Coolier - 新生・東方創想話

早苗の世界/歴史の肩の上に立つ

2016/07/01 16:55:44
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 女子たるもの、甘味の事情には詳しくなければならない。
 早苗は人里に下りる用事がある際、必ず甘味屋へ寄ることにしている。
 最近は団子が早苗のマイブームだった。里にはいくつか団子屋があるので、あそこの団子屋はタレが旨いだとか、あそこの団子屋は茶がまずいだとか、そういうことを比べるのがささやかな楽しみなのだった。

 夏のある日、守矢神社の営業活動を終えた早苗は、軒先に大きな傘を出している小洒落た団子屋に寄ることにした。日除けの傘の下に置かれた長椅子には紫色の繻子がかけてあった。座布団も、柔らかそうで品のよいものが三つ。

「いいですねえ、実にいいですねえ」

 客のもてなしに熱心な店は期待できる。これはきっと旨い団子が食べられるに違いない、と早苗はウキウキしながらその団子屋へ歩み寄った。
 建屋は年季が入っていて、柱も壁板も黒ずんでいた。だが汚れているというわけではなく、よく磨かれていた。いかにも老舗といった趣の店だった。

「あら、あなた……東風谷早苗さんですね」

 大きな日除け傘の下に、先客がいた。
 色素の薄い髪に、凝脂のように滑らかで白い肌。袷の上着は緑色で、袖は浅黄色。裾に白いフリルがあしらわれた臙脂色のスカートを丁寧に畳んで座っていた。
 儚げな、蜉蝣のような雰囲気を身にまとったその少女は、湯飲みを傍らに置き、白玉をつまんでいた。

「こんにちは。ええと、たしか稗田阿求さん」
「あら、こんにちは。ご存じでしたか」
「そりゃまあ、本に書かれれば」
「あらあら。読んで頂いたんですね。ありがとうございます」
「いえいえそんな。わたしは幻想郷のことを良く知らなければなりませんし」

 求聞口授に「手品レベルの奇跡」と書かれていて少しムッとしたということは言わなかった。

「これはこれは、守矢の巫女さん」

 藍染めの頭巾を被った主人がニコニコと笑顔で現れた。早苗はまだ、里の人たちに神とは思われていない。巫女ではなく風祝だと訂正することも諦めた。

「ご注文はいかがなさいます?」
「全部で」
「えっ」
「全部です。品書きにある団子を全部お願いします」
「いいんですか」

 同じ事を三度も言わせるとは。営業活動の疲れで腹が減っていたことも手伝い、早苗は少しイラッとした。

「お金はあります。ちゃんと全部食べます。ですから全部です。五度は言いません。全部です」

 六度言った。

「できた順から全部持ってきてください」七度。
「はあ……ではそのように」

 主人は引っこんでいった。
 やれやれ、と肩をすくめつつ嘆息し、阿求へ向き直った。
 阿求はぽかんと口を開け、早苗の腹を見ていた。夏服で、へそが出ているその腹を。

「あの……何か?」

 早苗が尋ねると阿求は表情を苦笑いに変え、弁明した。

「いえ、健啖ですね。その細い体のどこに入るんでしょうか」
「甘いものは別腹という言葉が外の世界にはあります」

 早苗は少し考えて
「主に女の子が使います」
 と付け足した。

 阿求は首を傾げ、すぐに早苗が言ったところの真意を察した。

「つまり……太りたくはないが、甘いものが食べたくなったときの自己欺瞞に用いると」
「まさしく。まあ、わたしは食べても太らない体質なので同じお腹ですけれど」

 阿求は口元を浅黄色の袖で隠し、くすくすと上品に笑った。

「貴重な情報をありがとうございます。求聞口授を再版するときには追記しておきます」
「ありゃ」

 余計なことを言ってしまった。
 阿求は茶をひとくち、音を立てずに飲み、それから白玉を食べた。
 阿求がゆっくりと咀嚼している間に、早苗にも茶と白玉が来た。白玉は五つ盛られていた。さっそくひとくち放りこんだ。表面はこんにゃくのようにつるっとしていた。噛むと、もちもちとした食感と共に、優しい甘さが口内に広がった。

「美味しい……!」

 濃厚な米の旨味が閉じ込められていた。生地は丁寧に練られていて、粉っぽさもない。
 感動のあまり、早苗はさっそくもうひとつ口に放りこんだ。
 そんな早苗を見て、阿求はまたくすくすと笑った。

