一
一時は山を埋め尽くさんばかりに咲いていた桜が、今はすっかりその花弁を落とし、鮮やかな緑色の葉を風に晒している。
新緑であった。
季節が春から初夏へと向かおうとするこの時期、時折夏の匂いすら感じさせる風が、真新しい葉桜を揺らし、空を渡っていく。
鈴瑚は小さな庵の縁側に茣蓙を敷き、身体を横たえ、その光景を見ていた。
昼下がりの風に、初春の冷たさは、もうない。
春らしい、心地よい生暖かさを、鈴瑚はそのふくよかな頬の表面に感じていた。
「……春だねえ」
随分と月並みな台詞しか出てこないな、と心中で自嘲しつつも、鈴瑚はこの小さな庵の庭に広がる光景を見れば、誰もがそう口にするだろうと思った。
それ程に、春。
桜の頃を過ぎたこの時期、新緑の季節こそが、生命力に満ちた地上の春を最も雄弁に主張しているのではないかと、鈴瑚は思う。
「春ですねえ」
そう答えたのは、鈴瑚と同じ茣蓙に腰を下ろした清蘭であった。
ただし清蘭は、鈴瑚のように身体を横たえてはいない。
縁側に座った清蘭の太腿の上に、横になった鈴瑚が頭を乗せている。
膝枕――鈴瑚は清蘭の引き締まった太腿の感触を楽しみながら、庭一杯に広がった春の景色を堪能しているのであった。
「この間桜が散ったかと思えば、今度はそこら中に、緑が溢れかえってる」
「早いですよね」
清蘭はかつて月の軍隊に所属していた頃から、同じく月の兎――玉兎であり、自分より立場が上にあった鈴瑚に対しては、丁寧語で話す。
こうして地上に移り住み、山の庵で小さな団子屋を営み始めた時、鈴瑚は「家族」としての対等な関係を持ちかけたが、清蘭は結局、その口調を変えることはなかった。
家族と言う関係を、否定されたわけではない。
敬意を込めて「鈴瑚さん」と呼び、丁寧語で接することも含めて、自分が鈴瑚を好いている気持ちの表現だから――というのが、清蘭の持論であった。
当初は腑に落ちなかった鈴瑚であるが、そうした清蘭の生真面目さが、元々自分が彼女を気に入った理由の一つであることを思い出すと、不思議と納得が行った。
「この早さがさ、穢れなのよね」
「早さ?」
「そう。月よりもずっと早く、命が生まれては消え、景色が移り変わる。穢れがそうした季節の巡りを回してるのよ、くるくるっと」
鈴瑚は清蘭の目の前に指先を持ち上げ、宙に何重かの円を描いた。
「……鈴瑚さんは、楽しそうですね」
「楽しいよ?」
穢れの話をすると、清蘭は顔を曇らせる――とはいかないまでも、鈴瑚の楽しげな調子に少々冷ややかな視線を送る節があった。
故郷に未練がある、というよりは、地上の穢れに対し、清蘭はまだいささかの抵抗を持っているように、鈴瑚は見ている。
穢れ――それは生命と自然に起こる、経時変化そのものとも言ってよい。
栄養を摂れば成長し、年を経れば老化する。
身体が熟すれば子を成し、肉体が死ねばそれは土に還る。
そうやって地上の自然が生命活動を繰り返していく力の源こそが、穢れである。
月にはなかった、あるいはひどく緩やかであったその「命の巡り」を、鈴瑚はこの妖怪の山の、四季折々の景色から存分に感じ取り、楽しんでいた。
それ即ち、穢れという概念自体を心に受け入れ、楽しむこと。
「地上の春も、夏も、初めてなんだからさ」
鈴瑚と清蘭がこの妖怪の山に庵を結んだのは昨年、秋も終わりに近づいた頃だ。
地上の四季の内、二人が経験したのは秋と冬の二つ。
今こうして満喫している春と、これからやって来る夏を思うと、鈴瑚は自身の胸の裡で気持ちが浮き立ってくるのを、強く感じる。
「でも、夏が来る前には、雨季があるんでしょう」
「雨季……梅雨のこと?」
清蘭も、さすがに地上のことが分かって来たのか、暦と並行して移り変わる空模様を理解しているようであった。
この極東の国で、春と夏の間に訪れる雨多き季節、それが梅雨である。
「うーん、雨季っていう程のもんじゃない、らしいけどね」
卯月――四月半ばの青い空が、鈴瑚の頭上に広がっていた。
あと二月もしない内に、この空を毎日のように灰色の雲が埋め尽くし、昼夜を問わず雨が降り続くようになるなど、到底信じられなかった。
毎日雨が続けばどうなるか……そこまで考えたところで、鈴瑚は思い出した。
「そうだ、清蘭」
「はい?」
鈴瑚は清蘭の膝枕の上で頭を動かし、真上を見上げる格好になった。
四月の空より青い清蘭の豊かな髪が、鮮やかな色彩で視界に広がる。
「雨と言えば――こんなお話が、あるんだけどね」
遡ること、一日。
団子の行商に出た人里で耳にした、雨の日の話を、鈴瑚は思い出していたのだ。
※ ※ ※
「その霊は必ず、目を求めて来るんですよ」
鈴瑚が仕事終わりによく立ち寄る人里の貸本屋「鈴奈庵」の看板娘、本居小鈴は机の上に身を乗り出しながらそう言った。
「目?」
鈴瑚が自分の左目を指差しながら呟くと、小鈴はこくりと頷いた。
この鈴奈庵は、幻想郷で出版された書籍は勿論、結界の外の世界の本も多数取り揃えており、鈴瑚にとって、地上の情報源として非常に重宝する場所であった。
人里で団子を売り始めてすぐに、鈴瑚はこの店の常連の一人に名を連ねることとなり、同じく常連だった他の客の多くとも、今は顔見知りになっていた。
「出会った人は皆、彼がこう言うのを聞いたそうです」
その日の団子が完売した夕方、鈴奈庵の中にいる客は、鈴瑚のみだった。
「『目を、目を、……くださらぬか』と」
小鈴は鈴瑚を怖がらせようとしてか、相手の目の前に指先を伸ばし、目玉を抉り取ろうとするかのような手つきを見せた。
鈴瑚は特に動じることなく、くすくすと笑って答えた。
「眼病が悪化して死にでもしたの?そいつ」
「……いいえ」
そう言うと、小鈴は手に持った爪楊枝で皿の上の団子を刺した。
鈴瑚から買った団子である。
鈴奈庵の看板娘・小鈴は、鈴瑚が売る――つまり清蘭が作った――団子のファンであり、リピーターであった。
お得意先様の世間話には、鈴瑚も当然、付き合う。
それを抜きにしても、地上の書籍に通じた小鈴との会話は、鈴瑚にとって有意義な情報収集の時間なのであった。
今もこうして、小鈴が話を広げたくなるように、素っ気ない振りを装いながら、相手が続けて口を開きたくなるような言葉を、選んでいる。
「霊が欲しがるのは、自分の目ではないんです――」
その幽霊が人里に現れるようになったのは、冬の終わり頃であった。
『目を、目を』
しきりにそう繰り返すだけで、特に何をするわけではない。
出る場所は特に定まってはいないが、決まって雨の日に、霊は現れた。
厚い雲が広がり、粒が大きな雨が一日、降り続く――そんな日には、ほぼ必ずと言っていいほど、その霊が目撃された。
初老の、痩せた男の姿をしていた。
その出現は昼夜を問わなかったが、遭遇した人間は、いずれも人通りが少ない道を、一人で歩いていた者であった。
――雨の日に一人で歩いていると、爺ぃの霊が、目を奪いに来るぞ。
春先、その霊に遭遇した者の人数が二桁を越えた頃には、そんな噂が里の中で囁かれるようになっていた。
実際に目を抉られた者が、いたわけではない。
初老の男性の姿をしたその霊自身、顔には両の目がしっかり揃っている。
それでもその噂話の真偽を疑う者が少なかったのは、霊が口にする「目を、目を」という言葉と、霊と共に出現する「あるモノ」の存在によるところが大きい。
――爺ぃの霊に目を取られて、片目の龍の供えにされるぞ。
その幽霊が出現する際、遭遇した人間は皆、雲間に巨大な生物の姿を見ていた。
牙を持つ顔と、そこから伸びる長い胴と尾、そしてそれらを覆う鱗。
龍であった。
幽霊のように身体が透き通った、半透明の龍が、初老の男の頭上高くで、雨雲の中を泳いでいるのだ。
時折覗かせる顔に、特徴があった。
左の眼球が、ない。
奈落のように黒い穴になった眼窩を、多くの者が目撃していた。
幽霊がしきりに口にする「目」は、あの龍の足りない左目に、違いない。
画龍点睛を欠く、という言葉を知らない人間であっても、その答えに辿り着くことはそう難しいことではなかった。
「ガリョウテンセイ?」
聞き慣れない言葉を耳にした鈴瑚は、思わずそれを鸚鵡返しに口に出した。
「画龍点睛を欠く。大陸の、有名な故事を元にした諺(ことわざ)ですよ」
瞳がない龍の絵にそれを描き入れたところ、完成した龍が絵から飛び出して空へ消え去った、という故事から、
「物事の完成・完遂に必要な『仕上げ』」を喩えて言うようになった言葉が「画龍点睛」である。
「なるほど、その幽霊は文字通りに龍の目を探してる、ってこと?」
小鈴から一通りの説明を受けた後、鈴瑚は自身の目を指差し、言った。
「そうです」
そしてこれまた文字通りに、と小鈴は続けた。
「彼は画家なんです。この里で、昨年に亡くなった」
「……お知り合い?」
「いいえ」
小鈴が語ったところによれば、その画家は普段から家に閉じこもって仕事をしていたため、里の多くの者が「名前は知っているが、顔は知らない」人物であった。
それでも霊の出現頻度が高まる内に、数少ない顔見知りの同業者や、彼に仕事を頼んでいた人間による目撃証言から、その正体が明らかになった。
「正体がわかったことで、目を抉って奪う、という噂はなりを潜めました」
独り身の、あまり社交的とは言えない、初老の絵描き。
実力は確かであったが、自分が好きに描いた絵画だけで、生活を支え切れるほどの評価と収入を持っていた画家ではなかった。
新装開店する商店の看板や、祭を告知する広告、七夕飾りなどの製作を里の人間たちから請け負い、注文に応じた絵を描くことの方が、多かった。
本来得意とした日本画だけでなく、西洋画の技法にも通じていたため、そうした仕事の依頼は、それなりの頻度で彼のもとへ来ていたという。
だが、自宅を改造した小さな画廊に飾られた、彼本来の筆致と画風からなる、自身でモチーフを決めた絵画が売れることは、ほとんどなかった。
それこそ絵に描いたような、慎ましやかな生活をしていた。
無論、不摂生をしていたという話はないが、ある日、自宅で倒れているのを、仕事の進捗を確認しに来た客に発見された。
客が呼んだ医師が駆けつけた時には、既に息を引き取っていたという。
「身寄りもなく、ひとまずは同業の画家が集まってお葬式を出してくれたそうです」
「ふうん……その時の仕事ってのが、龍の絵?」
「おそらくは、ですけどね」
彼が「請け負い」の仕事で描いた絵の中には、旅館や日本料理屋の座敷で、床の間に飾られる掛け軸に使われたものが、少なからずあった。
そうした絵において、龍は古来より人気が高いモチーフの一つである。
実際に、彼が描いた龍の掛け軸を床の間に飾っている者に話を聞くと、霊と共に出現する片目の龍は、絵の中のそれによく似ているということであった。
――あの龍は、画家が目を描かないままで世を去った、未完成の絵に違いない。
画家の霊に関わる噂話は、その一文で締めくくられるようになった。
「龍は、絵の霊、ってこと?」
「概ね、そういう解釈がなされているみたいです」
証拠はないんですけどね、と小鈴は続けた。
「でも、それこそ故事にあるような最後の仕上げ、龍の目を描き込むことなくこの世を去ってしまったというのは――その、わたしは絵に関しては、素人ですけど。
心残りだっていうのは、わかる気がします」
小鈴の言葉に、鈴瑚はうんうんと何度も頷いた。
やり掛けたことを残したまま命を落とし、その完遂の機会を永遠に奪われる――軍にいた頃は、そんな目に遭った同胞を幾人も目にしてきた。
彼らや彼女らの魂も、もしかすると、今も月の都を彷徨っているのかもしれない。
「しかし、随分多くの人間が、その画家の霊とやらを見てるのね」
話を聞く限り、その画家は明らかに生前より死後の方が、里の人間たちの間でその存在を広く認識されているように思われる。
「ここ最近は、雨が多かったからでしょうか」
まだ梅雨入りには早いのに、と言いつつ、小鈴は窓の外に目を向けた。
幸いその日の空には、鮮やかな薄青色が広がっている。
が、確かに前日までには、三日ほど雨が降り続いていたし、鈴瑚もこの一月ほどの間、雨の中で団子を売り歩いた日の記憶は、少なくない。
「……見た、っていう人は増えているみたいです。間違いなく」
何かを焦るかのように、雨が降る度に画家の霊はあちこちに現れ、お馴染みの「目を、目を」という言葉を繰り返すのだという。
「いっそ、その描きかけの絵を完成させてあげればいいのに」
名も知らぬ素人なら兎も角、葬式をあげてくれる程度の付き合いがあった同業者であれば、画家本人も、自分のやり残した仕事を任せる気にはなるのではないか。
そもそも誰かにそうした助けを求める気持ちがあるからこそ、死者は人々の前に姿を現したのではないかと、鈴瑚は思う。
「ないんですよ」
「ない?」
「そうです。彼と付き合いがあった絵描きさんたちも、すぐにその絵を完成させて、彼を供養しようとしたんです。でも、描きかけの龍の絵なんて、どこにもなかった」
画廊にも、仕事場にも――勿論過去に彼が依頼を受け、今は里のあちこちに飾られた請け負いの作品群の中にも、そのような描きかけの絵は、なかった。
「今も、何人もの画家が、必死で目指しているんです――本当にあるかどうかもわからない、彼が遺した絵の完成を」
※ ※ ※
「鈴瑚さんは、見たんですか?その幽霊……」
語り終えた鈴瑚の顔を見下ろしながら、清蘭は尋ねて来た。
「や、まだ見てないわね」
それが良いことなのか、悪いことなのか、鈴瑚にはわからなかった。
地上に来てから、龍というものをまだ目にしたことがないので――それが幻や霊の類であっても――興味がないと言えば嘘になる、といった程度か。
「でも、それだけ多くの人が出遭っている霊なら、退治されてしまうんでは?」
二人が住む妖怪の山ならいざ知らず、人里で騒ぎを起こす幽霊など、大抵の場合は博麗の巫女によって強制的に除霊されてしまうのが、幻想郷の常であった。
「物騒な言葉の割に、実害はないみたいだし」
自分も同じ質問を小鈴にしたことを、鈴瑚は思い出していた。
「その画家、生前は人付き合いこそ上手い方じゃないが、仕事に関しちゃ真面目で実直だったって話でね――絵描き仲間だけじゃなく、
実際に霊と出遭って、事情を知った他の連中も、どうにか仕事を完成させて、未練を断ち切ってやろうとしてるとか」
ここ最近では、同業者以外にも、描きかけの遺作探しに協力する者が出て来たという話を、小鈴が語っていた。
無理矢理に除霊するのではなく、目的を果たした上で、成仏させようということだ。
そこにはもう「目を奪いに来る爺ぃの悪霊」の姿は、ない。
「そうですか。……よかった」
清蘭はそう言って、柔らかく微笑んだ。
「よかった?」
「はい。だって、悲しいじゃないですか」
自分の右の掌を見つめながら、清蘭は言った。
「何かを一生懸命に作って、それが完成しないまま死んでしまうのも。死んだ後に、やっぱりそれが許されないことだって、誰かに言われてしまうのも」
清蘭もまた、元は鈴瑚と同じ、軍人である。
加えて、前線に送られることが多かった彼女はおそらく、何かを志し、その半ばで散った仲間の姿を、鈴瑚よりも多く目にしてきている。
「だからその絵描きさん、里の人に協力して貰えて、よかったなあ……って」
清蘭の右掌が、ゆっくりと拳の形に握られた。
その中に握り込まれた目に見えぬ感情は、彼女の追憶だろうか。
「清蘭」
鈴瑚は仰向けのまま手を伸ばすと、清蘭の右拳に、己の掌を重ねた。
「……鈴瑚さん?」
「いい子だよね、清蘭は」
自然と、優しい声が唇から零れた。
話に聞いただけの画家に対し、その同業者や、霊と遭遇した人間たちと同じ気持ちを、清蘭は抱いている。
よかった、という一言に、彼女の優しさが集約されていた。
目が合った清蘭の頬が、少し紅く染まる。
「別に、普通ですよ」
恥ずかしそうに目を逸らした清蘭の顔を見上げながら、鈴瑚は彼女とこうして生きていられる今を、改めて尊いものだと感じていた。
清蘭が笑顔になれるのであれば、自分もあの画家の絵の完成を祈ってみるか。
そんなことを、春めいた地上の空気の中で、鈴瑚は思うのであった。
二
最初に画家の霊の話を聞いてから、十日ほどが過ぎた。
晴天の日が続いたことで、この十日ほどの間は、霊の目撃談もなかった。
いっそ自分が画家の霊に出遭おうものなら、未完成の絵の在りかをどうにかして聞き出してみようか――などと考えていた鈴瑚にしてみれば、少々拍子抜けである。
だがここ数日、人里の往来でそうしたことを気にしている余裕が、鈴瑚にはなくなり始めていた。
「……これが、問題の新商品ですか?」
「問題って何よ、失礼ね」
いつものように人里で団子を売り歩いて回った鈴瑚は、昼食を終え、食後の休憩を兼ねて鈴奈庵へ足を運んでいた。
本の返却のついでに、鈴瑚から余裕を奪う「それ」を、小鈴に見せていた。
皿の上に盛られているのは、団子を四つ並べて刺した、いわゆる串団子――それを、柏の葉で包んだものであった。
「一つ聞いていいですか?」
「ん、何でもどうぞ」
「……これ、柏の葉で包む意味、あります?」
これまでにこの団子を目にした、他の大多数の客と同じ台詞を、小鈴は口にした。
「ありよあり、大あり」
何を馬鹿なことを、という顔で鈴瑚は言葉を返した。
「『柏餅団子』なんだから、柏の葉がなかったら成立しないでしょ」
「……そうではない、です」
月にいた頃の上司の口癖と同じ言葉を、小鈴は口にした。
「元々串に刺さってるものを柏の葉で包んでも、邪魔なだけじゃ……」
一般的に、柏餅は、中に餡を詰めた丸い餅を柏の葉で挟み、その部分を持って食べる菓子である。
この葉があることで、餅に直接触れず、手をべたつかせることなく食べられる。
だが、鈴瑚がここ最近里で売り始めた「柏餅団子」は元から串に刺さっており、そもそも前述したような目的での葉を必要としない。
むしろ普通に串を持って食べる場合、柏の葉は邪魔になるのであった。
逆に、無理に葉で団子を挟んで食べようとすれば、串が邪魔になる。
珍しく鈴瑚の発案――大抵の場合、団子作りを担当する清蘭が考える――によって新たに開発された新作団子は、この構造のせいか、ひどく売れ行きが悪かった。
「売れてるんですか?」
「売れてません!」
苦虫を噛み潰したような顔で、鈴瑚は答えた。
自分が考えた商品が売れないということは、これほどまでにもどかしく、焦りを生むものかと、鈴瑚はここ数日、歯噛みしながら里を歩いているのである。
「……でもさあ、今は旬の時期なんでしょ?柏餅」
団子屋の販路をさらに広げるためには、季節ごとのメニュー作りが必要。
四季が目まぐるしく移り変わる穢れた地上において、飲食業を営む者が避けて通れない販売戦略を、当然清蘭と鈴瑚も行って来た。
季節ごとの食文化や、旬の食材の情報を集める目的で、鈴奈庵から借りた本の冊数も、決して少なくはない。
今は四月の半ば過ぎ、端午の節句に向け、菖蒲の花や柏餅が出回る時期であった。
「じゃあ普通に柏餅を売ればいいでしょう」
鈴瑚がこの商品を発案した段階で、清蘭が言ったのと同じ台詞を、小鈴は口にした。「あのね、うちは団子屋なの」
「じゃあおとなしく普通の団子を売ればいいじゃないですか……」
これまた清蘭が言ったのと同じ言葉が、小鈴の唇から紡がれる。
「うぐぐ、前回の桜餅団子はあんなに売れたのに!」
「あー、あれは美味しかったですよ。食べやすかったし」
一口サイズの小さな桜餅を串に刺して出した「桜餅団子」は、少し時を遡った花見の時期に、鈴瑚が里で売り歩いた商品である。
餡を包んだ桜餅を潰さずに串を打つためには、細かい力加減が必要であった。
