嫌な風が吹いた。
空は低く、濁った大気が塊となって、この無縁塚全体を押し潰そうとしているかのようだ。先程まで、あれだけ清々しい朝の空気に包まれていたと言うのに。
掘っ立て小屋の中に居ても、その空気の変化は如実に感じ取る事が出来た。元来、鼠と言うものは、危機察知能力に長けるものであるからして。
小さなダーツ矢を手の中で玩びながら、私は眉をひそめた。
「賢将、奥に隠れてな」
震える賢将を奥の間に追いやって、扉を閉めた。
窓の外を見やる。
雨の匂いはしないのに、黒雲が立ちこめている。
朝だと言うのに、赤光が天より降り注いでいた。
この違和感が示す事は、ただ一つ。
既にここは、無縁塚ではない。
林立する木々の枝には、縄で吊るされた人型の物体が揺れていた。落とす影の先には、かつて人型であったもの達がカサカサと蠢く。血河が林の間を縦横無尽に駆け巡り、顔を黒く塗り潰された得体の知れない連中が、神輿を担いで川縁を歩いて行く。ギラリ。光る白刃、それを揚々と振りかざしながら。赤い空に飛び行く、無数の黒い渡り鳥達。何処からか子供の泣き声がしている。その声は、何処かで聞き覚えがあるような気がする……。
この不可思議な現象。
分かっている。彼女が来たのだ。
彼女が来る時には、決まって怪現象が発生する。これは彼女の演出なのだ。私を脅し、震え上がらせるための。
タチの悪い事に、この現象には力がある。聖と星の法力によって護られた、この掘っ立て小屋の外に出たが最後、私もあの光景の一部に成り下がってしまうのだろう。
しかし、ここまで歪な光景は初めてだ。いつもは精々、見慣れない生物がうろついていたりするぐらいなのだが。これでは完全に異界である。
そんな狂った風景の中を一人、決然とした足取りで歩み来る女がいる。
その姿を認めて、私は窓の簾を下げた。この悪趣味は、私の性に合わない。
程なく、私の小屋の扉が叩かれた。そいつにはそんな必要など無いと言うのに。
「開いている」
ぶっきらぼうに放ったその言葉をまるで待ち焦がれていたかのように、扉は素早く開け放たれ、そして同じ様に素早く閉じられた。息を吐くその少女の名を、幻想郷に住む妖怪ならば誰でも知っている。
八雲紫。
幻想郷最強の妖怪と噂される、妖怪の賢者である。そして、私が死体探偵と呼ばれるその理由を作った女だ。
大陸風のゆったりとした衣の裾を叩きながら、紫は血の気の無い、正に妖怪と形容するに相応しい、美しくも忌み憚られるようなその顔を、私へと向ける。威圧を込めたその目を。鼠が見下されるのは慣れたものなのだが、それは明らかに侮蔑や軽視を含んでいた。
白い帽子を脱ぎ、胸の前に抱えるようにすると、紫は囲炉裏の前、私の隣にちょこんと座った。
なんでこいつ、毎回毎回、隣に座るんだ。向かいに座ればいいのに。この距離感が鬱陶しくてたまらない。
「収穫は」
声色に変わりは無い。胡散臭い、抑揚の効いたいつもの声だ。酒宴で見かける時よりもかなり強い口調だが、これは私と対する時の常である。紫は鼠が嫌いなのだろう。
私は壁に貼った布製の地図を指し示した。それは、この無縁塚周辺の地図だ。地図はブロック毎に区切って色分けされ、それぞれにダーツ矢が刺してある。
「昨日の時点で、残っていた西側地区の捜索を完了した」
ストン。
私の放ったダーツ矢は、最後のワンピースを埋めた。
「これで全区域の捜索を完了した事になる」
「収穫は、と聞いたのよ」
手にした扇子で肩を叩きながら、紫は鋭い目を私に向けた。視線で人を殺そうというのだろうか、並々ならぬ眼力である。
「無いよ」
小鼠の私などは、取り繕う言葉すら失くしてしまう。
