その道には小さな社があった。
もう何年も前の話だ。里から竹林へと続くあぜ道の脇に、あるとき犬小屋ほどの社が建てられた。博麗の巫女が作ったそうだが、詳しいことを私は知らない。ただ、今でも竹林へ向かう度にその社のことを思い出す。今泉影狼という一人の妖怪の姿と共に。
――
「……お前って巫女だったよな?」
「妙なことを言うわね魔理沙。他の何に見えるの?」
霧雨魔理沙は友人の博麗霊夢が、金槌を手に座り込んでいる姿を見下ろした。
お盆が過ぎ、若干日の勢いが陰ってきたとはいえ、昼下がりの熱い中を霊夢は組み立て途中の木組みを見つめていた。
霊夢の横には真新しい木板が重ねて並べてあった。霊夢はその中から一枚を手に取ると、隣の工具箱より釘を取り出し、木組みに取り付け、金槌で打ち付ける。黒みを帯び、年季の入った金槌が釘を叩く度に、小君良い音があぜ道に響く。
「いつから大工になったのよ?」
「失礼ね。私は今も昔も巫女よ?」
「じゃあこれは何だ?」
霊夢の前には彼女の腰ほどの大きさの、小さな家らしき物体があった。霊夢は魔理沙へ振り返ると、誇らしげに笑った。
「『分社』よ」
「分社って、守谷が置いていったアレみたいな?」
少し前に早苗達の手によって、守谷神社の分社が博麗神社に置かれた。何が祀られているのか巫女である霊夢自身分からない博麗神社と違い、守谷神社には諏訪子と神奈子という二柱がいるため、分社を通じて博麗神社にも信仰の力が多少は集まっている。
もっとも他の神社に頼っている現状に霊夢は不服なのか、苦虫を噛んだ様な表情を浮かべた。
「そう。あいつらが企んでたことよ。それを私もやってやろうと思うの」
「何でまた?」
「ねえ魔理沙。なんで博麗神社に信仰が集まらないと思う?」
腕を組んで魔理沙は答えた。
「巫女が怠けているからだろ」
「は? いつ私が怠けたのよ?」
紅白の服をはためかせながら霊夢は立ち上がり、魔理沙を睨みつけた。魔理沙は黒い帽子に手を当てつつ、苦笑いを浮かべた。
「悪い悪い。で、何でなんだ?」
「信仰が集まらない理由。私が思うに神社が遠すぎるためね」
「あ―、確かに。人里から結構離れているからな」
「おまけに道中には妖怪が出るし、境内にも妖怪が出るし。あいつら神社ってものを理解しているのかしら?」
魔理沙は首を傾げて、下を向いた。
「だいたい霊夢のせいな気が……」
「何か言った?」
慌てて首を横に振りつつ、魔理沙は睨む霊夢の視線から目を逸らした。ため息を吐いた霊夢は、肩にかかった髪を払う。息を吹きかけたような微風が足元を通り過ぎ、霊夢の靴の脇の雑草がそよぐ。
「とにかくよ。博麗神社に行きづらいのなら分社を里に建て、人々に拝んでもらおうって考えたのよ」
「おお。悪くないアイデアだな」
「ふふん。もっと褒めても良いのよ?」
胸を張る霊夢に魔理沙は苦笑を浮かべた。
「……ただ、ここに建てるのはまずくないか? あまり人通りは多くないだろう。人が集まらないぞ」
「ここだけ、ならね」
「まさか……」
「ここは五軒目よ。もうすでに里中に建てておいたのよ」
「そんなに建てても大丈夫か?」
「増やせば増やすだけ信仰と賽銭が集まるのよ? 何の問題も無いわ」
霊夢の鼻息は荒いが、ふと魔理沙はその様子に不安を覚えた。
――調子に乗った霊夢は、たいていどこかで失敗する。
表情を曇らせつつ、魔理沙はつぶやいた。
「そうだと良いんだがな」
――
日は沈み、竹林へと通じる道はすでに薄暗い。雲は無いため満月が地上を照らしているが、それも心もとない。普通の人間なら提灯の一つでも無ければ、人里離れた暗がりなど歩かないだろう。そして普通の人間であれば、夜半に目的もなく里の外を歩くなど、危険すぎてしないであろう。
普通の人間であれば。
夏だというのに赤いマントを、首に深々と巻きつけ歩く。夜風に当たりたくなり、とはいえ人混みが嫌いな私は、足の向くまま気の向くままあぜ道を歩いていた。気がつけば里の外れに立っていて、道の先に微かに竹林の影が見える。
足を進めようとした私は、ふと道の脇に見慣れないものがある事に気づいた。座り込んで覗き見ると、それは小さな社だった。紐のようなしめ縄が屋根の下に結ばれ、その合間に置かれた板に『博麗神社』と書かれている。手前には賽銭箱なのだろうか、『奉納』と書かれた手のひらほどの大きさの木箱がある。
「何だこれ?」
この道にこういうものは無かった、と思う。とはいえしばらくは竹林へ足を運んだことは無いので、もしかしたら最近作られたのかもしれない。一体誰が、何のためにこんな外れの場所に作ったのだろう?
「あなたもお祈りするの?」
近くから声が聞こえて、咄嗟に横を振り向くと、髪の長い女が闇の中に立っていた。夜に差し掛かり暑さが弱まってはいるものの、見ているだけで汗が出てきそうな長袖のドレスをまとい、女は私の方へ微笑みかけている。
片足を一歩後ろに下げて身構える。
女は提灯も持たずに夜道を歩いてきた。日が暮れたにも関わらず里の外に一人でいるとは、普通の人間では無い。なにより彼女の頭より伸びる異様に大きく、毛にまみれた耳は、目の前の人物が異形の者だと物語っている。
さらに注意深く探ろうと身を屈めたところ、彼女は目を見開いた。
「ちょ、ちょっと待って。そんなに身構えなくても良いじゃ無い!」
早口にそう言うと両手を肩の高さに上げ、彼女は左右に振った。敵意は無いと言っているように見えた。
「……あんた、何者だ」
「私は今泉影狼、竹林に住む狼女よ。あなたは?」
影狼。そう名乗った彼女の表情を注視するが、嘘を言っているようには思えなかった。そもそも、もし私に危害を加えるつもりなら、話しかける前に攻撃するはずだ。だから私が警戒しすぎただけのことらしい。気恥ずかしい気持ちを覚えつつ私は口を開いた。
「私は赤蛮奇。いわゆる、ろくろ首よ」
「やっぱりアナタも妖怪なのね」
今泉影狼は手を合わせて笑った。満月の青白い光に映し出された彼女の顔は、透き通った真珠のように綺麗だった。
「え―と赤蛮奇さん、だっけ? 竹林に何か用?」
「いや。ただ散歩しているだけよ」
「そう。だったら竹林には近づかない方が良いわよ」
怪訝に思い影狼の顔を覗き込むと、彼女は右手の人差し指で上を指し示した。
「だって今日は満月だから。月が強い夜はね、みんな気が立っているの」
そういう話を前に聞いたことがあった。竹林には化けウサギなどの妖獣が住んでおり、満月になると彼らは凶暴になると。何も考えずにこの辺りまで歩いてきたが、このままだと危うく竹林に近づくところだったので、少しばかり背筋が冷たくなる。
そういえば満月だというのに、目の前の彼女は大丈夫だろうか?
