妖怪の山の一本杉と言えば、人里でも有名なスポットである。
と言っても、崖に掛かる古典的な縄吊り橋の向こうに、ぽつりと一本だけ杉の木が立ち尽くしているという単純なもの。他に何がある訳でもなく、景観に見どころは無い。
では何故有名なのか。
第一に、吊り橋が古びて崩れ落ちそうであり。
第二に、崖の切り込みは深く、落ちたら助からないだろう事が明白であり。
そして第三に、この場所が天狗達の縄張りに近いからである。
つまり、無鉄砲な男たちの度胸試しのスポットとして有名なのだ。
「やあやあ、こんな所で会うとは奇遇ですね。死体探偵さん」
嫌な風と共に現れたその女は、己の身軽さを見せつけるように吊り縄上で爪先立ちし、私を見下して来た。古風な頭襟とハイカラなミニスカートのミスマッチがなんとも言えぬ存在感を醸し出す。……いつも思うのだが、なんであのミニスカートは捲れたりしないんだろう、年中無休で空中を縦横無尽に飛び回っているくせに。
不安定な橋の上で、私は一歩下がって小傘の仕込みロッドを構えた。
「何の用だ」
「つれませんねぇ。そのような物言いは己の徳を下げるだけですよ」
「取り繕う事が徳ではあるまい」
「連れない態度も徳とは呼びません」
「なら、連れる態度が徳というわけでもないな」
「ああ言えばこう言う」
「それは君の為にある言葉だろう」
無駄口、減らず口、憎まれ口筆頭のこの女にだけは言われたくない。
射命丸文。
この幻想郷にひしめく妖怪達の中でも頭抜けた力を持つ、恐るべき大妖怪である。手にした楓の団扇を一振りすれば空を割り、飛翔するだけで台風が起こるとも言われる。その力を知る古き妖怪達は、畏れを込めて彼女をこう呼ぶと言う。千年天狗と。
「こんな辺鄙な一本杉まで来て、今日は一体何の御用ですか? もしや、逢い引きですか? お相手は? 是非独占取材させて下さい!」
その千年天狗の頭の中がゴシップとスクープ一色なのだから堪らない。彼女は悪名名高き天狗の新聞『文々。新聞』の記者である。変装して里に入り込み、人間の噂話を集めて新聞を作るのだ。時には自ら事件のネタを作り出す事もあると言う。里に最も近い天狗の異名は伊達ではない。最も迷惑な天狗の異名も、伊達ではない。
幻想郷最強に近い恐るべき千年天狗が、世が世なら国の三つや四つは治めても当然の大妖怪が。然るべき地位に就かずに、ふらふら遊びまわっているのである。幻想郷でこれ以上ふざけた奴もいまい。射命丸文はそういう女だった。
「また捏造するつもりか」
「捏造? それは聞き捨てなりませんね」私の苦言に、射命丸は眉根を寄せた。「私は真実しか報道しません。それが私の記者としての矜持。この射命丸文を舐めて貰っては困ります」
「リリカが顔を真っ赤にして怒っていたぞ。事実無根だってな」
先日出た『プリズムリバー三女、熱愛発覚!』の記事の事である。
「そういう噂があるというのは事実でしょうに。トランペットの吹き方を少年に手取り足取り教えてたら、そら噂にもなりましょうや」
「リリカは姉のファンの子に教えてやってるだけだと言ってる。姉がやると男の子が照れて茹で上がっちまうから、ってな」
「大体。顔を真っ赤にしたなら、十分脈ありじゃないですか」
私はイライラして舌打ちした。奴は言葉尻を捕まえて都合の良いように解釈しているだけだ。それを真実とは、真実という概念を履き違えている。
……まあ、あやしいとは私も思うけれど。周囲が無遠慮に囃し立てたら実るものも実らなくなるだろうが。デリカシーの無い女だな、まったく。
「記事を書くなら演奏会の事を書いてやればいいのに。今度大きな演奏会をやるらしいぞ」
「それはもう書きましたんで。と言うか、そんな事はどうでも良いのです。今は貴女の事ですよ、ナズーリンさん。一体ここで、何をしておいでで?」
「見て分からないとは耄碌したのか、射命丸。探し物に決まってるだろう」
「ほうほう。では、何を探しているのですか?」
人を小馬鹿にするようにニヤニヤ笑いながら、首から下げたカメラでパシャリと私を撮影して言う。
