……どうしてこんなことになったんだろう。私、何か悪いことしましたっけ。確かに常日頃から我儘であることは自覚してるし、好き嫌いするし、朝更かしするし。その上私、悪の帝王、吸血鬼だけどさ。それを加味したって、こんな理不尽、おかしいよ。
溜め息で曇る思考。考えるのが面倒になる。小枝とシーツの切れ端でつくった釣り竿をベッドの端で握りしめながら、私は溜め息ばかり吐いていた。
空には太陽さんが脂ぎった四十代みたいなウザいノリでギラッギラに輝いていらっしゃる。太陽さん、歳、考えてください。いつまでもエネルギッシュにハッスルしますってそれ、もう死語になって久しいです。無理して若者ぶらなくていいですから。もうちょっと落ち着いてくださいよ。
「はぁ~……っ」
長い長い溜め息を吐いて、一向に当たりの来ない竿の先から目を離し、周囲を見回した。
何度見ても笑えてくる。
周囲三百六十度、水平線が見えらぁ。
なんで朝起きたらこんな事になってんだよ。なんで自分のベッドごと、だだっ広い水の上を彷徨ってんだよ。
私、何か悪い事しましたっけ?
まさか昨日、ピーマン残したからかなぁ?
「君のゆ〜めをっ、つかまえにっ、ぼっくっはっゆ〜くさ〜」
……おまけになんか変な舟幽霊まで乗ってるし。
こいつ知ってるぞ。命蓮寺とかいうドM集団の一人、キャプテン・ムラサだ。舟を沈めるのが生き甲斐の、もとい死に甲斐のアブない奴。
今もニコニコ笑いながらご自慢の柄杓でベッドの端に水をかけている。いや、水かけたって沈まないから。このベッド、平らだから。水の溜まる場所ないから。クッションがびしょ濡れになるだけだから。何度そう言ってもやめやしねぇ。バカだこいつ。
「おい」
「ん? 何?」
「お前のヘッタクソな歌声が頭ん中でガンガン響いてんだよ。私が泣く前にちょっと黙れ」
さっきからカリブ夢の旅ばっか歌いやがって。中一かこいつ。
「何言ってんだ、優しさだろ。あんたの沈んだ気持ちをおもんぱかって、盛り上げようとしてやってんじゃないか」
「なるほど、つまり応援歌って訳かい」
「そうそう」
「泣くぞ」
「どうぞ」
「うわぁぁぁん! おなか減ったよぉ、プリン食べたいよぉ、咲夜ぁ、パチェぇ、助けてぇ〜!」
ベッドの上を転げ回って泣き叫ぶと、ほんの少しだけ気が晴れた。
あー、マジ、腹減った。お腹と背中がぺったんこですわい。
「あんた少食じゃなかったっけ」
「少食でも腹は減るの。少食でもプリンは食べたいの。別腹なの」
「あっそ」
気を取り直して体を起こすと、私は再び釣竿を構えた。
「じゃあ次は、リクエスト聞こうかな」
柄杓で水をベッドに掛けながらムラサが言う。
まぁた歌の話かい。
「んー。じゃあなんか、可愛らしいやつを」
「おっけー。こほん」
わざとらしく咳払いしやがって、超殴りたい。
「ぼくもかえ〜ろ、おうちへかえろ〜」
「やめろ。泣くぞ」
帰れるもんなら帰っとるわ。こちとらとっくにホームシックじゃい。
この水は止まっているように見えて、何処かへ少しずつ流れているらしい。私は流水を渡る事は出来ない。空を飛んで行く事は叶わないのだ。
「っていうか、あんたなら大丈夫だろキャプテン、空飛んで救助を呼んで来ておくれよ」
「あっははは、無理無理」
ムラサは手をひらひらと振ってゲラゲラ笑った。
「何処まで行っても陸地が見えないんだもん、お手上げお手上げ」
笑っていう事か、それ?
