Coolier - 新生・東方創想話

どうぞよろしく、地上の馬鹿ども

2016/09/09 21:39:55
最終更新
サイズ
35.14KB
ページ数
1
閲覧数
3673
評価数
9/21
POINT
1440
Rate
13.32

分類タグ

 団子を食うほど強くなる。そんな力は一切ない。

 これがただの冗談に過ぎないことなど言うまでもないと思っていた。一人の例外を除けば玉兎にだってこんな話を信じる馬鹿はいない。
 ところが地上の連中ときたらどうだろう。奴らめ、揃って真顔で頷いてみせるのだから、これには唖然とする他ない。
 私はそれまで清蘭ほど頭の貧しい輩はこの世にいないと認めていたが、なるほど地上は広いらしい。ここには清蘭に等しい馬鹿がいる。

「良かったなあ」と言ってやると、「なんにも良くないよ。月には帰られないし、どうしよう」と清蘭の声は頼りない。
 陽射しが湖面を跳ねる様に目をやっていた私は、汗ばむ額を手の甲で拭い、そっと隣を覗きこんだ。清蘭は膝を抱えて、山頂の絶え間ない湖風が前髪に絡むところを、じっと眺めているようだった。
 妙な奴だ。この片田舎には、清蘭の頭の具合に馴染む奴らで溢れている。無人の前線基地に未だにこだわる彼女の孤独も、いくらか安らいで良いはずだ。
「寂しがるなよ。お前の仲間がいるだろう」となだめると、清蘭は黙り込んでこちらを見つめるばかりである。
「どうした」
「ううん、だいじょうぶ」
 私が確かめると、清蘭はなにやら調子を取り戻したようで、いつもの気の抜けた笑みを浮かべた。
 良し、良し、と胸のうちで得意に頷いていると、清蘭が弾む声音で私に言う。
「そうだよね、鈴瑚がいるもの」

 たちまち頭に血が上った。
 仲間とは、清蘭の締まりのない頭脳に付き合えるであろう地上の輩を示したわけで、その馬鹿の列へ私を組み込む無礼は度しがたい。
 私は清蘭のふかふかした頭をぽかりと叩いた。
「なにするのよぉ」と清蘭がひんひん喚くので、「お前の故障を直しただけだ」と教えてやった。『不足の穴は拳で埋めろ』と就業規則にも書かれている。
 ところが清蘭は未だ不足の頭を抱えて悲壮を漂わせるので、これはなにか代案が必要かという気になった。
 清蘭の頭はむやみにやわらかいくせして、芯は頑固にできている。対してこちらの拳は骨ばって見るに硬そうで、その実脆い。拳で穴を埋めるにも限度がある。
 私は拳を開き、清蘭の先ほど叩いたところに蓋をするよう押さえてやった。満遍なくふさぐために、その周囲もさするようにした。不足の頭もこれで穴はなくなろう。
 事実、清蘭はすっかり大人しくなっている。ついにはだらしのない笑みすら浮かべ始めたので不気味である。

「しっかりしろ」と言って手を離すと、なにやら清蘭は物欲しげにこちらを見上げてきたが、やがてすっくと立ち上がると、今度は私が見上げる形になる。清蘭は発育が無意味に良いので、上背も私より余分にある。向かい合えばこうした構図は避けられない。
 だが、この姿勢はどうも面白くない。清蘭のくせに生意気じゃないだろうか。
 『生意気には膕(ひかがみ)を突け』と就業規則にも書かれているので、清蘭の背後にすばやく回り込み、膝裏をつま先で蹴りあげる。途端に「うきゃあ」と悲鳴をあげて、清蘭は崩れ落ちた。
 この愉快に私の唇は慈しみの弧で二分されたが、清蘭に見られるとまたうるさいので、手を口元に添えてやり過ごした。
 これではまるでサグメ様のようだな、と自分の仕草を物静かな上役に重ねていると、彼女の手の下にもまた無心の微笑みが湛えられていたのではないかという考えがふっと浮かび上がった。
 しかし、あの隠された口元を確かめる術はもうあるまい。私たちが地上へ下るときに通った経路は、今や完全に閉ざされていて、こちらが月に戻ることは叶わない。
 打ち明けると、探査車には地上から脱出するためのポッドの機能が備えられている。だが、経路が閉ざされた点を考慮すれば、戻ったところで居場所がないことは知れていた。

 私は時機を計りかねているため、清蘭にはポッドの所在を知らせていない。
 清蘭の照った心は月への帰還を思うことで保たれる平穏であり、それが破られたときの苦悩はいかに鈍い精神であろうと憂鬱の濡れた重みに窒息する。しかし、清蘭が一切を知れば、ポッドでの帰還を強行することは目に見えている。それは任務の放棄と同義であり、背信の罰は免れない。『裏切り者は排除しろ』と就業規則にも書かれている。
 私はこの規則が清蘭の運命を担うことのないよう、その胸の穴の支柱となるものを地上で見出すときを待っている。いや、私が規則に背いたところで、月に戻った清蘭を迎えるのは同胞の冷たい銃口の列に違いなく、それは何としても避けねばならない事態であった。
 自白してしまうと、清蘭の馬鹿には愛嬌が同居していて、その加減のなさに私は一種の愛着を見ている。いつか清蘭のために差し出す手が、彼女をこの世から片づけるものとなったとき、いかなる情をも削がれた針の心が、私の胸を突き刺すだろう。
 だが、いずれは告げねばならないときが来る。この任務に帰路は決してないのだから。





 団子を食うほど強くなる。そんな才とは縁がないが、団子は私を喜ばせる。

 私が団子を食うほど云々と口上を垂れるのも、この好物に繋がっている。
 気の良い同僚相手に言えば快く団子を振舞われ、さあ試してみろよと腕試しをするのが常であった。そこへ冗談とせずに、やたらと感心してやってきたのが清蘭である。
 誰にでも一つは取り柄があるもので、清蘭はそのぽややんとした頭と違って、膂力に優れた身体をしていた。これは団子作りに向いていて、蒸し上げた後に丹念に強く突くことで、冷めてもきめが細かく、やわらかい食感の美味い団子が出来あがる。
 清蘭の団子が絶品であることを、私の舌は認めざるを得なかった。彼女の団子は日々の習慣となって、今や私の懐に納まっている。
 そして、この団子の効き目は私だけでなく、地上の者にも覿面だった。