「ここは私の行きつけのお店なんですよ。史記の編纂に疲れたら、いつもここまで足を運ぶんです。近所ですし」
「いやあ、分かります分かります。白玉でこれなら他も期待大ですね!」

 早苗は茶と白玉を交互に口へ運び、あっという間に白玉をたいらげてしまった。

「いや、本当に健啖で……」

 見れば阿求はまだ白玉をみっつ残していた。
 早苗は急に、自分に足りないのはおしとやかさなのでは? などと考え、恥ずかしくなって身を縮めた。
 阿求は早苗の仕草から早苗の心情を察したようで、ひらひらと細い手を振った。

「ああ、いえ。私は小食で、食べるのが遅いんです。どうかお気になさらず」
「あ、そうだったんですね。では遠慮なく」

 次の団子が来た。みたらし団子だった。二本の串にみっつずつ刺してあった。
 かぶりつき、ふたつをいっきに串から抜き取った。醤油と砂糖がよく馴染んでおり、みりんが隠し味に使ってあってまろやかな味わいだった。とろみも舌に残らず良い塩梅で、さらりとしていた。
 阿求は早苗の食べっぷりを楽しそうに眺めながら、白玉を口に放った。
 早苗が食べ終わらないうちに次が来た。三色団子だった。
 早苗は二本目の串から最後のひとつを食い取り、よく味わってから飲みこんだ。
 だしぬけに、阿求が早苗に尋ねてきた。

「幻想郷にはもう慣れましたか?」
「うーん……」

 早苗は茶をひとくちすすり、ひといきついた。みたらしのタレが舌から拭い去られ、ちょっとだけ惜しさが残った。暑い日こそ熱い茶を飲むものだ。茶も渋みが薄く、良い香りがした。
 早苗はちょっとだけ懐具合を心配しつつ、考えを整理した。

「なんていうか、あちこち見て回ったり色々な人と話しているんですけど、どうにもこう……分かるんですけど分からないといいますか……」

 早苗は言葉を探しながら三色団子の赤を食べた。ほどよい堅さで、滑らかな舌触りだった。

「つまりですね、見聞きしたことそのものは理解できるんですけれど、理解が浅い気がするんですよ。こう言うのもなんですけど、そんなに頭は悪くないつもりなんですが……」

 阿求は早苗の言葉を咀嚼しつつ茶を飲んだ。
 それから言った。

「それはきっと、歴史を知らないからでしょうね」
「歴史、ですか」
「ええ。幻想郷の歴史を。歩いてきた道のりを知らなければいまいる場所は分かりません。その先を見通すこともまた、できないのです」
「う……わたしは理系なのであまり歴史は得意でなくてですね……」
「りけい?」
「ああ、学問の区分です。ざっくり言うと、数字を扱うものを理系、文章を扱うものを文系、と言います」

 阿求は眉をひそめ、怪訝そうな顔になった。

「外の世界は奇妙なことをするものですね。学問は世界を理解するためのものでしょう? 分けてしまっては、目的から外れてしまうと思うのですが」
「教育方針の違いですかね……でまあ、わたしは算学とか工芸とかはそれなりに得意なんですが、古文とか歴史とかは苦手なのです」
「古文も? 巫女は祝詞を詠むものでは?」
「巫女でなくて風祝ですけど……祝詞やら呪文やらはですね、こう……」

 早苗は三色団子をもぐもぐしつつ、頭に握り拳を持っていき、ぱっと開いた。

「湧いて出てきます」
「湧いて?」
「ええ、湧いて」

 阿求が妖怪か何かを見るような目つきをした。

「あのですね、わたし、一応ですが神様なので。神様の言葉は直感で分かるんですよ」
「そんなものですか」

 話しながら、早苗は三色団子を食べ終えた。次は草餅だった。緑色の餅に、刻んだヨモギが混じってまだらになっている。さっそくかぶりつくと、中にはこしあんが入っていた。

「こしあん……わたしはつぶあん派なのですが……」
「私はこしあんが好きです。それで、歴史のことですが」
「ああ、そういう話でしたね。歴史を知れと言われても、苦手なものでして、どうしたものかなあというところです」

 適当に話を合わせつつ、草餅を食べ、次に出てくる団子はなんだろうと思いをはせた。早苗がちらりと見た限り、品書きは十と少し。大福もあったはずだ。
 そんなことを思っていたところ、阿求は顎に示指を当て、首を傾げた。

