博麗霊夢が死んだとき、霧雨魔理沙に去来した感情は虚無であった。喪失感があり、悲哀があり、しかし、その胸中に大きな孔がひとつ通ったような感覚であった。彼女は博麗霊夢のものではなかったし、博麗霊夢も彼女のものではなかったが、その空洞は霧雨魔理沙にとって行く当てのない憂色であって、いわく、急に地図を失ったような感覚であった。
その死体を見たときに、霧雨魔理沙は何よりもまず周囲を見渡した。誰もいないことを確認してから、博麗霊夢の死体に再び目をやった。大結界の巫女であって、天才であって、幻想郷の要である博麗霊夢の死を受け入れるのに時間はそうかからなかった。死体は途中で芯を失った蝋燭を想起させた。霧雨魔理沙は魔法使いであるから、神への信仰心はなかった。それでもなお、何かを念じる心が、切り傷に生まれる肉芽のように膨らみ、拘縮を起こした。かといって死体をどうする訳にもいかず、彼女は死体をおいて帰途へ着いた。その時点で彼女の胸中には虚無が生まれていた。
森の木々は既に数十年、大きければ数百年の樹齢のものがあったとして、博麗霊夢は人間であり、霧雨魔理沙も人間であった。木々は月輪の光を受けて青々と膨らみ、その隙間から暗い空を覗くように並んでいた。
呼応して、赤い色の蝶々が樹にとまっていた。蝶々は凝と岸壁に似た幹にとまり、微動だにしていなかった。触覚は揺れながら天を指し、口吻は螺旋を描いて樹液を待っているようであった。霧雨魔理沙には既に黒胆汁質の気が宿痾のごとくつきまとっていた。彼女は蝶々に手を伸ばした。触れた瞬間、蝶々がぴくりと翅を振るわせた。彼女はためらいなく手を閉じた。赤黒い鱗粉と体液が感触とともに手に残った。開けば、ぴんと伸びていた翅翼は見る影もなく崩れ、翅紋は無秩序に潰れ、細い肢体は折れ曲がった。霧雨魔理沙にはそれが元来生命のあった形跡ではなく、広野に咲いた一輪の花であるように思えた。流砂のごとくあふれた鱗粉は月光を反射して掌を彩り、その中で華奢な肢体が生々しく引き立っていた。
霧雨魔理沙は茫洋として帰途を歩んだ。掌は揺れるたびに鱗粉のきらめきをちらつかせた。そのきらめきは霧雨魔理沙の網膜を介して満ちあふれた運河を想起させ、幻惑をちらつかせた。
気付けば霧雨魔理沙は博麗霊夢とともに境内にいた。盛夏の博麗神社は遮るもののない日差しに照らされ、石段は熱気を放っていた。鎮守の森は揺らめいて陽の線条を揺らし、波打っていた。森林の腐葉土が熱されて放つ微妙な甘酸とした湿り気のある臭気と、打ち水の蒸発した冷ややかな空気が鼻孔に漂っていた。ただ座っているだけでもじわじわと汗が伝った。
霧雨魔理沙は、この森から漂う粘り気のある臭気が嫌いではなかった。横を見ると、博麗霊夢は常がそうであるように、変わらず締まりの無い顔をしており、それでも額にはうっすらと汗が染み出ていた。玉は陽を反射して輝いていた。霧雨魔理沙が博麗神社にたびたび顔を出すのは、彼女自身にとっては自然のことであった。
いつ来ても眼に入るものに変わりは無く、神社と、博麗霊夢と、客人がいる程度であった。異変がなければ季節以外で博麗神社を際立たせるものはなかった。霧雨魔理沙は、眼前がふと灰がかるのを見たあと、再び煌々と輝き出した。一条の雲が陽を遮った痕だった。こんな少しのことでも気になるものだな、と霧雨魔理沙は自嘲した。何の変化もない博麗神社、いや、博麗霊夢がいることで、彼女は周囲に敏感になっていたと感ぜられた。箒で飛んでいるときに塵芥に気を遣ることは無いし、虫や鳥は蹴ればどこかへ行く。そうする一方で、境内で身に滲んだ汗を拭えば、細やかな雫として伸び、やがて露として消えていくことすら彼女の目には金剛石の散る様に見えていた。気のない会話であっても、薄氷の上を渡るような気持ちであって、恐らく、博麗霊夢は気にとめるような返事であったろうが、霧雨魔理沙はそのひとことひとことに須臾の逡巡を重ねて、脳裏に浮かんだ言葉を反芻した。