「これで見逃せ」と団子の詰まった小袋を一つ放り投げると、犬走はいつものように危なげなく受け取った。
 万緑の中に浮かぶ犬走の顔は、真昼の木漏れ日に照らされようと、そこに払拭し難い陰が覗く。しかし、これは一見の錯覚に過ぎず、声の一つも交わせば全くの見誤りと知れるだろう。現に私がそうだった。
 前線基地は地上の者に位置が割れてしまっている。探査車は動かせば跡が目立つので、山頂から少し下った目立たぬところに迷彩を仕掛けて置いてきたが、私と清蘭は移動を余儀なくされた。
 基地と言っても実態は野営なのだから移すことに問題はないが、清蘭が好き勝手に散らばった部隊の仲間の帰還を思って、下山を拒んだ。しかし居座ろうにも山は天狗どもの縄張りで、彼らの目から逃れるためには定期的に山中を渡り歩いて寝床を変える必要があった。
 犬走はそこへやってきた哨戒の白狼天狗である。
 もちろん、運悪く天狗に見つかることは初めてではなく、そうしたときは私が相手の気を引きつけておいて、影に控えた清蘭が異次元から弾丸を当て、相手が目を回しているうちに逃げるといった具合であった。
 しかし、犬走は尋常でない感覚の持ち主で、認知の外より現世に干渉する異次元弾の座標を気流の乱れから嗅ぎ取り、たやすく刀で弾いてみせた。これはいけないと観念したときにふと思い切って、清蘭の団子を捧げたところ、犬走は刀を納め、私は同好の士を持つに至った。
 以来、犬走は私と清蘭を木々の隙間から見つけ出しては団子を攫って帰っていく。

「明朝、この一帯を見回るぞ」と犬走が素っ気なく言った。
 犬走はこのように他の哨戒天狗の動向を時折洩らすのだが、これは団子の代金のつもりらしい。律儀な性分は苦労するぞと思いはするが口には出さない。こうした情報は清蘭の団子をわずかに失う程には価値がある。
「そんなこと話していいの? だいじょうぶ?」とすかさず清蘭が余計な口を利く。
 この馬鹿清蘭、せっかくの情報源を逃す気か。私はじろりと清蘭を睨んだが、向こうはこちらをしばらく見返し、やがて照れたように目をそらした。今のやり取りのどこに羞恥の入り込む余地があるのだろうか。
 『失態は痴態で償え』と就業規則にも書かれているので、私は素早い手つきで清蘭の耳の根元をくすぐった。えひゃあ、うひゃひゃあ、と清蘭は不気味な声をあげて身悶えするが、犬走は眉ひとつ動かさない。

「お前は鉄かなにかで出来ているのか」と私が訊ねると、「それなら甘味など欲しがらん」と犬走は短く答えた。
 言う通り、犬走は鋭い顔つきに似合わず、甘味には目がないらしい。ならば好きなだけ買えばよろしいと言ってやったが、周囲が犬走の輪郭をその気質に当てはめ、甘味嫌いで通ってしまっているようで、そんな中で買い行くなど恥ずかしいとのたまった。
 犬走は恥じらいの火照りが強く、それを真っ直ぐな態度で覆っているのだ。
 あまり話したがらず無口でいるのも、自分の声が好ましくないからと私は見ている。というのは、犬走の声は鈴を思わせる愛らしいもので、哨戒とは無縁の幼さに溢れ、迫力は大いに欠けている。
 こうした犬走の陰の発見は、私と犬走の団子で結ばれた関係を、芯の通ったいわば友情のようなものに仕立て上げた。これが私の甘い独り合点でないことは、犬走のやってくる頻度から考えても疑いようのないところである。

「清蘭さんの団子は実においしい。毎日でも食べていたいです」と犬走がようやく落ち着いた清蘭の手を取り、熱のこもった視線を向ける。
「ほんと? うれしいなぁ。それなら今度はもう少し多めに作っといてあげますね」と清蘭はなにも考えていない調子で請け負った。
 犬走は明らかに目を輝かせ、たどたどしく重ねて礼を述べている。白い尾っぽも右へ左へ揺れていた。
 いや、待て。ちょっと、待ってほしい。
 気恥ずかしさに弱い犬走が尾っぽを揺らすなど、わかりやすい真似をするはずがない。そもそも私と話しているときに、奴が一度でも揺れた尾っぽを見せたことがあっただろうか。
 試しにこちらへ呼んでみると、「なんだろうか」と犬走は生真面目な顔つきで答え、尾っぽはぴたりと地を指した。なんでもない、と再び清蘭に向かせると、尾っぽは風もないのに忙しく揺れる。
 おい。
 おい、犬走。

 清蘭は締まりのない唇からこぼれた笑みが頬を馬鹿のように緩ませ、対照的に犬走の表情はぴくりとも変化していないが、尾っぽは盛んに活動している。
「前から思っていたんですけど、犬走さんって声、とっても可愛らしいですねぇ」
「そう、そうでしょうか。そのう、ええ、それでしたら清蘭さんこそ、私よりも、そのう」
「あはっ、お上手」
「いえ、いえ、とんでもない……ああ、それより如何ですか、山の暮らしは。慣れない土地ではなにかとご不便でしょう。やはり故郷に思いが向きますか?」
「正直に言うと、ええ、そうですね。だけどもう帰る方法もありませんから。今はここで、精いっぱいにやっていければと思います」
 そう言う清蘭の赤い瞳は、故郷の静かな輝きを宿して、名残惜しむようにきらめいていた。その真意が立派な物言いから離れていることは、私だけでなく、犬走にも察しがついたのだろう。
 犬走はすぐには何も言わなかった。岩のように口をつぐむ姿は、然るべき言葉を舌の上に転がっては溶けていく無数のところから慎重に探り当てているように映った。しかし次にはその岩も、犬走の一刀のもとに開かれた。
「何かありましたら、清蘭さん、私で良ければ頼ってください……失礼、そろそろ戻らねばなりませんので」
 犬走は一礼をすると、団子の小袋を大事に抱えて木々の向こうに消えていった。

