それはいつもどおりの唐突な訪問だった。再建してから間もないとはいえ、木造平屋建ての博麗神社においてはあまりにも辛すぎる冬がようやく終わり、春告精のそれ自体が桜を呼ぶのではないかという声とともに、春一番が幻想郷に吹き渡ったのが一昨日のこと。有象無象問わず心が浮つくこのタイミングにも関わらず、毎年目立った異変もなく、博麗の巫女が落ち着いた日々を過ごすことができるのは、このなだらかに過ぎていく時間を一瞬でも損ねた者は、少なくとも半年は棲家から出たくなくなるような目に合わせてやるという彼女の心持ちを知ってのことだろうか。
ともかくこの流れる時間さえも暖かさを帯びているような季節を、幻想郷の歴史上誰よりも苛烈でのんきな博麗の巫女である博麗霊夢はありがたく享受していたのであるが、そこに現れた忌むべき介入者は、既に十分な長さを引き籠もって過ごしてきたばかりなのであった。
当然あって然るべき侵入の痕跡を一切現すことなく、その侵入者は背後から腕を首に絡ませてきた。
「ん~れいむ~~おはよ~~」
「もう昼過ぎよ」
つれないわねえ、などと言いながら彼女は空間ごと霊夢の視界に回り込んできた。目元をこすりながら寝惚け眼で霊夢に笑いかけるのは、幻想郷における最高の存在位階を持つ存在、八雲紫である。幻想郷に存在するあらゆる有象無象が彼女について語る時、そこにはプラスにもマイナスにも畏怖の念が篭っており、一定の知性を有する者からは「妖怪の賢者」などという大層な呼び方をされている。しかし彼女とある程度の交友を持つ者からすればそんな偉大な存在として扱う気にはならず、「見てくれは良いけどただの熊みたいなもんよね」とは本人同席の酒の場でべろんべろんに酔っ払った霊夢の弁である。この評価に関しては、彼女とまともに関わりを持てるような者も、大抵まともではない程度の実力者に限られることに由来するところもあるのだが、実際この冬の間、熊のように棲家で冬眠して過ごしていたことは紛れも無い事実なのであった。
「まだ冬眠から起きて2日しか経ってないのよぉ?人間の睡眠時間で考えたら起きてせいぜい30分ってとこかしら。まだ布団から出るべきか否か逡巡している頃でしょう?」
「残念。私は30分後にはもう朝食の準備も半ばに差し掛かっているわ」
まだゴネようとする寝ぼけ熊の額に軽く手刀をくれてやった霊夢は、見計らったようなタイミングで沸いたお茶を淹れるために席を立った。持ち上げた茶筒の軽さに買い出しの必要性を感じながら、湯のみを二杯持って居間に戻ると、虚空に開いた巣穴からのそのそとその主が這い出てこようというところであった。
「無指向性弾幕禁止の制?」
対面してお茶をすすり、先程まで独占状態にあったお茶請けに伸びる魔の手を払いながら、先に要件があるのか無いのかはっきりさせるよう求めた家主に対し、応じた紫の口から出たのは彼女に似つかわしくない響きの言葉だった。
「なんとかの制、なんてあんたからそんな堅苦しい響きの言葉が出るとは思わなかったわ。何の気まぐれ?」
「気まぐれでこんなこと言いたく無いわよ、全然気がまぐれないわ」
そういって取り出したのは、堅苦しい文体と書き手の生真面目さが透けて見える文字によってしたためられた1通の書簡であった。折りたたまれたそれを両手で広げた向こうで、遠慮を知らない客人が再びお茶請けに手を伸ばすのを感じたが見逃してやることにする。その文章量は確かに多かったが、どうやら書き手は独りよがりな弁舌家ではないようで、要点に関しては非常に簡潔かつ明確な書き口で記されていた。
「…ま、やっぱり慧音さんよね」
書簡の締めに控えめな大きさで記された書き手の名前を見て、思わず呟いた。
「彼女も大変よねえ、勝手に妖怪相手の交渉役みたいな立場にされちゃって」
紫は明らかに他人行儀な様子で言うが、実際のところあそこまで人間の生き方に寄り添おうとする妖怪自体が異端なのだから当然だろう。紫は幻想郷の管理者ではあるが、そこに住む者は管轄外であり、ましてその生き方など完全な不干渉を保っている。本人は面倒だからと言っているが、その都度の修正より大きく逸れたものを後で修復する方が何倍も労力がかかるのは自明の理である。そこに何か彼女なりのこだわりか美学があることを、霊夢はとうの昔に気付いているが口に出したことはない。それこそ口出ししたところで仕方のない不干渉の領域であり、何かあったらその時に解決してやればいいのだ。そう考える霊夢は、『博麗の巫女』という対処療法的システムが、そして彼女の存在自体が紫の美学の上にその根底があるということにはまだ気付いていない。
「ふーん…要するに、若い妖怪の小競り合いが里の近くで起きちゃって、そいつらがやたらめったら弾幕をバラ撒いたせいで里の外れにある倉庫とかに被害が出たってわけね」
「連絡を受けた彼女がそこへ向かったもののとっくに決着がついて当事者はいなくなったあと。おまけにその倉庫の持ち主が、私財を肥やすことと他人に突っかかることが生きがいみたいな厄介な人間の男らしくてねえ。気の毒なことにそいつの癇癪が彼女に向かって炸裂して、なし崩し的に私への執り成しを押し付けられたそうよ」
煎餅を頬張る紫を視界の端に捉えながら、霊夢は幻想郷では浮いて見えるほど勤勉で生真面目な半人半獣の教師のことを思い、胸に沸いた様々な感情をまとめてため息として吐き出した。言葉にならなかったのは、彼女の気質に対して尊敬よりも諦めの念の方が強かったためである。
慧音はその特異な身の上でありながら人里で教鞭をとっているだけあり、豊富な知識を有しているだけでなく、その人柄も勤勉で実直、因縁なく彼女と知り合い好意的な印象を持たない者は、数少ない例外を除いてまずいないだろう。今回はその数少ない例外に当たってしまったわけであるが。
半人半獣である彼女は種族としての妖怪的特性では純粋な妖怪に対して遅れを取るが、聡明な理性と経験に基づく的確な判断により、総合的には幻想郷中でも屈指の実力を持つ。そんな彼女であれば、只の人間である今回の癇癪玉男の命令に対して唯々諾々と従う必要は、弾幕が法律と言われることさえあるこの幻想郷においては皆無なのだが、ある意味人間よりも人間らしくあろうとする彼女は、例えおおよそ文化的とは言えない相手に対しても、それが人間である限りあくまで文化的な方法で解決しようとするのである。それが人間の身でありながら妖怪の法の中で生きる霊夢にとっては迂遠な方法に思えて仕方がないのだ。もし当事者が霊夢であれば、手を上げないまでもその男を直接紫に引き会わせる位のことはしただろう。他人の力をあてにして自分の問題の解決を誰かに押し付けるようなやり方は彼女の最も嫌うところである。もっとも、そうした手口を彼女以上に嫌いそうな人物が、彼女の友人の中にいるのではあるが。
「ほんと、よくやると思うわ。尊敬はしてるけどね」
「あら珍しい。あなたが誰かを褒めるなんて」
「あんたが思ってるより数倍は謙虚よ。あとお菓子食べ過ぎ、少しは遠慮ってものをしなさい」
「私が幻想郷で一番えらいから遠慮なんてしなくて良いんですー。あなたのものは私のもの、貴女も私のものなんですー」
「うっさい」
寺子屋において生徒の前で教壇に立っている女教師と、昼下がりの神社で煎餅をくわえて屁理屈をこねる不詳の少女。どちらに「人の上に立つ者の威厳」が備わっているかは誰に聞いても答えは明白だろう。紫が振りかざそうとした権威はその字面が内包する意味に比べ極々小さな威力しか持たないのであった。そもそも彼女が権威を行使しようとすることなど、その権威が通用しない相手に対してか、希望を押し通したところで小波さえ起こせないような影響しかない時にしか無いことを霊夢は知っている。
都合よく目的の獲物を拝借して満面の笑みを浮かべる至高の賢者だが、一部の人間から見たこの世界は、管理者である彼女よりよほど都合の良いものに見えている。慧音が高い志のもと、一薙ぎでその生命を奪える相手にその力を行使しない選択をしていることなどつゆ知らず、犯人に浴びせそこねた怒りを彼女にぶつけた男は、力ある妖怪が爪を立てずに頭を下げているのは、自分を恐れているためだと判断し、今の立場は絶対的優位にあると解釈した。結果男はは存在しない責任を彼女に求め、唯々諾々と訴状を作成してきた妖怪を見てさぞ優越感に浸っていたことであろう。