「今は取材には協力出来ない。探偵には守秘義務があるからな。その写真の使用も認めんぞ」
「それでは困るんですよ、ナズーリン」
突然、射命丸の目が鋭くなった。
俄かに風が出て、吊り橋を激しく揺らす。
「貸しは、返していただかないと」
団扇を口元にやる。ただそれだけの所作で突風が巻き起こり、真空の刃が其処彼処に踊った。幾つもの竜巻が発生し、ゴウゴウと咆哮を始める。風の断層が光を屈折させ、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
この私が、これ迄見た事もないほど速く強力な術。
見える。射命丸の戦闘領域が。
この崖を通り越し、それどころか妖怪の山すら包みこもうというほどの巨大さ。しかも射命丸には、まだまだ余力があるように見える。
戦慄が、私の足を一歩引かせた。
何と言う事だ。
射命丸の力は、神魔の領域にまで達している。
「貸しなど作った覚えはない」
脊髄反射で口にした言葉。
圧倒的という言葉では足りぬ程の力量差がある相手を前に減らず口を叩く私も、どうやら捨てたものじゃないようだ。いつも言っているだろう、私は龍にだって噛み付いて見せると。あれは本当さ、暴力に屈するほどヤワな私ではない。
射命丸も同様に感じたのか、その威容を少し和らげた。
「忘れたのですか? 私と貴女が交わした報道協定を」手にした文化帖を開き、パラパラとめくる。「死体探偵の正体が貴女であると言う事実を進んで報道しない代わりに、貴女は私に出来うる限りの情報提供を行う。その約束の筈」
文化帖の一ページを示す。紛れも無い、私の血判が付いた協定書である。
射命丸の幻視を誤魔化す事など出来ない。そう感じた私が、彼女に申し出て結んだ協定だ。
死体探偵が忌み嫌われるのはいい。私が虐げられるのもいつものことさ。だが、命蓮寺にまで無用な悪評をつけたくない。だから私は、先んじて射命丸と協定を結んでいたのだ。
「その協定に違えたつもりはないぞ」
協定を守る事は、命蓮寺を護る事に繋がるのだから。
「この前の崩落事故の件。忘れたとは言わせませんよ」
……あれか。
あの事件では、私を含めた関係者が全員取材拒否をした。
「協定違反ではない。私があの事件に関して言及する事は、出来ないんだ」
人間が人間を意図的に妖怪にしていたあの事件。慧音と妹紅、それに博麗の巫女が目下捜査中の事案である。情報の流出は避けなければならない。
それに、あの事件の真実を知らしめれば、黒谷ヤマメの立場が危うくなる。ただでさえ忌み嫌われ地底に封印された妖怪、事によっては、二度と地上へ召喚出来なくなる恐れもある。
そしてもう一つ。
その力量を鑑みれば、射命丸文は賢者達の一員である可能性が高い。迂闊な情報を与える訳にはいかないのだ。
射命丸は溜め息を吐いて、やれやれと言うように首を振った。
「理解していないようですね、ナズーリン。私が納得出来なければ協定違反なのです。それは私から貴女への貸しとなる。貸しは取り立てなければなりません。同様に、借りは必ず返すもの。それがこの世界の理でしょう。正しい摂理と言うものです。そしてそれこそが、人と人との信頼を創り出すのです」
「守秘義務がある。話す事は出来ない」
「そんな義務など、自然の摂理の前では塵芥に等しい」
なるほど。
どうやら、私と射命丸とでは見えている世界が異なるようだ。彼女にとっては公平な貸し借りこそが最も優先されるべき事柄らしい。
ある意味、彼女は非常に平等だとも言える。
だがしかし、それは余りにも超越的すぎる。
「要求はなんだ」
仕方無く、私は言った。
射命丸はゆるりと力を抜き、風の乱舞もピタリと止まった。……感情で気象を支配するなど、一妖怪の範疇を超えた力である。
「借りの返し方は当人の自由ですよ。それこそが個性と呼ばれる事象ですから。でもまあ参考程度に私が喜ぶ事を言えば、新聞とってくれると嬉しいですね、千部くらい」
何言ってんだこいつ。そんなの無理に決まってるだろ。
「残念ながら、私は既に姫海棠はたての『花果子念報』をとっているからな」