「地上人ってどんなものかと思ってたけど、犬走さんは優しいし、いい天狗のひとだよね」と長々と手を振って見送っていた清蘭が言った。
 私は考えが散らばってどうにも片付かなかったので、清蘭の言葉を聞いて、ひとまずその膝裏に蹴りを入れた。これは清蘭のふくりとした柔らかな腿と花の茎を思わせる見事な反りのふくらはぎとの照応が、すらりと肥えた下肢のくびれを殊更に示し、妖しい疼きの焦点と見る者には映るところで、率直に言えば無防備な膝裏は明らかにこちらを誘っていた。一切は清蘭の発育の罪に相違ない。
 膝裏を突かれ、間抜けな悲鳴をあげてくずおれる清蘭の姿は、眺めていると心に和むものがあった。
 これで私の気も大分落ち着き、次に犬走に渡す団子は三割の減量で済ませようと画策するところまで回復した。時には清蘭の馬鹿も、心の滋養に良いらしい。





 団子を食うほど強くなる。それは団子一つでどの程度と問われようにも、冗談なのだから定かでない。

 しかし今、私はその詳細に頭を目いっぱい悩ませている。それというのも、食料の調達のために中腹を清蘭と歩き回っていると、妙な二人組がわっとやってきたからだった。
 二人組はこちらの正体を知ってるようで、あれやこれやとくだらない質問を浴びせてくるのだが、これは二人組の片割れが新聞記者で、記事にあることないことを書かれたくないのであれば質問に答えろと迫るのだから閉口ものだ。

「お団子を食べると強くなるってどういうシステムなの? やっぱりお団子が経験値になって、お腹に溜まってLvが上がったりするの? ということは消化しきったらまた一からやり直し? 残るのは増えた体重だけとか? わーそれテンション下がるー」と姫海棠の喋りは留まりを知らない。
 なんともやかましいので追い払いたいところだが、この姫海棠なる記者は立派な翼を背負っており、一目で良く鴉天狗だと分かった。機嫌を損ねればこちらの居場所を仲間に密告されるやもしれず、強気で向かうには具合の悪い相手だった。
「はたタン、Lvってなあに?」と姫海棠の隣で首をかしげるのは古明地とかいう少女である。
 こちらは珍妙な細い管を植物が石にやるように絡みつかせた容姿をしていて、どうにも正体をつかみ損ねていたのだが、姫海棠の紹介で覚りと知れた。
 覚りといえば胸のうちの水面に波紋を立てずに潜る達人である。当然、こちらは清蘭から守っている密事があるのでギクリとしたが、どうも古明地は不自由があるようで、読心が出来ないと言う。私は安堵のため息が漏れ出ないよう、無関心の態度で蓋をした。

「Lvってのはねー、Loveのことだよ、ラブ。やっぱり愛が妖怪を強くするわけ。こいちゃんは愛、持ってる? Lvどのくらい?」と姫海棠がよく回る舌で古明地に応じる。
「お姉ちゃんLvが那由他。多分、あと三回くらいお姉ちゃんにギュってしたら進化すると思うの」
「進化するの? それやばくない? あーでもわかるわかるー。愛を知った女の子ってどんどん綺麗になってくものねー、わかるわー。それで進化したらどうなるの?」
「お姉ちゃんになる。私が」
「あ、そっち系? そっち系かー、健やかなるときも病めるときも命ある限り真心尽くしちゃう系かー」
「控えめに言ってラブアンドピース。こうして世界は平和になった」
 姫海棠と古明地はイエーイと手を打ちあわせて賑やかであるが、その物言いは尋常ではない。
 この二人もまた清蘭に等しい地上の馬鹿に違いないが、突き抜ける方向が反対のため、言動の意味するところがこちらの理解からかけ離れた位置にある。話してみてわかったのは、言葉を重ねるほどに真意が薄らいでいく類の、顔を合わせているだけで疲れる相手ということだった。

 姫海棠の際限ない喋りと古明地の虚を突くような話題の跳躍に、私はすっかり参らされた。こうした面倒は清蘭に任せた方が良い。
 私は話の矛先を巧妙にずらし、四つのきらめく瞳が好奇の光で清蘭を照らすのを見届け、ようやく一息つくことが出来た。
「異次元から弾丸を撃つって普通に考えて強くない? 撃てば必中? やっぱりさー、要人の狙撃とか頼まれたりするの? 背後に立ったら怒る?」と姫海棠の舌はくるくる踊り、古明地が「異次元ってなあに?」とその舌先の招きに付き合った。
「観測不能地点ですね」と清蘭は困ったような笑みを浮かべている。
「見えないところ?」と古明地が訊ね、「そーそー、いっぱいあるよねー、異次元。見ちゃダメなところって。押入れとか通帳の数字とかスカートの下とかさー」と姫海棠がそれに答えた。
「ということは、ここかな? ここだよね? ここにしようよ、異次元」
「古明地さん、裾をつかむのやめてくださいよぅ。あ、引っ張るのもダメですって」
「こいちゃんさー、ランランにラブするのって逆にお姉ちゃんLv下がるんじゃないの? はたタン、そういうのダメだと思う」
「お姉ちゃんは別腹」
「なにそれ名言っぽーい。もっかい言って、メモするから」
「お姉ちゃんは切腹」
「なんか悪いことしたの?」
「お姉ちゃんは異腹」
「衝撃の告白がきた」
 二人のやり取りに挟まれ、清蘭はすがるような目つきでこちらを見てきたが、私は素早く目線をそらした。『被害と悪口は最小限に』と就業規則にも書かれている。
 このような奇矯の輩を相手に束となって立ち向かえば、総崩れは避けられない。そうなると取るべき手段は一つであり、単独で挑む清蘭の背を私は優しく押してやるのだ。

