留まることなく落ち続ける滝は、滝壺を白く泡立たせながら、どどどどどと音を立てている。
その滝の裏、崖に穿たれた空洞の中で、二人の少女が向かい合っていた。
二人の間に据えられているのは、駒を並べた将棋盤。
一手ごとに表情を微かに変えながら、時に思案し、時に相手の表情を覗き込む二人は、河童と天狗。
哨戒兵の白狼天狗・犬走椛と、河童の河城にとり――この「九天の滝」周辺を主な行動範囲とする妖怪であった。
「しっかしねぇ、椛」
「何?」
ぱち、ぱち、という駒を打つ音に混じり、二人の少女の声が響いた。
「あんたさぁ、もうちょい女の子っぽい恰好してみたいとか、思わないわけ?」
その言葉に、椛の細い眉がぴくりと動いた。
「そっちが言う?それ」
にとりの指摘の通り、椛は男性の白狼天狗とあまり変わりない服装をしていることが多い。
同年代の天狗の少女――たとえばミニスカートを着用する者が多い烏天狗などと比較すると、
椛の見た目は、その短い髪も相まってかなり中性的であった。
口に咥えた細めの煙管と、そこから立ち昇る煙は、今の椛にひどく似合っており、
年齢に不相応な「渋み」までもを、少女が纏う雰囲気に加えている。
だが一方のにとりも、髪型こそキャッチーなツインテールにまとめられているものの、その衣服は作業衣も兼ねた簡素なものである。
にとりたち河童のエンジニアが纏う青い衣服は、文字通りのブルーカラー。
女性の衣服の裾は一応スカートの形をしているが、今目の前にいるにとりのように、あちこちをオイルの染みや焦げ跡で汚している者も多い。
加えて暑いこの時期、にとりは上半身の作業服を脱ぎ捨てて腰に巻き、タンクトップ姿で過ごすのが常だ。
露出度こそ多くなるものの、余計にオイルの香りや工具の音が似合う、ラフな絵面がそこに現れるのだった。
「にとりの服に女っ気があるとは思えない」
少なくともわたしを見下せる程にはない、と椛は言った。
「あんたのサムライスタイルよか、よっぽどガーリーじゃないかねえ。町工場女子のにとりたぁ、わたしのこと」
駒を打つ手を止め、にとりは人差し指を口元に当てる。
そのまま小首を傾げ、椛を上目づかいで見つめた。
「オイルの香水、ハンダのカールドライヤー……どう、この女子力。惚れ直した?」
「直す以前に、あんたに惚れた記憶がないな」
にとりの上目づかいから目を逸らしつつ「それと、ここは町じゃない」と付け加えながら、駒を盤の上に置いた。
「そ、その手待った!わたしの女子力に免じて」
「却下」
この日の勝負は、椛の勝利に終わった。
※ ※ ※
にとりと別れ、椛はぼんやりと山道を歩いていた。
時折口元から煙管を離しては、ふうっ、と白い煙を宙へ向けて吹き出す。
哨戒は非番、将棋の戦果は上々、というシチュエーションの絶妙さ程には、椛の心は晴れていない。
『もうちょい女の子っぽい恰好』
というにとりの言葉が、脳裏で何度も反響している。
椛にとって仕事着であるこの服装を、こうして非番でも身に纏っているのは、
単に毎日着る服の組み合わせを考えるのが面倒、という理由によるものだ。
同じ服は何着も持っており、洗濯もまめにしている。
上司や同僚に不快感を与えない程度に清潔感を保ち、かつ自分が行動しやすい服装をできていれば、それでいい。
その考えには今も、変わりはない。
だがそれはそれとして、いざ面と向かって言われればそれが気になる程度には、犬走椛も、若い。
それを口にした相手が――先程は表向き「惚れた記憶はない」と切って捨てたが――内心憎からず想っている、
椛が思いつく限りで最も魅力的な少女であれば、尚更だ。
とはいえ、自分には烏天狗の少女たちのようなミニスカートは似合うまい。
そんなことを思案している内に差しかかったのは、橋の上である。
午後の日差しを照り返す水面には、橋と、その上に立つ椛自身の姿が映っていた。
煙管を咥えた椛の顔は、思った以上に暗鬱な表情をたたえていた。
その顔を改めて見つめてみたところで、女らしさは微塵も感じられず、椛の気持ちはさらに暗く沈む。
さっさと自分の顔から眼を背けようとしたところで、椛は気付いた。
川の表面に映った自分は、今着ているそれとは違う服装に身を包んでいるのであった。
黒地に、舞い散る鮮やかな紅葉をあしらった、いかにも高級品と言わんばかりの、着物であった。
……どういうことだ?