やんわりと拒否する。が、射命丸は途端に苦々しい顔になった。
「はたての出鱈目新聞なんて読んでるんですか? あんなの読んでたら脳が腐りますよ、貴女。あの新聞は誤字脱字、取材不足の大間違いが多すぎです。この前の新聞なんて見ましたか? プリズムリバー四姉妹がどうのとか、霧の湖に本物の恐竜が出現したとか。盛大に誤字してる上に、湖の恐竜の正体が河童共のからくりだなんて、人里の子供でも知ってますよ、まったく」
「あ、ああそう」
「知識と教養、品性に品格を身に付けたいなら、私の新聞がお勧めですよ。どうです?」
「家計に余裕があれば、それでもいいんだけどね」
ゴシップ新聞より夕餉のチーズのほうがそりゃ大事である。
「では貴女は」再び、射命丸の体の周りを風が渦巻き始めた。「私への借りをどうやって返してくれるのです?」
そう言って、射命丸は団扇を扇いだ。吊り縄の上につま先立ちする姿は静かな佇まいだが、同時に有無を言わせぬ迫力がある。返答次第ではここで私を殺すことも辞さない、そういう目をしていた。
さて、困った。
新聞を購読する金なぞ無いし、守秘義務を破ることなど論外である。落盤事件の情報を開示することも出来ない。まさに八方ふさがりである。
大体、自分の貸し借りの概念を他人に押し付けてくる辺り、射命丸文は相当な偏屈者である。天狗の中でもとびきりの異端として、腫れ物を触るように扱われているのも頷ける。射命丸の名を出すだけで白狼天狗達の目が次々と死んでゆくくらいだ。きっとこの調子で関係各所に無茶を言って回っているのだろう。
ならば、と私は一計を案じた。
「知らないよ、そんなの。私は協定を守っている。君のこだわりなんて知ったことじゃない」
そう言って唾を吐き捨てた。
次の瞬間、目論見通り射命丸が風の刃を飛ばして来た。瞳を開いた私は、その攻撃を寸前で受け止めた。手加減しているだろうとは言え、射命丸の攻撃を防ぐなど、小傘のロッド様様である。
攻撃の余波で散った真空の刃が吊り縄を破壊した。力の均衡を失った吊り橋は真っ二つに崩壊し、それぞれの崖面に向かって叩きつけられた。
私は飛翔術を使わず、崩落する橋に掴まって、崖面に一緒に叩きつけられた。かなりの衝撃を受けたが、何とか橋から落ちずに済んだ。
崖面にへばり付く私は、さぞ情けない姿だったろう。
射命丸が黒い翼を広げ、呆れ顔で近づいて来た。
「参った」
開口一番、私はそう言った。
「情けないですねぇ、口ばかりですか」
「返す言葉も無いよ。借りの件は少し、考えさせてくれ、頼む」
「まったく……」
情けない私を見て興が削がれたのか、射命丸は溜め息を吐きながら空へ消えて行った。
私は飛翔術を使って崖下へ降りた。予期した通り、そこには幾つかの死体が転がっていた。度胸試しでやって来て吊り橋から落ちたか、妖怪に襲われて逃げる途中で足を踏み外したかのどちらかだろう。残念ながらすべて白骨化していたため、最早エンバーミングの施しようも無い。
部下を呼び寄せ、白骨死体を命蓮寺へと運ばせた。指揮は賢将に任せ、私は里へと降りる。長くて丈夫な麻縄を幾つか購入し、石工に注文しておいた地蔵を受け取ると、私は一本杉へ戻った。
杉の袂に地蔵を置いて簡単な供養塚を建てる。手を合わせてから、橋の修復に取り掛かった。飛翔術とロッドの遠隔操作術を駆使し、持ち上げて固定した橋を麻縄で固く結びつける。また、聖から習った身体強化術の応用で、崩落の衝撃で破壊された木製の橋板を修復強化した。そのまま老朽化していた橋全体も強化する。一人では大変な作業で、何とか終わった時には日が暮れてしまっていた。
翌朝。変装した私は依頼人の老婆に付き添って、三度一本杉へと向かった。
修復した橋を渡って、一本杉下の供養塚へ。手を合わせる依頼人の背には、無念さが滲み出ている。孫をここで失くしたと言う。子孫を失うという事は、未来を失う事に他ならない。それも度胸試しなどどいう馬鹿げた遊びが原因では、やりきれないだろう。この供養塚がせめてもの慰めになればよいのだが……。