「ところで、アナタも暴れたりするの?」
「暴れはしないけど……、見ての通り毛深くなるわ」
彼女は右手を私に突き出した。ドレスの袖より茶色い毛が箒の枝のように束なっているのが見える。
「そんな毛で、長袖なんてきたら暑いでしょう」
「毛が見えるよりはマシよ」
俯いて自嘲する影狼の様子を見る限り、彼女も苦労しているらしい。でも暑い思いをして外に出るくらいなら、家の中で静かにしておけば良いのではないか?
「あんたは何でここにいるんだ?」
「ちょっとね。お願い事をしたくて」
「お願いって、これに?」
私は足元の小さな社を指差す。まだ出来て新しいのか、微かに檜の香りが漂ってくる。
思わず私は鼻で笑う。
「やめとけやめとけ。あんな妖怪神社にご利益なんてないよ」
「……そう」
今泉影狼は俯き、その顔に陰りが見えた。彼女は明らかに残念がっている。
会話が止まり、近くの森から聞こえる蝉の音が響く。何となく悪いことをした気がして、若干気まずく思う。私は後ろを振り返りつつ、横に立つ影狼に言った。
「私は帰るわ」
「うん。じゃあね」
影狼に背を向け、里の方へと歩き出す。しばらくして振り返ると、影狼が社に手を合わせているのが見えた。
――
黒い帽子のツバ越しに、日光の暑さが伝わるのに閉口しながら、霧雨魔理沙は博麗神社の長い長い階段を登った。相も変わらず真昼の太陽は地上を熱気で包む。吹き出る汗を払いつつ階段を登りきった頃には、魔理沙の息も絶え絶えになっていた。
深呼吸をして鳥居の影で休みつつ、境内の様子を伺うと、相も変わらず博麗霊夢が箒で埃をはいていた。ただし、どことなく様子がおかしいように魔理沙には思えた。エプロンドレスのポケットよりハンカチを取り出し、首筋の汗を拭いた後で鳥居より歩み、霊夢へと声をかけた。
「おい霊夢。お前なんか良いことあったのか?」
魔理沙に気づいた霊夢は、振り返ると箒を持ったまま魔理沙を待った。白い石畳を魔理沙が歩く間、霊夢は頬が緩むのを我慢しているような、奇妙な表情を浮かべていた。魔理沙が近くいたときようやく霊夢は口を開いた。
「魔理沙、聞いて驚くが良いわ。なんと先週の倍になったの」
「え―と、何が?」
霊夢は彼女の背後へ指をさした。石灯籠に囲まれた石畳のの向こうに、重々しく置かれた賽銭箱があった。
「賽銭よ、賽銭! 分社に入れられた金銭を合計すると結構な額になったのよ。いやあ、これも日頃の行いの賜物よねえ!」
「日頃の、ねえ?」
魔理沙はアゴに手をあて、首をかしげる。霊夢の日頃の姿を思い返してみたが、魔理沙の表情は曇るばかりだった。
「何よ、魔理沙。何か言いたいわけ?」
「いやいや、何でもないぜ?」
慌てて手を振る魔理沙を尻目に、霊夢は眉を額に寄せる。空の太陽より黒い帽子ごと暑さで焼かれる中、魔理沙は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。しかし霊夢は軽く溜息を吐くと、真顔に戻って魔理沙に問いかけた。
「ところで魔理沙はどうしたの?」
「特にどうってわけじゃないんだがな。遊びに来ただけだぜ」
「そう。ならせっかくだし向こうでお茶しない?」
霊夢は神社の裏の方を指差す。境内と異なり神社裏は影になっているため、石畳の上よりは涼しい。魔理沙は目にかかりそうになった汗を払いつつ、霊夢に頷いた。
「おお。有難く頂くぜ」
霊夢は近くの石灯籠に箒を立てかけると、神社裏の方へとと歩く。その後ろを魔理沙もついていった。
石畳は賽銭箱の前で、左右に分かれている。左に曲がり、そのまま石畳の道なりに進むと、ささやかな庭園が現れる。人の背丈ほどの小さな松が奥に植えられ、その手前側を小熊のような丸石が不規則に並べてある。
右手は縁側になっており、開け放たれた障子越しに、神社の様子を伺うことができる。先に進む霊夢は縁側のそばで靴を脱ぐと、神社の社屋に上がり込んだ。
「そこで待っていて。今からお茶を用意するから」
「おう。わかったぜ」
社屋の中に消えた霊夢を目で追いつつ、魔理沙は縁側へ歩み寄ろうとした。そのとき何か目の端に映った気がして、顔をあげた。
開け放たれた障子越しに、真新しい畳がみえた。微かに蚊取り線香の香りがする室内には特に何もない。視線を上げると、水色の風鈴が見え、その上には黒瓦が並べられた屋根がある。更に視線を上げると枯れた大木が見える。
「大木?」
博麗神社の社屋より大きいその木は、夏だというのに葉っぱが枯れて、葉の色は幹と同じ茶色にそまっていた。
周りの木よりも一際大きく、一際太いその木の姿を魔理沙は知っていた。
魔理沙は神社の中へ、霊夢の方へと大声で叫んだ。
「霊夢。御神木が枯れているぞ!」
――
山裾に日が沈んでも太陽の明かりの残り香が、茜色の光となって山々を黄金色に染め上げる。あぜ道の脇の雑木林より、木々の青々とした香りを感じつつ、竹林へと続く道の途中で今泉影狼の姿を見かけた。
「また祈っているの?」
今泉影狼は私の方へ振り返って微笑んだ。先ほどまで神社に向かい合わせていた両手は、私の姿を見るのと同時に解かれ、下ろされた。
「うん。何でかな、気がつくとここに来て、拝んでいるの」
影狼の微笑みは西日が当たっているせいか、どこか寂しいように思えた。
「赤蛮奇はどうしたの?」
「さあ。私も気がついたら、ここを歩いていた」
特にやることもなく、人のいない方へと歩いていたらこちらの方に足が向かっていたので、今の言葉は嘘ではない。けれどその一方で、満月の夜に誰もいない中、一人で拝んでいた狼女の姿が、妙に心の中に残っていた。きっと私は無意識に、この道に向かって歩いていたのだと思う。
「なあ影狼。あんた、その姿はどうしたんだ?」
私は今泉影狼の全身を眺める。初めて会ったときにはあったはずの、頭の横に獣耳がすっかり消えて無くなっている。それに白いドレスからはみ出していた獣毛も、今はどこにも見当たらない。
「ああ、これ?」
影狼は腕を曲げ、彼女の顔の手前に服の袖を持ってくる。もう一度、服の袖口を注視するが、やはり毛は見えず、長袖の向こうには色白な素肌があらわとなっている。
「私は満月の夜以外は人間のような姿なの」
ふうん、と相づちをうちつつ、私は何を言うべきか分からなくなった。何でもない言葉であるのに、影狼の口調が、妙に悲しさを帯びている気がしたから。