「わたくしには理解できない行動ではありますが、彼女が望んで歩んでいる道です。わたくしが口を挟んだり、まして『妖怪の力』を代行したりするようなことではありません。幻想郷がその理を保ち続ける限り、わたくしは傍観者でしかない。幻想郷は全てを受け入れるのです。それはそれは」
「はいはい残酷なことですわね。あ、お茶無くなっちゃった」
決め台詞を雑に横取りされた妖怪の賢者は、流し目のしたり顔のまま硬直し、台所に向かうため立ち上がった霊夢の背後で左手をスキマに突っ込んだ。恐らくやり場のない悔しさを、哀れな式の頬肉を挟む指にでも込めているのだろう。
「それで?まだ肝心のルールの内容を聞いてないんだけど?」
「あら、察しが良いわね。その通り、お硬い言い回しだけど単なるルールの改定に相違無いわ。」
再び満たされた湯呑みを持ち上げながら紫は詳細を語り始める。
1, 無指向性弾幕(ばら撒き弾)の使用禁止。
2, 弾幕の射出方向は対象の現在位置、若しくは移動予測位置に限る。
3, 道具、魔法、武器他の使用並びに威力等の規定は、1,2の条項を踏まえた上でスペルカードルールに準ずるものとする。
4, このルールを適用する場合、勝負の成立と同時に予め幻想郷全域に施された術式により、戦闘領域の制限と領域内への障害物の設置が行われる。領域の外縁は弾幕と人妖に対し擬似的な壁として機能し、これにより戦闘終了まで参加者は領域外に出ることが出来ない。
4-1,設定された戦闘領域内に元々適当な障害物が存在していた場合、障害物の設置は行われない。
5, 参加者は4機まで弾幕の発射機構を備えたオプションを使用することを認める。形状及び実体の有無は問わないが、オプションの発射する弾幕は射出方向を対象の現在位置のみとし、スペルカードルールに則ること。
5-1,参加者の能力不足等の事情によりオプションを用意できない場合、基本的な機能のみを備えたオプションを一時的に術式から召喚することができる。
5-2,オプション以外の随意的動作が可能な物の使用は制限しない。但し弾幕を発射することは禁ずる。
6, 上記の条項から逸脱しない限り、参加者全員の同意により該当戦闘中のみ適用される臨時条項を追加することを認める。
紫が述べる条項を書き出した霊夢は、一通り読み返してある印象を抱いた。
「なんか全体的に具体性が無いわね」
例えば、ばら撒き弾と狙い撃つ弾の定義。例えば、障害物の数や強度。後者に関しては実際戦う者の意図でどうにかできるものではない為に、記述上の言葉が足りなくても問題として取り上げられることはないかもしれない。しかし前者は明らかな抜け道である。どれほど緻密に定められたルールでも完全に穴を塞ぐことは不可能であり、その穴を何とかして通ろうとする者が現れるのも不可避であることは自明の理だが、紫の残した穴はもはや通行することが目的のトンネルにさえ見える。前方180°に弾をバラ撒いて「これは高度な先読みの結果を反映した予測弾だぜ」などという輩が出ても何らおかしくはないだろう。トンネルの先ではチキンレースが行われることが安易に予想できるにも関わらず、当の施工者はなんら悪びれていない。
「具体性なんて必要ありませんわ。数字に結びつけた首輪のような制度など幻想郷に似つかわしくありませんもの。」
そう言う紫の表情が、一妖怪から管理者のものに近づいたように霊夢は感じた。
「それに、長い一生の大半を退屈の中で過ごしてきた妖怪が、与えられた新たな玩具を自分から壊すような真似はしないでしょう。遊びは与えられたルールの中で全力を尽くすのが最も面白いということを、永く生きて生き飽きた者ほどよくわかっているはずですから。」
転じて一妖怪としての顔に戻った紫の表情は、その言葉通り玩具をもらった子どものように、そして刹那、霊夢よりも幼さを伴っているようにさえ見えた。
「ふーん…まああんたが良いならそれでいいんだけど。しっかし藍も気の毒ねえ。ご主人が眠りこけてる間にこんなもの考えてたなんて」
「ちょっとー、それ考えたの私なんだけどー?」
「嘘ばっかり言って。あんたまだ起きてから30分相当の活動しかしてないって言ってたじゃない。」
「その通り。つまりこの程度のこと、妖怪の賢者である私にとっては朝飯前ってことなのよ」
二重の得意を鼻にかけ、横槍を入れられた先のお返しとばかり、これ以上無いしたり顔を霊夢に向けた。それを受けるは年端もいかない人間の少女だが、それでも霊夢には目の前の賢者の顔が、親に褒美をねだる幼い娘の顔にしか見えなかった。
「はいはい。それでいつからこのルールを適用するわけ?幻想郷全土をカバーする術式なんて相当手間が掛かりそうなんだけど」
「…心配いらないわ。もう殆ど術式の構築はやってあるから」
「藍が、でしょ」
「……」
褒美をもらえなかった娘は、今度は自分の功績を主張できなかった。
「…とにかく、微調整と今後の管理の為に、少し霊夢にも手を貸してもらうことになります。いいですね?」
「まあ、仕方ないわね」
会話の主導権を取り戻そうと、急に大人びた話し方を使い始めた大妖怪に対して笑いを噛み殺しながら、霊夢は頷いた。
「あとは、本格的な運用の前に誰かでテストができればいいのですけれど。誰か適当な者はいないかしら」
「ちょうど良い奴ならほっといても来るわよ。そういうものなんだから」
霊夢が言った瞬間、向かい合う2人の背後で障子戸が同時に開いた。
「よう霊夢!今夜最後のきのこ鍋なんてどう…」
「霊夢さん!今年のお花見の予定ってどうなって…」
「お?」
「え?」
現れた2人の侵入者は、正面に家主では無い相手を見とめ、互いに硬直した。
「…ほらね、まさか2人来るとは思ってなかったけど。あとあんたら呼び鈴くらい鳴らしなさい」
博麗神社にそのようなものが設置されていないことは、ここを訪れる誰もが知っている。
4杯に増えた湯呑みから1つを持ち上げながら、侵入者その一は与えられた情報を脳内で整理していた。
「…なるほど、新しい決闘ルールねえ」
「飲むのは良いけど、頭の上のそれ脱ぎなさいよ。部屋の中なんだから」
「ん、ああそうだな」
相手の性格からして、一言二言の屁理屈を予想していた霊夢は、あまりに素直な反応のせいで吸いこんだ息を無為に吐き出さなければいけなかった。どこか機械的な動作で、本人の体格には不相応なほど大きな三角帽子を頭から下ろした霧雨魔理沙は、改めて湯呑みの中身を啜った。それに応じて湯呑みをおいたのは、彼女に対面する侵入者その二である。
「それで本格的に始動させる前にテストをしたいと言うわけですね」
「そういうことです。やって下さるかしら?」
「ふんふん、なかなか面白そうですね…本格採用前のテストっていうところが特に!」
目を閉じ、しきりに頷きながら話す東風谷早苗に対し、揺れる湯呑みの水面に目をやっていた魔理沙が口を開いた。
「おいおい、テストの何が面白そうなんだ?テストって言ったら要するにまだ実験段階ってことだろ。楽しむのはその次のステップじゃないか?」
「いえいえ、歴史の表舞台には名が残らなかった隠されたコンペティション!そこは最高のドラマの宝庫であり、後世の創作作家を刺激してやまない最高の材料なんですよ!」
「…いまさらだから別にいいんだけどさ、どうにも話が噛み合ってない気がするな。だいたい歴史の表舞台に出てないのにどうやって後世の作家が知ったんだよ」
彼女たちをある程度知る者ならば、この会話における立場が逆であったほうがよほどしっくり来ただろう。大抵の場合、魔理沙は積極的に厄介事に首を突っ込み、本人の意図はどうあれ場を引っ掻き回すのが常である。しかし今回魔理沙がこうした態度を取るには彼女なりの理由があった。現在でこそ魔理沙は霊夢に勝るとも劣らない実力者として妖怪の間に名が知れているが、世に現れた時から博麗の巫女の力と使命を背負っていた霊夢とは違い、今でも魔理沙自身は、ほんのちょっと種族の向こう側を覗いただけの、ただの人間である。ただの人間が幻想の支配者層たる妖怪と同じ舞台で踊るには、自身を相応に飾り立てる必要がある。魔理沙がその身にまとうドレスは、彼女が『実験』と称する幻想的科学のパッチワークである。日常を一次元上の世界に維持するため、彼女が求める「種族の境界を壊す計算式」を扱うには、それ相応のリスクが伴う。決して自分の口から語ることはないが、過去何度も度を越えた力を目指した『実験』により、彼女の存在そのものが危うくなるほどの「痛い目」を見てきたことを霊夢は知っている。それゆえ、彼女は自分を過信しないこと、物事を正確に推し量ることを知らず知らずのうちに身につけ、それにより身の丈を越えた豪奢なドレスに埋もれることなく、今も舞台で踊り続けることができているのだ。
