この世に私以上の天才が居たとしても、自らを完璧であると称することは出来ないだろう。
世界は果てしなく広く、そして深い。
知れば知るほどにさらなる深淵へと私をいざない、そして気付かされる。
今、私が居るこの場所はまだ、ほんの浅層に過ぎないのだということを。
何を言いたいのかというと、私とて完璧ではないと言うことを周知しておきたかったのだ。
つまるところ、これは言い訳である。
こう長く生きていると、時折自分のポリシーとは違う行動をとってしまうことがある。
意思を持つ生き物と言うのは、例え神であっても揺らぎからは逃げられないものだ。
遠くから見れば直線にみえるそれだって、尺度を変えれば小さな揺れを繰り返しているのが見えてくるはずである。
とはいえ、微小な振動など所詮は誤差でしかない、軌道修正はそう難しいことではなかった。
重要なのは、”自分は揺らいでいる”と自覚できるか否か。
それさえ可能なら、修正は誰にだって出来る。
他でもない私自身の揺らぎなのだから、自在に操ることができるのは当然のこと。
問題は、多く者は自分が揺れていることにすら気付かないということだ。
だが私は間違えない、過ちは起きない。
そう、思っていた。
上白沢慧音が体調を崩していることに気づいたのは、昨日の夜だったらしい。
慌てた様子の妹紅が永遠亭にやって来たのは、空が白むよりも早い時間のことだった。
もちろん私を含めた永遠亭の住人たちは皆眠っている。
庭で五月蝿く喚く妹紅の声に起こされた私は、未だ覚醒しきらない体を引きずりながら縁側に出た。
起こされたのは私だけでない。
輝夜や鈴仙、てゐ、さらには兎達まで何匹か起きてきて、寝ぼけ眼で妹紅を睨みつける。
安眠を妨害されて怒るのは何も人間だけじゃない、蓬莱人だろうと兎だろうと例外ではないのだ。
しかし当の妹紅は、全員分の怒りを受けても全く動じる様子はなかった。
――どうせ、また下らない理由で姫様に喧嘩でも売りに来たのだろう。
そう思っていた私は完全に油断していて、まさか妹紅の目的が私だとは露ほども思ってはいなかった。
気付いた時には私の手首が妹紅に掴まれていて、そのまま力まかせにどこかへ向かって引っ張られていく。
当然、私はその手を振り払おうとしたのだけれど――彼女がなぜ永遠亭に来たのか、なぜ輝夜ではなく私なのか、なぜ死体と見紛うほどに顔面蒼白なのか、その理由に目星が付いてしまったものだから、大人しく従うしか無くなってしまった。
何も知らない三人からしてみれば、妹紅の行為は完全に奇行でしかない。
それに従う私の選択もまた奇行であって、特に輝夜は随分と驚いていたけれど、急ぐ妹紅に引きずられる私に、その理由を説明する間は無い。
呆然と立ち尽くす三人を置いて、私は竹林の闇の中へと姿を消してしまったのであった。
竹林に入った私は、まず妹紅に抵抗しない意思を伝え、手を離してもらうことにした。
次に状況の説明を要求する。
だいたい予測はついていたが、やはり慧音の身に何かが起きているらしい。
一刻の猶予も無いと言うので、私たちは猛スピードで人里へと向かった。
それから慧音の家にたどり着くまでに数分。
妹紅は本人の許諾も得ずに玄関を明け、家に上がり込むと、私を寝室にまで案内した。
別にわざわざ案内しなくたって、慧音の家には個人的に何度も遊びに来ているのだけど。
どうやら慧音は私と頻繁に会っていることを妹紅には話していないらしい、輝夜の関係者と懇意にしているのを知られたくなかったのだろうか。
あとでその件でからかってみても面白いかもしれない。
さて、慧音の病状についてだが、結局のところはただの風邪だった。
がっかり、と言うと言葉は悪いが、妹紅の慌てようは尋常では無かったので、拍子抜けしてしまったというのが正直な所だ。
風邪だとわかれば、医者としてやるべきことは、咳止めか解熱剤でも処方してゆっくりと休むよう指示を出すだけ。
慧音は半妖だ、普通の人間に比べれば格段に体力があるし、薬の必要すら無いのかもしれない。
だが、私はそうはしなかった。
実を言うと、私が妹紅に付き合って人里まで足を運んだのは、純粋な善意からではない。
不純な善意とでも呼ぶべきだろうか、それは俗世では下心と呼ばれる物で、それ故に私は素直に”風邪だ”と妹紅に伝えるわけにはいかなかった。
病は、重ければ重いほどに都合がいい。
事実はどうであれ、重病であると妹紅が認識してくれれば、口実としてはそれで十分。
「永遠亭で診察してみないと詳しいことまではわからないわ」
そう、慧音を永遠亭に連れて行く口実としては。
わざわざ永遠亭にまで足を運んで私を頼ってきた妹紅が、私の言葉を疑う理由はない。
彼女はすんなりと、慧音の身を私に預けた。
私の下心が誰に向けたものかなど、もはや説明するまでもないだろう。
要は、それこそが私の”揺れ”であり、”過ち”だったのだ。
私は慧音と出会ってからすぐに、自分の心にあるその感情の存在に気づいていた。
最初のうちは、退屈しのぎとして自らの感情としばらく戯れるつもりで居たのだ。
幸いなことに慧音も私に対して悪い感情は抱いていないようで、短い時間ではあったが、甘酸っぱい関係を楽しませてもらった。
あくまでこれは遊び、もし慧音が本気になれば容赦なく切り捨てるつもりだった。
