清蘭は、月との通信を担当していた鈴瑚が突如行方をくらましたことにより月との連絡手段を失い、否応無しに兼ねてからの望みである自由の身となった。
ただ自由の身といっても、地上は特にやることもなく暇だし、腹は減るし、どこにでも虫がいて気持ち悪いし、腹が減る。まさに穢れと空腹の地獄で、すぐに清蘭は清浄な月の大地が恋しくなった。
しかし、帰るための具体的な方法も考えつかず、帰り方を知っていそうな博麗の巫女には、一度侵略を仕掛けた身としてはどうにも頼り辛い。
さりとて地上でやることも浮かばす、地上の穢れた大地を歩きまわる気も起きないので、昼はそこらを飛び回り、夜は羽虫がごとく月に向かって飛び回っているというわけだった。もちろん東から西へいくら追いかけたって月にたどり着くわけがない。せめてもの慰みだ。
そんなことをして日々を過ごしているうちにもうすぐ夏だ。日差しがきつくなってきたし、日に日に湿度が上がっていく。
清蘭は、今日も宛もなくさまよって一日が終わっていくのだなあとぼんやりと考えていたが、そこに突如、思わぬ光明が差す。
清蘭は針路上に見知った影を見つけた。それはすべての元凶である遷都計画の指揮官、稀神サグメその人であった。どういうわけか、地上に来ているらしい。
千載一遇のチャンスを得た清蘭は全速力でサグメに向かって飛んでいった。
「サグメさまーー!」
清蘭が大声で呼びかけると、距離は遠いものの、幸運なことにサグメは清蘭を認識したようでその場で停止した。ただ、なぜかサグメは向かって左を向いたままで体を清蘭の方向に向けることはなかったが。
そんなことを気にしていられる余裕もない清蘭はサグメのところまでたどり着くと、サグメの正面に回りこみ早口でまくし立てた。
「サグメ様、わたし月に帰りたいんです……ってなにしてんですか」
清蘭が驚くのは無理もない。サグメは清蘭に視線一つ寄こすことなく、虚空を見つめて口に咥えた巻き寿司をひたすら咀嚼していた。巻き寿司の先端からは白身魚の切り身がはみ出している。頬を膨らませてもぐもぐと口を動かすそのさまは団子を食べ続ける鈴瑚を思い出させた。
「……えっと、あの」
清蘭は、とりあえず月に帰れないという事情を説明しようとしたが、サグメは空いた片腕を胸の前で左右に振った。どうやら今は待てということらしい。
仕方がないので清蘭はサグメがその小さい口で巻き寿司を食べ終えるのを待った。鈴瑚の豪快な食事を見慣れた清蘭にはずいぶんと長い食事に感じる。
やがてサグメが最後の一切れを飲み込んだ。
「さて食べ終わりましたね。お願いですサグメさま!私を月に――」
清蘭は今度こそ嘆願しようとしたが、またもサグメの腕がぶんぶんと振られ遮られる。
サグメは腰のポーチから二本目の巻き寿司を取り出した。ポーチの中には三本目も四本目も五本目も、無数の巻き寿司が見えた。
「ってあんた何本食べるつもりですか!」
「あっ」
思わず清蘭はサグメの手を払って巻き寿司をはたき落とした。巻き寿司は中身を散らしながら眼下の森に消えてゆく。
サグメはそこで初めて、清蘭に言葉を発した。
「邪魔しないで……恵方巻きを食べている間は話しかけてはいけない。そういうルールのはずよ」
(食べてるの、恵方巻きだったんだ……えっ、なんで今さら恵方巻き……?)