「私の組んだ術式には心配いりませんわ。テストと言っても、運用前に一度霊夢に慣らさせておきたいだけですから。」
術式組んだのは藍でしょ、と霊夢に訂正され硬直する紫を横目に、数秒考えこむ素振りを見せたのち、一気に湯呑みを空にした理論派の魔法使いが立ち上がった。先のぎこちない動作は、既に脳内でルールのシミュレーションを始めていたことによるものだった。
「じゃあ早いうちに始めようぜ。鍋の準備もしたいしな。戦うのは霊夢か?早苗か?なんなら賢者サマだって構わないぜ」
挑発ともとれる言葉を受けて霊夢は立ち上がりかけたが、紫が片手でそれを制した。
「霊夢は私と管理のお勉強よ。もちろん1人しか来なかったら自分で遊びながら覚えてもらうつもりでしたが」
「それなら、私の出番ですね!」
らんらんと目を輝かせた緑髪の巫女を見て、もう一人の巫女は新しいもの好きで幻想郷中に名を知られる彼女の主神のことを思わずにいられなかった。ペットは飼い主に似るというが、あの一家の場合どちらがペットでどちらが飼い主なのだろうか。とりとめもないことを考えながら、先に外へ飛び出していった2人の友人の後を追いかけるのであった。
日が伸びたとは言え、すでに空には夜の影が這い出してきているのが見える。吹いてくる風の冷たさに冬の残り香を感じる夕方、暮れかけた太陽が照らす博麗神社の境内において2人の少女が対峙していた。
「ルールは先ほど説明したとおりです。ただし、今回はシステムの確認も兼ねて、2人とも支給のオプションを使用していただきます。」
この「遊び」の管理者の声に呼応して、境内の外郭が瞬くと同時に、無機質な色味をしたブロックが幾つか現れた。数瞬遅れて、2人の参加者の足元から緑色に明滅する4つの光球が浮かび上がってきた。色味を持たない魔法使いと、光球と同じ鮮やかな色をまとった巫女は、彼女たちの拳より一回り大きいそれを、思い思いの動作によって、動きを確かめるように体の周囲を飛び回らせた。
「ふーん、思ったより自由に動かせるもんだな。でもこの色はなんとかならないのか?これじゃまるで早苗専用みたいじゃないか」
少しむくれた様子の魔理沙とは対照的に、早苗はオプションの動きに踊りをつけてはしゃいでいる。賽銭箱の前に腰掛けて眺めている霊夢の耳に、微かに魔法少女という単語が早苗の声色で届いた。
「色の変更ねえ、確かに変えられたほうが綺麗かしら?藍に言っておくわ」
「今まったく自分で術式組んでないって自白したわね」
管理者が今日何度目かのフリーズを起こしている傍ら、新たなルールという玩具を与えられた少女たちは、それで遊ぶ許可を今か今かと待ちわびていた。
「よーし大体わかりました!いつでもいけますよ!」
「だってよ。おーい霊夢、もう始めていいのか?」
「はいはい、それじゃあ…開始!」
「あっ、ちょっ、最初の宣言はわたくしが…!」
幻想郷と遊びの管理者たる妖怪の賢者にも、なにものにも縛られない楽園の巫女と、過ぎ去った一瞬まで管理することは不可能だった。
開始の宣言と同時に、白黒の影が緑色の光を置いて単体で飛び出した。
「できることだけやるのが私の流儀なんでな、まずはいつもどおりやらせてもらうぜ!」
宙を駆ける箒に片膝をつき、八卦炉を取り出しながら一直線に境内を横断しようとする魔理沙に対し、対する早苗はその場から動かず、大げさな動作とともに4つの光球を前方へ走らせた。のちに彼女自身が語るところによると、魔法少女にはバンクになる格好いい動作と決めポーズが不可欠なんです!ということだった。もちろん、幻想郷において彼女の意図する事を正確に理解できた者は、片手で余る程度しかいなかったことは言うまでもない。
「甘いぜ!全部撃ち落としてやる!」
心の魔法少女が放った光球に向けて、魔法使いの装いをした少女は自らの獲物を構えた。しかし、そこから放たれるはずだった星屑の奔流は流れることなく、ただ手の先で派手な光が弾けただけだった。
「あぁ…あの中で弾をばら撒こうとするとああなるのね」
先手必勝のつもりが無防備に敵陣の中心に突っ込む形になり、自らの記憶を恨む言葉を漏らしながら、4本の弾道が交差する中で必死で身体をよじる魔理沙を哀れみの目で眺めながら霊夢は呟いた。
「こっ…のぉ、これをっ、抜けさえすればっ、あとはお前だけだ…ろっ!」
地面と光球の間に一瞬生じた僅かな空間に、身体を反転させて頭から滑りこませる。後頭部の1寸先に地面を感じながら、背面のまま通りぬけ、振り向きざまに八卦炉を起動させた。
「こいつでっ!恋符『マスター…」
「…烈・在・前!!」
地上の早苗と、中空の魔理沙。決して遠くはないその中間の地面に、直角に交差した九本の光線が浮かび上がっていた。
「秘法『ナインウォール』!!」
地面に描かれた陣から瞬時に立ち上った9枚の光の壁は、とっさに身を反らせた魔理沙の鼻先を掠めた。4機のオプションを操るのは自衛機能を持たないコアのような存在ではなく、自分と同じ戦う術を持った人間であることを刹那忘れていたのである。ここでも魔理沙は、記憶神経へリソースを回さなかった自分を呪うことになったのである。
「なによナインウォールって…『九字切り』でしょうに。勝手に秘法の名前変えちゃって、またあの主神に怒られるわね、あれ」
「楽しんでいただけているようで何よりですわ」
ようやく最初の号令を掠め取られたショックから立ち直った管理指導者と、安易なネーミングにため息をついた受講者は思い思いの感想を口にした。管理を学ぶとは言っても、基本的には霊夢がほぼ無意識下で行っている博麗大結界の管理とさして違いは無い。ルールから逸脱した行為は自動的に結界が無効化し、また外部から強制的に割り込まなければならないような事態は、このルールを受諾して行うような人妖の中では起こらないだろう。霊夢がやらなければならないことは実際の発動中の感覚に無意識を慣らすことだけであり、実際のところ体のいい観客といったところである。彼女らの目の前で行われている見世物は、少なくとも退屈さとは無縁の出来を表していた。
すんでのところで早苗の『魔法』を避けた魔理沙は勢いをそのままに宙返りし、直上を見上げた早苗の視線と交差した。
「今度こそこっちの番だ!これでも喰らえ!」
彼女の纏うモノクロの装束が夕日に照らされ、夕闇を体現したかのような赤と黒の入り混じる体を捻り、回転しながら幾つものきらめく物体を文字通りばら撒いた。
想定する必要の無いはずだった無作為な爆撃を受け、早苗は思わず前方へ、つまり先程まで魔理沙がいた空間に向けて飛び出した。
「ちょ、ちょっと!ありなんですかそれぇ!?」
「当たり前だ、ただビンを『落としてる』だけだからな!カッコつけて!」
着弾したビンが次々と爆発している空間を挟み、緊急回避した早苗は最初に飛ばしたオプションのもとに降り立ち、頭から地面に向かっていた魔理沙は両手で着地して跳ね起き、再び正対した。
「…で、ありなの?管理者サマ」
「ありなんじゃないかしら?あれなら外に飛んで行くこともないし、ダメなら最初みたいに無効化されるでしょうし」
「あんた完全に開き直ったわね…」
霊夢の呆れ果てた視線をすまし顔で受け流した彼女は、どうやら管理者としての尊厳を放棄し、一妖怪として観戦することを決めたらしい。
(あ…危なかった…。今の一瞬で決着しててもおかしくなかった…)
心中の動揺を悟られないように、あくまで表情は冷静を保ちながら、早苗は心の平静を取り戻そうと務めた。
(うん…大丈夫。魔理沙さんが今のにオプションを時間差で合わせてきたら負けてたかもしれないけど、今回は使う気が無くて助かった…。もう油断しない、寄せ付けないまま押し切る!)