「じゃあ、あんたもピンチなんじゃないの」
「そうだよ。泣いていい?」
「どうぞ」
「うわぁぁぁん! おなか減ったよぉ、カレー食べたいよぉ、聖ぃ、星ぉ、助けてぇ〜!」
ベッドに突っ伏してめそめそ泣きよる。君も辛かったのね……。歌ぐらい許してやるか。スカーレット家の当主たる者、下々の多少の我儘は笑って許してやらねばならなかったな。反省。
っていうか自分もピンチなのにこのベッド沈めようとしてたのね、こいつ。バカだ。
「はぁ〜、どうしてこうなっちゃったかな〜」顔を上げたムラサが涙目で語る。「霧の湖が増水したって聞いて、喜び勇んでやって来ただけなのになぁ〜」
喜ぶなよ。勇むなよ。
って言うか。
「ここ、レイク・ザ・スカーレットなの?」
「うんにゃ、霧の湖」
「レイク・ザ・スカーレットだったのか……」
「霧の湖だって」
「それでレイク・ザ・スカーレットが増水したってのか」
「霧の……あー、そうそう。レイク・ザ・スカーレット」
ムラサちゃんは空気の読める娘です。
「それが氾濫したらしくて。なーんか、上流の方で事件があったみたいね」
「なんだよ。人魚と河童が喧嘩でもしたのか?」
「んなアホな」
「おい待てよ。じゃあ、レイク・ザ・スカーレットが氾濫して、こんな事になってるってのか? 幻想郷中がウォーターワールドになったってのか?」
「すごい中二脳」
「ってことはまさか、このベッドが世界に残された最後の希望なのか! ノアの箱船だってのか!」
「つがいが乗ってないじゃん」
「ジャスト・ユー・アンド・アイ」
「やめなよ、レミムラなんて流行らないよ」
一般人にレミムラ良いよ、なんて言っても、何県にあるんですか? って返されるのがオチだわな。
「そうじゃなくてさあ」キャプテン・ムラサはシーツを少し裂くと、水に浮いていた小枝を拾い上げ、ひょいひょいと簡単な釣竿を作った。「ボートでも沈めて遊ぼうと、霧の……じゃなかった、レイク・ザ・スカーレットに入ったら、出られなくなっちゃったんだよねぇ。そんで漂ってたあんたを見つけて、いま沈めてる最中ってワケ」
「ふむ」
細かいツッコミは置いておくとして。
出られないという事は、レイク・ザ・スカーレット周辺に結界が張られているとでも言うのだろうか。
そんな事が出来る存在は幻想郷でも限られている。何人か心当たりはいるが、おそらく、隙間妖怪の八雲紫のせいだ。理由とか動機とかさっぱり不明だけど、とりあえずあいつのせいにしておけば大体間違いないだろう。そういう風潮。
「いやー、畳の上で死ねないとは思っていたけど、やっぱり船の上で死にたかったなー」
アッハッハと涙目で笑いながら、ムラサは竿を水に垂らした。もう死んでるじゃん、とかのツッコミは野暮だ。スカーレット家当主たるもの、空気の読み方は心得ている。
それにしても、太陽が鬱陶しい。秋だってのになんだこの陽気は。私くらいの吸血鬼になると、多少の太陽光ならものともしないのだが、こうギラギラと輝かれると灰になりかねん。しかも今日に限って、新調したスケスケネグリジェなんて着て寝てたもんだから、太陽光がスルーパスだよ。ベッドに天蓋が無ければ即死だった。
……おや?
今、何か水中を、大きな黒い影が横切ったような……?
「あ」
急にムラサが声を上げた。びっくりした私はちょっとむせた。
「島だ」
うっそ、マジで?