当然の疑問である。だって節分は旧暦であってもとっくに終わっているし、たとえ今日が何らかの節分であったとしても外で恵方巻きを食べながら飛行するというのは若干意味不明だ。ちなみに今は六月であるが、六月というのは二月の四ヶ月先である。
「まったく、兎というのは地上の風習に対して勉強が足りないわね。この巻き寿司は恵方巻きと言って、これを食べることは誰にも邪魔できない神聖な儀式なのよ。ほら、清蘭も恵方巻きを食べましょう。南南東はあっちよ。大丈夫、恵方巻きを妨害した罪も今なら帳消しにできるわ。恵方巻きの神は迷えるものに寛大よ」
「いや、わけわかんないですから!いま節分じゃないし、恵方巻きに神はいませんから!そもそも節分っていつですか!もう三分の一年まえですよ!」
「三分の一年まえって、わかりにくい表現するのね。八意様ですか貴方は」
「その例えのほうが分かりにくいと思うんですけど」
「八意XX様は賢者ゆえ常人にはわかりにくい物言いをすることと、下の名前が卑猥すぎて誰にも口に出せないということで都では有名なのよ」
「XX様の衝撃の真実はさておき、月人の方々はカマトトぶりすぎじゃないですか?あんたら数千年生きてるくせに隠語程度でなに躊躇ってるんですか?」
「あらやだ。兎の性欲は強いってほんとなのね」
「今の話に兎の性欲は関係なくないですか!?」
「あーあーこれだから兎は……」
サグメは口元の米粒をナフキンで拭いながら軽蔑するような視線を向ける。
清蘭は無性に上官を撲殺したくなったが、杵は置いてきてしまったし、頼みごとをしたい身分なのでこらえた。
「ぐっ……だいたいなんで恵方巻きなんてものを今食べてるんですか。もう六月ですよ」
「それには浅からぬ訳があるわ」
サグメはことの始まりについて淡々と語った。
「知ってると思うけど、私は能力のこともあるからあんまり人と話したくないのよ。それなのに月人と違って道行く地上人はたくさん話しかけてくるし、うっかり適当なことを喋って後で責任問題になっても困るし、面倒だったわ。でも節分の日に偶然地上の恵方巻きを食べる機会があって気付いたの。恵方を向けばそこには月よりも深い静寂があると……つまるところ、永遠に恵方巻きを食べ続けてていれば一生話さなくてもいいのよ……ところでここはどこかしら、何ヶ月も南南東を向いたままだったからよくわからない場所に来ちゃったわ」
「……もしかして節分からずっと恵方巻き食べてるんですか」
「ええ」
「ひどい……」
清蘭は辛かった。これに頼みごとをしなければならない月兎に生まれたことが。いけない、気を取り直そう。
「はあ、まあそんなことはいいんです。それより聞いてくださいよ!」
「そんなことではない!」
「うわ、なんかキレた!」
「うわとはなによ、だいたい、仮にも私は上司だというのに貴方はさっきから非常に失礼じゃない?あまり邪険にすると、泣くわよ?私は夜泣きが激しかったことに定評があったのよ?」
「上司ならもっといろいろ脅迫の材料はあると思うんだけどなあ」
いや、使われても困るのだけれども。
「それで、なんの用。『そんなこと』よりも重要な話なのでしょうね」
ようやく話せる空気になったので、清蘭は本来の目的を話すことにした。これが終わったら部署変えてもらおう。
「そうです!大変だったんですよ!鈴瑚がどっか行っちゃったせいで月に帰れないんですよ!」
「それは大変ね」
「だから月に連れて行ってください」
「いま忙しいから無理」
「今日まで恵方巻きを食べ続けていたひとが忙しいわけありますか!」
「恵方巻きで忙しいのよ。さあ行った行った」
取り付く島もない様子であった。
「ご無体な……そんなわけ分かんない理由で断られるなんて……」
「そもそも私だってどうしたらいいかわからないわ。あなたは気付いていないようだけど、境界に向かってひたすら進んでいたせいでいつの間にか博麗大結界の隙間に落ちてしまったようだし」
「ええっ!?それって帰れないってことですか!?」
「別にあと一年くらいは帰らなくてもいいじゃない。恵方巻きならたくさんあるわよ」
「よくないですよ!どんだけものぐさなんですか!」
しかし清蘭はふと思いつく。どれだけ面倒でも、最小限の手間で済む解決法があるのだ。サグメにはその手段がある。
「じゃああれやってくださいよ、逆転させる奴。なんやかんや帰れる運命とかにできないんですか」
「いまちょっと顎が筋肉痛だから厳しい」
「恵方巻き食い過ぎですよ」
「胃腸も限界」
「というか喋るだけだし筋肉痛でも胃が痛くても関係ないですよね!?あとあなたさっきからペラペラ喋りまくってますよね!?」
どうやらサグメのやる気はゼロどころがマイナスのようだった。投げやりな面持ちで口を開く。
