地底で最も恐ろしい妖怪。彼女はそう噂されている。
鬼の巣食うこの都でも一目置かれ、地上も含めて見渡しても特異な能力の持ち主。
およそ百年近く、地獄の釜の蓋を閉じ続けてきた実績を持つ、旧都の代表者。
キスメは友達の火焔猫燐に誘われて地霊殿に来るまで、色々とそのご主人様の姿について想像を巡らせていた。
そして、この部屋に入った瞬間、予想していた百名以上の恐ろしげな姿は、全て霞んで消えてしまった。
いざ対面してみると、彼女は思ったよりも小柄で、都を闊歩する鬼とは比べるまでもなく、お燐よりもはっきりと背が低い。
小柄である以上に華奢であり、肌も知り合いの橋姫と同じくらい白く、体が丈夫そうには見えなかった。
フリルつきの薄いブルーの上着にピンクのセミロングスカートという組み合わせも、恐ろしいというより可愛らしくて、お人形のようでさえある。
ただ、イメージしていた妖怪と、共通している部分もあった。
まず、胸元辺りにある赤い球体。
同色の管で身体に結び付いた、地底でも特に珍しい種族だけがもつその器官は、目玉のついた心臓のようという噂そのままの形状をしていた。
続いて、彼女の佇まい。
落ち着いた雰囲気の妖怪さんなのでは、と思ってはいたけれど、本物はどんな無口な妖怪とも、それこそ壁にかかった絵とでもお茶ができるのではと考えてしまうほど、物静かな印象を抱かせた。
それから、妖気。
すでに鬼に慣れたキスメにとって、その妖気はそこまで強大なものではない。
しかし、奥行きとでもいえばいいのだろうか。手で触れたり覗き込んだりすれば、そのまま呑みこまれてしまいそうな、独特な妖気をまとっていた。
そして、そう考えていることも、おそらく相手には……
「ええ。全て伝わっていますよ、キスメさん」
椅子に腰かけた古明地さとりは、キスメの心の声に『答えた』。
その時キスメに、痛みはもちろんのこと、何かされたような感覚も全くなかった。
かといって、案内された洋風の応接間にも、妖気の流れはおろかそよ風さえ起こっていない。
変化といえば、座った相手の薄紫の前髪の下、赤い瞳がまつ毛に隠れ、口元に微笑みが浮かんだ程度だ。
しかし、およそ三秒という短い時間に頭の中に流れた莫大な情報。それを目の前の妖怪は、一つ残らず読み取ってしまったらしかった。
「恐がらないで、といっても無理な話でしょうね。ここの子達には有り難がられていますが、妖怪にとって心を覗かれるという行為がどれだけ致命的なことかは理解しているつもりです」
古明地さとりは、己の第三の目に柔らかい手つきで触れながら弁解する。
「ただ、この目は自力で閉じようとして閉じられるものでもないのですよ。だから自然と読めてしまう。……ええ、そうです。貴方とこうして向き合ってる間も心の声が聞こえてきます。館の至る所から、時には都の方からも」
すごい……とキスメは感嘆し、同時に畏怖する。
心の声が聞こえてくるといっても、いいものばかりじゃなく、他人の自分に対する悪口だって聞こえてしまうだろうに。
それと四六時中付き合っていかなきゃいけないとすれば、よほど強い心を持ってないとダメだろう。キスメならとても耐えられそうにない。
外側ではなく中身の強さが、彼女の底知れない雰囲気の秘密なのだろうか。
雰囲気といえば、このお屋敷全体も、旧都の真ん中にあるとは思えないほど、静かでハイソな感じだった。
アーチや造花の花壇のあるお庭から始まって、ステンドグラスで彩られたエントランスホール。
続いて大理石とおぼしき柱が立ち並ぶ広い廊下を進み、途中を曲がって緋色のカーペットと絵画が続く細い廊下を案内され……。
連れて来られた場所は、小さなシャンデリアと庭が窺える窓のあるお洒落な応接間。
木製の四角いテーブルの側に置かれた柔らかそうな肘掛け椅子を薦められ、何かの花の香りがする紅茶を出されたころには、キスメの体はもう緊張でコチコチとなっていた。
「先日は、妹のこいしがお世話になったようで」
「あ、いいえ」
急に振られた話題に、キスメは反射的に応じる。
「私がこいしちゃんに助けてもらったんです」
その時体験した出来事をキスメは目の前の妖怪に語った。
旧都の裏街道で出会った謎の店主と、自分の名前のことで賭けをすることになった話。
その時に、偶然出会ったこいしに、文字通り救われたことも。
多少拙い説明であっても、さとりは全てわかっているという風に相槌を打ってくれる。
もしかするとその『第三の目』によって、相手の思い浮かべるイメージを読み取っているのかもしれない。
話しているうちに、何だかキスメ自身も、もう一度同じ体験をしたような感じがしてしまった。
穏やかな笑みを湛えたまま聞いていたさとりは、ティーカップを置き、
「ありがとうございます。貴方がお燐やお空だけでなく、妹とも仲良くしていただけるのなら、姉として感謝に堪えません」
そう言って彼女は、椅子から音もなく立ち上がった。
「それでは失礼ですが、私はこのあたりで部屋に戻らせていただきます」
キスメが口を開くよりも前に、彼女は疑問に答えていた。
「まだ少し仕事が残っておりまして。ごめんなさいね。後はお燐とお空にお任せすることにします」
「「かしこまりました!!」」
と、突然火車と地獄鴉がドアを開けて部屋に入ってきたので、キスメはひっくり返りそうになった。
さとりの方は驚いた様子もなく――とっくに彼女達の存在に気づいていたのだろう――軽くお辞儀をして、
「それではキスメさん、どうぞごゆっくり」
と部屋から出て行こうとする。
キスメも慌ててぺこりと頭を下げ、彼女の後ろ姿を見送った。
――あんな素敵な妖怪さんが地底にいるなんてびっくり……って、これも聞こえちゃってるのかな。
などと思いつつ。
◆◇◆
(じゃあまず、地霊殿のあちこちを案内してあげるよ。あとは、あたい達以外のペットのみんなも紹介するね)
(わぁー楽しみー)
(そうだ! じゃあそのあと、みんなでババ抜きしよ!)
(ババ抜き? トランプの?)
(まぁ、いいけどさぁ。あんたはそろそろ、違うゲームも覚えたほうがいいよ)
階下にいるペットとお客様の声が、心の声と重なって届く。
彼女らの賑やかな会話に、地霊殿の当主は階段を上る間、自然と微笑みを浮かべていた。
仕事が残っていると言ったが、実は真っ赤な嘘だ。
さとりが退席した本当の理由は、至極単純な話、初対面のキスメに対する配慮だった。
覚り妖怪との会話は、長ければ長いほど、心を読まれる側の負担となる。
向こうもお燐とお空の方が相手していて楽しいだろうし、これくらいの嘘は許されるだろう。
それに、すでにさとりはキスメの心から十分な情報を読み取っていた。
彼女がお燐に誘われて遊びに来たというのは本当だったようだ。
覚りが嘘を吐くことはあっても、覚りに嘘を吐くことはできないから。
それにしても、
――珍しい心の持ち主ですね……。
内気で純真。こちらを怖がりつつも、敵意を抱きはしない。
今まで釣瓶落としという妖怪に抱いていた荒っぽいイメージを、少し修正する必要がありそうだった。
ただ、引っかかることもある。
お燐に誘われて、ここに遊びにやってきた。それは間違いなく、キスメの本音であり、事実なのだろう。
けれども、事実は概して真実そのものではない。
さとりは廊下を行く足を止め、考え込んだ。
――彼女を一人で送り込んできた、向こうの意図は何なのかしら……難しいわね。
旧都の創設以来、地霊殿と鬼ヶ城はこの都で共存してきたが、同時に敵対もしてきた。
表向きは灼熱地獄跡の管理を任されたさとりが、旧都の代表者ということになっているものの、実質的に都を牛耳り、動かしているのは鬼達の方だ。
そして両陣営は性質の上でも能力の上でも相性が悪いため、長年互いに歩み寄ることなく、相手に弱みを見せることもなく、隙あらば優位に立とうと水面下で画策してきた。
ただし昨今は、都で起こったいくつかの事件をきっかけにして、非常にゆっくりとした雪解けが起こっているのを、さとりは感じ取っている。
それは鬼ヶ城の頭領である星熊勇儀も同じだったのかもしれない。
もしや、向こうはキスメを親善大使に。そして、さとりはお燐を始めとしたペット達を。
まずは溝を埋めるため、そこから始めていこう、ということなのだろうか。
二つの目を閉じて思考していたさとりは、思わず苦笑する。
――私もずいぶん、考えがぬるくなったわね。
もしその油断を誘うのが狙いだとすれば、なかなかの一手といえる。直接的な手段を好む鬼にしては珍しい絡め手だ。
しかし現実として、キスメがさとりの家族と親交を持ってしまった以上、邪険に扱うことはできない。
ならばあの勇敢な手強い使者に敬意を表し、このゲームに付き合ってやることにしよう。
どの道、地霊殿にとっても有益な話になる可能性は高いのだから。
さとりの足は、書斎にたどり着いていた。
ここには地底だけではなく地上、そして外界の物も含めた古今東西の本が所蔵されている。
鍵を開けて中に入ったさとりは、灯りをともし、奥にある書架へと向かった。
「これと……これもよさそうね……」
口ずさみながら、本を選定する。
あの釣瓶落としの娘が、本好きであるという情報は、お燐から事前に仕入れていた。
そして、彼女の本の嗜好についても、先ほどの会話の最中に読み取れている。
さとりが書架から選び出したのは、どれも地底ではなかなか手に入らない本だった。
一つは冒険小説。
この世界においては珍しい、海の……それも深海を舞台にした物語だ。
筆者は人間であるが、その卓越した想像力は、幻想の世界、すなわちこちら側に触れていたことに疑いはない。
よってこれは妖怪が読んでも楽しめる内容となっている。
もう一つは短編集。
文章は軽く読みやすいものの、怪奇的な小咄もあって地底らしさに通じる暗い雰囲気がある。
シニカルなジョークも利いており、それぞれに意外な結末が用意されているので、枕元で読むものとして適した一冊だ。
そして最後は、ミステリのシリーズの中の一冊だった。
コミカルな容姿のキャラクターが優れた知性を発揮し、その心理分析を含めた推理力で難事件を解決していく。
やはり地底では手に入りにくい代物なので、もし続編を読みたくなれば、またこの地霊殿に来てもらう他ない。
そしてこのシリーズは、さとりが自信を持ってお勧めできる面白さだった。
それからおよそ六時間後。
地霊殿の小さなお客様は、さとりがお燐を通じて持たせたお土産の入った袋を携え、帰って行った。
「次の一手はいつになるか、楽しみですね」
嬉しそうな心の波動を感知し、地霊殿の主は満足な気持ちで、その跳ねていく姿を見送った。
◆◇◆
「ふふ。みんなでババ抜きをしてー、レコードを聴いてー、それに合わせてダンスをしてー、美味しいケーキを食べて~」
キスメは緑のおさげを揺らし、旧地獄街道を笑顔で跳ねて行く。
地霊殿で体験したことが、あまりにも楽しかったので、忘れないように口ずさみながら帰っているところだ。
お燐もお空も明るくて優しくて、最後までキスメが溶け込みやすいように気を遣ってくれた。
二人だけではなく、他の地霊殿に住む妖獣達も仲良くしてくれた。
こいしと再会はできなかったけれど、当主のさとりには親切にしてもらったし、本まで貸してもらった。
外界から入ってきたもので、オススメだという。一体どんなお話なのだろう。今から読むのが待ち遠しい。
近いうちにまた遊びに行く約束もしたし、ほとんど完璧なお出かけだったのではないか。
「いつかヤマメちゃん、一緒に行ってくれるかな。パルスィちゃんは嫌だって言うだろうけど……勇儀さんはどうだろ? でもやっぱりみんなで行けたらいいな♪」
るんるん気分のまま、キスメは鬼ヶ城の麓まで帰ってきた。
と、そこで見慣れぬ姿を二つ見つけ、まばたきをする。
城門の前に、金棒を持った鬼が二人立っていたのだ。
まるで見張りのようである。何かあったのだろうか。今朝はもちろん、今までもあんな風に鬼が立っていたことはなかったはずだが。
キスメが門の前まで行って、彼らに挨拶しようと思ったその時だった。
ガシィン、と目の前で金棒が音を立てて交差し、
「うふぃっ!?」
キスメは驚いた拍子に、生涯初の変な声を出した。
「なんだ小娘! 誰の許しを得てここまで参った!」
「さては『き奴』の化けた姿か!」
「えっ? えっ? えっ? えっ!?」
二人の仁王に恫喝され、キスメは狼狽する。
右を見て、左を見て、奥を見て、振り返ってもみて。
結局途方に暮れてしまい、
「ゆ、勇儀さ~ん、ヤマメちゃ~ん、パルスィちゃ~ん、誰か~」
弱々しい声で、城の方角に向かって助けを求める。
すると鬼の貌を象った城門が、ガギギギギと重苦しい歯ぎしりの音とともに開いていった。
続いて奥から姿を現した大柄な影は、キスメが呼んだ友達の一人ではなかったけれども、顔見知りではあった。
「そやつは良い。通してやれ」
片目、両腕、脛、青黒い体のあらゆる箇所に刀傷を持つ、壮年だが筋骨隆々の鬼だ。
左近と呼ばれる彼は、勇儀の補佐役であり、今鬼ヶ城にいる鬼で二番目に偉い存在と聞いていた。
門番達は不服そうだったが、命令に黙って従い、金棒を収めた。
助けてもらったキスメは、左近の後について道を行く。
「あの……」
「急げ。刻がない」
キスメは舌を引っ込め、言われた通りに進む桶を速めた。
城門もそうだったが、城の敷地内も同じく様子がおかしかった。
いつもより鬼が多く外に出ており、キスメの知らない顔もたくさんいる。
篝火の間で動く彼らの目は、いずれもギラギラと光っていて、何かを探し回っているようにも見えた。
間もなく二人は風雷邸にたどり着き、
「詳しいことは、あやつらから聞け」
と言って門の鍵を開けた左近は、すぐに踵を返し、足早に本丸へと続く道を行ってしまった。
一体何があったのだろう、と見送るキスメは不思議に思ったが、ともかく中にいる皆に聞けば分かるはずと考え、風雷邸に入り、しっかり戸締りをした。
襖の続く廊下を真っ直ぐ行くと、木製の扉が見えてくる。
その横には、「みずはしパルスィ」という、キスメがプレゼントした二つ目の表札がかかっていた。
キスメは扉を、コンコン、とノックしてから声をかける。
「パルスィちゃん、ただいま。帰ってきたよ」
すぐに閉じたドアの向こうから、足音が近づいてきて……止まった。
『誰?』
「え……? キスメです」
『信用できないわ』
「ええっ!?」
ここでもまさかの応対だ。
『あんたがキスメだというなら証拠を見せなさい。三年前の四月十日に私の家で何を食べたか答えなさい』
「そ、そんなの覚えてないよ」
『じゃあ偽物ね』
「ほ、本物! 証明できるよ! えっとね。パルスィちゃんが好きな場所とか知ってるし、あとは好きな食べ物とかも……」
『そんなの当てずっぽうでも正答しかねないわ。もっと詳しい情報を示してみせなさい』
「ええっと、うーんと」
『じゃあ、私のモノマネをしてみなさい』
「モノマネ? パルスィちゃんの?」
唐突なお題に、キスメは首をひねる。
そもそもモノマネをしたこと自体ほとんどなかったが、そうしなければ入れてもらえないというなら、やる他ない。
はじめに思いついたのは、先週旧地獄街道で熱々のカップルを目撃した時のパルスィだった。
そのイメージに合わせて、キスメは迫真の演技を見せる。
「ぱ……『パルルルル! ああ妬ましい! 腹いせにあんたのツインテールを蝶結びにしてやるわキスメェ!』」
バン!
