幸せってなんだろう。一体何処に在るんだろう。
目に見えないそれを探して、誰もが日常という激流の中をもがきながら泳いでいる。
形の無いそれを探して、誰もが人生という暗闇の中を手探りで歩いている。
人は皆、幸せ探す旅人だなんて、いつかの歌でも言っている。ようやく見つけたと思っても、大抵それは、飢えた旅人の蜃気楼。手を伸ばせば霞となって消え失せてしまう。
でもきっと、童話の中でもあるように。
青い小鳥は、いつだってそばに佇んでいるのだ。
「おかわりください」
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
都会の片隅にあるうらぶれた中華飯店のカウンター席で、古明地こいしはスプーンを握りしめていた。頼んだ炒飯のおかわりを、今か今かと心待ちにしながら。
厨房に立つ初老の男性――店主だろう――はこいしの注文に黙って頷くと、手にした中華鍋を火にかけた。
「よく食べるねぇ」
三角巾をした同じく初老の女性、恐らく店主の妻がにこにこ笑っている。人の良い女性で、慣れぬ散蓮華の扱いにこいしが苦戦していると、そっとスプーンを差し出してくれたのだ。
店内にはこいしの他に客はいない。昼時をとうに過ぎた午睡時。閑古鳥の鳴く時間帯に一人でやって来たこいしが物珍しいのだろうか、女性はこいしの隣に座って、大した話をするでもなく、ただこいしを見つめている。その瞳は、孫娘を見る時のように優しい。
小さな店だ、夫婦二人で経営しているのだろう。手が回らないのか、お店の内装は古びて傷んでいる。元は白かったろう壁は油染みで所々黄ばんでいるし、こいしの腰掛ける小さな丸椅子もクッションが破れて中身が出ている始末。こいしの住む大きな屋敷、いつも綺麗に整えられた地霊殿とは、何もかもが違う世界。
だけれども、こいしはこのお店が好きになった。
「ごはん、おいしいし」
右手のスプーンも期待に揺れている。
こいしの瞳は店主の動きに釘付けになった。
卵を二つ、片手でボウルに割り入れると、箸で手早く溶き混ぜる。卵を片手で割るなんて、こいしには逆立ちしたって出来ない芸当。かちゃかちゃと心地良く鳴る混ぜ音に合わせて、こいしは無邪気に手を叩いた。
店主の背が揺れる。
溶いた卵を熱した中華鍋に回し入れ、その少し後にお玉いっぱい分のご飯。店主が小刻みに手首を返せば、燃え盛る炎の上で金色に輝くご飯の津波が荒れ狂う。お玉を返し、厨房に置かれたボウル達から拾い集めるのは、細かく刻んだ焼豚、人参、グリーンピースの色鮮やかな具材達。それを跳ねる鍋に落とし入れれば、店主の手首が今度は水平に揺れる。年季が入って黒光りする中華鍋の海の中を、ぐるぐると黄金色の渦が回り。刻み葱を加え、ふわりと落とした塩胡椒で味を整えると、最後にまた鉄鍋が踊った。
鍋を傾け振り向いた店主が、お皿の上でお玉を返せば、おいしい炒飯の出来上がりである。
「わあ!」
喜ぶこいしはスタンディングオベーション。大袈裟な、と店主が苦笑いして、でも少し嬉しそうにはにかんでいる。
手を合わせてから、スプーンで炒飯をすくって口に運んだ。香ばしい香りと、口の中でパラリと踊る米の舌触りが堪らない。
「おじさんのそのお鍋、好き。おたまも好き」
唐突なこいしの言葉に、店主もその妻も首を傾げた。
「なんでお鍋とおたまなんだい?」
店主の妻が聞くと、こいしはにっこり笑って答えた。
「おいしいごはん作ってくれるし」
無邪気な言葉に、夫婦はそろって微笑んだ。
こいしにとっては、おいしいご飯を出してくれる魔法の鍋とお玉なのである。
「おばちゃんのスプーンも好き」
「スプーンも?」
「うん。こんなにおいしいごはんが食べられるんだもの」
ああ……そうね、と妻は微笑んだ。