椛はそう思いながら水面を見つめた。
水面の顔は、おそらく今の椛が浮かべているのと全く同じ表情で、自分を見返してきていた。
だが首から下、着ている服装だけが、本来の椛のそれとは違うのである。
妖精か何かの悪戯か、あるいは知らぬ内に疲れを溜め込んでいた自分の心身が見せた幻か。
そんなことを考えていると、不意に、水面に浮かぶ顔が、ふっと視線を逸らした。
無論、当の椛自身はずっと水面に視線を落としたままである。
何かの見間違いかと二、三度瞬いた後、椛の目に映ったのは――全くの見間違えようもなく、首を回して空を見る自分の姿だった。
水鏡に映った黒い着物の椛は、最早疑いようもなく、椛本人とは違う挙動をしているのであった。
それを視界に認めた瞬間、驚いた椛は「あっ」と声を上げ、咥えていた煙管を口元から落としてしまった。
水面の上に煙管が落下していくのに気付き、さらに身を乗り出して手を伸ばした椛は、自分の上半身が不意に傾ぐのを感じた。
次いで足の裏が橋から離れ、視界一杯に水面が迫る。
椛の全身が、橋の上から水面へと飛び出していた。
いつの間にか視線を戻していた黒い着物の椛が、妖しげな顔でにたり、と笑った。
椛が鏡の前で、一度も目にしたことがない表情だった。
そして空中で煙管を掴んだ自身の右手首に何かが巻き付き、下方へ強く引き込もうとする力を、椛は感じた。
椛の身体は、ざぶりと音を立てて川面へ飛び込んだ。
夏の盛りのこの時期、不意に全身に触れた冷たい水の感触は本来心地いいもののはずだが、
水を吸って重くなる衣服と、水底へ自分を引き込もうとする力に抗うことで、椛は必死であった。
どれだけもがこうと、手首に巻き付いた「それ」の力は強く、椛は決して深くはないこの川で、水面から顔を上げることすらできなかった。
かろうじて自由な左手は水を掻くばかりでどこに掴まることもできず、前傾したままの身体では、川底に足を着くこともままならない。
死ぬのか。
あんな沈んだ気分のまま、文字通りに川底へ沈み、
自分は理由もわからぬままに溺れ死ぬのか――そう思うと、ぎゅっと閉じた瞼の裏が少し、熱くなった。
「もみじっ!」
誰かの声が、頭上遠くに聞こえた。
少し遅れ、身体が上方へ引き上げられるのを感じる。
川底へ腕を引く力より、もっと強く、大きな手で胴を掴まれ、椛の身体は水面より上に高く掲げられた。
つい先ほどまで当たり前に感じていた夏の空気が、ひどく優しい温もりを、椛の濡れた身体に触れさせていた。
「椛、もみじっ!」
自分の名を呼ぶ声が耳に、暑気に熱せられた酸素が肺に入るのを感じつつ、椛はどうにか生きていることを自覚した。
肩で息をしながら重い瞼を開くと、橋の上に、必死の形相で叫ぶにとりの姿があった。
にとりが背負った大きなバックパックからは金属製の巨大なマジックハンドが伸び、椛の身体を吊り上げていた。
椛の右腕を引いていた力は、ほんの一瞬だけにとりのマジックハンドの力に抵抗した後、不自然なまでに潔く、椛の腕を掴む力を緩めたのであった。
「……にとり……」
力が抜けきった「それ」からはもう、強い力を感じなかったが、まだ椛の腕に何重にも巻き付き、存在を主張しているのであった。
だらりと腕を垂らした椛の手首から、さらに川面へ向けて垂れ下がる、それ。
川の水を長年に渡ってたっぷりと染み込ませ、襤褸(ぼろ)と化した着物であった。
色褪せ、摩耗し、あちこちが破れた布を見ると、黒地に紅葉の柄をあしらっていることがかろうじてわかる。
マジックハンドが橋の上へ椛を優しく持ち上げ、にとりが広げた両腕の間へと運んだ。
にとりの腕が自分の濡れた身体を抱き留めた瞬間、椛の意識は眠るように闇の底へ沈んでいった。
※ ※ ※
目を覚まして最初に目に入ったのは、油の染みがあちこちに点在する、少し黄ばんだ白い天井であった。
「……椛。これ、何本?」
次に目に入ったのは、にとりの顔と、左右両手の指先であった。
「……さん、たす、いち」
「ん、正解」