「誰の真似よそれは一体!? そのツインテール蝶結びにされたいわけキスメェ!?」
「きゃー!」
「はいはい、そこまでそこまで」
勢いよく開いた扉から飛び出てきたのは、羽交い絞めされた状態で足をばたつかせる水橋パルスィだった。
さらに、怒れる彼女の後頭部から、ひょい、と土蜘蛛が顔を覗かせ、
「この猛獣は押さえといてあげるから、早く中にお入りキスメ」
「うぬぬ、誰が猛獣よ!」
金の髪をざわつかせ、緑の目に炎を宿しながらパルスィは唸る。
猛獣が見たら「誰が橋姫だ」と抗議しそうな形相だ。
キスメは桶の中に身を隠しつつ、そろそろとその前を移動し、部屋の中に入った。
「一体何があったのヤマメちゃん? 知らない鬼の人達が門の前に立ってて、すごくピリピリしてたけど……」
あと何だかパルスィちゃんもピリピリしてるけど、と心の中で付け加える。
とそこでキスメは、部屋の内装がやけにこざっぱりしていることに気づいた。
壁にかかっていた絵や刺繍などは全て取り外されており、ペルシャ風の調度品や小物類も無くなっている。
残っているのはテーブルや椅子くらいで、何だか模様替えの途中にやってきたか、もしくはここにパルスィが引っ越す前に戻ったような感じだ。
「それがね、キスメ」
黒谷ヤマメは抱え込んだ橋姫を奥のソファまで運び、振り返りながら、
「あんたが出てったすぐ後に、この鬼ヶ城に犯行予告状が届いたんよ。怪盗ON.13から」
「か、怪盗おーえぬさーてぃーん!?」
その名を聞いて、キスメはびっくり仰天した。
「……って、だぁれ?」
「私も名前しか聞いたことない……っていうか、ただの都市伝説の類だと思ってたんだけどさ。勇儀から聞いた話によると、本当に過去にいたらしいんだよね、そのON.13っていうのが」
怪盗ON.13。それは過去に二度、何とこの鬼ヶ城に盗みに入った伝説の泥棒だという。
自ら予告状を送り付け、指定した時刻に大胆にも忍び入り、蔵という蔵を荒らし回り、金品の類を奪って去っていったそうだ。
仏の顔も三度まで、というが、鬼は一度でも許すことはない。
必ずや捕まえんとしているのだが、敵は手強く、その姿をまともに見た者も一人もおらず、得体の知れぬ妖術を使う謎の妖怪としかわかってないのだとか。
「予告状に書かれた時間は夜の十時。つまりあと二時間足らず。というわけで、普段都に出払ってる鬼達も急遽招集して、目下厳戒態勢中ってわけ」
「それであんなに鬼の人が集まってて、みんな怖い顔してたんだ……」
そういえば、鬼ヶ城に入る資格は持っているものの、通常は都で過ごしている鬼も多いと聞いている。
キスメがここに宿を借りるようになってからまだ日が浅いし、門番の鬼達はそのことを知らなかったのだろう。
納得したものの、一つ腑に落ちないことがあった。
「じゃあパルスィちゃんがイライラしてるのは……」
「決まってるでしょ! この風雷邸に軟禁状態にされたからよ!」
すかさず怒りの声が飛んできて、キスメは反射的に桶の中で防御姿勢を取った。
「聞けば前回はこの建物の中も荒らされたっていうじゃない! 巻き込まれるのが嫌だから、とっとと貴重品まとめて都の適当な宿に避難しようと思ったのに! 『それでは我々の面子が』だとか『鬼の名に懸けてもミズメの姉御はお守りします』だとか! んなの知ったこっちゃねーわよ!!」
パワーボム。エルボードロップ。ニードロップ。ダイビングヘッドバッド。
パルスィはソファに置かれたクッションに、あらゆる技を駆使して当たり散らしていた。
こうなった原因は、鬼と橋姫……というより鬼ヶ城の住人とパルスィの性格の違いにある。
鬼達は勝負を好み、相手が誰であっても挑戦を受けるのが信条であり、おまけに大の負けず嫌いだ。
一方パルスィは、面倒事を極力避けたい性分であり、わざわざ勝負を受けたがる鬼の気持ちなど一切理解できない。
しかし彼女はこれまで不本意ながら、ここの城の者達に世話になってきた。そして相手は普段から彼女にへりくだっているとはいえ、れっきとした鬼である。結局、意見をごり押しされ、ストレスのやり場のない状態になっているらしかった。
両者の立場と気持ちがよくわかっている土蜘蛛が、「まぁまぁ」とのんびりした声でなだめる。
「貴重品はちゃんとこの部屋の地下にしまったし、風雷邸には最大限の警備を約束してくれるっていうんだから、大丈夫だって」
「ふん。ちっとも安心できないわ。どいつもこいつも筋肉だけ有り余ってて、足元がお留守な連中ばかりなんだから」
「聞き捨てならないなパルスィ! 私達はそんなに甘くないぞ!」
威勢のよい声と共にドアが開いた。
赤い一本角を額から生やした女の美鬼が、長い金髪をなびかせて豪快に入ってくる。
仲良し四人組の一人で、この鬼ヶ城の頭領である、星熊勇儀だった。
「どうだい? 少しは機嫌が直ったかい?」
「シャーッ!!」
「うんうん、そうか。覚悟は決まったらしいな」
「どんな頭と目と耳してんのよあんたは!?」
「キスメも帰ってきたんだね。間に合って何よりだ」
「こら! 無視すんじゃない!」
拳を振り回して抗議するパルスィを前にして、勇儀は涼しい顔のままだ。
右手でパンチを防御し、左手で椅子を引いて座る彼女に、早速キスメは尋ねた。
「勇儀さん。怪盗ON.13って、どんな泥棒さんなの?」
「そこが実は謎なんだよ。律儀に予告した時間に現れて、派手に立ち回るっていうのに、姿を見た奴はいないし、手がかりらしきものも残していかない。だが妖術の腕だけは本物だな」
勇儀は当時のことを思い出しているのか、わずかに顔を曇らせ、
「なかなか厄介な術でね。なんていうか……敵と味方の区別がつかなくなるんだ。前回も前々回もそれでやられた」
「敵と味方の区別が?」
凄そうだけどちょっと地味なような、とキスメは思ったものの、
「……そりゃなんていうか、まずいね。この城の場合」
「一気にここの警備が信用できなくなったわ」
ヤマメは腕を組んで考え込み、パルスィは同じポーズでジト目となる。
時を操ったり死を操ったりといったものに比べれば、確かにそれは地味な能力に聞こえなくもない。
が、この鬼ヶ城にとっては、敵と味方の区別がつかなくなるというのは、非常に厄介な技だろう。
相手が強く、人数が揃っているほど、その術は効果を発揮するのだから。
「まぁ今回は私らも一応対抗策があるし、ただでやられはしないさ。けど現場は多少混乱するだろうから、この建物の中で大人しくしていよう」
「あんたは出歩かないの?」
「外は左の字に任せて、ここの守りは私が担当することにした」
勇儀は五指を組み合わせて前に伸ばしながら、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「それとも、四天王が護衛じゃ不足かね?」
三名とも――反応に多少の温度差はあったものの――その申し出を歓迎した。
やはりいつもの四人だと気分も落ち着くし、この都で最も腕の立つ鬼がいてくれるのであれば心強い。
不機嫌だったパルスィも次第に角を引っ込め、テーブルを囲んだ妖怪達は、普段のノリでお茶と会話に興じ始めた。
だが、しかし、だがしかし。
この四人娘は知る由もなかったが……実は彼女たちに関わる別の事件が一つ、すでに起こっていたのだった。
鬼ヶ城から離れた中央街、その真ん中の丘に立つ館にて。
◆◇◆
「やってくれたわね……こいし」
地霊殿の三階にある執務室。
そこで古明地さとりは腰に手を当て、対峙する影を睨み付けていた。
その一方で、
「やってくれたわね……こいし」
古明地こいしも腰に手を当てて姉の方を見返し、同じセリフを唱えた。
妹を見つめるさとりの半眼が、四分の一眼となる。
「私のモノマネをしてどうするの」
「お姉ちゃんの真似なんてしてないよ。これはね、インコの真似」
「インコだろうと九官鳥だろうと、この際問題ではありません。あなたのしでかしたことが問題なんです」
「何のこと?」と恍けるこいしに、さとりは組んだ腕を解き、鋭い動作で壁に立つ書架の下側を示した。
「そこの隠し金庫に私がしまっておいた本、取り出したのは貴方でしょう」
「うん」
「どうやって見つけたのですか」
「お姉ちゃんがそこに何かしまってるのを見たから」
「どうやって開けたのですか」
「適当にボタンをいじってたら開いちゃった」
さとりは思わず肩を落とす。
今度から金庫を二重にして、さらに部屋の鍵を肌身離さず持っている必要があるかもしれない。
行動原理が読めないだけならまだいいが、不可能を可能にしてしまう奇妙な運の良さも、妹の持つ厄介な資質の一つであった。
「それで……あの本をどこにやったんですか。まさか外に持ち出したりしてないでしょうね」
「別にどこにもやってないよ。お姉ちゃんの部屋にあった『袋』の中の本と取り換えただけ」
「………………は?」
とだけ、さとりは言った。
閉じかけていた両の瞼が、限界寸前まで見開かれ、彼女の肉体はそのまま停止した。
血液の量がゼロになったかのごとく。神経の活動が失われたかのごとく。入っていた魂が抜けたかのごとく。
まさしく、ほぼ完全なエンプティー。
やがて、さとりの意識が何とか再起動を果たした後、その全身が小刻みに震え始める。
「な」
「な?」
「ななななな」
「ななななな?」
「ななななななな…………」
こいしがそこでポンと手を打ち、
「ナタデココ!」
「なんてことをしてくれたのっ!!」
さとりは目の前の妹の肩をガクガクと揺さぶりながら悲鳴を上げた。
そのまま頭を抱えたり、跳ねたり、しゃがみこんだり、ともかくあらゆるボディランゲージを駆使して己の衝撃を伝えようとする。
「こいし! あそこにしまっておいた本が、何だかわかっていたの!?」
「お姉ちゃんの書いた本でしょ?」
「そう! そして、あの袋の中身が何だったかわかっていたの!?」
「えーと、あの桶に入ってる……そうそう、キスメちゃんだったわ。あの子に貸そうとした本よね」
「その通りです! じゃあ、なんで私が袋に入れておいた本と金庫の本を入れ替えるような真似をしたんですか!!」
「面白そうだったから」
「面白いはずがありますかっ!!」
そう。あの隠し金庫にしまってあったのは、過去にさとりが書いた本だった。
実は彼女の秘かな趣味に、小説の執筆というものがある。
とはいえ、誰かに読ませたことも、読ませる予定もなかった。あくまで、自分の世界の中だけにとどめておく趣味だった。
実際に体験してみて、読書と執筆は全く別の作業だということが解り、新鮮な面白さがあった。
読むよりも遥かに時間を費やし、頭を働かせ、言葉を取捨選択し、話を組み立てていく難しさ。
素人が挑戦することで、先人の名著に対する畏敬が深まり、より広い視点で書物というものを見つめられるようにもなった。
ただし、今まで書いたもの全てが、さとりの満足するレベルに達してくれたわけではない。
中にはスランプ期に書いたとんでもない駄作もあり、その究極系とも呼べる一冊が、あの金庫にしまわれていたのだった。
「大変な事態だわ……」
さとりは息を荒げ、指をわななかせ、未開部族の祈祷師じみた所作で、うろうろと室内を歩き回る。
よりにもよって最大の黒歴史といえる一冊を、あの小さなお客に「面白い本だから」と貸してしまったとは。
名前を記してはいないものの、イニシャルはしっかり書き入れている。
もし書いたのが自分だとバレたら、いやバレなかったとしてもあんな本を薦めた時点で間違いなく人格が疑われる!