私が何も言おうとしなかったからか、影狼は再び社に体を向けると、目を閉じ、二度ほど音をたてずに手を合わせた。
邪魔になるかもしれないと思いつつ、私は口を開いた。
「あんたは何を願っているんだ?」
今泉影狼は答えない。ただ手を合わせ、拝んでいるままだった。私のことを無視しているのだろうか。
見ているうちに段々と腹がたってきた。私は口をへの字に曲げつつ、帰ろうと思って一歩足を引いた。影狼が口を開いたのはその時だった。
「人間の里に行きたいの」
「何故?」
「さあ。何故かな……」
今泉影狼はそれっきり口を閉じ、神社へ顔を向けたままだった。おい、と声をかけても影狼は微動だにしなかった。その頑な姿勢に、私は目を細めた。
彼女は相変わらず祈っている。けれど他人に言う気は無いらしい。そんな彼女が、私は何となく気に入らなかった。
――
「この大バカ者!」
夕方の神社に茨木華扇の大声が響いた。彼女の前には霊夢と魔理沙が正座させられていた。
森に面した神社の裏には、しめ縄の巻かれた大木が、夏だというのに枯葉を降らしていた。そのため神社の御神木にしては、嫌に貧相な印象を周囲に与えていた。夕焼けの西日がその印象に拍車をかける。
「分社を町中に建てるなんて、あなた神社を何だと思っているのですか!?」
「何よ。信仰が集まるし良いじゃない!」
口からツバを飛ばして反論する霊夢に、華扇は上から怒鳴りつけた。
「全く良くありません! 考えてみてください。里に分社が建てられたらどうなりますか?」
「そりゃあ里の人が分社にお参りするでしょう」
「そうです。その結果どうなりますか?」
「どうなるって?」
「分社に行けば良いのでしたら、大元であるこの神社に人が集まりますか?」
「あ」
霊夢は大きく口を開いた。ここに至って、ようやく霊夢は彼女が犯した間違いにきづいた。華扇は顔をしかめたまま続ける。
「分社に人が集まったところで、博麗神社から人が遠のけば『この神社』の信仰に深刻な影響があります。それこそ御神木が枯れるようなね」
「でも守谷だってやっているじゃない」
華扇は人差し指を上へと突き出し、霊夢の顔を睨みつけた。
「あそこは二柱の神様がしっかりと守谷神社本体に信仰を集めているので、別の場所に分社を置くことができるのです。何が祀られているかも分からない博麗神社とは話が違います」
「じゃ、じゃあどうすれば良いのよ」
正座をしたまま拳を握りしめ、霊夢は唇を震わせる。華扇はため息を吐きつつ、右手を腰に当てた。
「早急に分社を取り除くしかないでしょう。その上で日頃の活動をしっかりと行うことで、信仰を取り戻すのです」
「ううう。面倒臭いなあ」
「大丈夫。私も協力しますよ」
項垂れる霊夢に対し、茨木華扇は大げさな微笑みを向けた。
「へ? 何を言っているの、華扇?」
「久々に私、怒りましたから。貴方を徹底的にしごきますよ」
「ええええええ!?」
「さあ行きますよ!」
「たすけてええええええ!」
博麗神社に霊夢の叫び声が響く。服の背を華扇に握られたまま、どこかへと霊夢は引きずられていった。あとには枯れた御神木と、座ったままの魔理沙がいた。
呆気にとられたまま魔理沙が呟いた。
「……なんで私も正座させられたんだ?」
――
雲ひとつない夕焼けの中を今泉影狼は歩いていた。竹やぶから里に向かうあぜ道を、長い影を後ろに連れて、たった一人で向かってくる。
分社への拝礼は恐らく彼女の日課となっていた。きっと一昨日も、昨日も影狼はここに来て、社に手を合わせていただろう。そして今日も影狼は社の前に立ち止まった。けれど彼女は手を合わせない。何故なら拝むべき社はもうここには無いのだから。
今泉影狼は立ちすくんだまま、社のあった場所を見つめている。その顔は歪み、今にも泣き出しそうだった。
見ていられなかった。だから私は茂みから姿を現した。
「赤蛮奇……」
「なんて顔しているのよ、今泉影狼」
いきなり現れた私に驚いたのか、影狼は目を見開いてはいたが、その目筋に微かにきらめく物があるのを私は見逃さなかった。
「あなた、なんでこんな所に……?」
「ここにいればあんたが会えそうな気がしたからね」
私はマントにかかる木の葉を払いつつ、今泉影狼に向かい歩く。夕焼けの陽光が木々の影を伸ばし、影狼の顔にかかる。色白の彼女の肌は薄い影を帯びたせいか、私には弱々しいものに見えた。
「ずっと気になっていたの。あなたが何故、里に行きたいなんて願っていたのか」
青々とした雑草を踏みしめ、私は影狼の前で立ち止まった。背後からはヒグラシの寂しげな鳴き声が聞こえた。いつの間にか盆も開け、もうすぐ夏は終わる。
影狼は目尻のものを払い、能面のように表情を隠して私を見ている。
「影狼。もしあなたが里に行きたければこの道を歩いていけば良い。でも先に進まなかった」
話しながら私は影狼の姿を見る。影狼は頭上に伸びた獣耳以外は、人間とさして姿は変わらない。仮に妖怪とバレるのが嫌ならば、帽子をかぶるなり頭巾を巻くなりすれば簡単にごまかすことができる。もし本当に里へ行く気があるなら、簡単に彼女にはいけたはずだ。
私は言葉を続ける。
「あなたは人間の里に行こうとしなかったのではなく、行けなかった。そうじゃなくて?」
影狼の表情は変わらない。けれど握られた拳が微かに動くのが目に映った。
私は彼女の目をじっと見つめる。
「だから私は思うの。あなたには里に苦手な物は無かったけれど、苦手な人、出会いたく無い者がいたのではないか、と」
「あなたは、それが誰だと思うの?」
「あなたはずっと竹林で暮らしてきた。だから人間の里に知り合いなんてほとんどいない」
影狼は眉をしかめた。
「知り合いがいないなら、『出会いたくない人がいる』わけないでしょ」
「知り合いじゃない。だけど出会いたくないくらい『繋がりの深い人』はいるでしょう?」
「誰よ、それ」
「あなたの親よ。あなた、半人半妖じゃないの?」
私のその一言で、影狼は押し黙った。口を固く結んだまま、彼女は私を睨む。しばらくして影狼は重々しく口を開けた。
「……馬鹿馬鹿しいわね。何を根拠に」
「私があなたと出会ったのは満月の夜だよね?」
「……そうだけど」