こいしは一生懸命スプーンを動かしている。皿は見る間に空になった。店主も妻も、嬉しそうにその様を見つめていた。
立ち上がったこいしは、空のお皿をかざし、スプーンを握りしめ。そうしてやっぱり、こう言うのだ。
「おかわりください」
幸せってなんだろう。一体何処にあるんだろう。
こいしも、店主も、その妻も。もし旅人がそう問えば、きっとこう答えたろう。
それは、今この時の事だよ。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あらこいし。お帰りなさい」対面式キッチンから出てきた姉のさとりは、花柄エプロンを付けながら言う。「ちょうど良かった。ちょっと遅いけどお昼ごはん、あんたも食べる? 今から簡単にチャーハンでも作ろうかと思うんだけど」
「うん!」
嬉しそうに頷くこいし。
途端、こいしは大きくげっぷをした。
「……あんた、外でなんか食べてきた?」
「チャーハン、食べる!」
「あ、ああそう。ま、いいけど」
訝しく思うさとりだったが、いつものことかと思い直して準備を始める。
卵を両手でぎこちなく割り、大きめのボウルへ落とした。その中に昨日の残りの冷やご飯を入れてよく混ぜる。熱したフライパンに油を敷き、小さくちぎったハムとピーマンを入れて少し炒め、そこへ先ほどの卵混ぜご飯を投入。薄く広げた卵ご飯を軽く叩くようにして炒めれば。
「古明地家秘伝、超簡単チャーハンの完成よ」
「またの名を雑チャーハンだね」
「お、美味しければいいのよ!」
こいしの前に盛り付けた皿を置く。マイスプーンを握りしめ待ち構えていたこいしは、先を争うように食べだした。そんなにお腹が空いていたのだろうか、さっきごっついげっぷをしてたくせに。
さとりはこいしの食べる所を見るのが好きだ。この子はどんなものでも本当に美味しそうに食べるから。見ているほうもお腹一杯になってしまうくらいである。
一心不乱に食べるこいしを見て、さとりはクスクスと笑いながら訊ねた。
「どう、こいし。おいしい?」
「べちゃべちゃしててまずい!」
即答に、ガクッと崩れるさとり。
「あ、ああそう……」
まずいと言いつつ、こいしは笑顔でもりもり食べている。どっちだよ。これじゃ悲しめばいいのか、喜べばいいのか分からない。
心を読む覚妖怪にして地霊殿の管理者、古明地さとりと言えども、妹の心だけは読めない。自由奔放な妹を見つめて、ただただ溜め息を吐くしかなかった。
不意に顔を上げたこいしは、握ったスプーンとさとりを交互に見つめて、ぽつりと言った。
「このスプーンも、好き」
そう言って、こいしはまたスプーンを忙しなく動かした。
スプーンかよ。お姉ちゃんの作ったチャーハンって言えよ。私のチャーハンは無機物に負けるんかい。
喉まで出かかった言葉をチャーハンで押し込む。
確かにべちゃべちゃしてて、つまり、いつもの味だった。
「あーもう、どうやったら美味しくなるんだろ」
さとりが溜息を吐いている間に、こいしは自分の分を平らげてしまった。
じっ、とこいしが見つめてくるので、さとりは仕方なく、自分の皿をこいしの方へ押しやった。
「いいの?」
「あんたの食べるの見てたら、お腹一杯になっちゃった」
喜色満面、こいしはチャーハンにがっついた。よく食べるな、さっきごっついげっぷをしてたくせに。妹の健啖ぶりに、さとりはただただ呆れるしかない。でも、自分の作った料理を夢中で食べてくれるのは、素直に嬉しいと思った。
あんまり美味しく作れなくてごめんね。
その台詞は、口にしたって詮無いこと。
「あーもう。ほっぺにおべんと、たくさん付いてるわよ。まったく……」
幸せってなんだろう。
さとりにとっては、妹の頬に付いたご飯粒を取ってあげる今、この時かもしれない。