「東風谷さんは、まずは自身が歴史の先端に立っていることを自覚されることから始めるべきでしょうね」
「先端に? いやいや、ご冗談を。わたしは大層な人物じゃないですよ。掃いて捨てるほどいる神様の一柱でしかありません」
「その認識を改めるべきなのです。歴史とは、連綿と続く人の営みなのです。偉人伝や大事件を繋げたものではないのですよ」
「幻想郷縁起には妖怪のことばかり書いてあると聞きますが」

 少なくとも求聞史紀、求聞口授は妖怪辞典といった趣の本だった。

「幻想郷においては、妖怪を書くことが歴史を書くことになるからです。妖怪とは人の怖れ、当時の人が何を怖れていたのかが分かるのです。何を怖れていたか分かれば、当時の生活がいかなるものであったか、技術水準はいかなるものだったか、昼と夜はどのような生活をしていたのか、自然と分かるのですよ」

 長台詞を言い終えたためか、阿求は少し息を切らしていた。湯飲みを取り、茶をひとくち飲んだ。
 早苗は、十に届くか届かないかの女童が深い洞察を示していることに感心していた。

「はあ……なんというか、凄いですね。失礼ですが、まだ年端もいかない女の子がそんなに深い見識をお持ちだなんて」
「あら。私は千年以上生きている、御阿礼の子ですよ」

 そういえばそうだった。

「今度、うちにおいでなさいな。阿礼から阿求まで続く幻想郷縁起の概要版があります。私家本で、外には出回っていないものです。まあ、八雲紫の検閲は入っていますが」
「あ、これはお誘いどうもありがとうございます。お礼はそのときに」

 阿求は髪に挿している花のように、にっこりと笑った。

「それなら、今、お礼をしていただけないでしょうか」
「へ?」
「私、空を飛んでみたいんです」
「でも団子が……」
「お礼をして頂けると聞きましたが?」

 妙なところで強情な娘だった。

「団子は家の者に山へ届けさせます」
「ああ、いえ。神奈子様も諏訪子様も左党ですので……仕方ありませんね」

 早苗は草餅をもぐもぐしながら傘の下から出ると、空いている方の示指をくるくると回して小さなつむじかぜを作った。そのつむじかぜに向かってぼそぼそと何事か呟くと、指先でぴんと弾いて妖怪の山の方へと飛ばした。

「これでよし、と」

 早苗が振り返ると、阿求が早苗の仕草をまじまじと観察していた。

「あの、いま何を?」
「風に言葉を包んで、文さんのところへ送ったんです。取りに来るように、って」

 ほう、と阿求は感歎のため息を漏らした。

「大したものですね。さすがは風祝、息をするように奇跡を起こすのですね」
「手品レベルの奇跡ではないでしょう?」

 阿求は苦笑し、ひらひらと手を振った。

「あなたが尋常でない奇跡の使い手、などと書いてしまったらあなたが幻想郷の支配者になってしまいますから」
「それは嫌ですね……」

 早苗は店主に、帽子を被って男装をした『あや』という者が取りに来るから残りの団子を包んで渡すように、と言付けをして、文銭が詰まった巾着袋を丸ごと手渡した。店主は巾着の縛り紐を解き、中を見て目を丸くした。

「いやいや、守矢の巫女さん、こんなに沢山は頂けません。多すぎますよ」

 早苗が今日の営業活動で得た利益である。守矢神社は里でも人気が高まっており、様々な開運グッズが売れている。
 だが、守矢神社はどこかの神社と違い、銭をさほど必要としていない。何せ山の妖怪から食べきれないほどの奉納があるのだから。
 だから早苗は、人里の営業活動で得た利益は人里へ還元することにしている。

「お気になさらず。お金は世を巡ってこそ意味があるのです。ご主人も今日は運が良かったと思って、飲みにでも行ってくださいな。お仲間へ奢るのもまたよいでしょう」
「へえ、こりゃあどうも……」