「満月の夜になると竹林の妖怪は興奮状態になる。でもあなたは冷静だった。だからあなたが本当に妖怪なのかって疑わしく思ったの」
「でも貴方もみたでしょう? 毛に覆われていた私の姿を」
「ええ。でも妖怪は精神的な影響に弱いものよ。竹林に住みながら満月の夜も冷静だというのは異常じゃない? だからあなたは妖怪の血が薄いのではと思ったの」
「……冷静な性格なのよ。私は」
目をそらして影狼は呟いた。そんな彼女を私は睨む。
「もう一つ。あなたの名前に違和感を覚えたの」
「名前?」
「あなたは孤独。だけどそれにも関わらず、まるで人間のような苗字を持っている」
「苗字なんて妖怪でも持っているじゃない」
「私は持っていない」
口を大きく開き、はっきりと私は言った。
「私は世界にただ一人だ。誰にも縛られるつもりはない。だから苗字はない。必要無い」
必要ない、と言ったとき彼女の体がぴくりと動いた。
「確かに苗字を持っている妖怪はいる。でもそれはその者が住んでいた場所だったり、所縁のある名称だ。土地や伝承などに繋がりを感じているなら、それを苗字とする」
例えば因幡の国に所縁のある化けウサギは自身の苗字を因幡としている。博麗神社によく出る鬼は、彼女が大暴れした山の名前を苗字としていると聞く。いかに強い妖怪であっても、きっと忘れることができない物や、断つことのできない繋がりがあるのだろう。
「だけどあなたの『今泉』は、地名とも伝承とも縁があるとは思えない」
私は今泉という地名を知らない。それに今泉という言葉に関わる伝説も知らない。少なくとも幻想郷でそのような名称を見たことも聞いたことも無かった。もしかしたら外の世界では使われるかもしれないが、幻想郷にも聞こえてこないということは、伝承や地名としては有名ではないのだろう。
だから『今泉』は妖怪が名乗る苗字としては相応しくないと思った。妖怪であれば、由来のある名称を苗字として扱うはずだから。
「だとしたら考えられるのは『人名』。あなたは今泉という性の人と縁がある。けれど普通は人が竹林には近づくことはないし、あなたが里に降りてくることも無い。だから普通であればあなたと人間に接点が生まれることはない」
私は言葉を止めると、深く息を吸い込んだ。今から言うことは、推測に推測を重ね、筋だけ通した張りぼての理屈だ。だけど私には、これが真実のようだと感じていた。
「だから私はこう思うの。今泉とはあなたの親で、あなたは彼女に竹林に捨てられたのだと。違う?」
影狼が幼い頃に竹林に捨てられたとしたら、彼女が里に行っていなくても人間と強い繋がりを持っていることを説明できる。彼女が決して里に近づかない、その理由も。
「……違う」
「だったら、なんであなたは泣いているの」
影狼の頬から一筋の雫が溢れていた。慌てた様子で彼女は右手でこすり、そして両手で目を押さえる。けれど手のひらの間から次々と溢れ、そして落ちていく。
その様子を私は目を細めて見る。
本当のところは、私は自分が言ったことに確証はない。影狼が泣いているのも、私が思っているのとは全く別の理由からかもしれない。
でも多分彼女は、人間のことで悩み、人間のことで苦しんだんだと思う。だから里に行くことができなかったのだと思う。だから私は腹立たしく感じた。
「私たちは妖怪よ。人間ごときを気にしてどうするの?」
口調を荒げ、そう影狼に言い放つ。
きっとそれは自分に対しての言葉でもあった。人間を気にして、人間を避け、それでも斜に構える、そんな矮小な私への言葉。
顔をあげた影狼の目は充血している。目をこするあまり、頬のあたりまで赤くなっている。その姿を見て私は思う。
――ああ、彼女は私に似ている。
私は一歩前に足を踏み出した。影狼の顔がすぐ目の前にあり、彼女の吐息が顔にかかる。彼女の潤んだ目も、涙の跡もよく見える。
影狼の顔を見つめながら、頭のなかに小さな疑問がよぎった。
――なんで私は再びここに来たのだろう
答えが浮かぶ前に、私は影狼の前に手を伸ばした。
目頭を押さえていた影狼は、戸惑ったように私の手のひらを見つめたあと、探るように手を伸ばした。夕日が当たり長く伸びる木陰の下で、ゆっくりと私は影狼の手を掴んだ。そして涙で濡れる彼女に微笑んだ。
――
このあぜ道を通るたびに、何年か前にあった小さな社と、影狼との出会いについて思い出す。そして彼女に向かって伸ばした手が脳裏によぎり、無性に恥ずかしくなるのが常だった。
そしてあの時は分からなかった『ここ』にきた理由を、いつも私は思い返すのだった。
小さな社が無くなっているのを見たとき、気がつけば私は茂みの中に隠れていた。何故そんなことをしたのか、当時は自分でも分かっていなかったけど、今なら答えられる。
私はきっと、話し相手がほしかった。人と付き合うなんて、私は真っ平ごめんだけれど、それでもやはり一人は寂しかった。思いの強さは違うけれど、人間を避けつつ、それでも人間のことを考えてしまう影狼と、私はどこか似ていた。
あれから私は影狼と会うようになり、色々あってわかさぎ姫という人魚とも知り合いになった。あの小さな社が無ければ、きっと二人に会うことは無かっただろう。
あの妙な社は、たった数日の後にどこかへ消えてしまった。何のためにあの社が建てられたのか、そして何故すぐに無くなったのか、私には分からない。けれど今にして思えば、あの小さな社には確かに神様が宿っていた。
そして神様はいつも拝みに来ていた影狼と、ついでに私の願いを叶えてくれた。そんな気がする。
もしかしたら影狼の願いを叶えるために、神様があの場所に社が建ったのかもしれない。
……いや、そこまで考えるのは流石におこがましいか。
誰もいないあぜ道の上で、私は立ち止まる。かつて小さな社があった場所には雑草が生い茂り、今はもう見る影も無い。けれど私は目をつぶり二礼した上で、二回ほどかしわ手を打った。
夕方の空の向こうへと、拍手の音は響いていった。
もう何年も前の話だ。里から竹林へと続くあぜ道の脇に、あるとき犬小屋ほどの社が建てられた。博麗の巫女が作ったそうだが、詳しいことを私は知らない。ただ、今でも竹林へ向かう度にその社のことを思い出す。今泉影狼という一人の妖怪の姿と共に。
――
「……お前って巫女だったよな?」
「妙なことを言うわね魔理沙。他の何に見えるの?」