本気にならずとも、いつかはお互いに冷めて自然消滅するだろうし、どうせそのうち寿命の壁が私たちを隔ててくれる。
まだ慌てることはない、修正できる、誤差にすぎない――そうやって、自分をごまし続けて。
――結果、私は本気になってしまった。
慧音が他の誰かに惹かれると言うのなら、力ずくで奪ってしまおう。
寿命が私たちを隔てると言うのなら、そんな壁なんて壊してしまおう。
私はもう、後戻り出来ない所まで来てしまっていた。
そして、もっと後戻りが出来ない自分になりたくて――私は今日、以前からの計画を実行することに決めた。
永遠亭まで慧音を背負って運ぶ途中で、彼女は一度目を覚ました。
「ここは……」
「私の背中の上よ、ごめんなさいね驚かせて」
「どう、して……ただの、風邪、だろう?」
慧音は自分で風邪だと気づいていたようだ。
やはり妹紅の行動は、完全に暴走だったらしい。
今回ばかりは彼女の過保護っぷりに感謝する他無い。
「念には念を入れておかないとね。
慧音の心配をしているのは妹紅だけじゃないってことよ」
「そう、か。
あり……がとう」
そう言うと、慧音は再び私の背中に体を預けて眠ってしまった。
体力を消耗していることは間違いないのだから、必ずしも私の行為が間違っているわけではない。
それに、もし私の行動に怪しい部分があったとしても、慧音が私を疑うことはないだろう。
彼女は人を疑わない性格だ。
加えて、そのために今まで密接な関係を築き上げてきたのだから。
でも、この時の私が、実は慧音の体温を感じながら独占欲を満たしていたと知ったら、彼女はどんな反応をしただろう。
受け入れてくれると嬉しい。
だが、絶望した慧音というのも、中々に悪くはない。
機会があれば一度ぐらいは見てみたいものだ。
慧音と出会い過ごした数年間なんて、私の今までの人生に比べればあまりにちっぽけな、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。
けれど不思議な事に、今の私の記憶領域のほとんどは、慧音と過ごしたその刹那に占められていた。
数億年分の記憶を思い出そうにも、ほとんど慧音の顔しか浮かんでこない。
きっと、こうして彼女を背負って夜の竹林を歩いた思い出も、余分な容量を使いながら大げさに脳に記憶されていくのだろう。
その吐息と、いつもより高い体温と、やわらかな感触と。
そんな生々しさまで含めて、私の知性を上書きしながら。
永遠亭に戻ってきた私を迎える者は居ない、輝夜たちは既に再び眠ってしまったようだ。
私の聴覚を支配するのは慧音の荒い吐息だけで、暴れ狂う煩悩をご自慢の理性でどうにか抑えながら、診察室へと向かう。
そしてようやく彼女をベッドに寝かせた私は、椅子に腰掛け、背もたれに思い切り体重をかけながら大きくため息を吐いた。
まだ目的を達成したわけではない、安心するにはまだ早い。
けど、しばらく休まなければ、理性が途中で爆ぜてしまう予感がしたから。
嘆かわしい、予定ではもっとスマートに事を済ませるつもりだったというのに。
慧音はどうしてこんなにも、”私らしさ”をぶち壊しにしてくれるのだろう。
些細な仕草が、何気ない一言が、いちいち私の理性に傷跡を残していく。
輝夜の時も私の心は随分とかき乱されたが、ここまでではなかったはずだ。
愛おしいと思ったことはある、ずっと隣に居たいという衝動にも覚えがある、しかし――
ベッドに横たわり、額に汗を浮かべ、苦しそうに荒く呼吸を繰り返す慧音を見て、私は生唾をごくりと飲み込んだ。
――こんな欲望には、覚えがない。
あれこれ欲しがって手に入れると、失った時に痛い目を見る。
知っているはずなのに、今の私の頭の中にはそんな教訓を活かす余裕は無かった。
ただただ、こう思っている。
慧音が欲しい。
慧音は優しく、誰にでも慕われる”よく出来た”女性だった。
しかしその程度の人格者なら私は何度も出会ってきたし、慧音には私の目を引く特別に尖った一面などは無いはずだったのだ。
例え半妖だったとしても、その上で人間に慕われている変わった境遇の持ち主だったとしても、私の中の”普通”の範疇を越えることはなかったから。
判断基準はそこでは無かった? 外見でもなく、内面でもなく、彼女の歴史でもなく、だったらどこに……魂に惹かれたとでも言うのだろうか。
愛と呼ぶには衝動的で、恋と呼ぶには破滅的で。
ベッドに横たわる慧音の扇情的な姿を見て、私が思わず手にしてしまった薬瓶こそが、おそらくその象徴なのだろう。
大事にしたいわけじゃない。
愛でたいわけじゃない。
とにかく、欲しくて。
私だけの物になるのなら壊してしまっても構わなくて。
いや、だったら何故、慧音が眠っている間に飲ませなかったのか――
「……永琳?」
慧音は首だけをこちらに向けて、棚の前で瓶を持ったまま動かない私に声をかける。
その声はどこか不安気だった。
病のせいで気が弱くなっていたのか、あるいは私から普段とは違う気配を察したのかもしれない。
「どうしたの、病人なんだからちゃんと休んでなさい」
「その薬は……」
「あなたの病気に効く薬を探していたの」
「そう、か」
息を吐くように嘘をついた。
不思議と、罪悪感はこれっぽっちも無い。
今から私が行おうとする蛮行に対しても、不思議と危機感は無かった。
それが何よりも恐ろしい。
