雨の降る夜だった。
もとより陰気な香霖堂の店内は、湿気と薄暗さによって、より一層ぬかるんだような空気に満たされている。
ただそのぬかるんだ空気は、泥の柔らかさではなく、針の鋭さを持った険悪さを含んでいた。
あるもう一つの要因によって。
「――!! ―――!」
「……!! …ッ!!」
霊夢と魔理沙が口喧嘩をしていた。
いつもの軽口のたたき合いではなく、相手を深く傷つけようとする悪意きわまるもの。
店主の霖之助はそんな空気の中でも、ただ黙って読書を続けていた。
喧嘩の発端はもう誰も覚えていない。ただくだらない理由であったことだけは確かだ。
今日の天気が雨だったことも理由のひとつかもしれぬ。いつもであれば弾幕ごっこでケリをつけていただろうから。
霊夢と魔理沙の口喧嘩は、ねちねちと一刻近く続いていた。
にも関わらず、状況はいつ終わるともわからない。
「霖之助さん!! 魔理沙に何とか言ってよ!」
「そうだぜ、香霖! この分からず屋にがつんとな!」
唐突に二人から霖之助は話を振られた。ちらりと霖之助は二人を一瞥する。
なるほど、どちらかの言い分を霖之助を肯定すれば、その時点で状況は二対一だ。この喧嘩も一定の決着がつくかもしれない。
霖之助はため息をつき、本を閉じて言った。
「二人とも、今すぐ出ていけ。そして二度とここに来るな」
しん、と。音のない爆弾が炸裂したかのように。それまでの喧騒が掻き消える。
「……こう、りん?」
「……霖之助さん?」
何が起こったのか理解できない。 霊夢と魔理沙の声には、ありありとその感情が込められていた。
霖之助は二人に返事をせず、ぎしりと椅子をきしませて立ち上がると、母屋へと歩みを向ける。
数瞬置いて背後から何事かわめく声が聞こえたが、大きな音を立てて閉められた扉の音にかき消され、霖之助の耳には届かなかった。
◆◇◆
霖之助は久々に、煙草に火を点けていた。
息を吸うたびにたっぷりと有毒を取り込み、息を吐きだすたびに有害さを含んだ白煙が部屋に満たされ、消える。
水煙草ではない普通の煙草を吸うのは何年ぶりであろうか。
まして普段は禁煙としている母屋で吸うのは、干支二回りは無かったやもしれぬ。
雨音が響く中、霖之助はゆらゆらと煙をくゆらせ、呆と虚空を見つめる。
「――さきほどは、お見事」
その白煙の向こうから、女の声が響く。
めりめりと音を立てて中空に"切れ目"が入り、押し広げられた異空間の向こう側から覗く無数の眼。
異なる次元から、横眼でこちらを見る長い金髪の女。
扇で口元を隠しているものの、くすくすと気味の悪い笑みを浮かべていることは隠しきれていない。
八雲紫。
境界の狭間に生きる大妖怪。
「……何の用だい」
霖之助は苛立ちのままに吐き捨ててる。じゅう、と灰皿にたばこを押し付けた。
「いえいえ、霊夢と魔理沙を黙らせた手腕を褒めただけですわ」
普段と異なる霖之助の様子がますますおかしいのか、紫は笑みを浮かべ続ける。
「見ていたのなら、君が言ってくれればよかったじゃないか」
「私が言っても余計に逆上させるだけよ。こういうのは――」
男親が言わないと効かないの。
紫はそう続けた。
親。霖之助からすれば、忌み嫌うべき言葉。半人半妖という自分を、人間からも妖怪からも忌避されてきた存在を生み出した、忌むべきもの。
そして、何より――
「僕は彼女たちの父じゃない」
そうだ。霖之助は二人の父などではない。そう霖之助は自身を戒めている。
魔理沙の父は今も健在だ。霊夢の父は知らぬものの、"いた"ことは確かであろう。その彼らを差し置いて、自らが父と思うなど――
「彼らへの冒涜だ、と言いたいのかしら」
「……」
心中を見抜かれ、霖之助は黙り込む。
その姿を見て、紫は気味の悪い薄笑みを消し、優し気なまなざしを湛えて微笑んだ。
「言葉の綾よ、琴線に触れてしまったのなら謝るわ。ただ、霊夢と魔理沙はそれに近い感情をあなたに対して抱いていることは覚えておいて」
「――」
霖之助は答えず目をそらし、二本目の煙草に火を点ける。