「せめて貴方が、私が書いたもの以外の本を選んだなら、まだ傷が浅かったのに!」
「あっ、えーとね。どっちにしようか迷ったの。このヴィオレット・スッキマーっていう人が書いた『ンガベの冒険』っていう私のお気に入りなんだけど」
ガクン、と首を折るさとり。
目を閉ざす前も閉ざした後も、この妹とはとことん趣味が合わない。
と、そもそも彼女と議論している暇も全くないということに、さとりは気付いた。
「今すぐ追いかけないと」
「追い付かないと思うよ」
「だからといって、このままじっといるわけにはいきません。何としてでも、あの一冊を取り返しに行きます」
さとりはすぐ隣にある自室へと飛び込み、急いで出かける支度を始めた。
とそこで、
「ねぇ、お姉ちゃん。どうしてあの本を、捨てないで取っておいたの?」
部屋までついてきた妹の質問に、さとりの着替える手が止まった。
「どうしても読まれたくないなら、破って捨てるか焼いちゃえばよかったのに、わざわざ本にして金庫に残しておくなんて変なの」
「………………」
妹の疑問に悩める姉は長いため息を吐き、白状した。
「反省のためです。それに、たとえどんなにひどい作品だろうと、私がこの世に生み出してあげたものには変わりありませんから」
「でもあれ、面白いと思うよ。あの子に読んでもらって感想を聞けば……」
「いーえ」
そこは、はっきりくっきり否定する。
「たとえ彼女でなくて、宇宙の果てにいる微生物であろうと、読んでもらいたくはありません。日記や身体測定の結果を読まれる方がましです」
「誰かに読んでもらわないと、なかなか成長できないって、前に読んだ本の最後の方に書いてあったけど」
「そんなことを貴方に説教される筋合いはありません」
会話している間に、すでに着替えを終えていたさとりは、地霊殿に妹を残し、鬼ヶ城へと向かった。
◆◇◆
あの小さな釣瓶落としが地霊殿を出てから、およそ一時間が経過していた。
おそらくもう鬼ヶ城に着いてしまっているだろう。
もし彼女が帰って、すぐにあの一冊に手をつけてしまえば万事休す。
けどその前に止めることができれば、誰も傷つくことなく治まるはず。
そう信じていたさとりの考えは甘かった。
――な、なんなの。この厳重な警備は!
鬼ヶ城にたどりついたさとりは愕然となった。
閉じた鉄の城門の前で、武装した筋骨隆々の鬼が直立不動でいる。
塀の周りにも歩哨らしき鬼が徘徊しており、物見やぐらにもかがり火が焚かれていて、その上空で目を光らせた見張りが飛び回っていた。
辺りに立ち込めた鬼特有の妖気も殺伐としていて、それだけですでに結界のような有り様となっている。
いくらなんでも異常な警戒ぶりだ。何かあったのだろうか。
さとりは表をうろついている鬼の心から断片的な情報を得た。
何やら怪盗ON.13なる輩が、今夜十時に盗みに入るという予告状を出したらしく、それに合わせて厳戒態勢を敷いているらしい。
なんということだろう。よりにもよって、こんな時に事件が重なるなんて。
この状況で天敵である地霊殿の主がキスメに取り次いでほしいと頼んでも、百パーセント門前払いを食らうだろう。
――どうしよう……諦めて待つべき?
本来、策士としての古明地さとりは、危ない橋を渡るタイプではない。
九割九分の勝算があっても残りの一分の可能性を考慮し、その場合の保険がなければ決して動くことはなかった。
無理に押し通ろうとすれば事態を悪化させかねないこの状況では、普通であれば間違いなく待つ方を選んだだろう。
ただし、今回のケースに限っては例外だ。
あの本を読まれるというのは、さとりにとって……いや、地霊殿の主にとって、ただ恥ずかしいという以上の致命的な効果があるのだ。
さとりは妖怪である。
精神に依存する妖怪は、自らが精神的に追い詰められれば、その能力を含めて著しく弱体化する。
明日までにあの本を読まれ、さとりが書いたものであることが知られれば……いや、知られずともその本の噂が広まるだけで、著しいダメージを受ける。
すると、さとりが今まで己の力で未然に防いできた問題も、一気に表出することになるだろう。
地霊殿から封じている怨霊が飛び出すかもしれない。鬼が中央街にわんさか押し寄せるかもしれない。
ともかく、どんな騒動が起こっても不思議ではない。
その騒動を受けて、さとりの力はさらに減退し、微妙に保たれてきた旧都のバランスが大きく傾くことになる。
しかも……しかもだ。そう遠くない時期に、是非曲直庁から閻魔様が旧都の視察にやってくることになってるのだ。
彼女はたちまち都の混乱を察知し、その原因をさとりに問い質すことになるだろう。
すると、さとりは旧都の代表として、そうなった理由と証拠物件を提示せねばならない。
そう! あの忌まわしき本を、よりにもよってあの御方に見せることになるのだ!
~~~
「この本が、今回の都の混乱を引き起こす原因となった代物ですか」
幻想郷を担当する地獄の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥは、きびきびとした口調で言った。
四方は黒い天井と白い床が地平の彼方まで続いており、一切の雑音が聞こえない。
閻魔が取り調べに用いるという特殊な空間の中で、さとりは灰色の机を挟み、無に近い厳然たる表情の映姫と向かい合っていた。
古明地さとりが地底で最も恐れられている妖怪というのは、正しい情報だ。
しかしながら、大きな蓮型の冠と濃紺の制服で身を整えたこの女性は、住む世界を問わず、最も逆らってはいけないとされる妖怪の一人だった。
机の上で閻魔様の白い指が動き、問題の一冊を手に取る。
「ではまず、この物件の詳細について説明してもらいましょう。この本は貴方が書いたのですね?」
「はい……私、古明地さとりが書いた小説に間違いありません」
「どうしてこれが世に出ることに?」
「身内のいたずらによってです。私の本意ではありませんでした」
「貴方の力が減退したのは、この本に下された評価が原因ということですが、間違いありませんか?」
「その通りです……」
「しかし、都では幾度も重版され、今だに飛ぶような売れ行きとも聞いてますが」
「……世の中、いいものばかりが売れるというわけではありません」
「なるほど。捻れてはいますが、それもまた真理ですね」
映姫は淡々と述べてから、分厚い本の表紙をめくる。
「一応、内容についても確かめておきたいのですが、作者である貴方自ら解説していただけますか?」
さとりは顔を伏せ、ぐっと歯を食いしばる。
こういう流れになることは、すでに相手の心を読んで覚悟はしていたが、それでもやはりキツいものがあった。
しかし立場上、閻魔の命令に逆らうことなど許されない。
「わかりました……」
一呼吸置いてから、さとりは解説を始めた。
「その本の中身は全三篇から成り立っており、それぞれ内容の異なる三つの物語が書かれております」
「ふむ」
「元々は別々に原稿を書いていたのですが、どれも上手くいかず、救いようのない結末となってしまったので……つまり、私の失敗作を一つにまとめて製本したものだったのです」
「なるほど」
「読む方のジャンルは問いませんが、本来私が書く話は娯楽性の薄い、『心理の真理』の探求を目指した小説です。個々人の体験が、その者の意識にどのような影響を及ぼし、他者との関わりの中でどのような形に発露ないし変化していくのかを、これまで見てきた数多の実例を元に、文章でもって暴く。すなわち心の真理に言葉でもって触れようとする、まさしく第三の目を持つ自分だけが書けるであろう……」
「そこまで。貴方は少し説明が長すぎる。それに現時点では必要のない情報とみなします」
「……………………」
「時間がないので、先へ進みましょう。まず、この第一編は、いかなる作品なのですか?」
「それは……本格殺人ミステリ、のはずだったものです」
「ほう」
さほど興味のなさげな、事務的とも評せる口ぶりで相槌を打ち、映姫はページをめくる。
「推理小説ですか。しかし、『はずだったもの』とはどういう意味でしょう」
「その、作中の舞台は外界で、孤島に集められた多くの登場人物が、何者かの手によって殺されていくのですけど……」
「ふむ」
「あの、なんと被害者を殺した犯人は、外部の者でも内部の者でもなく、人間でも動物でも妖怪でもないことが終盤に判明するのです」
「外の者でも内の者でも、人でも獣でも妖でもない。まるで謎かけのようですね。まぁ、だから推理小説なのでしょうけど。して犯人は一体?」
「『大いなる大地の意志』だったのです」
閻魔は本から面を上げ、碁笥の中にどどめ色の碁石を一つ見つけたような表情となった。
「古明地さとり。私はこの手の書物に明るくないので、より詳しい説明を求めます」
「ええと、つまりどういうことかというと……漠然としたままのプロットで書き進めていた結果、登場人物をドンドンと死なせていく過程で、犯人役として相応しい者がいなくなってしまったのです」
「ふむ」
「故に無理矢理ストーリーを畳んだ結果、犯人は……大いなる大地の意志ということでしか説明がつかないようになり……」
「この手のものは探偵役が存在するのが定番だと聞いていますが、貴方の書く探偵はその真相にたどりつけたのですか?」
「はい。ですが主人公のバーロウ少年は、地割れに呑みこまれてフェードアウトします」
なんというべきか、ミステリというよりパニックホラーのような結末だ。
無人の館の庭にて「犯人はお前だ!」と自らの足元を指さすバーロウ少年。
直後に彼は大地の裂け目に呑みこまれ、「あれれ~おかしいぞ~?」と最期の言葉を残して消えた。
そして紙の上からは誰もいなくなった。当時はペンを置いたさとりも、この世からいなくなりたい気分だった。
今、この瞬間も、だが。
閻魔は娯楽要素ではなく、あくまで書かれた情報とそれが起こした結果にしか興味がないようで、
「では続いて、第二編について説明を求めます」
「はい……それは、アクション小説というものです」
「あくしょん小説。本を開くと何かが飛び出してくるのでしょうか」