恐ろしいが、止める気はさらさら無い。
早く、実行しなければ。
「永琳」
「すぐに終わるから少し待ってて」
「永琳……薬は、後で良いから……その、こっちに、来てくれないか」
「まさか、甘えたいなんて言い出さないでしょうね?」
「……」
慧音からの返事はない、ひょっとして図星だったのだろうか。
薬は後回しになるが……仕方無い。
私が苦笑いしながらベッドの方に近づくと、慧音はこちらに手を伸ばし、上着の裾をきゅっと握った。
まるで子供のように甘える仕草に、私の理性はぐらぐらと揺り動かされる。
お返しと言わんばかりに額に手を当てて軽く撫でると、ただでさえ熱で火照っている慧音の顔は、さらに紅くなった。
「病は精神も冒すわ、多少弱気になっても恥じることはないの。
それにね、私個人としては、慧音に頼られて嬉しいわ」
「……その、別に、甘えたかったわけじゃ……ないからな」
「あら、言い訳なんてしなくていいのに」
「ちがっ……ごほっ、ごほっ!」
「ああもうっ、自分が病人だってこと忘れないの」
慧音の上半身を支え、背中を何度かさすると、やがて咳はおさまっていった。
医学的な意味がある行動ではないが、人間と言うのは咳込んだ時に背中をさすってやると、気が楽になるものらしい。
慧音は真っ当な人間ではないが、どうやら効果はあったようで、表情も少し柔らかくなった。
「あの、な。
私は、ただ……永琳が、遠くに行ってしまいそうだったから……」
「遠くに?」
「すまない、自分でも……よくわからないんだ。
ただ、怖くて、怖くて……ああ、もしかしたらお前の言うとおり、病で気が、弱っているのかも…しれないな」
「ふふ、甘えたいなら素直に甘えなさい、変に言い訳しないの」
私がそう言っても慧音はまだ不安げだったが、再び頭を撫でてやると、微かに微笑んだ。
いつもなら”子供扱いするな”と言って跳ね除けられそうなものなのに、病の持つ魔力って本当に素敵だと思う。
「じゃあ、その……手を」
「握って欲しい?」
こくん、と慧音は恥ずかしげに首を縦に振った。
慧音と手を重ねると、彼女は自然と指を絡めてくる。
自分でも驚くほどに心臓が高鳴る。
私の顔も、慧音に負けじと熱を帯びている。
彼女の一つ一つの言動は、順調に私の軸を間違った方向に折り曲げていく。
「こんな風に、手をつなぐなんて……何年ぶり、だろうな」
私も何百年、いや何千年ぶりだろうか。
おそらく、前回は輝夜がまだ小さかった頃まで遡るはずだ。
それはつまり、私の心を掴む誰かが、それだけ長い間現れていないということ。
そして今、慧音は間違いなく私の心を囚えているということ。
きっと無自覚なんでしょうけど、慧音だって私と同じぐらい罪深いってこと、わかってるのかしら。
「……なあ、永琳。
どうして、私をここに連れてきたのか……理由を、聞いてもいいか?」
「さっき言ったじゃない、念には念を、よ」
「本当に?」
全てを見透かしたかのような慧音の視線に、私の心臓は悪い意味で、痛いほど高鳴った。
しかしポーカーフェイスは崩さない、こういう時ばかりは長生きしてきてよかったと思う。
「少し、目が揺れた」
ああ、忘れていた。
つい先日、慧音がうちに遊びに来た時に気づいたんだっけ。
どうやら彼女は、私が思っている以上に私の事をよく見ているらしいということに。
下手したら輝夜以上に、私のことを理解しているようだった。
その時は喜んだものだが、手放しで喜んでいる場合では無さそうだ。
ひょっとすると、私の下心まで気付かれてしまっているかもしれない。
「これは、ちょっとばかり願望混じりの……推理になってしまうんだが。
ひょっとして永琳は、私と、その……二人きりになりたかった、のか?」
慧音は布団で口元を隠しながら、私にそう問うた。
私は心の中で肩をなでおろす。
間違ってはいないが、しかし慧音は私の目的にまで気づいていないらしい。
それよりも重要なのは、慧音自身が私が嘘をついて強引に二人きりにしたのを嫌がっていないことだ。
「あ、いや、やっぱり……ごほっ、あのっ、いい、忘れてくれっ! 今のは、無かったことにっ……げほっ!」
「ふ、ふふふっ、やあね、そんなの忘れられるわけないじゃない」
「うぅ……」
今度は頭の天辺まで布団で隠してしまった。
普段は大人の女性らしい振る舞いを心がけているくせに、気が抜けると途端に子供っぽくなる慧音のことが、私は愛おしくて仕方がない。
確かにきっかけは衝動的ではあったが、そこから先の過程は、慧音自身の魅力が引き起こした事態だ。
果たして私だけが背負うべき罪なのだろうが。
当事者である私が何を言っても言い訳にしか聞こえないかもしれないが、原因は私を取り巻く彼女たちにあると、私は考えている。
私たちは一人では生きていけない生き物なのに、唯一の永遠の伴侶であったはずの輝夜を妹紅が奪って、輝夜は私を置いて遠くに行ってしまった。
そしてそこに慧音が現れた。
ほら、やっぱり。
私は悪くなんて無い。
自身の一部を失ったのなら、補おうとするのは自然なことじゃないか。
これが罪であるものか。
「あの……永琳、手が痛いんだが……少しだけ、緩めてくれないか」
「っ……ごめんなさいっ、つい」
あなたが、欲しくて。
「……いや、別にいい。
しかし、その、勝手な想像なんだが、もしかして永琳も不安になることがあるのか?