銃剣の組み立て・解体から甘味の調合まで、様々な場面で正確無比な作業をこなす清蘭の指先により、見事に「桜餅の串団子化」が実現化していたのであった。
これが人妖問わず、大いに売れた。
餡を内包し、葉で包まれているという共通点はあるが、桜餅と柏餅は大きく異なる。
外観は勿論、その味付けや製法、使用する粉の種類など、様々な相違点はあるが、その中でも一番わかりやすいものは「葉を食べられるかどうか」という点であろう。
桜餅を包む桜の葉は塩漬けになっており、餅と一緒に食べることができる。
この点は団子になっても同じであり、前述した柏餅団子の串と葉を巡る問題は、最初から生じることがなかったのである。
ちなみに、桜餅団子は清蘭の発案であった。
「こ、これだって葉っぱを取れば普通に食べられるよ!」
「だからそれなら普通の団子でいいでしょうに」
「じゃあいっそ、柏の葉を別売りにして」
「誰が買うんです、単品の柏の葉っぱ……」
そのようなやり取りをしていると、背後で店の入口の戸が開く音がした。
「何じゃ、騒がしいの」
戸口には、楽し気に鈴瑚と小鈴のやり取りを見つめる、眼鏡をかけた長髪の女性の姿があった。
※ ※ ※
「……なるほど、そりゃあ売れんよ、確かに」
小鈴から話を聞いた眼鏡の女性はくく、とおかしそうに笑った。
彼女は、鈴瑚が足を運び始める前からの、鈴奈庵の常連の一人であった。
飄々とした、知的な大人の女性――そうした印象を受ける美人であり、小鈴も憧れと尊敬をもってこの女性に接しているのが、鈴瑚にもわかった。
時折店や通りで鉢合わせると、大抵団子を多めに買っていく、上客でもあった。
「うーん、ちゃんと餡子も入ってるのになぁ」
串団子に餡で味付けをする場合、外側に餡を塗り付けるのが常である。
中に餡を入れることで必然的に生地が薄くなり、串を通す時に団子が潰れやすくなってしまう。
前述した桜餅団子同様、清蘭の絶妙な力加減と正確な串打ちにより、団子は形を崩すことなく、中に餡を内包したまま串に刺さっている。
「それよ、それ」
「え?」
「もう柏餅っぽさを出すことなどにこだわらず、餡入りの部分を推していけばいい」
それだけでも十分にすごいじゃろ、と女性は言った。
「……柏の葉が無駄になるじゃん」
往生際悪く、鈴瑚は柏の葉の存在意義を守らんと食い下がった。
正確には「自分が考えた、柏の葉の使用というアイデアの意義」であるが。
「やれやれ……なら一旦剥がした後、串団子を渡す時、下に敷いて渡せばよい」
「下に?」
「そうじゃ。柏の葉は元来、食器代わりに使われることもあったもの。敷紙代わりに客に使わせれば、見てくれもそれなりに柏餅っぽくはなるじゃろ」
眼鏡の女性は持っていた煙管を一旦手放すと、皿の上の柏餅団子を手に取った。
丁寧に柏の葉を剥がし、その上に裸の串団子を横たえる形を作って見せる。
「一旦、この形で売ってみい」
女性は小皿を持つように掌に柏の葉を乗せ、串団子を持ち上げて、口へ運んだ。
確かにこの形であれば、葉と串、双方が互いの存在を邪魔し合わない。
「ま、まあ、試しにやってみてもいいかしらね。試しに」
「くくく。……うむ。いつもながら、味は絶品よな」
「それはどーも」
ひとまず、団子の味への賞賛に対しては礼を述べる。
釈善としない気持ちは残るが、販売施策に関する彼女の案は、悪くない気がした。
これで無事に団子が売れれば、改めて礼を言おう――逆に、売れない限り礼は言わないという、我ながら器が小さいと感じる意地が、鈴瑚の中にはあった。
「……あの、それで、今日は」
二人の会話が一旦途切れるのを待っていたのか、小鈴がおずおずと女性に用件を尋ねた。
「おお、そうじゃ」
女性は小鈴に向き直ると、傍の椅子に置いていた風呂敷包みを手に取った。
「頼まれていたものをな、持って来たぞい」
そのまま包みを机に置くと、小鈴の前で風呂敷の結びを解いて見せた。
中から七、八本の巻物が現れ、女性がその内の一本を広げると、縦長の紙に描かれた仏画がそこに現れた。
釈尊を背に乗せて雲の間を泳ぐ、龍の姿を描いた絵であった。
「……これは?」
鈴瑚は絵を指差し、尋ねた。
「残念ながら、高級な掛け軸の類じゃないぞい。複製画じゃな、これは」
他の掛け軸も似たようなものじゃ、と女性は続けた。
「ありがとうございます。ちなみにこの中には――」
「ふむ。儂が見る限り、ないであろうな」
「……そうですか」
小鈴は少しだけ落胆したような顔を見せた。
「龍、か。もしかして、これって」
「おお、さすがにお主も知っておったか。察しの通りじゃよ」
女性が持ち込んだ巻物は、雨の日に里に出現しては人々を騒がせている、あの死んだ画家が生前に描いた、複製画の掛け軸であった。
高級な仏画を家に飾れない中間層の人間のために描かれた、廉価版の絵である。
看板や広告の他に、こうした複製画を描く仕事も、彼は多くしていた。
今も見つからない「描きかけの龍」の探索が困難を極めているのは、こうして様々な媒体で、里のあちこちに彼の作品が散在していることにも起因していたのである。
「一枚くらい、描き損じた絵があるかと思うたんじゃがの。あの絵描き、なかなかどうして仕事は完璧主義であったようじゃな」
惜しい奴を亡くしたものよ、と女性は言った。
小鈴が次々に広げていく掛け軸の絵にはいずれも龍が描かれているが、目が描き込まれていないものは、一匹としていなかった。
「……あんたらも、あの画家の絵を探すのに、協力してたんだ」
「はい。何だか、気になってしまって」
小鈴は少し照れ臭そうに微笑んだ。
聞けば、現在人里の一部の人間の間では、画家の遺作を探す行為が、ちょっとした宝探しのような意味合いを帯び、ある種の流行になっているらしい。
こうした状況では必然的に画家の作品を目にする機会も多くなり、生前に注目されていなかった彼本来の画風が、新たなファンを生んでいるという話もあった。
悪いことではないだろうが、皮肉なものだな、と鈴瑚は思った。
当の画家本人が生前の心残りに憑かれて現世に留まる一方、彼が描いた他の絵の評価が、おそらく当人の与り知らぬところで、高まっている。
そうした評価の機会が生前にもっと与えられていたなら、描きかけの遺作があっても、画家はもう少し未練なく死んで行けたのではなかろうか。
※ ※ ※
「皮肉なもんじゃな」
鈴奈庵を出て少し歩いた後で、眼鏡の女性がそう口にした。
おそらく、先ほど鈴瑚が感じた思いと、同じ感情から出た言葉だろう。
短命な種族の人間にはたまにある、死んだ後に評価が高まる「後付天才のパターン」――それは人外の者から見れば、特にその皮肉さが際立つ。
彼女、二ッ岩マミゾウにとっても、それは例外ではないというわけだろうか。
「……さっきの画家の話?」
「無論」
マミゾウは里で仕事をしている一部の妖怪――永遠亭の兎や、妖怪の山の天狗のような「変装」ではなく、人間に「化ける」ことで鈴奈庵に出入りする化け狸である。
普段は里の外の妖怪寺、命蓮寺に身を寄せている。
「化けて出たことで注目を浴び、そのついでに絵が評価されるというのはなぁ」
人ならざる者同士に働く勘としか言いようがないが、鈴瑚は鈴奈庵で初めてマミゾウと会った時点で、彼女が妖怪であることを見抜いた。
が、敵対する理由もない相手であり、そもそも団子を美味い美味いと食べてくれる上客の秘密を暴くような真似は、当然鈴瑚はしない。
だがその秘密がばれない範囲では、こうして「妖怪」二ッ岩マミゾウに対する態度で接していたし、相手も特にそれを気にしてはいなかった。
波長が合う話し相手、という印象を、鈴瑚はマミゾウに対して抱いている。
「まあ、悪いことじゃあ、ないと思うけどね」
ちなみに人里では、人間に危害を加えない限りは、妖怪本来の姿のままで出入りすることも一応許されている。
人間に忌み嫌われ、恐れられることを気にしない者や、そもそも嫌われないタイプの妖怪(座敷童など)がこれに該当するが、
当初は一応長い耳を隠していた鈴瑚も、何となく成り行きで、こちらのパターンに入ってしまっている。
客商売の団子屋稼業で、人間でない自分が里でそれなりに受け入れられているのは、清蘭の団子作りの腕前と、
ほんの少しだけ――自分の愛嬌によるのだろう、という自負が、鈴瑚にはあった。
人間に変装して薬を売っているというかつての同僚も、もう少し客との会話がうまくなれば、耳を隠さずとも商売ができるだろうに。
そんなことを、思ったりもする。
「それもわかる。だが、ああいうのはの、決して大器晩成とは言わんぞい」
立身出世というのは、文字通り立てるたての「身」があればこそじゃ、とマミゾウは続ける。
「死んだ兵士に勲章をあげるようなもんだものねえ」
幽霊になって現世に留まっても、実際に生前と同じ仕事ができる者など、稀だ。
戦死した仲間が二階級特進する光景を、うすら寒い気持ちで見ていた過去を思い出しつつ、鈴瑚はマミゾウに同意した。
折り紙の兜を被った男児が二人、棒切れを振り回しながら二人を追い抜いて行く。
端午の節句の時期には、床の間に武者鎧を飾ったり、ああして子どもが紙の兜を折って遊ぶということも、鈴奈庵で借りた本に書いてあった。
確か、男児の立身出世を願う武家の祭事が起源であったか。
戦争がない時代に武具を祀る祭事が残るのと同じように、戦争がない世界にも、人の死と、死後の再評価に関わる虚しさはつきまとう。
「……やっぱ、ああいう盛り上がりって、気に食わない?」
「そういうわけではないがの」
マミゾウは咥えていた煙管を口から離し、煙をふうっと吐き出した。
「あの画家も餓鬼の頃にはああして、生きながらの出世を親に望まれていたのかと思うと、少し虚しゅうてな。げに人間と言う奴は、無常を絵に描いたような生き物よ」
煙管で指す先には、走り去っていく紙兜の男児の背中があった。
「……ところで愛煙家の狸さん」
「何じゃ、団子屋の兎さん」
「さっきの子どもが持っていた、あれは何なの?」
鈴瑚はそう言って、棒を垂直方向に掲げる真似をして見せた。
一瞬、マミゾウの言葉と表情が止まる。
「……何じゃお主、柏餅が分かるのに、鯉幟は知らぬのか」
「こいのぼり?」
「それこそ端午の節句の顔、武具に並ぶ立身出世の象徴よ。知らぬのか?鯉の滝登り」
「いやあ、まだまだ地上には知らないことが多くて」
「……地上?」
「何でもない」
一部の相手を除いては、月の出身であることをとりあえず隠している鈴瑚である。
「鯉は流れに逆らい、滝を登って天に至る。その故事に倣い、子が逆境に負けず身を立て、出世していくことを親が願って掲げるものじゃ」
そら、とマミゾウが煙管の先を向けたのは、道沿いの民家の庭。
屋根より高い位置まで届く長い竹竿に、大中小、黒赤青の三本の吹き流しが括りつけられ、空中を水平方向に漂っていた。
見れば、黒赤青の彩りは、吹き流しに描かれた魚の鱗の色であった。
確かに、あの吹き流しを思い切り小さくして、さらに寸詰まりにすると、先ほどの男児が振り回していた棒の先の物体になる。
「人間も鯉も、大抵の場合は生きてせいぜい数十年よ。ゆえに、ああして餓鬼の内から、将来自分の子が名を上げ、出世できるよう願うというわけじゃ」
「ふーん……」
「そして同時に、端午の節句は子の立身出世だけでなく、家系そのものの繁栄も願う」
「あ、それは知ってるわよ」
自分が鯉幟を知らなかったことで、マミゾウが得意げな顔をしているのが少し癪であった鈴瑚は、少し強引に相手の話を遮った。
「柏は、新しい葉の芽が成長するまで、古い葉が落ちない。だから、親から子、つまりお家の存続が途切れ無いように、
っていう願いを込めて、柏餅を食べるようになった……でしょ?」
「おう、流石にそこは知っておるか」
マミゾウはくくく、と笑って言った。
「伊達に柏餅団子は作っちゃいない、ってね」
鈴瑚はマミゾウに向かって、少し胸を張って見せた。
「全く売れておらぬがの」
痛いところを突いたまま、からからと笑いつつ先を歩くマミゾウ。
一本取られた――その悔しさに、鈴瑚は奥歯をぎり、と軋ませる。
「……言ってくれるじゃない」
道端に落ちていた、手ごろな大きさの石を二つ、拾い上げた。
鈴瑚はそれらを両手に一つずつ持つと、かち、かち、と断続的に打ち合わせる。
ちょうどマミゾウの真後ろに張り付く形で、縦に並んで歩きながら。
「……団子屋よ。何をしている」
「別に」
マミゾウが歩き出すと、鈴瑚はまた石を打ち合わせ、かち、かち、と音を立てる。
ひたすらにそれを繰り返しながら、マミゾウの背中を追いかけて歩くのだ。
「……おい」
「ここは人里のかちかち通り。かちかち鳥と言う猛禽類が鳴くことで有名――」
「わかった、わかった。さっきの発言は謝るから、それはやめい」
生理的にというか、遺伝的に「来る」んじゃその音は、とマミゾウは言った。
目尻に涙を溜めて火打石の真似事を続ける鈴瑚をなだめると、マミゾウはいつものように、寺の仲間の人数分、団子を買っていった。
買ったのは柏餅団子ではなく、普通の串団子であったが、マミゾウの案を採用したことで、どうにかその日の分の柏餅団子を売り切ることができた鈴瑚であった。
三
さらに数日が経ち、端午の節句が近づくにつれ、最初は(マミゾウのアイデアがあっても)売り上げが低調だった柏餅団子も、少しずつ売れ足が早まって来た。
発案した商品が売れない、という不安や焦りは解消されたものの、里で団子を売り歩く作業においては、鈴瑚は相変わらず多忙を極めることとなったわけである。
そんな四月の末のある日に――雨が、降った。
強い雨であった。
朝、目が覚めた時には既に大粒で地面に降り注いでいたその雨は、山を下りても、里に入っても、変わらぬ強さで降り続いていた。
天候の割に、売り上げはそう酷く落ち込んだわけではなかったが、シャツの肩口や、草履の上に乗った足の指が濡れていく感触は、お世辞にも心地良いものではない。
いつもより早めに商売を切り上げ、家路につこうとしたところで、鈴瑚はそれと出遭ったのであった。
「……だよね、雨だもん」
人里の近くであれば、門の外にもそれが出るということは、知らなかった。
里を出て、山へ向かう方向へと足を進めた鈴瑚の前に、画家の霊が現れたのである。
怖い、という印象は受けなかった。
噂に聞いていた通り、雨の中、鈴瑚の目の前に登場した幽霊は、青白く、痩せ細った初老の男の姿をしていた。
空に目を向ければ、やはり体が透き通った龍が、雲間を泳いでいる。
一目で、話に聞いていた画家の霊だと分かった。
「初めまして、でいいのかな?」
足音も立てずに自分の方へ近づいて来る幽霊に、鈴瑚は声をかけた。
輪郭が幾分かぼやけてはいるが、顔かたちを視認することはできる。
見覚えがない顔であった。
「わたしはお団子屋の鈴瑚。あなたのことは、鈴奈庵の娘さんから聞いているわ」
甘味の類に興味はなかったか、あるいは鈴瑚が里で商売を始めた頃にはもう、その身体に死の影が差し始めていたか。
いずれにせよ、初対面という認識に、まちがいはないであろう。
「……いきなり兎がこんなこと言って、面喰うかもしれないけどさ」
画家の霊は、既に鈴瑚の二メートルほど先まで近づいてきていた。
目を、目を、という呟きも、噂通りであった。
「あなたの、描きかけの絵の場所を、教えてほしい。里の連中も、知りたがってる」
『……くださらぬか』
「面白半分の奴もいるみたいだけど、皆、あなたの絵を完成させたがってるのは同じよ。あの龍の絵、どこにあるのか教えてくれる?」
頭上を飛ぶ龍を指差しながら、鈴瑚は言った。
『……って、くださらぬか』
鈴瑚の言葉は、霊の耳には届いていないようであった。
これまで恐怖心を抑えて話しかけた幾人かの人間も、彼と会話することができなかったという。これも噂通りだ。
鈴瑚は一度言葉を切り、改めて霊の言葉に耳を傾ける。
『……塗って、くださらぬか』
『目を』
『目を、塗って、くださらぬか』
やはり、里の人間たちの解釈は正しかったと言うべきか。
噂にあった「目を」「くださらぬか」という二つの言葉の間に「塗って」が挟まることで、彼が絵の完成を求めていることを、鈴瑚は確信した――画龍点睛、である。
「塗る。塗ってくれるよ、あなたの仲間の絵描きが」
だから、と鈴瑚は言葉を続けた。
「教えてよ。皆、あの龍の絵を探してるの。それが切っ掛けで、あなたの絵を好きになった奴だっている。場所さえわかれば――」
『目を、目を、目を』
不意に、画家はその手を鈴瑚に向けて伸ばして来た。
最初にこの霊の話を聞いた時の、小鈴の仕草を思い出す。
(まさか――ああいう真似は結局、しない霊だって話のはず)
とはいえ反射的に一歩、間合いを外しながら、鈴瑚は考える。
いつの間にか、空中を泳ぐ半透明の龍は、何かに苦しむように長い身をよじり、滅茶苦茶な軌道で画家の頭上を飛び回り始めていた。
『め、を』
「ああもう、だからその目が欲しかったら、絵の場所を教えろってのよ!」
鈴瑚は語気を強めた。
画家は相変わらずその言葉に何の反応も見せないが、周囲の光景が変わっていた。
雨が、弱まり始めていたのである。
急速に小さくなっていく雨音に鈴瑚が気付いた頃には、画家の身体は風景に溶け込むように、薄く消え始めていた。
雨と共に、この場の空気から消え去っていく、幽霊の姿がそこにあった。
「ちょっと、待ってよ!」
手を伸ばした姿勢のまま薄れゆく霊に、鈴瑚は詰め寄る。
「まだ話は終わってないっていうのに!」
『もう、時間が』
雨音が止まり、霊の姿が完全に消える瞬間。
消え入るような声を、鈴瑚の耳は最後にとらえた。
『もう、時間が、ない――』
※ ※ ※
「あれはよ、一種の地縛霊じゃな」
「ジバクレイ?」
幽霊との、互いに一方通行な言葉の交わし合いが済んだ後で、門の陰から姿を現したのは、変化を解いた二ッ岩マミゾウであった。
助けが必要な場面でないことは一目で理解できたので、鈴瑚とのやり取りをこっそり見物していた――という話である。
『何あんた、わたしのストーカー?』
姿を現したマミゾウにかけた言葉は、鈴奈庵にあった結界の外の雑誌で、最近覚えた単語であった。
『ふふん、この間の意趣返しじゃぞい』
マミゾウはそう言ってにやりと笑ったが、鈴瑚はそんな彼女の出歯亀行為を問い詰めるよりも、先程の霊の様子に対する見解を尋ねることを優先したのだ。
画家の霊が、ひたすら同じ言葉を繰り返すだけで会話が成立しない理由に関して、マミゾウは地縛霊という言葉を用いて説明を始めた。
「死ぬ前にな、ああして強い心残りを持っておった人間が、なりやすい霊よ」
「ふむ」
「死者がその『心残り』に魂を縛られるとな、ただ一つ、そのことだけを考えて、他に何もできない状態でそこへ留まってしまう」
心残りがなくなるまではそこから動くこともできず、生きた人間のように「息抜き」や「気分転換」といった発想に至ることも、無論ない。
「一つの場所へ留まり、延々と同じことを繰り返すだけの哀れな魂よ。その場所から動かぬことを指して『地』縛霊、
自らの想いで自らを縛ることを指して『自』縛霊と、二通りの漢字が当てられることでも有名じゃ」
マミゾウは煙管から伸びた煙を空中で「地」と「自」の二文字に化けさせ、鈴瑚の眼前に浮かべながらそう言った。
確かにあの霊は、里の近辺以外に現れたという話を聞かない。
「こうな、視野が狭くなっとる。生きている人間でも時折そうなるのだから、死して魂が――そうじゃな、一つの心残りに、
言うなれば『純化』された状態では、より一層、他のことが目にも耳にも入らなくなる。そういうことじゃの」