「いえ、そうではなくて、登場人物が激しく動くシーンがあるといいますか。どうも、自分の書く話が動きに乏しくて……陰鬱とした空気なものばかりだった気がしたので、敢えて反対の境地に挑戦してみたのです」
「なるほど。具体的にどういったあらすじなのですか」
促されたさとりは、顔面でカルビが焼けそうなくらい頬を熱くしながら、内容を語った。
「と、とある組織に拉致されて不死の薬を飲まされた藤原・メイトリクスという男が……」
「藤原・メイトリクス。その名前は重要なのですか」
「いえ特には……ともかくその屈強なる不死身の主人公が、一人娘を組織に誘拐され、何度命を落としてもくじけずに生き返り、戦い続け、やはり不死身でもある宿敵の蓬莱山・ベネットと……」
「蓬莱山・ベネット。その名前は」
「重要ではありません。ともかく、不死身の主人公が同じく何度死んでも甦る極悪な宿敵と決着をつけにいくというものです」
「なるほど。ではその内容がどうして、都で貴方が嘲笑される事態を引き起こしたのでしょう」
嘲笑。なんという粗塩のきいた言葉であろう。
それをまだ閉じていない傷口にすり込まれたさとりは、思わず肩をすぼめ、そのまま体を半分に畳みたくなるような気持ちで明かす。
「あの……最初の決闘を一番激しく盛り上げてしまったせいで、その後は何を書いてもつまらなくなるような気がして……」
「ふむ」
「それに結局二人が死なないので、どんなシチュエーションでどんな武器を使わせても、いまいち緊迫した戦いにならなくて……」
「ふむふむ」
「終盤まできて、頭がぐらぐらとしてる中で何も思いつかず、それならいっそ逆を狙ってみようと当時なぜか思いつき……」
「逆を狙う? つまり?」
「暴力に頼らぬ決闘です」
「それはいわゆる、スペルカードルールでしょうか」
「草相撲です」
しばらく静寂が続いた後、冷たい風が吹いた……ような気がした。
実際は、閻魔がわずかに吐息を漏らしただけだった。
「屈強な主人公と極悪の宿敵が、草相撲で決着ですか。植物への配慮を鑑みなければ、比較的平和な解決法といえるでしょうね」
確かにそうかもしれない。
事実、書いている当時は、作者も登場人物の二人も大真面目だった。
筋骨隆々の主人公が、至極真剣な顔つきで足元に生えた草から珠玉の一本を選び出し、「どうした蓬莱山、怖いのか」と挑発。
対する宿敵の方も「てめーなんか怖かねぇ!!」と足元の草を引きちぎり、「野郎、ぶっちぎってやらぁ!!」と草相撲を開始。
絡ませたオオバコの茎。果たして先にちぎれるのはどちらの草か。
運と勘で得物を選び抜き、己の誇りを賭け、一瞬の呼吸で決着をつけるわずか一秒間の濃密な勝負。
これぞ真の決闘と言えまいか、と自分を納得させたものの、いざ読み返してみると竜頭蛇尾……どころか尻尾にフリルをつけたドラゴンのような奇怪な作品となってしまった。
以来、一度もその文章に目を通したことはない。
ただし旧都では今最も盛んに読まれている話の一つだ。そして哂われてもいる。
ついに、閻魔の指がとどめの問題作のページに差しかかった。
「では最後の第三編について、簡潔な説明を」
「はい。その作品は……」
さとりは喉を鳴らし、蚊の悲鳴のごとき声で白状した。
「超遠距離恋愛物です」
「超遠距離恋愛……?」
閻魔が怪訝な面持ちとなる。
「遠距離恋愛という言葉は耳に挟んだことがありますが、この場合の超とは一体?」
さとりは心のさかむけを一気に引きちぎるつもりで、一息に語った。
「宇宙を支配する悪の帝国の母星から放たれた、ミミという名の光子ミサイルが、標的の外惑星に到達するまでに、自らを誘導する通信士と恋に落ちてしまうというものでして、全編の八割がミサイルと通信士の会話と心理描写でできております」
部屋に立ち込めた沈黙が、さとりの鼓膜を圧した。
むしろ爆発音の方が、まだ耳に優しかったかもしれない。
無音の状況に耐えきれなかったさとりは、肺に残ったわずかな酸素を釈明に用いる。
「結局……ミミちゃんは母星に舞い戻り、星間戦争は起こることなく、主人公は彼女の爆風を抱きしめ、消滅して終わるのですけど……」
「なるほど……それはそれは熱い結末ですね……熱力学的に」
その一言が閻魔流のジョークだったかどうかは、定かではない。
わっ、とさとりはついに耐えきれなくなり、机に突っ伏して泣き出した。
「それらは私が書いたものではありません!」
「閻魔の前で嘘を吐くことはできませんよ」
「悪魔がとりついたんです! 泥酔したノリに任せた勢いで書いたのがいけなかったんです! 正気に戻って、ようやくその存在に気が付いたのです! どうかご慈悲を!」
「いいえ。貴方には酷な話でしょうが……」
四季映姫はおもむろに立ち上がった。
例の本も、しっかりと小脇に抱えて、
「古明地さとり。貴方が果たして今後も灼熱地獄跡の管理を任せる身として相応しい存在であるかどうか、審議にかける必要があります。よってこの本は、是非曲直庁の手で厳重に管理すると共に、後日委員会を招集し、より詳しく内容を審査することにします。召喚の日取りについては、後日追って連絡しますので」
~~~
「ならば私の屍を越えて行けぇっっっ!!」
さとりの口から魂の叫びが漏れ出た。
しかも動転のあまり、思わず想像上の閻魔様に躍りかかってしまった。
これが現実だったのであれば、即刻地獄行きを命じられていただろう。
いや、想像ですらこれほどの威力なのだから、本当にその未来に遭遇してしまえば、最早妖怪としての実体を保っていられるかどうかも怪しい。
まさしく身の破滅だ。そして我が身が破滅するということは……地霊殿の者達を路頭に迷わせ、危険に晒すということでもある。
屋敷に残してきた家族の顔が……彼女達の悲し気な顔が、さとりの脳裏に流れた。
しかし、妹だけはあくびをしていた。泣きたい。
――やはり、このまま待つわけにはいかないわ。
ここにきて、さとりは第三の手段を選択することを決心した。
今から鬼ヶ城に潜入し、何とかしてブツを回収するのだ。
こんなこともあろうかと、フード付きの外套の下には、動きやすいつなぎの服を着てきた。
万が一見つかった時のために、素顔を晒さぬよう、マスクもつけている。
改めて、物陰から城の周囲の警備を観察した。
敷地は正方形で、造りのしっかりした塀に囲まれており、それぞれの辺に二~三名の鬼を見張りに配置している模様だ。
中は天守を中心にした特殊な図面となっているようで、問題のキスメのいる建物は入ってみなければわからなそうだった。
今さらながら、協力者がいないことが心細い。
だが、地霊殿に戻ってペット達の力を借りて戻ってくる頃には手遅れになっているおそれがあった。
それにお燐もお空も、荒事の際は頼りになるペット達ではあるものの、潜入は彼女たちの能力が生きるシチュエーションではない。
一人だけ、この作戦にうってつけの能力を持つ身内がいるものの、素直に言う事を聞いてくれる保証はなかったし、むしろ余計にややこしいことになる可能性がある。
できれば彼女に協力してもらう形で責任を取らせたかったのだが、今回はお仕置き部屋に閉じ込もってもらうことにした。
それに、潜入という分野においてなら、さとりの能力も決して妹には劣っていない。
さとりは身を低くして、城の西側の塀に移動した。
外に三名、内に二名、計五名の鬼達の心の動きを読み取る。
行動を予知し、そこからパターンを導き出し、
――今っ……!
近場の塀へ猛然と進み、一息に飛び越え、着地してから、すぐ側の灯篭に身を隠す。
城内の誰にも気づかれた様子はなかった。
古参の妖怪の間では有名な話だが、鬼は攻め入るのは得意なものの守りは不得手である。
どんなに警戒しようと穴は生まれるはず、と踏んだが正しかったようだ。
といっても、さとりの能力が無ければ、その穴を見つけることもできなかっただろう。
たとえ五感が鋭敏であっても、主たる意識はそれらを全て処理できるわけではない。
さとりの第三の目は、その意識を読むだけではなく、本気になれば限定的に操作することすら可能だった。
地底で最も恐れられている妖怪と言われる所以である。
――今度はスパイ小説にでも挑戦してみようかしら。
心の内で、そんな余裕の台詞を呟きつつ、さとりは移動を開始した。
◆◇◆
「…………?」
ぴたっ、と相手のカードを一枚つまんだ状態で、ヤマメの動きが停止した。
表情から笑みが消え、茶色の瞳が焦点を失い、不穏な光が宿る。
隣の椅子に腰かけていたパルスィは、彼女に向かって手札を裏にして示したまま、片眉を持ち上げ、
「何? 言っとくけど、一度触ってから別のを取るのは無しよ。潔くそのババを引きなさい」
「………………」
ヤマメは無言でパルスィのカードから指を離し、自分の手札も卓上に伏せて、静かに立ち上がった。
テーブルを囲んでいる他の三名は、黙って彼女の不思議な仕草を見つめる。
パルスィの部屋の中はもちろんのこと、風雷邸の外で何かが起こっている様子はない。
けれども立ち上がったヤマメは、まるで自分にしか見えぬ何かを見据え、自分にしか聞こえぬささやきに耳をそばだてている風だった。
「……勇儀」
やがて彼女は、テーブルを挟んで向かいに座る鬼の方を見て、
「誰かが城の敷地に入り込んだかもしれない。西の塀に仕掛けた私の糸が切られて、今また別の糸が切られた。踏んだのはここの鬼じゃないよ」
実は今回ヤマメは、鬼達の警備を陰から協力していた。
賊が忍び込んでくるならこの死角をついてくるかもしれない、と思われる場所に、あらかじめ細い蜘蛛糸を仕掛けておいたのだ。
そのことについて事前に打ち合わせをしていた勇儀の顔色が、にわかに変わった。
意味を察したキスメとパルスィも浮足立つ。
「ど、泥棒さんがもう入ってきちゃったってこと!?」
「ちょっと! まだ十時になってないわよ!? 話が違うじゃない!」
過去の二度の傾向によれば、怪盗ON.13は、予告状に書かれた時間きっちりに姿を現したという。
なので勇儀を含めた城の面々も、そのつもりで今宵は準備してきた。
しかし、今回そんな鬼の正直さに付け込み、あえて裏をかいてきたとすれば?