キャスケット帽にジャケットで記者姿に変装した射命丸が現れ、無節操に写真を撮り始めたので、依頼人から少し離れた場所に引きずって行った。
「貸しの件、如何ですかね? 私の寛容にも限界がありまして」
ニヤニヤ笑いながらそう言うのである。
この女はわざとやっているのか。空気を読まないにも程があるぞ。
イライラを噛み殺して、私は口を開いた。
「依頼人に承諾をとった。情報開示しよう。この一本杉で人間達が度胸試しを行っている事は知っているだろう? 命蓮寺の檀家の中で犠牲者が出たんだ。だからこの一本杉に供養塚を建てた。二度と同じ悲劇を繰り返さないために。度胸試しの愚かしさをよく報道しておいてくれ」
「ふむ……なるほど。まあ、いいでしょう。ネタとしては少し足りませんが、私は寛容ですからね」
文花帖にメモしながら、射命丸はずけずけと言う。
「しかし、昨日壊したはずの橋がいつの間にか直っていますねぇ」
射命丸が不思議そうに吊り橋を眺めている。
「私が修復したんだ。君の新聞で報道があれば、他の犠牲者の家族も供養に来たがるだろうからな。その時に橋が無ければ困るだろう? 君の新聞の信憑性も疑われてしまう」
「……む」
「貸し一つだな」
射命丸は苦い顔で舌打ちをした。
「侮れないですね。さすがは毘沙門天の使者と言ったところですか。でも、気に入りましたよ。ただの酔狂な弱小妖怪だと思っていましたが、この私に一杯食わせるとは、いやはや」
そう言って笑う。その笑顔は今までの人を小馬鹿にするような笑みとは違って、爽やかだった。
「貴女とはぜひとも、対等な関係でいたいものです」
後日、『文々。新聞』に記事が載った。事件のあらましと、一本杉に立つ死体探偵姿の私の写真。
さらに、人里から一本杉に向かう通行路が白狼天狗の監視下に入ったこと、里の人間の自由な通行を認める条約を制定したことを伝える速報。天狗たちの監視下に入ったことで、有象無象達の被害は激減するだろう。供養塚までの安全な道が確保されたわけである。
拘るだけあって、借りはきっちりと返す女らしい、射命丸文は。良くも悪くも、自分のルールを曲げない奴である。
と言っても、崖に掛かる古典的な縄吊り橋の向こうに、ぽつりと一本だけ杉の木が立ち尽くしているという単純なもの。他に何がある訳でもなく、景観に見どころは無い。
では何故有名なのか。
第一に、吊り橋が古びて崩れ落ちそうであり。
第二に、崖の切り込みは深く、落ちたら助からないだろう事が明白であり。
そして第三に、この場所が天狗達の縄張りに近いからである。
つまり、無鉄砲な男たちの度胸試しのスポットとして有名なのだ。
「やあやあ、こんな所で会うとは奇遇ですね。死体探偵さん」
嫌な風と共に現れたその女は、己の身軽さを見せつけるように吊り縄上で爪先立ちし、私を見下して来た。古風な頭襟とハイカラなミニスカートのミスマッチがなんとも言えぬ存在感を醸し出す。……いつも思うのだが、なんであのミニスカートは捲れたりしないんだろう、年中無休で空中を縦横無尽に飛び回っているくせに。
不安定な橋の上で、私は一歩下がって小傘の仕込みロッドを構えた。
「何の用だ」
「つれませんねぇ。そのような物言いは己の徳を下げるだけですよ」
「取り繕う事が徳ではあるまい」
「連れない態度も徳とは呼びません」
「なら、連れる態度が徳というわけでもないな」
「ああ言えばこう言う」
「それは君の為にある言葉だろう」
無駄口、減らず口、憎まれ口筆頭のこの女にだけは言われたくない。
射命丸文。
この幻想郷にひしめく妖怪達の中でも頭抜けた力を持つ、恐るべき大妖怪である。手にした楓の団扇を一振りすれば空を割り、飛翔するだけで台風が起こるとも言われる。その力を知る古き妖怪達は、畏れを込めて彼女をこう呼ぶと言う。千年天狗と。
「こんな辺鄙な一本杉まで来て、今日は一体何の御用ですか? もしや、逢い引きですか? お相手は? 是非独占取材させて下さい!」
その千年天狗の頭の中がゴシップとスクープ一色なのだから堪らない。彼女は悪名名高き天狗の新聞『文々。新聞』の記者である。変装して里に入り込み、人間の噂話を集めて新聞を作るのだ。時には自ら事件のネタを作り出す事もあると言う。里に最も近い天狗の異名は伊達ではない。最も迷惑な天狗の異名も、伊達ではない。