私もな、不安になると人肌が恋しくなるんだ、だから永琳も……と思ったんだが」
不安が無いわけではない。
仮に今日、私の目的が達せられるとして、果たして慧音はそれでも私のことを見捨てずにいてくれるだろうか、とか。
本当は慧音が私のことをどうも思っていなかったらどうしよう、とか。
けれど私が手を強く握ったのはまた別の理由だ。
その手を二度と離さまいとする、欲望が抑えきれなくなってしまった。
この際だ、慧音の気持ちに多少探りを入れてみてもいいかもしれない。
「私だって不安になることぐらいあるわよ。
そうね、私の不安を消すと思って、一つ質問に答えてくれないかしら」
「答えられることなら」
「もし、もしもよ、慧音の不安が的中して、私が遠くに行ってしまうとしたら――」
そう言うと、慧音の手を握る力が強くなる。
私は心の中でほくそ笑んだ。
だって、聞かなくとも答えがわかってしまったのだから。
「遠くまで、慧音も一緒についてきてくれる?」
慧音の澄んだ瞳が揺れている。
不安と戸惑いで、水面のようにゆらゆらと。
「それは……」
「特に意味なんてないわ。
これは例え話、慧音がどれぐらい私のことを好きなのかって聞きたかっただけ」
「ちょ、ちょっと待てっ、そういう言い方……されると、答えづらいんだが」
「知ってるわ」
「意地悪だなお前はっ」
慧音は声を荒げたが、今度は咳き込まずに済んだようだ。
それにしても、本当に慧音は色んな表情で私を楽しませてくれる。
この時間が永遠に続くのなら、それ以上に幸せなことなど他にあるだろうか。
輝夜と過ごした日々ともまた違う、体が熱くなる、情熱的な満足感。
これがせいぜい数十年程度の刹那で終わってたまるものか、終わらせてはいけない、やはり永遠でなければならない。
「遠くに行ってしまいそうで、不安だと言ったのは私だぞ。
どう答えるかなんて……最初から、わかりきってるじゃないか」
「それでも聞かせてほしいの。
慧音の声で、慧音の言葉で、はっきりとこの耳で聞かないと安心出来ないわ」
慧音の視線を逃さぬように、目をしっかりと見てそう告げる。
恥じらい故か、慧音の瞳は潤んでいて、自覚は無くともその表情はやけに官能的だ。
私は自分の欲望を抑えるので精一杯だった。
早く言って欲しい、私を安心させて欲しい。
安心して、奪わせて欲しい。
慧音は微かに視線を揺らし、何度か下唇を噛んで逡巡した後、観念したように口を開いた。
「え、永琳が……いい」
「何がいいの?」
「永琳の、傍が、いいと言っているんだ。
離れたくない、例え遠くに行ってしまうとしても、この世で一番心地よくて安心できる場所を、手放したくない」
思わず口元が緩んでしまった。
なぜかって?
だって、おかしいじゃない。
慧音のことを壊そうとしている私なのに、そばに居て安心するなんて、心地いいなんて。
こんなにも私にとって都合の良い現実を見せられたら、笑うしか無いわ。
でも、まだ足りない。
最低限は満たしても、私の欲が次を次をとせがむから、意地悪と言われてももうひと押しさせてもらおう。
「慧音がいなくなった後、人里の子どもたちはどうするの? 先生先生って、みんなで探して、でも見つからなくて、きっと泣きながら悲しむわよ」
「なっ――そんなことまでっ」
「ねえ、教えて?」
「っ……私の代わりなんて、どうにかなるだろう」
「子供よりも私を選ぶのね?」
「そ、そう、だ……薄情だと思うか?」
「ええ、薄情ね。
私のために薄情になってくれる慧音が愛おしくてたまらないわ」
「愛お……って、ちょ、ちょっと待て、それは……っ」
自分からあそこまで言ったくせに、慧音はなぜか口をぱくぱくさせて慌てている。
……ああ、そういえばまだ”傍に居たい”って話しかしていないんだった。
でも大して変わりはしない。
傍に居たい、好き、愛している、壊したい。
どれも同じ衝動なのだから。
それに、愛おしいという私の言葉を慧音が嫌がっていないのなら、何の問題も無い。
「もう一つ聞かせて」
「待てって言ってるだろう!?」
咳のことなどすっかり忘れて声を荒げる慧音。
そうやって必死に止めるということは、おそらく私が何を言おうとしているのかすでに察しているのだろう。
「慧音がいなくなった後」
「永琳っ、頼むからもうやめてくれ!
私は他の何よりも優先してお前を選ぶっ、永琳と一緒に居たい! それで、十分じゃないか」
愛の言葉としては合格点を上げても良い。
でも残念、私って天才だから、合格点程度じゃぜんぜん足りないの。
「嫌よ、言ってもらうわ。
言うまでこの手は離してあげないんだから」
だから、私は止めない。
いや、だからこそ私は止めない。
慧音が聞きたくないからこそ私は問うているのだし、答えたくないからこそ答えて欲しい。
私の欲を、満たして欲しい。
「妹紅は――どうするの?」
「……くっ」
でもね慧音、そうやって嫌がってる時点で、もう答えたも同然だってことに気づいてる?