 清蘭はなんとか話題を変えるべく一人で奮闘していたが、話がやがて姫海棠と古明地の馴れ初めに行き着いたところで、私もさり気なく場に戻った。
「文っていう新聞記者がいてさ、窓拭くときとか筆の墨拭きとかにホント使える新聞書くんだけど、そいつと競い合っていた時期があってねー。そのときにこいちゃんと出会ったわけ」と姫海棠が話し始め、古明地がそれに続いた。
「はたタンはねぇ、私が覚りだって知って、楽しい心の中を読ませて喜んでもらおう、なんて考えたのよ。でも私が心をもう読めないってことを話したらね、それじゃあ私の楽しい心の中が全然伝わらないじゃない! って怒りだして私の手を引っ張ったわ。実際に楽しめばわかるから少し付き合ってよ、って。それからは毎日、はたタンがあっちこっちに連れていってくれるの!」
「いやあ、あのときは私もこいちゃんも若かったからねー」
「ねー……って今も若いじゃーん!」
 姫海棠と古明地はイエイ、イエーイと手を打ちあわせてまたも賑々しい。
 放っておくと再び話が厄介な方へ転がるやもしれぬ。私は話が途切れぬようにと姫海棠と古明地に呼びかけた。
「毎日連れ回すのは結構だが、古明地の家族、例えばその姉とやらは心配にならないのか? ある日突然、妹が天狗とつるむなど……」
「ううん、あれからお家には帰ってないからお姉ちゃんはこのこと知らないよ」と古明地は澄ました顔で答えるので、この事態は誘拐ではないかという気になった。
 姫海棠に追求すると、途端に目を泳がせて、「いや、いやあ、でもほら、こいちゃん楽しそうだしさー、ねえ、子どもを攫うのは天狗のステータスだし」と話はたやすく自白に落ちた。

 これにはさすがの清蘭も語調を強め、「古明地さん、お家に帰りましょうよ」と説得するも、肝心の古明地が乗り気でなく、まだ帽子は汚れてないだの向かい風が強いだのと頼りない訳を重ねている。姉へのラブとやらはどうしたのだろう。
 しまいには「お姉ちゃんがお夕飯をエビフライにしてくれるまで帰らないって決めてるの! ね、だからリンリンとランランでちょっとお姉ちゃんに会ってきてよ。それでこいしは幸せに暮らしてますハッピーエンドって伝えといて」と聞いてもいない事情を明かしつつ、話に決まりをつけてしまった。当然、こんなふざけた要求は突っぱねる気でいたが、横にいる姫海棠の存在が気持ちを咄嗟に抑えつけ、結局言伝を受ける羽目になった。
 私はあからさまにうなだれてみせたが、隣の清蘭はやけに元気で、「明日に行ってみよっか、リンリン」などと考えなしに楽しげである。加えて姫海棠らの真似事で名を弄ぶとは嘆かわしい。『名前と隊列は乱さない』と就業規則にも書かれている。
 清蘭、と私が窘めると、「ダメダメ、ほら、ランランって呼んでよ。お揃い!」といよいよ極まるので、ため息も出ない。
 代わりに足が出て、つま先は狙いすましたように清蘭の膝裏に吸い込まれた。清蘭から出る悲鳴は耳に心地よいので、大変よろしい。





 団子を食うほど強くなる。そうであったら、私はどうしていただろう。

 いや、なにも変わりないだろう。私の性分は冗談のような力に踊らされるほど愉快ではない。
 いつものように団子を食って、日々をこなし、隣にいる清蘭の馬鹿を正しくおさめているのだろう。
 その清蘭はというと、私の右腕にひっついて離れない。地底の深い暗がりは地上の暑熱をいくらか和らげているが、暑苦しいことに変わりはない。振り払おうとしたが、清蘭は頑として譲るつもりはないらしく、万力を思わせる強硬が右腕の感覚を溶かしていく。

「わかったから、少し力をゆるめてくれ」と頼むと、清蘭は覚めたように目を見開き、「ごめんね、ほんとにごめん」と慌てて縛りを解いたが、手はぴたりと繋がったままでやはり離すつもりはないらしい。
 穢れた地上の掃き溜めである地の底にいるのだから、清蘭の不安はわからないでもない。現に私も精神の中和を失調しつつあるようで、清蘭の団子を食べるにしてもよく味わわずに飲みこんでしまう。口にものを入れていないと落ち着かず、団子は腹の中に次々と吸い込まれ、懐にある袋はすっかり軽くなった。
 地上は豊かな植物の生と死の気配が充満していたが、地底は重く静かな岩盤に覆われ、旧都とやらの中心街を抜けた道々は蠢く影と不吉な炎がはびこっている。
 怨霊の集るところを避けていけば、そこまで怯えることもないだろう。自分を励まし、元気を取り戻すと、清蘭を引っ張るように奥へとずんずん突き進んだ。

 やがて古明地に教えてもらった通りの建物に辿りつくと、その豪勢な洋館とは不釣り合いな印象をもたらす痩せた少女が、庭園の一角の赤バラに真鍮のジョウロで水をチョロチョロやっていた。少女は古明地と同様に全身に管の絡んだ格好をしていたが、管の根元にいる拳大の眼球が爛々と瞳を輝かせている点は、姉妹の明白な差分である。
 目顔で訪問を伝えると、こちらが話しかける前に、古明地の姉はもう口を開いていた。
「あら、こんにちは。当家には何用で? まあ、こいしがそんなことを。ははあ、そうですか、それはまたご足労をおかけしましたねえ。よろしければ、お茶でも飲んでいってください」と一人で話し続けるのだから、これが噂の読心術かと舌を巻いた。
 古明地の姉はやわらかい笑みを浮かべたまま、こちらを振り返りもせずに屋敷の中に入っていくので、少し迷ったが後に続いた。
「玉兎の通信チャネルをフィルタもかけずに開きっぱなしにしている気分だ」と清蘭に言ってみると、「たまに忘れてやっちゃうよね」と頷くので、「それはお前だけだ」と返しておいた。フィルタは意識の上澄みだけを濾すためのもので、それがなければ考えはノイズとなって筒抜けになる。独り言を覗かれようと呑気に構えているのは清蘭くらいのものだろう。