自分の両目の縁に掌を当て、視野狭窄になった人間の状態を表すマミゾウ。
「それじゃ、あの霊から直接絵の場所を聞き出すのは、無理ってこと?」
「十中八九はな」
マミゾウの話には説得力があった――特に、月の都出身の鈴瑚には。
肉体という器を失い、脳による思考や、目や耳を通じた感覚を捨てた魂は、生きている時よりも純粋な「感情の塊」である。
強い怨恨を抱いて死んだ者の魂は、時と共にそれに特化し、凶暴な悪霊となる。
生前の恨みの対象以外であっても、近づく者へ手当たり次第に害を及ぼすのは、その魂が、人間であった時とは異なる「純度を高めた怨恨の塊」であるからだ。
そもそも鈴瑚の故郷である月の都は、もう随分と昔から、そうした恨みや憤怒が精錬された――そればかりか神霊の域に至るまで強大に成長し、
純化した――霊の攻撃に悩まされ続けて来たのである。
その神霊に直接出遭ったことはないが、やはり生前に持っていた分別や、恨み以外の感情の多くを忘れ去り、
一つの目的を完遂するために動く存在となった、という話を、幾度も聞かされてきた。
「……なるほどね」
「空しい話よ。死後の栄光にも、生者の温情にも、あれはもう気付くことさえできん」
マミゾウはそう言って肩をすくめた。
「あ、それとさ」
鈴瑚は、霊が最後に口にした言葉を思い出した。
「そのジバクレイってのには、現世に留まれる時間の制限でもあるの?」
「はぁ?」
「いや、言ってたんだよね。『時間がない』って」
消え入るような声であったが、聴き間違いはないという自信があった。
「時間がない、と来たか。ふむ……まあよい。地縛霊が留まる時間に、制限もクソもないぞい。むしろ下手をすれば未来永劫そこに縛られかねん、無間地獄の責め苦よ」
「だよねえ」
霊の言葉の意味するところが全くわからず、鈴瑚は溜息をつく。
もしや、知らぬ間に廃棄された描きかけの絵が、里の焼却炉で明日にも燃やされてしまう――といったことでもあるのだろうか。
だがごみ捨て場は、里の者たちが相当入念に探した場所だとも聞いており、この状況下でうっかり燃やされてしまうことなど、考えにくい。
折角これまでの噂にはなかった、新たな霊の言葉を聞くことができたのに、多くの者が最も知りたがっている謎は、謎のままであった。
「……それにしても団子屋、お主」
「んん?」
「随分と、この一件に熱を上げておるのう」
マミゾウには相手の必死さを揶揄する様子はなく、純粋にその理由に興味があるという表情で、鈴瑚の顔を覗き込んできていた。
「あの画家の筆に、惚れこみでもしたか?」
「いい絵だなとは、思うけど――わたしは」
改めて考えると、確かに自分はなぜ、あの画家の霊にこれだけこだわっているのか、不思議なことだと鈴瑚は思った。
だが、すぐに一人の人物の顔と言葉が、脳裏に浮かぶ。
『だって、悲しいじゃないですか』
自分と共に、あるいは前線でそれ以上に、あの画家のように志半ばで死に行く仲間を見送って来た少女の寂しそうな笑顔を、鈴瑚は見ていた。
「こういうの、悲しいから」
「悲しい、と来たか」
「うん。わたしだけじゃないよ、きっと」
横たわる謎に答えは出なかったが、自分の心に、一つの答えを出した鈴瑚であった。
受け売りや同情ではなく、自分も清蘭と同じ気持ちを持っていたことに、鈴瑚は今更になって気付いたのだった。
※ ※ ※
暦が五月に変わってからの数日間は、また雨が降らない日が続いた。
端午の節句――五月五日を翌日に控えたこの日、柏餅団子の売れ行きも、一応は需要のピークが近づいたことで、それなりに格好がつくものになった。
空は朝からどんよりと曇っていたが、雨が降り始めたのは、鈴瑚が夕方、仕事を終えて妖怪の山の庵に辿り着く頃であった。
今頃、また里のどこかで、あの画家の霊が目を求めて彷徨っているのだろうか。
庵の壁や屋根を通じて聞こえる雨音を聞きながら、鈴瑚はそんなことを思っていた。
「……清蘭、遅いわね」
普段は、この庵は団子屋の店舗として機能しており、清蘭は店へ直接団子を買いに来る客を相手に商売をしている。
持ち帰りの客は勿論、この場で団子を食べていく客のための椅子と丸机を据え、妖怪の山の茶店のような役割も、この店は果たしているのであった。
早朝からの団子作りに加え、日中、店舗での仕事を一人でこなす清蘭の頑張りには、ただただ頭が下がる鈴瑚である。
その清蘭は、この日は昼過ぎで店を閉め、柏の葉を仕入れに出掛けていた。
明日の端午の節句、柏餅団子の最大の売り時と判断しての行動であった。
「うん?」
外の雨音に、変化が生じた。
雨粒が庵の屋根を叩く音が、より大きく、より速くなった。
雨脚が、強くなってきていた。
「清蘭……」
素の体力は鈴瑚よりもあり、山での暮らしにも慣れて来た清蘭に、大雨程度で何が起こるとも思えない。
だが相棒と比べ、帰りを待つ立場になる機会が圧倒的に少ない鈴瑚は、根拠のない不安に駆られ、無意識に窓へ近寄ってしまっていた。
二人で穢れた地上に残り、この妖怪の山へ住み始めてから、半年以上が過ぎた。
ここ最近、かつての仲間の死を思い起こさせる機会が多くあったことで、清蘭と共に生きていることの意味を、鈴瑚は改めて重く感じていた。
それだけに、大雨で外界と遮断された庵で、一人彼女の帰りを待つ時間は、鈴瑚にとってひどく孤独を感じさせるものであった。
時間の流れが、やけに遅く感じられた。
それでもこの穢れた世界には、変化せぬものも、終わらぬ時間もない。
強い雨音の中に、庵へ近づく足音が混じり始めると、鈴瑚の足は自然と戸口へと向かって行った。
「清蘭!」
勢いよく戸を開くと、そこには蛇の目傘を差した、青い兎の姿があった。
「……ど、どうも。只今戻りました」
鈴瑚が中から戸を開いたことに驚いたのか、清蘭は紅い瞳を丸くして、言った。
「おかえり、清蘭」
自分が里での商売を終えて帰ってくる時、清蘭もこんな風に暖かい気持ちになっているのだろうか――そんなことを考えながら、鈴瑚は相棒を庵の中へ迎え入れた。
「雨、凄かったでしょ?」
「はい。傘の中まで降り込んでくるので、本当に厄介で」
滝みたいな雨でした、と苦笑する清蘭の言葉が、不意に、心に引っかかった。
「ん、清蘭」
「はい」
「今、何て言った?」
何だ、何が引っかかった。鈴瑚は清蘭に、言葉を復唱させる。
「ですから、雨が傘の中に」
「……違うわね。その後」
「ええと――滝みたいな雨、でしょうか」
滝のような雨。
空から、滝のように降り注ぐ雨。
その言葉が意味するところは――何だ?
「滝、雨、たき、あめ……」
――雨の日にだけ現れる者。
――片目がない、半透明の龍。
――見つからない、描きかけの絵。
――消え入りそうな声で口にされた、時間がない、という言葉。
それらが、鈴瑚の脳裏で龍の尾のようにうねり、絡み合う。
「あの、鈴瑚さん?」
首を傾げる清蘭の背後では、今も滝のような豪雨が降り注いでいる。
天から地へ、一様に方向を揃えて。
地から天へ、昇ろうとする者全てを阻むように。
「……清蘭!」
鈴瑚は勢いよく、清蘭の両肩を掴んだ。
「は、はい!?」
絡み合った何本もの龍の尾が、やがて一本へと纏まっていく。
滝のような雨――清蘭の一言が、全ての尾を束ねているのであった。
「やっぱあんた……最高。ほんと、好き過ぎる」
鈴瑚は清蘭の濡れた身体を数秒間強く抱きしめると、部屋の奥へ積まれた貸本の山に向かって、飛びつくように進んでいった。
四
夜が明け、五月五日。
端午の節句である。
雨は相変わらず降り続いていた。
鈴瑚は清蘭から今日の分の団子――この日売り残せば損失必至の、柏餅団子の山――を受け取ると、いつもより早く人里へ下り、開店前の鈴奈庵を訪ねた。
途中、早朝の散歩を楽しんでいたマミゾウに出会えたのは、僥倖であった。
鈴瑚はマミゾウと小鈴を伴い、雨の中、死んだ画家の家へ向かったのである。
※ ※ ※
「お主が思うものが、ここにあるということかの」
人間に化けた状態のマミゾウが、言った。
「……多分ね。というか、これで駄目なら、わたしにはもうお手上げ」
三人は、画家が作品だけでなく画材や、家財道具を保管していた、小さな倉の前に立っていた。
身寄りがなかった画家の死後、この倉は親交があった絵描き仲間の一人が一応の管理を請け負っていたが、
今回、小鈴が事情を説明し、特別に鍵を借りることができた。
錆びついた錠前に鍵を差し、回す。
見た目よりも重い木戸を引いて開くと、黴と埃の匂いが漂って来た。
「絵は、そんなに多くないんですね」
小鈴が言う通り、倉の中には絵よりも、家具や衣服の類が多く見られた。
それらに混じり散在する作品も、絵画より、請け負いで描いていたのであろう、看板や広告と一目でわかる物が多かった。
呉服屋の新装開店を告知する看板。
墨絵で神輿の絵が描かれた、祭の日時を伝える立札。
同じく祭で使われたのであろう、デフォルメされた幽霊や妖怪の絵が何体も描かれた、お化け屋敷の外壁となる板。
掲示や設置の期間が終わった自身の作品を、画家はこの倉に保管していたのである。
龍の絵の捜索が始まり、人々が最初に探りを入れたのも、この倉だ。
目当ての絵がないとわかってから、今日まで倉の戸は閉ざされたままであった。
「して団子屋、裏付けは」
「とれるわけないでしょ。そんな時間、ないわよ」
鈴瑚はそう言いながら、倉の中へ踏み込んだ。
自分が昨晩出した一つの「答え」となるものが、ある。
明確な根拠はないが、その確信はあった。
「じゃ、蝋燭よろしくね」
「あ、はい」
小鈴は鈴奈庵から持って来た片手持ちの小さな燭台を取り出すと、その上の蝋燭にマッチで火をつける。
雨が倉の中へ降り込まぬよう、戸を閉めて作業を行うためだ。
蝋燭の頼りない灯に照らされた画家の遺品の数々は、どれもどこか寂し気な雰囲気を放ちながら、倉の中のそこかしこに鎮座している。
「……あれ?」
鈴瑚に続いて倉に入り、戸を閉めた小鈴が、何かに気付いた。
すぐに鈴瑚とマミゾウも、その「何か」に気付く。
誰もいるはずがない倉の中から断続的に響く、物音であった。
かたかた
かたかた
その音は、倉の最奥部に据えられた、棚の下部から聞こえていた。
小鈴がその方向へ燭台を向けると、蝋燭の灯が動く物体を一つ、照らし出した。
棚の一番下の段にある、両手で抱えられる程の、木箱。
その木箱が勝手に動き出し、かたかた、という音を立てているのであった。
「……あれか!」
鈴瑚が思う答えは、まさにその木箱の中にあった。
蠢く木箱を強引に掴み、その蓋をこじ開ける。
果たしてそこには――鈴瑚が推察した通りの物が、しまい込まれていた。
「それって――」
鈴瑚が箱の中から持ち上げたそれは、折りたたまれた、黒く、長い布であった。
画家が描いたのであろう、魚の鱗めいた模様が見える。
「そうだよ、この時期ならでは……なんでしょ?」
小鈴に向けて、鈴瑚は木箱の中身を広げて見せた。
それは吹き流しに使うような長い筒状の布――それに、鯉の鱗と顔を描いたもの。
黒を基調とする真鯉をモチーフにした、手描きの鯉幟であった。
「ご覧の通り、瞳が最後まで塗られてない。まさに、画龍点睛を欠く」
鈴瑚が示した通り、その鯉幟――おそらく、画家が生前に請け負った仕事の中で、完成を待たずに倉の奥へしまい込まれた、未完の絵――は、
左目の瞳が最後まで描かれることがないまま、木箱に折りたたまれて保管されていた。
赤、青、黄、黒など、色が異なる円を幾つか重ねる形で描かれる鯉幟の瞳は、顔の右側の目では、一番内側の黒色までしっかりと塗られている。
一方左側の目は、最後の黒色が塗られないままで、瞳の彩色作業が止まっていた。
「……なるほど、見つからんわけじゃ。龍ではなく」
畳まれた鯉幟は鈴瑚の手の中で、自らゆっくりとその身を伸ばしていた。
この布が勝手に動き出し、木箱を揺らしていたことは明らかである。
「そう、龍になろうとするもの。龍になるために、滝を登って天を目指すもの」
それが、鈴瑚が出した、画家の頭上を飛び回る龍の正体であった。
龍ではなく、鯉の絵。
それも掛け軸や額縁の中ではなく、本物の空――天を泳ぐ鯉である。
「でも、どうして鯉幟だと……」
「一つには、あの画家が言った『時間がない』って発言、かな」
小鈴の疑問に、鈴瑚は人差し指を立てて答えた。
「描きかけの絵を完成させる上で、タイムリミットがあったのよ。締め切り、納期……まあ、言い方は色々あるけど。
要するに、未完成の龍は、誰かに頼まれて描いていたものじゃなかったのかな、って、わたしは思った」
あれだけ多くの人間が探しても「未完成の龍の絵」が見つからぬ一方、最初から半ば無視されていた「絵画以外の作品」――看板や祭具、
広告などにあの龍の正体があるのではないか、という推測を、鈴瑚は立てていた。
「この日までに描き上げてくれ、みたいな依頼があったんじゃないかってね」
無論その推測だけでは、件の作品が「請け負いの仕事」だと断定はできない。
だが、マミゾウから聞いた鯉幟の由来と、昨晩の清蘭との会話から、鈴瑚は己の「推測」を「仮説」の域まで肉付けすることに成功した。
「画家の霊はそう言いながら、ここ一週間で明らかに出る頻度が上がっていた。五月が近づくことで、絵の締め切りがやって来る、って言わんばかりにね」
そしてまさに今日この日、端午の節句を迎えた。
「……それだけで、その絵が鯉幟だと踏んだというわけか?」
「もう一つ。霊も、龍も、雨の日にしか現れないからよ」
鈴瑚は天に指先を向け、倉の天井の向こうに広がる空を指す。
「空を川にたとえるなら――雨っていうのは、滝なんじゃないかって」
文字通り「滝のような雨」という清蘭の一言が決め手であった。
雨が空に落ちる滝であるならば、その滝を上り龍になるのは、空の川を泳ぐ鯉。
すなわち、天へ昇り龍となる故事になぞらえ、立身出世の象徴として空に掲げられる魚の絵――鯉幟こそが、あの龍の正体ではないか。
マミゾウに教えられた情報がなければ、清蘭が与えてくれたヒントがあっても、その考えには至れなかったであろう。
「龍になりきれぬ半透明の龍、それは片目という理由だけではなく――」
「最初から、龍ではなく、龍になる前の生き物が描かれた絵だったから」
鈴瑚の手の中で、鯉幟は本物の魚のように身をよじり、震わせていた。
明らかに、ただの絵ではない。
無機質な布と塗料からなるその物体が、生きていた。
だがそのこと自体には、マミゾウも小鈴も、鈴瑚も驚きはしない。
使い古されたままに放置された道具や、理不尽に捨て去られた人形などが命を得て、
ひとりでに動き出す妖怪――付喪神の存在は、幻想郷ではそう珍しいものではない。
付喪神が生まれる経緯は道具ごとに様々であるが、無生物の存在にすら命を宿す、地上の「穢れ」がいかに濃いものであるかを象徴するような種族であった。
鈴瑚自身も、地上に住み始めてから、そうした妖怪を幾度も目にしている。
「でも、鯉幟はずっとこの倉に、しかも箱入りでしまわれていたんですよね?」
「付喪神の幽霊……いや、生き霊とでも言うべきかの」
「その解釈で、いいと思う」
鈴瑚は改めて、この鯉幟が一連の騒動を起こすに至った経緯に関する、自身の推測を二人に説明した。
おそらく、画家が死んだ段階で、この鯉幟は畳まれ、木箱に閉じ込められた。
完成を待たずに死んだ画家の未練か、はたまたこの鯉自身の無念か、あるいはその両方によってか――左目が未完成の鯉幟は、箱の中で付喪神として目覚めた。
が、妖怪となったばかりで弱い力は、倉どころか木箱から己を解放する力さえ、持っていなかった。
迫って来る端午の節句、最早この世にいない生みの親、一向に描き込まれることがない左の瞳――様々な要素が、
まだ鯉幟としても不完全なこの付喪神の「肉体」から、半透明の霊体として魂を解き放つに至ったのである。
「絵としてすら未完成の鯉が、既に龍の魂を宿しているとは」
気高い魚じゃ、と言いながら、マミゾウは鯉のぼりの鱗模様に触れた。
「じゃあ、あの絵描きさんの幽霊は、もしかして」
「やりかけの仕事に未練があったのは、間違いないと思う。でもそれ以上に、
ああして空の上で暴れてる自分の絵――このお魚が可哀想で、いつも一緒に現れたのかも」
正確にどちらが先であったか、今は知る由もないが、先に化けて出たのは画家ではなく、この鯉の絵の霊であったと言われても、合点が行く話ではある。
「どっちにしても、この鯉幟に目を描いてあげなきゃね」
鯉幟は既にその長い身体を伸ばしきり、倉の中の空気に頭と尾をゆったりと漂わせている。
雨雲の中で荒ぶっている片目の龍の姿とは結びつきにくいが、あの画家が遺した作品の中で、現状おそらく唯一の、ようやく見つかった「画龍点睛を欠く」絵である。
「それでもあの画家が納得せんかったら、何とする?」
「それは……ま、その時考えましょ」
やや意地悪な質問をしてきたマミゾウであったが、鈴瑚の立てた仮説を疑っている様子ではなかった。
「くく。まあ、今日のこの日に天へ上りたくない鯉など、おらんじゃろうな」
今日の内に絵を描き込み、空へ掲げてやる必要があった。
大元の依頼人がすぐに見つからずとも、それだけは急がねばならない。
「わたし、絵描きさんたちに知らせてきます!」
小鈴は嬉しそうな声でそう言うと、早足で倉の入口へ向かった。
そのまま戸口に手を掛けたその姿を見て、マミゾウが顔を強張らせた。
「いかん小鈴、待て――」
しかしその言葉は、戸を開く小鈴の手を止めるには、数秒程遅かった。
そしてその数秒間で、戸口から流れ込んで来たものがあった。
早朝の曇り空の、弱々しい光。
強い雨の音。
湿気を含んだ空気。
それらが生暖かい風に乗って倉の中へ入り――鈴瑚の手の中の鯉幟に、触れた。
おそらく画家が死んでから今日まで、この魚が求めてやまなかった、天へと続く風の道が、そこに開かれていた。
鈴瑚の手の中の布が、不意に大きくたわみ、その指先から逃れた。
そのまま空中で何度か身をよじると、一気に戸口へ向かって泳ぎ進んだ。
「小鈴っ、戸を閉めいっ」
その言葉もまた、小鈴の手を動かすには、遅い。
僅かに開いた戸の隙間――龍は勿論、本物の真鯉ならば稚魚くらいしか通れないような狭い幅の――をあっという間に通り抜け、巨大な片目の鯉は、倉の外へ出た。
「まずいわね……」
待ちに待った端午の節句のこの日、空には滝――雨が降り、木箱は開かれ、倉の重戸もついに外に向かって開かれた。
だが、肝心の鯉の絵は未だ「画竜点睛を欠いた」ままである。
まだ鯉にすらなりきれていない鯉幟の付喪神は、このまま空へ泳ぎ出したところで、龍になれるのだろうか。
そもそも結局絵が完成しないままであれば、あの画家の霊が納得しないだろう。
『目を、塗ってくださらぬか』
という画家の願いを叶えるには、再びあの鯉を捕まえる必要があった。
「あの、わ、わたし」
小鈴はまずいことをした、という顔で声を震わせていた。
「……何、気にするな。お主は自分が言った通り、画家連中にこのことを知らせよ」
マミゾウは小鈴の頭に優しく手を置くと、改めて戸を開いた。
赤い蛇の目傘を開き、その手に握らせる。
「すみませんっ!」
小鈴はそれだけ言って頭を下げると、雨が降る通りへ走り出して行った。
「さて、団子屋よ」
「うん。追いかけなきゃね」
既に大分離れてはいたものの、支柱もないままに空を縦横無尽に泳ぐ鯉幟など、人里広しと言えど、一匹しかいないのであった。
※ ※ ※
里の大通りでは、起き出してきた人間たちが空を見上げて騒いでいた。
端午の節句、あちこちの民家から見える幾つもの鯉幟の中で、一匹だけ、本物の鯉のように自ら動き、泳ぎ回っているものがいるのだ。