 ちょうど阿求も団子を食べ終え、茶を飲み干した。
 ゆっくりと立ちあがった阿求へ、早苗は手を伸ばした。

「それでは、行きましょうか」
「はい」

 阿求はおそるおそる早苗の手を取った。小さく、夏なのにひんやりとした手だった。
 早苗は風を起こし、こともなげに宙に浮いた。

「きゃあっ!」

 前触れもなく宙に浮いたせいか、阿求が可愛らしい悲鳴を上げた。握った手に、痛くなるほどまで力が込められた。

「あいたた。わたしに触れていれば大丈夫ですよ」

 早苗はそのまま、視界に人里が収まる高さまでひとっ飛びした。

「凄い……鳥になった気分です。あるいは天狗に……ああ、あそこが私の屋敷です」

 阿求が示した先には、周囲に建つ民家の十数倍は面積があろうかという大きな屋敷があった。上空から見ると、より広さが際立っていた。玉砂利を敷き詰めたのであろう白い庭があり、庭の隅には庵がある。池と、青々と葉を茂らせる大木も見えた。

「大きいですね……」
「あの樹は桜です。春にはよく咲きますから、来年にはおいでなさい。私もまだ生きていると思いますから」
「あまり縁起の悪いことを言わないでくださいよ……」

 御阿礼の子が短命であることは早苗も聞き知っている。

「それで、どこへ行きましょうか。ぷかぷか浮いているだけでは面白くないでしょう?」
「そうですね。それでは、あちらへ」

 阿求が示したのは南、山嶺が連なる方角だった。

「はあ。あっちに何かあるんですか?」
「今は何も。ですが、ありました」
「うーん? まあ、お望みならどこへでも」

 早苗は足下に風を集め、人里から離れた。
 どんどん速力を増していく。結構な高空を飛んでいるため、眼下の田畑はゆっくりと過ぎていく。
 ふと、阿求が呟いた。

「私、あまり体が強くありませんから、遠出はできないんです。せいぜい人里をひとめぐりするくらいで。だから、ずっと思っていたんです。空を飛んでみたいなって。先代の、阿弥のように」
「へえ? 先代さんは空を飛べたんですか?」
「いえ、その時は射命丸さんに連れてもらったようです」

 意外な所で繋がりがあった。早苗と文は今のところ恋仲である。

「先代さんと文さんが、ですか」
「射命丸さんは、先代の阿弥が生まれたことを記録するために改名されたんですよ。阿弥の音を取って、文と」
「記録、ですか?」
「長寿であり社会生活を営む天狗の文化です。長生きしていると物事を忘れてしまうから、それぞれの天狗の名を記録の代わりにするのだそうです。ちなみに、それまでは射命丸さんは特に名を持っていなかったそうですよ」

 妙な文化もあったものである。

「これもまた、歴史です」

 と阿求は付け足した。
 話をしているうちに、山の麓まで来た。
 夏、山の木々は葉を深く茂らせ、分厚い緑の層を作っていた。早苗たちが浮いている所まで緑の匂いが届いてきそうだった。実際、山は早苗が飛んでいる高さよりもさらに高く、おおざっぱに見て二千メートル級の山々が連なっていた。
 こういう様子を、山が深い、と表現する。
 山嶺は蛇のようにうねり、絡み合い、遙か奥まで続いていた。木々の葉に隠されていても、谷は深く落ち込み、急峻な斜面を形成していた。
 山に生える木の八割は広葉樹、残りの二割は針葉樹だろうか。早苗はあまり木の種類に詳しくなかったから、そのくらいしか分からなかった。
 早苗は感慨深く呟いた。

「幻想郷に来て、初めてこんな景色を見たとき、ああ、これが本来の日の本の姿だったんだな、って思ったんです」
「外の世界は、こうではないのですか?」
「山は、あります。似たような場所も。けれど、よく見ると人の手が入っていて、それが不純物のように見えるんです。人里はもっと、こう……岩の柱や、箱が並んでいて、殺伐としています。道も固い粘土で固められていて、川という川はのっぺりした石壁で固められていて……生命が少ないんです」
「八雲紫が、外の世界は精神的な豊かさが足りないと言っていましたが、その理由のひとつは、そういった環境にあるのかもしれませんね」

 阿求は言いつつ、じっと山肌を見つめ、視線をあちことへ移した。
 やがて何かを見つけたようだった。

「ああ、あそこです。たぶん」

 早苗は目を凝らしたが、何も見えなかった。

「あそこに何が?」
「行ってみれば分かりますよ。阿弥の記憶によれば、ですけれど」
「阿弥さんって、先代の。どれくらい昔の方なんですか?」
「ざっと百五十年くらい前ですね」