未だルールがテスト中で不明瞭なことを改めて頭の片隅に書き留め、再び意識を視線の先の相手に向けた。
「今度はこちらから行きます!臨・兵・闘・者…」
「またそれか?二度と同じ手は食わないぜ!」
魔理沙が掲げた手のひらに光が集まる。その現象はまさに妖術のそれだが、魔理沙が意識的に行っていることは「魔法のように見せる」手品の類である。あらゆる分野において、完全に研ぎ澄まされた技術は最上の賞賛として「まるで魔法のようだ」と評される。単純極まりない自然界の計算式を、自らの経験と豊かな感性によって人外との戦いに耐えうるまでに練り上げた彼女は、人間として許される魔法使いの称号が最もふさわしい人物かもしれない。
早苗が印を切り終えるまでの一瞬、速射性の高いレーザーで一気に撃ち抜こうという策だろう。しかし早苗も憧れだけの無力な少女ではない。それを誘って敢えて隙を晒す事を選んだのだ。
「皆・陣…そこっ!」
早苗の詠唱が途切れたことに危険を察した魔理沙は、横の地面に身体を投げ出した。瞬間、背後から音もなく近寄っていた緑色の光球が、1秒前まで彼女の身体のあった空間を撃ちぬいた。
「いつの間に…!だってオプションは全部早苗のところに…」
目をやった早苗の周囲には、確かに光球が4つ漂っていた。しかし次の瞬間、早苗の左手が添えられていた1つが弾けた。
「これは私のミラクル☆マジックボールです!!オプションは印を切る前から背後に向けて動かしていたんですよ!」
「ちっ、浮かれたお嬢様かと思ったらとんだペテン師だったってわけか!」
「魔理沙さんからお褒めに預かり光栄です。でも、話してる暇はありませんよ!そのオプション、まだ生きてるんですからね!!」
同時に、魔理沙の目の前に浮かんだ光球が、その獲物を捉えようと再び動き出した。一瞬にして狩られる側に追い込まれた手品師は、身体を起こすこともかなわず無様に転がって、平等に与えられた舞台装置に縋ることしか出来なかった。
「はぁっ…はぁっ…。まさかこんな物陰に逃げこむことになるなんてな…。ルールに助けられるっていうのはこういうことか」
魔理沙が逃げ込んだのは、舞台が設定された時に現れたブロックの影である。大きさは一辺10尺弱の立方体で、表面は岸壁から人の手によって切りだされた石材のように波打っていて、それ自体の素材も石と寸分違わぬ特徴を示している。追い込まれた彼女には知るよしも無かったが、それは境内に敷かれた石畳の石材と同質のものだった。その点を霊夢が指摘すると、この舞台を設計した本人は、彼女なりの美学をもって説明した。
「戦いの場を作るために、その景観を害するようなものを設置することはあってはなりません。ここにおける戦いとは美しくなければならず、その舞台となる空間もまた同じことが求められるからです」
演出家の意図とは別に、設置された舞台装置は目隠しとしての役割を存分に果たしていた。以下にオプションが自在に動かせようとも、操る本人から対象が見えていなければ、狙い撃つことは当然不可能である。適当に撃つことが封じられたこのルールにおいて、一瞬でも姿を隠すことは非常に有効な防御策となり得るのだった。
早苗がオプションを引いたのをみた魔理沙は、この瞬間を逃さず、一気に攻勢に出ようと飛び出した。あらゆる勝負の世界において「流れ」というものは必ず存在する。魔理沙のこの判断は勝負師としての勘が強く働いたもので、あながち間違いとは言えなかっただろう。しかし、この場において流れを握っていたのは未だ早苗のままだった。
八卦炉のチャージを臨界にして、転がり込んだのとは逆の方向から飛び出した瞬間、眼前に緑色の光を感じた魔理沙は、無意識のうちに地面を蹴って前方に飛び上がった。
「危ねえっ!!でも避けられた…!?ちがう!!」
視界に残る緑の球体が弾を発射することはなかった。危機から脱した安堵感と、見破った罠を確認しようとした優越感が舞台上の手品師を絡めとり、自分がジョーカーを掴まされたことに気づくのを一瞬遅らせた。その間に、役を演じきった正義のヒロインは、描きかけの『魔法陣』を完成させた。
「烈・在・前!!これで終わりです!秘法『ナインランサー』!!」
先ほどとは異なり、地面ではなく早苗の目の前に垂直に描かれた光の交差は、9本の光の槍を哀れな手品師に突き出した。守谷の巫女としての秘法『九字刺し』を聖なる魔法に昇華させ、正義の勝利で舞台は幕を下ろすかに思われた。
しかし、物語の相手たる手品師は、単なるエキストラで退場することを良しとしなかった。小手先の技術を捨て、力ずくで結末を自分の元へ手繰り寄せようとしていた。
「…ぉぉぉぉおおお!!彗星!!『ブレイジングスター』!!」
半ば破れかぶれで放出したエネルギーは、彼女の華奢な体を圧倒的な推進力で空高く吹き飛ばし、その主自身をいつしか夜の支配していた星空に打ち上げたかのように見えた。殺到する9本の光線は虚空を貫き、地上の客星のごとく境内を照らしだした。
「…そろそろ決着ね」
「ええ、いつ見ても、やはり全ての力を尽くして相手を乗り越えんとする、人間の戦いが一番美しいわ」
客星に照らされた2人の傍観者の表情は、戦いの激しさに対してどこまでも静かで、全ての喧騒が2人を避けて流れているかのような印象さえ与えるものだった。
確信していた勝利を取り上げられた早苗は、遥か上方にいるはずの相手の姿を求め、戦意をその目にたぎらせて空を見上げた。
刹那、全ての世界が止まったように感じた。
その目に映し出されたのは、満天の星空。客星の輝きが消え去り、暗闇に包まれた境内から見上げた夜空には、空を覆い尽くすほどの輝きが満ち満ちていた。圧倒的な美しさと迫力に、一瞬戦いの中にいることを忘れた地上の少女は、星空の中心にひときわ輝く星を認め、その光が自分に向けて放たれる事を思い出すのに数秒を要した。
「星符…!!『ドラゴンメテオぉ』!!」
星空を満たす幾万の光が、たった1つの小さな恒星の輝きに飲み込まれたかのようだった。天球の星々を全てまとめて叩きつけたようにさえ感じるエネルギーの奔流の中で、かろうじて結界を張った早苗は飛びかける意識を必死に繋ぎ止め、一瞬にして砕け散った立方体の後を追わないようにするだけで精一杯だった。
光の豪雨が過ぎ去った後、もうもうと立ち込める焦げ臭い煙の中で、早苗は震える足を激励して立ち上がり、「舞台の主人公」たる姿を保とうとした。一寸先も見えない煙の中で、再び上げた顔の目の前に、八卦炉が突き出されていた。
「流星の後には、星屑が綺麗に輝くのさ…これで終わりだ!」
「…まだです!!」
早苗は最後の力を振り絞り、後方へ向けて思い切り地面を蹴った。しかし、突き出した八卦炉からはカラフルな光が飛び散っただけだった。
「引っかかったな…ばら撒き弾は使えないんだぜ…」
「ブラフ!?でも、もう…!」
その言葉通り、魔理沙はその場で膝をついた。フルパワーの連続照射には、身体を動かす分のエネルギーまで全てつぎ込まなければならなかった。対して飛びずさった早苗はふらついたものの、いつの間にか周囲に戻っていた4つの光球とともに、なんとか立った姿勢を維持していた。もう弾を撃ち出す霊力は残っていないが、結界から霊力を供給されているオプションからならば撃てる。
「これで、決着ですね…あれ?」
早苗の意思に反して、光球はまったく動かなかった。霊力を使い尽くし、無意識レベルの簡単な司令さえ送れなくなってしまったのか。そう思った時、魔理沙が帽子のつばで隠れた口の端を少しだけ上げ、タネを明かした。
「ダメだな早苗…自分のものには、ちゃんと名前を書いておかなくちゃ」
「えっ……あっ」
4つの光球は、同時に主の命令に従った。その主とは魔法少女ではなく、手品を操る魔法使いだった。
「決着…ね」
霊夢は訪れた静寂の中で、小さく呟いた。
「どうやらこれで問題は無いようですわね。予定通り、明日から運用を開始しましょう。」
「明日からってねえ、もう夜じゃない。どうやって幻想郷中にいる有象無象全体に広めるって言うのよ」
満足気な発案者に対し、管理運営の片棒を担がされる霊夢が無理を主張したが、ご心配なく、と陽気この上ない調子で返されてしまった。いわく既に今日一日、藍が幻想郷中を駆けずり回って主な勢力にルール追加の知らせを届けさせられていたらしい。霊夢はのんきな主人の正当な命令を拒絶できない彼女の式に哀れみを禁じ得なかった。
「ったく、それじゃそれ以外の草の根妖怪には…文、いるんでしょ」
彼女が虚空に向かって呼びかけると、一陣の風とともに、一枚歯の高下駄をはいた快活そうな少女が現れた。
「あやや、やっぱり気付いておられましたか」
「当然でしょ、別に隠れてもいなかったくせに」
あやや、これはこれは…と曖昧な返事を返す彼女に、霊夢はルールの草稿を渡し、独占情報にしてやる代わりに明日の新聞に載せるように要請した。
「任せて頂きましょう。確実に明日の朝には幻想今日中にばら撒いてやりますよ。おっと、ばら撒きは禁止でしたかな」
「勝手に内容変えるんじゃないわよ」
「もちろんです。私はでたらめこそ書きますが事実は曲げないのがモットーです。我が文々。新聞の名にかけて」