私はそれが、嬉しくて嬉しくて仕方無いの。
慧音の苦悩を見ているだけで、全身が快感で震えて、ゾクゾクする。
みんなから慕われる、思いやりがあって優しい慧音先生が。
どんな時でも妹紅の味方で居てくれる、大事な大事な上白沢慧音が。
私のために、全てを投げ捨ててくれる。
わざわざ私が壊さなくとも、とっくに慧音は壊れ始めているんだって、実感できてしまう。
「今までずっと、永琳のことを知りたいと思っていたが……こんな一面は知りたくなかったよ。
知っているか? 人が苦しむ姿を見て喜ぶ奴のことをサディストと言うらしいぞ」
サディストの定義が正しいかは別として、私は別に慧音が苦しむのを見て喜んでいるわけじゃない。
私への気持ちが慧音の信念を曲げているのを見るのが楽しいだけだ。
「あら、じゃあ嫌いになった?」
「この程度で嫌いになれたら苦労なんてするものかっ」
怒っている慧音はとても可愛い。
怒ってるくせに私を突き放しきれないあたりが、特に。
「それで、妹紅はどうするのかしら」
「答えないと、駄目か?」
「答えさせたいから聞いたのよ。
慧音は知らないでしょうけど、私って意外と嫉妬深いのよ。
いいえ、きっと私に限った話ではないと思う。
慧音に恋した誰かは、必ず同じことを考えるでしょうね。
”私は本当に、慧音にとって妹紅以上なのか”ってね」
「私にはわからないよ」
「慧音がそれだけ魅力的だってことよ、単純な話じゃない」
「傍に居たいだけじゃ駄目なのか? どちらか一つだけを選ぶ必要があるのか?」
「あるわ」
私は即答する。
慧音は戸惑いながら、「どうして?」と聞いてきた。
「独占欲って、誰にだってあるものだと思っていたのだけれど。
好きな人の唯一無二になりたいって気持ちは、そんな変なことかしら?」
「唯一無二だから恋をしたんだろう? 疑う余地なんて無いはずだ。
周りに誰が居ようと関係ない、ちゃんと愛されてるって信じてるから。
……って、私何を言っているんだ、愛しているとか愛していないとかまだ早すぎ――」
「愛しているわ、慧音」
「あう、あう……」
聞いたこともないような不思議な声を上げながら、言葉を失う慧音。
しばらくの間、慧音は”あうあう”と言うだけで会話すらままならなかったが、頭を撫でてやると少し落ち着いたようだ。
それから、慧音は何度か深呼吸を繰り返すと、ようやく覚悟を決めたのか、小さな声で応えてくれた。
「私も……その、愛している」
「知ってたわ」
「じゃあ言わせるなぁっ!」
「ふふふっ」
そんな可愛らしい反応してくれるから、思わず言わせたくなってしまうのだ。
それにわかっていても一度は聞いておかないと、やはり気がすまない。
言葉は束縛だから。
言質と言うと聞こえは悪いが、はっきりと言葉にしておかないと、それを言い訳に逃げられたりしたら困る。
「それじゃあ、気を取り直して」
私は指先で慧音の顎に触れた。
そして輪郭をなぞるように指をすべらせると、彼女の体がぴくりと震える。
呼吸もかすかに荒くなっているようだ。
薄々気づいてはいたけれど、どうやら慧音はこの手のスキンシップに全く耐性が無いらしい。
だが、耐性はないが、自分から手を握りたいと言い出すあたり、嫌いでは無いらしい。
境遇からして家庭環境も複雑だったろうし、ひょっとすると人肌に飢えているのだろうか。
まあ理由はどうでもいい。
今重要なのは、慧音は私に触れられることを拒まない、その一点のみである。
「今度こそ、愛しているのなら答えてくれるでしょう。
ねえ慧音、妹紅を捨ててでも、私を選んでくれる?」
「うまく逃げられたと思ったんだが」
逃がすわけがないじゃない、永遠に。
「……すまん、妹紅」
慧音は小さな声でそう呟くと、私の首に腕を回す。
その腕に力を込めると、私の顔をゆっくりと引き寄せた。
吐息がかかるほどの距離。
やけくそ気味な大胆な行動に一瞬だけ私も驚いたが、その驚愕はすぐに消えた。
ガチガチに緊張した慧音の顔を見てたら、驚きよりも微笑ましさの方が先に来てしまったのだ。
「私は、私は――」
上白沢慧音という半妖は、他人のために無茶が出来る善人だ。
逆に言えば、どこもまでも自己中心的になれない損な性格をしている。
他人を裏切るなんてもってのほか。
だからこそ誰にでも好かれ、慕われている。
しかしどうだろう、今、目の前に居る慧音は、私のために他人を裏切ろうとしている。
誰よりも守りたかったはずの物を、慧音を慧音たらしめる善性を、私のために破棄しようとしている。
私がそうさせた。
「妹紅よりも……永琳を、選ぶよ」
私がそうしたから慧音はそうした。
「永琳と一緒がいい」
私のために。
「永琳が居ない世界なんか嫌だ」
私だけのために。
「他の全てが満たされていても、そこに永琳が居ないというのなら――あなたが居る場所を選びたい」
ああ――なんて、なんて罪深い。
どす黒くて、澄んでいて、底の見えない沼のよう。
基本的に八意永琳という生物は、善性の意思を持った生物だ。
善であるべきだと考え、考えたとおりに自らを動かす、知性に満ちた生命体だ。
そんな私にとって、これは正しくない、八意慧音の軸から大幅にずれている、致命的な過ちであった。
わかってる。わかってるの。
きっと理性が正しい、衝動は間違っている、これは酷く動物的で野蛮な思想だ。
でも、もういい。
過ちだろうが外れていようが、罪だろうが罰だろうがどうだっていい、責任の所在なんて地平線の彼方に投げ捨ててしまえ。
私にはそれを踏み倒すだけの力がある、知性がある、つまり権限がある。
考えてみれば、誰にも許しを請う必要なんて無かった。
例え神が私を許さなかったとしても、神より長く生きる私がどうして彼に従う必要があるというのか。
何よりも優先すべきは、幸福だ。
色なんてどうでもいい、白でも黒でも幸福に重要なのは質量であって、外見ではないのだ。
上白沢慧音によって八意永琳は幸福になる。
八意永琳は上白沢慧音を幸福に出来る。
未来永劫、永遠に。
それらは確定した事実、他の要素は考慮すべきではない。
いかなる邪魔が入ったとしても、法も秩序も神も時間も永遠も彼も彼女も全て、慧音の前においては思慮するに値しない、塵芥である。