「……そうだとしても、もう遅いよ。二度と来るなとまで、僕は言ってしまった」
言葉は弾丸だ。放たれた後は、外れるか傷つけるかしかない。口に戻ってくることは二度とない。
あそこまで拒絶してしまった以上、二人が帰っては来るはずがない。もう、二度と。
一時の感情で、すべてを粉々にしてしまった。
それを考えるたび、霖之助の胸中に身を裂くような悔いが吹きあがる。
幾年ぶりの煙草に火を点けたのはそれが理由であった。
後悔と絶望を湛えた目で、霖之助は再び紫に視線を戻――
ぽかん、と今までとは全く異なる表情を浮かべた紫がそこにいた。
分かりやすく書こう。「え、何言ってんの」という言葉がぴったりであった。
「……あなた、ねぇ……」
紫の表情はぐにゃぐにゃとねじ曲がり、感情をどう表現すればいいのか悩んでいる様子であった。
幾度かの変遷の末、最後には若干の呆れを示す表情に落ち着いた。
「なんだい、何が言いたいんだ」
霖之助は紫の真意が読み取れず問いかける。
紫はその問には答えず、頭を抑えた。
「……明日になればわかるわ。今日は暖かくしてもう寝なさい」
紫はそれこそ"親"のような言葉を残し、異空間を閉じて、その場から消える。
結局最後に残ったのは霖之助と白煙だけであった。
◆◇◆
いくらかの人の気配と、トトトトという軽い足音に霖之助は目を覚ます。
昨日の雨はすっかり止んだようで、窓からは朝の陽ざしが差し込んできていた。
もぞもぞと2枚の掛け布団を押しのけながら霖之助は布団から身を起こし、少しずつ意識を覚醒させる。
……いやまて。人の、足音?
寝間着のままに慌てて立ち上がり、店へと向かう。盗人か何かにでも入られていたのではたまらない。
霖之助は廊下を早足で駆け抜け、母屋と店をつなぐ扉を開いた。
「おはよう、霖之助さん」
「おっす、起きたか香霖」
そこには霊夢と魔理沙。そして、"整理整頓された"店があった。
霊夢は頭に三角巾を付け、パタパタとはたきを棚にかけている。一方の魔理沙も同じく三角巾を付けており、机の上を雑巾掛けしていた。
霖之助は呆気にとられ、何も言うことができない。
「何も捨てたりはしてないから、そこらへんは大丈夫だぜ」
「ゴミみたいなものはそこに集めておいたから、もし捨てるものがあるなら見ておいて」
「……あ、あぁ……」
霊夢と魔理沙の言葉に、霖之助は気のない返事をするのが精いっぱい。
……いったい何が起きたというのか。昨日、あれだけ拒絶してしまったというのに。
霖之助は一旦母屋に戻る。人の気配はもう一つあったからだ。
その源は台所。薄い引き戸の向こうからは味噌汁と白飯の香りが漂ってきている。
ぎぎりと音を立てて、霖之助は戸を開いた。
「あら、起きたのね。もうすぐ朝ご飯できるから」
割烹着を来た八雲紫という、非常に珍しいものがそこにあった。
「……君が二人に何か言ったのかい」
「二人には何も言っていないわ。あの子たちは自分から掃除しに来たのよ」
「じゃあ、どうやって中に」
「昨日、鍵閉め忘れてたでしょう? ああ、空き巣とかは入ってないわ」
「そもそも、なんで掃除を」
「喧嘩のあとはね、どうも掃除したくなるものなのよ。誰に言われなくても」
霖之助の問いかけにさらさらと紫は答えていく。
……霖之助はがりがりと頭を掻いた。
「……紫、これはいったいどういうことなんだ。なぜ魔理沙たちは、またここに」
霖之助には分からない。なぜ拒絶し壊れてしまったものが、またここにあるのか。
物は直せる。傷は治せる。でも、関係は――
「出ていけ、二度と帰ってくるな―――そんな言葉はねぇ、どんな"家"にも一度くらいはあるものなのよ」
紫は鍋から味噌汁をよそいながら言う。
「その程度で、"家族"というものは壊れたりはしないわ」
あんまり頻発するのはよくないけれど、と小さく付け加えた。
……霖之助は、小さく息をついた。
「そういうものなのかな」
「そういうものよ。――さ、朝ご飯できたし、霊夢と魔理沙、呼んできて頂戴」
紫はにっこりと、"母親"の笑みを浮かべた。
(了)