勇儀がすっくと立ちあがり、
「念のため、外の連中に知らせてくる。お前達は建物から出ずに、ここで待っててくれ」
と言い残して、部屋を出た彼女は、駆け足の音と共に去って行った。
ヤマメがパンと手を鳴らし、動揺する他の二人の注意を引きつける。
「オーライ諸君、落ち着こう。とりあえず勇儀の言う通りにして、風雷邸の外には出ないこと。鬼達の邪魔にならないようにね。貴重品類は全部この部屋の地下にまとめてあるし、とりあえず、騒ぎがおさまるまでここでじっとしていよう」
「ええ」
視線の合ったパルスィが、心得た様子でこくりとうなずく。
しかし、
「あっ!?」
突然キスメが、口に手を当てて甲高い声を上げた。
「二人ともごめん! 私の部屋に戻っていい!? 盗まれちゃったら大変なものがあるって思い出したの!」
「行くなら早く行っといで。あ、待った。念のため私がついてくから、パルスィはー」
「はいはい。ここで戸締りして動かなけりゃいいんでしょ。ったくドジなんだから……」
ぶつぶつと文句を呟きつつ、パルスィは二人を部屋から送り出す。
続いて夜食の準備のため、彼女は台所へと足を向けながら、ふと首を傾げた。
「盗まれたら大変……って前に手に入れたアレのことかしら」
◆◇◆
「黒谷の糸が切られた、と?」
報せを受けた警備責任者の左近は、たちまち形相を変え、眉間に皺のこぶを作った。
伝えた勇儀の方も、油断ならぬ面差しでうなずく。
「はっきり姿を見たわけじゃないが、すでによそ者が入り込んでる可能性があると言ってる。城内の配置は?」
「班を八つに分け、各所を見廻らせております。それと遊撃隊を二つ、本丸内に待機させ、奴が出しだい追わせるつもりです」
「わかった。お前は引き続き、中央で指揮を執ってくれ。私は念のため、侵入があったと思われる場所を探ってから持ち場に戻る」
「御意」
左近は一陣の風をまとい、姿を消した。
続いて勇儀は、風雷邸の区域を担当する鬼達に声をかける。
「お前達。私がいない間を頼むぞ。あそこには誰も近付けさせるな」
「がってんです」
「鬼ヶ城の顔を潰しはしやせん」
二人の若い鬼は、それぞれ胸を叩いて請け合う。
実はパルスィは――本人は迷惑がっているものの――過去に旧都で起こったある事件をきっかけにして、鬼ヶ城の若い衆に慕われている。
数多くの立候補の中から抜擢された鬼数名は、どれも確かな実力を持ち、一人でも並の妖怪一群級の戦力といえた。
暫く彼らに風雷邸の守りを託した勇儀は、城の西側へと去って行った。
「よし、じゃあ持ち場に戻るか」
「ああ。……ん?」
鬼の一人が眉根を寄せ、薄目となる。
「おい、あそこの空き樽」
と指さす方向には石塀が、その手前には空の酒樽が積まれていた。
大酒呑みばかりのこの城では、ごく自然な光景といえる。
ただし一つだけ、積まれたものから離れた場所にぽつんと置かれた仲間外れの樽があった。
他が揃っているだけに、妙に浮いている。
「なんであれだけ離れてんだ? 昼間はちゃんと整ってた気がするんだが」
「んあ? 見張りの誰かが蹴飛ばしたんじゃないか?」
「だったら転がってるだろう」
「じゃあ景気づけに一つ空けた奴がいたとか」
「…………そうか。そんなもんか」
話しているうちに、二人はなんとなく、それで納得した気分になった。
「行くぞ。ぐずぐずしてると、どやされちまう」
「ああ」
若い鬼達は駆け足で、風雷邸近くの持ち場へと戻った。
「……っは!」
空き樽の中に潜んでいた古明地さとりは、溜めこんでいた息を残らず吐き出した。
間を置かずに古い木と強い酒の臭いが入り混じった空気をむさぼり、また息を吐き出す。
深呼吸が気持ちの良い環境とは言い難かったが、選り好みできる状況ではない。
まさに危機一髪だった。
城内が騒然となってから、鬼に見つかりそうになったさとりは、咄嗟にこの空き樽の中に身を隠したのである。
結局、樽は見咎められてしまったが、心を読む能力を応用した意識操作の術を用いたので、何とか切り抜けることができた。
だがもしあの鬼達が本気で怪しんで調べていれば、逃れられはしなかっただろう。
さとりの意識操作は洗脳と違い、はっきりとした黒を白にするほど強力なものではない。
今回はたまたま、鬼達が別の用件で急いでいたために、運よく成功したといえる。
「どうしてこんなことに……」
さとりは樽の中で落ち込んだ。
数分前に忍者の真似事で得意になっていた自分を折檻してやりたかった。
さっき星熊勇儀達は、糸が切られたなどと話していたが、たぶん見張りの目の届かぬ場所に何らかの仕掛けが施されていたのだろう。
それに気づかず、うっかり引っかかってしまい、侵入を覚られ、こんな酒臭い樽の中に逃げ込む羽目に陥ってしまった。
情けない。本来、自分の一族は自ら動くことなく、有利な立場から相手を追い詰めるのを常としてきた。
こんなみっともない行為に直接手を染めた者など、覚り妖怪の歴史を遡っても皆無だろう。
だが、反省は後でいくらでもできる。
目的の代物の鼻先まで迫っているのだ。
ここまで来て、こんな恥ずかしい思いをして、収穫のないまま引き返すことなどできはしなかった。
さとりは空き樽の中から、目標の建造物である、風雷邸の方角に心の目を向けた。
建物の周辺に、見張りの鬼の意識が四つ。
さすがに厳戒態勢となっているようだ。先ほどまでと違って、警備の穴らしい穴が見えてこない。
しかし、周回しているのは外だけで、肝心の建物の中には鬼はいないようだった。
さらに集中していくと、建物の中心を移動する二つの心が視えてきた。
(なるほど。前に手に入れた古道具が心配だったんだ。確かに盗まれたら大変だわね)
(ありがとうヤマメちゃん。でも気をつけないと。もう泥棒さんが来てるかもしれないし……)
――いた……!
廊下を行く二人の心の声に、さとりは小さく拳を握る。
一つは間違いなく、昼に会ったキスメの心だ。
その側を行く心の持ち主は、おそらく黒谷ヤマメ。
親交があるわけではないが、名前と素性については知っている。彼女もここに住んでるのだろうか。
そうか。先ほど勇儀達の会話の中で聞こえてきた「糸」というのは、土蜘蛛である彼女のものかもしれない。
さとりは意識を集中させ、心を読む範囲をピンポイントに絞った。
すなわち、キスメの頭の中の記憶。
そこに、自分が渡したあの紙袋の存在を見つけ、さとりは小さく息を呑む。
――良かった! まだ読まれてない!
不幸中の幸いかもしれない。キスメは本の入った袋を、自室に放置している。
中は襖で仕切られていて、鍵があるようにも見えない。
さらに幸運なことに、キスメ達は別室の一箇所に固まって過ごす様子だ。
つまり、あの風雷邸の中に入り込めさえすれば、ブツの回収は容易といえるのではないだろうか。
――いえいえ……そう簡単にいくはずがないでしょう。
と、さとりは甘い考えを断ち切り、踏みとどまる。
見張りの目をかいくぐるのは、心を読むことで何とかできるかもしれないが、具体的に中に入る手段がない。
扉や窓には鍵がかかっているだろうし、周辺にもまだ糸やら罠やらが仕掛けられているかもしれない。
かといって、中に入らずにあの袋を取り戻すなど……いや……。
――そうか……そうだわ!
再び、さとりの心に一筋のはっきりとした光が差し込んだ。
中に入る必要はない。その代わり、『キスメとだけ』連絡を取って、直接事情を伝えればいい。
彼女の性格はすでに把握している。
訳を話せば力になってくれそうだし、無理矢理押し入って本を強奪するよりもずっと分のある賭けだ。
ただ……キスメの知っている自分は、地霊殿の応接間で悠然と客をもてなしていた古明地さとりである。
こんな樽に隠れて鬼ヶ城に不法侵入している古明地さとりを、果たして信用してくれるかどうか。
元々、信用されないことに関しては他の追随を許さない妖怪だと自負しているのに。
――けど、やるしかないわ。あの子の性格と、そう診断した私の能力を信じましょう。
どちらにせよ、ここからでは遠いので、彼女と念話を繋ぐことはできない。
何とか監視の目をかいくぐって、もっと近づかなくては。
再び決意を固めたさとりは、よいしょ、と樽を持ち上げ、可能な限りの速さで移動を始めた。
◆◇◆
使い慣れた包丁の刃を、桃色がかった白い滑らかな面に当て、静かに引く。
厚さは約7mm。前日のうちに作っておいた蒸し鶏を、歯ごたえが楽しめる程度の厚さにスライスしていく。
同様に、別の包丁で淡白な味のチーズも薄く切り分ける。さらに今朝に買ってあった葉野菜を水で洗い、手でちぎる。
続いて、ハーブを効かせた酸味のある特製のドレッシングを冷蔵庫から取り出す。これらを辛子とバターを塗ったパンで挟めば完成。
他にも胡椒を含むスパイスを隠し味に加えた卵サンドの具も用意した。
火を使わず、作るのも食べるのもシンプルに済み、そして満足感も得られる非常用の夜食のできあがり。
パルスィはまな板を取り換えて、パンナイフを取り出しつつ、居間に向かって声をかける。
「ねぇヤマメ。さっきの、あんたの勘違いだったっていう可能性は?」
「そうだねぇ。無い、とは言い切れないけど」
と、編み物をしているヤマメが応えた。
「まぁもうじきわかるでしょ。これまでは予告した時間に確実に来てたそうだし。といっても、わざわざこの風雷邸に入り込んでくるとは考えにくいけどね」
「どうしてそう言い切れるのよ」
「玄関には鍵がかかってるし、侵入口に成り得る場所には結界が張ってあるし、ましてやこの後、勇儀まで戻ってくるわけだし」
「警備が厳重なら、それだけすごいお宝があるかもって勘違いされたりしない?」
「うーん、相手の根性しだいかねぇそこは。私が泥棒なら、もっと割に合う場所を選ぶよ。絶対欲しいものが眠ってる、ってあらかじめわかってる状況とかならともかくね。無茶して捕まる方がよっぽど馬鹿馬鹿しいから」
「そっか。なら安心なのかな」
と、二人の会話を聞いていたキスメは納得し、少しホッとする。
彼女は先ほどから、桶の端に両肘で頬杖をつき、編み棒を動かすヤマメの手元を眺めていた。
仲良しの二人がこうして何かを作っているのを見るのが好きで、機会があればいつも見学させてもらっているのだ。
ただ今夜のように、二人が同じ時間にこんなに近くでそうしていることは珍しいので、その視線は台所と居間を行ったり来たりしていた。
「そういえばキスメ。地霊殿でお友達と遊んだ話は聞いたけど、ご主人様の方の印象はどうだった?」
ヤマメが編み棒を器用に動かしながら聞いてくる。
問われたキスメは頭をもたげて、昼間の光景を思い出した。
「えっとね。なんだろう、オーラっていうか……。そんなに背が高くないのに、すごく大きく見えて……でもお洒落な雰囲気があって、親切にしてくれて、本も貸してくれたから、きっといい妖怪さんだと思う」
「案の定、しっかり餌付けされて帰ってきたみたいね」
「あ、ひどいパルスィちゃん」
台所のパルスィの一言に、キスメは笑顔でそう返す。
「あとね。何だかびっくりするくらい落ち着いてる人だった。今まで一度も慌てたりしたことがないのかも、って思っちゃうくらい」
「ああ、だろうね。心を読めるっていうのは、相手の思惑を見て取れる、つまり隙を突かれることはないってことだし、読心の能力は妖怪にとっての盾だけじゃなく、防ぐことのできない矛にもなるわけだから。その二つを兼ね備えた古明地さとりは、地底で最も余裕のある妖怪って言えるかもね」
「そうね。確かにあの妖怪が取り乱して右往左往したり、驚いて悲鳴を上げたり、死に物狂いで逃げたりするような姿なんて思い浮かばないわ。妬ましい」
と言ってる間に、パルスィはサンドイッチを完成させた。
量は四人分プラスアルファ。出て行った一人はまだ帰ってきてないが、冷めても問題ないメニューなので大丈夫だろう。
パルスィは濡れた布巾で手を軽く拭き、側にあった薬缶に手を伸ばす。
その中に残った水を、外に生えている地底植物に分けてやるのが、この時間のパルスィの日課だった。
そう。パルスィのその動きは、完全に習慣化されたものだった。
頭では別のことを考えつつ、パルスィは顔が入るか入らないかという程の小さな窓から、水を外に捨てて……
『きゃっ……!』
「ん?」
パルスィは反射的に、薬缶を持つ手を引く。
今、外から変な声がしなかったか?
まさか、大事に育てていたジェラちゃんが、しゃべるようにでもなったとか?