「うるさいなあ、だいたい『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』なんて便利なものほんとにあると思ったの?私は特に能力もないしなるべく誰とも話したくなかったから出来事が起こるたび適当にこじつけて能力が発動したっぽく振る舞ってたのに、周りは勝手にどんどん誤解するし、知らない間にめちゃくちゃ強いことになってたし、そのせいで偉い役職押し付けられて仕事増えるし、月の危機に一人で立ち向かわされるし、今度は話せなすぎてつらいし、気分転換に偵察の体で地上に来たら遭難するし、清蘭に会うし、最悪よ。だから無理。」
「すさまじい爆弾発言が飛び出た!」
まさかのちゃぶ台返しである。
サグメは話しているうちにその気になったのか、だんだん語調を荒げていく。
「大体なにが遷都計画よ!もう散々だわ!私の言葉なんかで世界が変わるわけないじゃない!こうなったら今まで言えなかったこと全部言ってやる!諸事万端言ってやる!」
サグメは目を見開き、世界に宣言した。
「八雲紫の趣味は土下座!八意XXはXX!ドレミーは私にぞっこん!清蘭は裸族!今日世界は破滅する!」
「私に変な属性つけないでください!あとドレサグぶっこむのやめろ!」
このとき、サグメは重大な事実を見落としていた。
世界を変えるほどの能力なんて元々無かったサグメであったが、月人たちの間で数千年以上力があると信じられてきたことにより、サグメの言葉には本当に『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』の強大な力が宿っていたのであった。
そして、言葉を中心に世界は逆回転を始めた。
*
境界の狭間、八雲亭。
今日も紫は、己が右腕である式神に滔々と説教をしていた。
先の月遷都騒動での藍の対応に不満があったのである。
「まったく、お前は一から十まで言わないとわからないのね」
「すみません……」
ひざまずいた藍の尻尾がしなしなとなく垂れる。
紫は、傘を弄びながら藍のお仕置きメニューについて考えていた。
順当に行けば百叩きだけど最近面倒くさくなってきたなあとか、いやらしいのもいいなあとか、最近出番なかったけど魔理沙EDで出れてよかったなあとか。
「どんなお仕置きにしてやろうかしら。ねえ藍、何がいいと……っハ!」
「紫様?」
藍は不自然に途切れた主の声に思わず顔を上げた。
すると、主が盛大に反り返っていた。無理な体制をとっているせいか、手足がガクガクと笑っている。立ち姿勢からの急激なブリッジは強大な妖怪といえども辛いのだ。
つまり、世界の改変により八雲紫は急に土下座をしたくなったが、鋼の精神力でそれを耐え、とっさに前と後ろの境界を操作することにより土下座をブリッジへと変換したのであった。世界を作り変える力にも耐える恐ろしき精神力の賜物である。
「紫様がご乱心だ!!」
八雲藍は大妖怪のブリッジが醸し出す迫力に頭を抱えて震えることしかできなかった。
*
ここは永遠亭。
現在、館の住人たちは連続輝夜殺人事件の解決に追われていた。
毎日夜に寝た輝夜が朝になると死んでいるのである。
おおかた、竹林の焼き鳥屋のしわざであろうことは全員気づいていたが、今回は推理モノの形式で進んでいた。このところバトルは食傷気味だったのだ。
今は館の住民が集められ、クライマックスの、探偵兼薬師の八意氏による解説パートが始まったところだった。
「輝夜、ウドンゲ、わかったわ。この事件の真相が」
「どういうことですか師匠!」
「つまり……輝夜、XX」
「は?」
「なんか今XXしたいわ」
「まあ、情熱的」
そして二人はおっ始めた。兎達は仲良く見学した。
*
そのころ夢の回廊
ドレミーは、幻想郷でこの時間に唯一夢を見ている存在であるところの紅魔館前の門番の夢をのぞき見ていた。すると、唐突に頭のなかにある友人の姿が浮かんできたのであった。
ほわほわとした擬音とともに、彼女のどこか寂しげな笑顔や、照れ笑いが浮かぶ。
そして、彼女の様々な顔を回想しているうちに、奇妙な気持ちが沸き起こるのを感じた。
そう、この気持は――――憎悪。
「なんか急にサグメが嫌いになってきた」
なんということだろう。ここは元よりドレサグ世界だったのだ。哀しいすれ違いである。
*
青空の下、清蘭の服は炸裂した。
生まれたままの姿は、不思議なほどに心地よかった。
*
世界は滅んだ。
そしてまた新たな世界が生まれた。
新たなる世界は、平和で、より良い世界だった。
サグメはきちんと能力を持っていたし、永琳はマトモな天才だったし、名前が卑猥じゃなかった。
あと諸々の設定の矛盾は解決されていたし、鈴仙は由緒正しき脱走兵だった。ボウゲッシャーも笑顔で暮らす、そんな優しい日々があったという。
めでたし。めでたし。
割と困ったちゃんとはサグメ様のことですかね
面白かったです。
口論で熱くなってんのに、急に我に返るみたいなツッコミ好きです
某人気シリーズでも急に落ち着いた感じで「○○で○○する人とか初めて見たよ」
と妙に冷静に論理的なツッコミを、相手の目の前で入れるのがツボなので、このツッコミも同じ理由で笑えました
正にこの一言がこの物語を最も端的に表している言葉ではないだろうか。
じゃねぇよ(笑)