でたらめも書くんじゃないわよ、あややこれは手厳しい、といったやり取りの後、再び一陣の風とともに天狗記者は去っていった。
当面の問題が片付いたことで、胃が空腹を訴えてきた。その要望に答えるべく、境内の中心に伸びている2人を起こし、魔理沙には主食となるキノコを取りに帰らせ、早苗には下ごしらえを手伝ってもらうことにした。
「ふぅ、いくらそれほど食べる必要がないとはいえ、やっぱり美味しい食事というのは幸せを感じますわね。楽しみですわ」
「あんた、ちゃっかりうちで食べていくつもりね…。ところで、あの境内いつになったら直るのよ。あれだけ大掛かりな結界なんだから、修復機能くらいついてるんでしょ?」
「やあねぇ、そんなのついてるわけないじゃない。ほっといたらずっとあのままよ?」
「…あんた、あれ元通りにするまで夕飯はお預けだからね」
その後、自分の式にも式の式にも協力を断られた妖怪の賢者が、泥だらけで食卓に姿を表したのは鍋の中身が半分以上失われた後だった。
ともかくこの流れる時間さえも暖かさを帯びているような季節を、幻想郷の歴史上誰よりも苛烈でのんきな博麗の巫女である博麗霊夢はありがたく享受していたのであるが、そこに現れた忌むべき介入者は、既に十分な長さを引き籠もって過ごしてきたばかりなのであった。
当然あって然るべき侵入の痕跡を一切現すことなく、その侵入者は背後から腕を首に絡ませてきた。
「ん~れいむ~~おはよ~~」
「もう昼過ぎよ」
つれないわねえ、などと言いながら彼女は空間ごと霊夢の視界に回り込んできた。目元をこすりながら寝惚け眼で霊夢に笑いかけるのは、幻想郷における最高の存在位階を持つ存在、八雲紫である。幻想郷に存在するあらゆる有象無象が彼女について語る時、そこにはプラスにもマイナスにも畏怖の念が篭っており、一定の知性を有する者からは「妖怪の賢者」などという大層な呼び方をされている。しかし彼女とある程度の交友を持つ者からすればそんな偉大な存在として扱う気にはならず、「見てくれは良いけどただの熊みたいなもんよね」とは本人同席の酒の場でべろんべろんに酔っ払った霊夢の弁である。この評価に関しては、彼女とまともに関わりを持てるような者も、大抵まともではない程度の実力者に限られることに由来するところもあるのだが、実際この冬の間、熊のように棲家で冬眠して過ごしていたことは紛れも無い事実なのであった。
「まだ冬眠から起きて2日しか経ってないのよぉ?人間の睡眠時間で考えたら起きてせいぜい30分ってとこかしら。まだ布団から出るべきか否か逡巡している頃でしょう?」
「残念。私は30分後にはもう朝食の準備も半ばに差し掛かっているわ」
まだゴネようとする寝ぼけ熊の額に軽く手刀をくれてやった霊夢は、見計らったようなタイミングで沸いたお茶を淹れるために席を立った。持ち上げた茶筒の軽さに買い出しの必要性を感じながら、湯のみを二杯持って居間に戻ると、虚空に開いた巣穴からのそのそとその主が這い出てこようというところであった。
「無指向性弾幕禁止の制?」
対面してお茶をすすり、先程まで独占状態にあったお茶請けに伸びる魔の手を払いながら、先に要件があるのか無いのかはっきりさせるよう求めた家主に対し、応じた紫の口から出たのは彼女に似つかわしくない響きの言葉だった。
「なんとかの制、なんてあんたからそんな堅苦しい響きの言葉が出るとは思わなかったわ。何の気まぐれ?」
「気まぐれでこんなこと言いたく無いわよ、全然気がまぐれないわ」
そういって取り出したのは、堅苦しい文体と書き手の生真面目さが透けて見える文字によってしたためられた1通の書簡であった。折りたたまれたそれを両手で広げた向こうで、遠慮を知らない客人が再びお茶請けに手を伸ばすのを感じたが見逃してやることにする。その文章量は確かに多かったが、どうやら書き手は独りよがりな弁舌家ではないようで、要点に関しては非常に簡潔かつ明確な書き口で記されていた。
「…ま、やっぱり慧音さんよね」
書簡の締めに控えめな大きさで記された書き手の名前を見て、思わず呟いた。
「彼女も大変よねえ、勝手に妖怪相手の交渉役みたいな立場にされちゃって」
紫は明らかに他人行儀な様子で言うが、実際のところあそこまで人間の生き方に寄り添おうとする妖怪自体が異端なのだから当然だろう。紫は幻想郷の管理者ではあるが、そこに住む者は管轄外であり、ましてその生き方など完全な不干渉を保っている。本人は面倒だからと言っているが、その都度の修正より大きく逸れたものを後で修復する方が何倍も労力がかかるのは自明の理である。そこに何か彼女なりのこだわりか美学があることを、霊夢はとうの昔に気付いているが口に出したことはない。それこそ口出ししたところで仕方のない不干渉の領域であり、何かあったらその時に解決してやればいいのだ。そう考える霊夢は、『博麗の巫女』という対処療法的システムが、そして彼女の存在自体が紫の美学の上にその根底があるということにはまだ気付いていない。
「ふーん…要するに、若い妖怪の小競り合いが里の近くで起きちゃって、そいつらがやたらめったら弾幕をバラ撒いたせいで里の外れにある倉庫とかに被害が出たってわけね」
「連絡を受けた彼女がそこへ向かったもののとっくに決着がついて当事者はいなくなったあと。おまけにその倉庫の持ち主が、私財を肥やすことと他人に突っかかることが生きがいみたいな厄介な人間の男らしくてねえ。気の毒なことにそいつの癇癪が彼女に向かって炸裂して、なし崩し的に私への執り成しを押し付けられたそうよ」
煎餅を頬張る紫を視界の端に捉えながら、霊夢は幻想郷では浮いて見えるほど勤勉で生真面目な半人半獣の教師のことを思い、胸に沸いた様々な感情をまとめてため息として吐き出した。言葉にならなかったのは、彼女の気質に対して尊敬よりも諦めの念の方が強かったためである。
慧音はその特異な身の上でありながら人里で教鞭をとっているだけあり、豊富な知識を有しているだけでなく、その人柄も勤勉で実直、因縁なく彼女と知り合い好意的な印象を持たない者は、数少ない例外を除いてまずいないだろう。今回はその数少ない例外に当たってしまったわけであるが。
半人半獣である彼女は種族としての妖怪的特性では純粋な妖怪に対して遅れを取るが、聡明な理性と経験に基づく的確な判断により、総合的には幻想郷中でも屈指の実力を持つ。そんな彼女であれば、只の人間である今回の癇癪玉男の命令に対して唯々諾々と従う必要は、弾幕が法律と言われることさえあるこの幻想郷においては皆無なのだが、ある意味人間よりも人間らしくあろうとする彼女は、例えおおよそ文化的とは言えない相手に対しても、それが人間である限りあくまで文化的な方法で解決しようとするのである。それが人間の身でありながら妖怪の法の中で生きる霊夢にとっては迂遠な方法に思えて仕方がないのだ。もし当事者が霊夢であれば、手を上げないまでもその男を直接紫に引き会わせる位のことはしただろう。他人の力をあてにして自分の問題の解決を誰かに押し付けるようなやり方は彼女の最も嫌うところである。もっとも、そうした手口を彼女以上に嫌いそうな人物が、彼女の友人の中にいるのではあるが。
「ほんと、よくやると思うわ。尊敬はしてるけどね」
「あら珍しい。あなたが誰かを褒めるなんて」
「あんたが思ってるより数倍は謙虚よ。あとお菓子食べ過ぎ、少しは遠慮ってものをしなさい」
「私が幻想郷で一番えらいから遠慮なんてしなくて良いんですー。あなたのものは私のもの、貴女も私のものなんですー」
「うっさい」
寺子屋において生徒の前で教壇に立っている女教師と、昼下がりの神社で煎餅をくわえて屁理屈をこねる不詳の少女。どちらに「人の上に立つ者の威厳」が備わっているかは誰に聞いても答えは明白だろう。紫が振りかざそうとした権威はその字面が内包する意味に比べ極々小さな威力しか持たないのであった。そもそも彼女が権威を行使しようとすることなど、その権威が通用しない相手に対してか、希望を押し通したところで小波さえ起こせないような影響しかない時にしか無いことを霊夢は知っている。
都合よく目的の獲物を拝借して満面の笑みを浮かべる至高の賢者だが、一部の人間から見たこの世界は、管理者である彼女よりよほど都合の良いものに見えている。慧音が高い志のもと、一薙ぎでその生命を奪える相手にその力を行使しない選択をしていることなどつゆ知らず、犯人に浴びせそこねた怒りを彼女にぶつけた男は、力ある妖怪が爪を立てずに頭を下げているのは、自分を恐れているためだと判断し、今の立場は絶対的優位にあると解釈した。結果男はは存在しない責任を彼女に求め、唯々諾々と訴状を作成してきた妖怪を見てさぞ優越感に浸っていたことであろう。
「わたくしには理解できない行動ではありますが、彼女が望んで歩んでいる道です。わたくしが口を挟んだり、まして『妖怪の力』を代行したりするようなことではありません。幻想郷がその理を保ち続ける限り、わたくしは傍観者でしかない。幻想郷は全てを受け入れるのです。それはそれは」
「はいはい残酷なことですわね。あ、お茶無くなっちゃった」
決め台詞を雑に横取りされた妖怪の賢者は、流し目のしたり顔のまま硬直し、台所に向かうため立ち上がった霊夢の背後で左手をスキマに突っ込んだ。恐らくやり場のない悔しさを、哀れな式の頬肉を挟む指にでも込めているのだろう。