霧雨魔理沙は友人の博麗霊夢が、金槌を手に座り込んでいる姿を見下ろした。
お盆が過ぎ、若干日の勢いが陰ってきたとはいえ、昼下がりの熱い中を霊夢は組み立て途中の木組みを見つめていた。
霊夢の横には真新しい木板が重ねて並べてあった。霊夢はその中から一枚を手に取ると、隣の工具箱より釘を取り出し、木組みに取り付け、金槌で打ち付ける。黒みを帯び、年季の入った金槌が釘を叩く度に、小君良い音があぜ道に響く。
「いつから大工になったのよ?」
「失礼ね。私は今も昔も巫女よ?」
「じゃあこれは何だ?」
霊夢の前には彼女の腰ほどの大きさの、小さな家らしき物体があった。霊夢は魔理沙へ振り返ると、誇らしげに笑った。
「『分社』よ」
「分社って、守谷が置いていったアレみたいな?」
少し前に早苗達の手によって、守谷神社の分社が博麗神社に置かれた。何が祀られているのか巫女である霊夢自身分からない博麗神社と違い、守谷神社には諏訪子と神奈子という二柱がいるため、分社を通じて博麗神社にも信仰の力が多少は集まっている。
もっとも他の神社に頼っている現状に霊夢は不服なのか、苦虫を噛んだ様な表情を浮かべた。
「そう。あいつらが企んでたことよ。それを私もやってやろうと思うの」
「何でまた?」
「ねえ魔理沙。なんで博麗神社に信仰が集まらないと思う?」
腕を組んで魔理沙は答えた。
「巫女が怠けているからだろ」
「は? いつ私が怠けたのよ?」
紅白の服をはためかせながら霊夢は立ち上がり、魔理沙を睨みつけた。魔理沙は黒い帽子に手を当てつつ、苦笑いを浮かべた。
「悪い悪い。で、何でなんだ?」
「信仰が集まらない理由。私が思うに神社が遠すぎるためね」
「あ―、確かに。人里から結構離れているからな」
「おまけに道中には妖怪が出るし、境内にも妖怪が出るし。あいつら神社ってものを理解しているのかしら?」
魔理沙は首を傾げて、下を向いた。
「だいたい霊夢のせいな気が……」
「何か言った?」
慌てて首を横に振りつつ、魔理沙は睨む霊夢の視線から目を逸らした。ため息を吐いた霊夢は、肩にかかった髪を払う。息を吹きかけたような微風が足元を通り過ぎ、霊夢の靴の脇の雑草がそよぐ。
「とにかくよ。博麗神社に行きづらいのなら分社を里に建て、人々に拝んでもらおうって考えたのよ」
「おお。悪くないアイデアだな」
「ふふん。もっと褒めても良いのよ?」
胸を張る霊夢に魔理沙は苦笑を浮かべた。
「……ただ、ここに建てるのはまずくないか? あまり人通りは多くないだろう。人が集まらないぞ」
「ここだけ、ならね」
「まさか……」
「ここは五軒目よ。もうすでに里中に建てておいたのよ」
「そんなに建てても大丈夫か?」
「増やせば増やすだけ信仰と賽銭が集まるのよ? 何の問題も無いわ」
霊夢の鼻息は荒いが、ふと魔理沙はその様子に不安を覚えた。
――調子に乗った霊夢は、たいていどこかで失敗する。
表情を曇らせつつ、魔理沙はつぶやいた。
「そうだと良いんだがな」
――
日は沈み、竹林へと通じる道はすでに薄暗い。雲は無いため満月が地上を照らしているが、それも心もとない。普通の人間なら提灯の一つでも無ければ、人里離れた暗がりなど歩かないだろう。そして普通の人間であれば、夜半に目的もなく里の外を歩くなど、危険すぎてしないであろう。
普通の人間であれば。
夏だというのに赤いマントを、首に深々と巻きつけ歩く。夜風に当たりたくなり、とはいえ人混みが嫌いな私は、足の向くまま気の向くままあぜ道を歩いていた。気がつけば里の外れに立っていて、道の先に微かに竹林の影が見える。
足を進めようとした私は、ふと道の脇に見慣れないものがある事に気づいた。座り込んで覗き見ると、それは小さな社だった。紐のようなしめ縄が屋根の下に結ばれ、その合間に置かれた板に『博麗神社』と書かれている。手前には賽銭箱なのだろうか、『奉納』と書かれた手のひらほどの大きさの木箱がある。
「何だこれ?」
この道にこういうものは無かった、と思う。とはいえしばらくは竹林へ足を運んだことは無いので、もしかしたら最近作られたのかもしれない。一体誰が、何のためにこんな外れの場所に作ったのだろう?
「あなたもお祈りするの?」
近くから声が聞こえて、咄嗟に横を振り向くと、髪の長い女が闇の中に立っていた。夜に差し掛かり暑さが弱まってはいるものの、見ているだけで汗が出てきそうな長袖のドレスをまとい、女は私の方へ微笑みかけている。
片足を一歩後ろに下げて身構える。
女は提灯も持たずに夜道を歩いてきた。日が暮れたにも関わらず里の外に一人でいるとは、普通の人間では無い。なにより彼女の頭より伸びる異様に大きく、毛にまみれた耳は、目の前の人物が異形の者だと物語っている。
さらに注意深く探ろうと身を屈めたところ、彼女は目を見開いた。
「ちょ、ちょっと待って。そんなに身構えなくても良いじゃ無い!」
早口にそう言うと両手を肩の高さに上げ、彼女は左右に振った。敵意は無いと言っているように見えた。
「……あんた、何者だ」
「私は今泉影狼、竹林に住む狼女よ。あなたは?」
影狼。そう名乗った彼女の表情を注視するが、嘘を言っているようには思えなかった。そもそも、もし私に危害を加えるつもりなら、話しかける前に攻撃するはずだ。だから私が警戒しすぎただけのことらしい。気恥ずかしい気持ちを覚えつつ私は口を開いた。
「私は赤蛮奇。いわゆる、ろくろ首よ」
「やっぱりアナタも妖怪なのね」
今泉影狼は手を合わせて笑った。満月の青白い光に映し出された彼女の顔は、透き通った真珠のように綺麗だった。
「え―と赤蛮奇さん、だっけ? 竹林に何か用?」
「いや。ただ散歩しているだけよ」
「そう。だったら竹林には近づかない方が良いわよ」
怪訝に思い影狼の顔を覗き込むと、彼女は右手の人差し指で上を指し示した。
「だって今日は満月だから。月が強い夜はね、みんな気が立っているの」
そういう話を前に聞いたことがあった。竹林には化けウサギなどの妖獣が住んでおり、満月になると彼らは凶暴になると。何も考えずにこの辺りまで歩いてきたが、このままだと危うく竹林に近づくところだったので、少しばかり背筋が冷たくなる。
そういえば満月だというのに、目の前の彼女は大丈夫だろうか?