声に釣られて首を回した先、遥か水平線上に、確かに島らしき物体が浮かんでいるのが見える。
「おお、陸地だ! プリンが待ってる! よし行こうやれ行こうそれ行こう!」
私は鼻息荒く叫んだ。
が。
「どうやって近づいたらいいの? これ」
パドルも無ければオールも無いのだ。手で……ってのも辛いなぁ、お嬢様、太陽さんに逆らえないしさぁ。
ムラサは幼児退行を起こしたのか、おもむろに指をしゃぶり始めた。エロい。濡れ透けセーラー服も相まって、まるで風俗嬢だよ。私が男なら間違い無く襲ってたね。命蓮寺の門徒が急激に増えているのはこういうわけか。あざとい。
咥えた指を離し(良かった、幼児退行じゃなかった)、人差し指を立てて風に晒すと、ムラサはニヤリと笑った。
「いい風だね」
ムラサはベッドのシーツを引っぺがすと、その辺に浮かんでいた流木をいくつか掴み、天蓋の上によじ登ってゴソゴソやり始めた。
気になった私は、非常用として枕元に忍ばせてある傘を開き、ベッドから身を乗り出して上を見上げた。
そこには、流木を立てただけの簡単なマストと、シーツで作った白い帆がはためいていた。
「おお、帆を張ったのか。さすが舟幽霊」
「キャプテンと呼びな!」得意げに鼻の頭をこするムラサ。「ようし、出発! よーそろー!」
帆の向きを調整し、余ったシーツを引き裂いて作ったロープで固定する。すると、風を受け、少しずつだが漂流ベッドが動きだした。
「どんなもんだい」
「素晴らしい。帆船スカーレット号と名付けよう」
ムラサはなんだか不満そうな顔をしたが、そんなん無視だ。
吹き抜ける風と、穏やかに揺れる波が心地いい。
「船もなかなかオツなもんじゃぁないか、いいねえ、ロマンだねえ」
「おっ、あんたもこのロマン、分かるのかい」
「当たり前だろ。吸血鬼なんてロマンが主食みたいなもんだぞ。ロマンをおかずにごはん食べるくらいなんだからな」
「……貧乏なの?」
帆船スカーレット号は順調に進み、すぐに島の近辺までやって来た。
水上から見る限り、島は鬱蒼とした森で覆われている。また、中心には小さな山もあり、少なからず起伏があることが見て取れた。
レイク・ザ・スカーレットにはスカーレット・アイランドという中島があるが、それにはここまで茂った森は存在しない。大きさも中島よりかなり大きい。しかし、地形はどこか似ているように見えた。
十分に浜に近づいたところで、ムラサは帆をおろすと、あとは柄杓を使って漕いで進んだ。柄杓なんかで進むわけねえ、と私も思っていたのだが、なかなかどうして、これが意外に進むわけである。やはり妖怪、その辺は術を使ってなんやかんやしてるんだろう。これ以上難しい説明はお嬢様に求めないでください。泣いてしまいます。
砂浜に打ち上げられたベッドから降りると、私は久方ぶりの陸の感触を楽しんだ。ムラサはぜぇぜぇ言いながら、錨を浜に打ち込んでいた。あのくらいの労働でひぃひぃ言うようではまだまだだな。まあ私、なんにもしてなかったけどね。だってお嬢様だもん。
疲労でぐでるムラサの尻を蹴飛ばして立たせると、私達は日傘片手に、険しい森の中に分け入った。
「うーん、蚊が多いわねえ。なんとかしなさいよ、キャプテン」
「いやいや、あんたの眷属なんだから、あんたがなんとかしなさいよ、ヤブッ蚊の大将」
仲良く殴り合いつつ進んでいくと、開けた場所に出た。
「おや。あれは畑だね」
広場には人の手が加わった跡がある。耕された土、規則的に並ぶ何かの木がそれだ。
近づいて見てみると、
「ゲッ、これ、ピーマンじゃないの!」
たわわに実った緑色の実が憎たらしい。
どうやらここはピーマン畑のようだ。最悪だ。悪魔の畑だよここは。
ムラサはむかつくニヤケ面で私を見下した。
「なにあんた、ピーマンも食べられないのぉ?」
「ピーマンなんて悪魔の食いもんだ。こんなもん食える奴、絶対味覚がブッ壊れてる」
「激しく同意」
私たちはグッと固い握手を交わしたのだった。
畑を超え、さらに歩いてゆくと、見覚えのある場所に出た。
広大な敷地に、館の基礎だけが残っている。
「あら。ここ、紅魔館跡じゃない」
「跡? 跡って何、いつのまに紅魔館滅びたの?」
「違う違う。紅魔館はね、夏の我慢できないほどあっつい時期には、レイク・ザ・スカーレットの畔から、スカ―レット・アイランドに移動するのよ。館ごとね」
つまりスカーレット・アイランドは避暑地なのだ。湖の上はいつも霧が出ていて、夏でも日差しが和らいで涼しい。その分、湿気はすごいけど、そこはパチュえもんになんとかしてもらっている。
「つまりここは霧の湖の中島、ってこと? それにしちゃ、随分とジャングルしてない?」
「うーん……そおねえ」
島の大きさも違うし。さっきのピーマン畑も、誰が世話してるんだろうか。
「……なにこれ?」
急にムラサは地面に屈みこんだ。
私もそれに倣ってみると、地面に妙なくぼみを見つけた。中心の丸みを帯びた支点から三つの棒状の跡が伸びている。それぞれが三つずつ節を持ち、先端は鋭利に尖っていた。例えるなら、ニワトリの足跡をそのまんまでっかくした感じだ。それが点々と森の中まで続いているのである。
「なんだこれ」
「さあ……中島ってなんか生き物住んでる? こんなでっかい足跡つけるような」
「いや……聞いたことないけど。鳥の妖怪かなんかかねぇ? みすちーとかかな?」
私が首をひねっていると、ムラサがボソリと言った。
「なんか、噂に聞く、恐竜の足跡みたいだね」
「あっはっは。そんなことあるわけないじゃん」
「だよねぇ。あっはっは……」
……恐竜!