何の妖怪だ、怖い、巫女を呼んで来い――そうした言葉が聞こえる中、鈴瑚とマミゾウは片目の鯉幟を追いかけ、人だかりが一番大きい場所へと辿り着いた。
鯉は相変わらず動き続けているものの、その場所からの移動は止めた様子だった。
降り続く雨の中、上へ、上へと泳ぎ、ある一定の高さまで行くと、力尽きたように下方へと落ちる。
そのまま地面に落ちることはなく、また体制を立て直し、天へ向かう。
だが何かに阻まれているかのように、鯉幟はやがて落ちて来る。
その一連の流れを、繰り返していた。
その姿は流れに逆らって滝を上るも力及ばず滝壺へと落とされ、その度にまた滝へと挑んでいく鯉そのものであった。
手描きの鱗や顔は耐水性の塗料で描かれていたのか、雨水で落ちたりはしていない。
挑戦を繰り返すその泳ぎも、力強いものであった。
だが、鈴瑚の目にはどうしても、天の龍門は、あの鯉に向かって開かれていないように見える。
理由は一つ――あの鯉幟はまだ完成していない、鯉としてすら未完成な存在。
その魂ですら、点睛を欠いた画龍の、不完全な姿のままだったではないか。
「やはり、天を目指すかよ」
「あのままじゃ無理よ!一旦捕まえて、瞳を入れてやらないと」
画龍点睛の故事を小鈴に聞かされた時のことを、鈴瑚は思い出していた。
あの鯉幟が本当に龍になれるかどうかは兎も角として、この状態は、画家も、絵の完成を願った者たちも、誰も望まないものであった。
このまま雨が止み、端午の節句が終われば――あの鯉は動きを止めるだろうか。
妖怪としての力を失い、描きかけの絵が放置されたままの、黴臭い布に戻るか。
それはひどく悲しいことに思えた。
もしくは絵としての完成を迎えられず、端午の節句の空を彩るという、鯉幟本来の役目も果たせずに終わったことを怨み憤るか。
その果てに、さらに強力で凶悪な妖怪になり果てるのだろうか。
それもひどく悲しいことだと、鈴瑚は思った。
「しかし、里の人間どもには無理じゃぞい」
「……一応わたしも、飛べはするけど」
空中であの鯉を捕獲し、地面に押さえつけて、小鈴が呼んだ画家に目を入れさせる。
理屈の上では簡単だが、少しでも手荒にすれば布が破けたり、模様を汚したりする危険性があった。
それで鯉の絵に瞳の黒が入っても、果たして「完成」と言えるかどうか。
「かといって、里以外の人間ではのう」
「退治しちゃうでしょうね。その後はお焚き上げしてサヨウナラ、と」
あれが里で少なくない人数の人間から同情を得ている画家の絵だということを説明しても、ああして付喪神として暴れ出した以上、巫女の目には留まるだろう。
まして場所が里の中である。
起こしている騒ぎの規模から考えれば、手荒な手段を用いた鎮静化は、十分に正当化されてしまえると見える。
そうしたことがわかる程度には、自分もこの里に馴染んだのだな――そんなことを考えている場合ではないことに、鈴瑚は気付いた。
「……うーん、描くしかない、かなぁ」
「何じゃて?」
「このまま描くしかないかしら、目」
事態を早急に収め、かつ手荒な手段で絵を駄目にしてしまわない方法。
鈴瑚は空を見ながら、一つだけそれを思いついた。
「協力してくれる?今日の分のお団子、タダでいいわよ」
「それは有難いが、このまま描くとは――そも、誰に目を描かせる気じゃ、お主」
鈴瑚は黙って、指先を自分の顔に向けた。
「……お主、団子売りのみならず、絵描きの心得もあったんか」
「ないよ。でもまあ、目くらいなら、なんとか」
思いついた作戦をマミゾウに伝えながら、鈴瑚はその内容にこう思っていた。
つくづく、これは自分よりも、清蘭の領分だな、と。
※ ※ ※
鈴瑚は通りから二百メートルほど離れた物見櫓の上に立ち、未だ天への滝登りを止めない鯉幟を見ていた。
傍らには、先ほどマミゾウに用意させた数本の絵筆と、黒い絵具を溶かした瓶、そして串団子を数本乗せた柏の葉が、一枚置かれている。
鈴瑚は串団子を一本手に取ると、それを自らの口に運ぶ。
一噛みで薄い餅の皮が破れ、餡の甘みが舌の上に広がる。
月の都にいた頃から大好きであった、清蘭が作る餡団子の味であった。
微かな柏の葉の香りが、鼻孔の奥を心地よく刺激する。
美味い――ひたすらにそう感じながら、鈴瑚は次々に団子を咀嚼し、喉の奥へと飲み込んでいく。
今頃、清蘭は山の住人達への対応で大忙しだろう。
彼女の団子は、本当に美味い。
世界で一番、いや、宇宙で一番美味い。
清蘭の手は、銃剣を握り、異次元の弾丸で敵を撃ち殺すのではなく、こうして美味い団子を作るものであってほしいと、鈴瑚は思う。
柏餅団子が当初抱えていた致命的な問題は解決済みだ。
多くの妖怪が、彼女の作る団子を求めて庵にやって来るだろう。
「わたしも、さっさと仕事にとりかからなきゃね」
これからしようとしていることは、自分よりも清蘭が得意な作業である。
だが、テレパシーを使って里まで呼びだすことは、しなかった。
自分と彼女が――月の都の軍人ではなく、穢れた地上で暮らす、しがない団子屋の二人が――今日のこの日にするべき仕事を、わかっているから。
するべきことを、できないままに終わるのは、悲しいこと。
鈴瑚はそんな悲しみを清蘭に背負わせたくはなかったし、今この場所でそれに苦しんでいる画家とその絵を、悲しみから解放したいと思った。
だから、自分が、この場で終わらせる。
鈴瑚は思いながら、体温が上昇していくのを感じていた。
団子から摂取した栄養分は内臓から吸収され、急速に勢いを増す血流によって、身体の隅々まで運ばれていく。
視界が広くなり、遠くの景色の輪郭が明確になり、鮮明に色味を増す。
大通りの喧騒、雨音、湿気、あらゆる刺激に対し感覚が鋭敏になる。
筋肉の繊維は太く肥大化しながらも、柔らかくしなやかな動きで駆動を始める。
胃の中の団子の消化が進むほどに、鈴瑚の身体能力は全ての面において、強烈かつ急速に活性化されていくのであった。
団子を食べるほどに強くなる程度の能力――他のどんな玉兎にもない、鈴瑚の力。
たった今口にした団子は、合計で八つ。
それらが完全に消化・吸収され、体内で栄養素として使い尽くされてしまうまでの間に限り、鈴瑚は己の動体視力、筋力、
指先の感覚の鋭さ、その他身体機能の全てを、並の玉兎の百倍近くまで引き出すことができる。
「……清蘭なら、一発で決めるんだろうけど」
鈴瑚はそう言いながら絵筆を一本手に取り、その先を黒い絵具に浸した。
筆先の白い毛の束が、すぐにつやのある黒に染まる。
鈴瑚はそれを右手に持ったまま、槍を投げるように腕を引く。
左手と、視線の先が向けられるのは、落ちては登りを繰り返す鯉幟――その顔の一部、瞳が描かれず空白となったままの、左目である。
限界近くまで視力が強化された鈴瑚の目には、鯉幟の姿が間近にあるかのように、細部まで鮮明に見える。
黒い鱗を縁取る金色の塗料や、うねりを繰り返す布の表面に寄った皺の一本一本、そして瞳の一番内側が白抜きになったままの、左目。
鈴瑚は櫓の上から絵筆を投擲し、鯉の左目に色を入れようとしていた。
近寄って捕まえようとすれば、おそらく鯉は抵抗する。
かといって、宙を動き回る布を追いかけて飛び、その場で瞳を描き入れる作業をするのは、至難の技であった。
同じく困難を極めるが、筆先を一瞬、正確に鯉の左目に触れさせることで、そこに色を付けるという一種の「狙撃」の方が、自身にとってやり易いと鈴瑚は感じた。
付喪神と化した鯉幟を、そうと認識させる暇も与えないまま、完成させる。
団子の身体能力強化により、一定時間であれば、イーグルラヴィが誇る腕っこきの狙撃兵(スナイパー)を遥かに上回る精密射撃が可能となる鈴瑚ならば、理論上それは可能だった。
失敗は許されない。
誤って別の場所に絵具をつけてしまえば、それは絵の完成度に対し致命的な損害を与えることになるし、鯉が攻撃を警戒し、また逃げ出すことも考えられる。
また、あまり強く筆を投擲しすぎると、今度は布を突き破る危険性もあった。
絵筆を数本、マミゾウに集めさせたが、二本目を投げる機会はおそらくない。
いずれにしても求められるのは、正確に鯉の左目を狙い撃つ射撃の腕と、筆があくまで「左目に色を入れる」目的だけを達成する、絶妙な力加減。
団子による身体能力強化がなくとも、異次元から弾丸を自在に召喚して発射する力と、薄皮の餡入り団子を潰すどろか、
形一つ崩すことなく串を打つ精密さを誇る清蘭の方が、明らかに向いている作業であった。
だがこの場では、自分がやらねばならない。
改めて、ここまで入れ込む必要がある話か――という疑問が脳裏をよぎるが、今の鈴瑚に、ここから退くという選択肢はなかった。
「ったく、少しはおとなしくしなさいよね」
一瞬だけ閉じた瞼の裏に、悲愴な顔をした画家の顔と、片目の龍、そして清蘭と、何かをやり残したまま死んでいった、幾人かの同胞の顔が浮かんだ。
「悲しいのはっ」
鈴瑚が大きく目を見開いた。
肩に、肘に、指先に籠もる力を、一刹那の間に体感一ミリグラム単位で調節すると同時に、その視界の中心に鯉幟の左目――その瞳の奥の空白をとらえる。
高みへ登り、空に阻まれ、一度低い場所まで落ちて来る、その時が機会である。
「嫌でしょうがっ!」
鈴瑚はその姿勢から、体幹から四肢の末端、頭頂に至るまで、あらゆる部位に余計なぶれを生じさせない正確な動きで、絵筆を投擲した。
物見櫓の上から真っ直ぐに飛んだ絵筆は、雨の中を鯉幟に向かって勢いよく飛び、その左目に黒い先端を向けながら――しかし、徐々に減速していく。
鈴瑚は高まった視力で、思い通りの方向と速度へ絵筆が飛んだことを確認した。
「……よっし」
絵筆の先が空虚な白い場所へ触れる、そう思った瞬間。
鯉が、明らかに不自然な方向へ頭を倒した。
絵筆は鯉の頭があった空間を、そのまま素通りした後、完全に速度を失い、地に落ちて行った。
「……何!?」
鯉幟が、自らとったような動きではなかった。
確かにあれは布、自由自在に折り曲げられるが、あの鯉幟はそれこそ本物の鯉のように空を泳いでいたのである。
それが、急に外部から力を加えられたかのように、宙で頭を折り曲げた。
幸い、絵筆の先が別の場所に触れることはなかったが、明らかに不測の事態だった。
団子によって強化された視力は、まだ生きている。
鯉幟を見れば、先ほどの不自然な動きの原因は、すぐにわかった。
「冗談でしょ……!」
鯉幟の下に集まった人だかりから、石が投げられていた。
重い石が当たれば、布は当然、その方向に折れ曲がる。
先ほどの動きは、やはり鯉幟自身の意思によるものではなかった。
当初、あの鯉を妖怪だと――最早全く間違ってはいない解釈ではあるが――判断し、怖い、巫女を呼べと口にしていた人間がいたことを、鈴瑚は思い出していた。
突然ひとりでに動き出し、里の上空を飛び回る鯉幟を不気味に思う人間がいることなど、考えてみれば当たり前であった。
まだまだ、里に対する理解が足りない――鈴瑚は舌打ちしながら、二本目の絵筆を手にした。
まだ団子の効果は続いている。それはいい。
だが、幾人かの人間が投げて来る石による不規則な動きは、先ほどと比べ、狙いを定める難易度を大いに高めてしまっていた。
視力と同じく強化された聴力は、鈴瑚の長い耳に人々の声を届けてくる。
――化け物め、里から出て行け。
――子どもの日に、子どもを怖がらせやがって。
「まずい、まずいぞ、これ……」
事情を知る小鈴が必死に叫び声をあげて、石を投げる人々を制止しようとする声も聞こえるが、石を投げる者たちの罵声の方が、明らかに多く、大きい。
石が強く当たれば、布が破れ、模様が削れることもある。
そうなれば、仮に絵筆の投擲が成功しても――あの画家が、石を投げている者たちの中にも、今はファンがいるかもしれない、哀れな画家が――悲しむだろう。
鈴瑚の心に焦りが生まれる。
研ぎ澄まされた神経が先端まで通っているはずの指先が、小刻みに震えはじめた。
どうする。どうする。一度通りへ戻り、人間たちを鎮めるか。
今の脚力なら――いや、それでも通りは、遠い。
唇を噛んだ鈴瑚の視界に、鯉幟へ向かって一斉に投げられた石が見えた。
万事休すの四文字が、脳裏に浮かぶ。
「――ここは人里大通り、誰が呼んだか、かちかち通り――」
その呟きを、強化された聴覚がとらえた瞬間であった。
空に舞った無数の石礫の全てが、ぽん、という間の抜けた音と共に、小さな鳥の姿に変わった。
小鳥たちはそのまま鯉幟の周りを飛びつつ、嘴から乾いた音を響かせた。
かちかち
かちかち
鳥たちは嘴を打ち鳴らし、変わらず天を目指す鯉幟を守るように、一緒になって雨雲へ向かって飛んでいく。
「――身体こまいが猛禽の、その名呼ぶなら、かちかち鳥――」
人間たちは、突然起きたさらなる怪現象に、呆気にとられたように空を見上げるばかりであった。
石を投げる者も、その内の一人の腕に飛びついて制止に入っていた小鈴も、皆一様に手を止めている。
やがて鯉幟の周囲を飛んでいた小鳥の群れがゆっくりと散開し、どこへともなく飛び去って行くと――残ったのは雨の中、
やはり一定の高さまで登って力尽き、ゆっくりと高度を落としてくる、鯉幟の姿。
それは雨粒の他に遮る物も、邪魔をする者もない状態で、白抜きの瞳を晒したまま、ゆっくりと鈴瑚の視界に降りて来る。
互いの視線が合ったような錯覚を、鈴瑚は覚えた。
だがそれは、あくまで錯覚。
あの鯉の左目は、きっとまだ、見えないのだから。
「……ったく、うちは本当に」
指先の震えは止まっていた。
視界の中心に捉えたその白い瞳に向け、鈴瑚は再び、筆を投げる。
「客に恵まれてるわね!」
筆先の黒い絵具が、吸い込まれるように白い空白を埋めるのを確認した瞬間。
二度目の投擲にその全てを費やされた団子の効果がゆっくりと切れていくのを、鈴瑚は感じていた。
五
雨が上がったのは、日が暮れてからのことであった。
「……そうですか」
庵に帰った鈴瑚から一通りの話を聞き終えた清蘭は、安堵した声で言った。
既に二人は遅い夕食を食べ終え、この日の団子の売上の勘定作業に入っていた。
「清蘭のお陰よ」
鈴瑚は卓袱台を挟んで座る清蘭に微笑んだ。
「わたしは、何もしてないですよ」
清蘭は、照れ臭そうに視線を逸らした。
「そんなことない」
雨を滝になぞらえるというヒントだけではない。
自分があの画家に対して感じていた悲しみに気付かせてくれたのも、清蘭だった。
「あの鯉幟が、天に登れたのも、きっと」
左の瞳に色が入った鯉幟は、それまでと同じように天へ上り、そのまま雲間へ消えた。
越えることができなかった高さを越え、雨の滝を上りきった。
その後、あの魚が龍になれたかどうか、鈴瑚には知る由もない。
『何とも、判断がつかぬ話じゃなあ』
通りに戻って礼を述べた時、マミゾウはそう言った。
『付喪神が龍になった前例など、ないからの――』
博識な彼女にも、あの鯉幟の行く末は見当もつかなかった。
ただ、あの魚は間違いなく、天へと登った。
それだけは、誰の目にも明らかな事実なのであった。
「ところで鈴瑚さん」
「ん、何?」
「売り上げが足りない気がするんですけど……」
この庵で清蘭が売った分、鈴瑚が里で売り歩いた分、いずれも、この日に仕込んだ全ての団子を売り切ることができた。
だが、卓袱台の上に広げた売上金の合計が団子の数と合わないと、清蘭は言う。
「あ、ああー、それね」
鈴瑚は頭を掻きながら答えた。
「さすがにマミゾウたちには、サービスしなきゃと思ってさ……」
倉での鯉幟探しへの協力に始まり、絵筆の準備、さらに土壇場で機転を利かせたマミゾウの活躍がなければ、鈴瑚の作戦は失敗に終わっていた。
里の人間たちが鯉幟に石を投げた時、マミゾウはそれらを鳥に化けさせ、鯉幟を守ったばかりか、筆を投擲するための視界確保に協力したのである。
一発目の投擲の失敗、鈴瑚が立たされた窮状、いずれをもあの場で即座に察して対応したマミゾウの洞察力には、さすがに鈴瑚も脱帽した。
『今日の分のお団子、タダでいいわよ』
当初の約束通り、この日の団子を無料で渡すことに異論はなかった。
なかったのだが――その数において、マミゾウには欠片ほどの遠慮もなかった。
普段買っていく寺の仲間の分に加え、参拝しにくる子どもたちへ配ると言ってマミゾウが口にした団子の本数は、この日の売上の実に四分の一に相当するものだった。
これに小鈴の分も加えた、相当な大盤振る舞いをしたことになる。
「いやあ、マミゾウの奴、ここぞとばかりに持って行っちゃってね」
参ったわよ、と言いながら鈴瑚は苦笑した。
「……最近よくお話に出てきますよね、その、狸のお客さん」
「そう?」
そんなに頻繁に話しているかな、と首を傾げつつ、鈴瑚は清蘭の声が少しずつ低くなっていることに気付いた。
あまり機嫌が良くない時の声だな、と心中で舌打ちする。
感謝の印とは言え、少々サービスしすぎたか。
「ま、まあ今日は少し赤字が多かったけど、その分今後も贔屓にしてくれるからさ、マミゾウは。悪い奴じゃあ、ないよ」
「……名前で呼び合う仲、なんですか」
「え?」
「何でもないです」
清蘭はそれだけ言って、売上金の勘定を再開し始めた。
どこか重苦しい空気が、二人の間を流れる。
「怒ってる?ごめんね、今度から値引きの時は、ちゃんと清蘭に相談を」
「別に、怒ってません!」
鈴瑚の言葉を遮るように、清蘭は声を強めた。
まとめた売上金を金庫代わりの鍵付き木箱にしまうと、清蘭は席を立つ。
「清蘭?」
「明日のお団子の仕込みをします」
「え、もう?」
急ぎ足で調理場へ向かう清蘭の背中に、鈴瑚は声をかけた。
「売り上げを取り戻さないといけませんし。明日は今日の倍、お団子を売ってきてくださいね、鈴瑚さん」
「えぇ?ちょっと待って清蘭、明日は特に何もない日なんだけど」
明日は端午の節句の柏餅需要のような、特別な販売チャンスがある日ではない。
まして今日の倍の数を売り上げるなど、到底現実的な話ではなかった。
「じゃあ、その分いつもより頑張ってください」
鈴瑚の方を振り向かないまま、清蘭は冷たく言い放った。
「……やっぱり怒ってるよね?清蘭」
「怒ってません」
「うう、ご、ごめんってば!もう勝手に無料サービスなんてしないから」
「だーかーら、怒ってません!」
調理場に立った清蘭の背中は、最早どのような弁解も謝罪も受け付けない、という強い意志を放っているように、鈴瑚には見えた。
一難去ってまた一難、鈴瑚は頭を抱えることしかできない。
「……そっちじゃないもん」
最後に清蘭がそう呟いた言葉も聞き逃す程に、困り果てた鈴瑚なのであった。
※ ※ ※
五月五日を境に、死んだ画家と、片目の龍の霊が里に現れることはなくなった。
探し続けられていた「未完の絵」があの鯉幟であったことも、本居小鈴の懸命な説明が功を奏し、少しずつ人々の中に広まっていった。
早朝に起きた鯉幟の騒動のせいか、端午の節句の間も、画家の霊を見た者はいない。
画家がこの結末に納得したのかどうか、それを直接確認できた者もまた、いない。
それでも雨の日に画家の幽霊が出ることはなくなったことと、さらに後から語られたある情報により、一連の騒動は「終わった」ものと解釈されていた。
鯉幟の左目に黒い瞳が入り、ついに天の高みへと登っていく瞬間。
その背中に乗って、鯉と共に雨雲の中へ消えて行く画家の姿を、複数の人間が目にしていたという。
一時は山を埋め尽くさんばかりに咲いていた桜が、今はすっかりその花弁を落とし、鮮やかな緑色の葉を風に晒している。
新緑であった。
季節が春から初夏へと向かおうとするこの時期、時折夏の匂いすら感じさせる風が、真新しい葉桜を揺らし、空を渡っていく。