もとより陰気な香霖堂の店内は、湿気と薄暗さによって、より一層ぬかるんだような空気に満たされている。
ただそのぬかるんだ空気は、泥の柔らかさではなく、針の鋭さを持った険悪さを含んでいた。
あるもう一つの要因によって。
「――!! ―――!」
「……!! …ッ!!」
霊夢と魔理沙が口喧嘩をしていた。
いつもの軽口のたたき合いではなく、相手を深く傷つけようとする悪意きわまるもの。
店主の霖之助はそんな空気の中でも、ただ黙って読書を続けていた。
喧嘩の発端はもう誰も覚えていない。ただくだらない理由であったことだけは確かだ。
今日の天気が雨だったことも理由のひとつかもしれぬ。いつもであれば弾幕ごっこでケリをつけていただろうから。
霊夢と魔理沙の口喧嘩は、ねちねちと一刻近く続いていた。
にも関わらず、状況はいつ終わるともわからない。
「霖之助さん!! 魔理沙に何とか言ってよ!」
「そうだぜ、香霖! この分からず屋にがつんとな!」
唐突に二人から霖之助は話を振られた。ちらりと霖之助は二人を一瞥する。
なるほど、どちらかの言い分を霖之助を肯定すれば、その時点で状況は二対一だ。この喧嘩も一定の決着がつくかもしれない。
霖之助はため息をつき、本を閉じて言った。
「二人とも、今すぐ出ていけ。そして二度とここに来るな」
しん、と。音のない爆弾が炸裂したかのように。それまでの喧騒が掻き消える。
「……こう、りん?」
「……霖之助さん?」
何が起こったのか理解できない。 霊夢と魔理沙の声には、ありありとその感情が込められていた。
霖之助は二人に返事をせず、ぎしりと椅子をきしませて立ち上がると、母屋へと歩みを向ける。
数瞬置いて背後から何事かわめく声が聞こえたが、大きな音を立てて閉められた扉の音にかき消され、霖之助の耳には届かなかった。
◆◇◆
霖之助は久々に、煙草に火を点けていた。
息を吸うたびにたっぷりと有毒を取り込み、息を吐きだすたびに有害さを含んだ白煙が部屋に満たされ、消える。
水煙草ではない普通の煙草を吸うのは何年ぶりであろうか。
まして普段は禁煙としている母屋で吸うのは、干支二回りは無かったやもしれぬ。
雨音が響く中、霖之助はゆらゆらと煙をくゆらせ、呆と虚空を見つめる。
「――さきほどは、お見事」
その白煙の向こうから、女の声が響く。
めりめりと音を立てて中空に"切れ目"が入り、押し広げられた異空間の向こう側から覗く無数の眼。
異なる次元から、横眼でこちらを見る長い金髪の女。
扇で口元を隠しているものの、くすくすと気味の悪い笑みを浮かべていることは隠しきれていない。
八雲紫。
境界の狭間に生きる大妖怪。
「……何の用だい」
霖之助は苛立ちのままに吐き捨ててる。じゅう、と灰皿にたばこを押し付けた。
「いえいえ、霊夢と魔理沙を黙らせた手腕を褒めただけですわ」
普段と異なる霖之助の様子がますますおかしいのか、紫は笑みを浮かべ続ける。
「見ていたのなら、君が言ってくれればよかったじゃないか」
「私が言っても余計に逆上させるだけよ。こういうのは――」
男親が言わないと効かないの。
紫はそう続けた。
親。霖之助からすれば、忌み嫌うべき言葉。半人半妖という自分を、人間からも妖怪からも忌避されてきた存在を生み出した、忌むべきもの。
そして、何より――
「僕は彼女たちの父じゃない」
そうだ。霖之助は二人の父などではない。そう霖之助は自身を戒めている。
魔理沙の父は今も健在だ。霊夢の父は知らぬものの、"いた"ことは確かであろう。その彼らを差し置いて、自らが父と思うなど――
「彼らへの冒涜だ、と言いたいのかしら」
「……」
心中を見抜かれ、霖之助は黙り込む。
その姿を見て、紫は気味の悪い薄笑みを消し、優し気なまなざしを湛えて微笑んだ。
「言葉の綾よ、琴線に触れてしまったのなら謝るわ。ただ、霊夢と魔理沙はそれに近い感情をあなたに対して抱いていることは覚えておいて」
「――」
霖之助は答えず目をそらし、二本目の煙草に火を点ける。
「……そうだとしても、もう遅いよ。二度と来るなとまで、僕は言ってしまった」