 阿求はさらりと言った。時間のスケール感が全く違う。いずれ早苗が肉体を失って神霊となれば、この感覚も分かるのだろうか、などと考えた。

「では、そちらへ。案内をお願いしますね」

 早苗は谷間を飛んだ。緑が、手を繋いだ二人の両脇を流れていく。真下では沢が岩から清水を落としており、山の奥へ奥へと飛ぶに従って、どんどんと幅を狭めていく。
 阿求が、またも呟いた。

「空を飛ぶというのは、不思議な感覚ですね。まるでこの世が自分のものになったような気分です。全能感といいますか、世界が広がる感じがします」

 早苗は飛びながら首を傾げ、隣の阿求を見やった。

「先代さんの記憶に残っているのでは?」
「御阿礼の子の記憶は、言葉によって残されるんです。その時々の感覚までは、想像することしかできません」
「微妙に不便ですね」
「そうでもありませんよ。例えば……死に瀕した際の苦しみを思い出して、感覚したいと思いますか?」
「ああ……それは嫌ですね」
「それより、前、前!」

 言われて前方へ視線を戻すと、うねる山嶺の山肌が目前に迫っていた。

「おっと」

 早苗はひらりと身をかわした。そのまま横回りにひと回転すると、阿求が目を回した。頭をくらくらと揺らした。

「ちょ……あまり無理な動きは……」
「あはは、すみません。ちょっと驚かせたくて」

 だしぬけに、小さな溜め池の上空へ至った。
 岩を組んで沢を堰き止めてあった。明らかに人工物だった。組まれた岩は苔に覆われていた。所々崩れており、清らかな水がそこから太い綱のように落ちていた。

「ああ、ここです。あちらへ」

 阿求が示した先に、開けた地面があった。溜め池の水際から山肌に沿って、太い道のように段々が形作られていた。早苗が外の世界で学んだ河岸段丘ではない。河岸段丘はもっと広範囲に形成されるし、そもそもこんな上流域には形成されないはずだ。
 不思議なことに、平地にも段々にも下草が生えるばかりで、潅木のひとつも生えていなかった。周囲には大木が壁を作っているというのに。
 速力を落とし、ゆっくりとその地に下りた。
 よくよく見ると、朽ちた丸太が水際に転がっていた。水に浸った部分は灰色に腐り、水草が根付いていた。
 開けた場所の土は明らかに人の手によって均されていた。ところどころ四角に盛り上がり、枠線を作っていた。四角の盛り土の周囲には、ぼろぼろに朽ちた木材があった。
 早苗がそれらを見回しながら尋ねた。

「あの……ここは?」

 阿求がかがみ、下草を撫でながら言った。

「ここにはかつて、小さな集落がありました」

 早苗は驚いた。幻想郷の人々は里に住まうものだとばかり思っていた。

「こんなところまで来たんですか? 御阿礼の子は体が弱いはずでは?」

 健脚な者でも三日はかかるであろう道程である。

「ええ、さすがにひとりでは来られません。記憶によれば、強力を雇って籠に乗せて貰ったそうです。五日ほどかかったようですね」
「どうしてわざわざ、こんな険しい所にある小さな集落まで? その……あまり、残すほどの価値がないような気がするといいますか」
「価値がないなんてとんでもない。これもまた、歴史ですよ」

 歴史は人の営みである、と阿求が言っていたことを早苗は思い出した。

「この集落の人々は、山そのものを信仰していました。また、しばしば妖怪……特に天狗や山童との関わりが深かったようです。阿弥はその説話を集めるため、ここまで足を運んだのです」

 情熱。早苗の御阿礼の子に対する印象は、そのひとことだった。
 歴史に関する情熱。人の営みを愛する情熱。それを記録や記憶に残すことの情熱。

「阿弥が集めた説話には、マヨヒガに類似するものもありました。山に迷った者がどことも知れぬ場所に無人の家を見つけ、もてなされ、持ち帰った物の恩恵で長者となるという。しかし、この集落は長者が成立するほどの経済規模はありませんでした。つまり、閉鎖的な場所のように見えて、この集落は外部との交流を持っていたことを示しているのです」

 早苗は阿求の洞察力に舌を巻いた。たったひとつの説話から、既に失われてしまった集落の様態を見抜くとは。

「……どうして、滅んでしまったんでしょう」
「分かりません。阿弥の記録には残っていません。おそらく私が生まれるまでの間に、消滅してしまったのでしょう。ですが、推察することはできると思いますよ」

