午後の暖かな風が大地を、木々を優しく撫でる。桜の花はみな散って久しく、もうしばらくすれば、雨の季節が訪れるだろう。
「平和ねー。……あふ」
ぽつりと呟いて、紅美鈴はあくびをひとつ。
彼女がその背に負うは、紅の館。“紅魔館”と呼ばれる大きな館の門番でありながら、しかし美鈴は実に緊張感のない様子だった。
さもありなん。美鈴は“気を扱う程度の能力”を持つ妖怪なのだ。生きとし生けるもの全てが持つ“気”という、生命力そのものとでも言うべきもの。彼女はそれを感じ取り、力とすることができる。たとえ眠っていたとしても、彼女に気付かれずに館へ入ろうというのならば、よほどの隠密能力の持ち主でなければ不可能だろう。
ゆえに、美鈴は自身に接近する気配にも、すでに気が付いていた。
門扉のすぐ横、館を囲む煉瓦造りの塀に背を預けた美鈴の背後。すなわち、館のほうからだ。
侵入者? 否、その正体は分かっている。何故なら気配は館より現れ、そしてこちらに向かってきていたのだから。
息は殺せている。足音も立てていない。普通の人間ならば、“彼女”の接近を察知することは困難だったろう。
「……」
素知らぬ顔でいると、気配は塀を挟んですぐ向こう側。美鈴の真後ろで足を止めたようである。
と、気配はやや後退。そして、一歩、二歩、三歩……、
ザッ!
地を蹴る音。跳躍した気配は塀に手を掛け軌道を変えて、真下の美鈴に向かって急降下!
「!?」
しかし、そこに美鈴の姿はなく。気配の襲撃は姿勢を崩しながら地面に降り立つのみに終わった。
「はい、お疲れさま」
「ぐ……」
「これ飛び越えられるようになったの。すごいね、咲夜ちゃん」
相手の跳躍と同時に少しだけ移動していた美鈴は、真横に着地した気配――少女の頭にぽんと手をのせて笑う。
「……ふん」
咲夜と呼ばれた少女は、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら手にしたナイフをしまった。
灰青の瞳に銀の髪。妖精用のメイド服をすっぽりと着込んだその少女は、少し前に館の主人が拾ってきた人間の子どもである。
しかし、人間と侮ることなかれ。その身体能力は、すでに同年代のそれを大きく上回っているし、メイドとしての仕事ぶりは妖精なぞよりずっと優秀である。
「今の時間は、パチュリー様のところでお勉強じゃなかったっけ?」
とは言え、子どもには違いない。教養は必要であるとして、勉学は受けさせているのだが……。
「今日のぶんはおわっているわ。だからもう“おふ”なの」
「……あ、そう」
館の中でバタバタと慌ただしげに動き回るいくつかの気配を感じながら、美鈴は胡乱な目で見つめる。
――本当かしら?
「それで、わざわざそのオフの時間を使って私に襲い掛かってきたってわけ?」
「ええ」
いけしゃあしゃあと肯定してくる。
身体の動かし方は美鈴が教えているのだが、誰の入れ知恵なのか“弟子は師を打ち倒して真の強さを手に入れるもの”と思い込んでいるらしく、時々こうやって襲撃をかけてくるのだ。
無論、正面切ってでは勝ち目がないことは咲夜も理解しているので、最初の奇襲が失敗に終わればこうして大人しくなるのだが。
「ねえ、めいりん」
「なに?」
美鈴の真似をしているのか、隣で腕を組んで塀に背を預けていた咲夜が、ふと尋ねてきた。
「めいりんは気をあつかうことができるのよね?」
「そうよ」
「それじゃあ、電気とかもあやつれるの?」
「電気。」
確かに“気”だけど。
「う、うーん……」
「できない?」
「い、いやっ、できないことも、ない、かな……?」
と言うか、そもそも自身の力で電気を操ろうと思ったことがないのだが。
しかし、思わず「できないこともない」などと言ってしまったため、咲夜は期待のこもった眼差しを美鈴に向けている。これは、無碍にできない。
「……よし」
悩んだ末に、美鈴は安全策を取ることにした。
「取り出しましたるはー」
そう言いながら、美鈴は半透明の板を咲夜の前に出した。
プラスチック、というやつである。
「ねえめいりん。それいまどこから」