鈴瑚は小さな庵の縁側に茣蓙を敷き、身体を横たえ、その光景を見ていた。
昼下がりの風に、初春の冷たさは、もうない。
春らしい、心地よい生暖かさを、鈴瑚はそのふくよかな頬の表面に感じていた。
「……春だねえ」
随分と月並みな台詞しか出てこないな、と心中で自嘲しつつも、鈴瑚はこの小さな庵の庭に広がる光景を見れば、誰もがそう口にするだろうと思った。
それ程に、春。
桜の頃を過ぎたこの時期、新緑の季節こそが、生命力に満ちた地上の春を最も雄弁に主張しているのではないかと、鈴瑚は思う。
「春ですねえ」
そう答えたのは、鈴瑚と同じ茣蓙に腰を下ろした清蘭であった。
ただし清蘭は、鈴瑚のように身体を横たえてはいない。
縁側に座った清蘭の太腿の上に、横になった鈴瑚が頭を乗せている。
膝枕――鈴瑚は清蘭の引き締まった太腿の感触を楽しみながら、庭一杯に広がった春の景色を堪能しているのであった。
「この間桜が散ったかと思えば、今度はそこら中に、緑が溢れかえってる」
「早いですよね」
清蘭はかつて月の軍隊に所属していた頃から、同じく月の兎――玉兎であり、自分より立場が上にあった鈴瑚に対しては、丁寧語で話す。
こうして地上に移り住み、山の庵で小さな団子屋を営み始めた時、鈴瑚は「家族」としての対等な関係を持ちかけたが、清蘭は結局、その口調を変えることはなかった。
家族と言う関係を、否定されたわけではない。
敬意を込めて「鈴瑚さん」と呼び、丁寧語で接することも含めて、自分が鈴瑚を好いている気持ちの表現だから――というのが、清蘭の持論であった。
当初は腑に落ちなかった鈴瑚であるが、そうした清蘭の生真面目さが、元々自分が彼女を気に入った理由の一つであることを思い出すと、不思議と納得が行った。
「この早さがさ、穢れなのよね」
「早さ?」
「そう。月よりもずっと早く、命が生まれては消え、景色が移り変わる。穢れがそうした季節の巡りを回してるのよ、くるくるっと」
鈴瑚は清蘭の目の前に指先を持ち上げ、宙に何重かの円を描いた。
「……鈴瑚さんは、楽しそうですね」
「楽しいよ?」
穢れの話をすると、清蘭は顔を曇らせる――とはいかないまでも、鈴瑚の楽しげな調子に少々冷ややかな視線を送る節があった。
故郷に未練がある、というよりは、地上の穢れに対し、清蘭はまだいささかの抵抗を持っているように、鈴瑚は見ている。
穢れ――それは生命と自然に起こる、経時変化そのものとも言ってよい。
栄養を摂れば成長し、年を経れば老化する。
身体が熟すれば子を成し、肉体が死ねばそれは土に還る。
そうやって地上の自然が生命活動を繰り返していく力の源こそが、穢れである。
月にはなかった、あるいはひどく緩やかであったその「命の巡り」を、鈴瑚はこの妖怪の山の、四季折々の景色から存分に感じ取り、楽しんでいた。
それ即ち、穢れという概念自体を心に受け入れ、楽しむこと。
「地上の春も、夏も、初めてなんだからさ」
鈴瑚と清蘭がこの妖怪の山に庵を結んだのは昨年、秋も終わりに近づいた頃だ。
地上の四季の内、二人が経験したのは秋と冬の二つ。
今こうして満喫している春と、これからやって来る夏を思うと、鈴瑚は自身の胸の裡で気持ちが浮き立ってくるのを、強く感じる。
「でも、夏が来る前には、雨季があるんでしょう」
「雨季……梅雨のこと?」
清蘭も、さすがに地上のことが分かって来たのか、暦と並行して移り変わる空模様を理解しているようであった。
この極東の国で、春と夏の間に訪れる雨多き季節、それが梅雨である。
「うーん、雨季っていう程のもんじゃない、らしいけどね」
卯月――四月半ばの青い空が、鈴瑚の頭上に広がっていた。
あと二月もしない内に、この空を毎日のように灰色の雲が埋め尽くし、昼夜を問わず雨が降り続くようになるなど、到底信じられなかった。
毎日雨が続けばどうなるか……そこまで考えたところで、鈴瑚は思い出した。
「そうだ、清蘭」
「はい?」
鈴瑚は清蘭の膝枕の上で頭を動かし、真上を見上げる格好になった。
四月の空より青い清蘭の豊かな髪が、鮮やかな色彩で視界に広がる。
「雨と言えば――こんなお話が、あるんだけどね」
遡ること、一日。
団子の行商に出た人里で耳にした、雨の日の話を、鈴瑚は思い出していたのだ。
※ ※ ※
「その霊は必ず、目を求めて来るんですよ」
鈴瑚が仕事終わりによく立ち寄る人里の貸本屋「鈴奈庵」の看板娘、本居小鈴は机の上に身を乗り出しながらそう言った。
「目?」
鈴瑚が自分の左目を指差しながら呟くと、小鈴はこくりと頷いた。
この鈴奈庵は、幻想郷で出版された書籍は勿論、結界の外の世界の本も多数取り揃えており、鈴瑚にとって、地上の情報源として非常に重宝する場所であった。
人里で団子を売り始めてすぐに、鈴瑚はこの店の常連の一人に名を連ねることとなり、同じく常連だった他の客の多くとも、今は顔見知りになっていた。
「出会った人は皆、彼がこう言うのを聞いたそうです」
その日の団子が完売した夕方、鈴奈庵の中にいる客は、鈴瑚のみだった。
「『目を、目を、……くださらぬか』と」
小鈴は鈴瑚を怖がらせようとしてか、相手の目の前に指先を伸ばし、目玉を抉り取ろうとするかのような手つきを見せた。
鈴瑚は特に動じることなく、くすくすと笑って答えた。
「眼病が悪化して死にでもしたの?そいつ」
「……いいえ」
そう言うと、小鈴は手に持った爪楊枝で皿の上の団子を刺した。
鈴瑚から買った団子である。
鈴奈庵の看板娘・小鈴は、鈴瑚が売る――つまり清蘭が作った――団子のファンであり、リピーターであった。
お得意先様の世間話には、鈴瑚も当然、付き合う。
それを抜きにしても、地上の書籍に通じた小鈴との会話は、鈴瑚にとって有意義な情報収集の時間なのであった。
今もこうして、小鈴が話を広げたくなるように、素っ気ない振りを装いながら、相手が続けて口を開きたくなるような言葉を、選んでいる。
「霊が欲しがるのは、自分の目ではないんです――」
その幽霊が人里に現れるようになったのは、冬の終わり頃であった。
『目を、目を』
しきりにそう繰り返すだけで、特に何をするわけではない。
出る場所は特に定まってはいないが、決まって雨の日に、霊は現れた。
厚い雲が広がり、粒が大きな雨が一日、降り続く――そんな日には、ほぼ必ずと言っていいほど、その霊が目撃された。
初老の、痩せた男の姿をしていた。
その出現は昼夜を問わなかったが、遭遇した人間は、いずれも人通りが少ない道を、一人で歩いていた者であった。
――雨の日に一人で歩いていると、爺ぃの霊が、目を奪いに来るぞ。
春先、その霊に遭遇した者の人数が二桁を越えた頃には、そんな噂が里の中で囁かれるようになっていた。
実際に目を抉られた者が、いたわけではない。
初老の男性の姿をしたその霊自身、顔には両の目がしっかり揃っている。
それでもその噂話の真偽を疑う者が少なかったのは、霊が口にする「目を、目を」という言葉と、霊と共に出現する「あるモノ」の存在によるところが大きい。
――爺ぃの霊に目を取られて、片目の龍の供えにされるぞ。
その幽霊が出現する際、遭遇した人間は皆、雲間に巨大な生物の姿を見ていた。
牙を持つ顔と、そこから伸びる長い胴と尾、そしてそれらを覆う鱗。
龍であった。
幽霊のように身体が透き通った、半透明の龍が、初老の男の頭上高くで、雨雲の中を泳いでいるのだ。
時折覗かせる顔に、特徴があった。
左の眼球が、ない。
奈落のように黒い穴になった眼窩を、多くの者が目撃していた。
幽霊がしきりに口にする「目」は、あの龍の足りない左目に、違いない。
画龍点睛を欠く、という言葉を知らない人間であっても、その答えに辿り着くことはそう難しいことではなかった。
「ガリョウテンセイ?」
聞き慣れない言葉を耳にした鈴瑚は、思わずそれを鸚鵡返しに口に出した。
「画龍点睛を欠く。大陸の、有名な故事を元にした諺(ことわざ)ですよ」
瞳がない龍の絵にそれを描き入れたところ、完成した龍が絵から飛び出して空へ消え去った、という故事から、
「物事の完成・完遂に必要な『仕上げ』」を喩えて言うようになった言葉が「画龍点睛」である。
「なるほど、その幽霊は文字通りに龍の目を探してる、ってこと?」
小鈴から一通りの説明を受けた後、鈴瑚は自身の目を指差し、言った。
「そうです」
そしてこれまた文字通りに、と小鈴は続けた。
「彼は画家なんです。この里で、昨年に亡くなった」
「……お知り合い?」
「いいえ」
小鈴が語ったところによれば、その画家は普段から家に閉じこもって仕事をしていたため、里の多くの者が「名前は知っているが、顔は知らない」人物であった。
それでも霊の出現頻度が高まる内に、数少ない顔見知りの同業者や、彼に仕事を頼んでいた人間による目撃証言から、その正体が明らかになった。
「正体がわかったことで、目を抉って奪う、という噂はなりを潜めました」
独り身の、あまり社交的とは言えない、初老の絵描き。
実力は確かであったが、自分が好きに描いた絵画だけで、生活を支え切れるほどの評価と収入を持っていた画家ではなかった。
新装開店する商店の看板や、祭を告知する広告、七夕飾りなどの製作を里の人間たちから請け負い、注文に応じた絵を描くことの方が、多かった。
本来得意とした日本画だけでなく、西洋画の技法にも通じていたため、そうした仕事の依頼は、それなりの頻度で彼のもとへ来ていたという。
だが、自宅を改造した小さな画廊に飾られた、彼本来の筆致と画風からなる、自身でモチーフを決めた絵画が売れることは、ほとんどなかった。
それこそ絵に描いたような、慎ましやかな生活をしていた。
無論、不摂生をしていたという話はないが、ある日、自宅で倒れているのを、仕事の進捗を確認しに来た客に発見された。
客が呼んだ医師が駆けつけた時には、既に息を引き取っていたという。
「身寄りもなく、ひとまずは同業の画家が集まってお葬式を出してくれたそうです」
「ふうん……その時の仕事ってのが、龍の絵?」
「おそらくは、ですけどね」
彼が「請け負い」の仕事で描いた絵の中には、旅館や日本料理屋の座敷で、床の間に飾られる掛け軸に使われたものが、少なからずあった。
そうした絵において、龍は古来より人気が高いモチーフの一つである。
実際に、彼が描いた龍の掛け軸を床の間に飾っている者に話を聞くと、霊と共に出現する片目の龍は、絵の中のそれによく似ているということであった。
――あの龍は、画家が目を描かないままで世を去った、未完成の絵に違いない。
画家の霊に関わる噂話は、その一文で締めくくられるようになった。
「龍は、絵の霊、ってこと?」
「概ね、そういう解釈がなされているみたいです」
証拠はないんですけどね、と小鈴は続けた。
「でも、それこそ故事にあるような最後の仕上げ、龍の目を描き込むことなくこの世を去ってしまったというのは――その、わたしは絵に関しては、素人ですけど。
心残りだっていうのは、わかる気がします」
小鈴の言葉に、鈴瑚はうんうんと何度も頷いた。
やり掛けたことを残したまま命を落とし、その完遂の機会を永遠に奪われる――軍にいた頃は、そんな目に遭った同胞を幾人も目にしてきた。
彼らや彼女らの魂も、もしかすると、今も月の都を彷徨っているのかもしれない。
「しかし、随分多くの人間が、その画家の霊とやらを見てるのね」
話を聞く限り、その画家は明らかに生前より死後の方が、里の人間たちの間でその存在を広く認識されているように思われる。
「ここ最近は、雨が多かったからでしょうか」
まだ梅雨入りには早いのに、と言いつつ、小鈴は窓の外に目を向けた。
幸いその日の空には、鮮やかな薄青色が広がっている。
が、確かに前日までには、三日ほど雨が降り続いていたし、鈴瑚もこの一月ほどの間、雨の中で団子を売り歩いた日の記憶は、少なくない。
「……見た、っていう人は増えているみたいです。間違いなく」
何かを焦るかのように、雨が降る度に画家の霊はあちこちに現れ、お馴染みの「目を、目を」という言葉を繰り返すのだという。
「いっそ、その描きかけの絵を完成させてあげればいいのに」
名も知らぬ素人なら兎も角、葬式をあげてくれる程度の付き合いがあった同業者であれば、画家本人も、自分のやり残した仕事を任せる気にはなるのではないか。
そもそも誰かにそうした助けを求める気持ちがあるからこそ、死者は人々の前に姿を現したのではないかと、鈴瑚は思う。
「ないんですよ」
「ない?」
「そうです。彼と付き合いがあった絵描きさんたちも、すぐにその絵を完成させて、彼を供養しようとしたんです。でも、描きかけの龍の絵なんて、どこにもなかった」
画廊にも、仕事場にも――勿論過去に彼が依頼を受け、今は里のあちこちに飾られた請け負いの作品群の中にも、そのような描きかけの絵は、なかった。
「今も、何人もの画家が、必死で目指しているんです――本当にあるかどうかもわからない、彼が遺した絵の完成を」
※ ※ ※
「鈴瑚さんは、見たんですか?その幽霊……」
語り終えた鈴瑚の顔を見下ろしながら、清蘭は尋ねて来た。
「や、まだ見てないわね」
それが良いことなのか、悪いことなのか、鈴瑚にはわからなかった。
地上に来てから、龍というものをまだ目にしたことがないので――それが幻や霊の類であっても――興味がないと言えば嘘になる、といった程度か。
「でも、それだけ多くの人が出遭っている霊なら、退治されてしまうんでは?」
二人が住む妖怪の山ならいざ知らず、人里で騒ぎを起こす幽霊など、大抵の場合は博麗の巫女によって強制的に除霊されてしまうのが、幻想郷の常であった。
「物騒な言葉の割に、実害はないみたいだし」
自分も同じ質問を小鈴にしたことを、鈴瑚は思い出していた。
「その画家、生前は人付き合いこそ上手い方じゃないが、仕事に関しちゃ真面目で実直だったって話でね――絵描き仲間だけじゃなく、
実際に霊と出遭って、事情を知った他の連中も、どうにか仕事を完成させて、未練を断ち切ってやろうとしてるとか」
ここ最近では、同業者以外にも、描きかけの遺作探しに協力する者が出て来たという話を、小鈴が語っていた。
無理矢理に除霊するのではなく、目的を果たした上で、成仏させようということだ。
そこにはもう「目を奪いに来る爺ぃの悪霊」の姿は、ない。
「そうですか。……よかった」
清蘭はそう言って、柔らかく微笑んだ。
「よかった?」
「はい。だって、悲しいじゃないですか」
自分の右の掌を見つめながら、清蘭は言った。
「何かを一生懸命に作って、それが完成しないまま死んでしまうのも。死んだ後に、やっぱりそれが許されないことだって、誰かに言われてしまうのも」
清蘭もまた、元は鈴瑚と同じ、軍人である。
加えて、前線に送られることが多かった彼女はおそらく、何かを志し、その半ばで散った仲間の姿を、鈴瑚よりも多く目にしてきている。
「だからその絵描きさん、里の人に協力して貰えて、よかったなあ……って」
清蘭の右掌が、ゆっくりと拳の形に握られた。
その中に握り込まれた目に見えぬ感情は、彼女の追憶だろうか。
「清蘭」
鈴瑚は仰向けのまま手を伸ばすと、清蘭の右拳に、己の掌を重ねた。
「……鈴瑚さん?」
「いい子だよね、清蘭は」
自然と、優しい声が唇から零れた。
話に聞いただけの画家に対し、その同業者や、霊と遭遇した人間たちと同じ気持ちを、清蘭は抱いている。
よかった、という一言に、彼女の優しさが集約されていた。
目が合った清蘭の頬が、少し紅く染まる。
「別に、普通ですよ」
恥ずかしそうに目を逸らした清蘭の顔を見上げながら、鈴瑚は彼女とこうして生きていられる今を、改めて尊いものだと感じていた。
清蘭が笑顔になれるのであれば、自分もあの画家の絵の完成を祈ってみるか。
そんなことを、春めいた地上の空気の中で、鈴瑚は思うのであった。
二
最初に画家の霊の話を聞いてから、十日ほどが過ぎた。
晴天の日が続いたことで、この十日ほどの間は、霊の目撃談もなかった。
いっそ自分が画家の霊に出遭おうものなら、未完成の絵の在りかをどうにかして聞き出してみようか――などと考えていた鈴瑚にしてみれば、少々拍子抜けである。
だがここ数日、人里の往来でそうしたことを気にしている余裕が、鈴瑚にはなくなり始めていた。
「……これが、問題の新商品ですか?」
「問題って何よ、失礼ね」
いつものように人里で団子を売り歩いて回った鈴瑚は、昼食を終え、食後の休憩を兼ねて鈴奈庵へ足を運んでいた。
本の返却のついでに、鈴瑚から余裕を奪う「それ」を、小鈴に見せていた。
皿の上に盛られているのは、団子を四つ並べて刺した、いわゆる串団子――それを、柏の葉で包んだものであった。
「一つ聞いていいですか?」
「ん、何でもどうぞ」
「……これ、柏の葉で包む意味、あります?」
これまでにこの団子を目にした、他の大多数の客と同じ台詞を、小鈴は口にした。
「ありよあり、大あり」
何を馬鹿なことを、という顔で鈴瑚は言葉を返した。
「『柏餅団子』なんだから、柏の葉がなかったら成立しないでしょ」
「……そうではない、です」
月にいた頃の上司の口癖と同じ言葉を、小鈴は口にした。
「元々串に刺さってるものを柏の葉で包んでも、邪魔なだけじゃ……」
一般的に、柏餅は、中に餡を詰めた丸い餅を柏の葉で挟み、その部分を持って食べる菓子である。
この葉があることで、餅に直接触れず、手をべたつかせることなく食べられる。
だが、鈴瑚がここ最近里で売り始めた「柏餅団子」は元から串に刺さっており、そもそも前述したような目的での葉を必要としない。
むしろ普通に串を持って食べる場合、柏の葉は邪魔になるのであった。
逆に、無理に葉で団子を挟んで食べようとすれば、串が邪魔になる。
珍しく鈴瑚の発案――大抵の場合、団子作りを担当する清蘭が考える――によって新たに開発された新作団子は、この構造のせいか、ひどく売れ行きが悪かった。
「売れてるんですか?」
「売れてません!」
苦虫を噛み潰したような顔で、鈴瑚は答えた。
自分が考えた商品が売れないということは、これほどまでにもどかしく、焦りを生むものかと、鈴瑚はここ数日、歯噛みしながら里を歩いているのである。
「……でもさあ、今は旬の時期なんでしょ?柏餅」
団子屋の販路をさらに広げるためには、季節ごとのメニュー作りが必要。
四季が目まぐるしく移り変わる穢れた地上において、飲食業を営む者が避けて通れない販売戦略を、当然清蘭と鈴瑚も行って来た。
季節ごとの食文化や、旬の食材の情報を集める目的で、鈴奈庵から借りた本の冊数も、決して少なくはない。
今は四月の半ば過ぎ、端午の節句に向け、菖蒲の花や柏餅が出回る時期であった。
「じゃあ普通に柏餅を売ればいいでしょう」
鈴瑚がこの商品を発案した段階で、清蘭が言ったのと同じ台詞を、小鈴は口にした。「あのね、うちは団子屋なの」
「じゃあおとなしく普通の団子を売ればいいじゃないですか……」
これまた清蘭が言ったのと同じ言葉が、小鈴の唇から紡がれる。
「うぐぐ、前回の桜餅団子はあんなに売れたのに!」
「あー、あれは美味しかったですよ。食べやすかったし」
一口サイズの小さな桜餅を串に刺して出した「桜餅団子」は、少し時を遡った花見の時期に、鈴瑚が里で売り歩いた商品である。
餡を包んだ桜餅を潰さずに串を打つためには、細かい力加減が必要であった。
銃剣の組み立て・解体から甘味の調合まで、様々な場面で正確無比な作業をこなす清蘭の指先により、見事に「桜餅の串団子化」が実現化していたのであった。
これが人妖問わず、大いに売れた。