目に見えないそれを探して、誰もが日常という激流の中をもがきながら泳いでいる。
形の無いそれを探して、誰もが人生という暗闇の中を手探りで歩いている。
人は皆、幸せ探す旅人だなんて、いつかの歌でも言っている。ようやく見つけたと思っても、大抵それは、飢えた旅人の蜃気楼。手を伸ばせば霞となって消え失せてしまう。
でもきっと、童話の中でもあるように。
青い小鳥は、いつだってそばに佇んでいるのだ。
「おかわりください」
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
都会の片隅にあるうらぶれた中華飯店のカウンター席で、古明地こいしはスプーンを握りしめていた。頼んだ炒飯のおかわりを、今か今かと心待ちにしながら。
厨房に立つ初老の男性――店主だろう――はこいしの注文に黙って頷くと、手にした中華鍋を火にかけた。
「よく食べるねぇ」
三角巾をした同じく初老の女性、恐らく店主の妻がにこにこ笑っている。人の良い女性で、慣れぬ散蓮華の扱いにこいしが苦戦していると、そっとスプーンを差し出してくれたのだ。
店内にはこいしの他に客はいない。昼時をとうに過ぎた午睡時。閑古鳥の鳴く時間帯に一人でやって来たこいしが物珍しいのだろうか、女性はこいしの隣に座って、大した話をするでもなく、ただこいしを見つめている。その瞳は、孫娘を見る時のように優しい。
小さな店だ、夫婦二人で経営しているのだろう。手が回らないのか、お店の内装は古びて傷んでいる。元は白かったろう壁は油染みで所々黄ばんでいるし、こいしの腰掛ける小さな丸椅子もクッションが破れて中身が出ている始末。こいしの住む大きな屋敷、いつも綺麗に整えられた地霊殿とは、何もかもが違う世界。
だけれども、こいしはこのお店が好きになった。
「ごはん、おいしいし」
右手のスプーンも期待に揺れている。
こいしの瞳は店主の動きに釘付けになった。
卵を二つ、片手でボウルに割り入れると、箸で手早く溶き混ぜる。卵を片手で割るなんて、こいしには逆立ちしたって出来ない芸当。かちゃかちゃと心地良く鳴る混ぜ音に合わせて、こいしは無邪気に手を叩いた。
店主の背が揺れる。
溶いた卵を熱した中華鍋に回し入れ、その少し後にお玉いっぱい分のご飯。店主が小刻みに手首を返せば、燃え盛る炎の上で金色に輝くご飯の津波が荒れ狂う。お玉を返し、厨房に置かれたボウル達から拾い集めるのは、細かく刻んだ焼豚、人参、グリーンピースの色鮮やかな具材達。それを跳ねる鍋に落とし入れれば、店主の手首が今度は水平に揺れる。年季が入って黒光りする中華鍋の海の中を、ぐるぐると黄金色の渦が回り。刻み葱を加え、ふわりと落とした塩胡椒で味を整えると、最後にまた鉄鍋が踊った。
鍋を傾け振り向いた店主が、お皿の上でお玉を返せば、おいしい炒飯の出来上がりである。
「わあ!」
喜ぶこいしはスタンディングオベーション。大袈裟な、と店主が苦笑いして、でも少し嬉しそうにはにかんでいる。
手を合わせてから、スプーンで炒飯をすくって口に運んだ。香ばしい香りと、口の中でパラリと踊る米の舌触りが堪らない。
「おじさんのそのお鍋、好き。おたまも好き」
唐突なこいしの言葉に、店主もその妻も首を傾げた。
「なんでお鍋とおたまなんだい?」
店主の妻が聞くと、こいしはにっこり笑って答えた。
「おいしいごはん作ってくれるし」
無邪気な言葉に、夫婦はそろって微笑んだ。
こいしにとっては、おいしいご飯を出してくれる魔法の鍋とお玉なのである。
「おばちゃんのスプーンも好き」
「スプーンも?」
「うん。こんなにおいしいごはんが食べられるんだもの」
ああ……そうね、と妻は微笑んだ。