私達の体に電撃が走った。
恐竜。
嗚呼、なんて甘美な響きだろうか。それはロマン、それは冒険、それは夢、それは憧れ。これ程までに心揺さぶられる言葉が他にあるだろうか。これ程までに情熱のたぎるテーマがあるだろうか。正直、なんで幻想郷に恐竜がいるんだかの説明なんてまったく思いつかないけど、いる気がする、それだけで私達には十分だ。恐竜。ダイナソー。ディノザウア。口にするだけで、体の奥底から力が湧き上がってくるようではないか!
「やるか」
ボソリとムラサが言う。
「やっちゃおうか」
目と目が合う。言葉は要らなかった。以心伝心、情熱だけで分かり合える。
私たちは無言で頷き合うと、意気揚々、足跡を辿り始めた。
足跡はズンズンと無遠慮に森の中を駆け抜けている。私たちはひーこら言いながらそれを追った。喉が乾いた。腹も減った。だが私達は休む事無く追い続けた。激しい情熱に突き動かされて。この熱情、聖地を奪回するために遠征した市民十字軍だ。
「恐竜をペットに出来たら、私達一躍有名人ですぜ、キャプテン」
「恐竜まで帰依させたら、さらに信徒が増えるっスよ、お嬢」
……ごめん、ちょっと、見栄張った。
まあ動機の純不純はさておき、私達の情熱は本物だったわけなのだが、その情熱とは裏腹に、一向に新たな手掛かりを見つける事は叶わず、その上、最初の足跡すら見失ってしまったのだった。
そうなると途端に弱気になるのが人情であろう。私たちは当ても無く森を彷徨い、次第にやさぐれていき、
「やっぱあれ、みすちーの足跡だったのかなあ」
「マジみすちーねえわ、空気読め」
「あと隙間死ね」
とりあえず、みすちーと隙間が悪いという結論に至った。そういう風潮。
夢が幻に変わり始めた頃、浜にでた。ぐるぐると歩きまわった挙句、最初の砂浜に戻ってきてしまったようだ。
疲労と空腹とで、私達は声もなく砂浜に座り込んだ。沈む夕日が目にしょっぱい。静かに寄せては返す波音が、私達を優しく包み込んでいる。
恐竜を追うことでごまかしていたけれど。現状、我々は元の場所に帰ることが出来るのか、分からないのだ。何故こうなったのか、誰が結界を張ったのか、どうやってそれを解けばいいのか、まったく分からないのだから。不安な気持ちを、ほとばしる熱いパトスで隠していただけだ。
「……咲夜のプリン、食べたいなぁ」
ぽつり。言葉が口をついた。
弱音を吐くなんて、スカーレット家の当主らしくないけれど。
「カレー食べたい……」
ムラサも相当、キているらしい。
「カレー、そんなに好きなんだ」
「あんたもプリン、好きなんだねえ」
「ねえ、さ。今度、あんたんとこのカレー、食べに行ってもいい?」
「いいとも。でもおみやげにプリン、たくさん持ってきてね」
二人揃って、くすくすと笑う。
「なんだよこれ」
「レミムラなんて流行んねえって」
ホント、何県にあるんでしょうね。
揺らめく波間に漂う影を見つめて、私達はとりとめのない会話をしていた。
……影。
そういえば、さっきも。
「ねえ、さ。あそこに見えるあの影、なんだろね」
私が指差すと、ムラサは目を細めて彼方を見やり……にわかに立ち上がった。
「アレ、なんか首、長くね? もしかして、首長竜じゃね?」
ムラサに言われてよく見てみれば、なんとなく、そんな気もしてきた。
「首長竜……。レイク・ザ・スカーレットにいるから、スッシー?」
「おいしそう。じゃなくて、恐竜じゃん! 行くよ、お嬢!」
ムラサは帆船スカーレット号に向かって駆け出した。
「お嬢も早く!」
「でもさあ。もうなんか、めんどいっていうかー。火が消えちゃったっていうかー」
「何言ってんの! 恐竜なんて捕まえた日にゃ、一躍有名人だよ! 天狗の新聞にも載るし、稗田のインタビューだって来るし、飲み会でも自慢し放題だし、博麗の巫女だって悔しがるし! 里のみんなにモッテモテ間違いなしだよ!」
「モテモテ……」
「どうした、レミリア・スカーレット! 吸血鬼はロマンで生きてるんじゃなかったのかっ!」
くっ……。流石キャプテン。人を乗せるのが上手いぜ!