「ところで、アナタも暴れたりするの?」
「暴れはしないけど……、見ての通り毛深くなるわ」
彼女は右手を私に突き出した。ドレスの袖より茶色い毛が箒の枝のように束なっているのが見える。
「そんな毛で、長袖なんてきたら暑いでしょう」
「毛が見えるよりはマシよ」
俯いて自嘲する影狼の様子を見る限り、彼女も苦労しているらしい。でも暑い思いをして外に出るくらいなら、家の中で静かにしておけば良いのではないか?
「あんたは何でここにいるんだ?」
「ちょっとね。お願い事をしたくて」
「お願いって、これに?」
私は足元の小さな社を指差す。まだ出来て新しいのか、微かに檜の香りが漂ってくる。
思わず私は鼻で笑う。
「やめとけやめとけ。あんな妖怪神社にご利益なんてないよ」
「……そう」
今泉影狼は俯き、その顔に陰りが見えた。彼女は明らかに残念がっている。
会話が止まり、近くの森から聞こえる蝉の音が響く。何となく悪いことをした気がして、若干気まずく思う。私は後ろを振り返りつつ、横に立つ影狼に言った。
「私は帰るわ」
「うん。じゃあね」
影狼に背を向け、里の方へと歩き出す。しばらくして振り返ると、影狼が社に手を合わせているのが見えた。
――
黒い帽子のツバ越しに、日光の暑さが伝わるのに閉口しながら、霧雨魔理沙は博麗神社の長い長い階段を登った。相も変わらず真昼の太陽は地上を熱気で包む。吹き出る汗を払いつつ階段を登りきった頃には、魔理沙の息も絶え絶えになっていた。
深呼吸をして鳥居の影で休みつつ、境内の様子を伺うと、相も変わらず博麗霊夢が箒で埃をはいていた。ただし、どことなく様子がおかしいように魔理沙には思えた。エプロンドレスのポケットよりハンカチを取り出し、首筋の汗を拭いた後で鳥居より歩み、霊夢へと声をかけた。
「おい霊夢。お前なんか良いことあったのか?」
魔理沙に気づいた霊夢は、振り返ると箒を持ったまま魔理沙を待った。白い石畳を魔理沙が歩く間、霊夢は頬が緩むのを我慢しているような、奇妙な表情を浮かべていた。魔理沙が近くいたときようやく霊夢は口を開いた。
「魔理沙、聞いて驚くが良いわ。なんと先週の倍になったの」
「え―と、何が?」
霊夢は彼女の背後へ指をさした。石灯籠に囲まれた石畳のの向こうに、重々しく置かれた賽銭箱があった。
「賽銭よ、賽銭! 分社に入れられた金銭を合計すると結構な額になったのよ。いやあ、これも日頃の行いの賜物よねえ!」
「日頃の、ねえ?」
魔理沙はアゴに手をあて、首をかしげる。霊夢の日頃の姿を思い返してみたが、魔理沙の表情は曇るばかりだった。
「何よ、魔理沙。何か言いたいわけ?」
「いやいや、何でもないぜ?」
慌てて手を振る魔理沙を尻目に、霊夢は眉を額に寄せる。空の太陽より黒い帽子ごと暑さで焼かれる中、魔理沙は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。しかし霊夢は軽く溜息を吐くと、真顔に戻って魔理沙に問いかけた。
「ところで魔理沙はどうしたの?」
「特にどうってわけじゃないんだがな。遊びに来ただけだぜ」
「そう。ならせっかくだし向こうでお茶しない?」
霊夢は神社の裏の方を指差す。境内と異なり神社裏は影になっているため、石畳の上よりは涼しい。魔理沙は目にかかりそうになった汗を払いつつ、霊夢に頷いた。
「おお。有難く頂くぜ」
霊夢は近くの石灯籠に箒を立てかけると、神社裏の方へとと歩く。その後ろを魔理沙もついていった。
石畳は賽銭箱の前で、左右に分かれている。左に曲がり、そのまま石畳の道なりに進むと、ささやかな庭園が現れる。人の背丈ほどの小さな松が奥に植えられ、その手前側を小熊のような丸石が不規則に並べてある。
右手は縁側になっており、開け放たれた障子越しに、神社の様子を伺うことができる。先に進む霊夢は縁側のそばで靴を脱ぐと、神社の社屋に上がり込んだ。
「そこで待っていて。今からお茶を用意するから」
「おう。わかったぜ」
社屋の中に消えた霊夢を目で追いつつ、魔理沙は縁側へ歩み寄ろうとした。そのとき何か目の端に映った気がして、顔をあげた。
開け放たれた障子越しに、真新しい畳がみえた。微かに蚊取り線香の香りがする室内には特に何もない。視線を上げると、水色の風鈴が見え、その上には黒瓦が並べられた屋根がある。更に視線を上げると枯れた大木が見える。
「大木?」
博麗神社の社屋より大きいその木は、夏だというのに葉っぱが枯れて、葉の色は幹と同じ茶色にそまっていた。
周りの木よりも一際大きく、一際太いその木の姿を魔理沙は知っていた。
魔理沙は神社の中へ、霊夢の方へと大声で叫んだ。
「霊夢。御神木が枯れているぞ!」
――
山裾に日が沈んでも太陽の明かりの残り香が、茜色の光となって山々を黄金色に染め上げる。あぜ道の脇の雑木林より、木々の青々とした香りを感じつつ、竹林へと続く道の途中で今泉影狼の姿を見かけた。
「また祈っているの?」
今泉影狼は私の方へ振り返って微笑んだ。先ほどまで神社に向かい合わせていた両手は、私の姿を見るのと同時に解かれ、下ろされた。
「うん。何でかな、気がつくとここに来て、拝んでいるの」
影狼の微笑みは西日が当たっているせいか、どこか寂しいように思えた。
「赤蛮奇はどうしたの?」
「さあ。私も気がついたら、ここを歩いていた」
特にやることもなく、人のいない方へと歩いていたらこちらの方に足が向かっていたので、今の言葉は嘘ではない。けれどその一方で、満月の夜に誰もいない中、一人で拝んでいた狼女の姿が、妙に心の中に残っていた。きっと私は無意識に、この道に向かって歩いていたのだと思う。
「なあ影狼。あんた、その姿はどうしたんだ?」
私は今泉影狼の全身を眺める。初めて会ったときにはあったはずの、頭の横に獣耳がすっかり消えて無くなっている。それに白いドレスからはみ出していた獣毛も、今はどこにも見当たらない。
「ああ、これ?」
影狼は腕を曲げ、彼女の顔の手前に服の袖を持ってくる。もう一度、服の袖口を注視するが、やはり毛は見えず、長袖の向こうには色白な素肌があらわとなっている。
「私は満月の夜以外は人間のような姿なの」