博麗霊夢が茶器を取りに奥へ戻った時、霧雨魔理沙は独りとなった。西風が吹いて帽子を揺らした。木陰はひときわ大きくざわめき、幾枚かの葉が翻りながら宙を舞った。まだ緑のそれは青々とした光を反射しながら、二度三度跳ねて石畳へ落ちた。この葉ももう数ヶ月もすれば赤くなり、やがて茶けて風もなく落ちて気を育てるだろう。霧雨魔理沙は凝として落ちた葉を眺めた。葉ですら木にとってひとつの部分である。灰色の石畳に青々としたそれは、荒野に佇立する茂った樹木を思い起こさせたが、どちらも枯れ果てる運命であった。霧雨魔理沙はその葉を手に取った。葉柄はまだしっかりと硬く、瑞々しさを保っていた。舞ってきたときのように回せば、また再び青々とした光を反射し、裏と表の濃淡がはっきりと映えた。
硬質な音がして、博麗霊夢が新しい茶を入れていた。葉を持ったまま霧雨魔理沙は彼女のもとへと戻った。盛夏にもかかわらず熱い茶を煎れるところが、また博麗霊夢らしいところであった。葉を盆に置くと、博麗霊夢は微笑んだ。熱い茶を一口含むと、青い香りが鼻を抜けた。内と外からやってくる茶葉の香りは鼻腔から眼、そして脳髄へと至り……
霧雨魔理沙は目覚め、湿気った腐葉土の上に倒れていた。彼女の体重をかけた弾力はむなしく地面に抜け、まるで肉の上に横たわっているようであった。死臭ともとれる重い濁った空気は、肺に取り込まれることを拒むように気道をねぶっていた。腹に力を入れても、四肢まで脈絡が行き渡らず、沼に沈んでいく心地であった。それにも関わらず瞼は意識に反して開いて固縮し、木々の暗影とその隙間から見える藍色の空が瞳孔に映っていた。風は無く、物音すらしなかった。
漸く首を起こし胸に目を遣ると、そこには赤い蝶々がとまっていた。翅紋は葉脈がごとく四方に散らばり、ひとつの地図を為すように見えた。蝶は触覚を揺らしながら、複眼は彼女の目を見ていた。動く様子は無かった。霧雨魔理沙は、己の空洞から染み出た蜜を舐めに来たのだと直感した。蜜は甘美ではなく、酸味か、あるいは辛苦を伴うものであろう。蝶を振り払う力すら彼女には無かった。ただ蝶によって為される、空洞から染み出た蜜が口吻に吸い取られるままにする他なかった。意識は混濁し、風前の蝋燭の火が揺らめいていた。彼女は己の限界を感じた。木々はそのまま生い茂り、おそらく、蝶々はその蜜を吸いに来て、蜜は木々の養分が醗酵して酸味を帯びたもので、霧雨魔理沙にとっての養分は。
霧雨魔理沙は意識を閉じ、そして死を自覚した。
その死体を見たときに、霧雨魔理沙は何よりもまず周囲を見渡した。誰もいないことを確認してから、博麗霊夢の死体に再び目をやった。大結界の巫女であって、天才であって、幻想郷の要である博麗霊夢の死を受け入れるのに時間はそうかからなかった。死体は途中で芯を失った蝋燭を想起させた。霧雨魔理沙は魔法使いであるから、神への信仰心はなかった。それでもなお、何かを念じる心が、切り傷に生まれる肉芽のように膨らみ、拘縮を起こした。かといって死体をどうする訳にもいかず、彼女は死体をおいて帰途へ着いた。その時点で彼女の胸中には虚無が生まれていた。
森の木々は既に数十年、大きければ数百年の樹齢のものがあったとして、博麗霊夢は人間であり、霧雨魔理沙も人間であった。木々は月輪の光を受けて青々と膨らみ、その隙間から暗い空を覗くように並んでいた。
呼応して、赤い色の蝶々が樹にとまっていた。蝶々は凝と岸壁に似た幹にとまり、微動だにしていなかった。触覚は揺れながら天を指し、口吻は螺旋を描いて樹液を待っているようであった。霧雨魔理沙には既に黒胆汁質の気が宿痾のごとくつきまとっていた。彼女は蝶々に手を伸ばした。触れた瞬間、蝶々がぴくりと翅を振るわせた。彼女はためらいなく手を閉じた。赤黒い鱗粉と体液が感触とともに手に残った。開けば、ぴんと伸びていた翅翼は見る影もなく崩れ、翅紋は無秩序に潰れ、細い肢体は折れ曲がった。霧雨魔理沙にはそれが元来生命のあった形跡ではなく、広野に咲いた一輪の花であるように思えた。流砂のごとくあふれた鱗粉は月光を反射して掌を彩り、その中で華奢な肢体が生々しく引き立っていた。
霧雨魔理沙は茫洋として帰途を歩んだ。掌は揺れるたびに鱗粉のきらめきをちらつかせた。そのきらめきは霧雨魔理沙の網膜を介して満ちあふれた運河を想起させ、幻惑をちらつかせた。
気付けば霧雨魔理沙は博麗霊夢とともに境内にいた。盛夏の博麗神社は遮るもののない日差しに照らされ、石段は熱気を放っていた。鎮守の森は揺らめいて陽の線条を揺らし、波打っていた。森林の腐葉土が熱されて放つ微妙な甘酸とした湿り気のある臭気と、打ち水の蒸発した冷ややかな空気が鼻孔に漂っていた。ただ座っているだけでもじわじわと汗が伝った。