「どこからともなくよ」
続いて、その板を脇に挟む。
そして、
「うおおおお!!」
板を持った手を全力で前後に動かし、脇で擦っていく。
「め、めいりん……?」
「いま集中してるから!」
妖怪の、全力の擦り上げである。次第に板からパチパチと何かの爆ぜる音が聞こえてくる。頃合いだろう。
美鈴は手を止め、手にした板を自分の頭の上にかざした。
するとどうだろう。板に引き寄せられるように美鈴の髪の毛が浮かび上がったではないか。
「はいっ、静電気ー」
「…………」
思っていたよりも反応が良くない。
「……はいっ」
「…………」
板を咲夜の頭の上に持っていき、今度は咲夜の髪の毛を逆立たせてみる。
咲夜の表情は、ひたすらに真顔だった。精神に依って存在する妖怪である美鈴の命を削っていく。
「……めいりん」
「はい」
「あなた、じつは大したことないようかいなんじゃ」
「そそ、そんなことないわよ! 電気は、まあ、ちょっと扱いが難しいからね! あんまり使わないし、しょうがなかったのよ、うん!」
「ふーん」
視線が痛い。
「まあいいわ。次は、」
「えっ、まだやるの……?」
「えっ、あんないっぱつげいみまんのネタだけでおわっていいの?」
「やらせてください!」
美鈴は泣きたくなった。なぜだか咲夜は鷹揚に頷き、尊大に告げる。
「よろしい。次のおだいは“色気”よ」
「色気。」
「わたし気がついたの。おじょうさまやいもうとさまは子どもだし、パチュリーさまもせくしーにはほどとおいし、このおやかたにはお色気たんとうがいないのよ」
この娘はいきなり何を言い出すんだろう。
「どこでそんな言葉を覚えてきたの。あとパチュリー様には後で謝っておきなさい」
「だから、めいりんの力でこうまかんにお色気を。うるおいを!」
「え、えぇー……」
参った。“色気”など、気や電気以上に概念的でふわっとしたものを、どう扱えというのだ。そもそも、それを色っぽいと感じるかどうかは受け手の好みになってしまうではないか。いくら美鈴が頑張ったところで、万人に「色っぽい」と思わせることは不可能だろう。
――て言うか、色気なんて気にしたこともないし……。
正直、電気よりも難しい気がする。やりたくない。
――でも「やらせてください」って言っちゃったしなあ……。
今さら「やっぱやめます」では筋が通らないだろう。
「さあ、めいりん」
「……よし」
もはや退路はない。当たって砕けろだ。
意を決して美鈴は、自分が思う“色っぽい”を表現した。
両手を上げて、身体の線が見えるようにしてみる。腰をくねらせ、扇情的? な感じを出してみる。半眼になって、唇を少し突き出してみる。
「うっふん」
とか言ってみる。
「……」
「……」
「…………えっと、その……悪かったわ」
「謝られると余計に惨めっ!」
たまらず美鈴はくずおれた。なんと言うかもう、どうしてあんなことをしてしまったのか、後悔と羞恥で心がバキバキだった。
もしかして、自分の能力は“気を扱う”ではなく“気を遣う”程度なのではないだろうか。愛想笑いとか、そのへんが限界なのではないだろうか。いやむしろ“気を遣われる”程度なのでは。こんな小さい娘に気を遣われて、情けないにも程がある。
折れた心を労るように、慌てた様子の咲夜が美鈴の背を撫でた。長い髪が顔を隠してくれて良かったと思う。
「ご、ごめんねめいりん。電気とか色気は、めいりんののうりょくとはちょっとちがったわよね」
「……でも“気”だし」
咲夜の優しさが傷付いた心にしみる。塩のように。
「えっと、えーっと……そうだ、天気! めいりん、天気はあやつれる?」
「……天気くらいなら、まあ」
天候は、大地を流れる気である“龍脈”との関係が深い。多少ではあるが、龍脈に干渉することで天候を変えることも可能だろう。
美鈴は目元を拭ってから立ち上がり、ぐるりと周囲の空を見た。良い天気である。このあたりに雲はなく。穏やかな陽光が美鈴たちに降り注いでいた。
が、右手の空。山間の向こうに暗雲が見える。雨雲だろう。都合がいい。