ふうん、と相づちをうちつつ、私は何を言うべきか分からなくなった。何でもない言葉であるのに、影狼の口調が、妙に悲しさを帯びている気がしたから。
私が何も言おうとしなかったからか、影狼は再び社に体を向けると、目を閉じ、二度ほど音をたてずに手を合わせた。
邪魔になるかもしれないと思いつつ、私は口を開いた。
「あんたは何を願っているんだ?」
今泉影狼は答えない。ただ手を合わせ、拝んでいるままだった。私のことを無視しているのだろうか。
見ているうちに段々と腹がたってきた。私は口をへの字に曲げつつ、帰ろうと思って一歩足を引いた。影狼が口を開いたのはその時だった。
「人間の里に行きたいの」
「何故?」
「さあ。何故かな……」
今泉影狼はそれっきり口を閉じ、神社へ顔を向けたままだった。おい、と声をかけても影狼は微動だにしなかった。その頑な姿勢に、私は目を細めた。
彼女は相変わらず祈っている。けれど他人に言う気は無いらしい。そんな彼女が、私は何となく気に入らなかった。
――
「この大バカ者!」
夕方の神社に茨木華扇の大声が響いた。彼女の前には霊夢と魔理沙が正座させられていた。
森に面した神社の裏には、しめ縄の巻かれた大木が、夏だというのに枯葉を降らしていた。そのため神社の御神木にしては、嫌に貧相な印象を周囲に与えていた。夕焼けの西日がその印象に拍車をかける。
「分社を町中に建てるなんて、あなた神社を何だと思っているのですか!?」
「何よ。信仰が集まるし良いじゃない!」
口からツバを飛ばして反論する霊夢に、華扇は上から怒鳴りつけた。
「全く良くありません! 考えてみてください。里に分社が建てられたらどうなりますか?」
「そりゃあ里の人が分社にお参りするでしょう」
「そうです。その結果どうなりますか?」
「どうなるって?」
「分社に行けば良いのでしたら、大元であるこの神社に人が集まりますか?」
「あ」
霊夢は大きく口を開いた。ここに至って、ようやく霊夢は彼女が犯した間違いにきづいた。華扇は顔をしかめたまま続ける。
「分社に人が集まったところで、博麗神社から人が遠のけば『この神社』の信仰に深刻な影響があります。それこそ御神木が枯れるようなね」
「でも守谷だってやっているじゃない」
華扇は人差し指を上へと突き出し、霊夢の顔を睨みつけた。
「あそこは二柱の神様がしっかりと守谷神社本体に信仰を集めているので、別の場所に分社を置くことができるのです。何が祀られているかも分からない博麗神社とは話が違います」
「じゃ、じゃあどうすれば良いのよ」
正座をしたまま拳を握りしめ、霊夢は唇を震わせる。華扇はため息を吐きつつ、右手を腰に当てた。
「早急に分社を取り除くしかないでしょう。その上で日頃の活動をしっかりと行うことで、信仰を取り戻すのです」
「ううう。面倒臭いなあ」
「大丈夫。私も協力しますよ」
項垂れる霊夢に対し、茨木華扇は大げさな微笑みを向けた。
「へ? 何を言っているの、華扇?」
「久々に私、怒りましたから。貴方を徹底的にしごきますよ」
「ええええええ!?」
「さあ行きますよ!」
「たすけてええええええ!」
博麗神社に霊夢の叫び声が響く。服の背を華扇に握られたまま、どこかへと霊夢は引きずられていった。あとには枯れた御神木と、座ったままの魔理沙がいた。
呆気にとられたまま魔理沙が呟いた。
「……なんで私も正座させられたんだ?」
――
雲ひとつない夕焼けの中を今泉影狼は歩いていた。竹やぶから里に向かうあぜ道を、長い影を後ろに連れて、たった一人で向かってくる。
分社への拝礼は恐らく彼女の日課となっていた。きっと一昨日も、昨日も影狼はここに来て、社に手を合わせていただろう。そして今日も影狼は社の前に立ち止まった。けれど彼女は手を合わせない。何故なら拝むべき社はもうここには無いのだから。
今泉影狼は立ちすくんだまま、社のあった場所を見つめている。その顔は歪み、今にも泣き出しそうだった。
見ていられなかった。だから私は茂みから姿を現した。
「赤蛮奇……」
「なんて顔しているのよ、今泉影狼」
いきなり現れた私に驚いたのか、影狼は目を見開いてはいたが、その目筋に微かにきらめく物があるのを私は見逃さなかった。
「あなた、なんでこんな所に……?」
「ここにいればあんたが会えそうな気がしたからね」
私はマントにかかる木の葉を払いつつ、今泉影狼に向かい歩く。夕焼けの陽光が木々の影を伸ばし、影狼の顔にかかる。色白の彼女の肌は薄い影を帯びたせいか、私には弱々しいものに見えた。
「ずっと気になっていたの。あなたが何故、里に行きたいなんて願っていたのか」
青々とした雑草を踏みしめ、私は影狼の前で立ち止まった。背後からはヒグラシの寂しげな鳴き声が聞こえた。いつの間にか盆も開け、もうすぐ夏は終わる。
影狼は目尻のものを払い、能面のように表情を隠して私を見ている。
「影狼。もしあなたが里に行きたければこの道を歩いていけば良い。でも先に進まなかった」
話しながら私は影狼の姿を見る。影狼は頭上に伸びた獣耳以外は、人間とさして姿は変わらない。仮に妖怪とバレるのが嫌ならば、帽子をかぶるなり頭巾を巻くなりすれば簡単にごまかすことができる。もし本当に里へ行く気があるなら、簡単に彼女にはいけたはずだ。
私は言葉を続ける。
「あなたは人間の里に行こうとしなかったのではなく、行けなかった。そうじゃなくて?」
影狼の表情は変わらない。けれど握られた拳が微かに動くのが目に映った。
私は彼女の目をじっと見つめる。
「だから私は思うの。あなたには里に苦手な物は無かったけれど、苦手な人、出会いたく無い者がいたのではないか、と」
「あなたは、それが誰だと思うの?」
「あなたはずっと竹林で暮らしてきた。だから人間の里に知り合いなんてほとんどいない」
影狼は眉をしかめた。
「知り合いがいないなら、『出会いたくない人がいる』わけないでしょ」
「知り合いじゃない。だけど出会いたくないくらい『繋がりの深い人』はいるでしょう?」
「誰よ、それ」
「あなたの親よ。あなた、半人半妖じゃないの?」
私のその一言で、影狼は押し黙った。口を固く結んだまま、彼女は私を睨む。しばらくして影狼は重々しく口を開けた。
「……馬鹿馬鹿しいわね。何を根拠に」