だから、私はもう自分を修正しようとは思わない。
後戻りしようとも思わないし、躊躇いもしない。
……よくよく考えてみると、最初から躊躇などした覚えが無かったのだが、まあどうでもいい。
奪おう。
慧音を、私だけの物にしてしまおう。
心だけじゃない。
体も、外も、内も、全部。
「冷静に考えると、だな。
自分でここまでやっておいて何だが……私は病人だ、おそらく風邪でも引いてしまったのだろう。
どうだろう、この状態でキスをするというのは、その、伝染してしまう可能性が」
「咳、止まってるでしょう?」
「ん? 言われてみれば確かに」
「あなたが起きる前に、薬を飲ませておいたのよ」
「そ、そうだったのか!? しかし、そんなにすぐ効くものなのか?」
「誰が作った薬だと思ってるのよ」
「薬が効いた所で菌まで無くなったわけでは……」
「私を誰だと思ってるのよ」
「あ……そう、だったな。
そういえばそうだ、永琳は永琳だったな、私みたいな半妖と違って風邪なんが引くわけがない。
なんだ、つまりもう、私に逃げ道はないわけだ」
「観念した?」
「ああ、私の負けだ。
初めてのキスも、初めての恋も……全部、お前に捧げるよ」
あとはもう、顔を少しだけ近づけるだけだった。
それだけで唇が触れる。
それだけで、慧音は私の物になる。
「ん、ふ……」
いざ口付けると、慧音は存外に積極的で、自ら腕に力を込めてさらに唇を押し付けてきた。
いっそ舌でも入れてやろうかとも思ったが、まだ初心な慧音には刺激が強すぎるだろうと思いやめておいた。
どうせまた機会はあるのだから、急く必要は無い。
それに、私の方も言うほど余裕があるわけではない。
久方ぶりの口づけの感触は、思った以上に強く甘く、私の脳を痺れさせる。
まるで初めてであるかのように夢中に相手の唇を求め、大の大人が二人して、みっともなく息を荒げる姿は、客観的に見れば滑稽なのかもしれない。
しかし私は思う、永遠に続くほど情熱的な恋だというのなら、滑稽なぐらいでちょうどいいのだと。
一度目だけではなく、二度目も、三度目も、何百回、何千回、何万回と、私たちはこれからキスを繰り返すだろう。
その度に、滑稽に見えるほど必死に互いを求め合える私たちでいたい。
「ふはっ……」
唇を離すと、慧音は呆けた顔をしながら、人差し指で唇を撫でた。
「ファーストキス、か」
仕草も、言葉も、全てが可愛い。
思わずもう一度唇を奪ってしまいそうになったが、ここはぐっと我慢する。
だって慧音は私の物になったのだから、しようと思えばいつだって出来る。
慌てることはない。
「……これは、大変だな」
「何が大変なの?」
「キスの前なら躊躇った言葉も、今なら簡単に言えそうな気がするんだ」
「その言葉、聞かせてもらってもいいかしら」
我慢したばかりだというのに、その言葉を聞いて私は堪えきれる自信がない。
だって慧音は、いつも他人のことばかりを考えているから。
誰よりも私のことを一番見ていてくれる慧音が、こんなに近い距離に居るのだ。
見透かされないわけがない、おそらく私が何を言われたら喜ぶのかを、誰よりもよく知っている。
「お前のためなら私は、里の子供も妹紅のことも、簡単に切り捨ててみせるよ」
ほらね。
そんなことを言われて、私が満たされないわけがない。
ひょっとしたらこれって、遠回しなキスのおねだりなのかしら。
「ねえ、キスしてもいい?」
「私は全てを永琳に捧げたつもりだ。
次からは、許可なんて取らなくていい、好きにしてくれ」
「私、慧音の言葉は疑わないことに決めてるの。
本気するけど、いい?」
「私も永琳には嘘はつかないことにしているよ」
「ふふっ……だから好きよ」
もちろん一度では足りなかった。
ベッドの上で抱き合いながら、時に上下を交代しながら、空が白むまで何度も何度も重ねあう。
当初の目的も忘れて、必死に、夢中に貪り合う。
幻滅してしまうほどに浅ましく、それでも愛していると言ってくれる貴女が狂おしく。
飽きることはない。
このまま永遠に続けてしまおうか――そんなことを考えていると、ふいに慧音が私に問いかけてきた。
「……なあ、永琳」
「どーしたの?」
自分の声がやけに甘ったるくなっているのが自分でもわかった。
とてもじゃないが、こんな声は慧音以外には聞かされない。
「こんな時に聞くことではないのかもしれないが……永琳が私に風邪薬を使ったのは、私が目を覚ます前だったよな?」
「そうね、可愛らしい寝顔を見せてもらったわ」
可愛いというよりは、官能的と言った方が適切かもしれないが。
本人を目の前にそんなことを言うほどデリカシーに欠けちゃいない。
「い、いちいちそういうことを言うんじゃないっ」
そーゆー可愛い反応されるから言いたくなるってわかんないのかしら。
「それでだなっ、その、だったら私が目を覚ました後に取り出した薬は、何だったのかと、気になってな」
「……そういえば」
今の今まで忘れていたが、私の目的は慧音に愛の告白をすることではなかったはずだ。
そして今も、その願望が消えたわけではない。
「私ったら、大事なことを忘れていたわ。
これも慧音が可愛すぎるのがいけないのよ」
「そう言われてもだなぁ……うぅ、そういうのに私が弱いの知ってて言ってるだろうっ」
「いいじゃない、だからこそ私は貴女に惚れたんだから。
それでだけど、あの薬――蓬莱の薬なんだけど」
「そうか、蓬莱の薬……蓬莱の……ほう、らい?」
「ええ、蓬莱の」
慧音の動きが私を見つめたままで止まる。
そんなに潤んだ目を見せられると、またキスしたくなるんだけど。
「確認するが、それは永琳や妹紅が飲んだ不老不死の薬のことだよな?」
「そうよ、輝夜も飲んでいるわ。
慧音に私と同じ時間を生きて欲しいと思って」
私には、なぜそんなに慧音が驚くのかがわからなかった。
私が思うに、慧音が色恋沙汰に関して初心すぎるせいだと思うのだけれど、独占欲の件と言い、どうも私たちの価値観は噛み合わない。
ただ、それは最初からわかっていたことだし、大した問題とは考えていない。