 通された客間は思っていたより質素な内装のものであったが、これくらいサッパリしている方が気を張らずに済むので良い。
 そのうちに古明地の姉がやってきて、琥珀色の液体で満たされた透明なグラスをテーブルに並べたが、これはどうも紅茶らしい。浮かぶ四角い氷がカロカロと音を立て、耳にも随分涼しげである。
 嗜好品の知識はあるものの、やはりそこは玉兎の身で、紅茶なぞ飲んだこともないのでどうしたものかと物怖じしていると、隣の清蘭がすでに勢いよく飲みほしておかわりを要求しているのだから、自分がどうにも馬鹿に思えた。紅茶は少しの酸味と渋みがほのかな甘みを伴い、喉をひやりと過ぎていくもので、熱っぽい身体を冷ましてくれる美味いものだった。
 グラスの水滴がコースターに描かれた白い花弁をすっかり濡らしていると、「このたびは妹がご迷惑をおかけしまして……」と古明地の姉が深々と頭を下げた。
 古明地の姉の小さな体躯がさらにくしゃんと畳まれるので、見ているとこちらが居たたまれなくなる。気にはしていないと言ってみたが、相手は余分に持ってる瞳ですでにこちらの気持ちを汲んでいるのではと考えると、ますます口は重くなった。
 そうした気負いすら古明地の姉の知るところで、向こうから話題をいくらか振ってくるので、これ幸いと返事を重ねていると、場はようやく会話の体裁を見せ始めた。

 だが古明地の姉が、「清蘭さんは地上の生活に苦労しているのですね」と言いだしたとき、自分の心拍が一段上を刻み始めたのがわかった。
 古明地には見破れなかった密事を、古明地の姉はすでに見通している!
「いえ、もう大分、慣れてきました」と清蘭が強張った声で答えた。その間に、私は古明地の姉に念を込めて視線をやった。古明地の姉は確かな笑みを浮かべてそっと頷いたので、こちらの胸の詰まる感じがこのとき一度に抜けていった。 
「しかし、あなたの水面には月が揺れずに映ってますよ」と古明地の姉の目はすっと細くなっていった。
「あの……どういうことでしょう」
「あなたの心は地上にありながら仰ぎ見るばかり、と言ってるのです。月に戻りたいのでしょう?」
「帰りたい気持ちも確かにあります。けど」
「方法がない、と?」
「そうです。鈴瑚が教えてくれたから間違いありません。だから私はこの地上で……」
「まあ、信頼してるんですねえ、鈴瑚さんを! 素晴らしいではありませんか。その気持ちは底知れぬ穴を見据えて飛び込んだ先にあるのですからねえ!」
 古明地の姉の笑みは些かやわらかさの度を越して、軟体生物のような粘りの気配を漂わせていた。これに話題の転換が未だになされていないことを併せて、私はひどく居心地が悪かった。息苦しさが腹の底から口蓋に再び手をかけた。
 しかし、古明地の姉は承知したはずだ。念を押してやろうか、と古明地の姉に視線を投げようとしたところで、やはり彼女はすでに口を開いていた。
「ですが清蘭さん、あなた方の結び目は一つの事実でほどける程に頼りないのですよ。ねえ、探査車とやらが月へ帰るための装置になるのでしょう、鈴瑚さん?」と古明地の姉が呼びかけるのと、私が飛びかかったのはほとんど同時だった。

「何のつもりだ」と相手の襟元を掴んで手繰り寄せても古明地の姉は涼しげで、「それはあなたが答えるべきでしょう?」と言外に清蘭を示した。
 清蘭は丸く大きな目をこちらに向けている。その目に込められた輝きは、あの懐かしい光で私を照らすと、もう一言も話せなくなった。清蘭の胸の穴は、未だ空虚から抜け出せずにいる。
 私が口を閉ざしたままでいると、清蘭は突然立ち上がるや勢いよく部屋から飛び出していった。
 私はその背を追いかけようとはせず、ただ開かれたままの扉をぼんやりと眺めていた。「ねえ、離してくれません?」と古明地の姉が言い出すまで。
「お前、何を……一体どういうつもりで」と再度締めあげると、古明地の姉はヒィ、ヒッ、ヒィと笑い出すので、得体の知れぬ馬鹿めと突き放した。すると古明地の姉は、「鈴瑚さん、ねえ、あなたってとんだお馬鹿さんですこと」と不気味な笑みを唇の端に引きずったままに口を開いた。
「でも安心してください。馬鹿相手でもきちんと教えて差し上げますから。私はこれで聖人と見紛う慈愛の塊だとご近所でも評判ですからねえ。この館の周り、誰も住んでませんけど」
 私は自分が何を言い出すか、その言葉の勢いに任せて何を仕出かすかわからなかったので、口を開くまいとしていた。相手はこちらが口を利くにしても利かないにしても問題としないのだから構うまい。
 古明地の姉もそれは了解したようで、三つの瞳の異様なきらめきを携えている。地底の道々にはびこる灯りのように、暗く燃えんばかりの眼差しが、こちらを捉えて離さない。

「私に向けるそれは思い違いというものですよ、鈴瑚さん。その針はあなた自身を刺すべきです。彼女の胸深くを平気で見過ごすあなたのどこに、一人前に振舞う資格があると言うんですか?」
 胸の水面を、古明地の姉の白い手がかき乱す。遠慮のない手つきで底にある本意に触れ、論うように撫でまわした。やがてその指は爪を立て、カリカリと神経をなぞった。私は猛烈にここから逃げ出したくなった。
 だがそうしたとき、清蘭は最早私の前に現れることはないだろう。ただそれだけを私の、鈴瑚という玉兎の自己保全の本能が知っていた。清蘭と相対しても私の本体は消え去った後で、残る影が彼女に虚栄を見せるだけだ。即ち、これまでのように。
「おや、わかりました? お利口ですねえ、とってもお利口! 月にはもう居場所がないから、事実を教えても苦しめるだけだから、あなたの虚栄は清蘭さんでなく自分のためのものでしたね。あなたには清蘭さんが必要で、けれど彼女の胸の穴に納まる自信もない。だから何も知らせず、地上で生きることを強いたのでしょう? ねえ、そんなことをしなくても、相手の腕に素直な心の全てをかければ良いのです……鈴瑚さん、これは、まあ経験則なのですがね、機会を何度も逃したところで、仲直りに遅すぎるということはないのですよ」
 言い終ると、古明地の姉の笑みは控えめな弧を描いていた。もうこちらの水面からは手を引いたようで、胸のうちの波紋はすっかり静まり、私はその在りようを確かめることが出来た。
 清蘭に向かうものが私の心をかすめた。行こう、会ってこれを伝えなければ、という思いがはっきりと目の前に現れた。