それとも……
「………………」
パルスィは薄目で、窓の外を覗いてみた。
そして、
「…………出ぇたぁああああああ――!!」
盛大な悲鳴と共に、金物が転がる音が響く。
すかさず、居間にいた二人が台所に飛び込んできた。
「何が出たって!?」
「パルスィちゃん大丈夫!?」
ヤマメとキスメは、床の上で腰を抜かしている橋姫に駆け寄る。
両目をいっぱいに開いたパルスィは、指を窓の方に向け、腕をぶんぶん振りながら、
「い、いたのよ今外に! 見たこともない怪物が!」
「か、怪物?」
「ええ! 断じてここの鬼じゃなかったわ! きっとあれが怪盗なんちゃらよ!」
すぐに俊敏な動作でヤマメが立ち上がり、小窓の側に斜めに身を寄せて、慎重に外の様子を窺う。
怪物とやらはもう逃げてしまったのか、姿も気配もなかった。
ヤマメは視線をパルスィに戻し、
「どんな奴だった? 背丈とか服装は? 思い出せる?」
パルスィはうなずき、恐怖に青ざめた顔で語り始める。
「大きさは、こう酒樽くらいで、なんていうか……ぶよぶよとしていて」
「ぶよぶよ?」
「ええ。それで灰色がかったスライムみたいな形状の中に無数の目玉が浮かんでて、そのうちの一つの巨大な目玉がこっちを見つめていて」
説明するうちに、パルスィの表情に緊迫感が増していった。
しかしながら、聞き手の二人の表情は対照的に……。
「あと角があって牙があって尻尾もあって、翼も生えてて……」
「………………」
「………………」
「そ、そうだわ! いつか見た悪夢の中に出てきた怪物そっくりだったわ! あれはきっと私の予知夢だったのよ!」
「………………」
「………………」、
「何よ二人とも! その顔は! 信じてないのね!? なら今すぐ外に行ってみなさいよ! きっとまだうろついてるから!」
「いやいや、そんな怪しい奴が外をうろついてたら、見張りがすぐに見つけてきてくれるよ、きっと」
ヤマメは朗らかに言って、パルスィに手を貸して立ち上がらせ、彼女の背中を居間に向けて押しながら、
「それから、じっくり検分すればいい。ここは片づけとくから、あんたはソファで休んどき」
「本当に見たのに……」
「パルスィちゃん、私は信じるよ」
「そう? 信じてくれるキスメ?」
「うん」
キスメは口元に力をこめ、真面目な面持ちでうなずいてから言う。
「頑張って信じる!」
「いらんわそんな頑張り!」
◆◇◆
一方その頃、風雷邸から数間離れた場所、鬼ヶ城の塀の側でパルスィの目撃したぶよぶよのスライムが……
ではなく、樽の中の覚り妖怪が、失意のどん底に陥っていた。
――もうダメ……おしまいだわ……。
せっかくキスメと念話が伝わる距離まで近づけたというのに、またもや致命的なドジを踏んでしまった。
習慣に染みついた動きは半分無意識の領域にあるため、第三の目をかいくぐることは確かにある。
しかし、よりにもよってあのタイミングとは。
不意に樽越しに水をかけられ、思わず声を上げて転んでしまい、あの橋姫とばっちり顔を合わせてしまった。
水橋パルスィとは一度過去に面識がある。向こうは自分の正体に気づいたかもしれない。
そうでなくとも、きっと今ごろ、彼女は自分の特徴をこと細かく他の二人に伝えているはず。
すると昼に会ったばかりのキスメの方が、おそらく察し、城内にもその情報が瞬く間に広まることだろう。
なぜか地霊殿の主である古明地さとりが、鬼ヶ城内に侵入している!
となれば、さとりが渡したあの本について疑いがもたれる可能性も大だ。
いやこのままだと、城の中で捕えられてしまうこともあり得る。
どちらにせよ最悪な結末だ!
ガーンガーンガーン、とけたたましい音が鳴り響いた。
はじめ、さとりはそれが自分の頭の中に響いたショックの音だと思った。
だが、
「出たぞぉ!! あいつだぁ!!」
という鬼の叫びを聞き、それが現実の鐘の音だと気づく。
――見つかった!?
さとりはとっさに逃げ出そうと、樽の中で腰を浮かせた。
と思った直後、足下が明るくなり、
「……っ!」
慌てて樽を跳ねのける。
一拍遅れて、頭上から光の矢が降り注いだ。
不意の攻撃だ。弾速も形状もその方向も、十分に確認する間がなかった。
さとりは咄嗟に我が身をかばう。
しかし動かなかったことが逆に功を奏したらしい。
一つ一つの矢は大きかったが、それぞれの間隔は広く、散漫だったのだ。
よって辺りの地面を軽く焦がした程度で、さとりの体には一つも当たらなかった。
しかし、こちらを狙った攻撃だとすれば、ずいぶん照準が甘い気がするが……。
「…………?」
城内にいる鬼達の意識は、一人として自分に向いていない。
彼らが『見て』いるのは空だ。鬼ヶ城の上空。
さとりも自然、顔を持ち上げる。この都の空は、いつどこから見上げても代わり映えしない。
真っ暗な闇の中に、分厚い岩盤に張り付いた発光植物や夜光虫の弱々しい輝きが見えるだけだ。
けれども今、一際大きな青白い光の玉が、空を縦横無尽に飛び回っていた。
しかも玉は鬼達が弾幕を放つと、闇の中に消え、また別の場所に出現する。
さとりが呆気に取られて見ていると、
「そこに誰かおるのか!」
というその声は、間違いなくさとりの背中にかけられたものだった。
今度こそ鬼の一人に見つかったらしい。
さとりはフードをかぶって、髪と顔の半分を隠した状態で、その見張りと対峙する。
そして、
「は……?」
と口を開けたまま硬化した。
鬼だと思った相手は、さとりの持つ第三の目という最も信頼のおける感覚器官を麻痺させるほどの、衝撃的な姿をしていた。
角刈りとロングヘアーを組み合わせた、奇抜なヘアスタイル。
箱のような骨格をした顔。窪んだ眼窩の奥には、氷の粒のような無感情の瞳。
顔を含めた肌に墨を塗った、筋肉もりもりマッチョマン。服はワイシャツに赤のモンペとサスペンダー。
さらに外界に存在するという自動式の石火矢を担いだその姿は……!
――ふっ……藤原・メイトリクス!?
さとりの精神がバーストしかけた。
姿こそ実際に見たことはないが、その外見的な特徴は、間違いなくイメージした通りの人物だ。
が、なんで自分の書いた本のキャラクターが、突然目の前に現れたのか。
これは夢? それとも幻?
心を読むことも忘れ、さとりが茫然自失となっていると、
「……伊吹山っ!」
突然、藤原・メイトリクスが鋭く声を放ってきた。
それが味方かどうかを確かめる合言葉だったと気づいたときには、もう遅かった。
相手の振り下ろしてきた石火矢が、さとりの鼻先をかすめる。
「ここだ! 賊はここにいるぞ!」
さとりはパニックに陥りながら、本能に従い逃げ出した。
……が、逃げた先で出くわした、新たな人影は。
「はぁっ!?」
さとりは今度こそ、素っ頓狂な声を上げていた。
艶やかな黒髪を伸ばし、桃色の十二単に身を包んだ……口髭をたくわえたいかつい男。
牛刀を構えたその悪党面の妖怪は……ああ、蓬莱山ベネット!
「ここにいたか! 逃がさんぞ怪盗め!」
恫喝されたさとりは、挟み撃ちに合う前に横に逃げ、二人のいかついマッチョマンから全力で逃走を計った。
その途中で、様々な者達とすれ違ったが、どれもこれも、さとりが書いた本に出てくるキャラクターばかり。
だが彼らの心は、先ほどまで城の警備をしていた鬼達のものに他ならなかった。
つまり、鬼の姿が全く別の存在に見えているのだ。
――どうして!? 私の頭がおかしくなったの!?
城内の混乱に紛れて、さとりは何とか追っ手を振り切り、はじめに隠れた樽の場所まで戻ってきた。
ひとまず、積まれた一つをかぶり、隠密に徹する。
結局、また樽のお世話になってしまった。今となっては守り神に値する存在だ。
姿の変わった鬼達は、お互いが誰かを確かめるのにも苦労しているようで、先ほどよりも動きに統制が取れてなかった。
空にいた謎の物体は、今は消えているようだが……。
どさっ、と突然、背後で物音がした。
また見つかったかと思い、慌ててさとりは樽をはねのけて逃げようとしたが、
「いたた……さすがに前より警備がきついなぁ……って、あれ?」
さとりは目を丸くして、その『影』を見つめる。
一方、『影』の方は、ぐにゃぐにゃと形を変え、
「げっ!? その『目』……あんたもしかして、覚り妖怪!? なんでこんなとこにいるの!?」
「そういう貴方は一体……」
「あ、そうか。私の能力が効いてる間は、私の心が読めないんだ。なーんだ、びっくりして損した」
ホッとしたように息を吐く『影』は、闇色の雲といった感じのものに変じていた。
さらに、もやもやと動きながら、こちらの方に間合いを詰めてきたので、さとりは思わず身を引く。
「というかよく見ると、あんたも私の『仕掛け』がついちゃってるじゃない」
「仕掛け?」
「おっと。企業秘密よこれは」
と言って、相手は腕?のようなものを顔?の前に持ってくる。
なんとなく、口に指をあてるジェスチャーが思い浮かんだ。
さとりは何度か瞬きをして、
――まさか……もしかすると……いや、間違いない。
、突然、さまよっていた思考が、迷路の出口にたどり着いた。
なぜ今、相手が『影』や『闇色の雲』のように見えているのか。
なぜその心を読めないのか。
そしてなぜ、城の中にいた鬼が、自分の書いたキャラクターに見えたのか。
怪盗ON.13。その名前の意味とは。
「なるほど……そういうことでしたか」
古明地さとりは数時間ぶりに、心の余裕を取り戻した。
「ここで会ったのも何かの縁。私に協力してください、怪盗さん」
「は? 何で?」
「さもなければ、貴方の正体を鬼にバラしますよ」
さとりがそう脅すと、謎の存在は小さいが耳に障る笑い声を立てた。
「へーぇ、あんたが私の正体をねぇ」
「考えてみれば、幼稚ななぞなぞですよ。怪盗ON.13ですか。もっと早く気づくべきでした。ヒントはアルファベットだったのですね」
「お?」
深い黒の霧が揺らいだ。
その奥に一瞬だけ、複雑な形状を背負った人型の影が見えた。
さとりは名探偵バーロウ少年になった気分で、自らの推理を披露する。
「もし『ON.』というのが、本来はナンバーを意味する『NO.』で、それを逆さまにしたものだったとすれば? アルファベットで13番目といえばMを指すけれど、これだけでは意味がわからない。では『ON.』にちなんで、逆から数えてみたら?」
「……………………」
「アルファベットの字数は26。これを逆に数えていけば、13番目の数字はNとなる。つまり『エヌ』を逆から読め、という意味だったのですね」
もはや影はガスの塊ではなく、はっきりとしたシルエットとなっていた。
そして、さとりの第三の目も、徐々に相手の感情を読み取ることができていた。
『彼女』は……自分の正体が暴かれることを望んでいる。
その希望に応え、さとりは指を突き付けた。
「すなわち、貴方の正体は……正体不明を力の源とする妖怪、『封獣ぬえ』」
「ご名答!!」
マントをはぎ取るような音と共に、影がはっきりとした妖怪の姿に変わった。
黒いワンピースにニーソックス。片側をはねさせた漆黒の髪。
それだけなら地底らしいシンプルな装いだが、背中側には左右非対称で形も違う赤と青の羽が三枚ずつ。
そして腰の辺りには後ろ手した三又の槍が見えておりさらに腕には蛇の飾り物。
総じて地味とも派手とも言い難く、独特な個性を有した外見の妖怪である。
「まさか私の正体を見破ったのが、鬼じゃなくて、同じく泥棒に入ってきた覚り妖怪だとは。驚いたもんだわ」
「正体を暴かれてしまったというのに、やけに余裕ですね」
「すぐに答えられるのもつまらないけど、ずっと解いてもらえないのはもっとつまんないじゃない」
深紅の瞳を細め、彼女は中性的な顔を緩める。いかにも悪ふざけが好きそうな、子供っぽい笑みだ。
しかし、どれだけ奇抜な格好で、精神年齢が低そうであっても、鵺といえば決して侮れる妖怪ではなかった。
生きた歳月は少なく見積もっても千年を超え、数々の伝説を背景に持つそれは、まぎれもなく大妖怪の一つに数えられる。
そして彼女の能力は、正体を判らなくするというもの。かく乱によって相手の戦闘力を無効にできるだけでなく、妖怪に対する人間側の普遍的なイメージが、そのまま能力になっているのだから、実は格の方も相当高い。
ただしその能力の性質上、彼女はかつて地底に封じられていた妖怪でありながら、統治者であるさとりにとっても、ずっと謎な存在であった。
最近になって、地上で己の姿を晒すようになり、活発に行動しているという噂は聞いたのだが……。
「貴方の目的は? この城に何を盗みに入ったのですか?」
「ん? ただのイタズラよ」
悪戯?