「うおぉぉ! やぁぁぁってやるぜ!」
私は再び溢れだした情熱のまま、帆船スカーレット号に飛び乗った。
いざ抜錨!
水上に戻ったスカーレット号は、滑るように走った。黒い影の元へ、そして夢の元へ。
「キャプテン・キッドッ、待ってい~ろ~よっ、果てしなく、あ~おいそら~」
ムラサのヘッタクソな歌声も、燃えたぎるこの心には心地いい。空は青くないし、キャプテン・キッドも全く関係ないけど、そんな事はささいな問題なのさ!
「けど、どうやって捕まえる?」
「決まってら、一本釣り!」
ムラサ愛用の鎖の付いた錨を取り出して、ニカッと笑う。
「鉄なんか食わないでしょ、いくらなんでも」
「エサつける」
「何処にあんのさ。これから釣るの?」
ムラサは私の肩を叩いた。
「イッツ・ユー」
正気か、こいつ。
「……肉付きはムラサさんのほうがよろしいんじゃなくて?」
「いやいや、お嬢様の可愛らしさには負けますよ。猫まっしぐら、首長竜もまっしぐら」
私は錨に跨った。か、勘違いしないでよね、お世辞に負けたわけじゃないんだから! 誇り高きスカーレット家の当主として、下々を危険に晒すわけにいかないだけなんだからね!
船は回遊する影のすぐ近くまで進んだ。と言うか、スカーレット号に興味を覚えたのか、影のほうからこちらに近寄って来たのだ。
ムラサはマストをへし折り、それに錨の鎖を巻きつけて、巨大な釣り竿を作った。もちろん、エサは私。世界一高級で優雅な釣り竿だぜ。
「イエェッハーッ! フィッシン、スタートゥ!」
ムラサの眼の色が変わっている。極度に興奮するとキャラが変わるらしい。やべぇよ、ここへ来て新たなキャラ性を出してくるなんて、キャプテン恐るべし。
「ゴートゥーヘッ!」
ムラサが釣り竿を勢い良くぶん投げると、射出された私は、水上に宙吊り状態になった。傘を片手にバランスを取る私。思いっきり流れる水の上にいるじゃねーかとか思う人もいるかもだが、これは船上扱いなのでノーカンだ。こういうのは気持ちの問題だからね。
影は私のすぐ下にやって来た。
長い首と、大きな胴に付いた四つのヒレ、そして首よりは短いその尻尾。
間違いない。
間違いない、首長竜だよ!
やべぇ、めっちゃ興奮してきた!