 私は部屋を後にしようとした。そこへ古明地の姉は呼びとめて、「一つ頼まれてくれますか。妹に言伝をお願いしたいのです」と言い出した。
 事態の切迫はわかっているはずと怪訝に思っていると、「勿論、こちらの勝手なお願いですから、便宜をはからせてもらいましょう。通行を許可しますから、地上への抜け道を使ってください。いくらか追いつくのに役立つでしょう」と古明地の姉は愉快そうに微笑んだ。
 これには感謝に堪えず、頭の中いっぱいに礼の言葉で埋めてみたが、すぐに思い直し、声にして古明地の姉に謝意を示した。
 馬鹿みたいだ、と自分を見下ろしていると、不敵にも声を上げて笑い出したくなった。今や私も地上の馬鹿どもの列にいるのだ。だが、それこそが清蘭に示すべき形であり、私の望むものだった。
 古明地の姉は頷いて、「今日のお夕飯はエビフライだと伝えてください。こうしないとあの子、帰って来ないんです」と恍けた調子を見せたが、目色は一向に鋭かった。
 私はこの姉妹の裏側をすっかり覗いた気になり、今度こそ声を上げて笑ってしまった。





 団子を食うほど強くなる。そうであったらと、こんなに願ったことはない。

 古明地の姉の計らいで地底の抜け道を通ることが出来たのは僥倖だった。通路は枝分かれを無限に繰り返すようだったが、使いの黒猫の先導で往路よりも幾分早く地上に出られた。
 抜け出た先が山の麓に近い岩場であったのは驚いたが、あれだけ複雑なつくりをしているのだから、抜け道とやらはあちらこちらに張り巡らされているのだろう。地上と地底の関係にはあまり明るくないが、この通路の存在は機密に思えた。古明地の姉は抜け目がないようで、今はその狡猾さが頼もしかった。
 しかしこちらが間道を使ったとはいえ、清蘭の健脚を考えると追いつくにはまだ足りず、向こうはすでに探査車に辿りついているかもしれない。上空を飛べばすぐにでも追いつくが、それではたちまち天狗の目に留まる。清蘭がいない今、こちらに天狗を追い払う術はない。
 私は辺りを窺い、それから山道をひた走った。

 息が大分上がってきたので、脚に踏ん張りをかけたとき、突然通信チャネルにノイズがなだれ込んだ。
 フィルタをかけずに音信する馬鹿がいるとこうなる。そう考えたところでハッとして、ノイズに意識を割くと、その中から清蘭の声が拾えた。
「清蘭、清蘭、返事をしろ、清蘭!」と闇雲に呼びかけていると、「鈴瑚、ううう、鈴瑚」と清蘭の哀れな声が返ってきた。
「どうした。どこにいる」
「ごめん、鈴瑚……私……ごめ……」
「どこだ、何があった。清蘭」
 清蘭の声はノイズの波にのまれかけている。たまらなく言葉がのめりそうになるところを堪え、辛抱強く聞き直した。
「探査車をポッドに換えて……けど、中から開かなく……」
「ポッドに入っているのか? それで閉じ込められたと? 動かないのか?」
「……がショートして……熱い……鈴瑚、ごめん……やだ……いやだよ……鈴瑚…………」
「清蘭! しっかりしろ、意識を強く持て。聞こえているか? 清蘭?」
 清蘭の声はいよいよ薄れ、やがて彼女の名残を荒いノイズが灌いでいった。
 急げ、行け、という思いに遠のく清蘭の姿が重なった。暗いわななきに酔いを発し、足元は途端におぼつかなくなる。
 汗が冷たく血のように垂れ、腹の底でぞわりと蠢くものが、かろうじて残った意識を暗がりに導いていく。

 そのとき、「止まれ!」という声に神経を揺さぶられ、ようやく自分が判然とした。
 慌てて駆け出そうと倒れるように土を蹴ったが、天狗が二人、木々の間からぬっと現れ、私の行く手にふさがった。
 胸中に黒いものが渦巻いた。
 これまでなのか、ここで私は運命に打たれるのか、離れゆく清蘭に手をかけられないまま、屈服に道を暗くするのか……。
 何の動きも見せない私に、天狗どもはいささか戸惑っているように見えた。進むなら容赦はしないが、このまま引き返すなら見届けるだけで済ますつもりなのかもしれない。
 しかし、私は前に進まなければならない。今このときも、清蘭が離れつつあることを考えるだけで、内の醜さが捻じれるように疼き、胸を割いてこの目に映るようだった。
 この息苦しさには、とても堪えられそうにない。清蘭がいなければ……あの馬鹿がいなければ、私の隣を誰が務めるというのだろうか。

 いよいよ破滅も覚悟して、ここに証を知らしめようと一歩を踏み出したとき、「待て、こいつは危険だ」と天狗の一人が仲間に言い出すので、よくよく見るとそいつは犬走だった。
「どうした、犬走」と片割れの天狗がこちらを睨んだまま聞き返すと、「こいつは異次元から弾丸を放つ奴だ。応援を呼んで囲まないとやりようがないぞ」と犬走が平気な顔してうそぶいた。
「何だと、こいつが?」
「そら、来たぞ!」と犬走が叫ぶや片割れの天狗は確かに不可視の一撃をくらったようだが、辺りを見回すも何者の姿もない。
「これはまずい、一旦退こう」と犬走が一目散に逃げるので、片割れの天狗も慌ててそれに倣った。