幻想郷最強に近い恐るべき千年天狗が、世が世なら国の三つや四つは治めても当然の大妖怪が。然るべき地位に就かずに、ふらふら遊びまわっているのである。幻想郷でこれ以上ふざけた奴もいまい。射命丸文はそういう女だった。
「また捏造するつもりか」
「捏造? それは聞き捨てなりませんね」私の苦言に、射命丸は眉根を寄せた。「私は真実しか報道しません。それが私の記者としての矜持。この射命丸文を舐めて貰っては困ります」
「リリカが顔を真っ赤にして怒っていたぞ。事実無根だってな」
先日出た『プリズムリバー三女、熱愛発覚!』の記事の事である。
「そういう噂があるというのは事実でしょうに。トランペットの吹き方を少年に手取り足取り教えてたら、そら噂にもなりましょうや」
「リリカは姉のファンの子に教えてやってるだけだと言ってる。姉がやると男の子が照れて茹で上がっちまうから、ってな」
「大体。顔を真っ赤にしたなら、十分脈ありじゃないですか」
私はイライラして舌打ちした。奴は言葉尻を捕まえて都合の良いように解釈しているだけだ。それを真実とは、真実という概念を履き違えている。
……まあ、あやしいとは私も思うけれど。周囲が無遠慮に囃し立てたら実るものも実らなくなるだろうが。デリカシーの無い女だな、まったく。
「記事を書くなら演奏会の事を書いてやればいいのに。今度大きな演奏会をやるらしいぞ」
「それはもう書きましたんで。と言うか、そんな事はどうでも良いのです。今は貴女の事ですよ、ナズーリンさん。一体ここで、何をしておいでで?」
「見て分からないとは耄碌したのか、射命丸。探し物に決まってるだろう」
「ほうほう。では、何を探しているのですか?」
人を小馬鹿にするようにニヤニヤ笑いながら、首から下げたカメラでパシャリと私を撮影して言う。
「今は取材には協力出来ない。探偵には守秘義務があるからな。その写真の使用も認めんぞ」
「それでは困るんですよ、ナズーリン」
突然、射命丸の目が鋭くなった。
俄かに風が出て、吊り橋を激しく揺らす。
「貸しは、返していただかないと」
団扇を口元にやる。ただそれだけの所作で突風が巻き起こり、真空の刃が其処彼処に踊った。幾つもの竜巻が発生し、ゴウゴウと咆哮を始める。風の断層が光を屈折させ、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
この私が、これ迄見た事もないほど速く強力な術。
見える。射命丸の戦闘領域が。
この崖を通り越し、それどころか妖怪の山すら包みこもうというほどの巨大さ。しかも射命丸には、まだまだ余力があるように見える。
戦慄が、私の足を一歩引かせた。
何と言う事だ。
射命丸の力は、神魔の領域にまで達している。
「貸しなど作った覚えはない」
脊髄反射で口にした言葉。
圧倒的という言葉では足りぬ程の力量差がある相手を前に減らず口を叩く私も、どうやら捨てたものじゃないようだ。いつも言っているだろう、私は龍にだって噛み付いて見せると。あれは本当さ、暴力に屈するほどヤワな私ではない。
射命丸も同様に感じたのか、その威容を少し和らげた。
「忘れたのですか? 私と貴女が交わした報道協定を」手にした文化帖を開き、パラパラとめくる。「死体探偵の正体が貴女であると言う事実を進んで報道しない代わりに、貴女は私に出来うる限りの情報提供を行う。その約束の筈」
文化帖の一ページを示す。紛れも無い、私の血判が付いた協定書である。
射命丸の幻視を誤魔化す事など出来ない。そう感じた私が、彼女に申し出て結んだ協定だ。
死体探偵が忌み嫌われるのはいい。私が虐げられるのもいつものことさ。だが、命蓮寺にまで無用な悪評をつけたくない。だから私は、先んじて射命丸と協定を結んでいたのだ。
「その協定に違えたつもりはないぞ」
協定を守る事は、命蓮寺を護る事に繋がるのだから。
「この前の崩落事故の件。忘れたとは言わせませんよ」