「あっ」
興奮しすぎた私は、手を滑らせ、傘を落としてしまった。
赤い太陽が、むき出しの私の肌を焼く。
激痛にバランスを崩した私は、錨から落ちた。
「レミリアーッ!」
気絶する寸前に私が目撃したのは、絶叫するムラサと、水面から姿を現した、巨大な影だった。
次に私が目を覚ましたのは、自分の寝室の新調したベッドの上だった。
咲夜はボロボロと涙をこぼしながらひたすら謝っていた。付きっきりで看病してくれたのか、目が赤い。私はそれに素直に感謝した。なんで鼻血を流しているんだかは理解できなかったが。
咲夜が言うには、氾濫したレイク・ザ・スカーレットが人里へ被害を出すのを防ぐため、空間を弄って広くしていたらしい。湖の氾濫は紅魔館にもダメージを与えており、庭もめちゃめちゃになったし、屋敷内に入り込んだ水は様々な調度品をダメにしてくれた。そして、私のベッドを湖まで流したのだ。有り得ないような話だが、部屋の状況を見るとぐうの音も出ない。実際、人的被害が皆無であったことが不思議なくらいだ。
パチェは蔵書がダメになってさぞかしヘコんでいるだろうと思いきや、ピンピンしていた。全ての本に防水の魔法を施していたようだ。まったく、パチェらしい。人的被害が出なかった件も、パチェが裏で尽力してくれたのだろう。その調子で物的被害の復旧も行ってくれると期待している。……あとでお願いしとかなきゃな。
湖の反対側に建つプリズムリバー三姉妹の館には全く被害が出ていなかったのが悔しい。紅魔館の被害状況を話すと、リリカのバカがゲラゲラと笑い転げていたので、コブラツイストを極めてやった。ギブアップと二十回叫ぶまで極め続けたら、泣いて謝罪してきたよ。ざまあみろ。
あの結界には何匹か妖精共も巻き込まれていたようで、氷精を筆頭に軒並み一回休みになったらしく、しばらくの間、レイク・ザ・スカーレットは元の静寂を謳歌していた。
咲夜の術が解け、湖の大きさが元に戻った後。スカーレット・アイランド上をどれだけ探してみても、鬱蒼と茂るジャングルも、ましてやあの謎の足跡のかけらだって見つからなかった。ちなみにピーマン畑を作っていやがったのは、案の定、咲夜だった。食卓に並ぶ前にこっそり焼き払っておかねばな。
そして、ムラサは。
「やあ、お嬢。精が出るね」
釣り竿を担いで、ムラサはたまに湖にやってくるようになった。
ムラサは命蓮寺の聖白蓮と咲夜からこってりとお説教を受けたという。興奮してお嬢様をエサにするとは何事か! と咲夜はプリプリ怒っていたが、「じゃあ私とお嬢のどっちがエサとして魅力的だと思いますか」というムラサの問に、間髪入れず私だと答えていたので、咲夜に怒る資格は無かった。聖のほうは聖のほうで、私そっちのけで、ムラサが釣りという殺生行為に勤しんだ事を叱っていた。それも「最近はキャッチアンドリリースが主流ですよ、聖」の一言で避けられていたのだから世話は無い。まったく、キャプテンは人を乗せるのが上手いよ。
日除けパラソルの下、私は湖畔で釣り糸を垂らしながら、あの時のことを思い返してみた。
目が覚めた時に水平線で囲まれていた時の絶望感、ムラサの下手くそな歌声、水上を走る帆船スカーレット号の雄姿、島で見た謎の足跡。
そもそも、私達が目撃した影、あれは本当に首長竜だったのだろうか。
咲夜の空間操作術が暴走して、局所的に白亜紀かなんかに繋がった可能性もあるし、隙間妖怪が遊び半分で連れてきた可能性もあるし、そもそもここは幻想郷、忘れ去られた恐竜達が、最初から住んでいたのかもしれない。
でも、風の噂によると、少し前に河童が首長竜型のマシンを完成させたというし。冷静に考えれば、ただの妖怪魚を見間違えただけかもしれないし。漂流という極限状態で、幻覚を見ていただけかもしれないし。狸か狐に化かされたって線もありうるのだ。
それでも、ムラサは言っていた。
「帆船が転覆して。私も水に叩きつけられて、気絶したんだ。起きたのは、霧の……もとい、レイク・ザ・スカーレットの岸でさ。ベッドの上に、あんたと一緒に寝かされてたよ。振り返ると、霧の向こうに、長い首が揺れてた。さよならって言ってるみたいだった」
今となっては、遠い幻影の向こう側の出来事のようで、イマイチ実感が持てない。
確かな事は三つだけ。
我が紅魔館のインテリアの一つに、首長竜の歯型が付いた帆船スカーレット号が加わった事と。
私の趣味に釣りが加わった事と。
そして、私に釣り友達が増えた事だ。
週末には、私とムラサ、二人揃って釣り糸を垂らしている。二人で決めたんだ。いつかあいつを釣り上げたら、こう言ってやる。
ありがとう、ってさ。
こういう冒険物は好きです
とにかく面白かったです!
レミリアとムラサのやりとりも凄く良かった!