こいしは一生懸命スプーンを動かしている。皿は見る間に空になった。店主も妻も、嬉しそうにその様を見つめていた。
立ち上がったこいしは、空のお皿をかざし、スプーンを握りしめ。そうしてやっぱり、こう言うのだ。
「おかわりください」
幸せってなんだろう。一体何処にあるんだろう。
こいしも、店主も、その妻も。もし旅人がそう問えば、きっとこう答えたろう。
それは、今この時の事だよ。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あらこいし。お帰りなさい」対面式キッチンから出てきた姉のさとりは、花柄エプロンを付けながら言う。「ちょうど良かった。ちょっと遅いけどお昼ごはん、あんたも食べる? 今から簡単にチャーハンでも作ろうかと思うんだけど」
「うん!」
嬉しそうに頷くこいし。
途端、こいしは大きくげっぷをした。
「……あんた、外でなんか食べてきた?」
「チャーハン、食べる!」
「あ、ああそう。ま、いいけど」
訝しく思うさとりだったが、いつものことかと思い直して準備を始める。
卵を両手でぎこちなく割り、大きめのボウルへ落とした。その中に昨日の残りの冷やご飯を入れてよく混ぜる。熱したフライパンに油を敷き、小さくちぎったハムとピーマンを入れて少し炒め、そこへ先ほどの卵混ぜご飯を投入。薄く広げた卵ご飯を軽く叩くようにして炒めれば。
「古明地家秘伝、超簡単チャーハンの完成よ」
「またの名を雑チャーハンだね」
「お、美味しければいいのよ!」
こいしの前に盛り付けた皿を置く。マイスプーンを握りしめ待ち構えていたこいしは、先を争うように食べだした。そんなにお腹が空いていたのだろうか、さっきごっついげっぷをしてたくせに。
さとりはこいしの食べる所を見るのが好きだ。この子はどんなものでも本当に美味しそうに食べるから。見ているほうもお腹一杯になってしまうくらいである。
一心不乱に食べるこいしを見て、さとりはクスクスと笑いながら訊ねた。
「どう、こいし。おいしい?」
「べちゃべちゃしててまずい!」
即答に、ガクッと崩れるさとり。
「あ、ああそう……」
まずいと言いつつ、こいしは笑顔でもりもり食べている。どっちだよ。これじゃ悲しめばいいのか、喜べばいいのか分からない。
心を読む覚妖怪にして地霊殿の管理者、古明地さとりと言えども、妹の心だけは読めない。自由奔放な妹を見つめて、ただただ溜め息を吐くしかなかった。
不意に顔を上げたこいしは、握ったスプーンとさとりを交互に見つめて、ぽつりと言った。
「このスプーンも、好き」
そう言って、こいしはまたスプーンを忙しなく動かした。
スプーンかよ。お姉ちゃんの作ったチャーハンって言えよ。私のチャーハンは無機物に負けるんかい。
喉まで出かかった言葉をチャーハンで押し込む。
確かにべちゃべちゃしてて、つまり、いつもの味だった。
「あーもう、どうやったら美味しくなるんだろ」
さとりが溜息を吐いている間に、こいしは自分の分を平らげてしまった。
じっ、とこいしが見つめてくるので、さとりは仕方なく、自分の皿をこいしの方へ押しやった。
「いいの?」
「あんたの食べるの見てたら、お腹一杯になっちゃった」
喜色満面、こいしはチャーハンにがっついた。よく食べるな、さっきごっついげっぷをしてたくせに。妹の健啖ぶりに、さとりはただただ呆れるしかない。でも、自分の作った料理を夢中で食べてくれるのは、素直に嬉しいと思った。
あんまり美味しく作れなくてごめんね。
その台詞は、口にしたって詮無いこと。
「あーもう。ほっぺにおべんと、たくさん付いてるわよ。まったく……」
幸せってなんだろう。
さとりにとっては、妹の頬に付いたご飯粒を取ってあげる今、この時かもしれない。
たくさん食べるこいしちゃんが微笑ましい限りでした