今はそうでも、未来永劫価値観が揺るがないわけではないのだから。
「ここまで愛することが出来たのは、慧音、あなたが初めてなの。
こんなにも深い愛情をほんの数百年程度で失いたくはないわ。
大丈夫よ、慧音にも飲みやすいようにカプセル錠にしておいたから」
「それは助かるが、助かるんだがっ! 問題は飲みやすいか飲みにくいかじゃないんだ。
永琳、蓬莱の薬を飲むということがどういうことなのか、一番よくわかっているのはお前だろう? その……本気で言ってる、のか?」
冗談なら、私はこの薬取り出すことすらしない。
慧音に強いる負担は途方も無く大きい、仮に慧音が私を強く愛してくれていたとしても、そのリスクを許容できるかは微妙な所だ。
だから、本来は慧音が目覚める前に使おうとしていた。
しかし実際にそうしなかったのは、これもまた、私が本気で慧音を愛しているからなのだろう。
本気だから永遠を共に歩みたいと思った。
本気だから永遠を背負わせたくないと思った。
だがそんな抑制も、ほんの一時しのぎに過ぎない。
想いが通じあった今、もはや私に使わない選択肢は残されていないのだから。
無理やり使うか、許可をもらった上で使うか、私が選ぶのは、その二択。
「本気、なんだな」
さすが慧音、私の目を見て察してくれたみたい。
「嫌、と言って諦めてくれるか?」
「理由を聞かせてもらえるかしら」
「私にはまだ……お前を永遠に愛せるかわからない。
私は永琳のことを愛している、それは間違いないことだし、いつかこの感情が無くなる時が来るとは思えないし、思いたくはない。
でもな、私は永琳ほど自分の感情に自信を持てないんだ、どこかで気が変わってしまう可能性を完全には拭い切れないんだよ」
この件に限った話ではなく、慧音は自分への自信が無いように思える。
半妖は時には人間からも迫害され、妖怪からも爪弾きにされることがある。
彼女とて普通の人間に比べれば長い時間を生きているのだ、他者から疎まれることもあったはずだ。
その境遇が、彼女から自信を失わせてしまったのかもしれない。
私が保証する、慧音は間違いなくこの幻想郷で最も魅力的だと。
でも、今の彼女はそれすらもお世辞として受け取り、謙遜してしまうだろう。
場合によっては同情と思われ、逆効果になってしまう可能性だってある。
「そのうち、なんて責任の無いことは言えない。
だが私も、出来る限りお前の希望に添えるよう、努力するつもりだ。
今はそれで許してくれないか」
「許すとか許さないとか、そういうことを恋人に対して言わないの。
私たちは対等よ、あなたが無理だと言うのなら大人しく引き下がりましょう」
「……ありがとう。
私もな、求められるのは嬉しいんだ。
永遠に一緒に居たいと言ってくれる永琳の気持ちを、心の底から歓迎している、それだけはわかって欲しい」
慧音が私に対して嘘をつかないというのなら、私もその言葉を信じるしか無い。
諦めるといった以上、これ以上に薬の話を広げても空気が良くなることは無さそうだ。
今はその話は忘れて、”求められるのは嬉しい”と言う慧音をもっと喜ばせてあげようじゃないか。
「その代わりに」
”代わり”とは言ったが、実は対価と言うわけではない。
どうせ最初からそのつもりだったのだから。
「今日は一日、慧音のことを独り占めしてもいいかしら?」
蓬莱の薬の話を初めてから終始複雑な表情をしていた慧音が、ここでようやく笑ってくれた。
先ほどの言葉通り、私に求められることを喜んでくれている。
それが、私にとっても嬉しい。
曇り顔も、絶望も、怒りも、おそらくどんな表情だって慧音にはよく似合う。
だけどやっぱり、笑顔が一番素敵だ。
満たして、壊して、綻んで、私をこんなにも幸せな気分にしてくれる。
「罪滅ぼし、というわけではないが――好きにして……ううん、好きにされたい。
永琳がしたいようにしてくれ。
私は全てを、喜んで受け入れるから」
……………
上白沢慧音が永琳と一緒に永遠亭を後にしたのは、日が沈み始めた夕方のことだった。
すでに、それから三時間が経過している。
三十分ほど前から、私は玄関付近に立って彼女の帰りを待っていたが、未だ戻ってくる様子はない。
永琳は出て行く時、私に「送り狼になってくるわ」と言っていた。
てっきり冗談だと思っていたのに、どうやら彼女は本気だったらしい。
「姫さま」
玄関から出てきた優曇華が、ぼうっと立ち尽くしていた私に声をかけてくる。
「あら、殊勝な心がけね、優曇華もお師匠様を待っているの?」
「いいえ、いつ帰ってくるのかわからないケダモノを待っているほど暇ではありませんから」
「言うわねえ、永琳が聞いたら怒るわよ?」
「どうでしょう、今の師匠はむしろ誇りそうな気もしますが」
さすが弟子なだけあって、師匠のことをよくわかっている。
確かに優曇華の言う通り、今の永琳は慧音に入れ込んでいる事を誇っている節すらある。
私にはあの女のどこがいいのかてんでわからなかったが、永琳が蓬莱の薬を持ち出すほどなのだ、私にはわからない底なし沼のような魅力があるのだろう。
「姫さまは、止めたりしないんですね」
「蓬莱の薬のこと? 私がどうこう言う問題じゃないでしょう、”あの”永琳が自分の意思で持ちだしたんだから」
「意外でした、一番そういうことをしなさそうな人だと思っていたのに」
「感情論とは対極に位置する考え方をしているものね。
でも、実はああいうのが一番溺れやすかったりするのよ」
「溺れてるってわかってるなら、助けてあげればいいじゃないですか」
「砂糖の海に沈んで笑ってる永琳を引き上げろっていうの? そんな酷なこと、私には出来ないわ」
溺れて死ぬ有限の命ならまだしも、私たちは溺れたって死ぬことは出来ない。
そこが劇毒の海だったとして、毒が私たちに悦楽を与えてくれるというのなら、喜んで溺れに行くだろう。
「そのまま溺れてたら、堕ちる所まで堕ちるだけじゃないですか」
「優曇華は知らないでしょうけど、堕落の末路には二種類あるの」
「二種類って、破滅だけでしょう?」
「善き破滅と悪しき破滅があるのよ、特に命が尽きない私たちにはね。
破滅したってどうせ終わらないのよ?