餡を内包し、葉で包まれているという共通点はあるが、桜餅と柏餅は大きく異なる。
外観は勿論、その味付けや製法、使用する粉の種類など、様々な相違点はあるが、その中でも一番わかりやすいものは「葉を食べられるかどうか」という点であろう。
桜餅を包む桜の葉は塩漬けになっており、餅と一緒に食べることができる。
この点は団子になっても同じであり、前述した柏餅団子の串と葉を巡る問題は、最初から生じることがなかったのである。
ちなみに、桜餅団子は清蘭の発案であった。
「こ、これだって葉っぱを取れば普通に食べられるよ!」
「だからそれなら普通の団子でいいでしょうに」
「じゃあいっそ、柏の葉を別売りにして」
「誰が買うんです、単品の柏の葉っぱ……」
そのようなやり取りをしていると、背後で店の入口の戸が開く音がした。
「何じゃ、騒がしいの」
戸口には、楽し気に鈴瑚と小鈴のやり取りを見つめる、眼鏡をかけた長髪の女性の姿があった。
※ ※ ※
「……なるほど、そりゃあ売れんよ、確かに」
小鈴から話を聞いた眼鏡の女性はくく、とおかしそうに笑った。
彼女は、鈴瑚が足を運び始める前からの、鈴奈庵の常連の一人であった。
飄々とした、知的な大人の女性――そうした印象を受ける美人であり、小鈴も憧れと尊敬をもってこの女性に接しているのが、鈴瑚にもわかった。
時折店や通りで鉢合わせると、大抵団子を多めに買っていく、上客でもあった。
「うーん、ちゃんと餡子も入ってるのになぁ」
串団子に餡で味付けをする場合、外側に餡を塗り付けるのが常である。
中に餡を入れることで必然的に生地が薄くなり、串を通す時に団子が潰れやすくなってしまう。
前述した桜餅団子同様、清蘭の絶妙な力加減と正確な串打ちにより、団子は形を崩すことなく、中に餡を内包したまま串に刺さっている。
「それよ、それ」
「え?」
「もう柏餅っぽさを出すことなどにこだわらず、餡入りの部分を推していけばいい」
それだけでも十分にすごいじゃろ、と女性は言った。
「……柏の葉が無駄になるじゃん」
往生際悪く、鈴瑚は柏の葉の存在意義を守らんと食い下がった。
正確には「自分が考えた、柏の葉の使用というアイデアの意義」であるが。
「やれやれ……なら一旦剥がした後、串団子を渡す時、下に敷いて渡せばよい」
「下に?」
「そうじゃ。柏の葉は元来、食器代わりに使われることもあったもの。敷紙代わりに客に使わせれば、見てくれもそれなりに柏餅っぽくはなるじゃろ」
眼鏡の女性は持っていた煙管を一旦手放すと、皿の上の柏餅団子を手に取った。
丁寧に柏の葉を剥がし、その上に裸の串団子を横たえる形を作って見せる。
「一旦、この形で売ってみい」
女性は小皿を持つように掌に柏の葉を乗せ、串団子を持ち上げて、口へ運んだ。
確かにこの形であれば、葉と串、双方が互いの存在を邪魔し合わない。
「ま、まあ、試しにやってみてもいいかしらね。試しに」
「くくく。……うむ。いつもながら、味は絶品よな」
「それはどーも」
ひとまず、団子の味への賞賛に対しては礼を述べる。
釈善としない気持ちは残るが、販売施策に関する彼女の案は、悪くない気がした。
これで無事に団子が売れれば、改めて礼を言おう――逆に、売れない限り礼は言わないという、我ながら器が小さいと感じる意地が、鈴瑚の中にはあった。
「……あの、それで、今日は」
二人の会話が一旦途切れるのを待っていたのか、小鈴がおずおずと女性に用件を尋ねた。
「おお、そうじゃ」
女性は小鈴に向き直ると、傍の椅子に置いていた風呂敷包みを手に取った。
「頼まれていたものをな、持って来たぞい」
そのまま包みを机に置くと、小鈴の前で風呂敷の結びを解いて見せた。
中から七、八本の巻物が現れ、女性がその内の一本を広げると、縦長の紙に描かれた仏画がそこに現れた。
釈尊を背に乗せて雲の間を泳ぐ、龍の姿を描いた絵であった。
「……これは?」
鈴瑚は絵を指差し、尋ねた。
「残念ながら、高級な掛け軸の類じゃないぞい。複製画じゃな、これは」
他の掛け軸も似たようなものじゃ、と女性は続けた。
「ありがとうございます。ちなみにこの中には――」
「ふむ。儂が見る限り、ないであろうな」
「……そうですか」
小鈴は少しだけ落胆したような顔を見せた。
「龍、か。もしかして、これって」
「おお、さすがにお主も知っておったか。察しの通りじゃよ」
女性が持ち込んだ巻物は、雨の日に里に出現しては人々を騒がせている、あの死んだ画家が生前に描いた、複製画の掛け軸であった。
高級な仏画を家に飾れない中間層の人間のために描かれた、廉価版の絵である。
看板や広告の他に、こうした複製画を描く仕事も、彼は多くしていた。
今も見つからない「描きかけの龍」の探索が困難を極めているのは、こうして様々な媒体で、里のあちこちに彼の作品が散在していることにも起因していたのである。
「一枚くらい、描き損じた絵があるかと思うたんじゃがの。あの絵描き、なかなかどうして仕事は完璧主義であったようじゃな」
惜しい奴を亡くしたものよ、と女性は言った。
小鈴が次々に広げていく掛け軸の絵にはいずれも龍が描かれているが、目が描き込まれていないものは、一匹としていなかった。
「……あんたらも、あの画家の絵を探すのに、協力してたんだ」
「はい。何だか、気になってしまって」
小鈴は少し照れ臭そうに微笑んだ。
聞けば、現在人里の一部の人間の間では、画家の遺作を探す行為が、ちょっとした宝探しのような意味合いを帯び、ある種の流行になっているらしい。
こうした状況では必然的に画家の作品を目にする機会も多くなり、生前に注目されていなかった彼本来の画風が、新たなファンを生んでいるという話もあった。
悪いことではないだろうが、皮肉なものだな、と鈴瑚は思った。
当の画家本人が生前の心残りに憑かれて現世に留まる一方、彼が描いた他の絵の評価が、おそらく当人の与り知らぬところで、高まっている。
そうした評価の機会が生前にもっと与えられていたなら、描きかけの遺作があっても、画家はもう少し未練なく死んで行けたのではなかろうか。
※ ※ ※
「皮肉なもんじゃな」
鈴奈庵を出て少し歩いた後で、眼鏡の女性がそう口にした。
おそらく、先ほど鈴瑚が感じた思いと、同じ感情から出た言葉だろう。
短命な種族の人間にはたまにある、死んだ後に評価が高まる「後付天才のパターン」――それは人外の者から見れば、特にその皮肉さが際立つ。
彼女、二ッ岩マミゾウにとっても、それは例外ではないというわけだろうか。
「……さっきの画家の話?」
「無論」
マミゾウは里で仕事をしている一部の妖怪――永遠亭の兎や、妖怪の山の天狗のような「変装」ではなく、人間に「化ける」ことで鈴奈庵に出入りする化け狸である。
普段は里の外の妖怪寺、命蓮寺に身を寄せている。
「化けて出たことで注目を浴び、そのついでに絵が評価されるというのはなぁ」
人ならざる者同士に働く勘としか言いようがないが、鈴瑚は鈴奈庵で初めてマミゾウと会った時点で、彼女が妖怪であることを見抜いた。
が、敵対する理由もない相手であり、そもそも団子を美味い美味いと食べてくれる上客の秘密を暴くような真似は、当然鈴瑚はしない。
だがその秘密がばれない範囲では、こうして「妖怪」二ッ岩マミゾウに対する態度で接していたし、相手も特にそれを気にしてはいなかった。
波長が合う話し相手、という印象を、鈴瑚はマミゾウに対して抱いている。
「まあ、悪いことじゃあ、ないと思うけどね」
ちなみに人里では、人間に危害を加えない限りは、妖怪本来の姿のままで出入りすることも一応許されている。
人間に忌み嫌われ、恐れられることを気にしない者や、そもそも嫌われないタイプの妖怪(座敷童など)がこれに該当するが、
当初は一応長い耳を隠していた鈴瑚も、何となく成り行きで、こちらのパターンに入ってしまっている。
客商売の団子屋稼業で、人間でない自分が里でそれなりに受け入れられているのは、清蘭の団子作りの腕前と、
ほんの少しだけ――自分の愛嬌によるのだろう、という自負が、鈴瑚にはあった。
人間に変装して薬を売っているというかつての同僚も、もう少し客との会話がうまくなれば、耳を隠さずとも商売ができるだろうに。
そんなことを、思ったりもする。
「それもわかる。だが、ああいうのはの、決して大器晩成とは言わんぞい」
立身出世というのは、文字通り立てるたての「身」があればこそじゃ、とマミゾウは続ける。
「死んだ兵士に勲章をあげるようなもんだものねえ」
幽霊になって現世に留まっても、実際に生前と同じ仕事ができる者など、稀だ。
戦死した仲間が二階級特進する光景を、うすら寒い気持ちで見ていた過去を思い出しつつ、鈴瑚はマミゾウに同意した。
折り紙の兜を被った男児が二人、棒切れを振り回しながら二人を追い抜いて行く。
端午の節句の時期には、床の間に武者鎧を飾ったり、ああして子どもが紙の兜を折って遊ぶということも、鈴奈庵で借りた本に書いてあった。
確か、男児の立身出世を願う武家の祭事が起源であったか。
戦争がない時代に武具を祀る祭事が残るのと同じように、戦争がない世界にも、人の死と、死後の再評価に関わる虚しさはつきまとう。
「……やっぱ、ああいう盛り上がりって、気に食わない?」
「そういうわけではないがの」
マミゾウは咥えていた煙管を口から離し、煙をふうっと吐き出した。
「あの画家も餓鬼の頃にはああして、生きながらの出世を親に望まれていたのかと思うと、少し虚しゅうてな。げに人間と言う奴は、無常を絵に描いたような生き物よ」
煙管で指す先には、走り去っていく紙兜の男児の背中があった。
「……ところで愛煙家の狸さん」
「何じゃ、団子屋の兎さん」
「さっきの子どもが持っていた、あれは何なの?」
鈴瑚はそう言って、棒を垂直方向に掲げる真似をして見せた。
一瞬、マミゾウの言葉と表情が止まる。
「……何じゃお主、柏餅が分かるのに、鯉幟は知らぬのか」
「こいのぼり?」
「それこそ端午の節句の顔、武具に並ぶ立身出世の象徴よ。知らぬのか?鯉の滝登り」
「いやあ、まだまだ地上には知らないことが多くて」
「……地上?」
「何でもない」
一部の相手を除いては、月の出身であることをとりあえず隠している鈴瑚である。
「鯉は流れに逆らい、滝を登って天に至る。その故事に倣い、子が逆境に負けず身を立て、出世していくことを親が願って掲げるものじゃ」
そら、とマミゾウが煙管の先を向けたのは、道沿いの民家の庭。
屋根より高い位置まで届く長い竹竿に、大中小、黒赤青の三本の吹き流しが括りつけられ、空中を水平方向に漂っていた。
見れば、黒赤青の彩りは、吹き流しに描かれた魚の鱗の色であった。
確かに、あの吹き流しを思い切り小さくして、さらに寸詰まりにすると、先ほどの男児が振り回していた棒の先の物体になる。
「人間も鯉も、大抵の場合は生きてせいぜい数十年よ。ゆえに、ああして餓鬼の内から、将来自分の子が名を上げ、出世できるよう願うというわけじゃ」
「ふーん……」
「そして同時に、端午の節句は子の立身出世だけでなく、家系そのものの繁栄も願う」
「あ、それは知ってるわよ」
自分が鯉幟を知らなかったことで、マミゾウが得意げな顔をしているのが少し癪であった鈴瑚は、少し強引に相手の話を遮った。
「柏は、新しい葉の芽が成長するまで、古い葉が落ちない。だから、親から子、つまりお家の存続が途切れ無いように、
っていう願いを込めて、柏餅を食べるようになった……でしょ?」
「おう、流石にそこは知っておるか」
マミゾウはくくく、と笑って言った。
「伊達に柏餅団子は作っちゃいない、ってね」
鈴瑚はマミゾウに向かって、少し胸を張って見せた。
「全く売れておらぬがの」
痛いところを突いたまま、からからと笑いつつ先を歩くマミゾウ。
一本取られた――その悔しさに、鈴瑚は奥歯をぎり、と軋ませる。
「……言ってくれるじゃない」
道端に落ちていた、手ごろな大きさの石を二つ、拾い上げた。
鈴瑚はそれらを両手に一つずつ持つと、かち、かち、と断続的に打ち合わせる。
ちょうどマミゾウの真後ろに張り付く形で、縦に並んで歩きながら。
「……団子屋よ。何をしている」
「別に」
マミゾウが歩き出すと、鈴瑚はまた石を打ち合わせ、かち、かち、と音を立てる。
ひたすらにそれを繰り返しながら、マミゾウの背中を追いかけて歩くのだ。
「……おい」
「ここは人里のかちかち通り。かちかち鳥と言う猛禽類が鳴くことで有名――」
「わかった、わかった。さっきの発言は謝るから、それはやめい」
生理的にというか、遺伝的に「来る」んじゃその音は、とマミゾウは言った。
目尻に涙を溜めて火打石の真似事を続ける鈴瑚をなだめると、マミゾウはいつものように、寺の仲間の人数分、団子を買っていった。
買ったのは柏餅団子ではなく、普通の串団子であったが、マミゾウの案を採用したことで、どうにかその日の分の柏餅団子を売り切ることができた鈴瑚であった。
三
さらに数日が経ち、端午の節句が近づくにつれ、最初は(マミゾウのアイデアがあっても)売り上げが低調だった柏餅団子も、少しずつ売れ足が早まって来た。
発案した商品が売れない、という不安や焦りは解消されたものの、里で団子を売り歩く作業においては、鈴瑚は相変わらず多忙を極めることとなったわけである。
そんな四月の末のある日に――雨が、降った。
強い雨であった。
朝、目が覚めた時には既に大粒で地面に降り注いでいたその雨は、山を下りても、里に入っても、変わらぬ強さで降り続いていた。
天候の割に、売り上げはそう酷く落ち込んだわけではなかったが、シャツの肩口や、草履の上に乗った足の指が濡れていく感触は、お世辞にも心地良いものではない。
いつもより早めに商売を切り上げ、家路につこうとしたところで、鈴瑚はそれと出遭ったのであった。
「……だよね、雨だもん」
人里の近くであれば、門の外にもそれが出るということは、知らなかった。
里を出て、山へ向かう方向へと足を進めた鈴瑚の前に、画家の霊が現れたのである。
怖い、という印象は受けなかった。
噂に聞いていた通り、雨の中、鈴瑚の目の前に登場した幽霊は、青白く、痩せ細った初老の男の姿をしていた。
空に目を向ければ、やはり体が透き通った龍が、雲間を泳いでいる。
一目で、話に聞いていた画家の霊だと分かった。
「初めまして、でいいのかな?」
足音も立てずに自分の方へ近づいて来る幽霊に、鈴瑚は声をかけた。
輪郭が幾分かぼやけてはいるが、顔かたちを視認することはできる。
見覚えがない顔であった。
「わたしはお団子屋の鈴瑚。あなたのことは、鈴奈庵の娘さんから聞いているわ」
甘味の類に興味はなかったか、あるいは鈴瑚が里で商売を始めた頃にはもう、その身体に死の影が差し始めていたか。
いずれにせよ、初対面という認識に、まちがいはないであろう。
「……いきなり兎がこんなこと言って、面喰うかもしれないけどさ」
画家の霊は、既に鈴瑚の二メートルほど先まで近づいてきていた。
目を、目を、という呟きも、噂通りであった。
「あなたの、描きかけの絵の場所を、教えてほしい。里の連中も、知りたがってる」
『……くださらぬか』
「面白半分の奴もいるみたいだけど、皆、あなたの絵を完成させたがってるのは同じよ。あの龍の絵、どこにあるのか教えてくれる?」
頭上を飛ぶ龍を指差しながら、鈴瑚は言った。
『……って、くださらぬか』
鈴瑚の言葉は、霊の耳には届いていないようであった。
これまで恐怖心を抑えて話しかけた幾人かの人間も、彼と会話することができなかったという。これも噂通りだ。
鈴瑚は一度言葉を切り、改めて霊の言葉に耳を傾ける。
『……塗って、くださらぬか』
『目を』
『目を、塗って、くださらぬか』
やはり、里の人間たちの解釈は正しかったと言うべきか。
噂にあった「目を」「くださらぬか」という二つの言葉の間に「塗って」が挟まることで、彼が絵の完成を求めていることを、鈴瑚は確信した――画龍点睛、である。
「塗る。塗ってくれるよ、あなたの仲間の絵描きが」
だから、と鈴瑚は言葉を続けた。
「教えてよ。皆、あの龍の絵を探してるの。それが切っ掛けで、あなたの絵を好きになった奴だっている。場所さえわかれば――」
『目を、目を、目を』
不意に、画家はその手を鈴瑚に向けて伸ばして来た。
最初にこの霊の話を聞いた時の、小鈴の仕草を思い出す。
(まさか――ああいう真似は結局、しない霊だって話のはず)
とはいえ反射的に一歩、間合いを外しながら、鈴瑚は考える。
いつの間にか、空中を泳ぐ半透明の龍は、何かに苦しむように長い身をよじり、滅茶苦茶な軌道で画家の頭上を飛び回り始めていた。
『め、を』
「ああもう、だからその目が欲しかったら、絵の場所を教えろってのよ!」
鈴瑚は語気を強めた。
画家は相変わらずその言葉に何の反応も見せないが、周囲の光景が変わっていた。
雨が、弱まり始めていたのである。
急速に小さくなっていく雨音に鈴瑚が気付いた頃には、画家の身体は風景に溶け込むように、薄く消え始めていた。
雨と共に、この場の空気から消え去っていく、幽霊の姿がそこにあった。
「ちょっと、待ってよ!」
手を伸ばした姿勢のまま薄れゆく霊に、鈴瑚は詰め寄る。
「まだ話は終わってないっていうのに!」
『もう、時間が』
雨音が止まり、霊の姿が完全に消える瞬間。
消え入るような声を、鈴瑚の耳は最後にとらえた。
『もう、時間が、ない――』
※ ※ ※
「あれはよ、一種の地縛霊じゃな」
「ジバクレイ?」
幽霊との、互いに一方通行な言葉の交わし合いが済んだ後で、門の陰から姿を現したのは、変化を解いた二ッ岩マミゾウであった。
助けが必要な場面でないことは一目で理解できたので、鈴瑚とのやり取りをこっそり見物していた――という話である。
『何あんた、わたしのストーカー?』
姿を現したマミゾウにかけた言葉は、鈴奈庵にあった結界の外の雑誌で、最近覚えた単語であった。
『ふふん、この間の意趣返しじゃぞい』
マミゾウはそう言ってにやりと笑ったが、鈴瑚はそんな彼女の出歯亀行為を問い詰めるよりも、先程の霊の様子に対する見解を尋ねることを優先したのだ。
画家の霊が、ひたすら同じ言葉を繰り返すだけで会話が成立しない理由に関して、マミゾウは地縛霊という言葉を用いて説明を始めた。
「死ぬ前にな、ああして強い心残りを持っておった人間が、なりやすい霊よ」
「ふむ」
「死者がその『心残り』に魂を縛られるとな、ただ一つ、そのことだけを考えて、他に何もできない状態でそこへ留まってしまう」
心残りがなくなるまではそこから動くこともできず、生きた人間のように「息抜き」や「気分転換」といった発想に至ることも、無論ない。
「一つの場所へ留まり、延々と同じことを繰り返すだけの哀れな魂よ。その場所から動かぬことを指して『地』縛霊、
自らの想いで自らを縛ることを指して『自』縛霊と、二通りの漢字が当てられることでも有名じゃ」
マミゾウは煙管から伸びた煙を空中で「地」と「自」の二文字に化けさせ、鈴瑚の眼前に浮かべながらそう言った。
確かにあの霊は、里の近辺以外に現れたという話を聞かない。
「こうな、視野が狭くなっとる。生きている人間でも時折そうなるのだから、死して魂が――そうじゃな、一つの心残りに、
言うなれば『純化』された状態では、より一層、他のことが目にも耳にも入らなくなる。そういうことじゃの」
自分の両目の縁に掌を当て、視野狭窄になった人間の状態を表すマミゾウ。
「それじゃ、あの霊から直接絵の場所を聞き出すのは、無理ってこと?」
「十中八九はな」
マミゾウの話には説得力があった――特に、月の都出身の鈴瑚には。