予想もしてなかった答えに、さとりは相手をまじまじと見つめ、
「本当に? 悪戯でこんな騒ぎを起こしたのですか?」
「そ。盗みたいものなんて特にないし。ここの連中が、からかってて楽しい奴らだからやってるだけ」
「相手は鬼ですよ。捕まれば冗談で済ましてもらえる手合いではありません」
「あーはいはい。説教なら間に合ってるわ。けどね、ひとこと言わしてもらうなら、相手が鬼だからこそやってんのよ。そこらの妖怪じゃ、こんなスリル味わえないって」
空中に浮かせた槍に腰かけ、組んだ足を揺らす彼女の姿に、さとりは堀の上を歩く猫の姿を視た。
地底における最強の勢力である鬼ヶ城の者達を、高所から見下ろし、能力でからかう。
それは彼女の妖怪としての欲求を満たし、力を高めることに繋がるのかもしれない。何ともお騒がせな妖怪だ。
ぬえは背を曲げて、首をこちらに伸ばし、
「で、あんたの目的は? 私に協力してほしいとか言ってたけど、二人でスリルを味わう?」
「正直、スリルはもうお腹いっぱいです。が、まだ帰るわけにはいかない」
もし今回のような事態が起こらなければ、さとりはぬえを捕える側に回っていたかもしれない。
が、今は状況が状況だ。彼女に協力してもらえば、道が開ける。
交渉に関しては百戦錬磨の覚り妖怪は、相手の気を惹く絶妙な口説き文句を選んだ。
「実は私は今日、鬼ヶ城からあるものを盗みに来ました」
◆◇◆
さとりがぬえと結託してから数分後、鬼ヶ城はこの夜一番の大騒ぎとなった。
再び発光体に戻った彼女が、城内のあらゆる場所に移動しては、出鱈目に弾幕を披露し始めたのだ。
当然鬼達も黙ってはいない。
腕利き数名で構成された隊が、憎き怪盗に向かって、妖力の弾をこれでもかと投げつけながら追いかける。
一方で地上の者達は、本丸や蔵に絶対入り込まれぬよう、全力で防備を固めていた。
しかし彼らは頭上の怪盗に気を取られ、秘かに移動する別の侵入者に全く気付けずにいた。
(いい? あんたは今、正体不明の種がついてる。だから私が気絶でもしない限り、あんたの正体はバレることはないわ)
さとりは事前の打ち合わせを思い出す。
ぬえはこの城で騒ぎを起こす前に、正体不明の種というものを上からばらまいたらしい。
これを仕込まれると、対象に対する認識をかく乱され、その者の行動する要素に観測者のイメージが勝手に補完されることで、別の何かに見えてしまうという。
解りにくいが、要するにソファで寝ている猫にこの種を仕込めば、それがクッションに見えてしまったりするわけだ。
しかも、観測者があらかじめ何か強いイメージを心に抱いている場合、その姿と結びつきやすいとか。
さとりはそれを聞いて、やっと見張りの鬼達が自分の書いたキャラクターに見えた訳を理解した。
彼らもさとりと同じく、正体不明の種をいつの間にか仕込まれていたのだ。
向こうはこちらがどう見えていたかはわからないものの、さとりの方は何しろ、頭の中がずっとあの本を取り戻すことでいっぱいだったので、武器を携えて堂々と歩き回る鬼の姿が、娘を誘拐された筋骨隆々の不死者等に補完されてしまったのだろう。
(そして、あの建物。風雷邸だっけ? あそこには建物の扉くらいにしか、物理的な鍵はかかってない。けどそのかわり、呪術の鍵がいたるところにかかってるから……)
(ええ、それが一番の問題ですね。今のところ、中に入る手立ては見つかりません)
(そんなわけないじゃん。あんた、覚り妖怪なんでしょ)
ぬえの指摘に、その時さとりは一度眉をひそめた。
が、言われた意味を理解して、思わず手を打ちたくなった。
どうして気づかなかったのだろう!
(やはり、こうしたことに関しては、先輩である貴方に一日の長があるようです)
(どーも。それじゃあ聞くけど、私に何をさせようっていうの)
(先ほどのように、派手に動き回ってください)
(それだけ?)
(ええ。捕まらないよう気をつけて、私が侵入している間、鬼の意識を集め続けてください。できますか?)
(私を誰だと思ってんのよ)
ぬえの手腕は確かだった。
闇を振りまき、時には追っ手に光の矢を放って牽制するなどして、巧みに鬼を翻弄している。
そして、その隙にさとりは彼らの注意を避け、再び風雷邸に接近することに成功していた。
ひとまず手近な戸口を選択し、そこに向かって両手をかざし、仕掛けられていた術を解く。
種は簡単。ここに鍵の術を施した者の心をあらかじめ読み取っておき、その手順通りに解錠したのだ。
鼠小僧や白黒魔法使いもびっくりな、覚りの力を露骨に悪用した泥棒テクニックである。
……正直、見つけたくなかった自分の才能だ。
無事に潜入に成功したさとりは、廊下を忍び足で進み、目的の部屋に向かった。
はじめにキスメの心を読んだ時に、彼女達がいた地点は大体把握できている。
長い廊下の端から端まで襖が続き、どれもこれも使われていない似たような座敷部屋。
が、目当ての部屋は迷うことなく見つけることができた。
何とも親切なことに「キスメの部屋」と表札がかかっていたのだ。
さとりは心の中で謝罪しつつ、襖を静かに開ける。
そして、無人の部屋の真ん中にあるちゃぶ台に、『それ』を発見し、歓声を上げるのを何とかこらえた。
――あった! ああ、ご先祖様!
心の底から安堵したさとりが、ちゃぶ台に駆け寄り、袋に触れたその瞬間だった。
「……っ!?」
とてつもなく強大な妖気に背後をおびやかされ、思わず振り返る。
「ついに会えたな泥棒妖怪!!」
そこに仁王立ちしていたのは、長い金の髪をなびかせた、赤い一本角の鬼だった。
白い半そでの上着から伸びた腕が、凝縮された妖気の渦をまとい、一回り大きく見える。
彼女のことはよく知っていた。この鬼ヶ城で最も強く、最も警戒しなければならぬ相手、星熊勇儀。
いつの間に!? さとりの疑問に、第三の目がアドバイスする。
この鬼は敢えて賊の侵入に気づいていながら、外に逃がさぬよう風雷邸の奥深くまで呼び込んだのだ。
灼熱の闘気を背負った勇儀は、拳を見えぬ弓弦につがえ、
「薄気味悪い化け物に見えるが……この一撃で正体を暴いてやる! 観念しろ!」
神速の踏み込みと共に、鬼の拳が飛んできた。
が、さとりは、ギリギリでその一撃から身をかわす。
「おおっ!?」
勇儀は拳が避けられたことに、驚きをあらわにしていた。
彼女の体が出入口から離れた瞬間、さとりはその隙間に飛び込んた。
すれ違いざま、外套を掴まれる。だが、その動きも読めていたさとりは、惜しまず服を脱ぎ捨てた。
もちろん今日着てきたそれは、どこの市でも手に入り、足のつくようなものではないことは織り込み済みだ。
「待てっ!!」
廊下を震わせる大声と共に、昂ぶった妖気が追ってくる。
さとりは振り返らずに全力で廊下を飛ぶ。
まともにやりあって勝てる相手ではない。
さっきの一撃も、心を読んでその軌道が見えていたというのに、速すぎて紙一重の回避だった。
もし直撃していれば、壁を突き破って城の外まで吹っ飛んでいたかもしれない。
迫りくる巨大な妖気の塊に、さとりの背中が粟立った。
追いすがる勇儀の方が速い。これでは侵入した場所にたどり着く前に、追い付かれてしまう。
どうやら奥の手を使うしかなさそうだ。
さとりは目指す場所を急遽変更した。
廊下の角を曲がり、すぐ近くにあった木の扉を開けて、中に飛び込む。
「ギャー! 出たー! ぶよぶよの化け物!」
「で、でっかい一つ目の桶妖怪さん!?」
「な、なんだいこの変な格好したのはっ?」
部屋の中にいた三者が三色の悲鳴を上げる。
水橋パルスィ、キスメ、黒谷ヤマメ。
正体不明の力によって、見えているこちらの姿がそれぞれ異なっているのだろう。
どうやら、テーブルを囲んでサンドイッチを食べていたところらしく、突然現れた謎の存在に大慌てしていた。
さとりは一言も発さず、持っていた正体不明の種を、三名に投げつけた。
直後、勇儀が部屋に飛び込んできて、
「うおっ!? どいつが泥棒だ!?」
と、たたらを踏む。
これで心を読めるさとりを除けば、誰が誰だかわからない状態だ。
稼いだ数秒を無駄にせず、さとりは混乱する四名を置いて、裏口へとダッシュした。
「勇儀! そいつよそいつ! サンドイッチ持ってなかったやつ!」
橋姫が甲高い声で示した時には、さとりはもう扉を開けて風雷邸を飛び出していた。
一度外に出てしまえば、どうとでも切り抜けられる自信がある。
城内のほぼ全ての鬼の注意を、ぬえが引きつけてくれているため、行く手を阻む者はいなかった。
危険なのは唯一、後ろから追ってくる星熊勇儀だけだ。
距離はもうだいぶ稼いでいる。鬼達の流れ弾に当たりさえしなければ、彼女一人で自分を捕えることは……。
「待ぁてぇぇええええええええええ――!!」
突如、とんでもない大音声が鬼ヶ城の上空に響き渡った。
しかも前触れもなく四尺玉が炸裂したようなそのエネルギーは、放射状に広がるのではなく、なんとある種の指向性を持ってさとりの方に飛んできた。
――なっ……!?
予想せずともタイミングが読めてしまうのが覚り妖怪だ。
しかし、今回の攻撃はさとりの常識の範囲を逸脱していた。
鬼声「壊滅の咆哮」。
本気で叫べば城の屋根が吹き飛ぶと言われる星熊勇儀の咆哮は、彼女の持つ最強の飛び道具である。
その余波を受けるだけでも全身が痺れて動けなくなり、直撃すれば妖怪といえども一たまりもない。
「くっ……!」
かわしきれず、著しいダメージを精神に受けた直後、さとりの五感は消失した。
飛び込んだ先は、完全なる無の世界。
ただし無事だった第三の目だけが、辺り一帯の妖怪の心を瞬時に読み取り、疑似的な視界を構築する。
さとりは混乱に陥りながらも、懸命に前に進むことだけを念じた。
何もない宇宙空間を、目標に向かってまっしぐらに進み、最後には愛する者の元にたどりついた、あの健気なミサイルのように……。
◆◇◆
意識を取り戻したのと同時に、古明地さとりは硬い石のシーツから身を起こした。
はじめに敵の姿を探し、次に目に映るものを解釈する。
古い石塀、崩れかけた家屋、そして決して清潔とはいえない無人の道。
記憶にない景色だが、鬼ヶ城ではない。察するに、旧都のどこかの裏路地のようだ。
どうやら意識半分のまま逃げ続けた挙句、ここにたどり着いたらしい。
しかし、
――ない……!