天井と同じく、にとりは相変わらず頬のそこかしこを、油で汚している。
にとりの家の布団に、椛は寝かされているのだった。
「……女子力、ひっくい顔」
「命の恩人に言うことかね、それ」
にとりはマジックハンドではなく、己の指先で軽く椛の頬をつねった。
優しく、暖かい指――椛はぼんやりとした頭で、そう思った。
「……ごめん、助かった」
椛は上半身を起こしつつ、言った。
「ったく。山一番の犬かき名人が、一体どうしたのさ?」
にとりが言う「山一番」の真偽はともかく、椛は天狗の中でも、決して泳ぎが苦手な方ではない。
ともかく、溺れかけた経緯を、椛はにとりに話した。
「ははあ。なるほど」
「あの力は幻じゃ、なかった――間違いなく、腕を、掴まれた」
椛の視線の先には、何か強い力に締め付けられたような赤い跡が残る、己の右手首があった。
「河童のいたずらじゃなきゃ、大昔に溺れ死んだノロマな人間の霊か何かかな。あんたを道連れにしようとしたか」
にとりの解釈は、椛に水面の幻を見せ、水中に引き込もうとした存在を「水死人の霊魂」、あるいはそれに近い何かとするものだった。
確かにそうした妖怪や亡霊のことは椛も知っているが、あの力の陰には「人間」の存在を感じられなかった。
根拠はないが、強いて言うなら椛の精神的な「嗅覚」がそう告げているのである。
「違う気がする。多分、だけど」
「じゃあ……何?」
にとりの問いに、椛は言葉を詰まらせた。
その「嗅覚」は一つの答えに至ってはいるが、それはあくまで感覚的なものだ。
理屈でそれを裏付けられる根拠が、椛の脳裏にはない。
それゆえに、その答えを口にすることを、椛の理性が躊躇しているのだった。
「……あ、そうだ。着物は?」
話題を逸らそうとするかのように、椛は大きな声を上げた。
「え?」
「あの、黒い着物」
「あんたの手に巻き付いてたやつ?古着屋に売れるような代物でもなし、乾かしてから燃やそうと」
いかにも呪われてそうだし――にとりが障子の向こうを指差しつつそう言った瞬間、椛は布団を跳ね除けて起き上がった。
そのまま障子を開くと、庭の物干し竿に吊るされた、黒い襤褸が目に入って来た。
「……ここまで持って来てくれたんだ、にとり」
「気味が悪い?そりゃま、死人のおべべだしねえ。誰のか知らんけど」
「違う」
その言葉には、二つの意味があった。
「違う?……ま、いいや。これさ、わりと強引に引っぺがさないと、あんたの手を離れなかったんだよね」
こう、ぐるぐるに巻き付いててさ――と、にとりは手首に布を巻きつけるジェスチャーをして見せた。
「んでその、んと、あんたを助けるのが先決かな、とか思ったから」
にとりは少し照れ臭そうに言った。
「ありがとう、にとり」
その言葉にも、二つの意味があった。
少し時間を置いて、二人は乾いた着物を火にくべた。
椛は火の前で、自然と両の掌を合わせ、瞼を閉じていた。
完全に灰になるまで、火の前を離れることはなかった。
※ ※ ※
椛は次の給料日を待って、里の呉服屋で着物を作った。
それはにとりの家で焚き上げる前に、小さな切れ端を持ち帰ったあの着物とよく似た、黒地の紅葉柄をしていた。
生まれて初めて作った、オーダーメイドの着物だが――それを纏う機会は、なかなか訪れてはくれない。
いっそ、こっそりとにとりに見せて、感想を聞いてみたいとも思うのだが、
椛にはまだ、あの時水面に映った幻の自分のように、それを着こなす自信がない。
とはいえあまり長くお預けをすると、不満を持った着物が動き出し、自分に抗議して来かねないな、とも思う。
乙女の可憐さを飾るために作られた着物は、いつだってその役目を全うしたいと思っている筈なのだ。
女性らしい服装のことで思い悩む自分に、少し強引な売り込みをかけてきた、あの襤褸のように。
その滝の裏、崖に穿たれた空洞の中で、二人の少女が向かい合っていた。
二人の間に据えられているのは、駒を並べた将棋盤。
一手ごとに表情を微かに変えながら、時に思案し、時に相手の表情を覗き込む二人は、河童と天狗。