「私があなたと出会ったのは満月の夜だよね?」
「……そうだけど」
「満月の夜になると竹林の妖怪は興奮状態になる。でもあなたは冷静だった。だからあなたが本当に妖怪なのかって疑わしく思ったの」
「でも貴方もみたでしょう? 毛に覆われていた私の姿を」
「ええ。でも妖怪は精神的な影響に弱いものよ。竹林に住みながら満月の夜も冷静だというのは異常じゃない? だからあなたは妖怪の血が薄いのではと思ったの」
「……冷静な性格なのよ。私は」
目をそらして影狼は呟いた。そんな彼女を私は睨む。
「もう一つ。あなたの名前に違和感を覚えたの」
「名前?」
「あなたは孤独。だけどそれにも関わらず、まるで人間のような苗字を持っている」
「苗字なんて妖怪でも持っているじゃない」
「私は持っていない」
口を大きく開き、はっきりと私は言った。
「私は世界にただ一人だ。誰にも縛られるつもりはない。だから苗字はない。必要無い」
必要ない、と言ったとき彼女の体がぴくりと動いた。
「確かに苗字を持っている妖怪はいる。でもそれはその者が住んでいた場所だったり、所縁のある名称だ。土地や伝承などに繋がりを感じているなら、それを苗字とする」
例えば因幡の国に所縁のある化けウサギは自身の苗字を因幡としている。博麗神社によく出る鬼は、彼女が大暴れした山の名前を苗字としていると聞く。いかに強い妖怪であっても、きっと忘れることができない物や、断つことのできない繋がりがあるのだろう。
「だけどあなたの『今泉』は、地名とも伝承とも縁があるとは思えない」
私は今泉という地名を知らない。それに今泉という言葉に関わる伝説も知らない。少なくとも幻想郷でそのような名称を見たことも聞いたことも無かった。もしかしたら外の世界では使われるかもしれないが、幻想郷にも聞こえてこないということは、伝承や地名としては有名ではないのだろう。
だから『今泉』は妖怪が名乗る苗字としては相応しくないと思った。妖怪であれば、由来のある名称を苗字として扱うはずだから。
「だとしたら考えられるのは『人名』。あなたは今泉という性の人と縁がある。けれど普通は人が竹林には近づくことはないし、あなたが里に降りてくることも無い。だから普通であればあなたと人間に接点が生まれることはない」
私は言葉を止めると、深く息を吸い込んだ。今から言うことは、推測に推測を重ね、筋だけ通した張りぼての理屈だ。だけど私には、これが真実のようだと感じていた。
「だから私はこう思うの。今泉とはあなたの親で、あなたは彼女に竹林に捨てられたのだと。違う?」
影狼が幼い頃に竹林に捨てられたとしたら、彼女が里に行っていなくても人間と強い繋がりを持っていることを説明できる。彼女が決して里に近づかない、その理由も。
「……違う」
「だったら、なんであなたは泣いているの」
影狼の頬から一筋の雫が溢れていた。慌てた様子で彼女は右手でこすり、そして両手で目を押さえる。けれど手のひらの間から次々と溢れ、そして落ちていく。
その様子を私は目を細めて見る。
本当のところは、私は自分が言ったことに確証はない。影狼が泣いているのも、私が思っているのとは全く別の理由からかもしれない。
でも多分彼女は、人間のことで悩み、人間のことで苦しんだんだと思う。だから里に行くことができなかったのだと思う。だから私は腹立たしく感じた。
「私たちは妖怪よ。人間ごときを気にしてどうするの?」
口調を荒げ、そう影狼に言い放つ。
きっとそれは自分に対しての言葉でもあった。人間を気にして、人間を避け、それでも斜に構える、そんな矮小な私への言葉。
顔をあげた影狼の目は充血している。目をこするあまり、頬のあたりまで赤くなっている。その姿を見て私は思う。
――ああ、彼女は私に似ている。
私は一歩前に足を踏み出した。影狼の顔がすぐ目の前にあり、彼女の吐息が顔にかかる。彼女の潤んだ目も、涙の跡もよく見える。
影狼の顔を見つめながら、頭のなかに小さな疑問がよぎった。
――なんで私は再びここに来たのだろう
答えが浮かぶ前に、私は影狼の前に手を伸ばした。
目頭を押さえていた影狼は、戸惑ったように私の手のひらを見つめたあと、探るように手を伸ばした。夕日が当たり長く伸びる木陰の下で、ゆっくりと私は影狼の手を掴んだ。そして涙で濡れる彼女に微笑んだ。
――
このあぜ道を通るたびに、何年か前にあった小さな社と、影狼との出会いについて思い出す。そして彼女に向かって伸ばした手が脳裏によぎり、無性に恥ずかしくなるのが常だった。
そしてあの時は分からなかった『ここ』にきた理由を、いつも私は思い返すのだった。
小さな社が無くなっているのを見たとき、気がつけば私は茂みの中に隠れていた。何故そんなことをしたのか、当時は自分でも分かっていなかったけど、今なら答えられる。
私はきっと、話し相手がほしかった。人と付き合うなんて、私は真っ平ごめんだけれど、それでもやはり一人は寂しかった。思いの強さは違うけれど、人間を避けつつ、それでも人間のことを考えてしまう影狼と、私はどこか似ていた。
あれから私は影狼と会うようになり、色々あってわかさぎ姫という人魚とも知り合いになった。あの小さな社が無ければ、きっと二人に会うことは無かっただろう。
あの妙な社は、たった数日の後にどこかへ消えてしまった。何のためにあの社が建てられたのか、そして何故すぐに無くなったのか、私には分からない。けれど今にして思えば、あの小さな社には確かに神様が宿っていた。
そして神様はいつも拝みに来ていた影狼と、ついでに私の願いを叶えてくれた。そんな気がする。
もしかしたら影狼の願いを叶えるために、神様があの場所に社が建ったのかもしれない。
……いや、そこまで考えるのは流石におこがましいか。
誰もいないあぜ道の上で、私は立ち止まる。かつて小さな社があった場所には雑草が生い茂り、今はもう見る影も無い。けれど私は目をつぶり二礼した上で、二回ほどかしわ手を打った。
夕方の空の向こうへと、拍手の音は響いていった。
それはさておき、とても良いお話でした
魔理沙から半分人間と言われるし
影狼さんが半妖の可能性はけっこう高いと思います
”孤独のウェアウルフ”って感じで良かったです
良いお話でした