……あれか。
あの事件では、私を含めた関係者が全員取材拒否をした。
「協定違反ではない。私があの事件に関して言及する事は、出来ないんだ」
人間が人間を意図的に妖怪にしていたあの事件。慧音と妹紅、それに博麗の巫女が目下捜査中の事案である。情報の流出は避けなければならない。
それに、あの事件の真実を知らしめれば、黒谷ヤマメの立場が危うくなる。ただでさえ忌み嫌われ地底に封印された妖怪、事によっては、二度と地上へ召喚出来なくなる恐れもある。
そしてもう一つ。
その力量を鑑みれば、射命丸文は賢者達の一員である可能性が高い。迂闊な情報を与える訳にはいかないのだ。
射命丸は溜め息を吐いて、やれやれと言うように首を振った。
「理解していないようですね、ナズーリン。私が納得出来なければ協定違反なのです。それは私から貴女への貸しとなる。貸しは取り立てなければなりません。同様に、借りは必ず返すもの。それがこの世界の理でしょう。正しい摂理と言うものです。そしてそれこそが、人と人との信頼を創り出すのです」
「守秘義務がある。話す事は出来ない」
「そんな義務など、自然の摂理の前では塵芥に等しい」
なるほど。
どうやら、私と射命丸とでは見えている世界が異なるようだ。彼女にとっては公平な貸し借りこそが最も優先されるべき事柄らしい。
ある意味、彼女は非常に平等だとも言える。
だがしかし、それは余りにも超越的すぎる。
「要求はなんだ」
仕方無く、私は言った。
射命丸はゆるりと力を抜き、風の乱舞もピタリと止まった。……感情で気象を支配するなど、一妖怪の範疇を超えた力である。
「借りの返し方は当人の自由ですよ。それこそが個性と呼ばれる事象ですから。でもまあ参考程度に私が喜ぶ事を言えば、新聞とってくれると嬉しいですね、千部くらい」
何言ってんだこいつ。そんなの無理に決まってるだろ。
「残念ながら、私は既に姫海棠はたての『花果子念報』をとっているからな」
やんわりと拒否する。が、射命丸は途端に苦々しい顔になった。
「はたての出鱈目新聞なんて読んでるんですか? あんなの読んでたら脳が腐りますよ、貴女。あの新聞は誤字脱字、取材不足の大間違いが多すぎです。この前の新聞なんて見ましたか? プリズムリバー四姉妹がどうのとか、霧の湖に本物の恐竜が出現したとか。盛大に誤字してる上に、湖の恐竜の正体が河童共のからくりだなんて、人里の子供でも知ってますよ、まったく」
「あ、ああそう」
「知識と教養、品性に品格を身に付けたいなら、私の新聞がお勧めですよ。どうです?」
「家計に余裕があれば、それでもいいんだけどね」
ゴシップ新聞より夕餉のチーズのほうがそりゃ大事である。
「では貴女は」再び、射命丸の体の周りを風が渦巻き始めた。「私への借りをどうやって返してくれるのです?」
そう言って、射命丸は団扇を扇いだ。吊り縄の上につま先立ちする姿は静かな佇まいだが、同時に有無を言わせぬ迫力がある。返答次第ではここで私を殺すことも辞さない、そういう目をしていた。
さて、困った。
新聞を購読する金なぞ無いし、守秘義務を破ることなど論外である。落盤事件の情報を開示することも出来ない。まさに八方ふさがりである。
大体、自分の貸し借りの概念を他人に押し付けてくる辺り、射命丸文は相当な偏屈者である。天狗の中でもとびきりの異端として、腫れ物を触るように扱われているのも頷ける。射命丸の名を出すだけで白狼天狗達の目が次々と死んでゆくくらいだ。きっとこの調子で関係各所に無茶を言って回っているのだろう。
ならば、と私は一計を案じた。
「知らないよ、そんなの。私は協定を守っている。君のこだわりなんて知ったことじゃない」
そう言って唾を吐き捨てた。
次の瞬間、目論見通り射命丸が風の刃を飛ばして来た。瞳を開いた私は、その攻撃を寸前で受け止めた。手加減しているだろうとは言え、射命丸の攻撃を防ぐなど、小傘のロッド様様である。
攻撃の余波で散った真空の刃が吊り縄を破壊した。力の均衡を失った吊り橋は真っ二つに崩壊し、それぞれの崖面に向かって叩きつけられた。