哨戒兵の白狼天狗・犬走椛と、河童の河城にとり――この「九天の滝」周辺を主な行動範囲とする妖怪であった。
「しっかしねぇ、椛」
「何?」
ぱち、ぱち、という駒を打つ音に混じり、二人の少女の声が響いた。
「あんたさぁ、もうちょい女の子っぽい恰好してみたいとか、思わないわけ?」
その言葉に、椛の細い眉がぴくりと動いた。
「そっちが言う?それ」
にとりの指摘の通り、椛は男性の白狼天狗とあまり変わりない服装をしていることが多い。
同年代の天狗の少女――たとえばミニスカートを着用する者が多い烏天狗などと比較すると、
椛の見た目は、その短い髪も相まってかなり中性的であった。
口に咥えた細めの煙管と、そこから立ち昇る煙は、今の椛にひどく似合っており、
年齢に不相応な「渋み」までもを、少女が纏う雰囲気に加えている。
だが一方のにとりも、髪型こそキャッチーなツインテールにまとめられているものの、その衣服は作業衣も兼ねた簡素なものである。
にとりたち河童のエンジニアが纏う青い衣服は、文字通りのブルーカラー。
女性の衣服の裾は一応スカートの形をしているが、今目の前にいるにとりのように、あちこちをオイルの染みや焦げ跡で汚している者も多い。
加えて暑いこの時期、にとりは上半身の作業服を脱ぎ捨てて腰に巻き、タンクトップ姿で過ごすのが常だ。
露出度こそ多くなるものの、余計にオイルの香りや工具の音が似合う、ラフな絵面がそこに現れるのだった。
「にとりの服に女っ気があるとは思えない」
少なくともわたしを見下せる程にはない、と椛は言った。
「あんたのサムライスタイルよか、よっぽどガーリーじゃないかねえ。町工場女子のにとりたぁ、わたしのこと」
駒を打つ手を止め、にとりは人差し指を口元に当てる。
そのまま小首を傾げ、椛を上目づかいで見つめた。
「オイルの香水、ハンダのカールドライヤー……どう、この女子力。惚れ直した?」
「直す以前に、あんたに惚れた記憶がないな」
にとりの上目づかいから目を逸らしつつ「それと、ここは町じゃない」と付け加えながら、駒を盤の上に置いた。
「そ、その手待った!わたしの女子力に免じて」
「却下」
この日の勝負は、椛の勝利に終わった。
※ ※ ※
にとりと別れ、椛はぼんやりと山道を歩いていた。
時折口元から煙管を離しては、ふうっ、と白い煙を宙へ向けて吹き出す。
哨戒は非番、将棋の戦果は上々、というシチュエーションの絶妙さ程には、椛の心は晴れていない。
『もうちょい女の子っぽい恰好』
というにとりの言葉が、脳裏で何度も反響している。
椛にとって仕事着であるこの服装を、こうして非番でも身に纏っているのは、
単に毎日着る服の組み合わせを考えるのが面倒、という理由によるものだ。
同じ服は何着も持っており、洗濯もまめにしている。
上司や同僚に不快感を与えない程度に清潔感を保ち、かつ自分が行動しやすい服装をできていれば、それでいい。
その考えには今も、変わりはない。
だがそれはそれとして、いざ面と向かって言われればそれが気になる程度には、犬走椛も、若い。
それを口にした相手が――先程は表向き「惚れた記憶はない」と切って捨てたが――内心憎からず想っている、
椛が思いつく限りで最も魅力的な少女であれば、尚更だ。
とはいえ、自分には烏天狗の少女たちのようなミニスカートは似合うまい。
そんなことを思案している内に差しかかったのは、橋の上である。
午後の日差しを照り返す水面には、橋と、その上に立つ椛自身の姿が映っていた。
煙管を咥えた椛の顔は、思った以上に暗鬱な表情をたたえていた。
その顔を改めて見つめてみたところで、女らしさは微塵も感じられず、椛の気持ちはさらに暗く沈む。
さっさと自分の顔から眼を背けようとしたところで、椛は気付いた。
川の表面に映った自分は、今着ているそれとは違う服装に身を包んでいるのであった。
黒地に、舞い散る鮮やかな紅葉をあしらった、いかにも高級品と言わんばかりの、着物であった。
……どういうことだ?