霧雨魔理沙は、この森から漂う粘り気のある臭気が嫌いではなかった。横を見ると、博麗霊夢は常がそうであるように、変わらず締まりの無い顔をしており、それでも額にはうっすらと汗が染み出ていた。玉は陽を反射して輝いていた。霧雨魔理沙が博麗神社にたびたび顔を出すのは、彼女自身にとっては自然のことであった。
いつ来ても眼に入るものに変わりは無く、神社と、博麗霊夢と、客人がいる程度であった。異変がなければ季節以外で博麗神社を際立たせるものはなかった。霧雨魔理沙は、眼前がふと灰がかるのを見たあと、再び煌々と輝き出した。一条の雲が陽を遮った痕だった。こんな少しのことでも気になるものだな、と霧雨魔理沙は自嘲した。何の変化もない博麗神社、いや、博麗霊夢がいることで、彼女は周囲に敏感になっていたと感ぜられた。箒で飛んでいるときに塵芥に気を遣ることは無いし、虫や鳥は蹴ればどこかへ行く。そうする一方で、境内で身に滲んだ汗を拭えば、細やかな雫として伸び、やがて露として消えていくことすら彼女の目には金剛石の散る様に見えていた。気のない会話であっても、薄氷の上を渡るような気持ちであって、恐らく、博麗霊夢は気にとめるような返事であったろうが、霧雨魔理沙はそのひとことひとことに須臾の逡巡を重ねて、脳裏に浮かんだ言葉を反芻した。
博麗霊夢が茶器を取りに奥へ戻った時、霧雨魔理沙は独りとなった。西風が吹いて帽子を揺らした。木陰はひときわ大きくざわめき、幾枚かの葉が翻りながら宙を舞った。まだ緑のそれは青々とした光を反射しながら、二度三度跳ねて石畳へ落ちた。この葉ももう数ヶ月もすれば赤くなり、やがて茶けて風もなく落ちて気を育てるだろう。霧雨魔理沙は凝として落ちた葉を眺めた。葉ですら木にとってひとつの部分である。灰色の石畳に青々としたそれは、荒野に佇立する茂った樹木を思い起こさせたが、どちらも枯れ果てる運命であった。霧雨魔理沙はその葉を手に取った。葉柄はまだしっかりと硬く、瑞々しさを保っていた。舞ってきたときのように回せば、また再び青々とした光を反射し、裏と表の濃淡がはっきりと映えた。
硬質な音がして、博麗霊夢が新しい茶を入れていた。葉を持ったまま霧雨魔理沙は彼女のもとへと戻った。盛夏にもかかわらず熱い茶を煎れるところが、また博麗霊夢らしいところであった。葉を盆に置くと、博麗霊夢は微笑んだ。熱い茶を一口含むと、青い香りが鼻を抜けた。内と外からやってくる茶葉の香りは鼻腔から眼、そして脳髄へと至り……
霧雨魔理沙は目覚め、湿気った腐葉土の上に倒れていた。彼女の体重をかけた弾力はむなしく地面に抜け、まるで肉の上に横たわっているようであった。死臭ともとれる重い濁った空気は、肺に取り込まれることを拒むように気道をねぶっていた。腹に力を入れても、四肢まで脈絡が行き渡らず、沼に沈んでいく心地であった。それにも関わらず瞼は意識に反して開いて固縮し、木々の暗影とその隙間から見える藍色の空が瞳孔に映っていた。風は無く、物音すらしなかった。
漸く首を起こし胸に目を遣ると、そこには赤い蝶々がとまっていた。翅紋は葉脈がごとく四方に散らばり、ひとつの地図を為すように見えた。蝶は触覚を揺らしながら、複眼は彼女の目を見ていた。動く様子は無かった。霧雨魔理沙は、己の空洞から染み出た蜜を舐めに来たのだと直感した。蜜は甘美ではなく、酸味か、あるいは辛苦を伴うものであろう。蝶を振り払う力すら彼女には無かった。ただ蝶によって為される、空洞から染み出た蜜が口吻に吸い取られるままにする他なかった。意識は混濁し、風前の蝋燭の火が揺らめいていた。彼女は己の限界を感じた。木々はそのまま生い茂り、おそらく、蝶々はその蜜を吸いに来て、蜜は木々の養分が醗酵して酸味を帯びたもので、霧雨魔理沙にとっての養分は。
霧雨魔理沙は意識を閉じ、そして死を自覚した。
良かったです
描写を重視しているのは分かりますが、ストーリー展開が分かりにくいです。
魔理沙が回想で、霊夢の死から己の死を意識しているという展開でしょうが、そこに至るまでの説得力を持たせるエピソードが無い気がします。長編小説の冒頭、という感想を持ちました。
次回作にも期待しています。