言葉は弾丸だ。放たれた後は、外れるか傷つけるかしかない。口に戻ってくることは二度とない。
あそこまで拒絶してしまった以上、二人が帰っては来るはずがない。もう、二度と。
一時の感情で、すべてを粉々にしてしまった。
それを考えるたび、霖之助の胸中に身を裂くような悔いが吹きあがる。
幾年ぶりの煙草に火を点けたのはそれが理由であった。
後悔と絶望を湛えた目で、霖之助は再び紫に視線を戻――
ぽかん、と今までとは全く異なる表情を浮かべた紫がそこにいた。
分かりやすく書こう。「え、何言ってんの」という言葉がぴったりであった。
「……あなた、ねぇ……」
紫の表情はぐにゃぐにゃとねじ曲がり、感情をどう表現すればいいのか悩んでいる様子であった。
幾度かの変遷の末、最後には若干の呆れを示す表情に落ち着いた。
「なんだい、何が言いたいんだ」
霖之助は紫の真意が読み取れず問いかける。
紫はその問には答えず、頭を抑えた。
「……明日になればわかるわ。今日は暖かくしてもう寝なさい」
紫はそれこそ"親"のような言葉を残し、異空間を閉じて、その場から消える。
結局最後に残ったのは霖之助と白煙だけであった。
◆◇◆
いくらかの人の気配と、トトトトという軽い足音に霖之助は目を覚ます。
昨日の雨はすっかり止んだようで、窓からは朝の陽ざしが差し込んできていた。
もぞもぞと2枚の掛け布団を押しのけながら霖之助は布団から身を起こし、少しずつ意識を覚醒させる。
……いやまて。人の、足音?
寝間着のままに慌てて立ち上がり、店へと向かう。盗人か何かにでも入られていたのではたまらない。
霖之助は廊下を早足で駆け抜け、母屋と店をつなぐ扉を開いた。
「おはよう、霖之助さん」
「おっす、起きたか香霖」
そこには霊夢と魔理沙。そして、"整理整頓された"店があった。
霊夢は頭に三角巾を付け、パタパタとはたきを棚にかけている。一方の魔理沙も同じく三角巾を付けており、机の上を雑巾掛けしていた。
霖之助は呆気にとられ、何も言うことができない。
「何も捨てたりはしてないから、そこらへんは大丈夫だぜ」
「ゴミみたいなものはそこに集めておいたから、もし捨てるものがあるなら見ておいて」
「……あ、あぁ……」
霊夢と魔理沙の言葉に、霖之助は気のない返事をするのが精いっぱい。
……いったい何が起きたというのか。昨日、あれだけ拒絶してしまったというのに。
霖之助は一旦母屋に戻る。人の気配はもう一つあったからだ。
その源は台所。薄い引き戸の向こうからは味噌汁と白飯の香りが漂ってきている。
ぎぎりと音を立てて、霖之助は戸を開いた。
「あら、起きたのね。もうすぐ朝ご飯できるから」
割烹着を来た八雲紫という、非常に珍しいものがそこにあった。
「……君が二人に何か言ったのかい」
「二人には何も言っていないわ。あの子たちは自分から掃除しに来たのよ」
「じゃあ、どうやって中に」
「昨日、鍵閉め忘れてたでしょう? ああ、空き巣とかは入ってないわ」
「そもそも、なんで掃除を」
「喧嘩のあとはね、どうも掃除したくなるものなのよ。誰に言われなくても」
霖之助の問いかけにさらさらと紫は答えていく。
……霖之助はがりがりと頭を掻いた。
「……紫、これはいったいどういうことなんだ。なぜ魔理沙たちは、またここに」
霖之助には分からない。なぜ拒絶し壊れてしまったものが、またここにあるのか。
物は直せる。傷は治せる。でも、関係は――
「出ていけ、二度と帰ってくるな―――そんな言葉はねぇ、どんな"家"にも一度くらいはあるものなのよ」
紫は鍋から味噌汁をよそいながら言う。
「その程度で、"家族"というものは壊れたりはしないわ」
あんまり頻発するのはよくないけれど、と小さく付け加えた。
……霖之助は、小さく息をついた。
「そういうものなのかな」
「そういうものよ。――さ、朝ご飯できたし、霊夢と魔理沙、呼んできて頂戴」
紫はにっこりと、"母親"の笑みを浮かべた。
(了)
これからも頑張って(^_^)
子供な二人は可愛らしいです
面白かったです!