 阿求は周囲を見渡し、それから段々となった斜面に残された畦道をゆっくりと登り始めた。数十歩も歩かないうちに、阿求はぜえぜえと息を切らせ始めた。そも、山登りに適した服装ではない。たちまちスカートの裾は草と泥で汚れ、草履を履いた足袋は茶色に汚れてしまった。
 見ていられず、早苗は先を行く阿求の背に声をかけた。

「あの、空を飛びましょうか?」
「いえ。その地に立ち、歩いてこそ、分かることが、あるのです。遠くから、森を見ていては、樹の一本を、見つけられないように」

 息も絶え絶えに言って、阿求は歩いた。
 やがて、畦道から山肌に沿って横に伸びる道に出会った。脇を流れる川の下流方面へ向かう道だった。
 阿求は獣道めいたその隘路へ入った。木々に覆われ、湿った落ち葉が積もり、脇の壁めいた斜面からは木の根が顔を覗かせていた。
 濃い夏の匂いの中を、ずんずんと進む。蝉の声がわんわんとうるさく、草いきれはねっとりと肌に絡みつく。相当の高地にあっても、真夏は暑い。
 阿求は暑さを忘れているかのように、あちこちと視線を巡らせ、何事か考えていた。
 だしぬけに立ち止まり、早苗へ振り返った。にっこりと笑っていた。とても嬉しそうだった。

「分かりました」
「なにがです?」
「この集落が無くなった理由、です」

 早苗はまたも驚いた。驚きっぱなしだった。この少女は、畦道と、その脇道を少し歩いただけで、この集落の歴史を解き明かしたのだ。

「どうして分かったんですか?」
「この切り株です」

 阿求が示した切り株は、縁がぼろぼろになっていて、苔に覆われて年輪さえ見えず、ところどころ白蟻が顔を覗かせていた。

「これは杉の切り株です。あっちにあるのはヒノキ。松も所々で見かけました」
「ええと……つまり?」
「人里がこの集落を無くしてしまったのです」
「なぜ?」
「杉、桧、松……これらは建材です。いまの幻想郷が成立したのはおよそ百三十年ほど前のことです。それより以前にも人里はありましたが、いまの幻想郷が成立したのち、人里は急速にその規模を拡大しました。当然、建材の需要が高まります。人には、食う所、寝る所、住む所が必要ですから」
「ええと、人里に輸出するため、集落の周りにある針葉樹を軒並み伐ってしまったと?」
「その通りです。建材の輸出は一時的に集落を潤したでしょう。生活も豊かになったはずです。ですが、おそらくこの集落には植樹という概念がなかったのです」

 早苗は、先ほど見た山の植生を思い出した。広葉樹が八割ほど、針葉樹が二割ほど。

「これほど険しい山です。あまり遠くの樹を伐りに行くわけにもいきません。やがて輸出は途絶え、生活は再び、慎ましやかなものへと戻らざるを得ません。あの小さな段々畑からの収穫と、川の幸を得る、細々とした生活へ。ですが……」

 早苗がぱっと手を挙げた。

「はい先生。続き、いいでしょうか」

 阿求はちょっとだけ目を見開き、すぐにくすくすと笑った。

「東風谷君、どう思うかね?」

 阿求は腕を組み、指を立てて、先生然として尋ねた。

「はい、稗田先生。一旦生活水準が上がってしまうと、それを落とすことは難しいのです」

 早苗にも経験がある。幻想郷では携帯電話が使えない。インターネットもない。テレビもない。映画も見られない。今では慣れてしまったが、それでも時々、映画を観たくなることがある。特にブルース・リーの燃えよドラゴンを。DVDディスクだけは持ってきたが、再生できる日が来ることはないだろう。
 さておき。

「この集落の人々は、木材を里へ卸すときに、里の生活を見てしまったはずです。自分たちより豊かで気楽な生活を送っている人々の姿を。水鉄砲や土砂崩れに怯えることもなく、団子を食べたり、お茶を飲んだり。だから、彼らは集落を離れ……特に若い者から、里で暮らすようになったのではないでしょうか」