私は飛翔術を使わず、崩落する橋に掴まって、崖面に一緒に叩きつけられた。かなりの衝撃を受けたが、何とか橋から落ちずに済んだ。
崖面にへばり付く私は、さぞ情けない姿だったろう。
射命丸が黒い翼を広げ、呆れ顔で近づいて来た。
「参った」
開口一番、私はそう言った。
「情けないですねぇ、口ばかりですか」
「返す言葉も無いよ。借りの件は少し、考えさせてくれ、頼む」
「まったく……」
情けない私を見て興が削がれたのか、射命丸は溜め息を吐きながら空へ消えて行った。
私は飛翔術を使って崖下へ降りた。予期した通り、そこには幾つかの死体が転がっていた。度胸試しでやって来て吊り橋から落ちたか、妖怪に襲われて逃げる途中で足を踏み外したかのどちらかだろう。残念ながらすべて白骨化していたため、最早エンバーミングの施しようも無い。
部下を呼び寄せ、白骨死体を命蓮寺へと運ばせた。指揮は賢将に任せ、私は里へと降りる。長くて丈夫な麻縄を幾つか購入し、石工に注文しておいた地蔵を受け取ると、私は一本杉へ戻った。
杉の袂に地蔵を置いて簡単な供養塚を建てる。手を合わせてから、橋の修復に取り掛かった。飛翔術とロッドの遠隔操作術を駆使し、持ち上げて固定した橋を麻縄で固く結びつける。また、聖から習った身体強化術の応用で、崩落の衝撃で破壊された木製の橋板を修復強化した。そのまま老朽化していた橋全体も強化する。一人では大変な作業で、何とか終わった時には日が暮れてしまっていた。
翌朝。変装した私は依頼人の老婆に付き添って、三度一本杉へと向かった。
修復した橋を渡って、一本杉下の供養塚へ。手を合わせる依頼人の背には、無念さが滲み出ている。孫をここで失くしたと言う。子孫を失うという事は、未来を失う事に他ならない。それも度胸試しなどどいう馬鹿げた遊びが原因では、やりきれないだろう。この供養塚がせめてもの慰めになればよいのだが……。
キャスケット帽にジャケットで記者姿に変装した射命丸が現れ、無節操に写真を撮り始めたので、依頼人から少し離れた場所に引きずって行った。
「貸しの件、如何ですかね? 私の寛容にも限界がありまして」
ニヤニヤ笑いながらそう言うのである。
この女はわざとやっているのか。空気を読まないにも程があるぞ。
イライラを噛み殺して、私は口を開いた。
「依頼人に承諾をとった。情報開示しよう。この一本杉で人間達が度胸試しを行っている事は知っているだろう? 命蓮寺の檀家の中で犠牲者が出たんだ。だからこの一本杉に供養塚を建てた。二度と同じ悲劇を繰り返さないために。度胸試しの愚かしさをよく報道しておいてくれ」
「ふむ……なるほど。まあ、いいでしょう。ネタとしては少し足りませんが、私は寛容ですからね」
文花帖にメモしながら、射命丸はずけずけと言う。
「しかし、昨日壊したはずの橋がいつの間にか直っていますねぇ」
射命丸が不思議そうに吊り橋を眺めている。
「私が修復したんだ。君の新聞で報道があれば、他の犠牲者の家族も供養に来たがるだろうからな。その時に橋が無ければ困るだろう? 君の新聞の信憑性も疑われてしまう」
「……む」
「貸し一つだな」
射命丸は苦い顔で舌打ちをした。
「侮れないですね。さすがは毘沙門天の使者と言ったところですか。でも、気に入りましたよ。ただの酔狂な弱小妖怪だと思っていましたが、この私に一杯食わせるとは、いやはや」
そう言って笑う。その笑顔は今までの人を小馬鹿にするような笑みとは違って、爽やかだった。
「貴女とはぜひとも、対等な関係でいたいものです」
後日、『文々。新聞』に記事が載った。事件のあらましと、一本杉に立つ死体探偵姿の私の写真。
さらに、人里から一本杉に向かう通行路が白狼天狗の監視下に入ったこと、里の人間の自由な通行を認める条約を制定したことを伝える速報。天狗たちの監視下に入ったことで、有象無象達の被害は激減するだろう。供養塚までの安全な道が確保されたわけである。
拘るだけあって、借りはきっちりと返す女らしい、射命丸文は。良くも悪くも、自分のルールを曲げない奴である。