 私は訳も分からず馬鹿みたいに呆けていたが、背中を小さく叩くものが突然二つやってきて、振り返るとそこに姫海棠と古明地が得意の笑みを浮かべている。
 二人はイエイ、イエイ、イエーイと手を打ち合わせ、それからこちらに詰め寄った。
「なんか困ってるみたいだからやっつけたけどさー、これで合ってた? 間違ってたらごめんだけど。椛にも迷惑かけちゃったし、今度ご飯おごってあげないとなー。でもさすが椛って感じだよね、こっちの動きをメモで伝えたらすぐ頷くんだもん。目ぇ良すぎじゃん。ほら見てよこのメモ、急いで書いたから自分でも読めないレベルだしホントやばいわー」と姫海棠は紙きれをこちらの鼻先にひらひら泳がせてみせた。
 見るとそこに文字と呼べるものはおよそなく、断末魔の声をあげて折り重なる哀れな線と線の無残な屍体が紙面に広がるばかりだった。これを見て先の芝居を打ったのだから、やはり犬走の感覚は尋常でなく、姫海棠の字の拙さもそれに並んで恐ろしい。
 そこでふと古明地の姿が見えないことに気付き、はてと不思議に思っていると、またも背中を突く小さな感触がやってくる。こちらが振り返ろうとする前に、「私、異次元。今、あなたの後ろにいるの」と古明地が耳の裏側に囁いた。
 この不意打ちには思わず寝ていた耳もぴんと逆立ち、振り払う勢いで背後を見ると、古明地はきゃあきゃあと跳ね回って姫海棠の胴に抱きついているのだから、やはり奇人どもには敵わない。
 しかし、快く思わぬまでもその隠密には感心するところで、天狗に不明の一撃を見舞ったのはどうも古明地らしいと想像がついた。

 ともかく、二人に助けられたのは事実であり、恩には報いるべきである。
「いや助かった、ありがとう……本当に」と頭を下げると、姫海棠は気安い調子で、「いいっていいってー、やめてよそんなの、照れるじゃん」と笑いかけた。
「それよりさー、リンリン急いでるんじゃないの? さっきそんな感じだったし」
「ランランいないし。ケンカした?」と古明地が姫海棠の言葉に加勢する。
「椛はともかく他の天狗が応援連れてそろそろ戻って来るかもしれないから、早く行った方がいいよ」
「ランランいないよね。浮気した?」
「他の天狗が来たらこっちで適当に相手しとくからさ、任せてよー」
「ランランいないけど。お姉ちゃんになった?」
 私は姫海棠の気遣いに頷いていたが、その合間を古明地が無邪気に縫ってくるので、たまらず「お前はどれだけ清蘭のことを気にしてるんだ」と言った。
 すると古明地は、その二つの眼をすっと細くした。古明地の姉が何事かを見透かすときのやり方にそっくりで、胸のうちが相手にすっかり渡ってしまったような気になった。
「鈴瑚ほどじゃあ、ないよ」と古明地が言ったとき、やはり姉妹なのだなと妙な感心を覚えた。
 そうして、姫海棠と古明地にその場を任せ、私は再び清蘭へ向かう心の滾りに従った。
 山の傾斜に挑むように地を蹴りあげ、緑の中を疾走する。息はほとんど上がっていたが、全身は燃えるような活力に満ちていて、脚はどこまでも軽かった。ただ一つの標を目指す意志となって、無数の木々を次々と後方へ追いやった。

 探査車は換装を済ませ、ポッドに姿を変えていた。
 脚部もアームも外されたポッドは巨大で不格好な棺桶のように見えたが、黒煙の筋をいくつも立たせているところは不穏の度が過ぎている。
 すぐさまハッチに駆け寄り、通信を清蘭に向けて呼びかけた。募る焦燥に拳も扉を打ち鳴らしていると、「鈴瑚……」と清蘭が返事をしたが、その声音の幽かなことに動揺した。
「そこにいるの、鈴瑚……来てくれたの……?」
「清蘭、待っていろ。すぐに開けてやる」
 私は扉に手をかけたが、指先にじくりと痛みが走った。すでに表面は熱を帯びていて、こじ開けるのに難儀であった。そうなると中にいる清蘭もただでは済まぬと、指の熱度も構わず力を込めた。
 ところが、いくら力んでも扉は頑として譲らず、のっぺりとした表面の沈黙は重い。
 焦れる気持ちが汗を滲ませ、首回りがやけにべたつく。鳥と虫と葉の音が果てなく引き伸ばされ、生温い風が頬に触れた。清蘭への呼びかけすら、じわりとこみ上げる狂おしさを噛み殺すのに、唇をきつく引き結ぶうちに、やがては途切れた。

 無音の中にもがいていると、自分の輪郭が曖昧になり、手足の先がもうどこにいるかも知れない。
 胸深くより暗い悲痛が蝕み、それが目にも浮かんでしまったのだろう。呼吸にも現れてしまったのだろう。きっと、清蘭に響いてしまったのだろう。
「私が一人で逃げようとしたから」と出し抜けに清蘭が言った。
「罰があたったの。ごめんね、鈴瑚」
 清蘭は声の奥が波立つのを抑えるように、毅然とした調子で言い放った。それがなけなしの気勢を張った演技に過ぎないことは明らかで、そうした虚飾を清蘭に強いる自分の愚かさに、憤りの熱も尽きて萎れるように滅入った。
「古明地さんと話したときに飛び出したのは、鈴瑚は帰りたくないんだって思ったからなの」と清蘭は健気にも言葉を継いだ。
「鈴瑚とは一緒に帰りたかったけど、それが出来ないってわかって……ううん、やっぱり、ごめん、ちがうの……私、どうしても月に帰りたかった」
 じくじくと痛むのはどこなのか。心棒が狂ったように、身体の脈打つ度に不快な圧迫を寄せて来る。清蘭の声音はもう濡れていた。
「だって、知らないんだもの……私は月のやり方しか出来ないよ。今まで過ごしてわかったでしょ?」
「もういい、清蘭」
「地上で生きるなんて迷惑ばかりかけちゃうよ……鈴瑚もさ、そういうの、やだよね」
「よせと言ったぞ。今、開ける。お前は待っていればいい……頼むから」
 それきり、もうどちらも口を利かなかった。沈黙と金属の熱い臭気が、この場を山から隔てていた。