「それで?まだ肝心のルールの内容を聞いてないんだけど?」
「あら、察しが良いわね。その通り、お硬い言い回しだけど単なるルールの改定に相違無いわ。」
再び満たされた湯呑みを持ち上げながら紫は詳細を語り始める。
1, 無指向性弾幕(ばら撒き弾)の使用禁止。
2, 弾幕の射出方向は対象の現在位置、若しくは移動予測位置に限る。
3, 道具、魔法、武器他の使用並びに威力等の規定は、1,2の条項を踏まえた上でスペルカードルールに準ずるものとする。
4, このルールを適用する場合、勝負の成立と同時に予め幻想郷全域に施された術式により、戦闘領域の制限と領域内への障害物の設置が行われる。領域の外縁は弾幕と人妖に対し擬似的な壁として機能し、これにより戦闘終了まで参加者は領域外に出ることが出来ない。
4-1,設定された戦闘領域内に元々適当な障害物が存在していた場合、障害物の設置は行われない。
5, 参加者は4機まで弾幕の発射機構を備えたオプションを使用することを認める。形状及び実体の有無は問わないが、オプションの発射する弾幕は射出方向を対象の現在位置のみとし、スペルカードルールに則ること。
5-1,参加者の能力不足等の事情によりオプションを用意できない場合、基本的な機能のみを備えたオプションを一時的に術式から召喚することができる。
5-2,オプション以外の随意的動作が可能な物の使用は制限しない。但し弾幕を発射することは禁ずる。
6, 上記の条項から逸脱しない限り、参加者全員の同意により該当戦闘中のみ適用される臨時条項を追加することを認める。
紫が述べる条項を書き出した霊夢は、一通り読み返してある印象を抱いた。
「なんか全体的に具体性が無いわね」
例えば、ばら撒き弾と狙い撃つ弾の定義。例えば、障害物の数や強度。後者に関しては実際戦う者の意図でどうにかできるものではない為に、記述上の言葉が足りなくても問題として取り上げられることはないかもしれない。しかし前者は明らかな抜け道である。どれほど緻密に定められたルールでも完全に穴を塞ぐことは不可能であり、その穴を何とかして通ろうとする者が現れるのも不可避であることは自明の理だが、紫の残した穴はもはや通行することが目的のトンネルにさえ見える。前方180°に弾をバラ撒いて「これは高度な先読みの結果を反映した予測弾だぜ」などという輩が出ても何らおかしくはないだろう。トンネルの先ではチキンレースが行われることが安易に予想できるにも関わらず、当の施工者はなんら悪びれていない。
「具体性なんて必要ありませんわ。数字に結びつけた首輪のような制度など幻想郷に似つかわしくありませんもの。」
そう言う紫の表情が、一妖怪から管理者のものに近づいたように霊夢は感じた。
「それに、長い一生の大半を退屈の中で過ごしてきた妖怪が、与えられた新たな玩具を自分から壊すような真似はしないでしょう。遊びは与えられたルールの中で全力を尽くすのが最も面白いということを、永く生きて生き飽きた者ほどよくわかっているはずですから。」
転じて一妖怪としての顔に戻った紫の表情は、その言葉通り玩具をもらった子どものように、そして刹那、霊夢よりも幼さを伴っているようにさえ見えた。
「ふーん…まああんたが良いならそれでいいんだけど。しっかし藍も気の毒ねえ。ご主人が眠りこけてる間にこんなもの考えてたなんて」
「ちょっとー、それ考えたの私なんだけどー?」
「嘘ばっかり言って。あんたまだ起きてから30分相当の活動しかしてないって言ってたじゃない。」
「その通り。つまりこの程度のこと、妖怪の賢者である私にとっては朝飯前ってことなのよ」
二重の得意を鼻にかけ、横槍を入れられた先のお返しとばかり、これ以上無いしたり顔を霊夢に向けた。それを受けるは年端もいかない人間の少女だが、それでも霊夢には目の前の賢者の顔が、親に褒美をねだる幼い娘の顔にしか見えなかった。
「はいはい。それでいつからこのルールを適用するわけ?幻想郷全土をカバーする術式なんて相当手間が掛かりそうなんだけど」
「…心配いらないわ。もう殆ど術式の構築はやってあるから」
「藍が、でしょ」
「……」
褒美をもらえなかった娘は、今度は自分の功績を主張できなかった。
「…とにかく、微調整と今後の管理の為に、少し霊夢にも手を貸してもらうことになります。いいですね?」
「まあ、仕方ないわね」
会話の主導権を取り戻そうと、急に大人びた話し方を使い始めた大妖怪に対して笑いを噛み殺しながら、霊夢は頷いた。
「あとは、本格的な運用の前に誰かでテストができればいいのですけれど。誰か適当な者はいないかしら」
「ちょうど良い奴ならほっといても来るわよ。そういうものなんだから」
霊夢が言った瞬間、向かい合う2人の背後で障子戸が同時に開いた。
「よう霊夢!今夜最後のきのこ鍋なんてどう…」
「霊夢さん!今年のお花見の予定ってどうなって…」
「お?」
「え?」
現れた2人の侵入者は、正面に家主では無い相手を見とめ、互いに硬直した。
「…ほらね、まさか2人来るとは思ってなかったけど。あとあんたら呼び鈴くらい鳴らしなさい」
博麗神社にそのようなものが設置されていないことは、ここを訪れる誰もが知っている。
4杯に増えた湯呑みから1つを持ち上げながら、侵入者その一は与えられた情報を脳内で整理していた。
「…なるほど、新しい決闘ルールねえ」
「飲むのは良いけど、頭の上のそれ脱ぎなさいよ。部屋の中なんだから」
「ん、ああそうだな」
相手の性格からして、一言二言の屁理屈を予想していた霊夢は、あまりに素直な反応のせいで吸いこんだ息を無為に吐き出さなければいけなかった。どこか機械的な動作で、本人の体格には不相応なほど大きな三角帽子を頭から下ろした霧雨魔理沙は、改めて湯呑みの中身を啜った。それに応じて湯呑みをおいたのは、彼女に対面する侵入者その二である。
「それで本格的に始動させる前にテストをしたいと言うわけですね」
「そういうことです。やって下さるかしら?」
「ふんふん、なかなか面白そうですね…本格採用前のテストっていうところが特に!」
目を閉じ、しきりに頷きながら話す東風谷早苗に対し、揺れる湯呑みの水面に目をやっていた魔理沙が口を開いた。
「おいおい、テストの何が面白そうなんだ?テストって言ったら要するにまだ実験段階ってことだろ。楽しむのはその次のステップじゃないか?」
「いえいえ、歴史の表舞台には名が残らなかった隠されたコンペティション!そこは最高のドラマの宝庫であり、後世の創作作家を刺激してやまない最高の材料なんですよ!」
「…いまさらだから別にいいんだけどさ、どうにも話が噛み合ってない気がするな。だいたい歴史の表舞台に出てないのにどうやって後世の作家が知ったんだよ」
彼女たちをある程度知る者ならば、この会話における立場が逆であったほうがよほどしっくり来ただろう。大抵の場合、魔理沙は積極的に厄介事に首を突っ込み、本人の意図はどうあれ場を引っ掻き回すのが常である。しかし今回魔理沙がこうした態度を取るには彼女なりの理由があった。現在でこそ魔理沙は霊夢に勝るとも劣らない実力者として妖怪の間に名が知れているが、世に現れた時から博麗の巫女の力と使命を背負っていた霊夢とは違い、今でも魔理沙自身は、ほんのちょっと種族の向こう側を覗いただけの、ただの人間である。ただの人間が幻想の支配者層たる妖怪と同じ舞台で踊るには、自身を相応に飾り立てる必要がある。魔理沙がその身にまとうドレスは、彼女が『実験』と称する幻想的科学のパッチワークである。日常を一次元上の世界に維持するため、彼女が求める「種族の境界を壊す計算式」を扱うには、それ相応のリスクが伴う。決して自分の口から語ることはないが、過去何度も度を越えた力を目指した『実験』により、彼女の存在そのものが危うくなるほどの「痛い目」を見てきたことを霊夢は知っている。それゆえ、彼女は自分を過信しないこと、物事を正確に推し量ることを知らず知らずのうちに身につけ、それにより身の丈を越えた豪奢なドレスに埋もれることなく、今も舞台で踊り続けることができているのだ。
「私の組んだ術式には心配いりませんわ。テストと言っても、運用前に一度霊夢に慣らさせておきたいだけですから。」
術式組んだのは藍でしょ、と霊夢に訂正され硬直する紫を横目に、数秒考えこむ素振りを見せたのち、一気に湯呑みを空にした理論派の魔法使いが立ち上がった。先のぎこちない動作は、既に脳内でルールのシミュレーションを始めていたことによるものだった。
「じゃあ早いうちに始めようぜ。鍋の準備もしたいしな。戦うのは霊夢か?早苗か?なんなら賢者サマだって構わないぜ」
挑発ともとれる言葉を受けて霊夢は立ち上がりかけたが、紫が片手でそれを制した。
「霊夢は私と管理のお勉強よ。もちろん1人しか来なかったら自分で遊びながら覚えてもらうつもりでしたが」
「それなら、私の出番ですね!」
らんらんと目を輝かせた緑髪の巫女を見て、もう一人の巫女は新しいもの好きで幻想郷中に名を知られる彼女の主神のことを思わずにいられなかった。ペットは飼い主に似るというが、あの一家の場合どちらがペットでどちらが飼い主なのだろうか。とりとめもないことを考えながら、先に外へ飛び出していった2人の友人の後を追いかけるのであった。