椛はそう思いながら水面を見つめた。
水面の顔は、おそらく今の椛が浮かべているのと全く同じ表情で、自分を見返してきていた。
だが首から下、着ている服装だけが、本来の椛のそれとは違うのである。
妖精か何かの悪戯か、あるいは知らぬ内に疲れを溜め込んでいた自分の心身が見せた幻か。
そんなことを考えていると、不意に、水面に浮かぶ顔が、ふっと視線を逸らした。
無論、当の椛自身はずっと水面に視線を落としたままである。
何かの見間違いかと二、三度瞬いた後、椛の目に映ったのは――全くの見間違えようもなく、首を回して空を見る自分の姿だった。
水鏡に映った黒い着物の椛は、最早疑いようもなく、椛本人とは違う挙動をしているのであった。
それを視界に認めた瞬間、驚いた椛は「あっ」と声を上げ、咥えていた煙管を口元から落としてしまった。
水面の上に煙管が落下していくのに気付き、さらに身を乗り出して手を伸ばした椛は、自分の上半身が不意に傾ぐのを感じた。
次いで足の裏が橋から離れ、視界一杯に水面が迫る。
椛の全身が、橋の上から水面へと飛び出していた。
いつの間にか視線を戻していた黒い着物の椛が、妖しげな顔でにたり、と笑った。
椛が鏡の前で、一度も目にしたことがない表情だった。
そして空中で煙管を掴んだ自身の右手首に何かが巻き付き、下方へ強く引き込もうとする力を、椛は感じた。
椛の身体は、ざぶりと音を立てて川面へ飛び込んだ。
夏の盛りのこの時期、不意に全身に触れた冷たい水の感触は本来心地いいもののはずだが、
水を吸って重くなる衣服と、水底へ自分を引き込もうとする力に抗うことで、椛は必死であった。
どれだけもがこうと、手首に巻き付いた「それ」の力は強く、椛は決して深くはないこの川で、水面から顔を上げることすらできなかった。
かろうじて自由な左手は水を掻くばかりでどこに掴まることもできず、前傾したままの身体では、川底に足を着くこともままならない。
死ぬのか。
あんな沈んだ気分のまま、文字通りに川底へ沈み、
自分は理由もわからぬままに溺れ死ぬのか――そう思うと、ぎゅっと閉じた瞼の裏が少し、熱くなった。
「もみじっ!」
誰かの声が、頭上遠くに聞こえた。
少し遅れ、身体が上方へ引き上げられるのを感じる。
川底へ腕を引く力より、もっと強く、大きな手で胴を掴まれ、椛の身体は水面より上に高く掲げられた。
つい先ほどまで当たり前に感じていた夏の空気が、ひどく優しい温もりを、椛の濡れた身体に触れさせていた。
「椛、もみじっ!」
自分の名を呼ぶ声が耳に、暑気に熱せられた酸素が肺に入るのを感じつつ、椛はどうにか生きていることを自覚した。
肩で息をしながら重い瞼を開くと、橋の上に、必死の形相で叫ぶにとりの姿があった。
にとりが背負った大きなバックパックからは金属製の巨大なマジックハンドが伸び、椛の身体を吊り上げていた。
椛の右腕を引いていた力は、ほんの一瞬だけにとりのマジックハンドの力に抵抗した後、不自然なまでに潔く、椛の腕を掴む力を緩めたのであった。
「……にとり……」
力が抜けきった「それ」からはもう、強い力を感じなかったが、まだ椛の腕に何重にも巻き付き、存在を主張しているのであった。
だらりと腕を垂らした椛の手首から、さらに川面へ向けて垂れ下がる、それ。
川の水を長年に渡ってたっぷりと染み込ませ、襤褸(ぼろ)と化した着物であった。
色褪せ、摩耗し、あちこちが破れた布を見ると、黒地に紅葉の柄をあしらっていることがかろうじてわかる。
マジックハンドが橋の上へ椛を優しく持ち上げ、にとりが広げた両腕の間へと運んだ。
にとりの腕が自分の濡れた身体を抱き留めた瞬間、椛の意識は眠るように闇の底へ沈んでいった。
※ ※ ※
目を覚まして最初に目に入ったのは、油の染みがあちこちに点在する、少し黄ばんだ白い天井であった。
「……椛。これ、何本?」
次に目に入ったのは、にとりの顔と、左右両手の指先であった。
「……さん、たす、いち」
「ん、正解」
天井と同じく、にとりは相変わらず頬のそこかしこを、油で汚している。
