした女性だった。
「やったね、幽香さん!」
触角の生えた少女がその人の周りでぴょんぴょこ跳ねている。
「まさかうちの花がそのまま私に帰ってくるなんてね。ふふ、ありがとう」
その人もまたアリスと同じようにお淑やかに、小さく挨拶をした。
「これにてフランドール・スカーレットと十六夜咲夜の結婚披露宴を終わります。飲みたい方は朝まで飲んいってくださいね」
すでに酔いつぶれたお姉さまの代わりに美鈴が司会をしていた。もう結婚式ではなく結婚披露宴になっている。
「咲夜、ちょっと抜け出そうか」
そう咲夜を誘って、ドレスのまま廊下に出た。開いた窓から吹き込む生ぬるい風が首元をかすめていく。
「楽しかったね」
「ええ」
「ずっとこんな時間が続けばいいね」
口に出してから思い出す。咲夜に永遠はない。
「ええ……」
「続くよ、いつまでも」
「……はい」
「あのさ、咲夜。咲夜は人間だから、私より早く死んじゃうことを気にしているのかもしれないけどさ、その時まで幸せでいられたら、いいんじゃないのかな」
夏の虫たちの鳴き声が聞こえる。
「一生をかけて私を幸せにしてくださったフランお嬢さまは、私が死んだあと、どうされますか?」
咲夜は自分が死んだあと、私が空っぽにならないかと聞いているのだ。
「大丈夫だよ。咲夜はまた帰ってくるでしょ。何度も何度も転生して、また私と出会う。何度生まれ変わっても、私はきっと咲夜に恋をするよ」
「……嬉しいです」
「咲夜が死ぬって知ったら、足掻くかもしれないけれど、死んでしまった後はしょうがないんだなあって納得するよ。お姉さまだったら、閻魔様のところまで行って談判しそうだけど、私はそれが自然なことだって思ってる」
咲夜とのこの毎日はいつか終わりがくる。けれど、咲夜が逝ってしまった後も私たちの幸せは続くのだ。だって、今この瞬間を思い切り生きていれば、二人が離れ離れになっても幸せな日を思い返して、前を向いていけるから。
「ねえ咲夜」
愛してるよ。
「お熱いですね! 一枚写真を撮らせてください!」
そこへ新聞屋さんがやってきて。
「ちょっと文、デリカシーないわよ」
そこへパチェとお姉さま、美鈴に小悪魔がやってきて。
「いいよ。ね、咲夜、記念に撮ってもらおうよ!」
「はいっ」
そこへ酔っ払いのお客さんたちが大勢やって来て。
「じゃあ撮りますよー、いちにの、さんっ」
大好きな人と、大切な人たちと、私たちを祝福しに来てくれた人たちの、思い出がいっぱい詰まった写真が出来上がった。
「はい、あと二枚です。この写真は記事にさせていただきますね! はい、これはフランドールさん、あなたへ」
そう言って新聞屋さんはまだ色の薄い写真を手渡してくれた。徐々に暗色が際立ってくる。
「ありがとう!」
その写真にはみんなが素敵な笑顔で写っていた。大切にしよう、そう思いながら私は頬を緩めた。
今もその日のことは色褪せることなく私の心にしまわれている。写真を指で軽くなぞり、咲夜、と心の中で呼びかける。どこからか、返事が聞こえるような気がした。
特に最後の
咲夜とのこの毎日はいつか終わりがくる。
けれど、咲夜が逝ってしまった後も私たちの幸せは続くのだ。
だって、今この瞬間を思い切り生きていれば、二人が離れ離れになっても幸せな日を思い返して、前を向いていけるから。
この部分が一番深く考えさせられました。
僕も毎日を思いっきり生きます。
お疲れ様でした。