日が伸びたとは言え、すでに空には夜の影が這い出してきているのが見える。吹いてくる風の冷たさに冬の残り香を感じる夕方、暮れかけた太陽が照らす博麗神社の境内において2人の少女が対峙していた。
「ルールは先ほど説明したとおりです。ただし、今回はシステムの確認も兼ねて、2人とも支給のオプションを使用していただきます。」
この「遊び」の管理者の声に呼応して、境内の外郭が瞬くと同時に、無機質な色味をしたブロックが幾つか現れた。数瞬遅れて、2人の参加者の足元から緑色に明滅する4つの光球が浮かび上がってきた。色味を持たない魔法使いと、光球と同じ鮮やかな色をまとった巫女は、彼女たちの拳より一回り大きいそれを、思い思いの動作によって、動きを確かめるように体の周囲を飛び回らせた。
「ふーん、思ったより自由に動かせるもんだな。でもこの色はなんとかならないのか?これじゃまるで早苗専用みたいじゃないか」
少しむくれた様子の魔理沙とは対照的に、早苗はオプションの動きに踊りをつけてはしゃいでいる。賽銭箱の前に腰掛けて眺めている霊夢の耳に、微かに魔法少女という単語が早苗の声色で届いた。
「色の変更ねえ、確かに変えられたほうが綺麗かしら?藍に言っておくわ」
「今まったく自分で術式組んでないって自白したわね」
管理者が今日何度目かのフリーズを起こしている傍ら、新たなルールという玩具を与えられた少女たちは、それで遊ぶ許可を今か今かと待ちわびていた。
「よーし大体わかりました!いつでもいけますよ!」
「だってよ。おーい霊夢、もう始めていいのか?」
「はいはい、それじゃあ…開始!」
「あっ、ちょっ、最初の宣言はわたくしが…!」
幻想郷と遊びの管理者たる妖怪の賢者にも、なにものにも縛られない楽園の巫女と、過ぎ去った一瞬まで管理することは不可能だった。
開始の宣言と同時に、白黒の影が緑色の光を置いて単体で飛び出した。
「できることだけやるのが私の流儀なんでな、まずはいつもどおりやらせてもらうぜ!」
宙を駆ける箒に片膝をつき、八卦炉を取り出しながら一直線に境内を横断しようとする魔理沙に対し、対する早苗はその場から動かず、大げさな動作とともに4つの光球を前方へ走らせた。のちに彼女自身が語るところによると、魔法少女にはバンクになる格好いい動作と決めポーズが不可欠なんです!ということだった。もちろん、幻想郷において彼女の意図する事を正確に理解できた者は、片手で余る程度しかいなかったことは言うまでもない。
「甘いぜ!全部撃ち落としてやる!」
心の魔法少女が放った光球に向けて、魔法使いの装いをした少女は自らの獲物を構えた。しかし、そこから放たれるはずだった星屑の奔流は流れることなく、ただ手の先で派手な光が弾けただけだった。
「あぁ…あの中で弾をばら撒こうとするとああなるのね」
先手必勝のつもりが無防備に敵陣の中心に突っ込む形になり、自らの記憶を恨む言葉を漏らしながら、4本の弾道が交差する中で必死で身体をよじる魔理沙を哀れみの目で眺めながら霊夢は呟いた。
「こっ…のぉ、これをっ、抜けさえすればっ、あとはお前だけだ…ろっ!」
地面と光球の間に一瞬生じた僅かな空間に、身体を反転させて頭から滑りこませる。後頭部の1寸先に地面を感じながら、背面のまま通りぬけ、振り向きざまに八卦炉を起動させた。
「こいつでっ!恋符『マスター…」
「…烈・在・前!!」
地上の早苗と、中空の魔理沙。決して遠くはないその中間の地面に、直角に交差した九本の光線が浮かび上がっていた。
「秘法『ナインウォール』!!」
地面に描かれた陣から瞬時に立ち上った9枚の光の壁は、とっさに身を反らせた魔理沙の鼻先を掠めた。4機のオプションを操るのは自衛機能を持たないコアのような存在ではなく、自分と同じ戦う術を持った人間であることを刹那忘れていたのである。ここでも魔理沙は、記憶神経へリソースを回さなかった自分を呪うことになったのである。
「なによナインウォールって…『九字切り』でしょうに。勝手に秘法の名前変えちゃって、またあの主神に怒られるわね、あれ」
「楽しんでいただけているようで何よりですわ」
ようやく最初の号令を掠め取られたショックから立ち直った管理指導者と、安易なネーミングにため息をついた受講者は思い思いの感想を口にした。管理を学ぶとは言っても、基本的には霊夢がほぼ無意識下で行っている博麗大結界の管理とさして違いは無い。ルールから逸脱した行為は自動的に結界が無効化し、また外部から強制的に割り込まなければならないような事態は、このルールを受諾して行うような人妖の中では起こらないだろう。霊夢がやらなければならないことは実際の発動中の感覚に無意識を慣らすことだけであり、実際のところ体のいい観客といったところである。彼女らの目の前で行われている見世物は、少なくとも退屈さとは無縁の出来を表していた。
すんでのところで早苗の『魔法』を避けた魔理沙は勢いをそのままに宙返りし、直上を見上げた早苗の視線と交差した。
「今度こそこっちの番だ!これでも喰らえ!」
彼女の纏うモノクロの装束が夕日に照らされ、夕闇を体現したかのような赤と黒の入り混じる体を捻り、回転しながら幾つものきらめく物体を文字通りばら撒いた。
想定する必要の無いはずだった無作為な爆撃を受け、早苗は思わず前方へ、つまり先程まで魔理沙がいた空間に向けて飛び出した。
「ちょ、ちょっと!ありなんですかそれぇ!?」
「当たり前だ、ただビンを『落としてる』だけだからな!カッコつけて!」
着弾したビンが次々と爆発している空間を挟み、緊急回避した早苗は最初に飛ばしたオプションのもとに降り立ち、頭から地面に向かっていた魔理沙は両手で着地して跳ね起き、再び正対した。
「…で、ありなの?管理者サマ」
「ありなんじゃないかしら?あれなら外に飛んで行くこともないし、ダメなら最初みたいに無効化されるでしょうし」
「あんた完全に開き直ったわね…」
霊夢の呆れ果てた視線をすまし顔で受け流した彼女は、どうやら管理者としての尊厳を放棄し、一妖怪として観戦することを決めたらしい。
(あ…危なかった…。今の一瞬で決着しててもおかしくなかった…)
心中の動揺を悟られないように、あくまで表情は冷静を保ちながら、早苗は心の平静を取り戻そうと務めた。
(うん…大丈夫。魔理沙さんが今のにオプションを時間差で合わせてきたら負けてたかもしれないけど、今回は使う気が無くて助かった…。もう油断しない、寄せ付けないまま押し切る!)
未だルールがテスト中で不明瞭なことを改めて頭の片隅に書き留め、再び意識を視線の先の相手に向けた。
「今度はこちらから行きます!臨・兵・闘・者…」
「またそれか?二度と同じ手は食わないぜ!」
魔理沙が掲げた手のひらに光が集まる。その現象はまさに妖術のそれだが、魔理沙が意識的に行っていることは「魔法のように見せる」手品の類である。あらゆる分野において、完全に研ぎ澄まされた技術は最上の賞賛として「まるで魔法のようだ」と評される。単純極まりない自然界の計算式を、自らの経験と豊かな感性によって人外との戦いに耐えうるまでに練り上げた彼女は、人間として許される魔法使いの称号が最もふさわしい人物かもしれない。
早苗が印を切り終えるまでの一瞬、速射性の高いレーザーで一気に撃ち抜こうという策だろう。しかし早苗も憧れだけの無力な少女ではない。それを誘って敢えて隙を晒す事を選んだのだ。
「皆・陣…そこっ!」
早苗の詠唱が途切れたことに危険を察した魔理沙は、横の地面に身体を投げ出した。瞬間、背後から音もなく近寄っていた緑色の光球が、1秒前まで彼女の身体のあった空間を撃ちぬいた。
「いつの間に…!だってオプションは全部早苗のところに…」
目をやった早苗の周囲には、確かに光球が4つ漂っていた。しかし次の瞬間、早苗の左手が添えられていた1つが弾けた。
「これは私のミラクル☆マジックボールです!!オプションは印を切る前から背後に向けて動かしていたんですよ!」
「ちっ、浮かれたお嬢様かと思ったらとんだペテン師だったってわけか!」
「魔理沙さんからお褒めに預かり光栄です。でも、話してる暇はありませんよ!そのオプション、まだ生きてるんですからね!!」
同時に、魔理沙の目の前に浮かんだ光球が、その獲物を捉えようと再び動き出した。一瞬にして狩られる側に追い込まれた手品師は、身体を起こすこともかなわず無様に転がって、平等に与えられた舞台装置に縋ることしか出来なかった。
「はぁっ…はぁっ…。まさかこんな物陰に逃げこむことになるなんてな…。ルールに助けられるっていうのはこういうことか」
魔理沙が逃げ込んだのは、舞台が設定された時に現れたブロックの影である。大きさは一辺10尺弱の立方体で、表面は岸壁から人の手によって切りだされた石材のように波打っていて、それ自体の素材も石と寸分違わぬ特徴を示している。追い込まれた彼女には知るよしも無かったが、それは境内に敷かれた石畳の石材と同質のものだった。その点を霊夢が指摘すると、この舞台を設計した本人は、彼女なりの美学をもって説明した。