紫は大きな音を立てて扇子を開くと、イライラとそれを振るった。乱暴な風に乗って、金色の髪がさらりと優雅に舞う。
「巫山戯けているのかしら」
「仕事に対しては真摯に取り組んでいるという自負がある」
まあ、たまにはサボったりするがね。……なんて馬鹿正直に言う程、私は空気を読めない鼠ではない。
「むしろ評価して貰いたい所だがな。スケジュールを前倒しにしたんだ」
「収穫が上がらなければ意味が無いわ」
「君の言う収穫なんてものが、果たして本当に在るのかね」
その言葉は地雷だったらしい。
紫は目を見開くと、私に扇子を投げ付けた。私を掠めたそれは、掘っ立て小屋の壁に当たり、大きな音を立てた。私の頬に、一筋の赤い軌跡を残して。
「小鼠が考える事ではない」
髪は逆立ち、溢れた膨大な妖力が其処彼処に迸る。狭い掘っ立て小屋内はすぐさま嵐になり、陶器や囲炉裏の灰が渦を巻いて乱れ飛んだ。小屋全体がガタガタと音を立てて震え、今にも崩れ落ちそうなほどに。
子鼠達の不安そうな鳴き声が響き渡る。私も泣きたい気分だとも、妖怪の賢者のヒステリーなんて。
睨むその目は、紛うことなき人殺しの目。
彼女の感情の揺らめき一つで、私や小鼠達の命は消え去るだろう。我らの命など、風の前の塵芥である。
「君が存在を確信しているのは理解したよ。だがね」
私がそれを取り出すと、紫の力の奔流がはたりと止まった。小屋の中を、パラパラと灰の雨が降り注ぐ。
「このペンデュラムは私を導かない」
紫は、唇を噛んだ。
このナズーリンペンデュラム・エンシェントエディションは、八雲紫から借り受けたものである。正確に言えば、破損した私のペンデュラムを八雲紫が回収し、修復したのだ。ある目的の為に。
「貴女が仕事に身を入れていないだけではなくて? 最近、副業に精を出しているようだけれど。夜遅くまで探しものなんて、ご苦労な事だわ」
「悪趣味だな、見ていたのかい」
この出歯亀妖怪めが。
「しかし、それを許したのは、他ならぬ君自身だろう。私は契約を守っている。言ったろう、小鼠の私にも、自負があるんだ」
一つ、ペンデュラム・エンシェントエディションを肌身離さず身に付ける事。
一つ、ペンデュラム・エンシェントエディションが反応したものに対しては、その所有権を全面的に放棄し、速やかに八雲紫へ差し出す事。
数多い契約条項の中の一節である。
その条項の中に、私の行動の自由を束縛するような文言は無い。
「何処へ行こうが、このペンデュラムが何かを指し示す事は無かった。君が信じようと信じまいと、それが事実だ」
「……そう」
紫は私から目を逸らし、溜め息を吐いた。その横顔は、何故か少し寂しげに見えた。
しかし、開いた口から出たのは、予想通りの言葉だった。
「ならばもう一度、無縁塚全区域の再調査を命じます」
そら来た。今度は私が溜め息を吐く番だ。
「またか。何度同じ事を繰り返させるつもりだ」
「勿論、見つかるまでよ」
「いい加減にしてくれ。君の妄執には十分に付き合っただろう」
「収穫が無いのであれば不十分だわ」
「君はそれしか言わない」
「私はそれしか求めていない」
ザアア……。
窓に打ち付ける雨音が、沈黙の小屋内に響き渡る。雨が降って来たらしい。
くさくさした私は、席を立った。こんな胡散臭い頑固女の顔を見ているよりかは、狂った外の景色の方がまだマシだ。窓に近寄り、下げた簾を上げようと、手を掛けた。
その手がはたと止まる。
か細い手が、私の腕を掴んでいた。
「お願い、窓は開けないで頂戴……お願い」
今にも泣き出しそうな顔で、あの八雲紫がそう言った。
紫の白い手は、震えていた。
驚愕が私の思考をも震わせる。
まさか。
怯えているのか?