握りしめていたはずの袋の感触が、失われていた。
どこかで落としてしまったのだ。おそらく、あの破壊的な声によるダメージで意識を失った時だろう。
さとりが失意の余り、言葉にならぬ呻きを発し、地面に指を這わせていると、
「私の相棒にしては、詰めが甘いわね」
いきなり頭上から声が降ってきて、視界に落としたはずの袋が現れた。
唖然として、さとりは顔を持ち上げる。
空中に腰かけたぬえが、呆れたような表情で、
「これを取り返したかったんでしょ。あそこから逃げる途中に拾っといてあげたわ」
さとりは思わず立ち上がるなり、目の前の妖怪に飛びつき、抱きしめていた。
ぬえはトラツグミ……ではなく、少女の声で悲鳴を上げ、
「うわぁ!? ちょっと!? 何!? 実はあんた泥棒じゃなくて痴漢!?」
「ありがとうございます! 貴方のおかげで……旧都は救われました!」
さとりは言葉と態度で、最大限の感謝を伝えた。
一方、ぬえの方は困惑した様子で、
「そ、そんなにこれ大事な本だったの?」
「ええ。これは私にとって、妹とペット達と命の次に重要な本といえます。すなわち、貴方は私にとっての救世主です」
「そ、そう。苦労してるのね、あんたも」
なぜか同情気味の声で、ぬえは背中をポンポンと叩いてくる。
バッと、さとりは火鉢に触れたかのように身を引き、相手を凝視した。
「ま、まさか、この袋の中を見たのでは」
「ちらっと……」
「………………!」
「い、いや表紙だけよ! 中身までは読んでないって!」
ただならぬ気配を感じたらしく、ぬえは大急ぎで首を振る。
彼女が嘘を吐いてないことを、さとりは『目』で確かめ、ようやく殺気をおさめた。
「で、でもね。そういうことに興味があるのって、別に恥ずかしいことじゃないと思うし。えっと、あんた見た目も結構いけてるから、そこまで必死になることもないんじゃないかな、って思うけど……」
「………………?」
「な、何言ってんだろ私。じゃ、じゃあまた! 今度また会ったら、今日の成果を肴に呑もう!」
ぬえは再び闇のカーテンをまとって、旧都の夜空に消えていった。
よくわからないけど、あの様子を見る限り、そこまで性根の悪い妖怪にも思えなかった。
それに、さとりが窮地から脱すことができたのは、まぎれもなく彼女のおかげだ。
今度地底で会った時は、地霊殿にお招きして、手厚くもてなしてあげたい。
「……さてと。まだ仕事が残ってましたね」
と呟き、さとりは今回の事態を引き起こした、おぞましきブツが入った袋を見据える。
元はといえば、こんなものを書いて破棄しなかったことが全ての始まりだった。
すでに、二度とこのような失態を起こさぬよう、本を処分することに決めている。
もちろんどこかに捨てるなど言語道断。埋めるのも手ぬるい。焼いて灰にするに限る。
となるとやはり、灼熱地獄跡がふさわしいだろう。地獄の業火で焼いて清めなくては気がおさまらない。
それでようやく、自分の心は明日から元通りの平安を取り戻すことができるだろう。
――この長かった一日も、いい思い出になるかもしれませんね。
さとりは微笑しつつ、ようやく地霊殿への帰路に着いた。
◆◇◆
一方その頃、怪盗ON.13と彼女の相棒が去った後の鬼ヶ城はというと。
「やったぞぉおおお! 今度こそ被害なしだ!」
「盗人め! ざまぁみやがれ!」
「宴だ! 俺たちの勝ちを祝うぞ!」
「おおおおおお!!」
といった風に、まさにお祭り騒ぎとなっていた。
都中から集まった堂々たる体躯の鬼達が、得物を手にして勝利の歓声を上げているのだ。
灯篭の火が炎に変わるほど、辺りが熱気ですごいことになっていた。
が、
「ほんっっっと、理解不能だわ。なんだったのよ、さっきまでの緊迫した空気は。どこまで単純でめでたい脳みそしてんのかしら」
遠巻きに酒盛りを始める鬼達を見やりながら、水橋パルスィはぶつぶつと呟く。
自分たちのことをしっかり守ると豪語しておきながら、結局風雷邸に侵入させてしまったのだから、文句の一つも言いたくなる。
輪の中心にいる勇儀も、犯人を取り逃がしてしまったことについて、もう少し反省してもらいたいものだ。
「まぁ今までの結果がダメダメだったらしいからねー。何も盗られなかったっていうのは評価できるんじゃない?」
同じく隣で鬼達の様子を眺めていたヤマメが、けらけらと笑ってフォローする。
そう。今回はこれまでと違い、何も盗まれることなく怪盗ON.13を撃退できたそうなのだ。
捕まえることはできなかったものの、散々虚仮にされてきた相手に引き分けといえる結果を出したのだから、士気が上がるのも仕方のないことだろう。
もっともあの様子を見ると、口では勝負と言っていたものの、鬼達にとってはちょっとしたイベントのようなものだったのかもしれない。
旧都に住まう妖怪は、退屈嫌いのお祭り好きと相場が決まっているから。
「……ところで、さっきからどうしたのキスメ? 何か心配事?」
とヤマメが、足下にいた釣瓶落としに声をかける。
なぜかキスメは、怪盗が逃げ去ってからずっと浮かない顔をしていた。
彼女が実は……と訳を明かす。
「あのね。私の部屋に置いてあった本が、袋ごとなくなっちゃってたの。きっと泥棒さんが持ってったんだと思う」
「ちょっと、本当に? 大変じゃない。どうして早く言わないのよ」
聞いたパルスィは目を剥く。
ヤマメも同じく驚いた様子で、
「大事な本だったの?」
「ううん」
キスメはあっさりと首を横に振った。
「前に勇儀さんと読んでた『女子力を上げるために』っていう本」
「ああ、あれか」
「もういらないから、明日袋に入れて古本市に持っていこうとしてたの」
泥棒が自分の部屋に侵入していたと聞いて、キスメは驚いたものの、鬼ヶ城に怪盗が現れる前からすでに貴重品の類は全て持ち出していたので、特に心配はしていなかった。
それでも念のため、何か盗られたものがないか確かめるよう勇儀から言われていたのだが、消えていたのはいらない一冊の本だけだったので、知らせるべきかどうか迷っていたのだ。
ヤマメが余ったパズルのピースを見せられたかのように、不思議そうな顔を傾け、
「じゃあ、結局盗まれたものは、あったってことかねぇ……なんでそんなもん盗もうとしたのか全然わからないけど」
「おおかた、適当に目のつくものを手に取ったとかじゃないかしら。勇儀が現れたんで、見繕ってる暇もなかったんでしょうし」
パルスィはそう言って、肩をすくめる。
「まぁ、今さら喜んでるあいつらに水を差すこともないとは思うけどね。あんたが不満だっていうなら、これから伝えにいってやるけど」
「ううん! そんなことしないでパルスィちゃん! 勇儀さんも鬼の人達も、すごく嬉しそうだし、大事なものは無事だったんだもん」
「じゃ、改めて一件落着ってことにしますか」
「うん!」
キスメはうなずいて、桶の中にしまっておいた一冊の本を取り出し、ちゃんと無事なことを確かめた。
お昼にさとりに借してもらった本だ。
もしこの本をあの袋に入れっぱなしにしていたら、せっかく仲良くなれた地霊殿の皆との関係が壊れてしまっていたかもしれない。
ちゃんと泥棒から守ることができて、本当によかった。
明後日に都でお燐とお空と会う約束をしているので、今夜のうちに早めに読んで、その時に返すことにしよう。
――どんな本なんだろう……楽しみ!
キスメはようやく、城に帰って来た時と同じ、曇りのない笑顔となった。
◆◇◆
鬼ヶ城の怪盗騒ぎが落ち着いてから、二日が経った。
しかし旧都の中心にある屋敷の寝室では、まだ小さな異変が続いていた。
「うぅぅぅぅ~~」
ベッドの上で、丸まった布団がうめき声を立てている。
そして、
「うぅぅぅぅ~~」
その側の床にて、無意識妖怪の少女が、うつ伏せになって呻いていた。
ベッドの布団妖怪が、絨毯で寝そべる無意識妖怪に問う。
「私のモノマネをしてどうするの、こいし……」
「お姉ちゃんの真似なんてしてないよ。これはね、お腹を壊したベヒーモスの真似」
腹痛のベヒーモスだろうと、偏頭痛のリヴァイアサンだろうと、関係ありません。
私がこうなってる元凶の貴方が、この部屋でくつろいでるのが問題なんです。
そんな心の訴えも、『目』を閉じた妹に届くはずもなく。
さとりは再び、布団の中で呻き始めた。
悔やんでも悔やみきれない。
どうしてあの時、持ち出した袋の中身を確認しなかったのか。
いや、忍び込んだ時にそんな猶予がなかったことを思えば、もっと持ち主であるキスメの心を念入りに読むべきだった。
もしくは、ぬえと別れた時に、彼女の心をしっかりと読んでいれば、あれほどのショックを受けることもなかったかもしれない。
まさか中身がすり替わっているとは。地霊殿まで戻ってきて、灼熱地獄跡に通じる中庭にたどり着き、満を持して袋からその本を取り出したときの衝撃ときたら。
なんなのだ、『女子力を上げるために』とは。いつこんな本を私が欲しがったというのだ。
心労の極みに達したさとりは、その場で失神し、再び目を覚ました時には、このベッドにいた。
以来起き上がる気力も食欲もないまま、寝込み続けている。
ペット達は灼熱地獄の熱にあてられたのだろうと話しているが、さとりを苛む苦痛は全く別種の病だ。
今こそ困難に打ち克つべく立ち上がらなくては、という気持ちと、あらゆる感覚を遮断して世界から消えてしまいたい、という気持ち。
その二つが完全に拮抗すると、このように布団を殻にしたカタツムリが現れる。
コン、コン、と軽いノックの音がして、
「さとり様~、お具合はどうですか~」
ドアが開く音と、街に出かけていたお燐の声が、遅れて布団の中のさとりに聞こえた。
「まだよくなってないわ……ごめんなさい、迷惑をかけて……」
「いえいえ。じゃあお水の換え、ここに置いときますね。何か持ってきて欲しいものあります?」
「……大きい樽……」
「へ?」
「いいえ、なんでもない……」
「そうですか。じゃあ食欲が出たらベルを鳴らして呼んでください。運んできますから……わっ、と」
最後の「わっ」は、床にいたこいしにつまずきそうになったからだとわかった。
こんな時であっても、第三の目は持ち主の意思とは関係なしに、しっかりと働いている。
「そうだ。さとり様、さっき街でキスメと会ってきたんですよ」
ズガゴォン、と、さとりの胸に光子ミサイルを打ち込まれたような衝撃があった。
「それで、さとり様が貸してあげたあの本なんですけど」
続けざま、無音の爆発が体内で起こる。
気持ちだけは地霊殿の外に吹っ飛ぶ勢いで、さとりは布団の中にて横転した。
不覚。死体と戯れるのが好きなペットの性格が、ここにきて発揮されるとは。
本人に自覚がないとはいえ、まさか動かぬ主人を玩具にするとは。
身内による二度目の裏切りに、さとりは暗黒の世界に引きずり込まれていく。
「すっごく喜んでましたよ。どの話も本当に面白かったって……」
「なんですってっ!!!???」
叫んださとりは、ベッドから文字通り飛び上がった。
背中を天井にしたたかに打ち付け、そのまま漫画的な動きで壁から床まで駆け下りて、ペットの火車の前に着地し、
「お燐!! 嘘を吐くなら承知しませんよ!!」
「う、嘘なんて吐くわけないじゃないですか、さとり様に!」
(大体、嘘吐いたってすぐに第三の目でバレるんだし!)
両肩を掴まれたお燐は、目を白黒させつつ、心の声でも主人に反論する。
さとりは彼女を解放し、カッと見開かれた目で、わななく己の指を見つめながら、
「ほ、本当に彼女は読んだのですか。あの大地ミステリを」
「だ、大地? ああ、そういえば、地面が最後の一人を呑みこむまで、ずっと犯人の予想がつかなくて驚かされたって」
「では不死身の男たちの草相撲は!」
「それは何のことかわかりませんでしたけど、最強で暴力的な二人が最後に和やかな手段で決着をつけるっていうのがすごく心温まって、地底の未来もこんな風になればいいな、って。とか」
「ならばミミちゃんの超遠距離恋愛!」
「種族を超えた愛と、主人公の葛藤が胸に突き刺さって、私もこんな大恋愛に憧れちゃうー……って全部ここの感想文に書いてるんですけど」
とお燐が見せてきたのは、まさしくさとりが書いたあの本……と畳まれた小さな一枚の紙。
さとりはそれら受け取り……というより引ったくり、すぐに紙を開いて文面を凝視する。
「……………………」
まさに、お燐の言った通りの感想が、素直な筆致で書かれていた。
そして、どうやらイニシャルだけではわからなかったらしく、書いたのがさとりだということはキスメにバレていないようだ。
ただしそのかわり、信じられない一文が末尾に記されていた。
この作者の他の作品も、もっと読んでみたくなった、と。
床の上に座り込んで、さとりが放心状態に陥っていると、その膝のすぐそばで、
「ねー。言ったでしょー。あの本面白いってー」
最も身近な愛読者が、ベヒーモスのポーズを取ったまま、無邪気な笑顔を見せた。
◆◇◆
結局、此度の怪盗騒ぎで、鬼ヶ城に実質的な被害はなく、面目を保てた鬼達は、結束を強めることにつながった。
一方、悪戯を仕掛けた妖怪も、スリルと多少の収穫、そして一時的な相棒を得ることができて満足に至った。
もちろん、覚り妖怪の書いた珍奇な本の噂が都に広まることもなかった。
旧都の隠れた危機は無事に去り、古明地さとりはようやく心の平穏を取り戻したのであった。
ただし今回の件で、思ってもみない感想を受け取り、自らの作品を見つめ直した彼女は、再び長いスランプに陥ることになるのだが……それはまた別の話である。
(おしまい)
ツッコミに回らざるを得ない事が多い環境だから目立たないけど、さとりさん割と天然入ってる…
ぬえちょんが存外良い奴で良かった
ドタバタ活劇は見てて面白いですねー。
クールなさとり評を語り合う三人娘が、つなぎにマスクを被ってスネークする彼女をいつ見つけるかニヤニヤが止まりませんでした
・・・紫さん、『ンガベの冒険』ちゃんと執筆してたんですね。さとりんどうやって入手したし。
あえて言えばちょっと長いかなあと。(中身に対して)
このシリーズ、こいしやキスメがこの先どうなっていくのか、楽しみに待ってます。
さとりん苦労人属性ですね。だいたい妹のせいですがw
真面目だけどどっか抜けてるお姉ちゃん…