にとりの家の布団に、椛は寝かされているのだった。
「……女子力、ひっくい顔」
「命の恩人に言うことかね、それ」
にとりはマジックハンドではなく、己の指先で軽く椛の頬をつねった。
優しく、暖かい指――椛はぼんやりとした頭で、そう思った。
「……ごめん、助かった」
椛は上半身を起こしつつ、言った。
「ったく。山一番の犬かき名人が、一体どうしたのさ?」
にとりが言う「山一番」の真偽はともかく、椛は天狗の中でも、決して泳ぎが苦手な方ではない。
ともかく、溺れかけた経緯を、椛はにとりに話した。
「ははあ。なるほど」
「あの力は幻じゃ、なかった――間違いなく、腕を、掴まれた」
椛の視線の先には、何か強い力に締め付けられたような赤い跡が残る、己の右手首があった。
「河童のいたずらじゃなきゃ、大昔に溺れ死んだノロマな人間の霊か何かかな。あんたを道連れにしようとしたか」
にとりの解釈は、椛に水面の幻を見せ、水中に引き込もうとした存在を「水死人の霊魂」、あるいはそれに近い何かとするものだった。
確かにそうした妖怪や亡霊のことは椛も知っているが、あの力の陰には「人間」の存在を感じられなかった。
根拠はないが、強いて言うなら椛の精神的な「嗅覚」がそう告げているのである。
「違う気がする。多分、だけど」
「じゃあ……何?」
にとりの問いに、椛は言葉を詰まらせた。
その「嗅覚」は一つの答えに至ってはいるが、それはあくまで感覚的なものだ。
理屈でそれを裏付けられる根拠が、椛の脳裏にはない。
それゆえに、その答えを口にすることを、椛の理性が躊躇しているのだった。
「……あ、そうだ。着物は?」
話題を逸らそうとするかのように、椛は大きな声を上げた。
「え?」
「あの、黒い着物」
「あんたの手に巻き付いてたやつ?古着屋に売れるような代物でもなし、乾かしてから燃やそうと」
いかにも呪われてそうだし――にとりが障子の向こうを指差しつつそう言った瞬間、椛は布団を跳ね除けて起き上がった。
そのまま障子を開くと、庭の物干し竿に吊るされた、黒い襤褸が目に入って来た。
「……ここまで持って来てくれたんだ、にとり」
「気味が悪い?そりゃま、死人のおべべだしねえ。誰のか知らんけど」
「違う」
その言葉には、二つの意味があった。
「違う?……ま、いいや。これさ、わりと強引に引っぺがさないと、あんたの手を離れなかったんだよね」
こう、ぐるぐるに巻き付いててさ――と、にとりは手首に布を巻きつけるジェスチャーをして見せた。
「んでその、んと、あんたを助けるのが先決かな、とか思ったから」
にとりは少し照れ臭そうに言った。
「ありがとう、にとり」
その言葉にも、二つの意味があった。
少し時間を置いて、二人は乾いた着物を火にくべた。
椛は火の前で、自然と両の掌を合わせ、瞼を閉じていた。
完全に灰になるまで、火の前を離れることはなかった。
※ ※ ※
椛は次の給料日を待って、里の呉服屋で着物を作った。
それはにとりの家で焚き上げる前に、小さな切れ端を持ち帰ったあの着物とよく似た、黒地の紅葉柄をしていた。
生まれて初めて作った、オーダーメイドの着物だが――それを纏う機会は、なかなか訪れてはくれない。
いっそ、こっそりとにとりに見せて、感想を聞いてみたいとも思うのだが、
椛にはまだ、あの時水面に映った幻の自分のように、それを着こなす自信がない。
とはいえあまり長くお預けをすると、不満を持った着物が動き出し、自分に抗議して来かねないな、とも思う。
乙女の可憐さを飾るために作られた着物は、いつだってその役目を全うしたいと思っている筈なのだ。
女性らしい服装のことで思い悩む自分に、少し強引な売り込みをかけてきた、あの襤褸のように。
と思ったけど川ってのはこっちとあっちの境界って言うしどこも変わらんのかもしれん
椛の悩みにぴったりの妖怪が現れたのはまったくの偶然なのか
はたまた悩んだ顔が引き寄せてしまったのか
いつか椛が着物を着てにとりを訪ねるときがくるといいんですけれど