 阿求は小さな手でぱちぱちと拍手をした。

「満点です」

 阿求はきびすを返し、再び脇道を歩いた。
 ほどなくして、阿求は足を止めた。道の脇に退き、その場所を早苗に示した。

「東風谷さん。これが、歴史です」

 そこは、墓場だった。
 楕円状の墓石が二十ほど、建ち並んでいた。刻まれた家名は風化していて、また苔が密生していて、とても読めなかった。幾つか、倒れているものさえあった。今や誰も参拝しない墓。
 土葬だったのだろう。土葬の場合、疫病を防ぐため、墓場は川の下流に作らなければならない。集落から離れすぎてもいけないし、遠すぎてもいけない。阿求はそれを見越して、この脇道を選んだのだ。
 墓は、かつて人が生きていた証だ。人が営みを続けていた痕跡だ。人々が自らのルーツを忘れないための、歴史書だ。

「これが、歴史……」

 早苗は、歴史とは史書に書いてあることだと思っていた。史書に書いてあることは、どこか遠くの昔に起こったことであって、現在との繋がりを感じられなかった。
 しかし、例えばあの年季が入った団子屋。あの団子屋の建屋に使われている木材は、もしかしたらこの集落から運ばれたものなのかもしれない。あるいは、あの団子屋の主人が、この集落から里へ移り住んだ者の子孫なのかもしれない。里の豊かさを知り、団子の旨さに感動し、店を興したのかもしれない。
 そう考えると、歴史というものが急に身近に感じられた。肌で感じられる気がした。
 早苗が感慨にふけり、ぼんやりと墓石を眺めていたところに、阿求の手拍子がポンポンと割りこんだ。

「さあ、授業は終わりです。そろそろ帰りましょう。山の夜は早いと言いますし」
「そうですね……阿求さん」
「何でしょう?」
「ありがとうございました。幻想郷の歴史の学び方が分かった気がします」

 阿求は、髪に挿した花のように、ぱっと笑顔になった。頬が赤らんでいた。

「それは重畳。歴史の愉しさを知って頂けたなら何よりです」
「はい。こんなに身近なものだとは思っていませんでした。自分が歴史の先端にいるということも、分かった気がします。まだ『気がする』だけなので、本当に分かるように勉強します」
「ええ、ええ。ですから次の史記も是非」
「ありゃ。営業も欠かさないとは、抜け目がないですね」

 早苗が茶化すと、阿求は「あはは」と朗らかに笑った。
 おしとやかな、淑女のような笑いではなく、年相応の、女童のように。



 余談。
 夕暮れの空を飛んでいたときのこと。

「そういえば、阿求さん」
「なんでしょう?」
「これまで阿礼、阿一、と続いて、八代目の阿弥、九代目の阿求と続いているんですよね」
「そうですね」
「十代目さんの名前ってどうなるんでしょう? たぶんわたし、その頃には神霊になってると思うので、ご挨拶の時に名前を間違っては失礼かと思って」
「阿授ですね」
「あじゅ!?」
「ええ、あじゅ」
「阿斗とかではなく?」
「あじゅ」
「あじゅ……」
お久しぶりです。
2016年秋季例大祭で発行する予定の短編集に向けて、手慣らしにひとつ書きました。
現在公開しているお話しと同じくらいの数を書き下ろしたり、改稿したりしていこうと思いますので、どうぞよしなに。
コンセプトは早苗さんが幻想郷のあちこちに行って誰かとお喋りをする、これまで通りのアレです。

※注
お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、阿弥⇒文のくだりはチョモランさんの同人誌「文々。手稿」よりアイデアを拝借しています。
ああいうアイデアってどうやったら生まれるんでしょうね。裏山。
神原傘
http://ktkrao1.hatenablog.com/
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素晴らしい雰囲気
6.100名前が無い程度の能力削除
素敵な話でした。
そして阿斗じゃないのかよーーー!!
あじゅってw
7.無評価神原傘削除
>>1 ありがとうございます。
>>2 楽しんで頂けたなら幸いです。
>>3 毎度どうもどうも。投稿が二年ぶりという事実に驚愕。
>>5 早苗が見ている「世界」を感じて頂けたのなら幸いです。
>>6 阿斗だと僕も主張したのですが圧倒的多数の意見によりあじゅとなりました。解せぬ。
8.90名前が無い程度の能力削除
よかったです。
11.80名前が無い程度の能力削除
いいですね
14.無評価神原傘削除
>>8 歴史は楽しいですね。
>>11 早苗の感動が伝わったのなら幸いです。
15.90名前が無い程度の能力削除
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