美鈴はしゃがみ込み、地に手を付けた。無数の龍脈から、山のほうへとのびているものを探る。
「……」
あった。幸いにも、気の流れはこちら向きだ。
探り当てた龍脈に手を伸ばし、触れる。緩やかな気の流れ。それに、少しだけ力を加える。
ゆっくりと息を吐きながら、美鈴は自身の気と龍脈を繋いで、引っ張った。穏やかだった気の流れが、少しだけ早まる。これで、雨雲はこちらの龍脈に乗って館のほうへ流れてくるだろう。
「……これで、よし」
「なにをしたの?」
「んー、ちょっとね」
と、
「咲夜ぁ!」
「げ」
怒声は、館のほうから響いてきた。見れば、バァンと玄関を開け放ち、小柄な少女が日傘もささずに大股でこちらへで歩いてくる。
この館の主、吸血鬼のレミリア・スカーレットである。
「お嬢様、日傘をお使いになられなくては、日光が……」
「いい。少しなら大丈夫だ。それより咲夜よ。あんたのとこに来てない? 来てるわよね?」
門を開いて出迎えたところで、レミリアは問うた。その顔には、怒りとも疲れとも言えない表情を浮かべている。
「ええ、咲夜ちゃんならここに、っていないし!」
さっきまで美鈴の隣で偉そうに突っ立っていたはずの咲夜。しかしいまはその影も見当たらない。
「探して」
「あ、はい。……その、何かあったんですか?」
「あのチビ助、勉強の時間をすっぽかしたのよ。それでパチェがおかんむりでね。なぜか私まで探すのを手伝わされているってわけ」
「ははあ、そうだったんですか」
事情を伺いながら、美鈴は辺りの気を探った。逃げ出してまだ間もない。美鈴の索敵範囲内にいるはずだ。
案の定、美鈴はすぐに館の外を動く人間の子どもくらいの気配を感知した。
「あちらのほうへ、塀伝いに移動してますね。どこか適当なところで乗り越えて館の中に戻るつもりではないかと」
「分かった、ご苦労。逃がすか人間め!」
「あっ、ちょっ、お嬢様……」
止める間もなく、レミリアは駆け出して行ってしまった。
「もうすぐ雨が降るので、傘を持っていかれたほうがよろしいかと……」
残された美鈴の呟きを聞くものは、ぐんぐん迫りくる雨雲だけだった。
ほどなくして雨は降り出し、吸血鬼の悲鳴が響き渡った。
◇ ◇ ◇
「隙あり」
「…………」
眼前に突きつけられたナイフを見て、美鈴はゆっくりと両手を上げた。
まさか自分に気付かれることなくここまで接近してくるなんて、とは思わなかった。彼女がそういう能力を持っていることを、美鈴は知っていたからだ。
「それは反則って、いつも言ってるでしょ?」
ナイフを持つ手を押しのけると、そこには見知った銀の髪。
頬を膨らませた咲夜は、ナイフをしまって美鈴の隣で塀に背を預けた。そして不機嫌そうに息を吐く。
「だって、こうでもしないと貴方には勝てないんですもの」
「私は弾幕ごっこのほうがからっきしだからねぇ。それに、咲夜ちゃんは今でも十分強いわよ」
そう言って、咲夜の頭を撫でてやった。
「あっ、もう。子ども扱い……」
「私からすれば、まだまだ子どもよ。今も、これからも、ずっとね」
「……今日は妙に機嫌がいいわね」
「んー、ちょっと昔のことを思い出してね」
「昔のこと、ねえ」
頭を押さえられて上目遣いの咲夜を見て、美鈴は笑みを浮かべた。
ぼんやりと思い出していたあの頃と比べて、大きくなったものである。主人に迷惑をかけまくっていた人間の小娘も、今では多くの妖精たちを束ねる立派なメイド長に成長していた。ひとりでお使いにも行けるし、異変の解決もできる。咲夜は、美鈴にできないことをいくつもやってのけていた。
美鈴は、咲夜の成長が楽しみで仕方がなかった。
と、ようやく美鈴の手を押しのけた咲夜は、不敵な笑みを浮かべて美鈴に向き直った。背伸びをしているが、それでもまだ美鈴が少し見下ろす形だ。
「ねえ、美鈴」
「なーに?」
「貴方、色気は操れて?」
「それはもう勘弁して!!」
今度は、咲夜が見下ろす番だった。
完
その上成長した咲夜さんに対して美鈴は勝ち目あるのでしょうか。頑張ってほしいものです。
………いやいやいや、美鈴凄いでしょ!?w