肉体という器を失い、脳による思考や、目や耳を通じた感覚を捨てた魂は、生きている時よりも純粋な「感情の塊」である。
強い怨恨を抱いて死んだ者の魂は、時と共にそれに特化し、凶暴な悪霊となる。
生前の恨みの対象以外であっても、近づく者へ手当たり次第に害を及ぼすのは、その魂が、人間であった時とは異なる「純度を高めた怨恨の塊」であるからだ。
そもそも鈴瑚の故郷である月の都は、もう随分と昔から、そうした恨みや憤怒が精錬された――そればかりか神霊の域に至るまで強大に成長し、
純化した――霊の攻撃に悩まされ続けて来たのである。
その神霊に直接出遭ったことはないが、やはり生前に持っていた分別や、恨み以外の感情の多くを忘れ去り、
一つの目的を完遂するために動く存在となった、という話を、幾度も聞かされてきた。
「……なるほどね」
「空しい話よ。死後の栄光にも、生者の温情にも、あれはもう気付くことさえできん」
マミゾウはそう言って肩をすくめた。
「あ、それとさ」
鈴瑚は、霊が最後に口にした言葉を思い出した。
「そのジバクレイってのには、現世に留まれる時間の制限でもあるの?」
「はぁ?」
「いや、言ってたんだよね。『時間がない』って」
消え入るような声であったが、聴き間違いはないという自信があった。
「時間がない、と来たか。ふむ……まあよい。地縛霊が留まる時間に、制限もクソもないぞい。むしろ下手をすれば未来永劫そこに縛られかねん、無間地獄の責め苦よ」
「だよねえ」
霊の言葉の意味するところが全くわからず、鈴瑚は溜息をつく。
もしや、知らぬ間に廃棄された描きかけの絵が、里の焼却炉で明日にも燃やされてしまう――といったことでもあるのだろうか。
だがごみ捨て場は、里の者たちが相当入念に探した場所だとも聞いており、この状況下でうっかり燃やされてしまうことなど、考えにくい。
折角これまでの噂にはなかった、新たな霊の言葉を聞くことができたのに、多くの者が最も知りたがっている謎は、謎のままであった。
「……それにしても団子屋、お主」
「んん?」
「随分と、この一件に熱を上げておるのう」
マミゾウには相手の必死さを揶揄する様子はなく、純粋にその理由に興味があるという表情で、鈴瑚の顔を覗き込んできていた。
「あの画家の筆に、惚れこみでもしたか?」
「いい絵だなとは、思うけど――わたしは」
改めて考えると、確かに自分はなぜ、あの画家の霊にこれだけこだわっているのか、不思議なことだと鈴瑚は思った。
だが、すぐに一人の人物の顔と言葉が、脳裏に浮かぶ。
『だって、悲しいじゃないですか』
自分と共に、あるいは前線でそれ以上に、あの画家のように志半ばで死に行く仲間を見送って来た少女の寂しそうな笑顔を、鈴瑚は見ていた。
「こういうの、悲しいから」
「悲しい、と来たか」
「うん。わたしだけじゃないよ、きっと」
横たわる謎に答えは出なかったが、自分の心に、一つの答えを出した鈴瑚であった。
受け売りや同情ではなく、自分も清蘭と同じ気持ちを持っていたことに、鈴瑚は今更になって気付いたのだった。
※ ※ ※
暦が五月に変わってからの数日間は、また雨が降らない日が続いた。
端午の節句――五月五日を翌日に控えたこの日、柏餅団子の売れ行きも、一応は需要のピークが近づいたことで、それなりに格好がつくものになった。
空は朝からどんよりと曇っていたが、雨が降り始めたのは、鈴瑚が夕方、仕事を終えて妖怪の山の庵に辿り着く頃であった。
今頃、また里のどこかで、あの画家の霊が目を求めて彷徨っているのだろうか。
庵の壁や屋根を通じて聞こえる雨音を聞きながら、鈴瑚はそんなことを思っていた。
「……清蘭、遅いわね」
普段は、この庵は団子屋の店舗として機能しており、清蘭は店へ直接団子を買いに来る客を相手に商売をしている。
持ち帰りの客は勿論、この場で団子を食べていく客のための椅子と丸机を据え、妖怪の山の茶店のような役割も、この店は果たしているのであった。
早朝からの団子作りに加え、日中、店舗での仕事を一人でこなす清蘭の頑張りには、ただただ頭が下がる鈴瑚である。
その清蘭は、この日は昼過ぎで店を閉め、柏の葉を仕入れに出掛けていた。
明日の端午の節句、柏餅団子の最大の売り時と判断しての行動であった。
「うん?」
外の雨音に、変化が生じた。
雨粒が庵の屋根を叩く音が、より大きく、より速くなった。
雨脚が、強くなってきていた。
「清蘭……」
素の体力は鈴瑚よりもあり、山での暮らしにも慣れて来た清蘭に、大雨程度で何が起こるとも思えない。
だが相棒と比べ、帰りを待つ立場になる機会が圧倒的に少ない鈴瑚は、根拠のない不安に駆られ、無意識に窓へ近寄ってしまっていた。
二人で穢れた地上に残り、この妖怪の山へ住み始めてから、半年以上が過ぎた。
ここ最近、かつての仲間の死を思い起こさせる機会が多くあったことで、清蘭と共に生きていることの意味を、鈴瑚は改めて重く感じていた。
それだけに、大雨で外界と遮断された庵で、一人彼女の帰りを待つ時間は、鈴瑚にとってひどく孤独を感じさせるものであった。
時間の流れが、やけに遅く感じられた。
それでもこの穢れた世界には、変化せぬものも、終わらぬ時間もない。
強い雨音の中に、庵へ近づく足音が混じり始めると、鈴瑚の足は自然と戸口へと向かって行った。
「清蘭!」
勢いよく戸を開くと、そこには蛇の目傘を差した、青い兎の姿があった。
「……ど、どうも。只今戻りました」
鈴瑚が中から戸を開いたことに驚いたのか、清蘭は紅い瞳を丸くして、言った。
「おかえり、清蘭」
自分が里での商売を終えて帰ってくる時、清蘭もこんな風に暖かい気持ちになっているのだろうか――そんなことを考えながら、鈴瑚は相棒を庵の中へ迎え入れた。
「雨、凄かったでしょ?」
「はい。傘の中まで降り込んでくるので、本当に厄介で」
滝みたいな雨でした、と苦笑する清蘭の言葉が、不意に、心に引っかかった。
「ん、清蘭」
「はい」
「今、何て言った?」
何だ、何が引っかかった。鈴瑚は清蘭に、言葉を復唱させる。
「ですから、雨が傘の中に」
「……違うわね。その後」
「ええと――滝みたいな雨、でしょうか」
滝のような雨。
空から、滝のように降り注ぐ雨。
その言葉が意味するところは――何だ?
「滝、雨、たき、あめ……」
――雨の日にだけ現れる者。
――片目がない、半透明の龍。
――見つからない、描きかけの絵。
――消え入りそうな声で口にされた、時間がない、という言葉。
それらが、鈴瑚の脳裏で龍の尾のようにうねり、絡み合う。
「あの、鈴瑚さん?」
首を傾げる清蘭の背後では、今も滝のような豪雨が降り注いでいる。
天から地へ、一様に方向を揃えて。
地から天へ、昇ろうとする者全てを阻むように。
「……清蘭!」
鈴瑚は勢いよく、清蘭の両肩を掴んだ。
「は、はい!?」
絡み合った何本もの龍の尾が、やがて一本へと纏まっていく。
滝のような雨――清蘭の一言が、全ての尾を束ねているのであった。
「やっぱあんた……最高。ほんと、好き過ぎる」
鈴瑚は清蘭の濡れた身体を数秒間強く抱きしめると、部屋の奥へ積まれた貸本の山に向かって、飛びつくように進んでいった。
四
夜が明け、五月五日。
端午の節句である。
雨は相変わらず降り続いていた。
鈴瑚は清蘭から今日の分の団子――この日売り残せば損失必至の、柏餅団子の山――を受け取ると、いつもより早く人里へ下り、開店前の鈴奈庵を訪ねた。
途中、早朝の散歩を楽しんでいたマミゾウに出会えたのは、僥倖であった。
鈴瑚はマミゾウと小鈴を伴い、雨の中、死んだ画家の家へ向かったのである。
※ ※ ※
「お主が思うものが、ここにあるということかの」
人間に化けた状態のマミゾウが、言った。
「……多分ね。というか、これで駄目なら、わたしにはもうお手上げ」
三人は、画家が作品だけでなく画材や、家財道具を保管していた、小さな倉の前に立っていた。
身寄りがなかった画家の死後、この倉は親交があった絵描き仲間の一人が一応の管理を請け負っていたが、
今回、小鈴が事情を説明し、特別に鍵を借りることができた。
錆びついた錠前に鍵を差し、回す。
見た目よりも重い木戸を引いて開くと、黴と埃の匂いが漂って来た。
「絵は、そんなに多くないんですね」
小鈴が言う通り、倉の中には絵よりも、家具や衣服の類が多く見られた。
それらに混じり散在する作品も、絵画より、請け負いで描いていたのであろう、看板や広告と一目でわかる物が多かった。
呉服屋の新装開店を告知する看板。
墨絵で神輿の絵が描かれた、祭の日時を伝える立札。
同じく祭で使われたのであろう、デフォルメされた幽霊や妖怪の絵が何体も描かれた、お化け屋敷の外壁となる板。
掲示や設置の期間が終わった自身の作品を、画家はこの倉に保管していたのである。
龍の絵の捜索が始まり、人々が最初に探りを入れたのも、この倉だ。
目当ての絵がないとわかってから、今日まで倉の戸は閉ざされたままであった。
「して団子屋、裏付けは」
「とれるわけないでしょ。そんな時間、ないわよ」
鈴瑚はそう言いながら、倉の中へ踏み込んだ。
自分が昨晩出した一つの「答え」となるものが、ある。
明確な根拠はないが、その確信はあった。
「じゃ、蝋燭よろしくね」
「あ、はい」
小鈴は鈴奈庵から持って来た片手持ちの小さな燭台を取り出すと、その上の蝋燭にマッチで火をつける。
雨が倉の中へ降り込まぬよう、戸を閉めて作業を行うためだ。
蝋燭の頼りない灯に照らされた画家の遺品の数々は、どれもどこか寂し気な雰囲気を放ちながら、倉の中のそこかしこに鎮座している。
「……あれ?」
鈴瑚に続いて倉に入り、戸を閉めた小鈴が、何かに気付いた。
すぐに鈴瑚とマミゾウも、その「何か」に気付く。
誰もいるはずがない倉の中から断続的に響く、物音であった。
かたかた
かたかた
その音は、倉の最奥部に据えられた、棚の下部から聞こえていた。
小鈴がその方向へ燭台を向けると、蝋燭の灯が動く物体を一つ、照らし出した。
棚の一番下の段にある、両手で抱えられる程の、木箱。
その木箱が勝手に動き出し、かたかた、という音を立てているのであった。
「……あれか!」
鈴瑚が思う答えは、まさにその木箱の中にあった。
蠢く木箱を強引に掴み、その蓋をこじ開ける。
果たしてそこには――鈴瑚が推察した通りの物が、しまい込まれていた。
「それって――」
鈴瑚が箱の中から持ち上げたそれは、折りたたまれた、黒く、長い布であった。
画家が描いたのであろう、魚の鱗めいた模様が見える。
「そうだよ、この時期ならでは……なんでしょ?」
小鈴に向けて、鈴瑚は木箱の中身を広げて見せた。
それは吹き流しに使うような長い筒状の布――それに、鯉の鱗と顔を描いたもの。
黒を基調とする真鯉をモチーフにした、手描きの鯉幟であった。
「ご覧の通り、瞳が最後まで塗られてない。まさに、画龍点睛を欠く」
鈴瑚が示した通り、その鯉幟――おそらく、画家が生前に請け負った仕事の中で、完成を待たずに倉の奥へしまい込まれた、未完の絵――は、
左目の瞳が最後まで描かれることがないまま、木箱に折りたたまれて保管されていた。
赤、青、黄、黒など、色が異なる円を幾つか重ねる形で描かれる鯉幟の瞳は、顔の右側の目では、一番内側の黒色までしっかりと塗られている。
一方左側の目は、最後の黒色が塗られないままで、瞳の彩色作業が止まっていた。
「……なるほど、見つからんわけじゃ。龍ではなく」
畳まれた鯉幟は鈴瑚の手の中で、自らゆっくりとその身を伸ばしていた。
この布が勝手に動き出し、木箱を揺らしていたことは明らかである。
「そう、龍になろうとするもの。龍になるために、滝を登って天を目指すもの」
それが、鈴瑚が出した、画家の頭上を飛び回る龍の正体であった。
龍ではなく、鯉の絵。
それも掛け軸や額縁の中ではなく、本物の空――天を泳ぐ鯉である。
「でも、どうして鯉幟だと……」
「一つには、あの画家が言った『時間がない』って発言、かな」
小鈴の疑問に、鈴瑚は人差し指を立てて答えた。
「描きかけの絵を完成させる上で、タイムリミットがあったのよ。締め切り、納期……まあ、言い方は色々あるけど。
要するに、未完成の龍は、誰かに頼まれて描いていたものじゃなかったのかな、って、わたしは思った」
あれだけ多くの人間が探しても「未完成の龍の絵」が見つからぬ一方、最初から半ば無視されていた「絵画以外の作品」――看板や祭具、
広告などにあの龍の正体があるのではないか、という推測を、鈴瑚は立てていた。
「この日までに描き上げてくれ、みたいな依頼があったんじゃないかってね」
無論その推測だけでは、件の作品が「請け負いの仕事」だと断定はできない。
だが、マミゾウから聞いた鯉幟の由来と、昨晩の清蘭との会話から、鈴瑚は己の「推測」を「仮説」の域まで肉付けすることに成功した。
「画家の霊はそう言いながら、ここ一週間で明らかに出る頻度が上がっていた。五月が近づくことで、絵の締め切りがやって来る、って言わんばかりにね」
そしてまさに今日この日、端午の節句を迎えた。
「……それだけで、その絵が鯉幟だと踏んだというわけか?」
「もう一つ。霊も、龍も、雨の日にしか現れないからよ」
鈴瑚は天に指先を向け、倉の天井の向こうに広がる空を指す。
「空を川にたとえるなら――雨っていうのは、滝なんじゃないかって」
文字通り「滝のような雨」という清蘭の一言が決め手であった。
雨が空に落ちる滝であるならば、その滝を上り龍になるのは、空の川を泳ぐ鯉。
すなわち、天へ昇り龍となる故事になぞらえ、立身出世の象徴として空に掲げられる魚の絵――鯉幟こそが、あの龍の正体ではないか。
マミゾウに教えられた情報がなければ、清蘭が与えてくれたヒントがあっても、その考えには至れなかったであろう。
「龍になりきれぬ半透明の龍、それは片目という理由だけではなく――」
「最初から、龍ではなく、龍になる前の生き物が描かれた絵だったから」
鈴瑚の手の中で、鯉幟は本物の魚のように身をよじり、震わせていた。
明らかに、ただの絵ではない。
無機質な布と塗料からなるその物体が、生きていた。
だがそのこと自体には、マミゾウも小鈴も、鈴瑚も驚きはしない。
使い古されたままに放置された道具や、理不尽に捨て去られた人形などが命を得て、
ひとりでに動き出す妖怪――付喪神の存在は、幻想郷ではそう珍しいものではない。
付喪神が生まれる経緯は道具ごとに様々であるが、無生物の存在にすら命を宿す、地上の「穢れ」がいかに濃いものであるかを象徴するような種族であった。
鈴瑚自身も、地上に住み始めてから、そうした妖怪を幾度も目にしている。
「でも、鯉幟はずっとこの倉に、しかも箱入りでしまわれていたんですよね?」
「付喪神の幽霊……いや、生き霊とでも言うべきかの」
「その解釈で、いいと思う」
鈴瑚は改めて、この鯉幟が一連の騒動を起こすに至った経緯に関する、自身の推測を二人に説明した。
おそらく、画家が死んだ段階で、この鯉幟は畳まれ、木箱に閉じ込められた。
完成を待たずに死んだ画家の未練か、はたまたこの鯉自身の無念か、あるいはその両方によってか――左目が未完成の鯉幟は、箱の中で付喪神として目覚めた。
が、妖怪となったばかりで弱い力は、倉どころか木箱から己を解放する力さえ、持っていなかった。
迫って来る端午の節句、最早この世にいない生みの親、一向に描き込まれることがない左の瞳――様々な要素が、
まだ鯉幟としても不完全なこの付喪神の「肉体」から、半透明の霊体として魂を解き放つに至ったのである。
「絵としてすら未完成の鯉が、既に龍の魂を宿しているとは」
気高い魚じゃ、と言いながら、マミゾウは鯉のぼりの鱗模様に触れた。
「じゃあ、あの絵描きさんの幽霊は、もしかして」
「やりかけの仕事に未練があったのは、間違いないと思う。でもそれ以上に、
ああして空の上で暴れてる自分の絵――このお魚が可哀想で、いつも一緒に現れたのかも」
正確にどちらが先であったか、今は知る由もないが、先に化けて出たのは画家ではなく、この鯉の絵の霊であったと言われても、合点が行く話ではある。
「どっちにしても、この鯉幟に目を描いてあげなきゃね」
鯉幟は既にその長い身体を伸ばしきり、倉の中の空気に頭と尾をゆったりと漂わせている。
雨雲の中で荒ぶっている片目の龍の姿とは結びつきにくいが、あの画家が遺した作品の中で、現状おそらく唯一の、ようやく見つかった「画龍点睛を欠く」絵である。
「それでもあの画家が納得せんかったら、何とする?」
「それは……ま、その時考えましょ」
やや意地悪な質問をしてきたマミゾウであったが、鈴瑚の立てた仮説を疑っている様子ではなかった。
「くく。まあ、今日のこの日に天へ上りたくない鯉など、おらんじゃろうな」
今日の内に絵を描き込み、空へ掲げてやる必要があった。
大元の依頼人がすぐに見つからずとも、それだけは急がねばならない。
「わたし、絵描きさんたちに知らせてきます!」
小鈴は嬉しそうな声でそう言うと、早足で倉の入口へ向かった。
そのまま戸口に手を掛けたその姿を見て、マミゾウが顔を強張らせた。
「いかん小鈴、待て――」
しかしその言葉は、戸を開く小鈴の手を止めるには、数秒程遅かった。
そしてその数秒間で、戸口から流れ込んで来たものがあった。
早朝の曇り空の、弱々しい光。
強い雨の音。
湿気を含んだ空気。
それらが生暖かい風に乗って倉の中へ入り――鈴瑚の手の中の鯉幟に、触れた。
おそらく画家が死んでから今日まで、この魚が求めてやまなかった、天へと続く風の道が、そこに開かれていた。
鈴瑚の手の中の布が、不意に大きくたわみ、その指先から逃れた。
そのまま空中で何度か身をよじると、一気に戸口へ向かって泳ぎ進んだ。
「小鈴っ、戸を閉めいっ」
その言葉もまた、小鈴の手を動かすには、遅い。
僅かに開いた戸の隙間――龍は勿論、本物の真鯉ならば稚魚くらいしか通れないような狭い幅の――をあっという間に通り抜け、巨大な片目の鯉は、倉の外へ出た。
「まずいわね……」
待ちに待った端午の節句のこの日、空には滝――雨が降り、木箱は開かれ、倉の重戸もついに外に向かって開かれた。
だが、肝心の鯉の絵は未だ「画竜点睛を欠いた」ままである。
まだ鯉にすらなりきれていない鯉幟の付喪神は、このまま空へ泳ぎ出したところで、龍になれるのだろうか。
そもそも結局絵が完成しないままであれば、あの画家の霊が納得しないだろう。
『目を、塗ってくださらぬか』
という画家の願いを叶えるには、再びあの鯉を捕まえる必要があった。
「あの、わ、わたし」
小鈴はまずいことをした、という顔で声を震わせていた。
「……何、気にするな。お主は自分が言った通り、画家連中にこのことを知らせよ」
マミゾウは小鈴の頭に優しく手を置くと、改めて戸を開いた。
赤い蛇の目傘を開き、その手に握らせる。
「すみませんっ!」
小鈴はそれだけ言って頭を下げると、雨が降る通りへ走り出して行った。
「さて、団子屋よ」
「うん。追いかけなきゃね」
既に大分離れてはいたものの、支柱もないままに空を縦横無尽に泳ぐ鯉幟など、人里広しと言えど、一匹しかいないのであった。
※ ※ ※
里の大通りでは、起き出してきた人間たちが空を見上げて騒いでいた。
端午の節句、あちこちの民家から見える幾つもの鯉幟の中で、一匹だけ、本物の鯉のように自ら動き、泳ぎ回っているものがいるのだ。
何の妖怪だ、怖い、巫女を呼んで来い――そうした言葉が聞こえる中、鈴瑚とマミゾウは片目の鯉幟を追いかけ、人だかりが一番大きい場所へと辿り着いた。
鯉は相変わらず動き続けているものの、その場所からの移動は止めた様子だった。