 指の感覚はとうに消え失せ、注いだ力がどう抜けているのかも見当がつかない。
 胸の奥底からどろりと濁った暗い液体の染み出るような感じがして、掻き毟るように掴んだ。すると硬くなった手の中に、触れるものがあった。
 懐から取り出したそれは団子の小袋で、覗くとわずかに一粒の団子が、月のように納まっている。清蘭の団子が、陰に薄白く灯っている。
 私は最後の団子を口に運んだ。慣れた甘さがやってきて、そのうちにある別のものを探るように、祈るように噛みしめた。

 団子を食うほど強くなる。

 これは冗談に過ぎないし、そうあればと考えたことは一度もない。たわ言から生まれた馬鹿げた力など、月では必要としなかった。
 だが、ここではどうだろう。私は賢しく取り澄まし、地上の馬鹿どもに目を回すばかりで、清蘭の空虚に向き合おうとはしなかった。しかし今、清蘭を受け止めるために、私は地上の彼女たちと同じように月を見なければいけなかった。信じなければならなかった。必要なのはそうであると信じる意志の力だ。
 月の振舞いなど捨て去ってしまえば良い。この地上には尋常でないものが溢れている。冗談みたいな彼女たちの、馬鹿の列に加わることで、私はようやく清蘭の隣に立つことが出来る。そう思えてならなかった。

 団子は腹に落ちていった。
 途端に何か燃えるものの走る感覚が全身に巡る、ということはなく、ただ甘やかさに満たされた気持ちだけが残った。あるいはこれが、内側に閉ざされたもののひっそりと表に現れた跡なのかもしれない。
 再び扉に指を引っかけ、割くように両手を引っ張った。懸命に、願いながら。
 初めは自分の喉からこぼれる唸りだと思った。腹の底に凝集した、自らに向けていた怒りが、漏れ出たときの音にそれは似ていた。
 ウウウ、ウウウ、ウウウウウ。
 唸りは低く、重く、鈍い。厚い金属壁なのだから当然だった。
 ぱっくりと扉に裂け目が生まれ、すかさず身体を押し込むと、中は異様な熱気があって、汗が珠になる前に線となった。
 清蘭は仰向けに倒れていて、暗がりの中で表情は見定められない。抱きかかえると、肉の重みがずしりと腕にかかり、胸は感激に高鳴った。清蘭が間近にあることに、これほど安堵を覚えたことはない。

 外に出て振り仰ぐと、黒煙は筋を肥やして止まらない。これは始末が必要だろう。後で犬走か姫海棠に報せなければいけない。
 もう少し離れた方が休めるだろうと、清蘭を背中に抱えなおして揺らさないようゆっくりと道を下る。
 間もなく、背に身じろぐ感じがあって、「大丈夫か」と呼びかけると、清蘭は口を開いたようだが、どうも言葉にはならなかった。幾度かそれを繰り返した後に、「ねえ」と、か細い声が山のさえずりに交じった。
「私、今みたいに、たくさん迷惑かけちゃうと思う……だから、だからね、頼ってもいい、鈴瑚? これからずっと、この地上で……」
 私は呆れて、ため息をついた。
「今までだって、ずっとそうしてきただろう?」
 何を改まって言うかと思えば、やはり清蘭は馬鹿なのだ。地上の彼女たちのように、実に気持ちの良い馬鹿ものだ。
「私だって、お前の団子が待ち遠しいよ」と続けると、清蘭は腕をこちらに絡ませて、強く、そこにあるのだと確かめるように抱きついた。
 首筋がじわりと熱く湿った。

 団子を食うほど強くなる。そんな力をこの地で得た。



「ただいま、お姉ちゃん。お夕飯はエビフライにする? エビフライにする? そ、れ、と、も、エビフライ?」
「まあ、こいし。おかえりなさい。お姉ちゃん、もうずっと待ってたのよ。はい、エビフライ……そちらは?」
「友達のはたタン。今日はパジャマパーティーするの! いただきます!」
「おじゃましてまーす。エビフライをご馳走してくれると聞いて来ました、姫海棠です。タルタルソースでお願いできますー?」
「まあ、まあ、天狗臭いにおいをぷんぷんさせてこいしをあちこち連れまわしておきながらよくも当家の敷地に入り込めたものですねえ、あ、間違えました、えーご丁寧にどうも。でもエビフライは人数分しかないんです。申し訳ありませんけど、代わりにコロッケで我慢してくれます? はい、コロッケ」
「ほうほう、弾丸のように美しいフォルム、食欲を誘うキツネ色の衣……うーん、すいませーん、これタワシですよね?」
「コロッケです」
「こいちゃーん、なんかお姉さんめっちゃ怒ってるんだけど原因が全然わからないよー。もしかして地底のパジャマパーティーってドレスコードあったりする?」
「うん、フリル必須」
「あちゃーフリルかー。まったく持ってないんだよね。あのーお姉さん、ここって貸出とかやってます?」
「ええ、ええ、薄汚い記者風情にお似合いのものがありますよ。はい、これ」
「うーん、それドリルですよね?」
「きっとお似合いですよ。今、頭をバラ色に飾ってあげますからね」
智弘
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.570簡易評価
2.100ばかのひ削除
なんて難しくて愉快で読みやすい文章
永遠に読める気がします
りんりんに良かったねえと伝えたい
とても面白かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
これはいい
5.100名前が無い程度の能力削除
いやあ、面白かったです!それぞれのキャラが駆けまわること駆けまわること。
能力も清蘭の作ったもの限定だろうなー、と思うとニヤニヤします。
6.80奇声を発する程度の能力削除
良かったです
7.100名前が無い程度の能力削除
月並みな感想ですが
とても面白かったです!
これは良いあおりんご!
8.100絶望を司る程度の能力削除
とても面白かったです。
10.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませていただきました。
11.100名前が無い程度の能力削除
鈴瑚の暗い感情や焦りがこちらにもひしひしと伝わってきました
まさに迫真の文章でした
17.90名前が無い程度の能力削除
漫才が面白いです。さとり様自由過ぎます。