幻想郷最強と謳われる、あの八雲紫が?
私は手を下ろし、震える紫の手も払って、言った。
「今日は嫌に冷えるな。温かい茶でも淹れようか」
しゅんしゅんと蒸気が立ち昇る。
仏教でも護摩焚きなど、炎を修行に用いる事があるが、炎は人の心を清らかにする。過去も未来も喜びも苦しみも、この火に焚べてしまえれば、どれだけ救われる事だろうか。
横目でちらりと、相変わらず隣に座る紫の方を見やる。
炎の光を瞳に焼き付け、紫は虚ろな顔をしている。その姿は、まるで雨に打たれる迷い子だ。
外の現象が紫にとっても脅威であると言うのなら。この場所にやって来る事、それは紫にとって、相当な決意を要するものなのかもしれない。
無縁塚には大きな結界の綻びが存在し、異界に繋がる事もあると言う。
あの狂った世界の中を歩み行く、八雲紫のその姿。あの決然とした足取りは、恐怖を堪えていたからではないか。必要以上に強い姿勢と言葉は、己を叱咤し虚勢を張るためなのではないか。
煮えた湯を急須に注ぐ。使ったのは、フラワーマスターから譲ってもらった、とっておきの茶葉である。先の妖力嵐でも無事だった木製の湯呑みで茶を淹れてやると、紫はそれにおずおずと口を付けた。
「温かいわ……」
その表情が、少しだけ和らいだ。
「知ってるかい。鼠ってのは、とっても口が固いんだ。何でだか、分かるかい?」
「さあ」
紫は興味なさそうに、虚ろな目で相槌を打った。
「それはな、いつも何かを齧ってないと、餓死しちまうからさ。余計なお喋りをする暇が無い」
言いながら、私はチーズの切れ端を摘まんで口に運んだ。
紫は呆れたように言う。
「貴女、仏教徒でしょう。食い意地の張った修行者なんて、聞いた事ないわ」
「破戒もまた仏道だろう。仏道にいなけりゃ、破戒なんてしようがないんだからな」
「凄まじい屁理屈ね」
「賢者ってのも、口が固いって聞くが」私は紫にチーズを差し出した。「君はどうかな」
少し目をぱちくりとさせていたが、少しだけ笑ってチーズの切れ端を取ると、口に運んだ。
「……ありがとう」
誰だって、他人に知られたくない傷を持っているものだ。
炎の中に浮かび上がる、私の過去だって。
「でもこんな切れ端程度じゃ、満足出来ないわ」
一瞬、目を離した隙に、紫は元の顔に戻っていた。流石、妖怪の賢者である。自分を見失わない。悪い男には騙されないタイプだな。見習いたいものだ。
「また来るわ。その時こそ、収穫を期待したいものね」
「出来ない約束はしない」
「利益が欲しいのなら、対価が必要なのよ」
「まったく、世知辛いな」
隙間の向こう側に消えていく紫を見送って、私は息を吐いた。
紫が去ると同時に、水が引くように嫌な気配が去った。異界が消滅したのだろう。
キイキイと、賢将や小鼠達が安堵の声を上げる。
私は壁に貼り付けた地図を眺めた。
正直、また実りのない探索に乗り出すのは気が滅入る。
だが。
今日の紫の白い腕が、小刻みに震えるその指が、私を捉えて放さないのだ。
だから私は、矢を全て抜き取ることにした。
外に出ると、清々しい朝の空気が私を迎えてくれる。木々の影には小動物の影が走り、地面を這いずるのは蟻の列だけだ。空は青いし、響くのは雀のさえずりである。いつもの正常な、美しき幻想郷だ。
だがその空気に、僅かに雨の匂いが混じる。
空の片隅を見やると、彼方に雷雲が渦巻いていた。