降り続く雨の中、上へ、上へと泳ぎ、ある一定の高さまで行くと、力尽きたように下方へと落ちる。
そのまま地面に落ちることはなく、また体制を立て直し、天へ向かう。
だが何かに阻まれているかのように、鯉幟はやがて落ちて来る。
その一連の流れを、繰り返していた。
その姿は流れに逆らって滝を上るも力及ばず滝壺へと落とされ、その度にまた滝へと挑んでいく鯉そのものであった。
手描きの鱗や顔は耐水性の塗料で描かれていたのか、雨水で落ちたりはしていない。
挑戦を繰り返すその泳ぎも、力強いものであった。
だが、鈴瑚の目にはどうしても、天の龍門は、あの鯉に向かって開かれていないように見える。
理由は一つ――あの鯉幟はまだ完成していない、鯉としてすら未完成な存在。
その魂ですら、点睛を欠いた画龍の、不完全な姿のままだったではないか。
「やはり、天を目指すかよ」
「あのままじゃ無理よ!一旦捕まえて、瞳を入れてやらないと」
画龍点睛の故事を小鈴に聞かされた時のことを、鈴瑚は思い出していた。
あの鯉幟が本当に龍になれるかどうかは兎も角として、この状態は、画家も、絵の完成を願った者たちも、誰も望まないものであった。
このまま雨が止み、端午の節句が終われば――あの鯉は動きを止めるだろうか。
妖怪としての力を失い、描きかけの絵が放置されたままの、黴臭い布に戻るか。
それはひどく悲しいことに思えた。
もしくは絵としての完成を迎えられず、端午の節句の空を彩るという、鯉幟本来の役目も果たせずに終わったことを怨み憤るか。
その果てに、さらに強力で凶悪な妖怪になり果てるのだろうか。
それもひどく悲しいことだと、鈴瑚は思った。
「しかし、里の人間どもには無理じゃぞい」
「……一応わたしも、飛べはするけど」
空中であの鯉を捕獲し、地面に押さえつけて、小鈴が呼んだ画家に目を入れさせる。
理屈の上では簡単だが、少しでも手荒にすれば布が破けたり、模様を汚したりする危険性があった。
それで鯉の絵に瞳の黒が入っても、果たして「完成」と言えるかどうか。
「かといって、里以外の人間ではのう」
「退治しちゃうでしょうね。その後はお焚き上げしてサヨウナラ、と」
あれが里で少なくない人数の人間から同情を得ている画家の絵だということを説明しても、ああして付喪神として暴れ出した以上、巫女の目には留まるだろう。
まして場所が里の中である。
起こしている騒ぎの規模から考えれば、手荒な手段を用いた鎮静化は、十分に正当化されてしまえると見える。
そうしたことがわかる程度には、自分もこの里に馴染んだのだな――そんなことを考えている場合ではないことに、鈴瑚は気付いた。
「……うーん、描くしかない、かなぁ」
「何じゃて?」
「このまま描くしかないかしら、目」
事態を早急に収め、かつ手荒な手段で絵を駄目にしてしまわない方法。
鈴瑚は空を見ながら、一つだけそれを思いついた。
「協力してくれる?今日の分のお団子、タダでいいわよ」
「それは有難いが、このまま描くとは――そも、誰に目を描かせる気じゃ、お主」
鈴瑚は黙って、指先を自分の顔に向けた。
「……お主、団子売りのみならず、絵描きの心得もあったんか」
「ないよ。でもまあ、目くらいなら、なんとか」
思いついた作戦をマミゾウに伝えながら、鈴瑚はその内容にこう思っていた。
つくづく、これは自分よりも、清蘭の領分だな、と。
※ ※ ※
鈴瑚は通りから二百メートルほど離れた物見櫓の上に立ち、未だ天への滝登りを止めない鯉幟を見ていた。
傍らには、先ほどマミゾウに用意させた数本の絵筆と、黒い絵具を溶かした瓶、そして串団子を数本乗せた柏の葉が、一枚置かれている。
鈴瑚は串団子を一本手に取ると、それを自らの口に運ぶ。
一噛みで薄い餅の皮が破れ、餡の甘みが舌の上に広がる。
月の都にいた頃から大好きであった、清蘭が作る餡団子の味であった。
微かな柏の葉の香りが、鼻孔の奥を心地よく刺激する。
美味い――ひたすらにそう感じながら、鈴瑚は次々に団子を咀嚼し、喉の奥へと飲み込んでいく。
今頃、清蘭は山の住人達への対応で大忙しだろう。
彼女の団子は、本当に美味い。
世界で一番、いや、宇宙で一番美味い。
清蘭の手は、銃剣を握り、異次元の弾丸で敵を撃ち殺すのではなく、こうして美味い団子を作るものであってほしいと、鈴瑚は思う。
柏餅団子が当初抱えていた致命的な問題は解決済みだ。
多くの妖怪が、彼女の作る団子を求めて庵にやって来るだろう。
「わたしも、さっさと仕事にとりかからなきゃね」
これからしようとしていることは、自分よりも清蘭が得意な作業である。
だが、テレパシーを使って里まで呼びだすことは、しなかった。
自分と彼女が――月の都の軍人ではなく、穢れた地上で暮らす、しがない団子屋の二人が――今日のこの日にするべき仕事を、わかっているから。
するべきことを、できないままに終わるのは、悲しいこと。
鈴瑚はそんな悲しみを清蘭に背負わせたくはなかったし、今この場所でそれに苦しんでいる画家とその絵を、悲しみから解放したいと思った。
だから、自分が、この場で終わらせる。
鈴瑚は思いながら、体温が上昇していくのを感じていた。
団子から摂取した栄養分は内臓から吸収され、急速に勢いを増す血流によって、身体の隅々まで運ばれていく。
視界が広くなり、遠くの景色の輪郭が明確になり、鮮明に色味を増す。
大通りの喧騒、雨音、湿気、あらゆる刺激に対し感覚が鋭敏になる。
筋肉の繊維は太く肥大化しながらも、柔らかくしなやかな動きで駆動を始める。
胃の中の団子の消化が進むほどに、鈴瑚の身体能力は全ての面において、強烈かつ急速に活性化されていくのであった。
団子を食べるほどに強くなる程度の能力――他のどんな玉兎にもない、鈴瑚の力。
たった今口にした団子は、合計で八つ。
それらが完全に消化・吸収され、体内で栄養素として使い尽くされてしまうまでの間に限り、鈴瑚は己の動体視力、筋力、
指先の感覚の鋭さ、その他身体機能の全てを、並の玉兎の百倍近くまで引き出すことができる。
「……清蘭なら、一発で決めるんだろうけど」
鈴瑚はそう言いながら絵筆を一本手に取り、その先を黒い絵具に浸した。
筆先の白い毛の束が、すぐにつやのある黒に染まる。
鈴瑚はそれを右手に持ったまま、槍を投げるように腕を引く。
左手と、視線の先が向けられるのは、落ちては登りを繰り返す鯉幟――その顔の一部、瞳が描かれず空白となったままの、左目である。
限界近くまで視力が強化された鈴瑚の目には、鯉幟の姿が間近にあるかのように、細部まで鮮明に見える。
黒い鱗を縁取る金色の塗料や、うねりを繰り返す布の表面に寄った皺の一本一本、そして瞳の一番内側が白抜きになったままの、左目。
鈴瑚は櫓の上から絵筆を投擲し、鯉の左目に色を入れようとしていた。
近寄って捕まえようとすれば、おそらく鯉は抵抗する。
かといって、宙を動き回る布を追いかけて飛び、その場で瞳を描き入れる作業をするのは、至難の技であった。
同じく困難を極めるが、筆先を一瞬、正確に鯉の左目に触れさせることで、そこに色を付けるという一種の「狙撃」の方が、自身にとってやり易いと鈴瑚は感じた。
付喪神と化した鯉幟を、そうと認識させる暇も与えないまま、完成させる。
団子の身体能力強化により、一定時間であれば、イーグルラヴィが誇る腕っこきの狙撃兵(スナイパー)を遥かに上回る精密射撃が可能となる鈴瑚ならば、理論上それは可能だった。
失敗は許されない。
誤って別の場所に絵具をつけてしまえば、それは絵の完成度に対し致命的な損害を与えることになるし、鯉が攻撃を警戒し、また逃げ出すことも考えられる。
また、あまり強く筆を投擲しすぎると、今度は布を突き破る危険性もあった。
絵筆を数本、マミゾウに集めさせたが、二本目を投げる機会はおそらくない。
いずれにしても求められるのは、正確に鯉の左目を狙い撃つ射撃の腕と、筆があくまで「左目に色を入れる」目的だけを達成する、絶妙な力加減。
団子による身体能力強化がなくとも、異次元から弾丸を自在に召喚して発射する力と、薄皮の餡入り団子を潰すどろか、
形一つ崩すことなく串を打つ精密さを誇る清蘭の方が、明らかに向いている作業であった。
だがこの場では、自分がやらねばならない。
改めて、ここまで入れ込む必要がある話か――という疑問が脳裏をよぎるが、今の鈴瑚に、ここから退くという選択肢はなかった。
「ったく、少しはおとなしくしなさいよね」
一瞬だけ閉じた瞼の裏に、悲愴な顔をした画家の顔と、片目の龍、そして清蘭と、何かをやり残したまま死んでいった、幾人かの同胞の顔が浮かんだ。
「悲しいのはっ」
鈴瑚が大きく目を見開いた。
肩に、肘に、指先に籠もる力を、一刹那の間に体感一ミリグラム単位で調節すると同時に、その視界の中心に鯉幟の左目――その瞳の奥の空白をとらえる。
高みへ登り、空に阻まれ、一度低い場所まで落ちて来る、その時が機会である。
「嫌でしょうがっ!」
鈴瑚はその姿勢から、体幹から四肢の末端、頭頂に至るまで、あらゆる部位に余計なぶれを生じさせない正確な動きで、絵筆を投擲した。
物見櫓の上から真っ直ぐに飛んだ絵筆は、雨の中を鯉幟に向かって勢いよく飛び、その左目に黒い先端を向けながら――しかし、徐々に減速していく。
鈴瑚は高まった視力で、思い通りの方向と速度へ絵筆が飛んだことを確認した。
「……よっし」
絵筆の先が空虚な白い場所へ触れる、そう思った瞬間。
鯉が、明らかに不自然な方向へ頭を倒した。
絵筆は鯉の頭があった空間を、そのまま素通りした後、完全に速度を失い、地に落ちて行った。
「……何!?」
鯉幟が、自らとったような動きではなかった。
確かにあれは布、自由自在に折り曲げられるが、あの鯉幟はそれこそ本物の鯉のように空を泳いでいたのである。
それが、急に外部から力を加えられたかのように、宙で頭を折り曲げた。
幸い、絵筆の先が別の場所に触れることはなかったが、明らかに不測の事態だった。
団子によって強化された視力は、まだ生きている。
鯉幟を見れば、先ほどの不自然な動きの原因は、すぐにわかった。
「冗談でしょ……!」
鯉幟の下に集まった人だかりから、石が投げられていた。
重い石が当たれば、布は当然、その方向に折れ曲がる。
先ほどの動きは、やはり鯉幟自身の意思によるものではなかった。
当初、あの鯉を妖怪だと――最早全く間違ってはいない解釈ではあるが――判断し、怖い、巫女を呼べと口にしていた人間がいたことを、鈴瑚は思い出していた。
突然ひとりでに動き出し、里の上空を飛び回る鯉幟を不気味に思う人間がいることなど、考えてみれば当たり前であった。
まだまだ、里に対する理解が足りない――鈴瑚は舌打ちしながら、二本目の絵筆を手にした。
まだ団子の効果は続いている。それはいい。
だが、幾人かの人間が投げて来る石による不規則な動きは、先ほどと比べ、狙いを定める難易度を大いに高めてしまっていた。
視力と同じく強化された聴力は、鈴瑚の長い耳に人々の声を届けてくる。
――化け物め、里から出て行け。
――子どもの日に、子どもを怖がらせやがって。
「まずい、まずいぞ、これ……」
事情を知る小鈴が必死に叫び声をあげて、石を投げる人々を制止しようとする声も聞こえるが、石を投げる者たちの罵声の方が、明らかに多く、大きい。
石が強く当たれば、布が破れ、模様が削れることもある。
そうなれば、仮に絵筆の投擲が成功しても――あの画家が、石を投げている者たちの中にも、今はファンがいるかもしれない、哀れな画家が――悲しむだろう。
鈴瑚の心に焦りが生まれる。
研ぎ澄まされた神経が先端まで通っているはずの指先が、小刻みに震えはじめた。
どうする。どうする。一度通りへ戻り、人間たちを鎮めるか。
今の脚力なら――いや、それでも通りは、遠い。
唇を噛んだ鈴瑚の視界に、鯉幟へ向かって一斉に投げられた石が見えた。
万事休すの四文字が、脳裏に浮かぶ。
「――ここは人里大通り、誰が呼んだか、かちかち通り――」
その呟きを、強化された聴覚がとらえた瞬間であった。
空に舞った無数の石礫の全てが、ぽん、という間の抜けた音と共に、小さな鳥の姿に変わった。
小鳥たちはそのまま鯉幟の周りを飛びつつ、嘴から乾いた音を響かせた。
かちかち
かちかち
鳥たちは嘴を打ち鳴らし、変わらず天を目指す鯉幟を守るように、一緒になって雨雲へ向かって飛んでいく。
「――身体こまいが猛禽の、その名呼ぶなら、かちかち鳥――」
人間たちは、突然起きたさらなる怪現象に、呆気にとられたように空を見上げるばかりであった。
石を投げる者も、その内の一人の腕に飛びついて制止に入っていた小鈴も、皆一様に手を止めている。
やがて鯉幟の周囲を飛んでいた小鳥の群れがゆっくりと散開し、どこへともなく飛び去って行くと――残ったのは雨の中、
やはり一定の高さまで登って力尽き、ゆっくりと高度を落としてくる、鯉幟の姿。
それは雨粒の他に遮る物も、邪魔をする者もない状態で、白抜きの瞳を晒したまま、ゆっくりと鈴瑚の視界に降りて来る。
互いの視線が合ったような錯覚を、鈴瑚は覚えた。
だがそれは、あくまで錯覚。
あの鯉の左目は、きっとまだ、見えないのだから。
「……ったく、うちは本当に」
指先の震えは止まっていた。
視界の中心に捉えたその白い瞳に向け、鈴瑚は再び、筆を投げる。
「客に恵まれてるわね!」
筆先の黒い絵具が、吸い込まれるように白い空白を埋めるのを確認した瞬間。
二度目の投擲にその全てを費やされた団子の効果がゆっくりと切れていくのを、鈴瑚は感じていた。
五
雨が上がったのは、日が暮れてからのことであった。
「……そうですか」
庵に帰った鈴瑚から一通りの話を聞き終えた清蘭は、安堵した声で言った。
既に二人は遅い夕食を食べ終え、この日の団子の売上の勘定作業に入っていた。
「清蘭のお陰よ」
鈴瑚は卓袱台を挟んで座る清蘭に微笑んだ。
「わたしは、何もしてないですよ」
清蘭は、照れ臭そうに視線を逸らした。
「そんなことない」
雨を滝になぞらえるというヒントだけではない。
自分があの画家に対して感じていた悲しみに気付かせてくれたのも、清蘭だった。
「あの鯉幟が、天に登れたのも、きっと」
左の瞳に色が入った鯉幟は、それまでと同じように天へ上り、そのまま雲間へ消えた。
越えることができなかった高さを越え、雨の滝を上りきった。
その後、あの魚が龍になれたかどうか、鈴瑚には知る由もない。
『何とも、判断がつかぬ話じゃなあ』
通りに戻って礼を述べた時、マミゾウはそう言った。
『付喪神が龍になった前例など、ないからの――』
博識な彼女にも、あの鯉幟の行く末は見当もつかなかった。
ただ、あの魚は間違いなく、天へと登った。
それだけは、誰の目にも明らかな事実なのであった。
「ところで鈴瑚さん」
「ん、何?」
「売り上げが足りない気がするんですけど……」
この庵で清蘭が売った分、鈴瑚が里で売り歩いた分、いずれも、この日に仕込んだ全ての団子を売り切ることができた。
だが、卓袱台の上に広げた売上金の合計が団子の数と合わないと、清蘭は言う。
「あ、ああー、それね」
鈴瑚は頭を掻きながら答えた。
「さすがにマミゾウたちには、サービスしなきゃと思ってさ……」
倉での鯉幟探しへの協力に始まり、絵筆の準備、さらに土壇場で機転を利かせたマミゾウの活躍がなければ、鈴瑚の作戦は失敗に終わっていた。
里の人間たちが鯉幟に石を投げた時、マミゾウはそれらを鳥に化けさせ、鯉幟を守ったばかりか、筆を投擲するための視界確保に協力したのである。
一発目の投擲の失敗、鈴瑚が立たされた窮状、いずれをもあの場で即座に察して対応したマミゾウの洞察力には、さすがに鈴瑚も脱帽した。
『今日の分のお団子、タダでいいわよ』
当初の約束通り、この日の団子を無料で渡すことに異論はなかった。
なかったのだが――その数において、マミゾウには欠片ほどの遠慮もなかった。
普段買っていく寺の仲間の分に加え、参拝しにくる子どもたちへ配ると言ってマミゾウが口にした団子の本数は、この日の売上の実に四分の一に相当するものだった。
これに小鈴の分も加えた、相当な大盤振る舞いをしたことになる。
「いやあ、マミゾウの奴、ここぞとばかりに持って行っちゃってね」
参ったわよ、と言いながら鈴瑚は苦笑した。
「……最近よくお話に出てきますよね、その、狸のお客さん」
「そう?」
そんなに頻繁に話しているかな、と首を傾げつつ、鈴瑚は清蘭の声が少しずつ低くなっていることに気付いた。
あまり機嫌が良くない時の声だな、と心中で舌打ちする。
感謝の印とは言え、少々サービスしすぎたか。
「ま、まあ今日は少し赤字が多かったけど、その分今後も贔屓にしてくれるからさ、マミゾウは。悪い奴じゃあ、ないよ」
「……名前で呼び合う仲、なんですか」
「え?」
「何でもないです」
清蘭はそれだけ言って、売上金の勘定を再開し始めた。
どこか重苦しい空気が、二人の間を流れる。
「怒ってる?ごめんね、今度から値引きの時は、ちゃんと清蘭に相談を」
「別に、怒ってません!」
鈴瑚の言葉を遮るように、清蘭は声を強めた。
まとめた売上金を金庫代わりの鍵付き木箱にしまうと、清蘭は席を立つ。
「清蘭?」
「明日のお団子の仕込みをします」
「え、もう?」
急ぎ足で調理場へ向かう清蘭の背中に、鈴瑚は声をかけた。
「売り上げを取り戻さないといけませんし。明日は今日の倍、お団子を売ってきてくださいね、鈴瑚さん」
「えぇ?ちょっと待って清蘭、明日は特に何もない日なんだけど」
明日は端午の節句の柏餅需要のような、特別な販売チャンスがある日ではない。
まして今日の倍の数を売り上げるなど、到底現実的な話ではなかった。
「じゃあ、その分いつもより頑張ってください」
鈴瑚の方を振り向かないまま、清蘭は冷たく言い放った。
「……やっぱり怒ってるよね?清蘭」
「怒ってません」
「うう、ご、ごめんってば!もう勝手に無料サービスなんてしないから」
「だーかーら、怒ってません!」
調理場に立った清蘭の背中は、最早どのような弁解も謝罪も受け付けない、という強い意志を放っているように、鈴瑚には見えた。
一難去ってまた一難、鈴瑚は頭を抱えることしかできない。
「……そっちじゃないもん」
最後に清蘭がそう呟いた言葉も聞き逃す程に、困り果てた鈴瑚なのであった。
※ ※ ※
五月五日を境に、死んだ画家と、片目の龍の霊が里に現れることはなくなった。
探し続けられていた「未完の絵」があの鯉幟であったことも、本居小鈴の懸命な説明が功を奏し、少しずつ人々の中に広まっていった。
早朝に起きた鯉幟の騒動のせいか、端午の節句の間も、画家の霊を見た者はいない。
画家がこの結末に納得したのかどうか、それを直接確認できた者もまた、いない。
それでも雨の日に画家の幽霊が出ることはなくなったことと、さらに後から語られたある情報により、一連の騒動は「終わった」ものと解釈されていた。
鯉幟の左目に黒い瞳が入り、ついに天の高みへと登っていく瞬間。
その背中に乗って、鯉と共に雨雲の中へ消えて行く画家の姿を、複数の人間が目にしていたという。
綺麗なお話でした
とても面白かったです
とても楽しいお話でした。こどもの日の伏線を柏餅の下りで回収していたので、その後鯉幟に続く展開が読めず、龍の正体に素直になるほどと思いました。上手い構成だなぁ。
あと、マミゾウにちゃんと格好良い見せ場があったのも良いですね。
またシリーズの続きを期待しております。
一つ欲を言えば、行頭に一つスペースを開けて貰えると行の区切れが分かりやすくなってもっと読みやすくなったのでは、と思いました。