だったら節度をもって清く正しく窮屈に生きるより、壊れてでも汚く幸せに生きていったほうがずっとマシだわ」
少なくとも幸福に沈んでいるその間は、退屈という最低最悪の致死毒からは逃げられるのだから。
だが優曇華にはそれが理解できないらしい、どこか不満気な顔をしている。
「一人だったら不満はありません、善し悪し関係なしに勝手に破滅してくれていいと思います。
お互いに不老不死なら二人でも三人でもいいでしょう。
ですが、今回は話が別です」
「あら、あなたがあの半妖の心配をするなんて意外だったわ」
「人里にはよく行きますから、色々とお世話になってるんですよ」
色々と、と言うのは行商のことだろうか。
彼女が薬の効果を認めれば、人里の人間たちも信用するだろう。
それほどまでに、慧音は人里において大勢の人間に慕われている。
いや、優曇華は人間では無いのだから、その範疇は他の妖怪にまで及んでいるのかもしれない。
「師匠の戯れに、あんな性格の良い人を巻き込むのはひどいと思います」
「それに関しては私も同感ね、だから永琳も相手の意思を尊重して、薬を無理に飲ませたりはしなかったんじゃないかしら」
「でも……私にはどうも、師匠が諦めたようには思えないんです。
諦めるにしてもあっさり引き下がりすぎじゃないでしょうか」
私も同じことを考えた。
あそこまで慧音に入れ込んでいる永琳が、嫌だと言われただけで引き下がるのはどうもおかしいと。
ちなみに、なぜ私たちが二人の会話を知っているかというと、実は部屋の外でこっそり聞き耳を立てていたからだったりする。
まあ、どうせ永琳も気づいていたでしょうし、お互い様よね。
で、永遠亭を発つ前の永琳にこっそり聞いてみたのだ。
「諦めたつもりはないみたいよ」
それが、私の問に対する永琳の答えだった。
彼女は私も見たことのないような不気味な笑みを浮かべて、自信満々にこう続けた。
「慧音は必ず自分から蓬莱の薬を望むようになるし、薬のせいで不幸になることもない。
未来永劫必ず幸せにしてみせる、だから焦ることなんて無いと思ったの」
「って、師匠が?」
「ええ」
「……それって」
「そうねえ」
あの永琳のことだ、そう言い切ったと言うことは――
「絶対に実現しますよね、だって師匠ですから」
「するでしょうね、だって永琳だもの」
天才の名は伊達ではない。
普段はあまり感情を露わにしない永琳が、あえて笑いながらそう言い切ったと言うことは、天変地異が起きて幻想郷が消滅しようとも、その宣言を違えることは無いだろう。
上白沢慧音は蓬莱の薬を飲む。
上白沢慧音は幸せになる。
それはもはや、確定した事象と考えてもいいのかもしれない。
きっとそれはハッピーエンドだ。
誰もが認める、笑顔が溢れ、誰も不幸にならない、完全無欠の閉じた結末。
それは隣りにいる永琳も同じことで、二人一緒に幸福の奈落へと堕ちていく。
しかし何故か、私は――私たちは、それの未来を素直に喜ぶことが出来ないでいた。
「こういう時にかける言葉って、”おめでとう”でいいのかしら」
「結ばれたんですから、それで間違っちゃいないんじゃないですか」
そう、間違ってはいない。
「でもねえ、どうもしっくり来ないのよねえ」
「うーん……」
ただしっくり来ないのは優曇華も同じようで、顎に手を当て考え込みながら、似たような言葉の中から適切な物を探しているようだ。
末永くお幸せに、と言うのはありきたりで合わない気がするし。
幾久しく幸多かれ……というのも、永遠を確信している永琳には当てはまらない気がする。
そもそも幸福に絡んだ言葉から探すことが間違っているのだろうか。
だったら他には――
「……あっ」
「……」
「あの、姫さま……私、わかっちゃったかもしれません」
「奇遇ね、私もちょうどいい言葉を見つけた所よ」
しかしこれが同時に頭に浮かんだことを、手放しに喜んでいいものか。
いやいや、まだ同じと決まったわけではない。
せーので一緒に言おうと提案しようとすると、優曇華は先手をとってこう言ってきた。
「私が言うとまずい気がするので、姫さまにお任せします」
「ちょっと、それはずるいわよ」
「兎ですから」
言い訳にすらなっていないが、優曇華の気持ちもわからないでもない。
私なら許されるかもしれない、しかし彼女は間違いなく許されないだろうから。
「仕方ないわね。
だったら優曇華に変わって、私が永遠亭を代表して、おあつらえ向きの祝辞を述べてあげましょう」
今日、幸せな門出を迎えた二人。
誰もが認める幸福を手に、永遠の旅路を歩き始める。
神様だって嫉妬するほど仲睦まじい二人に待っているのは、揺るがない明るい未来。
そんな二人だからこそ、月並みなお祝いが似合わないのかもしれない。
だからこれは、決して悪意があるわけではなく、本当に純粋に、二人に似合う言葉を探した結果なのよ。
見つかってしまったのは私が悪いわけじゃない、もちろん優曇華だって。
この言葉が似合いすぎる慧音が悪いんだ……と身勝手に責任転嫁しつつ、今二人が居るであろう人里の方向に向かってこう言った。
「――ご愁傷様」
私の言葉に釣られて、吹き出すように優曇華が笑った。
ただ一つ指摘させてもらうと、輝夜は優曇華のことは『イナバ』と呼びます。
覚えておいてくれると助かります。
修正お願いします。