「戦いの場を作るために、その景観を害するようなものを設置することはあってはなりません。ここにおける戦いとは美しくなければならず、その舞台となる空間もまた同じことが求められるからです」
演出家の意図とは別に、設置された舞台装置は目隠しとしての役割を存分に果たしていた。以下にオプションが自在に動かせようとも、操る本人から対象が見えていなければ、狙い撃つことは当然不可能である。適当に撃つことが封じられたこのルールにおいて、一瞬でも姿を隠すことは非常に有効な防御策となり得るのだった。
早苗がオプションを引いたのをみた魔理沙は、この瞬間を逃さず、一気に攻勢に出ようと飛び出した。あらゆる勝負の世界において「流れ」というものは必ず存在する。魔理沙のこの判断は勝負師としての勘が強く働いたもので、あながち間違いとは言えなかっただろう。しかし、この場において流れを握っていたのは未だ早苗のままだった。
八卦炉のチャージを臨界にして、転がり込んだのとは逆の方向から飛び出した瞬間、眼前に緑色の光を感じた魔理沙は、無意識のうちに地面を蹴って前方に飛び上がった。
「危ねえっ!!でも避けられた…!?ちがう!!」
視界に残る緑の球体が弾を発射することはなかった。危機から脱した安堵感と、見破った罠を確認しようとした優越感が舞台上の手品師を絡めとり、自分がジョーカーを掴まされたことに気づくのを一瞬遅らせた。その間に、役を演じきった正義のヒロインは、描きかけの『魔法陣』を完成させた。
「烈・在・前!!これで終わりです!秘法『ナインランサー』!!」
先ほどとは異なり、地面ではなく早苗の目の前に垂直に描かれた光の交差は、9本の光の槍を哀れな手品師に突き出した。守谷の巫女としての秘法『九字刺し』を聖なる魔法に昇華させ、正義の勝利で舞台は幕を下ろすかに思われた。
しかし、物語の相手たる手品師は、単なるエキストラで退場することを良しとしなかった。小手先の技術を捨て、力ずくで結末を自分の元へ手繰り寄せようとしていた。
「…ぉぉぉぉおおお!!彗星!!『ブレイジングスター』!!」
半ば破れかぶれで放出したエネルギーは、彼女の華奢な体を圧倒的な推進力で空高く吹き飛ばし、その主自身をいつしか夜の支配していた星空に打ち上げたかのように見えた。殺到する9本の光線は虚空を貫き、地上の客星のごとく境内を照らしだした。
「…そろそろ決着ね」
「ええ、いつ見ても、やはり全ての力を尽くして相手を乗り越えんとする、人間の戦いが一番美しいわ」
客星に照らされた2人の傍観者の表情は、戦いの激しさに対してどこまでも静かで、全ての喧騒が2人を避けて流れているかのような印象さえ与えるものだった。
確信していた勝利を取り上げられた早苗は、遥か上方にいるはずの相手の姿を求め、戦意をその目にたぎらせて空を見上げた。
刹那、全ての世界が止まったように感じた。
その目に映し出されたのは、満天の星空。客星の輝きが消え去り、暗闇に包まれた境内から見上げた夜空には、空を覆い尽くすほどの輝きが満ち満ちていた。圧倒的な美しさと迫力に、一瞬戦いの中にいることを忘れた地上の少女は、星空の中心にひときわ輝く星を認め、その光が自分に向けて放たれる事を思い出すのに数秒を要した。
「星符…!!『ドラゴンメテオぉ』!!」
星空を満たす幾万の光が、たった1つの小さな恒星の輝きに飲み込まれたかのようだった。天球の星々を全てまとめて叩きつけたようにさえ感じるエネルギーの奔流の中で、かろうじて結界を張った早苗は飛びかける意識を必死に繋ぎ止め、一瞬にして砕け散った立方体の後を追わないようにするだけで精一杯だった。
光の豪雨が過ぎ去った後、もうもうと立ち込める焦げ臭い煙の中で、早苗は震える足を激励して立ち上がり、「舞台の主人公」たる姿を保とうとした。一寸先も見えない煙の中で、再び上げた顔の目の前に、八卦炉が突き出されていた。
「流星の後には、星屑が綺麗に輝くのさ…これで終わりだ!」
「…まだです!!」
早苗は最後の力を振り絞り、後方へ向けて思い切り地面を蹴った。しかし、突き出した八卦炉からはカラフルな光が飛び散っただけだった。
「引っかかったな…ばら撒き弾は使えないんだぜ…」
「ブラフ!?でも、もう…!」
その言葉通り、魔理沙はその場で膝をついた。フルパワーの連続照射には、身体を動かす分のエネルギーまで全てつぎ込まなければならなかった。対して飛びずさった早苗はふらついたものの、いつの間にか周囲に戻っていた4つの光球とともに、なんとか立った姿勢を維持していた。もう弾を撃ち出す霊力は残っていないが、結界から霊力を供給されているオプションからならば撃てる。
「これで、決着ですね…あれ?」
早苗の意思に反して、光球はまったく動かなかった。霊力を使い尽くし、無意識レベルの簡単な司令さえ送れなくなってしまったのか。そう思った時、魔理沙が帽子のつばで隠れた口の端を少しだけ上げ、タネを明かした。
「ダメだな早苗…自分のものには、ちゃんと名前を書いておかなくちゃ」
「えっ……あっ」
4つの光球は、同時に主の命令に従った。その主とは魔法少女ではなく、手品を操る魔法使いだった。
「決着…ね」
霊夢は訪れた静寂の中で、小さく呟いた。
「どうやらこれで問題は無いようですわね。予定通り、明日から運用を開始しましょう。」
「明日からってねえ、もう夜じゃない。どうやって幻想郷中にいる有象無象全体に広めるって言うのよ」
満足気な発案者に対し、管理運営の片棒を担がされる霊夢が無理を主張したが、ご心配なく、と陽気この上ない調子で返されてしまった。いわく既に今日一日、藍が幻想郷中を駆けずり回って主な勢力にルール追加の知らせを届けさせられていたらしい。霊夢はのんきな主人の正当な命令を拒絶できない彼女の式に哀れみを禁じ得なかった。
「ったく、それじゃそれ以外の草の根妖怪には…文、いるんでしょ」
彼女が虚空に向かって呼びかけると、一陣の風とともに、一枚歯の高下駄をはいた快活そうな少女が現れた。
「あやや、やっぱり気付いておられましたか」
「当然でしょ、別に隠れてもいなかったくせに」
あやや、これはこれは…と曖昧な返事を返す彼女に、霊夢はルールの草稿を渡し、独占情報にしてやる代わりに明日の新聞に載せるように要請した。
「任せて頂きましょう。確実に明日の朝には幻想今日中にばら撒いてやりますよ。おっと、ばら撒きは禁止でしたかな」
「勝手に内容変えるんじゃないわよ」
「もちろんです。私はでたらめこそ書きますが事実は曲げないのがモットーです。我が文々。新聞の名にかけて」
でたらめも書くんじゃないわよ、あややこれは手厳しい、といったやり取りの後、再び一陣の風とともに天狗記者は去っていった。
当面の問題が片付いたことで、胃が空腹を訴えてきた。その要望に答えるべく、境内の中心に伸びている2人を起こし、魔理沙には主食となるキノコを取りに帰らせ、早苗には下ごしらえを手伝ってもらうことにした。
「ふぅ、いくらそれほど食べる必要がないとはいえ、やっぱり美味しい食事というのは幸せを感じますわね。楽しみですわ」
「あんた、ちゃっかりうちで食べていくつもりね…。ところで、あの境内いつになったら直るのよ。あれだけ大掛かりな結界なんだから、修復機能くらいついてるんでしょ?」
「やあねぇ、そんなのついてるわけないじゃない。ほっといたらずっとあのままよ?」
「…あんた、あれ元通りにするまで夕飯はお預けだからね」
その後、自分の式にも式の式にも協力を断られた妖怪の賢者が、泥だらけで食卓に姿を表したのは鍋の中身が半分以上失われた後だった。
独りよがりの努力に満ちた最悪の文章でした。
またここでさえ意外なくらい見当たらない弾幕ごっこの描写があるのもまた嬉しい
弾幕描写のテンポが人によっては少しもたつきを感るかもしれないが充分に許容の範囲内と思われ
また、キャラの関係だけに留まらず、世界観がしっかりとしていて作者様の描いている幻想郷が手に取るように伝わってきました。
個人的にはこういった「自分の世界観」を文章として起こしきれる作者様は特に尊敬しています。
一方で地の文が長すぎるという点については、確かに最初は読みにくさを感じた事は事実です。
けど、この地の文をしっかり読み込むんだ!と強い意志を持って読めればという条件付で、その魅力は十分に伝わってきたと感じます。
これは地の文を書くのに四苦八苦してしまう自分などには、やれと言われても出来ない芸当で、
豊かな地の文はあなたの書かれる作品の大きな持ち味だと思います。
ただそれでも、戦闘シーンは小気味よいテンポが欲しかったかなとも思います。
そのためには地の文はあえて短文で区切り重ねていくとか、改行や行間を生かすといった手法が考えられるのかなと思いました。
構成と内容を見て感じたのですが、この小説はいわば、入り口が狭く険しい一方で、中身が広く豊かな湾のようなもの。
こういう地形は得てして「良港」になるとされます。
要は、入り口近くの時点で良港である事さえ知って貰えれば、つまり冒頭を少し改善さえすれば、
受ける印象は全く違うものになるのではと感じました。
最後に、どうか今後もあなたの描く幻想郷を読ませて欲しいと切に願います。以上、長々と失礼致しました。